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某h氏の反論、まあ~(笑) 計算ができないという事が、判明しました。 一日の計算でしかない。 また、光熱費と、警備員、任務者の弁当とか?準備、帽子、備品を入れての計算が、されてないですね~ まあ~知ったかぶりで、言ってるのが、バレバレです。ちょっと面白い反論を楽しみにしていたのですが、残念でなりません。 七万五千名大結集総会での、他一般の駐車場等の計算も入れたのでしょうか? また、今の御影堂の補修についての計算。光熱費、そして、登山事務所と常来坊の建設、そして、塔中の建て替えにいくらかかったか? また、宝物殿の改修工事、記念式典での資料。いろんな資料のレンタル料金をきちんと、計算に入れているのでしょうか? それに、七万五千名大結集総会のときの弁当や記念品、また、その前にあった法要と記念品等を入れて、どれだけの儲けになったのでしょうか? 奉安堂の光熱費、あの日は、ずっとライトアップしてましたし、塔中もライトや提灯等がありました。宿坊の光熱費を計算に入れたら、果たしてどうなるでしょうか? 出すなら、きめ細かい計算を出して欲しいものです。 ヘリコプターや、記念出版物とか?ものすごい計算になる。知ったかぶり計算で、金儲けとは?そこまでの反論しかできないのでは、私すら論破はできない。 彼は、一日だけのレンタルだと思っていたらしい(笑)随分前から、準備されていたのだ、一日なわけないだろう(笑) そういう知ったかぶりを、無知な方々に自慢しても意味はない。 この某h氏は、実際の大石寺を見た事ないでしょうし、奉安堂も見た事ないのでしょう。
2010.10.31
顕正会を辞めて、法華講になった方々で、ある書き込みを見てましたら、顕正会の浅井会長を怨んでいると言った書き込みを見ました。その方が本当に怨んでいるか?分かりません。顕正会でなくとも、学会から法華講になった方々でも、池田名誉会長に怨みがあるという人もいます。生活が厳しくなった。また、色々なことで、怒りがあるかと思います。「瞋(いか)るは地獄(じごく)、貪(むさぼ)るは餓鬼(がき)、癡(おろ)かは畜生(ちくしょう)」(観心本尊抄・御書647ページ)と、あるように、三毒にまみれてしまいます。私も含め、色々な宗教で色んな体験をしてきてます。そして、それだけ罪障を作ってます。気持ちは分かりますが、怨みは怨みしか生み出さないものです。ここは、きちんと仏法で折伏をしていかないといけないと思います。「創価学会側の報道は、宗門の悪口だけが先行しています。そういうものだけ読まされている多くの学会員が、非常にゆがんだとらえ方をしているということもあるでしょう。そういう意味で、中間にいて、本質も知らされずに悩んでいる人たちは、お気の毒です。なんとかこの人々にたいして、正しい考え方に基づいて、正しい選択をしていただきたいと念じています。ちょっと世間的に見るとおかしく感じられるかもしれませんが、私どもは、あくまで宗教団体としての見解をもって、一切を対応していこうと思っております。」(日顕上人から創価学会員への説諭)これは、顕正会にも言えることだと思います。ここで、もうひとつ御隠尊日顕上人の御指南を紹介します。 申すまでもなく、この法華講の組織は何が目的であるかといえば、まず第一に、末法下種の御本仏・宗祖日蓮大聖人様の難信難解の正法を正しく護持し、信行していくところの団体として、はっきり信心修行を立てていくことであります。第二には、この大聖人の仏法を、そしてまた一代仏教の惣要(そうよう)である法華経に釈尊が予言されてあるところの「後五百歳広宣流布」という仏の遺命、また大聖人様の三大秘法広布の御命令を、我々日蓮正宗の正しい法を受け継ぐところの僧俗が一つになって広宣流布していくという、このための機関として現在、それそれの寺院に法華講が結成されておるのでございます。 したがいまして、講中といっても、よその宗派においては色々と列を組んで、やれ何力寺詣りとか、あるいは、どこそこの温泉に物見遊山に行くとかというようなことがその講中の目的であるようなことも実に多いけれども、本宗の法華講講中は、そこに大きな、厳然たる目標が存しておるのでごさいます。ですから、まず第一に、正しい信心修行を立てて、それに向かって講中一同が団結していくということ、これがやはり、簡単に言うけれども、なかなか難しいことだと思います。 講頭の方々は、そのなかで、やはり縁あって正法に縁され、特に寺院の講中の講頭という尊い立場になっておられるわけですから、その点を深く自覚されまして、信心修行の上から講中を正しく、自らの信心をもって講中を正しく導いていこうという気持ちが大切と思います。 もちろん、人を導くということはなかなか容易なことではございません。ですから、けっして自分のできないことまで背伸びして行う必要はないと思います。しかし、まず第一に自分のできることから、自分自身の信心修行を強め、そして、その信心修行の体験に基づき、行学の領解に基づいて、たとえ一人でも二人でも、また多くの人でも、その講中の信心修行を高めていくという気持ちを持って邁進をしていただきたいのであります。 さて、各地方部がありますが、地方部のなかで、非常に折伏等の成果が多い所と、ほとんど、全く折伏等も行われていない区域とがあるようであります。決して私は、折伏ををするからどうの、しないからどうのと言うのではありません。しかし、その一番元になる各々の信心、講中の信心をお互いが深く考えなけれはならないと思うのであります。 ですから、特にそう折伏の進まない所は、やはりそれだけ信心修行の功徳を感じていない。もっと考えるならは、信心修行の尊さを徹底していないというふうに思うのであります。そういう所の講頭の方々は、まず自分自信の信心修行を一歩進めるということ、また、そのための色々な計画を考えていただきたいとも思います。 で、やはり僧俗一致であり、そして修行の道場として皆さん方が寺院に参詣をして、その信心修行を高めていくということが大切と思います。お葬式のとき以外はほとんどお寺にも行ったことがないというようなことがもしあるならば、それは法華講の講中としてはたいヘん恥ずべきことと思います。 ですから、これからはたとえ自分一人でもそのお寺に参詣して題目修行をする。そしてまた、一人が二人になり、三人になり、四人になる。そして、少しずつでも信心修行の輪を、団結を高めていくということがそれぞれの、一人ひとりの講中に、現在の状態から少しずつ、一歩前進するということにおいて課せられた尊い任務だと思うのであります。 もちろん、しっかり信心もし、団結して折伏にも当たっておる講中も多々あると思いますが、それはそれなりに、また、その講中に広宣流布に向かっていく様々な問題があると思います。けっして油断することはできません。 常に講頭が、本当に安楽な境界、お題目を唱えていく真の成仏・安楽の境界のなかで、しかも常にこの正法を受持し、精進していくというところの気持ちを持って、悠々と、また堂々と広布に向かって前進をしていただきたいのでございます。そのところにおのずと法華講のそれぞれの支部が、それぞれの特色を持ちながら、それが正しく勝れた方向、大聖人様の真の弟子檀那としての法華講の姿に顕れてくる所以だと思うのでございます。(中略) これは連合会のほうからも発表があったかと思いますが、交通機関もたいへん便利になったことでもありますし、また、それに応じて総本山の受け入れ態勢というものも状況が変わってきました。今までは総登山の時だけしか、皆さん方が団体としてはお山に来れなかったような状態があるけれども、これからは、ある一部の団体として総本山に登山して自分の信心修行を磨き、また一泊して、そのなかから僧侶の講義等も聞いてそこに信行の増進を図るということをして、法華講の講中の信心の向上と、また皆さん方の総本山に対する参詣の度合いを増加して、皆さん方の信行に役立てたいと存じておる次第でございます。御法主日顕上人猊下御言葉春季総登山会御目通りの砌 平成元年3月26日 於 大書院 怨みや愚痴を言うのでなく、破邪顕正をしていきたいと思います。
2010.10.31
ずーと、仏法の話しばかりしてましたので、たまには、面白い話しでもしますか! 先日、夢を見まして、その夢が、なんと~結婚式の夢でして、まあ~今の私の仕事がそういう関係をしてまして、早くも職業病か!? それて、リアルに式場が、会社が運営する式場でして~これ以上言うと、会社バレバレなんで【お察しください】 夢の中で、私はタキシードできめていて(笑)親戚に挨拶して、式場のチャペルに、なんか神父さんが、現れまして、夢の中で、人前式(披露宴だけでも出来るが、式を入れると安くなる)って言ったよな~?と思いつつ、今更、仕方ないよな~と言いながら、とりあえず、チャペルの中へ、そのまま、キリスト教式の挙式が遂行されて、もう、花嫁はバージンロードを歩いてまして、その花嫁をめっちゃかわいい~と思った瞬間に目覚めました(笑) 夢で謗法だわ~って、思いつつ、あの夢はいい夢か?悪い夢か? 気になり、携帯で夢判断を見たら、仕事で成功をするらしいです(笑) 本当かよ~! あるサイトで、話したら、キリスト教を破邪顕正する思いが、夢に出たとか、また、欲求不満とか(笑)言われました。 あれだけ、キリスト教を破すをしてたのにな~ 仕事で、いろんな宗教の方々と話して、いろんな勉強をさせていただいております。また、結婚式についても、いろいろ勉強をしてます。 ウェディングケーキや、ドレスって、宗教の意味はないです。 私もまだまだ、勉強中ですから、後ほどまとめたいと思います。 純白のドレスって、女性を美しく見せるから、いいですね。ドレスは、謗法はないですからね。 女性って、うらやましいと思ってしまいますね~ 今の結婚式って、花嫁メインですから、男はなんかな~ 結婚式って、本当にいいものですね。見ているほうが、幸せを感じてしまいます。幸せをする儀式の提供の仕事は、大変な仕事ですが、やり甲斐がある仕事でもあります。 私は、もちろん!仏式でやります!前になんかの本で、海外の日蓮正宗寺院の結婚式は、ウェディングドレスだったのを見た記憶があります。 若い女性って、ウェディングドレスって、憧れると思います。めちゃくちゃ綺麗に見える。 仕事は、大変ですが、楽しくやっております。
2010.10.30
大聖人は『兄弟抄』に、 「設(たと)ひいかなるわづ(煩)らはしき事ありとも夢になして、只(ただ)法華経の事のみさはぐ(思索)らせ給ふべし」(御書 九八七ページ)と仰せであります。 末法濁悪の世に在って三障四魔、紛(ふん)然(ぜん)として競い起きるなか、正しい信心を貫きとおしていこうとすると、様々な困難に遭遇します。 一般世間におきましても「好事、魔多し」と言われるように、好(よ)い事には往々にして邪魔が入り、ときには思いもよらぬ困難が襲ってくることもたびたびあります。しかし、「艱難(かんなん)、汝(なんじ)を玉にす」という言葉がありますように、人は多くの艱難を乗り越えてこそ、立派な人物になるのであります。 先程の『兄弟抄』のなかには、 「此の法門を申すには必ず魔出(しゅっ)来(たい)すべし。魔競はずは正法と知るべからず。第五の巻に云はく『行(ぎょう)解(げ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏(おそ)るべからず。之(これ)に随へば将(まさ)に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」(同九八六ページ)と仰せであります。この御文のなかの「此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」との御教示を、我々はよくよく拝すべきであります。 特に本年「正義顕揚の年」は、先程申し上げましたように記念大法要、七万五千名大結集総会、記念総登山等、宗門未曽有の記念事業が執り行われます。また「全支部折伏誓願達成」の御命題もあります。こうした時には内外ともに必ず三障四魔をはじめ、あらゆる困難が我々の行く手を阻みます。 例えば、己れ自身の欲望に負けて信心がおろそかになったり、あるいは感情に囚(とら)われて瞋(いか)りを露(あら)わにしたり、あるいは物事の道理が解らなくなり、正しい信心が妨げられることであります。あるいは、妻子や身近な人が信心を妨げる場合もあります。あるいは国家や権力者、上司、あるいは父母等によって信心が妨げられることもあります。 とかく自分より力のある者、あるいは尊敬しなければならない人から信心を反対されると、強盛だったはずの信心が揺るぎがちになることもあります。よって、このような障魔が競い起きたときこそ、大難四カ度、小難数を知れず、あらゆる難を身をもって乗りきられた大聖人の御一代の御化導を拝し、我らもまた、いかなる困難・障(しょう)礙(げ)にも負けず、強盛に信心を貫きとおす覚悟を一人ひとりがしっかりと持つことが肝要であります。 すなわち、三障四魔をはじめ様々な諸難が襲ってきたときこそ、信心が試されているのであります。障魔に打ち勝って一生成仏へ向かうか、あるいは障魔に負けて悪道に堕ちるかの大事な岐路に立たされているのであります。 法華経の提婆達多品には、 「未来世の中に、若(も)し善男子、善女人有って、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信(しん)敬(きょう)して、疑惑を生ぜざらん者は、地獄、餓鬼、畜生に墜ちずして、十方の仏前に生ぜん」(法華経三六一ページ)とあります。 私達はいかなる障魔に出遭うとも、ただ大御本尊様への絶対信を持って、疑念なく、浄心に信敬して、強盛なる自行化他の信心に励んでいくならば、御金言の如く、いかなる困難も、立ちはだかる障礙も必ず乗りきっていくことができるのであります。 どうぞ各位には、本年の命題たる記念大法要、七万五千名大結集総会、記念総登山、さらに全支部折伏誓願達成へ向けて、異体同心・一致団結して、いよいよ御精進くださることを心からお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。 大白法・平成21年3月16日刊(第761号より転載) 三月度広布唱題会の砌 御法主日顕上人猊下お言葉(平成十七年四月度 広布唱題会の砌) 我々の心は非常に定めないものであります。ですから、その日、その時によって色々な心が起こって、いったい、どれが本当の自分の心か判らない人もあります。そのようななかで非常に迷いに迷って、生活のなかで不幸な形を表していく姿が実に多いのであります。 昔の歌で、「心にも 及ばぬものは 何かあると 心に問えば 心なりけり」という歌があります。我々の心というものは、実に不可思議であります。しかもその不可思議なことは、いつも迷いから迷いへと転じておるような、すなわち、どれが本当の自分か判らないような姿があり、これは世間の謗法の人達のなかには特に多いのであります。 したがって、その心を正しく見るというところに、我々の仏道修行の真実の目的があります。心を正しく見るならば、おのずとその振る舞い、行業、生活のなかの功徳ははっきりと顕れてまいります。 我々の心とはいったいなんでしょう。その実体はすなわち「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」と仰せあそばされた南無妙法蓮華経であります。我々は南無妙法蓮華経を仏様の御当体として、法として拝しておりますけれども、それはそのまま我々の心の実体なのです。ですから、我々の心の本質、本体、実体がそのまま南無妙法蓮華経であるということをはっきり知るならば、毎日の修行において、お題目を唱えることは絶対に必要なのであります。そうでなければ、我々の心は次から次へととめどなく狂いだして、不幸な状態を醸し出していくということが存するからであります。
2010.10.29
某SNSにて、すでに破折した。邪難を豪語する自称素晴らしい生き方(多分?)をしている。某h氏は、言っているよでございます。そう豪語して良いのでしょうか?いいのかな??それ、100%”鎌倉時代に無かった”と言えるでしょうか?まあ~彼は、素晴らしい生き方をしている。”無宗教”らしいので、絶対無い!!!豪語できるのが、本当に素晴らしいです。脱帽です。はい。で?実際見てきましたかな??????ま~恥かく前にコミュを解散したらどうでしょうか?ちなみに金原某氏は大日蓮・第745号(平成20年3月号54頁) 戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』に対する破折文書の掲載に当たって 教学部長 水 島 公 正 先に金原明彦(きんばら あきひこ)なる創価学会員が『日蓮と本尊伝承』と題する書を著した。その内容は、本門戒壇の大御本尊が日蓮大聖人の御図顕によるものではなく、後世の作製であると主張するものである。 この書は、 第一部 事実 (相貌編) 第二部 考察 (歴史検証編) 第三部 真相 (造立縁起編) から構成されているが、その中心は第一部の事実(相貌編)であり、金原はその第一部をさらに以下の三章に分けて論じている。 第一章 戒壇板本尊の相貌 ―弘安二年十月の御本尊ではありえない― 第二章 「日禅授与の御本尊」を追う ―驚くべき証言― 第三章 日禅授与御本尊と戒壇板御本尊 ―首題が「完全に一致」した!― 見るからに大御本尊を否定しようとする扇情的な見出しである。金原はこの書のなかで、いかにも独自の手で調査研究し、その結果を学術的に論証しているかのように装っているが、この悪書は今までしばしば他宗他門が言い立ててきた疑難の焼き直しに過ぎない。 ちなみに、従来の戒壇の大御本尊に対する疑難や偽作説の主なものを挙げると、宗祖滅後二百年ごろの北山日浄の記述や、明治期の玉野日志による『大石寺明細誌の批判』、近年では高田聖泉の『興尊雪冤録』、安永弁哲の『板本尊偽作論』、鴨宮成介の『板本尊の真偽について』、木下日順の『板本尊偽作の研究』、日蓮宗宗務院の『創価学会批判』、宮崎英修の『大石寺・板曼荼羅について』などがあり、最近では犀角独歩なる者が『大石寺彫刻本尊の鑑別』と題して偽作説を立てている。今回の金原の悪書はこれらの邪説の寄せ集めである。 ですから、某h氏も変わらない。”よせ集め”を何も知らない方々に”自慢”をしているよです。素晴らしい!!です。脱帽でございます。破折つくされた事を、ネットで自慢せず。実際にビデオ撮影で討論して欲しいものです。私のような、その~暴れ龍の荒凡夫でございますので、こんなの相手のせずに、実際にやって欲しいものでございます。よほど”どのような法華講の方よりも”素晴らしい生き方をしていらっしゃるのでしょうから、ネットで実現しないだろう出版自慢をするのでなく、現実でして欲しいものです。ええ~。出版しても、金原某氏の本のように、あまり売れないと思いますよ?それと、実に素晴らしい生き方をしているだけあり、コミュも自分勝手なルールで彼の解答不能になると切っているようです。ある方から、聞いて見ましたら、第三者から見ても、不公平ですね?それを他アンチに言われています。さて、最初に出した。身延には”絶対に楠木はない!”豪語できるでしょうか??実際に身延山周辺を見て、本当に?鎌倉時代に楠木はない!!言えるでしょうか?何が言いたいか?あまり、勉強せずに否定したいだけで、ネットで知識自慢しても、分かっている人から見れば、”くだらない”し”呆れている”だけでございます。それでも、豪語するなら、やってください。ただ、恥をさらすだけです。玉野日志や高田聖泉、木下日順、安永弁哲らのようなことにならないようにと思うだけです。それと、いつになったら、七万五千名大結集総会が”金儲け”という。証拠をいつ出すのでしょうか??何にいくら使い。何にいくら、その非情に細かい計算(パイプ椅子や他レンタル代金全てを含む)を出して、証明して欲しいものです。まさか、この総会で関わった”全ての企業”から”見積書”を見たのでしょうからね??戒壇の大御本尊云々よりも、こっちのほうが、重要でしょう!!金儲けと豪語したのです!!金儲けしたのだという徹底的証明を私は、一ヶ月は待ちたいと思います。豪語するならそれなりの証明をしないとならないのです。金儲けという証明を私は、非情に楽しみにしておりますので、荒凡夫の私を論破してください。
2010.10.28
やさしい教学 『良医病子の譬』昔むかし、あるところに、どんな病でも治してしまうという、非常に腕の良い医者がいました。そして、この医者には、たくさんの子供がいたのです。あるとき、医者は用事で遠くの国に出かけました。その留守の間に、子供たちは、薬がたくさんある棚から、おもしろ半分に、毒薬を飲み込んでしまったのです。それはたいへんな毒で、子供たちは悶(もだえ)え苦しんで、地面にのた打ち回り、苦しみのあまり本心を失っている子供もあれば、あまり毒に犯されずに気が確かな子供もいました。そこへ、医者の父が戻ってきたのです。その様子を見た父は、大変に驚くと共に、何と愚かな子供たちであろうかと、深く悲しみました。子供たちは、父が帰って来たのを知ると、喜んで父に、「よく無事にお帰りになりました。私たちはたいへん愚かで、お父さんが留守の間に、誤って毒薬を飲み込んでしまいました。どうか治療をして、命をお救いください」と、助けを乞うのでした。父は、急いで子供たちの病を癒(いや)そうと、好い薬草ばかりを集めて、突いたり砕いたり、篩(ふる)ったり混ぜ合わせたりして、ついに色も香りも味わいも好い、最高の薬を作り上げたのです。そこで、父は子供たちに、「この薬は、色も香りも味わいも最高であり、どんなに重い病でも治してしまう効き目があるから、今すぐにこれを飲みなさい。そうすれば、たちまちのうちに、お前たちの病は癒(い)えるであろう。だからもう、何も心配することはないぞ」と言って、その良薬を与えました。子供たちの中でも、心がそれほど乱れておらず、まだ本心を失っていなかった子は、父の言葉を信じ、さっそくその薬を飲みました。すると、たちまち病は癒えていきました。ところが、毒が深く入り込んで、本心を失ってしまった子は、父が帰って来たのを喜び、助けを求めていたのにもかかわらず、父の調合した薬そのものを疑ってしまい、飲もうとはしなかったのです。そこで、父は考えたあげく、一つの方便(ほうべん)を思いつきました。父は、「私は、既に年老いて、身も心も衰え、間もなく死ぬであろう。だから、この最高の薬を、今ここに留めて置くから、私の言葉を信じて飲みなさい。飲めば必ず病は治る。だから、疑ってはならないぞ」と子共たちに言い聞かせると、再び遠い他国へと旅立ちました。するとある日、父の使いの者が子供たちのところへやってきました。そして、その使いの者は、子供たちに、「あなた方の父上は、既に他国でお亡くなりになられました」と言いました。この知らせを聞いた子供たちは、深く悲しみに沈みました。そして、「もし、お父さんが生きていてくれたならば、私たちのことを慈悲深く哀れんで、よく護ってくださったのに。しかし、今は私たちから遠く離れた他国で亡くなられてしまった。私たちは、頼る方もいない孤児になってしまったんだ」と落胆したのでした。それからというもの、子供たちは来る日も来る日も悲しみに閉ざされ、父の言葉を信じなかったことを後悔しました。そして、その中でついに本心に醒(さ)め、父の残した良薬の色も香りも味わいも好いことに気づくと、その良薬を口に含んだのです。すると、みるみる元気なもとの体に戻っていってのでした。その様子を、他国で聞いていた父は、子どもたちが皆元気になったことを知ると、子供たちのいる我が家に帰ってきたのでした。そして子供たちは、再び父が自分たちのもとへ、戻ってくれたことを、大いに喜びました。◇ ◇ ◇このお話は、法華経の『如来寿量品第十六』の中に説かれています。この譬を、末法の今日、私たちの身に当てて拝するならば、非常に腕の良い医者とは、末法の御本仏たる日蓮大聖人様のことであり、たくさんの子供たちとは、末法の一切衆生のことなのです。つまり、子供たちが誤って毒薬を飲んでしまったということは、日本国の一切衆生が、法華経以前の低い教えに執着する謗法の僧侶たちの、誤った教えを信じ込んでしまい、災難の苦海に喘(あえ)ぐ姿を指すのです。そして、この時に、父の医者が戻ってきたということは、貞応元年2月16日に、末法の御本仏たる日蓮大聖人様が日本国に御出現あそばされたということです。さらに、子供たちが父の帰りを知って喜んだというのは、苦しみに喘ぐ衆生の心中に眠っていた仏性が眼を醒まして、歓喜したということです。ところが、毒気が深く入った衆生が多いために、自らの仏性を喜びを覚(さと)る者はいなかったのです。そこで父が、直ちに子供たちの病を癒そうと薬を調合し、良薬を飲むよう勧めたということは、大聖人様が無量の教法の中から、最も勝れた法華経という薬草より妙法蓮華経の大良薬をお説きになられ、衆生の謗法による三毒の病を治すべく折伏・弘通あそばされたということです。本心を失わずに父の言うとおりに良薬を飲んで病が治ったという子供というのは、大聖人様の教えを信じて弟子檀那となり、正法を護持して即身成仏を遂げた順縁の衆生をいい、逆に本心を失って父の言葉を信じることができずに良薬を飲まなかった子供というのは、謗法の毒気によって大聖人様の教えを信ずることができず、かえって大聖人様を怨嫉して、誹謗・中傷して地獄に堕ちていった逆縁の衆生を指すのです。そこで父が再び旅に出た後、旅先から使いの者に自分が亡くなったと、子供たちに告げさせたということとは、大聖人様が衆生に恋慕の心を起こさしめるために、弘安5年10月13日、武州池上の宗仲館で御入滅あそばされ、滅不滅の相をお示しになってということです。そして父が、子供たちが本心を取り戻して良薬を飲み、もとのように元気になったのを知って、子供たちに再会したというのは、大聖人様が常住不滅の御尊体たる本門戒壇の大御本尊を未来広布のために御図顕あそばされ、この大御本尊様を信じ奉る者に対して、三世常住の御利益を垂(た)れ給ふことを指すのです。大聖人様は、『聖愚問答抄』に、「仏を良医と号し、法を良薬に譬へ、衆生を病人に譬ふ。されば、如来一代の教法を撞篩和合して妙法一粒の良薬に丸せり。豈、知るも知らざるも服せん者、煩悩の病ひ癒えざるべしや」(御書408頁)と仰せのように、貧・瞋・癡の三毒による煩悩の病に苦しむ末法の一切衆生を救うべく、妙法の大良薬たる本門戒壇の大御本尊様を、今日、総本山大石寺に留め在かれたのです。そして、この大法を受持するならば、どんなに深く毒気が入った者であっても、必ず苦しみから救われ、やがて即身成仏の大果報を得ることが叶うのです。ですから、私たちはこの御本仏日蓮大聖人様の御金言を決して疑うことなく、信の一字をもって自行化他にわたる信心修行に精進していくことが大切なのです。本年は、宗旨建立750年の大佳節の年であり、宗門未曾有の法華講30万総登山が行われる千歳一遇の時です。私たち法華講員は、今この時にこそ、謗法の病に苦しむ世間の人々を一人でも多く救うべく、折伏・育成に励み、一人でも多くの眷属を連れて30万総登山に参加して参ろうではありませんか。大白法平成9年11月1日号 日蓮大聖人様は 「瞋(いか)るは地獄(じごく)、貪(むさぼ)るは餓鬼(がき)、癡(おろ)かは畜生(ちくしょう)」(観心本尊抄・御書647ページ)と、あります。三毒について、今までも出してきました。私も、毒はものすごく強いです。これ私だけでなく、修行をしてる皆さんがそうだと思います。いくら、法華講を先祖代々続いていたからとか、入信まもなくとも、みんな同じだと思います。だから、死ぬまで修行なのだと思います。良いことあったから、修行やめるとか?難しいから辞める。あの人ムカつくから辞めるとか?色々な理由で辞める人沢山おります。私も早くももう直ぐ三年でございます。あっという間です。でも、色んな経験・体験をしてきました。魔に負けたり、楽しい事。辛い事、腹立つこと、色んな体験をしてきました。私もまだまだ、修行中です。ただ言える事は、この修行をしてきて、経文通りのことが、体験できるという事。それは、文章では伝わりにくい事です。本当に不思議です。色んなことが、これからもあるでしょう。楽しいことも辛いことも、いっぱいあるでしょう。でも、多くの仲間に支えられ、励まされてます。本当に有難いことです。
2010.10.27
14 道徳(どうとく)さえ守っていれば宗教の必要はない 道徳とは現実の社会に、善良(ぜんりょう)な人間として生きて行くために、みずからを律(りつ)し、たがいに守るべき社会的な規範(きはん)をいいます。 したがって社会生活上の正と不正・善と悪などの分別(ふんべつ)を心得(え)て、みずからの良心にも、社会的な規範にも恥(は)じることのないように生活してゆくことが大切です。 しかし、道徳はあくまでも、現実に生きている人間のいちおうの規範であって、それによって、先祖を救い、みずからの罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)し、さらには未来の子孫の幸せをもたらすなどという力はありません。 つまり道徳は、今世(こんぜ)に生きる人々の生活を正し、人間性を高(たか)める意味での指針(ししん)とはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世(さんぜ)の因果(いんが)を説かず、三世にわたる一切の人々の救済とはなりえません。 日蓮大聖人は道徳と仏教の関係について、「王臣(おうしん)を教へて尊卑(そんぴ)をさだめ、父母を教へて孝(こう)の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依(きえ)をしらしむ」(開目抄・御書524頁)と仰(おお)せになって、道徳は仏法の先がけとして、その序分(じょぶん)の役割(やくわり)をはたすものだと記されています。 昔から人の守るべき道徳の一つとして、「孝養(こうよう)」ということがよくいわれます。自分を生み、今日まで育ててくれた両親に対して、よく仕え、その恩に報(むく)いることは大切なことです。しかし、仏法における孝養とは、ただ親の言葉にしたがい、親にものを贈ったり、年老いた両親の面倒をみるということにとどまらず、正法の功徳によって、両親を始めとする一家・一族・一門の人々を、皆ともに救っていくというところにきわまるのです。 したがって仏法では正法による孝養を、「上品(じょうぼん)の供養」(もっとも勝れた供養)と名づけるのに対し、道徳における一般的な孝養は、いわば「下品(げぼん)の供養」(上・中より下位の供養)にあたるとされています。 大聖人は、「法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏(みほとけ)になるのみならず、父母仏(ほとけ)になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外(ぞんがい)に仏となり給ふ(中略)『願はくは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及(およ)ぼし、我等と衆生(しゅじょう)と皆共(とも)に仏道を成(じょう)ぜん』」(盂蘭盆御書・御書1377頁)と、正法を行ずる大善(だいぜん)こそ、自ら仏の境(きょう)地(ち)に至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと教えられています。 このように正しい信仰をとおして自分を磨(みが)き、さらに世の中の人々を教(きょう)化(け)して、正法の功徳を社会の一切(いっさい)の人々に及(およ)ぼし、ともどもに仏道を成就(じょうじゅ)することが、最高最善の生き方となるのです。 (正しい信仰と宗教より)本来宗教で取り上げるべき問題は、こうした倫理道徳を知っているのになお弱いものいじめをする、人のモノを盗む、人を陥れる、ネットで誹謗といったこの濁った人間の心をどうしたらよいのかということが、重要です。私達に必要なのは道徳的な訓話や一時の通力などではなく、生命を内奥から浄化していける、真の力のある宗教の存在であるといえます。挨拶をすることは大切である、そのようなことは幼稚園の子供の頃からよく親なり教師から言われることです。またこの種の教えはどの宗教でも説いていることであり、これは「道徳」の問題であって宗教の問題ではありません。道徳と宗教をごちゃまぜにして考えている人は、多いです。ここで、日達上人の御指南を紹介します。とかく世間では化他という行を非常に重く考えております。そして自行という事を忘れがちであります。これは大変間違いであって、化他が大事であるという事は自行がより以上大事であるという事でございます。自行なくして化他が有り得ないのである。人々を導くとか、人に教えるという事は、それだけ自分がちゃんと行じてゆく、自行である。自分がそれだけの仕事をし、人々を導くだけの勉強もし、信心もして、そして人々を導いてゆくのである。自分が何にもできない、自分の仕事もできない、家庭も治まらないにもかかわらず、人々を教化し、導くなどという事は有り得ない事である。だから化他という事が大事であるという事は、自行ががっちりと出来上がらなければならない。その自行の根本は即ち信心である。自分の信心をがっちり築き上げてこそ、初めて人々に話しをする事もできる。もし話をする事ができないならば、自分の信心をがっちりして、御本尊に向ってお題目を唱え、自分の仕事をがっちりとやって、家庭を円滑に立派にしてゆけば、自然とそれが化他の行となる。世間の人を見て、あの人はああいう信仰をもって、立派に家庭も築き、そして人格も立派であるという事を見れば、その人は自然に教化せられてゆく、それが化他となっているのであります。自行の大事な所でございます。(衆和会元朝勤行の砌 S50・1・1) 私も魔に負けないで、信仰をしっかりとしていかないとならないと感じます。
2010.10.26
新しい仕事をして、もうすぐ一ヶ月です。厳しいなかにも、色々学ぶことや、反省の日々ですし、色んな方々とめぐり会える素晴らしい仕事です。まだ、結果が出てこないので、焦りもありますが、前進あるべきだと思っております。 御法主日顕上人猊下お言葉(平成十六年二月度 広布唱題会の砌) 唱題をするということ、また広宣流布に進むということの目的は、まず我々一人ひとりが正法によって真の成仏を遂げていくということにあるのであります。(中 略) 南無妙法蓮華経を強く信じ、「この御本尊のほかに成仏の道はなし」と深く心得て、いかなる難をも、また、あらゆる境遇のなかにおいても、この法が根本の法であるということを固く信じて、信心修行、唱題をしていくその人の当体がそのまま仏であるということであります。そして、それをそのまま自行化他の上から、自らも信ずるとともに他をも勧め、導いていくということが大切であります。 世の中の人々は実に様々で不完全な人生観、世界観のなかにおける自我に執われております。正しい宗教とは仏法であり、いわゆる日蓮大聖人様の三大秘法であります。そして、その三大秘法を信ずるあなた方が「正しい信仰をしましょう。正しい信心をしなさい」と、人に向かって勧めていき、また自分も常に信じつつ共に進み、そのなかでいかなる大難が来ようとも、けっして崩れることなく、あらゆるものを跳ね返していくところの強い信心の姿が、そのまま当体蓮華の仏であるということを大聖人様が御指南であります。 そこからさらに、未来永劫に向かっての大きな妙法の功徳が、皆様一人ひとりの大善業のなかに顕れていくことを確信いたしましょう。 広宣流布のためにも、我々一人ひとりの身分において妙法を固く受持し、自行化他に励むところに即身成仏の大功徳がそのまま成じていくということを固く信じて、進むことが大切と思うのであります。 私自身、まだまだ、信仰上で未熟も未熟です。ここ最近、色々言われてますが、私も反省すべきことが、沢山ございます。しかし、人を影で馬鹿にする。それは正しいとは言えません。言いたいことは、分かるがそれで、何解決に導くでしょうか?ただ、憎しみを増徴させ、悪循環を批判している皆さんでしているのです。今もそうですが、顕正会、学会、正信会がしている事。憎しみを作りだし、悪循環になってます。自我に溺れているだけです。私も自我が出しまう事もございます。自我で、仏法を計ろうとする。それだけは、私も慎み信心に励んでいきたいと思います。
2010.10.25
異体同心をしていかなければ、ならないこと私も何回も出しております。ここで、第66世日達上人の御指南を改めて紹介します。我々の信心は、強い人もあれば弱い人もありますが、共に手を携えてゆかなければならないのであります。これを譬えれば、戦争の時代に多くの輸送船があり、戦地の人々の生命の糧である食糧や補給物資を運びました。この輸送船には船足の速い船もあれば遅い船もあります。しかし輸送船団というものは、遅い船を対象とし速い船もゆっくりと、共に一団となって進んでゆくのであります。今日で言えば、ヒマラヤ登山のパーティーの如く、息の続く人や足の強い人が、身体の弱い人を労わってこそ、始めてあの嶮しい山の頂きに到達することができるのであります。我々の信仰というものも、そうでなくてはならないと思います。自分だけの信心で、ただ独り成仏すれば良いというものではない。共に信心の弱い人を励まし、地域社会一団となって、そこに広宣流布があれば、やがてそれは真実の広宣流布となると信じるのでございます。(元朝勤行の瑚 S47・1・1)大白法・平成11年10月16日刊(第535号より転載)教学用語解説(53)異(い)体(たい)同心(どうしん) 「異体同心」の「異体」とは、十人十色といわれるように、顔形から性格・才能など、人それぞれの個性や特質が異なることをいい、「同心」とは目的観や志(こころざし)を同じくすることをいいます。 「異体同心」とは、多くの人がそれぞれの個性・特性を持ちながら、心を同じくして行動する姿をいい、そこには一個人では果たせない偉大な力が発揮されるのです。 日蓮大聖人が『異体同心事』に、 「日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一(いち)定(じょう)法華経ひろまりなんと覚へ候」(御書 1389頁) と仰せのように、大聖人門下の皆が命を惜しむことなく法華経を弘めようとの思いで「異体同心」するならば、数は少数であっても、必ず広宣流布を成し遂げることができるのです。 すなわち、本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、大聖人以来の唯授一人血脈付法の御法主上人猊下の御指南を体し、僧俗一体となって大同団結して広布に邁進することこそ「異体同心」の姿であり、この「異体同心」を常に心がけ、唱題を根本にして折伏に励むことが広宣流布への源流でなければなりません。 『生死一大事血脈抄』に、 「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此(じたひし)の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり」(同 514頁) と仰せのとおり、この僧と俗が「異体同心」して唱える題目こそ大聖人の御意に適(かな)う題目であり、「生死一大事の血脈」が流れ通っていくのです。 しかし反対に、 「同体異心なれば諸事成ぜん事かたし」(同 1389頁) とあるように、外見では講中が団結し、一体のようであっても、一人ひとりの信心がばらばらで皆が違うことを考え、自分の我見で動いている「同体異心」であるならば、広宣流布はおろか何事も成就することはありません。 桜梅桃(おうばいとう)李(り)それぞれに特性があるように、法華講員一人ひとりに個性や才能の違いがあることは当然のことでしょう。大切なことは、その個性や才能の違う一人ひとりが大聖人の弟子檀那としての使命を感じ、御法主上人猊下の御もとに一結して広布へと前進していくことなのです。 御承知のとおり、大聖人様の御出現以降、七百八十三年が経過しましたが、下種仏法は日興上人・日目上人等、御歴代の御先師の法灯相続により、そしてこの間、僧侶が法を正しく護ることにおいて、今日まで存続してきておるのであります。これは『四恩抄』において、釈尊仏法が正像二千年の歴史を経て末法の今日まで伝わってきておる、という所以もお示しあそばされておるところであり、僧侶があって初めて、仏法が永久に続くということが存するのであります。 しかしながら、僧侶だけがあっても、けっして仏法が正しく伝わるということはないのです。すなわち、僧侶と一体になって正法を外護していくところに、在家の皆様方の信心の姿があり、また、それによって各々が仏道成就の本懐を遂げていくことができるのであります。したがって、それは僧俗が共に心を一つにしてこそ、初めて、真の信心修行が成り立っていくのであります。(平成十七年一月一日 元朝勤行の砌)異体同心をしなければ、ならないこと、日蓮大聖人様も歴代御法主上人様も言われております。仲良く手を取り合いながら、前進しなければなりません。顕正会も学会も、異体同心が出来ずに歯向かったために破門されました。一番大切な事は、誹謗したりせず、お互いに足りないものを補いながら、前進しなければなりません。ここで、私が折伏しているある老母の話をします。この方は、学会に入られてしまい。何もしてくらなかった。だから、日蓮系はおかしい!!聖書のエホバは助けてくれる!と言いました。昔の創価学会は、入れるだけ入れて無視されていたよです。この方学会に嫌なおもいされたのです。これが、異体同心とは言えません。エホバが、正しいと思う。しかたないでしょうが、エホバも捨てるでしょう。実際、エホバに私二回来ると言って来ませんでした。せっかくの折伏のチャンスを逃しました(泣)
2010.10.24
大白法・平成7年9月16日刊(第440号より転載)教学用語解説(9)世法(せほう)と仏法(ぶっぽう) 世法とは、俗諦(ぞくたい)また世俗諦ともいわれ、凡俗の迷情によって立てられた道徳や法律、または社会・組織などにおける規律などをいいます。 また広くいえば、文化や政治・経済などのあらゆる現象も世法に属します。 仏法とは、真諦(しんたい)または出世間法ともいわれ、仏の悟りの内容、さらには迷いの衆生に対して説いた法界の真理と、それを体得するための修行をいいます。 世法(俗諦)と仏法(真諦)について、天台大師は『法華玄義』に、「名は衆経に出づれども、其の理は暁め難し」と、名目は種々の経典に出ているが、その理を正しく説き明かすことは難しいことである、と述べています。 しかし、法華経の『方便品』に 「是の法は法位に住して 世間の相常住なり」 (開結 一八三頁) また、『法師功徳品』には、 「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(開結 五六一頁) とあるように、天台は、世法における政治・経済・文化等のあらゆる現実の姿がそのまま仏性常住の世界であると説く法華経(諸法実相)に立脚し、世法(俗諦)と仏法(真諦)の解釈をしました。 すなわち、『法華玄義』に「円教の二諦とは、直ちに不思議の二諦を説くなり。真は即ち是れ俗なり。俗は即ち是れ真なり。乃至不二にして而(しか)も二」とあるように、法華円教に明かされた世法と仏法こそ一体円融の不思議の法であり、法界の実相であることを明かしたのです。 さらに天台は、『摩訶止観』に、世法のあらゆる姿のなかに法華経の真理が貫かれていることを説き、それを達観する一念三千の観心修行を説いたのです。 このように、法華経の悟りの上からするならば、世法即仏法であり、別々のものではないことがわかります。 しかし、私たち衆生の凡眼・凡智をもって、直ちに世法と仏法が一体であるということではありません。 日蓮大聖人は『諸経と法華経と難易の事』に、 「仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし」 (御書 1469頁) と仰せのように、仏法の根本である下種の妙法は本体であり、世法はそれに対して影なのです。 つまり、仏法の究極である文底本因下種の法華経に基づいてこそ、政治・経済、さらには文化をはじめとする世法の一切の現象が、悉く仏法の妙理のあらわれとして活現するのです。 ゆえに『観心本尊抄』に、 「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得(う)べきか」(御書 662頁) とあるように、末法の衆生は、正直に我意・我見を捨てて、一切法の根源である南無妙法蓮華経の御本尊を受持し、信行に励むならば、誰人も世法の上に揺るぎない幸福を確立していくことができるのです。 我見で、物事を判断する人が沢山います。世間から見たらおかしいと決め付ける人もいます。仏法を知らないくせに、おかしいと決め付けるのもいます。例えでいえば、ラーメンで、見た目普通のラーメン。それを食べもしないで、見た感じがまずいと決め付けているのと同じです。また、箸に付いた汁を舐めただけで、全てを判断する人もいます。仏法は、そういうものではありません。実践しないと分からないのです。何でもそうでしょう。インターネットにしても、やった事ない人が、本や説明だけで理解は出来ないです。ネットで、あーだこーだ騒いでる輩らは、全く仏法を知らずにあの人はおかしいとか?決め付けているのです。否定するならば、それなりの否定するものを出すべきでえしょう。彼らは世法で騒いでいるだけで、逆に彼らがしている事が、世法からみてもおかしいと言われるのです。
2010.10.22
大白法・平成17年2月16日刊 (第663号より転載) 信行を磨く (96) 破(は)和(わ)合(ごう)は堕(だ)地(じ)獄(ごく)の因なり 土居崎慈成御尊師 「僧俗前進の年」との御命題を賜りました本年も一カ月を過ぎ、全国の各支部が誓願目標完遂に向け、本格的な活動を開始した頃と拝察いたします。季節も春を迎え、信心の始動にも本腰を入れなければならない時期でもあります。 宗祖の御誕生 私たち正信に集(つど)う平成広布の僧俗は、日蓮大聖人の御誕生により、その御魂魄たる御本尊を拝することができ、金(こん)口(く)嫡(ちゃく)々(ちゃく)、唯授一人の血脈を備えられた御法主日顕上人猊下の御指南により、日蓮大聖人の仏法を正しく信行することができるのであります。 法華経『方便品』に、 「諸仏世尊は唯(ただ)一(いち)大(だい)事(じ)の因縁を以(もっ)ての故に、世に出現したもう」(法華経 一〇一ページ)とありますごとく、末法の一切衆生救済のために、御本仏たる日蓮大聖人は貞応元(一二二二)年二月十六日、御誕生あそばされました。まさに末法の始めに五(ご)濁(じょく)の闇を照らし、濁悪の世に一実の光明を放つ一大事の因縁を備えたるものでありました。 『日女御前御返事』には、 「爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜(りゅう)樹(じゅ)・天親(てんじん)等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大(だい)曼(まん)荼(だ)羅(ら)を、末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通のはた(旗)じるし(印)として顕はし奉るなり(中略)妙法五字の光(こう)明(みょう)にてらされて本(ほん)有(ぬ)の尊(そん)形(ぎょう)となる。是を本尊とは申すなり」(御書 一三八七~八ページ)と、御本尊の御図顕の因縁を証されております。 しかしながら、御出現は未曽有の大漫荼羅を御図顕されることだけでなく、正法流布の使命を末法の弟子・檀那に託されたものでもありました。今の世相は、御在世当時に勝るとも劣らぬ様相を呈しており、地球の温暖化をはじめ、三災七難はまさに世界規模で甚大な被害を与えています。過日のスマトラ沖大地震では、三十万をも超える人々がその儀牲となったことを聞くにつけ、邪教に迷盲する人々を正法へと導く任を強くするものであります。 五(ご)逆(ぎゃく)罪(ざい)を恐れよ 御命題の「僧俗前進」とは、日蓮大聖人の正法を信行する僧侶と僧侶、僧侶と御信徒、御信徒と御信徒とが異体同心して諸悪の根源たる邪法を喝(かっ)破(ぱ)すべく、自行化他に邁進することにあります。 仏法では、無間地獄に堕(お)ちることが必(ひつ)定(じょう)とされる五つの大罪が説かれております。いわゆる殺父(しぶ)・殺母(しも)・殺(し)阿(あ)羅(ら)漢(かん)・出(すい)仏(ぶつ)身(しん)血(けつ)・破(は)和(わ)合(ごう)僧(そう)の五逆罪であります。その中でも「破和合僧」は他の四つの大罪とは異なり、外からも内からも起こり得るものであり、そうとは知らずに犯す場合もある大罪であります。これは三宝の破壊より起因し、和合を分断・断絶せんとする用(はたら)きから起こるものであり、この五つの中で最も重い大罪であると説かれております。 「破和合僧」とは、和合している僧団及び宗団の和を破壊する義であり、宗団とは、正信に集う日蓮正宗の僧俗であります。破とは、その和を破すに止(とど)まらず、広布の前進を妨(さまた)げんとする行いに他なりません。 『華果成就御書』には、 「よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたく(蓄)はひぬれば師弟地獄にを(堕)つといへり。師弟相違せばなに事も成すべからず」(同 一二二五ページ)と、良き師と良き弟子が正法の御旗のもとに集い、共に和をなして邁進いたしてこそ、仏果を得、願いを成就することができるとの御金言であります。もし和合を破る弟子が現れれば、師も弟子も共に仏果を失い、無間の炎に焼かれることとなるのであります。 二祖日興上人は、弟子・檀那への訓誡として、 「このほうもんは、しでしをたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也」(歴代法主全書第一巻 一八三ページ)と、日蓮大聖人の正しき法を受持信行する師と弟子が集ってこそ、仏果に至ると仰せられておるのであり、 「賢人と申すはよき師より伝へたる人」(御書 九六七ページ)と、正法の伝授と異体同心の師弟関係こそ、賢人の信行に他なりません。 臨終只今にあり 平成二十一年に向かう我ら和合宗団の前には、三(さん)障(しょう)四(し)魔(ま)等の様々な難敵が立ちはだかり、時には信心を脅(おびや)かすほどのこともあるかとは思いますが、何(い)時(つ)如(い)何(か)なる時にあっても、正法の行者として、賢人としての振る舞いに努めねばなりません。 「信は無(む)疑(ぎ)曰(わっ)信(しん)とて疑惑を断(だん)破(ぱ)する利剣なり。解とは智慧の異名なり。信は価の如く解は宝の如し。三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり」(同 一七三七ページ)と仰せのごとく、どこまでも正法正義に信を誓い、題目の五字七字によって諸仏の智慧を得て、時に適(かな)った信行に邁進いたすならば、平成広布の賢人と称賛されることでありましょう。 さらに諸仏の智慧は、自身の肉眼(にくげん)・天眼・慧(え)眼・法眼・仏眼の五眼を開眼し、物事の事象や真理を見極め、自らを助け、護り、必ず幸福へと導くことになるのであります。 御法主日顕上人猊下は、 「一切を開く鍵(かぎ)は唱題行にある」(大日蓮 六三五号)と仰せられました。唱題によって五眼は開かれ、今、自身がなすべきことも、折伏すべき人も、その方策も、すべて見通すことが必ずできるのであります。 そして、異体同心して折伏へと転じていくならば、支部の誓願も個々の大願も、叶わぬはずはないのであります。それでも未だ叶わぬ場合は、さらなる不自惜身命の精進をいたすべきであります。 中国の諺(ことわざ)に、 「人一たびして之を能くすれば、己之を百たびす」という言葉があります。これは他人がその目的を一度で達成してしまって、自分は一度では達成できない場合、達成するために百度でも挑戦し、必ず達成すると誓い、邁進する意であります。 広宣流布は、一人ひとりが「百たび」し、さらには、 「所詮(しょせん)臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を『是(ぜ)人(にん)命(みょう)終(じゅう)為(い)千(せん)仏(ぶつ)授(じゅ)手(しゅ)、令(りょう)不(ふ)恐(く)怖(ふ)不(ふ)堕(だ)悪(あく)趣(しゅ)』と説かれて候」(御書 五一三ページ)と説かれますごとく、「臨終只今にあり」との心で家族・支部・地方部一切の僧俗が一丸となって精進してこそ達成する大眼目であります。 さあ、春を迎え、生命が息づき始める今、平成広布の大前進を開始いたしましょう。十四誹謗について、書いてまいりましたが、インターネットでよく、誹謗をする。それも日蓮正宗の信徒と名乗って誹謗するのをよく見ます。それこそ破和合は堕地獄の因になります。日蓮大聖人様は。 日蓮大聖人が『異体同心事』に、 「日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(御書 1389ページ) と仰せです。仲良くしていかなければならないのです。それでも、同じ信仰をする人を誹謗をできるでしょうか?日蓮正宗を辞めるから、悪口を言ってもいいと考えてる人もいます。実際辞めてネットで悪口を書いていた人を私は、沢山見ております。はっきり言って、顕正会と学会と何がどう違うのでしょうか?ネットで、悪口を書き。あることないことを書き込みをして、何になるでしょうか?何解決するでしょうか?愚痴っている。悪知識の連中がいますが??そいつらと学会と顕正会なにが違うでしょうか?こういう、つまらない。仏法の基本すら分からないのとつるんだり、はたまた、信徒同士が誹謗をしあう。実に悲しいことでございます。
2010.10.21
十四誹謗をすると恐ろしいことになる事は、このブログで散々だしてきました。十四誹謗をしてる典型的なのは、創価学会の池田名誉会長であり、顕正会の浅井会長でもあります。創価学会は、言わずとも池田名誉会長の迷言を見れば明らかだし、顕正会の浅井会長の予言を見れば明らかです。十四誹謗をするとあんな姿になるのです。正信会の僧侶もそうですが、十四誹謗全てを犯しているのです。十四誹謗については、松野殿御返事で紹介をしてきました。また、法華経からも紹介をしました。法華経を持つ者を誹謗すると?妙法蓮華経第四法師品に云く「もし、在家であれ、あるいは出家であれ、法華経を持ち説く者に対し一言でも毀ることあるならば、その罪の重いことは、釈迦仏を一劫の間、面と向かって毀った罪よりも重いのであqる」と説かれている。また、法華経普賢菩薩観発品に云く「もし、事実であっても、事実でなくても、法華経を持つ者の悪口を言えば、その罪は重く、現世に白癩(びゃくらい)の病を得るであろう」とも説かれてます。これは、脅しではありません。実際法華誹謗をしている。学会や顕正会で、重い病気に苦しんでいる人を知っております。例えで、この信心をしているからと窃盗や、殺人をしたとします。それが事実であると作り話であると「あの人は信心してるくせに」などと誹謗しては、ならないのです。むろんこういう行為は、法律で裁かれてしまうのは、当然です。私たちは、人を誹謗して、信心するのでなく、励ましあいながら信仰していくのです。インターネットで、人が見てないところで誹謗して、何が解決するでしょうか??日蓮大聖人様は、見てないところで、あることないことを他人に暴露して馬鹿にしろと言われてますか???また、法華経をはじめ経典に説かれているでしょうか?そういう誹謗は、創価学会みたいな団体を沢山生むだけでございます。仏法をしらない悪知識とつるんで誹謗したり、はたまた、我見で寺院指導無しで人が見ていないところで、誹謗したりする法華講を沢山見ます。ネットで、誹謗するなら、きちんと唱題し折伏をすべきでしょう。私も仕事が新しくなり、慣れないし、疲れていても、勤行をし唱題をしてから、パソコンでブログを書いています。
2010.10.19
大白法・平成9年4月16日刊(第476号より転載)教学用語解説(26)善知識(ぜんちしき)・悪知識(あくちしき) 善知識とは、善き友、真の友人の意で、仏教の正しい道理を教え、衆生を正しく導く者をいいます。悪知識とは、仏道修行を妨げ、悪法・邪法を説いて衆生を迷わせる者をいいます。 知識とは事物の認識や認知のことではなく、広く人々に知られている友人・知人や師匠等のことで、私たちに縁する者を意味します。 善知識について、『法華経妙荘厳王本事品』には、 「若し善男子、善女人、善根を種えたるが故に、世世に善知識を得。其の善知識は、能(よ)く仏事を作し、示教利喜して阿(あ)耨(のく)多羅(たら)三(さん)藐(みゃく)三(さん)菩(ぼ)提(だい)に入らしむ。大王当(まさ)に知るべし。善知識は、是れ大因縁なり。所謂化導して仏を見ることを得、阿耨多羅三藐三菩提の心を発(おこ)さしむ」 (開結 657頁) と説かれています。この文によって天台大師は『法華文句』に四種の善知識を釈しました。 すなわち、一に修行者を援助し、仏法の弘通を援護する「外護の善知識」、二に仏法の教えを説き示してくれる「教授の善知識」、三に励まし合いながら修行してくれる「同行の善知識」、四に成仏に導いてくれる「実際実相の善知識」です。 日蓮大聖人は、『三三蔵祈雨事』に、 「されば仏になるみちは善知識にはす(過)ぎず。わがちゑ(智慧)なににかせん。たゞあつ(熱)きつめ(冷)たきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たひせち(大切)なり。而(しか)るに善知識に値(あ)ふ事が第一のかた(難)き事なり」(御書 873頁) と仰せのように、成仏するためには善知識に値うことが最も大切であるが、善知識に値うことは大変難しいことなのである、と御指南されています。 これに対し、悪知識については『星名五郎太郎殿御返事』に、『涅槃経』の文を引用されて、 「悪象の為にころされては三悪(さんなく)に至らず、悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る。此の悪象は但身の為にあだなり、悪知識は善法の為にあだなり」(御書 367頁) と示されています。不慮の死を遂げたり、殺害によって横死(おうし)しても、これらはただ身を破るだけで三悪道に堕ちる原因とはなりません。しかし、悪知識は、善心を破り、仏道に迷いを生じさせ、三悪道に導く悪因縁となる、と説かれています。 大聖人は、仏道修行する者は善知識に親近(しんごん)し、悪知識を遠ざけることを教えられているのです。 しかし、『種々御振舞御書』に、 「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくな(成)すものはかたうど(方人)よりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり」(御書 1063頁) と説かれているように、現実には私たちの周りには悪知識がたくさん存在しています。故に、私たちは真実の善知識たる御本仏日蓮大聖人の眷属として、悪知識さえも仏道修行増進の善知識と転換するだけの強い信心を持つこと、さらには、自分自身が他の人の善知識となり、悪知識にならないよう日々反省努力することが大切です。 私たちの修行は、破邪顕正の折伏です。折伏するうえで、仏法が分からない者からすると、汚い言葉だと思うこともございます。信心ままならないと悪知識の者を信じてしまうことがございます。 日蓮大聖人様は「悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言(ことば)巧みにして愚痴の人の心を取って善心を破るといふ事なり。」(唱法華題目抄・御書224ページ)と、仰せのように、悪知識は甘く話して言葉たくみに愚痴る人を騙してしまいます。ここで、改めて三毒について大白法・平成18年9月16日刊(第701号より転載)教学用語解説(108)貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三(さん)毒(どく) 貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三(さん)毒(どく)とは、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)の三煩悩(さんぼんのう)のことで、その三煩悩が衆(しゅ)生(じょう)の善の心を最も害する根元の煩悩であることから三毒といいます。 日蓮大聖人は『観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)』に、 「瞋(いか)るは地獄(じごく)、貪(むさぼ)るは餓鬼(がき)、癡(おろ)かは畜生(ちくしょう)」 (御書 六四七ページ)と仰(おお)せのように、貪瞋癡の三毒は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の境界を表しています。 つまり、貪欲とは、自分の欲するものに執(しゅう)着(じゃく)して貪る心、餓鬼の生命をいいます。瞋恚とは、自分の心に違(たが)うものを瞋(いか)る心をいいます。瞋りは他人(ひと)に苦を与(あた)えるので、それが業因となって来世には自らが地獄の報いを受けます。愚癡とは、道理に迷う愚(おろ)かな心、本能的に動く畜生の生命をいいます。 病や不幸の根本原因は貪瞋癡の三毒 御隠尊日顕上人猊下(ごいんそんにっけんしょうにんげいか)は、 「仏法においては『身は心の従』と教えており、身体は心の善悪に従ってあらゆる変化が生じ、そこに種々の病気や不幸が現れるのであって、その病気の元は過去・現在・未来の三世にわたる心の因縁果報に存するのであります」(大白法 六〇九号)と御指南されています。すなわち、一切衆生の種々の病や不幸は、すべて心の善悪により現れてくるのです。 では、その悪の果報を招く悪心とはいったい何でしょうか。それは、法(ほ)華(け)経(きょう)の『五(ご)百(ひゃく)弟子(でし)受記品(じゅきほん)』に、 「衆に三毒有り」(法華経 二九六ページ)とあり、『大智度論(だいちどろん)』には、 「三毒は一切煩悩の根本たり」また、 「根本の四病とは貪瞋癡等分なり」とあり、さらに『摩訶止観(まかしかん)』に、 「四大は是(こ)れ身の病、三毒は是れ心の病」 (摩訶止観弘決会本)と示され、また大聖人は『始(し)聞(もん)仏(ぶつ)乗(じょう)義(ぎ)』に、 「此(こ)の苦果の依身(えしん)は其(そ)の根本を探り見れば貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒より出でたるなり」(御書 一二〇八ページ)と仰せのように、多くの煩悩の中でも、最も悪(あ)しきものが貪瞋癡の三毒であり、この三毒より見思惑(けんじわく)・塵沙(じんじゃ)惑・無(む)明(みょう)惑の八万四千の煩悩が派生するのです。 邪宗教によって三毒は強盛(ごうじょう)となる 『曽谷殿御返事』に、 「邪法をあいし、正法をにくむ、三毒がうじゃうなり(中略)飢渇(けかち)は大貪よりをこり、やくびゃうはぐちよりをこり、合戦は瞋恚よりをこる。今日本国の人々四十九億九万四千八百二十八人の男女、人々ことなれども同じく一つの三毒なり」(同 一三八六ページ)と仰せのように、三毒は邪宗教によって悪循環(じゅんかん)し、増大していきます。つまり、正法に違背し、邪宗教を信仰することで、三毒は単に個人の不幸、迷いの根元となるだけではなく、貪りは飢渇、瞋恚は戦争、愚癡は疫病(えきびょう)を起こし、日本一国、さらには全世界の人々と国土の不幸の根元、悪の根元となるのです。
2010.10.18
最近、目立ちます。 私を誹謗するなら、まだしも、他同志を誹謗してる方々が沢山おります。 日蓮大聖人様は、お互い仲良くしなさい。悪口や誹謗はしない。また、何か悪い事をしたのを見たり、聞いたりしても、陰口をしないで、黙っていなさいと、御書に書いております。 なのに、インターネットを見ると、あれはおかしいとか?沢山法華講内で、言っているのが、非常に目立ちます。また、仏法を全てを理解していないのに、信徒を誹謗、先輩を誹謗をしている人もいます。 私たちは、法華経を信仰していても、何かすら十四誹謗を犯す事はありますし、私も完璧な信仰者ではありません。また、同じ同志といえ同じく、完璧ではありません。 だからと、知ったかぶりをして、法を下げると決めつけている。 そういうインターネットでの同志誹謗が、目立ちます。 本人に言わずに陰口をする。それが正しい信仰でしょうか? 私を例にすると、昨日、友人の法華講の方々と電話で話しましたが、これだけ仏法を勉強をし、破折が完璧だから、何もわからない。ただ、否定する輩や個人攻撃をして誹謗をしてる子供を相手にしては、インターネットで潰されてしまう。と言われましたので、私はそういうのは、相手にはしない事にしてます。 また、他の同志で必死に勉強をし、仏法を持って破折してる同志を、仏法の全てを理解したかのような書き込みで、法を下げるとか、陰口で誹謗をしてる人をたまに見ます。 私は、ふざけた事をする人間が、昔から大嫌いで、インターネットでは、ふざけた態度をして、挑発をし、はたまた、個人情報をネットに流したり、個人情報から会社を調べたりする人もいます。 はっきり言って、そういう輩は、ふざけているだけです。 私は、そういうのは相手にはしません。逆に私まで、非常識だと思われます。 同志を誹謗をする。インターネットで、してま誹謗は、誹謗です。 日蓮大聖人を信じているならば、同志をインターネットで誹謗をしたり、あれは間違えとか、見ていないところで、誹謗するそれは、創価学会や顕正会と何等変わりない。行為です。 そうして、非常に悲しい事です。
2010.10.17
私の趣味は、音楽を聴く事です。 いろんな音楽を聴きます。プロフィールに書いてますが、Mr.Childrenが大好きでございます。 他にも、鬼束ちひろも聴きますし、小田和正も好きです。 最近、私のお気に入りが、奥華子でございます。 関東地方では、TEPCO光のコマーシャルや、不動産のマスト。 最近では、ガストのコマーシャルでも歌ってます。 コマーシャルと違っていろんなラブソングを歌ってます。 路上ライブをしていて、十万人が足を止める。と言うその歌。 歌の声もあるでしょうが、綺麗な日本語の歌詞も魅力です。 思いを伝えるって、簡単な事じゃないと、営業の仕事をしていて、いつも思います。 十万人が足を止める。並大抵な事ではないと思うのです。 それだけ、やはり努力をスッゴクしてきてるわけです。 私も、負けじと努力をして、折伏をして経験をして、いかなければと思うのです。
2010.10.16
気持ちって、大切な事です。 今度の仕事は、いろんな方々の気持ちを形にする仕事でございます。 気持ちって、こういうネットだと中々、伝わりにくいものです。 それでも、私がネットでブログをするのは、文字でも、気持ちが分かればという思いでございます。 このブログも、早くも二年半しておりまして、十万アクセス越えました。 今年中に十万いくか?と思っておりましたが、今日見たら、十万アクセス越えました。 感謝でございます。 気持ちを伝える事、簡単なようで難しいです。 二十歳の頃に、両親に何とか、形あるものとして、プレゼントをしました。そして、銀婚式では両親の結婚式のビデオをDVDにしました。そういう形による気持ちも大切です。 次に私がしなければならない親孝行は、両親を戒壇の大御本尊様の元に連れていく事。 そして、結婚して両親を安心しなければと思います。 そういう気持ちを伝える。それが出来るようになりたいと思います。
2010.10.11
マナーが守れない人、沢山いますね? 私も人の事は、言えるような立場ではございませんが、以前の仕事がネット関係でしたので、インターネット内のマナーと言うのを、今思えば、乱れに乱れていると感じます。 顔が見えないから、何をしてもいい。何をネットに流しても構わない。 そういう人が、実に多いです。 法律に触れなければいいと言う考えの人が沢山います。 それで、平気でネットで個人情報を流したり、よく個人情報が漏れる事ありますね?また、個人をネットで誹謗して、自殺に追い込まれた話しもあります。 顔が見えないから、だから平気でインターネットで、情報が簡単に流れてしまうのです。 私の個人情報が流れている話しを去年したかと思います。安易に教えたりすると簡単に流れます。 これだけでは、犯罪にならない。私も法律を勉強しますが、これは納得できない現実です。 また、個人情報だけでなく、顔が見えないから、何を言ってもいいと思っている人は沢山います。 彼等は、意識ないでしょうが、顔が見えないから、挑発してふざけて怒らせたり、私みたいな、真っ直ぐになる(新しい会社でも言われた)集中すると、周り見えずにキレてしまう。そういう事を平気でやる人が沢山います。 これは、私にだけでなく、 インターネットでは、日常茶飯事です。 顔が見えないから、平気なんですよね~? 私も、カチンとくる事が沢山ございます。腹立つ事もあります。 先日、地元末寺の御婦人と話しましたが、インターネットは顔が見えないから、表現がわからないから、インターネットは怖いと話して、私も同感しました。 顔見えないから、相手が全くわからないから、どういう人で、どういう気持ちか?全く見えないです。 今、インターネットをする人が、増えてます。 携帯電話、パソコンでの光ファイバーや、CATVでのインターネットが、増えてます。 非常に便利です。私もインターネットがあるから、新しい仕事の参考等を見る事ができます。 だが、一方では顔がわからないから、やりたい放題になっているのが、現実です。 いくらインターネットだからと、顔見えないからと、ネットマナーは、大切です。 つくづく思います。世間でもマナーがなってれば、トラブルなんてないのです。 今、電車を乗ると、携帯電話はマナーモードは当たり前だし、通話はしない。でも現実は、違います。それでトラブルは沢山ありますね? また、私はタバコ吸わないですが、平気でマナーを守らない。スモーカーが沢山います。それでいろんなトラブルがあります。 マナーは、本当に大切です。 インターネットでも、最低限のマナーは、守ってほしいです。 私は、昔からそういうのを見るとイライラするのです。(母に似て) 別に私は、嫌われてもかまいません。しかし、最低限のルールだけは、インターネットで守ってほしいものです。私も人間ですので、いくら信心してるからと、ふざけていれば、腹立つ事は沢山あります。
2010.10.06
コピーのコピー、これ20世紀少年の中で、出るセリフです。一昨日に書いた。戒壇の大御本尊の邪義は、コピーのコピーさらにコピーです。悪い言い方なら、真似のマネです。そんなのネットで自慢しても、意味ありません。この時期になると、バラエティー番組でよくものまねをやります。先週もある番組で、ものまねをしてました。ものまね。例えば、おじいちゃんが、最近の若い人のものまねを見ても何のマネか?分からない。ただ歌が上手い。としか思わないでしょう。逆に若い人が、古い歌手のものまねを見ても同じだと思います。まあ~ネットで、コピーしてきて、いかにも知っているんだぜ!!みたいな??そんな事をしても、知らない人が見れば、この人は勉強してるな~偉いな~と思われる。”当然”でしょう!!!!!!これは、顕正会も”同じ”です。顕正会は、学会が言うことをそのまま、コピーしてペーストにします。これを略してコピペと言います。私が、顕正会より学会に詳しいのは、顕正会の邪義は学会のマネだからです。学会を破折出来れば、顕正会も出来ます。はい。顕正会にハマッテしまっている人たちは、共通して(一部除く)、純粋な気持ち、世間がわかってない。宗教というものが、よくわかってない。だから、学会のコピペも信じてしまうのです。かという私は、全く純粋ではございません。よく純粋だね?言われますが、ただの頑固者でございます。そして以前は宗教なんてまったくと言っていいほどの無知でした。だから、法華講に散々馬鹿にされて、調べたのですが・・・私の場合、第三者の書から勉強をして、実際に見る、聞くという事をしました。純粋な人ほど、宗教はハマります。それは、学会だろうが、キリスト教であろうが、統一教会であろうがです。魔はこういう純粋な気持ちに入っていきます。私も色んなこういう宗教をしている人を折伏ししてきましたが、みんな純粋です。純粋であるが故にそういう方を救うのは、大変でございます。
2010.10.05
某SNSで、某h氏は、某歩氏や金原某の邪難をこりもせずに、書いております。それを真似ていた。湘南某は、消えてしまいました。彼らから、国賊の称号をいただきました。ありがとうございます(笑)この場で失礼ですが、お礼をもうしあげます(爆)某h氏は、近々なにやら出版をするようなので、”著作権”だけは注意して欲しいものです。某歩氏や、はたまた、金原某氏から著作権で訴えられないよう注意ください。まあ~内容は、私は想像はついておりますので、以上だけは注意ください。あと、某何とか正会(バレバレ)の浅井某氏のように、御書を発行します!と言って発行しなかったり、はたまた、後十数年で、何万人!!というような事は、なさらないように注意してください。私が、何故反論しないか?もう論破された内容だからでございます。そういう内容を一々私ごとき、日蓮正宗の一兵卒のようなものでございます。まだまだ、ひよっこでございます。それを捕まえて、やる事では、ありませんですし私は、まだまだ、知識は無い人間でございます。また、多くの法華講サイトやブログ等で、書かれていることを一々書くことでもありません。何か?身延には、楠木は無い?へえー某h氏は、実際に身延周辺を見たのでしょうか?また、建物の構造とか?もう、論破されてしまってます。戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破す大日蓮・第745号(平成20年3月号54頁)戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』 に対する破折文書の掲載に当たって 教学部長 水 島 公 正 大日蓮・第745号(平成20年3月号55頁)金原による「河辺メモ」の狡猾な悪用を糺す 川喜多 雄 秀 大日蓮・第746号(平成20年4月号63頁)戒壇の大御本尊の御相貌に関する邪難について 漆 畑 正 善 大日蓮・第747号(平成20年5月号99頁)史実を歪めた邪難について 森 岡 雄 樹 大日蓮・第748号(平成20年6月号36~43頁)金原による文献乱用の欺瞞を糾す(一)大日蓮・第749号(平成20年7月号43~52頁)金原による文献乱用の欺瞞を糾す(二) 長谷川 信 達 大日蓮・第750号(平成20年8月号36~41頁)「出世の本懐」に関する金原の欺瞞を糾す 阿 部 正 教 大日蓮・第750号(平成20年8月号42頁)戒壇の大御本尊誹謗の悪書 『日蓮と本尊伝承』に対する 破折文書の掲載終了に当たって 教学部主任 原 田 輝 道 (知道寺ホームページより)某h氏は、まさかこれらは、簡単に論破できるのかと思います。私のような、ひよっこをどうこうと小さなSNSサイトで勝ち誇るのではなく、きちんとした形で、やって欲しいと思います。まだまだ、ひよっこの私をアクセス禁止にしているようでは、正々堂々とは言えないでしょうか?他にも突っ込み所が、ありますが、去年の七万五千名大結集総会で、金儲けをした。証拠ないことを言ってました。なるほど、78000×2000円=156000000円では、使用パイプ椅子52271脚野外大型モニター20式設置(ステージ上は14.5m×8m)かち割氷500g×80000袋(40t)仮設テント数28張仮設トイレ558台他、弁当代・記念品・警備員・任務者の弁当代や暑さ対策など、後は、高熱費などを、某h氏は、計算しての発言であろうか?彼にこれについてのメール解答不能でした。某h氏の反論が楽しみでございます。最近、アンチ日蓮正宗シリーズ、書いてなかったですね。なんか、このシリーズ正直ネタ尽きてました。(泣)それに、大日蓮にある内容をコピーして貼り付けもな?とも思ってましたし、他の方々が論破しているのをいまさら?と思いました。それよりも、やはり、道理・文証・現証だと思います。そこから、他宗教が、何故?おかしいか?矛盾か?また、平和とは?そういう事を書いていくのが、このブログの原点であると思います。そして、多くの方が、大石寺は素晴らしい!信仰とは?そういう事か?と、寺院で話を聞きたいと感じるブログが、本来の目的です。某h氏については、なにやら、出版をするようですので、それを非常に楽しみにしております。
2010.10.03
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