JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.12.15
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カテゴリ: 国内旅行
「田原坂公園」を後にして「西南戦争 田原坂の戦い 七本(ななもと)官軍墓地」へ向かった。
突き当り近くに車を駐め散策開始。
「西南の役 七本官軍墓地」案内柱と案内板。



「西南の役 七本官軍墓地」案内柱。



「七本官軍墓地」案内板に近寄って。
「明治10年( 1877年)西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した官軍墓地は
21ヶ所あります。
墓碑には、階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所及び出身地などが刻まれている。
ここには、熊本鎮台14連隊所属の河原林雄太少尉ほか、植木、滴水及び木留などの戦闘で
戦死した東京、大阪、名古屋、広島及び熊本鎮台の兵士300余名が埋葬されている。」



「七本官軍墓地」に入る。






明治二十七年二月郷里より背負い来りて之を植ゆ
大正十五年四月再展墓の日此碑を建つ」 と。
出兵とき、故郷からこの松を背負って植えたという事。
何代目の松であろうか。



礼拝所であろうか。



墓地内に建ち並ぶ墓碑。







墓碑には、階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所及び出身地などが刻まれていた。



大きく枝分かれした楓の木であろうか。



「熊本縣指定史跡 七本官軍墓地」碑。



楓の木の下にも墓碑が。



そして「七本官軍墓地」を振り返る。







そして再び「田原坂公園」前を通り「田原坂」沿いの狭い道を車で進む。
右手にあったのが「田原坂 三の坂」碑。



「伍長谷村計介戦死之地」碑。



「西南の役 谷村計介 戦死之碑」。



「谷村計介の碑

明治7年2月佐賀の乱に際して戦功をあげ、6月陸軍伍長となり、8月第11大隊に属して
征台の役に従軍した。
明治10年西南役に際しては熊本城内にて守城軍として活躍し、命により密使として征討軍本営との
連絡にあたり、使命を果し、再び第1線に参加して、3月4日田原坂にて戦死する。25才」。



この斜めに進む道が「田原坂」であろう。



こちらは上り坂の方向の「田原坂」。



更に上ると。



「西南の役 戦没者慰霊碑」。



碑を正面から。



「田原坂 二の坂」。



更に竹林の中を下って行った。



右手の「田原坂 一の坂公園」の入口にあったのが「田原坂 一の坂」碑。



「西南の役 一の坂公園」碑。



「田原坂「一の坂・二の坂・三の坂」」案内板がここにも。



「一の坂公園」案内板。



「一の坂公園」を後にして、国道208号に向かって進むと左手にあったのが「 豊岡眼鏡橋 」。
豊岡眼鏡橋 は、享 和壬戌二年 十月に作られたもので、年号のはっきりしている
石造眼鏡橋では熊本県内で最も古い橋といわれていると。 享和二年は西暦1802年に相当し、
江戸時代後期にあたり、熊本県で有名な霊台橋や通潤橋よりも古い橋。
この石造眼鏡橋は両脚の幅12.2m、高さ4.4m。輪石と輪石を楔石で継いだ単一アーチ橋で、
輪石の厚みは45cm。 この橋を渡って川沿いに添って進むと旧道があり、国道208号へ出た所に
『田原坂攻撃官軍第一線陣地阯』の石標が立っているのだと。
官軍は田原坂本道の丘の右翼及び左翼へこの川沿いの旧道を通り、この眼鏡橋を拠点にして
出撃して行ったのだと。



そしてこの日・初日の最後の目的地の「熊本城」に向かって県道31号に戻り進む。
前方に見えて来たのが「熊本環状道路」。



そして右手の九州新幹線に沿って進む。



そしてこの日の最後の目的地の「熊本城」に到着して「二の丸駐車場」に車を駐める。
「西大手櫓門・元太鼓櫓
熊本城では西出丸に西・北・南3つの大手門を置き、このうち城の玄関にあたる西大手櫓門は
最大規模かっ最も格式の高い門でした。明治時代に軍が取り壊した後、昭和の復元工事や平成の
台風被害等を経て、平成15年(2003)に木造で復元しました。元太鼓櫓も同時期に復元したもので
す。平成28年( 2016 )の地震で、西大手櫓門・元太鼓櫓ともに石垣が崩落し、櫓が傾きました。
現在、建物と石垣は回収し、崩落防止の安全対策を行っています。」



熊本城内地図。



左手に堀とその奥に「戌亥櫓(いぬいやぐら)」と倒壊した「西出丸塀」。



「戌亥櫓(いぬいやぐら)」をズームして。



未申櫓(ひつじさるやぐら)。



ここが「西大手櫓門」が建っていた場所。



熊本地震前後の「西大手門櫓」と「元太鼓櫓」の写真。



近寄って。



「西大手門と元太鼓櫓の安全対策
平成28年熊本地震で西大手門の石垣は崩落しましたが、建物は隅の石垣で支えられ倒壊
は免れました。一方、元太鼓櫓は平成30年(2018) 6月に大雨によって倒壊しました。
復旧作業では建築部材と崩落石材を回収した後、石垣はモルタルを吹き付けネットで養生を行い、
栗石をカゴの中に入れて積み上げ、安全対策として利用しています。」




既に16:30近くになっており、「大天守」への入場は終了していた。



こちらは「宇土櫓」。
「宇土櫓」の屋根には鯱(しゃち)がのっており、大小天守閣と並んで“三の天守”と呼ばれる
こともあります。この鯱は、もともとあったものではなく、昭和2年(1927)に陸軍が解体修理
した際、城内に保管してあった鯱を取り付けたものです。青銅製で高96センチ、重さ約60キロ。
ちなみに、鯱は阿(あ)と吽(うん)の2体で1対となります。



「宇土櫓」は、初代熊本藩主加藤清正の時代の慶長年間(1596~1615年)に建造されたと
される木造建築物。高さは約19メートルあり、外観は3層、内部は5階建てで地下1階がある。



「宇土櫓」とその後ろに「大天守」その左に「小天守」。



再び「宇土櫓」をズームして。



「宇土櫓 国指定重要文化財
「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓は、地上五階・地下一階、建物の高さは約19m、土台石垣の
高さは21m以上と大天守に次ぐ大きさです。西南戦争直前に大小天守は炎上しましたが、
宇土櫓は焼けずに残りました。熊本城では江戸時代から残る唯一の五階櫓です。
平成28年(2016)の地震では、南に付く続櫓が倒壊し、五階櫓の壁漆喰・床などが破損しました。
土台石垣も大きく膨らんだ箇所があります。」



改修工事が完了した「大天守」。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.12.15 10:24:14
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