JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.10.14
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カテゴリ: JINさんの農園
「北条氏政・氏照の墓所」を後にして、「錦通り」に向かって おしゃれ横丁 」を歩く。
円柱式の郵便ポスト、レトロな赤い電話ボックスの後ろには親子3代続く洋品店
「TALE OF ANNE」 (テールオブアン) 」。



おしゃれ横丁からくり時計「ドリームタワー 」を見る。
何年も前に残念ながらからくりは廃止されてしまったとのこと。
どんな仕掛けだったかは、あまり想像できず謎に包まれていたのであった。



イラストレーターのホマ蔵が描いた、後北条氏に仕えた忍者である「風魔小太郎」の




おしゃれ横丁からくり時計「ドリームタワー 」下を通過し振り返って。
下の写真2枚は、帰路に再度撮影したもの。



ズームして。


「明かり窓文庫」の 昭和なステンドグラス照明
店はこの照明の隣にあった。



夜になると(ネットから)。



白い象の姿も。



様々な店が林立。



そして、 「おしゃれ横丁」の南側・錦通り側入口 を振り返る。



公園「北條ポケットパーク」
小田原駅から徒歩すぐの場所にある小さな広場だが、季節を彩る花が咲いており
楽しめる場所であると。



「北條ポケットパーク」前にあった「 そば処 寿庵 」。



生蕎麦 寿庵 」と。



上の額縁に入った「〇〇○ 寿庵」の文字は 「幾楚者」という漢字の崩し字 であると。
仮名の元になる漢字ではなく意味を含んだ漢字を当てている「変体仮名」だ。
以下は受け売りだが「幾=いくらかの」「楚=ほっそりした」「者=台の上で焚くもの」との
意味があるから「そば」を指していると言えなくもない。
なお 「蕎麦(きょうばく)」と当て字しているがそばは麦の仲間ではない (ナデシコ目タデ科)
と。



店頭にあった和風植栽には石灯籠が。



箱根ジオパーク 」案内板。



細長い三角形の公園・「 北條ポケットパーク 」。



小田原城(正面入口)まで620m  と。



北條ポケットパーク 」越しに「 そば処 寿庵 」方向を見る。



そして「 錦通り 」を東にむって進む。



前方、左側・ 「一軒め酒場」前に「旧地名碑」 がった。



高部屋 」碑。



たかべや 」。



「稲葉氏時代、ここに鷹匠(たかじょう)の屋敷が設けられていたため、この地は「鷹部屋」、
「高部屋」などと呼ばれていた。しかし、江戸時代中期以降は、専ら侍屋敷となっていた。」
別の説明では
この地名は、小田原城絵図の一つである「万治図」( 1660年)に初めて「御鷹部屋」の名で
見られます。
稲葉氏時代(1632 ~ 85年:寛永9年( 1632 )、稲葉正勝が下野真岡城(栃木県)から移って
小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685 )、正通が越後高田城(新潟県)に
転封されるまでの3代53年間)、上幸田の北寄りの一部に鷹匠の屋敷が設けられ、このためこの
地域は、「鷹部屋」、「高部屋」などと呼ばれるようになりました。しかし、江戸時代半ば
以降は、もつばら侍屋敷でした。
なお、北隣にあった永久寺も古くは高部屋(「新編相模国風上記稿」(1841年)には永久寺持ちの
土地として谷津村の地域としてしるされている)の一画と考えられていました。

現在は、小田原駅東口周辺の小田原市街の繁華街がこのあたりになるのだ。



「高部屋」はココ。



眼鏡店の先を左折してすぐ。レトロ調の外観が特徴の「 小田原 シネマ館 」。
2024年3月20日(水)に待望のオープンを迎えた映画館。



「錦通り」をさらに進むと、左側にも「旧地名」碑がった。



錦織町 」碑。



「にしこりちょう」



「この地内に「錦織明神」がまつられていたところから「錦織町」(東海道分間延絵図)と
いわれた。明治以降は、「錦織横町」と呼ばれ、現在の「錦通り」の那覇、この「錦織神社」や
「錦織町」に由来する。」
別の説明では
錦織町は、「東海道分間延絵図」(1789 ~ 1806年)に初めて地名が見られます。
地名の山来は、この地内に「錦織明神」(「新編模国風上記稿」( 18羽年)によれば、錦織明神は、
むかし修験者が火定(かじよう:焼身死)したのをまつったもので、はじめ「西郡明神」と呼ばれて
いたものを慶安年間(1648 ~ 51年)に小田原城主の命令によって、この名になったとある)が
あったためといわれています。
この社は、明治末期から大正初期のころに市内城山1丁目の「大稲荷神社」に合祀されました。
現在使われている「錦通り」の名は、この「錦織明神」や「錦織町」に山来するものです。
なお、明治以降「錦織横町」とも呼ばれています と。



その先、正面に 「錦通り出口」交差点




                                 ・・・もどる・・・



                  ・・・つづく・・・









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Last updated  2024.10.28 05:02:45
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