JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.01.16
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カテゴリ: 国内旅行
更に進むとあったのが 「沼田の歌」歌碑
「沼田の歌」は、昭和3 1年(1956)、NHKラジオで「ふるさとの町沼田市を訪れて」という
放送のため作詞西沢爽(そう)、作曲平井康三郎によってつくられレコード化もされた。
作詞者の西沢爽から、著作権が沼田市に寄贈されたことを記念し、歌詞のゆかりの地てある
沼田公園に歌碑が昭和56年(1981) 3月に建立された とのこと。



「​ 沼田の歌 👈 リンク
     西沢爽
1. 春の日を   惜しむ鐘の音 
  暮れ残る    お城の桜 
  わが町を    うるわしと幾たび思う 

  山下に       駅の灯ともる

2. 幼き日       母にすがりて 
  おびえたる 迦葉の天狗 
  うれしきは 秋雨のそぼ降る夜に 
  まどろみつ 滝坂越えし 
  父の背の    ほのかなぬくみ 

3. 兄いもと    はぐれて泣きし 
  なつかしの 祇園の祭り 
  いまもなお 山つつじ桑の実りんご 
  山脈の       夕やけ雲と 
  想い出に    変わらぬ紅さ 


  ゆたかにも 流れはめぐり 
  わが町は    われ生みし父母の町 
  母こそは    尾瀬沼の花 
  父こそは    谷川の雪 」



北西方向の「 沼田八景 公園の展望



親切にも「展望案内板」が。



これは有り難いのであった!!



正面に「子持山」その下に「国道17号」、「沼田駅」も確認できた。



旧沼田町役場復元鐘楼 」を見上げる。



鐘楼
真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取りこわされた。
明治二十年ごろ沼田町役場(藩役所跡 現市役所)東北隅に楼を建て柳町歓楽院の梵鐘を借りて
時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。
以来鐘楼は鐘橦堂と呼ばれ、戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は、永く市民に親しまれて
きた。昭和三十九年市役所庁舎建設に際し撤去されたが、市民の熱望により城の本丸跡のここに
移して復元新築された。
昭和五十八年三月  沼田市教育委員会
県指定重要文化財城鐘は、テラス沼田2階の歴史資料館で展示しています。
テラス沼田(沼田市下之町888番地)
群馬県指定文化財 城鐘 総高 一一四センチメートル 口径 六七・五センチメートル」
以下 略。



最上部に城鐘(複製)が垣間見えた。



ズームして。



本物をネットから。
この鐘は、寛永11年(1634) 、に真田氏2代沼田藩主信吉が鋳造させ、沼田城三の丸の楼に
かけて時報に用いたものです。
総高114 cm、厚さ5cm、口径67.6cm、全体の型として古式を残し江戸時代初期の代表的な
ものであり、「この瞳の音は領内領民を安らかにし、領主の長久を祈るもの・・・」という
意味文が刻まれています。
天和元年(1681)に真田氏か改易となったため平等寺の梵鐘になっていたが、その後明治31年頃に
旧沼田町役場敷地内に建てられた鐘楼に移され、昭和39(1964)に市庁舎改築で鐘楼が
取り壊されるまて市民に時鐘として親しまれていました。
昭拓58年(1983)、沼田公園内に復元された「鐘楼」に吊され時を告けていましたが、老朽化の
ため現住は沼田市歴史資料館(常設展示室内)に展示されています。
重要文化財(工芸品) 昭和29年3月30日指定
所在地:沼田市下之町888 テラス沼田2階 沼田市歴史資料館(常設展示室内)
見学:沼田市歴史資料館の開催中は常時見学可



城鐘(複製)がよく見える場所に移動して。



更に正面からズーム。



「案内板」が並ぶ。



「​ 沼田城関係年表 」👈リンク。



「真田氏時代、沼田蔵内城の絵 北村明道 作」。
下の絵は、真田氏時代、沼田蔵内城の絵。絵の一番上、中央に5層の沼田城を見ることが
出来ます。またその下にニの丸、三の丸が、さらに石垣や堀、土塁をみることができます。


5層の「天守閣」をズームして。



沼田公園内の観光案内所に展示されていた沼田城天守の模型。



沼田城 西櫓台跡石垣 」手前の広場から「 御殿桜 」を見る。



沼田城御殿桜 」案内板。



沼田城御殿桜(樹齢推定 400余年)
沼田城の天守閣が、5層の雄姿を誇っていたところに植えられ、今に残っている沼田城形見の
名木である。
沼田城は初め蔵内城と称した。沼田氏12代の沼田万鬼斎顕泰が、3ヶ年かかって天文元年(1532年)
4月完成させ、柳町の幕岩城から引移った。
顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義を城主に
せんと企て、永禄12年(1569犖)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年間にて亡びた。
以来沼田城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼、織田信長、真田昌幸、北条氏直の支配時代を経て、
天正18年(1590年)真田信幸が城主となった。信幸の夫人は徳川家康の曽孫=養女=小松姫である。
信幸は関ヶ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年(1604年)
この御殿桜の処に3階建ての隅櫓(水の手曲輪門)を築造。ついで慶長12年(1607年)今の
利根英霊殿の処に5層の天守閣を築造(間口10間奥行9間)本丸の外郭に土塀を築くなど、名城を完成
させた。
それから77年の天和元年(1681年)11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を没収され、城郭は
跡形なく取壊された。
名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしつかり抱き、春ごとに
寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。
(岸 大洞 文撰)」



ライトアップされた「御殿桜」をネットから。


   【http://photograph.pro/wallpaper/10041636_FHD.html】より

沼田城跡西櫓台の石垣・石段
天文元年(1532)頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの
有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18年(1590)の北条氏
滅亡以降は正式に真田氏の所行する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の
大改修を手がけ、慶長年間(1591~1614)には五層の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して
近世城郭として整備を行った。しかし、天和元年(1681)に真田氏が改易になると城は壊された。
その後、本多・黒田・上岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興は
なされなかった。
発掘調査により発見されたこの石垣や石段は、西櫓台(前方の小高い部分)に件うものであり、出土
した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形も
なく破却されたと云われていたが、壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て
再び往時の姿を現わしたのである。
発掘部分石垣石段(全長27.5m 石垣の高さ0.8 ~2.0m 石段の幅2.4m)
                              沼田市・沼田市教育委員会」



沼田城跡西櫓台の石垣 」を見る。



手前には空堀が。



「沼田城跡西櫓台の石垣」案内板。



「沼田城跡西櫓台の石垣」の西側を見る。



手前に「石段」。



「成田山 沼田 五大尊講」碑。



土岐沼田藩の初代藩主、
土岐頼稔 が城内に不動院という寺を建てたが、維新変革により
廃寺となったことから、沼田五大尊講として祀られた等々のいきさつが、台座に刻まれて
いた。

「御肖像傅八十八周年記念
傅曰ク御不動尊ノ肖像ハ旧沼田城主土岐頼稔候京都◯◯大内ヨリ賜フ所ナリト案ズルニ候ハ寛保
二年京都所司代ヨリ東都ニ入テ客老トナリ臣三浦外記景充ヲシテ新采邑沼田ニ至リ城代タラシメ
後城中ニ不動院ナル一寺ヲ建テ之ヲ尊傅セシカ維新変革ニ遇フテ廃寺トナリ其レヨリ沼田五大
尊講中ニ於テ之ヲ尊傅致シ今日ニ至ル
                                昭和二十八年十月建之」。



後に訪ねた「天狗堂」方向を見る。



前方に石碑が見えたので訪ねた。



村上鬼城句碑



越後路へ をれまがる道や 秋の風  鬼城
この句碑は、昭和4年(1929)に建てられたもの。
村上鬼城は、慶應元年(1865)鳥取藩士の息子として江戸に生まれ、その後高崎に移り住み、
高崎裁判所の司法代書人をしながら、正岡子規に俳句の教えを請い、「ホトトギス」に俳句の
投稿をおこなっていた と。


平八石 」。



「平八石の由来」案内板。



平八石の由来
沼田平八郎景義の首級を載せた石。平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰の側室の
子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村
天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12年(1569年)正月、
朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津逃げた。
平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。真田昌幸は戦っては平八郎に勝て
ないと知り城中に居た金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は、己が栄進したいため平八郎に
会い武装を解き、こっそり城内に入れて「お前が必す城主になれるようにしてやる。」と偽り、
城内へ誘い入れて殺害した。風雲児の最後また哀れだった。
時に天正9年(1581年) 3月14日(ー説は15日) 42歳。平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の
上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を
埋めたところまで飛んで行ったという。
                                    (岸大洞 文撰)」


「谷川岳」方面の山々を見る。



ここにも山々の「案内パネル」・「沼田八景 雪の上越連峯」が置かれていた。



雪に覆われた「谷川岳」方向をズームして。



「大峰山」(左)と「吾妻耶山」(右)。



戸神山(右)と高王山の砦(左)。



「戸神山」の後方に、雪化粧の日本百名山 「上州武尊山(じょうしゅうほたかさん)」。
名前の由来は日本武尊の東征の故事によるものといわれ、古くより地域住民による山岳信仰が
篤く、修験者が入峰する山あったと。



「案内パネル」。



「三峰山」。



「案内パネル」。



「三国山」とこの日に訪ねた「名胡桃城」方向を見る。
右奥には「上越新幹線」の高架橋、そしてその手前には利根川に架かる
国道17号の「月夜野大橋」。



「案内パネル」。



そして次に訪ねたのが「捨曲輪跡」の奥に建つ「天狗堂」。



扁額「天狗堂」。



横壁には「案内板」が。



「天狗面の由来
このお堂にある天狗面は、昭和34年11月に迦葉山の大天狗面の分身として沼田市観光協会が
製作した。顔の長さ3メートル、顔の幅2メートル、鼻の高さ1.4メートル、重さ1トンで木彫りの
天狗面としては日本一の大きさを誇る(彫刻者:吉沢俊三郎氏)。同年、市内の祭りに初めて
天狗踊りの行列が登場し、全国でも稀な行事として賑わいを見せた。
天狗面は迦葉山弥勒寺の鎮守である中峰尊者の化身だといわれる。
弥勒寺は嘉祥元年(848年)に創建され、康正2年(1456年)に天巽慶順(てんそんけいじゅん)禅師に
よって曹洞宗に改宗した。禅師に随行した弟子の中峰尊者は数十年間に渡り布教と伽藍の造営に
尽くした。禅師が大盛禅師に住職の座を譲ると、「吾迦葉佛の化身にて己に権化化行は終わった。
よって今後は永くこの山に霊し末世の衆生を抜苦与楽せん」と誓願して案山烽から昇天し、後に
天狗の面が残されたといわれる。それを中峯尊と称して祭り信仰を集めている。
現在、弥勒寺には地元商工会の有志が奉納した顔の長さ6.5メートル、鼻の高さ2.8メートルの
日本一の大天狗面が安置されている。」



顔の長さ3メートル、顔の幅2メートル、鼻の高さ1.4メートル、重さ1トンで木彫りの
天狗面としては日本一の大きさを誇るのだ と。



移動して。



                               ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.01.18 07:01:17
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