JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.08.06
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カテゴリ: 国内旅行
「渋沢栄一記念館」を後にして帰路につく。
バスの車窓左手から「尾高惇忠生家」を見る。
尾高惇忠(おだか あつただ)は渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもあった。
明治維新後は富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めた。
この生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り
計画を謀議したと伝わる部屋(非公開)が二階にあると。市指定史跡。



尾高惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟であった。
また、のちに惇忠の妹・千代(明治15年(1882年)没 42歳)は栄一の最初の妻となり、
惇忠と千代の弟・平九郎は栄一の幕臣時代にその見立て養子となった。剣術については、
おじの渋沢宗助(新三郎)が開いた
神道無念流道場「練武館」に入門し、弟の尾高長七郎、従弟の渋沢栄一や渋沢喜作(成一郎)らと
ともに稽古に励んだ


「尾高惇忠生家」の正面。



生家内の土間部分を通路として公開していると。



パンフレットをネットから。



「尾高惇忠は天保元(1830)年下手計村に生まれました。通称新五郎、諱は惇忠、藍香と
号しました。
渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からこの藍香のもとに通い、論語をはしめ多くの
学問を藍香に師事したことが知られています。後世、”藍香ありてこそ栄一あり”と称えられた
人物で知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。
明治時代を迎えると、惇忠は富岡製糸場初代場長や第一国立銀行の盛岡支店長と仙台支店長
などを務め、幅広く活躍しました。
この尾高惇忠生家は江戸時代後明に惇忠の曽祖父磯五郎が建てたものと伝わっています。
「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。この家で栄一の妻と
なった千代、見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆうが
育ちました。また、若き日に惇忠や栄一らが尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取り・
横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたのもこの家の2階と伝わります。
内庭の煉瓦倉庫は、「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が周囲に残ることから
日本煉瓦製造株式会社製の煉瓦で建てられたものと思われます。
平成22 (2010)年に深谷市指定文化財(史跡)となりました。」







「小山川」に架かる県道14号線「共栄橋」を渡る。



渋沢栄一の生家の近くにある西間堂本舗の看板。
「もちもちいも万十」とは、そのままのさつまいもと、あんを小麦粉と餅粉の皮で包み込んで、
さわやかな風味に仕上げた饅頭とのこと。

令和2年7月27日に開庁した「深谷市役所新庁舎」が左手に。



東側にある庁舎のメインエントランス。
「深谷らしさ」の象徴となるレンガの外観で、上部のレンガは「透かし積み」となっていた。
深谷市にあった日本煉瓦製造株式会社の工場で製造されていたレンガを床の一部で使用しており、
中には製造元の証である刻印がされたレンガもあるとのこと。



「透かし積み」。



「中山道」を右折して「深谷駅」に向かって進む。







明治初期から煉瓦の町として知られる深谷のシンボル。
ひときわ目を引く西洋様式の建築物は、深谷の煉瓦を約883万個出荷した東京駅を
参考に2年の歳月と35億円の費用をかけて1996年に改築された。



美しく生まれ変わった深谷駅は、関東の駅百選にも選ばれている名建築。
赤いレンガはクラシカルな明治時代の建物のよう。




深谷駅正面玄関。



「JR東日本 深谷驛」銘板。



JR深谷駅前の青淵(せいえん)広場の「​ からくり時計 ​」👈リンク。
第一国立銀行をイメージした時計台。
7時~23時の定時になると、「ふっかちゃん」の下から、渋沢栄一翁が現れるのだ。



深谷市イメージキャラクター「ふっかちゃん」。
「ふっかちゃん」は、ウサギのようでシカのような「ふっか」という生きもので、地元名産
「深谷ねぎ」のしなやかで豪快な角が特徴。
また、「ふっかちゃん」の体は、深谷の伝統野菜である「白なす」のような形をしていて、
胸には市の花「チューリップ」のボタンを付け、全身で「深谷らしさ」を体現している。
平成22年6月28日に誕生した「ふっかちゃん」は、今や世代や地域を超えて広く愛される、
深谷市自慢のイメージキャラクターであると。



毎時00分になるとOP(オープニング主題歌)が鳴り、下から渋沢栄一が出て来ます。
その後、渋沢栄一が人形を首をかしげながら見つめます。
最後に渋沢栄一が帰って行き「ふっかちゃん」が出てきてからくり終了。



「渋沢栄一からくり時計
渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という
舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。
日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。
論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。
日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの
国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに
贈ったのが「市松人形」である。
このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると
「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。
また、時計はソーラーエネルギーを使っている。
平成24年2月
 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 
 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)」



そしてこれも青淵(せいえん)広場の「青淵澁澤榮一像」。



正面近くから。



深谷駅を見つめる渋沢栄一の姿を後ろから。



「碑文
正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字
血洗島に生まれました。
幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の
命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、
諸事業を策定しました。
明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・
造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成
しました。
一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、
その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。
先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。
先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を
建立しました。
  建立 昭和63年3月吉日   青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会
建立 1996年7月  澁澤栄一座像  田中 昭 作」



そして南口にあるという「ふっかちゃん」石像をネットから。



再び北口に戻って。



深谷駅から北へ約四キロ離れた上敷免(じょうしきめん)という地に日本煉瓦製造の工場が
建設された。会社設立は一八八七(明治20)年。
欧米流の近代建築が増加し、官庁や鉄道などの整備を急いでいた明治政府の意向に沿って
設立の翌年から操業を開始したと。ここで製造されたレンガは、東京駅のほかにも日本銀行、
赤坂離宮、旧警視庁、東京大学など数多くの建造物に使用され、日本の近代化に寄与した。



上空からの写真をネットから。



そして「深谷駅」を後にして、再び車窓から。



深谷嵐山線の深谷中央陸橋から。



「花園IC」から関越自動車道に。



「狭山SA」でトイレタイム。



帰路の車内ではアルコール無しでBINGOゲームを楽しんだ。



車内のモニターにもインストール済み。



私は残念ながら・・・・。



そして関越道➡圏央道➡東名道を走り、往路と同じ「綾瀬スマートIC」で降り一般道へ。



神奈川県道42号線を利用して、藤沢方面に進む。



東名高速を下に見ながら進み、ほぼ予定時刻に帰宅できたのであった。



                              ・・・もどる・・・



                  ・・・END・・・





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Last updated  2022.08.06 00:00:27
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