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「アルコール中毒」良い表現ですね。信徒の友でこのようないわゆる差別表現とも受け止められかねない言葉が使われるとは思っていませんでした。断酒会、A.Aの多くの仲間は、例会、ミーティングで自己紹介をするときには「アル中の◯◯です」と言います。第三者が使う場合には問題があるかもしれませんが、少なくとも自分自身を指して使う場合は許されると思います。最近、言葉狩りが流行し、訳の分からない言葉が作られています。本来、差別的なニュアンスを含む言葉には、それに伴う実態がある場合が多いと思います。実態が改善されないのに言葉だけを変えても、時がたてばその言葉もまた差別的なニュアンスを持つでしょう。例えば統合失調症、認知症は活字の世界だけの言葉になるように思えます。確かに本人や家族は一時過去の呪縛から解放されるでしょうが、むしろ曖昧な表現であるからこそさらなる差別を生み出すではないかと思っています。躁鬱症も気分障害と言い換えるそうですが、話をする相手ごとにまず病気の説明をしなくてはならなくなりますね。瀬戸キリスト教会には統合失調症の人もいますので、私が牧師として使う言葉としては気をつけて使っています。しかし、私自身を指すのならば、むしろ普通に用いられてきた言葉の方が差別的ニュアンスも含めてふさわしいと思っています。私はむしろアル中という言葉が持つ差別的なニュアンスを自らに対する社会の正当な評価だと受け入れています。アル中はアルコールを止めない限りは社会から排除されるべき存在であることも私は認めます。それだからこそ、その私を甦らせて下った主の愛の大きさを思うのです。大きなマイナスだったからこそ、それが逆転されたときには大きなプラスになったのです。回心は劇的なほどより大きなエネルギーを生み出します。私が現在生きておられるのも、牧師として主の御用に当たられるのもそのエネルギーによるのでしょう。私は今回の原稿を書きながら、かつて主が私になされた御業を思い出しました。私は「心の病」といわれ続け、心さえも暗黒の中で萎えてしまっている仲間のことを思い出さされました。私が主張し続けてきた「精神病だけれど心は健康である」は、そういう仲間に対する私からのメッセージです。「主はあなたを愛され、あなたを必要となされている」そう伝えたいと思っています。
2006/03/31
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「慰めの祈りー病むときに」 信徒の友新刊紹介 堀 俊明 「病も主から与えられた賜物、特別な恵みである」に気付き、主の恵みに感謝することができれば、人は癒され、平安な心を取り戻すことができます。たとえ肉体が癒されなくても、心は甦り、主の愛と恵みを賛美することができるように変えられます。 私は躁鬱病と「アルコール中毒」で精神障害2級の牧師です。私には、鉄格子のある病院で何年かを過ごした経験があります。私は入院中にも関わらずアルコールを飲み、人事不省に陥り、瞳孔が開き血圧が0になった時に生ける主に甦らされました。 自分自身ですら自分を見捨ててしまった時に、復活の主は「それでもおまえを愛している」と言われました。その時に、私の心は甦りました。躁鬱病は、脳の機能の一部の欠損つまり肉体の病気ですので、肉体は癒されませんでしたが、心は甦らされたのです。 私は、私の人生をすべて主に委ねました。寝たり起きたりの生活の中で、東京神学大学への進学・卒業、牧師、結婚、そして開拓伝道へと私の人生は開かれました。 私の妻も病気の私を助けるためか牧師に召されました。躁鬱病は癒されないと思っていましたが 、新しい薬が開発され、薬を飲み続ける限り、健康な人に近い生活が送れるようになりました。 今、私の体から聴力も失われつつあります。現在は身体障害4級です。教会員の祈りを聞き取る能力はすでに失われています。補聴器を付けていますが、現代医学が進歩しても回復することはないでしょう。 人は病に陥った時には、肉体は医療に委ねなければなりませんが、心は主に委ねなければなりません。生ける主との生きた交わりこそが、人に生きる力を与えてくれるのです。人は病むと祈る言葉さえ失ってしまう時がありますが、その時にこそ、この本を開き主に祈ってみましょう。まず祈りの言葉を口から出してみることが大切なのです。 人は祈りを口にすることで、生ける主との交わりを回復することができます。祈りこそが、人の心を癒してくれるのです。 人は病の時に悩み、苦しみ、戸惑います。今まで信じていたものが音を立てて崩れ落ちるのを経験します。病気に対する不安、病院生活に対する不安、未来に対する不安などが私たちの心を必要以上に苛みます。肉体よりも心が病んでしまうのです。時には肉体は癒されても、心は癒されない場合すらあります。 そのような時にこそ、私たちは主に悩み、苦しみを訴えればよいのです。自分一人で耐えるのではなく、主が共に耐えてくださります。主と共に歩めば、病の時にも希望を持つことができます。主により新しい道が開かれるのです。 主は私たちの心を癒してくださります。たとえ肉体がいかに病で傷つこうとも、心が病まない限り人は希望を持って生きることができるのです。 人は病に陥った時に、特に主を身近に感じます。病の時、生ける主との交わりで心が癒されることこそが、主から与えられた特別な恵みなのです。たとえ現代医学の限界に生きる道が絶たれたとしても、天国への道を平安に歩むことができるのです。
2006/03/30
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心のリハビリ堀 俊明 精神病はパソコンに例えると分かりやすいかもしれません。脳はハード、パソコン本体で、心はソフトに例えられると思います。精神病の多くは先ずハード、脳の機能が損なわれパソコンが正常に機能しない状態をさすと思います。ハードが正常に機能しなければ当然ソフト、心にも異常が表れます。ハードの異常がソフトを巻き込みパソコンが正常に機能しなくなります。多くの精神病、躁鬱病、統合失調症、癲癇などは何らかの理由で脳の機能が損なわれ、精神活動に異常をきたすのではないかと私は考えています。 逆にハード、ソフトとも正常に機能していたのに、ソフトが処理できないような情報が入力されて先ずソフトがダウンし、ハードも正常に機能しなくなったのが、神経症、PTSDのような心の病気ではないかと思います。 精神病は思春期に発病しやすいといわれますが、子供の脳から大人の脳に脳が成長するときに、脳の機能の異常が現れやすくなるのでしょう。脳が正常に機能しなければ、正確な情報が心に達しないので、心は正常に発達しません。外から見ると、脳の機能に異常があるのは分かりませんから、心の病気と言われてきました。 しかし、心は人間を人間たらしめるものです。人間はコンピューターに例えられる存在ではないのです。脳という肉体に属する存在ではないのです。例えばコンピューターの性能がいかに高まっても決して人間の代わりにはなれないのです。人間の心は人間固有のものなのです。 人間の心は人間が本来持って生まれてきたものですが、肉体が成長すると共に成長していきます。この成長の過程で脳の機能が損なわれ、心まで蝕まれる場合があるのです。多くの精神病で苦しむ人は、脳が正常に機能しないのに加え、心までが病んでしまっているのです。 先ず精神病の治療は脳の機能を回復さすところにあります。最近、新しい薬が開発されてきていますから、精神病で脳の機能が犯されている多くの人たちの脳は薬を飲み続ければ回復するようになるでしょう。 医療は脳の機能の回復のために、先ず薬、さらに脳のリハビリの場を提供します。社会は精神障害者に対して様々な福祉政策を講じています。社会生活を支えるために障害者年金、社会参加のために社会福祉施設などを用意していますが、いずれもハードを対象にしたものにすぎません。 私たちの脳の機能は薬を飲み続けることにより回復しても、一番大切な心は回復していないのです。医療は脳の機能を回復さすことはできますが、心は各自に固有なものですから医療の対象にはできませんし、対象にしてもらっては困ります。医療は人格、心を改造することをしてはならないのです。 心の問題は医療ではなく、宗教、思想、哲学などが取り扱うべきものなのです。脳の機能が回復するにつれ、自分の置かれている状況が次第に見えてくるようになります。失った過去に対する怨念や現在置かれている状況に対する不満などが心を激しく揺さぶります。薬の効果が現れ、脳が正常に機能し始めると、むしろ心は激しく動揺し、不安は増大するのです。 私たちは脳のリハビリと共に心のリハビリに励まなくてはならないのです。精神障害の世界の中に閉じこもっていた心を解放しなくてはならないのです。闇の中で震えおののいていた心を明るい光の下へ導かなくてはならないのです。これから歩んでいくべき方向、目標を定めなくてはならないのです。 私は長い格闘の中でそれがイエス・キリストだと信じられるようになりました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」それが実感として感じられるようになるまでには長い年月がかかりました。アルコール依存症で入院していたのにも関わらず飲酒し、血圧が0になり、瞳孔が開き仮死状態になったところから甦った時、自分ですら自分を見捨てた時に「それでもおまえを愛している」という主の声を聞いたのです。 その時から一度死んでいた私の心は甦りました。躁鬱病でアルコール依存症の脳は回復しませんでしたが、心は回復し始めたのです。相変わらず寝たり起きたりの生活でしたが、東京神学大学進学、牧師、結婚と私の人生は変えられました。生きる目標、意義を見つけられたことが私の心を甦らせたのです。 私は20年前ぐらいから「私は精神障害者だけど心は健康だ」と主張し続けてきました。例え脳の機能が損なわれていても、心が健康ならばその人は健康なのです。普通の人のように生活できないとしても、人間としての誇りを失わなければその人は健康といえるのです。 さらにこれからは、医学がものすごいスピードで進歩します。脳の機能を回復さすための手段は格段に進化します。現在の常識では語れない世界がやってくるでしょう。私自身も新しく開発された抗鬱剤パキシル、SSRIを飲み続けることにより肉体の健康も回復しました。しかし、いくら脳の機能が回復したからといって、心が回復しなければ病気から解放されたとはいえないのです。心を回復させる手段は昔も、今も、これからも変わらないのです。自分で信じられる道を探し求め、それを見つけることなのです。脳が癒されても、心のリハビリを続けなくてはならないのです。 信仰はその答えの一つです。主を信じる者には信仰は絶大な力を与えます。それは脳、肉体が直接癒されると言う意味ではなく、心が癒されることにより病を乗り越えることができるという意味です。かつて自分自身を卑しめていた自己から解放され、人間としての尊厳を回復するという意味です。精神病が不治の病から治る病になってきたからこそ、心のリハビリが求められるのです。
2006/03/29
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甦った脳 躁鬱病でアルコール依存症の牧師 堀 俊明 今から4年前、2001年春、それまで週3回は抗鬱剤の点滴を受けていたのが、ある日から点滴を受けに病院へ行かなくなりました。私は心のどこかで抗鬱剤依存症になっているのではないかと恐れていましたが、突然点滴を受ける必要が無くなったのです。主治医に診察の中で「最近妙に調子が良い。躁になったのかもしれない」と言いました。主治医はニコニコしてカルテの薬の処方欄を広げて「これ、これ」と言ってパキシルを指し示しました。確かに、主治医からパキシル、SSRI(選択的セルトニン再吸収阻害剤)系統の抗鬱剤が新しく開発されたので試してみないかと言われました。副作用としては眠気があることを説明されましたが、不眠に悩まされていた私は導眠剤をかねるので、むしろ都合が良いと思い、就眠前に飲むように処方してもらいました。それまで私はパキシルと同じSSRI系統のルボックスを飲んでいたので、新薬だからといって期待はしていませんでした。ジュースの材料がミカンからオレンジに変わったぐらいにしか考えていなかったのです。 ところが、それまで寝たり起きたりの生活を続け、点滴を受けることによりかろうじて牧師を勤めていた私が、パキシルを飲み続けることにより健康な人に近い生活を送ることができるように変えられたのです。パキシルにより脳が甦ったのです。SSRIは脳の神経伝達物質であるセロトニンがシナプスの受容体に吸収されるのを防ぎ、セロトニンの濃度を上げることにより脳を鬱状態から解放するそうです。わかりやすく言えば、躁鬱病、脳の機能の一部の欠損が薬を飲み続けることにより回復するのです。足が不自由で立ち振る舞いが自由にできなかった人が性能の良い義足を手に入れ、健康の人と変わらない生活を送れるようになったようなものです。30年前、私の最初の主治医は躁鬱病の精神科医でした。患者から診ても明らかに躁鬱病と分かるほど重度の躁鬱病でした。彼は私に「足の不自由な人は車椅子や松葉杖を使うだろう。あなたは薬をそれらの代わりとして利用しなさい。薬を飲み続けることにより健康な人に近い生活が送れれば良いのだから。私は何を忘れても薬だけは持ち忘れないようにしている」と言い、ベルトに取り付けてあるポーチの中の薬を見せてくれました。これまで飲んできた薬は対症療法で、生活が変わるほど効くものではありませんでしたが、30年間薬は飲み続けてきました。私は私の人生は寝たり起きたりで終わることを想定して生きてきました。その想定がひっくり返ったのです。それは、パキシルを飲み続けることにより、それまで車椅子すら自由に動かせなかった私に、自由に歩き回れる義足が与えられたようなものでした。私が最初に抱いたのはむしろ違和感、あるいは恐怖感でした。真っ暗な世界で立ち竦み、足元しか見ることのできなかった私に、立ち上がり、目を上げ、目の前の世界を見る力が与えられたのです。目の前の暗闇が薄れ、目の前には未知な世界、自由な天地が広がっていました。いきなり広がった世界を前にして私の足は竦みました。そーっと足を踏み出し、足を踏ん張ることができるのを確かめ、一歩一歩足を進み出し始めたのです。私は発病前の世界、思春期までしか経験したことのない世界で生きていた頃の感覚を思い出しました。何でもできると信じ込んでいた時代の感覚を思い出したのです。しかし、現実の世界では私の脳は30年間正常に機能してこなかったのです。たとえ大脳生理学的に脳が正常に機能するようになったとしても、リハビリが必要でした。錆び付いた脳から錆を落とすことが必要でした。私は脳を活性化させるために、脳のリハビリのために読書をすることを選びました。幸い高知では図書館が整備されています。近くの図書館に行けばオンラインシステムで本を取り寄せてくれます。私は4年間の間に500冊を超える本を読みました。読書を重ねる中で脳の機能は少しずつ甦ってきました。日常生活も規則正しいものへ変わってきました。4年間一度も鬱状態になったことはありません。寝たり起きたりの状態で一日に一回は布団に潜り込んでいましたが、寝ることはできず、時には眠剤を乱用したこともありました。家内に眠剤を取り上げられるくらいでした。しかし、今では日中布団に入ることはなく、毎日一時間ぐらいソファーで自然に昼寝ができるようになりました。眠剤の量も半減しましたが、睡眠は十分にとれています。早朝覚醒が続き日の出前からインターネットをしていたこともありましたが、今はゆっくりと目覚めることができるようになりました。それだけではなく、肉体も脳の機能が回復するにつれて回復してきました。アルコールを飲んでいたときの後遺症でインスリンを使用していますが、糖尿病のコントロールも非常に良くなりました。体の隅々の細胞までが活性化されてきたのを実感します。単に脳の機能が回復しただけではなく、肉体の機能も回復してきました。生活の質そのものが高まったのです。現代医学の進歩は私たちの予想を遙かに超えています。私のように薬を飲み続けることにより健康な人と変わらない生活を送れるようになった人はまだ少ないかもしれませんが、遠くない未来には様々な薬が開発され、脳の機能が回復される人も増えてくるでしょう。精神病は不治の病ではなく、治る病気になってきたのです。私たちは未来に希望を持つことができるのです。
2006/03/28
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