JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.10.13
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カテゴリ: JINさんの農園
この日は10月6日(日)、2回目の『小田原城下を歩く』に向かう。
小田急線、東海道線を利用して、小田原駅に到着。時間は7:50。
この日も巨大な「小田原提灯」が迎えてくれた。



小田原駅東口の平塚駅方向の階段を降り地上へ
小田原駅前東通り商店街・「おいしいもの横丁」 の入口が正面に。
が立っていた。
小田原の街の中には、昔の町名や由来が刻まれた1メートル程の石碑が至る所に置かれて
いるのであった。



新蔵



しんくら 」。



「稲葉氏時代、小田原城主稲葉氏がこの地に新たに蔵屋敷を建てた。そこで、以前からあった
小田原城三の丸弁財天曲輪の蔵を「本(元)蔵」と呼び、こちらを「新蔵」と呼ぶようになった。
なお、この地を「新蔵屋敷」ともいい、幕末には八棟の蔵が並んでいた。」
別の説明では
江戸時代の承応、明暦の頃(1652 ~ 57年)、稲葉氏がこの地に蔵屋敷を建設しました。そこで、
小田原城三の丸弁財天曲輪にすでにあった蔵を本(元)蔵と呼び、こちらを新蔵と呼ぶように
なりました。
また、この地を新蔵屋敷ともいい、幕末には、8練が並んでいました。
この蔵には、ききんの際の救急用の稗(ひえ)なども保存したものか、古老の中には「お稗蔵」と
呼ぶ人もいます と。



「おいしいもの横丁ガイドマップ 小田原駅前通り商店街」、 左側が現在地。



新蔵 」碑の前のT字路を東に向かって進む。



右手にあったのが巨大な「 遊具コーヒーカップ(メリーカップ) 」。







「この『メリーカップ』は小田原城址公園内の「こども遊園地」に1970年から設置されて
いたものを2017年の廃止に伴い、おしゃれ横丁商店会で譲り受け、管理しているものです。
2018年3月」



メリーカップ 」に近づいて。
メリーカップ
カップの中には大人でも3~4人くらい乗れるようになっている。カップの設置されている
床面が回転し更に中央にあるハンドルを回すと乗っているカップが高速で回転したのだと。



そしてその先・T字路の正面にあったのが「 北条氏政・氏照の墓所 」。



石垣の上にある「 北条氏政・氏照の墓所 」。



「小田原市指定史跡  北条氏政・氏照の墓所 」案内柱。



小田原市指定史跡
北条氏政・氏照の墓所
北条氏政は、北条氏第四代の領主。氏照は、氏政の弟で八王子城など五つの支城の城主 でした。
天正十八年(一五九〇年) 豊臣秀吉の小田原攻め により 小田原城が落城 すると、五代領主氏直は、
高野山に追放され、 父氏政とその弟氏照は、城下の田村安斉邸(現南町)で自刃 しました。
両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬 されました。 (現在、永久寺所有)
その後放置されていた墓所は、稲葉氏が城主のとき(一六三三〜一六八五)、北条氏追福のため
整備されました。大正十二年(i一九二三)の関東大震災では墓所が埋没する被害を受けましたが、
翌年地元の有志により復元されました。
                  小田原市教育委員会」



石段の上の手摺には、多くの「鈴」が結びつけられていた。



幸せの鈴
箱の中の「鈴」に民を思う領主の優しい心がきっと宿っています。
ここに眠る北条氏政、氏照は、長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を
決意されたと伝えられています。願い事をかけて「鈴」を持ち帰り、かけた願いがかなったら、
「幸せの鈴」を結びに来て下さい。「幸せの鈴」がいっぱいになれば、ここに眠る領主への、
なによりの供養となることでしょう。」と。



階段を上った正面にあった石碑。
大正十二年九月一日の大地震で埋没した墓所を復興した旨が刻まれているのだと。
「大正十二年九月一日未曾有ノ大震ニ襲ハレ北條氏ノ史蹟モ亦埋没セリ
有志・・・・・大・・方ノ同情ヲ得テ・・・・・
                             大正十三年九月十四日」



北条氏政・氏照の墓所 」。
面積:16.58m2。



墓石に近づいて。



案内板には上部に配置図が記されていた。
正面に向かって。
● 五輪塔
   右  (大) 伝 氏政夫人の墓
   中央 (中) 伝 氏政の墓
   左  (小) 伝 氏照の墓
● 生害石
   五輪塔前の平たい石
   この石の上で氏政・氏照が自刃したと伝えられています。
● 笠塔婆型墓碑
   左手の墓碑
   この墓碑には、次のように法号(戒名)が刻まれています。
   「慈雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」
   「青霄院殿透岳關公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條陸奥守氏照」
なお、正面の北条氏の三つ鱗の紋章は、正体紋ですが、平体紋が使われているところもあり、
いずれが正しいかは明らかではありません。
                      小田原市教育委員会」



右  (大五輪塔) 伝 北條氏政夫人の墓。
何故か、 北條氏政夫人の墓・五輪塔が一番大きい のであった。



右 (中五輪塔) 伝 北條氏政の墓
左 (小五輪塔) 伝 北條氏照の墓



正面の 北条氏の三つ鱗の紋章は、正体紋 ですが、平体紋が使われているところもあり、
いずれが正しいかは明らかではありません と。



左手の 笠塔婆型墓碑



この墓碑には、次のように法号(戒名)が刻まれています。
 「 慈雲院殿勝岩傑公大居士 」 
 「 青霄院殿透岳關公大居士 」 


右側面(下の写真)には
天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政
左側面には
天正十八庚寅年七月十一日 北條陸奥守氏照 」 と刻まれていた。



生害(しょうがい) 」。
五輪塔前の平たい石。
この石の上で氏政・氏照が自刃(じじん)した と伝えられているのだと。



右手には大きな 石灯籠



石段を下って「 北条氏政・氏照の墓所 」を振り返って。



昔の「 北条氏政・氏照の墓所 」の写真、撮影時期は不明と。



おしゃれ横丁の路面には「 北条氏政・氏照の墓所➡️ 」とマンホール状の蓋が。
第4代当主である北条氏政とその弟である北条氏照が描かれている。
(左 北条氏政 右 北条氏照) 矢印の中に鈴のマーク 「北条氏政 氏照の墓所」、
外周には「北条氏政 HOJO UJIMASA 氏照 UJITERU おしゃれ横丁 OSHARE YOKOCHOU」
の文字。 鈴は願い事をかけて持ち帰り、願いがかなったら氏政氏照の墓所にその鈴を結ぶと
いうもので、墓所にはたくさんの鈴がかかっています と。



近くには別の マンホール状の蓋 が。
後北条氏第4代目当主の北条氏政の妻である黄梅院が描かれている、プレートデザイン
マンホール蓋。 矢印の中に鈴のマークと「北条氏政・氏照の墓所」という文字入る。
外周には「黄梅院OUBAIIN おしゃれ横丁OSHARE YOKOCHOU」の文字入り。
この蓋が設置されている通りの名前が、おしゃれ横丁で墓所もそこにある と。



                                ・・・​ もどる ​・・・




                  ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2024.10.28 05:02:07
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