JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.08.03
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カテゴリ: 国内旅行
「徳川氏発祥の地 世良田東照宮 
由緒
寛永二十年(一六四四)、三代将車徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地という
ことから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。
奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進。以後、幕府の手厚い保護を受け、
徳川家康代々礼敬をつくされました。
東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助成し、世に「お江戸みたけりや世良田へござれ・・・」と
うたわれました。
​御祭神
​主祭神:徳川家康公(東照大権現)​
東照大権現​とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。
家康公は、戦国乱世を終わらせ、日本を統一し平和な時代を築きました。
平和の永続を願う公は、「日光山に小さな堂を建てて、自分を神として祀ること。
自分は、日本の平和の守り神となる」と御遺言を遺されている。
配祀:菅原道真公(学問の神)・倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神)
   須佐之男命(愛、農業の神)・伊弉冉尊(結婚・火防の神)
   火産霊命(車、縁結びの神)・大穴牟遅命(招福、医療の神)
   誉田別尊(安産、育児の神)・建御方神(スポーツの神)
   豊城人彦神(開運の沖)・外十柱」


「世良田 東照宮」配置図。



左手にあったのが「開運稲荷社」。



鳥居の扁額も「開運稲荷社」。



「社殿」。



「開運稲荷社
創建当初の「稲荷社」は、当地に古くから祀られていた神様で、開運招福・商売繁盛・五穀豊穣に
特にあらたかなご利益のある神様であります。東照宮の修復の際はこの稲荷社も幕府より手厚い
保護が成されてきました。

を合祀。
明治四十年(1907)「開運稲荷社」は、小社合祀奨励により、旧世良田村小角田「稲荷神社」、
旧世良田村上矢島の勝手神社末社「稲荷社」、旧木崎村高尾の久呂住神社末社「稲荷社」と共に
東照宮へ合祀。
平成八年(1996)現在地に社殿が新築成り、遷座祭が斎行。御宮に合祀されていた全ての稲荷社が
御遷座され、現在の「開運稲荷社」となる。
   例大祭 三月初午日(旧暦)」



「世良田東照宮」の「一の鳥居」。
扁額は「東照宮」。
「一の鳥居」の先にはー対3組の石燈籠が並んでいた。



宮司さんの案内により「世良田東照宮」の拝観に向かう。




20名以上の団体は200円/人。



宮司さんによる説明を聴く我がグループ。



「御供水井戸」。



正面から。



「御供水井戸
江戸時代は社殿と同時に修復が成され、汲まれた清き神水は神前へ供えられました。
現在もこの神水は地下水となっておりますので容器持参の上でお汲みになり、ご利用ください。
また、東照宮神域の清砂を社務所にてお頒け致しております。」



「拝殿」参拝の後に訪ねた、「東照宮宝物保管陳列所」。



この「鉄燈籠」は、元和4年(1618年)に総社石主・秋元長朝の命で造られたもので、
当時の「鉄燈籠」では日本一の大きさを誇るものだったと。
「鉄燈籠竿陽刻銘
奉納燈籠東照大権現御寳前
 元和二戊二午歳七月吉日  <注>元和4喬朝が奉納した年(1618)
 秋元越中守藤原長朝
    大工 中林仲次
明暦4年(1658) 長朝の曾孫喬朝が奉納したものである」
制作時と奉納時が40数年離れている理由は、世良田東照宮刊「徳川氏発祥の地 世良田東照宮」に
よれば、次のとおり
長朝が日光東照宮創建時に奉納しようとしたが、諸大名が奉納する石燈籠より大きく、鉄燈籠、
小藩ゆえに奉納叶わず、領地の深谷に東照宮を造立、鉄燈籠を据えた。世良田東照宮建立後、
長朝の遺志を継いだ遺族・喬朝が奉納したのだと。



祠。



熱く「世良田東照宮」について語ってくれた宮司さん。



一番奥の石灯籠。
一、宝暦十三年(一七六三)
  前橋藩 十五万石 松平朝矩



場所を変えて近づいて。



「奉納石燈籠
一、宝暦十三年(一七六三)
  前橋藩 十五万石 松平朝矩
一、寛政八年(一七九六)
  川越藩 十五万石 松平直恒
一、天保十五年(一八四四)
  忍藩 十万石 松平忠国

      唐門前石燈籠
一、正保二年(一六四五)
  忍藩 五万石 老中阿部忠秋」



「拝殿」。
日光東照宮奥社拝殿として元和年間(1615 ~ 1623)に造営され、寛永17年(1640)~同19年に
当地、徳川氏発祥の地「世良田」へ移築された。設計施工中井大和守正清の最後の作ともいわれ、
桃山時代の特色をよく表している。
中井正清は「関ヶ原の戦い」後、家康公に使えて江戸城、知恩院、駿府城天守、江戸の町割り、
増上寺、名古屋城、二条城、内裏、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など、徳川家関係の重要な
建築を次々と担当した名工。
その名工・正清最後の作品が、この世良田東照宮の社殿であった(建立当時は日光東照宮の社殿
として建立された。)



「この拝殿は、日光東照宮奥社にあった建物で、将軍・御三家・勅使のみが昇殿を許されました。
大工は二条城や江戸城天守閣なども築城した中井大和守正清です。」



「唐破風」をズームして。
徳川家を象徴する「三つ葉葵の御紋」もあしらわれていた。
桁行5間、梁間3間、入母屋造平入り
屋根は、当初檜皮葺、寛政8年(1796)修理時に銅瓦葺となり現在に至る
昭和31年(1956)6月 重要文化財指定。



正面向拝下の蟇股に、松に鷹の彩色彫刻。



提灯にも「三つ葉葵の御紋」。



「拝殿」の周り廊下の手摺の造形も鳥の如し。



拝殿唐破風下の正面(東側)欄間の造形を右からカメラで追う。





正面の左側の欄間の造形。





内陣の扁額は「東照大権現」。



中央に「鏡」が。



拝殿内部の三十六歌仙を追う。
右から紀貫之
さくら散る 木の下風は 寒からで 空にしられぬ 雪ぞふりける
伊勢
散り散らず 聞かまほしきを 古里の 花見て帰る 人も逢はなむ
山部赤人は 下記。



小野小町
わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとそ思ふ
紀友則
夕されば 佐保の川原の 河霧に 友まどはせる 千鳥鳴くなり
遍昭増正
我やどは 道もなきまで あれにけり つれなき人を 待つとせしまに



写真右に山部赤人 
若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る



格子天井。



「拝殿」を横から(北側)。



拝殿懸魚(北側)。



右側から欄間を。







唐門側(西側)欄間を右から。





中央。



中央をズームして。













                              ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.08.04 17:03:10
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