JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.17
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
鎌倉散策 目次 👈リンク

そして次に訪れたのが「檑亭(らいてい)」。
鎌倉山の「檑亭」は、鎌倉山が宅地開発された当時の様子を伝える貴重な建物で、
鎌倉市景観重要建築物に指定されている。
当初は「清香園」と称し、鉄道事業家・土木技術者として知られる菅原恒覧が 営んだ別荘。
昭和3年7月に鎌倉山住宅株式会社が鎌倉山を宅地化しようとした際に 宅地の分譲を受け、
関東大震災で倒壊した横浜戸塚の農家を昭和4年7月に移築し、 翌昭和5年に、先程訪ねた
青蓮寺(鎌倉市手広)の玄関の材料を買い受けて、 本館の西北隅に増築し、これを玄関とした。
昭和44年に現所有者が和風レストランとして開業し、現在に至っている。

鎌倉市鎌倉山3丁目1-1。



高松寺から移築された「山門」。
高松寺は1642年、日隆を開山とする日蓮宗の尼寺として西御門の太平寺跡辺りに立てられ
たが、1925年(大正12)の大正関東地震で本堂は全壊し、宮城県若柳町に移った。
本館の北方、東側道路に面して建つ間口三・二メートルの四脚門で、切妻造桟瓦葺である。
円柱の本柱間を冠木で繋いで絵様虹梁を重ね、控柱は頭貫と台輪で固める。
皿斗付大斗の三斗を詰組とし、軒は二軒繁垂木、妻飾は虹梁蟇股である。禅宗様意匠を
取入れた四脚門。



山門の扁額は「壽延山」と当時の「高松寺」の山号がそのままに。



「檑𠅘(らいてい)」と書かれた大きな看板が「山門」の先の道路脇に。



「山門 ここは海抜約六十米

昭和6年(1931)この地に移築。高松寺は日蓮宗の尼寺であった山門形式は四脚門。もとは藁葺」。



「山門」手前の右手にあった石塔にも「壽延山」と刻まれていた。



「登録有形文化財 第14ー0177~0178
この建造物は貴重な国民的財産です  文化庁」



「鎌倉市景観重要建築物等 第24号 平成15年3月31日指定
檑 亭 (RAITEI)

本館は、横浜戸塚の養蚕農家を移築したもので、玄関部分は手広の青蓮寺からの移築によるもの
です。建物内部は太い梁を交差させた天井、ステンドグラスの窓、須弥壇を模した暖炉、古道具
を用いた家具・照明器具など、和洋折衷の特異な空間が創り出されています。
入口に立つ山門は、禅宗様を基調とした四脚門で、西御門にあった高松寺から移築されたものです。
緑に囲まれた鎌倉山に佇む檑亭の建築物は、鎌倉山ならではの優雅な雰囲気を醸しだしています。          建設年 昭和4年(1929)
設計者・施工者共に不詳
 ◎ 一般公開はしていません    鎌倉市」



「廻遊式庭園 檑𠅘」
500円を支払い「檑亭」内部に入る。
500円は「御食事券先払」扱いでレストランで利用できたのであった。



「庭園裏山(百仏崖奥)に鎌倉山天満橋が祀られています。
学業・成就・冤罪除の飛梅絵馬もおいてございます。
ご参詣下さいますよう。」



「山門」をくぐると、庭園へと続く石畳のアプローチが。



正面に「青蓮寺」から移築された「玄関」と左手に「本館」。



「玄関」上の彫刻。



玄関
  鎌倉手広の青蓮寺(鎖大師)の玄関が関東大震災で倒壊した古材を補修移築
 本館
  2003年3月鎌倉市景観重要建築物に指定された本館は、横浜市戸塚の豪農猪熊家の旧宅を
  昭和4年(1929年)に移築改築したものです。江戸時代の大地主の住宅建築の重厚さを
  しのばせます。」



「檑亭散策マップ」。


    【https://www.raitei.com/garden.html】より

玄関の横から下に階段を下りていくと右手に石灯籠が並ぶ。



宝永4年(1707年)と… 山門と同じく、高松寺の灯籠らしい。



別の角度から。



「五重塔」。



更に進むと「百仏崖」。
「山門建立の際、崖地を埋め、石垣、石壁を築き、各所より無縁仏を迎え安置しました。
この数およそ百体になったところから、百仏崖と名付け、現在でも春秋のお彼岸の際は、
円覚寺僧堂の修行僧の方々に供養をお願いしております。読経の声がこだまし、
荘厳な空気に満たされます」と。



「百仏崖
十王、十三佛、四天王、なぞは筑前國より昭和八年この地に移された。
十王の本地は久成如来深位菩薩で、亡者が冥土に赴くとき初七日より第三周年まで順次十三法庁に
於いて生前の善悪行為を◯明せるゝとのことである。
故に現在は春秋の彼岸の折りには北鎌倉から供養の為に多数の僧侶にお参りして頂いています。」



各所の無縁仏を迎え安置した数が百体。



現在でもお彼岸の際は円覚寺の修行僧が供養を行っているのだと。



様々な角度から無縁仏を追う。







「無縁界法塔」。



複雑に積み上げられた石塔。



「石造碁将棋盤」。



碁盤」。
縦横19本の線を持つ盤を 19路盤と。



「将棋盤」。
縦横9マスずつ、計81マス。



「石造碁将棋盤
囲碁、将棋を中国では文人墨客の遊びと呼ぶ。この盤はいかにもそれにふさわしく
深山に遊ぶ仙人の姿を彷彿させる。」



「碁盤」の横には、対戦用の石椅子もあった。



石造りの「貫なし鳥居」か?
「鎌倉山天満宮」のものであろう。



その先にあったのは「二宮金次郎像」。



正面から。理知的な顔であった。



本の上にはお賽銭が。



そして「鎌倉山天満宮」が最奥にあった。
「鎌倉山には戦前まで天満宮が祀られていましたが、参詣者も絶え、社殿も荒廃して
しまいました。それを悲しんだ人々の尽力で昭和52年(1977年)に再建され、改めて
筑紫大宰府天満宮から神霊を勘請いたしました。
ご祭神の菅原道真公は、学問成就・冤罪祈願の神様として親しまれております。毎月25日には
「月例祭」を執り行っております。また、檑亭では道真公由来の「飛梅絵馬」をお分けして
おります。祈願には白梅の絵馬、その御礼には紅梅の絵馬をご奉納ください。」と。



石鳥居と石段の上に「社殿」が。



「鎌倉山天満宮」の「社殿」。



「内陣」。



「天満宮
昭和五十二年(一九九七年)旧正月に太宰府天満宮から分祀されたものです。
学業成就、冤罪除にご参詣下さい。
「御飛梅絵馬もお預け致して居ります。鶴岡八幡宮の古材を拝受して建てられました。」



「社殿」の前から石段、鳥居を見下ろす。



マップがここにも。



「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」であろうか。
宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種。



そして「石造十王像」。
「閻魔大王を中心とした10人の地獄の王様で、亡者の裁きを司ります。
国東半島から移動安置しております。」と。
閻魔大王を中心に10人の地獄の王様たちが並んでいた。



中心に鎮座する「閻魔大王」。



向かって右側。



向かって左側。



「石造十三像
閻魔大王を中心とした十人の地獄の王さまたち、亡者の裁きを司さどる。
この一連の石造も九州からこの百仏崖に移動安置されたものである。」



十六羅漢群(じゅうろくらかんぐん)。右手に三重塔であろうか?
「羅漢とは悟りの境地に入った修行者の事、十六・十八・五百などの羅漢像が日本各地に
存在し、信仰の対象にされています。檑亭の十六羅漢像は大分国東半島から移設したものだ
そうで、江戸期の作だと。静寂の竹林や草むらの中に鎮座しています。」と。



様々な表情の羅漢様。



苔むした散策道を足元に注意しながら進む。



竹林の葉音を楽しみながら。



竹林の中、正面に見えて来たのが「永楽洞門」。



近づいて。



潜って反対側から。
高松寺の檀那水野家の家紋、「永楽通宝紋」と「沢潟紋」(おもだかもん)が浮彫りされた門。
水野家は清和源氏の一流。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 15:24:19 コメント(4) | コメントを書く
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