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現実にゴミ屋敷って、存在しているな~と、感じてしまいました。 よく、テレビでゴミ屋敷をやっておりますが、まあ、あそこまではひどくはないが、テレビで見るよりも、三分の一のゴミが積まれた家が、同じ町内に二軒ありました。 以前の日記にて、立正安国論から、乱れについて書いたと思います。 乱れに乱れてしまうと、ゴミ屋敷でも平気になるのか? なんか、考えてしまいます。
2010.03.27
今、私の仕事は順調であります。大変な仕事ですが、楽しく仕事をしております。 顕正会による折伏(勧誘)は、悪徳の訪問販売みたいなんだよな~(笑) よく顕正会会員が、使う折伏いや勧誘を悪徳訪問販売と比べてみます。 顕正会:「こんにちは、私冨士大石寺顕正会のものです(メタ本を出す)」 この時点で、訪問販売なら違法ですね~(笑) ”冨士大石寺”と名乗る。顕正会は、日蓮正宗総本山大石寺とは、”無関係”です。 これは、よく悪徳業者が使う。NTTの”ほう”から来ました。や消防署の”ほう”から来ました。という。悪徳業者と変わりません。 顕正会:「顕正会は、いつでも退会出来ます。」 実際、退会できないですから、クーリング・オフできないようなものですね~ 顕正会:「顕正会は、お金かかりません」 年末の広布御供養は、何かな~?(笑) 悪徳業者が、料金を偽るのと変わりません(笑) 顕正会、こうやって見ると悪徳業者と変わらないだな~
2010.03.23
以前も書いた事であるが、改めて出したいと思います。名聞名利とは、仏法を利用しての金儲けや名声を得ようとする事です。まあ、某宗教の名誉会長さんの憲章漁りが、当て嵌まります。また、仏法を利用しての金儲け。まさに、この某宗教の事であります。仏法は、利益を得るためにしてるのではない。自分自身の成仏である。私が思うにお金なんか、必要最低限で十分であるし、死んだらお金は、あの世には、持っていけはしない。仏法はいかに、命懸けでするか?だと私は思う。お金は大切であるが、だからといって、仏法と関係ない利益を求めたり、自慢したりしては、意味はない。仏様の前では、貧乏人の百円の御供養も金持ちの、何万円の御供養も変わらない。自分自身がいかに、命懸けで仏法を実績するか?である。ここで、名聞名利の御文を出したいと思います。持妙法華問答抄(新編296ページ)只(ただ)須(すべから)く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこ(幢)をたをし、忿(いか)りの杖をすてゝ偏(ひとえ)に一乗に帰すべし。名聞名利は今生(こんじょう)のかざり、我慢偏執(がまんへんしゅう)は後生のほだ(紲)しなり。嗚呼(ああ)、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。まさに、聖〇新聞の記事ですね~持妙法華問答抄(新編299ページ)臨終已(すで)に今にありとは知りながら、我慢偏執名聞利養(がまんへんしゅうみょうもんりよう)に著(じゃく)して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下(むげ)にかひなし。●新池御書(新編1461ページ)末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるが(忽)せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし、争でか徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何にに賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり。まさに、その通りだと思いますね。以下、日有上人の化儀抄より日有上人の「化儀抄」第三条 名聞名利を捨てよ一、名聞名利は世事なり。仏法は自他の情執の尽きたる所なり、名聞名利は自身の為なるが故なり。出家として此の心有る時は、清浄の仏法を盗んで名聞名利のあきないになす処は仏法を盗むなり。しかるべからざる心中なり。尤も嗜むべし云々。
2010.03.22
世の中、いろんな迷信があります。占いもそうだし、祈祷やいろんな事があります。また、あげまん、さげまんという。言葉も迷信でしかありません。 日蓮大聖人は、「利根(りこん)と通力(つうりき)とにはよるべからず」(唱法華題目抄・御書233頁)と仰(おお)せになっています。利根とは、鋭利(えいり)な五根(ごこん)(眼根(げんこん)・耳根(にこん)・鼻根(びこん)・舌根(ぜっこん)・身根(しんこん))をそなえることであり、ふつうでは見えないものを見、聞こえない音を聞きとるなどの能力を持つ人をいいます。 通力とは五通、六通の特殊(とくしゅ)な力をいいます。大聖人はこれらの利根や通力には人間の生命を浄化する力はまったくなく、かえって正しい仏法を見失(うしな)わせ、成仏(じょうぶつ)への障害(しょうがい)となるために、これらに頼ることを厳(きび)しく禁(きん)じられているのです。 また、『法華経寿量品(じゅりょうほん)第十六』には、「如来秘密神通之力(にょらいひみつじんづうしりき)」と説かれております。この神通力とは、悪業(あくごう)深重(じんじゅう)の衆生(しゅじょう)をも必ず成仏(じょうぶつ)せしめるという、仏のみが持つところの究極(きゅうきょく)の功徳力(くどくりき)をいいます。 大聖人は、「成仏するより外(ほか)の神通と秘密とは之(これ)無きなり」(御義口伝・御書1766頁)と仰(おお)せです。 末法においては、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と一心(いっしん)に唱えることにより、即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)が遂(と)げられるのであり、これこそ真実の如来の秘密・神通の力なのです。 であるからして、占いとか、血液型判断や、他の迷信の類いは、成仏への妨げでしかありませんし、人々を不幸に陥れるものでしかありません。 ここで、日顕上人の寿量品説法から紹介します。 (中略)この寿量品の説法こそ真実であるという上から、寿量品を基準として拝する義であります。すなわち「身を現ぜずして 其をして渇仰を生ぜしむ 其の心の恋慕するに因って 乃ち出てて為に法を説く」という意味を本門の上から深く拝するところ、「身を現ぜず」と言われるその「身」とは、通常の爾前しゃく門の仏身でなく、寿量品の、「如来秘密神通之力」(法華経429ページ) の文における。一身即三身、三身即一身の、三世常亘の仏身であります。 したがって、経文の「其(衆生)をして渇仰を生ぜしむ」という意味は、仏が成道以来、あるいは疑宜(ぎぎ)、あるいは誘引、あるいは弾呵、あるいは淘太の意義をもって述べられた華厳等の四十余年の化導により、衆生は深く仏の徳と神力を信じて、真の寿量品の仏身に対し、渇して水を求める如く仰いで、仏を恋慕するに至るのであり、その時、仏はまさに霊鷲山に出てて、しゃくを発って本を顕し、久遠寿量の常住仏身を説かれるのであります。 これは「乃ち出てて為に法を説く」の文ののち、「神通力かくの如し」と述べられている文よりしても、寿量品冒頭の一身即三身の常住を示される「如来秘密。神通之力」の文と、この「神通力」とが同文であることからも、この仏と法は久遠寿量の仏であり、本門の妙法と拝することが本義なのであります。(寿量品説法280ページ)
2010.03.19
御法主日顕上人猊下お言葉(平成十七年六月度 広布唱題会の砌) 今日は六月四日で、昨日と本日の二日間にわたり、総本山第六世日時上人の第六百回遠忌の法要を奉修いたしました。(中 略) 日時上人の残された御事蹟の中で、二つのことが思い出されます。一つは常に僧俗に対し、特に門下僧侶に対して非常に厳格な叱咤激励と言いますか、勤行の姿勢、態度等について実に厳重なる教えを立てられまして、いい加減なことをしておるような者に対してはその態度を正しくすべきを、また真剣になすべきを本当に厳しく教えられたことが今日、文献に残っております。そして、色々な面で僧俗に対して様々な教えを垂れられたことと思われますが、当時は今のような文明の利器と言いますか、そういう意味でのお話の内容が直ちに残るようなものもございませんので、あまり詳しくはありませんけれども、そのように常に門下を激励し、教導されたということが残っております。 特に御本尊様の御書写についても、今日残っておる御本尊の体数は、上代の御歴代上人のなかで日興上人様に次いで多いと拝せられるのであります。(中 略) 日時上人の御当職の期間は正平二十四(一三六九)年から応永十三年まで、実に三十八年もの長い間、第六世日時上人がこの総本山を董されていたのであります(中 略) 今日、色々な面で正法に対する魔が起こっております。しかし、正しい仏法を正しく信じ、行じていくところに必ずや広大なる御仏意の御利益が存するのであります。正法から離れては、我々の持っておる罪障としての貪瞋癡を正しく処理することはけっしてできません。 したがって、世間の人々のなかには正法に背き、あるいは邪法を信ずることによって、その貪瞋癡が様々な不幸な姿として現れております。我々が正法正義を信じてお題目をしっかり唱えていくところに、我々の持っておる煩悩、罪障、貪瞋癡のことごとくが煩悩即菩提の功徳として顕れることを、大聖人様の御書のなかにおいても御指南であります。 なんか、頭が狂っている。自称法華講の学会員ドグマなる悩乱が、ブログを始めたらしい。 こういう悩乱した者に喝を入れる。御指南を紹介した。
2010.03.16
謗法を犯さない信心は、難しいとつくづく思います。日々の生活においての行動や言動が、謗法を犯す事は沢山あります。ただ、勤行と唱題、折伏をしてればいうという甘い考えではないとつくづく考える事があります。十四誹謗を何回も出してはいます。修行を怠る行為、怠慢、誹謗、疑惑、自慢や、他人の信心について、何か言うのも、謗法になります。これが難しいところですね。相手を思い言う事が、謗法になる事があります。だから日蓮大聖人は、「見ず、聞かず、言わざる」と言われています。異体同心について、何回も出してはいますが、日達上人の御指南を紹介いたします。我々の信心は、強い人もあれば弱い人もありますが、共に手を携えてゆかなければならないのであります。これを譬えれば、戦争の時代に多くの輸送船があり、戦地の人々の生命の糧である食糧や補給物資を運びました。この輸送船には船足の速い船もあれば遅い船もあります。しかし輸送船団というものは、遅い船を対象とし速い船もゆっくりと、共に一団となって進んでゆくのであります。 今日で言えば、ヒマラヤ登山のパーティーの如く、息の続く人や足の強い人が、身体の弱い人を労わってこそ、始めてあの嶮しい山の頂きに到達することができるのであります。 我々の信仰というものも、そうでなくてはならないと思います。自分だけの信心で、ただ独り成仏すれば良いというものではない。共に信心の弱い人を励まし、地域社会一団となって、そこに広宣流布があれば、やがてそれは真実の広宣流布となると信じるのでございます。 (元朝勤行の瑚 S47・1・1)また、寺院についても、今の寺院は雰囲気が悪いからとか、他の寺院は活発あるから移籍したいという考え方は、顕正会の浅井と変わらない事になります。寺院について、僧俗一致についての日達上人の御指南です。本宗僧侶は止暇断眠の大聖人のお教えに従い、日夜に行学に勉めなければなりません。信徒は不断の信心に住して、僧をも供養しなければなりません。そこに僧俗一如の和合僧の一団ができるのであります。 (年頭の辞 S40・1・1)僧侶と皆様と一体となってお寺を守り、そのうえ外護していただいて、世界のいかなる国にも、正宗が発展して行くということは、最も大事なことでごぎいます。(西大宣寺御親教の砌 S41・4・10)信徒として僧侶を尊敬する事は非常に良い事である。信徒に対して、僧侶はまた敬愛の心をもって信徒を大事にして、寺檀和合、僧俗一致してこそ、初めて真実の布教も折伏もでき、正宗の布教、大聖人様の仏法の弘通をしていかなければならないのであります。 (法華講九州第四回大会の砌 S42・7・11)広宣流布へは、やはり異体同心が大切であります。私は、他人の信心には、口出しはしないし、する必要はないと思います。折伏のやり方も、一つ一つの経験から、理解する事であるからだと思います。それは私が、営業の仕事をしている経験から、言える事です。仏法が正しいから、自信を持って相手を折伏する。営業さ、商品に自信があるから売る。私が、この仕事をしてまだまだ、浅いですが、お客様一人一人の悩み事や考えを聞く、その大切さが段々と分かってきました。生活と信心は、一緒だと言われますが、当て嵌まる事、沢山あります。だから、謗法を犯す事があります。まだまだ、信心が弱い事、まだまだ、弱輩者ゆえ、知らず知らずにいろんな、小さな謗法から、大きな謗法までをしていると思います。信心根本に頑張っていきたいと思います。
2010.03.15
私のブログを荒らす。悩乱してる。ひでちゃんをネットで、からかう暇はない。自分自身に自身あるならば、堂々と、私を破折しにくればよい。できないならば、黙るがよい。ネットでしか吠えれない。悩乱者を構う暇はない。 こな悩乱者が、ほざいていたが、日蓮正宗は狭い世界だと言う。何の根拠があるのであろうか? 仏法の世界は、広い。経典だけで、千から二千と沢山ある。 我々は、仏法を学ぶ事により、宇宙の真理を知るのである。法華経を見てみると、いかに今生きてる世界が、小さな存在か?が分かる。 アンチというのは、自分自身の思い込みという。生きてる世界よりも更に小さな世界で一人でもがいているだけである。井の中の蛙とは、この事である。 宇宙は、広い我々普通の凡夫では、わからない世界である。 その世界を学ぶ我々を、狭い世界というのが、根拠もない。ただの思い込みであり、現実を知らない。ただの井の中蛙でしかない。我々の信仰が、狭い世界と言うならば、全ての経典の何処が、狭いか?科学的、物理的に破すがよかろう。
2010.03.12
私が仕事で、忙しい中で頭が狂った学会員が、意味不明な荒らしをしてましたが? 仕事で、いろんな場所に行き、いろんな宗教が存在しいろんな影響がある事がよくわかります。 さて、千葉県で有名なカルト宗教霊波之光は、千葉県野田市に本部を置いている。 先週は、野田市のこの本部の近くを廻ってました。 さて、この霊波之光とは何か?初代教祖だった波瀬善雄は、結核になり医師から余命一ヶ月と宣告されて、四国に渡り、香川県の五剣山に古びた堂にて、座禅を組み、神懸かりになり、神の声を聞いたらしい。その後、十数年に渡り、全国の山々を渡り歩いて苦行をし、光(霊波)が自分の体に吸い込まれるという神秘体験をし、大宇宙神から、神と人間をつなぐ使命を託された、という。 この教祖波瀬善雄は、突然の心臓発作で頓死、その後、長男の波瀬敬詞が二代目を就いて、現在に至る。信者は約七十六万人と公称している。 この霊波之光は、大宇宙神の分神であるとして、「御守護神様」と称し、「祈り」と書いた地球儀の上に立つ波瀬善雄の像を根本の本尊とする。 信者の家庭には、「御神体御札」と称する札(七千円)を神棚にまつらせる。この札は、一年で効力はなくなるから、毎年買い替えなければならない。ある意味学会のニセ本尊よりもぼったくりである。 この教団は、架空の神を崇める事からして、キリスト教と変わらない妄想宗教である。 病気が治ると称して、この札があれば、救われるとする。典型的なカルト宗教である。 教祖波瀬善雄を「御守護神様」としている。その教祖が、ある日突然、心筋梗塞で頓死している。 こういう、教祖がいきなりの心筋梗塞での頓死をしているのに、それを神のように崇めるのが、この教団のおかしな点である。 そして、金儲けと分かるのが、七千円も毎年払い。札を買わされる。 ただの金儲けの宗教でしかないのである。
2010.03.08
昨日の日記を荒らす輩みたいになるのである。 頭が狂ったドグマやら、意味不明な書き込みをする学会員。 こういう書き込みをするのが、狂っている現証である。 あるサイトで自称法華講となのるドグマは、私に会社の法華講をクビにするとか?やり取りして、学会員だという事が分かった。 私の事を知る法華講は、少ない。ハンネと実名を知るのは、極限られた人物である。 このドグマという悩乱学会員は、都合悪いのか?逃げた。まあ、退会をしていた。 本当に信心あるならば、他人の悪口をネットで書く事はないし、日蓮正宗法華講に存在しない。架空の委員会なんか言わない。現実に存在しないのだから、存在しないのをいう事態おかしな事だと、誰が見ても分かる事である。 学会員は、日蓮正宗を潰す為なら、何でもする。スパイは当たり前、ネットで荒らすのも当たり前である。 このドグマなる。学会員も日蓮正宗に入ったばかりの法華講の信仰を妨げる為の行動をしているのである。 私は、ネットや現実にて沢山の学会員を折伏してきた。こういう荒らしをする。まあ、信仰云々の前に人として、最低な行動である。
2010.03.04
あるサイトで、ネットの折伏について、話しが出ていたので、それについ話したいと思います。 慢心について、慢心について、何回も出しています。創価学会と顕正会が、謗法になったのは、慢心からきている事があると書きました。 慢心が、謗法に繋がり自分自身をダメにします。 中には「私は、毎日二時間唱題してるから信心ある!」「私は、今月二人を入れたから信心がある!」「私は、毎月こんなに供養を出している寺院で一番出しているから信心ある!」 こういう事から、自分自身は、「こんなにやっていたから、もうやらない」と、段々と、自分自身を慢心していきやがては、退転してしまいます。 私は、慧妙という日蓮正宗の信徒が編集してる。同人誌みたいな新聞を折伏材料として使っておりますが、漫画があり、「となりの沖田くん」が、毎回楽しみなのです。 毎回、読むと自分自身に当て嵌まる事が沢山あり、勉強になっております。 そこに謙虚で求道心にあれた信心をつらぬいていくことが一番大事な事だとあります。 簡単なようで、難しい事だと思います。 御法主日如上人猊下の御指南を紹介したいと思います。【慢心を排しての修行】この修行のなかで、一番困るのは慢心です。いわゆる「自慢、高慢、ばかのうち」と言うけれども、この慢心が一番困るのです。 観妙院日慈上人から、聞いた話だけれども、観妙院日慈上人については皆さん方はよく知らないかも知れませんが、箱根駅伝の選手でありまして、戦前、鶴見-戸塚間の記録を持っていた方であります。この観妙院さんから聞いた話のなかにこういう話がある 日本有数のある中距離ランナーがおりまして、あることがあって試合の前日、お酒を飲んでしまった。ところが、その翌日の試合は優勝してしまった。そこから、今までずっと積み重ねてきた努力というものが崩壊したそうです。つまり慢心なのです。「俺は前の晩に酒を飲んだとしても強いのだ。やっていけるのだ」ということで、そるからだんだんと練習しなくなってしまったのです。そして瞬く間にだめになってしまったのです。こういう話を聞いたことがあります。 これは我々の仏道修行にとっても、いや、何事にとっても大事なことではないかと思う。つまり怠けてはいけない。怠けるものとは何かというと慢心です。 十四誹謗のなかにきょう慢というものがあるけれども、やはりそういったことをしっかりと、心がけて、けっして慢心、つまり慢心の心を起こさないで修行に励んでもらいたい。そして、みんなが心を一つにして広布のための闘いをしていけば、例えば、三年後の平成二十一年の「地涌倍増」「大結集」も必ず果たせると、私は強く確信しております。(大日蓮十八年九月号48ページ)
2010.03.02
久しぶりに顕正会の事を破折したいと思います。 さて、あっつぁブログにて、話題になってました。新しいメタ本(笑)を手に入れました。入手はまあ、ネットではちょっと(笑) さて、あまりにもツッコミところが満載なのですが?(笑) 今回は、この「自虐史観を捨て仏法史観に立て中国の侵略は刻々と日本に迫る日蓮大聖人に帰依しなければ日本は滅ぶ」(タイトルなげーよ!怒!)面倒なので、「講演集」といたします。これを日蓮正宗歴代御法主上人の立正安国論から、破折したいと思います。 講演集113ページ「このような地殻変動が、なぜ起きてきたのか。なぜ中国の侵略がいま刻々と日本に近づきつつあるのか。」まず、仏法に関係なく、今の中国は、軍事的に見て、日本を侵略しても無資源国の国を奪う理由はないと思いますが?(笑) 「その根本原因は、仏法に照らして見なければ分からない。それは諸天の怒りによるのであります」 大聖人の立正安国論のうちに国土の災難は国家謗法なるが故に善神は国を去り悪鬼は乱入するによって起こると仰せられ、安国論の主意が此処にある、興尊が重大視なされたのも御もってもと拝されれ。「日淳上人全集下巻1522ページ・御真蹟立正安国論並御指南抄133ページ」 「(中略)しかし日本は未だに改悔(かいげ)なく背き続けてる。加えて今、一国を諌めるべき正系門家まで、偽戒壇・正本堂を作って大事の御遺命を破壊せんとした。」まず、漢字間違えです。作る×造る○ 「正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるぶき大殿堂なり。”但し”、”現時にあっては未だに謗法の徒多きが故に、安置の本門の戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。」(正本堂の意義について日達上人猊下より訓諭・大白法昭和47年5月16日号) ””の部分を見て分かるように、日達上人は、正本堂を”事の戒壇堂”と定義していない。 「これを見て、諸天いかで怒りをなさらぬことがあろうか。ゆえに今、『前代未聞の大闘争』『他国侵逼』は起こらんとしついるのであります。」(講演集114ページ) 吾が日本国は、謗法・邪悪教法のみ国土流布して、正法・正師・正義なるものを絶えて之無く、ために諸天善神等皆この国土を捨て去り、守護するもの之無し。故に、天変地夭・飢餓疫病・諸の災難のため、一切生くるもの死滅し、その上に内乱かま起り外寇来り、現世より三悪道となり了せんこと、一切経並びに法華経の神明にかけて明らかなり。(日開上人全集535ページ) くだらない本を顕正会は、出してきましたね~ (笑) 歴代上人の立正安国論の御指南で破折されますわ(笑) 顕正会の皆さん!こういう嘘を言って、騙されている事に気づきましょ~
2010.03.01
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