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この世の中で一番大切な約束、それは、神との約束。現代社会の中で色んなひずみが生まれ悲しむべき事件が多発しているのは、この神との約束を無視しているからではないのだろうか。神とどんな約束をしているのか、その回答を宗教家に求める方法もあるが、粘土で器を造る体験からの推察も可能です。神々が私達に何を望まれているのか、土ひねりという、その単純な作業の中に神との約束を気づかせてくれるものが有ります。土ひねり体験では粘土の丸い固まりから始めてもらいますが、我々人間も器に例えられることがあるように、この丸い地球という大地、土のかたまりから創られています。もちろん、その内容には大きな違いが有るでしょうが根本は一緒です。粘土(土)から作品(器)が創られるように地球(土)から人間(器)が創られました。地球は最初に灼熱の溶岩の固まりだったのが、やがて冷えて土のかたまりとなりました。地球の原初には土の固まりしかなかったのです。以前、何かの本で読んだのですが、人間と地球に含まれている元素の比率が同じだそうです。同じ土から生まれているということは、その出来上がる過程には同じものがあるはずです。粘土(土)から作品(器)を創り出すときに必要な要素は、単純に言うと二つです。それは、そのように「思う」こと「行う」こと。イメージとそれを具体化させる為の行動、その二つです。ということは、当然ながら地球(土)から人間(器)が創られる過程の中にも同じ流れが必要なはずです。粘土(土)が偶然に作品(器)になることはありません。何十億年の時間を待っていようと、偶然に出来上がることはありえません。同じように神々の創り出したいという思いが無ければ、この地上の生命文化は存在しないはずです。では、神はどのような目的で我々を産み出したのでしょうか。この答は、単純に粘土(土)から作品(器)を造るときの事を考えてみれば良いのです。単純な土ひねり体験の中に、ヒントがあり、神との約束を推測することが出来るのではないでしょうか。では、私たちは、何故、土から器を創ろうとするのでしょう。一つには、楽しいから造っています。これは、原点にあるでしょう。そして、何を造るか、その目標が無ければ形が出来てきません。お皿なのか、カップなのか、花を生けたいのか、見て楽しむようなオブジェなのか、何らかの具体的に役に立つ形を目標とします。そして、使う楽しさです。そのキーワードを引っ張り出してみると、この二つがあるでしょう。「喜び」と「お役立ち」です。神々がこの地上に個性ある器として人間を創り出された理由にも同じものが有るのでしょう。我々人間がその神々との約束を忘れ神々の心と大きく離れていったときに、心に苦しみが生まれてくるのではないだろうか。その目的(喜び)と目標(役立ち)、その使命を果たせているときに大いなる喜びの中に包まれるのではないだろうか。粘土から器を造るという単純な作業の中に仏神の聖なる思いをかいま見ることが出来るから、無心に土にさわっている事がたのしいのではないだろうか。私は、陶芸家としてたくさんの器達を産み出しています。その器たちが、それぞれの場所でそれぞれの働きをし、喜ばれて使われている所を目にするととても嬉しく思います。その中でも、しっかり活かされ使い込まれている器たちの中でも、自分が造ったと思えないような輝きを放っている器たちと出会うことがあります。それは、何とも言えない驚きであり喜びです。おそらく、主なる神がこの全宇宙を創造され、多くの神々が、手間暇かけてこの地球上の生命文化を創造された理由は、こんな所にあるのかもしれません。神との約束を思い起こし実践出来た時に、人間として本当に生きているという実感と幸福が感じられのだと思います。
2008.12.31
ようやく明日には作品の仕上げが出来上がりそうです。土ひねり体験の作品を年内におくりたかったのですが年明けになってしまいました。申し訳ありません。
2008.12.28
さて、今年最後の窯に昨日から火が入っています。土ひねり体験の一般の方達の作品が、今回は多く入っています。窯開けは、25日、イエス様の誕生日と一緒になりました。ほんとうは、もっと早く出したかったのですが自然とこの様な日程となりました。偶然とは言え、どんな焼き上がりになりますか?お楽しみ!!
2008.12.18
粘土(土)から作品(器)が造られます地球(土)から人間(器)も出来ています。そして死ねば元の土に帰ります。時間とその機能は違うが、同じです粘土(土)から作品(器)が偶然に生まれることはありません。そこには、作品を作り出す主体の存在と、投影されている思いとその具体化、行為が必要です。さて、我々に投影されている目的と、その目標は一体なんでしょうか?土と対峙し作品を産み出そうとする中に我々の存在意義を知る手がかりがあります。
2008.12.15
備前焼の土ひねり体験は、楽しく癒しの効果が有るだけでなく、私たちにいろんな気づきを与えてくれます。粘土の固まりから器などを作るわけですが、その単純な作業の中に普遍的な真理がかいま見える所があります。それは、単純で、余分な枝葉が無いから見えやすいのかもしれません。土ひねり体験の中にはいろんな要素がありますが、この地球が創られ我々人間がこの地上に生存していることの意味を気づかせてくれる部分が有ります。それは、考えてみると、あまりにも単純なことです。土ひねり体験をとおして神々が私たち人間を産みだし創造された事実を確認することができると共に、そこに込められた想いをかいま見ることが可能といっても良いでしょう。備前焼でも人間でも、生まれて来る過程があります。器にしろ人間にしろ、その元となっている材料があり、出来上がっていく過程が有ります。土ひねり体験では、基本的に600グラムの粘土の丸い固まりから始めてもらいますが、我々人間の始まりも、この丸い地球という大地、土のかたまりから始まっています。人間も器にたとえられることがありますが、人間も土から出来ています。このように表現すると不思議な感じがします。もちろん出来上がる過程、その経過には雲泥の差が有るでしょうが、根本は一緒です。元々、地球が生まれた時には灼熱の溶岩の固まりだったのでしょうが、それがやがて冷えて土のかたまりとなりました。地球の原初には土の固まりしかなかったのです。そこから人も何もかも、万象万物全てが産み出されている現実を認める必要があります。唯物論の暗示にかかっている人たちは、それでもダーウィンのように突然変異と自然淘汰の結果適者生存し偶然に進化してきたように思うかもしれませんが、粘土で作品を創られる時と同じくその当事者の存在があります。その思いを投影している霊的存在が必要となります。この地球上のことも、土ひねりも全て同じです。粘土(土)から作品(器)が創られるように地球(土)から人間(器)が創られました。これは紛れも無い事実です。以前、何かの本で読んだのですが、人間の体に含まれている元素の比率と、地球に含有している元素の比率とが同じだと言うのです。人の体は、死ぬと灰にされ土に帰っていきます。粘土(土)から作品(器)が創られるということは、誰でも追体験できることなので何の不思議も感じないでしょうが、私たちの体が土から創られたと言うことはとても不思議です。しかし、時間の長さが違うだけで、同じ土から生まれていると言うことは、その原因と結果をつなぐ途中に必要な要素は同じものがあるはずです。では、なぜ?私たちは、創られたのでしょう。何のために創られたのでしょう。私たち人間の存在意義は、いったいどこに有るのでしょうか。これは、人類に突きつけられている永遠のテーマであり問題集です。このテーマに回答を出すことは、ある意味簡単です。それは、粘土(土)から作品(器)を造るときの事を考えてみれば良いのです。粘土(土)から作品(器)を創り出すときに必要な要素は、単純に言うと二つです。それは、そのように「思う」こと「行う」こと。イメージとそれを具体化させる為の行動、その二つです。もちろん、粘土(土)が偶然に作品(器)になることはありません。これは、何十億年の時間を待っていようとも不可能なことは明白です。 粘土(土)が作品(器)になるためには、作ろうとする思いと、それを具体化させる行為が必要となります。偶然出来る訳は決してありません。必然としての流れが有ります。地球(土)から人間(器)が創られる過程の中にも同じ流れが必要なはずです。ダーウィンが言うように突然変異と自然淘汰の結果適者生存し偶然に進化しただけではないでしょう。必ずその背景には意志の力を持っている霊的な存在が必要です。進化させようとする意志の力が働かなければ、進化と退化、言葉上だけ考えても半々ですから、丁半博打のような偶然性で、この地球上に土を材料として高度な生命文化を創り上げることは不可能です。どのように考えても、その思いを投げかけている霊的存在が在るのです。高級諸神霊、仏、天、サムシンググレート、なんと言っても良いでしょうが、そのような方々が我々を産み出し育んできた結果の今という時代に生きさせていただいているのではないでしょうか。この様に考えると、単純な土ひねり体験の中に、神々が我々人類を産み出した同じようなことを追体験させていただいているのかもしれません。ということは、人類創造の目的と目標がかいま見えるのではないでしょうか。私たちの存在意義が明らかに出来るはずです。では、私たちは、何故、土から器を創ろうとするのでしょう。一つには、楽しいから造っています。これは、原点にあるでしょう。創造の喜びです。そして、何を造るか、その目標が無ければ形が出来てきません。お皿なのか、カップなのか、花を生けたいのか、見て楽しむようなオブジェなのか、何らかの具体的に役に立つ形を目標とします。そして、使う楽しさです。どうやら、これらと同じような単純な要素で私たち人類の存在が意義有るものとして悠久の時間の中で創り出されていることが考えられます。そのキーワードを引っ張り出してみると、この二つが在るでしょう。「喜び」(陰)と「お役立ち」(陽)です。そのことが循環しているようです。私たちが土から作品(器)を作り出すように、神々も私たちをこの地上に作り出しました。それぞれに個性ある器として人間が創られています。おそらく、その作り出している神々自体も、より高次な存在の念いが具現化して創り出されたものでしょう。根源の神、仏の思いがどこに在るか定かには分かりませんが、私たちが土に対峙し格闘し何らかの物を産み出している作業と似た要素が在るはずです。私たちの思いと行い、その目的と目標が、創られたときのそれと大きく離れていったときに、大きな苦しみとなっておそってくるのではないだろうか。その目的と目標、その使命を果たせているときに大いなる喜びの中に包まれるのではないだろうか。粘土から器を創るという単純な作業の中に仏神の聖なる思いをかいま見ることが出来るから、無心に土にさわっている事がたのしいのではないだろうか。私は、陶芸家としてたくさんの器達を産み出しています。その器たちが、それぞれの場所でそれぞれの働きをし、喜ばれて使われている所を目にするととても嬉しく思います。そして、しっかり活かされ使われている器たちの中に、自分が造ったと思えないような輝きを放っている器たちがいます。それは、何とも言えない驚きであります。おそらく、神々が、手間暇かけて霊的世界(陰)と現象世界(陽)、この全世界を創造された理由は、こんな所に在るのかもしれません。
2008.12.09
備前焼の土ひねり体験は、楽しく癒しの効果が有るだけでなく、私たちにいろんな気づきを与えてくれます。粘土の固まりから器などを作るわけですが、その単純な作業の中に世界の全ての縮図、その真理が見えてきます。それは、単純で、余分な枝葉が無いからこそ見えやすいという面があるようです。土ひねり体験の中にはいろんな要素がありますが、この地球が創られ我々人間がこの地上に生存していることの意味を気づかせてくれる部分が有ります。それは、あまりにも単純なことです。体験をとおして神々が私たち人間を産みだし創造された事実を確認することができると共に、そこに込められた想いをかいま見ることが可能です。どういうことかと言うと、備前焼でも人間でも、その創られている過程とその要素のポイントを見ればいいのです。人間も器にたとえて言われることがあります。器にしろ人間にしろ、その元となっている材料があり、出来上がっていく過程が有ります。原材料が有るのです。焼き物は、土から出来ています。そして、人間も土から出来ています。このように表現すると不思議な感じがします。粘土(土)から作品(器)が創られるということは、誰でも追体験できることなので何の不思議も感じないでしょうが、よく考えてみると納得出来ることが有ります。人は、死ぬと灰にされ土に帰っていきます。以前何かの本で読んだことが有るのですが、人間の体に含まれている元素の比率と、地球に含有している元素の比率とが同じだと言うのです。土ひねり体験では、600グラムの粘土の丸い固まりから始めてもらいますが、我々人間の始まりも、この丸い地球という大地、土のかたまりから始まっています。もちろん出来上がる過程、その経過には雲泥の差が有るでしょうが、根本は一緒です。元々、地球が生まれた時には灼熱の溶岩の固まりだったのでしょうが、それがやがて冷えて土のかたまりとなりました。粘土で作品を創る時と同じくこの地球上のことも、全てはそこから始まったのです。粘土(土)から作品(器)が創られるように地球(土)から人間(器)が創られました。これは紛れも無い事実です。では、なぜ?私たちは、創られたのでしょう。何のために創られたのでしょう。私たち人間の存在意義は、いったいどこに有るのでしょうか。これは、人類に突きつけられている永遠のテーマであり問題集です。このテーマに回答を出すことは、簡単です。それは、粘土(土)から作品(器)が創られる時に必要とされる要素を引っ張り出してみると推測可能と思われるからです。粘土(土)から作品(器)を創り出すときに必要な要素は、単純に言うと二つです。粘土(土)を前にして作品(器)を作ろうとするときに必要とされるのは、そのように思うこと行うこと。イメージとそれを具体化させる為の行動が必要です。もちろん、粘土(土)が偶然に作品(器)になることはありません。これは、何十億年の時間を待っていようとも不可能なことは明白です。 粘土(土)が作品(器)になるためには、作ろうとする思いと、それを具体化させる行為が必要となります。偶然出来る訳は決してありません。必然としての流れが有ります。地球(土)から人間(器)が創られる過程の中にも同じ流れが必要なはずです。ダーウィンが言うように突然変異と自然淘汰の結果適者生存し偶然に進化しただけではありません。必ずその背景には意志の力が必要となります。必然性が有るのです。 土ひねり体験をすることで、全ての初めに思いが有ることが分かります。 始まりに思いが有る。そして、その為の具体化の作業が始まることが分かるでしょう。非常に単純なことなのです。にも関わらず、ダーウィンの考え方に影響されたままの人がどれだけいるのでしょうか。その理由は、簡単です。目に見えない物を見ようとしないからです。玄なるものをみようとしない。思考停止と言っても良いでしょう。分からないと認める勇気が無いのです。土ひねり体験の時には、現に作り出そうとしている各人の存在が有ります。その中に思いと行いが在り、結果として目の前に器が現れてきます。地球(土)から人間(器)が創られる時、その行い、その進化する過程は科学的に現象として証明されているかに見えます。しかし、「行い」の前に有るべき「思い」の部分は、目に見えないが為に封印されがちになるようです。しかし、目に見えないからと言ってそれにおおいをかけるべきではありません。土ひねり体験でもわかるように、行為の前にはその為の思いが必要なのです。その「思い」を投げかける存在が必要なのです。「目的」が必要なのです。なぜ作るのか?動機です。そして、「目標」が必要となります。どのようなものを作りたいのか? 結果、成果です。この二つが無くこの世に存在している物は何一つありません。この現代の科学文明が作り出したものすべても、言ってしまえば土(地球)から作られています。私たち人間自身がそうであるように、人類が作り出している全ての物は、土(地球)から作られています。神は、自らに似せて人間をお作りになったと言われていますが、まさしく、神と同じようにこの大地から現代文明の粋を集めあらゆる物を作り出したのです。その背景には思いが有るのです。その思いを投げかける霊的存在が在るのです。この様に考えると、神々が我々人類を産み出したように、同じようなことを追体験させていただいているとしか思えません。ということは、この単純な土ひねり体験の中に、根源の神、仏、天、サムシンググレート、なんと言っても良いでしょうが、そのような方々が我々を産み出した目的と目標がかいま見えるのではないでしょうか。では、私たちは、何故、土から器を創ろうとするのでしょうか?一つには、楽しいから造っています。これは、原点にあるでしょう。創造の喜びです。そして、何を造るか、その目標が無ければ形が出来てきません。お皿なのか、カップなのか、花を生けたいのか、見て楽しむようなオブジェなのか、何らかの具体的に役に立つ形を目標とします。どうやら、この様な単純な要素で私たち人類の存在が意義有るものとして悠久の時間の中で創り出されていることが考えられます。そのキーワードを引っ張り出してみると、この二つが在るでしょう。「喜び」(陰)と「お役立ち」(陽)です。私たちが土から器を作り出すように、神々も私たちをこの地上に作り出しました。それぞれに個性ある器として人間が創られています。おそらく、その作り出している神々自体も、より高次な存在の念いが具現化して創り出されたものでしょう。根源の神、仏の思いがどこに在るか定かには分かりませんが、私たちが土に対峙し格闘し何らかの物を産み出している作業と似た要素が在るはずです。私たちの思いと行い、その目的と目標が、創られたときのそれと大きく離れていったときに、大きな苦しみが待っているのではないだろうか。その目的と目標、その使命を果たせているときに大いなる喜びの中に包まれるのではないだろうか。粘土から器を創るという単純な作業の中に仏神の聖なる思いをかいま見ることが出来るから、無心に土にさわっている事がたのしいのではないだろうか。
2008.12.07
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