JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.01.11
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カテゴリ: 国内旅行
「ニ階櫓門」の礎石の位置が分かるのであった。
本物の礎石は四角いコンクリート板の下にあり見えないようになっていた。
右端の石垣は補修して、切り込みハギになっていた。



ここ延岡城の本丸跡に立てられている銅像と石碑を桜の木越しに。



「内藤政擧(まさたか)」像。
現在の銅像は3代目で1985年の建立。
内藤政擧は日向国延岡藩の第8代・最後の藩主。廃藩置県後は教育や産業に功績を
残したとのこと。



台座の下部の周囲の柱は銃砲の如き形状で。







内藤政挙は遠江掛川藩主太田資始の六男として生まれ、後に延岡藩の第7代藩主内藤政義の
養子となり、家督を継いで最後の延岡藩藩主となる。
明治維新後、延岡藩知事になるが廃藩置県で藩知事を免官されたが、後に旧領の復興と
教育振興のため多くの貢献をした。
城山本丸広場に記念の銅像が建てられたのも、そう言った多くの功績からであろう。



勲章がついた洋装姿で、頭に洋服の帽子をかぶり、手にはサーベルを握っている立像。



その右側に「殉國慰霊塔」。
戦前の延岡市は、日本窒素化学工業株式会社(現・旭化成株式会社)があり、宮崎県下で唯一の
総合化学工業地帯として発展を遂げていた。
しかし戦争突入後は、旭化成も人絹設備(人造絹糸・レーヨン)は強制供出にあい、火薬部門
および硝酸部門は海軍の管理工場として活用され、軍用火薬の製造に重点がおかれた。

「延岡大空襲」を受け、即死者130人、戦災面積2.18平方km、被災戸数3,765戸、
被災者15,232人という大惨事となった。
「延岡大空襲」を語り継ぐ為に戦後、遺族会などを中心に、慰霊塔の建立を望む声が高まり、
「殉国慰霊塔建設委員会」が組織された。
そして、昭和33(1958)年10月、延岡城本丸広場に「殉国慰霊塔」が建立されたのだと。







「天守台」への坂道を上って行った。



前方が開けて来た。



「天守台跡」柱。



「内藤家文書の「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」によると、「天守台」とあるが天守閣は
みられない。これは、天守閣がない南九州の近世城郭の特色にもなっている。
また、明治初年頃の絵図には鐘つき堂の前身となる太鼓櫓があったとされるが、同十年の
西南の役で焼失した。」



「天守台」案内板。



「ここは有馬氏時代に製作された「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)では、
「天主台」と記されていますが、天守閣は描かれていません。しかし、慶長年間の
「日向国絵図」(臼杵市教育委員会所蔵)には、望楼型の三重天守が描かれています。
このことから天守閣が存在したという可能性も否定できませんが、平成6・7年( 1994・1995年)
に発掘調査を行った結果では、天守閣の存在を示す資料は得られませんでした。
明治初年頃の絵図には鐘撞堂の前身となる太鼓櫓があったとされますが、同10年( 1877年)に
西南の役で焼失。翌11年(1878年)、有馬氏時代に今山八幡宮に寄進された梵鐘が天守台に
移設され、以後、現在も鐘守の手によって時を告げる鐘の音が鳴り続けています。なお、現在の
鐘は二代目にあたり、昭和38年(1963年)の市制施行30周年念事業で鋳造・設置されたものです。
初代の鐘は、教育委員会に保存されています。」



現在地。



「鐘楼」。



「​ 梵鐘 ​」👈リンク。



「鐘守の歴史」
城山の鐘は1878(明治11)年から戦争で中断する1943(昭和18)年ごろまでは、毎日24時間、
1時間ごとに鐘守が鐘を突いて時を知らせてきた。日向市東郷町坪谷生まれの歌人若山牧水も
旧制・延岡小学校に学び、この鐘に親しんできたことから、
「なつかしき 城山の鐘 鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに」
「ふるさとに 帰り来りて まず聞くは かの城山の 時告ぐる鐘」
の2首を残した。
初代・鐘守は、旧藩主・内藤政擧(ないとう・まさたか)公の計らいで、稲田藤三郎さんが
その任につき、以来、1996(平成8)年8月まで、稲田家が5代にわたって鐘を突き続けた。
現在は市の委嘱を受けた鐘守が毎日、午前6時から午後5時までの1日6回、鐘を突いて市民に
時を知らせている。日高夫妻は同市北浦町出身で、2年前に鐘守に就任した。



「郷土が生んだ歌人若山牧水の歌と共に全国に知られている城山の鐘は延岡地方に於ける
最古の有銘鐘でその銘文に
奉寄進華鯨蓬莱山八幡宮
明暦二年丙申六月吉日日州延岡城主
有馬左衛門佐従五位藤原朝臣康純
とあり地名延岡に関するもっとも古い金石文であり当市の重要文化財である。西南の役に薩軍の
挑發の難をまぬがれ明治十一年時鐘としてこの延岡城址の城山の園に移されてより春風秋雨星霜
うつり変る郷土の姿を見守りながら時を報じつづけてきた。
なつかしき城山の鐘 鳴り出でぬ  幼かりし日 聞きし如くに
いみじくも詠んだ牧水の歌のように城山の鐘はいつの時代にも延岡市民の心のふるさとであった
この城山の鐘もようやく損傷の度がふかくなったので三百余年にわたるその労をねぎらい永久
保存の道を講ずるための新鐘の鋳造を企画し會を結成して廣くよびかけたところ欣然として
浄財が集まりこゝに第二代の城山の鐘が誕生した。
母鐘のなつかしい響きを受けつぎ発展をつゞける郷土の空に永くその余韻を伝えることを祈る
ものである。」



「お願い!
鐘撞堂まで登って来ていただきましてありがとうございます。
城山の鐘は、1 8 7 8年から「時を告げる鐘」として市民に親しまれております。
定時( 6時、8時、1 0時、1 2時、1 5時、1 7時)以外の鐘は市民に混乱を与えますので
来園者の皆様には鐘を撞かないようお願いいたします。」



「延岡城」碑。



(株)NTT西日本ー九州 宮崎事業部延岡営業所越しに「五ヶ瀬川」、「大瀬川」そして
安賀多橋(あがたはし)、日向灘方面を見る。



「旭化成」延岡のベンベルグ工場煙突と手前に「大瀬川」。



その右に「愛宕山(あたごやま、標高251.2m)」の姿そしてその奥に「遠見山」の姿が。



「行幸記念碑」。



「行幸記念碑、昭和11年11月15日 延岡市長」と
昭和10年(1935)に天皇陛下を城山にお迎えしたと。
城山から全市を展望され、旭化成のベンベルグ工場をご視察になられた と。



「天守台」の広場の「鐘楼」を振り返りながら。
「鐘楼」の左側の家は、鐘を突く方が住んでいらっしゃるようであった。



「天守台」を後にして「二の丸」への坂道を下る。



「三階櫓跡地」には「後藤勇吉之碑」が立っていた。



「後藤勇吉之碑」。



「空の先駆者 後藤勇吉の碑」。



1934(昭和9)年建立。
太平洋に輝く太陽と、勇吉が果たすことのできなかった太平洋横断無着陸飛行の姿を彫刻した
レリーフがはめ込まれているのだと。



「後藤勇吉は、明治29年11月12日延岡市 南町に生まれ、延岡中学校を卒業後 上京、飛行士
として修練を重ねた。
大正9年(25歳)競技飛行大会に参加、高等競技で1位、同年 空中文明博にも参加、郵便宣伝
飛行を行った。 この年、郷土訪問飛行を実施、県民に驚異の感銘を与えた。 
以来、航空会の寵児(ちょうじ)となり日本一周飛行、郵便飛行、輸送飛行など多くの輝かしい
足跡を残した。
昭和2年 太平洋横断飛行が企画されるやその責任者に選ばれ猛訓練が開始された。
翌3年2月29日午前8時 大村海軍航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中 佐賀県◯◯(岳)上空で
墜落、死亡した。 33歳の壮年であった。  延岡観光協会」とネットから。



「後藤勇吉之碑」の手前右側にあったのが「三階櫓跡地」碑。
「三階櫓(やぐら)跡地、明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、ここは三階建ての
櫓があり、南北下階六間(10.8 m)東西五間の大きさで高さ七間(約14 m)であった。 
昭和59年3月20日建立」と
その奥に見えたのが「延岡市役所」。



「三階櫓跡」案内板。



「三階櫓は、関東周辺の譜代大名を中心に造られた「天守代用三階櫓」と同様、延岡城の天守と
みなされた本城を代表する建築物で、城内で一番大きな建物でした。櫓の1階部分は、東西5間
(約10 m )、南北6間(約12m)の広さで、高さは、土台下から7間5尺9寸(約15.6m )ありました。
明暦元年(1655年)有馬康純公の修築により完成しましたが、天和3年( 1683年) (一説に天和2年
( 1682年) )に武家屋敷からの出火で焼失し、以後再建されることはなく、現在は、櫓台の石垣が
当時の姿のま残っています。」



「三階櫓模型と櫓台のCG」。



ネットより「三階櫓復元CG」を。


     【https://ameblo.jp/idryou/entry-12574886218.html】より

崖の上に立つ「鐘楼」を見上げる。



「吹上坂」案内板。



「吹上坂は、三の丸から本丸へと続くつづら折れの道路で、有馬氏時代に描かれた
「有馬家中延岡城下屋敷付図」(明治大学博物館所蔵)に、この吹上坂は描かれています。
以降、三浦氏、牧野氏、内藤氏時代に描かれた絵図でも吹上坂は確認することができます。
この場所は、延岡城の天守とみなされた三階櫓跡の西側直下にあたり、三階櫓跡の岩盤掘削面と
石垣面とを上手く組み合わせて通路の壁面を構成しています。石垣は、見栄えを重視したと
考えられ、一定の大きさに揃えた割石を用い、横目地の通る「布積み」で積まれています。
また石面は、ノミによる「ハツリ」が施され平面的に整えられています。
吹上坂の石垣は、城内の他の石垣とは違った美しさが見られ、有馬家により大改修されたと
考えられます。」



「吹上坂」と「三階櫓跡」を振り返る。



正面に「三階櫓跡」を見る。



「三の丸跡」案内柱。
「明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、ここは三階建ての櫓があり、南北下階六間
(10.8m)東西五間の大きさで高さ七間(約14m)であった。 昭和59年3月20日建立」と
「三の丸跡」には和風庭園が。



「牧水歌碑」。
なつかしき 城山の鐘 鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに 」。



「牧水歌碑」案内柱。



「若山牧水(本名 繁)は、明治十八年八月ニ十四日、現在の宮崎県日向市東郷町坪谷に生まれました。
尋常小学校を終えると、延岡市の高等小学校に入り、新設された県立延岡中学校
(現・県立延岡高等学校)を卒業して、早稲田大学英文科に進みました。
延岡の八年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、歌人としての素養を培いました。
そして、若山繁が雅号を「牧水」とした町が延岡です。
この歌は昭和ニ年七月二十四日、台雲寺(北小路)で詠んだもので、昭和十年春、全国三番目の
牧水歌碑として建てられました。
毎年、三月に歌碑まつりが行われます。」



右隣に立つ古くから門下だった谷自路(次郎)の歌碑
石の面に 樹々に冬日の 照り沁みて 凪ぎはてし庭に 山茶花の散る
昭和27年(1952年)3月17日、建立。



左隣に立つ古くから門下だった越智渓水(通規)の歌碑。
家にゐて ものおもふことの 愚かさよ やまに来たれば 良き日なりけり
昭和43年(1968年)7月21日、建立。



そして最後に再び「千人殺しの石垣」を見上げる。



延岡市の汚水マンホール蓋。
市章の両脇に宮崎県伝統工芸品である江戸時代から続く郷土玩具の「のぼり猿」が描かれている。
のぼり猿は、延岡藩の武士の妻たちが手内職として作り始めたとされ、 ハナショウブを描いた
幟が風を受けると張り子の猿が上り下りする仕組みで、5月の節句に子どもの健やかな成長と
五穀豊穣を願って、 鯉のぼりと一緒に庭先に立てるそうです。「汚水」の表記も。



そして駐車場に戻り、次の目的地の「佐伯城」に向かって出発したのであった。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.01.16 05:44:20
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