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JOCは2016年に開催される夏季オリンピック候補都市に東京都を指名しました。福岡市との接戦を東京都が制しました。東京都のステータスが福岡市を振り切りました。財政力が雌雄を決したようです。 福岡市は、「人口150万人の都市でも開催可能な21世紀にふさわしい五輪のモデルを」というコンセプトで全市を挙げて誘致に取り込みました。競技団体から東京をしのぐ評価を集めていましたが、体力負けしました。 東京都の驕り高ぶった姿勢には競技団体からの反発も見られましたが、名古屋、大阪と2連敗したトラウマが東京を選ばせたのでしょう。石原東京都知事の政治力がだめ押しをしたようです。 福岡市の開催計画は時間をかけて練り上げたものでしたが、知名度、財政力を評価の基準にされれば勝負になりません。しかし、地方都市として最善を尽くしたとして高い評価を受けました。33票対22票は善戦したと思います。 日本はやっとバブル崩壊から立ち直ったのに、時代がバブル期に逆行したかのような印象を受けました。日本国中に不必要な「箱物」が次々と建設され、「大きいことはいいことだ」と思っていた時代にタイムスリップしたかのようです。 東京オリンピックは日本の高度成長期を象徴したイベントでした。新幹線が走り、高速道路ができ、ゼネコンの絶頂期でした。今から思えば環境破壊をむしろ誇りにしていたような時代でした。 半世紀後の東京オリンピックが同じ発想で行われるような危惧を抱きます。東京再開発、公共投資の起爆剤としてオリンピックが利用されるのではないでしょうか。小泉改革で破綻寸前のゼネコン救済ではないでしょうか。 東京都のオリンピックに対する取り組みには明確なコンセプトが感じられません。オリンピックには未来に対する希望、夢が必要です。なぜ東京でオリンピックを開かねばならないかが明確にされていません。 日本は「箱物」、ハード重視から「人間」、ソフト重視の社会へ転換されなくてはなりません。日本の国土に見合った開発が必要です。東京に必要なのは環境と調和した開発であり、オリンピックのための開発ではありません。 東京は「世界一コンパクトな五輪」をコンセプトにするそうですが、過密な東京をますます過密にするだけのように思われます。国からの直接、間接の財政援助を期待しているようですが、日本にはそれだけの経済的な余裕はありません。 国民生活に密着する分野、教育、医療、福祉などでは財源不足で国民に不自由な生活を強いています。東京都が体力勝負で福岡市をねじ伏せましたが、中央の横車は地方分権の時代に逆行した暴挙です。 小泉首相は公共事業依存の社会から梶を切りましたが、公共事業依存の社会に戻りそうです。日本がかつて来た道に再び帰ればまた財政赤字の垂れ流しになります。借金を次の時代へ先送りをしてしまうのです。 日本は小泉改革で古い柵を切り捨てました。少なくとも自民党の派閥は存在意義をなくしましたが、後継総裁選で派閥を再編しようとしています。彼らの利権の元を絶たなければ日本は再生しません。瀬戸キリスト教会
2006/08/31
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橋本高知県知事がブログを再開したことを歓迎します。ブログの中で県に文化環境部というセクションがあることを知りました。新堀川を暗渠にする問題は「箱物」セクションではなく文化環境部に担当させるべきだと感じました。 知事がブログで指摘されているように、環境問題を抜きにした開発事業は21世紀に相応しくありません。観光立県を唱えているのですから、新堀川を観光の目玉にできないか検討すべきだと思います。 「小樽運河も門司港の内港も、そして油津の運河も、いずれも埋め立ての危機に遭いながら、それを中止することで、水辺を活かした、歴史的な魅力のある街として蘇った」という指摘は新しい可能性を示唆しています。 100億円は高知県には過大な投資案件だと思います。地方交付税が大幅にカットされそうですし、起債も難しくなりそうです。既に高知市の起債が制限されるそうですし、高知県の財政も逼迫しているように思えます。 県には「箱物に」に実質50億円分の起債をする余裕があるとは思えません。県に50億円の余力があるのならば、医療、福祉、教育などに振り向けるべきです。「箱物」ではなく「人間」に投資した方が経済波及効果も大きいと思われます。 「国土交通省が、東京の日本橋の上空に首都高速を建設したのは、失敗だったと反省をしている時代」に新堀川を暗渠にするのは時代遅れであり、100年後の価値を検討したいという知事の主張に双手を挙げて賛成します。 21世紀も従来の行政システムの延長線上でしか思考できない県の職員に失望していましたが、知事が率先して行政改革に励むのなら高知県にも未来があるのかも知れないという希望が湧いてきました。 「ぷらっとこうち」も県の職員には時代遅れの対応しかできません。700人近い参加者の意向も聞かずに「ぷらっとこうち」を閉鎖してしまう感覚に違和感を覚えます。民主主義の原点、言論の自由を見失っているからです。 「ぷらっとこうち」は確かに県の予算で運営され、県の職員が事実上管理していますが、県と県民の協働の場であるのならば、県の職員だけの判断で閉鎖するのは自己矛盾です。 私には地方政治の世界のことはよく分かりませんが、「ぷらっとこうち」で起きている事態は高知県政にとって死活的なことであると感じられます。民主主義の原点、言論の自由が県の職員、公僕に犯されているからです。 私が竹内さんにブログを通じ「ニートの会」の講師を頼まれたのは「ぷらっとこうち」での一連のトラブルが起きる前です。トラブルが起きた後初めてお会いしたのですが、竹内、西村両氏は良識ある一市民であると思いました。 この人たちを登録抹消した運営委員会の処置が一県民として理解できません。少なくとも私が「ぷらっとこうち」に登録した3、4ヶ月前からの経緯を眺めていると、到底参加者の同意を得られる処置とは思えません。 リフレッシュ休暇を終えた知事が指導力を発揮して、県の処置に失望したブログ村の住民の信用を取り戻す処置を取られることを祈っています。このままでは県職員に対する失望、絶望が知事に対する失望に置き換わりかねないからです。瀬戸キリスト教会
2006/08/30
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またしても無軌道な飲酒運転が北九州市で3名の子供の命を奪いました。飲酒運転をされた自家用車は時速80kmを越す猛スピードで、海の中橋の上でRV車に追突しました。ブレーキを踏んだ跡が見られず、脇見運転をしていました。 追突された家族5人が乗ったRV車は橋の欄干を突き破り15m下の海に転落しました。両親が懸命に救助しましたが、2名は救出され、1名はRV車と共に海底に沈みました。結局、3名の子供の命は助かりませんでした。 飲酒運転をした北九州市の職員は市内で飲酒後、タクシーで自宅に帰りましたが、再び自家用車を運転してカラオケスタジオに出かけ、さらにウィスキーを飲みました。その後同乗者と共にドライブに出かけ、事故を起こしました。 北九州市では職員の飲酒運転が多発し、市長が職員に飲酒運転撲滅を訴えていた最中の事故でした。お酒を飲み始めたときは自重し、タクシーで帰るまでは良かったのですが、飲んだ勢いで無謀な行動を起こしたようです。 飲酒運転に対する取り締まりが強化され、酒気帯び運転で検挙されれば給料がなくなるような罰金が課せられるになりました。飲酒運転での検挙数は下火になりましたが、悪質な飲酒運転事故が後を絶ちません。 東名高速道路で高知通運の長距離トラックの運転手が飲酒運転(酩酊状態)でRV車に追突し、幼児2名が焼死し、父親が重傷を負いました 。その事故を契機として市民運動が起き、危険運転致死傷罪が制定されました。 しかし、危険運転致死傷罪が悪質な飲酒運転事故に適用するための条件が厳しく適用される場合が非常に少ないそうです。事故現場から逃げ出して酔いが醒めてから出頭すれば、同罪で起訴されないケースがかなりあるそうです。 同罪の法定刑が懲役15年から20年に上げられ殺人罪に限りなく近づきましたが、飲酒運転は明らかに未必の故意による殺人です。同法の適用条件を緩和し、飲酒運転事故は同罪を適用することを常に視野に入れて考えるべきです。 先日、お酒を勧めた友人に賠償責任を認める判決が出ましたが、飲酒運転車の同乗者も同罪の共同正犯として厳しく取り締まる必要があります。さらにアルコールを提供した飲食店を幇助罪として摘発すべきです。 社会もアルコールに対して厳しい目を向けなくてはなりません。酔狂を許す風土が飲酒運転を助長しているのです。アルコールを嗜むのも自己責任の範囲内で嗜むべきです。限度を越える飲酒には社会が制裁を加えるべきです。 アルコールを否定しているのではありません。アルコールの効用を社会は理解していますが、他人に迷惑をかける行為には厳格に対処すべきです。節度を保った飲酒は社会を豊かにし、本人もアルコールの世界を楽しむことができます。 そのためにも、最低限のマナー「飲んだら乗るな」をアルコールを飲む人は厳守しなくてはなりません。飲酒運転が本人も家族も、被害者も被害者の家族も突然奈落の底に突き落とすからです。 また、北九州市の飲酒運転に対する対応を見ていると甘い気がします。公務員は飲酒運転をすれば免職を原則にし、役所が社会に対し警鐘を鳴らさなくてはなりらないと思います。車は走る凶器だからです。 瀬戸キリスト教会
2006/08/29
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中教審(中央教育審議会)が古典の素読を小学生の教科とする答申を文部科学省に提出しました。ゆとり教育、英語を小学校の教科とするなど日本の教育を危うくした中教審にしては良い答申だと評価します。 高校時代の夏休みの宿題で、小倉百人一首、奥の細道(松尾芭蕉)、平家物語を原文で読まさせられました。仕方がないので文庫本を買ってきて読み始めましたが、いずれも面白くて一気に読み終えた記憶があります。 当時は受験勉強のために読まさせられたと思ったのですが、今から思えば古文の先生は日本語のリズムを覚えさせたかったのだと思います。短歌、俳文(俳句)、琵琶法師の語りなので、日本語の韻律を覚えさすのには最適なテキストでした。 文庫本に付けられた注だけを頼りにして読んだのですから、意味を深く考えずに日本語のリズムに乗って読み進めました。読み終えた後、何となくその時代の日本語のイメージが掴めました。 龍馬会館、自由民権会館などには、脱藩浪士、自由民権運動家の手蹟が残されていますが、貧乏郷士でも漢文の素養があったことが分かります。彼らは子供の頃から素読をさせられていたからです。 素読は文章の意味は分からなくても良いのです。文字を声を立てて読むことに意味があるのです。百人一首、奥の細道、平家物語程度ならば小学校の先生にも素読を教えることはできます。漢文まで教える必要はないと思います。 英語を教えるのは英語の専門教育を受けていない小学校の先生には無理な注文ですし、小学生に英語を教える必要もないと思います。日本語さえ十分にできない子供に英語が理解できるはずがないからです。 遊びとしてネイティブな英語に触れることには意味があるかも知れませんが、語学講師が十分にいない現状では、日本人の下手な発音を覚えさせてしまう恐れがあります。正式に英語を習い始めたときに発音を修正するには倍の努力がいります。 それに引き替え古文の素読は誰にでもできます。漢字には仮名を振ればよいからです。実際に素読をやらせている小学校の先生もいますが、子供は素読を遊び感覚でやるので、十分に効果を期待できるそうです。 日本語が乱れていると言われていますが、子供の頃に綺麗な日本語に接した経験がないからだろうと思います。もし子供の時に素読をやっていれば、もう少し綺麗な日本語を使えるだろうと思い、後悔しています。 言葉は3歳ぐらいで基礎ができてしまいます。帰国子女のようなバイリンガル、2か国語を母国語として話せる人は、英語圏で3歳ぐらいまで育てられ人たちです。小学校ではネイティブな英語をマスターするには遅するのです。 むしろ、日本語の実力を付けることを第一に考えるべきです。総ての学問の基礎は日本語だからです。パソコンに例えればOSソフト、ウィンドウズに相当するのが日本語だからです。 バイリンガル、複数のOSソフトを持つ人は特殊な人で、OSソフトは一つあれば必要にして十分なのです。英語塾はファッションに過ぎず、それに踊らされる中教審、文部科学省は国を誤った方向に導いています。瀬戸キリスト教会
2006/08/28
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「ぷらっとこうち」が書き込み禁止になりましたが、高知県の職員は自分たちのしたことの意味が分かっていないのではないでしょうか。橋本知事は政治生命を縮めるような決定の影響範囲を過小に考えているのではないでしょうか。 橋本知事シンパが多いブログ世界の住民の支持を失った影響は徐々に出てくるでしょう。滋賀県知事選、長野県知事選で新しい首長が決まりましたが、現職知事が自ら転んで負けた試合のように見えました。 今回の処置を例えれば、「公民館で行われている自由民権運動の講演会に臨席した警官が突然弁士の発言を取り止めさせたので聴衆が騒ぎ出しました。警官は弁士を退場させましたが、聴衆は治まりません。警官は役人に公民館の使用を停止させ、聴衆を公民館から追い出させました」と言うことでしょう。 「ぷらっとこうち」の運営委員会には県職員が職務として派遣され、委員長を務めています。事務局も県情報管理課内にあり運営費は県が負担しているので、「ぷらっとこうち」は高知県が事実上の管理責任者になります。 憲法21条には集会の自由、言論の自由。検閲の禁止が明記されています。「21条、1、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」 憲法21条をインターネット社会で読み替えれば、「ぷらっとこうち」は参加者の集うバーチャルな集会、結社であり、そこへの書き込みは言論に相当します。公の場に書き込んだ内容を官が不適と判断し削除した行為は検閲に相当します。 憲法99条には「公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う」と明記されていますが、高知県の職員が取った処置、並びにそれを決裁した橋本知事の行為は公務員の憲法遵守規定から逸脱しています。 「ぷらっとこうち」は実施要領で「高知を良くしていこうとする人たちが、互いに知恵を持ち寄り、本音で議論を交わしながら、活力ある地域づくりを参加者相互の協働によって考え、実行していく場づくり」としています。 協働の理念を官、民が共に手を携えて住みよい高知を造るために協働することだと理解し、共鳴していたのですが、帝国憲法のように「安寧秩序ヲ妨ゲズ及臣民タルノ義務ニ背カザル限ニ於テ」と条件が付けられていたのですね。 今回のトラブルは官が勝手に騒ぎ出し、民に抵抗されると官が強硬措置を執ったという日本型官僚主義の典型です。官制民主主義の限界です。上からの改革は民が改革で力を付けると官が民を弾圧する歴史を繰り返すのです。 ブログ民主主義が統制型官製民主主義と対抗するのは歴史の必然かも知れません。私たちは官が統制できないブログの世界で自らの意見を表明することができるからです。民意に逆らう権力は存在できないことを証明しましょう。 政治が従来の「看板、地盤、鞄」に立脚している限り、県民から見放されます。ブログの世界の世論を無視した政治は高いつけを払わされることを行動で示しましょう。今回の問題ではブログ民主主義の力が試されているのです。 橋本知事は目覚めてください。「ぷらっとこうち」を立ち上げた理念は正しかったと多くの参加者、県民は思っています。悪しき官僚主義に流されないで、県民の期待を担って高知に乗り込んできたときに戻ってください。瀬戸キリスト教会
2006/08/27
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淀川キリスト病院で過去7年間、8人の赤ちゃんが医療チームから死が避けられない病状であると宣言され、両親の同意の下で延命治療が停止されました。新生児集中治療室で治療中の無脳症や致死的な脳室内出血の赤ちゃんの余命が「数十分から1、2時間」になったところで積極的治療が停止されました。 医療チームを複数の医師、看護師、ソーシャルワーカーで組織し、家族との対話を重ねた結果判断したそうです。家族との時間を尊重し、『看取りの医療』を目指し、家族が『別れの儀式』を持つことができるように配慮したものです。 淀川キリスト病院はホスピス、末期がん患者の終末期ケア、ターミナルケアを日本で最初に導入した病院として知られています。ホスピスでの実績を、新生児にも適応したとも言えます。法的には全く問題がないそうです 医学の進歩は従来なら死産と思われる新生児を無事出産させるられるようになりました。超未熟児、異常分娩、障害児でも現代の医療で救命できる可能性が高くなりましたが、その反面、医療の限界で救命できない新生児も増えてきました。 現代の医学は超未熟児、法的にはまだ人間と見なされない赤ちゃんも出産させ、成長させることも可能にしました。また、超未熟児の赤ちゃんも正常分娩した赤ちゃんと変わることなく成長させる育児技術も確立されてきました。 一方、新生児でも生きる権利があると共に、人間としての尊厳を保った死を迎える権利もあります。さらに、赤ちゃんを失う両親にも子供との『別れの儀式』を持つ権利があります。医療は両親の心の癒しも考えなくてはなりません。 「日本水頭症協会」代表の山下泰司さん(41)は「私は重症新生児への延命治療拒否は絶対ノー。生まれてくる子の命を奪う権利は、親といえどもない」と主張しますが、「同じ立場の親たちには『一緒に頑張ろうよ』と伝えたいが…」、「親に一概に強制することもできない」と複雑な胸の内を明らかにしました。 「どんな重度の障害を持って生まれても、その子は懸命に生きようとしている。今後このような風潮が強まれば、障害者を社会から排除する思想にもつながりかねない」は正論ですが、それだけでは単純に割り切れない現実があります。 医療チームが赤ちゃんの生命を救うために懸命に努力しても医療の限界に達した時に、延命治療の停止を考えざるを得ない時代になったきたのです。死に行く赤ちゃん、残される両親のために何が最善かは人間の思いを越えるでしょう。 「人間にとって平等なのは死だけである 」、誰かの言葉であったと思いますが、人間はこの世に生を受けた時から死に向かった旅をしています。科学も、文学も、宗教も、人を肉体的な死から解放することはできません。 淀川キリスト教病院は人の死を無とは考えていません。人の死の向こうに主イエス・キリストがおられることを信じています。天国で赤ちゃんが両親と見えることを確信しているから、赤ちゃんにも両親にも人間としての尊厳を保った死を迎えさせたやりたいのです。それが教会が建てた病院の使命だからです。瀬戸キリスト教会
2006/08/25
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出生者数の低下傾向に歯止めがかかったようですが、特殊要因もあるので今後の推移を見守らなくてはなりません。おそらく景気が回復軌道に乗り、日本の未来に明るさが見られるようになったからでしょうが、政府は子育て支援に本気に取り組まなくてはなりません。 先ず、医療環境を整えなくてはなりません。産婦人科医、小児科医の激減が地域の医療に深刻な陰を落としています。厚労省はやっと医学部の定員を増やすのに同意しましたが、未だに医師が過剰になると主張しています。 医師が過剰になったとしても国民は困りません。不適格な医師が淘汰されない現状が異常なので、医師も競争社会の中で自らの技量を磨かなくてはならないのです。地域医療コース、産婦人科、小児科を特別枠で募集すれば良いと思います。 保育所、幼稚園の入園を待機している児童が少なくないそうですが、子育てをしながら働く女性には不可欠な施設です。少子化対策として早急に整備しなければならないと思います。 少子化対策にはハードで欠けている面が数多くありますが、ソフト面で工夫できる面もいろいろ考えられます。これから団塊の世代が大量にリタイアしますが、勤労意欲の旺盛な彼らを活用しない手はないと思います。 昔ならば近所の手の空いた人が子供を預かるのは普通でしたが、最近は親の権利意識が過剰になりトラブルが生じるケースも多く、行政が仲裁しなければならないケースも少なくありません。 基本的には近所のおじいちゃん、おばあちゃんが子供を預かるのが子供の成長のためにも良いのですが、トラブルが生じたときのために公的な保険制度を整える必要があります。 放課後の子供を預かる制度もできてきたようですが、地域の隠れた人材を発掘して学校教育では教わらないことを教えてもらえばよいと思います。子供たちも飛びつくのではないでしょうか。 高知市では長浜支所の後をホールに改造し、ソファーを置きパソコンを並べてありますが、夏休みには子供たちが大勢集まっていました。パソコンで遊ぶ子供も多く、大人だけではなく子供の集まる場として活用されていました。 市町村合併や合理化で開いている庁舎が出てくるでしょうが、長浜支所の廃止後の利用は成功しているように思えました。支所の機能をスーパーの中に移設したのは、利用者にかえって好評のようです。 高知市も合併債を「箱物行政」に使うのではなく、市民生活に密着したところに使えば地域の活性化に繋がります。行政は長浜支所のような発想の転換を試みてください。 松尾前市長はカルポートが自慢のようでしたが、市民の利用が少なく毎年何億円もの赤字を出す「箱物」を市民は必要としていません。現在あるものを活用して地域を活性化して欲しいのです。 高知市、高知県の財政は逼迫しています。新堀川の暗渠化の費用は借金をするそうですが、県民一人当たり1万円に近い借金を返すのは県民です。お金の使い方が根本的に間違っているのではないでしょうか。瀬戸キリスト教会
2006/08/23
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私は高知市の長浜図書館を利用していますが、図書館の機能は随分と良くなってきたように思います。1階の旧長浜支所の後はホールとして整備され、ゆったりとしたソファーが置かれ、ノートパソコンも数台設置されています。 図書館にはオンラインの検索用パソコンが設置されてあり、本館を始めとして各図書館、室にある蔵書を検索できます。検索した結果を印刷させ、予約表と共に受け付けに提出すれば数日中に図書館に本が届けられます。 ベストセラーなどは数ヶ月待たされる場合もありますが、長くて数週間以内に本は図書館、室に届けられます。公共の図書館として常識的に置いておけない本(政治、宗教関係等)や専門書以外は完備されています。 私は利用初めて5年、1000冊近い本を借りだしましたが、読みたい本は無尽蔵にあります。あと15年生きるとすれば、2,3000冊近い本を読むことができる計算になります。 団塊の世代がリタイアする時期になってきましたが、老後の第2の人生を喜びを持って生きられなければ何のために働き詰めに働いてきたの分かりません。図書館を利用すれば、タダで知の世界に遊ぶことができます。 かつて読んだ本をもう一度読み直すのも非常に楽しいものです。青春時代を思い出し感傷に浸るもよいのですが、新たな発見を楽しみにするのも良いと思います。自分の歩んできた人生だけ深い読み方ができるからです。 私は図書館を利用することで経済的に新車一台分以上得をし、書斎が本の山に埋まることもありませんでした。障害者でも楽しめる趣味ですから、退職後の趣味としてお勧めします。 パソコンの操作は決して難しいものではなく、司書に聞けば丁寧に教えてくれます。本の返還は何処の図書館、室でもできます。一度図書館を覗いてみたらいかがですか。
2006/08/22
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先の大戦で日本は300万人を越す犠牲者を出したといわれています。連合国側の兵士だけではなく、アジア諸国の人たち、民間人の犠牲者も数千万人を越すといわれています。日本は焼け野原となり、食べる物さえなくなりました。 連合国軍に進駐され、日本の主権は事実上アメリカに属するようになりました。連合国は東京裁判でA級戦犯を裁きましたが、アメリカの政治的、軍事的判断で国家元首であり大元帥であった昭和天皇の戦争責任は問われませんでした。 アメリカは昭和天皇の戦争責任を問えば治安の悪化を招き、日本を統治するために必要な軍事的、政治的コストが桁違いに上がることを恐れたからです。アメリカはむしろ昭和天皇を政治的に利用することを選択しました。 アメリカは日本を民主主義国家に改変するために、GHQが日本国憲法の原案を作成し、日本政府に強制しました。国民主権、平和主義、基本的人権を明記した近代的な憲法でした。立憲君主制から象徴天皇制に国体は変更されました。 日本国憲法は大日本帝国憲法の規定により昭和天皇名で発布されました。国民からの強い支持を受け、現代に至るまで改正はなされていません。不磨の大典ともいわれ、改正手続き法すらありません。 大日本帝国は大日本帝国憲法を擁する立憲君主制国家でした。国家の統治権は天皇が総攬し、統帥権も天皇に帰属しました。基本的人権も政令に定める範囲しか認められておらず、議会法、選挙法も憲法付属政令で定められていただけです。 国民主権、基本的人権は17世紀のイギリスの清教徒革命、名誉革命、18世紀のアメリカ独立宣言、フランス革命による世界人権宣言などにより市民の権利として認められてきました。聖書にある「神はご自分にかたどって人を創造された」から「何人も人として尊重されなければならない」が認められてきたのです。 国民主権、基本的人権は日本人にとっては新しい概念でした。西欧では市民革命における市民の血で贖われた権利ですが、日本では敗戦と引き替えに与えられた権利です。その意識の差が人権思想の定着を妨げているのかも知れません。 しかし、視点を変えれば日本が先の大戦で負けなければ、基本的人権を国民は手に入れることができなかったでしょう。そういう意味では、日本国憲法は数百万人の戦争の犠牲者の血で贖った権利だといえると思います。 平和主義は理想論です。非武装中立は理念としては成立するかも知れませんが、国際政治、パワーポリティックスの世界では通用しない概念です。論理の世界ではなく理念、あるいは信仰の世界に属する事柄だと思います。 平和憲法を守るか否かは国民の選択に帰するべきです。座して死を待つのも人の生き方としてはあり得ますが、ガンディー主義、非暴力、非服従、非協力は人権思想のある国にしか通用せず、中国、ロシア、北朝鮮には通用しないでしょう。 中曽根前総理は海軍将校でしたので日本国憲法そのものが屈辱の歴史なのでしょうが、憲法改正の全面改正を目指すのではなく、必要な部分のみを改正し、環境権などの新しい概念を付け加えるのが常識的でしょう。 平和主義は法理論的には日米安保条約とセットで機能する概念と捉えられると思います。自衛権の範囲、自衛隊の武装、海外派遣は憲法の恣意的な解釈ではなく、国際政治上のリスクを考慮した上で、国民自身が決定すべきものでしょう。堀 俊明のブログ:http://plaza.rakuten.co.jp/dochinn/
2006/08/20
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高知県の人口当たりの医師数が全国でも五指にはいるそうです。医師数は最小の県の1.5倍程度になるようです。高知市に療養型の入院患者が多い原因の一つに福祉の医療依存があるようです。 高知県の実情を知りませんが、全国的に僻地医療に当たる医師や産婦人科の医師が減少し、皮膚科や眼科を志す医師が多いそうです。医師数が過剰ならば、不足した部門に医師を配属することが考えられないでしょうか。 例えば、療養型のベット数の削減を厚生労働省から強制されているようですが、医師が福祉の現場に出て行くことはできないのでしょうか。医師はオールマイティーですので、福祉施設の管理者として働けるはずです。 医師がプライドを棄てて福祉の現場で働けば、より質の高い福祉が可能だと思います。障害者や老人に対する福祉施設が急増し、質が伴わない施設が少なくないからです。 日本の医師制度の根本的な問題は、厚労省が医学部の定員増を認めないところにあります。勤務医の激務がマスコミで報道されているのにも拘わらず、医師が過剰になると主張する厚労省は医師の既得権擁護しか考えていません。 旧ソ連では医師は特別な職業ではありませんでした。高級技術者として普通の労働者と大差ない待遇を受けていたそうです。現代では技術者も修士課程を修了するのが普通です。 医師だけが特権階級を形成する社会は歪です。医師の絶対数が増えれば医師の世界にも競争原理が働きます。医師の待遇もピンからキリまでに分かれるでしょう。医師の働く場も医療だけではなく福祉などの場にも広がります。 医学部の定員も「僻地枠」、「産婦人科コース」、「小児科コース」を別枠で募集すればよいのです。さらに医師会などが「入学金、授業料、奨学金貸与」制度を充実すればよいと思います。 斎藤茂吉は東北の寒村出身で斉藤脳病院に見込まれて養子となり、医師としての教育を受けさせてもらいました。かつては郷土出身者を書生とし、教育を受けさせて「末は博士か大臣か」にさせた有力者が多くいました。 格差社会是正が叫ばれていますが、負け組の子弟でも能力があり上昇志向の強い若者に医学部受験の機会を与え、医師として社会に迎えるのも社会政策として意味があるのではないでしょうか。 エリートの子弟だけが医学部を卒業できる社会体制は医師の質を劣化させます。野口英世のような貧しさの中から這い上がった人間にはエリートの持たない素質が身についています。 努力をする者が報われる社会は努力をする機会が保障されていなければなりません。先ず、能力に応じた教育を受ける機会、能力を発揮する機会が保障されなくてはなりません。 医師は確実に収入が伴い、社会から尊敬を受ける職業ですから、チャレンジ、再チャレンジするのに相応しい職業だと思えます。医師会も既得権擁護だけを考えるのではなく、新しい血を入れる機会として前向きに考えて欲しいと思います。瀬戸キリスト教会
2006/08/19
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小泉首相が終戦記念日に靖国神社を参拝しました。去年は普通の日に一般参拝者に交じり参拝しました。私服で参拝し、ポケットから取り出した500円玉を賽銭箱に投げ込み、黙礼をしただけでした。記帳もしませんでした。このスタイルならば私的参拝の要件に適い、政教分離を定めた憲法に違反していないと感じました。小泉首相の主張する心の問題との整合性も取れていると感じました。 しかし、今年の参拝はモーニングを着用し、拝殿に上り、内閣総理大臣小泉純一郎と記帳しました。常識的に考えれば政教分離を定めた憲法に反していると判断されます。私人、小泉純一郎の信教の自由、良心の自由よりも、公人、内閣総理大臣小泉純一郎に求められる政教分離の方が優先すると思います。 靖国神社は戊辰戦争、西南戦争などの国内戦争では天皇側、政府軍の戦死者のみを祀っています。それ以後の国外における戦争でも日本軍の戦死者のみを祀り、民間人の死者は祀られていません。天皇の軍隊のためにのみ存在する神社です。 招魂社、後の靖国(国を安らかにする)神社は明治天皇の勅令で建てられた神社です。内務省ではなく軍部が管理していました。「靖国の英霊となる」、「靖国で遭おう」といって若者は死んでいきました。軍人製造器の役割を果たしました。 A級戦犯合祀が社会問題化されていますが、小泉首相は明確にA級戦犯の戦争責任を認めています。A級戦犯に戦争責任があると思いますが、天皇の戦争責任が問われていない点、官僚、参謀の戦争責任が問われていない点で不十分です。 日本では国家として先の戦争、アジア・太平洋戦争の総括がなされていません。戦争責任が明確なナチス・ドイツと日本を同一線上で裁こうとした東京裁判には無理がありました。アメリカの政治的意図、世論対策を優先にしたからです。 日本には明確な国家的意図、戦略がありませんでした。泥縄的にアメリカに戦争を挑んでしまいました。八紘一宇、大東亜共栄圏、鬼畜米英などのスローガンはありましたが、聖戦意識のみで国家戦略を立てうる指導者がいませんでした。 軍人は「現人神」、皇国不滅」、「神風が吹く」ことを信じていたのかも知れませんが、信じられない非合理的な作戦を各地で遂行し、自滅しました。靖国の英霊の過半数が戦死ではなく、餓死であると主張する人も少なくありません。 自衛戦争、アジア解放戦争と先の戦争を美化する人もいますが、数千万人を越す被害者を出した民族解放戦争とは何なんでしょうか。相手国に頼まれもせずに進駐し、植民地化し、搾取の限りを尽くしたのが大日本帝国の真の姿です。 私たちは個人が靖国神社を参拝するのに反対しているのではありません。公人の間、靖国神社を参拝するのを控えるように求めているだけです。マスコミの過剰な反応が靖国問題に対する冷静な議論を妨げ、問題を複雑化しているのです。 靖国神社は憲法、信教の自由で保障されている宗教法人です。政治がA級戦犯の分祀を求めるのは政教分離に反します。各県にある護国神社のように、いつの間にか靖国神社が国民から忘れ去られるようにするのが賢明な措置でしょう。瀬戸キリスト教会
2006/08/17
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誰の書き込みか知りませんが、2重投稿を禁止するルールはないはずです。管理者はここで議論されている内容に干渉する気ですか。 物理的手段を使うことの是非を議論している場にさらに争いを持ち込む気ですか。管理者の理性を疑います。 管理者には掲示板の管理をする能力、知性、理性が欠けています。後日正式な抗議文を載せます。瀬戸キリスト教会
2006/08/17
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知事の書き込みがあったことは「みんなでよくするぷらっとこうち2006」で知りましたが、何処に書き込まれているのかが分かりませんでした。西村氏の「けんちゃんのどこでもブログ」のリンクからたどり着きましたが、非常に不親切です。 秘書課の職員ならば知事がせっかく書いた文章を、できるだけ多くの人の目ににつく場所に掲示し、参加者に見られるようにするべきです。まるで、誰も読まないでいてくれれば幸いだというような取り扱いのように感じました。 高知県職員の「ぷらっとこうち」問題に関わりたくない意識がなさせた無意識のサボタージュだと思いました。このような面にも悪しき官僚主義が表われていると思います。 結局、県の職員は「臭いものにふた」をして問題を先送りし、ひたすら騒動が治まるのを待っているようにしか思えません。当事者として積極的に問題を解決しようとする熱意に欠けています。 知事の書いた文章は一方の当事者である県の最高責任者の主張ですから、目に付くところに堂々と掲示すべきです。反対側の当事者のブログから辿らなくてはならないようなお粗末なことをしないで下さい。 参加者は当事者両方の主張を知りたいのです。両者の主張が噛み合い、新しいものが創造できれば、それこそ協働の果実が実ったことになると思います。高知県の怠慢を遺憾に思います。
2006/08/17
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登録抹消は本来「ぷらっとこうち」が執るべき行動ではありません。運営委員会も認めていたとおり書き込みが公序良俗に反するものではありません。ルールはweb上での公序良俗に反する場合に登録削除ができると理解すべきです。 西村、竹内両氏が書き込み削除、登録削除されたケースは、運営委員会のルールの恣意的適用であると判断せざる意を得ません。少なくとも過去の経緯を知らない人間から見ればあまりにも不当な処置です。 私たちは登録削除というweb上の死刑に相当する判断を下した責任者が責任を持って回答することを求めているだけです。官の責任を問うているのではなく、web上の死刑判決を安易に下したシステムの正当性を問うているのです。 「ぷらっとこうち」は自己責任で運用されるのですから、他者の権利を奪った者の責任が追求されるのは当然です。「民が官を見る際の、旧態依然の型にとらわれている」のではなく、誰も責任を取らない官僚的発想を追求しているのです。 協働イコール無責任体制とは違います。個人が自己責任で参加するためには、責任の取り方、範囲 を予め明確にしておかなければなりません。今回のケースは運営委員会の越権行為に対し、責任の所在を明らかにするように求めたのです。 誹謗中傷は非常に主観的な表現です。誹謗中傷されたと訴えればそれが自動的、恣意的に認められる制度は逆差別を助長する制度です。誹謗中傷、名誉毀損が認められる範囲は法的には非常に狭い範囲のはずです。 書き込みの削除ならまだしも登録抹消は反論権を否定する非民主的な処置です。具体的にいえば、私自身運営委員会に批判的な書き込みをしているので、何時書き込み削除、登録抹消されるという危機感を持って書き込みをしています。 参加者にこのような具体的な圧力をかけながら成り立っている「ぷらっとこうち」を協働の場だと主張する知事の言葉に空しさを感じます。ブログでバックアップしなければ発言できない現状に対し知事は疑問を感じないのでしょうか。 web上では誹謗中傷を受けることもありますが、公序良俗に反しない限り削除すべきではありません。誹謗中傷する者は参加者から淘汰されますし、それに期待するのが掲示板ではないでしょうか。 古来、落書きには鋭い時代批評も見られますが、見るに堪えないものがあるのもまた事実です。政治の活性化に落書きを活用できるか否かは為政者の器量です。「角を矯めて牛を殺す」様な事態が起きているのを非常に残念に思います。 知事は「民のサイトであれば、基本的な考え方の違う人は排除して、民と官の知識と知恵で、課題の解決にあたるといった、本来の趣旨をルールとして受けいれた人達の手で、協働の実践に集中的に打ち込むことができます」と主張していますが、基本的な考え方の違う人を排除したから今回の問題が起きたのです。 知事の正論が生かされていないから、運営委員会に非難が集中しているのです。知事の主張は隔靴掻痒で、具体的な指針が見られません。私たちに何を訴えたいのかが理解できません。私たちの主張は非常に単純なものです。 憲法で保障されている「言論の自由を守れ」ということに尽きるのです。「検閲に類することを運営委員会は止めよ」という単純な主張なのです。瀬戸キリスト教会
2006/08/16
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私が高知市に対して調停を申し立てたときにも感じましたが、一市民が司法の場に訴え出ることは如何に過重な負担を背負わせられるのかを、行政は想像しなくてはなりません。公僕としての使命感が欠如しています。 調停は気分障害(躁鬱病)の人間には過重なストレスでした。精神安定剤、導眠剤を追加しなければならなくなりました。問題が解決してからも正常な生活に戻れたのは3ヶ月後くらいでした。 私が負担できたのは訴訟に関する費用だけでした。弁護士を雇わず裁判手続きを行うのは簡単なことではありませんでした。民事訴訟法、個人情報保護法、障害者自立支援法を独学で勉強しました。障害者には負いかねる重荷でした。 仕事を持ちながら裁判の準備をし、裁判に必要な時間を確保するだけでも並大抵なことではないと思います。裁判所が市民に対し門戸を開いたからといって、司法の場に出ることは遠慮したいと思うのが普通の市民感情です。 それでも訴訟を起こしたのは、竹内さんの市民としての義務感からだと思えます。市民的自由、基本的人権は一度侵されたらそれを回復するためには何倍もの努力がいります。一市民が行政を監視する義務を果たそうとされているのです。 行政は司法の場に持ち出されることを想定していなかったのでしょう。対応があまりにも杜撰でした。素人から見ても法的に瑕疵と見なされる言動が目に余りました。行政が何処を向いてなされているかを如実に表していました。 公開されたメールによれば、運営委員会と高知県は竹内、西村両氏を「ぷらっとこうち」から追放しようとあからさまに談合を繰り返していたようです。アリバイ造りに話し合いの会を持っただけで、登録抹消を実力で行使しました。 県政に疎い私には橋本チルドレンが誰を指しているのか分かりませんが、16年前に県民の圧倒的支持を受けた橋本知事の腰巾着?がいるのだということは想像できます。改革派知事の賞味期限は切れたのかも知れません。 「ぷらっとこうち」は知事の発案だそうですが、今回の問題は担当者に丸投げのようです。今回の裁判は橋本知事に対する踏み絵の意味を持っていると思います。市民的自由擁護に立つか既得権保護に立つかを問われているのです。 私はあまりにも露骨に市民的自由権、基本的人権が侵されていくのをみて、一体何処の国の話だと思いました。中国ではインターネットの世界も厳しい検閲に晒されていますが、日本も知らない間にそうなろうとしているのかも知れません。 政府はこんなあからさまなことはしません。もっと巧妙に、私たちに気づかれないうちに検閲の網を張りめぐらせます。そういう意味では、高知県の職員は正直すぎるのかも知れませんが、私たちに問題提起をしてくれた点は評価?します。 高知県も知事選を控えていますが、この時期に政治的なテーマを提供してくれたのは、瓢箪から駒なのかも知れません。 長野県で田中知事が落選しましたが、「政策は評価するが政治的手法を受け入れられない」が選挙民の声でした。滋賀県知事選でも「箱物行政」知事が敗れました。選挙民の動きは従来の常識を越えています。 橋本知事が再選を求めて立候補するのならば初心に返ってください。あのとき諸手を上げて知事を迎えた県民の声を裏切らないでください。瀬戸キリスト教会
2006/08/12
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岐阜県庁では、平成6年頃、4億5000万円の裏金の内2億5000万円を職員組合管理の口座に移し替えるなどして隠蔽しました。職員組合の総合口座には県の監査が及ばないからです。現在、裏金の残高は1億円に達するようです。 平成6年頃には、全国的に裏金に対する世論の批判が厳しくなり、県庁では各課や職員らの手で保管されていた裏金の処分に困り、「焼却した」、「ゴミと一緒に棄てた」場合すらあったそうです。 梶原前知事は「裏金の存在は知っていた」、森元参院議員(副知事)も「組合口座に移し替えることに関与した」ことを認めており、県庁が組織的に裏金を隠蔽したことが明らかになりました。 梶原前知事は全国知事会長として総務省、財務省に財源の地方移管を迫りました。三位一体改革で、3兆円の財源の地方移管を小泉首相に認めさせましたが、お膝元の県庁で組織的裏金作りに励んでいたのです。 かつて裏金を捻出するのが総務担当者の腕だといわれていた時代がありました。私も30年前、公務員時代にはいわゆる官官接待を受けたことがあります。違和感を覚えましたが、当時はそれが常識でした。 しかし、10年前までには不正な会計処理された裏金は一掃されたと思っていましたが、現代でも裏金が億単位で残されているのは、岐阜県庁では違法状態がまかり通っていることになります。 国も地方も多額な債務を抱えているときに、このような違法な会計処理がなされていることは理解できません。消費税を引き上げる議論がなされていますが、このような無駄をなくさなければ国民の理解を得ることはできません。 高知県、高知市は裏金を一掃できたのでしょうか。不正、不適切な会計支出はないのでしょうか。本当に贅肉をそぎ落とした予算執行をしているのでしょうか。市民の目から見れば疑問を抱かざるをえません。 新堀川を暗渠にし4車線道路を建設する必要性が本当にあるのでしょうか。毎年4億円の赤字を出すカルポートは本当に必要であったのでしょうか。県、市は「箱物行政」行政を見直し、私たちの身の丈にあった環境造りをすればよいと思います。 景気対策が必要ならば、「箱物行政」から脱却し、医療、福祉、教育にお金を使えば、持続的な雇用対策になるでしょう。医療、福祉は総ての人に必要な分野ですから、市民の理解も得やすいでしょう。 高知県、高知市の財政は逼迫しています。新な事業を興す余裕はないはずです。返済の裏付けのない50億円、県民一人当たり7000円もの借金をして、新堀川に道路を通す意義を市民は見出すことはできません。 「入るを計りて、出るを制す」、財政再建はこの一言に尽きると思います。知事、市長は発想の転換をしてください。南国土佐には経済力はないが自然力があります。土佐の風土を生かした郷土造りをしてください。 私たちは都会の真似をしてもらいたくはありません。背伸びをしなければ十分に生活をしていけるだけの収入があるのですから、市民も都会の風潮に流されることなく質実剛健?な生活を心がけましょう。瀬戸キリスト教会
2006/08/11
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社会保険庁が全国で約40万件の不正な事務処理を行っていたことが明らかになりました。民間から招いた長官が6割強しかない徴収率を8割に上げる数値目標、ノルマを現場の職員に課したのに対して、現場の職員は徴収率を上げる努力を放棄し、不正な事務処理で見かけ上の徴収率を上げる事務処理を行いました。 本来ならば分子に相当する徴集者数を増やさなければならないのに、分子に相当する徴集対象者数を不正な事務処理で減らし、徴集率を嵩上げしようとしたのです。不正処理は全国で組織的に行われたようです。 加入対象者に連絡せず徴集免除にした実害のないものだけではなく、長期の保険料未納者を不在者扱いにして保険の枠外にした悪質な処理も10万件以上ありました。組織的なサボタージュ、単なる帳尻遭わせと言われても仕方がないでしょう。 一方、請負の現場では大量の労働者が正規の社会保険に入らないままに放置されています。請負代金には保険料が含まれていますが、社会保険庁の甘さに便乗して、保険料を納めずに利益を出すのが業界の慣行であったようです。 今回の不正な事務処理について2000人弱の職員を処分しました。降格処分もありましたが、停職止まりで民間保険会社に比べて処分の甘さが目立ちました。職員の法令遵守意識の欠如と組織が不正を生む背景の是正に課題を残しました。 私は鬱病で職を失ってからも国民年金に加入し続けていたので、精神保健福祉法が施行され、障害年金を受給することができました。一方、学生時代に国民年金に加入せず(任意加入の時代)障害年金が受給できない人たちが障害年金の支給を求めて裁判を起こしていますが、現在のところ満額は支給されていません。 老齢年金にしても、国が保障し、税金が投入されているのですから、民間の生命保険よりも明らかに有利です。若者の間では老後は生活保護を受給するから年金に加入しない風潮があるとも聞いていますが、その時代の生活保護は厳しいものになっているでしょう。それこそ根拠のない幻想です。 現在の生活が苦しければ減免措置があります。少しでも年金を払い続けていれば、障害者になったときに障害年金を受給できます。生活に余裕が出てくれば繰り上げて年金を支払うこともできます。社会は国民年金に加入するのが有利なシステムになっています。 社会保険庁の職員は年金加入対象者に対して国民年金が如何に有利なシステムであるかを膝詰めで説明したことがあるのでしょうか。民間の生命保険の外交員が靴をすり減らして営業をしているような努力をしたことがあるのでしょうか。 社会保険庁の職員は公務員、公僕として国民年金に加入しないことが如何に不利益をもたらすかを国民一人一人に説明する義務があるのです。理を尽くして説明すれば、2人に1人は納得して加入してくれるのではないでしょうか。 そうすれば8割のノルマは達成できるはずです。少なくとも民間企業ならば達成可能な合理的な数字であると思います。ノルマは保険制度から漏れる人をなくすためにあるのです。保険収入を上げるためにあるのではないのです。 政府、国会、マスコミは保険制度を維持するために国民年金加入者を増やさなければならないかのような議論をしますが、保険制度の必要性を認識しないで加入していない人たちを救済するために加入者を増やさなくてはならないのです。瀬戸キリスト教会
2006/08/10
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私には日本の官僚体制は三国志に出てくる連環馬のように思えてきました。連環馬は、馬にも鎧を着けさせた重装備の騎兵を横一列に並べ、横棒に結わえて走らすのです。横一列の騎兵の列を、縦に何列も並べ敵陣を突破させるのです。 弓矢、投擲も弾き返し、縦に激しく突進し、敵陣を突破する破壊力は凄まじいのですが、障害物があっても避けることもできず、止まることもできません。自分の意志通りには動けず、横からの攻めには全く無力です。 諸葛孔明は、柄の長い長刀のような武器を歩兵に持たせて塹壕に潜ませ、鎧で覆われていない馬の足を刈らせました。伏兵のあるのが分かっても連環馬は止まることができず、足を刈られ無力化されました。 日本の官僚は連環馬のように横並びで、ひたすら敵陣を突破するときには非常な破壊力を持ちました。明治政府では富国強兵、「西欧諸国に追いつけ、追い越せ」をスローガンとして官民一体で走り続けました。 昭和になり富国強兵政策が中国を侵略させ、鬼畜米英を掲げ太平洋戦争にのめり込んでしまいました。官僚、軍官僚はひたすら前を向いて進むしか能のない連環馬のように日本を破滅に追い込みました。 戦後、無から出発した日本を経済大国にまで導いたのは官僚の力ですが、経済競争力が世界一になったときに、目標を見失ってしまいました。目標を破壊するときに威力を発揮する日本の官僚制度は自壊し、制度疲労を起こしました。 敗戦、バブル崩壊は日本の官僚制度の賞味期限切れが招いたのでし。連環馬である官僚の軛を解き放ち、騎兵本来の形を取り戻さなくてはならないのです。構造改革の歴史的意味は騎兵を普通の陣形に組み直すところにあります。 日本は高度成長から安定成長に移ろうとしています。社会のシステムが根本から変わろうとしているのです。官僚システムが変わらない限り、日本は変わりません。官界のみが血が出るようなリストラの波に洗われていないからです。 霞ヶ関、永田町だけではなく地方自治体のシステムも変わらなくてはならないのです。単なる国の下請けだけでは地方自治体が立ちゆかなる時代になってきたのです。高知県、高知市も発想の転換が必要とされます。 「ぷらっとこうち」に対する県の対応を見ていると、悪しき官僚主義が蔓延していると感じさせられました。私は西村、竹内、両氏の書き込みを削除した時点で両氏に司法の場で解決するように提案し、県にもその可能性を指摘したつもりでしたが、県の職員には状況判断ができず、最悪の事態を引き起こしました。 県の職員間で取り交わされたメールを公表され、県に話し合いで解決する気が全くなかったことを証明されました。さらに、監査要求をされ、被告席に座らされることにもなりました。泥縄的な県の対応は役人気質丸出しです。 連環馬のように真っ直ぐに進むことしかできず、状況の変化に全く対応できませんでした。もっとも、「ぷらっとこうち」をなくすための高等戦術かも知れませんが、参加者無視の役人の役人による役人のための論理でしかありません。 私たち参加者は「ぷらっとこうち」の民主的な運営を要求します。ルール至上主義は運営委員会の恣意的な判断を助長します。自主的に情報を公開するようにしてください。掲示板のことは掲示板で解決するのを原則としてください。瀬戸キリスト教会
2006/08/09
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私は家内が出張に出かけるときにはショートステイを利用していますが、援護寮での生活は病院での生活と質的に違うと感じさせられました。 閉鎖病棟に何十年も入院させられていた人たちは、社会に容易に適応できないので、援護寮で一時的にケアーし、社会性を回復させ、グループホームで生活していただくのが良いと思います。 ちなみに、私は家内にもしものことがあったならば、グループホームに入れてもらうつもりでいます。 一人でアパート住まいをする経済的な余裕があったとしても、私には一人住まいは無理だと思っています。 精神障害者の自立は、町の中でアパートを借りて自活することでしょうが、現実にはそれが難しい人のために、グループホームの充実を願います。瀬戸キリスト教会
2006/08/09
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統帥権は昭和天皇にあったのですから、昭和天皇に戦争責任があるのは常識だと思っていましたが、読み直してみるとそれが抜けていました。 東京裁判で天皇は裁かれずA級戦犯のみが戦争責任を問われて裁かれたのが、東京裁判がアメリカの国内世論対策、戦勝国の報復劇であった証拠です。 昭和天皇に戦争責任を取らせなかったのがマッカーサーの占領政策が成功した最大の理由でしょう。 昭和天皇を戦犯として処刑していたら、日本はイラクのように収拾がつかなくなっていたでしょう。マッカーサーの軍人としての本能がそれを避けさせたのでしょう。 結局、日本を破滅に導いた責任者を特定できないのが日本の官僚制度の特徴です。例えばバブル崩壊の責任者を特定できないのと同じです。 残念ながら、その様な無責任体制が日本人だけでも数百万人、アジアの人々を含めると数千万人の命を奪ったのです.瀬戸キリスト教会
2006/08/09
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最近、アジア太平洋戦争に明確な国家意志がなかったと思えるようになりました。国家戦略がなく、局地戦に対する戦術しか持たなかったように思えるのです。局地戦の積み重ねが泥縄的に日本を対アメリカ戦争に導いたと思えるのです。 日本は満州に留まり、蒋介石の国民党と和睦すれば、中国に軍を進めなくても良かったはずですが、陸軍の暴走を政治が止めることをできませんでした。近衛首相の「蒋介石を相手にせず」が日本を蟻地獄に落としたのです。 陸軍の対中国戦略が根本的に誤っており、都市から都市へと快進撃をしましたが、毛沢東の八路軍、中国共産党ゲリラに兵站を断たれ立ち往生しました。点を制したが、面を制しきれなかった戦略の誤りです。 そもそも、広大な中国大陸に住む膨大な人民を支配できるかのように錯覚した軍部の戦略ミスです。ナポレオンもヒットラーも広大なロシアを制しきれなかったのと同じ誤りを軍部は犯したのです。 満州事変も日中戦争も現場の指揮官が暴走したのにも拘わらず、政府が追認したので、軍部が独走し始めたのです。昭和天皇に統帥権がありましたが、統帥権を利用することだけを考えた俗物が軍の中枢部に居座っていたのです。 東京裁判でA級戦犯が侵略戦争の責任を取らされて処刑されましたが、彼らには侵略戦争を遂行するだけの戦略を立てる能力もなく、指導力もなかったと思われます。アメリカの国内世論を鎮めるための犠牲者であったと思えます。 アメリカは日本に焦土作戦を仕掛け、日本が疲弊しきったのを見計らいポツダム宣言を突きつけました。アメリカが核実験を成功させたニュースが日本政府に届いていたはずですが、日本政府は小田原評定を続けるだけでした。 アメリカに核攻撃の隙を与えた日本政府に広島、長崎の悲劇の責任があると思います。軍人は費用対効果を追求します。アメリカ軍にとっては如何に人的損害を少なくし、戦術的効果を上げるかが最優先されます。 立場を変えて日本軍が核兵器を所有していたならば核兵器の使用を躊躇うことはなかったでしょう。兵器に人道的、非人道的という概念は当てはまりません。化学兵器にしろ生物学兵器にしろ報復を恐れて使用を躊躇うにすぎません。 ソ連に参戦の口実を与えたのも日本政府の責任です。戦争が終わったのにも拘わらず、50万を越える人たちがシベリアに抑留され、10人に1人は異国の地で死なれました。私の耳には尋ね人を捜すラジオ放送の声が今も残っています。 日本を戦争に導いたのは日本人特有の問題の先送りと無責任体制だと思います。アメリカ人が目の敵にした東条英機も軍務官僚の一人にしか過ぎなく、最終責任を負う者がいないのが日本の官僚システムの特徴です。 ポツダム宣言受諾を決められたのも昭和天皇が御前会議で自らの意志を明確に示されたからです。ソ連に仲介を頼んだのは泥棒を空き部屋に招待したようなものですが、それが日本の官僚システムの限界なのでしょう。 終戦記念日が近づきますが、小泉後の日本が対話と協調、言い換えれば密室談合、利益誘導がまかり通った時代、官僚が総てを統制していた時代に戻るのではないかと懸念しています。瀬戸キリスト教会
2006/08/08
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山けさん、私の書き込みも何時、前触れもなく削除されるかも分かりませんから、私が私のブログに書き込みを載せるのは正当防衛です。 私は誠実に応対しているつもりです。「ぷらっとこうち」が信頼に足るものであれば、参加者の目もまた違ってくるでしょう。 運営委員会に逆らう者は登録抹消、書き込みも突然削除する前例を造ったのは、運営員会の方です。 断酒会ならば、約束を違えた人ほど例会に誘います。飲酒をした、飲酒に誘うなどは病気がなさせることであり、断酒会を除名される理由にはなりません。 運営委員会が先生気取りなのは明白です。事務局からのメールは公開しませんが、彼らは箸の上げ下げまで文句を言わないとおれないようです。 彼らの考えるルールは一世代前に通用したルールです。「ぷらっとこうち」を設立した時代の常識は現代のブログの世界では通用しません。 山けさんが持つブログに対する偏見も時代遅れです。現代はコピー文化の時代です。本人がブログのコピーを何処へ書き込んでもルール違反ではありません。 単なる管理者ならば公序良俗に反しない限り登録抹消、削除などはしません。公序良俗に反するものであっても法的な問題等を考慮して強硬措置は控える場合が多いでしょう。 今回の場合は、問題にされた過去の書き込み自体がなぜ大騒ぎされたのかが理解できません。両氏が恫喝によって運営委員会に何らかの約束をさせられた?という方が真実に近いのではないでしょうか。 直接会って話し合ったといいますが、役人が良くやる体裁を整えるだけの話し合いならば意味がありません。 とにかく「ぷらっとこうち」で起きたことは「ぷらっとこうち」で解決するという原則を踏みにじったのは運営委員会です。 「ぷらっとこうち」の登録抹消処分は公正さを欠くきます。反論の機会を奪う処分は民主主義の原則に反します。 例えば、山けさんの言われるような理由ならば、なおさら「ぷらっとこうち」上で両者が討論し合うべきです。 参加者の関知しえない状況での一方的な処分は裁判を公開の場で行うという民主主義の原則に反します。 参加者が当事者相互の主張を「ぷらっとこうち」に載せるように要求するのは当然の権利です。 日本は何時の間に旧東ドイツ、北朝鮮のような秘密警察が跋扈する国になったのでしょうかね。検閲がまかり通った戦前に戻りたくはありません。瀬戸キリスト教会
2006/08/05
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今回の事件の発端となった書き込みが「ブログ」で公開されていますが、この程度で処分されるならば、常識的に考えれば、私も処分される可能性が大だと感じています。 検閲の恐ろしさは処分された当事者よりも、処分されているのを見ていた市民が声を上げなくなるところにあります。私は処分されるのを覚悟で書き込みをしています。 「ぷらっとこうち」で処分されても私の社会的地位が脅かされない自信があるからです。さらに私には個人のブログで発信する手段が残されているからです。 会議室の申し込みを6月にしましたが、まだ許可がおりません。正直言って思わず「うざい!」という若者言葉が口から出ました。運営委員会の姿勢に排除の論理を感じさせられました。 運営委員会の考えている「ぷらっとこうち」像は私たち団塊の世代の価値観です。ブログ世界に生きる若者からは時代遅れと見なされるのではないでしょうか。 一言で言えば教条主義です。動脈硬化が進んでいます。ルール、ルールと学校の先生が教室で喚いているが、生徒に無視されている状況に似ています。 先生の指導力不足を棚に上げて、生徒を処分すると脅し秩序を保とうとしている学校のようなものです。 運営委員は学校の先生だと思い上がっているようですが、参加者が期待しているのは学校の先生ではなく、単なる掲示板の管理者に過ぎません。 運営委員は自らの役割を自覚し、与えられた職務(掲示板の管理者)に忠実であるべきです。瀬戸キリスト教会
2006/08/04
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私は自分がアルコール依存症なので敢えていいますが、アルコール依存症に情けをかけるのは、下司院長が言われたように青酸カリを飲ませるようなものです。 アルコール依存症の人を軟着陸させようとしても、たいがいの場合は失敗します。先ず人生を破綻さす、それが最上の愛情表現だと最近は思っています。 警察沙汰(私も何回も警察に保護され、救急車で運ばれました)が起きた時はアルコール専門病院に入院させるチャンスです。内々に処理をすれば、同じことを繰り返します。 下司さんから高知酒害サマースクールのレジメを頂きましたが、社会が問題飲酒者に甘すぎるから、飲酒事故が起きるのだと思います。 40度の熱を出している人を運転をさせれば管理責任が問われますが、アルコール依存者に運転をさせても管理責任が問われないところに問題があるのです。 アルコール依存症の人間には病気だという自覚がないのです。周囲の者もアルコール依存症の人間を甘やかし過ぎます。 アルコール依存症の人間は断酒しない限り未来はないのです。破綻するのが若ければ若いほどリベンジの可能性が広がります。 例えば私が断酒したのは30代前半ですが、既に内科的に回復不能のダメージ(膵石から来る糖尿病)を受け、インスリン治療を受けています。脳も萎縮しているといわれましたが、これは回復していると思います。 下司病院で一緒に入院していた人で、既に亡くなられた人も多いですし、未だに入退院を繰り返している人も多いです。 私は下司病院を退院後、東京神学大学に進学し、牧師になり、結婚をし、教会も建てることができましたが、断酒するのが若かったからだと思います。 保安処分を議論する前に、アルコール依存症の人間から物理的にアルコールを絶たなくては思考力すら回復しません。 そのためには、アルコール依存症の人間に社会、家族が厳しくなくてはなりません。自分のしたことには自分で責任を取らせるのです。 飲酒運転をしたらそれに伴うペナルティーをきちんと取らす、飲酒事故を起こしたら人生を破綻さすくらいの責任を取らさすべきです。 家族、特に子供には責任がないのですが、犯罪者の家族を造り出さないためにも、社会に飲酒運転にブレーキをかけさせる義務があります。 アルコール依存症の人間は単に鉄格子の中に隔離するだけでは治りません。アルコールを物理的に断つところから、自主的に断つところに飛躍さすためには、専門病院での治療が必要とされます。 高知通運の運転手は刑務所から出たならすぐに専門病院の治療が必要とされたのですが、現実には病院はおろか断酒会の門を叩いたことさえないそうです。 アルコールで問題を犯した人間は、保護観察処分にしてアルコール専門病院に入院させる、断酒会、A.A.に繋げるなどの法的な措置を考えるべきでしょう。 現在の法体系は薬物依存症、特にアルコール依存症に対し、医療の側面からのアプローチがなさ過ぎます。一度アルコールでトラブルを起こした者は、断酒しない限り再びトラブルを起こす可能性は高いでしょう。瀬戸キリスト教会
2006/08/02
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「ぷらっとこうち」の事務局に事務局長がいないのならば西村、竹内、森氏への対応の最終責任者は誰ですか。合議制は無責任体制と同義語です。削除した責任者の名前が明らかにされていないのは当事者を愚弄することです。 「ぷらっとこうち」の管理者はサービス提供者ではなく、参加者も単なる利用者ではない、共に高知のために(ぷらっとこうち?を)作り上げていく仕組みならば、排除の論理はおかしいと思います。 7/20の「ニートの会」、「ニートと親子のためのほっとカフェ」で西村さんと竹内さんにお目にかかりました。誰の目から見ても両氏は法的にはもちろ社会的にも欠格事項が適用される人ではありません。 西村さんは放送、ブログを通して市民の支持を受けており、竹内さんはNPOを立ち上げ、ボランティアとしてニート問題に積極的に取り組んでいるのは周知の事実です。 運営委員会の登録抹消、書き込み削除権限は抑制的に行使することを期待されているはずです。例えば病的な書き込み、私もブログを立ち上げた時には悩まされましたが、他人を誹謗中傷することを目的とした書き込みを削除する権限が与えられているだけです。 先ず、削除された書き込みは病的な書き込みではありません。さらに誹謗中傷することを目的としたいわゆる怪文書でもありません。一市民が自己の意見を自己責任(本名)で発表しただけです。 参加者の意見を発表する機会を奪う権利は運営委員会にはありません。彼らに非があるのならば、委員が自己責任(本名)で「ぷらっとこうち」に書き込みをし、参加者に判断を仰ぐべきです。 運営委員は権利・義務関係に疎いのか、対応が非常に杜撰です。他人を切る時には自分が切られる以上の痛み、血潮を感じなければならないのに、むしろ殺戮の血に酔っているかのように感じられます。 大切なのは市民の意見を発表する場として「ぷらっとこうち」を造り上げていく姿勢です。私は管理者は単なる管理者として掲示板を適正に維持・管理することだけに専念すべきだと思います。 グーグルは検索ソフトの運営に人間が介入するのを避けるためにコンピューターに管理させているそうですが(中国には屈した)、このような事態を避けるためなのだと納得しました。 当事者は怒り心頭に発しているか、それを通り越して呆れているか、「ぷらっとこうち」無用論を唱えているか、いずれにしろ市民パワーを引き出すために造られた「ぷらっとこうち」の設立の趣旨から遠く離れた結果を招いています。 そのうちに私も登録抹消になるのかと半分冗談、半分本気に思っています。脱藩浪士(家内はその子孫です)を出した土佐藩、「土佐の山間より」自由民権運動は起きたのですし、その伝統を守って欲しいと思います。
2006/08/02
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「精神科看護師、謀反」、ブログ仲間の越智元篤さんの著書を読みながら精神科医療について考えてみました。私は35年前、精神衛生法時代に地方の精神病院、金沢の有名私立精神病院、金沢大学付属病院の閉鎖病棟で通算数年は過ごしました。 何でもありの精神衛生法時代でしたが、私自身は優雅?な入院生活を送りました。鉄格子の中でも学歴が幅をきかすとは思いませんでした。看護士(師)を始めとして医療スタッフが最大限の便利を計ってくれました。 地方の病院では面会、差し入れさえも許されず、保証人になってくれた牧師が怒っていました。16名ぐらい収容の大部屋で、一人が自由になる空間は畳の上に引いた布団の上だけでした。おそらく刑務所より待遇が悪かったと思います。 大学病院ではラウンジの片隅にあった大机を独占し、朝から晩まで勉強をしていました。朝6時に豪華な朝食を出してもらい、車を運転して海に出、海藻を採取し、大学に戻り、顕微鏡を覗き、夕方病院に帰るという生活を半年間送りました。研究結果は日本水産学会で発表しました。 有名私立病院では面会室を勉強部屋として使わせてもらいました。患者同士でタバコを賭けて麻雀をしており、一人勝ちをしました。タバコを吸わないので、タバコの変わりに掃除当番などをしてくれる人がおり優雅に過ごせました。 この病院では電気ショックを行っており、治療の前、ナースセンターにたくさんのアンプルが口を切って用意されていたのには驚きました。電気ショックを受けた患者さんは全く記憶がなくなっているのに驚きました。ロボトミーの手術跡を残している患者さんもいました。 宇都宮病院のような病院に入院したはずでしたが、幸い暴力事件には出会いませんでした。殺人犯などで心神喪失と鑑定されて不起訴処分になった人たち専用の病棟が別にあり、そこは酷いという噂を耳にしました。 宇都宮病院事件を契機として明らかにされてきた精神病院での人権無視体制は精神衛生法時代には普通でしたが、病院にも守るべき体面がありました。私の場合は母親が毎週見舞いに来たので、病院も特別な配慮をしたのかも知れません。 覚醒剤中毒のヤクザがフラッシュバックが起き暴れたのですが、覚醒剤が検出されず措置入院になっていました。彼は刑務所に入れられなかったことを悔やんでいました。刑務所では出所時期が明きらかだし、毎日作業があり、何もすることのない病院生活よりも活気があって良かったそうです。 精神病院の鉄格子の中での生活は飼育されているブロイラーのようなものです。食べる物には不自由しないが、自由がない生活です。生きて外の世界に出られない生活です。罪を犯さないのに無期懲役刑に処せられた人のような生活です。 精神病は病気です。病気になったのは本人の責任ではありません。遺伝子の配列が偶然、病的な配列になっただけです。誰の子供でも精神病になる可能性はあるのですから、病者差別は明日にも我が身に降りかかるかも知れないのです。 社会は精神保険法、精神保健福祉法時代へと変化してきました。外来が主体となってきたので精神病院の閉鎖性もかなり緩和されてきましたが、医療側に根本的な意識改革がなければ形を変えた人権無視はこれからもまかり通るでしょう。 最近通院して感じるのは、精神病院側が随分努力しているということです。医療スタッフも若返り、病室も普通の病院以上に整備されてきました。外来診療が主体となり、病院も患者に選別される時代になったからでしょう。 病院側も従来の世襲体制では経営効率が下がり、経営が成り立たなくなってきました。良い意味での病院間の競争が精神病院を近代化させてきているようです。隔離されていた患者が社会に出ることで精神科医療が近代化されてきたのでしょう。
2006/08/02
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教育刑を導入するように刑法が変わる可能性が高いのですが、飲酒運転者は教育刑ぐらいでは懲りないと思います。 飲酒運転をしたら拘置所、警察で勾留することを原則とすれば少しは懲りると思うからです。 飲酒が原因でトラブルを起こした人間専用の刑務所を造り、アルコール専門病院で受ける治療を受けさすのがよいと思います。飲酒運転で刑事罰を科された人間も当然そこで再教育を受けさせます。 私は飲酒が原因で刑事罰を受けた者は広義のアルコール依存症だと思うので、精神病院の閉鎖病棟の中で治療を受けるぐらいの厳しさがあっても良いと思います。 日本社会、特に土佐は問題飲酒者に対して寛容すぎます。社会の規範が厳しくなれば潜在的アルコール依存者も治療を受けざるをえなくなると思います。 アルコール依存症の人間は「アル中」かも知れないと思いつつもそれを否認し続けるからです。 アルコール依存症の患者が断酒して、自分の人生を悔いても、残されている時間は短いからです。断酒は時間との闘いとなるからです。瀬戸キリスト教会
2006/08/01
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