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ありがとうございました。高野悦子さんは1963年1月2日に14歳になり、その日から日記の記述を始めています。しかし1月28日の日記には、「今、自殺してもかまわないと思っている。残念とは思わない。」と記しています。なぜそう考えるようになったのでしょうか。そして予期していたかのように、数年後自殺してしまう。悦子さんが残した本質とは、日記に「生は与えられるものである」と記述されています。これは生(存在)を受動的なものと考えていたことを表しているのではないか。また日記には「主体的、自己実現、創造する、高野悦子自身になりたい」と記述されています。これは受動的な生(存在)から能動的な生(存在)への転換を意味しているのではないか。その転換の中で、悦子さんは「なぜ存在する。あるいはなぜ生きなければならない」という生(存在)に対する真理、命題、疑問への答えを求めていたのではないでしょうか。そしてその真理、命題、疑問は、時代を超えるものです。そしてこのことが『二十歳の原点』『序章』『ノート』を残したい理由です。お父さんは出版に際し、他山の石あるいは足跡を永遠に残したいと記述していました。『二十歳の原点』『序章』『ノート』に影響を受けたものとして、石ころのひとつにでもなれればと考えて、ブログを始めました。このブログの内容は4つのサイトで公表しています。ファン、読者に登録して頂いた方、コメントをお寄せ頂いた方、トラックバックして頂いた方、そしてこのブログを読んで頂いた方に感謝致します。また今後高野悦子さんあるいは『二十歳の原点』『序章』『ノート』のサイトが現れることを楽しみにしております。ではミラーサイト対策をした後、しばらく休止致します。
2005/07/27
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生への未練がまだあるのです。6月22日また朝がやってきた。十九日以来の、このどうしようもない感情、うさ晴らしに酔うだけ酔って、すべてを嘔吐し忘れた方がよかったのかもしれない。・・・ このノートに書いているということ自体、生への未練がまだあるのです。ところが、では生きていくことにして何を期待しているのかといえば、何もないらしいということだけいえる。 私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。 買ってきた睡眠薬は不眠症には二錠が適量だという。それでは「不信症」には何錠がよいのだろうか。長期的治療には毎日三錠一ヶ月服用のこと、短期的治療には一時に三十錠、そうすればあなたの「不信症」は治ります。副作用のない安全な睡眠薬、赤ちゃんでも老人でも安心して飲める新しいタイプの睡眠薬、あなたも飲んでみませんか。九錠で一四〇円、二十錠入ったお徳用もございます。・・・今や何ものも信じない。己れ自身もだ。この気持は、何ということはない。空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ。ものかどうかもわからぬ。・・・旅に出よう旅に出ようテントとシュラフの入ったザックをしょいポケットには一箱の煙草と笛をもち旅に出よう出発の日は雨がよい霧のようにやわらかい春の雨の日がよい萌え出でた若芽がしっとりとぬれながらそして富士の山にあるという原始林の中にゆこうゆっくりとあせることなく大きな杉の古木にきたら一層暗いその根本に腰をおろして休もうそして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう近代社会の臭いのする その煙を古木よ おまえは何と感じるか原始林の中にあるという湖をさがそうそしてその岸辺にたたずんで一本の煙草を喫おう煙をすべて吐き出してザックのかたわらで静かに休もう原始林を暗やみが包みこむ頃になったら湖に小舟をうかべよう衣類を脱ぎすてすべらかな肌をやみにつつみ左手に笛をもって湖の水面を暗やみの中に漂いながら笛をふこう小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中中天より涼風を肌に流させながら静かに眠ろうそしてただ笛を深い湖底に沈ませよう 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用お父さんの「失格者の弁」によると、23日はバイトに出かけたそうです。そして帰宅後、24日午前2時頃「チョット外出します」と声をかけて出たそうです。悦子さんは線路の上で、何を感じ、考えていたのでしょうか。悦子さんは暗闇と静寂の中に消えた。
2005/07/26
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詩よ どうか私をなんとかしてくれ!?6月21日何だか惰性でこのノートにむかうようで書くのがいやだが、まあ一応書いておくことにする。・・・その何とかというやつにテレしたが、明日屋上に本をとりにくるということです。私は「本を渡したい」という、ただひとこと、それがいいたいことのすべてであった。相手に話をするひまも与えず切った。その何とかというやつへの伝言文に「これは私が信条としたいと思っているアナーキズムについて書いてある本です」と書いたが、この文自体にうそいつわりはない。アナーキズムに人間本来のあるべき姿があると思うのだが、しかし、一切の人間を信じない独りの人間が一体闘争などやれるのだろうか。やれる筈がない。だだっ広い空間にポツンと独りでいる姿を思いうかべている。とにかく今は空っぽなのである。詩よ どうか私をなんとかしてくれ!? アハハとにかく私は いつも笑っている悲しいときでも笑っている恥ずかしいから ごまかして笑うのか怒るのが てれくさいから笑うのかいつでも私は おかしくて笑っている本当に何でもおかしい・・・明日もふたたびぼんやりと一日をすごすことでしょう。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用己を律することができなくなってきたのかもしれません。
2005/07/25
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私は独りである6月20日このノートを書くことの意味―これまでは、このノートこそ唯一の私であると思っていたから、誰かにこれをみせ、すべてをみてもらって安楽を得ようかと、何度か思った。しかし、今日ぼんやりしていたとき、このノートを燃やそうという考えが浮んだ。すべてを忘却の彼方へ追いやろうとした。以前には、燃やしてしまったら私の存在が一切なくなってしまうようで恐ろしくて、こんな考えかたはおもいつかなかった。現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味をもつものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。このノートが私であるということは一面真実である。このノートがもつ真実は、真白な横線の上に私のなげかけたことばが集約的に私を語っているからである。それは真の自己に近いものとなっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっているからであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ。私は人間どもをだましながら 己れを生きさせているのだだまされているバカなヤツラヨバカも愛をしているものに対してはお互いに だましあいつつ生きてゆくのだ「独りである」とあらためて書くまでもなく、私は独りである。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用ノート(日記)だけが、友だったのかもしれない。
2005/07/23
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一切の人間はもういらない6月19日一切の人間はもういらない人間関係はいらないこの言葉は 私のものだすべてのやつを忘却せよどんな人間にも 私の深部に立入らせてはならないうすく表面だけの 付きあいをせよ一本の煙草と このコーヒーの熱い湯気だけが今の唯一の私の友人間を信じてはならぬ己れ自身を唯一の信じるものとせよ人間に対しては 沈黙あるのみ・・・サビシイデスネ―二・三〇・深夜。みごとに失恋―?・・・暗やみの中で 静かに立っている私今日はじめて夜の暗さをいとしく感じる暗い夜は 私のただひとりの友になりましたあたたかく私を つつんでくれます夜は己れのエゴを熾烈に燃やすこと!己れのエゴの岩獎を人間どもにたたきつけ彼らを焼き殺せ!彼らに嘲笑の沈黙を与えよ!ちっぽけな つまらぬ人間が たった独りでいる。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用悦子さんは中村さんへの想いを最後まで絶つことができなかったようです。亡くなる直前、深夜に外出したのは、心の静けさを求めたからかもしれません。
2005/07/22
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人は何故生きていくのか考えてみました。6月18日人は何故生きていくのか考えてみました。弱くて醜い人間が、どうして生きているのかって思いました。私はこの頃しみじみと人間は永遠に独りであり、弱い―そう、未熟という言葉があります―その未熟なのに、いやらしいエゴを背負って生きていくのかって思いました。私もどうし生きているのかと思いました。つまらない醜い独りの弱い人間が、おたがいに何かを創造しようと生きているのだと、今思いました。いろいろな醜さがあるけれども、とにかくみんなで何かを生み出そうとしているのです。何かを創造しようと人間は生きているのです。・・・何かわからなくなってきました彼に対して一体何をのぞんでいたのでしょうか彼なんてどうでもいいのでしょうか男なんてどうでもいいのでしょうか永遠にこの時間が続けばよい人々の中に入れば また自分の卑小さと醜さと寂しさを感じるのだから雲にのりたい雲にのって遠くのしらない街にゆきたい名も知らぬどこかの遠くの小さな街に。雲にのろう雲にのって ゆれ動く青空をながめようそこには小鳥のさえずりも深緑の木々のさざめきもないけれどはてしない空虚な広がりがある。雲にのろう雲にのって ゆれ動く青空を ながめよう。メモ(一九六九・六・一八)さようならまずこの言葉をあなたに言います。(私がこの言葉をいうのに大きな勇気を必要とするのに対し、あなたがこの言葉をきいて何の驚きも感じないこと、それどころか重荷を下ろした気持を抱くことを、私とあなたとの関係がそれだけの事であるというくらいは、私はわかっているつもりです) 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用悦子さんは、全てのことから逃避したかったのかもしれない。
2005/07/21
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ああ、人は何故こんなにしてまで、生きているのだろうか。6月17日中村の目の前で働きながら私は何もできなかった。中村にとり私がやっかいものの存在であるのは、私が中村に重苦しいものを求めているからであろう。今度会ったときは、楽しいおしゃべりで時をすごす方がよいかもしれぬ。友達のように、からかったり、だじゃれをいってみたり・・・・・。ふと思ったのだが、交通事故で怪我をしたら、新聞の紙面に一段ぐらいででるだろうか。それによって中村は私の怪我を知り、病院にくるだろうか。こないにちがいない。とにかく独りの人間の存在が、ちっぽけなものであるということを言いたかったのだ。ちっぽけなものに大きさを与えようと必死にもがいているわけなのだが。ああ、人は何故こんなにしてまで、生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用「ああ、人は何故こんなにしてまで、生きているのだろうか。」は、悦子さん自身、我々に対する問いかけではないだろうか。その答えは?
2005/07/20
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生きるということは妥協の連続なのか。6月9日生きるということは妥協の連続なのか。大事なことはどこに妥協の接点を見つけるかということである。・・・未熟である己れを他者の前に出すことをおそれてはならない。マルクシズムのマの字をしらないからといいて、帝国主義の経済構造を知らないからといって、現在の支配階級に対する闘いができないという理屈にはならない。私の闘争は人間であること、人間をとりもどすというたたかいである。自由をかちとるという闘争なのである。人間を機械の部品にしている資本の理論に私はたたかいをいどむ。その一方で私は私のブルジョア性を否定していかなければならない。その長い過程で真の己れを発展させていく。それは苦しいたたかいであるが、それをやめれば私は機械になる。己れが己れ自身となるために、そして未熟であるが故に、私はその全存在をさらけ出さなければならない。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用闘争は自己創造でもあった。
2005/07/19
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Swimming in the cloud6月5日私は我(が)の強くない人間である。私は他者を通じてしか自己を知ることができない。自己がなければ他者は存在しないのに、他者との関係の中にのみ自己を見出している。他者との関係において自己を支えているものは何なのか。私はよく「どうでもいい」という言葉を使う。ときとしてぼんやりと空でもみているとき、あるいは激しい行動のさ中、現実放れした真空の中にいるように感じるときがある。“Swimming in the cloud”そんな気持である。他者の存在が矛盾なく自己と同居している。そうした真空から脱したとき始めて、その矛盾に気がつくのである。結論―私の自我はあまりにも弱い。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用悦子さんの中には主体性の追及と自我の弱さが同居していたのかもしれない。
2005/07/18
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結局独りであるという最後の帰着点6月3日一抹の期待も抱いてはならないのだ。きっぱり訣別しよう。中村の好きなシャンソンの一曲「アデュー」を暗い夜空に向かってうたった。私はあの若人のもつ明るい笑い声をとうとう失ってしまった。そして、再び「結局独りであるという最後の帰着点」に私はいる。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用悦子さんの孤独は深い。どこからきたのだろうか。
2005/07/16
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生きることは苦しい。6月1日姉の家を一銭も持たずにとび出し、東京のどまん中を二時間半も歩いた。お金がないということ、それは決定的だ。テレする十円さえもなくて、落ちていないかと路面ばかり見て歩いた。まさに乞食だ、ルンペンだ。生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自ら思考の怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休息をのぞめば、それは退歩になる。怒りと憎しみをぶつけて抗議の自殺をしようということほど没主体的な思いあがりはない。自殺は敗北であるという一片の言葉で語られるだけのものになる。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用悦子さんにとって生きることは本当に苦しかったのかもしれない。しかし
2005/07/15
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私の存在の軸は何なのか。5月28日なんとなく学生となった自己を直視するとき資本主義社会、帝国主義社会における主体としての自己を直視せざるをえない。それを否定する中にしか主体としての自己の存在はない。外界を否定するのではない.自己をバラバラに打ちこわすことだ。なんとなく学生となった自己を粉砕し、現在の大学を解体する闘いが生まれる。5月30日はっきりしていることは、己れが存在し、矛盾と混沌に満ちておることだ。それは、己れがまた現代に生きる人間、もの、動物、すべてが商品となって非人間化、物化、機械化され、資本という怪物により支配されているという矛盾であり混沌である。考えることも感じることも、行動することも、支配されている現代の人間。いかにして現代社会から人間をとり戻すのか。いかにして己れの人間としての存在を、自らのものとして発展させるのか。方向は支配者との闘い、独占との闘いの方向にしかないことはあきらかなのだが。私の存在の軸は何なのか。今日、東京に行ってくる。姉と話しあい、家族との訣別をつけるために。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用お母さんの手記によると、悦子さんが亡くなる約1週間前に、お母さんと悦子さんは京都で逢っています。本当に良かった。
2005/07/14
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人間は結局死ぬんじゃないか。5月24日私はあなたの信念が、他人の誰からもゆるがせられぬものであることを知っている。そして、あなたは現在の仕事に生きがいをもってやっている。しかし、あなたは、その固い信念でもってよく考えてほしい。その仕事がいかに人間としてのあなたにとって矛盾に満ちたものであるかを。そして、その矛盾を止揚して闘ってほしい。会社側と国家権力、その壁にむかうとき人間は始めて真の人間となる。機械でない己れの手と足で創造活動を行う人間となる。人間が己れの手と足で立とうと決意したとき、今まで己れの存在を形づくってきたものが、いかに弱い基盤の上に立っていたかを知る。彼はおのれの足を作りながら歩かねばならないのだ。それは、まさに血みどろの闘いである。しかし、そのとき始めて彼は己れの足を、手を、己れ自身をもつことができるのだ。5月26日きのうは一日中ぶらぶら。「ろくよう」「ダウンビート」その他で過ごした。きのうのいかにも深刻ぶった顔を考えると吹きだしたくなる。自己完成のために―といったって、人間は結局死ぬんじゃないか。土になって終いにくち果てるのである。とかなんとかいいながら、めい想にふけったりしちゃって、漫画そのものでした。・・・中村がきて、歩いて下宿まで帰る。中村はいった。「戦争になったらどうするか」と。それに対する私の答えは今考えるときわめてあいまいな答えだったようだ。戦争反対、絶対反対ということは明白だったのに。それから、中村は「かっこ(悦子さん)は自分を見失っているのではないか」といった。それはひどい言葉であると思う。全く中村風の、人は人、己れは己れ、のつき放した言葉だ。三、四月の頃は、本当に自分自身がわからなかった。しかし、四月下旬から学園闘争を政治闘争を始める中で、前よりは次第にわかるようになってきたと思う。今,私は強大な国家権力の前で、いかにしたらそれをぶっつぶすことができるのかと、もがいている状態だ。己れの闘争をどの位置に見出すべきかと(セクトのことをいっているのではない)そういう点、まだ己れ自身を発見していない。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用想いと考えの違いがあったようだ。
2005/07/13
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自殺は卑きょうな者のすることだ。5月13日自己創造を完成するまで私は死にません。・・・“学生であること”は、私にとり風のない空間に漂うちりのような存在でしかない。“不確実なもの”である。その“学生であること”に固執する自分の不安定さ、不確実さ。どこかに勤めようかと思ったりする。メイン・ダイニングにでもと思ったのだが、仕事(水さし、片付け、デザートを運ぶ等々)が全然おもしろくない。責任ある仕事をやってみたいのに、どうでもよいような補助的な仕事のみ。社会から全く疎外されている私、しかし私は今この時間、この空間に存在している。自殺は卑きょうな者のすることだ。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用少し前のブログ『自己とは?自己とは?自己とは?』で、「私は外部のものに対しては決して負けはしないだろう。しかし、自己を支えているもが動揺し、内部のもの自体に不確実さを、非現実を感じると、どうにもならなくなる。」と記述されていましたが、関連があるのかもしれません。
2005/07/12
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一年先には死んでいるかもしれぬ私なのに5月12日ラジオをかければ恋のうたが新聞映画をみれば恋のうたが町を歩けば男女が手をつないで歩いているが“寂しかったから口づけしたの”じゅんちゃんはうたう愛との訣別を決意したのかしら 私は今日 恒心館屋上で I want to meet him ―といったのに 風もない空間にある塵のような私の存在こんなにしていると ますます彼と一緒にいたくなる私名も知れぬ彼と男はどこにでも ころがっているのに何故彼だけに愛の幻想をみようとするのか一年先には死んでいるかもしれぬ私なのに何故彼を欲しようとむなしい試みをしているのか 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用前々回のブログの「ぼんやりと何もない空間の私の世界。」、今回の「風もない空間にある塵のような私の存在」、そしてブログの題名にした6月22日の日記に記された「空っぽの満足の空間」という空間とは、どんな空間だったのだろうか。
2005/07/11
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someone5月7日どうしたって他者が気になる。「他者を通じてのみ自己を知る」か。どこかに、この広い宇宙のどこかに私をみつめているsomeoneがいるに違いない。会って話してみたいものだ。自分に対しての演技はできるが他者に対してはからっきしだめだ。5月8日あのね。今日ネ、バイトが終わったあとで屋上にいってね、星空を眺めながら煙草の煙を夜空にプウーッと吐き出しちゃった。それからネ 口から出まかせにいろいろとジャズッて足をカタカタバッタとならしてネ。楽しかったよ。そのとき思ったんだ。どこかにsomeoneがいつでもいるってね。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用死の直前まで、思いを絶つことができなかった中村さんへの訣別を決心した後に記された。『おっとせい』の中で「何か私の全てを知っている存在、たとえばそれを神というなら神といってもよい。その存在があると思っているのか。」と記していましたが、通じるものがあるのかもしれない。
2005/07/09
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どうしてみんな生きているのか不思議です。4月29日よく人は、私が変わっているといいます。しかし私は、自分こそ正常な人間であると思っています。不正を憎み、なにより正義を愛しているやさしい人間であります。今の社会が偏見と不正で充ちていて不正常なのです。どうしてみんな生きているのか不思議です。そんなにみんなは強いのでしょうか。私が弱いだけなのでしょうか。でも自殺することは結局負けなのです。死ねば何もなくなるのです。死んだあとで、煙草を一服喫ってみたいといったところで、それは不可能なことなのです。・・・西那須野の家では連休を伊豆で過ごすという。私も誘われたが今ではあまりにも遠い世界となってしまった高野家のホーム。文闘委の部屋のペットちゃんニャロメ(猫)とペソ(犬)おまえもうねむっているかい。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用前回のブログの補足。生きることが苦痛だったのかもしれない。
2005/07/08
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自己とは?自己とは?自己とは?4月24日暗闇でもなく、明るい光線にみちあふれているのでもなく、ぼんやりと何もない空間の私の世界。国家権力、そんなものは存在しているかさえ定かでない。私自身の存在が本当に確かなものなのかも疑わしくなる。他者を通じてしか自己を知ることができぬ。他者の中でしか存在できぬ、他者との関係においてしか自己は存在せぬ。自己とは?自己とは?自己とは?・・・・・・甘えてはいけない。他者を通してのみ自己を知ることができるが、自己の存在は自分で負わなくてはならない。生きていくのは自分である。他者の実存を実存として認めよう。すべては夢であり、幻想である。現実などありゃしない。誰かが私を、気がおかしいのじゃないかといったが、これからますます気がおかしくなっていくように思う。狂人になり、精神病院で暮らせるようになれば幸い。そしたら私は全く自由になるだろう。・・・なぜ私は自殺をしないのだろうか。権力と闘ったところで、しょせん空しい抵抗にすぎないのではないか。なぜ生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。生きることに何の価値があるというのだ。醜い、罪な恥ずべき動物たちが互いにうごめいているこの世界!何の未練があるというのだ。愛?愛なんて信じられぬ。男と女の肉体的結合の欲望をいかにもとりつくろった言葉にすぎぬ。しかし、私はやはり自殺をしないのだ。わからぬ。死ねぬのかもしれぬ。・・・私は外部のものに対しては決して負けはしないだろう。しかし、自己を支えているもが動揺し、内部のもの自体に不確実さを、非現実を感じると、どうにもならなくなる。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用悦子さんを支えていたものが動揺し、死を選んだのだろうか。
2005/07/07
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おっとせい4月23日 闘ったところで何になる。微弱な風にとぶほこりに過ぎぬのではないか。いやあ ぼかあ こんなことで負けませんぞ。ぼかあ 闘ってますぞ(泣きそうな顔してんじゃないの てめえは)一体こんなことを書くことに何の意味があるのか。といいながらペンを走らせている。死にたい。しかし死ねない。未練があるのか、醜い恥ずかしい罪な世界に。何か私の全てを知っている存在、たとえばそれを神というなら神といってもよい。その存在があると思っているのか。・・・おいらおっとせいの嫌いなおっとせいだが、やっぱりおっとせいはおっとせいでただ「むこう向きになっている おっとせい」・・・ 一体これからどうしようというのだ。やはり、すべては信じられぬのであろうか。もちろん私を含めて、というより私を筆頭としてである。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用おっとせいは悦子さんの対人感を表しているのだろうか。以前中学・高校時代に2回教会に行っていると紹介しましたが、神のような絶対性を求めていたのかもしれない
2005/07/06
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生の実感4月22日二十日 朝ふとんの中でぼやっとする。自分の手で首をしめてみる。手をのどに当ててしばらくすると、ヒイヒイと息をする音がきこえ、もう一寸すると顔が充血する。思わず手をはなす。湯沸器のコードを首にまいて引っぱる。こんなことをして遊んでいる。・・・国家権力と直接ぶつかっているとき、一番強く生の実感を感じるにちがいない。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用全共闘運動に生を見出し、行動した。しかし運動の停滞が以前記述した自傷行為と同じように首を絞めさせたのかもしれない。
2005/07/05
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ストライキ4月18日彼女(牧野)からテレ。ちょうど人間はしんじられぬと思っていたところだ。人間、偽善家―彼女にあっても何もはなすこともないし、話し合う気も起こらなかった。「独りである」とそう思いこんでいるだけなんだよ、と誰かがいった。しかし、昨日四条大宮からホテルまで牧野と歩きながら必死になって話したとき、彼女は困惑、軽蔑、恐れ、敵意の表情をみせたではないか。私が全力でうちこんでいる行動に対して、彼女でさえも、そうであったのだ。私が力んで話せば話すほど、彼女と私との距離は離れていくばかりだった。All or NothingのつまらぬさびしがりやのFahterコンプレックスの人間なのだ私は。 私は誰かのために生きているわけではない。私自身のためにである。ホテルのソファに坐りながら、自殺しよと思った。車のヘッドライトに向かって飛びこめば、それでおわりである。家の父や母は悲しむかな、テレしようかなとか、今日はペンと手帳を持っていないから遺書は書けないなあとか、本気になって考えた。けれども、死ぬっていうことは結局負けだよなあと思った。こう言葉で書くと平板になってしまうが、もっと新たな泥沼(血とくそ)の中に入っていこうということなのだ。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用アルバイト先のスト(日記の流れからストと考えられるが、全共闘運動かもしれない。あるいは両方)に関して、牧野さんと意見が違ったようである。これ以降ワンゲルと同様に牧野さんの記述はあまりない。牧野さんと距離が出来たのかもしれない。あるいは転居、全共闘運動、アルバイトの為かもしれない。またアルバイト先の鈴木さんへの憧れ、恋心もストを境に失望へと変わったようだ。
2005/07/04
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I don’t know myself.4月15日酔っているうち常に私は他者を他者として認めようとした。自己を自己として認めるといっても、肉体的には確かに存在しているが一体何なのかよくわからない。私は地道に追及していかなくてはならないと思っている。 後ろをふりかえるな。そこの暗闇には汚物が臭気をはなっているだけだ。「ろくよう」に独りで呑みだしてから私はよく笑った。そして泣いた。泣き笑いのふしぎな感情ですごした。 あのウェイターのおじさんにDo you know yourself?と、いったらYes,perhaps,I know myself.-といった。私はI don’t know myself.と、いって笑った。・・・お前自身は一体何なのだ 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用前々回のブログと同じように、人間は不合理な存在なのかもしれない。自分自身を理解することも難しいのかもしれない。
2005/07/02
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己れという固体の完成4月9日空っぽだなあ。人からみると変わった生活をしていて彼らをせせら笑っているのに、せせら笑っている自分と自分との距離があることを感じる。その自分は何もない空っぽの自分である。独り、独りだと思っているのは錯覚なんだろうか。そのことで自分を防衛する殻に閉じこもっているのかもしれない。・・・ 青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱も持っていない状態で生きたとてそれが何なのか。とにかく動くことが必要なのだろうが、けれどもどのように動けばいのか。独りであることが逃れることのできない宿命ならば、己れという固体の完成にむかって、ただ歩まなければならぬ。「己れという固体の完成」とは何と抽象的な言葉であることか。悦子よ。おまえには詩も、小説も、自然も山もあるではないか。 高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用悦子さんは受動的な生(存在)から能動的な生(存在)に転換しようとしていた。
2005/07/01
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