JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.01.17
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カテゴリ: 国内旅行
更に「沼田公園」内の紅葉を追う。



散紅葉 」は美しい大地に変身。



逆光を浴びながら黄色くそして赤く輝くモミジ葉。



青空に映えて。















利根英霊殿 」。



英霊殿の石段前に鎮座する狛犬が迎えてくれた。
利根英霊殿は、昭和9年の創建なので、狛犬も昭和9年の産まれであろうか。



利根英霊殿 」碑。



この英霊殿には、利根沼田地区の日清、日露戦争の戦没者が祀られているとのこと。
この場所は、かつて沼田城の「 天守閣 」があった場所と推定されているのだ と。



沼田城天守 」案内板。



上野国沼田城絵図(部分) 」。



上野国沼田城絵図(部分)
この絵図は、江戸幕府3代将軍家光が正保年間(1644~1647)に、全国の大名に城の防備体制を
絵図に描かせて提出させた、いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政の時代の沼田城と
城下町の様子が分かる非常に貴重な資料です。原図は国立公文書館内閣文庫に所蔵され、大きさは
1 .76m×2.34mもあります。
絵図には、城を中心として石垣の高さ、堀や土塁の規模、堀中の流水の有無や城下町の道程等
兵法上の秘密となるべき事柄が克明に記されています。真田氏が改易になる天和元年(1681)まで
存在していた天守や櫓及び城門等の形態を知ることができます。
沼田城天守
沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)が慶長年間(1596 ~1614)に建造したと
伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間x10間(推定18m四方)の5層であったとされて
います。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、
天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、
最上階には高欄が巡っていた様子が分かります。関東における5層の天守は江戸城以外は沼田城だけ
であったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、関東において
沼田城は特別な城であったと考えられます。
この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、幕府によって全て
破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。
沼田城の別称(倉内城、鞍内(くらうち)城、霞(かすみ)城)」。




NHK大河ドラマ「真田丸」が放送された際に、英霊殿の近くに設置された石像。
沼田城主だった「 眞田信之 小松姫 」。



近づいて。



更に。



「真田信之と小松姫
真田の惣領である信之は父の昌幸 弟の信繁(幸村)に勝るとも劣らぬ武将であった

信之に嫁がせた
沼田城の初代城主である信之とその妻小松姫はたいへん仲の良い夫婦であったと伝えられている
小松姫は信之の留守中には城を守り また九度山へ流された昌幸と信繁の生活を支えたとも
言われている
小松姫が体調を崩し草津温泉に療養に向かう途中武蔵国の鴻巣で亡くなると信之は「我が家から
光が消えた」と大いに落胆したという
平成二十七年十二月吉日
沼田市観光協会 建立」



戦国無双 」の「 真田信之 」と「 小松姫(稲姫) 」とその先に「 旧沼田町役場復元鐘楼 」を見る。



沼田の歴史物語
沼田城の金箔瓦
昭和60年に行われた公園内の改修工事の際、多暈の瓦が出土した。これらの中から金箔が塗られた
瓦が発見された。
金箔瓦は、豊臣秀吉が築いた大坂で多用されたが、豊臣一門やそれに準じる大名の居城、また秀吉
子飼いの大名の居城でも出土している。沼田城周辺では、上田城、小諸城、松本城からも発見されて
いる。
沼田市観光協会」



再び紅葉を追う。





「帰國記念植樹」碑



朝鮮民主主義共和国民が帰国に際し沼田公園のために
染井吉野 九拾株
八重桜   拾株
つつじ   四株
 計   百四株
植樹した記念に建てられたもの。
碑面に
「一九六〇年三月(昭和三十五年)朝鮮日本友好親善萬歳
帰国記念植樹
朝鮮民主主義共和国帰国者一同 在日朝鮮人総連合会沼田支部」とある。



その先にあったのが「 国指定 重要文化財 旧生方家住宅 」。



国指定重要文化財 ​ 旧生方家住宅 👈リンク
指定年月日 昭和四十五年六月十七日
所在地   沼田市西倉内町五九四番地沼田公園内👈
構造形式  桁行一八・九四〇m、梁間一一・三六四m
切妻造、妻入、板葺石置屋根
生方家は沼田藩の薬種御用達を勤めた商家で、沼田市上之町一九九番地に所在し城下町の本格的
町家として東日本における稀にみる古い遺構であることから国の重要文化財に指定された。
建物の年代は専門家の意見によれば構造手法からみておよそ十七世紀未期頃に建てられたものと
思われる。その後、元治、明治、大正、昭和と数次にわたり改修を受けながら使用されてきた。
沼田市はこの建物を譲り受け沼田公園内に移築保存することとなり、昭和四十八年六月、国・県の
補助を受け復元工事を完了した。
建物は間口六間、奥行十間、南面に上庇、東面に下屋を設ける。
切妻造り、妻入りで屋根は板葺石置である。
平面は主屋南面に「上みせ」「下みせ」「通り庭」を配し東側の「上みせ」奥に四室をならべ、
家のほば中央には二十畳の広い板の間を設け西の通り庭から北面にかけて上間を設けている。
これは町家としての典型的な間取りであり、各部屋の境に壁が多く、柱の密度も高いがこれが
古い建物の特色である。小屋組は貫を成りちがいに通した和小屋で、仕上げは大部分手斧はつりで
古式を残している。
平成二十二年三月
沼田市教育委員会」



国指定 重要文化財 旧生方家住宅 」。



生方誠(うぶかたせい)について
旧生方家住宅の前所有者である生方誠は、明治27年に沼田町で薬種商「かどふぢ」を営む
生方弥右衛門の長男として生まれ、薬学を学んだのちカリフォルニア大学へ留学しました。
帰国後は第26代当主として家業を継ぎ、太平洋戦争後は公選による初の沼田町長や初代国家
公安委員などの要職につきました。
誠は政治家などの顔を持つ反面、洋書、演劇そして人形劇に親しみ、絵の腕前も確かな芸術家で
あるなどの文化人であるという一面もあります。
市内に残る文化財建造物
沼田市上之町には、文化財建造物が集められています。ここには、群馬県指定重要文化財である
旧沼田貯蓄銀行(明治41年頃建築)、国の登録有形文化財である旧土岐家住宅洋館(大正13年建築)、
旧日本基督教団沼田教会紀念会堂(大正3年建築)があり、戦後の女流歌人の第一人者で生方誠の妻・
たっゑについて紹介している生方記念文庫も併設されています。
旧生方家住宅について
旧生方家住宅
です。17世紀末頃に建簔と推定される
切妻造、妻入り、板葺石置屋根の建物で、規模は桁行18.9m、梁間11.4mです。17世紀末頃に
建築と推定される、江戸時代の町家づくりの商家で、東日本の町家としてきわめて古い部類に
あたります。
生方家は、沼田藩の薬種御用達<薬屋>を務めた商家で、屋号は「ふぢや」といいます。通りの
角にあったので、いつの頃から「かどふぢ」と呼ばれるようになりました。元は沼田市上之町に
ありましたが、沼田市が生方家から寄贈を受け、現在地(沼田市西倉内町 沼田公園内)に移築
しました。
なお、切妻造とは、本を開いて伏せたような形の屋根のことです。
また、棟(大棟)と平行な面を平(ひら)、棟(大棟)と直角な面を妻(つま)といいます。
平入は平に入口、妻入は妻に入口があります。



切妻造、妻入り、板葺石置屋根の建物 」の内部案内。



しかし、残念がらこの日・水曜日は「 休館日 」であった。
「旧生方家住宅・生方記念資料館
開館時間  午前9時~午後4時
       (入館は午後3時30分まで)
体館日    水曜日 、祝日の翌日、年未年始
観覧料   個人                 110円
(1人当たり)  団体(20人以上)             60円
                  中学生以下           無料
                  障がい者手帳等お持ちの方と
      付添いの方1人          無料
周遊券   (生方記念文庫沼田市歴史資料館等)  330円」


旧生方家住宅 」。



ズームして。



券売・受付所。



旧生方家住宅 」パンフレットから。
「生方記念資料館は、「旧生方家住宅」の元所有者であった生方誠氏(1894~1978 )が生前
収集した資料を展示するため、たっゑ夫人(歌人で沼田市名誉市民・1904 ~ 2000 )が資料と
資料館建設費用を沼田市へ寄贈したことにより建設されました。
当資料館では、寄贈された資料の中から書画や出土資料等を広く公開しています。
なお、常設展示では、生方誠氏の生い立ちや文化人の側面を持つ誠氏の作品等を紹介しています。」



生方家
生方家は、沼田藩の薬種御用達を務めた商家でした。始祖は、沼田近在の屋形原出身で、
永禄・天正の頃は生方兵部之介と名乗る武士であったといわれていますが、沼田に定住し
薬種商を営むようになった時期は明らかではありません。
屋号は「ふぢや」ですが、上之町の角地にあったので「かどふぢ」と呼ばれるようになりました。
移築前
旧生方家住宅は、妻入・板葺の町家で、その様式・技法から見て十七世紀末頃に建築されたものと
考えられますが、元治元年(1864年)の大修理をはじめとして幾回かの改築・増築を経て現代に
いたりました。東日本では最も古い町家造りの建築物であることから昭和45年6月17日付けで
国の重要文化財に指定されました。しかし、沼田市の繁華街の中心(上之町199番地)に在ったため
保存に困難をきたし、生方家もこの住宅をこのままの状態で維持管理することが至難であるとの
理由から沼田市が譲り受け保存することになりました。そして、文化庁の指導のもとに沼田公園内
に移築する計画が進められ、昭和47年2月1日に移築工事に着手し、解体時の調査により、建物の
過去の状況が判明しましたので、できる限り初期の建築形態の復原につとめ、昭和48年6月30日
本屋の移築工事が完成しました。その後各種の附帯工事が終了し、昭和49年4月1日に一般公開を
開始しました。」



再びモミジ葉の赤・朱の輝きを追う。





案内板が2基が紅葉の下に。





沼田城跡本丸発掘調査
沼田城ニノ丸(野球場)から本丸(現在の花壇)の間に設けられた堀は、幕府に提出した絵図
(正保城絵図)によると、本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で最も規模が大きな堀でした。
絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と記されています。
奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の石垣の一部と考え
られています。
平成9年に、この植え込みの中を発掘調査したところ、池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に
崩された石や多くの瓦が出土しました。おそらく地中にはさらに北側数十mに渡り石垣の下部が
現存し、城が破却された際に埋め立てられたおびただしい瓦や石が埋没していると考えられます。
出土した軒丸瓦は三巴紋で、その周囲を巡る珠点は16個を数え、信州の上田城出土瓦などとの
類似性が認められています。
1間= 6尺5寸=約2 m  軒丸瓦(径16cm)」



沼田城跡本丸堀発掘調査
平成27年8月から9月にかけて沼田公園長期整備
構想に基づく発掘調査を行いました(図1)。
調査箇所は正保城絵図に当てはめてみますと、大門の付近となります。なお、正保城絵図は
4代真田信政の時代に幕府から提出を求められたもので、1644年頃に提出したと
考えられています。」



石垣と裏込めの断面解説図
調査の結果、石垣は堀底から約1m50cmの高さまで残存し、約3mの高さまで裏込めを
確認しました。また正保城絵図に記された石垣の高さは3間(約6m)ということを考慮しますと
石垣は1/4ほどが残存し、そこから上は破壊されたと考えられます(図2 )。
今回の調査では瓦が大量に出土しました(写真1)。これらは塀に葺かれていたものと思われ、
城破却時に投げ捨てられたと考えられます。調査箇所に該当する部分の正保城絵図には堀、石垣
そして塀が描かれています(図3)。この他、調査により本丸堀の深さが何段階か変遷している
様子がうかがえました。」



「丸池」越しに「生方記念資料館」(右手)を望む。



沼田の歴史物語
小松姫(稲姫)其之弐
関ヶ原の戦いの際、西軍についた昌幸・幸村が「孫の顔が見たい」と小松姫が留守を守る沼田城に
立ち寄ったが、小松姫は緋緘の鎧に身を固め、「敵味方となった以上、義父といえども城に入れる
わけにはいかない」と昌幸の申し出を断った。あきらめて昌幸が正覚寺で休息をしていると、
小松姫は子供たちを連れて現れ、昌幸の所望をかなえた。
これにはさすがの昌幸、幸村父子も感心したといわれている。
沼田市観光協会」



更に進むと、前方にも石碑が見えた。



「壽樂園」と。



「壽樂園」碑。
「壽樂園」とはこの公園の昔の名前らしい。
「壽樂園碑記  篆額泰山磨崖碑金剛般若經集字
沼田在徳川氏之世為土岐候封邑其地當毛越之襟喉東南望赤城山蘶然聳雲表東北
則武尊山突兀摩空子持在前三峰在右清水三國諸嶺蜿蜒横北方而刀根之水洋々貫
流其間形勝之雄城郭之壮図志可以徴焉明治中興撤藩而縣沼田城遂廢既而邑人請
官購之墾爲桑田闢為菜圃過者不復省其為城址工學博士久米君家世仕土岐侯少小
出郷成名東京從土木之業者數十年嘗回郷升故城墟崇墉毀而濬濠填殘基遺礎鞠為
茂草於是低回顧望不能去悵然歎曰噫吾負郷土久矣不図滄桑之變至此也吾将設公
園于此以傳城之遺蹟且使郷人遊焉息焉得抒懐舊安土之情庶幾足以自慰歟乃投私
財盡買収其地脩治經營築而邱鑿而池運石疏泉植以花木苔徑屈曲窈然而深登髙一
望毛越山河歴々在指顧之中園成名之壽樂而邑人輙呼曰久米公園頃沼田町謀建碑
園中介入請予記予謂世之富貴而忘故郷者何限而博士則望雲繾綣懐之不已志在報
本謀而忠慮而遠為捐巨貲而無所顧惜名園之樂與郷黨偕不敢私諸己其心也公其事
也義使人觀感之際油然生利濟之念是安得不記以傳乎哉博士名民之助號空々軒又
東山居士嚮選衆議院議員者四素有聲望土之候選者見其起皆止然博士深醜竸進終
絶意政界晩經營金剛山鐵道誕延朝鮮竒勝于世因有金剛道人之號
  昭和四巳己年十月
              早稻田大學教授天行松平康國撰
              七十三翁翠堂松木 亮書
              東亰青山  石勝鐫」



生方たつゑの歌
冬やまの 痩せたる 襞に おきわたす 根雪の光り きびしこの国 たつゑ
「早い年は11月のはじめに降雪がおそってくる山国でした。雪を刷いたように置きわたす
初めての雪が、いつ消えることもないまま根雪になり、またそのうえに新雪が重なります。
冬山は落葉樹が葉を落としたあとは、骨をむき出したような削ぎ立った山容を見せますから、
雪はそのきびしい形を一層きわだって押し出した風景をつくります。
どこを見ても山に囲まれたきびしい谷あいの町の沼田に、私は住みつかねばならなくなりました
とき、覚悟はしていましたけれど、この閉じられたために一層きびしい山相にむかいながら、
いくたび自然のきびしい鞭を嘆いたことでしょう。自然というより、自然以上にし峻烈な人生を
思っていたのです。そこには逃避がありませんでしたから。」
生方たつゑ『私の歌自注百首』より と。



ここにも一面に「散り紅葉」が。



そして上を見上げると。



四阿(あずまや) 」も紅葉に囲まれて。



「四阿」の「阿」は棟の意味で、四方に軒を下ろした寄棟、宝形造などの屋根を持つ建造物を
意味する。 唐風に「亭」(ちん)とも呼ばれる。



本丸堀石垣 」。



別の場所から。



さらに移動して。
二の丸と本丸の間に設けられた堀の跡。側面に少しだけみえる石垣は真田氏の頃のものと。



そして「観光案内所」前の道路脇の広場の横の紅葉。



「観光案内所」前の道路脇の広場のこの穴は発掘跡?それともゴミ捨て場?



銀杏の下に大きな石碑。



「沼田城ハ天文元年沼田顕泰ガ築キ、初メ蔵内城ト称ス。沼田氏ノ祖ハ三浦氏也。宝治ノ乱ニ
一人遁レテ重縁ノ大友氏ノ領地沼田ヘ来タリ景泰ト称シ、以来十二代、荘田、小沢、幕岩ノ
三域ヲ経テ此ニ至ル。顕泰城ヲ子朝憲ニ譲リ末子景義ト川場ヘ移リ、永禄十二年朝憲ヲ謀殺シ
会津ヘ逃亡ス。沼田ハ上杉、北条ニ代リ天正八年真田昌幸入城ノ翌年景義ハ城奪還の塀ヲ
寄セ伯父金子ニ殺され沼田氏滅ブ。翌十年武田、織田滅ビ真田再ビ沼田ヲ領ス。北条ハ五回
延ベ十三万ノ軍デ攻メテ敗レ、秀吉ニ乞イ城ヲ得、更ニ名胡桃城ヲ侵掠ス。秀吉怒リ同十八年
北条ヲ討チ、沼田領三百石ヲ昌幸ノ嫡子信幸ニ与ウ。信幸ハ夫人小松姫ガ家康ノ曽孫故、関ケ原
役ニ秀忠ニ従イ土田城ノ父ト弟幸村ト戦イ、戦後信幸ハ上田領六万石加増サレ、慶長十二年
五層ノ沼田城天守閣ヲ建テ、嫡子信義ニ城ヲ譲リ、松代十万石ニ移封サル。信義ハ城鐘ヲ遺シ、
三代熊之助ハ早世、四代信政松代ヲ継ギ、信吉ノ末子伊賀守信直五代を嗣グ。信幸以来
九十一年間治水開拓シ善政ヲ施ス。然ルニ天和元年十一月幕府ハ伊賀守ノ失政ヲ責メテ改易シ
城郭一切ヲ破却領地ヲ測量シ六万五千石ノ内二万石ヲ沼田領トシ、本多氏ヲ封ジ館ヲ新築。
黒田氏ヲ経テ寛保ニ年土岐賴稔入封シ、飛地領共三万五千石藩主トシテ十二代百二十七年間
ニシテ版籍ヲ奉還ス。
沼田市文化財調査委員 岸 大洞 撰文
沼田市長 堀江文夫 謹書」



「沼田城址」碑。



久米先生遺徳顕彰碑 」。



近づいて。



「久米先生名は民之助 沼田藩士久米権十郎の長男として文久元年八月沼田に生る 幼にして
両親を喪う 十五歳の春志を抱いて上京工部大学に学び卒業後教官となり宮内省御用掛を拝命
皇居二重橋の造営にあたる
つとに先生は将来日本の発展は土木建築にありと洞察 官を辞し欧米を視察 帰りて建設業を始め
専ら鉄道新設工事にあたり その業蹟は東北より台湾におよぶ
日清日露の戦後 日本の進路は東洋開拓にありと台湾に製氷会社満洲に煙草公司 マレイにゴムの
各事業を興し 金剛山電気鉄道による朝鮮の開発に精魂を傾く
明治三十一年衆議院議員となり四回当選 其の間特に上越線敷設の重要性を力説す
大正八年工学博士となり 業界に重きをなす 他面仏教に帰依し孝慈の徳を積み 能楽に通じ書を
能くし多趣多芸の人たり
此処は風光天下に鳴る沼田城址この公園こそ先生が郷土のために財を投じ 造園寄附されたるもの
築丘植樹配石 工成らんとする 昭和六年五月逝去 時に七十一歳 一木一石今も先生の御魂が
宿るを覚ゆ 仰いで高恩に謝し 俯して 愛護を祈るや切なり
茲に明治百年を記念し市民及び有志の協力を得て之を建つ
 昭和四十三年十一月三日
  久米民之助先生遺徳顕彰会」



最後にこれでもかと「沼田公園」に輝く紅葉を追う。










                               ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.01.17 08:56:25
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