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今日から始まった夫の新薬PEGインターフェロンによる治療。副作用は少ない、とは言われていたものの、それでも、熱が出て、インフルエンザにかかったような感じがする様子。熱冷ましは飲んでいるけれど、ぐったりして横になっているのを見ると、やっぱり、治療って大変なんだなぁと思う。B型肝炎だから、本当は90マイクログラムでいいところ、180マイクログラムのアンプルしかなくって、倍量注射されたらしい。その方がいくらか効果はあるらしいけれど。今製薬会社と、135マイクログラムの物にできないか、交渉中だ。違法ドラッグを作っていた会社と間違われた事件の続報。なんとタブロイド紙に、うちの主人と、それから同じところにオフィスを持っている人の息子さんの名前まで指名手配中として名前が出てしまった。うちは顧客が大体海外だから影響がないものの、もう1人の方のほうは、携帯からメールから、Faxまで、「おたくのことですか?」って問い合わせがあったとか。まったく報道は責任持ってやってほしいものだ。なぜうちの主人たちの名前が出たのかというと、その違法ドラッグの工場は、自分たちの住所をごまかすため、うちの主人の借りている敷地の住所を自分たちの会社の方にも付けていたから、ということらしい。今日、仕事から帰ってきて、ゆっぴーのノートや宿題を点検していたら、大変なことになっていた。やっていない宿題がいくつかあるし、しかも、本人が、自分で宿題の内容を写しておきながら、全然わかってない。土曜、日曜と、パパといっしょに山に登ってきて、とてもよく頑張ったのは、よかったけれど、学校のことも、もう少しきちんとやってくれないとね。少し叱ったら、しょんぼりしていた。主人が帰ってきて、私がゆっぴーのことであんまりしょんぼりした顔をしていたので、私が明日の仕事のための準備をしている間、治療中で体がしんどいのに、根気良くゆっぴーの勉強を見てくれた。パパ、ありがとう。そうそう、土日に、ゆっぴーたちと一緒に山に登った人は、やはり同じくらいの年の息子を1人連れてきていたそう。でも、ご両親が別れてしまったためなのか、まだ小さいのに、なんだかひがんだところがあって、山を登りながら、ゆっぴーのお尻をつついたり、いろいろ問題行動があったらしい。ゆっぴーが帰ってきてから話してくれた。「でもOOちゃんは、かわいそうなんだ。お父さんとお母さんと離婚してしまって、お父さんとちょっとしか会えないんだって・・・」主人の観察では、その子のお父さん、一緒に来ていた今の奥さんに対しても、何かと批判的な、決め付けるような言い方をする所のある人のようだということだ。子どもは、はじめっから、大人を信用していなくて、あちらでも不平を言い、こちらでも不平を言い、事あるごとに、"I don’t believe you."という言葉を繰り返したらしい。山登りは、仲間同士の信頼関係が1人1人の命に関わってくることがあるから、こういう態度は問題になるのだそうだ。まだ子どもなのに、人が信用できない・・何だか心の痛む話だ。山にいる時、いろいろ嫌なこともされたけれど、山から降りて別れる時に、ゆっぴーは「OOちゃん、君は僕のベスト・フレンドだからねー!」そういって大きな声で言って手を振っていた、そうパパが言っていた。
2003年11月24日
ちょっとした事件がおこった。金曜日に主人の会社の隣の工場に、警察が家宅捜査に入ったところ、ドラッグを大規模に作っている工場だったというのだ。そして、ちょうど捜査に来ている時、主人の会社へ配達に来るはずだったトラックが、代わりにそちらの工場へ行ってしまったのだそう。運転手は、警察に思いっきり絞られて、やっと釈放(というか、別に逮捕されたとかいうわけじゃないけど)されたのだけど、主人の会社へ来てから、泣きそうな顔で事情を話したという。テレビのお昼のニュースでもトップニュースとして報じられたの、こっちは半分野次馬状態で、すごいね~なんて言っていたんだけど・・・それが今日になって、こちらがとばっちりを喰うはめになってしまった。主人の携帯電話に、同じ所にオフィスを借りている人から連絡があって、その人の息子さんと、うちの主人に逮捕令状がでているという話。そんな馬鹿な!うちの主人は全然関係ないのに。ともかくその人が手紙で事情を書いて当局に送ってくれたそうだけれど、なにしろこんな国だから、勘違いが元で逮捕されて、という話も少なくない。いったい、どうなるんだろう。こんな時こそ、とにかく祈ることかな。自分で何もできない時ほど、祈るのがベスト。そんな中、明日から、主人のB型肝炎の新薬による治療がスタートする。以前からのインターフェロンより、ゆっくり溶けるから、副作用が少なくて、効果が高いらしい。ウイルスを完全にやっつけられるかどうかは、わからないけれど、たとえ完全にやっつけることができなくても、肝臓ガンや肝硬変になるのを、少なくとも遅らせることは可能なんだそう。いつも肝臓が腫れた状態だと、肝硬変になる確率はかなり高いそうだから。副作用ができるだけでませんように。ウイルスが効果的に退治されますように。とても高い治療だけれど、少なくとも経済的な必要が満たされたことは本当に感謝・・。今私のやっている、約4ヶ月間の仕事の報酬を、全部合わせると、ちょうど主人の約4ヶ月間の治療の費用に匹敵するのだから、またこれも不思議な話だと思う。ともかく、全てのことを神様におゆだねしていくことにしようと思う。
2003年11月23日
また、著者はただ子どもに、他人との違いや距離を尊重することを教えるだけではなく、年齢に合った自由を子どもに与えることが必要だと言っています。子供を縛りすぎていないか、点検してみましょう。1.自分のスペース子どもに自分で管理、整頓するための場所を与える。例えば自分の部屋や自分の机など。そのスペースは自分の好きなように使って良いとはいっても、使い方にも制限はあるし、ちゃんと整頓しておく責任が伴う。2.自分の時間危なくない限り、時間の使い方もある程度の制限の中で自由にさせる。小学生なら、遊ぶのは宿題が終わってから、とか、お手伝いの時間などは決めておく。年齢があがるにつれて、できるだけ自分で時間を管理させる。いつまでも、親が「時計代わり」をしない。(「~時ですよ、~しなさい」と何度も言わない。)時間になっても用意ができていなければ、その活動には参加させない。それによって、子どもが自主的に時間を管理することを学ぶようにする。3.友人関係もし子どもが親として自分なら選ばないような子と交友しているなら、子どもを無理矢理遠ざけるのではなく、子どもがその子とつきあってどんな気持ちがするのか、次のようなことを話し合う。*OO君とつきあってみて、どんな感じ?(子供の意見を待つ。)*そういう風に扱われたいと思う?お母さんなら、自分の意見を尊重してくれない友達とは一緒にいたくないと思うわ。*OO君のどんなところが好きだなぁと思う?(子供の意見を待つ。)お母さんだったら、いつもわがままを言う人と一緒にいたいと思わないけど。*できればOO君にいい影響を与えてあげられるといいわね。*私も自分と違う価値観を持ったお友達もいるわよ。どう?違う価値観を持った人と一緒にいると、自分も影響されちゃう?自分が正しくないと思うことをさせられそうになった時、どうする?ただし、実害のある場合は、別。実際に子どもが人を傷つける傾向のある人ばかりを友人に選ぶ場合は、それがパターンとして繰り返されているのか、鬱傾向などはないか等観察して、専門家の助けを受けることが必要です。4.お金お金は使ってしまえば、なくなるものだ、限りのあるものだ、ということがわかるためには、これも年齢に合った額を与えて、それを使う自由を与えること。ただし、決まった期間内に使いすぎて無くなってしまったら、もうそれ以上は与えない。ただし小言を言わず、「必要な物がある時に、お金がないのは辛いことだね」のように共感してやるが、追加の小遣いは与えない。5.服装や髪型服装や髪型は基本的にその子の好きなようにさせる。ただし、これも、実際にその服装によって子どもが危険な目に合わないことが大切。親の趣味と合わないくらいは構わず、好きにさせる。別に親がそれを無理に好きになる必要はない。服装によって子どもが主張しようとすることは、2つあるそうです。一つは、自分の所属グループを示すため。もう一つは、「自分は親とは違う。そして自分で選択できる。」ということ。もちろん、行く場所によって、服装を選ぶ必要はあるので、TPOは教えるが無理強いしない。服装や髪型よりも、子どもの生き方の全体的な方向を見ること。価値観、誠実さ、他人をどう扱っているか、どんなことを学び、何を好きだと思っているか、など。◆親自身が自分を点検するさて、著者は、親が自分自身、基本的な5点ができているかどうか、確認することが大切だと述べています。ここで、もう一度、他人を尊重するための5つの点をおさらいしてみましょう。1.他人を傷つけない2.他人にノーと言われた時、そのノーを尊重し、相手を罰しない。3.一般的なルールや規則を尊重する。4.他人との違いを尊重し、他人の自由を認める。5.自分の思い通りにならない時、怒るのではなく、悲しむ。そして、これらを確認するために、自分に次のようなことを問い掛けてみることを勧めています。1.自分の子どもを傷つけてしまった時、その責任を自分の物として受け止め、子どもに謝っていますか?自分勝手だったことを伝え、許しをこうことができますか?2.なにか自分の望んでいたことに、配偶者や子どもが反対した時、怒ったり、相手をあやつろうとしたり、愛情をかけひきしたりしていませんか?子どもが自分の嫌なことを嫌と言うことが許されていますか?自分で子どもが自分の人生を管理できるよう、選択肢を与えていますか?子どもに野球をしてほしいのに、子どもがサッカーを選んだら、子どもの選択を尊重しますか?信仰について、子どもが親と同じ意見を持てない時、子どもが自分自身の考えを持つことを許していますか?3.一般的なきまりをどう守っていますか?きまりやルールはうまくごまかせば大丈夫、とか自分は例外、なんて子どもの前でやっていませんよね?4.他人との違いを尊重し、他人の自由を許していますか?子どもが独立心を持って育つことをゆるしていますか?子どもが自由を持つことを喜んでいますか?それとも嫌っていますか?5.子どもや周りの人が自分の思うようにならない時、あなたは怒りますか、それともそのかわりに悲しみますか?彼らの選択に憤り、抗議しますか、それとも悲しみながらも受け入れますか?自分の思い通りにいかないとき、あなたはかんしゃくをおこしますか?それとも悲しみながらも、前へ進むことを選びますか?◆結果まとめると、子供達が他人を尊重することを学ぶ際には、次のような過程を通ることになります。1.子どもは親のもうけた制限に抗議する。2.なんとか制限を取りのけようとし、制限をもうけた親に反抗する。3.親は制限を取りのけず、現実と共感をもって対応する。4.子供は設けられた制限が現実であることを受け入れる。しかし、著者も言うとおり、これは一夜で起こることではありません。そして、ある時期はうまく行き、ある時期はうまく行かない時もあるでしょう。しかし、親はそこに踏みとどまることで、子どものこれからの人生に大きな影響を与えることになるでしょう。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(「聖書」ヘブル人への手紙12章11節)
2003年11月15日
著者によると、人間は誰でも制限を設けられるのは嫌なものだと言います。人間は制限されることによって、自分は全能ではなく、すべてを支配することはできないのだ、と知るのです。本当は、子供は何でも自分の思うままになってほしいのです。でもそうはいきません。親は、そこに制限を設けます。正しい「境界」意識を持った子を育てたければ、そこに制限を設けるのが親の仕事だからです。だって、テレビを子供が見たがるからって、一日中他のことはさせずテレビばかり見せるわけにはいかないし、子供が甘いものばかり食べたがるからって、そればっかり食べさせるわけにはいきませんよね。親の制限にぶちあったった子供は、自分がすべてをコントロールできないことにフラストレーションを覚え、怒ります。ところが、子供が怒るから、と、親がその制限をとりはずしてしまうなら、子供は「自分はすべてをコントロールできるんだ」「親をコントロールするにはこうすればいいんだ」と思うようになります。あくまで親はその「制限」に固執することが大切なのです。でも、もう一つ、覚えておかなければならない大切なことがあります。それは、Boundariesの中で、何度も取り上げられているように、親が子どもの気持ちに共感してやることです。子どもが泣き喚いたり、親を攻撃して来る時、子どもに共感してやることは親にとってとても難しいことです。しかし、親が子どもに共感せず、子どもを責めたり、「こんなに~してやっているのに」と自分の側の主張を始めたり、お説教を始めるとどうなるでしょうか。子どもは今でも十分イライラしているし、不満が溜まっているので、親の側の正論にも、お説教にも興味はありません。子どもにとっての対決すべき対象は、「現実」ではなく「親」になってしまうのです。しかも、一緒に現実と向き合ってくれるはずだった親はそこにはいません。その状態を著者は問題が二重になった状態「ダブル・トラブル」と呼んでいます。ダブル・トラブルは避けたいですね。だって、親が自分の側には立ってくれないと感じた子供は、どこに共感を求めるのでしょう?家庭の外の、必ずしも安全だとは言えないところに共感を求めるようになれば、さらに問題は深刻化してしまいます。子どもが親を責めたり、親を攻撃することもあるでしょう。でも、そこで親が自分が苦しいから、と子供を責めるのではなく、子どもに共感しつづけ、しかもそれでも制限をとりのけなければ、子どもは「問題」は親ではないことを実感しはじめ、世の中には自分の思うどおりにならないこともあることを現実として受け止められるようになるのです。この共感の仕方なのですが、子供の感じているであろう不安、怒りやフラストレーションを、代わりに言葉にしてやります。カウンセリング用語では、これをミラーリングと言います。それと同時に、制限はとりのけないのです。本から、ある親子の会話を抜粋します。会話親「だめよ。今日は映画に行っちゃ。家事を先にやってしまいなさい。」子「そんなの、不公平よ。OOちゃんも行くのに。馬鹿げたルールなんてだいっきらい!」親「わかるわ。また映画に行けないのが不満なのよね。」子「でも、私は今日行きたいの!お母さんのわからずや!」親「行けないのは不満だし、怒るのも無理ないわ。遊ぶ前に働かなくちゃいけないのは、辛いものよね。お母さんも、そう思うわ。」子「もう、嫌!出て行きたい!何にも好きな事させてくれないんだから!」親「そんなに映画にいきたいのに行けないのは、残念よね。」子「そんなにわかってるなら、行かせてよ!」親「行きたいのはよくわかるわ。辛いわね。でも駄目。」子「でも今回のを逃したら、夏休みまでやらないのよ」親「それはほんとに残念ね。夏休みまでは、まだまだだものね。どうして、そんなに行きたいのか、よくわかるわ。」この会話で、子は制限も取りのけられず、親を怒らせることもできないので、ついにはあきらめ、現実を受け入れます。この親は、お説教も、自己弁護もせず、ただ共感と制限を保っているだけです。私も、これを読んだ時は、まさか、こんなことできるわけない、と思いましたが、正面衝突するだけでは、何にもならないので、共感と制限で対応するようにしています。
2003年11月14日
子どもが自分のわがままのため、友達とけんか別れをしてきたときはどうでしょうか?親にとって、子どもが悲しんでいるのを見るのは辛いのですが、実は、こんな時こそ、子どもを支えながら、どうしたら良いか一緒に考えていくチャンスなのです。本での例では、親はこういう風に子どもに語っています。「一人ぼっちになってしまって、嫌な気分だよね。自分の意見だけを通そうとするとね、そうなるんだよ。自分のやり方だけで、なんでもやろうとしても構わないけれどね、でもそうしたら友達は離れていくでしょうね。妥協して折れれば、友達も遊んでくれると思うよ。1人ぽっちでいるのは、辛いよね。気持ち、わかるよ。だから、いつでも自分のやり方だけを通そうとすることが、そんなに大事なことなのかどうか、考えて見た方がいいかもね。何でも好きな事をやりたいなら、そうしてもいいけれど、でもその道を選んだら、とても寂しいことになると思うよ。」すごいなーと思ったのは、この親が「我を通そうとする道を選ぶなら、それは悲しいことになるだろうけれど、でもそれが決断なら構わないよ」と言っている点です。子どもをしかりつけるわけでもなければ、コントロールするわけでもなく、子ども自身に自分の人生を選ばせようとする態度です。実際に子どもは親の望まない方を選ぶかもしれないけれど、それで現実から学ぶのは、子ども自身だからです。私もゆっぴーに、そんな風に言う機会がありました。ゆっぴーは、お姉ちゃんをはじめ、女の子達の嫌がることをすることが遊びだと思っているらしく、結局女の子達に、のけ者にされたのです。「ゆっぴー、のけ者にされて、遊んでもらえないのは、つまらないよね。友達に嫌われるのって、嬉しいことじゃないよね・・」「いつも自分の好きなことをしても構わないけど、それが相手の嫌がることだったら、友達は遊んでくれなくなるよね。」「いいもん、僕、友達いなくても。1人で遊ぶもん。(ぷん)」「そっかー、それでもいいけど、寂しいだろうね。ゆっぴーだって、友達やお姉ちゃんが、自分の嫌なこと、やめてって言ってもやめてくれなかったら、嬉しい?」(ちょっと考えて)「ううん、うれしくない。」「でしょう?きっとお姉ちゃんたちも同じ気持ちだと思うよ。人が嫌がっても、自分のやりたいことだけやることに決めたんだったら、それはいいけどね、でも友達がいなくなって寂しいのは、自分だろうね・・?」こう言ったからと言って、子どもは一度でふるまいを変えたりはしません。「自分もそんな風にされたいの?」「ううん」そんなやり取りを、何度かやっているうちに、面白いからといって、人の嫌がることをやっていると結局は自分が困るのだ、ということを理解することになってきているようです。
2003年11月13日
我が家の子供達は、たぶんよそと同じで、よく喧嘩をします。喧嘩をするなら、別々の所で、めいめい好きな事をやっててくれたらいいのに、と思うのに、なぜかくっついて、ちょっかいを出し合って、喧嘩をします。そしてその度、「ママー!ゆっぴーが・・!」或いは「ママー!お姉ちゃんがー!」。子供達は、問題を解決するのは、私(親)で、自分たちではないと思っているのです。Boundariesでは、子ども達と親との「三角関係」を防ぐため、できるかぎり子供達の喧嘩はまず自分たち自身で交渉することを学ばせた方が良いと勧めています。家庭内だけでなく、外で子どもが友達と喧嘩をした場合も同じです。もちろん子供達がお互いに交渉した上で、それでも解決しない場合や、どちらかが交渉に応じようとしない場合もあるでしょう。親の仲介はそんな時のための最終手段です。そして、大人の社会で、裁判の後には、きめられた刑や賠償金などによるつぐないがあるように、親が仲介した場合は、子供達のそれぞれの行ないに応じて、「結果」を与えることになります。私もここから学んで、ちょっとしたいざこざや「お母さーん!」の第一声で仲介に出て行くのはやめました。子供達がいつものようにちょっかいを出し始め「お母さーん!ゆっぴーがOOする!」の声が飛んできた時、私はこんな風に言うことにしています。「誰に困ってるの?まず相手に話さなきゃ。OOしたら嫌だとかやめてって言った?」「二人でまず話してから来なさい。話は聞いてあげるけど、お母さんが間に入ったら、そのかわり、悪かった人には、Consequence(結果)だよ。」そうすると大概、「あ、そうだった」とか「あ、まだやめてって言ってない」と二人での交渉に戻っていくようになりました。ところで、今年の3月ごろ、かりんは学校のある1人の子から嫌がらせを受けていました。現在でも、時々いやなことを言われたりされたりするようですが、以前と違って、かりんは何か学校であった時には話してくれるようになりました。そういう時でも基本原則は同じで、まずかりん自身がその子に、そういうことを言われたりされたりするのは嫌なことを伝えるようにさせています。でも、それでもその子からの嫌がらせ等が続く時は、いつでも親(私)や先生に助けを求めていいから、と言ってあります。子どもが嫌がらせをさたりするのは、親としても辛いことですが、少しずつ子どもが自分でできることは自分で責任を取り、それ以上になったら信頼できる大人に手助けを求めることを学びながら強く育っている姿を見ることができるのは、感謝なことだと思っています。
2003年11月12日
子どもは、親に何か制限された時や親に何かをいいつけられた時、憎しみをこめた言葉で親をののしることがあります。本当は、子どもは自分の思うように物事が進まないので、そのことに憤っているのですが、その自覚がないのです。物事は何でも思い通りに進む「べきだ」と思っているのに、親のせいでうまくいかないとか親がゆるしてくれない、そう思って親に対して憎しみの言葉をぶつけているのです。子どもは、親を始めとする他の人の意見も尊重するべきだということにも、自分の悪い言葉で人が傷つくことがあるのだ、ということにも気付いていないからです。そんな時、まず、子どもに「そんなことを言われれば自分は傷つく」と言うことを伝えることからはじめます。「自分は思い通りに行かなくて腹が立っている、悲しい、と言葉で表現するのはかまわない。けれど、だからと言って、他の人をそんな言葉でののしることは良くないし、その人を傷つけることになる。」ということを伝えるのです。それを教える一番良い方法は、「私自身(親)は傷つく」ということを言葉で伝えることです。それは、本当に親が子どもの言葉に傷ついてしまって、これ以上傷つきたくないからと、何でも子どもの好きなようにやらせるように制限を取りのけてしまうことではありません。それでは、子どもは逆に「人を傷付ければ何でも思い通りになるのだ」というレッスンを学ぶことになってしまいます。また「何を言っても構わない。私(親)は傷つかない」という態度を取ることでもありません。それは、真実ではないし、子どもは「自分の言葉で人は傷つくのだ」という貴重な教訓を学ぶ機会を失してしまうからです。親自身が、自分にも感情があることを認め、その怒りを鬱屈しておいて、暴力ややつあたりで爆発させるのではなく、自分にも感情があり、傷つくことがあるのだと冷静に認めることなのだと思います。また「自分がそんな風に言われたら、どう感じる?」とか「自分もそういう風に言われたいの?」のように言って、考えさせるのも効果があります。考える間もなく、矢継ぎ早に質問するのではなく、子ども自身が考えて、それぞれの質問に答えるのを待ちます。また、子どもが親をののしる時、親自身が聞き方に制限を設けるのも、効果があります。たとえば「腹が立っていることはよくわかるけれど、人を馬鹿呼ばわりするなら、話を聞いてあげることはできない。もし何を怒っているのか話がしたいなら、他の言い方で話してね。」という風に、他のやり方を考えさせるのです。こういう風にして、子どもが思い直して、謝ったり、別の方法で話をすれば良いのですが、子どもがそうしないとか、このパターンが何度も繰り返されるなら、この行為による「結果」を返すことになります。子どものしていることは、言葉によって他人を傷つけることですから、それによって壊れるのは「人間関係」です。ですから、この場合、その行ないが改善されるまで一時的に、子どもの持ちたがっている「人間関係」を与えないことが「結果」になります。あくまでこれは「一時的」なものであること、そして、子どもに教えることが目的であって、親の苛立ちのはけ口のためではありません。たとえば、「もしそんな言葉を使い続けるなら、私(親)の気持ちが傷つくから、これ以上は聞きません。自分の部屋で、どう話せばいいか考えて来なさい。」と部屋へやるとか、「家族に対してそんな言葉づかいをするのだから、きっと外でもそんな言葉を使っているのね。人を傷つけない話し方を覚えるまで、外では遊ばせません。友達との電話も禁止。」というようにして、子どもに行ないの結果を帰してやると良いのだそうです。実際おとなになって、子どもが人を傷つけたり、酷い言葉を吐いたりすれば、子どもの周りの人間関係は壊れ、社会や家庭での人間関係がうまくいかないことに傷つくのは子ども自身です。そうならないよう、今のうちから、現実的な結果を帰してやるのです。◆ゆっぴーのかんしゃくゆっぴーも、自分の思い通りにならないことがあると、すぐ泣き喚く傾向があります。ついさっきも、一緒に復習をしている時、何度もかんしゃくをおこしました。まず最初は、友達が遊びに来たけれど、復習が終わってから、と私に言われたから。そして、その後は、横から間違いを私が指摘するたびに、うう~ん!と唸ったり、うへーっと泣いたりしていました。自分が遊びたいのに遊びにいけないのと、間違えずにすらすらやりたいのに横から間違いを指摘されるのを、自分がなんとかしなければ、とは考えずに全てを私(母親)のせいにしているのです。こんな風に、子どもの心理がわかったのも、バウンダリーのおかげです。以前だったら、子どもがかんしゃくで来たら、こちらも石頭で勝負してたところでしょう。今日も、嫌になって、もう勝手にしたら!と思いかけたけれど、私が自分自身のコントロールを失ったのでは、バウンダリーの実践にはならないので、ぐっと我慢です。「遊びにいきたいよね、それはわかるんだけどね、泣いてると余計時間がかかって、遊びに行く時間がだんだん遅くなるからね、ゆっくり、確実に、一つづつやってしまった方がいいと思うよ」と言うことにしました。気をとり直して、ゆっぴーも復習にとりかかりますが、間違えるたびに、いらいらして、私をにらめつけます。「ゆっぴー、間違えていらいらするのはわかるけどさー、間違えたのはお母さんの責任じゃないよね?どうしてもそうやってにらめつけたり、そういう態度を取り続けるんだったら、落ち着くまで2階へ行かせないといけないかな。」ゆっぴーは、怒った顔をしながらも、じっと考えている様子です。2階へ行けば、余計時間がかかる。そしたら、遊ぶ時間が短くなるのは自分だ。お母さんは泣き喚いても、「じゃあ、もういいから遊んできてからやりなさい」とは言わないだろう。そう考えたら気がおさまってきたのか、椅子に座って、「お母さん、ぼく、やるから手伝って。」と言いました。「うん、急いで読めない字を書いたら、またやりなおしだから、ゆっくり、確実に、一つずつね。書く前に、いっぺん口で言ってみて。」その後も時々間違えたりやり直したりもしながら、なんとか復習を終えたゆっぴーは「イェー、終わったー、もう遊びにいってもいい?」と元気に遊びに行きました。(かんしゃくについては、また別のところで、詳しく取り上げます。)我が家のバウンダリー実践は、まだまだ続きます。
2003年11月11日
今日は、「他人を尊重する」という話題について見ていきます。これまでのところで見てきたように、子ども達は、自分こそが世界の中心であると考えています。自分の好きなことが自分の好きなように起こらないと気が済まないのです。なんでも自分の好きなようにやりたいだけではなくて、他人さえも自分の好きなように動かさないと気に入らない、それが普通の子どもです。その子どもが、自分の意見を恐れずに語ることができ、かつ周りの人の存在も尊重でき、思いやりを持てる子どもになれるよう、導いていくのが、親の仕事です。我が家のかりんも、こういう傾向を持っています。弟のゆっぴーが自分の思い通りに動かないと腹を立てるし、そればかりか、「ママー、ママー!」と叫ぶだけで私も思い通りに動くもんだ、と思っているかのようです。でも、たとえ「あんたはワガママで、自分のことしか考えてない!」なんて責めたところで、子どもに罪悪感を植え付けたり、自己評価を低くするだけで、おどおどと人の顔色を伺うようになってしまうだけでしょう。だからと言って、なんでもかんでも、子どもの思うままにしてやっていたのでは、子どもの心の中に、「自分と他人は別個の存在だ」「他人も自分と同じように尊重するべき存在だ」という考えは生れてこないし、他人も自分と同じように感じ「なければならない」んだと感じ、ありえない「他人との完全な一体感」を求めるようになってしまうでしょう。まず私が決めたことは、娘が何をしてほしいかわかっていても、言葉でリクエストされない限り、手を出さない、ということです。そして、怒りやフラストレーションなどの感情も、言葉に出して言うように伝えることにしました。そうしなければ、娘には、人には言葉で伝えなければ伝わらないのだ、ということが学ぶことができないからです。こんな問題に直面した時、皆さんは子どもに対してどう接してますか?Boundariesには、他人を尊重する、ということについて、次の5つの点を子どもに教えていくことが提案されています。1.他人を傷つけない2.他人にノーと言われた時、そのノーを尊重し、相手を罰しない。3.一般的なルールや規則を尊重する。4.他人との違いを尊重し、他人の自由を認める。5.自分の思い通りにならない時、怒るのではなく、悲しむ。他人を傷つけない、というのは、人に対して暴力をふるわないとか、酷い言葉を使わないことなどが含まれます。人がノーと言った時、そのノーを尊重し、相手を罰しない、というのはどういうことでしょうか。まず相手は自分と違う人間なので、必ずしも自分と同じことをしたいとか、同じ考えだとは限らない、ということを、現実として受け入れることです。そのことがわかっていないと、自分の考えが相手に受け入れられなかった時、相手を無視するとか、相手に暴力を振るうとか、相手を無理矢理支配しようとするような行為を取るようになる場合があるからです。一般的な制限、きまりを尊重する、というのは、学校や社会での決まりや、家庭での決まりを尊重することです。親自身が、「規則やルールは『彼ら』のためのもの。自分たちだけは特別」という態度を取っているなら、子どももそう思うようになることでしょう。他人との違いを尊重する、というのは、人と自分は違うのだ、ということを知ることです。親の中には、子どもとの完全な一体感を求めるあげく、同じ服を着たり、同じ髪型をしたりすることで、子どもと自分はこんなにわかりあっていると勘違いしたりする場合や、あるいは、いつも同じ活動をしていないといけないのだと思ったり、いつも相手が自分といっしょにいるべきだと考えたり、また、相手と考え方が違うことを恐れて、ノーということができなかったりします。友達との関係を重視する思春期の子どもにも、こういう傾向はよく見られると思います。けれど、著者はこう言います。自分と相手の違いを、どれだけ許容できるかは、相手をどれだけ愛しているかにかかっていると。この5つの点を子どもに教えるためには、この5つの点に子どもが抵触してきた時、まず親自身がその境界を侵害され続けないことから始めます。そして、他の問題と同様、「共感」と「境界・制限」を持って接していきます。つまり、子どもの感じている、思い通りにならないことや制限されたことに対する怒りには共感し「思い通りに~のようにならないから、腹が立つ気持ちは解るよ」と言ってあげ、それでも、だからと言って他人を尊重しなくてもいいことにはならないことを伝えていくのです。次に、自分が相手の立場だったらどう感じるだろうか、ということに目を向けさせます。こうすることで、子どもは親に理解されていると感じることができ、また人を思いやることを学ぶことができるのだそうです。
2003年11月10日
かりんがアメーバ赤痢で入院した。東南アジアでは保菌者が多くて、決して珍しい病気ではないが、日本だったら法定伝染病に指定されている病気だ。万聖節と学期休み明けの月曜日の朝、いきなり40度の発熱。少し喉が赤かったので、咽頭炎だろうと思っていたら、吐き気、下痢が始まった。翌日になれば、同居している小児科医の義妹が帰ってくるので、それまで脱水症状が酷くならないように、水や電解質補給剤を溶かしたジュースなどを飲ませていたが、しばらくすると解熱剤も一緒に全部吐いてしまったので、熱もほとんど下がらなかった。今から思えば、本当に不思議なことなのだが、実はこの前日の日曜日、私は教会での礼拝中に、今週神様は私に信仰の試練を与えられるだろうとふと感じたのだ。それが何か私がとても大切にしているものだということもなぜかわかっていた。何が起こるのかわからないけれど、神様、信頼します、私はそう祈った。普通はそんなこと、感じるものではないのだけれど、きっと神様は弱い私を助けるために、そのことをあらかじめ知らされたのだろう。だから、急にかりんが発熱した時も、きっとこのことだと思ったのだった。私は、教会の親しい人たちにかりんのために祈ってくれるよう依頼した。さて、一日通して38ー40度あった熱が夜になって、急に37.5度まで下がった。きっと胃から吸収されはじめたのだろうと思って安心して、主人とテレビのニュースを見て部屋に戻ったのが11時過ぎ。部屋に戻った私達をかりんがびっくりしたように、じっと見る。まるで、この人たちは誰だろう、というように見つめるので、「どうしたの?何か怖いの?」と聞くと、娘が怒ったように、「お腹なんか空いてない!」と答えた。私と主人は顔を見合わせた。「どう思う?脳炎おこしかけてるんじゃないかしら。」私は電話で義妹と連絡を取った。その間、主人がかりんと話をしていたのだが、かりんにはたくさんの知らない人が、自分の周りにいたように見えたのだそうだ。義妹が小児科の神経の専門の先生を紹介してくれたので、私たちは夜中に病院へ車を走らせた。病院への道のり、いろいろなことを思った。もし脳炎か髄膜炎を起こしていたら・・・もう、かりんは元には戻らないのではないかしら。もう学校へも行けなくなるのかもしれない。神様、これが信仰の試練だということは知っていたけれど、これがそうだったのですか?ヨハネの21章でイエス様がペテロに問われたように「あなたは私を愛しますか」とイエス様に問われたような気がした。はい、それでも私は主を愛します。信頼します・・かりんを助けてください・・・脳炎ではありませんように・・・祈りながら病院に向かった。病院の緊急治療室で、待っている間、かりんは体は弱っていて立ったり歩いたりすることはできなかったけれど、意識ははっきりとしていて、医師の指示にもきちんと応えることができた。幸い、脳炎はおこしていなかった。かりんの言動がおかしくなったのは、たぶん熱のせいだったのか、ねぼけたためだったのだろう。でも脱水症状が改善するまで、点滴を受けるために入院することになった。火曜日の朝から、自宅に残してきたゆっぴーの方も発熱、嘔吐と下痢が始まった。二人の病状が、アメーバ赤痢だったとわかったのは、この日、かりんの検便の結果が出てからのことだ。ゆっぴーの方は、入院するほど酷くならなければ良いのだけれど・・・。私が病院にいて、ゆっぴーの世話をしてやれない分、余計に心配だった。お手伝いさんが家にいるとは言っても、ちゃんと世話をしてくれているだろうか?主人はオフィスにも行かなければ行けないし、病院にも毎日来る必要があるし、ずっとゆっぴーについているわけにはいかないからだ。自分でも祈りつつ、教会の友人たちに携帯電話で祈りの依頼のメッセージを送った。そのおかげか、幸い、ゆっぴーの方は、一日で熱が下がり、下痢もすぐに止まった。けれど、かりんの担当の医師によると、アメーバ赤痢は軽症で済むことが多いけれどきちんと治療をしないと軽快したり悪くなったりを繰り返してキャリアーになり、余後が悪いということで、かりんと同じ薬の処方箋を出してもらった。つまり、よく考えてみると、かりんが病院で検査を受けて、適切な診断をしてもらえたのは、感謝するべきことだったのだ。もしも、子供達二人とも症状が軽く、普通の胃腸風邪だと思っていたとしたら、そっちの方がよっぽどこわいことだったと思う。看護士さんにたくさんお水を飲んで、たくさんおしっこを出せるようにならないと家に帰れないよと言われて、かりんは一生懸命水を飲んだ。病院からの指示で書き留めておいた記録を見ると、入院二日目の水曜日には午後の6時間の間に2リットル近く水を飲んでいる。かりんは律義でまじめすぎるところがあるんだなぁ、私に似たのかしら・・と思った。普段、落ち着きがなくて、一つのことが終わらないうちにあっちへふらふら、こっちへふらふらしているかりんだけれど、それでも、きっと彼女なりに、精いっぱいやっているんだろうなぁ、と思った。この日の夕方にはもう随分元気になっていたので、まだ下痢をしていても木曜日には帰宅して、自宅療養して良いとの許可がもらえた。さて、かりんが病気になっている間、実はもう一つの試練があった。主人が先週、登山の前に私に預けていった財布の中の銀行のカードが無くなったのだ。私は先週、一度そのカードを使ってお金をおろしたがその時は確かに財布にいれたはずだった。ところが、火曜日の朝、病院への支払いのため、お金を引き落とそうとして、主人が財布をあけると、カードが入っていなかったというのだ。もしかすると、私が引き落とした時に、カードを機械に忘れてきてしまったのだろうか・・でも、お金より先にカードが出てくるから、そんなこと、ありえない。主人はその店まで行って問い合わせたが、拾ったという届けは出てないということだった。結局主人がまる1日そのカードを探したが、どこにも見つからなかった。火曜日の夜、私は病院から携帯電話でメッセージを送った。「実は、この日曜日、何か試練に会うことを神様が許されたという気がしたの。だから、このことも含めて神様に信頼しましょう。」カードが見つかったのは、その翌日の朝だった。カードは、主人の乗っている車の運転席に床に落ちていた。たぶん、主人が財布を持って車に乗った時、何かのはずみに財布から落ちたのだろう。落ちたのが、車の中で本当に良かった。これが外だったら・・・誰かに使われていたかもしれないし、そうでなくても紛失届など、なかなか大変だっただろう。それにきっと主人も私も、ずっと私が無くしたと思い続けたことだろうし。いくら私がそそっかしいとは言っても、少なくともカードは私が主人から預かった物だったから、管理ミスで信頼を失いたくはなかった。そんなわけで、大変な4日間だったけれど、やっと自宅に帰ってくることができた。そんな中で、結局神様は、ご自分が信頼に価する方だということを示して下さった。これらの一連のことを通して、とても感謝だったことは、教会の友人、知人たちが祈りによって支えてくれたことだった。かりんのため・・・と言っても、帰ってくるメッセージを見て励まされるのは実は私だった。たくさんの人が、かりんのために祈ってくれた。他の人に祈りの依頼を転送してくれる人もあった。かりんの病気のためだけだったら、私たち家族で祈っているだけでも良かったのかもしれないが、実は本当に祈られる必要があったのは、私の方だったのだ。神様の前に、祈るのは私だけで充分です、と言うのは、きっと思い上がりでしかないのだろう。だから、神様は「互いに祈り合いなさい」と言われるのだろう。教会は、神の家族とも言われるように、お互い支え合う存在なのだと思う。私は、親、兄弟から離れて異国に住んでいるけれど、神の家族の中にいれば、決して一人ぼっちではないのだ、そう思った。
2003年11月06日
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