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原子力空母寄港、普天間基地移転、牛肉輸入問題・・・・このところ一段とプレゼンスを強めているというか、恫喝の度を強めているアメリカに対して我がポチ政権は軽蔑されない程度には抵抗してくれているだろうか?ということで、村上龍JMMから『from 911/USAレポート』第221回 の一部を紹介します。アメリカ在住の作家、冷泉彰彦さんはアメリカ社会とブッシュは同じでないことを強調しているが、この感覚を外務省官僚が持っているだろうか?と不安になったりします。この12月には京都で、来年初頭にはワシントンでの国賓晩餐会という形で日米首脳会談がセットされています。小泉首相の会うブッシュ政権というのは、こうした状況にあるのだと心得るべきでしょう。イラクにしても、沖縄にしても、BSEにしても、このような政権に対して無理な譲歩をしても何も得るところはないのが正当です。 第一、恩を売っても相手が政治的に消える可能性があるのです。第二に、サマワ、辺野古、日本の牛肉輸入の三点は、ブッシュ政権や「国務省や国防総省の日本担当」を喜ばせるかもしれませんが、アメリカという大きな社会が困っている大問題には、何の助けにもならないのです。ですから日本として大変な思いをして譲歩をしても、アメリカ社会全体、あるいは次期政権に対して日本への好感を持ってもらう要素になるのかは全く怪しいのです。 私は、この時期のアメリカに対しては、防災工学の技術、自動車のデザインや省エネ技術、伝染病の管理や防止の技術などで、日本が顔の見える個人によって、アメリカ社会に貢献することが大事だと思います。サマワ、辺野古、牛肉などの「傍流」の問題で譲歩をすればアメリカが喜ぶというのは錯覚だと思います。「反米意識を煽りかねないような国内対立」を政治的に抑えたのだから相手が評価する、ということは全くゼロだという感覚を持つべきでしょう。日本の対米外交は、ポスト・ブッシュを見据えて大局観を取り戻す時期です。 カトリーナ対応の不手際に加えて、29日にはCIA情報漏洩疑惑が報道されて、ブッシュ政権は綱渡り状態のようです。落ち目のブッシュ政権に「傍流」の問題で譲歩しても、何も得るところはないと冷泉さんは早くから言っているのだが・・・・・牛肉輸入や米軍再編問題などでは、ポチ政権は強圧に譲歩してしまうのでは?**********************************************************************アメリカの恫喝に対して無責任に追従するメカニズムについて、天木さんが2日のブログで喝破しています。米国牛輸入再開に至る迷走ほど日米追従外交を象徴したものはない。それはあたかも普天間基地の移転問題とそっくりだ。本来は米軍基地など日本住民には不要であり縮小、撤退させるべきであるのに、米国に恫喝されて、どこの場所に移転させれば米国が了承するのか、住民の反対が一番少なくて住むのかという本末転倒な事に、防衛官僚と外務官僚が意地を張り合って検討してきた。そして米国の了承を得た後で、国民に「説明」という形で「押し付け」たのだ。米国産牛肉再開問題については、さらにオチがある。専門家の報告書自体が巧妙に書かれた曲者であるという。責任を取らされてはかなわないという専門家の意地があるのであろう。それよりも専門家の中にも数少ない良心的な専門家もいるらしく、あからさまな安全宣言をしようとしてもさすがに報告書がまとまらないのである。かくして報告書自体が曖昧な表現に終始してしまった。食品安全委員会の苦渋の答申案は責任回避の答申となっているが、それを安全宣言と解釈して、責任を委員会答申とアメリカの誠意に押し付ける日本官僚の無責任な臆病さが・・・・これまで踏襲されてきた対米追従メカニズムなんだろう。
2005.10.30
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名も知らぬ 遠き島より 流れよる椰子の実ひとつ・・・・「椰子の実」は好きな唄ですが、この唄が島崎藤村の作詞であり、戦争の影を引いているとは知りませんでした。高橋哲哉さんは「戦争責任を果たす意味」という講演の中で次のように言っていました。「森と魚の激戦地」という本から私は、「椰子の実」の作詞者・島崎藤村こそは「生きて虜囚の辱めを受けず」というあの戦陣訓の草案をつくった人だったと教えられました。恐るべき人権無視の「玉砕精神」を煽り、敵味方、双方に膨大な犠牲を強いた戦陣訓は、陸軍大臣東条英機が後のラバウル司令官今村均中将に依頼し、今村が島崎藤村に草案作成を依頼してつくられたものだったというものです。 「椰子の実」は戦意を高揚する唄ではないが、この唄を作った作者が戦争に協力させられた(戦争に協力した?)ことが、唄がほのぼのとしたいい唄だけに悲しいのです。戦後、反戦を貫いた反骨の経営者・花森安治さんは戦時中に軍のためのキャッチコピーを作っていたことが知られていますが、花森さんは、こう言っています。「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時はなにも知らなかった。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない、だまされない人を増やしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている、と思っている」戦時中に世情に流されないことが如何に難しかったかということが、よくわかることばですね。戦陣訓のなかの「生きて虜囚の辱めを受けず」ということばは日本軍の特異性を最も表していることばだと思うのですが・・・この人権無視のフレーズが日本人及び敵国人捕虜に如何に悲惨な事態を招来したかということで、東条英機と島崎藤村の責任は大きいように思うのです。ところで、東条英機が信を置いた今村均中将ですが、東条英機の評価がいまいちなのに比べて、陸軍軍人としては立派だったとの評価があるようです。その辺りがo_sole_mioさんのブログに載っていました。
2005.10.29
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日本の公務員数は世界的に見ても少ないので、これ以上「小さな政府」を求めるのはナンセンスというのが昨今の論調の主流かな?と思っていたが・・・・公務員制度を所管する総務省の資料によると、人口千人当たりの公的部門職員数は、日本35人に対し、ドイツ58人、英国73人、米国81人、フランス96人だそうだが・・・・日本の現状は「小さな政府」であるという論拠としてOECD統計が引用されているようだが、その引用に対して貞子ちゃんがブログで次のように疑問を呈しています。●しかしながら OECDに日本国が報告している数字そのものが まやかしの数字である疑いがあることは 筆者の大和総研 主任研究員 鈴木準氏は ご存知なのでしょうか????●公益法人の職員総計128.9万人を含めると 日本の人口1000人当たりの公務員数という数値は かるく50人近くになってしまいます。さらには、(今 私の手元には特殊法人についての職員数の資料がありませんが) 非特定独立行政法人や特殊法人の職員数を加えると 日本の人口1000人当たりの公務員の数は 軽く60人前後になると思います。OECD統計の確度が低いのが問題ではなくて・・・・御用学者や政治家がそのOECD統計の内容を理解したうえで恣意的に引用するという事実があったならば、その引用は世論のミスリード、もっと露骨に言えば情報操作にあたる訳で、これは大きな問題ではないかということです。果たして気鋭の経済評論家・木村剛さんは政府報告や御用学者、御用研究員のごまかしまでチェックして論評したかどうか?疑問ですね。ところで、お気楽ブログの私といえば、この記事のウラは貞子ちゃんの日記でしかないので、大きい顔はできないのだ。(もっとウラをとるよう鋭意努めるつもりですのでご勘弁を)町で礫を投げると役人に当たるような(1000人中60人より多いような)気がするのが生活実感に近いように思うが・・・・縦割りの幣で役所間の人員異動には頑として抵抗する一方、法律で首にならないようになっているので、公務員の効率配置とは、自然減による変動を待つしかないのがいかにもお役所仕事なんですね。これではリストラが吹き荒れる民間人の理解は到底得られないのだ。(ホントニ モー)
2005.10.28
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太陽光発電では、日本は世界一だと思っていたが、それも危ういようです。飯田哲也さんがHPでエネルギーは誰のために?と問うていたので紹介します。太陽光発電の設置量でドイツが初めて2004年の日本を抜いて、世界のトップに立ったという速報(朝日新聞2005年7月10日)に、関係者の間で衝撃が走った。2004年度の日本の設置量が27万キロワット(累積113万キロワット)であったのに対して、ドイツでは36万キロワット(累積79万キロワット)もの太陽光発電が設置されたのである。累積ではかろうじて日本はまだ「世界一」だが、これも風前の灯火なのである。ドイツで太陽光発電が急増した理由ははっきりしている。昨年(2004年)6月の法改正で、太陽光発電からの電力の買い取り料金を大幅に引き上げたからだ。たとえば一般の住宅用太陽光発電の場合、じつに1キロワット時あたり57.4ユーロセント(約77円)という価格水準へと、約3割も引き上げられた。他方、日本では、住宅用の太陽光発電からは電気料金と同じ価格で「余剰電力」を買い上げており、1キロワット時あたり約23円が一般的な価格水準となる。すなわち、ドイツは日本よりも電気料金が2割も安いにもかかわらず、太陽光発電からの電力の買い取り料金は約3倍も高いうえ、これが20年間も保証されるのである。ここまで読むとドイツと日本のエネルギーに対する哲学の違いがわかるような気がするが、飯田さんは更に次のようにたたみかけています。日本の「自然エネルギーの失敗」を構成する第1のサブ仮説は、日本は見せかけの「先進国」にすぎないというものだ。モノは作れるが、政策は「発展途上国」並み、民主主義はそれ以下かもしれない、という仮説である。第2のサブ仮説は、日本のエネルギー政策には「利用者本位」の目線が微塵もないというものだ。日本のエネルギー政策は、産業と官の都合で組み立てられ、「市民」はたんに消費させられる存在~おとなしい消費者~にすぎない。こうした「仮説」を頭において、自然エネルギーを巡る昨今の状況を眺めてみよう。しかも日本の役人の発想では、政策といえば「補助金」しかない。この短絡的な思考方法では、自分たちの補助金や裁量行政が市場や社会を歪めていることも理解できないし、政策によって市場のルールや枠組みを作るという思考もできない。これが、「市場で自立化していないから補助金」「市場で自立化したら補助金打ち切り」という、おそろしく単純で粗雑な役人思考の真相なのである。日本のエネルギー政策には電源多様化という考えがあり、基本は外していないようだが、どうしても官のための政策という臭みが抜けきれず、欧州などに比べるといかにも粗雑で貧相な感じがするのは・・・・国内で純粋培養された役人のセンスは、世界標準に照らすとその哲学の無さ、保身優先が際立つのかもしれないですね。ところでアメリカのエネルギー政策といえば、石油使い放題であり、原油値上がりも困らないシステムを持つなど、哲学とはかけ離れたところがあり・・・・有限の地球などお構いなしの別格ですね。
2005.10.27
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「台場クヌギ」の切り株の展示を長居の自然史博物館で見たことがあるが、自然のものを山中で見たことはまだない。(実はいま大阪で掛かっている恐竜博を見に行ったのですが、行列待ち時間90分に恐れをなして、常設展示室の台場クヌギを見て帰ってきたのです。トホホ)「台場クヌギ」とはクヌギを地上1~2mのところで伐採し、樹幹から出る萌芽(ほうが)を成長させて炭などの原木として利用していたもので、だいたい8~10年で伐採され炭にされてきました。博物館で台場クヌギを見たとき浮かんだことばが「サステイナビリティ」持続可能性ということばでしたが、日本の先人はそんなハイカラなことばは知らなくても、その概念は体験的に知っていて実践していたわけだ。私達 団塊の世代は炭と七輪で調理する光景を見て育った世代であり、家庭の加熱エネルギーが薪炭からガスや電気に変わる劇的な変化を経験している。経済合理性というアホで抗しがたい風潮?により、日本ではこの哲学的とまで思える持続可能な薪炭エネルギーを捨て去ったのでした。・・・と感慨にふけるのは近代化に逆らうアホだろうか?アフリカや北朝鮮の禿山の映像を見るとき感じることは、薪炭を持続的に採取する知恵まで持てない貧しさです。まさに貧すれば鈍すであり、日本人の過っての生活常識の素晴らしさがあらためて感じられるわけです。薪炭エネルギーの持っていた持続可能という概念は、最近外国で評価されている“もったいない”という概念とともに尊重すべき日本的美点だと思うのですが・・・・こういう考え方は収奪的な狩猟民族には欠落していることが多いだけに、日本人はこの面で誇りを持ってイニシアティブを発揮すべきだろうと思います。(チョット吹いたかな)Mr.TさんのHPを勝手に引用させてもらったが、そのうち北摂の台場クヌギを見に行きたいとも思っています。
2005.10.23
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うちの近所ではスーパーの夜間営業の時間がだんだんと遅くなり便利にはなってきた。まだ24時間営業のスーパーは進出していないが、24時間営業のスーパーとはあれば便利だが、それがどうした?それは消費者ニーズというよりも、経営側の過当競争の表れではないだろうか?ところで、日本では大手スーパーの進出とかサービス強化に対して市民や消費者が反対したとは、あまり聞いたことがないが・・・・・農業情報研究所というHPでカリフォルニアの貧民の町、ウォル・マート進出を阻止という論説を見つけたので、一部を紹介します。貧しいロサンゼルス郊外の労組とコミュニティーの活動家が、遂にウォル・マートの破竹の進撃を止めるのに成功した。貧民が集まるイングルウッドの町の住民投票が、敷地24haという巨大な小売・食品雑貨センターの建設計画を拒絶したのだ。ウォル・マートは、邪魔になる地方官僚や議員をかいくぐるために、キャンペーンに100万ドルを注ぎ込んだという。18歳から25歳までの若者の失業率が25%に達するというこの町には、多大な雇用を生むこの計画は魅力的だった。人口11万あまりのこの町に新たに千人の雇用をもたらすはずだった。財政力の乏しいこの町に500万ドルの販売税増収をもたらすとも言われた。現在の販売税収入は年に1万ドルにすぎない。安売りによる消費者の利得は年に550ドルと推定されていた。これらすべてを棒に振っても、住民は進出を拒否した。ウォル・マートの安売りが海外での低コストの生産だけでなく、労組無しの従業員の低賃金と長時間労働という劣悪な労働条件に基づくものであることは広く知られている。タイムカードの監査で、多くの従業員は昼食さえ取らずに働いていることも暴露された。一度進出すれば、周辺の小売店はたちまちなぎ倒される。「消費者」には福音かもしれないが、社会的悪影響が余りに大きすぎるのだ。消費者の利益を選ぶよりも、劣悪な労働条件(労組無しの従業員の低賃金と長時間労働)を否定したわけだ。アメリカの市民とか、消費者の素顔は日本のメディアに登場することが少ないので、ブッシュのチルドレンくらいにしか思っていなかったが・・・・どっこい!アメリカの市民とか、消費者は日本と違いラディカルで行動力があるではないか。あっぱれ!米国消費者との感がします。ぼろ負け組(派遣、パート)の影響で労働環境はより苛酷になっているように感じる昨今ですが・・・・・パート、ニートの進行に打ちひしがれている日本とは、異議を申し立てる姿勢に違いが目立つような気がします。
2005.10.22
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沖縄戦での太田中将の訣別電文はよく知られているが、どう戦ったは非勉強でよく知りません。しかし、結果的に民間人を戦闘に巻き込んだ太田中将は結果責任を問われるのではないかと思うのです。本土決戦前の出血持久というなら、絶望的な状況で無駄死にを許さなかった硫黄島の栗林中将には、非戦の私としても魅かれるものがあります。(チョットあぶない)ということで、硫黄島戦というHPから栗林中将の訣別電文を紹介します。●訣別の電文(昭和20・3・17発)「戦局最後の関頭に直面せり。敵来攻以来麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭かしむるものあり。特に想像を越えたる物量的優勢をもってする陸海空よりの攻撃に対し、苑然徒手空拳を以って克く健闘を続けたるは小職自ら聊か悦びとする所なり。然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは小職の誠に恐懼に堪えざる所にして、幾重にもお詫び申し上ぐ。今や弾丸尽き水涸れ全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方(あた)り、熟々(つらつら)皇恩を思ひ、粉骨砕身も亦悔いず。特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。茲(ここ)に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へ(とこしえ)に御別れ申し上ぐ。尚、父島、母島に就ては同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも断固破摧し得るを確信するも何卒宜しく御願い申し上ぐ。終わりに左記(原文は縦書きのため)駄作御笑覧に供す。何卒玉斧を乞ふ。(左記)国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生まれて矛を執らむぞ醜草(しこくさ)の島に蔓る(はびこる)その時の 皇国(みくに)の行手一途に思ふ 栗林中将」太田中将にしても栗林中将にしても本土決戦前の出血持久という戦略に殉じたわけであり、軍人としての使命は果たしたけれど・・・・・戦争を始めた高級官僚の尻拭いを強いられた損な役回りの軍人という感が否めないのです。また、戦死を前提にして、しんがり戦を戦う司令官というものは軍人の鑑(かがみ)との賞賛にあたいするのではとも思います。(楠正成の湊川合戦の雰囲気で・・・これもあぶない)民間人を巻き込んだ太田中将と違い、戦闘の前に民間人を退去させることができた栗林中将はより幸せな臨戦態勢が築けたわけですが、これが両者の違いだったかも知れません。無能な官僚軍人の統治下で、原爆投下とソ連参戦がなかったら本土決戦がありえたかもしれないが・・・・もし本土決戦が起きていたら・・・・太田中将の訣別電文のような状況が日本各地に到来しただろうということが想像に難くないが・・・怖いですね。
2005.10.21
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小泉さんが、やってくれましたね。小泉さんの靖国参拝は信条としても、中国、韓国の民族主義を逆なでする行動は、為政者の取る態度としてはあまりにも外交上の配慮がないではないか。ところで、テレビで村上さんが出てくると気分が良ろしくないのだ。これは勝ち組に対するやっかみなのか?(いや そうは思いたくない。)これは生活がすこしづつアメリカ流になっていくことへの苛立ちなのだろう。楽天が伸張するのは世の趨勢として許せるが、金余りファンドがのさばるのは許せない・・・と苛立つのである。アメリカの戦略は日本人の生活を変えるほど効いているわけだろう。敵対的買収などアメリカ流のキャッチアップというより、アメリカという階級社会の二の舞ではないか!護憲では北朝鮮のミサイルを防ぐことはできないし・・・アメリカの攻撃に頼るしかないのがつらいところかもしれない。ということで、本屋でSAPIOをめくると、嫌米、愛国の記事がしっくりきて思わず買い求めたりしてしまうのです。私の立ち位置はもともとは嫌米、反戦あたりだったが・・・・年次改革要望書というアメリカの戦略に対抗するには、反戦、護憲だけで切り抜けるには無理があるように・・・私も相応に変わってきたのかもしれない。生活の基盤は日米基軸であるが、心情はとうに嫌米・・・これをアンビバレンツと言うんでしたか?そういう現状では、右寄りと言われるSAPIOにまで私の立ち位置がずれてきたのかもしれない。反戦をベースにしたうえで、自分の感性に従ってあふれる情報をかき分けているが、覇権主義アメリカの影響を受けずに生活できない今では・・・・日高義樹さんの米国レポートあたりがリベラルな視点だと思うのですが、森田実の時代を斬るの反米論評でさえ腑に落ちるし、かんべえさんの溜池通信の経済をベースにした論評なども腑に落ちるんですよ。右寄りのSAPIOの視点が日高義樹さんの視点と重なるような印象を受けるのだが・・・・その一致する理由は何だろうと思ったが、それは戦略思考なのかもしれない。戦略思考がない(ように思える)政府、官僚へのいらだちから発して、私の立ち位置はSAPIOに近づいた?という感じですね。(もっとも小林よしのりの連載記事には眉につばして読みますが)こうなれば、「SAPIO」だろうと「世界」だろうと、お題目はけっこう!生き抜けるかどうかという訳で・・・・・自分の視点を信じて買い求めるしかないようですね。(支離滅裂な日記になってしまったなー)ところで溜池通信のかんべえさんが次のように言っていました。この前「サピオ」に書いて、「これで俺も立派なタカ派文化人だ」とふんぞり返っていたら、知り合いからかかってきた電話が1本。メールが2通。それだけ。「溜池通信」読んで「サピオ」買ったという読者はいたけど、「サピオ」読んで「溜池通信」にアクセスしてくれた読者がいるのか、非常に疑問。案外読まれていないというか、「サピオ」の読者と自分の興味の対象がいかに乖離していることがわかりました。
2005.10.17
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いちじの選挙騒動が去り、国会審議も始まったいまだから、選挙直後の論評を落着いて読むことができる。ということで、識者の論評を並べて読むことにしよう。それにしても小泉流グローバリズムが認知されたとたんに村上ファンドが動くという手回しの良さには驚きますね。たまたま時期的に重なっただけかもしれないが、アメリカ流のM&Aが身近な世になるとは・・・・長生きはしたくないもんだ。(おっと老け込む年ではなかったか)金子先生の誰も本当の改革を望んでいなかった●それでも問題は蓄積されてくる。それは、輸出企業、大手企業を中心として、巨額のフリーキャッシュフロー(現金収支の黒字)を貯め込んでいるにもかかわらず、雇用や所得をはじめ社会の二極化は止まらないからである。国内総生産に占める民間消費の占める割合が落ち、これまで貯蓄超過だった個人部門が赤字に転落してゆく。実は大恐慌期もそうであった。金融システムが動揺してしまったために、大企業は内部留保を増やして、自己金融力を高めていく一方で、大量の失業者が作り出されたからだ。おまけに、地域経済も疲弊し、財政赤字の累積によって景気対策が行き詰まり、市町村は昭和の大合併と同じ状況に陥っている。そして過去の歴史の教えるところによれば、二大政党制の下でしだいに議会政治は機能しなくなり、大政翼賛会体制になっていったのである。 ●もっとも問題が深刻なのは、いまや400~500万人に達するフリーターたちや80万人とも言われるニートの存在である。彼らの膨張が年金制度の持続可能性を失わせるだけではない。フリーターは、35歳を超えると統計から消えるだけでなく、年金受給資格を失う。その累積が続けば続くほど、ツケがたまって、ますます抜けられなくなっていく、という罠が待っている。もはや彼らは社会の一員として認められなくなり、監視の対象でしかなくなってゆくだろう。 ●にもかかわらず、今のところ、彼らは市場原理主義に対して強い批判意識を持たず、それを受容している。そして、今回の総選挙では、むしろ小泉「改革」の犠牲者であるはずの20代の若者が圧倒的に小泉を支持したという。彼らは、今の秩序を壊してくれる強者の出現をただひたすら待つしかないからだ。だから小泉だろうが、ホリエモンだろうが、彼らはそれを受け入れてしまう。それは方向性のない暴発の潜在的エネルギーと言ってよい。 内田先生の勝者の非情・弱者の瀰漫「弱者は醜い」という小泉首相の「勝者の美意識」はこの大衆的な倦厭感を先取りして劇的な成功を収めた。開票日翌日の朝日新聞のいしいひさいちの漫画はこの選挙結果が「勝ち組・負け組の二極化からボロ勝ち組・ボロ負け組の二極化」への移行を意味しているということを正しく指摘していた。こうるさく権利請求する「負け組」どもを、非難の声も異議申し立てのクレームも告げられないほど徹底した「ボロ負け組」に叩き込むことに国民の大多数が同意したのである。日本人は鏡に映る自分の顔にむけてつばを吐きかけた。自己否定の契機をまったく含まないままに「自分とそっくりの隣人」を否定して溜飲を下げるというこの倒錯を私は「特異な病像」と呼んだのである。山口先生の民主党再建の方向性●小泉首相の勝因は、公共部門を攻撃したこと、利益団体・圧力団体に支えられるという従来の政党の姿を否定したことの二点に尽きる。官僚の横暴や役所仕事の非効率に辟易し、特殊利益の走狗となった政党に愛想を尽かしていた国民は、こぞって小泉首相を支持した。しかし、この方法はハイリスク・ハイリターンの戦術であり、危うさがつきまとう。●まず、公共部門の最高責任者である首相自らが、公共部門を攻撃し、政府の能力を否定したこと自体に潜む矛盾である。確かに、中央官僚主導の非効率的な政策を是正するためには、政府のリストラを争点に掲げることが必要な場面もある。しかし、政府の能力を完全に否定することは政治の自己否定である。小さな政府論は玉葱の皮をむくようなものであり、政府固有の役割について何も語っていない。小さな政府がもたらす国内的矛盾を覆い隠すためには、アメリカのブッシュ政権のように戦争に訴えるという安易な手段もある。が、今のブッシュ大統領の苦境が示すように、これも長続きはしない。アメリカのハリケーン被害が物語るとおり、政治の本来の役割は災害、貧困などのリスクを社会全体で管理する点にある。●小さな不平等に対する粗野な正義感が、巨大で構造的な不平等を維持、増進しているというのが現状である。負け組同士の間の微妙な差異を強調し、勝ち組の持つ巨大な特権に対する異議申し立てなどという発想そのものの芽を摘み取る。都市や若年層の支持に依拠した小泉自民党は、意図的かどうかは知らないが、こうした戦略を追求している。 では、本物のファシズムに陥ることを防ぐために、何をすればよいか。人々に、より大きな不平等に気づいてもらい、それに対するまともな正義感を政治にぶつけるように導くことしか答えはない。●その上で、野党も労組も大きな不平等を攻撃する言説を繰り返していかなければならない。特に重要なのは、野党の戦いである。前原新代表の下で、民主党は建設的な対案を出し、自民党と改革を競うと称しているが、これは野党として自殺行為である。そもそも野党の立場では、官僚の持っている膨大な情報を使えないので、詳細な政策案を作ることは不可能である。中途半端な建設的提案をすれば、政府与党にいいとこどりをされて、政府の手柄にされるのが落ちである。民主党は建設的な対案を出し、自民党と改革を競うことが自殺行為なのか・・・難しいもんなんですね。このあいだ国勢調査に協力したが、あの情報の肝心なところは野党は教えてもらえないのだろうか?
2005.10.16
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大手メディアはあまり大きく扱わないようだが、いま粛々と共謀罪が成立(今国会で強行採決)しようとしていることに警鐘があがっています。16日には渋谷ハチ公前から「共謀罪反対 仮装ストリートライブ&パフォーマンス」という仮装行列も出るようです。(詳しくはうるとびーずさんの今日の情報にのっています)テロを引き込むような昨今の世情ですが、破壊活動防止法が既にあるいま 治安維持法のような共謀罪をなぜ必要とするのか?政権党議員にしても戦前の治安維持法のような法律を作ろうとしている気はないかもしれないが、かって日本人が痛いめにあった治安維持法のような共謀罪をいとも簡単に作ろうとしている権力システムというものはいったい何だろうと思うのです。圧倒的多数をほこる政権党がフリーパスで通す法案というものは、言ってみれば行政立法と似たようなものだが、共謀罪法案を同じ手はずで通すことに疑問を感じない政権党議員がいるならば、それは自らが生む共謀罪法案の怖さを自覚しないアホでしょうね。(怖さを自覚しているワルだったりして)役人も政権党議員も人の子・・・ここは良識に期待したいところです。今回も、政権党が役人に法案作成を命じてできた法案を政権党が丸呑みで国会にかけるという無責任なパターンが再現されるかもしれないが・・・統治しやすい行政寄り法案(役人の権限拡大法案)を、政治が安易に成立させることが権力システムというものなのかもしれない。(個々の役人、政治家はいい人なんだけど・・・生活のために権力システムの歯車となるときに怖い人に変わるみたいです)この法案はどの省庁が作ったかは今から調べるけど(法務省?)・・・・法制化後の執行省庁となる警察庁に裁量行政をやられたら、戦前に回帰するようでたまったものではないですね。共謀罪が網をかける法律名・罪名の数がすごいが、これでは日常生活すべてを、お巡りさんの裁量で恣意的に取締る恐れが充分考えられるのではないだろうか?そして法案が成立すれば、司法はできた法律に従うだけであるから、これまた怖いです。天木さんがブログで最近の丸呑み法制化に警鐘をあげていました。小泉政権の下で、個人保護法、通信傍受法、有事関連法など、治安がらみの立法がすごい勢いで成立している。その中でもこの「共謀罪」はかつての「破壊活動防止法」を上回る悪法に違いない。「・・・やる気になれば誰でも、どんな些細なことでも、逮捕できる。適用できる法律も刑法に限らず、商法、消費税法、道路交通法など日常生活に直接関係あるものが多い。警察にとっては“打ち出の小槌”になるでしょう・・・」共謀罪(自由法曹団)から怖いところを以下紹介します。<刑法の大原則では> 日本の刑法では、何らかの被害が発生したときに限りそれをもたらした行為を処罰するのが原則です。未遂罪、すなわち被害発生の危険は生じたが、被害発生には至らなかった場合には、刑法にとくに規定がある場合に限り処罰されます。危険が生ずるとは、差し迫った危険の発生と解釈されています。判例では、例えば、お金を盗むために他人の家に入っただけでは、まだ窃盗の未遂罪は成立しません。家に入り、財布を探すためにタンスに近づいても、まだ未遂罪ではありません。タンスの引き出しをあけるなどの物色行為があってはじめて未遂罪が成立するのです。人を殺すために、毒入りウィスキーを小包で発送しても、まだ殺人の未遂罪ではありません。その小包が被害者のところに届いたときに、はじめて未遂罪が成立するのです。 共犯の場合、「共謀共同正犯」といって、犯罪の実行行為を分担しない者でも、「共謀」に加わっただけで、実行行為によって発生した結果につき、処罰されます。たとえば、殺人の謀議に加わった暴力団の親分は、自分ではピストルを発射しなくても、子分がその謀議を実行するためピストルを発射し、人が死亡すればその結果について、殺人罪として処罰されます。しかしこの場合も、実際に被害が発生するか、もしくはその切迫した危険が発生しない限り、処罰されることはありません。<内心を狙う共謀罪> 共謀罪は、「共謀」が成立しただけで処罰をするというものですから、被害の発生も必要がなければ、その差し迫った危険の発生すら必要ではありません。それは単に心の中で思ったこと、考えたことを処罰することに近づきます。それゆえ、いかなる思想・信条であろうと、それをもっていること自体を処罰してはならない、という原理を骨抜きにする内容をもっています。さらに、被害の発生、もしくはその差し迫った危険を発生させることすら必要とせず、人を処罰をすることは、社会に害悪をもたらす行為だけを処罰するべきだ、という原理を形骸化することとなります。 これらの刑法の基本原則がたたかい取られるまで、人類がいかに多くの無辜の人々の血を流したかを思えば、さしたる立法事実もないまま提案された今回の法案には、重大な疑義があります。 有事法制と「国民保護法制」が法定され国民が戦争体制に組み込まれ、更に共謀罪が成立した社会は、他人を信用できない人間不信の陰湿な相互監視社会・警察国家になる可能性があるのです。 14日午後、共謀罪の法案(犯罪国際化及び組織化並びに情報処理高度化に対処するための刑法等改正法案)の国会審議では与党議員からも疑問続出となり、今国会中の議決を阻止できる可能性が芽生えてきたそうです。 与党議員でさえ法案の異常さを看過できないようですが、どちらかといえば役人のほうに問題があったのかな?**********************************************************************「共謀罪」今国会も断念 政府与党、継続審議へ(19日共同通信より) 政府、与党は19日、殺人など重大犯罪の実行行為がなくても謀議に加わるだけで処罰可能な「共謀罪」新設を柱とした組織犯罪処罰法などの改正案について、先の通常国会に続き、今国会の成立も断念した。継続審議とし、次期国会で成立を目指す方針だ。 野党や市民団体が「適用対象が犯罪集団に限定される保証はない」などと反発したため、与党は民主党を交えての法案修正を模索したが、民主党が抜本的な手直しによる再提出を求めたため、協議が難航していた。 自民党の小坂憲次国対筆頭副委員長は同日の記者会見で「参院の日程をにらむと今国会は非常に厳しくなった」と発言。衆院法務委員会の与党理事も「成立は無理。衆院通過も黄信号から赤信号になりかかっている」と述べ、衆院での可決も困難との認識を示した。事態は良くなっているようですが、まだ監視が必要みたいですね。気になるブログとして・・・・・共謀罪って・・・なんだ?日本弁護士連合会が共謀罪に反対する集会エクソダス2005保坂展人のどこどこ日記共謀罪成立に反対・抗議する京都署名
2005.10.15
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“小さい政府”論争や郵政民営化という問題は、実は金の出口が問題であるということに田吾作にも解ってきたのだ。とかく経済学者や経済評論家の御宣託は百花繚乱のようであり、まったく正反対の論説があったりで・・・・わからん。経済合理性と規制は相反する行為であり、このバランスの取り方で無数の経済論があり、相反する経済政策があるみたいですね。どちらが正しいか?というよりどちらの政策に希望を託すかと言う選択しかとりえないのかもしれない。ということで、希望を託す経済学者、経済評論家をネットで探したのであげてみたい。投機するにはどの人の宣託によるか?という視点で挙げているわけではないので、金儲けの足しにはならないので悪しからず。・内橋克人・醍醐聰・山崎養世・木村剛・金子勝・森永卓郎・跡田直澄・吉崎達彦・ビル・トッテン山崎養世さんは次のように言っています。小泉首相が増やした国債残高245兆円のうち、約半分の122兆円を占めるのは財投債という種類の国債です(以下「財投国債」)。財投国債とは、特殊法人のために発行される国債です。財投国債は、2001年に小泉内閣とともに始まりました。それまでは、特殊法人は郵貯・簡保・年金から集めたお金を財務省から貸してもらっていました。財投国債ができて、特殊法人の資金の集め先は飛躍的に広がりました。国債だから銀行も安心して買っています。民営化で郵貯が銀行になっても買い続けるでしょうし、他の買い手には困りません。そして、国債で集めたお金を財務省が特殊法人に貸してくれるのです。小泉内閣は、「官から民」どころか「民から官」へのお金の流れを広く太くした政権なのです。特殊法人のうち道路公団のようなところがムダ遣いして、借金を返さずに損が出たらどうなるのでしょうか。国債を使って借りたお金だから、特殊法人に代わって国民が返すのです。つまり、小泉さんは特殊法人の借金を国民に肩代わりさせた総理大臣なのです。国債の金利が上がれば国民の負担は大きく増えていきます。こんな総理大臣が叫ぶメッセージが国民の喝采を得ています。まさに天才的な劇場政治家、演劇人です。当然かもしれません。演劇的能力とは、フィクションを本当と思わせる能力なのですから。金子勝さんも次のように言っています。形式上、財投債について、08年度から郵貯・簡保資金は引き受けないでよいとされるが、現実に郵貯・簡保が突然「引き受けない」と言えば、債券は暴落し郵貯・簡保は自ら大きな損失を抱えることになる。場合によっては、破綻がさけられなくなる。それは「株式会社化」しても変わらない。結局、売るにも売れず引き受け続けざるをえないだろう。これで、どうして財政改革や特殊法人改革ができるというのだろうか。小泉政権は、郵政を「株式会社化」という形式に変えることで、自らが作り出した問題の責任を取り繕おうとしているだけなのだ。 ところで脱税疑惑がちらつく竹中平蔵さんも もと経済学者かもしれないが、希望を託すにはちょっと胡散臭いので、上記のリストには入れていません。気になるブログとして・・・・・小泉構造改革をどう生きるか跡田直澄さんの郵貯消滅ビル・トッテンさんの破壊もたらす多国籍企業中司達也さんの世界の低賃金労働かんべえさんの溜池通信松浦武志さんの特別会計への道案内-387兆円のカラクリ-
2005.10.13
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食料問題でもうひとつ日本の食料自給率が先進国最低レベルの40%であるのは、狭い国土で貧困な農業政策のもとでは必然的結果であると思ってきたが、少し違うようだ。いまではグローバリゼーションにさらされて、うかうかしていれば日本は、もっとカリフォルニア米を輸入しろとなりかねないが、昭和30年代あたりから粉食奨励運動とかでアメリカの外圧があったんですね。アメリカの国益とはいえ、情報操作と内政干渉は戦後ただちに始まり、現在まで連綿として続いているわけですが、日本人は戦後この種の戦略思考がからきしダメになったという感があります。中国のガス田開発では遅れをとった政府の醜態を見るにつけ・・・・敗戦により終止符をうった満州経営など、いい悪いは別にして戦略思考としてはバカにできないものがあったのではないかと感慨深いが・・・・・政府、官僚の劣化が目につく昨今ですね。ということで・・・・食料自給率の謎を解き明かすような國貞陽一さんの戦後、日本人は何を食べてきたか?というブログからその一部を紹介します。●「戦後のアメリカは食糧援助をエサにして駐留米軍を強化し、勢力圏を拡大していました。PL四八〇法案を締結した国は、イタリア、ユーゴスラビア、トルコ、パキスタン、日本、韓国、台湾です。アメリカは給食用小麦を援助することで、日本人に子どものときからパンとミルクの味を覚えさせるもくろみがあったのではないでしょうか」●アメリカが自国の農産物を売り込むために多額の資金を投入することは当然である。しかし、これを受け入れた日本側は、「栄養改善運動」がアメリカの資金で行われていたことをいっさい秘密にしていたという。しかもこの事実は、今なお日本の食品関係者や栄養士の間ではタブーでさえあるという。●それではなぜ、日本人がこれほどまでにアメリカの粉食奨励運動に積極的に加担したのだろう。裏を返せばこの当時、「米食偏重」が盛んに攻撃されていたのである。たとえば五八(昭和三三)年に、慶応大学医学部教授で大脳生理学の権威、林髞(はやしたかし)の『頭脳――才能を引き出す処方箋』(光文社)というベストセラーがある。それは、「日本人を西洋人に比べると二割方アタマが悪い。ノーベル賞の受賞者が日本人に少ないのもそのためだ」「日本は水田を全廃して総パン食をめざせ」という「米食低脳論」(!)であった。●かくして食の根幹をアメリカに握られた我が国は、食料自給率を先進国最低レベルの四〇パーセントまで落としていく。「日本人の多くは、戦後の食生活が欧米化したことを知っていますが、なぜ欧米化したかを知らないのです」●秘密はだし醤油にあったと母子が知るわけです。このように、一つの学校給食のメニューが地域で広がりをもっていった。〈こだわりのだし醤油〉が町内の量販店や直売所で並び出したんです。子どもたちもちゃんとした美味しさをわかっているのですね」 なんだか明るい話ではないか。日本人が大元の嗜好を忘れていず、そして子どもたちも本当の美味しさがわかるのなら日本もまだまだ捨てたものではない。今ようやく私たちは地を足につけて、自分たちの食と向き合い始めている。終戦直後、都市部の小学校では団塊世代の少し上の世代がアメリカの恩恵により餓死の危機を脱したようだが・・・・アメリカの善意とともに食料戦略のしたたかさにはご立派?と言うばかりです。この「戦後、日本人は何を食べてきたか?」というブログですが、アメリカの批判ばかりでなく、含蓄のある示唆があり充実しているのは・・・・・POCO21という雑誌の9月号記事となっているからのようです。
2005.10.10
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12月にも米牛肉輸入再開らしいが、アメリカの圧力に対する日本政府の弱腰には“またか”という気がする。吉○家の牛丼がまた食べられるのは嬉しいが・・・・おっとこれは、そういう問題ではない。これは単なる貿易摩擦では無くて、食品安全と貿易を天秤にかけるシビアな問題なんですが、米国生産者の利権をバックにしたアメリカの圧力に屈したわけですね。アメリカの消費者も巻き込んで、消費者の安全を守るというのが正しい反論であると思うが、このような正当な反論を盾に、アメリカの要求を撥ね返すことも可能な千載一遇のチャンスだけに・・・・・理不尽な米国の利権要求に抗しきれない日本政府の弱腰には、為政者としての意地というものが有るのか!という思いがします。これでは態度保留という時間稼ぎのあと要求を飲むという悪しき例の踏襲ではないか?それも、調査委員会に答申を出させてからの決定であるから、政府は責任を調査委員会に転嫁しようとしている。調査委員会としては苦渋の安全宣言を出したようだが、政府が設定する審議会というものは、第三者という名に値しないのが、ほんと多いですね。誰も責任をとらずに時間稼ぎして、落とし所に落とす(国民を危険にさらす)という決定はいかにも官僚的手法であるが・・・・ここは「前向きに検討します」と頭を下げて、事態を一切進展させないという官僚の高等テクニックを崩さないことが日本国のために望まれるようです。(望まれていたようです。)そして正義感の強い?小泉さんには、アメリカの利権に対抗する意地を示して欲しいところですが、もう手遅れだろうか。(日本の利権の整理に手一杯でそれどころでない?)グーグルで農業情報研究所というHPを見つけたんですが、そのHPのプリオン専門調査会 米加産牛肉のBSE汚染度は非常に低い 誰も信用しない”科学”に退場を願うという論説では、次のように調査委員会の安全宣言に疑問を呈しています。消費者はこのような”科学者”の”良心”に従う必要はない。こんなことで犬死するのはいやだと思う人は、BSEやその人間版であるvCJDについては”科学的”にはほとんど何も解っていないのだから、もし”科学”が間違っていた場合には確実に命が奪われることになるこのような病気に対しては、”科学者”には許されない”動物的”感覚で対処すればよい。米国産牛肉を敬遠し続け、あるいはリスクが米国産牛肉と同等だとしたら国産牛肉を食べるのもやめたと言えばいい。しかし、貧乏人は安い米国産牛肉とか遺伝子操作大豆のトウフとかを気にせずに食べるしかないのが、つらいところです。貿易摩擦の際、役人は国益をかけて争うことになるが、アメリカの農務省の腐敗ぶりはすさまじいもので、客観的に見て日本に利があるようだが・・・国力の差にもかかわらず善戦したと見るか、敵失の追求不足と見るか評価の難しいところかもしれないですね。そのあたりを「暗いニュースリンク」というブログが狂牛病とアメリカ人として紹介しているが、業界団体と農務省の癒着ぶりや、倫理観の喪失ぶりは日本との比ではないみたいですね。
2005.10.09
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調査票を出したが、調査票には個人情報バレバレの内容となる調査項目があり、回収の人に渡したあと、これでよかったのだろうか?と不安になった。回収の人は「開封せずに、区役所まで持って行く」とは言っていたが、お役所の中で私の情報はどのように使われるのか心配になり、国勢調査センサスパークという政府筋のHPを覗いてみた。秘密は保護されるの?というページで以下説明があり、一応安心したが・・・・これらの情報が、お役所内で統計以外に流れるのではないか?という不信感は拭えないんですが。第15条では、「調査票を、統計上の目的以外に使用してはならない。」ことが、また、第15条の3では、「集められた調査票を適正に管理するために必要な措置を講じなければならない。」ことが、それぞれ規定されています。国勢調査の結果は総務省統計局が結果を公表するそうで・・・・新聞、テレビなどの報道機関に説明するとともに、インターネットや報告書などにより広く一般に提供し、また、都道府県や市区町村が地方公共団体の立場から結果をまとめて公表する場合もあるそうです。つまり、少なくとも区役所の担当者には私の個人情報はバレバレになるわけであり、あまりいい気はしません。また、統計法第19条では、「申告をせず、又は虚偽の申告をした者」、「申告を妨げた者」に対して、「6箇月以下の懲役若しくは禁錮又は10万円以下の罰金に処する。」と規定しています。つまり、調査に答える義務があるんですね。知らなかった。義務があるからには、権利もあってしかりであるが・・・・国民としての義務を果たしたからは、お役人に望むことは調査結果を有効に活用し、より良い政策を立案願うことです。
2005.10.06
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竹中平蔵さんがHPで次のように言っています。官の無駄を容認したり官に頼り続けていては、将来の日本は、役人天国に加え重税国家になってしまいます。今の世代で親の代の資産を使い尽し、そのような“大きな政府”を将来の世代に押し付けて良いのでしょうか。私たちが目指すべきは、官の無駄遣い・既得権をなくした“小さな政府”なのです。日本人は素晴らしい能力を持っています。“小さな政府”の下でこそ、個人の自立が進み、民間の創意工夫と地域のつながりが活かされ、誇り高き日本が復活するのです。郵政民営化よりも景気や年金などの方が重要だと言う人もいます。しかし、“小さな政府”の下でこそ、それらの問題にもより適切に対応できるのです。“小さな政府”が正しい意味でなら、言っていることは、正しいように思います。しかし“小さな政府”とは市場に対する国家の介入を最小限に抑える政府だと思うのですが、省益優先の官僚(財務省)からそのような施策が出るとは到底思えないのです。そして、竹中さんが官僚(財務省)に逆らってまで統御する気があるとも思えないのです。田中角栄さんが宮沢喜一さんを半玉と評していたが、昨今の政治家は高級官僚の手の上で踊っているだけでは?という気がします。官僚組織を牽引して政策を実現した政治家は、最近では田中さんと管さんぐらいしか思いうかばないが、小泉さんはどうなんだろう。(そういえば真紀子さんも、いいところ?まで行っていたけど)その田中さんが作り上げた利権政治システムを小泉さんは官僚に逆らってまで改革することができるのだろうか?小泉さんは次のような改革案を提起し、官僚とか族議員の痛いところを突いているが、この改革案は官僚丸投げの改革案でないと言えるのだろうか?・道路特定財源の見直し(一般会計化?)・政府系金融機関の統廃合立花隆さんがメディアソシオ-ポリティクスで小泉首相の意志について次のように言っています。●ともあれ、これからの政局、わからない事が多すぎるが、何よりも欠けている情報は小泉首相の意志だ。●たとえば小泉首相には獲得したばかりの強大な政治力を利用して、1、2年の任期延長をはかるという選択もあるが、そういう平凡な選択は捨てて、かつて田中角栄がそうしたような、超権力者の道を歩むこともできるだろう。いったい小泉首相は、自分の得た超権力をどのように使おうとしているのか。●その使い方いかんで、小泉首相は歴史に名を残す大政治家にもなれば、50年経ったら、「その人ダーレ?」のただの歴史の一つのエピソードにすぎない人物で終わる可能性もある。ここしばらくは小泉首相の人生にとっても正念場だが、日本国にとっても正念場だろう。
2005.10.02
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