JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.09.30
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カテゴリ: 茅ヶ崎市歴史散歩
【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次

この日は9月12日(月)、平塚に用事があり向かったが、時間み余裕があったので、茅ヶ崎市内に
ある「松下政経塾」の建物を訪ねた。
今年の6月28日で「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」を完了したとアップしましたが、寺社では
ありませんが未訪問の場所がまだあったので追加アップいたします。

「松下政経塾」 は1979年6月21日に設立され、翌年4月に開塾した。
神奈川県茅ケ崎市の2万平米という広大な土地に、本館・研修棟・寮棟・茶室・
体育館が建っている。松下幸之助塾主の「民主主義発祥の地」のイメージでという
希望に基づき、白亜の壁と茶色の屋根にも象徴されるように、ギリシャ・エーゲ海と
いった地中海風の建物で統一されている。
正門から入り、車を駐車場に駐める。
神奈川県茅ヶ崎市汐見台5-25。



公益財団法人松下幸之助記念志財団 松下政経塾は、松下電器産業の創業者である松下幸之助
が、設立した政治塾である。国会議員・地方首長・地方議員などの政治家を中心に、

ヨーロッパの城壁の如き門。壁面には大きなブロンズの彫刻が。



アーチ門レリーフ「 明日の太陽 」と。ここ松下政経塾のシンボルでもある
「アーチ門」のレリーフのタイトルは「 明日の太陽 」。
左に「力と正義」を表すひまわりを手にする男性像、右に「愛と平和」を表す鳩と女性像、
その下に「困難」を表す雲を配し、この門をくぐる者はどの様な困難があろうとも「真理」に
迫ろうとする構図になっているのだと。



彫刻家・加藤昭男氏の作品。



アーチ門中央のブロンズには「政経」の文字が。



写真を撮っていると、男性ガードマンが来られて、敷地内への入場は事前の申込みが必要と。

アーチ門をくぐると正面に本館が。
卒塾生の43%が政治の道に進んでおり、現職の政治家である卒塾生は2010年8月30日の時点で
衆議院議員31名・参議院議員7名・地方首長10名・地方議員24名の計72名に上るとネットから。



右手奥に研修棟。研修棟は主に塾生の研修を行う施設であり、円卓室、教室、講堂等がある。
第44期生(2023年4月入塾)募集
応募年齢 
 【年齢】 22歳 ~ 38歳(2023年4月1日時点)  ※ 性別・学歴・国籍 不問
研修期間
  原則4年   ※ 2年目終了以降、審査を経たうえで、卒塾の時期を自身で選択できる。



松下幸之助氏像

1989年7月、塾設立より10年後に建立された と。



そして慌ただしく、「松下政経塾」を後にし、次の目的地の「 藤沢土木事務所汐見台庁舎 」に
向かう。
藤沢土木事務所は、鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市及び寒川町を所管エリアとして、道路、河川、
急傾斜地、海岸、港湾、公園等土木施設の維持、改良工事等の土木事業を実施しているほか、
これらの施設にかかる許認可事務等を行っている施設である。
神奈川県茅ヶ崎市汐見台1−7。



日本国旗、神奈川県旗、青のシンボルカラー旗がはためいていた。



駐車場に車を駐め、「藤沢土木事務所汐見台庁舎」内にある「 なぎさギャラリー 」に向かう。



「なぎさギャラリー」は「 藤沢土木事務所汐見台庁舎 の中に常設されている展示施設。
茅ヶ崎に関連する自然科学に関するものを展示している。主な展示物として、
津波の被害について学び考える「TSUNA
MI」のコーナー、昭和初期に茅ヶ崎にあった
別荘「松籟荘」のコーナー、海岸美化について考える ビーチクリーンのコーナーなどがあった。



藤沢土木事務所汐見台庁舎 」入口。



藤沢土木事務所汐見台庁舎 」入口正面。



館内に入ると、「なぎさギャラリー」案内板が。



「なぎさギャラリー」案内板。



こちらは「 藤沢土木事務所汐見台庁舎 」案内。



無人の「 藤沢土木事務所汐見台庁舎 」受付。



正面には様々なパネルが展示?されていた。
ビーチクリーン((公益財団法人)かながわ海岸美化財団) 」のコーナー。



公益財団法人かながわ美化財団は、相模湾の自然海岸等の美化を目的として、海岸清掃や
美化啓発、ボランティア団体の支援、海岸ゴミに関する調査研究などを実施している財団。
海岸に漂着する様々なごみ、台風による被害、ごみはどこから来るのか等の展示を通して
海岸美化について考えていくコーナーであった。



管理している場所の写真。



こちらも同様。



「清掃区域図」。



そして「 TSUNAMI 」コーナーへ。
神奈川県は、津波浸水予測図を公開し、津波災害の啓発に取り組んでいます。
世界共通語の「TSUNAMI」をタイトルとして、TSUNAMI被害の軽減を目指し、津波に備え、
学び、考えるエリアである と。



​「 湘南海岸の津波被害(1) ​関東大震災(1923年)​
​江の島周辺で150人不明​
関東大震災による津波は、湘南海岸で多くの犠牲者を出した。
「鎌倉郡内材木座・由比ヶ浜・長谷・坂ノ下及び腰越・片瀬・江ノ島方面は高さ三丈の海しょう
(津波)襲来し、為めに一家全滅したものも少なからず、おりから、由比ヶ浜海水浴場に来遊せる者
約100名及び江ノ島桟橋を通行中であった者約50名は、何れも行方不明となった」(大正震災志)。
写真上:津波に襲われた稲村ヶ崎と七里ヶ浜
写真下:現在の湘南海岸」。



湘南海岸の津波被害(2) 関東大震災(1923年)
写真(左):流出した江の島桟橋  ➡   現在の江の島
写真(右):津波に襲われた由比ヶ浜 ➡  現在の由比ヶ浜
左(下):地震被害を受けた鎌倉の名所
   <有隣堂発行『神奈川の写真誌』から』> 大仏の台座がずれた。」



国内の津波被害 北海道南西沖地震(1993年)
1993年(平成5年)7月12日午後10時17分12秒、北海道奥尻郡奥尻町北方沖の日本海海
底で発生した。マグニチュードは 7.8 で、日本海側で発生した地震としては最大規模。
地震に近い奥尻島を中心に、火災や津波で大きな被害を出し、死者201名、行方不明者
29名を出した。
写真(上):破壊された家屋
写真(下):破壊したまち
   (写真提供:神奈川県温泉地学研究所)」



海外の津波被害 ​スマトラ沖地震(2004年)​
2004年12月26日、午前8時(インドネシア西部時間:日本時間午前10時)ごろ、スマトラ島沖で
マグニチュード 9 程度の巨大地震が発生。この地震により大規模な津波が発生。
平均で高さ10mに達する津波が数回、インド洋沿岸に押し寄せた。
インドネシアやインド、スリランカ、タイなどで約22万人の死者・行方不明者を出す
大災害となった。
写真(上):津波の爪痕
写真(下):救済支援の様子
   (写真提供:株式会社建設技術研究所)」



阪神・淡路大震災地震土木施設被害 阪神・淡路大震災(1995年)
写真提供:神奈川県温泉地学研究所・神奈川県横須賀土木事務所
図面出典:神奈川県県土整備部地震時行動マニュアル(案)」



阪神・淡路大震災地震被害
写真(上):座屈した高速道路の橋脚 高架橋から転落直前のバス
写真提供:神奈川県温泉地学研究所」



朝日新聞 阪神大震災 1ヶ月特集 戦後最悪の被害 復興めざす街



阪神大震災 惨状 」。



朝日新聞 私は負けない 」。



次も「 TRUNAMI 」コーナー。



巨大なTSUNAMIの写真の上にパネル展示が。



津波の基礎知識
● 津波の発生メカニズム
  津波は、海底で発生する地震に伴う海底地盤の隆起・沈降や海底における地滑りなどにより、
  その周辺の海水が上下に変動することによって引き起こされます。
● 津波のスピード
  津波は海の水深が深いほど、速く進みます。水深2000mでは時速約500km、水深10mでは
  時速約36km。陸上に遡上した津波は人が全速力で走る程の速さともいわれています。
● 高波、高潮と津波の違い   
 ~ 津波のほかに、海岸を襲う大きな波には、高波、高潮などがあります ~
  高波:台風や発達した低気圧の強い風により、海水があおられ海岸に押し寄せるのが高波。
  高潮:台風や発達した低気圧に伴う気圧の降下と暴風のため、海面が異常に上昇し、防波堤を
     乗り越え浸水被害を生じさせるのが高潮。
  津波:強風や気圧の降下などにより発生する高波、高潮とは異なり、海底の地盤が破壊されて
     発生する津波は、高波、高潮とは比べものにならない破壊力があります。」



津波に関する統一標識
● 津波注意
  図記号の意味:地震が起きた場合、津波が来襲する危険のある地域を示します。
  図記号の目的:当該地域が津波による被害を被る危険がある地域であることを認識させ、
         地震発生時には直ちに当該地域から内陸部、高台に避難させます。
● 津波避難場所
  図記号の意味:津波に対して安全な避難場所・高台を示します。
  図記号の目的:津波からの避難先となる安全な場所や高台を示すとともに、地震発生時には、
  そうした避難場所へ向かわせるものです。
● 津波避難ビル
  図記号の意味:津波に対して安全な避難ビルを示します。
  図記号の目的:津波からの避難に際し、近くに高台がない場合、津波からの避難が可能な
         鉄筋コンクリート造3階建のビルを示すとともに、地震発生時には避難ビルへ
         向かわせるものです。」



「神 奈川県津波浸水予想図の見方(1)
● 津波浸水予想図とは
  津波浸水予想図とは、対象とする地震による津波が陸上に遡上した場合を予想し、浸水する
  陸域の範囲、浸水深さ等を示した図です。
  浸水予測図の作成範囲は、静岡県境~横須賀港海岸野比地区沿岸域です。
● 図の見方
  浸水深:津波による浸水が発生する際に、陸上のある地点で水面が最も高い位置にきたときの、
  地面から水面までの高さです」



神奈川県津波浸水予想図の見方(2)
  浸水深と危険度   2mの津波で木造家屋は全壊
  津波は、高波や高潮とは比べものにならない破壊力があります。
  浸水深が膝ぐらいまでになると、自由が奪われ歩く速さが遅くなり、避難に影響が出ます。
  日本海中部地震(1983年)では、約70cmの深さでも死者が出ており、浸水深が小さい
  場合でも十分な注意が必要です。また、2mの津波で木造家屋は全壊します。」



「茅ヶ崎市津波ハザードマップ」



そしてこちらが「 松籟荘(しょうらいそう) 」。
旧・原安三郎氏別荘の部分復元。監修は吉田鋼一(横浜国立大学助教授)と。
松籟とは、松の間を吹き抜ける風を意味しているのだ と。



湘南と別荘
1887(明治20)年、東海道線横浜ー国府津が開通しました。湘南は京浜の保養地として脚光を浴び、
海水浴場として人気が高まっていた大磯には、山縣有朋、伊藤博文など政界人、三井・三菱など
財界人がこぞって別荘を建てました。大磯、平塚、藤沢に続き茅ヶ崎、辻堂などにも駅ができると、
湘南全域で別荘が増えました。恵まれた温暖な気候、海水浴場、湘南遊歩道などとともに、別荘は
湘南のイメージを形作ってきたものです。
写真・図:松籟荘(しょうらいそう)北立面図」



回り込むと「玄関先の復元」。
「松籟荘は1919(大正8)年、実業家原安三郎氏が、新派俳優川上音二郎邸の敷地を購入し、
母親の保養のために建設されたのが最初です。後に関東大震災で倒れたため、石井義弘氏設計に
より、1931(昭和6)年再建されました。建築主と建築家の思い入れがこもった湘南らしい別荘と
いうことができます。別荘は取り壊され、敷地は現在茅ケ崎市高砂緑地として市民に親しまれて
います。別荘の一部を 85%に縮小し、特徴的な部分を集め復元しました。」と。



松籟荘 」内に入る。



湘南の文化と歴史 」。


「田山花袋・小栗風葉・沼波瓊音・小杉未醒著
東海道線旅行圖會  1907(明治40)年 修文館刊」
挿絵と簡明な文章による鉄道旅行の楽しさを説くユニークな旅行案内。」
明治 22 年(1889)に東海道線の新橋-神戸間が全通し、草津にも鉄道が通ることとなりました。
やがて国内の鉄道網が整備されていくと、人々の旅行手段は徒歩から鉄道へと変化 します。
本書はそのはしがきに「鉄道による旅は早くて便利ではあるが、歩き旅の風情には劣る ため、
鉄道沿いの両側の視界車窓の展望、山水、田圃、市街村落、名所古跡、其他公私の 建築物より
風俗習慣の異に至るまで、 悉(ことごと)く絵画をもって実写したものである。」という趣旨が
記されていたように、全体で200 ページにおよぶ内容は紀行文と沿線風景を連続的に描いた絵で
埋め尽くされた一冊である。



こちらは「 国木田独歩 著  真山青果編
病牀録  1908(明治41)年  新潮社刊
入院中の独歩を真山青果が毎日のように訪ねて口述をまとめたもの」



戦後の新人たち 」。



戦後の新人たち
・・・・・・」



「暖炉」と絵画。



萬 鐵五郎作 水着姿 複製 」。



萬 鐵五郎        1926(大正15)年 油彩
水着姿 複製     岩手県立博物館所蔵
萬 鐵五郎は、1885(明治18)年、岩手県に生まれました。1912(明治45)年東京美術学校
西洋画科を卒業、新進の画家として活躍しましたが、1919(大正8)年療養のため茅ヶ崎市南湖に
移り住みました。「水着姿」は1926(大正15)年夏に制作され、翌1927(昭和2)年の
第5回春陽会展に出品されました。」



香朝楼 筆 禱龍館繁榮之図 」。



香朝楼 筆   1891(明治24)年 錦絵(三枚組)
禱龍館繁榮之図 」複製
     大磯町郷土資料館所蔵
1885(明治18)年、軍医総監であった松本順は大磯に湘南初の海水浴場を開きました。
海水浴場宣伝のため、大勢の歌舞伎役者を大磯に呼び海水浴をさせ、これを錦絵にして
配布しました。
旅館禱龍館(とうりゅうかん)は、1887(明治20)年にできた客室が50以上もある大型の旅館で、
海水浴客、保養客に利用され繁盛していました。」



写真「 国木田独歩を南湖院に見舞う人々 」。



国木田独歩を南湖院に見舞う人々 】の氏名が補足されていた。



「ギャラリー来館者の方から、この写真の中の誰がどの位置にいるのかよくわからないとのご指摘
がありましたので、このような形でわかるようにして見ました。
11.3.25   湘南なぎさ事務所」と。



「【 国木田独歩を南湖院に見舞う人々 】 1908(明治41)年
明治自然主義文学の一人として著名な国木田独歩は、1908(明治11)年南湖院に入院した。
多くの友人が、彼を励まそうと南湖院に見舞った。
前列左から、正宗白鳥、中村星湖、小栗風葉、相馬柳風、
中列左から、前田晃、国木田独歩、田山花袋、
後列左から、小杉末醍、岩野泡鳴、真山青果、吉江喬松」



ここにも写真が。



大磯、自宅での島崎藤村夫妻 」。



大磯、自宅での島崎藤村夫妻    1943(昭和18)年
明治自然主義文学の先駆者島崎藤村は、編集「若菜集」でロマン主義的詩風を示し、
小説「破戒」で作家の地位を確立した。
晩年大磯に家を構え「東方の門」を執筆中に倒れ、急逝した。」



旅館東屋に集う白樺派の人々 」。



旅館東屋に集う白樺派の人々  1911(明治44)年



ステンドグラス風の装飾の明かり窓を外から。



屋内から。天上の照明も過美な装飾ではなく。



ステンドグラス風の装飾の明かり窓をズームして。



JR茅ヶ崎駅から南へ約200メートルの場所に「​ 高砂緑地(たかさごりょくち) ​」👈リンクがあり、
この場所は大正時代からは実業家・原安三郎の別荘「 松籟荘 」があった場所で、園内に残る
日本庭園は「 松籟荘 」(旧原別荘)の時代に作庭された近代の日本庭園なのであった。
茅ヶ崎市は、何故この高砂緑地に 茶室・書院だけではなく住居 松籟荘 」を復元しなかった
のであろうか?

                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2024.08.28 07:55:23
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