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斡旋利得処罰法違反罪で告発されていた甘利明と元秘書2名を東京地検特捜部は不起訴にしたという。都市再生機構(UR)に対する甘利側の働きかけは、一般の政治活動の範囲内にとどまり、「国会議員」としての「権限に基づく影響力の行使」があったことを立証する必要があるため、違法性を問うのは困難だとマスコミは「解説」している。 問題の遣り取りは2013年から14年にかけて行われているが、この当時、甘利は単なる国会議員でなく、内閣府特命担当大臣(経済財政政策)。経済再生担当、社会保障・税一体改革、そしてTPP担当の国務大臣でもあった。「国会議員」を強調するのは人びとをミスリードしたいからだろう。 検察が不起訴を発表する前、元長崎地検次席検事の郷原信郎は「絵に描いたような斡旋利得」と表現していた。報道が正しいとするなら、甘利の秘書は「お願い」というレベルをはるかに超えて補償金額にまで介入、その報酬として金銭や接待を受けていた。しかも甘利本人は現職閣僚。当然、与党内でも大きな発言力を持ち、「権限に基づく影響力」を発揮することが十分に可能な立場だったと指摘している。 郷原は甘利たちを起訴できるかどうかは「特捜部長、地検幹部がどこまで腹をくくれるのか」だとしているが、腹はくくれなかった。次期首相が確実視されていた小沢一郎に対する姿勢とは全く違う。 小沢が起訴されたのは、2004年に購入した土地代金の支出を翌年の政治資金収支報告書に記載、土地購入に際して小沢が4億円を立て替えたことを報告書に記載せず、小沢の他の政治団体との間で行った資金の融通を報告書に記載しなかったという疑い。言いがかりのような理由で強引に起訴へ持ち込んでいる。 当初、検察は「水谷建設からの闇献金1億円」で小沢を起訴しようと考えていたという。闇献金の話は、水谷建設の川村尚元社長が「六本木のホテルで石川秘書(当時)に5000万円入りの紙袋を渡した」と供述したことから出たストーリーなのだが、水谷建設の運転士が記録していた運転日誌には該当する記載がなく、「社長をそのホテルに送ったのは翌年以降」だと運転手は証言している。そのほかにも証拠が全くない。同社では裏金を渡す際、必ず受け渡しを目撃する「見届け人」を同席させるルールがあったが、川村はそのルールにも従っていない。 その後、2010年1月に東京地検特捜部は石川知裕衆議院議員や小沢の秘書ふたりを政治資金規正法違反容疑で逮捕、11年1月には小沢が強制起訴されている。いずれも「市民団体」の告発に基づくのだが、起訴へ導いたのは検察だ。裁判の中で、検察が「事実に反する内容の捜査報告書を作成」するなど不適切な取り調べがあったことが判明、この告発は事実上の冤罪だということが明確になっている。 小沢攻撃が続いていた2009年、漆間巌官房副長官(当時)が「今回の疑惑追及が与党に波及することはない」と記者に語り、問題になった。漆間は警備公安畑(特高の人脈)を歩き、警察庁長官も経験した。長官時代(2004年から07年)には安倍晋三と頻繁に会っていたという。ジャーナリストの青木理によると、漆間長官時代の警察は事実に基づかない、あるいは事実を誇張したり歪曲した捜査が横行していた。甘利問題は漆間発言を思い起こさせる。 甘利と小沢に対する地検特捜部の動きを見れば、官僚が従っているのは日本の内閣でないことがわかる。日本をアメリカの巨大資本が支配する仕組み、TPPを成立させるために甘利が活動していたことは象徴的だ。
2016.05.31
安倍晋三政権の「経済政策」、いわゆる「アベノミクス」が失敗したという評価は正しくない。このアベノミクスは一種の金融政策だが、日本全体の経済活動を回復させることは無理だと最初から明らかだった。これで景気を回復させられると本気で考えるほど安倍政権も愚かではないだろう。目的は景気の回復以外にあり、景気が回復しなくても失敗だとは言えないということである。問題は、アベノミクスで景気が回復するという話を宣伝したことにある。 安倍首相が日銀の黒田東彦総裁と組んで進めてきた「量的・質的金融緩和」、いわゆる「異次元金融緩和」は資金を世界の投機市場へ流し込むだけで、庶民への恩恵はない。それどころか、国内の株式相場を引き上げるため、ETF(上場投資信託)やGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)を利用しているわけで、リスクを負うことになる。庶民はハイ・リスク、ノー・リターン、巨大資本や富裕層はノー・リスク、ハイ・リターンだ。 巨大企業や富裕層への「バラマキ」のツケは庶民に押しつけられることになり、「緊縮財政」で庶民は搾り取られる。歴代政府、つまり官僚は不安定で報酬も少ない非正規雇用を増やすなど労働条件を悪化させ、社会保障政策も大きく後退させてきた。人びとが実際に生きている社会へ資金を向かわせるような政策は採らなかったわけだ。 日本の政策はアメリカ発。製品の開発力も生産力も放棄したアメリカの支配層は通貨を発行することだけで生きながらえている。そのため、ドルは基軸通貨であり続けねばならないのだが、それに挑戦する動きも出て来た。例えば、2000年にイラクのサダム・フセイン政権は石油取引の決済をドルからユーロに変更する姿勢を見せ、その2年後にはマレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相(当時)が金貨ディナールを提唱、リビアのムアンマル・アル・カダフィも金貨ディナールをアフリカの基軸通貨にして石油取引の決済に使おうとしている。このうちフセインとカダフィは殺された。アメリカは「パックマン・ディフェンス」が得意だ。 すでにロシアや中国はドル決済をやめつつあるが、数年前からEUでも金をアメリカから引き揚げる動きがあった。例えば、オランダ中央銀行によると、アメリカに預けている金塊のうち122.5トンをアムステルダムへ移動させ、オランダで保管する金塊は189.9トン、アメリカが同じく189.9トン、カナダ122.5トン、イギリス110.3トンになった。 ドイツの場合は1500トンの金塊を引き揚げようと計画したが、アメリカに拒否されてしまう。そこで2020年までにアメリカとフランスから合計674トンを引き揚げることにし、2013年1月にその計画を発表した。1年あたり84トン強になるが、実際に取り戻せたのは37トン、そのうちアメリカからは5トンだけだったという。結局、ドイツは引き揚げ計画を断念したようだ。 ドイツの引き揚げ断念はスイスの動きと関連しているとする説もある。11月30日にスイスでは住民投票が実施され、(1) スイス中央銀行は、国外に保管している全ての金準備をスイスへ持ち帰る、(2) スイス中央銀行の全資産の20%を金準備とする、(3) スイス中央銀行の金準備の売却を行わない、の是非が問われる。 金準備を全資産の20%まで引き上げるためには1500トンの金を5年以内に購入する必要があり、国外に保管されている金は2年以内にスイス国内へ引き揚げなければならなくなる。ドイツの引き揚げ計画を上回るインパクトだ。 アメリカが公的に保有していたはずの金はどこかへ消えたという疑惑がある。2001年9月11日にも消えた金塊が話題になった。ちなみに、アメリカがリビアを攻撃した理由は保有する金143トンと石油利権だったことを暗示するヒラリー・クリントン宛ての電子メールが公表されている。 本ブログでは何度も書いてきたが、1960年代にアメリカの経済は破綻し、1971年にリチャード・ニクソン大統領はドルと金の交換を停止すると発表した。この決定でブレトン・ウッズ体制は崩壊、1973年から世界の主要国は変動相場制へ移行する。 基軸通貨を発行するという特権で生きながらえるしかなくなったアメリカは発行したドルを回収する仕組みを作っていく。そのひとつがペトロダラーだ。人間社会は石油に支えられていることに目をつけ、産油国にドル以外の通貨で決済させないように求め、そこで貯まったドルでアメリカの財務省証券や高額兵器を買わせて回収しようとしたわけだ。 その代償としてニクソン政権が提示したのは、サウジアラビアと油田地帯の軍事的な保護、必要とする武器の売却、他国からの防衛、そしてサウジアラビアを支配する一族の地位を永久に保証するというもの。1974年に調印、これと基本的に同じ内容の取り決めを他のOPEC諸国もアメリカと結んだという。(Marin Katusa, “The Colder War,” John Wiley & Sons, 2015) ザキ・ヤマニ元サウジアラビア石油相によると、1973年に「スウェーデンで開かれた秘密会議」でアメリカとイギリスの代表は400パーセントの原油値上げを要求したという。1973年5月11日から13日にかけてビルダーバーグ・グループが実際に会議を開いていた。値上げを要求した中心人物はヘンリー・キッシンジャーだ。 しかし、懸念材料がなかったわけではない。当時のサウジアラビア国王、ファイサル・ビン・アブドル・アジズはPLOのヤセル・アラファト議長を支えていた人物で、アメリカに従属しているとは言い難かった。その懸念材料が消されたのは1975年3月のこと。国王の執務室で甥のファイサル・ビン・ムサイドに射殺されたのだ。 この甥はクウェート石油相の随行員として現場にいたのだが、この人物の背後にはイスラエルの情報機関モサドが存在していたという。ジャーナリストのアラン・ハートによると、この人物はギャンブル好きで、多額の借金を抱えていた。そこへ魅力的な女性が現れて借金を清算、その上でビン・ムサイドを麻薬漬けにし、ベッドを伴にしたりして操り人形にしてしまったという。その女性はモサドの工作員だった。(Alan Hart, “Zionism,” World Focus Publishing, 2005) その後のサウジアラビア国王は親米派が続く。そうした国王のひとりが戦闘機の購入に関する特使として1978年にアメリカへ送り込んだ人物が29歳だったバンダル・ビン・スルタン。その後、1983年から2005年まで駐米大使を務め、05年から国家安全保障会議事務局長、12年から14年にかけては総合情報庁長官を務めた。イスラエルと接触、アル・カイダ系武装集団を操っていたとも言われている。ブッシュ家と親しく、「バンダル・ブッシュ」とも呼ばれている。 ドルを現実世界から吸い上げる仕組みとして投機市場も機能している。1970年代に新自由主義が世界へ広がり、金融規制が大幅に緩和されていき、投機市場は肥大化する。アベノミクスで供給された資金も大半は投機市場へ流れ込んだはずだ。現実世界でカネが溢れればハイパーインフレになるが、投機市場ではバブルになる。そのバブルの後始末を押しつけられるのも庶民だ。 資金が投機市場へ流れ込むパイプの整備も1970年代に進み、ロンドンを中心とするオフショア市場のネットワークができあがる。ロンドンを軸にして、ジャージー島、ガーンジー島、マン島、ケイマン諸島、バミューダ、英領バージン諸島、タークス・アンド・カイコス諸島、ジブラルタル、バハマ、香港、シンガポール、ドバイ、アイルランドなどが結びついている。こうした仕組みによって巨大資本、富裕層、犯罪組織などは資金を隠し、課税を回避することが容易になり、庶民の負担が増えることになった。 しかし、2010年にアメリカでFATCA(外国口座税務コンプライアンス法)が発効してから状況が大きく変化したようだ。この法律によってアメリカ以外の国の金融機関はアメリカ人の租税や資産に関する情報をアメリカ側へ提供する義務を課されたのだが、その一方でアメリカは自分たちが保有する同種の情報を外国へは提供しないことになっている。アメリカはFATCAによってタックス・ヘイブンになった。 そうした状況の変化を受け、ロスチャイルド家の金融持株会社であるロスチャイルド社のアンドリュー・ペニーは昨年9月、サンフランシスコ湾を望む法律事務所で講演した中で、税金を払いたくない富豪は財産をアメリカへ移すように顧客へアドバイスするべきだと語っている。 アメリカは新たなドル回収システムを作り上げたと言えるだろう。アベノミクスがこの政策と無縁とは思えない。
2016.05.31
アメリカの支配層はタグを使って人びとを騙し、操ってきた。アカ、独裁者、テロリスト、自由の戦士、民主化、人道など、すべて自分たちの侵略を正当化するために使われてきた。最近は「極右」や「ファシスト」というタグも攻撃用に使われ始めているが、本当のファシストは「民主勢力」と呼ばれたりする。実態は同じグループに過激派、穏健派、アル・カイダ、ダーイッシュというように、状況に合わせて違うタグをつけることもある。 侵略のキーワードとして「デモクラシー」が使われ始めたのはロナルド・レーガン政権の時代だ。1982年6月にレーガンはイギリス下院の本会議で使った「プロジェクト・デモクラシー」は、彼がNSDD77に署名した83年に始動する。民主化という口実でアメリカの巨大資本にとって都合の悪い国家、体制を崩壊させようというわけだ。(Robert Parry, “Secrecy & Privilege”, The Media Consortium, 2004) 1990年代に入ると「人道」というタグが目につくようになるが、その頃から広告会社が政府に食い込んでいる。「悪の枢軸」も侵略を正当化するために使われたタグのひとつだが、それを考えたグループの中心にいたビクトリア・クラークはヒル・アンド・ノールトンの出身。(Solomon Hughes, “War On Terror, Inc.”, Verso, 2007) イラクへの先制攻撃にアメリカ政府は「イラクの自由作戦」というタグをつけたが、名名の際にアドバイスしたシャルロット・ビアーズ国務次官は広告業界の大物で、彼女の手法は単純化と浅薄化だ。 アメリカに大きな影響力を持つイスラエルの場合、その殺戮と破壊を非難する人びとは「反セム主義」だと攻撃される。イスラエルを批判する人の中にはユダヤ教のラビも含まれ、デポール大学を追放されたノーマン・フィンケルスタインはの母親はマイダネク強制収容所、父親はアウシュビッツ強制収容所を生き抜いた経歴の持ち主である。 フィンケルスタインはデポール大学で働く任期制の教員だったが、終身在職権が内定した。安定した地位を得たならイスラエルに対する批判は厳しくなると考えたのか、シオニストで有名なハーバード大学のアラン・ダーショウィッツ教授は数カ月にわたって反フィンケルスタインのキャンペーンを展開、彼の著作が世に出ると聞くと、ダーショウィッツ教授はカリフォルニア大学出版やカリフォルニア州のアーノルド・シュワルツネッガー知事(当時)に働きかけて出版を止めようとした。最終的には大学へ圧力をかけ、彼との雇用契約を打ち切らせてしまった。 シオニズムを批判するユダヤ系の人は少なくないのだが、そうした人びとに親イスラエル派は「自己憎悪(Self-hating)」派というタグを貼る。安倍晋三首相の「お友だち」が使う「自虐史観」という表現と似ている。 言うまでもなく、「セム」にはアラブ人も含まれているのだが、アラブ人を虐殺しているアメリカやイスラエルが「反セム主義」だと批判されることはない。アメリカやイスラエルと緊密な関係にあるサウジアラビアがアル・カイダ系武装集団を雇い、武器/兵器を供給していることがわかっても欧米は問題にしない。 こうしたタグを広める役割を負っているのがメディアや学校。子どもの頃から刷り込まれたタグはおそらく、生涯、人びとに影響を及ぼす。自戒を込めて書くのだが、タグに操られないよう、常に注意する必要がある。そのためにも事実を知ることは必要だ。
2016.05.30
アメリカを象徴とする資本主義の基本原理は「利潤の追求」、有り体に言うならば「富の独占」にある。世界の人びとはその強欲なシステムを押しつけられ、抵抗する政権、体制は破壊されてきた。その口実として「民主化」や「人道」が最近は使われる。 この基本原理が反社会的だと考える人は支配層にもいて、例えば、フランクリン・ルーズベルトを中心とするニューディール派は資本主義を修正、巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めようとした。ジョン・F・ケネディも同じような考え方の持ち主で、支配層から憎まれることになる。 1970年代に力を得た新自由主義はニューディール派の桎梏を破壊しはじめ、1990年代にはその作業がほぼ終了する。1999年11月にグラム・リーチ・ブライリー法が成立、投機を規制する目的で1933年に制定されたグラス・スティーガル法が葬り去られたのは象徴的だ。 1999年11月にアメリカのシアトルで開かれたWTOの閣僚会議に対する抗議活動には約10万人が集まった言われている。強欲で身勝手な巨大資本に対する人びとの怒り、不公正な政治経済システムを変えろと要求する声は高まり、エンロンのような新自由主義の申し子的企業も破綻寸前。アメリカの支配システムが揺らぎ始め、クーデター、あるいはそれに類することをしなければ体制を維持できないような雰囲気が漂っていた。 そうした中、2000年には大統領選挙があった。民主党のアル・ゴアと共和党のジョージ・W・ブッシュが争い、裁判所の決定でブッシュの勝利が確定したのだが、選挙戦が始まる前、最も人気があったのはジョン・F・ケネディ・ジュニア、つまり1963年11月22日に暗殺されたJFKの息子だ。 選挙戦への出馬を表明していなかったが、1999年前半に実施された支持率の世論調査ではブッシュとゴアをJFKジュニアは5ポイントほどリードしていた。アメリカ支配層にとっては脅威だったが、その脅威を取り除く出来事が1999年7月に起こる。彼を乗せた単発のパイパー・サラトガが自動操縦だったはずの場所で墜落、本人、妻、妻の姉が死亡したのだ。 アメリカの支配体制を揺るがす抗議活動は2001年9月11日以降、沈静化する。言うまでもなく、その日、ニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されている。人びとが茫然自失になる中、支配層は憲法の機能を停止させる愛国者法を成立させ、国外では侵略戦争を始めた。 開戦から数年で侵略戦争の実態が広く知られるようになり、政府の政策に対する反発も高まるが、そうした中、2008年にアメリカ政府はTPPへの参加を表明、環太平洋ファシズム化を目指し始める。有力メディアは支配層の宣伝一色になるが、徐々に批判の声は高まり、現在の大統領選は支配層の思惑とは違う展開になっているようだ。 強欲な支配層に対する怒りは世界規模で広がり、アメリカではドナルド・トランプ、フランスではマリーヌ・ル・ペンなどの支持につながっている。イギリスではトニー・ブレアに象徴されるシオニストにコントロールされてきた労働党で、党を本来の姿に戻そうというジェレミー・コルビンが党首になっている。こうした現象を「極右の台頭」だとして危険視する人も少なくないが、真のファシストは巨大資本とその手先だ。 1938年4月29日、アメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトは、「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」と語った。 彼にそうした定義を言わせたのは、1933年から34年にかけて計画された巨大資本によるクーデター計画の経験だろう。スメドリー・バトラー海兵隊少将の議会証言によると、1934年にJPモルガンとつながるふたりの人物の訪問から話は始まる。ルーズベルト大統領のニューディール政策を止めさせようと持ちかけてきたのだ。 ふたりには仲間がいて、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を攻撃し、50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることになっていたという。バトラー少将から話を聞いたポール・フレンチ記者はクーデター派を取材、「コミュニズムから国を守るため、ファシスト政府が必要だ」と言われたと議会で話している。計画の黒幕はJPモルガンだったという。 クーデターを実行すればバトラー少将がカウンタークーデターで対抗、内戦になることは必至だったが、ルーズベルト大統領がクーデター派を摘発すれば、やはり内戦になる可能性が高かった。そこで有耶無耶のうちに幕引きになる。 第2次世界大戦の終盤、ドイツや日本が各国で奪った金塊や財宝を回収する作戦をアメリカ政府は開始するが、それと並行して、ナチス時代のドイツと違法な取り引きをしていたアメリカの有力企業やナチスに同調していた有力者を調査しようとしたとも言われている。ウォール街の大物たちが責任を問われる可能性があったのだが、1945年4月にルーズベルトが執務室で急死したため、そうした事態にはならなかった。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011) ドイツの巨大資本がナチスを支えていたことは有名だが、ウォール街も同じ。そうしたこともあり、ウォール街の弁護士でOSSの幹部だったアレン・ダレスはアメリカとドイツの二重スパイだったと言う人もいる。 大戦の終盤、OSSはイギリスの情報機関と共同でジェドバラという破壊工作部隊を編成したが、その人脈は大戦後、OPCのメンバーになる。そのOPCがCIAへ潜り込んで破壊工作部門(計画局。後の作戦局、国家秘密局)になり、イタリアのグラディオをはじめとする「NATOの秘密部隊」を編成した。 NATO加盟国は秘密部隊を編成し、その手下になる「右翼過激派を守る」ことが義務づけられていると、この問題を研究しているダニエレ・ガンサーは語っている。ウクライナのネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)、あるいはアル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュも「右翼過激派」と同じ役割を果たしている。EUへ侵入した「イスラム過激派」はこのシステムの中に潜る込むだろう。 1960年代から80年代にかけてグラディオは「極左」を装って爆弾攻撃を繰り返し、クーデターも計画した。ヨーロッパを自立させようという動きを潰すため、似た作戦が展開される可能性はある。
2016.05.30
コソボがダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)の拠点になっているようだ。シリアから戦闘員の一部が逃げ込んでいるのだろう。拠点作りの資金はサウジアラビアから供給されているという。 シリアでは昨年9月30日にロシア軍がアル・カイダ系武装集団やダーイッシュに対して空爆を始めてから政府軍が優勢で、アメリカ、サウジアラビア、トルコ、イスラエルなど侵略勢力は対戦車ミサイルのTOWや携帯型の防空システムのMANPADを供給、戦闘員も増派、最近はアメリカ政府が特殊部隊を送り込み、トルコ軍がシリア領内へ侵攻しているものの、戦況を変えるには至っていない。 言うまでもなく、コソボはかつてユーゴスラビアの一部だった。1985年に54歳でソ連共産党の書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは西側流の民主主義を導入しよう考えたようで、1990年には一党体制を放棄、大統領制を導入する。影響力のある政党を作るにはそれなりの資金が必要であり、西側の巨大資本がロシアを浸食するのは必然だった。 1990年3月にゴルバチョフは初代大統領に就任、10月に東ドイツが西ドイツに吸収されるという形で統一されるが、その際、ジェームズ・ベイカー米国務長官はソ連のエドゥアルド・シュワルナゼ外務大臣に対し、東へNATOを拡大させないと約束している。この約束をゴルバチョフは真に受けた。 その翌年、1991年7月に西側の支配層はロンドンで開かれたG7の首脳会談で彼に見切りをつける。巨大資本にとって都合の良い新自由主義的な経済政策、いわゆる「ピノチェト・オプション」の導入にゴルバチョフが難色を示したのだ。そして登場してくるのがボリス・エリツィンである。エリツィンは1991年7月にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の大統領に就任した。 こうしたソ連支配層の動きは国民の意思を反映したものではなかった。例えば、1991年3月にロシアと8つの共和国で行われた国民投票では、76.4%がソ連の存続を望んでいた。国民投票が実施された共和国の人口はソ連全体の93%で、ソ連全体の意思だと思って構わないだろう。(Stephen F. Cohen, “Soviet Fates and Lost Alternatives,” Columbia University Press, 2009) 西側支配層がソ連を支配、略奪しようとしていることは明白。ソ連の一部支配層が「国家非常事態委員会」を組織して権力の奪還を狙ったのは1991年8月のことで、すでに手遅れだった。 その年の12月にエリツィンはウクライナのレオニード・クラフチュクやベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチとベロベーシの森で秘密会議を開き、ソ連からの離脱を決めてソ連を消滅させた。西側主導のクーデターは成功したということだ。ネオコン/シオニストが国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成するのはその直後である。 そうした混乱の中、ユーゴスラビアでは国を解体する動きが顕在化する。1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言、同年9月にマケドニアが、翌年3月にはボスニア・ヘルツェゴビナと続き、4月にはセルビア・モンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国を結成して社会主義連邦人民共和国は解体された。 次に、ユーゴスラビア連邦共和国からコソボを剥ぎ取ろうとする動きが始まる。アルバニア系住民がコソボを分離させ、アルバニアと合体しようと計画、それをNATOが支援したのだ。 当初、この活動を主導したLDK(コソボ民主化連盟)は非暴力で、政府側も事態の悪化を懸念して運動を許していたのだが、西側支配層は話し合いでの解決を嫌う。1992年2月にフランスのランブイエで始まった交渉でコソボの自治権を認めることで合意、話はまとまりかけるが、そこでNATOは政府側が受け入れられない条件を出した。車両、艦船、航空機、そして装備を伴ってNATOの人間がセルビアを自由に移動できる、つまりセルビアを占領するという項目が付け加えたのである。(David N. Gibbs, “First Do No Harm”, Vanderbilt University Press, 2009) そして1994年、アル・カイダ系武装集団がアルバニアで活動を開始、ボスニアやコソボにも手を広げる。その頃、アメリカの支配層は「人権擁護団体」、メディア、そして広告会社などを投入してセルビアを「悪魔化」する宣伝を開始した。 そうした宣伝の背後には、ロバート・ドール上院議員米上院議員と密接な関係にあるアルバニア・ロビーが存在、宣伝活動の中心にはルダー・フィンという広告会社が存在していた。(前掲書)コソボのアルバニア勢力がルダー・フィンと契約を結んだのは1992年10月のことである。(Diana Johnstone, "Fools' Crusade," Monthly Review Press, 2002) 1996年2月になると、LDKに替わってKLA(コソボ解放軍、UCKとも表記)が台頭してくる。KLAにはクロアチアの民族主義者が入り込んでいたが、その民族主義者はナチと協力関係にあった団体の流れをくんでいる。そうしたひとりがハシム・サチなる人物で、後に首相となる。 KLAが麻薬取引で資金を稼いでいたことは有名。アフガニスタンから西ヨーロッパへ流れるヘロインの約40%はコソボを通過していると言われている。アフガニスタンで非合法のケシ栽培が急増した原因はアメリカがそこ戦争を始めたことにあり、CIA系の銀行であるBCCIなどが資金を動かしていた。CIAに支援されているKLAがこの麻薬を扱うのは必然だ。 旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で検察官を務めたカーラ・デル・ポンテによると、コソボ紛争中にKLAの指導者らが約300名のセルビア人捕虜から「新鮮」な状態で、つまり生きた人間から臓器を摘出し、売っていたという。この話は彼女の著作で紹介された。ガーディアン紙によると、臓器密売の黒幕はトルコ系イスラエル人のモシェ・ハレルで、富裕なイスラエル人は重要な顧客だとしている。 そうしたコソボを拠点にしはじめたダーイッシュは盗掘石油の密売や人身売買で資金を稼いできたわけで、麻薬に手を出すのは必然。破綻国家になったウクライナから武器/兵器がポーランドを経由してダーイッシュへ流れているする情報もある。コソボの体制にしろダーイッシュにしろ、政治集団でも宗教の信者でもなく、単なる犯罪者集団だ。 ウクライナのクーデターを準備するため、アメリカ/NATOはネオ・ナチ(ステファン/バンデラ派)のメンバーを2004年からバルト3国にあるNATOの訓練施設で訓練していたが、2013年9月にはポーランド外務省がクーデター派の86人を大学の交換学生を装って招待、ワルシャワ郊外にある警察の訓練センターで4週間にわたって訓練したと伝えられている。 訓練の内容には、追跡技術、群集操縦、ターゲットの特定、戦術、指揮、緊張した状況における行動制御、警察のガス弾に対する防御、バリケードの建設、そして銃撃が含まれているという。 第2次世界大戦の当時からウクライナやポーランドにはナチスの協力団体が存在、クリミアのタタール人ともつながっていたが、その関係を維持させてきたのがCIAだ。CIAにはジェドバラ、OPCの流れを汲む破壊工作部門が存在、「NATOの秘密部隊」を編成して「テロ活動」を続けてきたことを考えると、今後、ダーイッシュは犯罪で稼ぐ一方、対ロシアだけでなく、EUでも破壊活動を始める可能性がある。
2016.05.29
バラク・オバマ米大統領は5月27日に広島の平和記念資料館を訪問、「核なき世界を追求する勇気」について語ったという。この人物、大統領に就任して間もない2009年4月5日にプラハで核兵器のない世界を目指すと演説、その年にノーベル平和賞を授与されているが、14年9月21日の報道によると、今後30年間に9000億ドルから1兆1000億ドルを核兵器のために投入するとしている。 ノーベル平和賞の授与に縛られることなく、オバマ政権は他国の領空に無人機を飛ばして民間人を殺傷、アル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)などを使ってリビアやシリアを軍事侵略した。リビアはNATO軍も投入してムアンマル・アル・カダフィ政権を2011年10月に倒し、今は無政府状態。NATOと連携していたアル・カイダ系のLIFGを率いていた人たちは現在、ダーイッシュというタグをつけているようだ。CBSのインタビュー中にカダフィ惨殺を知らされ、「来た、見た、死んだ」と口にしたのは当時の国務長官、ヒラリー・クリントンである。 カダフィが惨殺された直後、ベンガジでは裁判所にアル・カイダの旗が掲げられ、その映像がYouTubeにアップロードされた。イギリスのデイリー・メイル紙も伝えている。この段階でリビアが武装勢力の跋扈する破綻国家になることは予想されていたことだ。 リビアと並行してシリアへの侵略を進め、無政府状態になったリビアでは軍の倉庫から武器/兵器が持ち出されてトルコへ運ばれた。輸送の拠点になったのはベンガジにあったCIAの施設で、そうした事実をアメリカ国務省は黙認していた。輸送にはマークを消したNATOの輸送機が使われたとも伝えられている。 ベンガジのアメリカ領事館は2012年9月11日に襲撃され、クリストファー・スティーブンス大使らが殺されているが、ここは武器輸送の拠点だった。領事館が襲撃される前日、大使は武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っている。 運び出された武器/兵器の中に化学兵器も含まれていた。これをシリアで使い、政府軍に責任をなすりつけてNATO軍が直接、介入する口実に使用としたと言われている。こうした工作をスティーブンスも知っていた可能性は高く、彼の上司だったヒラリー・クリントンも報告を受けていたはず。 2012年11月、デイビッド・ペトレイアスがCIA長官のポストを辞しているが、この人物はクリントンと緊密な関係にあることで有名。この線からもクリントンは情報を得ていただろう。 2013年11月にはウクライナでクーデターを始める。世界を支配するためにはロシアを制圧する必要があり、ロシアを制圧するカギはウクライナが握っているとズビグネフ・ブレジンスキーたちは考えていた。 まず、キエフのユーロマイダン(ユーロ広場、元の独立広場)でカーニバル的な抗議活動を始めて人を集め、年明け後にはネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)を前面に出した暴力的活動に切り替える。 2月18日頃から反大統領派は棍棒、ナイフ、チェーンなどを手にしながら石や火炎瓶を投げるだけでなく、ピストルやライフルで銃撃を始め、さらに反大統領派や治安部隊、双方を狙った狙撃も行われた。その指揮者はネオ・ナチの幹部、アンドレイ・パルビーだ。 このクーデターを指揮していたのはアメリカのビクトリア・ヌランド国務次官補で、キエフに乗り込んで扇動していた。ジョン・マケイン上院議員も同じように蜂起を煽っていた。 今年4月24日にイギリスのBBCが放送した番組の中で、オバマ大統領はシリアのバシャール・アル・アサド政権を倒すためにアメリカなりイギリスなりが地上軍を派遣することはないだろうと語っているが、アメリカ政府が250名の特殊部隊をシリアへ派遣して300人体制にすると発表したのはその翌日だ。 この「派遣」はシリア政府が承認したものでなく、明らかな侵略。アメリカ側は「地元の武装勢力」を訓練するとしているが、それが何者なのかは明らかにされていない。アメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)は2012年の段階で、シリアで政府軍と戦う「穏健派」が事実上、存在しないとホワイトハウスに報告している。 DIAが2012年8月に作成した文書によると、シリアで政府軍と戦っている武装勢力の主力はサラフ主義者(ワッハーブ派)、ムスリム同胞団、そしてアル・カイダ系武装集団のAQIで、西側、ペルシャ湾岸諸国、そしてトルコの支援を受けているとしている。 DIAによるとアル・ヌスラはAQIの別名。ムスリム同胞団はワッハーブ派から強い影響を受け、アル・カイダ系武装集団の主力もワッハーブ派だ。つまり、シリアで政府軍と戦っているのはサウジアラビアの国教であるワッハーブ派の信徒たちだ。 1970年代から80年代にかけてアメリカは中央アメリカで秘密工作を展開した。巨大資本の利権を守る軍事独裁政権を支援、ニカラグアの革命政権を倒すことが目的で、このときもアメリカの特殊部隊が送り込まれている。戦闘には参加しないとされたが、勿論、実際には参加し、死傷者も出た。戦死した特殊部隊員の家族は、後に、事実を明らかにするよう求めている。 ウクライナのクーデターは東部や南部の住民から拒絶され、西部には「EU幻想」を抱く住民が少なくなかったようだが、クーデターやその背後の実態が明らかになり、その幻想も消えつつあるようだが、アメリカの好戦派は核戦争の脅しでロシアを屈服させようという基本戦術を変える気配はない。 1991年12月にソ連が消滅、翌年の初頭にネオコン/シオニストが国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成して以来、NATOは東へ拡大してきた。このプランは「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれ、旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようというものだ。 そうした中、1995年1月にアメリカとロシアは核戦争の一歩手前まで行ったという。ノルウェーの北西沖にある島から「科学目的」のロケットが発射されたのだが、その軌道がロシアの想定するアメリカの大陸間弾道ミサイルと同じで、ロシア軍が反撃しても不思議ではない状況だったとされている。 核戦争の寸前まで行ったケースはほかにもあり、例えば、1979年にはNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)のコンピューターは戦争シミュレーションと実戦を間違えて核戦争を始めかねない事態になり、その1年後にも米軍のコンピューターはソ連が大規模なミサイル攻撃を始めたと判断、1985年にはソ連の早期警戒衛星が太陽の光をアメリカの大陸間弾道ミサイル発射と誤認して危うく核戦争になるところだった。 本ブログでは前に指摘したが、1983年にアメリカ軍はソ連に対する軍事的な挑発を行い、その年の8月31日から9月1日にかけて大韓航空007便がNORADの緩衝空域や飛行禁止空域を通過してソ連軍の重要な軍事基地の上空を飛行、サハリンで撃墜されている。この時も核戦争が勃発しかねなかった。この領空侵犯は意図的だった可能性が高いと筆者は考えている。1985年にソ連軍が動かなかったのは人類にとって好運だったが、アメリカの好戦派はこれによってソ連をなめた可能性がある。 ソ連消滅後、アメリカ/NATOはミサイル防衛システムをロシアとの国境近くに配備、ロシアから攻撃的なものだとして抗議されてきた。最近、ルーマニアでも新たにミサイル基地を建設、ポーランドでも予定している。アメリカ側はイランなどからの攻撃に対処するためだとしているが、説得力は全くない。 防衛的なシステムであったとしても、先制攻撃に対する報復攻撃に対処するためだと考えられるが、5月27日にギリシャを訪問したウラジミル・プーチン露大統領はこのミサイルに関し、今は射程500キロメートルでもすぐに1000キロメートルへ伸ばすことができ、2400キロメートルの攻撃的なミサイルへ切り替えることができるとし、ミサイルを配備した場所はロシア軍の攻撃目標になると警告した。 「儲かる兵器」の開発に熱心なアメリカと違い、ロシアは着実に兵器の性能をアップさせてきた。弾道ミサイルのイスカンダルは射程距離は280から400キロメートルだが、飛行速度はマッハ6から7。西側の防空システムは対応できないと考えられている。 シリアでの戦闘ではカスピ海から発射された巡航ミサイルがシリアのターゲットへ正確に命中、潜行中の潜水艦から発射されたミサイルによる攻撃も見せた。実戦配備が近いとされているS-500は弾道ミサイルが大気圏へ再突入する前に撃ち落とすことが可能だとも言われている。 アメリカ国防総省系のシンクタンクRANDによると、NATO軍とロシア軍が戦争を始めた場合、60時間でNATOは制圧されるという。それでもアメリカの好戦派はロシアを軍事的に威圧すれば屈服させられると考えているのか、NATO軍の一部である欧州連合軍の副最高司令官だったイギリス陸軍のリチャード・シレフ大将はロシアの周辺国で軍事力を増強してロシアを威圧するべきだと主張、イギリスのマイケル・ファロン国防相は軍事的緊張の高まりをロシアに責任を押しつけている。アメリカがロシアと戦争を始めたなら、核戦争にならざるをえない。 西側でもロシア政府はアメリカ支配層を信頼する危険性が指摘されてきたが、ギリシャでのプーチン発言を聞くと、アメリカの好戦派は話し合いのできない相手だと彼も腹をくくったような気がする。アメリカの支配層は「戦争は罪なき市民に、途方もない苦しみと喪失をもたらす」と言いながら、破壊と殺戮をやってのける人たちだ。オバマの広島訪問に浮かれている場合ではない。
2016.05.28
民主党の大統領候補選びで優位に立っていると言われるヒラリー・クリントン。彼女は軍需産業、金融資本、ネオコン/シオニストなどからの支援を受け、民主党の幹部たちも彼女を後押ししているが、逆風も強くなっている。電子メールの問題も大きい。クリントンの電子メールは簡単にハッキングできる状態で、外部へ機密情報が漏れている可能性は高く、今後、何がどこから出てくるかわからない。 ヒラリーの夫、ビル・クリントンは1993年1月から2001年1月まで大統領を務めたが、当初、ネオコンの影響力は弱かった。1992年初頭にネオコンは国防総省のDPG草案(正式発表の前にリークされ、好戦性が問題になった)という形で世界制覇プランを作成、それをベースにしてネオコン系シンクタンクPNACは2000年に「米国防の再構築」という報告書を公表、2000年に行われた大統領選挙で勝利したジョージ・W・ブッシュは2001年9月11日の攻撃を利用し、この報告書に基づく政策を推進しているが、ビル・クリントン時代は跳んでいる。 1992年のDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニー。ポール・ウォルフォウィッツ次官、I・ルイス・リビー、ザルマイ・ハリルザドらが執筆したというが、そのアイデアはONA(ネット評価室)で室長を務めていたアンドリュー・マーシャルのものだと言われている。ウォルフォウィッツとリビーは「米国防の再構築」でも執筆陣に名を連ねている。ブッシュ政権ではチェイニーが副大統領、ウォルフォウィッツは国防副長官、リビーは副大統領首席補佐官だった。 そのほか、PNACの報告書には、ウクライナのクーデターを現場で指揮していたビクトリア・ヌランド国務次官補の結婚相手であるロバート・ケイガン、イラクへ軍事侵攻する前に偽情報を流していたOSPの室長だったエイブラム・シュルスキー、さらにステファン・カムボーン、ウィリアム・クリストルといったネオコンの大物たちが名を連ねていた。 ウェズリー・クラーク元欧州連合軍最高司令官の話によると、1991年にポール・ウォルフォウィッツは5年以内にイラク、イラン、シリアを殲滅すると口にしていたが、実際にイラクを攻撃したのは2003年。クリントン政権でウォルフォウィッツ・ドクトリンが止まってしまったからだと見られている。1996年にリチャード・パールを中心とするネオコンのグループがイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相(当時)に対し、「決別」という提言を行っているが、これは「民間」の立場からだった。 ビル・クリントンは大統領選挙の最中からスキャンダルで攻撃されている。その中心にいた人物がメロン財閥のリチャード・メロン・スケイフ。この富豪は情報機関やネオコン人脈とも緊密な関係にある。 特別検察官のケネス・スターが所属する「フェデラリスト・ソサエティー」は憲法を無視する法律家集団だ。例えば、議会に宣戦布告の権限があるとする憲法や1973年の戦争権限法はアナクロニズムだと主張、プライバシー権などを制限、拡大してきた市民権を元に戻し、企業に対する政府の規制を緩和させることを目指していた。 この集団は1982年にエール大学、シカゴ大学、ハーバード大学の法学部に所属する学生や法律家によって創設され、巨大資本や富豪を後ろ盾にしていることもあり、勢力を拡大していった。ジョージ・W・ブッシュ政権で司法長官に就任したジョン・アシュクロフト、あるいは司法省の法律顧問として「拷問」にゴーサインを出したジョン・ユーも所属している。 スキャンダル攻勢でビル・クリントンは手足を縛られた状態で、弁護費用のために破産寸前だったと言われているが、それでも好戦派が求めるユーグスラビアに対する先制攻撃は実行しなかった。状況が大きく変わったのは国務長官がウォーレン・クリストファーからマデリン・オルブライトへ交代した1997年だ。 オルブライトはコロンビア大学でズビグネフ・ブレジンスキーに学んだ好戦派。国連大使だった1996年には経済制裁で死に至らしめられたイラクの子ども約50万人について意見を求められ、アメリカが目指す目的のためには仕方がないと言ってのけた。 1998年に彼女はユーゴスラビア空爆を支持すると表明、99年3月にNATO軍は先制攻撃を実行している。広告会社を使い、偽情報を流して好戦的な雰囲気を作りだし、先制攻撃で破壊と殺戮を繰り広げるというパターンはここから始まる。オルブライトを国務長官にするように働きかけたのがヒラリー・クリントンにほかならない。 オルブライトの師にあたるブレジンスキーはデイビッド・ロックフェラーと緊密な関係にあり、CIAとも結びついている。日米欧三極委員会を設立したのはこのふたりだ。 ウクライナでクーデターを指揮したビクトリア・ヌランド国務次官補もヒラリーと親しい。何度も書いてきたが、ヌランドの結婚相手はネオコンの大物で、「米国防の再構築」の執筆者のひとりでもあるロバート・ケーガンだ。 ヒラリー・クリントンはアメリカの好戦派、嫌露派と深く結びつき、今は大金持ちである。支配層の内部にも彼女が大統領になることを懸念している人がいるだろう。通常戦争でアメリカ/NATOはロシアに勝てないという分析はシリアでの戦闘を見ると説得力がある。そうなると、戦争で負けられないアメリカの好戦派は核戦争を始める可能性があるということだ。世界にとって最悪の事態はヒラリー・クリントンの大統領就任であり、「極右」のドナルド・トランプではない。電子メールの問題が注目されている一因はここにある。
2016.05.27
本ブログに対する御支援を感謝いたします。今後もこのブログを維持するため、カンパ/寄付をお願い申し上げます。 どのような政治的な立場であろうと、事実を知ることは重要だと信じているのですが、有力メディアは支配層にとって都合の悪い情報は伝えなかったり、嘘を発信したりしています。これは日本だけの現象ではありません。 世界で起こっている事実を全て知っている人間はいないでしょうが、それでも社会、人類、地球の運命を左右するような情報は全ての人が知る必要があると思っています。それが民主主義を実現するための最低条件でしょう。 ところが、日本では情報公開が形ばかりで、秘密保護法まで成立しました。日本の「エリート」は日本を民主主義国家にする意思が全くないとしか思えません。公的なシステムだけでなく、本来ならメディアも情報を庶民に伝えるべきなのですが、そうした義務を果たしていません。 現在、日本のメディアでは自主規制、自主検閲が広がり、支配層にとって都合の悪い情報を全く伝えなくなりました。あまりにも自主規制、自主検閲が酷いため、信頼度は大きく低下しているように見えます。戦前や戦中の報道も自主規制や自主検閲で言論が封殺されたと指摘されています。同じことを繰り返しているということでしょう。 日本の支配層が「お手本」にしているアメリカでは、第2次世界大戦が終わって間もない段階で「モッキンバード」と呼ばれる情報操作プロジェクトが始まりました。その中心にはアレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、フィリップ・グラハムが中心だったと言われています。 ダレスは戦時情報機関OSSの幹部でウォール街の大物弁護士、ウィズナーとヘルムズはOSSでダレスの側近。ウィズナーはダレスと同じようにウォール街の弁護士です。ダレスとヘルムズは後にCIA長官に就任、またグラハムはワシントン・ポスト紙の社主で、その妻はキャサリン・グラハム。世界銀行の初代総裁に就任したユージン・メイアーの娘で、ウォーターゲート事件当時は同紙の社主だした。 ウォーターゲート事件の取材で中心的な役割を果たした記者はボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインですが、バーンスタインは1977年に退社し、「CIAとメディア」というレポートをローリング・ストーン誌に書いています。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977) その記事によりますと、400名以上のジャーナリストがCIAのために働き、1950年から66年にかけてニューヨーク・タイムズ紙は10名以上の工作員に架空の肩書きを提供していたそうです。この記事を書くためにバーンスタインはワシントン・ポスト紙を辞めなければならなかったという事実を忘れてはならないでしょう。 ライフ誌の発行人だったC・D・ジャクソンは1943年から45年にかけてOSSに所属、戦後は秘密工作を監督するために設置された「工作調整会議」の議長に就任しています。1963年11月22日にジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される瞬間をエイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリ・フィルムを隠すように命じたのはこのジャクソンでした。1969年2月に裁判所の命令でこのフィルムは公表されますが、その時には「現像ミス」で大きな傷がついていました。 こうした情報統制の仕組みがあるだけでなく、大都会の有力メディア、例えばニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙で働きたいと思う記者は支配層の意向に沿う報道を心がけなければならず、自主規制や自主検閲が行われているようです。そうした傾向は1980年代から強まり、21世紀に入ると公然と嘘をつくようになりました。 こうした嘘には「タグの付け替え」が伴い、同じ武装集団が「自由の戦士」になったり「テロリスト」になったりします。LIFG、アル・ヌスラ、ダーイッシュ、穏健派・・・どれも実態は同じです。アメリカの意向を受けてクーデターを実行したウクライナのネオナチ、アメリカの支配に反対するフランスのマリーヌ・ル・ペン、巨大資本の操り人形であるジェブ・ブッシュやヒラリー・クリントンを罵ってきたドナルド・トランプをすべて「極右」で片付けることも間違っているでしょう。タグの呪縛を解く必要がありますが、そのためにも事実は重要です。本ブログが事実を知る一助になればと願っています。櫻井 春彦振込先巣鴨信用金庫店番号:002(大塚支店)預金種目:普通口座番号:0002105口座名:櫻井春彦
2016.05.26
主要7カ国首脳会議(G7)が5月26日に始まった。今回の議長国は日本。安倍晋三首相がその舞台に使った伊勢神宮は明治以降、国家神道の中心としての役割を果たした。徳川幕府を倒した勢力は国家神道を軸とする「カルト国家」を作り上げたと考えるべきだろう。そこから「聖戦」という発想が出てくるのは必然だ。 ところで、G7は1975年にフランス、西ドイツ、イタリア、日本、イギリス、アメリカの6カ国の首脳が会議を開いたところから始まる。翌年、カナダが加わってG7になった。世界を動かしているのは自分たちだというデモンストレーションの意味もあったのだろうが、1971年にアメリカのリチャード・ニクソン大統領はドルと金の交換を停止すると発表、この段階でアメリカの衰退は明白だった。 G7が誕生する2年前、つまり1973年にデイビッド・ロックフェラーとズビグネフ・ブレジンスキーは日米欧三極委員会を設立している。この年、ふたりに目をつけられた政治家がジミー・カーターで、この委員会に入れられた。 ドルと金との交換停止を発表したニクソンは1972年の大統領選挙で再選されるが、73年10月にスピロ・アグニュー副大統領が失脚してジェラルド・フォード下院議員と交代、74年8月にニクソン大統領が辞任してフォードは選挙を経ず、大統領になった。 フォード政権はニクソン時代のデタント(緊張緩和)から軍事強硬路線へ転換、デタント派の粛清が始まる。いわゆる「ハロウィーンの虐殺」だ。例えば1975年11月にジェームズ・シュレシンジャーが国防長官を解任されてドナルド・ラムズフェルドが就任、76年1月にはCIA長官がウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへ交代した。当時、ブッシュを「情報の素人」だとする人もいたが、実際はエール大学でCIAにリクルートされた可能性が高く、キューバ侵攻作戦やジョン・F・ケネディ大統領の暗殺に参加したと主張する人もいる。 この粛清で中心的な役割を果たしたと言われているのがラムズフェルド、大統領副補佐官だったリチャード・チェイニー、軍備管理軍縮局にいたウォルフォウィッツ。後にネオコンと呼ばれるグループに属す人びとだ。ラムズフェルドは国防総省のONA局長だったアンドリュー・マーシャルの意見に従って動いていた。(Len Colodny & Tom Shachtman, “The Forty Years War,” HarperCollins, 2009)マーシャルはソ連脅威論や中国脅威論の発信源で、1992年に作成された国防総省のDPG草案、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」も彼の戦略に基づいている。 1977年にカーターが大統領に就任、ブレジンスキーは大統領補佐官になった。そのブレジンスキーの要請で1979年4月にCIAはワッハーブ派/サラフ主義者、ムスリム同胞団を中心として編成された武装勢力に対する支援プログラムを開始する。 ただ、パキスタンのバナジル・ブット首相の特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールが1989年に語ったところによると、アメリカは73年からアフガニスタンの反体制派へ資金援助しはじめている。その時に目をつけられたのがクルブディン・ヘクマチアルだった。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)1973年はブレジンスキーがソ連を制圧するプロジェクトを始めたと見られる年で、その延長線上に79年4月のプログラムもあるのだろう。 この秘密工作は成功、1979年12月にソ連軍の機甲部隊がアフガニスタンへ軍事侵攻、CIAの訓練を受け、支援された武装勢力と戦うことになる。CIAから軍事訓練を受けた「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイルが「アル・カイダ」だと説明したのはロビン・クック元英外相だった。アル・カイダはアラビア語で「ベース」を意味し、「データベース」の訳語としても使われている。なお、クックはこの指摘をした翌月、保養先のスコットランドで心臓発作に襲われて死亡した。享年59歳。 アメリカから供給された兵器の効果もあり、ソ連軍は1989年2月にアフガニスタンから撤退、91年12月にソ連は消滅する。この時、ネオコンはアメリカが「唯一の超大国」になったと認識、1992年初頭にウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成されて世界制覇プロジェクトが始動したわけだが、1999年にはG20ができた。 G20には、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、アメリカ、カナダのG7、アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、中国、インド、インドネシア、韓国、メキシコ、ロシア、サウジアラビア、南アフリカ、トルコ、そしてEUが参加している。G7の影響力は落ち、「親睦会」としての意味しかなくなったことがG20を組織した理由だと言われている。 このうちブラジル、中国、インド、ロシア、南アフリカはBRICSであり、アルゼンチンやインドネシアもBRICSに近い。現在、アメリカはこのBRICSでクーデターを仕掛け、支配しようと目論んでいる。G20でG7は主導権を握れず、軍事力、破壊工作で乗っ取るしかないということだろう。その手先としてアメリカは1979年にブレジンスキーが作り上げたワッハーブ派/サラフ主義者、ムスリム同胞団を中心とする武装集団をまた使っている。この武装集団、1980年代は「自由の戦士」、2001年以降は「テロリスト」、最近は「穏健派」というように違ったタグが付けられているが、実態は同じ。 今回のG7で「テロ対策」や「難民問題」が話し合われたというが、解決するのは簡単。アメリカに対し、「テロリスト」を支援、「難民」をEUへ送り込むことを止めるように他のメンバー国が説得すれば良いだけである。アメリカ以外の国も実態は把握しているはずだ。
2016.05.26
バラク・オバマ米大統領は保有する核兵器を増強するため、今後30年間に9000億ドルから1兆ドルを投入する計画を打ち出し、ヨーロッパではロシアに対する核攻撃の準備を進めている。アメリカは核兵器を保有していない国を攻撃する口実に核兵器を利用しているが、自らが核兵器の保有をやめる姿勢は見せず、「核兵器のない世界」を望んでいるとは到底思えない。 核兵器を口実にしてアメリカ軍が侵略したイラクの場合、ジョーンズ・ホプキンス大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究によると、2003年の開戦から2006年7月までに約65万人のイラク人が殺された。イギリスのORBは2007年夏までに94万6000名から112万人、NGOのジャスト・フォーリン・ポリシーは133万9000人余りが殺されたとしている。しかも、殺戮と破壊は今でも続いている。 アメリカが始めて核兵器を実戦で使ったのは、勿論、広島だ。1945年8月6日、ウラニウム235を使った原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下、9万人から16万6000人を殺しただけでなく、その後も原爆が環境中に放出した放射性物質によって人間を含む生物は殺されてきた。その3日後にはプルトニウム239を利用した「ファット・マン」が長崎に落とされて3万9000人から8万人が殺され、広島と同じように放射線物質の犠牲者も多い。 一般に、第2次世界大戦は1939年9月にドイツ軍が「ポーランド回廊」の問題を解決するために軍事侵攻したときから始まると考えられている。飛び地になっていた東プロイセンを奪還しようとしたわけだ。この領土問題がこじれたひとつの理由は、イギリスを後ろ盾とするポーランドが強硬だったことにあるとも言われている。 ドイツのポーランド侵攻から2日後にイギリスとフランスは宣戦布告するが、本格的な戦争はそれから約半年の間、始まらない。ドイツも攻撃しなかった。いわゆる「奇妙な戦争」である。 それでもドイツは1941年4月までにヨーロッパ大陸を制圧、5月10日にナチスの副総統だったルドルフ・ヘスがスコットランドへ単独飛行する。そこで拘束されてから1987年8月17日に獄中死するまでヘスの口から飛行の目的が語られることはなく、今でも謎とされている。 そして6月22日にドイツ軍はソ連侵略、つまりバルバロッサ作戦を開始した。このタイミングからヘスがイギリスへ向かったのはソ連を攻めるにあたり、西からの攻撃を避けるために話し合うことが目的だったとも推測されている。 1942年8月にドイツ軍はスターリングラード(現在のボルゴグラード)市内へ突入するが、11月からソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍25万人は包囲されてしまう。生き残ったドイツ軍9万1000名は1943年1月31日に降伏、2月2日に戦闘は終結した。この段階でドイツの敗北は決定的。ドイツが降伏すれば日本は戦争を続けられないと考えられていたわけで、日本の敗北も不可避だった。 その後、ソ連軍は西に向かって進撃を開始、慌てたアメリカ軍はシチリア島へ上陸するのだが、その際、アメリカ海軍のONI(対諜報部)はユダヤ系ギャングのメイヤー・ランスキーを介してイタリア系犯罪組織のラッキー・ルチアーノに接触、その紹介でシチリア島に君臨していた大ボスのカロージェロ・ビッツィーニと手を組むことに成功した。シチリア島がマフィアの島になった一因はここにある。 1943年9月にイタリアは無条件降伏、44年6月にはノルマンディーへ上陸する。「オーバーロード作戦」だ。この上陸作戦は1943年5月、ドイツ軍がソ連軍に降伏した3カ月後にワシントンDCで練られている。 スターリングラードの戦いでドイツ軍が劣勢になると、ドイツのSS(ナチ親衛隊)はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、実業家のマックス・エゴン・フォン・ホヘンローヘをスイスにいたアレン・ダレスの下へ派遣している。当時、ダレスは戦時情報機関OSSのSIB(秘密情報部)を率いていたが、兄のジョン・フォスター・ダレスと同じようにウォール街の大物弁護士、つまり巨大資本の代理人だ。 1944年になるとドイツ陸軍参謀本部でソ連情報を担当していた第12課の課長を務めていたラインハルト・ゲーレン准将(当時)もダレスに接触、45年初頭にダレスはSSの高官だったカール・ウルフに隠れ家を提供、北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談も行われた。サンライズ作戦だ。ウルフはイタリアにいる親衛隊を統括、アメリカ軍のイタリア占領を迅速に実現させることができる立場にあった。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014) こうしたドイツとアメリカが単独降伏の秘密交渉を水面下で行っていることを察知したソ連のスターリンはドイツにソ連を再攻撃させる動きだとしてアメリカ政府を非難する。ルーズベルト大統領はそうした交渉はしていないと反論しているが、そのルーズベルトは1945年4月に執務室で急死、5月にはドイツが降伏、その直後にウィンストン・チャーチル英首相はJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連への軍事侵攻作戦を作成するように命令している。そして5月22日に提出されたのが「アンシンカブル作戦」。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。 この作戦が発動されなかったのは、参謀本部が計画を拒否したため。攻撃ではなく防衛に集中するべきだという判断だったが、日本が降伏する前にソ連と戦争を始めると、日本とソ連が手を組むかもしれないとも懸念したようだ。 ドイツが降伏した段階で日本の命運はつきたと連合国側は判断したはずで、その前から米英の支配層はソ連と戦争を始める準備をしていた。ソ連と日本が手を組む可能性を消しておくために原爆を投下したという可能性はあるが、かなり小さい。ソ連を意識しての原爆投下だったと考えるべきだろう。 チャーチルは1945年7月26日に退陣するが、翌46年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで、「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、47年にはアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいたという。 その後、アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を目論んできたことは本ブログで何度も指摘してきた。1991年12月にソ連が消滅した後、ロシアはウォール街の属国になるが、21世紀に入って再自立、米英支配層は再びロシアを殲滅しようと目論んでいる。その流れにオバマも乗っている。
2016.05.25
日本から資金がケイマン諸島へ流れていても不思議ではない。安倍晋三政権が黒田東彦を総裁とする日本銀行を使って進めてきた「量的・質的金融緩和」は日本経済を回復させず、投機市場を膨らませるだけだと最初から明白だった。政治家はともかく、官僚たちは端からわかっていただろう。日本人、あるいは日本企業が国外で稼いだカネもタックス・ヘイブンへ流れているはずだ。 かつてはスイス、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ベルギー、モナコなどがタックス・ヘイブン(租税回避地)として有名だったが、1970年代からイギリスのロンドン(シティ)を中心とするオフショア市場のネットワークが人気を博したことは本ブログで何度も紹介してきた。ロンドンのほか、ジャージー島、ガーンジー島、マン島、ケイマン諸島、バミューダ、英領バージン諸島、タークス・アンド・カイコス諸島、ジブラルタル、バハマ、香港、シンガポール、ドバイ、アイルランドなどが結びつき、信託の仕組みを利用して資金を闇の中に沈めている。 しかし、ここ数年で状況は大きく変化した。租税を回避し、表にできない資金をロンダリングするために巨大企業や富豪たちは資金をアメリカへ持ち込んでいる。ロスチャイルド家の金融持株会社であるロスチャイルド社のアンドリュー・ペニーは昨年9月、サンフランシスコ湾を望む法律事務所で講演した中で、税金を払いたくない富豪は財産をアメリカへ移すように顧客へアドバイスするべきだと語ったということも本ブログでは紹介済みだ。 現在、最大のタックス・ヘイブンはアメリカだが、これは政策の結果。つまり、2010年にアメリカではFATCA(外国口座税務コンプライアンス法)が発効、アメリカ以外の国の金融機関はアメリカ人の租税や資産に関する情報をアメリカ側へ提供する義務を課されたのだが、その一方でアメリカは自分たちが保有する同種の情報を外国へは提供しないことになっている。アメリカはFATCAによってタックス・ヘイブンになった。アメリカ支配層がアメリカをタックスヘイブンにしたひとつの理由はドルの回収にあるだろう。 1971年8月にリチャード・ニクソン大統領はドルと金の交換を停止すると発表、ブレトン・ウッズ体制は崩壊、1973年から世界の主要国は変動相場制へ移行する。その時点でアメリカ経済は破綻していたと言えるだろう。 ベトナム戦争で疲弊、生産能力が落ちたアメリカはドルを発行して必要なものを買うしかない状況。そうしたシステムの中でもドルを基軸通貨として維持するため、ニクソン政権は産油国との連携した。 石油の取り引きをドル決済に限定することでドルの需要を維持、産油国にはアメリカの財務省証券や高額兵器を買わせてドルを回収するという循環を作り出すことが目的。その際、アメリカ側はサウジアラビアに対し、油田地帯の軍事的な保護、国の防衛、武器の売却、そしてサウジアラビアを支配する一族の地位を永久に保証するという交換条件を提示している。この協定は1974年に調印され、これと基本的に同じ内容の取り決めを他のOPEC諸国とも結んだという。(Marin Katusa, “The Colder War,” John Wiley & Sons, 2015) これがペトロダラーだが、ここにきてサウジアラビアをはじめとするペルシャ湾岸の産油国では財政赤字が深刻化、この仕組みに暗雲が漂っている。投機市場にも限界があることを2008年9月のリーマン・ブラザーズ倒産が示している。 この大手投資銀行の倒産は「サブプライムローン」の焦げ付きが原因だというが、これは金融界全体の問題。破綻した大手金融機関を「大きすぎて潰せない」として庶民のカネで救済、犯罪行為が発覚しても幹部は「大きすぎて処罰できない」ということで自由を謳歌している。 挙げ句の果て、アメリカの支配層はTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)で私的権力が国を支配する仕組みを築き上げようとしている。99.99%が0.01%に奉仕するシステムだ。
2016.05.25
STAP細胞をめぐる問題が再燃しているようだ。この分野について詳しくないので中身には立ち入らないが、この細胞が発見されたと伝えられたときから医学分野の利権集団を動揺させることは推測できた。iPS細胞との関係もあるが、それだけでなく医学全体にまたがる問題をはらんでいる。少なからぬ人が同じことを考えたのではないだろうか? いわゆる「STAP現象」に関する研究を小保方晴子が理化学研究所で始めたのは2011年、論文をネーチャー誌に提出したのが13年3月、その年の12月に査読を通過し、14年1月30日に論文が掲載されている。この研究は小保方のほか、理研の笹井芳樹、元理研で山梨大学の若山照彦、ハーバード・メディカルスクールのチャールズ・バカンティが共同で行った。 ところが、2014年2月上旬に写真のミスが指摘される。中部大学の武田邦彦教授も指摘していたが、複数の専門家が様々な形で3年にわたってチェックし、見つけられなかったようなミスを1週間ほどで部外者が気づくのは不自然。事情に精通している人が介在しているのだろう。 早くも3月には若山が論文を撤回、12月には「研究論文に関する不正調査委員会」が「ES細胞の混入である可能性が高い」と主張し、15年3月には理研がSTAP細胞の論文は「ほぼ事実ではなかった」と宣言、5月には元理研の石川智久がES細胞を小保方が盗み出したとして刑事告発する。この段階でマスコミは小保方が罪を犯したかのように伝えていた。 ところが、今年5月18日に神戸地方検察庁は「窃盗事件の発生自体が疑わしく、犯罪の嫌疑が不十分だ」として不起訴にしたという。石川の主張自体が疑われている。 しかも、検察が捜査している最中、昨年11月にテキサス大学のキンガ・ヴォイニッツ博士らの論文「負傷したマウスの骨格筋から幹細胞になる新規の細胞集団を発見した」が昨年11月にネイチャー・サイエンティフック・リポーツ誌に掲載され、今年3月にはハイデルベルク大学の研究グループがBBRC誌に「修正されたSTAP条件」での成果を公表し、4月にはハーバード大学ブリンガム・アンド・ウィメンズホスピタルが、STAP細胞の作成方法に関する特許を出願したと伝えられている。 こうした展開を見ると、STAP細胞の論文は「ほぼ事実ではなかった」とする理研の宣言は怪しく、若山が論文を撤回したことにも疑問が生じる。医療分野の利権はTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)でも焦点のひとつであり、裏で何が行われていても不思議ではない。
2016.05.24
選挙が近づいていることもあり、日本のマスコミは経済が回復している、あるいは「回復基調」にあると宣伝しているが、勿論、嘘である。景気が悪いのは自分だけだと思い込ませようという算段だろう。 安倍晋三政権の下で黒田東彦総裁に率いられた日銀が推進したきた「量的・質的金融緩和(異次元金融緩和)」は投機市場のテコ入れにはなっても実態経済の回復に対してはほとんど効果がなく、外国ではそうした政策を続ける日銀を「狂っている」と表現する人もいる。安倍政権で潤ったのは投機市場の状況が資産の増減に直結している巨大資本や富豪たちにすぎず、現在、世界で日本は経済政策の失敗例として引き合いに出される存在だ。 資本主義の基本原理が富の独占である以上、貧富の格差が広がるのは必然。庶民に購買力がなくなれば商品は売れず、生産活動は停滞して資金は投機市場へ流れていく。1970年代の後半から西側ではそうした流れを潤滑にするようにルールを変え、システムを作り替えてきた。そうした政策を推進するための「理論」を考え出したのがフリードリッヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンといった学者だ。 こうした「理論」に基づいて規制緩和や私有化が推進されるが、そのためにアメリカでは反トラスト法(独占禁止法)を形骸化、投機の弊害を反省して1933年に制定されたグラス・スティーガル法も1999年11月にグラム・リーチ・ブライリー法が成立して事実上葬り去られた。その影響は西側諸国だけでなく、中国や旧ソ連圏へも波及していく。 19世紀のアメリカでは、不公正な手段で先住民や国民の財産を手に入れ、巨万の富を築く人びとが現れ、「泥棒男爵」と呼ばれた。石油業界を支配したジョン・D・ロックフェラー、金融帝国を築いたJ・P・モルガン、鉄鋼業界のアンドリュー・カーネギー、ヘンリー・クレイ・フリック、鉄道のエドワード・ヘンリー・ハリマン、金融や石油で財をなしたアンドリュー・W・メロンなどだ。グラス・スティーガル法は1920年代に投機が加熱したことを反省して制定された。 バブルがいつ破裂してもおかしくない状況になっていた1929年10月24日、ニューヨークで株式相場が急落して恐慌へ突入するのだが、これは表面的な現象にすぎない。相場の暴落で恐慌になったのではなく、経済の行き詰まりを誤魔化していた投機が限界に達し、破綻が顕在化しただけである。現在のアメリカや日本は当時より悪い状況だ。 そうした不況下の1931年1月、チャーリー・チャップリンが監督、主演した映画「街の灯」が公開された。主人公のホームレスから親切にされた盲目の花売り娘がその相手を金持ちだと錯覚するのだが、同じ錯覚は現実の社会にも蔓延、富豪や大企業が大儲けできれば庶民も豊かになるという「トリクル・ダウン理論」が通用していた。そうした「理論」が幻想にすぎないことを1931年の段階でチャップリンは示していたと言えるだろう。 世界的に見ると、支配層の幻術は解け始めている。それに対し、支配層は庶民が覚醒することを恐れ、そうなったときための準備、例えば監視システムや宣伝機関の強化、警察の軍隊化、収容所の建設などを進めてきた。人類は歴史の岐路に立っている。
2016.05.23
広島訪問をネタにして、あたかもバラク・オバマ米大統領が「平和の伝道師」であるかのような宣伝が展開されているようだが、この人物は今後30年間に9000億ドルから1兆ドルを投入するという計画を打ち出している。このオバマ大統領を含むアメリカ支配層によって、現在、世界は破滅の危機に直面しているのだ。 オバマが初めて大統領に選ばれた2008年の大統領選挙で、共和党の候補者はジョン・マケインだった。マケインはロシアとの核戦争へ突入しようという人物だったが、オバマも決して平和的な大統領ではない。マケインよりはマシという程度だ。オバマ政権で何が行われてきたかを簡単に振り返ってみよう。 2011年にはリビアやシリアへの軍事侵攻を開始、その手先がアル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)だった。詳しい話は割愛するが、これは否定できない事実だ。(アメリカに逆らうと「テロ」が始まるということでもある。) 2013年11月にはウクライナでクーデターを始める。キエフのユーロマイダン(ユーロ広場、元の独立広場)でカーニバル的な抗議活動を始めて人を集め、年明け後にネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)を前面に出した暴力的活動に切り替える。年明け後の2月18日頃から反大統領派は棍棒、ナイフ、チェーンなどを手にしながら石や火炎瓶を投げ、ピストルやライフルで銃撃を始め、反大統領派だけでなく治安部隊も狙った狙撃も行われた。その指揮者はネオ・ナチの幹部、アンドレイ・パルビー。 こうした状況をEUは2月26日の時点で知っていた。エストニアのウルマス・パエト外相がEUのキャサリン・アシュトン外務安全保障政策上級代表(外交部門の責任者)へ報告しているのだ。それに対し、アシュトンはクーデターを成功させることを優先するべきだという意思を示している。 このクーデターを指揮していたのはアメリカのビクトリア・ヌランド国務次官補で、キエフに乗り込んで扇動していた。ジョン・マケイン上院議員も同じように蜂起を煽っていた。 2014年2月4日にインターネット上で公開された音声によると、ヌランド次官補はジェオフリー・パイアット米大使はウクライナの「次期政権」の人事について話し合い、アルセニー・ヤツェニュクを高く評価している。実際、クーデター後にヤツェニュクは首相になった。 ふたりの会話にはジェフリー・フェルトマン国連事務次長も登場する。1991年から93年にかけてローレンス・イーグルバーガー国務副長官の下で東/中央ヨーロッパを担当、ユーゴスラビア解体に関与し、04年から08年にかけてレバノン駐在大使を務めた。 大使時代の2005年2月にレバノンではラフィク・ハリリ元首相が殺害され、アメリカ、サウジアラビア、フランス、イギリス、レバノンが運営資金を出して「法廷」を設置、西側メディアは「シリア黒幕説」を流していた。本ブログではすでに書いたことなので詳細は割愛するが、法廷を設置した国々は、とにかくシリアが怪しいという主張だった。証拠はなく、偽証したという証言もあったが、無視された。 調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュが2007年3月5日付けのニューヨーカー誌に書いたレポートによると、その時点でアメリカはサウジアラビアやイスラエルと共同でシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始していた。 ウェズリー・クラーク元欧州連合軍最高司令官の話によると、1991年にポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)は、5年以内にイラク、イラン、シリアを殲滅すると口にしていた。2003年3月にアメリカ軍はイラクを先制攻撃、サダム・フセイン体制を破壊し、その以降、殺戮と破壊を続けている。 ウクライナでは2014年2月22日にビクトル・ヤヌコビッチ大統領が暴力的に排除され、ヤツェニュクが27日に首相代理となったが、東部や南部の住民はクーデターを拒否、その過程でオデッサの虐殺が引き起こされ、東部のドンバス(ドネツクやルガンスク)を攻撃する。 クーデターに反発する人は軍や治安機関の中にもいて、戦況は反クーデター軍に有利な形で展開してきた。西側はCIAやFBIの要員、軍事顧問団をアメリカ政府はキエフへ派遣し、傭兵も投入されたが、「停戦」で時間稼ぎすることになった。キエフ側は停戦も無視した攻撃を繰り返しているようだが、大規模な作戦はできていない。そうした中、2014年にネオコンのジョン・マケイン上院議員はディック・ダービン上院議員と共同でオバマ大統領に対し、武器をキエフ政権側に送るように求めていた。 マケインは2013年にトルコからシリアへ密入国して侵略軍のリーダーと会談している。その中には実態なきFSAの幹部だけでなく、ダーイッシュを率いているとされているアブ・バクル・アル・バグダディも含まれていた。密入国は法律に違反した行為だが、意に介していないらしい。 オバマ大統領は2015年2月に国防長官を戦争に慎重なチャック・ヘイゲルから好戦的なアシュトン・カーターへ、また9月には統合参謀本部議長を戦争に慎重なマーチン・デンプシーから好戦的なジョセフ・ダンフォードへ交代したが、それに対してロシアは9月30日にシリアで空爆を開始、アメリカ軍とは違い、本当にアル・カイダ系武装集団やダーイッシュを攻撃しはじめた。 それに対し、マケイン上院議員を中心とするグループはトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領に対し、国防総省はバラク・オバマ大統領と対決する用意ができていて、これを知っているロシアはシリアから手を引くと伝えたとする情報がアメリカから流れていた。脅せば相手は屈服するというネオコン思考だ。コンドリーサ・ライス元国務長官はFOXニュースのインタビューで、控えめで穏やかに話すアメリカの言うことを聞く人はいないと語っていた。 マケインのネオコン仲間であるリンゼイ・グラハム議員は2015年11月12日にロシアの航空機を撃ち落とせと主張、その月の24日にトルコ軍のF-16戦闘機がロシア軍のSu-24爆撃機を待ち伏せ攻撃で撃墜した。それに対し、ロシア軍は最新の地対空ミサイルを配備するなどしてシリア北部の制空権を握り、状況はますます侵略勢力にとって厳しくなっている。 ロシアの場合、恫喝戦術は裏目に出ているのだが、それでも脅そうとするのが西側の好戦派。ウクライナの場合も、自分たちがネオ・ナチを使ってクーデターを実行してウクライナを殺戮と破壊の国にして経済を破綻させたのだが、イギリスのマイケル・ファロン国防相などは、暴力に屈服せずに抵抗を続ける住民の後ろ盾になっているロシアに責任を押しつけ、ロシアに対する軍事的な圧力を強めるべきだと主張している。 欧州連合軍副最高司令官だったイギリス陸軍のリチャード・シレフ大将もロシアの周辺国で軍事力を増強してロシアを威圧するべきだとしている。そうしなければ来年、ロシアと核戦争になるのだという。 1991年にソ連が消滅して以来、ヨーロッパで軍事的な緊張を高めてきたのは西側だった。1990年に東西ドイツが統一される際、アメリカの国務長官だったジェームズ・ベイカーはNATOを東へ拡大することはないとソ連のエドゥアルド・シュワルナゼ外務大臣に約束したのだが、1999年にチェコ、ハンガリー、ポーランド、2004年にエストニア、スロバキア、スロベニア、ブルガリア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア、2009年にアルバニア、クロアチアというように拡大している。 アメリカ支配層の約束を真に受けた方が愚かなのだが、それはともかく、アメリカが約束を破ったことは確かだ。つまり、ヨーロッパの軍事的な緊張を高めているのはNATOを東へ拡大させ、ロシアの喉元へナイフを突きつけている西側支配層。ファロン国防相やシレフ大将、あるいはネオコンなど西側の好戦派は問題の原因を脅しに屈しないロシアや中国に求めている。 さらに軍事的な緊張を高めれば全面核戦争を恐れてロシアは屈服すると考えているのかもしれないが、ロシアとの戦争は西側にとって自殺行為、状況によっては「無理心中」的な行為だということを好戦派は学んでいないようだ。 例えば、アメリカで大統領選が行われていた2008年8月、ジョージア(グルジア)は南オセチアを奇襲攻撃した。2001年からイスラエルやアメリカはジョージアの将兵を訓練、武器/兵器を供給し、奇襲攻撃はイスラエル軍が練り上げたと言われているが、軍事侵攻はロシア軍の反撃で失敗した。シリアでもロシア軍は戦闘能力の高さを見せている。それでも西側の好戦派は、自分たちが世界の支配者として君臨する予定を変更できないのだろう。
2016.05.22
例えば、新聞の同じ面に次のようなふたつのタイトルが並んでいたとする。「トルコ大統領 実権強化へ」「タイ軍政 強める言論弾圧」 この新聞はタイの軍事政権に対して批判的だが、トルコ大統領に対してはそうした意思を感じない。そうした編集方針の背後に何があるのか両国の実態を考えてみよう。 トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領はサウジアラビアやアメリカの好戦派を後ろ盾とし、イスラエルとも友好的な関係にあり、シリアのバシャール・アル・アサド政権を倒すプロジェクトに参加してきた。 調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュは2007年3月5日付けニューヨーカー誌で、アメリカ、サウジアラビア、イスラエルの3カ国がシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を始めたと書いているが、エルドアン政権はサウジアラビアから資金を受け取るなどその影響下にある。 侵略部隊としてサラフ主義者/ワッハーブ派)やムスリム同胞団を中心とする人びとで編成された武装集団、つまりアル・カイダ系グループやそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)が使われているのだが、そうした部隊の兵站線はトルコから延びている。 NATO軍がアル・カイダ系武装集団を使っていることはリビアへの侵略戦争で明確になり、ムアンマル・アル・カダフィ体制が倒されてからは戦闘員や武器/兵器がリビア軍の倉庫から持ち出され、トルコ経由でシリアへ運び込まれている。 そうした工作の拠点になったのがベンガジにあるCIAの施設で、その事実をアメリカ国務省も知っていたが、黙認していた。輸送にはマークを消したNATOの輸送機が使われたとも伝えられている。 2012年9月11日にベンガジのアメリカ領事館が襲撃され、クリストファー・スティーブンス大使が殺されているが、この大使は領事館が襲撃される前日に武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っている。 運び出された武器/兵器の中に化学兵器も含まれ、これはシリアで使われている可能性が高い。スティーブンスもこうした工作を熟知していたと考え、彼の上司、つまり国務長官だったヒラリー・クリントンも知っていたはずだ。ヒラリーが親しくしていたデイビッド・ペトレイアスは2012年11月までCIA長官であり、この線からも情報は入っていただろう。ペトレイアスの辞任はペトレアスの伝記『オール・イン』を書いたポーラ・ブロードウェルとの浮気が原因だとされている。 シリアのアサド政権を倒すために送り込み、武器/兵器を供給している戦闘集団について2012年の段階でアメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)はサラフ主義者(ワッハーブ派)、ムスリム同胞団、そしてアル・カイダ系武装集団のAQIが主力だとワシントンに報告している。 2012年8月に作成したDIAの文書によるとアル・ヌスラはAQIの別名。ムスリム同胞団はワッハーブ派から強い影響を受け、アル・カイダ系武装集団の主力もワッハーブ派だ。つまり、シリアで政府軍と戦っているのはサウジアラビアの国教であるワッハーブ派の信徒たちだということになる。 この報告書が作成された当時のDIA局長、マイケル・フリン中将はアル・ジャジーラの取材に対し、ダーイッシュの勢力が拡大したのはオバマ政権が決めた政策によると語っている。アメリカ政府は「テロリスト」と戦うどころか、支援していることをDIAも認めているということだ。 2014年11月にはドイツのDWもトルコからシリアへ戦闘員が送り込まれ、武器、食糧、衣類などの物資がトラックで供給されている事実を報じている。その大半の行き先はアル・カイダ系武装集団やダーイッシュ。勿論、DWもわかっている。 イランのテレビ局プレスTVの記者だったセレナ・シムもこうした人や物資の動きを調べていたひとりで、トルコからシリアへダーイッシュの戦闘員を運び込むためにWFP(世界食糧計画)やNGO(非政府組織)のトラックが利用されている事実をつかみ、それを裏付ける映像を入手したと言われている。そのシムは2014年10月19日に「交通事故」で死亡したが、その前日、MITから彼女はスパイ扱いされ、脅されていたという。 こうしたメディアより前、2014年1月にトルコの憲兵隊はトルコからシリアへの違法輸送を摘発している。武器/兵器を含む物資をシリアへ運び込もうとした複数のトラックをトルコ軍のウブラフム・アイドゥン憲兵少将、ハムザ・ジェレポグル憲兵中将、そしてブルハネトゥン・ジュハングログル憲兵大佐が摘発したのだ。 この出来事を映像付きでジュムフリイェト紙は報道したのだが、同紙のジャン・ドゥンダル編集長とアンカラ支局長のエルデム・ギュルをエルドアン政権は昨年11月26日に逮捕、その2日後には摘発した憲兵隊の幹部も拘束されている。ふたりの編集幹部は国家機密」を漏らしたという理由で懲役5年以上の判決が言い渡された。判決の直前、裁判所の前で編集長は銃撃されている。 エルドアン大統領はイスラム色強い保守派の新聞とされるザマン紙の経営権をトルコ政府は握り、編集幹部を一新させるということもしている。エルドアン大統領は言論自体を封殺、反民主主義的な体制を樹立させようとしているのだ。 こうした独裁体質丸出しの政策を進めているエルドアン大統領だが、ここにきて風向きが変わってきている。つまり権力の基盤が揺らいでいる。すでに軍幹部、弁護士、学者、ジャーナリストなどを大量摘発し、275名を有罪にしていたが、この判決を最高裁が4月21日に無効にしたのである。 タイ軍が2014年5月にクーデターで倒したインラック・チナワット政権は亡命中のタクシン・チナワット元首相の傀儡で、首相だったインラックはタクシンの妹。タクシンが首相だったのは2001年から06年にかけてだが、反タクシン系新聞社の社長の自宅を家宅捜索、香港の新聞社と記者を国外追放、唯一の非タクシン系放送局と言われたiTVを自分の企業グループが呑み込むなどメディア統制、言論弾圧は露骨だった。カネの力でメディアを支配するのは巨大資本の常套手段だ。 そうしたタクシンだが、トルコのエルドアン政権やネオ・ナチを使ったクーデターで誕生したキエフ政権などと同じように、西側メディアからは好意的に扱われてきた。理由は簡単で、アメリカの巨大資本と結びついているからだ。チナワット家はブッシュ一族と関係が深く、巨大ファンドのカーライル・グループとも結びついている。アメリカ軍が2003年3月にイラクを先制攻撃した際、タクシンが軍部や国民の意思に背いてイラクへ派兵した理由もそこにある。同じ理由から、タクシン政権に対する抗議活動が2013年に高まった際に西側のメディアはタクシンに肩入れし、タクシンの政敵殺害に沈黙していた。 なお、昨年、バグダッドであった爆破事件については諸説あり、真相は不明だ。
2016.05.21
衆議院で議員定数を6議席減らして465議席にするという「改正法」が成立したという。「選挙制度改革」を口実に使っているが、本当に選挙制度を改革したいなら、諸悪の根源である小選挙区制を廃止するべきだろう。少なくとも小選挙区制について国全体で徹底的に議論し、その是非を国民に問わなければならない。 議席数の削減を推進している勢力は安全保障関連法や秘密保護法を強引に成立させ、住民基本台帳やマイナンバー制度を導入、TPP(環太平洋連携協定)を実現させようとしている。つまり、国外ではアメリカの侵略戦争に荷担、国内では民主主義の基本である「知る権利」を国民から奪い、その国民を監視、管理、そして政府、議会、裁判所を機能不全にしようとしているわけで、議席を削減する目的も同じだろう。 極論を言うならば、議員定数をゼロにすれば議席は「公正」になる。今回、「改正法」に賛成した議員は国をそうした方向へ導こうとしているとしか考えられない。(何も考えず、目先の利益を追いかけているのかもしれないが。)中身だけでなく、外観としての民主主義も破壊しようとしている。 日本の「エリート」を操っているグループにリチャード・アーミテージがいる。アーミテージは1967年にアナポリスの海軍兵学校を卒業、ベトナムへ行き、フェニックス・プログラムに参加したとする少なからぬ証言がある。元グリーン・ベレーで、極秘機関「情報支援活動(ISA)」に所属していたジェームズ・グリッツ(通称、ボ・グリッツ)中佐はアーミテージが麻薬取引に絡んでアメリカ政府と犯罪組織の仲介役を務めていたとするクン・サ(東南アジアにおける麻薬取引の大物)の証言を伝えている。 フェニックス・プログラムはCIAと特殊部隊が中心になって実行された作戦で、「ベトコンの村システムの基盤を崩壊させるため、注意深く計画されたプログラム」。アメリカの侵略に反対している地域で農民を皆殺しにすることもあり、1968年3月16日に南ベトナムのソンミ村のミ・ライ地区とミ・ケ地区で実行された虐殺はその作戦の一環だったと言われている。現在、アメリカの好戦派は中東/北アフリカでアル・カイダ系武装集団、ウクライナではネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)を使い、同じことをしている。 1967年5月、DEPCORDSとしてサイゴン(現在のホーチミン)入りしたロバート・コマーは6月にCIAとMACV(ベトナム軍事支援司令部)の極秘プログラムICEXを始動させる。この年のうちにICEXはフェニックス・プログラムと改名された。作戦を指揮したのはCIAで、殺人担当チームは軍の特殊部隊から引き抜いて編成している。その下の実働部隊はPRU(地域偵察部隊)という傭兵部隊で、そのメンバーは殺人やレイプ、窃盗、暴行などで投獄されていた囚人たちだ。 1970年前後にフェニックス・プログラムを指揮したウィリアム・コルビーはアレン・ダレスの側近で、大戦中にはジェドバラという破壊工作部隊に所属し、戦後はOPCで活動した。1973年から76年にかけてはCIA長官を務めたが、その間、上院の「情報活動に関する政府工作を調査する特別委員会」、いわゆるチャーチ委員会でフェニックス・プログラムについて証言、1968年8月から71年5月までの間にこのプログラムで2万9587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄されたと語っている。実際は6万人程度が殺されたと言われ、かなり少ない数字だが、それでもフェニックス・プログラムを認めたことはアメリカ支配層にとって衝撃で、CIA長官を解任される一因になった。 フェニックス・プログラムで中心的な役割を果たしたひとりにセオドレ・シャックレーという人物がいる。ジョージ・H・W・ブッシュと親しかったようだが、麻薬取引にも関与していた。その下で航空機による支援活動を行っていたのが、まだ少佐だったリチャード・シコード。その下でオリバー・ノースも活動していた。 1980年代にふたりと同じように「イラン・コントラ事件」(アフガニスタン工作の一部)で名前が出てくるジョン・K・シングローブ陸軍大佐(当時)もベトナム戦争では秘密工作に関係していた。アーミテージもこの事件に連座している。つまり、ベトナム戦争で秘密工作に参加していたメンバーがイラン・コントラ事件、つまりアフガニスタン工作にも加わっているということだ。ノースはCOGでも名前が浮上する。 本ブログでは何度も書いてきたが、このアフガニスタンの工作でアメリカはサラフ主義者/ワッハーブ派やムスリム同胞団を中心とするイスラム武装勢力を編成、その戦闘員リストとしてアル・カイダが作成された。現在、中東/北アフリカで続いている戦乱はここから始まっている。 ノースたちはベトナム戦争でアメリカが負けた原因は戦場でなく、アメリカ国内にあると信じた。戦闘では勝ったが、国内で情報が漏れ、反戦活動が広がったことに敗北の理由を求めたのだ。そこで、戦争に勝つため、情報を統制し、反戦平和を求める活動をそれまで以上に厳しく弾圧するべきだという結論に達する。そうした流れの中、COGは始められた。アーミテージが民主主義を破壊しようとするのも必然ということだ。
2016.05.20
5月19日から20日にかけてロシアのソチでASEANに加盟するブルネイ、ベトナム、インドネシア、カンボジア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、シンガポール、タイ、フィリピンがロシアを交えて首脳会議を開く。2005年のマレーシア、10年のベトナムに続くものだ。インドネシアはロシアとの関係を深めつつあり、タイはアメリカの属国になることを拒否している。 ロシアのウラジミル・プーチン大統領はASEANをSCO(上海協力機構/中国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、ウズベキスタン)と連結させ、ユーラシアとアジア太平洋地域を統合しようと考えている。そのひとつの成果が2015年に調印されたロシアとベトナムとの間の自由貿易圏合意だという。BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)も関係してくるが、現在、アメリカはブラジルでクーデターを実行中だ。 プーチンのプランは中国が進めている「一帯一路(シルク・ロード経済ベルトと21世紀海のシルク・ロード)」ともリンクするだろう。その中国はアメリカ支配層の金融支配から脱するため、AIIB(アジアインフラ投資銀行)や新開発銀行(NDB)を創設した。金を基軸通貨に復活させる意向のようで、ロシアも中国もドル決済を止めつつある。ドルが基軸通貨の地位から陥落すれば、ウォール街を頂点とする支配システムは崩壊する。 アメリカはウォール街が世界を支配するシステム、つまりファシズム体制を築き上げるため、TPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)を推進している。各国の「エリート」をコントロールすることはできているようだが、内容を知り始めた庶民の間で反対の声が高まっている。 TPPに参加しているASEAN加盟国は、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、シンガポール。アメリカの影響下にあると考えて良いだろうが、ベトナムのケースを見ると「面従腹背」の国もありそうだ。マハティール・ビン・モハマド時代のマレーシアは自立した国だったが、その後、傀儡政権になってしまった。再自立もありえる。ミャンマーの場合、アメリカはアウン・サン・スー・チーを利用して支配下に入れたが、少数派の弾圧が凄まじく、問題をはらんでいる。 軍事的な支配システムもウォール街は整備しつつある。戦後、組織されたNATOはソ連の軍事侵攻に対抗するためではなく、西ヨーロッパを支配する仕組みの一部だった。本ブログでは何度も書いているが、当時、戦争で疲弊したソ連にアメリカやイギリスと戦争する余力はなかった。だからこそ、アメリカやイギリスはソ連を攻撃しようとしたのだ。 そのNATOに近い軍事組織をアメリカは作ろうと目論んでいる。「東アジア版NATO」だが、中核になると想定されているのは日本、ベトナム、フィリピン。さらに韓国、インド、オーストラリアを結びつけようとしている。 米英の支配層が夢想している世界支配戦略はイギリスの地理学者、ハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した「ハートランド理論」の影響を強く受けていると見られている。その理論では世界を3つに分けて考える。つまり、ヨーロッパ、アジア、アフリカの「世界島」、イギリスや日本のような「沖合諸島」、南北アメリカやオーストラリアのような「遠方諸島」だ。世界島の中心がハートランドで、具体的にはロシアを指している。 世界支配の鍵を握るロシアを支配するため、ふたつの「三日月帯」を彼は想定する。つまり、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ「内部三日月帯」と、その外側の「外部三日月地帯」だ。 西ヨーロッパ、サウジアラビア、日本はすでにアメリカ支配層の傀儡体制であり、イスラエルとは密接な関係にある。ミャンマーもアメリカの支配下。韓国やマレーシアもコントロールしていると言えるだろう。 そうした中、アメリカは東アジアから東南アジアにかけての地域で軍事力を増強、4月5日から15日にかけてはフィリピンで軍事演習を行った。この演習には日本も「オブザーバー」として参加、その後、ベトナムへ向かったようだ。「イスラム過激派」対策だと言うが、「イスラム過激派」を動かしているのはアメリカの支配層にほかならない。これは本ブログで繰り返し、指摘してきた。 言うまでもなく、ベトナムとフィリピンの間に南沙諸島(チュオンサ諸島、あるいはスプラトリー諸島)はある。領海問題のある海域で、中国は飛行場を建設するなど軍事的な拠点を建設しているのだが、そこへアメリカ海軍がイージス駆逐艦のラッセンを昨年10月27日に送り込んで12海里(22キロメートル)の内側を航行させた。 ラッセンの行動を中国も挑発と受け取り、南沙諸島でアメリカと戦闘になることを恐れていないと中国の国有メディアは宣言したのだが、今年1月にアメリカ側はさらに挑発する。駆逐艦のカーティス・ウィルバーを西沙諸島へ派遣、やはり12海里の内側を航行させている。ここも領有権をめぐる争いがある場所だ。 アメリカ政府高官はラッセンの派遣について、中国をターゲットにした行為ではないと語ったようだが、勿論、中国に対する挑発だ。この日、ロシア軍は2機の偵察機Tu-142を朝鮮半島の東にいたアメリカ第7艦隊の空母ロナルド・レーガンの近くを飛行させているが、これはアメリカの挑発に対する警告だった可能性がある。 ロシア軍機は空母ロナルド・レーガンから1海里(1.9キロメートル)より近い距離まで接近、それに対して空母から4機のF-18戦闘機が緊急発進したというが、空母の周囲にはイージス巡洋艦のチャンセラーズビル、イージス駆逐艦のムスティン、フィッツジェラルド、カーティス・ウィルバーが航行していた。そこまでTu-142が近づけたことに注目する人もいる。 アメリカが中国との戦争を想定しているとするならば、ロシアが出てくることも考えているだろう。そのロシア軍の東アジア側の拠点はペトロパブロフスクやウラジオストク。今年4月21日、アメリカ海軍の対潜哨戒機P-8はカムチャツカのペトロパブロフスク近くを飛行、ロシア軍のMiG-31戦闘機が要撃して50フィート(約15メートル)の距離まで接近したと報道されている。 ペトロパブロフスクはウラジオストクと並ぶロシア太平洋艦隊の重要な軍事拠点で、新しい潜水艦が配備された直後だった。22日にロシア軍は日本海で軍事演習を実施しているが、そうしたことを念頭に置いての偵察、あるいは挑発飛行だったと見られている。 ロシア軍は潜水艦を重視している。戦後、アメリカが先制核攻撃を目論んできたことは本ブログで何度も書いてきた通りだが、潜行している潜水艦を破壊することは難しく、報復攻撃される可能性が高い。アメリカ大陸の近くから攻撃することもできる。当然、アメリカ側は警戒している。 中東/北アフリカが平和になり、経済的な結びつきが強まることをアメリカの支配層は嫌い、破壊し、分割支配しようとしている。その手先がアル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILなどとも表記)だ。そうした支配計画を妨害しているのがロシア。そのロシアとEUが結びつくことを阻止するため、その間にあるウクライナでネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)を利用してクーデターを実行した。アジア大陸の東岸部でもアメリカは同じことを考え、平和が訪れることを阻止しようとしている。そうした意味で、朝鮮はアメリカ支配層にとって大切な存在だろう。 ソ連が消滅した直後、1992年の初頭にネオコン/シオニストは国防総省のDPG草案という形で世界制覇プロジェクト、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」を作成した。アメリカを「唯一の超大国」として君臨させて世界を制圧するため、旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようというものだ。 21世紀になってロシアは再独立に成功、今では軍事力でアメリカを上回っていると見られている。アメリカの戦争ビジネスがカネ儲けを優先し、欠陥兵器を作り始めたことが一因だと言われている。 フォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号でキール・リーバーとダリル・プレスはロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できると主張したが、ありえない。これはシリアでの戦闘で明確になったが、それでも軍事力で脅すことしかできないのがアメリカの好戦派。その好戦派に担がれている大統領候補がヒラリー・クリントンである。
2016.05.19
アメリカにはNED(民主主義のための国家基金)なる団体が存在している。1983年にアメリカ議会が承認した「民主主義のための国家基金法」に基づいて創設され、政府の資金をNDI(国家民主国際問題研究所)、IRI(国際共和研究所)、CIPE(国際私企業センター)、国際労働連帯アメリカン・センターなどへ流しているのだが、その資金はCIAの秘密工作に使われてきた。USAID(米国国際開発庁)とも緊密な関係にある。 NEDは「NGO(非政府組織)」だとされているが、実態はCIAと密接な関係にある機関。名称に「民主主義」が含まれているものの、勿論、本当に民主主義を望んでいるわけではなく、アメリカ支配層にとって邪魔な存在を倒すために「民主主義」という旗を掲げながら介入、不安定化を図り、あわよくば倒してしまうことが目的で、多くの場合、狙われるのは民主的に選ばれた政権。タグで人びとを騙すというアメリカ支配層の常套手段だ。 こうした仕組みを作るベースになっているのが「プロジェクト・デモクラシー」。偽情報を流してターゲットを混乱させ、文化的な弱点を利用、心理戦を仕掛けて相手国の人びとを操ろうとしたのだ。(Robert Parry, “Secrecy & Privilege”, The Media Consortium, 2004)1983年にロナルド・レーガン大統領がNSDD77に署名してスタートした。この時期、憲法の機能を停止させるためのプロジェクトCOGも始まっている。 1978年10月にポーランド出身のカロル・ユゼフ・ボイティワがローマ教皇ヨハネ・パウロ2世になったが、その前からアメリカ支配層はバチカン銀行(IOR/宗教活動協会)を利用してポーランドの反体制派へ資金や機器を提供していた。これが「プロジェクト・デモクラシー」の原型になったと言えるだろう。 ポーランド工作の一端はイタリアの大手金融機関アンブロシアーノ銀行が倒産したことで発覚する。この銀行はポーランドの反体制労組「連帯」を支援するため、不正融資していたのだ。(David A. Yallop, “In God`s Name”, Poetic Products, 1984) それ以外にも連帯へは当時のポーランドでは入手が困難だったファクシミリのほか、印刷機械、送信機、電話、短波ラジオ、ビデオ・カメラ、コピー機、テレックス、コンピュータ、ワープロなどが数トン、ポーランドへアメリカ側から密輸されていた。 こうした工作の背後にはCIAが存在していたのだが、連帯はCIAとの関係を隠そうとしていなかった。その指導者だったレフ・ワレサも自伝の中で、戒厳令布告後に「書籍・新聞の自立出版所のネットワークが一気に拡大」したと認めている。(レフ・ワレサ著、筑紫哲也、水谷驍訳『ワレサ自伝』社会思想社、1988年) 1947年7月に発効した「国家安全保障法」に基づいてCIAは創設される。第2次世界大戦中、アメリカにはOSSという情報機関が存在していたが、戦争が終わると、平時に情報機関はいらないとする意見があり、破壊活動は行わないという条件で1946年1月にCIGが設立され、CIAになった。破壊工作(テロ活動)を行うOPCがCIAの外に作られたのはそのためだ。元ナチ、あるいは元ナチ協力者をCIA内のOSOが追跡する一方、OPCが逃亡を助け、保護するということも起こっている。 しかし、1950年10月にOPCはCIAの内部に潜り込み、翌年の1月にはアレン・ダレスがOPCとOSOを統括する副長官としてCIAに乗り込んできた。ダレスはウォール街の大物弁護士で、戦争中はOSSの幹部としてスイスで活動していた。ダレスをOSSへ引っ張ってきたのは長官だったウィリアム・ドノバンだが、この人物もウォール街の弁護士。OPCを事実上、指揮していたのはダレスで、OPCの形式的なトップはダレスの側近だったフランク・ウィズナー。この人物もウォール街の弁護士だ。 OPCとOSOは1952年8月に統合されて「計画局」になり、秘密工作を監督するために「工作調整会議」が設置された。まずC・D・ジャクソンが議長に就任、1954年にはネルソン・ロックフェラーが引き継いだ。ジャクソンはライフ誌の発行人として知られているが、大戦の終盤、1943年から45年にかけてOSSに所属、戦後は心理戦に関する大統領顧問を務めている。 1953年の夏にCIAはイギリスの情報機関MI6と手を組んでイランの合法的に選ばれたムハマド・モサデク政権をクーデターで倒し、傀儡の王制を復活させる。その一方、この年にCIAは巨大資本のユナイテッド・フルーツ(1970年にユナイテッド・ブランズ、84年からチキータ・ブランズに名称を変更)の利権を守るためにグアテマラでもクーデターを計画、内戦で庶民が殺されることを避けようとしたヤコボ・アルベンス・グスマンは1954年6月に大統領官邸を離れている。 しかし、その後のグアテマラは悲惨で、クーデター政権は労働組合の結成を禁止、ユナイテッド・フルーツでは組合活動の中心にいた7名の従業員が変死している。クーデター直後にコミュニストの疑いをかけられた数千名が逮捕され、その多くが拷問を受けたうえで殺害されたというが、その後40年で殺された人の数は25万人に達するという。このクーデターを目撃したひとりがエルネスト・チェ・ゲバラ。キューバが生き残っている一因は、アルベンス政権の失敗に学んだことにある。 その後もCIAは世界各地で暗殺やクーデターを繰り返し、1973年9月11日にはチリのサルバドール・アジェンデ政権を軍事クーデターで倒した。これもCIAの破壊工作部門が実行したのが、その黒幕はヘンリー・キッシンジャーだった。 こうしたこともあって国の内外でCIAの秘密工作に対する批判が高まり、1975年1月にはネルソン・ロックフェラー副大統領を委員長とする特別委員会が発足。一方、上院では「情報活動に関する政府工作を調査する特別委員会」が、下院では「情報特別委員会」が相次いで設置された。委員長は上院がフランク・チャーチ、下院がルシアン・ネッツィ(後にオーティス・パイクへ変更)だ。 ネルソン・ロックフェラーは秘密工作を指揮する立場にあった人物で、そのロックフェラー委員会の目的は事実の隠蔽だったはずだが、チャーチ委員会やパイク委員会は本当にCIAを追及する。 それに対し、好戦派は黙ってはいなかった。1974年から77年にかけての大統領はジェラルド・フォードだが、この政権ではデタント派が粛清されて好戦派が台頭、その中にはネオコンも含まれていた。ドナルド・ラムズフェルド、リチャード・チェイニー、ポール・ウォルフォウィッツらもこの政権で頭角を現した。この時期のCIA長官はジョージ・H・W・ブッシュである。 その後、好戦派は軍や情報機関の「民営化」を推進、CIAが行っていた活動資金の供給をNEDが行うようになる。こうしたことは有名な話で、NEDの国内における活動を許したならアメリカや地元の巨大資本とCIAを結びつける核になり、私的権力から自立した国を築くことはきわめて困難、不可能と言っても良いだろう。
2016.05.18
安倍晋三政権は国のあり方を根本的に変えようとしている。私的な権力が国を支配、大多数の人びとをコントロール、資源や食糧を支配、富を独占する仕組みを完成させようというわけで、そうした仕組みを築くために教育や報道は統制され、TPP(環太平洋連携協定)、集団的自衛権/安保関連法制、秘密保護法、そして改憲などは推進されてきた。国外では侵略、国内ではファシズム化を進めることになる。 こうした「レジーム・チェンジ」はアメリカの好戦的支配層の意向でもあり、鳩山由起夫政権の時とは違って検察もマスコミも政権を支えているが、こうした動きに気づき、反対する人が庶民の中にも増えてきていた。安倍政権が進めてきた「経済政策」が景気を回復させないことも隠しきれなくなってきた。 そうした中、熊本の周辺で大きな地震が発生、マスコミは例によって情緒的な報道を続け、その一方で某有名人の覚醒剤事件も大きく取り上げている。安倍政権が目論んでいる「レジーム・チェンジ」に比べればこの事件がそれほど重大だとは思えないが、マスコミの判断は違う。 もっとも、覚醒剤や麻薬の取り引きには大きな背景があり、そこを問題にするなら意味はある。イギリスやアメリカの歴史と深く結びつき、現在の金融システムは麻薬取引抜きに語ることはできなくなっている原因もそこにあると言えるだろう。 世界史の教科書にも書かれているように、19世紀のイギリスは麻薬業者だった。「技術革新」で生産力は向上したというが、その中身が問題で、イギリスが売りたかった綿織物は中国で売れず、逆に中国の茶がイギリスで人気になって大幅な輸入超過、つまり貿易赤字は深刻な事態になってしまった。 18世紀の終わりからイギリスの支配層はアヘンに目をつけ、中国(清)が輸入を禁止しても無視していた。つまり麻薬を密輸していたわけだが、貿易で中国に完敗したイギリスは巻き返しのため、アヘンの販売額を増やそうとする。そして、綿製品をイギリスからインドへ、アヘンをインドから中国へ、茶を中国からイギリスへという仕組みを考え出した。 これに対し、清朝はアヘンを広東港に投げ捨てるなどの抵抗を試みたようだが、イギリスは武力を使って麻薬を売りつけることにする。それが1840年から42年まで続いたアヘン戦争、そして1856年から60年までのアロー号事件(第2次アヘン戦争)だ。 この結果、イギリスは最初の戦争で香港島を奪い、上海、寧波、福州、厦門、広州の港を開港させ、賠償金まで払わせ、次の戦争で、11港を開港させ、外国人の中国内における旅行の自由を認めさせ、九龍半島の南部も奪い、アヘン貿易も公認させた。資本主義は麻薬密輸と侵略戦争で軌道に乗ったとも言えるだろう。 麻薬取引の中心地になった香港で1865年に創設されたのが香港上海銀行。その翌年には横浜へ進出、さらに大阪、神戸、長崎にも支店を開設して日本政府とも深く結びついていく。現在、この銀行を含むグループの持ち株会社はロンドンにある。 アヘン戦争やアロー号戦争で設けた会社のひとつがジャーディン・マセソン商会。中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売をしていた。儲けの大半はアヘンの取り引きによるものだったとされている。 そのジャーディン・マセソン商会が1859年に長崎へ送り込んできた人物がトーマス・グラバー。ほどなくして彼は自分自身の会社、グラバー商会を設立、長崎のグラバー邸は武器取引に使われた。そこに坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎たちも出入りしていたことが知られている。 1859年にはラザフォード・オールコックがイギリスの初代駐日総領事として来日、長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決めている。選ばれた人物は、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。「長州5傑」とも呼ばれている。この5名は藩主の命令で1863年6月27日にロンドンへ向かった。この渡航はグラバーが手配し、その際にジャーディン・マセソン商会の船が利用されている。 この当時、長州藩は「尊王攘夷論」を藩論とし、5名が出向する前の月にはアメリカ商船のペンブローク、オランダ通報艦のキャンシャン、オランダ東洋艦隊所属のメデューサを相次いで砲撃、6月にアメリカの軍艦ワイオミングが、さらにフランス海軍のセミラミスとタンクレードも報復攻撃している。藩主の方針とは違う考え方のグループが攻撃した可能性もあるが、欧米の軍事力を日本人に示そうとした、あるいは徳川幕府を揺さぶるためにイギリスと話をつけた上で攻撃したのかもしれない。 翌年の8月にイギリス、アメリカ、フランス、オランダの4カ国は馬関と彦島の砲台を砲撃するなど激しく攻撃、長州藩は惨敗。それを受けて4カ国は幕府に賠償金の支払いを要求、幕府側は受け入れざるをえなかった。イギリスが主導権を握っての攻撃だった。 グラバーの行動にも注目する必要があるだろう。1867年にグラバーは土佐藩の開成館長崎出張所に赴任してきた岩崎彌太郎を自宅に招いて商談、その翌年には佐賀藩に接近して高島炭坑の開発に乗り出し、イギリスの最新型採炭機械を導入して本格的な採掘を始めて石炭の国際取引を取り仕切るようになった。 まだ戦闘が続いていた当時、グラバーは内戦の激化を見越して武器を大量に購入していたが、予想外に内戦が早く終結してしまい、彼の会社は1870年に倒産している。このグラバーを助け、1881年に渉外関係顧問として雇ったのが三菱本社、つまり岩崎の会社である。イギリス支配層は日本の内戦を長引かせ、幕府側と倒幕側の双方を疲弊させてから日本支配に乗り出すつもりだったのかもしれない。 アヘン取引ではアメリカ人も大儲けした。その中にはラッセル家やキャボット家も含まれているが、両家は大学で学生の秘密結社を創設、つまりラッセル家はエール大学でスカル・アンド・ボーンズを、またキャボット家はハーバード大学でポーセリアン・クラブを組織したことでも知られている。これらの秘密結社は政治、官僚、経済、情報などの分野にネットワークを張り巡らす拠点として機能している。 第2次世界大戦後、麻薬取引の中心はCIAと犯罪組織。その関係が深まる一因はスターリングラードでドイツ軍が全滅したことにある。1942年11月から反撃を開始したソ連軍にドイツ軍25万人は包囲され、43年1月に生き残った9万1000人が降伏、あわてたアメリカ軍は43年7月にシチリア島に上陸している。 この上陸作戦を成功させるため、アメリカ海軍のONI(対諜報部)はイタリア系犯罪組織の大物ラッキー・ルチアーノ(本名、サルバトーレ・ルカーナ)に接触する。仲介役はユダヤ系ギャングの大物だったメイヤー・ランスキー。ふたりは子ども時代からの友人で、アーノルド・ロスティンの部下になる。 その後、ふたりとも暗黒街で頭角を現すが、ルチアーノは1936年に売春ネットワークを組織した容疑で逮捕され、30年から50年の強制労働という不定期刑が言い渡された。ラジオの据えつけられた快適な房内で労働もせず、優雅に暮らしていたとはいうものの、死ぬまで刑務所から出られそうになかったが、そこに救いの手をさしのべてきたのが海軍の対諜報部だった。 ルチアーノが紹介した人物はシチリア島に君臨していた大ボスのカロージェロ・ビッツィーニ。ビッツィーニの要請で島内のボスはイタリア軍やドイツ軍に関する情報を米軍に提供したうえ、破壊活動にも協力した。その結果、戦争が終わってからシチリア島ではマフィアのボスが行政を支配するようになる。シチリアをマフィアが支配する島にしたのはアメリカだということだ。1946年2月9日、ルチアーノは「好ましからざる人物」という名目で刑務所を出され、国外に追放されて事実上、自由を手にした。 1959年のキューバ革命はマフィアとCIAとの関係を強めることになる。キューバやマイアミを縄張りにしていたランスキーはアメリカの好戦派と同じようにキューバの再支配を目論んでいた。 キューバへ進出する際、ランスキーが手を組んだ相手がサントス・トラフィカンテ・シニア。キューバ革命の当時はその息子であるサントス・トラフィカンテ・ジュニアに世代交代していた。アメリカがインドシナへ本格的に軍事介入するのと並行してCIAは秘密工作を展開、麻薬取引に手を出すのだが、そのパートナーとしてランスキーやトラフィカンテ・ジュニアが重要な役割を果たした。 グリーン・ベレー出身で、米陸軍の極秘機関「ISA(情報支援活動)」のメンバーだったジェームズ・グリッツ(通称、ボ・グリッツ)中佐によると、アメリカ政府と犯罪組織をつなぐキーパーソンはリチャード・アーミテージだった。これは「黄金の三角地帯」に君臨していたクン・サの証言に基づいている。 その後、1980年代にニカラグアの革命政権を倒す秘密工作を展開したときには南アメリカのコカイン、アフガニスタン戦争ではパキスタンからアフガニスタンにかけてで栽培されているケシを原料とするヘロインの流通量が増大するが、いずれも黒幕はCIAとその手下であり、今では麻薬資金が世界の金融システムを支えているとも言われている。 アメリカの麻薬取引では情報機関と犯罪組織がタッグを組んでいるのだが、日本の麻薬取引は広域暴力団が中枢にいると考えられている。その広域暴力団の中で最大規模の組織が山口組。そこに属す後藤組を率いていた後藤忠政(本名:忠正)は他の3名と2000年から04年にかけてロサンゼルスにあるUCLAの医療センターで腎臓の移植手術を受け、その際に10万ドルを支払ったという。後藤は有名な暴力団の幹部であり、本来ならアメリカへ入国できない。それが可能だったのはFBIがビザの取得に協力したからだと言われている。 なお、後藤忠政の祖父にあたる後藤幸太郎は戦後、東京湾などで金塊が見つかったと証言していた人物で、1949年に口から血を吐いて死んだという。ドイツや日本が戦争中に占領地で略奪した財宝や金塊を回収していたアメリカのグループは大半を自分たちのために使い、麻薬取引を含む秘密工作に関係していると見られている。
2016.05.17
商品をヒットさせるためには人びとが望むものを作るか、望むように仕向ける必要がある。報道も例外ではなく、顧客(読者や視聴者)にとって不愉快な事実を伝えてはビジネスとして成功しない。 また、マスコミの利益は広告に頼っているのが現実で、広告主にとって不愉快な事実も伝えられない。マスコミは営利企業であり、銀行から融資を受けているのだが、その融資を打ち切られれば、即、倒産である。つまり、金融資本には逆らえない。勿論、スキャンダルを抱えていれば、治安当局の顔色を伺うことになる。暴力にも弱い。 広告と融資に大きな影響力を持っているのが広告代理店、特に電通である。この電通は1901年7月に光永星郎が創設した日本広告と電報通信社から始まった。1906年に電報通信社は日本電報通信(電通)に改組改名、07年に電通と日本広告が合併、35年に電通は新聞聯合社と合併して同盟通信社になり、36年に電通は通信部門を同盟通信社に委譲、同盟の広告部門を吸収して広告代理業を専門とする電通が発足した。敗戦直後の1945年10月に同盟は共同通信社と時事通信社に分離、一方日本電報通信は1955年に正式社名を電通に改称している。このように電通は歴史的に通信社、特に共同通信との関係が深く、別会社になってからも情報の遣り取りはあるという。 国際的に見ると、1990年代から広告会社が国際戦略で果たす役割は大きくなった。その幕開けとも言える出来事が1990年10月にアメリカ下院の人権会議(非公式)で行われた少女「ナイラ」の発言。アル・イダー病院でイラク兵が赤ん坊を保育器の中から出して冷たい床に放置、赤ん坊は死亡したと訴えたのだが、その話は全て嘘だった。 その嘘を人びとに信じさせる演出は広告会社のヒル・アンド・ノールトンが行った。その少女はアメリカ駐在のクウェート大使の娘で、イラク軍が攻め込んだときにクウェートにはいなかったことがわかっている。この演出のため、クウェート政府がヒル・アンド・ノールトンに支払ったカネは1000万ドルだという。「砂漠の嵐作戦」の宣伝のため、レンドン・グループに毎月10万ドルを支払ったとも言われている。 イラクをアメリカ軍が先制攻撃した際、報道統制のために「埋め込み取材」が実行されたが、これを考え出したドナルド・ラムズフェルド国防長官のスポークスマン、ビクトリア・クラークはヒル・アンド・ノールトンの出身だ。(Solomon Hughes, “War On Terror, Inc.”, Verso, 2007) 当初、アメリカ政府は侵略戦争の口実に「アル・カイダ」を使ったが、後にイラン、イラク、朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、宣伝し始める。この名称は広告の専門家やロビーストたちが考えたのだが、その中心にもクラークがいた。 コリン・パウエル国務長官が次官に据えたシャルロット・ビアーズはふたつの大手広告会社、オグルビー・アンド・マザーとJ・ウォルター・トンプソンのトップになった人物で、「単純化」と「浅薄化」が彼女の手法だった。イラクへの先制攻撃をアメリカ政府は「イラクの自由作戦」と命名したが、これもビアーズのアドバイスに従っている。日本では小泉純一郎が「単純化」と「浅薄化」を採用、効果はあった。 ユーゴスラビアを破壊した際に雇われた広告会社はルダー・フィン・グローバル・コミュニケーション。セルビア人を悪役に仕立てるため、クロアチア政府は1991年8月にこの会社と契約している。 日本でも人びとに戦争するよう仕向ける仕事を広告会社は請け負っているだろうが、それ以外にもTPPや原発の推進でも「活躍」していることだろう。
2016.05.16
自分たちの手先が劣勢になると停戦を持ちかけ、その間に体勢を立て直そうとするのはアメリカの常套手段だが、シリアでもこの手口を使っている。シリアの場合、昨年9月30日にロシア軍が始めた空爆が効果的で、アメリカの好戦派が予想したよりも早くアレッポなどの要衝をシリア政府軍に押さえられてしまったが、それでも戦闘員を増派し、対戦車ミサイルTOWや携帯型防空システムMANPADを含む武器/兵器を急ピッチで供給している。 つまり、アメリカの好戦派、サウジアラビア、トルコ、イスラエルなどはシリアでの戦闘を継続し、あくまでもバシャール・アル・アサド体制を倒して傀儡政権を樹立するつもりだ。ロシア軍を再び引っ張り出せば、アメリカの大統領選挙で好戦派が担いでいるヒラリー・クリントンの追い風になるという読みもあるかもしれない。 2月19日付けシュピーゲル誌に掲載されたサウジアラビア外相へのインタビューでは、シリアの戦況を変えるため、地対空ミサイル、つまりMANPADを供給しはじめたと公言していた。また、昨年10月、BBCのフランク・ガードナーはTOW500基を反シリア政府軍へ提供したことをサウジアラビアの高官は認めたとツイッターに書き込んでいる。 武器/兵器をアル・カイダ系の武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILなどとも表記)に供給しているのはサウジアラビアだけでなく、アラブ首長国連邦やカタールの名前も挙がっている。ロシア軍の空爆で大きなダメージを受けたものの、シリアを侵略している武装勢力へトルコから延びている兵站線は今でも存在、シリアやイラクで盗掘した石油のトルコへの輸送も続いているようだ。 トルコの野党議員、エレム・エルデムが入手した治安当局の盗聴テープによると、昨年9月22日から10月17日の間だけで戦闘員やその家族約1400名がトルコからシリアへ入ったと見られ、またダーイッシュの戦闘員は負傷するとトルコへ運び込まれ、治療されている。 以前から盗掘石油の売りさばきにレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領の息子が所有するBMZ社が重要な役割を果たし、ダーイッシュの負傷兵はトルコの情報機関MITが治療に協力、秘密裏に治療が行われている病院はエルドアン大統領の娘が監督しているとされていた。 こうした軍事侵略をめぐる対立もあってか、トルコやサウジアラビアでは内部対立が激しくなっている。こうした侵略の黒幕であるアメリカの好戦派もかつてのような影響力はなくなった。 そうした好戦派に担がれているヒラリー・クリントン当ての電子メールが公表され、アメリカがリビアを攻撃した理由は保有する金143トンと石油利権だったことを暗示するものが含まれていたが、それだけでなく、シドニー・ブルメンソールからクリントンへ送られた2013年2月16日付けのメールには、12年9月11日にベンガジの領事館が襲撃されてクリストファー・スティーブンス大使を含むアメリカ人4名が殺された事件に関する情報も含まれていた。 リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が崩壊した後、リビア軍の倉庫から武器/兵器が持ち出されてトルコへ運ばれているが、輸送の拠点になったのはベンガジにあるCIAの施設。つまり武器の輸送はCIAが黒幕だった。そうした事実をアメリカ国務省は黙認、輸送にはマークを消したNATOの輸送機が使われたとも伝えられている。 ベンガジにはアメリカの領事館があるのだが、そこが2012年9月11日に襲撃され、クリストファー・スティーブンス大使も殺された。スティーブンスは戦闘が始まってから2カ月後の2011年4月に特使としてリビアへ入り、11月にリビアを離れるが、翌年の5月には大使として戻っていた。領事館が襲撃される前日、大使は武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っている。 運び出された武器/兵器の中に化学兵器も含まれていた。これをシリアで使い、政府軍に責任をなすりつけてNATO軍が直接、介入する口実に使用としたと言われている。リビアで行ったようなことをしようとしたわけだが、スティーブンスの行動を見ると、彼はこうした工作を熟知していたと考えられる。彼が知っていたということは、上司の国務長官だったヒラリー・クリントンも報告を受けていたはずだ。 2012年11月、デイビッド・ペトレイアスがCIA長官のポストを辞しているが、この人物はクリントンと緊密な関係にあることで有名。スティーブン大使から報告されるまでもなく、ベンガジでの工作をクリントンは知っていたと見るべきだ。ペトレイアスの辞任はペトレアスの伝記『オール・イン』を書いたポーラ・ブロードウェルとの浮気が原因だとされているが、これはカモフラージュだった可能性がある。 トルコ経由でアル・カイダ系武装集団やダーイッシュの手に渡った化学兵器はアレッポで使われているとする情報もある。2013年8月21日にダマスカスの近くで化学兵器が使用され、西側の政府やメディアはシリア政府軍の仕業だと主張、それを口実にしてNATOは軍事介入しようとした。 西側の主張が間違いだということはすぐに指摘された。まず、攻撃の直後にロシアのビタリー・チュルキン国連大使はアメリカ側の主張を否定する情報を国連で示して報告書も提出、その中で反シリア政府軍が支配しているドーマから2発のミサイルが発射され、ゴータに着弾していることを示す文書や衛星写真が示されたとジャーナリストがフェースブックに書き込んでいる。 そのほか、化学兵器とサウジアラビアを結びつける記事も書かれ、12月になると、調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュもこの問題に関する記事を発表、反政府軍はサリンの製造能力を持ち、実際に使った可能性があるとしている。また、国連の元兵器査察官のリチャード・ロイドとマサチューセッツ工科大学のセオドール・ポストル教授も化学兵器をシリア政府軍が発射したとするアメリカ政府の主張を否定する報告書を公表している。ミサイルの性能を考えると、科学的に成り立たないという。 2013年8月の化学兵器使用について、トルコの国会議員エレン・エルデムらは捜査記録などに基づき、トルコ政府の責任を追及している。化学兵器の材料になる物質はトルコからシリアへ運び込まれ、そこでダーイッシュが調合して使ったというのだ。この事実を公表した後、エルデム議員らは起訴の脅しをかけられている。
2016.05.16
バラク・オバマ米大統領の意向に逆らってロシアを訪問、そのオバマ大統領の広島訪問を取り付けた安倍晋三首相だが、ロシアとの間で領土問題、あるいは経済面で何らかの進展があったわけでなく、オバマ大統領が広島で原爆投下という戦争犯罪を謝罪することもないだろう。ロシアやアメリカの大統領と何かを交渉しているかのようなイメージを振りまいただけだが、次の選挙を考えると、与党にとって大きな意味があるのだろう。 安倍首相が黒田東彦日銀総裁と組んで行ってきた「量的・質的金融緩和」は投機市場を膨らませるだけで日本経済を回復はずがないことは最初から明白だったが、ここにきてその実態を隠しきれなくなっている。巨大企業や富裕層へ富を集中させる政策は貧富の差を広げることになり、1990年代から回復しない日本経済をさらに疲弊させただけ。 日本の株価を上場させるためにETF(上場投資信託)やGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)を利用してきたが、結局、含み損を抱えることになっただろう。つまり国民に多額の損失を押しつけることになったはずだ。 2010年9月、尖閣諸島(釣魚台群島)の付近で操業していた中国の漁船を海上保安庁が「日中漁業協定」を無視する形で取り締まり、それまで「棚上げ」になっていた尖閣列島の領有権問題を引っ張り出して日中関係を悪化させ、東アジアの軍事的な緊張を高めた。その結果、日本企業の中国における経済活動を阻害している。 それだけでなく、TPP(環太平洋連携協定)によって安倍政権は日本をアメリカの巨大資本という私的権力に支配させようとしている。この協定はTTIP(環大西洋貿易投資協定)やTiSA(新サービス貿易協定)とセット。 1938年4月29日、アメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトは、「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」と語ったが、TPP、TTIP、TiSAはそうした体制を築く仕組みだ。その核になるのがISDS(投資家-国家紛争調停)条項である。 この条項によって、巨大企業のカネ儲けを阻むような法律や規制を政府や議会が作ったなら企業は賠償を請求でき、健康、労働、環境など人びとの健康や生活を守ることは困難になってしまう。最近、グリーンピースが明らかにしたTTIPに関する文書は、そうした懸念を確認させるものだった。TPPも基本的に同じことが言える。 安倍首相は2015年6月1日、赤坂の「赤坂飯店」で開かれた官邸記者クラブのキャップによる懇親会で「安保法制は、南シナ海の中国が相手なの」と口にしたと報道された。中国と戦争した場合の結果を考えているのかどうか不明であり、おそらくTPPの結果も考えていないだろう。プーチンと会って何かをしようというプランもなさそうだ。
2016.05.16
ロシアでは外務省と情報機関との間でヒラリー・クリントンの2万に及ぶ電子メールを公開するかどうかが議論されているとアンドリュー・ナポリターノは5月9日にFOXニュースの番組で発言した。問題の電子メールの内容はたわいなく秘密性もないものだとクリントン自身は主張しているが、そうでもないようだ。クリントンの電子メールは簡単にハッキングできる状態で、ロシアの機関が実行しなくても、何らかのルートで電子メールを入手することは可能だった。この問題はFBIが捜査中だという。 彼女はネオコン、軍需産業、巨大金融資本といった戦争を好む人びとによって支えられてきたわけで、大統領になった場合はロシアとの間で軍事的な緊張がさらに高まると見られている。ロシア制圧はアメリカやイギリスの支配層が20世紀初頭から頭に描いている夢だ。 ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとキール・リーバーとダリル・プレスはフォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載された彼らの論文「未来のための変革と再編」で主張した。シーモア・ハーシュが2007年3月5日付けのニューヨーカー誌で書いたレポートによると、アメリカはサウジアラビアやイスラエルと共同でシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作をその時点で開始していた。 それから間もない2007年8月29日から30日にかけてアメリカでは深刻な出来事があった。核弾頭W80-1を搭載した6基の巡航ミサイルAGM-129が行方不明になったのだが、これは一部グループがイランを核攻撃しようとしたのだとも言われている。 この出来事の真相はいまだに不明で、6基の巡航ミサイルだけではなく、相当数の核兵器がノースダコタ州のマイノット空軍基地で盗み出されてB-52爆撃機へ搭載され、中東へ向かおうとしたとも言われている。ルイジアナ州のバークスデール空軍基地へ運ばれたのではなく、実際はインターセプトされて同基地へ着陸させられたというのだ。 その後、核兵器と扱うことが許可されていた250名以上の将校がチャック・ヘーゲル国防長官やマーチン・デンプシー統合参謀本部議長の命令で解任されたが、これは核兵器の「行方不明事件」と関係があるとも見られている。 この粛清を一部のメディアは激しく批判、ヘーゲル長官は2015年2月、デンプシー議長は同年9月に辞めている、あるいは辞めさせられている。ロシアがシリアで空爆を始めたのはデンプシーが議長を退いた直後、9月30日のことだった。 その後のロシア軍による攻撃はアメリカの好戦派が想定したロシア軍の戦闘能力を大幅に上回るもので、リーバーとプレスの分析が間違っていたことを明らかにした。通常兵力の戦いならロシア軍が勝つと今では言われている。つまり、ネオコンが1992年に作成したプラン(ウォルフォウィッツ・ドクトリン)を強行しようとしたなら、核戦争になると覚悟しなければならない。クリントンの問題はこうしたこととも結びついているだろう。
2016.05.15
アメリカの大統領選挙で不可解な動きが出て来た。5月6日にディック・チェイニー元副大統領がドナルド・トランプを支持するとCNNのインタビューで語ったが、今度はワシントン・ポスト紙でシェルダン・アデルソンもトランプの支持を表明したのだ。これまでネオコン/シオニストにトランプは憎悪され、ロバート・ケーガンはヒラリー・クリントンを支持するとしていた。 ケーガンはネオコンの大物で、結婚相手のビクトリア・ヌランド国務次官補はクリントンと親しい。軍需産業や金融資本と結びついていることで知られているクリントンだが、ネオコンとも関係は深いということだ。 ところが、ここにきてふたりのネオコン、つまりチェイニーとアデルソンがトランプ支持を表明した。チェイニーはドナルド・ラムズフェルドと同じようにジェラルド・フォード政権で台頭したひとり。デタント派を粛清し、好戦的な路線へ変更させた一派に属していた。ジョージ・W・ブッシュ政権では事実上の大統領だったとも言われている。 アデルソンはカジノ界の大物で、ラスベガス・サンズを所有する富豪。2013年10月にイランを核攻撃するべきだと発言した人物だが、その翌月には来日して細田博之(当時は自民党幹事長代行)らに、東京の台場エリアで複合リゾート施設を作るという構想の模型を披露しながらスライドを使って説明したという。 それだけでなく、ここにきてジョー・バイデン副大統領が大統領選に参加するという話まで飛び出した。クリントンに何らかの深刻な事態が生じているように見えるのだが、そこで言われているのが電子メールの問題。 アメリカがリビアを攻撃した理由は保有する金143トンと石油利権だったことを暗示するヒラリー・クリントン宛ての電子メールが公表されているが、それだけではない。シドニー・ブルメンソールからクリントンへ送られた2013年2月16日付けのメールには、12年9月11日にベンガジの領事館が襲撃されてクリストファー・スティーブンス大使を含むアメリカ人4名が殺された事件に関する情報が含まれている。 クリントンは2009年1月から13年2月まで国務長官を務めた。つまり、カダフィが惨殺されたときも、スティーブンス大使が殺されたときも国務長官だった。 CBSのインタビューを受けている時にカダフィ惨殺を知らされたクリントン長官は「来た、見た、死んだ」と口にしている。その半年前、ロシアのウラジミル・プーチンは「誰がNATOにカダフィを殺す権利を与えたのだ」と侵略勢力を激しく批判したが、それを無視して殺害、クリントンはそれを喜んだわけである。 カダフィ体制が崩壊した後、リビア軍の倉庫から武器/兵器が持ち出されてトルコへ運ばれているが、輸送の拠点になったのはベンガジにあったCIAの施設。つまりCIAが黒幕だった。そうした事実をアメリカ国務省は黙認、輸送にはマークを消したNATOの輸送機が使われたとも伝えられている。 ベンガジにはアメリカの領事館があるのだが、そこが2012年9月11日に襲撃され、クリストファー・スティーブンス大使も殺された。スティーブンスは戦闘が始まってから2カ月後の2011年4月に特使としてリビアへ入り、11月にリビアを離れるが、翌年の5月には大使として戻っていた。領事館が襲撃される前日、大使は武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っている。 運び出された武器/兵器の中に化学兵器も含まれていた。これをシリアで使い、政府軍に責任をなすりつけてNATO軍が直接、介入する口実に使用としたと言われている。リビアで行ったようなことをしようとしたわけだが、スティーブンスの行動を見ると、彼はこうした工作を熟知していたと考えられる。彼が知っていたということは、上司の国務長官だったヒラリー・クリントンも報告を受けていたはずだ。 2012年11月、デイビッド・ペトレイアスがCIA長官のポストを辞しているが、この人物はクリントンと緊密な関係にあることで有名。スティーブン大使から報告されるまでもなく、ベンガジでの工作をクリントンは知っていたと見るべきだ。ペトレイアスの辞任はペトレアスの伝記『オール・イン』を書いたポーラ・ブロードウェルとの浮気が原因だとされているが、これはカモフラージュだった可能性がある。要するに、クリントンは強力な「爆弾」を抱えている。 クリントンが駄目ならバーニー・サンダースを選べば良いのだが、AIPACの招待を断った人物で、ネオコンから最も警戒されている大統領候補者だろう。ネオコンが予定していた共和党の大統領候補はジェブ・ブッシュだったが、トランプに「9/11」の話を持ち出された後に離脱している。ネオコンはクリントンが駄目になった場合の準備を始めているのかもしれない。
2016.05.14
ブラジルの上院はジルマ・ルセフ大統領を最大6カ月の職務停止にすることを5月12日に決め、ミシェル・テメル副大統領が暫定大統領に就任したのだが、そのテメルがアメリカのNSC(国家安全保障会議)や南方軍に機密情報を流していたことを内部告発支援団体のWikiLeaksが明らかにした。4月の段階でルセフ大統領はテメルとエドアルド・クニャ下院議長がクーデターの首謀者だと批判していた。 クーニャ下院議長は最近、スイスの秘密口座に数百万ドルを隠し持っていることが発覚し、ルセル大統領の弾劾で先導役を務めたひとり、ブルーノ・アラウージョも巨大建設会社から違法な資金を受け取った容疑をかけられている。2018年の大統領選挙へ出馬するというジャイ・ボウソナル下院議員の場合、弾劾を問う採決の際、軍事政権時代に行った拷問で悪名高いカルロス・アルベルト・ブリリャンテ・ウストラを褒め称えていた。 薄弱な根拠でルセフが攻撃されている理由は、言うまでもなく、アメリカの巨大資本にとって邪魔な存在だからであり、不正を働いている可能性の高いグループが咎められないのはそうした巨大資本の手先だからだ。 アメリカの支配層がルセフを排除したがっている理由のひとつはブラジルがBRICSの一角を占めているからだろう。BRICS、つまりブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカはアメリカの巨大資本を頂点とする支配システムに対抗する勢力になりつつある。 南アメリカではブラジルだけでなく、自立した国を築こうとしている政権は揺さぶられている。アルゼンチンのクリスティーナ・キルシュネル前大統領が起訴されたのもそうした動きのひとつ。クリスティーナの夫、ネストルも大統領だったが、彼によると、大統領時代のジョージ・W・ブッシュは「経済を復活させる最善の方法は戦争」だと力説、「アメリカの経済成長は全て戦争によって促進された」と話していたという。この証言はオリバー・ストーンが制作したドキュメンタリー、「国境の南」に収められているのだが、ブッシュが言うところの「経済」とは巨大資本の「儲け」を意味している。 16世紀にスペイン人が侵略、財宝や資源を略奪してヨーロッパに莫大な富をもたらしたが、20世紀の直前に支配者がアメリカに替わる。北アメリカの先住民を殲滅した次に目を南に向けたのだ。 侵略の幕開けは1898年。キューバのハバナ港に停泊していたアメリカの軍艦メイン号が爆沈、アメリカはスペインが実行したと主張して宣戦布告、米西戦争が始まる。この戦争に勝利したアメリカはスペインにキューバの「独立」を認めさせ、プエルトリコ、グアム、フィリピンを買収することになった。この年、ハワイも支配下においている。フィリピンは中国市場へ乗り込む橋頭堡として位置づけられた。 1900年の大統領選で再選されたウィリアム・マッキンリーは翌年の9月に暗殺され、副大統領のセオドア・ルーズベルトが跡を継いだ。そして始められたのが棍棒外交。対外債務で苦しむベネズエラに内政干渉、ドミニカやキューバを保護国化、次に大統領となったウィリアム・タフトも棍棒外交を継承する。この政策は1933年にフランクリン・ルーズベルト大統領が善隣外交を始めるまで続いた。 第2次世界大戦後はCIAによる破壊活動、暗殺、クーデターでアメリカ支配層にとって都合の悪い体制は倒されてきた。例えばユナイテッド・フルーツ(1970年にユナイテッド・ブランズ、84年からチキータ・ブランズに名称を変更)に支配され、「バナナ共和国」と呼ばれていたグアテマラでは、1954年にクーデターでヤコボ・アルベンス・グスマンを排除、1973年にはチリのサルバドール・アジェンデ政権をクーデターで倒し、新自由主義的な政策が導入された。 1999年にベネズエラ大統領になったウーゴ・チャベスもアメリカの巨大資本に嫌われていたひとりで、2002年にクーデターが計画された。イラン・コントラ事件でも登場するエリオット・エイブラムズ、キューバ系アメリカ人で1986年から89年にかけてベネズエラ駐在大使を務めたオットー・ライヒ、そして1981年から85年までのホンジュラス駐在大使で後に国連大使にもなるジョン・ネグロポンテが黒幕だと言われている。この計画は、事前にOPECの事務局長を務めていたベネズエラ人のアリ・ロドリゲスからチャベスへ知らされたため、失敗に終わった。 WikiLeaksが公表したアメリカの外交文書によると、2006年にもベネズエラではクーデターが計画されている。「民主的機関」、つまりアメリカの支配システムに組み込まれた機関を強化し、チャベスの政治的な拠点に潜入、チャベス派を分裂させ、アメリカの重要なビジネスを保護し、チャベスを国際的に孤立させるとしている。 今回、明らかにされたテメルのNSCや南方軍に宛て文書が作成されたのも2006年。この年には、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとするキール・リーバーとダリル・プレスの論文がフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)に掲載されている。 また、2007年3月5日付ニューヨーカー誌に、アメリカはサウジアラビアやイスラエルと共同でシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始したとするシーモア・ハーシュのレポートが載った。この3カ国の手先がワッハーブ派/サラフ主義者だ。 この当時、アメリカの支配層は武力で世界制覇を実現しようと動き始めていたように見える。2009年6月にはホンジュラスでクーデターがあり、マヌエル・セラヤ政権が倒されたが、このクーデターの中枢には少なくとも2名のSOA卒業生がいた。 現在、アメリカ政府はホンジュラスのクーデター政権を容認しているが、現地のアメリカ大使館は国務省に対し、クーデターは軍、最高裁、そして国会が仕組んだ陰謀であり、違法で憲法にも違反していると報告している。つまり、クーデター政権には正当性がないと明言している。この正当性のない政権は翌2010年、最初の半年だけで約3000名を殺害したという報告がある。 クーデターを支援していたひとり、ミゲル・ファクセが麻薬取引が富の源泉であることもアメリカ側は認識していた。ちなみに、ミゲルの甥にあたるカルロス・フロレス・ファクセは1998年から2002年にかけてホンジュラスの大統領だった人物である。 2010年9月には尖閣諸島の付近で操業していた中国の漁船を海上保安庁が「日中漁業協定」を無視する形で取り締まり、それまで「棚上げ」になっていた尖閣列島の領有権問題を引っ張り出し、日中関係を悪化させて東アジアの軍事的な緊張を高めたが、2011年春には中東/北アフリカで体制転覆プロジェクトを始動させている。 リビアやシリアへ手先として送り込まれたのがアル・カイダ系武装集団であり、そこからダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)は派生した。2014年にはウクライナでネオ・ナチを使ってクーデターを実行しているが、そうした侵略プロジェクトはシリアやウクライナで予想外の反撃にあい、苦境に陥った。そうした中、始まったのが南アメリカでの政権転覆工作。これを「帝国の逆襲」と呼ぶ人もいる。 こうした逆襲を招く最大の理由は、アメリカ支配層と現地の手作が築いた支配システムを放置しているからだ。戦いが長くなれば、当然、資金力のある方が有利。そうした勢力は攻撃態勢を整えるため、国を上回る資金力をもつ私的権力の活動を認める「民主主義」を要求する。こうした「民主主義」の実態はファシズムであり、それを認めている限り、真の民主主義は実現されない。
2016.05.14
電子化が進むアメリカの投票マシーンに問題があることは以前から指摘されていたが、リー郡の選挙事務所などを実際にハッキングしてセキュリティの脆弱性を実証、それを公表したバンガード・サイバーセキュリティのデイビッド・マイケル・レビンらをフロリダの捜査当局が5月11日に逮捕した。この指摘がなければ脆弱性は放置され、投票結果を外部から操作することが可能だったが、そうした投票制度の根幹に関わる問題ではなく、その問題を明るみに出した人物を摘発したわけだ。 すでに本ブログでも紹介したが、DESI(ダイボルド・エレクション・システムズ/現在の社名はプレミア・エレクション・ソリューションズ)の機械が実際の投票数と違う数字を集計結果として表示することを大学などの研究者に指摘されている。ハート・インターシビックという会社はミット・ロムニー家との関係が明らかにされた。(例えば、ココ、ココ、ココ、ココ) 開票が迅速で便利という口実で電子化は推進されているのだろうが、その一方で投票結果を操作することも容易になる。紙を使う投票の場合は何らかの形で痕跡が残るが、電子化された投票では証拠を消すことも簡単。 現在、アメリカの支配層が推進しているTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)はアメリカを拠点とする巨大資本、つまり私的権力が国を支配する仕組みで、政府、議会、裁判所は無意味な存在になる。 何度も書いてきたように、ニューディール派を率いていたフランクリン・ルーズベルトは大統領時代の1938年4月29日、ファシズムについて次のように定義している。 「もし私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」 この定義に従うと、現在、西側ではファシズム化が進められているわけだ。ファシズム体制にあって「民意」は何の意味もないが、庶民に民主主義の幻影を見させるために選挙は続けるのだろう。民意を反映させず、民主主義の幻影を作り出すために投票結果をコントロールする仕組みは必要なのだろう。 勿論、投票内容を操作する前に、庶民の思考をコントロールする必要がある。そのために使われる仕組みが教育や報道。支配層は庶民から考える力を奪い、空になった脳に間違った情報を植え付け、権威に従う人間を作りだそうとしてきた。 近い将来、日本でも庶民の子どもは高等教育を受ける権利を奪われそうだ。学費を高騰させれば収入の少ない家庭の子どもは進学できなくなり、また政府の政策を研究するような学部を廃止させようと目論む人たちもいる。 学費の高騰は庶民に大きな経済的な負担を強いることになり、例えば、2012年にイギリスのインディペンデント紙が行った覆面取材の結果、学費を稼ぐための「思慮深い交際」を紹介する、いわゆる「援助交際」を仲介するビジネスの存在が明らかになった。ギリシャでは食費を稼ぐために女子学生が売春を強いられ、売春料金が大きく値下がりしていると伝えられているが、こうした傾向は各国に広がりつつある。 アメリカの上院議員で元ハーバード大学教授のエリザベス・ウォーレンによると、アメリカでは教育が生活破綻の原因になっているという。少しでもまともな教育を望むなら多額の授業料を払って私立へ通わせるか、公立の学校へ通わせるにしても不動産価格の高い住宅地に引っ越す必要があるという。低所得者の通う学校では暴力が蔓延して非常に危険な状態で、学習どころではないのだ。そうした経済的な負担に耐えられなくなり、破産する人が少なくないという。結局、経済的に豊かな愚か者が高学歴になり、優秀でも貧しい子どもは落ちこぼれていくことになる。 新自由主義の蔓延で状況は急速に悪化しているのだが、その前から教育とカネの問題はあった。トーマス・カポーティは『叶えられた祈り』(川本三郎訳、新潮文庫)の中でウォール街で働いているディック・アンダーソンなる人物に次のようなことを言わせている。 「二人の息子を金のかかるエクセター校に入れたらなんだってやらなきゃならん!」 エクセター校とは「一流大学」を狙う子どもが通う有名な進学校で、授業料も高いようだ。そうしたカネを捻出するため、「ペニスを売り歩く」ようなことをしなければならないとカポーティは書く。アメリカの中では高い給料を得ているはずのウォール街で働く人でも教育の負担は重いということだ。 支配層は庶民を洗脳するだけでなく、個人情報を収集、分析して「潜在的テロリスト」を見つけ出そうともしている。ACLU(アメリカ市民自由連合)によると、どのような傾向の本を買い、借りるのか、どのようなタイプの音楽を聞くのか、どのような絵画を好むのか、どのようなドラマを見るのか、あるいは交友関係はどうなっているのかなどを調べ、分析しようというのだ。こうした情報が集まれば、国民ひとりひとりの思想、性格、趣味などを推測できる。 個人の学歴、銀行口座の内容、ATMの利用記録、投薬記録、運転免許証のデータ、航空券の購入記録、住宅ローンの支払い内容、電子メールに関する記録、インターネットでアクセスしたサイトに関する記録、クレジット・カードのデータなどあらゆるデータの収集と分析を可能にするシステムを国防総省のDARPA(国防高等研究計画局)が開発してきたことも知られている。街中に設置されたCCTV、ICカード、GPS(全地球測位システム)が搭載された携帯電話は個人の動きを追跡するために利用でき、個人情報のデータバンクともリンクすることになるだろう。日本で「住民基本台帳」や「マイナンバー制度」が強引に導入された理由も、庶民を監視、コントロールすることにある。支配層が選挙をコントロールしようとするのは必然だ。
2016.05.13
バラク・オバマ米大統領が訪問するという広島へ、アメリカが64キログラムのウラニウム235を使った原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下したのは1945年8月6日のこと。その時に殺された人の数は兵士2万人以上のほか、市民が7万人から14万6000人と言われている。つまり死者数は9万人から16万6000人に達する。勿論、原爆が環境中に放出した放射性物質は、その後も人間を含む生物を殺し続けてきた。 アメリカが原爆の製造を計画する切っ掛けは1通の手紙だとされている。1939年8月にレオ・シラードが書き、アルバート・アインシュタインがサインしてフランクリン・ルーズベルト米大統領へ送られたもので、核連鎖反応を利用した爆弾が製造される可能性を指摘していた。 さらなる刺激はイギリスから来る。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいて核兵器の開発を目的とするプロジェクトが始まり、MAUD委員会が設立されていたが、その委員会メンバーが1941年8月にアメリカへ派遣され、原爆製造にアメリカの学者が興味を持つよう誘導することに成功したのだ。ルーズベルト大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を許可、イギリスとの共同開発が始まり、1942年に「マンハッタン」計画がスタートした。 核兵器の製造には原料が必要だが、ドイツは1940年の段階でユニオン・ミリエールというロスチャイルド系の会社がコンゴで採掘したウラニウム鉱石1200トンをすでに入手していた。 この頃、ドイツはヨーロッパを制圧、ソ連を侵略する寸前。1941年6月にドイツ軍はソ連に攻め込み、モスクワを目指す。「バルバロッサ作戦」の開始だ。この電撃作戦を始める直前、5月にルドルフ・ヘスがスコットランドへ単独飛行、1987年に刑務所で「自殺」するまでヘスは拘束され続けた。死亡当時のヘスは93歳だった。 イギリスでヘスは何を話し合ったのか不明だが、ドイツ軍がソ連を攻めている間、イギリスはドイツを攻撃しないという約束を取り付けることがイギリス行きの目的だったと推測する人もいる。実際、イギリスやアメリカはドイツ軍がソ連軍に敗れるまで傍観していた。 1941年7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲し、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、1942年8月にスターリングラード(現在のボルゴグラード)の攻防戦が始まった。当初はドイツ軍が優勢だったが、11月からソ連軍が反撃して約25万人のドイツ将兵は包囲され、43年1月にドイツ軍はソ連軍に降伏する。 スターリングラード攻防戦が決着した後、ドイツ側はアメリカの軍や情報機関に接触しはじめた。そうした動きの中心にいたのがウォール街の大物弁護士で戦時情報機関OSSの幹部としてスイスにいたアレン・ダレスだ。ドイツとアメリカで単独講和を実現、ソ連に対する戦争を始めようとしていたとも見られている。 こうした動きに抗議する書簡をソ連側はアメリカ政府へ送りつけるが、ルーズベルト大統領はそうした工作を否定する。ダレスたちは大統領に無断でドイツと接触していたのである。 ソ連軍が西へ向かって進撃するのを見て米英の支配層は慌てたようで、1943年7月にアメリカ軍を中心とする部隊がシチリア島へ上陸、9月にはイタリア本土に進軍してイタリアは無条件降伏、44年6月にはノルマンディーに上陸してパリを制圧した。そして1945年2月にウクライナ南部の都市ヤルタで会談が開かれている。 ドイツ軍がスターリングラードで壊滅した後、アメリカ軍はウラニウム鉱石の回収を開始、1200トンのうち31トンをフランスで、後に約1100トンをドイツで発見、マンハッタン計画に利用するため、アメリカのテネシー州オークリッジの施設へ運ばれた。約1100トンのウラニウムが発見された1945年4月12日にフランクリン・ルーズベルト大統領は執務室で急死している。 ルーズベルト大統領が急死した翌月、5月7日にドイツは降伏し、その直後にウィンストン・チャーチル英首相はJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令した。 その結果、作成されたのが「アンシンカブル作戦」。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、これは参謀本部の反対で実現していない。その直後にチャーチルは下野する。 その前、1945年初頭にドイツ軍の潜水艦は約540キログラムの2酸化ウランを運んでいた。目的地は日本だとされていたが、途中、アメリカの軍艦に拿捕されてしまう。日本側は知らなかったようだが、アドルフ・ヒトラーの側近だったマルチン・ボルマンは潜水艦の艦長に対し、アメリカの東海岸へ向かい、そこで2酸化ウランを含む積み荷をアメリカ海軍へ引き渡すように命令していたという。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)その結果、このUボートに乗り込んでいた日本人士官は自殺、積み荷はオーク・リッジへ運ばれたとされている。 1945年7月16日、アメリカはニューメキシコ州でプルトニウム原爆の爆発実験に成功する。いわゆるトリニティ実験だ。これと同じ型の原爆が8月9日に長崎へ投下されている。広島へ原爆が落とされたのはその3日前だった。 大戦後もチャーチルはソ連の破壊を目論んでいる。1946年3月にはアメリカのミズーリ州フルトンで演説、その中で「鉄のカーテン」が降りていると発言して「冷戦」の幕は上がったが、チャーチルの願いは「冷戦」でなく「熱戦」だった。1947年に彼はアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだと報道されている。 広島や長崎に対する原爆の投下を許可したのは、このトルーマン大統領。この人物はルーズベルト大統領と親しくなかった。1944年の大統領選挙でヘンリー・ウォーレスが脇の甘さをつかれて失脚、その代わりにはめ込まれたのだ。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支える富豪のひとりになる。
2016.05.12
アメリカやイスラエルは核兵器を恫喝の道具として使ってきた。その核兵器の開発にアメリカのバラク・オバマ大統領は積極的で、今後30年間に9000億ドルから1兆ドルを投入する計画を打ち出している。イスラエルは恐怖を増幅させる意味もあってか秘密主義を堅持、自国の核兵器開発を内部告発したモルデカイ・バヌヌを18年にわたって刑務所で監禁、その後も行動を厳しく規制している。5月18日にはまたまたバヌヌを起訴したという。イスラエルが原子爆弾を保有していることはバヌヌが告発する前から知られていたが、その数は推測を大きく上回っていた。さらに彼は水爆、中性子爆弾の製造も明るみに出している。中性子爆弾は保有しているだけでなく、使用しているという疑いもある。 アメリカには恫喝だけでなく、実際に核攻撃を目論んできた歴史がある。例えば、1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告にソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれ、54年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成、57年初頭には300発の核爆弾でソ連の100都市を破壊するという「ドロップショット作戦」が作成されている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012) その間、1953年に厚木基地へ核攻撃機AJが飛来、その半年後に横須賀へ入港した空母「オリスカニ」には核兵器を組み立てる能力があった。1950年代の後半になると、厚木基地へ核爆弾の組み立てを担当するチームも移動してきたという。 また、沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行されて暴力的な土地接収が始まり、55年の段階で「沖縄本島の面積の約13%が軍用地」になっているが、その背景にもアメリカの核攻撃戦略がある。1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーはドワイト・アイゼンハワー時代の60年、統合参謀本部(JCS)議長に就任、ソ連に対する先制核攻撃を目論むグループで中心的な役割を果たした。沖縄は核攻撃の前線基地になったと言えるだろう。 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーJCS議長やSACの司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに核兵器で奇襲攻撃を実行する予定だった。その頃にアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。この攻撃を成功させるためにもキューバを制圧し、ソ連の中距離ミサイルを排除する必要があった。 ジョン・F・ケネディ大統領に議長再任を拒否されたレムニッツァーは1963年1月から欧州連合軍(NATOの軍事機構)の最高司令官になるが、1961年に空軍参謀長に就任していたルメイはそのまま。ソ連に対する核攻撃計画は進められていた可能性が高い。 その後もアメリカは先制核攻撃のチャンスをうかがい、アメリカの属国と化していたロシアが21世紀に入って再独立した後、2006年にはキール・リーバーとダリル・プレスがフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)で、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できると書いている。ネオコン/シオニストはこう考えていたのだろう。日本が「集団的自衛権」を行使するということは、アメリカが計画している先制核攻撃に参加することを意味する。 安倍晋三政権が集団的自衛権を使えるようにすることで大筋合意したのは2014年6月のことだが、その年の「平和宣言」で松井一実市長は「集団的自衛権」に触れていない。この問題に触れなかったということは、核戦争の勃発を危惧していないのだろう。核兵器の廃絶を本当に望んでいるとは思えない。 2015年6月1日、安倍首相は赤坂の「赤坂飯店」で開かれた官邸記者クラブのキャップの懇親会で「安保法制は、南シナ海の中国が相手なの」と口にしたと伝えられている。この発言にも松井市長は反応していない。 言うまでもなく、日本にも核兵器開発の歴史がある。第2次世界大戦中には理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究と海軍が京都帝大と検討していたF研究が進められていた。陸軍は福島県石川郡でのウラン採掘を決め、海軍は上海の闇市場で130キログラムの2酸化ウランを手に入れて1944年には濃縮実験を始めたという。 1945年に入るとドイツは約540キログラムの2酸化ウランを潜水艦(U234)で運ぼうとしたが、アメリカの軍艦に拿捕されてしまう。日本側は知らなかったようだが、アドルフ・ヒトラーの側近だったマルチン・ボルマンは潜水艦の艦長に対し、アメリカの東海岸へ向かい、そこで2酸化ウランを含む積み荷をアメリカ海軍へ引き渡すように命令していたという。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)その結果、このUボートに乗り込んでいた日本人士官は自殺、積み荷はオーク・リッジへ運ばれたとされている。 大戦後、1955年12月から56年3月にかけて調査団が欧米の原子力事情を調査、その間に原子力基本法が成立し、原子力委員会が設置された。4月には通産省工業技術院に原子力課が新設された。一方、経団連は「原子力平和利用懇談会」を発足させている。 NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した佐藤栄作首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。1967年には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が設立され、69年に日本政府は西ドイツ政府に対して核武装を持ちかけた。 この提案を西ドイツは拒否するものの、日本側は核武装をあきらめない。10年から15年の期間での核武装を想定、核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット技術開発、誘導装置開発などについて調査、技術的には容易に実現できるという結論に達している。 原爆の原料として考えられていた高純度のプルトニウムは、日本原子力発電所の東海発電所で年間100キログラム余り、つまり長崎に落とされた原爆を10個は作れると見積もっていた。 1977年になると東海村の核燃料再処理工場(設計処理能力は年間210トン)が試運転に入るのだが、山川暁夫は78年6月に開かれた「科学技術振興対策特別委員会」で再処理工場の建設について発言、「核兵器への転化の可能性の問題が当然出てまいるわけであります」と主張している。実際、ジミー・カーター政権は日本が核武装を目指していると疑い、日米間で緊迫した場面があったという。 しかし、1981年にロナルド・レーガンが大統領に就任するとアメリカ政府の内部に日本の核武装計画を支援する動きが出てくる。東海再処理工場に付属する施設として1995年に着工されたRETF(リサイクル機器試験施設)はプルトニウムを分離/抽出するための施設だが、この施設にアメリカ政府は「機微な核技術」、つまり軍事技術が含まれていた。 調査ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、福島第1原発が過酷事故を起こした当時、日本には約70トンの兵器級プルトニウムがあったという。自らが生産した可能性もあるが、外国から持ち込まれた可能性もある。トレントに限らず、アメリカの情報機関は日本が核兵器を開発してきたと確信している。 オバマ大統領が広島を訪問すれば核兵器廃絶で何らかの進展があったかのような気分になるかもしれないが、その実態は深刻な度合いを増している。その中に日本が含まれていることも間違いない。 東電福島第一原発が「過酷事故」を起こす3日前、2011年3月8日付けのインディペンデント紙は東京都知事だった石原慎太郎のインタビュー記事を掲載した。それによると、外交力とは核兵器なのであり、核兵器を日本が持っていれば中国は尖閣諸島に手を出さないだろうと石原は発言したという。
2016.05.11
バラク・オバマ米大統領が5月27日に広島を訪問すると騒いでいる人たちがいる。「気分は核兵器なき世界」なのだろう。その目の前でアメリカ政府は全面核戦争の危険性を高めている。 オバマ大統領は2009年4月5日にプラハで核兵器のない世界を目指すと演説したが、自分が生きている間には実現しないだろうという注釈付き。その一方で新たに核兵器保有国が現れることは許さないと釘を刺している。 それだけでなく、2014年9月21日には、今後30年間に9000億ドルから1兆ドルを投入する計画をオバマ政権は持っていると報道された。つまり、核兵器を既存の保有国が独占し続けるとオバマ大統領は宣言しているのだ。 2003年3月にアメリカはイラクを先制攻撃、サダム・フセイン体制を破壊した。今でもアメリカの支配下にあるが、攻撃の口実は「大量破壊兵器」。攻撃の2カ月前、国家安全保障問題担当補佐官だったコンドリーサ・ライスはキノコ雲という決定的な証拠を望まないと語り、今にもフセインがアメリカを核攻撃するかのような印象を広めていた。 こうした主張が正しくなかったことは明確になっている。不正確な情報を得ていたことによる間違いではなく、嘘を承知で宣伝していたのだ。1991年の段階でネオコン/シオニストはイラク、シリア、イランを5年以内に殲滅するプランを持っていたことを本ブログでは何度も書いてきたが、そのプランを実行するために大量破壊兵器、あるいは核兵器が口実として持ち出されたのである。 1933年2月にナチスは国会議事堂に放火、独裁体制を樹立する口実に利用したが、同じようにアメリカの好戦派は2001年9月の出来事を使った。言うまでもなく、ニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)に対する攻撃である。 その攻撃から10日後にペンタゴンを訪れたウェズリー・クラーク元欧州連合軍最高司令官によると、ドナルド・ラムズフェルド国防長官の周辺でイラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そしてイランを先制攻撃する計画ができあがっていることを知ったという。こうした情報を統合参謀本部の軍人が口にしたのは、国防長官たちの計画に賛成していなかったからだろう。 イラクが核兵器を開発しているという話のひとつとして、ニジェールからイエローケーキ(ウラン精鉱)をイラクが購入するというものがあった。その話の発信源はイタリアの情報機関SISMIだと言われている。 その情報に関する調査をCIAから依頼されたのがジョセフ・ウィルソン元駐ガボン大使だった。2002年2月に現地で調査、その情報が正しくないことを確認した。文書をチェックしたIAEA(国際原子力機関)は、基礎的な事実関係を間違えている稚拙な偽物だと見抜いている。 しかし、2003年の一般教書演説で、ジョージ・W・ブッシュ大統領はフセインがアフリカから相当量のウランを入手しようとしていると発言、この演説に驚いたウィルソンはニューヨーク・タイムズ紙で事実を公表した。 その告発記事が出た8日後、ニューヨーク・タイムズ紙のコラムでロバート・ノバクはウィルソンの妻、バレリー・ウィルソン(通称、バベリー・プレイム)がCIAの非公然オフィサーだという事実を暴露している。 「9/11」から3カ月を経た2001年12月にラムズフェルド長官は、統合参謀本部の作戦部長だったグレゴリー・ニューボルド将軍をオフィスに呼びつけ、イラク侵攻作戦について報告させる。 ニューボルドによると、その場にいたのはラムズフェルドのほかにポール・ウォルフォウィッツ、統合参謀本部のリチャード・マイアーズ議長、ピータ・ペイス副議長、そして後にCIA長官となるウィリアム・ハインズ。ハインズの後ろ盾になっていた人物がチェイニー副大統領の顧問を務めていたデイビッド・アディントンだ。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007) アメリカのイラク侵略にイギリスも同調した。当時、イギリスの首相だったトニー・ブレアーは2002年3月の時点でアメリカによるイラク侵攻に参加することを決めていたことが今ではわかっている。ジョージ・W・ブッシュ政権で国務長官を務めたコリン・パウエルが2002年3月28日に書いたメモの中で、ブレア首相はアメリカの軍事行動に加わると書かれていたのだ。このメモが書かれた1週間後、米英両国の首脳は会談している。7月5日付けのニューヨーク・タイムズ紙はアメリカの対イラク軍事作戦の内容を伝えていた。 しかし、アメリカでは国防長官を含むネオコンのプランに国防総省の幹部が反対していた。その対立をトーマス・リックスが2002年7月28日付けのワシントン・ポスト紙に書いている。2002年10月にはニューボルド海兵隊中将が作戦部長を辞している。 イラク侵略は予定より1年ほど遅れて始まるが、その直前、陸軍参謀総長だったエリック・シンセキが議会でラムズフェルドの戦略を批判、2006年4月になるとニューボルド中将がタイム誌に「イラクが間違いだった理由」というタイトルの文章を書き、ブッシュ政権を批判している。 その記事が出る直前、アンソニー・ジニー元中央軍司令官もテレビのインタビューで国防長官を批判した。ジニー将軍も一貫してブッシュ政権のイラク攻撃を批判していた。このほか、2006年3月にはポール・イートン少将、4月にはジョン・バチステ少将、チャールズ・スワンナック少将、ジョン・リッグス少将もラムズフェルド長官を批判している。 ブレア英首相はイラク侵略を正当化するため、フセイン政権は45分で大量破壊兵器を使用できると主張していたが、開戦から2カ月後、BBCのアンドリュー・ギリガンはラジオ番組で「45分話」を主張する「9月文書」は粉飾されていると語ったている。さらにサンデー・オン・メール紙でアラステアー・キャンベル首席補佐官が情報機関の反対を押し切って「45分話」を挿入したともギリガンは主張した。 ギリガンが「45分話」の疑惑を語って間もなく、彼の情報源が国防省で生物兵器を担当しているデイビッド・ケリーだということがリークされ、ケリーは7月15日に外務特別委員会へ呼び出される。その2日後の17日にケリーは変死した。その後、2004年10月に「45分話」が嘘だということを外務大臣のジャック・ストローは認めている。 2006年になると、フォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)はロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとするキール・リーバーとダリル・プレスの論文を掲載している。 1991年12月にソ連が消滅した後、ボリス・エリツィン体制のロシアはアメリカ支配層の属国だったが、21世紀に入るとウラジミル・プーチンがロシアを再独立させていた。そのロシアも脅せば屈服、場合によっては先制核攻撃で殲滅できるということだ。 プラハでオバマ大統領が核兵器のない世界を目指すと発言した2年後、アメリカはリビアやシリアに対する軍事侵略を始め、2014年にはウクライナでクーデターを実行、ロシアや中国に対して軍事的な圧力を強めている。 これまで買収と恫喝で多くの国を屈服させてきたアメリカの支配層はロシアや中国に対しても同じ手口を使ったが、効果はない。そのことに気づいた支配層の一部はネオコンから離れはじめたようだが、ネイコンは戦術を変えようとしていない。中東にしろ、東ヨーロッパにしろ、挑発を止めていない。全面核戦争も辞さないという姿勢だ。そのネオコンの好戦的な戦略に引きずられたままオバマは任期を終えようとしている。
2016.05.11
サウジアラビアが混迷の度を深めている。石油相場の急落で財政赤字になり、支配システムが揺らぎ始め、王室で内紛が始まっているのだ。同国の2014年における財政赤字は390億ドル、15年には980億ドルへ膨らんだという状況に変化がなければ、同国の金融資産は5年以内に底をつくと予測されている。そうなるとドルを支えているペトロダラーの仕組みが崩壊、投機市場も収縮して金融パニックになる可能性があり、アメリカ支配層にとっても危機的な状況だ。 石油相場が下がり始めたのは2014年の夏で、9月11日にアメリカのジョン・ケリー国務長官とサウジアラビアのアブドラ国王が紅海の近くで会談してから加速度的に下げ足を速めた。その会談で原油相場を引き下げる謀議があったとも言われている。相場引き下げでロシアを揺さぶろうとしたというのだ。 しかし、石油相場の下落と並行してロシアの通貨ルーブルも下がり、ルーブルでの決済では大きな変化がなく、アメリカ支配層が望んだような効果はなかった。むしろ、アメリカのシェール・ガス/オイル業界が壊滅的なダメージを受け、サウジアラビアも支配体制が揺らぐことになっている。 そうした中、サウジアラビアでは後継者争いが激しくなった。現在の国王はサルマン・アル・サウドだが、すでに引退状態。息子のホハマド・アル・サウド国防相に嗣がせたいようだが、ホマメド・ビン・ナイェフ皇太子が国王代理として切り盛りしている。そこで抗争が始まったわけだ。 サウド国防相は軍や国家警備隊を掌握しているという強みを持っているが、イエメンとの戦争を始めたのも彼。サウジアラビアを急速に衰退させている張本人とも言える人物である。 経済政策については、アメリカのコンサルタント会社マッキンゼーのアドバイスに従って新自由主義的な経済政策に傾斜、国をヘッジファンド化しようとしている。アメリカの巨大金融資本にとって都合の良い政策だ。経済的に最も強く結びついている中国との関係をさらに発展させるという手もあるのだが、アメリカの支配層は激しく反発するだろう。 それに対し、ナイェフ皇太子はサウド国防相の権力掌握を防ぐために部族間の争いを演出しようと考え、今年1月に部族の指導者たちと秘密会談を開いたとも言われている。現体制が崩壊した場合、ワッハーブ派というカルトで洗脳されているサウジアラビア人が暴走、中東/北アフリカ情勢は収拾がつかなくなる可能性がある。これまで西側が供給してきた武器/兵器が西側に対しても使われることも考えられるだろう。 1月の後半から2月の前半にかけて、イスラエルの高官が率いる代業団が秘密裏にサウジアラビアの首都リアドを訪問し、サウド国王をはじめとする王室のメンバーと会談したとも伝えられている。 その後にサウジアラビアのアデル・アル・ジュベイル外相がハリド・アル・フマイダン総合情報庁(GIDまたはGIP)長官を伴ってイスラエルを極秘訪問、シリアやレバノンでの軍事作戦やイランに対する工作などが話し合われたという。話し合いの中でサウジアラビア側はパレスチナでイスラエルが何をしようと気にしないとも口にしたようだ。 サウジアラビアの現体制が崩壊した場合、石油の供給という問題だけでなく、アメリカを支えてきた金融システムが崩壊する可能性が出てくる。すでに生産能力をなくしているアメリカは破綻国家になると推測する人もいる。 サウジアラビアの支援がなくなった場合、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン体制も崩壊、シリアのバシャール・アル・アサド政権を倒すというアメリカ(ネオコン/シオニスト)、イスラエル、サウジアラビアの目論みも破綻する。 シリア侵略のベースになったプランは1992年初頭に国防総省のDPG草案という形で作成された世界制覇プロジェクト、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」。アメリカを「唯一の超大国」として君臨させて世界を制圧するため、旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようというものだった。 1995年2月にジョセフ・ナイ国防次官補が「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を公表してから日本の「エリート」は自国をアメリカの戦争マシーンに組み込むため、形振り構わず暴走してきた。彼らに見えているのは目先の個人的な利益だけだ。その「エリート」には政治家や官僚だけでなく、大企業経営者、権威を名乗る学者、マスコミの記者や編集者なども含まれている。 アメリカの支配層は暴力を駆使して中央突破を図るかもしれないが、それは人類にとって非常に危険なこと。ネオコンをはじめとする好戦派は相手が核戦争を恐れて屈服すると信じているかもしれないが、ロシアや中国が屈服するとは思えない。西側にネオコンを押さえ込む理性と力が残っていることを期待したい。
2016.05.10
イスラエルが世界有数の核兵器保有国だということは公然の秘密だ。その秘密を内部告発したモルデカイ・バヌヌを沈黙させるため、イスラエルの検察当局は5月18日にまたまた起訴したという。 バヌヌは1977年から8年間、技術者としてイスラエルの核施設で働いた経験があり、その経験に基づいて86年10月に同国の核兵器開発をイギリスのサンデー・タイムズ紙で内部告発、その中でイスラエルが保有する核弾頭の数は200発以上だとしていた。 現在、実戦配備されている核弾頭の数はアメリカが2104発(保有総数4804発)、ロシアが1600発(同4480発)、イギリスが160発(同225発)、フランスが290発(同300発)だという。実戦配備の実態が公表されていない国々の場合、中国は250発、インドは110発、パキスタンは120発、朝鮮は最大で10発。勿論、イスラエルも核兵器を保有していることは確実だ。 ディモナにある核施設でバヌヌが担当していたのは原爆用のプルトニウム製造。生産のペースから計算すると、その当時にイスラエルが保有していた原爆の数は推定で150から200発。水爆の製造に必要な物質、リチウム6やトリチウム(三重水素)の製造もバヌヌは担当、別の建物にあった水爆の写真を撮影したという。また、イスラエルは中性子爆弾の製造も始めていたとしている。中性子爆弾は保有しているだけでなく、使用しているという噂もある。 彼が情報を最初に持ち込んだメディアはオーストラリアのシドニー・モーニング・ヘラルド紙だが、掲載を拒否される。その一方で同紙はバヌヌの話を同国の治安機関ASIO(オーストラリア安全保障情報機構)に通報、その情報はさらに対外情報機関のASIS(オーストラリア安全保障情報局)へ伝えられ、そこからイスラエルの情報機関へ流れた。 エイジ紙にも掲載を拒否され、オーストラリアを諦めてイギリスへ向かい、そこでサンデー・タイムズ紙とデイリー・ミラー紙に接触する。デイリー・ミラー紙の国外担当編集者のニコラス・デービスはイスラエルのエージェントで、当然、イスラエルの情報機関へ情報は伝わった。 イスラエルの情報機関モサドのロンドン支局長はイギリスの治安機関MI5にバヌヌ監視の協力を要請、MI5はイギリス国内で政治的、あるいは外交的問題を引き起こさないという条件で協力を約束した。 バヌヌを拉致することにしたモサドはMI5とのトラブルを避けるため、彼をローマへ誘き出すことにする。そこで登場してくるのが「シンディ・ハニン・ベントフ」と名乗る女性だ。この女性の罠にかかり、バヌヌはローマへ旅行することになる。そこでモサドに拉致された。バヌヌが押し込められた大きな箱には外交特権で調べられることはなく、ローマからアシュドッドへ運ばれている。 イスラエルでバヌヌは裁判に掛けられ、1988年3月に懲役18年の判決を受け、18年にわたって刑務所に入れられた。サンデー・タイムズ紙が記事の掲載を決定したのはバヌヌが拉致された数日後のことだ。 バヌヌは満期を終えて刑務所を出ても「自由の身」にはなっていない。厳しい監視下に置かれ、移動する場合、当局への報告義務も課されている。取材に応じることも厳しく制限されている。 ところで、イスラエルの核兵器開発は1952年に始まったと言われている。この年、IAEC(イスラエル原子力委員会)が国防省の下に設置され、イスラエルにおける核兵器開発の父とも言われる核科学者のエルンスト・ダビッド・ベルクマンが初代の委員長に選ばれている。 核兵器の開発は少数の富豪、例えばアメリカのエイブ・フェインバーグやフランスのエドムンド・ド・ロスチャイルドたちの支援を受けていた。フェインバーグはベングリオンの信頼厚い人物で、資金を提供するだけでなく、ロビー活動を展開、ハリー・トルーマン米大統領のスポンサーとしても知られている。 フランスの少なからぬ著名な科学者は技術面からイスラエルの核兵器開発に協力していた。そのひとりがベルトランド・ゴールドシュミットで、ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド(イギリスのロスチャイルド家)の娘と結婚している。核兵器の開発ではフランシス・ペリンも重要な役割を果たした。ペリンはCEA(原子力代替エネルギー委員会)で1951年から70年まで委員長を務めている。 1956年にはシモン・ペレスがフランスでシャルル・ド・ゴールと会談し、フランスは24メガワットの原子炉を提供することになり、1957年にはフランスからイスラエルへ技術者が送り込まれている。 1958年になるとアメリカの情報機関はイスラエルが核兵器を開発している可能性が高いことを察知、CIAの偵察機U2がネゲブ砂漠のディモナ近くで何らかの大規模な施設を建設している様子を撮影、それは秘密の原子炉ではないかという疑惑を持っている。 そこで、CIA画像情報本部の責任者だったアーサー・ランダールはドワイト・アイゼンハワー大統領に対してディモナ周辺の詳細な調査を行うように求めたのだが、それ以上の調査が実行されることはなかった。 核兵器の開発には重水が必要だったが、この重水をイスラエルはノルウェーからイギリス経由で秘密裏に入手する。その取り引きについてノルウェーのアメリカ大使館で筆頭書記官だったリチャード・ケリーは1959年の段階で国務省へ報告している。この書記官はアメリカの国務長官を務めているジョン・ケリーの父親だ。 1960年3月にコンラッド・アデナウアー独首相はニューヨークでベングリオン首相と会い、核兵器を開発するため、61年から10年間に合計5億マルク(後に20億マルク以上)を融資することを決めた。後にドイツは核ミサイルを搭載できるドルフィン型潜水艦をイスラエルへ提供することになる。 アイゼンハワーの次に大統領となったジョン・F・ケネディはイスラエルのダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙を送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告している。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)そのケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺され、この警告は実行されていない。 フランス、ドイツ、アメリカといった国々の支援を受けて核兵器を開発したイスラエルが「核」で日本と結びついていることを2011年3月11日の地震は明らかにした。この地震が原因で東電福島第一原発は「過酷事故」を起こし、放射性物質で環境を汚染し続けているのだが、事故の直後、イスラエルのマグナBSPがセキュリティ・システムや原子炉を監視する立体映像カメラを原発内に設置していたとエルサレム・ポスト紙やハーレツ紙が報道ているのだ。事故後に残った50名には、事故の約3週間前にイスラエルでシステムに関する訓練を受けた2名も含まれていたという。
2016.05.09
ドイツのビルト紙はトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領の子どもたちによる蓄財を問題にしている。この親子の好戦性、強欲さは知られている話。記事が驚くような事実を明かしているわけではないが、西側のメディアがネオコンやサウジアラビアと手を組んできた人物を批判していることには興味を覚える。 ところで、エルドアン大統領の年収は5万ユーロ(約5万7000ドル/600万円)。ところが、彼の息子のひとりであるアーメトの資産は約8000万ドルで、その弟であるビラルはシリアやイラクで盗掘された石油を売りさばくビジネスに参加して巨万の富を手に入れたという。イタリアに住んでいるビラルは現在、同国の当局からマネー・ロンダリングで捜査の対象になっている。 ビラルが所有するBMZ社が盗掘石油を輸送しているのだが、その背後に存在しているジェネル・エネルギー社はジャージー島に登記されている会社で、ジェネル・エネルジ・インターナショナルが所有、この投資会社はバラレスという投資会社に買収された。言うまでもなく、ジャージー島はロンドンを中心とするタックス・ヘイブン網に属している。 バラレスはアンソニー・ヘイワード(元BP重役)、金融資本の世界に君臨しているナサニエル・ロスチャイルド、その従兄弟にあたるトーマス・ダニエル、そして投資銀行家のジュリアン・メセレルによって創設された。 ちなみに、ナサニエル・ロスチャイルドの父親、ジェイコブ・ロスチャイルドが戦略顧問として名を連ねているジェニー社は、イスラエルが不法占拠しているゴラン高原で石油開発を目論んでいる。ロスチャイルド親子はシリアからイラクにかけての石油利権に目をつけていると言えるだろう。 イラク、リビア、シリア、イランなどが侵略されている理由はいくつか存在するが、そのひとつは石油利権であり、その中にイギリスのロスチャイルドが関係している。侵略の手先にアル・カイダ系武装勢力やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)が使われていることは本ブログでも書いてきたが、そうした勢力に西側諸国が事実上、手を出せなかった一因にはそうした背景がある。 そうした利権構造の中にエルドアン親子は食い込み、私腹を肥やしてきたのだが、昨年9月30日にロシア軍は本当にアル・カイダ系武装集団やダーイッシュを攻撃、司令部、戦闘部隊、武器/兵器庫だけでなくトルコからシリアへつながる兵站線を寸断、盗掘石油の関連施設や輸送車両も破壊してきた。侵略勢力は停戦を利用して増援部隊を送り込み、携帯型防空システムのMANPADを含む武器を供給してテコ入れを図っているが、シリア政府軍の優位に変化はないようだ。 その一方、トルコのエルドアン政権は難民をEUへ送り込んで揺さぶりをかけ、カネを巻き上げることに成功した。当然、これからも強請り続けるつもりだろう。トルコの背後にはロシア制圧を目指すネオコンなどアメリカの好戦派が存在、そうした勢力に支えられたヒラリー・クリントンが民主党の大統領候補になりそうだ。 アンゲラ・メルケル独首相などEUのリーダーたちが脅しに屈した理由はいろいろ言われているが、ドイツのビルト紙がエルドアン親子の暗部を採りあげたことは興味深い。すでにトルコ国内は不安定化しているが、エルドアン親子を切り捨てようとする動きがありそうだ。5月5日にはアフメト・ダブトオール首相が辞意を表明したが、ポスト・エルドアンを狙ってるのかもしれない。
2016.05.08
トルコで最も歴史のある新聞だというジュムフリイェト紙のジャン・ドゥンダル編集長とアンカラ支局長のエルデム・ギュルに対し、「国家機密」を漏らしたという理由で懲役5年以上の判決が言い渡された。判決の直前、裁判所の前で編集長は銃撃されている。 日本ではA紙を含む「プロパガンダ紙」がジュムフリイェト紙の前に「左派紙」という枕をつけて同紙の「偏向」を臭わせているが、イスラム色強い保守派の新聞とされるザマン紙の経営権をトルコ政府は握り、編集幹部を一新させている。レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は言論を封殺、反民主主義的な体制を樹立させようとしているのであり、「左派」とか「右派」は全く意味がない。日本のような洗脳体制が夢なのかもしれない。 ジュムフリイェト紙の編集者が昨年11月26日に逮捕された理由は、シリアを軍事侵略しているアル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)へ武器/兵器を含む物資がトルコから運び込まれ、その背後にトルコの情報機関MITが存在していることを伝えたからだ。「反体制派」へ「武器密輸」しているという話を報道したのではなく、侵略軍への兵站線の存在に触れたのである。 報道の元になった出来事が2014年1月に起こっている。武器/兵器を含む物資をシリアへ運び込もうとした複数のトラックをトルコ軍のウブラフム・アイドゥン憲兵少将、ハムザ・ジェレポグル憲兵中将、そしてブルハネトゥン・ジュハングログル憲兵大佐が摘発したのだが、この出来事を映像付きでジュムフリイェト紙は報道したのである。単なる「疑惑」を伝えたのではない。なお、この軍幹部は編集者より2日遅れで逮捕された。 調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュが2007年3月5日付けニューヨーカー誌に書いたレポートによると、アメリカ、サウジアラビア、イスラエルの3カ国は、シリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作をその時点で開始していた。 その16年前、1991年にアメリカの国防次官だったポール・ウォルフォウィッツは5年以内にイラク、イラン、シリアを殲滅すると口にしていたとウェズリー・クラーク元欧州連合軍最高司令官は語っている。予定より遅れたが、イラクは破壊、今はシリアに取りかかり、ネオコン、イスラエル、サウジアラビアなどは今でもイランを攻撃しようと目論んでいる。 シリアを侵略し、バシャール・アル・アサド体制を転覆させ、国を乗っ取るというプランにはそうした歴史がある。エルドアン大統領はサウジアラビアから資金援助を受け、大きな影響力を受けていると言われ、この2カ国はシリア侵略を執拗に主張している。その背後にいるのは、勿論、ネオコンだ。 2011年3月にシリア侵略が始まった当時からトルコは侵略勢力の拠点で、兵站線がトルコからシリアへ延びていることも知られていた。これは西側のメディアでさえ報道している。例えば、ドイツのDWは2014年11月、トルコからシリアへ戦闘員が送り込まれ、武器、食糧、衣類などの物資がトラックで供給されている事実を報じている。その大半の行き先がアル・カイダ系武装集団やダーイッシュだということも公然の秘密だった。 イランのテレビ局プレスTVの記者だったセレナ・シムもこうした人や物資の動きを調べていたひとりで、トルコからシリアへダーイッシュの戦闘員を運び込むためにWFP(世界食糧計画)やNGO(非政府組織)のトラックが利用されている事実をつかみ、それを裏付ける映像を入手したと言われている。そのシムは2014年10月19日に「交通事故」で死亡したが、その前日、MITから彼女はスパイ扱いされ、脅されていたという。 物資を供給している相手が「穏健派」だという言い訳も成り立たない。そうした武装勢力が事実上、存在しないことはアメリカ軍の情報機関DIAも2012年の段階で認識、バラク・オバマ大統領へ報告している。 DIAが2012年8月に作成された報告書では、シリア政府軍と戦っている戦闘集団の主力はAQI、サラフ主義者(ワッハーブ派)、ムスリム同胞団であり、西側、ペルシャ湾岸諸国、そしてトルコの支援を受けているとされている。1970年代の終盤からアメリカ支配層の手先として戦ってきた「イスラム過激派」の主力はサラフ主義者であり、歴史的にムスリム同胞団はサラフ主義者の影響を強く受けている。 そもそも、アル・カイダとはCIAから訓練を受けた「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイルで、いわば傭兵の登録リスト。これは1997年から2001年までイギリスの外相を務めたロビン・クックが2005年にガーディアン紙で明らかにしている。ちなみに、「アル・カイダ」とはアラビア語で「ベース」を意味、「データベース」の訳としても使われている。 DIAの報告が作成された2012年の初め、アメリカのバラク・オバマ政権とトルコのエルドアン政権はアサド政権を打倒するための工作に関して秘密合意に達したとハーシュは書いている。トルコ、サウジアラビア、カタールが資金を提供、アメリカのCIAがイギリスの対外情報機関MI6の助けを借りてリビアからシリアへ武器/兵器を送ることになったという。 安倍晋三首相と友好的な関係にあるらしいエルドアン大統領は自分たちの犯罪的な行為を「国家機密」と規定、それを明らかにするジャーナリストや憲兵を逮捕、刑務所に送り込みつつある。安倍政権が「特定秘密の保護に関する法律」を成立させた目的もここにあるのだろう。類は友を呼ぶ?
2016.05.07
イラクの首都バグダッドには要塞化された地域、いわゆる「グリーン・ゾーン」が存在し、そこにあるアメリカ大使館がイラクにおける事実上の最高意思決定機関になっている。その地域にムクタダ・アル・サドルの支持者数百名が入り、議会ビルなどを占拠した。政策の破綻やアメリカによる軍事力の行使に対する抗議活動の一環だという。 ヌーリ・アル・マリキは首相時代の2014年3月、サウジアラビアやカタールが反政府勢力へ資金を提供していると批判、アメリカやその同盟国に批判的な姿勢を見せていた。イラクをアメリカが軍事侵略してサダム・フセイン体制を倒した理由のひとつは完全な傀儡政権、アメリカ支配層の命令にただ従うだけで批判などしない政権を樹立することにあったが、それは成功していなかった。 2014年4月にイラクで行われた議会選挙で「法治国家連合」が全328議席のうち92議席を獲得、サドルが率いる勢力の34議席とイラク・イスラム革命最高評議会の31議席を加えたシーア派連合は157議席に達し、本来ならマリキが次期首相に指名されるはずだったが、アメリカの圧力でフアード・マアスーム大統領はアル・アバディを首相に据えた。 アメリカ軍がアル・カイダ系武装集団やダーイッシュ(IS、ISIS、ISILなどとも表記)を本気で攻撃していないどころか、支援していることはアバディも快くは思っていなかったようで、昨年9月30日にロシア軍がシリアでそうした武装集団を本当に攻撃、大きな成果を上げるのを見てロシアへ支援を要請しようとした。 アメリカ政府は慌てたようで、10月20日にはジョセフ・ダンフォード米統合参謀本部議長がイラクへ乗り込み、アメリカを選ぶのかロシアを選ぶのかと恫喝、イラク政府からロシアへ支援要請をしないという言質をとったようだ。中東で信頼されなくなっているアメリカとしては脅し(恐怖政策)て従わせるしかない。 しかし、脅しには限界がある。アメリカ軍が侵略、占領を始めた当初の一時期は抵抗していたものの、その後は静かにしていたサドルの支持者が活発に動き始めている。3月にはグリーン・ゾーンで座り込みを実施、そして今回の占拠だ。ロシアのシリアにおける軍事作戦を見て、アメリカが圧倒的な力を持っているわけでないことを知ったことも影響しているだろう。 そうした中、イラクの治安当局は南部の都市ナジャフで「アメリカ人ジャーナリスト」を拘束した。伝えられているところによると、その女性はバラス・タミル・アビバというイスラエルの情報機関員で、テル・アビブ出身。現地の裁判官はアメリカの圧力で釈放するように命じるが、内務大臣は拘束し続け、バグダッドへ移送するように指示した。そこでアメリカはイラク政府の高官に対して強い圧力を加え、今は釈放されてアメリカ軍に保護されている。 イラクでイスラエルの情報機関が活動、それをアメリカが守っていることを確認させる出来事だが、昨年10月にはダーイッシュと行動を共にしていたイスラエル軍のユシ・オウレン・シャハク大佐が拘束されていることを考えると、アビバも単に情報を収集していただけではなかった可能性がある。 アメリカ軍は2014年9月23日にシリアで空爆を始めたが、その攻撃を現地で取材していたCNNのアーワ・デイモンは翌朝、ダーイッシュの戦闘員は空爆の前に極秘情報を入手し、攻撃の15から20日前に戦闘員は避難して住民の中に紛れ込んでいたと伝えていた。その後もアメリカが主導する連合軍はダーイッシュに対する攻撃を続けたことになっているが、実際には攻撃せず、「誤投下」で武器/兵器を含む物資を供給している。 これはイラクでも起こっていることで、イランの義勇兵組織、バスィージのモハマド・レザ・ナクディ准将は2015年1月5日、ダーイッシュが必要としている兵器を含む物資をアメリカ軍機は投下、直接的に武装集団を支援していると語っている。アメリカ軍がダーイッシュへ投下した物資の一部をイラク軍は回収しているが、アメリカ側はそれを「誤投下」だと言い張ってきた。ナクディ准将はダーイッシュの司令部がイラクのアメリカ大使館にあるとも主張している。 ダーイッシュを実際に指揮している、あるいは生みの親はアメリカ陸軍の退役少将で心理戦の専門家であるポール・バレリーだとする真偽不明の話も流れていた。 1980年代、大佐だったバレリーは第7心理作戦群を指揮、そのグループに所属していたマイケル・アキノ中佐は退役後に悪魔崇拝だという「セトの神殿」なるセクトを率ることになる。アキノは軍隊時代から悪魔教にのめり込み、子どもの性的虐待に関与した疑いから陸軍犯罪捜査コマンドの取り調べを受けた経験がある。アメリカ軍にはカルトの信者が少なくないが、その中に悪魔教も含まれ、軍の上層部にも信者はいて、ダーイッシュを支持していると言われている。 キリスト教系カルトの信者にもダーイッシュを支持する人がいる。カルトの信者として有名な軍人には、例えば、ネオコン/シオニストのステファン・カムボーンが右腕として頼り、ジョージ・W・ブッシュ政権で国防副次官を務めたウィリアム・ボイキン中将、あるいは傭兵会社のブラックウォーター(現在の名称はアカデミ)を創設したエリック・プリンスも含まれる。ふたりとも特殊部隊に所属していた。 ロナルド・レーガンもキリスト教系カルトの信者で、彼と同じように、新約聖書のヨハネ黙示録で語られている最終戦争を全面核戦争だと信じる人が少なくない。(グレース・ハルセル著、越智道雄訳、『核戦争を待望する人びと』、朝日選書、1989年)ネオコンが軍事的な緊張を高め、ロシアとの全面核戦争が勃発する可能性を高めても彼らは意に介さない。 フォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載されたキール・リーバーとダリル・プレスの論文「未来のための変革と再編」は、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できると主張、シーモア・ハーシュは2007年3月5日付けのニューヨーカー誌に、アメリカがサウジアラビアやイスラエルと共同でシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始したと書いている。 原爆を手にして以降、アメリカの好戦派は先制核攻撃を目論み続けてきた。2007年8月29日から30日にかけて核弾頭W80-1を搭載した6基の巡航ミサイルAGM-129が行方不明になるという事件がアメリカでは起こったが、これは一部グループが核戦争を始めようとしたのだとも言われている。 この出来事の真相はいまだに不明で、相当数の核兵器がノースダコタ州のマイノット空軍基地で盗み出されてB-52爆撃機へ搭載され、中東へ向かおうとしたが、インターセプトされてルイジアナ州のバークスデール空軍基地に着陸させられたともいう。 その後、核兵器と扱うことが許可されていた250名以上の将校がチャック・ヘーゲル国防長官(2013年2月から15年2月)やマーチン・デンプシー統合参謀本部議長(2011年10月から15年9月)の命令で解任された。この粛清を一部のメディアは激しく批判しているが、これでイランに対する核攻撃が難しくなったという見方もある。 2008年8月にはジョージア(グルジア)が南オセチアを奇襲攻撃、ロシア軍の反撃で惨敗しているが、このジョージアはイスラエルやアメリカから支援を受けていた。例えば、2001年からイスラエルの会社が武器を提供すると同時に軍事訓練を実施、07年には同国の軍事専門家がグルジアの特殊部隊を訓練、重火器や電子機器、戦車などを提供、アメリカもグルジアに対し、軍事的な支援をしていた。 この奇襲攻撃が失敗に終わったことから「無謀」だったと後講釈する人もいたが、このプランを立てたのはイスラエルだとも言われ、その準備の周到さを考えると、ロシア軍は出てこない、あるいはを粉砕できると思い込んでいた可能性がある。キール・リーバーとダリル・プレスの論文を呼んでも、アメリカの好戦派がロシアを過小評価していたことは間違いない。 1992年のウォルフォウィッツ・ドクトリンを受け、日本をアメリカの戦争マシーンに組み込む作業が始まる。まず1995年2月にジョセフ・ナイ国防次官補(当時)が「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を公表、2005年には「日米同盟:未来のための変革と再編」、2007年には「第2次アーミテージ報告」、そして12年には「第3次アーミテージ報告」へと続く。日本の隣国である韓国の場合、朝鮮半島の緊張緩和を目指し、アメリカの好戦派にとって邪魔な存在だった盧武鉉大統領が2008年にスキャンダルで失脚、李明博が大統領に就任した。その後、日米同盟と米韓同盟の一体化していく。 その流れの中で2010年9月には尖閣諸島/釣魚台列嶼の付近で操業していた中国の漁船を海上保安庁が「日中漁業協定」を無視する形で取り締まり、東アジアの軍事的な緊張は急速に高まっていく。(その辺の事情は何度も書いてきたので、今回は割愛する) 核攻撃を目論んだアメリカ軍内の好戦派を排除したヘーゲル国防長官とデンプシー統合参謀本部議長が辞任した直後、シリアでロシア軍は空爆を始めた。アメリカに見切りを付けたのだろうが、その後、ロシアは存在感を強めている。好戦派はさらに軍事的な緊張を高めてロシアや中国を脅すつもりだろうが、求心力を失っている。イラクにおけるサドル派の動きもその現れだろう。
2016.05.06
トルコのアフメト・ダブトオール首相が5月5日に辞意を表明した。すでに本ブログでも紹介したように、トルコ国内は不安定化している。サウジアラビアから支援を受け、情報機関MITと手を組んでいるレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は軍を粛清し、言論を弾圧して乗り切ろうとしているが、体制は大きく揺れているのだ。 体制を不安定化させた最大の理由はエルドアン大統領の常軌を逸した好戦的な政策にあるが、その背景にあるのはネオコン/シオニストの世界制覇ドクトリンだ。1992年初頭に国防総省のDPG草案という形で作成され、「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。 ネオコンはアメリカを「唯一の超大国」になったと認識、ソ連のようなライバルが2度と現れないようにするため、潜在的なライバルである旧ソ連圏、西ヨーロッパ、東アジアなどを潰す一方、膨大な資源を抱える西南アジアで自立した政権を倒し、支配しようと考えたのである。このドクトリンに基づき、ネオコン系シンクタンクのPNACは2000年に「米国防の再構築」を発表、その中で大きな変革を実現するためには「新しい真珠湾」が必要だと主張している。 勿論、「真珠湾」とは1941年12月7日に日本軍がハワイの真珠湾にある米海軍基地を奇襲攻撃したことを指している。この攻撃は実際に日本軍が攻撃したのであり、同じようなことを期待するのは他人任せ。そのようなことは、そうそう都合良く起こるものではない。本音は1932年2月にドイツ議会が放火された事件が想定されていただろう。 そして報告書が出された翌年の9月11日、ニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されてアメリカは劇的に変化、国内では憲法が機能停止、国外では軍事侵略を公然と始めたわけである。 攻撃直後、ジョージ・W・ブッシュ政権はきちんとした調査をせずにアル・カイダが実行したと断定、アフガニスタンを先制攻撃した。2003年3月には統合参謀本部の反対を押し切ってイラクを侵略して殺戮と破壊を中東へ広めていく。 ドナルド・ラムズフェルド国防長官は部下に対してイラク攻撃のプランを考えろと命令したのは攻撃から5時間もしないうちで、その10日後にペンタゴンを訪れたウェズリー・クラーク元欧州連合軍最高司令官によると、国防長官の周辺ではイラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そしてイランを先制攻撃する計画ができあがっていたという。このうちイラク、シリア、イランの3カ国は1991年にポール・ウィルフォウィッツ国防次官(当時)が5年以内に殲滅するとしていた。 イラクのサダム・フセイン体制を破壊した後、アメリカはサウジアラビアやイスラエルと共同でシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始したと調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュは2007年3月5日付けのニューヨーカー誌に書いている。 クラーク元最高司令官によると、アメリカの友好国と同盟国はヒズボラと戦わせるためにダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)を作り上げたのだという。ダーイッシュはアル・カイダ系武装集団から派生した戦闘集団。実際は創設にアメリカも参加している。なお、このアル・カイダとはCIAから訓練を受けた「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイル、つまり傭兵の登録リストだとロビン・クック元英外相は明らかにしている。 リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制を倒した際、NATO軍とアル・カイダ系の戦闘集団LIFGが連携していることが広く知られるようになった。その構図はシリアも同じだが、ただ、「ダーイッシュ」という新たなタグが現れる。アメリカ軍がこうした戦闘集団を攻撃せず、実際は支援してきたことを本ブログでは繰り返し、指摘してきた。そこでダーイッシュなどは勢力を拡大できたのだ。 そうした状況を大きく変化させたのが昨年9月30日に始まったロシア軍の空爆。アル・カイダ系武装集団やダーイッシュの司令部や武器庫が破壊されただけでなく、トルコからシリアへ延びている兵站線が攻撃され、シリアやイラクで盗掘された石油をトルコへ運ぶ輸送車両も破壊され、シリア政府軍は要衝を奪還しはじめたのだ。 そうした中、侵略勢力内で戦略を軌道修正する動きが出て来たのだが、トルコ、サウジアラビア、そして恐らくネオコンやイスラエルは軍事力によるバシャール・アル・アサド体制の破壊に執着している。 資金を調達する必要もあり、トルコのエルドアン政権はEUへ難民を送り込んで脅し、カネを巻き上げることに成功しているのだが、国内は不安定化の度合いを強め、議会でも乱闘があった。 言論を封殺することにも熱心で、昨年11月26日にはジュムフリイェト紙の編集長を含むふたりのジャーナリストが逮捕されて裁判がはじまり、ザマン紙の経営権を政府が握って編集幹部を一新させたが、ダブトオール首相の辞任表明のタイミングで同紙の発行を止めさせている。今後、多くの新聞が発行停止になると見られている。これが安倍晋三政権と友好的な関係にあるというエルドアン政権の実態だ。 しかし、トルコは日本と違って気骨ある記者や編集者が存在しているようで、抵抗は続いている。エルドアン政権は軍幹部、弁護士、学者、ジャーナリストなどを大量摘発し、275名を有罪にしているが、この判決を最高裁が4月21日に無効にしたことも興味深い動きである。ネオコン、軍需産業、金融資本といった好戦派に支えられているヒラリー・クリントンがアメリカの次期大統領に就任する可能性が強まっているが、アメリカも危ない橋を渡っていると言える。
2016.05.05
アメリカの経済が衰退し続けている最大の理由は支配層が国の経済を衰退させる政策を推進していることにある。同じことが日本でも言える。その政策の基本は国/国民の富を一部の特権グループへ集中させることにあり、圧倒的多数の庶民は貧困化して国は疲弊していく。国外から労働者を入れることで貧困化はさらに進み、国は弱体化する。その弱体化した国という組織を巨大資本が支配する仕組みがTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)だ。 この新システムには大きな脅威が存在する。ロシアと中国を中心とする自立した国々である。その象徴がBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)やSCO(中国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、ウズベキスタン)。 経済的な攻撃として利用されたのが原油価格に引き下げで、西側ではロシア経済の破綻を願っていたようだが、そうした事態にはなっていない。大きなダメージを受けたのはベネズエラで、その仲間であるブラジルも大きな影響を受けた。本ブログでもすでに書いたことだが、現在、ブラジルではアメリカ主導のクーデターが進行中だ。4月17日にはブラジルの下院でジルマ・ルセフ大統領の「弾劾」を問う採決が可決された。採決の翌日、反大統領派のアロイジオ・ヌネス議員がワシントンDCへ赴き、アメリカ政府の高官やロビイストと会っている。 今回の弾劾で先導役を務めたひとり、ブルーノ・アラウージョは巨大建設会社から違法な資金を受け取った容疑をかけられ、エドアルド・クーニャ下院議長は最近、スイスの秘密口座に数百万ドルを隠し持っていることが発覚していることもすでに紹介した。 そうした経済的な腐敗だけでなく、思想的な問題も明らかになっている。2018年の大統領選挙へ出馬するというジャイ・ボウソナル下院議員の場合、弾劾を問う採決の際、軍事政権時代に行った拷問で悪名高いカルロス・アルベルト・ブリリャンテ・ウストラを褒め称えたのだ。政治犯だったルセフも拷問されているが、その責任者でもあった。 このブラジルでもそうだが、アメリカはターゲット国の体制を倒す際、似た手口を使っている。まず「反体制派」を「親米派」に作り替え、「民主化勢力」と呼んで支援、労働組合やメディアをカネの力で支配する。勿論、各国の資本、軍隊、治安機関にもネットワークを張り巡らせてきた。最近では、体制転覆工作の拠点としてNGOも使われている。 ラテン・アメリカの場合、各国の軍隊や治安機関を支配するため、1946年にSOAをパナマに創設した。この訓練施設では、反乱鎮圧、狙撃訓練、ゲリラ戦、心理戦、情報活動、尋問テクニックなどが教えられ、卒業生は帰国してから巨大企業のカネ儲けに邪魔な人々を迫害、排除するために拷問、レイプ、暗殺、誘拐、虐殺などを繰り返し、軍事クーデターも実行してきた。1984年にパナマから追い出され、2001年には名称がWHISECへ変更されたが、まだ存続している。 アメリカの支配層が体制転覆工作で使った集団には、東ヨーロッパのナチス残党や協力者、中東や北アフリカのサラフ主義者/ワッハーブ派、東南アジアの留学生などがある。日本や中国でも留学生が使われているようだ。こうした集団はアメリカの情報機関とつながり、メディアとも連携している。 アメリカ/NATOはヨーロッパや東アジアで軍事的な圧力を強めているが、戦闘能力はロシアの方が上。これはシリアで明確になった。カネ儲けに目が眩んだアメリカの軍需産業は欠陥兵器を作り出しているのに対し、ロシアは性能の良い兵器を製造している。 ロシアを追い詰めるはずだった石油価格の下落はアメリカのシェール・ガス/オイル業界に大きなダメージを与え、サウジアラビアも財政赤字に転落した。IMFによると、同国の2016年における財政赤字は19.4%、5年以内に金融資産は底をつくと予測しているようだ。 サウジアラビアは石油依存から脱却するため、国をヘッジファンド化するつもりのようだが、ドルが基軸通貨から転落すれば、一気に破綻してしまう。本来ならペトロダラーの仕組みを支え、投機市場の収縮を防がねばならないのだが、財政赤字はそうしたことを難しくする。 アメリカの巨大資本はブラジルなど南アメリカで自立した国を破壊し、ロシアや中国へ圧力を加えているように見えるが、その足下は崩れはじめている。
2016.05.04
第2次世界大戦後の日本が平和だったかどうかはともかく、とりあえず領土が戦場になることはなかった。ただ、その理由を在日アメリカ軍や自衛隊に求めることは間違っている。アメリカは世界制覇を狙い、一貫して先制攻撃を目論み、自衛隊はその戦争マシーンに組み込まれているのだ。在日米軍は日本を守ってきたのではなく、日本は侵略戦争に巻き込まれる恐れがあったと言える。 アメリカ軍が日本を守るという話はメディアが広げた幻想にすぎない。例えば、1947年5月7日付けのAP電は、ダグラス・マッカーサーが天皇に対してアメリカが日本の防衛を引き受けることを保証したと伝えたが、マッカーサー本人は報道の内容を否定している。アメリカ軍による占領を正当化するための情報操作だった可能性が高いだろう。アメリカの支配層が純粋に日本を守ろうとしているとは到底思えない。せいぜい、戦略的、あるいは経済的な必要性から守るという程度だろう。必要なければ捨てられる。 米英(アングロ・サクソン)の支配層が何を考えているかを知るには歴史を振り返る必要がある。さかのぼり始めると限りがなくなるが、とりあえず第2次世界大戦の勃発から始めることにしよう。 この大戦は1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻したときに幕が開く。大規模な戦争が目的ではなく、第1次世界大戦後に東プロイセンが飛び地化した問題を解決しようとしていた可能性が高い。軍事侵攻の2日後にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告したにもかかわらず、しばらく目立った戦闘がなく「奇妙な戦争」と呼ばれている理由はそこにある。 その前にナチス体制を危険だと感じたソ連は1938年にイギリスやフランスに同盟を呼びかけるが拒否され、次善の策として39年8月にドイツと不可侵条約を結んだ。条約の秘密条項で両国はポーランドを分割することを取り決めたと宣伝されているが、流れから考えて独ソ開戦のレッドラインを決めたとする解釈もある。 ドイツ本国と東プロイセンを分断にしていた地域が「ポーランド回廊」。当時、イギリスがポーランドの後ろ盾になっていたが、ジャーナリストのC・アンソニー・ケイブ・ブラウンによると、この軍事侵攻があった頃、イギリスにはソ連と戦うために「日本・アングロ(米英)・ファシスト同盟」を結成するという案があったという。この案にとって最大の障害はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領だった。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988) この後、ドイツ軍は1941年6月に「バルバロッサ作戦」を開始、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。1942年8月にドイツ軍はスターリングラード(現在のボルゴグラード)市内へ突入するが、11月からソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍25万人は包囲された。生き残ったドイツ軍9万1000名は1943年1月31日に降伏、2月2日に戦闘は終結した。 この間、ルーズベルト大統領はソ連を支援しようとするが、反対が強く、実現していない。例えば、ミズーリ州選出の上院議員だったハリー・トルーマンは、「ドイツが勝ちそうに見えたならロシアを助け、ロシアが勝ちそうならドイツを助け、そうやって可能な限り彼らに殺させよう」と提案している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012) 米英のライバル、ドイツとソ連を共倒れにさせようというわけだが、ドイツの敗北を見てアメリカ軍は活発に動き始める。まず1943年7月にシチリア島へ上陸、9月にはイタリア本土に進軍してイタリアは無条件降伏、翌年6月にはノルマンディーへ上陸した。いわゆる「オーバーロード作戦」だ。 この上陸作戦は1943年5月にワシントンDCで練られている。アメリカやイギリスがドイツとの戦争を本格化させるのは、ドイツ軍がスターリングラードで降伏、大戦の勝敗が決した後だということである。 1945年2月にはクリミア半島のヤルタでルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、ヨセフ・スターリン露人民委員会議長が集まって会談、大戦後の問題や国際連合創設、またソ連の対日参戦などが話し合われた。 アメリカ支配層の一部、アレン・ダレスのような反コミュニスト派は大戦の終盤にドイツ側と接触を開始、ソ連を除いた形の単独講和も模索されていたが、実現していない。ドイツは5月7日に降伏した。 それを受けてチャーチル英首相はアメリカやドイツと連合してソ連を奇襲攻撃しようと目論む。その命令に従ってJPS(合同作戦本部)が5月22日に作成した「アンシンカブル作戦」は7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、参謀本部の反対で実行されていない。ソ連との戦争を目論んだことが原因なのかどうかは不明だが、7月26日にチャーチルは退陣する。 一方、ソ連はヤルタ会談での合意に基づいて8月8日に日本へ宣戦。アメリカは8月6日に広島へ、8月9日に長崎へ原子爆弾を投下したが、ソ連参戦を意識してのことだろう。 大戦が終了した後もチャーチルはソ連を破壊する夢を捨てていない。1946年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで、「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、「冷戦」の幕開けを告げたのだ。1947年にはアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいとチャーチルは頼んでいたとも伝えられている。 このチャーチルは貴族階級の出身で、父親のランドルフ・チャーチルは46歳のときに梅毒が原因で死亡している。生前、ナサニエル・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。息子がロスチャイルドと無縁と言うことはありえない。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013) ソ連に対する先制核攻撃は大戦が終わって間もない頃に浮上している。例えば、1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とす(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)という内容が盛り込まれていた。 1952年11月にアメリカは水爆の実験に成功、核分裂反応を利用した原子爆弾から核融合反応を利用した水素爆弾に核兵器の主役は移っていく。1954年になるとSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(前掲書) SACが1956年に作成した報告書(SAC Atomic Weapons Requirements Study for 1959)によると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標に対しては水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだが、市民の大量虐殺自体も目的だったと見られている。 1956年当時、SACの司令官はカーティス・ルメイ。第2次世界大戦の終盤、日本の大都市に大量の焼夷弾を投下して庶民を焼き殺す「無差別爆撃」を第21爆撃集団司令官として推進した軍人だ。1945年3月10日に東京の下町を約300機のB-29爆撃機で空爆、10万人以上の住民を焼夷弾で焼き殺したと言われている。 実際にソ連を先制核攻撃する準備が始まったのは1957年初頭で、「ドロップショット作戦」が作成されている。300発の核爆弾をソ連の100都市で使うというもので、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたともいう。(前掲書) アメリカがソ連を先制核攻撃した場合、反撃をどのように押さえ込むかが問題。そこでアメリカがICBM(大陸間弾道ミサイル)で圧倒している段階で攻撃しようということになる。1959年の時点でソ連は事実上、ICBMを保有していなかった。 この1957年にルメイは空軍副参謀総長に就任、ジョン・F・ケネディが大統領に就任した61年からは空軍参謀長を務めることになった。この当時のJCS議長はライマン・レムニッツァーだ。 このふたりを含む好戦派はキューバへアメリカ軍が軍事侵攻する計画を立てた。まず、ケネディが大統領に就任した直後、1961年4月17日に亡命キューバ人部隊をキューバのピッグス湾(プラヤ・ギロン)へ上陸させようとする。この攻撃が失敗することは計算済みで、この亡命キューバ人を助けるという名目でアメリカ軍を投入しようとするが、これはケネディ大統領が拒否して実現していない。 この好戦派は偽旗作戦も計画した。アメリカの諸都市で「偽装テロ」を実行、最終的には無人の旅客機をキューバの近くで自爆させ、あたかもキューバ軍が撃墜したように演出してキューバへ軍事侵攻する口実にしようとしたのだ。いわゆる「ノースウッズ作戦」である。キューバから中距離ミサイルで攻撃される可能性を封印するため、キューバを制圧しようとしたのだろう。この作戦もケネディ大統領に拒否された。 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーやルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だった。それより遅くなるとソ連もICBMを配備すると見ていたのだ。そして1963年11月22日、核攻撃の障害になっていたケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺され、その背後にキューバやソ連がいるとする情報をCIAは流すが、この情報が正しくないことをFBIがリンドン・ジョンソン大統領へ伝え、核戦争にはならなかったようだ。 この後もアメリカは先制核攻撃を目論んでいる。2006年にキール・リーバーとダリル・プレスはフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)で、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できると書いている。つまり、核戦争になってもかまわないという認識だが、これが間違いだということはシリアやウクライナで示された。それでも開戦で脅しているのがアメリカの好戦派。「狂犬戦略」ではなく、本当に狂犬化しているのかもしれない。
2016.05.03
実態を知る人が増えるにつれてTPP(環太平洋連携協定)に反対意見が増えている。その協定をバラク・オバマ米大統領はワシントン・ポスト紙で擁護した。アメリカ人に支持されたいという気持ちが先行したのか、アメリカがルールを書き、アメリカが支配するべきだと明け透けに主張している。TPP、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)はそうした仕組みを作り上げることが目的だということだ。 こうした協定の問題は社会システムをどうするかという点にある。関税などは枝葉末節の話。曲がりなりにも「国民」が政治に参加できる「国」というシステムの上に巨大資本のカネ儲けという欲望を置く仕掛けがISDS(投資家-国家紛争調停)条項だ。 この条項によって、巨大企業のカネ儲けを阻むような法律や規制を政府や議会が作ったなら企業は賠償を請求でき、健康、労働、環境など人びとの健康や生活を守ることは困難になってしまう。99%とも99.99%とも言われる「普通の人びと」は巨大資本の「御慈悲」にすがって生きるしかなくなる。そうした現実の一端を明らかにする文書をグリーンピースも最近、明らかにした。 早い段階からアメリカの議会ではシェロード・ブラウン上院議員とエリザベス・ウォーレン上院議員がTPPの「交渉」がどのように行われたかを明らかにしていた。両議員によると、アメリカ政府が設置したTPPに関する28の諮問委員会には566名の委員がいて、そのうち480名、つまり85%が大手企業の重役か業界のロビイスト。交渉をしているのは大手企業の「元重役」だ。 しかも、アメリカから交渉に参加していた人物にはバンク・オブ・アメリカのステファン・セリグ商務省次官補やシティ・グループのマイケル・フロマン通商代表も含まれていた。巨大企業の代理人以外の何ものでもない。 セリグはバラク・オバマ政権へ入ることが決まった際、銀行から900万ドル以上をボーナスとして受け取り、フロマンは銀行からホワイトハウスへ移動するときに400万ドル以上を貰っていると報道されている。金融資本の利益のために頑張れということであり、成功報酬も約束されているだろう。 すでに多くの人が指摘しているが、こうした協定の目的は、アメリカを拠点とする巨大資本という私的権力が世界を支配する仕組みを築くことにある。当然、こうした私的権力は国をも支配することになる。日本で小選挙区制を導入し、議席数を減らして議会を機能不全にする「改革」が行われたのも、そうした仕組みを築くための土台作りだ。 政治家にしろ、官僚にしろ、企業経営者にしろ、学者にしろ、記者や編集者にしろ、関心は目先の個人的な利益にある。例えば、ボリス・エリツィン時代のロシアでは政府の腐敗分子と手を組んだ一部の人びとが国の資産を略奪、巨万の富を築いて「オリガルヒ」と呼ばれるようになった。現在のアメリカもそうした体制になっている。 アメリカの「オリガルヒ」はそうした体制を世界に広げるため、各国で飴と鞭、買収と脅迫、場合によっては破壊工作、暗殺、クーデター、侵略などを使って目的を達しようとしている。 何度も書いてきたように、ニューディール派を率いていたフランクリン・ルーズベルトは大統領時代の1938年4月29日、ファシズムについて次のように定義している。「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」 この定義に従えば、TPP、TTIP、TiSAは世界をファシズム化するための協定。新自由主義はファシズムの一形態だとも言えるだろう。 ウォール街が支援していた現職のハーバート・フーバーをルーズベルトが破った大統領選挙の投票は1932年11月8日に行われた。このフーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働いていた人物だ。 当時、大統領の就任式は投票日から4カ月後の3月4日。その直前、2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会でルーズベルトは銃撃されている。撃ったのはジュゼッペ・ザンガラという人物だが、動機や背後関係が明らかにされないまま有罪の判決を受け、3月20日に処刑されてしまった。 大統領就任から1934年にかけてJPモルガンなどウォール街の巨大資本は反ルーズベルト大統領のクーデターを計画したとする証言がある。名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人で、軍の内部に大きなえ協力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー少将が議会でクーデター計画を明らかにしたのだ。バトラーの話を聞いてクーデター派を取材したポール・フレンチも議会で証言し、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と言われたとしている。 この当時、ルーズベルト大統領はクーデター計画を深く追及していないが、混乱を避けるためだったと見られている。ところが戦争の趨勢が決していた1944年の末になると状況が変わる。戦争中、ドイツや日本は占領地で金塊、財宝などを略奪、それぞれ「ナチ・ゴールド」、「金の百合」と呼ばれているのだが、この行方を捜す作戦の中でナチスに同調していた有力企業や有力者を調べ始めようとしていたと言われているのだ。1945年4月にルーズベルトが急死しなかった場合、ウォール街の大物たちは厳しい状況に陥った可能性がある。 この後、ウォール街はルーズベルトをはじめとするニューディール派が残した「遺産」を潰す作業を始める。そのひとつの現象が金融規制の緩和だ。1920年代の投機が社会を破壊したと考え、1933年にグラス・スティーガル法が制定されたのだが、ビル・クリントン政権下の1999年11月にグラム・リーチ・ブライリー法が成立し、事実上、葬り去られている。これによって金融資本が世界を支配できるようになり、TPP、TTIP、TiSAにもつながる。
2016.05.03
現行の「日本国憲法」が施行されたのは1947年5月3日のこと。1945年9月2日に東京湾内に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の旗艦、ミズーリ上で日本政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎が降伏文書に調印、新憲法は翌年の11月3日に公布された。「戦争犯罪」が裁かれる中でのことだ。 戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)が設立されたのは1946年1月のこと。開廷は5月。判決は1948年11月に言い渡され、その年の12月23日に死刑判決を受けた東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されている。 その当時、アメリカ政府は反ファシストから反コミュニストへ政策が大きく転換している途中だった。その切っ掛けはニューディール派の大統領だったフランクリン・ルーズベルトの急死だ。ドイツが降伏する直前の1945年4月12日に執務室で死亡している。 日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々には少なくない。新憲法でも東京裁判でも、最大の問題は天皇だった。 大戦後、まず日本を占領したのはアメリカ軍。その中枢はGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)だが、その中でも多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年) その当時、ローマ教皇庁はアメリカの一部支配層と手を組んでナチスの元幹部や重要協力者の逃走を助けていた。ビッター自身、アメリカの情報機関と深い関係にあったと言われている。 時間が経てば、天皇に批判的な人びとが日本へさらに乗り込んでくることは明白なのだが、日本の支配層は自分たちの置かれた状況を理解できず、戦前の体制を露骨に維持しようとした。それが認められるはずはなく、時間の無駄遣い。天皇制を維持することが困難になることは不可避だ。 そうした事態に追い込まれる前に天皇制を盛り込んだ憲法を作り、「戦争責任」を問うセレモニーを行って天皇を免責する必要があった。東京裁判で天皇は起訴されず、新憲法の第1条では天皇制の継続が謳われた:「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」 1957年12月の憲法調査会第8回総会に提出した書簡で吉田茂元首相は「元帥[マッカーサー]としては、極東委員会が発足すれば、ただちに日本の憲法問題を採りあげることは必至・・・・。そこで先手を打って、既成事実を作ってしまおうという決意をしたものと思われる」と語ったという。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波書店、2008年 その「象徴」である天皇は1951年4月までダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官と少なくとも11回に渡って会談している。1946年10月16日に第3回目、新憲法が施行された3日後、つまり1947年5月6日には第4回目の会談が行われているのだが、いずれでも天皇は軍隊を禁止し、戦争を放棄していることを危惧したという。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波書店、2008年) 第3回目の会談でマッカーサーは「戦争をなくするには、戦争を放棄する以外には方法はありませぬ」(「朝日ジャーナル」1989年3月3日号)と主張、児島襄によると、第4回目の会談では「日本が完全に軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障」だと答えている。なお、第4回目の会談の後半では「軍事戦略上の問題」が議論されているため、破棄されたという。なお、5月7日付けのAP電は、マッカーサーが天皇に対してアメリカが日本の防衛を引き受けることを保証したと伝えたが、マッカーサー本人は報道の内容を否定している。 そして1947年9月20日に天皇の「沖縄メッセージ」が覚書としてまとめられた。アメリカ軍の占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで継続されるとそこには書かれている。 戦争放棄を肯定的にとらえているマッカーサーの信頼を受け、吉田茂との間をつないでいた人物が白州次郎。1947年4月9日付けの『寺崎日記』には、「陛下は吉田白州のラインに疑念を持たるヽなり」と書かれている。疑念の先にはマッカーサーがいる。 日米関係のひとつの節目になる出来事が1950年4月に起こる。ウォール街の大物弁護士で情報機関を動かしていたアレン・ダレスの兄であるジョン・フォスター・ダレスが国務省の政策顧問に就任、「事実上対日講和を担うことになった」(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波書店、2008年)のである。言うまでもなく、ダレス兄弟は巨大資本の代理人だ。 1950年4月18日に天皇はマッカーサーと第10回目の会見を行い、その1週間後に吉田は池田勇人大蔵大臣をアメリカへ派遣、「日本政府としては、日本側からそれをオファするような持ち出し方を研究してもよろしい」というメッセージを伝えたという。 このとき宮沢喜一が同行しているが、一緒に白州も「首相特使」としてアメリカへ渡っている。ただ、アメリカで池田らとは別行動をとっている。訪米中、国務次官補に対し、「日米協定で米軍基地を日本において戦争に備えることは憲法上むずかしい」と伝えている。池田と相反するメッセージを伝えたということになる。(三浦陽一著『吉田茂とサンフランシスコ講和(上)』) 国務省の顧問に就任した2カ月後、ジョン・フォスター・ダレスは韓国を訪問した後、日本を訪れた。そのダレスに対し、天皇は「日本の国民を真に代表し、永続的で両国の利害にかなう講和問題の決着にむけて真の援助をもたらすことのできる、そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべきであろう」と口頭のメッセージを伝えている。 日本滞在中、6月22日にダレスは吉田と会談、その日の夜にニューズウィーク誌東京支局長だったコンプトン・パケナムの自宅で「夕食会」が開かれている。パケナムはイギリスの貴族階級出身で、日本の宮中に太いパイプを持っていた。その夕食会に出席したのはニューズウィーク誌のパケナムやハリー・カーン外信部長のほか、ダレス、ダレスに同行してきた国務省東北アジア課長ジョン・アリソン、そして日本側から大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三だ。その席でダレスは「仮に日本の工業を全部破壊して撤退して了ってもよい」と脅した上で、日本がアメリカにつくのかソ連につくのか明確にするべきだと話している。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)この夕食会の3日後、朝鮮戦争が勃発した。 なお、渡辺はGHQ/SCAPと大蔵省との連絡役を果たしていた元子爵で、後の駐米公使。松平は三井本家家長の義兄に当たる元侯爵。沢田は後の国連大使で、彼が結婚した美喜は三菱合資の社長だった岩崎久弥の娘。また国家地方警察企画課長の海原治は国家警察予備隊、後の自衛隊を創設する際に中心的な役割を果たすことになる。カーンはロッキード事件で名前が浮上している。 朝鮮半島や中国南部で戦闘が続いていた1951年1月にダレスが率いる講和使節団が来日した。同月29日にマッカーサーや吉田と会談することが目的だったが、その3日前に開かれたスタッフ会議でダレスは次のように語る(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年):「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるだろうか?これが根本的な問題である。」 この問題を解決するため、ダレスはマッカーサーの支援を受けようとした。そして3者会談が行われたということだ。 1951年9月8日に対日平和条約がサンフランシスコで署名され、同じ日に日米安全保障条約も締結されている。日本側の首席全権は吉田茂だったが、講和会議へ出席したくないと周囲に語っていた。安保条約への調印を嫌がっていたわけだ。その吉田を翻意させたのは7月19日の「拝謁」だったという。天皇に会った後、吉田は全権団を率いることに同意したとされている。日本をアメリカの基地、あるいは航空母艦にしてしまった責任を吉田に押しつける意見を聞くが、正しくないと言うことだ。 敗戦直後、日本では天皇と吉田の二重外交が行われていた。主流は天皇、吉田は傍流である。その天皇はジョン・フォスター・ダレスを介し、アメリカの巨大資本と結びついていたのだ。その関係のキーパーソンが1932年から41年まで駐日大使を務めたジョセフ・グルー。彼のいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚、また妻は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)で九条節子(後の貞明皇后)と親しくなっていた。大戦後、グルーはアメリカ巨大資本の意向を受け、日本を戦前へ回帰させたジャパン・ロビーの中心人物として活動した。 天皇制を維持した現行憲法をアメリカ支配層やその手先になっている日本の「エリート」たちは変えたがっている。ひとつの理由は、憲法に民主主義的な規定が盛り込まれていることが上げられる。現在、彼らはTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)を成立させようとしているが、これは巨大資本が全てを支配するファシズム体制。民主主義とは相容れない関係にある。もうひとつは第9条。アメリカ軍、あるいはウォール街軍の補完物として自衛隊/日本軍を使おうとしている。
2016.05.02
すでに本ブログでも紹介したようにアメリカ政府はシリア政府の承諾を得ないまま領内に50名の特殊部隊員を潜入させていたが、4月25日にバラク・オバマ大統領は250名を増派すると発表した。近く500名体制にするとも言われている。明白な軍事侵略だ。 戦闘員を訓練するためだというが、その戦闘員が何者なのかは明らかにされていない。最近は「自由の戦士」というタグをまた使い出しているが、アル・カイダ系の武装集団をそう呼んでいるにすぎない。 ロビン・クック元英外相によると、アル・カイダとはCIAから軍事訓練を受けた「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイル。その大半はサラフ主義者/ワッハーブ派だと言われている。 アル・カイダはアラビア語で「ベース」を意味し、「データベース」の訳語としても使われているようだ。なお、クックはこの指摘をした翌月、保養先のスコットランドで心臓発作に襲われて死亡した。享年59歳。 こうした訓練はソ連軍と戦う戦闘員を育成するためのもの。1970年代終盤、ジミー・カーター政権の大統領補佐官だったズビグネフ・ブレジンスキーはソ連軍をアフガニスタンへ誘い込み、戦争で疲弊させるという秘密工作を始めたが、その一環だ。アフガニスタン戦争当時、つまり1980年代に西側の政府やメディアはアル・カイダ系武装集団を「自由の戦士」と呼んでいた。 この用語をアメリカの支配層は好きなようで、第2次世界大戦が終わった頃、ウクライナやクロアチアなどでナチスに協力していた人びとをアメリカの支配層は「自由の戦士」と呼んでいた。大戦後、アメリカがナチスの元高官や大物協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れていたことは広く知られている。「冷戦」はその原因でなく、結果だ。 1989年2月にソ連軍はアフガニスタンから撤退、91年12月にはソ連が消滅し、アル・カイダ系武装集団は用済み。大半の戦闘員は雇い止めで職を失い、社会混乱の原因になりえる。例えば、第1次世界大戦の後、ヨーロッパから兵士が戻ってきたアメリカでは失業者が街に溢れ、ストライキやデモが続発している。 この大戦は1918年11月に終わるが、その翌年、マサチューセッツ州ボストンの近郊で現金輸送車襲撃未遂事件が、また20年4月に同州のサウスブレーントリー駅近くで強盗殺人事件が起こる。 その事件で逮捕、起訴されたのはアナーキストのニコラ・サッコとバルトロメオ・バンゼッティ。裁判が行われている当時から冤罪だと言われ、抗議は世界規模で広がったものの、死刑が言い渡されて27年8月にふたりは処刑された。事実には関係なく、「アナーキストの犯罪」というタグが支配層は欲しかったのだろう。 世界中に「アル・カイダ」という名前が広がったのは2001年9月11日以降だろう。この日、ニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、詳しい調査が行われないまま、ジョージ・W・ブッシュ政権は「アル・カイダ」が実行したと宣伝し始めるが、未だに真相は明らかになっていない。その大きな理由はアメリカ政府が重要な情報の開示を拒否しているからだ。少なからぬ人はイスラエルとサウジアラビア、そうした国とつながるアメリカの一部支配層に疑惑の目を向けている。 この出来事以降、「アル・カイダ」は「テロリスト」の代名詞になり、アメリカ軍が他国を侵略する口実に使われるようになった。アメリカを含む勢力によって破壊されたイラクのサダム・フセインやリビアのムアンマル・アル・カダフィの体制、現在、攻撃されているシリアのバシャール・アル・アサド政権はいずれもアル・カイダ系武装集団と激しく対立していた。 リビアを侵略した際、NATO軍が手を組んだLIFGはアル・カイダ系武装集団。この侵略戦争でアメリカを含む西側、ペルシャ湾岸産油国、イスラエルがアル・カイダ系武装集団を手先として使っていることが明らかになってしまった。 2011年10月にカダフィは侵略軍に惨殺されるが、その直後にベンガジでは裁判所にアル・カイダの旗が掲げられ、その映像がYouTubeにアップロードされた。イギリスのデイリー・メイル紙も伝えている。 CBSのインタビュー中、カダフィ惨殺を知らされたヒラリー・クリントン国務長官は「来た、見た、死んだ」と口にしている。その半年前、ロシアのウラジミル・プーチンは「誰がNATOにカダフィを殺す権利を与えたのだ」と侵略勢力を激しく批判したが、それを無視して殺害、クリントンはそれを喜んだわけである。 カダフィ体制の崩壊でリビアは無政府状態になり、軍の倉庫から武器/兵器が持ち出されてトルコへ運ばれている。輸送の拠点になったのはベンガジにあったCIAの施設で、そうした事実をアメリカ国務省は黙認していた。輸送にはマークを消したNATOの輸送機が使われたとも伝えられている。 ベンガジにはアメリカの領事館があるのだが、そこが2012年9月11日に襲撃され、クリストファー・スティーブンス大使も殺されている。スティーブンスは戦闘が始まってから2カ月後の2011年4月に特使としてリビアへ入り、11月にリビアを離れるが、翌年の5月には大使として戻っていた。領事館が襲撃される前日、大使は武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っている。 運び出された武器/兵器の中に化学兵器も含まれていた。これをシリアで使い、政府軍に責任をなすりつけてNATO軍が直接、介入する口実に使用としたと言われている。リビアで行ったようなことをしようとしたわけだが、スティーブンスの行動を見ると、彼はこうした工作を熟知していたと考えられる。彼が知っていたということは、上司の国務長官だったヒラリー・クリントンも報告を受けていたはず。 2012年11月、デイビッド・ペトレイアスがCIA長官のポストを辞しているが、この人物はクリントンと緊密な関係にあることで有名。スティーブン大使から報告されるまでもなく、ベンガジでの工作をクリントンは知っていたと見るべきだろう。ペトレイアスの辞任はペトレアスの伝記『オール・イン』を書いたポーラ・ブロードウェルとの浮気が原因だとされているが、これはカモフラージュだった可能性がある。 この時点で、世界的には、アメリカ/NATOなどがアル・カイダ系武装勢力を手先として使っていることは明白になった。「テロとの戦い」はインチキであり、「テロリスト」はアメリカの支配層が侵略の口実に使っているだけだということも確認されたわけだ。 2012年当時、シリアで政府軍と戦う「穏健派」が事実上、存在しないことはアメリカ軍の情報機関DIAも知っていて、ホワイトハウスへ報告している。DIAが2012年8月に作成した文書によると、反シリア政府軍の主力はサラフ主義者(ワッハーブ派)、ムスリム同胞団、そしてアル・カイダ系武装集団のAQIで、西側、ペルシャ湾岸諸国、そしてトルコの支援を受けているとしている。DIAによるとアル・ヌスラはAQIの別名。ムスリム同胞団はワッハーブ派から強い影響を受け、アル・カイダ系武装集団の主力もワッハーブ派だ。つまり、シリアで政府軍と戦っているのはサウジアラビアの国教であるワッハーブ派の信徒たちだ。 この報告書が作成された当時のDIA局長、マイケル・フリン中将はアル・ジャジーラの取材に対し、ダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)の勢力が拡大したのはオバマ政権が決めた政策によると語っている。アメリカ政府は「テロリスト」と戦うどころか、支援しているということをDIAの元局長も主張していると言えるだろう。 ダーイッシュという名称が知られるようになるのは2014年に入ってから。この年の1月にファルージャで「イスラム首長国」の建国が宣言され、6月にはモスルを制圧、その際にトヨタ製の真新しい小型トラック「ハイラックス」を連ねてパレードし、その後継を撮影した写真が世界規模で流れたことが大きい。 この出来事には不可解な点が少なくない。例えば、アメリカ軍はスパイ衛星、偵察機、通信傍受、人からの情報などでダーイッシュの動きを把握していたはずだが、反応していない。パレードしている車列などは格好の攻撃目標のはずなのだが、アメリカ軍は何もしていない。 2014年9月23日にアメリカ軍はシリアで空爆を始めたが、その日に現地で取材していたCNNの中東特派員、アーワ・デイモンは翌日朝の放送でダーイッシュの戦闘員は空爆の前に極秘情報を入手し、攻撃の15から20日前に戦闘員は避難して住民の中に紛れ込んでいたと伝えていた。 その後もアメリカが主導する連合軍はダーイッシュに対する攻撃を続けたことになっているが、実際に攻撃しているのはインフラ。その一方、「誤投下」で武器/兵器を含む物資をダーイッシュ側へ供給している。 こうした猿芝居を粉砕したのが昨年9月30日に始まったロシア軍の空爆。この攻撃は実際にダーイッシュやアル・ヌスラなどを攻撃、政府軍は要衝を奪還しつつある。その劣勢を挽回するため、アメリカの好戦派、サウジアラビア、トルコなどは「停戦合意」を利用して携帯型の防空システムMANPADを含む武器/兵器を大量に供給、アメリカの特殊部隊が増派されたわけだ。トルコの特殊部隊も潜入していると言われている。 アメリカの支配層はプロパガンダが得意技。広告会社やメディアを使い、タグの付け替えや欲望への刺激で人びとの心理を操作している。現代版陰陽師とも言えそうだ。
2016.05.01
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