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『鎌倉散策 目次』👈リンク「補陀洛寺(ふだらくじ)」を後にして、次に訪ねたのが「最宝寺跡」。横須賀の野比にあった「最宝寺」は、鎌倉の弁ヶ谷から移転して来たと云われています。『鎌倉廃寺事典』(以下廃寺事典)によれば、「風土記稿に五明山高御蔵と号す。浄土真宗、京西六条本願寺末と云い、源頼朝がはじめ鎌倉扇ヶ谷に創建し、明光を招いて開山とする」などとあります。建久六年(1195)に弁ヶ谷に寺を移し、さらに寺伝によれば、小田原北条氏が真宗を弾圧していた時に逃れて移った先が現在の寺地(横須賀野比)であると伝わっています。応永十一年(1404)の『関東管領上杉朝宗奉書』には「野比村薬師堂免田参段 畠二段事」という記述から最宝寺領が野比にあったことがわかっています。ですから野比の最宝寺が鎌倉の弁ヶ谷にあった最宝寺を継承しているのは確かなのだと。光明寺の北方の谷を弁ヶ谷(べんがやつ)と言いこの道を進んで行った。鎌倉市材木座6丁目と8丁目の境の住宅街の坂道を上って行ったが、案内板等は見つからなかったが、この写真の上部が「最宝寺跡」であるようだ。弁ヶ谷には、1195年(建久6年)、源頼朝が建てた天台宗の最宝寺があって、行基の薬師如来が本尊だったという。その後、浄土真宗に改宗され、小田原北条氏による浄土真宗への弾圧で、鎌倉から横須賀の野比に移転したと伝えられているのだと。弾圧によって鎌倉に残った浄土真宗の寺は、小袋谷の成福寺のみであるとのこと。弁ヶ谷(べんがやつ)は紅ヶ谷(べにがやつ)、別ヶ谷(べつがやつ)とも呼ばれたという。そして現在は「紅ヶ谷(べにがやつ)」と呼ばれているようであった。道の曲がり角の右側に「鎌倉青年会の史跡碑」が立っていた。「辨谷(弁谷)」碑。「元亨元年(1321) 相模守高時ノ創建セシ金剛山崇寿寺(すうじゅじ)ハコノ地域ニ在リシナリ 道興准后ノ廻国雑記ニ記セシ紅谷(べにがやつ)ト 田代系図ニ拠リ千葉介ノ敷地トスル別谷(べつがやつ)トハ 共ニ弁谷ニ同ジトスル説アルモ詳(つまびらか)ナラズ」【1321年に、北条高時(たかとき)が建てた金剛山崇寿寺(すうじゅじ)は、この場所にありました。道興准后(どうこうじゅんこう)の「廻国(かいこく)雑記」に書かれている紅谷(べにがやつ)と、田代系図に書かれている千葉介(ちばのすけ)の敷地である別谷(べつがやつ)とは、 共に弁谷に同じであるという説がありますが、詳しいことは分かっていません。】そして次に訪ねたのが「新善光寺跡」。進んで来た道を左に折れ、急な坂道を上って行ったが右手には断崖の上に建つ長い石段のある立派な鉄筋コンクリート造りの民家があった。そしてスマホのマップに従い「新善光寺跡」近くに来ているはずであったが。この辺りが「新善光寺跡」のはずであったが、ここにも何の案内板もなかったのであった。新善光寺(材木座四丁目一一・一ニ)は山号、開基、開山、開創、本尊など、まったく不明の廃寺だが、葉山町上山口字滝ノ坂の不捨山摂取院新善光寺は、天正十八年(一五九〇)以前の弁ガ谷からの移転というから、山号、院号など葉山町のものと同一かも知れない。同時に本尊は木造阿弥陀三尊像で、浄土宗だったことになる。鎌倉時代の文献には、当寺の名が散見されて、鎌倉中期には存在していたことが確認される と。ここ弁ヶ谷の新善光寺屋敷と呼ばれる土地も、坂を登って丘陵中腹に平場という地形。平場はもちろん現在は住宅地となっていたのであった。次に訪ねたのが執権北条高時が創建したと伝えられる「崇寿寺跡(すうじゅじあと)」であったが、ここにも何も案内板等はなかったのであった。「弁谷」の史跡碑に書かれている「北條高時ノ創建セシ金剛山崇壽寺」とは、ここ谷戸の一番奥を北東に上ったあたりのようであったが、何段かの雛段らしきものは感じられたが、住宅地が拡がっていたのであった。私の所有する『鎌倉市跡事典』にとると「正式には金剛山崇寿寺。開基は北条高時。開山は南山士雲。元亨元年(一三二一)開創。臨済禅。いまは廃寺だが、後述の鐘銘によって弁ガ谷に所在したことが知られ、弁ガ谷左手の谷戸北端の谷沢氏宅(四丁目一一・一ニ)の裏手に、その痕跡が窺われる。当寺に関する最高の史料は、『新編相模国風土記稿』所引の嘉暦二年(一三ニ七)十月五日付「崇寿寺鐘銘」である。元亨三年の北条貞時十三年忌の供養には鎌倉中の三十八カ寺から集まった二千三十人の僧のうち、当寺からの僧は十三人だった。」と。そして更に坂を上り「弁ヶ谷東やぐら群跡」を訪ねた。鎌倉市材木座4丁目13−19。住宅の裏山に見える高いブロックの崖あたりにもやぐら群があったという。昭和61年(1986年)度鎌倉市林木座地区急傾斜地崩壊対策工事に伴う発掘調査が行われたのだと。「紅谷旧市営住宅跡」であるようだ。「津波避難所」と書かれていたのであろうか?現在は産廃業者の関連施設になっているようであったが。建物の隙間の擁壁の中にやぐらの如きものがあり、中には二基の石碑が安置されていた。右側の石碑には「馬頭観世音」の文字が。擁壁に掛けられていた「弁ヶ谷東やぐら群」を見つけたが、経年劣化により解読不能であった。ネットで調べてみると、下の写真が2枚。 【https://4travel.jp/travelogue/10777609】より「弁ヶ谷東やぐら群」案内板。「これによると、第1号~第7号まで7個のやぐらがあったようだ。1号やぐらからは、人骨が納められた大甕(口径41.3cm、胴部最大径64.5cm器高67.7cm)が発見されました。大甕は、やぐら内部の中央に掘られた直径1.3m、深さ1.2mの穴の中に納められ、鎌倉石の切石で蓋がされていました。甕内の人骨は身長160cm、壮年~熟年期の男性のものと推定され、火葬されていませんでした。大甕は常滑窯(愛知県常滑市)産で、14世紀前半代に製作されたものです。このような甕を用いて、火葬しない骨が納められている例は鎌倉でも発見例が少なく、葬られたのはある程度身分の高い人だったと考えられます。本やぐら群の付近には、執権北条高時が創建したと伝えられる崇寿寺があったとされており、この寺に関わる者の墓所であった可能性もあります。なお、本やぐら群の出土品および図面・写真等の記録類は、神奈川県立埋蔵文化センターに保管されています。」と。 【https://4travel.jp/travelogue/10777609】よりそして来た道をひたすら戻り次に訪ねたのが「光明寺」。鎌倉市材木座6丁目17−19。入口は「関東總本山」と刻まれた大きな石塔が立っていた。浄土宗 大本山 光明寺 案内図。「総門」に向かって進む。門前右にあったのが「浄土宗第三祖記主禅師遺跡(ゆいせき) 大本山光明寺」と刻まれた石碑。「記主禅師」とは良忠(りょうちゅう)のことで、鎌倉時代中期の僧、石見(島根県)の藤原氏の出。浄土宗第3祖。諱は然阿(ねんな)。「記主禅師」の諡号が滅後7年の永仁元年(1293年)に伏見天皇より贈られている と。「南無阿彌陁佛 五濁(ごじょく)の憂世に生まれしは 恨みかたがた多けれど 念仏往生と聞くときは かえりて嬉しくなりにけり」と。浄土宗三代・記主禅師良忠上人若かりし頃の言葉であると。この世は五濁(劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁)がはびこる心穏やかにありにくいところです。悩みごと・苦しみごとは絶えないけれど、濁りのない世に生まれ往くことのできるお念佛にお出会いできたことを思うと、嬉しい思いにさせてもらえます と。「総門」。建立は明応4年(1495)、寛永年間(1624~28)に再興。前はもっと大きな門でした。上部構造は桃山時代の様式が感じられ、屋根裏の木組みに注目すると太い大瓶束(たいへいつか)が数本立ち並び、昔の壮観さが偲ばれます。鎌倉市指定の文化財。扁額は「勅願所」と書かれていると。光明寺第九世観誉祐崇(かんよゆうそう)の書。光明寺は、祐崇の時に後土御門天皇より「関東総本山」の称号を受け「勅願所」とされ、「お十夜法要」も勅許された。本堂にも「勅願所」の額が掲げられていた。「大本山 光明寺」「総門」の扉には「寺紋」が。現在の天皇家・日本国の紋である「菊の紋」と開山のころ天皇家が使っていた五七の「桐の紋」が並んでいる「菊桐文(きくきりもん)」が掲げられていた。光明寺(こうみょうじ)材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第四代執権北条経時で、仁治元年(1240)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元元年(1243)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。元禄11年(1698)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化4年(1847)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。10月12日から15日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市がたち大勢の人で賑わいます。● 宗派 浄土宗● 山号寺号 天照山 蓮華院 光明寺(てんしょうざんれんげいんこうみょうじ)● 創建 寛元元年 (1243)● 開山 然阿良忠上人 (ねんなりょうちゅうしょうにん)● 開基 北条経時(ほうじょうつねとき)そして巨大な「山門」。「大殿(本堂)」は現在大改修工事中であった。「国の重要文化財 大殿令和の大改修 大勧進 大本山 光明寺」と。光明寺の山門(三門)は、鎌倉最大の山門(三門)で、間口16m、奥行き7m、高さ20m。禅宗の五山形式が浄土宗に取り入れられたもので、五本の柱によって間仕切りがされ、中央の3つの間が入口となっている。二階建てで、一階は日本風、二階が中国風の造り。2階部分には釈迦三尊、四天王、十六羅漢が安置されているとのこと。20名以上で申し込みをすると拝観出来ると。現在の山門は、1847年(弘化4年)に再建されたもの。1495年(明応4年)に建立されたときは、さらに大きいものだったという。鶴岡八幡宮の表門だったともいわれるが定かではないと。扁額は後花園天皇の御宸筆「天照山」。「山門(三門)弘化4年(1847)に再建された鎌倉に現存する最大の山門です。建築は和様と唐様の折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えています。「天照山」の扁額は永享8年(1436)の裏書のある後花園天皇の御宸筆です。楼上には次の諸尊が安置されています。 釈迦三尊 四天王像 十六羅漢像 (いずれも江戸時代後期作のすぐれたお像です。) 大本山 光明寺」「山門」を潜ると、右手奥にあったのが「動物霊堂」。その後ろにあった石仏群。「津田部隊 笹島隊 戦没勇士之忠魂碑 津田少将 書」甲府で編成された歩兵第149連隊(通称津田部隊)に属した笹島隊の戦没者忠魂碑。津田部隊は中国戦線で多くの戦死者を出し、太平洋戦争では、グアム島やレイテ島に派遣されほぼ全滅したと言う。この碑は昭和15年秋に笹島隊の一同により建立されたもので、中国戦線での戦没者と思われる73柱を合祀している。碑高325cm、幅124cm、厚さ21cm、台石50cm、基壇17cmそして「高倉 健 蓮華化生」碑。浄土宗と深い関わりを持っていたのだと。『法然上人をたたえる会』の会員であったと。この縁があり、光明寺の境内へ墓碑が建てられる事となったのだと。更にネット情報が。「高倉健さんは、名越流の末裔で鎌倉幕府滅亡時に太守・北条高時とともに自害した北条篤時がご先祖であると。鎌倉幕府滅亡時に京都にいた北条篤時の子孫が西国に移り大内氏に仕えた後に北九州に移り住んだそうで健さんも九州出身なのである」と。高倉健さんの墓碑■ 健さんの立ち姿を表しています。■ 墓碑の高さは健さんの身長と同じ180cmです。■ 墓碑にある段状の意匠は、健さんの映画人生の節目となる年、映画作品数などを表しています。下部の丸い 石は友石と呼ばれ友の姿を表していると。「十萬霊供養塔」。「倶会一処(くえいっしょ)」の文字が。浄土教の往生の利益の一つ。 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味であると。そして「鐘楼」。光明寺の梵鐘は、1647年(正保4年)に江戸小網町の由比平右衛門尉正次の寄進。梵鐘を寄進した正次は、軍学者由井正雪の叔父という説がある と。「梵鐘」。鎌倉市内では円覚寺梵鐘、建長寺梵鐘に次ぐ三番目の大きさであると。この鐘楼の前の石碑には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたのであろうか。続いて「繁栄稲荷大明神」へ。光明寺の「繁栄稲荷大明神」には、次のような伝説が残されている。開山の良忠がまだ佐助にいた頃、子狐を助けた。すると、夢に親狐が現れて、お礼にと「薬種袋」を残していった。鎌倉に悪病が流行した折、この時の夢のお告げに従って薬種を蒔くと、3日の内に成長し、病魔がたちまちに退散したのだという。「繁栄稲荷大明神当寺開山良忠上人は、この地に当寺を開くまでしばらく佐介ヶ谷に住まわれていました。この時上人は子狐を助けたことがありました。「すると夢に親狐が現れ、あ礼とともに薬種袋を残していったということです。鎌倉に悪病が流行した折、上人はこの時の夢のお告げに従って、薬種を蒔くと、三日の内に成長し、この薬草を服すると薬効顕れ、病魔はたちまちに退散したということです。のちに稲荷大明神として当寺に勧請し病魔退散、豊漁満般、家業繁栄を祈念しています。」「大殿(本堂)」は保存修理の為に全面的に仮設テントで覆われていた。「2019(令和元)年11 月から、10 年計画で本堂(大殿)保存修理工事が始まりました。今回工事を行う本堂(大殿)は、1698(元禄11)年に建立されて以来今日まで320年あまり、この間、1719(享保4)年、1770(明和7)年、1797(寛政9)年、1823 (文政6)年、1950(昭和25)年、1971(昭和46)年など、その時々に修理を行いながら守ってまいりましたが、前回修理から50 年を経て、近年、屋根や柱などに痛みが出てまいりましたので、保存・活用のための修理工事を行うことと致しました。今回の工事は、建物の各部材を屋根から順番に取り解いて骨組みだけにして、破損・腐朽した部分の補修・取替などを行って再び組み上げ、あわせて大地震に対する備えも施します。工事中の本堂(大殿)を風雨にさらすことが無いよう、初めに本堂(大殿)をすっぽりと覆う素屋根を建設し、その中で工事を進めますので、その間のご拝観・ご見学が出来なくなります。」とネットから。以前の「大殿(本堂)」を訪ねた時の写真から。十四間四面。当山五十一世詮譽白玄上人の代、元禄十一年(一六九八)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏を祀っている。かつては開山上人像を安置して祖師堂と称していた。仏堂でなく祖師堂を本堂とする伽藍形式は、知恩院をはじめとする京都の浄土宗本山の通例。百本柱のお堂としても有名。国指定の重要文化財。大殿右檀には、善導大師等身大立像と弁財天像が安置されている。これは、かつて二尊堂にあって奉安せられていたもの。善導像は、二祖聖光上人より拝受の像と伝えられ、弁財天はもと江ノ島弁天と伝えられている。左檀上には、如意輪観音像と宗祖法然上人像が安置されており、日々の供養が続けられている。「山門」を振り返る。その先に「総門」の姿も見えた。こちらが「開山堂」で現在は仮本堂になっていた。開山をはじめ歴代法主の御影を祀っている。かつては現本堂を祖師堂と称していた。大正十二年の関東大震災で倒潰した阿弥陀堂の本尊を旧開山堂へ遷座して本堂とし、開山堂は、翌十三年、古材等も使用して新たに建てられた。平成十四年、老朽のため再建。本堂(大殿)修理工事につき令和2年2月より大殿(本堂)にお祀りしていた阿弥陀如来および諸尊像は、開山堂にて参拝出来ると。扁額「開山堂」。「内陣」。ご本尊の「阿弥陀如来像」。その後、この日の「開山忌」が始まったようであった。以前の写真であるがこの日もあったのだろうか?「開山堂当寺開山良忠上人(記主禅師)の尊像および歴代の法主(住職)を祀る御堂です。開山の良忠上人は、浄土宗の第三祖(宗祖法然上人から三代目)として関東にお念仏の教えを弘められました上人は島根県那賀郡に生まれ各地で修業と修学を積み正嘉ニ年(一ニ五八)の頃鎌倉に入り、幕府第四代執権北条経時公の帰依を受けて、この寺を開かれました。学徳を備えた高僧で、すぐれた僧侶を育てました。また多くの書物をし、今日の浄土宗の基盤を為るという大きな働きをされ、この功績を称えて、没後、伏見天皇から記主禅師の諡号を贈られました。毎年七月六日のご命日には開山忌法要を勤めています。」そしてこの日は「七月六日」なのであった。靴を脱ぎ「開山堂」の右の廊下から。「記主庭園池」と「大聖閣」が目の前に。江戸幕府の茶人としても知られる庭園デザイナー・小堀遠州作といわれる池泉庭園「記主庭園」と枯山水の二種類の庭園をもつ光明寺。「大聖閣」。光明寺の「大聖閣」は、法然上人800年大遠忌を記念して建てられた。小堀遠州作庭という記主庭園奥の木造二階建ての建物。二階部分は八画で、屋根には鳳凰が乗せられていた。鎌倉で鳳凰が乗せられたお堂は、この大聖閣のみであると。二階の内陣への扉が開かれていて、黄金の「阿弥陀三尊像」の姿が。屋根の頂部には「鳳凰」の姿が確認できた。扁額は「大聖堂」。「阿弥陀三尊像」。「阿弥陀三尊像」をネットから。 【http://koten-kagu.jp/2018/04/05/kamakura-136/】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「長勝寺」を後にして、県道311号線・「鎌倉・葉山線」を逗子市方面に進む。「長勝寺」入口の「厄除開運 帝釈尊天 石井山 長勝寺」碑を振り返る。以前に訪ねた「銚子ノ井(鎌倉十井)」👈リンク の手前、長勝寺入口から2つ目、「鎌倉材木座霊園入口」の看板がある路地ところをを右折して、坂道を上って行った。途中の擁壁の蔦の葉は既に色を変え初めていた。5分ほど進んで行くと、左側には苔むした石段の上に大きな像と石碑が。ここが「松葉ヶ谷草庵(まつばがやつそうあん)」。鎌倉市大町5丁目6。1254年(建長6年)、鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵を結んだ。日蓮は、小町大路を中心に布教活動を行い、弟子には、のちに日蓮六老僧といわれる日昭と日朗がいた。1260年(文応元年)7月16日、日蓮は松葉ヶ谷の草庵で書き上げた『立正安国論』を北条時頼に提出する。その冒頭には・・・「天変、地妖、飢饉、疫病あまねく天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬巷にたおれ、骸骨路に充てり、死を招くの輩既に大半をこえ、これを悲しまざるの族敢えて一人もなし」と書かれ、このような事が起こるのは法華経を信じないからだとし、人々を惑わす法然の念仏宗などを禁じなければ、外国からの侵略や内乱が起こると予言した。しかし、これが原因となって、8月27日夜、草庵が念仏信者らによって焼き討ちされ、下総国へ避難する(松葉ヶ谷法難)。時に38歳であった。正面に大きな「日蓮上人像」が。台座には「忍難慈勝」の文字が。日蓮大聖人は一生のうち生命にかかわる法難を四回、小さな法難は無数に受けた。四大法難とは、●40歳のとき伊豆伊東の俎岩に置き去りされた「伊豆法難」。●43歳のときに房州小松原で地頭東条影信の一軍に襲撃された「小松原法難」。●50歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されようとした事件。 このとき鎌倉一帯には不思議な現象が起り、処刑は中止されたことは有名。 これを「龍口法難」という。●同じその年、佐渡遠流の難にあい、配所の佐渡における生活は、寒さと飢えに悩まされる 過酷なものであった。これが「佐渡法難」。ズームして。祈りのお顔が。銅像の後ろには、「立正 松葉ヶ谷御草庵霊跡」碑が立っていた。「頌徳碑(しょうとくひ)」青森県青森市の日蓮宗寺院「妙覚寺」関連の石碑のようだ。「小庵之跡」碑。斜めから「日蓮上人像」と「立正 松葉ヶ谷御草庵霊跡」碑を見る。「三重石塔」。そして「松葉ヶ谷草庵」を後にして、県道311号線まで坂道を下る。右手に「材木座霊園入口」案内板が。JR横須賀線「名越踏切」方面に戻る。振り返ると、先程、「長勝寺」の墓地から見えた「名越クリーンセンター」焼却場の煙突が再び見えた。道路脇の民家の庭の芙蓉(フヨウ)の花。朝開花し、夕方にはしぼむ1日花。1日でしぼんでしまう儚さと、柔らかい印象の花。そして「長勝寺」の「帝釈天堂」の屋根に金色に輝く宝珠、「六角堂」の屋根等が見えた。次に訪れたのが「実相寺(じつそうじ)」。鎌倉市材木座4丁目3−13。題目碑「南無妙法蓮華経」と台座には山号「弘延山」と。ここが「実相寺」、次に訪ねた「九品寺」まで250mの表示。ここにも「実相寺」題目碑。「山門」。當山ハ宗祖嫡弟六老僧第一大成辨阿闇梨日昭尊者潜居の地宗祖佐渡流竄後門下僧俗を統率したる濱土法華堂(祖滅後法華寺と称す)乃霊跡にて玉澤妙法華寺の旧地也傳つ工藤祐経邸趾と云ふ日昭尊者濱土法華堂霊跡御廟 裏山の麓にあり往古ハ峯の岩屋ニ有しを元禄三年現所に移せり 弘延山 實相寺「本堂」。この地は、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡で、その後娘の子という日昭がその屋敷跡に法華堂を建てたのがはじまりで、その後、法華堂は法華寺となり三島市に移り、1621年(元和7)に日潤が再建したといわれる。右手に「三日月大神」碑。ここにも「南無妙法蓮華経」碑。境内のアジサイの花。掲示板には「我をはるな 心ころころ 丸くなれ」と、こう在りたいが既に遅しか。次に「九品寺」に向かって材木座4丁目と5丁目の境の道を進む。正面に小さな稲荷社があった。そし「九品寺」横の海岸通りを西に行くと民家の庭にあったのが「新居閻魔堂阯」碑。「滑川ノ下流ヲ閻魔川ト称スルハ 往昔此ノ辺ニ閻魔堂アリシタメニ生ゼシ名ナリト言ヒ 其ノ堂ハ後 山ノ内ニ移サレ 今新居山円応寺ト唱ヘラレルルモ 其ノ移転ノ年代ハ詳(つまびらか)ナラズ」【滑川(なめりがわ)の下流を閻魔(えんま)川と言うのは、昔この辺りに閻魔堂が在ったために名付けられたといいます。その堂は、後に鎌倉北部の山の内に移され、現在は新居(あらい)山円応(えんおう)寺といいます。しかしそも移動の時期はよく分かりません。】そして次に「九品寺」に到着。「九品寺交差点」横の入口から「山門」を見る。鎌倉市材木座5−13−14。鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ「新田義貞(源義貞)」が建武3(1336)年北条一族の菩提を弔うため風航順西を開山として創建したと伝わる、鎌倉攻めの本陣が置かれた地。台座の裏側には「平成二十三年三月十一日 為 東日本大震災被災者各霊位追善菩提「月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」と。法然上人御作この御詠歌は法然上人が詠まれたお歌で、現在では浄土宗の宗歌として歌われております。月の光は山にも里にもくまなく照らしておりますが、ただこれを眺めている人にだけに美しい澄んだ月を見ることが出来ます。同じように阿弥陀様の全ての人々を平等に救おうとされるお慈悲の光は、その阿弥陀様の御心を抱きお念仏をする人のみに住し澄み渡るのであります。月の光は美しいもので、その光は全てものを分け隔て無く照らしております。しかしその美しさ、感動は、夜空の月に気づき見上げた人の心にしか起こりえません。同様に阿弥陀様のお慈悲の光は常に私たちを平等に照らして下さっておりますが、その御心に気づかなければお救いいただくことはかないません。そしてその御心に気づきお念仏をお称えしたときこそ、私たちは阿弥陀様よりお救いいただけるのです と。「山門」。宝暦十年 四脚門 虹梁蟇股式 切妻・瓦葺 丸柱 三斗詰組江戸時代の建物。山門の扁額は「内裏山」。九品寺(くほんじ)九品(くほん)とは、九種類の往生のありさまのことをいいます。極楽往生を願う人々生前の行いによって定められます。上品、中品、下品のそれぞれに、上生、中生、下生があり、合わせて九品とされます。鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養するために、材木座に建立しました。山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は、新田義貞の筆を写したものといわれます。本尊は阿弥陀三尊です。 ● 宗 派:浄土宗 ● 山号寺号:内裏山 霊獄院 九品寺 ● 創 建:建武3年 (1336) ● 開 山:風航順西(ふうこうじゅんさい) ● 開 基:新田義貞「鎌倉三十三観音霊場 第十六番札所」碑。「山門」前の「廿一ヶ所 第九番 弘法大師」碑。境内の石仏。六地蔵であろうか。宗祖法然上人のお姿が刻まれている石碑宗祖法然上人讃仰浄土宗開宗八百年記念 宗 歌「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」。脇門の木戸の板戸には桐の紋が切り抜かれていた。そして正面に「本堂」。宗派 浄土宗山号寺号 内裏山 霊嶽院 九品寺 (ないりざん れいがくいん くひんじ)創建 建武三年(1336)開山 風航順西開基 新田義貞本尊 阿弥陀如来「本堂」扁額「九品寺」。「本堂 内陣」。「寺務所」。扁額「霊嶽院」。以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第十六番 九品寺」の「聖観世音」の御朱印です。そして次に訪ねたのが「補陀洛寺(ふだらくじ)」。鎌倉市材木座6丁目7−31。「源頼朝公御祈願所南向山補陀洛寺」碑源頼朝が1181年(養和元)文覚上人(もんがくしょうにん)を開山として建てたと。ここは、源頼朝公御祈願所であり、頼朝の供養をここですることになっていたと。補陀洛寺は別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれ、竜巻や火災にあったりして、寺のいわれを書いた文書(もんじょ)は失われていて、詳しい寺の由来はわかりませんが、寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音や頼朝にゆかりの物が多く、中でも珍しいのが、平家の赤旗で、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたものだといわれ、頼朝がこの寺に奉納したといわれています。平家の赤旗は「鎌倉まつり」期間中(4月第2日曜日~4月第3日曜日)から5月末日まで公開されます。「無縁塔」。「本堂」真言宗 大覚寺派 南向山 帰命院 補陀洛寺(ふだらくじ)。補陀洛寺(真言宗大覚寺派)は、1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として建立された。たびたび竜巻に襲われたため、別名「竜巻寺」と呼ばれている補陀洛(ふだらく)とは、サンスクリット語の音を漢字に当てはめたもので、「観音菩薩が住む山」という意味。薬師如来が本尊だった時代もあったというが、文和年間、鶴岡八幡宮の供僧頼基が十一面観音を本尊として再興したと伝えられている。本堂内には、源頼朝像(自作)、文覚上人裸形像(自作)、行基作と伝わる薬師如来像、運慶作と伝わる日光・月光菩薩像、弘法大師作と伝わる地蔵菩薩像、平安時代作の不動明王像などが安置されている。鎌倉観音巡礼第17番札所(十一面観世音)開山 文覚(伝)開基 源頼朝(伝)本尊 十一面観音菩薩「真言宗 大覚寺派 南向山 帰命院 補陀洛寺」。「本堂 内陣」。ズームして。「無縁仏」碑と「七重塔」。石碑「市瀬正毅(いちのせ まさたけ)先生を偲ぶ」。昭和二十四年(1949年)に我が母校の湘南高校が夏の甲子園に初出場初優勝の快挙を成し遂げた際の野球部長なのであった。生物担当の教師であったと記憶しているが。「市瀬正毅先生を偲ぶ」以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第十七番 補陀洛寺」の「十一面観世音」の御朱印。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「本堂・帝釈堂」前の日蓮の銅像は、高村光雲作。日蓮が松葉ヶ谷法難の際に帝釈天の使いである白猿に助けられたことから、帝釈天出現の霊場として知られる。長勝寺、安国論寺、妙法寺の3つの寺は、いずれも、日蓮が鎌倉に来て最初に庵を結んだところとされている。この「日蓮聖人像」は、東京都大田区の洗足池の畔に置かれていたのだと。生誕700年の1922年(大正11年)、日蓮は大正天皇より「立正大師」の号を賜り、翌年、それを記念して洗足池に建てられたのがこの像だった と。お顔にズームして。仏教における4人の守護神である「四天王」のうち「大持国天王」。東方の世界を守護する神であり、甲冑(かっちゅう)と種々の天衣(てんね)を着け、右手は腕を伸ばして刀を持ち二夜叉(鬼)の上に立つ。「大毘沙門天王」。北方の世界を守護する神であり、形像は甲冑(かっちゅう)を身に着け、憤怒(ふんぬ)の相をし、左手に宝塔を捧(ささ)げ、右手に宝棒を執(と)り、二夜叉(鬼)の上に立つ。「大増長天王」。南方の世界を守護する神であり、左手に先に3つに分かれた刃がついた三叉戟を持ち、右手に宝塔を持ち大きく振り上げている姿をして憤怒相(ふんぬそう)で表される。「大廣目天王」。西方の世界を守護する神であり、左手に先に3つに分かれた刃がついた三叉戟を持ち、右手に羂索を持ち、二夜叉(鬼)の上に立つ。「六角堂」この六角堂には日蓮の遺歯が祀られていると。扁額「久遠」。「帝釈天堂」。長勝寺は、日蓮に帰依した石井藤五郎長勝という武士が、自邸を寺にしたといわれている。その時の名は本国寺といった。のちに、本国寺は、京都の六条河原に移され、その跡地に再興されたのが長勝寺だという。扁額「帝釋尊天」。「内陣」。日蓮像。「帝釈天堂」前から日蓮像、四天王の後ろ姿を見る。十六重石塔?に見えたが・・・。鎖樋と天水桶。黄金色の「吊り灯籠」。「本師堂」入口にあった小さな御堂。台座には「三世常住」と刻まれていた。過去・現在・未来の三世にわたって永遠不変に存在すること と。石段上にある「本師堂」。本師堂(八角堂)にはタイ国からの釈迦像が安置されていた。扁額「本師堂」。「泰安 本邦最初タイ国渡来金色釋尊像縁起當八角円堂に安置する釋迦牟尼世尊(八尺御座像)は私の敬愛する早坂太吉様並に御當山住職、久村日鑒猊下を通じて佛都鎌倉の名刹長勝寺に末永く奉祀せられ、この御佛の御魂と神通力により日本中から世界各国から詣らるる人々の上に、平安と幸運がもたらされるよう入魂開眼して奉献していただいたのであります。 昭和六十年六月二十四日 訪日開眼式の砌(みぎり) タイ国立 ワサケ寺 大僧正 スリウイスメスイ」「内陣」。タイ国渡来の黄金の「釋迦牟尼世尊(八尺御座像)」。「本師堂」の八角堂と「法華堂」の間にある「鐘楼」。「梵鐘」。「本師堂」の裏にあった「赤木圭一郎の胸像」。墓の奥にあった「赤木圭一郎氏の墓」になんとか辿り着いた。名越クリーンセンター焼却場の煙突が見えたが、残念がら富士山の姿はこの日は。戻ると墓地には大きな石塔が。「永代特別大本願位 至誠院法諦剛道日真大居士之碑」と。「鐘楼」前、「法華堂」手前の石仏群。「法華堂」が前方に。「法華堂」前の聖観音菩薩像。ここにも。「法華堂」が正面に。扁額「法華堂」。「法華堂」への石段を下り振り返る。タイサンボク越しの六地蔵。。タイサンボクの花を再び。地蔵菩薩立像を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「五所神社」の庚申塔群を堪能した後は、寺前の道を北上していくと、100mほどで「来迎寺」入口に到着した。鎌倉市材木座2丁目9−19。鎌倉には「来迎寺」が二つあるのだが。もう一つは西御門にある「来迎寺」。寺号標「鎌倉十四番 子育観音 時宗来迎寺」。「三浦大介義明公之墓」碑。参道を進む。春先のミモザの花が有名な寺。 【http://niinuma.livedoor.biz/archives/51563664.html】より「随我山 来迎寺(ずいがざん らいごうじ)」碑。「本堂」。1194年(建久5年)、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うために建立した真言宗の能蔵寺が始まり。藤沢にある遊行寺の末寺。宗派 時宗山号寺号 隋我山 能蔵院 来迎寺(ずいがさん のうぞういん らいこうじ)創建 建久五年(1194)鎌倉時代開山 音阿上人本尊 阿弥陀三尊鎌倉三十三観音霊場 第14番札所鎌倉三十三観音 御詠歌。「たちゐにも 念佛のこゑを たつねつゝ むかふる慈悲の ふかきみほとけ」。本堂の扉の隙間に向けて。しかし・・・・。「南無阿弥陀佛」と書かれた位牌。本堂内陣。 【http://raikouji.com/about.html】より境内の「慈母観音」像。「三浦大介義明公之墓」(右)と「多々良三郎重春公之墓」(左)。「三浦義明(みうら よしあき)」は、平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人。桓武平氏の平良文を祖とする三浦氏の一族。相模介・三浦義継の子。和田義盛、三浦義村の祖父。治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると、一族挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃する。しかし、途中で石橋山の戦いにおける頼朝の敗戦を聞き、引き返して篭城。ほどなくして敵方に参加していた畠山重忠率いる軍勢と衣笠城合戦となり、一族郎党を率いて奮戦する。だが、最終的には刀折れ矢尽き、義澄以下一族を安房に逃した後、独り城を守って戦死した。享年89。多々良三郎重春は義明の孫で石橋山の戦い/小坪合戦に敗れて17歳で戦死したと。「三浦大介公家来之墓」が墓地の裏にあった。「時宗来迎寺縁起」👈リンク。来迎寺の44代目僧侶(先々代住職)、藤沢察静(ふじさわさっせい)の像。「光栄なる世界最初の灸死行者」とあります。来迎寺の44代目僧侶、「藤沢察静」の像。境内の「三界萬霊塔」。「動物供養塔」。寺の裏の「三浦大介公 家来之墓」案内。寺の裏手にあった「三浦大介公家来之墓」。数え切れない数の五輪塔が並んでいた。しかし良く見ると、完全な形の五輪塔は殆どなく、石を適宜積み重ねたものがほとんどであった。中央にあった墓碑。以前に頂いた「鎌倉三十三」観音霊場 第十四番 来迎寺」の「子育観世音」の御朱印。そして次に、ここも久しぶりの訪問となった「長勝寺」へ。鎌倉市材木座2丁目12−17。入口の寺号標石「厄除開運 帝釈尊天 石井山 長勝寺」。「山門」。「長勝寺(ちょうしょうじ)伊豆に配流されていた日蓮が鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に庵を結んだことが当寺の発祥です。京都本圀寺の前身と伝えられており、日静の代、貞和元年(1345)に寺号が京都に移った後、石井山長勝寺と号し今日に至ります。境内の建物のうち、法華堂は県指定重要文化財。室町時代末期の造営と推定されています。また、日蓮大聖人の銅像は、鎌倉辻説法を写しています。毎年2月11日には、國祷会といわれる厳しい寒さの中で冷水を浴びる荒行が行われます。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:石井山長勝寺 ● 創 建:弘長3年 (1263) ● 開 山:日蓮大聖人 ● 開 基:石井長勝写真は、日蓮大聖人像と四天王像」題目塔「南無妙法蓮華経」。「山門」を潜り緑あふれる境内へ。参道の左手には多くの石仏が。聖観音菩薩像。近づいて。ここにも。(株)日章製作所の文字が。これも。その裏にも稚児を抱く石仏も。大きな台座に乗って。「過去遠々劫⽾法界墓塚之萬霊位」碑。この参道は聖観音菩薩像の銀座通りの如し。「真白き富士の嶺」碑。下部には歌詞が。真白き富士の嶺、緑の江の島仰ぎ見るも、今は涙歸らぬ十二の雄々しきみたまに捧げまつる、胸と心ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に力も尽き果て、呼ぶ名は父母恨みは深し、七里ヶ浜辺み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて月も星も、影を潜めみたまよ何処に迷いておわすか歸れ早く、母の胸に作詞者: 三角錫子(みすみ・すずこ、1872年 - 1921年)作詞当時、系列校である鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)の教師だった。東京都目黒区にあるトキワ松学園中学校・高等学校の設立者でもある。「吉良上野介義央公」の五輪塔 とのこと。石祠の中に二体の石仏が。「地蔵菩薩像」。タイサンボクの大きな木。花も咲いていた。左手に六地蔵。地蔵菩薩立像。左手に幼子を抱えていた。水子地蔵尊であろうか。そして桜の木の奥正面に「本堂」、その手前に「日蓮聖人像」さらに周りには、仏教における4人の守護神である「四天王像」の姿が。右手にあったのが「水行の場」。「一道清浄」の文字が。「弘法大師」の言葉に「一道清浄妙蓮不染(いちどうしょうじょうみょうれんふぜん)」とあると。「仏さまの道(一道)は、清らかで妙なる蓮の花のように汚れに染まることはない。私たちの心もまた本来清らかなものである。」と。「水行」の姿をネットから。 【https://ameblo.jp/kmkrlog/entry-12574814711.html】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「向福寺」を後にして「小町大路」に出ると直ぐに左側に「五所神社」の入口があった。鎌倉市材木座2丁目9−1。「村社 五所神社」碑。石鳥居を潜り、アジサイの花の峠は越えた長い参道を進む。比較的新しい狛犬(阿形像)。比較的新しい狛犬(吽形像)。その先に古い狛犬(阿形像)。古い狛犬(吽形像)。「五所神社 社務所」。石段を登った右手の奥には、鳥居と社が。手前には、二対の狛狐が、かなり古い感あり。その奥に祠が。右手には石碑があって、「正一位 三光尊石上稲荷大明神」と。一番右奥には神狐像が鎮座する 三基の石祠が。祠の左隣には、小さな祠があって、中には石板が安置されていた。「国指定重要美術品 板碑 弘長二年(1262)銘あり」と。「市指定有形文化財 建造物 板碑 弘長二年銘 不動種子刻」と書かれた木柱。そして「社殿」。合祀時には、諏訪神社本殿を移建。その後大正十二年九月一日の震災時に山崩れで埋没し全潰したため、昭和六年( 193 1 )七月に新築したもの。破風には龍の見事な彫刻が。扁額には「祈願 国家興隆」と。「五所神社. (材木座の鎮守)祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 素戔嗚命(すさのおのみこと) 大山祇命(おおやまずみのかみ) 建御名方命(たけみなかたみこと) 崇徳院命(すとくいんのみたま)明治ニ十ニ年(一八八八)乱橋村と材木座村が台併して西鎌倉村大字乱橋材木座となった後明治四一年(一九〇八)七月に、もとの乱橋村の鎖守、”三島神社”(現在の地)の地に材木座の鎮守、諏訪神社(現材木座五ー十三ー八 上ノ山方)乱橋村能蔵寺部落の八雲神社(現材木座四ー四ーニ六公会堂内)、金比羅宮(材木座四ー七ーニ 竹内宅裏山「普賢象山」中腹)、材木座村仲島部藩の見目明神(材木座六ー七ー三五)の四社を台併して五所神社として改名したものである。もとの五所はいずれも勧譜年月末詳このうち見目明神は補陀洛寺文書に見目天王文とニ貫三百文の地を北条氏康が同時に寄進しているから古くから同寺の鎖守であったと思われる。「新編鎌倉誌」には、見目明神とよんだ宝満宮菩薩像があったとみえ「風土記稿」には牛頭天王、見目明神社合社とある。三島神社は、乱橋村持「風土記稿」で八雲社を相殿とし、この相殿天王みこし棟札によれば、寛永十九年(一六四一ニ)修造以後、延宝九年(一六八一)元禄十一年(一六九ハ)元文ニ年(一七三七)宝暦十三年(一七六三)に修理を加え、万延元年(一八六〇)に再建している。諏訪社は補陀洛寺であった「風土記稿」明治八年(一八七五)公達に基づいての皇国地誌調査さんによると次の通り記載されている。三島社 式外村社々地東西四間南北六間三尺面積ニ六坪の東方にアリ大山祇命ヲマツル。 勧譜年暦詳ナラス 例祭 四月 十一月ノ酉ノ日ヲ用ウ見目社 同社東西九間南北八間四尺八寸面積七九坪村ノ東西間ニアリ祭神及ビ創造勧譜年暦詳ナラス 例祭 ニ月ニ七日 六月七日両回トス諏訪社 同社東西八間一尺ニ寸南北一間六寸面九坪村ノ南方ニアリ祭神建御名方命勧譜年磨詳ナラス 例祭六月七日 七月ニ七日ノニ回トス金比羅社 同社東西十間南北面ち十評村ノ辰ノ方一一アリ祭神金山彦命勧語年暦詳ナラス 例祭 十月十日 現在の社殿は昭和六年(一九三一)七月に新築されたものである。 もとの本殿は明治一六年(一ハ八三)七月諏訪神社の本殿を台併後、移建したものであったが 大正十ニ年(一九ニ三)九月一日震災のとき山崩れのため社殿埋没全潰した。 お神輿三◯一号 諏訪神社 ニ号 三合 見目明神の持ち物であった。 祭礼、潮祭、一月十一日 春季小祭 四月一五日 秋季小祭 十一月ニ四日 ◯大祭 七月七日から十四日 現在の祭礼 汐祭り 一月十一日 材木座海岸にて 春季小祭 四月一五日 境内 例大祭 六月第二日曜日 境内 町内お神輿渡御 前日 宵宮祭 三ツ目神楽 例大祭三日目(火曜日) 秋季小祭 十一月ニ四日 境内」。「五所神社例大祭回想」。「神輿庫」。昭和四十七年建造。材木座ではお神輿のことをお天王様と呼ばれていたため、別名天王堂と呼ばれています。神輿庫には合祀時に各神社から集められた三基の神輿が鎮座しています。向かって右手より一番様(旧諏訪神社江戸末期建造・鎌倉市指定有形民俗文化)、二番様(旧牛頭天王社弘化四年( 1 8 4 7 )建造)、三番様(旧見目明神社弘化四年( 1 8 4 7 )建造)となります。右「諏訪社神輿」。中央「牛頭天王神輿」。左「見目明神神輿」。「五所神社の神輿」。「山岳信仰」碑の案内。「諏訪神社」の鞘堂と内陣の「本殿」。「祭神々此在 仰徳々維馨」碑。「御岳信仰碑」 への参道の石段を上って行った。「????」山肌には様々な御岳信仰碑群が。「八海山大神 御嶽大神、三笠山大神」碑。中央に「駒ケ岳大神」碑、右に「馬頭観世音」碑。そして境内の周囲には多くの庚申塔碑が並んでいた。右手の庚申塔群を正面から。石祠。舟形庚申塔。上辺に、日月を浅く彫り、中央に合掌の阿弥陀如来像。下部には三猿が浮彫りにされているが、かなり欠損。貞享四年(1687)の建立。板状駒型庚申塔。上部に月月、中央に六手の青面金剛像。下辺に三猿が並んでいる。 年代は不明だが、江戸中期前半と思われると。唐破風付笠頭婆。宝珠をのせ、四方に唐破風付きの立派な笠がつき、塔身は花頭型に彫り込んでいる。中央に阿弥陀如来像が、死者を迎える来迎相(らいごうそう)で蓮の台に乗っている。下部には三猿が厚肉彫でなされているが、「きかざる」が正面に、向かって左には「いわざる」、そして右には「みざる」がある。天和四年甲子(1684)仲春廿四日の建立。板状駒型 奉彫庚申供養塔。辺に、日月、中央に合掌の青面金剛像。像のすぐ下に三猿が浮彫りにされている。享保十五年戌天(1730)十一月吉日の建立。さらに文化二乙丑年(1805)三月吉日再供養四名の銘もある。板状文字 庚申供養塔。文化九年(1812)十一月の建立。駒形庚申供養塔。上辺に、日日、中央に「庚申供養塔」。下部には桃を手にした一猿・言わ猿が浮彫りにされている。文政二巳卯年(1819)正月吉日の建立。駒型庚申供養塔。上辺に、日日、中央に「庚申供養塔」。下部は一猿(いわざる)が正面を向いて浮彫りにされている。前(左)のものと同じ文政二年(1819)正月吉日の建立。駒型庚申供養塔。上辺に、日月、中央に「庚申供養塔」。下部には三猿が浮彫りにされている。文化二年乙丑年(1805)ニ月吉日の建立。石段を上って右側の庚申塔群。板状駒型庚申供養塔。上辺に、日月、中央に合掌六手青面金剛像をつけ下部に比較的おおきな三猿の浮彫りがある。寛政四子年(1792)の銘がある。駒形文字庚申供養塔。享和三亥(1803)の建立。駒形庚申供養塔。寛政十ニ庚申年(1801)の建立。舟型庚申塔。上辺に日月、中央に「奉造立帝釈天王(玉)」と刻み、中ほどの両端に鶏を配している。下部には三猿が厚肉彫で。寛文十二年(1672)の建立。これより以前の年のものは8基しかないので、古いものに属す。安山岩製、高さ96.5センチメートル。鶏をつけたものではもっとも古いものだと。鶏は寛文のころからつけられるようになったとのこと。摩利支天像。摩利支天は、サンスクリット語の「マリーチ」からきていて、光線や陽炎、蜃気楼を意味する。一面だけでなく、二面、三面のものもあり、手に弓矢、刀などを持ち、いのししに乗っている。ここの像は、三面で、矢をつがえ、いのししにのっている。「見ることも、とらえることもでず、さらには焼くことも、濡らすこともできない」とされ、唱えて念ずれば、一切の厄難をまぬがれるといわれた。このような、ご利益から武士の信仰を集めたと。石段を上って左側の庚申塔群。唐破風付笠頭姿庚申塔。上辺にニ鶏、日日、中央に合掌六手青面金剛像が邪鬼にのった姿で刻まれている。さらにその両脇には僧形の童子が配されている。下部には三猿が彫られている。文政三年(1820)の建立。駒形庚申塔。上辺に日月、中央に「庚申塔」と刻まれている。下部には三猿が彫られている。天保十四卯年(1843)正月吉日の建立。駒形庚申塔。上辺に日月、中央に「庚申塔」と刻まれている。下部には三猿が彫られている。嘉永四亥年(1851)正月吉日の建立。駒形庚申塔。上辺に日月、中央に「猿田彦大神」と刻まれている。下部には三猿が彫られている。嘉永五年(1852)の建立。「馬頭観世音」。十字架とともに「お春像」。「お春像天和四」と彫られていることから、一六八四年の一月から二月(徳川幕府五代将軍綱吉の初期の時代)に作られた石像と思われるが、彼女が誰で、誰が何のために作り、誰のものであったのかその由来はわからない。両手を後ろ手にきつく縛られ、髪の毛は下ろされて後ろに引かれ、顔をあげさせられている。正座して、単衣の着物は細い帯で左前に着せられている。ということは処刑前の死装束。「お春像」は隠れキリシタン殉教の姿と伝えられる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「元鶴岡八幡宮(由比若宮)」を後にして、「小町大路」迄戻り「水道路」交差点を右折。先に進むと右手にあったのが「清水湯」。ここに日本の洋画家、政治家「黒田清輝邸」があったという。鎌倉市材木座1-10-24。旧鎌倉地区に唯一残る歴史ある銭湯。創業は1955年、一時期は廃業も検討されたが、地域の人たちからの是非続けてほしいという要望に応え、火、木、土、日曜日の週4日間のみ営業している、旧鎌倉地区に唯一残る歴史ある銭湯であると。「10mもの天井と広いお風呂」をネットから。 【https://tokyosento.com/archive/national/16484/】よりそして次に訪ねたのが「啓運寺」。鎌倉市材木座3-1-20。題目塔「南無妙法蓮華経」。開山は啓運日澄。創建は1483年。啓運寺(日蓮宗)の名はここからくる。日澄死後は無住で長勝寺の住職が兼務していた。啓運日澄は、妙法寺の住職だった人で、法華経の研究書「啓運抄」を書いた学僧でもある。啓運寺には、江戸期に作られたという日蓮上人読経像のほか、漁師からの信仰を集めた舟守稲荷が祀られている。日本近代洋画を確立した黒田清輝が、本堂をアトリエとしていたこと時期もあり、明治時代には、小学校の校舎としても利用されていたと。松光山啓運寺開山 啓運日澄本尊 三宝祖師。かつて黒田清輝がアトリエにしていたと。現在の本堂は昭和8年(1933年)に再建されたものである。本堂は小さなものである。横は竹林になっているが、四方竹の他に、小振りな根元の節に特徴がある丸竹も植えられていた。次に訪ねたのが「妙長寺」。鎌倉市材木座2丁目7−41「妙長寺」を正面から。山門右手前には、宗祖・日蓮上人の立派そして大きな銅像が立っていた。ズームして。厳しいお顔で。「文学案内板 妙長寺と泉鏡花〇泉鏡花の小説「星あかり」泉鏡花は明治六年(一八七三)石川県金沢市に生まれ、北陸英和学校を中退した。明治ニ十三年十一月、尾崎紅葉の門に入ろうとして上京したが、紅葉を訪冏する勇気がなく、方々を彷徨した。翌ニ十四年に鎌倉に来て、この妙長寺に七・八月のニか月間滞在した。その後、十月に思いきって紅葉を訪ね、人門を許された。以後創作に励み、小説家として認められ、数々の名作を残した。この妙長寺滞在の経験をもとにして、明治三十一年に小説「みだれ橋」を発表し、後に「星あかり」と改題した。星あかりもとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、ニッばかり重ねて臺にした。其の上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタガタ動かして見たが、開きさうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫學生が、四六の借蚊帳を釣って寝て居るのである。(中略)門を出ると右左、ニ畝ばかり慰みに植ゑた青田があって、向う正面の畦中に、琴彈松といふのがある。一昨日の晩宵のロに、其の松のうらおもてに、ちらちら、灯が見えたのを、海濱の別荘で花火を焚くのだといひ、否、狐火だともいった。(後略)」「山門」。江戸中期の建物。四脚門 棟柱・海老虹梁式 切妻・瓦葺 丸柱 三斗詰組。境内右手の「鱗供羪」塔。「鱗供羪塔」は約140年前に箸木山日府聖人の代に鎌倉・逗子・三崎の漁師たちによって建てられたといわれていると。「鱗供羪」は水産物の流通に携わっている方たちが日頃恩恵を受けている魚介類に感謝する行事とのこと。「鱗供養塔の由緒」碑。「鱗供養塔の由緒碑鱗供養塔の発願主は第三十六世日慈聖人である。明治十一年に当山第三十七世日府聖人の代に建立され、のち昭和四十九年六月十七日に鎌倉魚商協同組合主催の鱗供養塔建立百年祭が開催され、爾後十年毎に大祭を行っていた。当山の鱗供養は、材木座海岸沖の船上から住職か読経し生きた魚達を海に放ち慰霊する放生会(ほうじようえ)を執り行う。鮮魚を扱う者と共に海の生き物へ感謝の念を忘れず、豊漁と海の安全を心から祈願し、懇ろに海の生き物へ慰霊供養の祈りを捧げる。この塔は元々木製の十尺塔婆で当山檀家の草柳勘蔵殿の志で建立され、次代兼吉殿により建て替えて供養が続けられる。平成十六年百三十年大祭並びに平成二十六年百四十年大祭の二度三度にわたる志を草柳教治殿が受け継ぎ永代に渡り供養が続くよう鱗供養の石塔婆を建立される。人をはじめ動物も草木・大地に至るまで全ての命に感謝と敬いの心で合掌礼拝する法華経の精神もあわせ海に関係深い当寺に塔を建て供養す。」「伊豆法難記念塔」「妙長寺」は、1299年(正安元年)の創建で、もとは材木座海岸に近い沼ヶ浦というところにあった。しかし、1681年(天和元年)の津波で堂宇が倒潰したので現在地に移った。沼ヶ浦は、伊豆法難の際に日蓮が船出した地であると伝えられている。もともと、この「相輪塔」は、関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の旧ニノ鳥居の東柱を利用して建立されたもので高さ11mもあったが、その後傾斜したため、防災上の理由から石の部分は今の低い台座に取り換えられたのだと。「相輪塔」の最上部を見上げた。境内右に、白い石の舟があった。これは日蓮上人の伝説に基づくものであると。日蓮が伊豆に流された時、伊東沖の俎岩という岩礁に置いて置かれたのを、舟守弥三郎に助けられた。日蓮が乗っていた伊豆法難御用船の1/6の大きさで作られているのだと。鱗供養塔は明治十一年(1878)建立で、鎌倉・逗子・三浦の漁師の寄進であると・「日蓮聖人伊豆法難 鎌倉幕府御用舟(六分の一縮尺)日蓮上人註画讃(鎌倉妙法寺日澄聖人伝記絵巻写本)による弘長元年(1261)5月12日に鎌倉幕府に捕縛され、現在の材木座海岸(由比ヶ浜沼が浦)から伊豆伊東へ流されました。お弟子の日朗聖人は船のとも綱につかまり、一緒におともさせてほしいと願いましたが、幕府の役人に船をこぐ櫂で打たれ右腕を折られてしまいました。弟子信徒大勢が嘆き悲しむ中、別れを惜しむ声をあとに日蓮聖人は船出されました。この船上にて聖人は寶塔偈(此経難持)を唱えられ波の大小で独特の寶塔偈沖中節が生まれました。(船はお檀家様寄贈)」「本堂」に向かって右手前には、四大尊のひとり「浄行菩薩像」が安置されていた。扁額「浄行菩薩」。こちらにも「浄行菩薩」。「浄行菩薩」様に近づいて。「浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さまこちらのお堂に安置されているのは浄行菩薩さまです『お地蔵さん』ではありません。浄行さまです。法華経のお経の中に説かれる4人の菩薩・四大菩薩(しだいぼさっ)の中のお一人です。四大菩薩とはお釈迦様に引き続いて、仏にかわって苦しみの多い末法濁悪. (まっぽうじょくあく)の大変な世にあらわれて法華経を弘めて、悩み苦しむ人々を救うことを命じられた菩薩たち。無数の菩薩の中のリーダーのような存在です。4人お名前は、上行(じようぎょう)菩薩・無辺行(むへんぎょう)菩薩・浄行(じょうぎよう)菩薩・安立行(あんりゅうぎょう)菩薩です。こちらは本堂の正面です。上の段に5体金色の仏像が並びますが左から安立行菩薩、浄行菩薩、お釈迦様(中心奥)、上行菩薩、無辺行菩薩です。中心手前の僧侶の像は宗祖の日蓮聖人。四菩薩には、それぞれ特長があります。浄行さまについて見ますと、「浄行(じょうぎょう)」という名前から「浄い行い(きよいおこない)」浄い修行の菩薩です。汚れを洗いきよめて、心身が澄み(すみ)、美しく清らかになる徳(はたらき)があります。日蓮宗のお寺でまつられ、本山などではよく見かけます。「浄」はさんずいで水に関係があります。古来より参拝者は浄行さまの体を手でなでたり、または浄行さまに水をかけたり、注いだりし浄行菩薩像のお体を洗い清めながら、自らの身体の良くないところが少しでも治るように、たわしのようなもので磨いたりきれいにしながらお祈りしました。この浄行堂は篤信のお檀家、横浜の村田家の寄贈です。第4 2世の慈輪院日秀上人(村野宣忠上人)代に建立されました。また、第4 3世の代に当家、村田ヌイ様よりの援助もあわせ、よりお参りしやすくするため、浄行堂の屋根を持ち上げる工事を致しました。平成25年11月には、檀家総代の翁川鏡一様がさいせん箱の設置作業を無償でして下さいました。大事な浄行さまですので、今後も皆様のご援助も頂きながら、もっとお参りしやすくするため、少しずつですが整備させて頂きます。どうぞ、お参りの皆様、またお墓参りの際には心身清浄・心身健全の功徳のある浄行さまを、心からお祈りして頂ければありがたく存じます。 合掌礼拝 当山住職」「本堂」前には、妙長寺の縁起が刻まれた石碑が立っていた。「海潮山妙長寺縁起当山は元由比ヶ浜沼ケ浦に在り弘長元年五月十二日宗祖日蓮大聖人伊豆に配流せらるるや沼ケ浦より乗船し給ふ。弟子大国阿闍梨日朗上人纜に縋りて随行を乞ひしに幕吏櫂を揮って日朗上人の右臂を○く。宗祖船上よりこの経難持の文を唱え給う聖音海浪に遮られて長短齊しからず所謂沖中節調ここに起る。川奈の漁師船守弥三郎宗祖を俎岩に救い奉り妻と共に供養の誠を盡し一子を宗祖に投ず中老僧但馬公日実上人是れなり弘長三年二月二十八日宗祖赦されて海路鎌倉に還り給い沼ケ浦に着船す。宗祖滅後第十八年正安元年日実上人沼ケ浦に一宇を建立し海潮山妙長寺と名づく。蓋し父母入信の因縁発祥の地に拠りて梵音海潮音の妙法を長へに伝えんがためなり。然るに天和元年海嘯により堂宇悉く流 失せしが但だ祖師堂のみ難を免れて明治の中葉まで存し來船堂実成庵と称せり。堂宇流失の年第二十一世常徳院日慶上人後難を恐れて寺基を乱橋村畠中天目山円成寺の旧址に移す。是れ現在の地なり。円成寺は美濃阿闍梨天目上人の開創に係る。寛文の頃不受不施義を唱えたるにより廃絶せるか。創建巳来星霜茲に六百七十年史実の漸く滅びんとするを憂へ本年朗尊六百五十遠忌に際し碑を建て実を○して後に伝ふと云爾。昭和四十四年五月十二日 海潮山四十ニ世慈輪院日秀謹誌」墓地。正面に「本堂」。扁額「妙長寺」。「本堂」前には石製の「摩尼車(まにぐるま)」が。「内陣」御本尊は「一尊四士」。中央が説法印を結んだ「釈迦如来」。四大菩薩は、向かって左手より「安立行菩薩(あんりゅうぎょうぼさつ)」「浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」「上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」「無辺行菩薩(むへんぎょうぼさつ)」となる。「一尊四士」 の前立には「日蓮上人」が。寺務所。「妙長寺」を後にして南に進むと直ぐ右には石碑が。歩道を塞ぐように石碑が立っていた。鎌倉市材木座2丁目8−41。「亂橋(みだれはし)」碑。「亂橋又濫橋ト作リ 一石橋ノ名ナリ 橋の南方ニ連理木アリテ名高シ 東(吾妻)鑑ニ宝治二年(1248)六月ノ条ニ 十八日寅刻 濫橋ノ辺一許町以南 雪降リ其ノ辺霜ノ如シ ナトアリ 辻町ト材木座トヲ境スル細流ニ架セル逆川橋ト共ニ 鎌倉十橋ノ一ナリ」【この橋は鎌倉十橋のひとつであります。その名を乱橋または濫橋と書く石橋です。この橋の南の方に連理(れんり)木があって、有名でした。吾妻鑑(あずまかがみ)によると、1248年6月の記録に、18日の午前4時頃濫橋の辺に雪が降り、 その辺りは霜のように白くなった、と書いてあります。辻町と材木座との間の細流に架かる逆川橋とともに十橋のひとつです。】反対側の石の欄干。「十橋之一 亂橋」碑。水路の如き川・「古川」。さらに南下して次に訪ねたのが「向福寺」。鎌倉市材木座3丁目15−13 。寺号標「時宗 向福寺」。「小町大路」から入っていくと正面に「本堂」が。緑のアジサイの花、これから白に変身か。「本堂」。時宗・向福寺は、『丹下左膳』の作者林不忘(長谷川海太郎)が新婚生活を送ったといわれる寺。開山の一向は、時宗開祖の一遍同様に各地を遊行し、踊念仏によって教えを広めた。1923年(大正12年)の関東大震災によって、文政年間に建てられた本堂と表門が倒潰してしまった。現在の本堂は1930年(昭和5年)に再建されたもの。本尊の阿弥陀三尊像は南北朝時代の作といわれ、聖観音像は鎌倉観音巡礼第15番札所となっている。ご詠歌の額「ふかき夜の ゆめにすくせし わが身にやさいはひにむく しるべなるらん」ノウゼンカズラの花であろうか。葉っぱの形からサンパラソル?「鎌倉みほとけ紀行 向福寺の阿弥陀如来」。後ほどたずねた「五所神社」の御朱印であろうか。「一向宗開祖が開山の寺 円龍山 向福寺」。「袖引地蔵」。「かまくら 三十三観音巡礼 ⑮向福寺」。境内の「永代供養塔」。以前頂いた「鎌倉三十三観音 第十五番 向福寺」の「聖観世音」の御朱印です。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「若宮大路」の反対側に移動すると、あったのが「畠山重保供養塔」、「畠山重保邸跡」。鎌倉市由比ケ浜2-1089。「鎌倉市指定有形文化財 石造宝篋印塔(明徳4年銘) 昭和46年9月11日指定」高さ3.4mを超える、市内でも大型の宝篋印塔で、鎌倉幕府御家人、畠山六郎重保と伝えられます。塔の基礎には、『明徳第四 癸酉霜月三 日大願主 比丘道友』と刻銘があり、作風からも明徳四年(1393)造立とみられます。明徳4年は室町時代の1393年、1205年(元久2年)に謀殺された重保を偲んで建てられたものといわれています。同じく14世紀後半に造立された市内の宝篋印塔としては、文和五年(1356)銘の通称「泣塔」👈リンク (寺分所在)も有名です。」「畠山重保邸跡」碑。「畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ 嘗(かっ)テ北条時政ノ婿 平賀朝雅(ともまさ)ト忿争ス 朝雅其ノ余怨ヲ畜ヘ 重保父子ヲ時政ニ讒(ざん:告げ口)ス 時政モト重忠ガ頼朝ノ死後其ノ遺言ニ依リ 頼家ヲ保護スルヲ見テ之ヲ忌(うら)ミ 事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス及(すなわ)チ実朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ囲ム 重保奮闘之ニ死ス 時ニ元久二年(1205)六月二十二日 此ノ地即チ其ノ邸址ナリ 其ノ翌 重忠亦(また)偽リ誘ハレテ武蔵国二俣川ニ闘死ス」【畠山重保は重忠の長男です。以前、北条時政の婿の平賀朝雅(ともまさ)と争いになったことがありました。朝雅はその恨みを忘れず、重保父子を時政に悪く告げ口をしました。時政も、重忠が頼朝の遺言(ゆいごん)に従って、頼家を保護するの恨んでいたため、 なにかあれば殺してしまおうと思っていた所でした。そこで将軍実朝の命令が出たので兵を出し、重保の邸を囲みました。重保もよく闘いましたが殺されてしまいました。時は1205年6月22日で、この場所はその屋敷跡です。次の日、重忠も同じく、 だまして呼び寄せられ武蔵(むさし:神奈川東北部)の国の二俣川で討ち死にしました。】次の目的地の「元鶴岡八幡宮(由比若宮)」に向かって「若宮大路」を「鶴岡八幡宮」方面に戻る。「鎌倉警察署」前の植栽の中にあった「ミミズク」の像。瀬戸物なのであろうか?「ミミズク」も夜行性の生き物、よって警察署の前で夜の見張りをしているのであろうか?「由比ヶ浜歩道橋」交差点を右折して進むと左側にあったのが「京浜急行バス 鎌倉営業所」。「車庫」に停まっていた鎌倉のレトロバス「京急りんどう号」。平成20年(2008年)、京浜急行電鉄の創立110周年を記念して登場した2代目の「京急りんどう号」であろうか。ナンバープレートもそれにちなんで「110」になっていた。「鎌倉女学院中学校・高等学校」は、神奈川県鎌倉市由比ヶ浜二丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校。設立は1904年。高校からの生徒募集はしていないと。生徒数は1学年につき160人前後。略称「鎌女(かまじょ)」。更に進むと前方に橋が。「閻魔橋(えんまばし)」。「滑川(なめりかわ)」は昔「閻魔川」と呼ばれ、現在流れている場所より、かなり九品寺寄りを流れていたと考えれているのだと。下を流れる川は「滑川(なめりかわ)」。「閻魔橋」を渡った先の右手にあったこの旧家は現在は「喫茶ギャラリー」。鎌倉市材木座1丁目4−5。「喫茶ギャラリーAKI」。大正より続いた酒屋を閉業し、2007年喫茶ギャラリーとして再開業した店。地元に根付き昭和の香りが残る古民家風の造りと 自家製喫茶メニューは、人気の店と。鎌倉市内で開かれるコンサート等のポスター。右に大きくカーブしその先を左に折れると再び橋があった。下を流れる「逆川」が、地形の関係から海とは反対方向に流れているため、この名が付けられたと。逆川は「黄金やぐら」付近を源流とし、滑川(閻魔川)に合流する。「いつほんはし(一本橋)」の文字が。「小町大路」に出て「三浦道踏切」に向かって進み、左に曲がり細い路地を進むと「由比若宮」の手前右手にあったのが「石清水の井」。鎌倉市材木座1丁目9。「石清水の井」と書かれていたのであろうが・・・。そして「元鶴岡八幡宮(由比若宮)」に到着。鎌倉市材木座1丁目7。「元鶴岡八幡宮」碑。これが現在の鶴岡八幡宮の最初の場所。そのため由比若宮は「元八幡」・「元鶴岡八幡宮」といわれているのだと。由比若宮は、1063年(康平6年)8月、河内源氏二代棟梁の源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請して創建した社。1081年(永保元年)2月には、頼義の子義家が社殿を修復している。1180年(治承4年)10月7日、鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を遥拝。10月12日には、由比郷から小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。授けられる「破魔矢」は、源頼義が創建時に石清水八幡宮から賜った破魔弓と破魔矢を奉納したことにちなむものと。「由比若宮 御由緒鶴岡八幡宮境内末社。前九年の役で奥州を鎮定した源頼義が、康平六(1063)年、奉賽の意を込め、源氏の守り神である石清水八幡宮を由比郷に潜か(ひそかに)勧請したことに始まる。鶴岡八幡宮の元となったことから元八幡とも称される。祭神 応神天皇祭礼日 四月二日 毎月三日(摂末社月次祭)由比若宮壮創建以前、鎌倉は郡衛が置かれるなど古代東国の要地で、源頼義以来、源家相伝の地であった。源頼義は勅諚(ちょくじょう)により奥州に阿部貞任を征伐した時、丹祈の心あって潜か(ひそかに)康平六(1063)年秋に石清水八幡宮を勧請し、瑞籬(みずがき)を営み、永保元(1081)年には源義家が修復を加えた。その後 治承四(1180)年十月源頼朝公が鎌倉へ入ると、この社を遥拝し、神意を伺って、現在の鶴岡八幡宮の場所である小林郷北山に遷した。社頭には義家旗立松があり、近くには石清水の井がある。」「元八幡」碑。「鶴ガ丘八幡宮ハ東(吾妻)鑑ニ 本社ハ伊予守源頼義 勅ヲ奉シテ安部貞任征伐ノ時 丹祈ノ旨有リテ 康平六年(1063)秋八月 潜(ひそかに)ニ石清水八幡ヲ勧請(かんじょう:創設) 瑞垣(みずがき:垣根)ヲ当国由比ノ郷ニ建ツ 永保元年(1081)二月 陸奥守義家 修復ヲ加フ トアルハ即(すなわち)此処ニシテ 鶴ガ丘トハ 昔時此地ヲ呼ヒタルナラム 其後治承四年(1180)十月十二日 源頼朝祖宗ヲ崇センタメ 小林ノ郷北ノ山ヲ点シテ宮ノ廟ヲ構エ 由比ノ宮ヲ此処ニ遷(移)シ奉ル 之レ現時ノ八幡宮ニテ 東(吾妻)鑑ニ 治承四年(1180)十月七日 頼朝先ズ遥(はるか)ニ鶴ガ丘八幡宮ヲ拝シ奉ル トアルハ由比ガ浜ノ宮ナリ 遷宮ノ後モ鶴ガ丘八幡宮ト云ヒシハ旧称ニ従ヘルナリ 爾来 (以後)此処ヲ元八幡ト称ス」【鶴岡八幡宮の由来(ゆらい)について吾妻鑑(あずまかがみ)に「この社(やしろ)は、源頼義(ともよし)が安部貞任(あべのさだとう)の征伐(せいばつ)に向かう時、1063年8月に石清水(いわしみず)八幡を由比ガ浜に建てた。 その後1081年2月に源義家(よしいえ)が修理をした。」と書いてあります。 昔この土地を鶴が丘と呼んだのでしょう。その後1180年10月12日に源頼朝(よりとも)が先祖を祭るため、小林という土地の北の山に、由比の宮を移したものが現在の八幡宮であります。 吾妻鑑に「1180年10月7日に頼朝が遥(はるか)に鶴が丘八幡宮を礼拝した。」と書いてあるのは由比ガ浜の神宮であります。移った後も鶴岡八幡宮というのは前の名前をそのまま使っているからです。 それ以後ここを元八幡といいます。】「国指定史跡 鶴岡八幡宮境内」と書かれた木柱。「社殿」に向かって進む。「手水舎」。これが「義家旗立松」であろうか?隣に?代目の松が聳え立っていたが。「案内板」だったのであろうか?全く文字は消えていたが。ネットからは「源義家公 旗立の松」と記載されていたようであった。「石灯籠」と「社殿」。「社殿」鶴岡八幡宮が現在の場所に移る前の社で、元八幡(もとはちまん)ともいう。古くは「由比郷鶴岡」と呼ばれていた。1063年、源頼義が奥州での戦に勝利した帰りに、源氏の守り神である京都・石清水八幡宮の祭神を祀ったのが始まり。のちに鎌倉入りした源頼朝が1180年に現在の鶴岡八幡宮の場所へ移し、幕府の象徴としたが、現在も社殿は残り、その後も祭祀は続いている。「由比若宮 元八幡社務所」。鎌倉市材木座1丁目7−9。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク7月6日(火)、この日は梅雨の真っ只中、天気予報で雨が降りそうもない天気であるとのことで、急遽「古都「鎌倉」を巡る」の8回目に向かう。小田急線、東海道線、横須賀線を乗り継いで自宅から40分弱で「鎌倉駅」に到着。「若宮大路」の「鎌倉駅交差点」を渡る。「日本の桜名所100 若宮大路」碑。若宮大路は日本さくらの会の百選に入っていないが、昭和48年に朝日新聞が選定した「日本の桜 名所100」であるようだ。若宮大路の段葛は「日本の桜名所100選」に認定されており、鎌倉でも最も人気のある桜の名所。時季になると両側の桜並木が見事なトンネルをつくり、夜には両側の提灯がライトアップされ昼間とは違う表情を見せる。段葛とは鶴岡八幡宮の参道である若宮大路の中央を通る、二の鳥居から三の鳥居までの約500mの歩道のことを指す。「安産子育 産女霊神 長慶山 大巧寺」👈リンク 入口。長慶山 正覚院 大巧寺 (ちょうけいざん しょうがくいん だいぎょうじ) はJR鎌倉駅にほど近い、若宮大路に面している。産女霊神(うぶめれいじん、うぶすめれいじん)を祀る安産祈願の寺で、「おんめさま」と呼ばれている。「大巧寺」前から「鶴岡八幡宮・二の鳥居」を見る。そして反対の国道134号・「滑川」交差点方面。「国指定史跡 若宮大路若宮大路は寿永元年(1182)、源頼朝によって造られた鶴岡八幡宮の参詣道です。中世鎌倉の都市づくりの中心とされた鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至るまで一直線に造られ、都市づくりの基軸線となりました。『吾妻鏡』によれば、頼朝は日頃鶴岡八幡宮の参道を造りたいと願っていましたが、妻北条政子の安産祈願として道造りを始めました。頼朝自らが指揮し、北条時政以下の御家人たちが土石を運んだといわれています。現在は県道となり、鎌倉のメインストリートとしての役割を果たしています。車道の両側には松並木が整備され、往時をしのばせてくれます。ニノ烏居以北の道路中央の一段高い道は段葛と呼ばれ、国指定史跡鶴岡八幡宮境内の一部です。ーノ烏居は国指定重要文化財(建造物)に指定されています。」「若宮大路」を海岸に向かって進むと左手にあったのが「鎌倉中央食品市場」。歴史を感じさせる「鎌倉市農協連即売所」の看板があった。「鎌倉市農協連即売所」は鎌倉市内と横浜市長尾台町の農家が、自分たちで生産した農作物を、自ら販売している農作物直売所。組合員は、現在23軒で4班に分かれ、交替で出店していると。販売時間は、各班や農家によっても異なるが、この日は朝7過ぎ頃までには販売準備がほぼ整っていた。閉店は野菜が無くなるか日没くらいまでであると。休みは1月1日から4日までの4日間のみであると。鎌倉市小町1丁目13−10。既に準備も完了し、お客さんの姿も。様々なトマトが並んでいた。そして更に進むと前方にJR横須賀線のガードが。「下馬」交差点を左折し「えんめいじはし」を渡る。「延命寺橋」。下を流れる川は「滑川」。鎌倉駅方向を見る。こちらは下流側。前々日の豪雨で水位がかなり上がった事が解るのであった。そして「延命寺」に到着。鎌倉市材木座1丁目1−3。「本尊 阿弥陀如来」碑。「本堂」。専蓮社昌誉能公上人(せんれんじゃしょうよのうこうしょうにん)を開山として、鎌倉時代の執権北条時頼の夫人が建てたと伝えられている。ここにまつられている地蔵像「身代わり地蔵」は、双六(すごろく)の勝負で旗色の悪かった夫人を救ったといわれていると。また、この延命寺は仇討ちで有名な赤穂四十七士の一人、岡崎八十右衛門の子が出家して住職になったという言い伝えがあるのだと。本堂には中央に御本尊である阿弥陀如来坐像と聖観世音菩薩立像、右に弥陀三尊・両大師、左に身代り地蔵尊がある。鎌倉三十三観音第11番・鎌倉二十四地蔵第23番。以前頂いた「鎌倉三十三観音第11番 聖観世音」の御朱印。以前頂いた「鎌倉二十四地蔵第23番 身代り地蔵尊」の御朱印。寺務所。「善き事はゆっくり動く」と。「本堂」の鎖樋と天水桶。墓地。本堂裏手墓地に「古狸塚」という碑があった。江戸時代の終わりごろ、この寺に住みついた狸がよく人に慣れており、酒好きな和尚のために酒を買いに行ったりして可愛がられていたと。狸が死ぬと葬って碑をたて供養したと伝えられており、狸の墓というのは珍しいもの。「延命寺」を後にして、振り返って「本堂」の屋根を見る。県道311号線・鎌倉葉山線の踏切手前のビルの敷地内にあった小さな社。右手に「馬頭観世音菩薩」碑と「三界萬霊塔」碑。そしてJR横須賀線の踏切を渡ると左手の大きな槇の木の下には石像が。「金子サト記念碑」。松木立の下には、おかっぱ髪にスカート、あるいは半ズボンの3人が足元にしがみついた観音像が。鎌倉市大町1丁目1。昭和36年(1961年)のこの事故は不幸な出来事であったが、「身代わりサト像」ではなく、「子護りサト像」であるとしている と。最下部には「慈得院妙玄日里神女」と戒名であろうか?「因縁故金子サトさんは明治二十五年十二月二十五日誕生生前、大変子ども好きでした 奇しくもこの場所で幼稚園の園児を乗せた相模鉄道観光バスのために事故死したしかし、このサトさんに追突したバスはそのために急停車をし橋げたへの激突を危うくまぬがれ園児たちからは一人の負傷者も出なかった思えばこのサトさんの死が子どもたちを護ったのであるそこで、生前愛した玄海男のボクシング教室の練習生一同が報恩供養と かつは二度とこうした事故のないことを願ってここに子護りサト像を建立したのである昭和三十九年五月二十五日 三周忌に当り」そして「若宮大路」まで戻ると左手にあったのが「下馬」碑。「往昔鶴岡社参ノ武人ハ此ノ辺 ニテ馬ヨリ下リ 徒歩ニテ詣デタルニ因リ 下馬ノ称アリ 今ニ地名トシテ存ス 此ノ 地点ハ 鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ屡々(しばしば)戦場ノ 巷(ちまた)トナリシコト古書 ニ見ユ 尚ホ文永八年(1271) 九月十二日 日蓮聖人 名越 ノ小庵ヨリ竜口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上 鶴岡ニ向ヒ 八幡大菩薩 神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顕(あら)ハシyタマヘト大音声アリシハ 下馬橋附近ナリト伝ヘラル」【昔は、鶴岡八幡宮に参る武士 はこの辺で馬より降りて歩い たため、下馬の名前が付きました。現在でもその名前が残っています。この地点は鎌倉の重要な位置にあり、しばしば戦場になったことが古い書物に書かれています。なお 1271年9月12日に、日蓮聖人 (にちれんしょうにん)が名越 (なごえ)の家より竜口(たつの くち)の刑場に送られる途 中、鶴岡神社に向い「八幡大 菩薩、神ならば仏法のため霊 験(れいけん:神のしるし)を現 (あら)わし給え」と大声で願 をかけたのは、この下馬橋付 近と伝えられています。】鎌倉市大町1丁目1。「下馬」交差点の角にあった「湘南信用金庫 鎌倉営業部」ビルを振り返る。横断歩道を渡ると下馬交差点脇の南西角にあった若宮大路が平成5年に都市景観大賞を取った記念碑。植栽に隠れていた案内文を笹の葉を掻き分けて。「治承4年(1180年)鎌倉に入った源頼朝はこの地を政治の中心地として、鎌倉幕府150年の基礎を築き、翌々年、八幡宮と由比ヶ浜を結ぶ道を一直線に改修しました。それが若宮大路の始まりだといわれています。大路の中央部は「段葛」と呼ばれる一段高い参詣道となっており、頼朝が妻政子の安産祈祷のため造った貴重なものです。また、ここ下馬交差点は、かっては下ノ下馬と呼ばれ駒留があった場所で、参拝者は皆ここで馬から下りたといわれます。中世の都市計画によりつくられた若宮大路は、時代の推移とともに改修・補修が行われ、今なお古都鎌倉のシンボルロードとして生き続けています。若宮大路とその周辺地区は、神奈川県の「うるおいあるみちづくり事業」や鎌倉市の「洋風建築物保存事業」などにより、優れた都市景観が形成されていることが評価され、平成5年度の都市景観大賞を受賞しました。」「若宮大路古絵図」。そして前方に「琵琶橋」が姿を現した。鎌倉市由比ガ浜2丁目1。「琵琶橋」と。こちらには「びわばし」と。「琵琶橋」案内ボード。「若宮大路の二の鳥居から一の鳥居までの間は琵琶小路とよばれ、橋の名はこれにちなんで名付けられたという。昭和30年頃までは擬宝珠のついた朱塗りの橋であった。琵琶小路の由来は道筋に弁財天をまつる祠がありこのため道が曲がっていたが、その曲がり具合が琵琶の曲線に似ていたことによるとする説と弁財天が琵琶を抱いていたからとする説とがある。なお、祠は鶴岡八幡宮の池の傍らに移され、道をまっすぐにしたと伝わる。琵琶橋は若宮大路を横切って滑川に注ぐ佐助川に架かり、鶴岡八幡宮参道を維持する上で古来から重要な箇所である。また和田合戦の舞台の一つになったという伝承から軍略上の拠点箇所でもあったと考えられる。」鎌倉十橋のひとつであるという事実には一言も触れていないのであった。下を流れる川は「滑川」に注ぐ「佐助川」。「琵琶橋」を振り返る。ひっそりと茂みの奥に隠れる様に佇む「標柱」には「十橋之一琵琶橋」と刻まれていた。そして「由比ヶ浜歩道橋」交差点手前の道路の反対側にあった石碑。「浜の大鳥居跡」。若宮大路の南端に建てられた鶴岡八幡宮の「一の鳥居」は、「浜鳥居」と呼ばれていた。最初の「一の鳥居」は、1180年(治承4年)、源頼朝が由比若宮(鶴岡若宮)を現在地に遷座したときに創建されたとされ、その後、再建が繰り返されてきたものと考えられている。1990年(平成2年)の発掘調査によって発見された柱痕は、戦国時代に北条氏康によって造立された鳥居のものである可能性が高いという。この柱痕の発見によって創建当初の鳥居は、現在の「一の鳥居」より鶴岡八幡宮よりにあったものと考えられている。鎌倉市由比ガ浜2丁目2。「浜の大鳥居跡」碑。「鶴岡八幡宮参道(若宮大路)の最も南側に立つ鳥居は「浜鳥居」と呼ばれ治承4(1180)年の建立以来数次の再建を繰り返す。鳥居柱痕の年代は供出遺物等によって戦国期と推察され、天文22(1553)年北条氏康により造立された大鳥居のものである可能性が高い。快元僧都記などによれば、天文4年安養院の僧玉運が瑞夢から浜の鳥居再建を発願し上総国峯上で得た用材を海路運搬して準備を進めたと云う。本遺構は現在の鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の北方約180mに位置し、特異な構造であるとともに、旧浜鳥居の位置が推定できる点でも重要である。」「発見された柱痕調査:平成2年2月、発掘調査により発見。規模:直径約160cm、地中深度は不明。構造:芯材、中周材(8個)、外周材(17個)からなる 寄木造の鳥居柱痕。各材は契(ちぎり)技法により結合される。 また地表下160cmで南北方向に梁材を通す。材質:本体部 ヒノキ材 ・ 結合材 ケヤキ材」「鎌倉女学院中学校・高等学校」の正門を見る。道路を挟んだ反対側にはもう一つの鳥居柱痕が発見された場所があり、現在ではタイルでかたどられていて発掘された場所がわかるようになっていた。「鎌倉女学院中学校・高等学校」の正門前の「陸奥桜(むつざくら)」。「鎌倉女学院校地は、明治期を代表する外交官陸奥宗光氏の長男、陸奥広吉氏の別荘跡地で、一九〇四年に陸奥家より鎌倉女学院に寄贈された土地です。ニ〇〇四年に新校舎完成時に大島桜を植樹いたしました。今後長く鎌倉女学院の発展を見続けていただけるよう、陸奥家のご了解をいただき、『陸奥桜』と命名しました。」そして現在の「鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)」を見る。左手に「神奈川県鎌倉警察署」。鎌倉市由比ガ浜2丁目11−26。その先にあったのが「日米海底通信の史跡」。場所はNTT東日本鎌倉支店跡地。この場所はひと昔前、「ゆかり荘」というNTT鎌倉職員クラブがあったと。その「ゆかり荘」の前身は、旧電電公社・関東電気通信局鎌倉電信中継所。鎌倉市由比ガ浜2丁目11。その台座の横に「日米海底通信の沿革」という青銅板が、これはかなり腐食が進んでいる場所もあって読みにくかったが・・・。明治39年 8月 1日 川崎を陸揚地として通信開始明治39年12月14日 東京越中島に陸揚地変更昭和 6年 5月16日 鎌倉に陸揚地変更 海底電信中継所設置昭和18年 4月30日 鎌倉電信中継〇〇止 日米海底通信◯止「1906年(明治39年)、日露戦争が終わって、ポーツマス条約が結ばれた翌年ですが、米国は既に、サンフランシスコ-ホノルル-ミッドウェー-グアム-マニラ-上海間の太平洋横断海底通信線を布設していました。だから、日本とグアムを結ぶ通信線ができれば、日本-米国間の通信も可能になるということで、グアム線の工事は日本-父島間が日本、父島-グアム間が米国の分担で行われました。日本-父島間は、深海でもあり、潮の流れも速くて難工事だったとか。開通当初の1906年から25年間は、日本側の中継所はまずは川崎、その後東京・越中島へ。水位差が大きく、通信線の切断事故が相次いだことから、最終的に、鎌倉・材木座の滑川右岸に移されました。このような経緯から、厳密には鎌倉が日本の海底通信発祥の地ではないのですが、今もこの記念碑は残されています。」とネット情報から。そして「鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)」。国の重要文化財に指定されている。最初は1180年(治承4年)源頼朝により建てられた。地震や火災により幾度も建て替えられ、現在のものは約350年前の1668年(寛文8年)、江戸幕府第4代将軍、徳川家綱によりそれまでの木造ではなく、備前国犬島産の御影石(花崗岩の石材名)によって造られた。明神鳥居の典型といわれ、高さ8.5m、柱の太さは92cm。「二の鳥居」と「三の鳥居」も家綱の寄進によって建て替えられたが、1923年(大正12年)の関東大震災によって三つとも倒潰。この「一の鳥居」だけが1936年(昭和11年)に再建された。元の材料を最大限に活用し、補足材料は徳川家綱と同じく備前犬島に求めるなど当初の美観を損なわない苦心があったことが知られています。鎌倉駅を背にして左側柱の上部(旧材部分)に「寛文八年戊申八月十五日 御再興 鶴岡八幡宮石雙華表」と刻まれている。『吾妻鏡』によれば、1241年(仁治2年)4月3日、大地震が発生し、大鳥居内の拝殿が流出したとある。道路を渡って中央から「鶴岡八幡宮」に向かって。鎌倉市由比ガ浜2丁目14。左側柱の上部(旧材部分)に「寛文八年戊申八月十五日 御再興 鶴岡八幡宮石雙華表」と刻まれていた。「一ノ鳥居治承4年(1180)に源頼朝公が建立し、後に再建され、現在の石造の鳥居は寛文8年( 1668 )のものである。典型的な明神鳥居で規模も全国有数で、昭和25年( 1950 )国の重要文化財に指定されている。徳川二代将軍秀忠の夫人が篤く信仰していた八幡大神が夢に現れ、「備前国(岡山県)の犬島にある石で一ノ鳥居を造れ」というお告げがあり、徳川三代将軍家光の誕生を見たとされ、その御礼に家光の子徳川四代将軍家綱が長い年月を経て完成させたものである。石材(花崗岩)は海路で鎌倉まで運ばれ、鶴岡八幡宮三基の鳥居が初めて石造で建てられたのであった。その後関東大震災により全て倒壊折損し、この大鳥居のみ修理再建された。他二基(二ノ鳥居・三ノ.島居)の部材は、公歌碑等として遣存している。」「鶴岡八幡宮國寶大鳥居重修の記此の大鳥居は一之鳥居ともいひ治承四年十二月源頼朝の創建にかゝり壽永元年夫人政子築造の段葛と共に若宮大路の偉観たり爾来武門武将により再建修理を行ふこと数次寛文八年徳川家綱祖母崇源院の大願を承け備前犬島産花崗岩を以て此の鳥居を始め第二第三の鳥居を再興せり就中この大鳥居は夙に我が國石鳥居の範と仰がれ明治丗七年八月國寶に指定せらる然るに大正十二年関東大震災の際柱下部を残して悉く顛落大破せり即ち文部省に請い復舊の速ならむことを計りしが昭和九年文部省技師阪谷良之進同嘱託大岡實に依り稍く重修の設計成り同十一年三月国庫補助並に東京上田ちた近田三郎両名の獻資を以て工を起し同年八月其の功を竣えたり本工事は神奈川縣知事半井清監督の下に施工し専ら古法を尊び舊材の再用を旨とし補足材は之を犬島に求め東西柱上部笠木及貫中部同東部西沓石北側の七個を加へたる外苟も舊觀の美を損せさらしむるに力めたり昭和十一年九月一日 國幣中社鶴岡八幡宮宮司中島正國」ハマオモト(別名ハマユウ)の白い花。そして「若宮大路」の海岸方面を望む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンク次に「泉の井」に向かったが右手にあったのが「松巌寺殿の石碑」。風化が激しく、文字の判読は出来なかったが。辛うじて「松巌寺殿」の文字が確認できたのであった。この石碑はやぐら(墓所)にあったもので、「松巌寺殿浄室心清尼大姉墓之銘・・・大姉諱久、江府人也、大樹源秀忠公之・・・也、祖母雲光院初仕大相国源・・・」と書かれているとのことだ。地元の調査では、昭和初期には既に読めなかったのだと。左奥には、平坦な土地と中央に百日紅の木が。右手山裾に「やぐら」があるのであろうが、木々に遮られたりして確認できなかった。石造五重塔や置き石が。ここが「松巌寺」跡なのであろう。「普光山 松巌寺 (しょうがんじ)【廃寺】 宗派: 臨済宗 札所御本尊:聖観音菩薩立像 所在地: 扇ヶ谷村泉谷 (おおぎがやつむら いずみがやつ) (鎌倉市扇ガ谷2丁目19番)そしてその先直ぐ左にあったのが「泉の井」。新編鎌倉志に、「泉谷(いずみがやつ)は、英勝寺の東北の谷なり。 (吾妻鏡)の建長4年(1252)5月26日、右兵衛督教定朝臣が泉谷の亭を壊して、御方達の本所とすとあり。 是宗尊将軍(むねたかしょうぐん)の時也。御亭の跡、今所不知。路端に井あり。泉井と云う。清水涌出なり。 鎌倉十井の一なり。」と書かれていると。泉の井。水が溜まっていたが水の流れは確認できなかった。新・旧の「泉の井」碑。「泉の井(いづみのい)この井戸は、鎌倉十井の一つです。」十井の中では、比較的原形が残されています。こんこんと清水がわき出た往時の勢いこそありませんが、今でもきれいな水が出ています。」なぜ「 いずみのい」ではなく「いづみのい」なのであろうか?そして「泉の井」を背にして次の目的地の「妙傅寺」に向かう。「ノウゼンカズラ」であろうか。左手に折れて進むとカーブの場所に「妙傅寺」と書かれた木柱と境内への石段が見えて来た。「日蓮宗 正信山 妙傅寺」、「北辰妙見大菩薩 淨行菩薩」と書かれた木柱。石段を上って行った。「妙傅寺」の「本堂」。「妙傅寺」(日蓮宗)は、東京都文京区白山にあった寺で、1652年(承応元年)、紀州徳川頼房の祈願所として創建されたと伝えられている。道路拡張工事の影響で、1974年(昭和49年)、この地へ移転してきた。旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。妙見北辰菩薩は 1945年(昭和20年)の戦災で焼失してしまったとのことである。妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し、日蓮宗の寺院によくみられる。平将門が信仰したが、新皇宣言によって嫌気がさし、将門を離れたので将門は滅んだと。一方、平良文は、妙見菩薩の霊験により畠山・千葉・上総などの坂東八平氏を生んだとされている。特に千葉氏は妙見信仰で知られている。「本堂」の「唐破風屋根」。妙伝寺が建てられている所は、忍性によって開かれた多宝寺という真言律宗の寺があった。多宝寺の開基は北条業時(北条重時の子)と伝えられている。妙伝寺の裏山には、多宝寺長老の覚賢五輪塔が建ち、その周辺には「多宝寺址やぐら群」がある。扁額「多宝谷山」。裏山の上にある「覚賢五輪塔(かくけんごりんとう)」への上り口を探したが見つからなかった。本堂右手のやぐら。前が道路になっている。入口は狭いが中は広いのであった。内部には石仏と多くの卒塔婆が奉納されていた。そして、この日の散策の予定をすべて終え、鎌倉駅へと向かったのであった。途中、道路の民家には、白いモヤモヤとした花の木があった。「アオダモ」であろう。そして鎌倉駅まで戻り、この日は江ノ電を利用して藤沢駅まで戻り、小田急線にて帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「浄明光寺」の散策を続ける。こちらが「仏殿(阿弥陀堂)」。「仏殿(阿弥陀堂)」は三間四方の禅宗様建築で、正面は連子付き桟唐戸で脇間に花頭窓があった。寛文八年(1669)建立の唐様建築で、源頼朝創建の永福寺からの移設とされる。浄光明寺のこの仏殿には、かつて本尊の阿弥陀三尊坐像(「木造阿弥陀如来及脇侍坐像」(国重文))が安置されていた。そのため、「阿弥陀堂」と呼ばれる。現在は、浄光明寺の本山泉涌寺に倣って三世仏が安置されているのだと。左から「過去佛 阿弥陀如来」、「現在佛 釈迦如来」、「未来佛 弥勒如来」。「市指定文化財 浄光明寺仏殿(本堂)浄光明寺仏殿は、鶴岡八幡宮寺元喬僧都が、母の菩提を弔うために資金を提供し、寛文八年(一六六八)に再建されました。元々は浄光明寺本尊である阿弥陀三尊像が安置されていましたが、本尊が収蔵庫に遷座されたことにともない浄光明寺の本山である京都泉涌寺仏殿に倣って三世仏を造像し、過去・現在・未来にわたる仏法の興隆を祈願しています。堂内奥には室町時代頃の作と考えられる開基・北条長時の坐像(向かって右)と開山・真阿和尚(真聖国師)の坐像(向かって左)を安置し、堂内右手前には境内の経塚遺跡から出土した常滑窯の大甕を(鎌倉時代)置いています。ちなみに、仏殿再建に資金提供をした元喬僧都の墓で、傍らには、その母親の墓も建てられています。」「仏殿」を後にして、「仏殿」と「収蔵庫」の間を奥に進む。「重要文化財 史跡 浄光明寺境内 冷泉為相墓」案内板。正面の岩の断崖の中のやぐらの中に石仏や石塔が。そして右手の石段を上っていくのであった。ズームして。手前には「石祠」が。こちらの墓石には「先祖代々一切性霊 池光院◯海隼蓮清居士」と刻まれていた。そして自然岩を削り出した石段を進んでいくと木製ゲートがあり、開いていた。この先に「網引地蔵」があると、住職?から。」ここはコンクリート製の石段が。そして平らな場所に出ると正面には大きな「やぐら」が姿を現した。「やぐら」の中に石仏が見えた。やぐらの手前左に「網引地蔵」碑。浄光明寺の裏山「やぐら」内に安置されている「石造地蔵菩薩坐像」は、「網引地蔵」と呼ばれ、鎌倉二十四地蔵の一つに数えられている。由比ヶ浜の漁師の網にかかって引き上げられたものだと伝えられ、1325年(正中2年)の銘が刻まれていると。扇ヶ谷の鎮守・八坂大神は、かつて「網引地蔵」の西に鎮座していたという。「網引地蔵」はやぐら中心奥部に安置されていた。左手には宝珠を持ち、かつては右手に錫杖を持っていたのであろうか。右手奥にも更に深い「やぐら」の副室があるようであった。手前の石碑には「地藏菩薩石坂供養塔」と刻まれていた。他にも小さな文字で何か彫られているが解読出来なかった。「やぐら」の天井には天蓋を設置したであろう痕跡が見られた。それを支えたであろう貫を通す穴も確認できた。「網引地蔵」を別の場所から見る。「市指定有形文化財 彫刻 石造地蔵菩薩坐像一軀」と書かれた木柱があった。「網引地蔵」のほぼ真上にあるのが「冷泉為相墓」。長い石段を上って行った。石段の上に「宝篋印塔」が見えて来た。国史跡「冷泉為相墓(れいぜいためすけはか)」。「国指定史跡 冷泉為相墓 昭和二年四月八日指定冷泉為相は藤原定家の孫で、母は『十六夜日記』の作者阿仏尼である。為相は歌学・連歌の造詣が深く、歌風は広く世に知られている。永仁三年(一ニ九五)鎌倉に下り、嘉暦三年(一三ニ八)この地に没した。この宝篋印塔は相輪が欠けているが、南北朝ごろの形式をよく伝えている。なお、玉垣は徳川(水戸)光圀が寄進したものである。」「「冷泉為相」は「十六夜日記」の作者として知られる阿仏尼の子で、嘉暦三年(1328)に没した「冷泉為相」は、祖父藤原定家の花伝書を相伝して冷泉家を興した人物。為相は浄光明寺の西北の谷である藤ヶ谷に住み、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。墓塔は宝篋印塔で、鎌倉時代末から南北朝時代初め頃の型式を示しています」と頂いた案内書から。この「宝篋印塔」は「相輪部」が短く一部がが失われているようであったが。近くにはあったのは「無縁仏の墓」であろうか。更に、この先に国重文「石造 浄光明寺五輪塔(覚賢塔(かくけんとう))」があったのだが、「冷泉為相墓」からの尾根の通路は閉ざされていた。毎年4月の鎌倉まつり期間中のみ公開しているようであった。長い間、忍性の五輪塔と考えられてきたが、1976年(昭和51年)の修復のときに、地輪の下方からみつかった銅製の骨壺に「多宝寺覚賢長老遺骨也嘉元4年2月16日入滅」と彫られていたことから、1306年(嘉元4年)に入滅した「多宝寺」の長老だった覚賢の五輪塔であることが判明した。高さ約326cmの巨大な安山岩製の五輪塔で、極楽寺の忍性墓(355cm)にも匹敵するほどの大きさ。覚賢が名僧であったことをしのばせるもので、多宝寺がいかに大きな寺であったかがわかる と。 【https://rubese.net/gurucomi001/?id=1074650】より浄光明寺の東は、多宝寺ヶ谷と呼ばれる谷戸。かつては、ここに「多宝寺」があったのだ。極楽寺、称名寺(横浜市金沢区)と並ぶ鎌倉の真言律宗の主要な寺であったと考えられている。「多宝寺」は、1262年(弘長2年)頃に創建されたらしく、いつまで存続していたかについては不明。北条業時(重時の子)の招きで忍性が開山となったと伝えられている。『新編鎌倉志』には、「多宝寺ヶ谷という所あり、寺はなし」と書かれており、江戸時代にはすでに詳細が不明となっていたらしい。また、『新編相模国風土記稿』には、「浄光明寺の支院に多宝寺と伝えるありしが、今廃して覚賢塔のみあり」と記されている。覚賢五輪塔の前面に分布する「やぐら」からは、応永年間(1368~74年)の板碑が発見されていることから、室町時代の初めころまでは存続していたものと考えられる。現在、寺址には日蓮宗の「妙伝寺」が建てられている とネットから。 【https://rubese.net/gurucomi001/?id=1074650】よりそして「浄光明寺五輪塔(覚賢塔)」は諦めて帰路に。途中、今では少なくなってしまったヤマユリは咲いていた。そして再び「網引地蔵」の「やぐら」を見ながら進む。石段の途中から手前の「観音堂」そして先程見学した「阿弥陀如来及両脇侍坐像」が安置されていた「収蔵庫」を見下ろす。「観音堂」奥のやぐら内の石塔。「観音堂」奥にも多くの墓石が並んでいた。仏殿の裏を通り反対側に進むと、この場所にも多くの五輪塔や無縫塔(むほうとう)が並んでいた。「浄明光寺」の住職、僧侶の墓石なのであろうか。正面から。歴史を感じさせる墓石が次々と。「大伴神主家墓所」。「鎌倉市指定史跡大伴神主家墓所 平成七年十月十三日指定ここは鶴岡ハ幡宮の神主を代務めた大伴家の墓所で、記録の上では第十代持時〔文明十三年(一四ハ一)没〕からの墓が営まれたことが知られ、現在確認されるだけでも第十五代清道〔寛文九年(一六六九)没〕からニ十三代満綱まで九基の神主墓と、その家族の墓塔があります。墓塔は笏形碑、円頂形碑、舟形碑とさまさまで、とくに奥のやぐら内にある笏形の墓塔は、碑面に鳥居と笏が配されており、他に類を見ることができない神道特有の墓塔です。初代の神主は大伴清元といい、文治ニ年(一一八六 )あるいは建久ニ年(一一九一)に鎌倉幕府によって任ぜられたと伝えます。以後ニ十五代までその職にありましたが、明治四年(一ハ七一)頃に神仏分離の影響を受け、同職を離れたようです。当所は鎌倉時代以来の伝統を持つ大伴家の記念物として、また、鎌倉の中近世史を研究する上でも貴重な史跡です。 平成三十年三月鎌倉市教育委員会」この宝篋印塔は?「やぐら」と墓石が続く。「百度石」。再び「仏殿」正面に出る閉鎖せれていた石段を見る。「第九代勢至菩薩」。「庫裡」を」横から見る。そして「湘南の石川先生」と書かれた追悼&感謝のプレートを発見。「夏草のように育った高校時代を振り返るとき それぞれが思い浮かべる場面は違っていても私たち一人ひとりにとってかけがえのない先生であった 「一成さん」を忘れることのはないここに深い感謝と親しみを込めてその名をしるす県立湘南高校教諭(昭和二十九年~四十八年)石川一成先生 昭和五十九年十月二十三日没平成三年十月 日 湘南の教え子たち」と。私もこの石川先生にお世話になったのであった。そして最後に訪ねたのが「鎮守稲荷大明神」。朱塗りの鳥居の先に社殿が。社殿を横から見る。そして「山門」と「庫裡」を振り返る。以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場第二十五番 泉谷山浄光明寺 千手観世音菩薩」の御朱印です。以前に頂いた「鎌倉十三仏霊場第九番 泉谷山浄光明寺 勢至菩薩」の御朱印です。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.19
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「海蔵寺」を後にして往路と同じ道を引き返し、横須賀線のガード下を潜り「扇ノ井(鎌倉十井)」に向かう。その名の由来は、井戸の形が扇の形をしていることからといわれているが、源義経の愛妾、静御前が舞扇を納めたからとも伝わっている。現在は民家の敷地内にあるので、公開されていないと。この辺りの「扇ガ谷」という地名はこの井戸に由来するという説もあるのだと。民家の奥の崖の補強?部分の下にそれらしき姿があった。ズームしてみると、昔の手動井戸ポンプの姿や、石灯籠、石仏の姿が確認出来た。NETで調べて見るとやはりこれが「扇ノ井」であるようだ。鎌倉市扇ガ谷3丁目2。 【https://yil.jp/opto/digitalcamera/work/kamakura-well-02-ouginoi/index.shtml】よりそして次に訪ねたのが「相馬次郎師常之墓」。鎌倉市扇ガ谷2丁目9。「相馬次郎師常(もろつね)之墓「帥常ハ千葉介常胤ガ第二子ニシテ 相馬氏ヲ嗣(つ:継)ギ 巽荒神(たつみこうじん)ノ辺ニ邸ヲ有セシガ 元久二年(1205)十一月十五日 歳六十七ヲ以テ端座(正座)合掌ノ裡(うち)ニ決定往生を遂(と)ゲ 其結縁トシテ僧俗ノ人々集リ拝セシトイフ 窟中ノ宝篋印塔(ほうきょいんとう:墓碑石塔)ハ即チ帥常ノ墓ナリ」【相馬帥常は、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の次男であり、相馬家を相続し、巽荒神(たつみこうじん)の辺に住んでいましたが、1205年11月15日に67歳で、正座し合掌したままで亡くなりました。その姿を拝もうと人々が集ったと言うことです。岩の中の石塔は帥常の墓であります。】岩の中の「相馬次郎師常帥常の墓」が正面に。木製の扉を南京錠で閉ざされていた。「鎌倉市指定 史跡 相馬師常墓やぐら 平成八年十月十八日指定このやぐらは、古くから相馬師常(一一三九~一ニ〇五)の墓と伝えられ、地元の人々に厚く保護されてきました。玄室の平面形は矩形で、羨道を有し、龕(がん)の前に宝篋印塔が立ち、奥壁左隅の小龕中には一石五輪塔が置かれています。相馬師常は鎌倉幕府草創期の有力御家人の一人。千葉常胤の次男で、相馬氏の祖。政治承四年(一一ハ〇)父常胤とともに源頼朝の挙兵に加わり、文治五年 ( 一一八九)には奥州征伐に随うなど多くの戦功をあげています。本やぐらは閉塞された大形の龕を持っ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く伝えているとともに、被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と伝えられているなど、史料的価値の高いものです。」「相馬次郎師常之墓」の横にはアジサイの花が。その奥には別の「やぐら」が。横須賀線に沿った住宅街の道を進む。鎌倉八幡宮で令和三年六月三十日に行われる「大祓」のポスター。「浄光明寺」に向かって進む。鎌倉市扇ガ谷2丁目13−2附近の住宅街を進む。そして左手にあったのが「浄光明寺」入口。寺号標石「真言宗泉涌寺派 泉谷山 浄光明寺」。その後方に「藤谷黄門遺蹟」碑。「冷泉為相卿ハ為家ノ子ナリ 従二位中納言トナル 和歌所ノ事ニ由リ 兄為氏ト争論ノ末 ソノ母阿仏尼ト共ニ鎌倉ニ来タリ幕府ニ訴フ 遂(つい)ニ藤谷ニ寓(ぐう:住居)シ 藤谷殿ト称セラル 藤谷百首 ト呼ビ世ニ伝承セラルル和歌ハ 此地ニテ詠出セラレシ者ナリ 網引地蔵ハ其ノ建立ニ係ルト云ウ 卿ノ墓ハ其ノ後山ノ頂ニ在リ 五輪塔ニシテ 月巌寺殿玄国昌久ノ八字を刻セント謂ウモ 今ハ漫滅(摩滅)シテ字体ヲ弁ゼズ」【冷泉為相(れいぜいためすけ)は、為家(ためいえ)の子供です。播磨(はりま:兵庫県)の土地の所有の事で、兄の為氏(ためうじ)と紛争がおきました。そのため、母の阿仏尼(あぶつに)と共に鎌倉に来て、幕府に訴えました。そして、藤谷(ふじがやつ)に住んだので、 藤谷殿と言われました。藤谷百首(ふじがやつひゃくしゅ)と言う和歌集は、この場所で詠まれたものです。網引(あみひき)地蔵を建てるのに、関係しているようです。またその墓は、この後の山の頂にあり、五輪の塔で、月巌寺殿玄国昌久の八文字が刻まれていますが、 現在は、磨り減ってよく読めません。】「冷泉為相 舊跡」碑。「浄光明寺(じょうこうみょうじ)鎌倉幕府六代執権・北条長時が、開山に真阿を迎えて建立しました。北条氏の帰依が篤く、また、鎌倉公方(鎌倉府の長)の保護も受けました。本尊の阿弥陀三尊像(国重文)は宋(現在の中国)の影響を受けた美しい造形です。中央の阿弥陀如来像の衣の装飾には、「土紋」といわれる鎌倉地方特有の技法が使われています。裏山には歌人藤原定家の孫で、歌道の名門冷泉家の始祖為相の墓があります。母の阿仏尼は、京から鎌倉への紀行文『十六夜日記』の作者です。・宗派 真言宗泉涌寺派・山号寺号 泉谷山浄光明寺・建立 建長3年(1251)・開山 真阿(真聖国師)・開基 北条長時」「山門」に向かって進む。右手の塀の白線は5本の筋塀(すじべい)。元々は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として5本の定規筋を引いたのが始まり。皇族や摂家などの御所に用いられた。皇室に由来する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本の種があり、五本を最高とするのだ と。浄光明寺は鎌倉七口(三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口を指す名数)のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ガ谷(おうぎがやつ)の支谷、泉ヶ谷に位置しているのだ。「山門」はもと英勝寺の惣門を移築したものであると。切妻造本瓦葺の山門(四脚門)、英勝寺創建の寛永年間の作と推定されている。「真言宗 泉涌寺派 准別格本山 泉谷山浄光明寺」。頂いたパンフレットから「浄光明寺」の境内配置図を。鶴岡八幡宮から北西約0.5㎞、仮粧坂の東約0.5㎞、亀ヶ谷坂の南南東約0.3㎞に位置する「浄光明寺」は、鎌倉の北西を開析する扇ガ谷の一画にあたり、鎌倉の交通上及び防御上の最も重要な地域に営まれた寺院であり、切通の近辺に重要な寺院を配置する鎌倉幕府の意図が現れているのだと。台座に「楊貴妃観音」と刻まれた石仏像。世界三大美女のひとり、楊貴妃像。2003年に寄進されたこの像は鎌倉の隠れた美人祈願・恋愛成就スポットと言われていると。「楊貴妃観音」のお顔をズームで。左手に持っている花は「蓮の花」ではなさそう。こちらも周囲に切目縁を巡らした「本堂」の如き大きな唐様建築の「客殿」。見事な龍の彫刻。客殿左手に建つ「庫裡」は切妻造桟瓦葺で妻入り。「客殿」と「庫裡」の連絡廊下にも入口が。ここが「庫裡」の入口か。萩の花が咲きだしていた。境内には「タイサンボク(泰山木)」が。そして大きな白い花が。葉は長さ20 cm以上ある広楕円形で、表面は濃緑色で光沢があり、裏面は毛が密生しており錆色に見える。大きな白い花からは、甘い香りが漂って。「国重要文化財 阿弥陀三尊像ほか(石段上、収蔵庫内)本日、拝観できます」と。「鐘楼」。昭和六十一年(1986)建立の切妻造本瓦葺の「鐘楼」。「梵鐘」。切目縁を巡らせた宝形造りの「不動堂」。切目縁は縁板を敷居と直角方向に張った縁。濡れ縁に用いる。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の不動堂。.正面は桟唐戸と脇間は引き戸式の舞良戸。延享二年 (1745)建立(推)で、天明三年(1783)再建と。扁額「不動堂」。正面に苔むした石段があったがここは通行禁止であった。右手にあった石段を上って行った。途中にあった「虚空蔵菩薩」。近づいて。やぐら内には墓石が。多くの墓石がやぐら内に。正面に「収蔵庫」。200円を払い、国重文の「木造 阿弥陀如来及両脇侍座像」を案内して頂いた。国重文の「木造 阿弥陀如来及両脇侍座像」国重文の「木造 阿弥陀如来」。「矢拾地蔵」「矢拾地蔵」は、上記の阿弥陀三尊が祀られているなかに、いちばん左のすみに置かれていた。足利直義が戦いの時、矢が無くなって困っていたときに、一人の僧の子どもが矢を差し出してくれた。帰って、家の地蔵を観てみたら、片手に矢を持っていたと。この木像の地蔵様は、宋風の特徴が見られ、中世の鎌倉のみで流行した「土紋」と呼ばれる装飾技術が用いられた仏像としては最古のものと住職?が丁寧に説明してくださいました。 【https://livedoor.blogimg.jp/shu10gyu/imgs/b/7/b7de6936.jpg】より「浄光明寺敷地絵図」(重要文化財)平成12年に鎌倉市内の旧家で発見されたもので、鎌倉幕府滅亡直後に寺領の確認を新政権に求めるために作成されたと考えられる絵図で、全盛期の境内の様子がはっきりと描かれています。敷地の境界部分に太線が引かれて三角形のマークが描かれていますが、これは足利尊氏の従兄弟である足利重能の花押です。山門に面した緩やかにカーブした道など、絵図に描かれた鎌倉時代の地形はほぼそのまま現在まで残されています。 【https://www.goshuinbukuro.com/entry/2017/05/26/235057】より浄光明寺敷地絵図の説明 【https://omairi.info/2019/03/05/jyoukoumyouji-tpl-umekamakura2019/】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.18
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「化粧坂切通し」から「海蔵寺」に向かって緑を楽しみながら進む。正面に「海蔵寺」入口が現れた。「守本尊観世音菩薩」碑。「弘法大師遺蹟十六井 開山玄翁禅師道場 海藏時」碑。「海蔵寺(かいぞうじ)鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きな寺があったと伝えられていますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され、扇ガ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。この寺には多くの言い伝えがあります。空外は「那須の殺生石」の話が有名です。仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」「児護薬師」といわれ、胎内に仏面を収めており、啼薬師伝説があります。門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と歌われたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:扇谷山海蔵寺 ● 建 立:応永元年(1394) ● 開 山:心昭空外(源翁禅師)「文学案内板海蔵寺海蔵寺は、臨済宗建長寺派に属し、開山は心昭空外。足利氏満の命により、上杉氏定が建立したと伝えられています寺の入口右手には、鎌倉十井の一つ「底脱の井」があり、本堂左手道筋の崖下には、鎌倉期様式のやぐら(洞穴)に清水をたたえた、「十六の井」があります。ここでは境内の文学ゆかりの事柄についてご案内いたします。〇金子一峰句碑(十六の井戸前) 十六の井 その名所や をほろ月 一峰 (昭和六年四月建立)〇「十六の井」を詠んだ歌に、歌碑はないが、四賀光子の次の歌もある。 錠あけて 外の光の さし入れば 古井の水の 匂ひたちくる 四賀光子 (歌集「朝月」より)◯清水基吉句碑吉(山門横) 侘び住めバ 八方の森 四万の露 基吉 (昭和五十八年八月、日矢俳句会建立)◯底脱の井(又は無着如大)歌碑(底脱の井戸横) 千代能が いただく桶の 底抜けて 水たまらねば 月もやどらず (明治ニ十七年五月建立)旧山門への石段の両脇にはハギ(萩)が生い茂っていた。赤いハギ(萩)の花が開花を始めていた。右側の道路脇には「底脱の井」が。円形の井戸。この井戸が鎌倉十井の一つ「底脱ノ井」(そこぬけのい)。中央に歌碑が。「千代能が いただく桶の 底抜けて 水たまらねば 月もやどらず 如大禅尼 明治ニ十七年五月建立」と刻まれているようだ。「十井之一 底脱の井」碑。「底抜けの井(そこぬけのい)この井戸は、鎌倉十井の一つてす。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらず」とうたったことから、この名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。」9:30から入山可能との事であったが、時間が過ぎても入口「山門」前の竹棒はそのままに。脇の道路を奥に散策する。右手の断崖にもやぐらの如きものが。更に奥に進んで行った。私有地に付き此れより先は立ち入り禁止と。奥には素掘りトンネルがここにもあった。そして10分遅れでの開門。扁額は「含輝(がんき)」であろうと、くずし字判読の匠から。山門を潜り境内へ入る。アジサイの花。「鐘楼」。廻り込んで。「梵鐘」。正面に「本堂」。「本堂」。「本堂内陣」。「屏風」。本堂左奥の「やぐら」。下部の「やぐら」。しばらくすると「やぐら」のある崖の上には草刈りの職人さんの姿が。ご安全に!!石仏が生け垣から姿を出して。左手には、薬師堂と呼ばれる仏殿が。薬師堂の中央には、本尊の薬師如来坐像と両脇に仏様のお姿が。中央の薬師如来坐像は鎌倉十三佛の一つ。その胎内には空外が赤児の泣き声を頼りに土中から掘り出したと伝える仏面が納められていたのだと。向かって右手に日光菩薩、左手に月光菩薩像が。そしてその後ろの両側に十二神将像が。ズームして。本尊の薬師如来坐像と向かって右手に日光菩薩、左手に月光菩薩像が。海蔵寺境内の裏山沿いに、鎌倉時代の「やぐら」が。やぐらには五輪塔や武士の墓が並んでいた。 やぐらの中に小さな鳥居も。 裏山にも多くのやぐらが。「本堂」裏の庭園。 「https://hanako.tokyo/column/yuki-maeda-weekend/158926/」より半夏生。赤い和傘が。拝観料未納の方へお願い。この表現は十六の井戸を拝観しない方は拝観料が不要なのであろうか?英語表現からは、そのように理解できるが。もう少し、置き場と日本語表現をはっきりして欲しいのであった。100円を奉納し「十六の井戸」に向かう。海蔵寺仏殿の裏のトンネルを潜って行く。右手に「十六の井戸」が現れた。金子一峰の句碑。「十六の井 その名所や をほろ月」(昭和六年四月建立)そして「十六の井戸」の入口。岩窟があって、その中に直径70cm、深さ50cmほどの丸く掘られた穴が縦横4つずつ合計16個の穴が並んでいた。「十六ノ井」と呼ばれているが、16の穴について、『扇谷山海蔵略寺縁起』には、開山が観世音菩薩のお告げによって井戸を掘り出し、その時に観音菩薩像も出てきたと伝えている。一方で、弘法大師が掘ったもので、仏に奉納する水を汲んだ井戸であるとする伝説も残されている。また、学者の中には納骨穴ではないかという説もある。謎の多い井戸で、詳しいことは解明されていない参考までに、宝戒寺裏の滑川沿いで、1935年(昭和10年)に発見された「紅葉山やぐら」でも、「十六ノ井」と同じ形のものが発見されているのだと。岩窟内部正面の壁面には、「観音菩薩像」が安置されていた。「観音菩薩像」をズームして。この像は、1446年(文政6年)に安置された石像といわれ、その以前までは青銅製の観音菩薩像が安置されていたという。観音菩薩像の下に置かれているのは弘法大師像。観音像左の壁面には、1306年(嘉元4年)の銘が入った阿弥陀三尊来迎図を刻んだ板碑がはめ込まれているのだと。帰路も素掘りのトンネルを潜って。以前に頂いた「鎌倉二十四地蔵十五番 海藏寺」の「岩船地蔵尊」 の御朱印。以前頂いた「鎌倉十三仏七番 海藏時」の「薬師如来」の御朱印。そして海藏時寺の駐車場入口。駐車場奥にもやぐらが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.17
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「薬王寺」を後にし、再びJR横須賀線の「扇ヶ谷架道橋」を潜る。一株で様々な色合いのアジサイが道の先に。「海蔵寺」方面に歩を進める。「海蔵寺」は9:30からの開門の為、予定通り左に折れ源氏山に向かう。「化粧坂切通」まで300m、「源氏山公園」まで400mの案内。化粧坂に向かって進むと、曲がり角に上下二つの碑があった。上には、「水鑑景清大居士」と刻まれた碑。源頼朝の暗殺を企てた平氏の侍大将平景清(本当の姓は藤原)が幽閉されていた牢の跡である景清窟があった所だと。勇猛な武将だったという景清には、屋島の戦いで三保谷十郎の兜の錣(しころ)を引きちぎったという逸話が残されている。錣(しころ)と呼ばれるものは、兜の下部に布や威(おどし)などを垂らし後頭部から首を保護する覆いのことであると。壇ノ浦での敗戦後には、自分を匿ってくれた叔父の大日房能忍を殺害したことから「悪七兵衛」と呼ばれるようになった。1195年(建久6年)、源頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛すると、景清は頼朝を暗殺しようとして、東大寺の転害門に隠れていたという伝説が残されている。石清水八幡宮に参拝した頼朝を狙ったとも伝えられていると。下の碑は、「向陽庵大悲堂碑記」。平安末期における治承・寿永の乱(源平合戦)において活躍した藤原景清の娘である人丸姫は、捕えられた父に会うため京都より鎌倉に下って来たが会うことはできず、景清の死後に尼となり、景清が幽閉されていた石牢の上に、景清の守本尊(十一面観音像、現在は海藏寺にあると)を祀った。それが向陽庵だそうで、その数年後に亡くなった人丸姫は、扇ヶ谷近辺に葬られ、そこは人丸塚と呼ばれていたのだと。現在は安養院に預けられているのだと。「銭洗弁財天」方面に進むも案内板が石碑の近くに。アジサイを楽しみながら坂道を上って行った。舗装された坂道はこの先で終わっていた。「この先通行注意 鎌倉市」の表示板。そしてここから先が鎌倉と外界との主要な出入り口として、鎌倉七切通しの一つ「化粧坂(けわいざか)切通し」。仮粧坂(けはいざか)とも表記すると。鎌倉と外界との主要な出入り口として、鎌倉七切通しの一つとして知られている。名の由来は、平家の武将の首を化粧して首実検したからであるとか、この辺に遊女が住んでいたからと諸説ある。想像力を掻き立てられる名付けの坂なのである。歴史を感じさせる足跡の凹みに足を入れながら進む。「化粧坂切通し」の見どころといえば、なんといってもこの急勾配。切通しの中でも屈指の迫力ある勾配と足もとの凹凸があるのだった。苔生した岩道を滑らないように一歩一歩進んで行ったのであった。この日も「化粧坂切通し」を独り占め、すれ違う人も往復時いずれにもなく。そして「化粧坂切通し」を5分ほどで上り切ると前方に平らな場所が見えて来た。ここが「源氏山公園」。源氏山は白旗山または旗立山とよばれたこともあるようだ。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがあるのだった。春には桜、秋には紅葉が楽しめる人気のスポット。北鎌倉、大仏へぬけるハイキングコースがあり、近くには葛原岡神社、銭洗弁天、佐助稲荷があるのだ。左に行くと「源頼朝像」、右に行くと「銭洗弁財天」。源氏山公園の樟(くすのき)。そして「源頼朝像」。源氏山は、英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山で、後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が奥羽(東北地方)に向かう際、この山上に白旗を立て戦勝祈願をしたという伝説から、源氏山や白旗山と呼ばれるようになったといわれているが、寿福寺のあたりに源氏の邸があったからともいわれている。現在は、サクラや紅葉が美しい自然公園として多くの人々に親しまれており、中央広場には高さ2mほどある、1180(治承4)年ころの若い「源頼朝像」が立っていたのであった。「源頼朝公銅像この銅像は治承四年(一一八〇年)十月 源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当たる年を記念し、よりよい鎌倉づくりに市民が心を通い合わせることを誓い合った証しとして有志の方々から寄せられた尊い浄財によって建立されたものです。この像が中世日本の政治経済文化の中心地として栄えた鎌倉の歴史と郷土鎌倉の象徴として永遠に守り継がれることを願うものです。 昭和五十五年十月 源頼朝公銅像建立実行委員会」「源頼朝公銅像」をズームで。「源頼朝公銅像」の前の遊歩道の脇にはアジサイが咲き誇っていた。「源頼朝公銅像」の横のベンチで暫しの休憩。ここも独り占めの空間であった。そして再び「化粧坂切通し」を下った。下りの方が急坂を実感したのであった。一歩一歩、足元を確かめながら。「仮粧坂碑氣生坂又ハ形勢坂ニ作ル 此名稱ハ 往時平家ノ大将ヲ討取リ 其首ヲ仮粧シテ實檢ニ 備ヘシニ縁リ起ルト言ヒ 又一説ニハ 古此坂ノ麓ニ遊里アリシニ縁リ此名ヲ負フト相傳フルモ 東(吾妻)鑑ニハ其名見エズ 此坂ハ所謂(いわ ゆる)鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉攻防ノ要路ニ當リ 元弘三年(皇紀一九九三)五月 新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来屡々戦場トナレル所ナリ」【「けわいざか」の漢字は、「氣生坂」又は「形勢坂」と 当てています。この名前は、昔平家の大将を討取り、誰の首か確認しやすくするため、その首に化粧をしたことによるとの説があります。また昔この 坂の麓(ふもと)に遊女のいる所があったのでその名があるとの伝えがありますが、吾妻鑑(あずまかがみ:鎌倉時代の歴史書)にはその名前は出てきません。この坂はいわゆる鎌倉七口(ななくち)のひとつ であり、鎌倉を攻めるにも守るにも重要な地点でありました。皇紀1993年5月に新田義貞の軍が鎌倉に攻め入って以来しばしば戦場 となった所です。】「化粧坂切通し」入口そして「化粧坂」碑を振り返る。そして「海蔵寺」への参道まで戻り、左折して「海蔵寺」への坂道を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.16
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「海蔵寺」への分岐地点まで進むと、案内標識が。右手にJR横須賀線のガードが。「扇ヶ谷架道橋」と。道路や鉄道線路の上をまたぐように架ける橋・「架道橋」。 道路上のものを跨道橋(こどうきょう)、鉄道上のものを跨線橋(こせんきょう)ともいうと。「扇ヶ谷架道橋」を潜り進むと、右手にも観光案内地図や道路標識があった。「薬王寺」まで100m、浄光明寺まで350mと。「扇ヶ谷周辺観光案内図」。そしてその前にあったのが「岩船地蔵堂」鎌倉市扇ガ谷3丁目3−21。「海蔵寺 岩船地蔵堂」石碑。源頼朝と北条政子との長女・大姫の守本尊を祀ると言われているのだ。「岩船地蔵堂亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女之守本尊也』との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。『北条九代記』にも、許嫁との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、 梶原などの多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。」すなわち、源頼朝の娘大姫の守本尊を祀る岩船地蔵堂なのである。守本尊とされる石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背をもつもので、岩船地蔵の名の由来となっている。1691年(元禄3年)に堂が建て替えられたときに木造地蔵尊が安置された。その胎内の銘札には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれていたという。その当時、石造地蔵尊は縁の下に置かれていたのだとか。そして「薬王寺」に向かって扇ヶ谷の住宅地を進む。左手にあったのが「薬王寺」入口の石碑と案内板。「薬王寺(やくおうじ)もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川・蒲生家と縁が深く寺紋に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした。明治初期の廃仏毀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。本堂正面の日蓮坐像は、第十一代将軍家斉公の命により幕府が造立、説法形の口を開けた珍しい像です。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:大乗山薬王寺 ● 建 立:永仁元年(1293) ● 開 山:日像上人」参道入り口の門前法界塔。「南無妙法蓮華経法界」と刻まれていた。山門に向かって参道の坂を進む。「山門」。鎌倉市扇ガ谷3丁目5−1。山号は「大乗山」。「藥王寺」。「本堂」が正面に。小高い場所には緑の屋根の「釈迦堂」の姿が。右手に石碑群。「駿河大納言徳川忠長公供養塔」。「駿河大納言徳川忠長公供養塔駿河大納言徳川忠長公(三代将軍 家光公弟)は、粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28才で自刃せられ所領も没収された。悲歎やるかたない奥方 松孝院殿(織田信長 次男信雄の息女)は、時の当山三世恵眼院日珖上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み追善供養の為に当供養塔を建立した。 昭和49年4月 鎌倉市文化財指定」「秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。寛永10年(1633年)12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において切腹した。享年28。墓は43回忌にあたる延宝3年(1675年)になって大信寺に建立され、2021年(令和3年)現在では高崎市指定史跡となっており、硯箱、切腹に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されている。」とウィキペディアより。「南無妙法蓮華経大菩薩」碑。「鐘楼」。廻り込んで。「梵鐘」。境内左手・やぐらの中にあったのが「納骨墓」。墓地。やぐらの中に「安穏廟 法界萬霊」。樹木葬「安穏廟」。数多くの墓碑が。やぐらの上には民家の姿が。「寺務所」であっただろうか。「本堂」に近づいて。関東大震災にも耐え抜いた享保12年(1727年)建立の「本堂」。薬王寺は創建が永仁元年(1293年)、開山は日像上人となっている。もとは真言宗だったこの寺は、日像上人が寺の住職を論破し日蓮宗に改宗して「大乗山薬王寺」となったのだと。「扁額」は「大乗山」。「内陣」。本尊は久遠本師釈迦牟尼仏、寺宝は宗祖真筆本尊、日朗聖人真筆本尊、日像聖人真筆本尊、池上十五世日友上人本尊、本国寺 了義院日達上人本尊「日蓮大聖人尊像(本堂中央)天保五年(一八三四)十一代将軍徳川家斎公の代に幕府が施主となり、雑司ヶ谷鼠山に雄大壮美な大伽藍(感応寺)を建立、その感応寺に奉安された宗祖尊像である。天保十ニ年(一八四一)家斎公死去とともに老中水野忠邦の大改革により感応寺は廃寺を命じられ取り壊し、一切が池上本門寺に下げ渡しとなった。その後、尊像は数ヶ寺に奉られるも大きな尊体の為護持に困難をきたし、資材と共に比企ヶ谷妙本寺に保存された。明治八年身延山大火災により焼失した祖師堂の建立にこの資材が寄進されたが、尊像は縁あって当山で感得奉安したものである。乳首があり御口を開かれた珍しい尊像で、御腰部には将軍の遺骨を納める為の刳り穴がある。大きさは全国五指に数えられ、由緒ある尊像である。 (九十三糎)」蒲生忠知公(四国松山城主徳川家康公・蒲生氏卿公の孫)奥方と息女の墓所元禄年間に死去した奥方(松寿院殿)と息女(松嶺院殿)が当山に理葬され、本堂裏手募苑の中程に高さ三米余の宝筐印塔の墓が建立されている。「内陣」。「日蓮大聖人尊像」。説法形の口を開けた珍しい像であると。「寺務所」を別の場所から。「さしのべさん・毒消し薬王菩薩像」。「毒消し薬王菩薩像」案内石板。かのうすい(叶水)。「祈珠之塚」。「さしのべさん(本名 毒消し薬王菩薩)長くさしのべた右手・・・苦悩する人々を抱きしめ救済しようとされるお姿つま先を立てた左足・・・すぐにでも傍に駆けつけ寄り添おうとされるお姿お姿の通り薬壷を持たれるさしのべさんは、皆様の悩みや苦しみを引き受けて下さる菩薩様です。【縁起】徳川家・蒲生家とゆかりの深かった当山は元禄時代、三代将軍徳川家光公の弟、駿河大納言徳川忠長公の奥方の寄進により三千坪の敷地を擁し、一般民衆が参詣できない格式の高いお寺でしたが、当時その一隅に誰もがお参りできる、手を長く伸ばし足をつま先立て薬壷を持った、毒消し薬王菩薩様がおわしまし、「さしのべさん」と呼ばれて一般民衆の信仰を集め、一説には「薬王寺」という寺名の縁起となったとも言い伝えられています。薬王菩薩は、法華経に登場される菩薩様で、法華経を聞き得た恩に報いるため、自身の身を焼き、更にのち自身の両ひじを燃やす苦行をし、法華経の行者の守護を誓われた民衆救済の菩謹様です。かのうすい(叶水)仏教ては、悲願成就の第一は罪障消滅と言われています。その罪障消滅は懺悔(反省)によって叶うと言われます。皆様の悩みや願いを(きかのう『鬼叶う』)紙にしたため、日頃の反省とともにさしのべさんの手に触れ合わせたあと叶水にお納めください。過去に犯してしまった罪障や気付かぬうらに犯してしまっている罪障をこの聖水で洗い流すことから、悲願成就の道が開けるのです。【縁起】その昔、当山は夜光寺と呼ばれており、毎夜、裏山に光を放っ箇所があったことから、山からの湧き水は霊験あらたかと評判になり、民衆が挙って汲みに来たとの言い伝えがあります。」祈珠之塚念珠は、古から人の煩悩や天地の厄を吸収してくれると信じられ「お守り」として身に着けていた風習が日本各地にありました。祈珠之塚は、種々の想いを念じながら身に着けられていた念珠を、懇ろに供養し大自然にお返しする為建立された念珠供養塔です。』石段を上り「釈迦堂」を目指す。左手に動物供養の観音像。お顔をズームで。「動物たちの供養碑 一蓮観音廟われわれ人間の 食として命を ありがとう 進歩のために命を ありがとう 身体を支えてくれて ありがとう 家族として癒しを ありがとうこの碑は人間の為に尽くしてくれたすべての動物たちに感謝し慰霊をするための碑です。来世は霊山浄土で同じ蓮華の上に生まれ合わせられますよう家族たちはここに眠れます日蓮大聖人第737遠忌 御報恩会式之砌 平成30年11月3日 第53世 大埜 慈誠 」観音像の足元には動物たちの姿が。石段の上に観世音菩薩を祀る「釈迦堂」が。鎌倉独特の「やぐら」には小さな墓石群、そして石仏が。「久遠廟」やぐらの中に座る石仏・「永代供養墓」「法界萬霊」。「勲八等功七級 故陸軍歩兵伍長遠藤正ニ之墓」。「薬王寺」歴代上人の墓。「蒲生忠知公の奥方の墓」四国の松山城主蒲生忠知公の奥方・松壽院と息女の墓・梅嶺院であると。忠知は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将蒲生氏郷の孫にあたります。母は徳川家康の娘振姫。松壽院は、磐城平城主の内藤政長七女。名前は不明1700年(元禄13年)6月27日に亡くなりました。89歳でした。姑振姫の陽壽院の「壽」を用いて号したと伝えられています。「松壽院殿青山日縁大姉」。松壽院の父内藤政長の墓は、後日訪ねた材木座の光明寺・内藤家墓地内にああるとのこと。梅嶺院は、1645年(正保2年)3月19日に亡くなりました。12歳でした。「梅嶺院殿奉山日陽大童女」。空高くそびえる立派な墓は、300年以上の歴史を物語っていた。「蒲生忠知公の奥方の墓」前からの眺め。境内を見下ろす。参道のアジサイ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.15
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は6月24日(木)、「古都「鎌倉」を巡る」の7回目の日。小田急線、東海道線、横須賀線を乗り継いで「鎌倉駅」に到着。西口に出てこの日のスタート。右手に鎌倉駅旧駅舎時計台・「とんがり帽子の時計台」を右手にに見る。時間は7:20。西口ロータリーからJR鎌倉駅舎を見る。右手には江ノ電鎌倉駅の駅舎も見えた。家族等の通勤の為に送って来た車で駅前は混んでいた。この日の予定は、前回訪ねた「英勝寺」の前から化粧坂、源氏山を訪ねた後に、海藏寺に向かい、その後は道を戻り、JR横須賀線を潜り「扇ヶ谷」、「雪ノ下」の神社仏閣を訪ねるのであった。JR鎌倉駅を背にして鎌倉市役所前交差点方面に向かう。前回はこの交差点の左から来て、左折し鎌倉市役所方向に向かったのであった。この日は、右折して「今小路通り」を利用して寿福寺方面に向かったが、久しぶりに「寿福寺トンネル」を訪ね、裏から寿福寺の境内を通過して行くことにしたのであった。「旅する帽子屋 pájaro パハロ」の先を左手に折れ進んで行った。右手にあったのが「刃稲荷(やいばいなり)」。「刃稲荷」は、鎌倉時代の刀匠正宗(五郎入道正宗)の屋敷に祀られていた稲荷社。正宗は、五郎入道正宗、岡崎正宗、岡崎五郎入道ともいわれ、鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて鎌倉に住み、刀鍛冶として活躍した。 父は藤三郎行光。新藤五国光に師事し、相州伝を完成し、名刀鍛冶と言われた。その正宗が屋敷内に勧進したと伝えられる。江戸時代に松尾百遊らが再興したものといわれている(百遊は、前回訪ねた六地蔵の芭蕉の句碑を建てた人物)。祠には、正宗が鍛えた刀が納めてあったといわれているが、もちろん今はない。石碑には「稲荷社 正宗屋敷 焼刃渡」とあった。近くの民家のアジサイ。路地の角にあった瀟洒な民家の入口。鎌倉市扇ガ谷1丁目11。この石碑には「〇〇丸」??と。「真玄堂」と関係がある石碑か?「真玄堂」と書かれた表札も。日本刀、刀剣、鐔などの刀装具、鎧兜、甲冑、火縄銃などを商う「日本刀サムライギャラリー眞玄堂」の店主のご自宅であろうか。北に進むと直ぐに「寿福寺トンネル」が姿を現した。寿福寺に出る小道にある素掘りトンネル。岩をくりぬいた「寿福寺トンネル」を潜る。「寿福寺トンネル」を潜り左手に進む。ここを真っ直ぐ進むと急峻の狭い石をくり抜いた切通しの如き道があり「源氏山公園」に辿り着くのだ。墓地の中を進む。この先には「源実朝・北条政子墓」👈リンク があるのだがこの日は訪ねなかった。そして「寿福寺」の「中門」方面に向けて進む。「寿福寺」の「惣門」から「中門」への参道に合流。左手に「寿福寺」の「中門」。こちらが非公開の「亀谷山 寿福寺」の「仏殿」。「鐘楼」。場所を変えて。「梵鐘」。「寺務所」。コロナ禍で「御朱印休止中」と。「中門」前から「惣門」への参道を独り占め。「惣門」を境内側から見る。「惣門」を正面から。そして先日訪ねた「英勝寺」を見る。「英勝寺」の先の左手にあった「和」と刻まれた丸い石碑。愛玩動物の供養碑であるようだ。小さな祠とその中にも丸い石碑が。愛玩動物の墓石であろうか。そして次に訪ねたのが手前の「伝・阿仏尼の墓」。英勝寺墓地の崖下に「十六夜日記」の著者阿仏尼の墓と伝わる供養塔(層塔)。台座には「阿佛」と刻まれているが、阿仏尼の墓として特定することは難しい。ただ、浄光明寺の境内に阿仏尼の供養塔があったという伝承があり、『新編鎌倉志』にも「阿仏ガ卵塔有シ」と記されていることから、昔から、扇ヶ谷に阿仏尼の墓と呼ばれるものがあったものと考えられる と。横須賀線の線路を挟んで向かい側(浄光明寺裏山)には、阿仏尼の息子冷泉為相のものと伝わる宝篋印塔も存在していることから、向かい合わせに建てられたという推測もできるのだ と。そして隣りにあったのが「正一位 稲荷大明神」「お稲荷様世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)をお祀りしたもので、今から約千三百年前の昔、和銅四年の二月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は、稲がなるイナリの別名が示すように五穀の成育や全ての産業を育成する広大な御神徳のある神ですから、あらゆる人々の信仰をうけ、全国各地の神社や邸内に祭られています。鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が小島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおりこれが縁で幕府を開くことが出来たということです。この白ひげ老人が隠里稲荷の化身であったということです。お稲荷様は大切にお祭りしましょう。 英勝寺」源頼朝の枕元にたった神様は鎌倉に3柱あると。頼朝に挙兵・開府を促したお稲荷様は「佐助稲荷神社」、頼朝に安心立命・国内平穏のために、この地の宇賀福神を崇拝するよう促した「銭洗弁財天」、そして、配流の身であった頼朝を病から救ったこの「隠里稲荷」である とのこと。「智岸寺稲荷 」とも呼ばれていると。市内で 例えば鎌倉市扇ガ谷でも地域を特定しやすい谷戸(やと)名で呼ぶと、当地域は「智岸寺谷(ちがんじがやつ)」 として名残を留めていると。「智岸寺」は廃寺であるが跡周辺には太田道灌が邸を構え、更に太田道灌邸の跡が現存する唯一の尼寺 「英勝寺」 がある。「社殿」その先にも細長い「やぐら」の如きものがあったが中には???その先の左にあったのが介護付有料老人ホーム・「鎌倉山荘」。JR横須賀線を右に見ながら進む。そして「扇ヶ谷架道橋」が右手に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.14
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日の散策「古都「鎌倉」を巡る」はここまでとし、これから先の北側は次回とした。「英勝寺」を後にして、帰路には来た道を戻り、「寿福寺踏切」まで戻る。「寿福寺踏切」を渡り、左に進むと右手にあったのが「扇谷上杉管領屋敷迹」碑。「内大臣藤原高藤十三代ノ裔(すえ)に重房アリ 宗尊親王ニ従ヒテ鎌倉ニ下リ 食邑(しょくゆう:禄地)ヲ丹波國上杉荘ニ賜リテ 始メテ上杉氏ヲ稱セルカ 其ノ曽孫(ひまご)憲顯管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族勢力ヲ關東ニ占ム 門葉數家 重房五世ノ孫 顯定 扇谷家ヲ創ム 文明ノ交(1469-1487) 扇谷家六代ノ主 定正 賢臣太田道灌ヲ用ヒテ家聲を揚(あ)クルヤ 世ニ宗家山内ト共ニ两上杉又ハ两管領ト稱ス 此ノ地即チ其ノ邸址ナリ」【藤原高藤(たかとう)より数えて、十三代の子孫に藤原重房(しげふさ)という人がおり、鎌倉6代将軍となった宗尊親王(むねたかしんのう)に従って、鎌倉に行きました。そして、京都の上杉に領地をもらったので、名前を上杉としました。その3代後の上杉憲顕(のりあき)は、将軍基氏(もとうじ)の高官となり、一族の勢力は関東に広がりました。さらに重房から5代後の顕定(あきさだ)は、扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、扇谷家の6代目の定正(さだまさ)は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、山内(やまのうち)家と共に、両上杉または両管領(かんれい)と言いました。この場所がその屋敷の跡です。】石碑の前の道路の反対側には小川が流れていた。「扇川(おうぎがわ)この川にはヨシノボリ(魚)やモクズガニのほかにホタルの幼虫の餌となるカワニナ(貝)などの水生小動物が生息しています。良好な水辺環境をみんなで創り育てましよう。」そしてその隣りにあったのが「護国寺」の案内表示。「令和二年 竜ノ口発迹顕本七五〇年令和三年 日蓮大聖人御聖誕八〇〇年」円柱塔。日蓮大聖人の「発迹顕本」とは、御自身が竜の口の法難を機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という迹を開き、生命にそなわる本源的な慈悲と智慧にあふれる仏(久遠元初[くおんがんじょ]の自受用報身如来[じじゅゆうほうしんにょらい])という本地を凡夫の身のままで、顕されたことをいう のだと。「ここは 日蓮正宗 立正山 護国寺」総本山 多宝富士大日蓮華山大石寺 開基上人 総本山第66世日達上人開創 昭和44年1月10日開創縁起 日蓮大聖人の竜ノロ法難・発迹顕本の意義を末永くとどめるために建立この鎌倉で日蓮大聖人は捕われ、竜ノロ法難が起こりました。大聖人には、身命に及ぶ迫害を受けながらも、説き顕すべきものがありました。それは苦悩にあえぐ人々を無上の幸福境界に導く南無妙法蓮華経の教え(三大秘法)でした。そのお心を、御生涯の一大事として本門戒壇の大御本尊に顕し、本弟子六人の中でただ一人、日興上人に託されました。日蓮正宗では、日興上人の開いた富士大石寺に七百年来大御本尊を厳護しつつ、大聖人の三大秘法を広宣流布し、人々の真の幸福と平和な世の中を築くことを目指しています。 心の支えをお探しの方、悩みをお持ちの方は、是非当山をお訪ね下さい。」「掲示板」「日蓮大聖人御聖訓」日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。(叔恩抄)」「本年(令和三年)は日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節を迎えます。今の世の中は、法華経に五濁悪世と説かれるように、様々な濁りの中で人々は生きています。その苦悩を救うべく御本仏大聖人は出見し、本門の題目を弘められました。この大慈悲は末法万年の闇を照らし、人々を限りなく幸福に導くのです。(住職榎木境道)」ユニークなデザインの「護国寺」の「本堂」。富士の裾野の様な屋根、軒は、ドーナツの様な丸み。設計者は早稲田大学理工学部建築学科卒の横山公男氏であると。「日蓮正宗 立正山 護国寺総本山 多宝富士大日蓮華山大石寺開基上人 総本山第66世日達主人開創 昭和44年1月10日開創縁起 日蓮大聖人の竜ノロ法難・発迹顕本の意義を末永くとどめるために建立この鎌倉で日蓮大聖人は捕らわれ、竜ノロ法難が起こりました。大聖人には、身命に及ぶ迫害を受けながらも、説き顕すべきものがありました。それは苦悩にあえぐ人々を無上の幸福境界に導く南無妙法蓮華経の教え(三大秘法)でした。そのお心を、御生涯の一大事として本門戒壇の大御本尊に顕し、本弟子六人の中でただ一人、日興上人に託されました。日蓮正宗では、日興上人の開いた富士大石寺に七百年来大御本尊を厳護しつつ、大聖人の三大秘法を広宣流布し、人々の真の幸福と平和な世の中を築くことを目指しています。」英文による案内板も。中央に「発迹顕本讃仰之精舎」碑。その左側には「四条金吾殿御消息滝口に日蓮が命をとヾめをく事は法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」と刻まれた石碑があった。「本堂」への入口。内陣は撮影禁止であったがご住職が「護国寺」👈リンク について丁寧に説明して下さった。内陣を護国寺HPより 【https://www.kamakura-gokokuji.or.jp/the-auspicious-establishment-of-gokokuji-temple/】より「横大路」を東に進んでいくと、左手にあったのが「不動茶屋」。「厳窟不動尊(いわやふどうそん )」と書かれた木札が入口に。入口左にあった「山林奉納 不動尊?」と刻まれた石碑。奥に向かって進む。左手には庚申塔など多くの石碑が並んでいた。岩窟の中にあった五輪塔や宝篋印塔、庚申塔も参道に並べ直されている。5基の庚申塔、左から、 ● 唐破風付笠塔婆型 上辺に「日月」、中央に六手の青面金剛像を刻み、下に三猿の浮き彫り があり、左側面の銘は寛政3年(1791)の銘。 ● 駒型 下に一猿が横を向いて浮き彫りにされており、文化12年(1815)の銘がある。 ● 自然石 中央に「猿田彦大神」と刻み、文政6年の銘(左側面)がある台座にのっている。 ● 舟型 上辺に「日月」、中央に合掌した六手の青面金剛像を刻み、下には、三猿。 ● 駒型 上辺に「日月」、中央に「青面金剛」を刻み、下に三猿が浮き彫りにされている。 文政八年(1825)の銘がある。その先に五輪塔が並んでいた.。突き当りに鎮座する「窟堂(いわやどう)」は、「不動明王」を祀る岩屋のお堂。源頼朝が鎌倉入りする前からあったと伝えられている。かつては、街道が山の上を通っていたため、岩屋も山の上にあったが、街道が山裾を通るようになったことや、大地震によって崩れたりしたことから下方へ移動したのだという。窟堂は、江戸期まで東隣にあった松源寺に管理されていた。松源寺は、頼朝が源氏再興を祈願した伊豆日金山の地蔵を模造した日金地蔵を祀った寺。頼朝の位牌も祀られていたという。明治の神仏分離により廃寺となり、頼朝の位牌は白旗神社(西御門)へ、日金地蔵は横須賀の東漸寺に移されている。鳥居には扁額「厳窟不動尊」岩窟不動尊の祠の隣に『重軽石』という丸い石が置いてあった。この石は、願い事を占う石。石を持ち上げて重く感じれば身の丈以上の願いなので叶わず、軽く感じるようであれば叶うと。「重軽石の持ち上げ方まずはひざまずいて手をあわせます。『重軽石さま、重軽石さま。私は◎◎市に住む◎◎◎(名前)と申します。わたくしに神仏の御威光(おちから)をお示しください。まず、持ち上がらないほど重くなってください。』と唱えます。この後、両手で重軽石をもちあげる。次に『ありがとうございます。それでは持ち上がるほど軽くなってください』と唱えます。この後、もう一度重軽石を持ち上げる。最後に『ありがとうございます。改めてお願いを申し上げます』と伝え、自分の願いを伝える。そして最後に、重軽石を持ち上げる。最後は『本日はありがとうございました。」「不動明王像」。当初の不動明王像」は弘法大師の作といわれ、岩屋内部の壁面に彫られていたが、永い年月の間に風化してしまったため、後に彫られた石像が祀られたのだという。お顔に近づいて。見上げて。「岩窟不動尊」の先の奥まった場所にあったのが「鎌倉彫再興碑」。明治の鎌倉彫先駆者、後藤齋宮(いつき)と運久、三橋鎌山と鎌岳の二家の父子を顕彰する碑であると。かつての仏所であった場所に、1979年(昭和54)、後藤俊太郎によって建てられたた と。「~武家社会・禅宗文化の発展と仏師の活躍~源頼朝が鎌倉に入り、武家の都を創る上げると、運慶をはじめとする慶派の仏師たちが奈良から東国に入り活躍するようになる。そして、宋の文化が流入し禅宗寺院が興隆するようになると、仏具なども作られるようになった。これらの元となったのは、宋から陳和卿が持ってきた彫漆工芸を運慶の子康運が真似て作ったもの。建長寺の「須弥壇」や円覚寺の「前机」などの仏具がその代表で、奈良の慶派の仏師たちによって作られたものといわれ、鎌倉彫の原型とされている。その技術は、鎌倉仏師にも受け継がれ、茶が普及するようになると、「茶入」、「香合」、「香盆」などが作られるようになっていった。壽福寺の周辺(扇ヶ谷)には、多くの仏所があったといわれている。~伝統工芸への道~しかし、政治の中心が鎌倉を離れると、多くの仏所がなくなり、江戸時代後期には鎌倉仏師の流れを受け継いでいるのは、後藤家と三橋家のみとなった。明治に入ると廃仏毀釈の運動によって仏師たちの造仏の仕事がなくなり、その技術は工芸品の制作へと移行していく。昭和に入り、後藤家28代目の俊太郎は、戦後の鎌倉彫の普及に努め、1979年(昭和54年)には「伝統的工芸品」の指定を受けるに至った。」と【https://www.yoritomo-japan.com/sangyo/kamakurabori.htm】より。石碑の裏には、「鎌倉彫は鎌倉五山の建立に伴いて興り、桃山期全国に広まる。此処扇ヶ谷壽福寺周辺は佛師多く住して佛所を成し、造佛の業と共に佛器鎌倉彫の技を伝承す。時移り文化年間鎌倉三勝日記に依れば、運慶屋敷跡今に残りて佛師相続けりとあるも、天保十二年新編相模風土記は佛所僅かに三橋後藤の二家を残すのみと記す。幕末、其の衰微の底より後藤斎宮、運久、三橋鎌山 鎌岳らは伝統の技能を新時代に順応せしめ、近代工芸品たる鎌倉彫を再興せり、今日此の業を営む家百廿余軒工人四百余人、正に鎌倉を象徴する産業となれり、茲に四師の功を讃え記念の碑を建つるものなり」更に東に向けて進むと左手に石積みの上の黒塀が現れた。「鎌倉市川喜多映画記念館」の屋敷内への遊歩道への入口が前方に。「鎌倉市川喜多映画記念館」掲示板。「鎌倉市川喜多映画記念館鎌倉市川喜多映画記念館は、この敷地内にあった旧川喜多邸母屋を、周囲の景観と調和のとれた鎌倉らしい佇まいを楽しめることができる、和風の平屋建てに建て替えたものです。この記念館は、本市における映画文化の発展に資するため設置したもので、映写機能を持った映像資料室、映画に関する資料等の展示室等を備えています。また、敷地内にある旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)は、哲学者の和辻哲郎(明治22年一昭和35年)が江戸後期の民家を居宅として使用していたものを川喜多夫要が練馬区からここに移築したものです。なお、敷地内の遊歩道は、鎌倉らしい緑の中を散策できるように整備したもので、記念館をご利用にならない方でも自由にご散策いただけます。」前方に見えて来たのが「鎌倉市川喜多映画記念館」の建物が見えて来た。奥に見えたのが「旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)」の姿が見えた。こちらが「鎌倉市川喜多映画記念館」への入口。「鎌倉と映画を愛した川喜田長政・かしこ川喜田長政明治36年東京生まれ。大正12年北京大学文学部を中退し、ドイツに留学。昭和3年に洋と西洋の和合を意味する「東和」と名付けた東和商事を設立し、ヨーロッパ映画の輸人を行う。「アスファルト」「自由を我等に」等をわが国に紹介。昭和26年東和映画を設立し社長に就任、かしことニ人三脚で映画による国際交流に尽力。以後、東宝東和会長、東宝取締役等を歴任。フランス芸術文化勲章、藍綬褒章、勲ニ等瑞宝章受章。昭和56年5月に78歳で逝去。」川喜田かしこ明治41年大阪生まれ。フェリス女学院を卒業後、昭和4年東和商事に人社。同年秋社長の長政と蛄婚。長政とともにヨーロッパ映画の輸人に携わり、「制服の処女」「禁じられた遊び」等、数多くの名作を紹介するとともに、各地の国際映画祭で審査員を務め、映画を通じた国際交流に貢献し、わが国の映画文化の振興に尽力。これらの業磧から、勲三等瑞宝章、菊池寛賞、フランス芸術文化勲章、同国家功労賞などを受賞。平成5年7月に85歳で逝去。」近くにある「鎌倉市 鏑木清方(かぶらき きよかた)記念美術館」案内ポスターも。そして「鎌倉市 鏑木清方記念美術館」まで足を延ばす。「鎌倉市 鏑木清方記念美術館」掲示板。この日は展示作品の見学はしなかった。近代日本画の巨匠 鏑木清方画伯の終焉の地、鎌倉雪ノ下の旧居跡に建てられた美術館である。古都鎌倉の閑静な住宅地の中に、和風建物が端正なたたずまいをみせている。鏑木清方は、明治11年、東京神田に生まれる。幼い頃から文芸に親しんで育ち、その画業のはじまりは挿絵画家からであり、のちに肉筆画に向い、清らかで優美な女性の姿や、いきいきとした庶民生活、肖像、愛読した樋口一葉や泉鏡花などの文学を主な題材として描かれた作品は、市井の人々への共感や慈愛のまなざしが感じられる。鎌倉とのゆかりは、昭和21年に材木座に居を構えた時からである。昭和29年、文化勲章受章の年よりここ雪ノ下に画室をもうけ、昭和47年に93歳で亡くなるまでの間を過ごした。清方は晩年、自らの境地を「市民の風懐(ふうかい)にあそぶ」と称して、庶民生活を題材にした作品を多く手がけた。情趣あふれる日本画作品、また典雅な文体による随筆を多く残している。平成6年、遺族より鎌倉市にその画業と創作の場を後世に伝えてほしいという趣旨のもと、美術作品・資料と土地建物が寄贈された。これを受け、平成10年4月に記念美術館として開館した。そしてこの日の予定の散策を完了し「小町通り」を鎌倉駅に向かって歩く。この日はかなりの人出があった。JR鎌倉駅手前の地下道を進む。「街路灯マンホール蓋」鎌倉駅の駅舎と 市の木ヤマザクラ 市の花リンドウをデザインしたもの。リンドウは源氏から来ていると。GAIROTOUの文字が入っていた。線路下の東口地下道を潜る。路には2面にわたって展示ケースが設置されており、「地下道ギャラリー」という位置づけで、年間にわたって鎌倉市の施設(文化施設や学校等)が活動内容や成果物を展示しているのであった。そして西口にあった「とんがり帽子の時計台」。この時計台は、1916年(大正5年)に建てられた旧駅舎の象徴だったもの。長い間、「とんがり帽子の時計台」として市民に親しまれてきた。新しい駅舎の建設により、旧駅舎が取り壊されることになるが、「せめて時計台だけでも残して・・・」という市民の願いにより、 時計塔として残されたのだという。鎌倉駅の旧駅舎は、1984年(昭和59年)に新しい駅舎に建て替えられたと。そしてこの日は横須賀線で大船まで戻り東海道線、小田急線を利用して帰宅したのであった。この日の歩数は27,230歩であった。 ・・・もどる ・・・つづく・・・
2021.07.13
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『鎌倉散策 目次』👈リンク窟横の石段を登ると断崖の前に「太子堂」と「聖観菩薩像」が安置されていた。「聖観菩薩像」が祠の中に。「聖観菩薩像」。お顔をズームで。「太子堂」。「仏殿」等の屋根が聳え立っていた。「唐門・祠堂」案内板。「祠堂」の「さや堂」。英勝院を祀る「祠堂」は、英勝院の一周忌までの寛永二十年に、徳川頼房によって建立されたと見られ、現在さや堂に覆われていますが、金色の柱や軒の下の色彩の豊かさは日光東照宮などを思わせる見事なもの。さらにガラス戸に近づいて内部の「祠堂」👈リンク を。柱は金色、壁は黒漆、垂木は朱漆といったようにミニ東照宮を思わせる華麗な建物。天井の案内写真。「唐門」「唐門」は祠堂と共に建てられたと見られ、小さいながら細工は精巧で、欄間のぼたんの彫り物などは、高度な技術を示している。英勝寺の唐門(祠堂門)は、開基英勝院の墓廟である祠堂への門。ボタンの彫刻が施され、江戸時代の高度な技術をみることができる。唐門の奥には華麗な色彩装飾の祠堂がある(鞘堂の中)。「山門」讃岐高松藩主・松平頼重(徳川光圀の兄)によって建立されたものです。国の重要文化財に指定されている。大きすぎて、近くによると写真に入り切れない。見上げて。「山門(重要文化財・国指定)讃岐高松藩・初代藩主、松平頼重(水戸黄門で知られる徳川光圀の兄であり、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長子)が寛永ニ十年(1643年)に建立。扁額「英勝寺」は後水尾上皇(第一〇八代天皇)宸筆によるものです。禅宗様と和様を組合せたニ階ニ重門で、屋根は反りなく直線的で、初層軒下の蟇股には龍をはじめ八種からなる彫り物が施されています。上層には高欄を巡らし、眼象窓と呼ばれる比較的珍しい形の窓が設けられています。上層内には阿弥陀如来を中尊とし、左脇侍・観音菩薩と、右脇侍・勢至菩薩を配しており、その周りに十六羅漢像(※1 )が安置されています。※1・現在、羅漢像は十一体で、一体は失われ、保存状態の良い四体及び、扁額は鎌倉国宝館に 寄託されています。」山門の上層には、中央に阿弥陀如来、向かって右に観世音菩薩、左に勢至菩薩。さらに両脇には十六羅漢が祀られています。現在、十六羅漢は11体で、保存状態の良い4体は鎌倉国宝館に寄託され、1体は(震災のためか)失われているとのこと。1923年の関東大震災で倒壊した山門は市内の他所に移されていたが、2011(平成23)年に境内の元の場所に再建されたと。蟇股の彫り物。眼象窓と呼ばれる比較的珍しい形の窓をズームして。正面から「佛殿」を見る。浄土宗寺院の英勝寺は、東光山と号します。お勝の方(英勝院尼、太田道灌から四代目の孫康資の娘)が開基となり、玉峯清因を開山として、寛永13年(1636)当地に創建しました。お勝の方は、徳川家康に仕え、水戸家初代徳川頼房の養母をつとめていたことから、祖先太田道灌の地である当地を三代将軍徳川家光より拝領したといい、また、開山玉峯清因は水戸頼房の息女であったといい、英勝院死後には水戸光圀により祠堂が建立、代々の住職は水戸家の姫君が勤めたという水戸徳川家所縁の尼寺です。「佛殿本尊は阿弥陀三尊像、運慶作と伝えられています。英勝院を開基として寛永12年(1635年)に創建されました。配管後は窓を閉めて下さい。」近づいて。扁額には「寶珠殿(宝珠殿)」と、寛永20年(1643)4月11日の裏書きがあると。「仏殿」の内陣を横から。正面の小窓を開けると本尊の阿弥陀三尊を拝することが出来たのであった。仏殿内部には徳川家光寄進の阿弥陀如来と、向かって右の観音菩薩と左の勢至菩薩を本尊として祀っているとのこと。仏殿内に運慶作の「阿弥陀如来像」。仏殿から奥に進むと竹林が。一面緑に覆われていて別世界に訪れたよう。報国寺の竹林を思い出したのであった。若竹が大きく成長して。竹林の横にあった「書院」。正面から。竹林の奥は断崖が。岩が掘られて窪み内部には観音様が。地観音様。そして裏山の岩壁に「やぐら」の如き場所に鎮座する「金比羅宮」。扁額「金毘羅宮」。「内陣」。「金刀比羅宮 奉一社一同懇祈商賣繁昌守護攸」と書かれた御札。そして別の「やぐら」の中に祈りの石仏が。場所を移動してズームで。「半夏生」が。名前の由来は、72候の半夏生の頃に花が咲くからとする説と、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」と呼ばれたのが「半夏生」になったとする説などがあるのだと。また、古くはカタシログサ(片白草)とも呼ばれていたと。「英勝寺」の境内に入ったのは、数十年ぶりであったが、久しぶりに荘厳な山門、仏殿祠堂等をゆっくり観ることが出来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.12
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「今小路通り」まで進み、寿福寺境内の角まで来る。多くの庚申塔が並んでいた。左より1番目:笠塔婆型 塔身の正面を華頭形に輪郭をつけ、中央に「奉請庚申塔」と刻む。 その下に、二行に「寛文八天」(「年」ではありません。1668年)と 「六月吉日」と刻む。 昭和40年に市の有形民俗資料に指定2番目:駒型 「日月」を上辺に、中心に「庚申供養」と刻む。 下辺に、一猿「きかざる」を配する。 天保12年の銘あり。3番目:板状角柱型 「日月」を上辺に、中心に合掌する六手の青面金剛像をと刻む。 下辺に、三猿を配する。 天明六年(1786)の銘あり。4番目:板碑型 上辺の三角部分に「日月」を彫り、 枠のように彫り込んだ平らな部分に種子「キリーク」(阿弥陀如来を表す)を刻み、 中心に「奉供養庚申」と刻む。 下部に三猿を浮き彫りする。 延宝八年(1680)の銘あり。5番目:尖塔角柱 中心に「庚申塔」と大きく太く刻む。 安政七年(1860)の銘あり。 川上藤沢宿・川下八幡宮の文字が。 壽福寺門前は、武蔵国に通ずる「武蔵大路」が通っていたと。「市指定有形民族文化財 庚申塔 (寛文八年銘) 一基」左の「笠塔婆型庚申塔碑」が、それであるようだ。「弘法大師相模二十一ヶ所」という霊場巡礼があるようなのですが、最近ではほぼ廃れてしまったと。しかし寿福寺はその第7番札所のようだ。 「文学案内板 寿福寺寿福寺境内の文学ゆかりの事柄についてご案内いたします。◯文学碑 海上寿子歌碑(墓地・寿子墓碑横) 抜いでむふしはねがはずくれ竹の むなしきをこそこころとはせめ 寿子 (昭和十五年十一月建立) 米川稔歌碑(墓地・稔墓碑前) ぬばたまの夜音の遠音に嗚る潮の 大海の響動きはまらめやも 米川稔 (昭和四十六年六月建立) 星野立子句碑(墓地・星野家墓碑横) 雛飾りつゝふと命惜しきかな 立子 (昭和五十九年三月建立)」「源氏山」碑。「源氏山ハ初め武庫(むこ)山ト云ヒ 亀ヶ谷(かめがやつ)ノ中央ニアル形勝ノ地ナルヲ以テ 又亀谷山トモ称セリ 源頼義 義家父子 奥州征伐の時 此山ニ旗を立テルヨリ 或ハ旗立山ト名付ク 山ノ麓寿福寺境内附近ハ 爾来(以後)源氏世々ノ邸宅タリシ地ナリト云フ 源氏山ノ名称ハ之ニ起因せセルカ 旗竿(さお)ヲ建テシト云フ故址(こし:旧跡)ハ今尚ホアリ」【源氏山はその前は武庫(むこ)山と言っており、また亀ヶ谷(かめがやつ)の中央にあって、形が勝れているため亀谷(かめがやつ)山とも言っておりました。源頼義(ともよし:988-1075)、源義家(よしいえ:1039-1106)の親子が東北地方に征伐(せいばつ)に行く時、 この山に旗を立てたことにより、旗立山ともいいました。 山の麓(ふもと)の寿福(じゅふく)寺付近は、昔から代々源氏の邸宅であったと伝えられています。源氏山の名前はそこからきたのかも知れません。 旗竿(はたさお)を建てたと伝えられる跡が今なお残っております。】「勝の橋」碑。「勝の橋」といっても、橋らしきものは?。よく見ると道路の脇の石塔の中に、石の橋標があるので、なんとかここが勝の橋なんだと確認できるのであった。そもそも、勝の橋は、寿福寺の隣にある英勝寺の開基となった徳川家康の側室「勝の局」がこの橋を架けたことに由来していると。この英勝寺の敷地は、江戸城を築いた太田道灌の屋敷跡。寿福寺の山門。寺号標石「壽福金剛禪寺」。山門前の右手にあった石碑。生誕八百年記念の「源 實朝をしのぶ」と刻まれた源 実朝 顕彰碑。 実朝の事蹟を表面下部に銅版を貼り、之に碑文を記し、裏面には寿福寺前住職であった内田智光師の自筆の漢詩が刻まれていた。平山郁夫書とも碑面左下に。「源実朝(1192~1219)建久三年 源頼朝の次男として誕生 十二歳で鎌倉幕府第三代将軍となる蹴鞠、管弦、和歌に秀でた文化人で金塊和歌集は有名である。寿福寺との関係は深く、開山栄西禅師が実朝に献上した喫茶養生記をはじめとする由縁の品々もこの寺に伝えられている。」「国指定史跡 寿福寺境内 昭和四十一年三月二十ニ日 指定亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は、正治二年(一ニ〇〇年)に頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺であります。この地は、もと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといわれています。墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔が二基あります。現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槙があり、往時のおもかげを残しています。」鎌倉随一の美しいと言われている参道。「寿福寺源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明菴栄西を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、『喫茶養生記』を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。裏山の「やぐら」(中世の横穴墳墓)には、源実朝、母・政子の墓といわれる五輪塔があります。墓地には俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。 ● 宗 派 臨済宗建長寺派 ● 山号寺号 亀谷山壽福金剛禅寺 ● 建 立 正治2年(1200) ● 開 山 明菴栄西」この寺・「寿福寺」👈リンク も何回か訪ねているので、ここまでとして引き返した。左手の道路脇に「英勝寺」の「総門」の如き建物が。こちらの「総門」前には「英勝寺入口はこの先60m➡」と記入された案内板が。「英勝寺初期の江戸城を築城した太田道灌の子孫で、徳川家康に仕えたお梶の方(英勝院)が道灌の屋敷跡に建てた尼寺です。お梶の方が行くと戦に勝利したことから、改名して、お勝という名になったそうです。お勝の方は、水戸将軍家の初代頼房の養母であったことから代々水戸家の姫が住職を務めています。江戸時代は水戸御殿と呼ばれたほど格式が高く、総門には三葉葵の紋を掲げ、さながら武家屋敷のような境内でした。仏殿、祠堂、唐門、鐘楼は江戸時代初期の建築で、これだけよくそろい、当時のままで残っている寺は少なく貴重です。●宗派 浄土宗●山号寺号 東光山英勝寺●建立 寛永13年( 1636 )●開基 英勝院尼」「太田道灌邸舊蹟」碑。「此ノ地ハ武略(軍略)文藻(文才)兼備ヘ忝(かたじけな)クモ 武蔵野ハ萱原(かやはら)ノ野ト聞キシカドカカル言葉ノ花モアルカナ テフ(と言う)叡感(天皇の感歎)ニサエ預リタル道灌太田持資(もちすけ)ガ江戸築城前ノ邸址ナリ 寛永十一年(1634)今ノ英勝寺ト為ル其ノ創立者水戸藩祖頼房(ともふさ)ノ准母(内親王)英勝院ハ道灌の嫡流太田康資ノ女(むすめ)ナルヨリ晩年将軍家光ヨリ特ニ此ノ地ヲ授リテ之ニ住スルニ至レルナリ 孤鞍(単騎)雨ヲ衝(つ)イテ茅茨(ぼうし:茅葺家屋)ヲ叩ク少女為ニ遣(や)ル花一枝ノ詩趣アル逸話ハ道灌ガ壮年猶此ニ在リシ日ニ於テ演ゼラレシ所ノモノナリ」【この場所は、太田道灌(どうかん)が、江戸城を築く前に住んでいた屋敷の跡です。道灌は、軍略と文才を兼ね備えた人で、「武蔵野は、萱原(かやはら)の野と聞きしかど、かかる言葉の花もあるかな」と、天皇にも誉められる程の人でした。。英勝寺は1634年に、 水戸藩を開いた徳川頼房(よりふさ)の乳母(うば)でもあった英勝院によって建てられました。その英勝院は道灌の子孫である太田康資(やすすけ)の娘で、晩年になり、徳川家光から特にこの地を授りて受けてたものです。太田道灌が一人で馬に乗り、雨の中を駈け、 萱葺(かやぶき)きの人家の前で雨具を乞うと、少女が山吹の花一枝を差し出した、という故事は、この場所に住んでいた頃の逸話です。】そして太田道灌の墓が、寿福寺の裏から源氏山公園への急峻ルートの脇にあり、以前訪ねたことがあるのだ。「東光山(とうこうざん) 英勝寺」通用門・入口。通用門・入口は女性らしさを感じる花のモチーフがあしらわれた白のゲートが。当寺開基の英勝院尼は太田道灌の子孫で、よって「太田家の桔梗紋」がと。潜戸を潜って境内へ。庫裡で拝観料300円を払い境内散策へ。草むらの中の地蔵尊。アジサイの花。鎌倉大仏の如き姿の小さな石仏。「庫裡」を振り返る。正面に「佛殿」の裏側。ピンクのアジサイ。寺の奥になにやら不思議な祠があった。ここは出口。英勝寺の山門横の崖に掘られた洞窟、三霊社権現。ここから中に入れたのであった。少し屈みながら進む。前方に出口の明かりが見えた。更に進む。途中、手を合わせて。そして外に出て振り返る。20m程度の長さであっただろうか。再び山門を斜めから見る。別の場所から。珍しい形のアジサイ。「総門」を境内内側から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.11
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「鎌倉歴史文化交流館」の別館で開催されていた企画展「鎌倉大仏-みほとけの歴史と幻の大仏殿-」の見学を終え、「鎌倉歴史文化交流館」の庭の見学に向かう。ここは2002年(平成14年)の発掘調査で建物礎石や1293年(永仁元年)の大地震後に造営されたと考えられる庭園遺跡が発見されたのだと。「無量寺谷は興禅寺の西方の谷で、昔、無量寺という泉涌寺末の寺があった」ことが記されていると。そして、『吾妻鏡』の安達義景の十三回忌に触れ、「義景は盛長の子で居宅は甘縄。この辺まで甘縄の内であるので、『吾妻鏡』の無量壽院は、後に無量寺と呼ばれたか?」という内容が記されているのだと。「やぐら風の横穴と庭について庭に見える3つ並んだアーチ状の横穴は、当地が岩崎家の所有であった頃に造られたものといわれています(庭の意匠あるいは貯蔵庫ともいわれますが、詳しい用途は不明です)。その左にある横穴や、別館工ントランス正面にある横穴は、中世に遡る「やぐら」で、当館の敷地内には同様の横穴が点在しています。やぐらは横穴式の埋葬施設で、鎌倉の各所に見られます。別館の発掘調査では、玉砂利を敷いた鎌倉時代後期の池と遣水の遺構が発見されています。切り立った岩肌を借景に池を配する庭園様式は、著名な瑞泉寺の庭園にも共通するものです。中世の池に設けられた遣水は、この窓の正面付近へと伸びていました。現在でも岩肌から水が染み出し、小さいながらも多様な植物や生物が共存する空間を作り出しています。自然的景観と建物が調和する風景は、鎌倉の谷戸に見られる特徴の一つです。近世以降に多くの手が加えられながらも、中世的な景観の痕跡を感しられる当館の庭をお楽しみください。」中央の3つ並んだアーチ状の横穴は、当地が岩崎家の所有であった頃に造られたもの、そして左にある横穴が中世の「やぐら」であると。それにしても鎌倉の歴史を物語るこの場所をよく選んでこの「交流館」を建設したもの。石段を上って行った。左手に「合鎚稲荷祠道」と刻まれた石碑が。そして石段を上り終えると右手に一段高い場所が現れた。この場所にはかつて「合鎚稲荷社(あいづちいなりしゃ)」があったのだと。この博物館開館前に「 葛原岡神社」👈リンク 既に移設されていたと。「合鎚稲荷社跡」について当館の建つこの谷戸は「無量寺谷」と呼ばれ、江戸時代には、相州伝の刀工正宗の後裔である綱廣の屋敷があったと伝えられます。そしてその敷地には、刀鍛冶を守護する「刃稲荷」が祀られていたと推測されています。大正年間には、三菱財閥第4代当主の岩崎小弥太が、母早苗のための別荘を構えていました。岩崎氏は、大正8年(1919)、かってここに祀られていた稲荷社を「合鎚稲荷」として復興し、参道や鳥居、石造神狐像や社祠を整備しました。その後平成12年(2000)、センチュリー文化財団がこの土地を取得した後、老朽の著しかった社祠を新たに再建しました。建造にあたっては、愛媛県松山市石手寺の重要文化財「訶梨帝母天堂」(鎌倉時代後期)を模して造られました。このたび、鎌倉市への土地と建物の寄附にあたり、社祠や神狐像、参道鳥居は、近隣の葛原岡神社へと移設され、現在も大切にお祀りされています。高台にある稲荷社の跡地は、現在は見晴台としてご利用いただいております(雨天時は閉鎖)。」「合鎚稲荷社跡」前の見晴台から逗子マリーナのマンション群が見えた。「鎌倉歴史文化交流館」の別館裏の広場を見下ろす。石段を下りて、「鎌倉歴史文化交流館」の本館裏を見る。再び中央の3つ並んだアーチ状の横穴を見る。中央が別館から本館への連絡口。「鎌倉歴史文化交流館」をほぼ独り占めして、ゆっくりと見学し、鎌倉の歴史について多くを学んだのであった。そしてこのブログを書きながらも、知らなかったことが次々と目の前に現れて来たのであった。再び通路の脇にあるアジサイ・「アナベル」の色合いを楽しみながら「鎌倉歴史文化交流館」を後にしたのであった。前方に「佐助隧道」が見えた。竣工 昭和40年(1965年)延長 62.0m 道路幅 5.1m そして若い女性達やカップルが並ぶ姿が前方に。「茶房 雲母(キララ)」。鎌倉で有名な行列の絶えない白玉専門店。ピンポン玉のような、ふわふわでもちもちの白玉がごろごろ入った白玉あんみつ、みつまめは絶品。出来立ては白玉がほかほか温かい。ほうじ茶と昆布茶が付いてきて、これだけでも満足出来る とネットから。鎌倉市御成町16−7。人気の「宇治白玉クリームあんみつ」、美味そう!!食べた~い!! 【https://snapdish.co/d/emyzia】より「今小路通り」を目指して進むと左手に大谷石の表面が剥離して剥がれ落ちた痛々しい長い石塀がある料亭の如き屋敷があった。その角にあったのが「指月庵」案内。指月庵の看板には、三菱の岩崎家別荘地の後を柳屋ポマードの外池五郎三郎氏が入手した。上方から職人を呼んで茶室を造った。命名は当時の円覚寺管長朝比奈宗源師による旨が記載されていたが、閉鎖しているようであった。鎌倉市扇ガ谷1丁目2−10。この「指月庵」看板のある角を左手に入っていくと左手奥にあったのが「古我邸」。鎌倉市扇ガ谷1丁目7−23。「古我邸」。フレンチレストラン古我邸。100年の歴史ある古我邸で、旬の食材と自家菜園の野菜を中心に厳選された食材で調理されたフランス料理を味わえると。鎌倉三大洋館のひとつ古我邸は、1916年(大正5年)に建てられ、今年で築105年を迎えた。1916年 三菱合資会社専務理事兼管事 荘清次郎の別荘として完成。内閣総理大臣 濱口雄幸や近衛文麿も別荘として利用した。鎌倉は扇ガ谷、1500坪の敷地に堂々とそびえる洋館。2015年4月17日にフレンチレストラン&カフェとしてオープンした。何も具体的な案内が無いので、ここがレストランだと知らなければ入るのを臆してしまう立派な門構えであった。門をくぐれば目の前には何もない広大な緑の敷地が広がっていたのだ。2017年1月より若き実力派シェフが就任して以来、その皿の上の世界観と、鎌倉食材と敷地内で収穫される“古我野菜”のメニューに魅せられ、多くの美食家が足を運んでいると。設計は、日本人初の英国公認建築士で、東京の旧三菱銀行本店や丸ノ内ビルディングの設計を行った桜井小太郎。完成は大正5年、その歳月はなんと15年。戦後G.H.Qに接収され、将校クラブとして使われた時期を越えて、この「古我邸」の名になったのは、昭和12年に日本土地建物株式会社の経営者、古我貞周がこの建物を取得してからのこと。戦後日本のモータースポーツのパイオニア「バロン古我」こと息子の古我信生氏にちなみ『古我邸』の愛称で親しまれて来たのだと。そして「今小路通り」に出て北鎌倉方面に進むと、左手に大きな蔵があった。鎌倉市扇ガ谷1丁目10−6。「結の蔵(ゆいのくら)■元所在地 秋田県湯沢市■建築年 1888年(明治21年)■移築年 2004年(平成16年)■元の用途 酒蔵■現在の用途 賃貸住宅■規摸 向口7.3m 奥行16.5mこの建物は秋田県湯沢市に明治21年に建てられた造り酒屋の酒蔵であった。それをほぼ原型のまま移築し、歴史都市鎌倉で土壁等の伝統的技術を使い、住宅として再生したと。移築再生は、わが国に古くから残る相互扶助制度である”結”に習い、多くの人々の力添えにより進められた。その精神を永く記憶に留める意味で「結の蔵」と命名したのだと。多くの名所案内が。ここは「巽神社(たつみじんじゃ)」。鎌倉市扇ガ谷1丁目9−7。「巽神社」。「巽神社「巽荒神」由緒鎮座地 鎌倉市扇が谷1丁目9−7祭神 奥津日子神(おきつひこのかみ)、奥津日女神(おきつひめのかみ)、 火産霊神(ほむすびのかみ)例祭 11月28日由緒 御祭神は竈の神、火の神として霊験あらたかな神で延暦20年坂上田村麻呂東夷鎮換の際 葛原岡に勧請したと伝えられる。 永承4年に源頼義が社殿を改築す。 その後(年代不詳)現在の地に遷座された。 古くは壽福寺の鎮守神として崇敬され、その位置が壽福寺の巽の方に当るので 巽荒神と称された。 天正19年に社領1貫文を賜った。 近世に至って浄光明寺の持ちとなり、明治6年に村社に列格された。」「社殿」。巽神社は、延暦20年(801)蝦夷征伐に向う途中の坂上田村麻呂が葛原岡に勧請、永承4年(1049)に源頼義が改築したと伝えられます。壽福寺の南東(巽)に位置することから壽福寺の鎮守として崇められ、巽荒神と呼ばれていた。江戸時代の別当寺は浄光明寺、明治6年には村社に列格していた。境内の「猿田彦大神」碑。境内にあった「諏訪神社」。扁額「諏訪神社」。更に「今小路通り」を北に進むと左手にあったのが「八坂神社」。「八坂大神(相馬天王)由緒鎮座地 鎌倉市扇ガ谷一ー十三ー四十五祭神 素戔雄尊、桓武天皇、葛原親王、高望王例祭 七月十二日由緒 建久三年相馬次郎師常、己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。 その後現在の地に奉遷する。世に相馬天王と称するのはこの故である。 神幸式は五日十二日の両日に行われていたが、今では十二日のみとなった。 中世御神幸の神輿荒ぶるを以て師常館の岩窟に納め、新たに調進したと傳へられる。 独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである。 享和元年、慶應元年に社殿の改築が行われた。 明治6年、村社に列格される。」「石鳥居」。「石鳥居」の先にも二の鳥居のような2本の老木が。正面に「社殿」。「八坂大神社殿」八坂大神は、建久3年(1192)千葉常胤の子相馬次郎師常が自宅の守護神として勧請したといい、相馬天王とも通称する。その後、浄光明寺裏山にある網引地蔵付近の岩窟へ、壽福寺本堂脇への移転を経て、当地へ移転した。明治維新の神仏分離令により八坂大神と改称、明治6年には村社に列格した。境内社の子神社(ねのじんじゃ)。「記念碑」。鎌倉市佐助の銭洗弁財天の神域である境内地と、神域の尊厳な環境を保持している、周囲の山林は、扇が谷に古くから居住している諸氏が代々共有管理し、主として扇が谷に鎮座する八坂大神、巽荒神、銭洗弁財天、各社の維持運営の当たってこられました。今回神威の末永い隆昌を企図された右諸氏は總意をもって、この土地を扇が谷の鎮守である当宗教法人八坂大神に寄進して下さいました。よってここにこの土地保有の主旨と経過を明確にして、今後扇が谷三社相互間のきずなを一層深め、地域の繁栄を計る一助とすることと致しました。ここに記念碑を建立して御好意にこたえると共に、右諸氏の芳名を刻み、後世に永く敬神崇祀のあかしと致すものであります。昭和五十九年三月吉日 宗教法人 八坂大神 壽福智光書」神輿舎。神輿は六角形で京都の祇園社(八坂神社)と同じ形だという。「元神興之碑」。相馬天王(八坂大神)の神輿は鉄でできていて、祭りのときには血をみないではすまない神輿だったと。そこで、この神輿を師常の墓近くに埋め、新たに木の神輿を造ったのだという。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.10
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『鎌倉散策 目次』👈リンク本館での見学を終え、外に出て別館に向かう。写真左の石段、スロープが別館入口へのルート。別館は「4考古展示室」の表示が。鎌倉の地下には多くの遺蹟が眠り、日々発掘調査が進められています。この展示室では、鎌倉で発掘された出土品等を中心とした企画展を開催し展示内容を入れ替えているとのこと。この日は「4 鎌倉大仏 みほとけの歴史と幻の大仏殿」が開催されていた。「企画展 鎌倉大仏 --みほとけの歴史と幻の大仏殿---」ごあいさつ高徳院本尊・国宝銅造阿弥陀如来坐像は、「鎌倉大仏」の名で鎌倉のシンポルとして、多くの人々に親しまれています。「鎌倉大仏」が造られた頃の鎌倉は文化の大きな転換期を迎えていました。貞永元年(1232)に港湾施設の和賀江嶋が造築され、大陸からモノや文化が鎌倉に持ち込まれました。建長年間に入ると、建長寺の創建などを通じて、鎌倉で宋文化が一層広まっていきます。この時期に造られたのが「鎌倉大仏」であり、作風にも宋文化の影響を見ることができます。一方でその歴史には多くの謎が残されています。近年、調査研究が進められ、平成12年(2000)から同13年(2001)にかけて行われた高徳院境内発掘調査により、大仏鋳造の工程を示す遺構や出土品とともに、大仏礎石に関わる遺構が見つかり、大仏殿の規模がが明らかになりました。」「1 鎌倉大仏を知る --大仏の姿と宋文化--鎌倉大仏の特徴は、頭の上の肉髻(にくけい)が低く、丸顔にやや吊り上がった切れ長の眼、男性的な顔立ちです。体はがっちりとした肩幅をし、横から見ると頭は前のめりに据えられており、体に奥行きがあります。衲衣(のうえ)と呼ばれる衣で両肩を覆い、腕の前でU字状に開けるようにして着けて、腕前で定印と呼ばれる印相を結んでいます。銅造でありながら、衣の襞はやわらかく流れるようで、当時の鋳造技術の高さがうかがえます。大仏には、鎌倉時代を代表する仏師集団である慶派仏師の作風と宋文化の様式を組み合わせた表現が認められます。造られた年代については不明な点も多く、建長4年(1252)に鋳造が始まったことは史料によりわかりますが、完成年はわかっていません。」エントランスホールにあった「鎌倉大仏 --みほとけの歴史と幻の大仏殿---」。4.24~7.17で開催されると。展示室内を見る。「鎌倉大仏縁起(上巻)亨保19年(1734) 高徳院」大仏や高徳院の歴史、伝承をまとめた大仏の歴史を知る上で貴重な史料である。天平9年(737)の清浄泉寺創建の伝承から、明応7年(1498)にかけての中世大仏の歴史が記されている。」「国宝・銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)」頭の上の肉髻(にくけい)が低く、丸顔にやや吊り上がった切れ長の眼、男性的な顔立ちです。体はがっちりとした肩幅をし、横から見ると頭は前のめりに据えられており、体に奥行きがあります。衲衣(のうえ)と呼ばれる衣で両肩を覆い、腕の前でU字状に開けるようにして着けて、腕前で定印と呼ばれる印相を結んでいます。「大仏の鋳造技術大仏の鋳造には、鎌倉時代の様々な技術が使われています。鋳造方法は、粘土で大仏の原型を作ったとする説、銅造大仏より前に作られた木造大仏を原型とする説など諸説あります。大仏の胎内を見ると、パネル状に継いで鋳造する技術で造られています。大仏に見るこの技法を「鋳操り」と呼びます。体は7段、頭は正面に5段、後頭部に6段の継ぎ目があります。原材料は青銅で、科学的な調査によって、銅銭を材料とした可能性も指摘されています。」「大仏に用いられた鋳操り(いからくり)の種類」①背中・腰部 挟むように上から鋳継ぐ方法②胴や膝 先に鋳造した部分の小孔に溶銅を流し込み、ビスのようにして、継ぎ目が離れないように 固定する方法③肩 先に鋳造した部分の小孔に溶銅を流し込み挟むようにして2つの継ぎ目が難れないように 固定する方法「左手首内側部分の鋳操り」(左)と「胴内内側鋳操り」(右)「鎌倉大仏関連年表--宋文化と大仏の歴史--」(1/2)左側から。「鎌倉大仏関連年表--宋文化と大仏の歴史--」(2/2)「蘭渓道隆と禅蘭渓道隆は、執権・北条時頼に迎え人れられ、建長5年(1253)に建長寺を開きました。建長寺が開かれる以前に京都・建仁寺や鎌倉・寿福寺などの禅宗系の寺院はありましたが、禅だけでなく、律や密教などを学ぶ兼学の寺院でした。建長寺は、禅の教えのみを学ぶ、専修の寺院です。蘭渓道隆は、建長寺の造営だけでなく、安置される仏像にまで宋の様式を取り人れ、禅とともに宋文化を鎌倉へ持ち込みました。」展示室の奥を見る。「新大仏鋳物師丹治久友(たんじひさとも)と河内鋳物師大仏を鋳造した鋳物師に、丹治久友がいます。久友は河内国(現在の大阪府)の鋳物師で、文永元年(1264)銘の奈良・東大寺真言院銅鐘では「鋳物師新大仏寺大工」、同年銘の奈良・金峯山蔵王堂銅鐘では「大工鎌倉新大仏鋳物師」と名乗っています。河内国の鋳物師は、治承4年(1180)平重衡の焼き討ちによって破損した奈良・東大寺大仏の修理に、中国の工人・陳和卿(ちんなけい)の下で携わっていました。陳和卿から大型像の鋳造方法や鋳造技術を字び、他の河内鋳物師へ伝えました。久友は、その知識・技術を受継ぎ、大型像の鋳造技術を持つ数少ない鋳物師として、鎌倉の地で大仏を鋳造しました。」「関東大仏造営船と名越氏鎌倉時代後半になると、寺社造営費用を捻出するため、船を中国に派遣しました。鎌倉大仏でも元徳2年(1330)に「関東大仏造営料船」の唐船が派遣されました。元徳元年(1329)に金沢貞顕が金沢貞将に宛てた書状によって、勧進職は新善光寺長老であったことがわかっています。また、日蓮の書状によると「名越一門の善光寺、長楽寺、大仏殿を建てさせ給ふ」とあります。新善光寺は名越氏との関わりが深い寺院であり、名越氏が大仏造営に関わっていたことから、新善光寺長老が、大仏殿造営料船の勧進職を務めた可能性も考えられています。」「2 鎌倉大仏と大仏殿--解き明かされた歴史--「露座の大仏」としても有名な鎌倉大仏ですが、「吾妻鏡」や「東関紀行」などの史料から、大仏を覆う大仏殿があったことがわかっています。「宝永元年訴状及び覚書」によると、大仏殿の規模は、南北二十一間(約38m)、東西二十五間(約45m)であったことがわかっています。完成した後の大仏殿は、建武元年(1334)の大風による倒壊をはじめ、応安2年(1369)にも大風によって倒壊しています。」「発掘調査でわかった大仏殿平成12年(2000)から2年間行われた境内の発掘調査により、大仏殿の礎石に関わる遺構が確認され、大仏殿の規模が明らかになりました。礎石が大仏殿の重みで沈まないように直径3 m、深さ2m程の大きさで地面を固めた遺構(根固め遺構)が確認されました。礎石の遺構配置から大仏殿の規模は、幅約44m、奥行き約42.5mと推定されました。この広さは記録に残る大仏殿の推定規模とおおよそー致します。また、遺構からは瓦が発見されていません。当初は檜皮葺か柿葺の禅宗様建築であったと考えられます。その他、大仏後方40m付近に、地面整備した跡と、13世紀後半から14世紀前半のかわらけ、青磁、銅銭などが出土しており、僧坊などがあった可能性も考えられます。」「大仏模型」「湘南工科大学によって再現された大仏殿復元CG」。「大仏殿礎石下遺構模式図(『鎌倉大仏周辺発掘調査報告書』平成14年より転載)」。「大仏殿礎石配置推定図(「鎌倉大仏周辺発掘調査報告書」平成14年より転載)」「大仏殿に使われた礎石高徳院の境内には、大仏殿礎石59個が残されています。礎石は不整形な円盤型の根府川産(小田原市)の安山岩を加工したものです。大仏殿の礎石は、建久3年(1192)に建立された永福寺の礎石とは異なり、礎石の表面は平坦になるようにきれいに加工されています。この加工技術は、東大寺大仏殿造営のために招聘された中国人の石工による石材加工技術と考えられ、鎌倉大仏を鋳造する鋳物師の技術と同様に、石材加工にも中国の技術が持ち込まれていました。」「3 復興と参詣鎌倉大仏は、中世末期から露座となっていました。江戸時代に祐天上人と養国上人、そして2人を手助けした浅草商人・野嶋新左衛門によって再興されました。また、江戸時代になると多くの人々が参詣、遊山の旅に出かけました。東海道に近接した鎌倉・江ノ島などは、参詣・景勝地の一つであり、鎌倉大仏のある長谷にも多くの人々が訪れました。参詣者が増えることで地図や案内誌が刊行され、紙面に大仏が描かれました。大仏は、鎌倉のシンボルの一つとして、参詣する人々に親しまれていました。」「江戸時代の大仏再興近世の鎌倉大仏再興は、主に祐天上人、養国上人によって正徳2年(1712)から寛保3年(1743)の約30年の間に行われました。再興の契機となったのは、元禄地震です。地震により石組みが崩れ、像が傾いてしまい、当時大仏を管理していた長谷寺が、代官へ救済を申し出ました。そこに祐天上人と協力者の浅草商人・野嶋新左衛門の尽力によって再興が進みました。その後、鎌倉・光明寺奥之院として本末関係を整え、「高徳院」の院号を授与し、寺名を大仏別当「清浄泉寺高徳院」としました。」「鎌倉大仏縁起(下巻)亨保19年(1734) 高徳院荒廃した大仏の再興に尽力した祐天上人や野嶋新左衛門、養国上人による再興の記録が記されている。縁起では、再興にあたり、大仏の修復だけでなく、大仏殿の再建を計画していたことがわかる。」「大仏高徳院略記 文化4年(1804) 高徳院鎌倉大仏造像から江戸時代の文化4年(1804)までの高徳院の歴史をまとめた史料。史料では『鎌倉大仏縁起』が記された亨保20年(1735)以降の高徳院の歴史や大仏殿鋳物師に関する伝承が記されている。」『養国上人と大仏修造享保18年(1733)には、野嶋新左衛門の推薦により養国上人が高徳院に住持として入りました。当時の大仏は、四寸程(約12cm)の穴が空き、螺髪は落ち、痛みが激しい状態でした。そのため、幕府に修造勧進の許可を得て、托鉢により資金を集めました。修理は、白毫や肉髻珠を新しく造り、後頭部の穴や体の損傷部を鋳物師・神田西村和泉守ら160人によって修理され、元文2年(1737)に大仏修理供養を行いました。その後、台座蓮弁の鋳造も行われましたが、計画は途中で中断されました。鋳造された蓮弁は、大仏の後ろに4枚残っており、寄進者の名が刻まれています。」「大仏鋳掛修復托鉢題目鑑 亨保18年(1733) 高徳院亨保18年(1733)から寛保3年(1743)の高徳院住持となった養国上人がまとめた大仏再興に関する史料。『鎌倉大仏縁起』が記された亨保20年(1735)以降の再興の歴史がわかる史料である。」「長谷大仏高徳院本山勤方之定 江戸時代 高徳院江戸時代の大仏再興により、本末関係が整備され、高徳院が鎌倉・光明寺の「奥之院」として位置づけられた。この定書は、本山である光明寺と高徳院の間での取決めをまとめたものである。」「鎌倉・江之島名所図会(復刻版) 昭和51年(1976) 当館明治21年(1888 )に刊行された鎌倉や工ノ島の名所を絵図とともに紹介する案内本。鎌倉大仏は見開きで大仏正面、背面、胎内の様子が描かれ、多くの参詣者に賑わいを見せていたことがわかる。」「新編鎌倉志 江戸時代 当館徳川光圀が、家臣に編纂させた鎌倉の地誌。江戸時代の鎌倉の様相を知ることができる一級史料である。史料中には、露座の大仏が鎮座しており、鎌倉のシンボルの一つとして描かれている。」「外国から見た鎌倉大仏江戸時代の慶長18年(1613)に英国人ジョン・セーリス、元和2年(1616)に英国商館長のリチャード・コックス、明治時代には、フランスの東洋美術蒐集家であるエミール・ギメ、エメ・アンべールら外国の人々が高徳院を訪れ、日記に大仏を見た様子を記しています。日記には、大仏の大きさに圧倒されるとともに、象徴的な姿に感嘆した様子がうかがえます。大仏を見た外国の人々は、長い年月を経ても変わらず日本の人々に尊ばれ、親しまれる姿を賞賛しています。」「THE VOVAGE OF CAPTAIN JOHN SARISTOHAPNA 1613 1613年 高徳院イギリス東インド会社貿易戦艦司令官ジョン・セーリスの日記。ジョン・セーリスは慶長18年(1613)年に2代将軍徳川秀忠に謁見し、貿易許可の朱印状を得た。その際、大仏を訪ね、その姿に感嘆した様子が記されている。」「PROMENADES JAPONNAISES 1918年 高徳院フランスの東洋美術の蒐集家であるエミール・ギメの日記。大仏を訪れて大仏の大きさや姿について詳細な記載とともに、境内であった僧侶の様子を〇〇◯も記している。」「JAPON ILLUSTRE(幕末日本図会)1870年 高徳院 」。「エメ・アンべーノレは、スイスの外交官で文久3年(1863)に日本に訪れた際のようすを紀行文とイラストで描き、ヨーロッパ諸国に紹介した。文中から海外から訪れた人が大仏を見た時の心情を窺える。」「LE DAIBOUDHS STATDE COLOSSALE DU BOUDDHA A KAMAKOURA」「鎌倉大仏と古写真幕末から明治時代にかけて、多くの外国の人が鎌倉見物の際に、大仏のもとを訪れました。木々に囲まれた境内の中に大仏が祀られる光景に、訪れた人々は驚きました。訪れた人々は、旅の記念に写真撮影を行いました。写真の中には、大仏の膝に乗り撮影したものの他、人力車を停めて撮影したものなどがあります。近代の鎌倉大仏の歴史を語る上、貴重な資料です。」「鎌倉大仏古写真アルバム 明治時代 高徳院」。「明治時代に大仏を訪れた人々が、住職に申し出て記念撮影した写真。多くの人々が大仏を前に撮影をしており、昔も今も変わらず、親しまれていました。」「与謝野晶子と鎌倉大仏明治37年(1904 )に与謝野晶子が高徳院を訪れた際に詠んだ歌です。歌は『恋衣』(本郷書院 明治38年)にも収められています。当時、「阿弥陀如来」を「釈迦如来」としたことや、中性的な存在である仏を男性と表現して異論を呼びました。晶子にとって、大仏は美しい男性に見え、大仏を拝した時の晶子の心情がよくわかる歌です。」「歌に詠まれる鎌倉大仏かまくらや 御ほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立ちかな 晶子」「短冊 明治時代 高徳院」令和4年(2022年)のNHK大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」。三谷幸喜氏の作で主人公の北条義時を小栗旬さんが演じ、治承・寿永の乱(源平合戦)から鎌倉幕府の権力争いを経て北条義時が最高権力者となるまでを描く。主人公の北条義時は史上稀な超リアリストであり、今の日本にも必要な優れたリーダー。どのように義時が描かれるのか楽しみなのである。「鎌倉殿を支えた13人の宿老治承4年(1180)、源頼朝は平家打倒の兵を挙げます。そのはじまりは、僅かな兵からなる「反乱軍」でしたが、勢力は瞬く間に膨れあがり、新たな武士の政権「鎌倉幕府」を創り上げていきました。頼朝のもとには、東国武士をはじめとする源氏の家人、平家の治世に反意を持つ人々、頼朝の妻や母・乳母ゆかりの人々、京都から新天地を求めてやってきた貴族など、様々な人が集いました。彼らは自らの主の意を込めて、頼朝を「鎌倉殿」と呼びます。頼朝の死後、息子頼家が鎌倉殿を継承しますが、その地位は決して安定したものではありませんでした。この鎌倉殿を支える存在として選ばれたのが、北条義時をはじめとする1 3人の宿老(鎌倉幕府の重鎮)たちです。本展では、この1 3人の足跡をたどり、それぞれの人物像をご紹介します。」「北条氏」「源氏」「比企氏」系図。「北条義時 1163~1224伊豆国田方郡北条(今の静岡県伊豆の国市)を本拠とする武士です。伊豆国の在庁官人(国の役所の行政実務を担当する役人)をつとめる北条氏に生まれました。父は時政、母は伊東氏(伊東祐親か)の娘で、姉に6歳年長の政子がいます。伊豆に流された源頼朝と政子が結ばれたことにより、頼朝の挙兵に協力し、鎌倉に入りました。平家追討では源範頼軍に従軍して西海道を進み、芦屋浦合戦などで活躍しました。また、奥州藤原氏と対立した奥州合戦にも従軍しました。建久10年(1199)、頼朝が亡くなると、新しい鎌倉殿の頼家を支える1 3人の宿老(重鎮)に選ばれます。この13人は、幕府草創期から頼朝を支えた5 ~ 60代の有力御家人によって構成されていましたが、この中で義時はひと世代若い37歳でした。ここで、義時は幕府政治に関与する公的な立場を手に入れ、政治家としての第一歩を踏み出すことになります。しかし、頼朝の死後、幕府内部では御家人同士の紛争が相次ぎ、不安定な状況が続きました。北条氏は梶原氏や比企氏などの有力御家人と敵対しますが、勝利を収めました。建仁3年(1203)に頼家が重病を患うと、幼い実朝を新しい鎌倉殿とし、祖父にあたる時政が政治の実権を握りました。しかし、畠山重忠の乱や時政の後妻・牧の方の策謀により、時政は御家人たちの信頼を失って失脚し、代わって義時が姉・政子とともに幕府政治の主導権を握ることになります。その後、有力御家人の和田義盛と対立しますが、見事勝利し、幕府内における北条氏の地位を確実なものとしました。しかし、承久元年(1219)正月、不測の事態が起こります。鎌倉殿・実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺されてしまうのです。義時は、次の鎌倉殿の選出に迫られます。京都の後鳥羽院に交渉をもちかけ、院の皇子を鎌倉に迎えられないかを打診しますが、拒否されてしまいます。結局、摂関家の三寅(のちの藤原頼経)の下向が決まりますが、実朝の死をきっかけとして、幕府と朝廷の関係は悪化していきます。承久3年(1221) 5月、ついに承久の乱が勃発しました。後鳥羽院は北条義時追討宣旨を全国に発給し、兵を挙げました。この未曾有の事態に対し、義時はすぐさま京都に向けて19万ともいわれる大軍を送り込みました。このとき、御家人たちはどちらに味方すべきか、動揺を隠せませんでしたが、尼将軍・北条政子の演説により結束を固めたのは、有名な話です。京方と幕府方は、墨俣・瀬田・宇治などで激突しましたが、いすれも幕府方が勝利しました。この勝利で、幕府の武力が朝廷を圧倒し、義時は最高権力者の地位を得ました。この3年後、義時は亡くなります。享年62歳。そのお墓は、頼朝の法華堂の隣に建てられました。このことは、義時が頼朝と並び得る存在として人々に認識されたことを物語ります。承久の乱の勝者となった義時は、頼朝とともに武家の都・鎌倉の創設者として評価されたのでした。」「北条時政」、「比企能員」、「安達盛長」、「梶原景時」案内パネル。「三浦義澄」、「八田知家」、「和田義盛」、「安立遠元」案内パネル。「中原親能」、「二階堂行政」、「大江広元」、「三善康信」案内パネル。展示室での見学の後、受付の奥で湘南工科大の協力で製作された「VR大仏殿」を見る。大仏殿の中に鎮座する黄金の鎌倉大仏が360°画面で拝観できたのであった。大仏殿の中に鎮座する大仏像。ヘッドマウントディスプレイを利用し、鎌倉大仏の幻の大仏殿を臨場感あふれる3DCG映像で再現したデジタルコンテンツを楽しんだのであった。 【https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/koryukan.html】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.09
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『鎌倉散策 目次』👈リンク次に「3近世 近現代」展示室に。「求心力を失いながらも、古都の残影を留めた近世。歴史文化都市として、新たな地歩を確立した近代。現在の鎌倉の姿が形づくられたのは、この時代だった。その間も、そしてその後も波乱曲析を繰り汳しながら復興と発展を進めていった。」元は寝室だった場所のようだ。大きなガラス窓に囲まれ、現代の鎌倉の歩みを、パネル展示を中心に紹介していた。溢れる緑に囲まれた展示空間。「「歴史的遺産と共生するまちづくり」にむけて の展示コーナー。鎌倉市は先人たちにより守られてきた貴重な歴史的遺産や周囲の自然環境を確実に保全し、共生することをめざしてまちづくりを進めています。2015年に「鎌倉市歴史的風致維持向上計画」を策定し. 2016年に日本遺産の認定を受け、2017年には鎌倉歴史文化交流館を整備しました。併せて、世界遺産のあるまちも目指しています。これからも、さまざまな取組を通して、鎌倉らしい魅力あるまちづくりを一つひとつ進めていきます。」「日本遺産映像について平成28年4月19日に開催された「日本遺産審査委員会」(文化庁)における審査を経て、鎌倉市を含む19件が、平成28年度の「日本遺産(Japan Heritage)」👈リンクに認定されたと。鎌倉の日本遺産ストーリーを紹介する映像を放映していた。「「いざ、鎌倉」~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」約15分の映像が流れていた。エントランスホールにあった「日本遺産 いざ、鎌倉」のポスター。ガラス窓越しにかつての「無量寺」の遺構を観ることができたのであった。「幕末明治の鎌倉 明治維新と廃仏毀釈」と「近世の鎌倉 寒村から参拝地へ」案内。「幕末明治の鎌倉 明治維新と廃仏毀釈幕末期に入ると、黒船に備えて砲台が設置されるなど、鎌倉の海岸防備も強化されました。この時期、維新の志士を育てた吉田松陰も、何度か鎌倉を訪れています。明治政府による改革が進められるなか、1868年に神仏分離令が公布されます。これまで混在してきた神道と仏教とが分けられ、全国的な廃仏毀釈運動が繰り広げられました。鎌倉もその波に襲われ、「鶴岡八幡宮」👈リンク からは仏教的な建築物や仏像・経典がことごとく取り除かれていきました。」「鶴岡八幅宮と薬師堂 横浜開港資料館所蔵」。「近世の鎌倉 寒村から参拝地へ「人住まざれば夜は獣の住処となる」「仏殿の本尊も破れ崩れて」ーー江戸時代の僧・沢庵は、1633年に鎌倉を訪れ、寺院の荒廃した様子を記しています(「鎌倉順礼記」)。かっての繁栄の面影を失った鎌倉でしたが、幕府や民衆の寄進により、次第に社寺の復興が進められました。また鎌倉めぐりの案内書が刊行され、古都を偲ばせる参拝地として江の島とともに江戸の庶民を誘うようになりました。鎌倉観光の原形をここにみることができます。」「現代の鎌倉 御谷騒動から歴史的遺産との共生へ第ニ次世界大戦中、幸いにも鎌倉は大規模な空襲を免れました。戦後復興が進むなか、1964年に巻き起こったのが「御谷騒動」でした。鶴岡八幡宮裏山の御谷に宅地造成計画が持ち上がり、これに反対する市民運動によって、計画が食い止められたのです。この騒動をきっかけに、1966年に制定されたのが「古都保存法」でした。歴史的遺産と緑を守る市民意識は現在も継承され、歴史と自然が調和する景観が保たれています。」「近代の鎌倉 鎌倉文士たちの活躍明治大正期の鎌倉には、古都の風情を慕い多くの文学者が訪れました。大正関東地震以降は、東京から文学者が移住して文壇を形成しました。彼らは鎌倉文士と呼ばれ、里見弴や久米正雄らを中心に活発な文芸活動が展開されました。」『人間』創刊号 昭和21年(1946)刊 鎌倉文庫 当館所蔵終戦直後、川端康成と久米正雄が創刊した文芸誌。創刊号の執筆陣は高見順、永井荷風、大佛次郎、里見弴、高浜虚子まど、鎌倉文士が勢ぞろいした。初刊の25,000部はすぐに売り切れた。」「近代の鎌倉 大正関東地震からの復興1923年に発生した大正関東地震(関東大震災)により、強烈な震動や津波が鎌倉を襲いました。多くの社寺が倒壊し、文化財も甚大な被害を受けました。震災からの復興のなか、市民や鎌倉同人会の寄附をもとに建設されたのが鎌倉国宝館でした。」『微苦笑藝術(びくしょうげいじゅつ)』 大正13年(1924 ) 久米正雄著 当館所蔵「鎌倉文士の中心的作家である久米正雄による工ッセイ集で、大正13年(1924)に刊行された。「鎌倉震災日記」の項では、前年9月1日に発生した大地震による鎌倉の被害状況が克明に記されている。」『現在の鎌倉』(複製) 原本:明治45年(1912)刊 当館所蔵明治45年に発行された鎌倉の案内書。名所案内的なカイドブックとは異なり、当時の鎌倉の発展状況の記述に主眼をおいている。巻末には別荘一覧の附録があり、近代の別荘文化を知るうえて貴重な書。「近代の鎌倉 保養地・別荘地としての発展明治以降、鎌倉は保養地や海水浴場として人気を博し、政財界人や軍人らによって別荘が多く建てられました。鉄道の開通や御用邸の建設がその傾向にさらに拍車をかけ、保養地・別荘地として近代都市の形成が進んでいきました。」「鎌倉海浜ホテル(明治39年[1906]改築)」青い瓶は「小原牧場牛乳瓶」であると。「保養地・別荘地へ明治時代、新しい時代の幕開けと共に、鎌倉にも西洋文化が花開きました。それをリードしたのは鎌倉に別荘を構えた皇族・華族、軍関係者や政財界の人々でした。現在も、市内には別荘地時代の面影を残す建物が点在しています。鎌倉が別荘地として注目されるようになったきっかけは、ドイツ人医師のベルツや、岩倉遣欧使節団に随行し近代日本の医療・衛生制度の基礎を築いた長与専斎が、鎌倉を「海水浴に最適の地である」と紹介したことにありました。また明治5年(1872)に横浜まで鉄道が開通し、東京からのアクセスが次第に良くなっていったこと、明治22年(1889)には軍用鉄道としての横須賀線が開通したことも契機となり、鎌倉の別荘は急速に増加していきました。さらに横須賀線開通と前後して、鎌倉に創設されたのが、サナトリウム「鎌倉海浜院」です。]「鎌倉海浜ホテル鎌倉の南部、由比ガ浜に望む松林の中にかって「鎌倉海浜ホテル」がありました。第ニ次世界大戦直後の失火によって消失するまで、この豪奢な西洋建築は、鎌倉の別荘・西洋文化を象徴するランドマークとして親しまれました。明治20年(1887)頃、海浜ホテルは洋式の療養施設「海浜院」として産声をあげます。三方を山に囲まれ、遠浅の海をもち、温暖な気候と景勝地・旧跡に恵まれた鎌倉は、病気療養や予防のための施設に相応しい場所でした。程なくして海浜院に多くの貴顕紳士や外国人を受け入れるホテルへと転換し、外国人建築家ジョサイヤ・コンドルの設計図によって、大規模な西洋建築に改築されていきました。その充実した設備と豪華な宿泊客によって、「湘南の帝国ホテル」と呼ばれるほどであったといわれています。」そして中央通路にも展示パネルが。「杉原千畝」展示コーナー人道的行為を尽くされた杉原千畝さんを顕彰することに関する決議鎌倉で晩年を過ごされた杉原千畝さんは、リトアニアの在カナウス領事館領事代理としてナチスによる迫害から逃れて来た多くのユダヤ系避難民に日本通過のための査証を発給し多くのユダヤ系避難民の命を救い、人道的行為を尽くされた外交官として、国境、民族を超えて広く尊敬を集め、顕彰されました。杉原千畝さんは、今鎌倉の地で眠っておられます。今年は、杉原千畝さんが亡くなられてから3 0年、鎌倉市議会は人道的行為を尽くされた杉千畝さんを顕彰することを決議する。ビデオコーナー。そして隣には朱塗りの和風建築があった。「和風建築についてこの和風建築もフォスター+バートナーズによって設計されたものです。建造は現代の宮大工が手がけました。屋根の上にのる奈良時代風の鴟尾(しび)や、平安時代の寝殿造風の廊下、観音開き式の蔀戸(しとみど)など、さまざまな時代様式がミックスされています。西洋から見た日本のイメージか反映されているといえるてしよう。建築当初の雰囲気を感じていただくため、当館改修工事に際してもそのまま残しています。なお、内部の立ち入りはできませんのてご了承くたさいませ。」そして3箇所の展示室をゆっくり見学し、写真撮影した後はエンランスホールに戻る。エントランスホールには鎌倉彫の器が。唐草文茶櫃 竹村佳男作 伝統鎌倉彫事業協同組合所蔵 ・・・つづく・・・ ・・・もどる・・・
2021.07.08
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『鎌倉散策 目次』👈リンク中央通路の壁に埋め込まれた照明がオシャレな雰囲気を演出していた。そして、次に「2中世」展示室へ「鎌倉が最盛期を迎えた時代ー中世。鎌倉幕府の成立以降、政治・軍事・経済・宗教・文化の中心地として繁栄を極めた、武家の都市・鎌倉。この部屋では、地下から掘り起こされた出土遺物を通して、鎌倉武士たちの営みと、中世鎌倉の都市空間を眺めていきたい。」考古資料と写真パネルを用いた5セクションにより、中世都市鎌倉と武士の営みを紹介していた。鎌倉の地形模型に映像を投影するジオラマプロジェクションマッピングも見どころであった。「鎌倉の遺蹟 鎌倉市の史跡、埋蔵文化財包蔵地 (平成27年3月現在)鎌倉では昭和初期から、全国に先がけて発掘調査が行われてきました。とくに1970年代以降は、都市化の波を受け市街地にも調査範囲が及び、数多くの出土品を伴う中世都市の遺跡が姿を現しました。それらは中世の都市生活の様相を鮮やかに語ってくれます。鎌倉の地下は、まさに歴史資料の宝庫といえるでしよう。当館の建つ無量寺谷の調査でも、寺院または屋敷の一部や庭園、やぐら等様々な遺蹟が発見されています。」「鎌倉市の史跡・埋蔵文化財包蔵地(平成27年3月現在)」。「住まいとまちづくり鎌倉幕府の成立以降、急速に都市の整備が進められましたが、それらに伴う造作は御家人等に費用が割り当てられました。若宮大路の脇にかって設けられていた側溝の跡からは、工事費を分担した武士の名前を記した木簡が見つかっています。また鎌倉の遺跡を代表する今小路西遺跡(御成小学校校庭)では、北条氏や有力武士の屋敷と、それに付属する家人の家、さらに都市に住む人々の家や半地下式の倉庫群が見つかっており、鎌倉の町の様子を知ることができます。」「武家屋敷の発掘(今小路西遺蹟)」(左)と「若宮大路側溝(北条時房・顕時邸跡)」(右)。「交易と流通の拠点鎌倉は都市として整備されると、京都にならぶ交易の拠点として重要性を増していきました。港があった和賀江島をはじめとして、大町や小町、米町などが商業地として賑わいをみせるようになります。鎌倉には瀬戸の陶磁器、長崎の滑石鍋、南西諸島の夜光貝など、全国各地から多くのモノが集まりました。また国内にとどまらず、中国の青磁や白磁などの貴重品も輸入されていました。中世という時代は、流通が飛躍的に発展した時代でもあったのです。」「鎌倉に搬入される物資の産地」。「鎌倉に搬入される焼ものの産地」。「暮らしの意匠美しい和文様から、思わず目を留めてしまうコミカルな動物絵まで、鎌倉で見つかる出土品にはさまざまなモチーフが施されています。なかでも漆器に表される野趣あふれる装飾や奇抜な文様表現には、鎌倉びとの独自な感性を見ることができます。また滑石スタンプの文様も個性的なものばかりで、お菓子などの装飾(焼印)に使われたと考えられています。日用品に施されたこれらの意匠は、鎌倉の人々の生活に豊かな彩りを与えていたものと想像されます。」「暮らしの意匠鎌倉出土漆絵皿」。「祈りとまじない中世において、祈りやまじないは今日の医療や科学に代わるものでした。病気になった際には、仏に祈ったり、形代(かたしろ)を流すなどして平癒を願ったのです。鎌倉では、小型の仏像など日常的な信仰を示す仏教遺物のほか、呪術に使う呪符や形代、土地の神を鎮める儀礼(地鎮祭)に用いる埋納物など、仏教の枠に収まりきらない出土品も多く見つかっています。陰陽道や道教、修験道などの要素が取り込まれ、民間信仰として広まっていた様子がうかがわれます。」「地鎮埋納物の出土状況(笹目跡)」(左)と「不動利益縁起絵巻 東京国立博物館所蔵」(右)。源頼朝と幻の大寺院 ---永福寺---かって鎌倉には、源頼朝が建立した大伽藍がありました。三つの堂を複廊でつなぎ、堂前に池を配した優麗な姿は、鎌倉時代にこの地を訪れた人々の目を驚かせました。この寺は永福寺と呼ばれ、鎌倉を代表する大寺院となりました。源頼朝は平氏政権を倒した後、文治5年(1189 には奥州藤原氏を征討し、その地位を固めます。一方で、日本列島を巻き込んだ内乱は、多くの犠牲者を伴いました。永福寺はその犠牲者を弔うために建立したとされています。室町時代の火災以降は再建されず、幻となった永福寺ですか、長年に亘る詳細な発掘調査によって、大伽藍の様相が明らかとなりました。」発掘された青磁椀類。壁には「透彫金具」、「装身具片」、「幡吊金具」手前には「仏像は片」、「永福寺の螺鈿装飾」と「螺鈿装飾と夜光貝」等。「黒漆地螺鈿燈台断片」と「夜光貝 若宮大路周辺遺跡群出土 鎌倉時代若宮大路周辺遺蹟群から出土した夜光貝。貝殻表面には鋸のようなもので削ろうとした加工痕がある。永福寺跡出土の螺鈿装飾のように、螺鈿装飾の材料とて持ち込まれたものと考えられる。」。「永福寺道内の荘厳永福寺跡の発掘調査では、堂内や仏像を飾っていた金銅製の金具や、平泉の中尊寺を思わせるような螺鈿の装飾品も見つかり、華麗な室礼の様相が明らかになりました。中でも蓮華飛雲文の装身金具は、仏師運慶の一派が造像した仏像の光背・宝冠・胸飾などにみられる特徴をもっています。さらに「転法輪鈔」という仏事法会の詞を収集した編纂物には、永福寺薬師堂内に薬師如来像や十ニ神将像が安置されていたと記されています。この十ニ神将を運慶派の作品とする見解があり、装身金具の類似性なども含めると、永福寺の仏像が運慶一派の手によるものであった可能性か高まっています。」「永福寺の瓦屋根の復元」。「永福寺の瓦永福寺では伽藍再建の度に新たな瓦が利用されたため、軒丸・軒平瓦ともに、各20種を超える大量の軒瓦が出土しています。I期の主要な軒瓦の組み合わせは、八葉複弁蓮華文軒丸瓦と均正唐草文軒平瓦で、平安時代後期の平安京や南都系の瓦と系譜を同じくするものです。また主要軒瓦と製作技法に共通性のある三巴文軒丸瓦もI期に分類されます。次いて、Ⅱ期の主要な瓦には、「永福寺」の三文字が配されているのが特徴です。これと並んでⅡ期の代表例とされる、下向き剣頭文の軒平瓦は、埼玉県美里町の水殿瓦窯で生産されていたことが明らかになっています。Ⅲ期の瓦は小型のものが多く、鎌倉市内の極楽寺等で出土した瓦と同様の意匠をもっているため、忍性(にんしょう)率いる造瓦集団との関連が指摘されています。」「永福寺瓦屋根の復元 史跡永福寺跡出土鎌倉時代に永福寺を訪れた人々の目を驚かせたのは、玉て造られたかのような美しい瓦を重ねた、壮大な瓦屋根てした。この瓦屋根を、実際に出土した永福寺の瓦を使って再現しています。」「永福寺」の伽藍のCG。「発掘調査の成果と整備の状況」。中ノ島、池、薬師堂、北翼廊、北釣殿、遣水流路等の発掘調査時の写真が。「青磁蓮弁文椀」。「青磁蓮弁文椀ニの鳥居の東に位置する発掘調査地点から大量に出土した青磁碗。この地域は13世紀以降、倉庫などに使われた半地下式の建物(竪穴建物)が建ち並び、都市鎌倉の物流を担う場所であったと考えられている。出土した碗は、ほぼ完形品で釉薬の光沢が美しく、使用した形跡がみられないことから、破損などで価値がなくなった製品を一括廃棄したものと考えられている。鎌倉における青磁の流通量を知る上で、貴重な品々である。」「宗教都市鎌倉ー中世びとの信仰と祈り」。「宗教都市鎌倉ー中世びとの信仰と祈り鎌倉には、中世から続く歴史ある社寺がたくさんあります。当時、鎌倉の谷戸にはさまざまな宗派の寺院が建てられ、鎌倉仏教の主導者たちが多く集い、辻々では説法を行う僧の声が響いていました。鎌倉はまさに一大宗教都市としても隆盛したのでした。武家屋敷のなかにも小さな仏像を安置した仏堂が建てられ、武土たちの日常の祈りの場になっていました。現在は廃絶した寺院や屋敷の跡からは、中世びとの信仰を伝える品々が多く出土しています。」「埋葬とやぐら--鎮魂と供養の空間鎌倉の山沿いや谷あいを歩くと、いたる所にあけられた岩窟に気がつくことでしよう。これらは「やぐら」と呼ばれる鎌倉地方特有の埋葬施設です。狭い平地に対して人口が過密した鎌倉では、墓地の確保が困難であり、またケガレの忌避から、山肌を利用したやぐらが多く作られたのです。やぐらの中には、火葬骨とともに五輪塔や板碑などが置かれ、供養の標とされました。苔むしたやぐらの前に立つと、中世鎌倉の空気をそのままに感じることができます。」「阿弥陀三尊種子板碑」。「阿弥陀三尊種子板碑 胡桃ヶ谷(くるみがやつ)やぐら出土 鎌倉国宝館所蔵板碑は、主に供養塔に用いられる石塔婆。鎌倉ではやぐらを中心に多くの板碑が見つかっている。本品は胡桃ヶ谷やぐらで出土した。深い彫り口の見応えある作で、正応元年(1288)の銘が刻まれている。」「五輪塔」「五輪塔(銭洗弁財天周辺やぐら群出土) 銭洗弁財天宇賀福神社所蔵五輪塔は、墓塔などに用いられる石塔。下から方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、宝珠形の空輪からなる。本品は銭洗弁財天の隧道上のやぐら群から出土した五輪塔の優品である。」鎌倉の地形模型に映像を投影するジオラマプロジェクションマッピング。1.都市鎌倉の成立2.社寺の隆盛3.交易と鎌倉文化4.中世以降の鎌倉1.都市鎌倉の成立「縄文時代の鎌倉の入江」。「鎌倉時代初期の鎌倉の海岸」。黄色の部分が、海面が下がって陸地になったのだ。寿福寺のある亀ヶ谷の地には、頼朝の父義朝の屋敷があったとされ、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉に入った頼朝は、当初この地に御所を置こうと考えたが、土地が狭く、亡き父の御堂(岡崎義実による造立)もあったことから大倉の地を選んだのだという。大倉御所(おおくらごしょ)は、鎌倉時代に相模国鎌倉大倉郷(現神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯)の地にあった源頼朝の邸宅。大蔵御所、大倉幕府とも。治承4年(1180年)から、承久元年(1219年)まで39年間、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の御所であった。「鶴岡八幡宮」。治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。「浄光明寺」。浄光明寺(じょうこうみょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。開基は北条長時。開山は真阿。本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で、足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。「まんだら堂やぐら群」。「まんだら堂やぐら群」は、一つひとつは2m四方程度と小規模で構造も単純なものが多いが、150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重。やぐらの中に並ぶ五輪塔は、後の時代に動かされているものが多いので、中世の姿そのままとは言えないが、主に火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたもの。葬られたのは、武士や僧侶が多かったと考えられているが、経済力を蓄えた商工業関係者なども含まれていたであろう。この「まんだら堂やぐら群」👈リンク は以前に訪ねたのであった。「鎌倉の切通し」。鎌倉は三方を山に囲まれ、防御上非常に有利な地形をしていましたが、人や物資の行き来には不便であったため、山の稜線を切り開いて道を作った。これを切通(きりどおし)と呼びます。切通は鎌倉への出入り口として交通上だけでなく戦略上重要な意味があったため、周辺には有力者の邸宅などが置かれていた。鎌倉とその外を結ぶ切通のうち主なものを「鎌倉七切通(かまくらななきりどおし)」または「鎌倉七口(かまくらななくち)」と呼ぶ。「和賀江島」。鎌倉時代の1232年(貞永元年)に築かれた。歴史上はこれ以前に、日宋貿易の拠点である大輪田泊(摂津国)に築かれた経が島の記録があるが、その後の地形変化により失われており、和賀江島は現存する築港遺跡として日本最古のものとなっている。現在では満潮時にはほぼ全域が海面下に隠れてしまうが、干潮時には岬の突端から西方に200mほどにわたって巨石の石積みが見られ、往時の姿を偲ばせる。かつては北側に数本の石柱があり、南風を避ける船を係留していた。付近の陸地は神奈川県鎌倉市材木座にあたり、すぐ南側には逗子マリーナがある。鎌倉市と逗子市の境界に位置する。海からは「和賀江島」経由で、陸路では周囲に設けた「切通し」経由で鎌倉に入ってきたのであった。「浜と経済活動---生と死の交錯する場」「浜と経済活動---生と死の交錯する場鎌倉の海岸線は現在より内陸にあり、砂丘が広がっていました。都市の周縁に当たる浜地は、庶民の集団墓地としても利用され、由比ヶ浜周辺では膨大な数の人骨が出土しています。一方、浜は海の玄関口でもありました。東南には人工の舟着場「和賀江島」が築かれ、たくさんの交易船が行き交いました。中国大陸や列島各地からさまざまな品物が集まり、近くには半地下式の倉庫が立ち並んでいました。浜地は、貿易や商業で賑わう場所でもあったのです。」「埋納銭」。そして、後日この「和賀江島」を訪ねたのであった。ズームして。何か石碑も立っているようであったが。「若宮大路周辺遺跡群出土の埋納銭 若宮大路周辺遺跡群若宮大路と大町大路が交差する下馬周辺で出土した埋納銭。曲物に入れられた状態で見つかり、その数は40,000枚を越える。町屋地区の建物の床下に埋められており、備蓄銭であったと推測される。」左から「仏花瓶」、「渥美窯壷」、「黄釉水注」、「瀬戸黒釉水注」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.07
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして歩いて来た「今小路通り」と「市役所通り」が交わる「市役所前」交差点に。左側にあった観光案内用道標。「住居表示街区案内図」ここは「鎌倉市御成町18−23」近く。「鎌倉市観光案内図」。南北が逆になっている地図。近寄って。中央左側に「鶴ヶ岡八幡宮」、下中央が北鎌倉駅方向。「鎌倉市役所」の本庁舎が前方に。鎌倉市御成町18−10。現在の鎌倉市は面積39.60km²、総人口172,919人(推計人口、2021年6月1日)。年とともに微減しているとのこと。4階建ての「鎌倉市役所 本庁舎」。本庁舎の建物を遠くから見た時には各フロアの横ラインと大きなガラスの開口部が目立ちモダン建物と見えたのであったが、近くで見ると上階に行く程、床面積が大きく広がる形や細かいディテール等社寺建築を意識した建物である事に気づかされたのであった。かつての都、現在の観光としての顔、寺社への参詣客を多く集める地である鎌倉市の姿を反映した建築設計であると感じたのであった。「鎌倉市役所配置図」。鎌倉市役所は敷地内に本庁舎、分庁舎、第2分庁舎〜第4分庁舎、教育センター相談室等がある。それぞれの建物は低層で構成され敷地内には植物も多く、休憩スペース等も設置され、この地の景観に配慮された低層設計になっていると感じたのであった。前庭にあったモニュメント。「鎌倉市制50周年記念モニュメント 未来への窓 1989・11・8」。蓮田修吾郎氏の造形作品であると。本庁舎前にあった「平和都市宣言」石碑。この石碑の宣言文は鎌倉市名誉市民である平山郁夫氏に揮毫であると。「われわれは、日本国憲法を貫く平和精神に基いて、核兵器の禁止と世界恒久平和の確立のために、全世界の人々と相協力してその実現を期する。多くの歴史的遺跡と文化的遺産を持つ鎌倉市は、ここに永久に平和都市であることを宣言する。 昭和三十三年八月十日 鎌倉市」こちらは「協翼」と名付けられたモニュメント。鎌倉市技能職団体連絡協議会の碑として吉原簾さんがつくられた作品であると。元々は大船のレイウェルに据えられていたものを建物閉鎖に伴って市役所内に移設されたと。鎌倉市内の技術を讃え、繁栄の祈りをこめたものだと。8本の手が球体を掲げている、そしてその球体の上に「技」が載っているようであったが。本庁舎の正面玄関出入口。そしてその先にあったのが「御成隧道(トンネル)」。この「御成トンネル」を抜けると、その先には「新佐助隧道」そして鎌倉市内で一番長い「長谷隧道」があり梶原口方面に抜けられるのだ。竣工 昭和37年(1962年) 延長 44.9m 道路幅 10.8m 。そして「御成隧道」と書かれたトンネル抗口銘板の上には大きな株の青のアジサイの花が。偶然であろうか?それとも竣工時に植えられたものであろうか?そして「御成隧道」の手前の道路右側にあったのが「諏訪神社」。歩道から「諏訪神社」の石鳥居、境内を見る。現在の鎌倉市役所駐車場付近には諏訪氏の屋敷があったと伝えられ『新編鎌倉志』にも「諏訪地」として紹介されていると。屋敷内には「諏訪池」があって、その東側には諏訪盛重によって祀られた諏訪神社があったと。1969年(昭和44年)、鎌倉市役所新築のため諏訪池は埋め立てられ、諏訪神社も鎌倉商工会議所の横に移転されているのだと。正面右側の狛犬(阿形像)。口、鼻の中が真っ赤であり迫力十分。正面左側の狛犬(吽形像)。「社殿」。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、昭和25年(1950)頃から諏訪神社の氏子となったのだと。そして次に訪ねたのが、歩いて5分ほどの場所にあった「鎌倉歴史文化交流館」。数年前に新設された「鎌倉歴史交流館」は「千葉ケ谷(ちばがやつ)」と呼ばれるエリアにある。頼朝の時代、此処には千葉氏の邸宅があったと言われていると。「~鎌倉の旧地名~千葉ヶ谷(ちばがやつ、現在の御成町・藤ヶ谷一丁目)千葉ヶ谷は、もとは現在地の南にある谷戸を指す地名でしたが、近代には、現在の成・市役所通りの北側と、このあたりの扇が谷一丁目の南側一帯を含む広域な字名となりました。中世には、鎌倉幕府の御家人で、現在の千葉県千葉市付近を本拠地とした有力武士・千葉氏の邸宅があったとの伝承から、市役所の北側の辺りは、千葉ヶ谷や千葉地といった地名でも呼ばれるようになっていきました。また、このあたりは無量寺ヶ谷(むりょうじがやつ)と呼ばれています。中世には、この近辺に有力御家人安達氏の甘縄屋敷と、菩提寺である無量寿院があったとされています。」交流館内で開催されていた「鎌倉大仏 ~みほとけの歴史と幻の大仏殿~」ポスター。「鎌倉歴史文化交流館」への道の両側には白のアジサイの花が満開で迎えてくれた。出土した池の跡(移設保存)。「出土した池の跡(移設保存)この池の跡は、平成14年(2002)の発掘調査により、現在の鎌倉歴史文化交流館別館の地下、同建物の北西側の崖下近くから発見されました。発掘された時の規模は、長径約7m50cmで、最大幅は78cm。池の中央に中ノ島があり、北側には取水のための遣水が付いていました。池の中から大量のかわらけ(土器)が見つかったほか、池の手前には礎石を持つ建物の跡も発見されました。これらの年代から、鎌倉時代後期の池の跡と推定され、鎌倉の中世庭園としては最古級のものであると言われています。当館が建つこの谷は無量寺谷と呼ばれています。無量寺は、京都泉涌寺の末寺で、創建及び廃絶年は不明ですが、『吾妻鏡』文永2年(1265) 6月3日条には故秋田城介義景(安達義景)の十三年忌仏事が「無量寿院」で行われたことが記されています。この近隣には安達氏の館があったとされており、この池もそれに関連した施設であったかもしれません。」薄紫のアジサイも。そして「鎌倉歴史文化交流館」入口に到着。建物を設計したのは、イギリスの著名な建築家ノーマン・フォスター氏が設立し、現在代表を務める「フォスター+パートナーズ」。鎌倉市扇ガ谷1丁目5−1。建物は、個人用住宅「Kamakura House」として、2004年に竣工した。中世以来の土地の来歴をふまえながら、日本人の価値観に合わせた「自然と人工との調和」に意を注いだ建築空間となっていると。300円を払い入館する。エントランスホールの奥には「流鏑馬」の写真が。小笠原流・武田流。見学コースの最初は「日本刀」が。山本綱廣(正宗二十四代之裔 )作/寸延び短刀(室町時代)。中央通路の最初には甲冑が展示されていた。「赤糸縅大鎧(畠山重忠所用大鑓模写) 石井岳堂(早乙女義隆)作畠山重忠所用の大鎧(武蔵御嶽神社所蔵)を基に、石井岳堂(早乙女義隆)が製作。選りすぐりの素材と伝統の技法が惜しみなく注ざ込まれている。鎌倉武士の勇姿を彷彿とさせるカ作である。」「鎌倉歴史文化交流館」の展示室の配置図。(別館入口にあったもの)インフォメーションの奥には3室に別れた展示室があった。「1 通史鎌倉には永い歴史がある。原始古代の痕跡から、全盛を迎えた中世、衰微をみせた近世から、都市として復興した近代。---そして、現在。時代ごとに異なる顔が、この土地には刻み込まれている。ここでは、そんな栄枯転変のドラマを、辿ってみることにしよう。鎌倉の歴史を通史的に紹介する「1.通史」展示室では、鎌倉の歴史をコンパクトにまとめた映像展示や、鎌倉の歴史の中から10件の重要事項を選び、写真パネルによる解説と関連する実物資料をケース展示で紹介していた。歴史パネル・展示品のコーナーを入口側から。別の角度から。歴史パネル・展示品のコーナーを奥から。鎌倉の歴史パネルを年代順に学んで行った。「733年(天平5年) 原始から古代の鎌倉鎌倉に人が住み始めたのは1万年以上前のこと。市内では縄文・弥生時代の土器や、古墳時代の石棺墓も出土しています。古代には幹線道路が通り、地方の行政機関である郡衙(ぐんが)が置かれました。郡衙跡とされる遺跡からは、「天平五年」( 733 )の年号を持つ木簡が見つかっています。また寿福寺付近には、源頼朝の父義朝の居館があったといわれています。頼朝が入る以前から、鎌倉はこの地方の拠点であり、源氏ゆかりの地だったのです。」「清和源氏略系図」。右から「石鏃」:縄文時代 鎌倉市内各地出土「石刃」:旧石器時代~縄文時代 粟船山遺蹟出土「弥生土器」:壷 弥生時代 南御門遺蹟出土「木簡」:天平五年銘、奈良時代 今小路西遺蹟出土「1180年(治承4年) 頼朝の鎌倉入りと幕府の成立鎌倉は日本史上はじめて本格的な武家政権がおかれた都市でした。伊豆で平家打倒の兵を挙げた頼朝は東国の武土たちを従え、1180年に鎌倉に入ります。御所の造営、鶴ケ岡八橋宮や永福寺の建立、若宮大路の整備など、都市鎌倉の基礎を築いたのが頼朝でした。1199年に頼朝が没すると、北条氏が幕府内で勢力を伸ばしました。対立する勢力を次々と滅ぼし、次第に政権の中枢を担うようになっていきました。」「経塚出土の遺物・国指定史跡永福寺」。木製櫛、銅製経筒、白磁小壺。「1221年(承久3年) 承久の乱の勝利」「3代将軍・源実朝が暗殺されると、それまで融和的であった鎌倉幕府と京都朝廷との間に緊張が高まりました。1221年、ついに承久の乱が勃発します。後鳥羽上皇は北条義時の追討を目論み挙兵しましたが、頼朝の妻・北条政子の演説によって結束を固めた幕府軍に惨敗しました。これ以降、幕府は朝廷への干渉を強め、西国方面にも武士の所領が広がっていきました。幕府は基本法「御成敗式目」を定め、安定的な政治につとめました。」「北条氏略系図」。中世都市鎌倉の発展と輸入陶磁。右から御成敗式目、青磁鎬蓮弁文椀、青白磁水注。「御成敗式目」北条泰時を中心に制定された鎌倉幕府の基本法。御家人を対象に周知され、内容は社寺、所領、訴訟など多岐にわたる。当本は加賀前田家に伝わった写本で、もとは鶴岡八幡宮寺に伝蔵されていた。「1253年(建長5年)鎌倉仏教と建長寺創建政治や経済の中心地として成長した鎌倉には、仏教改革の旗手たちが新天地を求めて集いました。数万人以上いたとされる鎌倉の都市民を布教の対象とし、各所にさまざまな宗派の寺院が建立されていきました。なかでも中国より伝わった褝宗は、北条氏の支持を得て隆盛します。1253年には、日本で最初の褝宗専門道場となる建長寺が創建され、鎌倉独自の国際色豊かな文化が育まれていきました。」「一遍聖絵(ー遍上人絵伝) 第五巻第五段 鎌倉こふくろ坂の場面 浄光寺(遊行寺)所蔵」。右から銅製瓔珞他(荘厳具):室町時代 建長寺境内出土漆器(膳椀揃):室町時代 建長寺境内出土「1333年(元弘3年/正慶2年)鎌倉幕府の滅亡鎌倉時代後半の蒙古襲来に際し、幕府は全国の支配を強化しました。しかし反発も強まり、やがて後醍醐天皇の討幕運動に賛同する武士たちが蜂起し、鎌倉にも軍勢が攻め込みます。北条氏ー門は東勝寺にて自害し、1333年5月22日、ついに鎌倉幕府は減亡の日を迎えました。その後、後醍醐天皇は天皇中心の新たな政治を始めますが、足利尊氏が京都に室町幕府を開くと朝廷は南北に分裂し、全国的な動乱状態が続いていくのでした。」「蒙古襲来絵詞 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵」「五輪塔地輪 弘化3年(1333銘)」「五輪塔地輪 元弘3年( 1333 )銘釈迦堂ヶ谷奥やぐら群出土 鎌倉国宝館所蔵梵字の左に刻まれた「元弘三年五月廿八日」の銘は、幕府滅亡の日から数えて初七日にあたる。出土地のやぐらは北条高時争等が自刃した東勝寺に近く、その追善のために造られたとも考えられる。」「1455年(康正元年)鎌倉公方から古河公方へ室町時代、鎌倉には室町幕府が東国を支配するための鎌倉府が設置され、主である鎌倉公方のもと、町は再び活気を取り戻しました。しかし4代公方・足利持氏は次第に京都の幕府への反発を強め、幕府軍に討伐されてしまいます。内乱が続くなか、持氏の子成氏が5代公方となりますが、やはり幕府に追い込まれ、1455年、古河への移住を余儀なくされます。主を失った鎌倉は、政治的な求心力を失い、衰退していきました。」「結城合戦絵詞 足利持氏の自害」。「足利持氏の御教書」。「足利持氏の御教書 神田孝平記載文書のうち1通 鎌倉市指定文化財 鎌倉国宝館所蔵第4代鎌倉公方・足利持氏が、鶴岡八冨宮別当尊仲を、足利荘八幡宮等の別当に任じた内容。持氏は将軍足利義教と対立。永享の乱で幕府の連合軍に攻められ、永享11年(1439 )鎌倉の永安寺で自害した。」「1512年(永正9年)後北条氏の台頭と玉縄城戦国時代に入り相模国を治めたのは小田原の後北条氏でした。初代北条早雲(伊勢宗瑞)は鶴岡八幡宮で鎌倉の復興を誓う和歌を詠み、関東制圧を目指しました。1512年、早雲が東相模の拠点として築いたのが玉縄城でした。北条氏は戦国大名へと成長し、2代氏綱は鎌倉の検地や鶴岡八幡宮の再建を実現します。豊臣秀吉の小田原攻めの後、北条氏の領地は徳川家康に与えられ、江戸幕府により鎌倉の主要な社寺は保護されていきました。」「後北条氏系図」。玉縄城跡出土品奥左から火鉢、瀬戸すり鉢、手前左から、かわらけ、瀬戸縁釉小皿。「1685年(貞享2年)新編鎌倉志と参拝地化江戸時代、静かな農漁村となった鎌倉でしたが、次第に参詣や遊山の地としても注目され始めます。とくに徳川光圀が編集を命じ、1685年に刊行された「新編鎌倉志」は、後の鎌倉案内書に大きな影響を与えました。また将軍家の支援や浄財の寄附をもとに、社寺の復興も進められました。近世の鎌倉は、往時のような政治都市としての機能こそ失っていたものの、現在の観光地鎌倉の姿が形づくられ始めた時代でもあったのです。」「東海道之内 相州鎌倉鶴ケ岡」。新編鎌倉志 江戸時代 。「1889年(明治22年)横須賀開通と別荘文化明治初期の神仏分離・廃仏毀釈の運動は、鎌倉にも大きな打撃を与えました。その後、鎌倉が保養地として推奨されるようになると、海沿いには皇族や政治家らの別荘が建てられるようになりました。由比ヶ浜には鎌倉海浜ホテルが建てられ、西洋文化の発信地となりました。1889年に横須賀線が開通すると、東京の名士や横須賀港の海軍関係者たちも別荘を構えるようになり、ここを舞台としてモダンな文化が広がりました。」「幕末から明治初期の鶴岡八幡宮参道」。「相模国鎌倉名所及江之島全図 明治29年(1896)当館所蔵」「相模国鎌倉名所及江之島全図 明治29年(1896)当館所蔵明治29年に発行された銅版画。鎌倉・江ノ島の名所旧跡のみならず、開通した横須賀線や海浜院、学校、競馬場、旅館など、明治以降新たに形づくられた鎌倉の姿を描く。」「1923年(大正12年)大正関東地震から文化財保護へ近代都市として発展していく鎌倉でしたが、1923年に発生した大正関東地震(関東大震災)は、鎌倉全域にも甚大な被害を与えました。文化財の被害も大きく、これを契機に鎌倉国宝館が建てられました。歴史的風土を保存するため1966年に制定された「古都保存法」も、鎌倉の市民活動(御谷(おやつ)騒動)をきっかけとしています。歴史的遺産を守り伝えていく姿勢は現在も受け継がれ、鎌倉は今も、歴史とともに生きる都市として歩みを進めています。」「大正関東地震硝子乾板 鎌倉国宝館所蔵」「大正関東地震硝子乾板 鎌倉国宝館所蔵鎌倉市内の震災による被害状況を写し留めた硝子乾板。本品は鎌倉国宝館設立に尽力した鎌倉同人会が撮影した。硝子板に感光乳剤を塗り乾燥させた感光板で、明治から昭和初年頃まで利用された。」「関東大震災被害写真 鎌倉停車場前 鎌倉市中央図書館所蔵」。「関東大震災被害写真 鶴岡八幡宮舞殿 鎌倉市中央図書館所蔵」。そして奥の展示ケースには北条一族に関わる遺品が。「北条氏の家紋 三鱗文(みつうろこもん)武士が家紋を使い始めたのは、鎌倉時代中後期です。合戦の際、戦場で敵・味方を見分けるために旗にしるしをつけたことが始まりです。三鱗文は、中世の一般的な文様の一つですが、鎌倉中後期には北条氏の家紋として定着していました。『太平記』には、「北条時政(義時の父)が江島弁財天に子孫繁栄を析ったところ、天女が現れて子孫繁栄を告げたのち大蛇となり、海中に姿を消した。その後に残った3枚の鱗を時政が持ち帰って家紋にした」という話がみえます。また、『家古襲来絵詞』の安達泰盛に竹崎季長が陳情する有名な場面には、三鱗文の装束を身に纏った武士が描かれており、北条氏ではないかと考えられます。『三鱗文』のある三鱗文漆絵皿。「北条義時とその時代」の展示品。手前に青磁劃花文椀(龍泉窯系):大倉幕府周辺遺跡出土吾妻鏡(複製)北条義時法華堂出土品平瓦、丸瓦破片や青白磁梅瓶片、白磁口禿皿片、高麗青磁瓶片。「北条義時とその時代北条義時(1163 ~ 1224)は、初代執権北条時政(1138~ 1215 )の息子で、北条政子(1157 ~ 1225)を姉に持ちます。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝亡き後、2代執権として幕府政治の主導権を握り、北条氏の地位を盤石なものとしました。また、承久の乱で後鳥羽上皇率いる京方に勝利して幕府の基盤を固め、武家政権確立の道筋を築いた「武家の古都鎌倉」の実質的な創始者でもあります。多大な功績を残した義時の墓所は、死後、頼朝の祀られる法葦堂と並んで建立されていますが、これは彼が頼朝に次ぐ武家政権の創始者として当時の人々に認識されていたことを物語ります。市内では、北条氏に関係する出土品が数多くみつかっています。北条氏の家紋である三鱗文が描かれた漆器や政子の関与が窺われる永福寺経塚もその一例です。義時の墓所である北条義時法華堂跡からは、礎石建物跡が発見され、瓦や舶来品である青磁なども出土しています。ここでは、義時の生きた鎌倉時代前中期を中心に、北条氏に関連する出土品を紹介します。今に続く都市鎌倉の礎を築いた北条義時を、身近に感じていただければ幸いです。」「北条義時法華堂跡の発掘調査『吾妻鏡』によれば、義時法華堂は、頼朝法華堂と並んで山の中腹に建てられ、「新法華堂」と呼ばれたといいます。鎌倉時代、何度か焼失しましたが、その度に再建されました。平成17年( 2005 )に実施された発掘調査では、四周に庇が巡らされた正方形の三間堂の遺構が発見され、義時法華堂ではないかと推定されています。また、瓦など多数の遺物も発見され、破片ではありますが、高麗青磁の梅瓶など高級舶来品も出土し、荘厳な堂内の様子を伺うことができます。現在、法華堂跡は、国指定史跡として一般開放されています。」「北条政子の存在義時にとって、6歳年上の政子の存在は大さな支えでした。源頼朝の死後、政子は出家して「東御所」に住み、後家として幕府政治にも参画しうる力を有しました。中世武家社会における「後家」の地位は相当に高く、亡夫の代行者として「家」の中心的存在となりえたのです。とくに、幼少の実朝が3代将軍に就任すると、実質的な政治の主導者は北条氏になりました。『愚管抄』(慈円著の歴史書)には、北条時政(政子、義時の父)隠退後の幕府は、政子義時兄弟によって運営されたと記されています。政子は、承久の乱という非常事態においても、頼朝の後家として、頼朝の恩義を説き、御家人願朝の後家として、頼朝の恩義を説き、御家人たちの結束を促しています。政子の後援を得た義時は幕府軍を見事勝利に導きました。義時死去の翌年、政子もまたこの世を去ります。69歳でした。」「吾妻鏡(複製) 原本 室町時代鎌倉時代に編纂された歴史書で、鎌倉幕府の基本史料。当史料は「北条本」とよばれる古写本(国立公文書館蔵)の複製。掲出は後鳥羽上皇による北条義時追討宣旨が鎌倉に到来した場面である。」そしてビデオ映像によるガイダンスも行われていた。在りし日の鎌倉八幡宮。流鏑馬 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.06
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「和田塚」交差点を右折し「鎌倉市役所」方面に進むと左手にあったのが「鎌倉彫工芸館」。鎌倉市由比ガ浜3丁目4−7。入口には扁額の如き「鎌倉彫工芸館」が。鎌倉彫は経済産業大臣指定の伝統的工芸品(昭和54年1月12日)。和田塚の向いにあるここ鎌倉彫工芸館では、鎌倉彫の販売、鎌倉彫のオーダー製作、漆塗り加工の依頼、材料販売や展示会、講習会、体験教室等を行っているのだと。工芸館ギャラリー内。「鎌倉彫素材のかたち」展が6月1日(火)~6月30日(水)で行われていた。案内標識。「鎌倉彫工芸館」の前の一段小高い場所にあったのが「和田塚」。建保元年(1213)2月信濃国の住人・泉親衡が前将軍源頼家の遺児・千寿を擁して北条氏の打倒を企てた。しかし事前に発覚して、一味は捕らえられたが、その中に和田義盛の子・義直と甥の胤長が加わっていた。義盛は二人の息子の赦免を願い出て許されたが、胤長について執権・北条義時は許さず、陸奥国に配流された。北条氏にとって和田氏は、幕府創設以来の功臣であり、最大のライバルである三浦一族であった。北条義時が専制政治を行う為に、三浦、和田氏の抹殺が必要であった。5月2日和田義盛は密かに北条氏打倒の挙兵の準備を進めた。当初は同族の三浦義村.胤義親子は協力する約束をしていたが土壇場で裏切り北条に和田に謀反の企てありと北条に訴えた。和田一族は、軍兵150騎で幕府を攻撃した。北条泰時以下、幕府の御家人達が必死に防戦したが、和田軍に突入され幕府の建物は全焼となった。将軍・源実朝と北条義時は戦火をくぐって法華堂(現在の白幡神社)へ逃れた。その後、5月3日幕府軍の軍勢が増えて和田軍は劣勢に陥った。義盛の四男・義直が討たれると、義盛は戦意を失い江戸能範の手の者に討たれた。義盛67才であった。こうして和田一族の乱は終わり、和田一族は滅亡した。和田氏が滅び、三浦氏の権威も失墜し、北条氏の勢力はますます強まっていった。鎌倉の江ノ電和田塚駅の側に和田一族の墓があり、俗に和田塚と呼ばれている。明冶25年、新道を開く為にこの塚の一部を掘ったところおびただしい人骨が出てきた。おそらく和田合戦の時のものであろうと言うことで「和田一族戦没地」の碑が立てられた。正面に「和田一族戰没地」碑。右手に「戦歿者慰霊塔」碑。石碑の裏面には「鎌倉保勝會長男爵沖守固 明治四十二年九月二十五日竣工」と刻まれていた。「和田塚和田塚は建保元年、鎌倉幕府内部抗争による北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている。和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと言われている。大正末年ごろの開墾などによって多くの塚が壊されたが、五輪塔をならべた和田塚はかろうじて残った。鎌倉の歴史を語る上で貴重な遺跡である。 社団法人 由比ヶ浜青年会」 「和田義盛一族墓」。多くの「五輪塔」がフエンスの近くに。和田合戦に敗れて死んだ和田義盛一族234人の塚だと言われている。なお、『吾妻鏡』には討ち取られた和田勢234人の首は「固瀬河の辺」で晒されたとされており、現在のこの場所が正確な和田一族の埋葬地であるのかはわからないのだと。こちらにも。ここはもともと「無常堂塚」と呼ばれ、古墳時代の遺跡であった。鎌倉にある唯一の高塚式古墳で、明治25年(1892)に道路工事を行った際、埴輪などの他に大量の人骨がでたため、合戦で敗れて死んだ和田一族のものとされ、和田塚という名がついたものである。「大震災殃死者供養碑」。「当時の鎌倉町では412人が死亡しました。13の字のうちで死亡者が最も多かったのは長谷の92人で、次いで由比ヶ浜の74人でした。戸数662戸、内全潰176戸半潰192戸全焼105戸で、死亡者は74名重傷者は153名の多きに達した。当区は本町の中でも比較的新しく発展した土地であるから、建物も従って新しく、且つ近代的粗造の建物が多く、広大にして華偖(華奢または華侈?)なるいわゆる別荘建築も少なくなかった。加うるに地質が砂層かあるいは埋立地であったために、一層震動が強く感じたので、その被害も極めて激甚であった。すなわち六地蔵以西長谷境までの県道沿いおよび笹目通りの一部を除いては、ことごとく全潰全焼の惨状を呈したのである。(中略)老婆と子供一人建物中の下敷きとなり救助を求める声明瞭にききとることができたが、いかんせん火元に接していることゆえ救い出すこと能わず、まのあたりに人生最後の悲鳴を聞きつつ焼死のやむなきに至ったということであるが、実に悲惨極まる一場面であった。(鎌倉震災誌 鎌倉町役場編 1930年 由比ヶ浜の項より)」と。題目碑「南無妙法蓮華経」。右側の像は、お顔が針金で補修された馬頭観音像。左手に江ノ電・「和田塚駅」。鎌倉から出た江ノ電の最初の駅。「和田塚駅」ホームを見る。鎌倉駅方面を見る。純白の大きなアジサイの花。由比ガ浜通りに出て、長谷の方向へ行くと鎌倉彫りの店「寸松堂(すんしょうどう)」の特徴的な建物が見える。「寸松堂」の横の小道を進むと、「塔之辻」碑がたっていた。「塔之辻佐々目ガ谷ノ東南ニ方(あた)リ路傍二所ニ古キ石塔建テリ 辻ニ塔アル故ニ塔之辻ト言フラン伝エ云 昔由比ノ長者太郎太夫時忠ノ愛児三歳ノ時 鷲(わし)ニ攫(さら)ハレ追求スレドモ得ズ 父母ノ悲痛措(お)ク処ヲ知ラズ 散見セル片骨塊肉ヲ居ルガママニ 是レヤ吾児ノ骨 彼レヤ吾児ノ肉カト思ヒツゝ所在ニ塔ヲ建テゝ之ヲ供養シ 以テ其ノ菩提ヲ祈レリ 是ノ故ニ鎌倉諸処ニ塔ノ辻ト言ウ処アリ 此処(ここ)モ其ノ一ナリト 或ハ言ウ 往時ノ道標ナラント 未ダ其ノ何レカ真ナルカヲ知 ラズ」【鎌倉の長谷の近くに、佐々目が谷(ささめがやつ)という地区があります。その東南の方向の道ばたに、古い石の塔が建っています。辻に塔があるので、塔之辻と言うと伝えています。その昔、由比の長者時忠(ときただ)の子供が3歳の時、鷲(わし)にさらわれ、 追っかけたけれどもつかまらず、両親の悲しみは大変なものでした。散らばっている肉片などを見つけると、これは我がこの子の骨ではなかろうか、あれは我が子の肉ではなかろうかと、その所々に塔を建てて、供養(くよう)しました。 それで、鎌倉のあちらこちらに塔の辻と言う所があり、ここもそのひとつであろうといいます。またある人は、昔の道標であろうと言います。いずれが本当かは分かりません。】県道311号線・由比ガ浜大通りに戻り左に進むと「六地蔵」交差点に到着。道の角に六体の地蔵が赤い頭巾をかぶり、よだれかけを首にかけて並んでいた。鎌倉時代にこの場所からやや北によったところに、刑場があり、飢渇畠 (けかちばたけ) と呼ばれる荒地だったが、処刑された罪人供養のために明治時代に六体の地蔵が建てられ、その後、由比ガ浜の大通りと今小路の交差する現在のこの辻に移されたのだと。六地蔵の背後には、松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢のあと」と刻まれた句碑もあった。赤いマスクをした六地蔵のお顔を左側から。「此地は饑渇畑と稱し鎌倉時代 刑場の蹟 と傳へられ六軀の石造地蔵尊を祀られしに由り俗に六地蔵と曰ふ天明年間に建てられたる芭蕉翁の句碑を存す大正七年鎌倉同人會石柵石垣を築き此を整理せしが同會復之を修理する頃者有志相謀り新に菩薩の六地蔵を造り之を安置し以て舊觀に復するを得たり仍りて石を建て其の所以を勒す 昭和九年三月」「饑渇畑」碑「此𠁅は 昔時の刑場なり 後 里人六地蔵を祀り 又供養塔 芭蕉句碑を建つ 今石柵を繞(めぐ)らして此を整理す」【ここは昔、処刑が行われていた場所で、のちに土地の人が六地蔵を置いて死者の霊を祭りました。現在は、供養塔(くようとう)や松尾芭蕉(まつおばしょう)の句碑などがあり、石の柵(さく)でかこい、整理されています。】赤いマスクをした六地蔵のお顔を右側から。六地蔵の後ろの石碑が松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢のあと」と刻まれた句碑。「文学案内板 松尾芭蕉句碑夏草や 兵どもが 夢のあと 芭蕉翁右側面 此札はたれにいふべき清水哉 東武独庵買明左側面 天明六丙午歳五月この碑を建てた松尾百遊は、本名を瀧右衛門といゝ雪の下に住んで旅亭「吾妻屋」を営み、鶴岡八幡宮の別当寺院の一つてある等学院目代をつとめ、また、鎌倉絵図なども出していた。「此札は・・・」の俳句作者買明は江戸神田和泉町に住んていた俳人で、別号を独歩庵ともいった。色蕉のこの俳句は、「奥の細道」の中の、元禄ニ年(一六八九)五月、平泉の中尊寺に詣でた時の作で、鎌倉とは直接関係はないが、この地が昔刑場跡てあったことにちなみ、この句を選んで建てたものである。」鳥居と赤い石祠もあった。稲荷社か?緑と白のアジサイ。「アナベル」という品種であろう。嬰児(みどりご)が大人になっていくような変化。そして「今小路通り」を鎌倉駅方面に向かって北に進む。前方に石橋が現れた。手前には青紫の朝顔の花の姿が。下を流れる川の名は「さすけがわ(佐助川)」。橋の名は鎌倉十橋「裁許橋(さいきょばし)」。鎌倉時代の裁判所、問注所の近く、佐助川に架かる裁許橋。近くに問注所があったため裁許橋と名付けられたのだと。『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)8月15日、東大寺勧進のために源頼朝を訪ねた西行は、頼朝から与えられた銀製の猫をこの橋の近くで遊ぶ童に与えてしまったそうです。この逸話から「西行橋」ともいわれるのだと。そして「西行橋」から「裁許橋(さいきょばし)」に変化したのだという説もあると。「さすけがわ(佐助川)」を見る。そしてその先が「鎌倉市立御成(おなり)小学校」の南東の角。左折して「鎌倉市中央図書館」方面に歩を進める。右手奥が「今小路西遺跡(いまこうじにしいせき)」。「今小路西遺跡」は、鎌倉市御成町の鎌倉市立御成小学校にある古代・中世の複合遺跡。御成小学校遺跡とも呼ばれる。御成小学校の改築に伴う事前調査として 1984年から調査され、きわめて良好な状態で上流武士の居宅をはじめとする当時の生活の実態を伝える遺構と遺物が出土している。特に輸入陶磁を含む陶磁器、木器、木製品などが多い。文字資料が語ることのできない生活の様子を伝える遺跡として重要な意味をもち、保存を要望する意見も多いとのこと。「鎌倉市立御成小学校」の校舎が見えた。そして「今小路通り」まで戻り北に進むと「御成小学校前」交差点の角の石碑に気がつく。これが「問注所舊蹟」碑。「元暦元年(1184)源頼朝 幕府東西ノ廂(ひさし:脇屋)ヲ以テ 訴訟裁断ノ所ト為ス 之ヲ問注所ト称ス 其ノ諸人群集シ時ニ喧騒ニ渉ルコトアルヲ厭(いとう:嫌う)ヒテ 正治元年(1199)頼家之ヲ邸外ニ遷(移)ス 此ノ地即チ其ノ遺蹟ナリ」【1184年に、源頼朝は、大蔵幕府の東西の脇の建物を裁判所とし、これを問注所といいました。そこは、いろいろな人が大勢集まり、時には喧嘩になることもありました。源頼家(よりいえ)は、これを嫌って、 1199年に問注所を屋敷の外に移しました。この場所がその跡であります。】「御成小学校前」交差点から「御成小学校」の「旧講堂」を見上げる。御成小学校の創立は1933(昭和8)年12月で、写真の建物は10月に完成した講堂である。明治期の木造校舎かと思っていたが案外新しいものだった。当時の名称は「鎌倉郡立御成尋常高等小学校」。平屋の講堂なら屋根の上の2基の塔のようなものは換気口の屋根。小学校が建つ以前は鎌倉御用邸があった。1931(昭和6)年8月にそれが廃止されて鎌倉郡鎌倉町に払い下げられた。現在の校門は御用邸の正門だった冠木門。御成町(おなりまち)という町名も御用邸に因むもので、1965(昭和40)年の住所表示変更のときの起立だから新しい地名。古くは「大町蔵屋敷」といったらしい。こちらが「御成小学校」の正門は冠木門。「鎌倉市立御成小学校」のある地は、明治天皇の皇女のための御用邸の跡地。御用邸は1899年(明治32年)の造営。1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊した後、再建されることはなく、1931年(昭和6年)に廃止された。1933年(昭和8年)、御用邸跡地に鎌倉町立御成小学校が開校し、正門には御用邸の冠木門が引き継がれた。そしてこちらは「鎌倉市立御成小学校」の隣に残る旧鎌倉図書館の建物(昭和11年(1936年)の完成)。「(仮称)おなり子どもの家等耐震改修及び増築工事」案内板。「旧鎌倉図書館について「旧鎌倉図書館」は、関東大震災で倒壊した町立図書館の再建築が財政的に難しい中、間島弟彦氏の遺志を受け継いだ間島愛子夫人からの寄付により、昭和11年( 1936年)に建設されました。昭和49年( 1974年)に図書館としての役目を終えたあとは、庁舎として利用していましたが、老朽化などのため平成26年( 2014年)に閉鎖し、建物を解体する予定でした。しかし、平成27年( 2015年)に市内外の方々から「保存・活用」についての提案、寄付等をいただき、歴史的建造物が数多く存在する本市において、市民等との協働による新たな保存活用のモデルの一つであると考え、「(仮称)おなリ子どもの家等」として保存・活用することになりました。」昭和26年当時の「旧鎌倉図書館」。完成予想図(南側(御成小学校側)立面図)。「旧鎌倉図書館」の現状を別の場所から見る。「今小路通り」。今小路通りとは・・・「新編鎌倉志」では、寿福寺門前にある鎌倉十橋の一つ「勝ノ橋」から南行し、東側の巽荒神社前までの通りを指しています。「大日本地名辞書」には、「扇ヶ谷の谷口より南に馳せ、載許橋に到る旧街の名で、今は寿福寺の門前の南をいう」とあります。若宮大路の西側に平行するこの通りは、正式な通り名ではないものの、古くから「今小路」と呼ばれ、地元の人々に親しまれてきました。鎌倉商工会議所青年部では、平成20 (2008 )年度に、私たちが考える鎌倉の将来像を"暮らす人にとっても、訪れる人にとっても、居心地のよい鎌倉”という「鎌倉ビジョン」としてまとめ、それを実現するための方策を提言書に取りまとめました。この通り名板は提言の中にある、案内しやすい観光地としての鎌倉を目指す「古の通り名復活プロジェクト」の一環として制作されたものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.05
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「鎌倉文学館」を後にして、長谷1丁目の住宅街を東に進む。「三雲禅堂(San'un Zendo」)が奥にあった。鎌倉市長谷1-6-5。禅の道場らしいが見事な色合いのアジサイ。そして左手に大きな純和風の建物が。「吉屋信子記念館」。平成29年6月28日に文化財保護法第57条第1項の規定により文化財登録原簿に登録された。登録されたのは、吉屋信子記念館の主屋と門及び塀であると。鎌倉市長谷1丁目3−6。「鎌倉市吉屋信子記念館(吉屋信子旧居) 👈リンク〇吉屋信子記念館は、「自分の得たものは社会に還元し、主居は記念館のような形で残して ほしい」という故吉屋信子さんの遺志により、土地・建物などか寄贈されたものです。 昭和四十九年に開館して以来、多くの人に親しまれ、利用されています。〇吉屋信子(一八九六~一九七三) 小説家。新潟県生まれ。栃木女子高等学校卒業。在学中から雑誌に投稿。『少女界』の懸賞に 応募した「鳴らずの太鼓」が一等に当選した。 卒業後は上京。大正五年から『少女画報』に「花物語」を連載するかたわら、八年 『大阪朝日新聞』の懸賞に応募した「地の果まで」が一等当選。ついで「海の極みまで」を 『大阪朝日新聞』『東京朝日新聞』に連載して、文壇的地位を確立した。昭和ニ年から三年に かけて『主婦之友』に連載した「空の彼方へ」は好評を博した。「女の友情」「良人の貞操」 など、つぎつぎに発表する作品は読者に支持され、人気作家となった。 十四年に鎌倉の大仏近くに別荘を設けたが、戦争中はここに疎開し、静養しながら、読書、 句作の日々を送った。ニ十五年、東京に転居するが、都会の喧騒を逃れて、三十七年にこの地に 新居を建て、没年まで居住した。 晩年を飾る歴史小説「徳川の夫人たち」「続徳川の夫人たち」「女人平家」はここで 執筆された。以下略」。 恥ずかしながら、吉屋信子氏の小説等は読んだ記憶がないのである。「吉屋信子記念館の一般公開について本年度(令和3年度)一般公開は中止します。」と。木目板を配した美しい塀。近代数奇屋建築の第一人者の建築家・吉田五十八の設計。吉田氏は昭和十年に、東京牛込砂土原町の吉屋信子邸を設計し、さらに昭和三十七年、吉屋に「奈良の尼寺のように」と望まれて、この長谷の家を設計したのだと。「吉屋信子記念館が国の有形文化財に登録されました。平成二十九年六月二十八日に文化財保護法第五十七条第一項の規定により文化財登録原簿に登録されました。登録されたのは、主屋と門及び塀です。」「今後も適切な維持管理を行い、文化財として保存・活用し、後世に伝えていきます。」と。「吉屋信子記念館」を後にして県道311号線・由比ヶ浜大通りに出て道路脇のアジサイを楽しむ。色移りの序章・プロローグ。道路面に配された観光案内地図。「由比ヶ浜通り・県道311号線」を東に100mほど進むと、左手に石碑群があった。「主馬盛久之頚座(しゅめもりひさのくびざ)」碑。「盛久ハ主馬入道盛国ノ子ニシテ 平家累代ノ家人ナリ 然ルニ平家滅亡ノ後 京都ニ潜(ひそ)ミ 年来ノ宿願トテ清水寺ニ参詣ノ帰途 北条時政 人ヲシテ召捕ヘシメ 鎌倉ニ護送シ 文治二年(1186)六月 此地ニ於テ斬罪(ざんざい)ニ処セラレントセシニ奇瑞(きたん:奇跡)アリ 宥免(免除)セラレ 剰(あまつさ)ヘ頼朝其ノ所帯安堵ノ下文ヲ給ヒシト言ウ」【主馬(しゅめ)とは、馬や馬具の管理をする役職を言います。盛久は、平家に代々仕えた主馬盛国(しゅめもりくに)の子であります。平家が亡んだ後、盛久は京都に隠れて、清水(きよみず)寺で願を掛けていたのを、北条時政(ときまさ)に捕えられ鎌倉に送られました。そして1186年6月に、この場所で処刑しようとした時、刀が折れ散るということなどが起きたため、許されました。それどころか、頼朝から領地を与えられたと言うことです。】隣のケヤキの根元の石碑には「盛久頚座(もりひさくびのざ)平家物語に文治二年六月廿八日幕府命じて 平家の家人主馬八郎左衛門盛久を由比ガ浜に斬らしめんとせしに不思議の示現ありて之を赦したまふとあるは此地なりと云ふ」石碑の隣の立札の文字は薄く劣化して解読不能であったのでネットから写真を。「謡曲「盛久」と由比ヶ浜平家の武将・平盛久は、源氏に破れ埔らえられて嫌倉に送られ、この由比ケの地で首を切られることになりました。盛久は、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、熱心に祈りを続け処刑前夜に観世音の実夢を見ました。そしていざ処刑の時、持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を取り落とし、太刀もニつに折れてしまいました。これを聞いた源頼朝は盛久を招き「自分も同じ夢を見た、観世音のお告げである」と言って助命し、盛久は所望されて舞を舞うのでした。」 【http://www.nikaido-kamakura.net/data01/214/214.html】より「主馬盛久之頚座」碑の横にも庚申塔が。「文学館入口」交差点の江ノ電・由比ヶ浜駅方面への路地に入ると、右手にあったのが「染谷太郎太夫時忠邸跡」碑。鎌倉市長谷2丁目4−6。「染屋太郎時忠ハ藤原鎌足ノ玄孫ニ當リ南都東大寺良辨僧正ノ父ニシテ文武天皇ノ御宇(皇紀一三五七~一三六二)ヨリ聖武天皇ノ神亀年中(皇紀一三八四~一三八八)ニ至ル間鎌倉ニ居住シ東八箇國ノ総追捕使トナリ東夷ヲ鎮メ一ニ由井長者ノ稱アリト傳ヘラルヽモ其ノ事蹟詳ナラス此處ノ南方ニ長者久保ノ遺名アルハ彼ノ邸阯ト唱ヘラル尚甘縄神明宮ノ別当甘縄院ハ時忠ノ開基ナリシト云フ 昭和十四年三月建 鎌倉町青年團」【染屋時忠は、藤原鎌足(かまたり)の4代目の子孫に当たり、父親は奈良東大寺の僧の良弁(りょうべん)であります。文武天皇の時代(697-707)より聖武天皇の時代(724-728)の間、鎌倉に住み、関東諸国の総司令官でありました。また東北地方も安定させました。また由比長者といわれたそうですが、詳しいことは分かりません。ここの南の方に長者久保と言う地名があるのは、屋敷の跡であるといわれています。また甘縄神明宮の甘縄院は時忠が建てたものと伝えられています。】長谷2丁目の住宅街を由比ヶ浜駅方面へ更に進む。踏切を渡りながら、由比ヶ浜駅を見る。江ノ島電鉄線・由比ヶ浜駅。民家のアジサイを楽しみながら、由比ヶ浜の海岸に向けて進む。板塀の隙間から顔を出して存在感を。青のアンジュレーション。「由比ガ浜うめ公園」の先を右に折れ、海岸に向かって進む。鎌倉海浜公園 由比ガ浜地区の中にあった石碑。「ここに鎌倉海濱院 鎌倉海濱ホテル ありき」と刻まれた石碑。石碑にある「鎌倉海濱院」とは日本初のサナトリウム(療養所)のこと。その後1888年(明治21年)にサナトリウムは「鎌倉海濱ホテル」に。1906年(明治39年)にはジョサイヤ コンドル設計の総2階建てハーフティンバー様式(half timbering)建築となった。戦時色濃くなった1938年(f昭和13年)にはイタリア訪日使節団(クロシャツ隊)やヒットラー ユーゲント( Hitlerjugen:ヒトラー青少年団)も宿泊。ヒットラー ユーゲントのひとりは目の前の由比ヶ浜海岸を散策中、入水自殺を図ろうとした女性を見かけこれを助けたと。そんな名門ホテルも第二次世界大戦後、米兵が倒したストーブからの出火で消失。はるばる鎌倉まで旅してきた人々の記憶をとどめるのは石碑のみとなりました と。鎌倉海濱院は、1887年(明治20年)、長与専斎によって開院された、わが国最初の海浜サナトリウム(結核療養所)。皇族や華族、政財界らにの間に海水浴を取り入れた保養、療養の思想を浸透させる目的で創設されたが、2年程で経営は行き詰まり、ホテルとしての営業を開始した と。その隣りにあったのが江ノ島電鉄の車両。「江ノ島電気鉄道107形電車」であり、江ノ島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)が1929年から導入した電車であると。最後まで残った2両は1980年の営業運転終了まで単行(たんこう、1両編成)で運行されていたことから最末期には「タンコロ」の愛称が用いられたのだと。この日は、コロナ禍の影響で入口フェンスは閉まっていた。この107号車は1982年1月16日に鎌倉市に寄贈され、集電装置をトロリーポールに復元した上で、1984年4月からここ鎌倉市由比ヶ浜の鎌倉海浜公園(由比ヶ浜地区)で保存され、日中は車内に入ることもできる。長らく車体の整備が行われず、金属部分に錆が生じるなど状態はやや悪かったが、2009年に修繕が行われている。1963年に公開された映画『天国と地獄 (映画)』ではこの107号の走行シーンがある とウィキペディアより。そして国道134号・「海浜公園前」交差点に進む。右手に「稲村ヶ崎」方面を見る。別の場所から「稲村ヶ崎」方面を。海岸沿いに並ぶマンションの姿も。由比ヶ浜の海岸には人の姿は少なかった。「稲村ヶ崎」方面にしばし戻ると左手にあったのが「稲瀬川」碑。「万葉ニ 鎌倉ノ美奈能瀬河ト アルハ 此ノ河ナリ 治承四 年(1180)十月 政子鎌倉ニ入ラントシテ来リ 日並ノ都合 ニヨリ数日ノ間此ノ河辺ノ民 家ニ逗留セル事アリ 頼朝ガ 元暦九年(正シクハ元暦元 年:1184)範頼ノ出陣ヲ見送リ タルモ 正治元年(正シクハ 文治元年:1185)義朝ノ遺骨ヲ 出迎ヘタルモ共ニ此ノ川辺ナ リ 元弘三年(1333)新田義貞 ガ当手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ 川辺ニ於テ討死セルモ人ノ知 ル所 細キ流ニモ之ニ結バル 物語少ナカラザルナリ」【万葉集の中に、「鎌倉の美奈 能瀬(みなのせ)河」と書いて あるのはこの川のことです。 源頼朝の妻の政子が、1180年 10月の初めての鎌倉入りの 時、良い日柄(ひがら)に入る ための調整で、数日の間この 川辺の民家に滞在しておりま す。また頼朝は、1184年に弟 の源範頼(のりより)が平家を 討つために出発するのを見送 ったり、1185年に亡き父源義 朝(よしとも)の遺骨を出迎へ たのも共にこの川辺です。 1333年に新田義貞(にったよ しさだ)軍の大将大舘宗氏(おおだち (又は おおたち) むねうじ)が、この川 辺にて討死したのは有名で す。この川の流れは細くと も、多くの物語が秘められて います。】国道134号を戻り進むと「海浜公園前」交差点手前には「海水浴場開場100年碑」・「波動碑」があった。由比ヶ浜は、1884年(明治17年)、医学者長与専斎によって「海水浴に最適の地」と称されて開かれた海。1884年(明治17年)から100年を記念して建てられたものと。台座には「愛されて百年 海水浴場 波動」と。右前方の逗子マリーナ方面を見る。逗子マリーナ近くにある高層マンション・逗子マリーナ フェニックスも見えた。三浦半島「自転車半島宣言」マイルストーン(記念撮影用モニュメント)のうち鎌倉海浜公園の「家族とビーチ」碑。マイルストーンとは、各設置場所の地域特性を活かしデザインされたブロンズ像を白御影石の台座に設置したもので、三浦半島に全8カ所設置されています。台座の上部にはQRコードが表示され、スマートフォンなどを利用して周辺の観光情報を閲覧することもできるのだと。「家族とビーチ」碑。そして更に進むと大きな石碑が。こちらは裏側のようであった。「さくら貝の歌 」歌碑。『美(うるわ)しきさくら貝一つ 去りゆける君に捧げんこの貝は去年(こぞ)の浜辺に われひとりひろいし貝よほのぼのとうす紅染むるは わが燃ゆるさみし血潮よはろばろと通う香りは きみ恋うる胸のさざなみああなれとわが思いははかなく うつし世の渚に果てぬ』「さくら貝の歌」👈リンク の譜面も。ここ鎌倉の浜は「桜貝の歌」ゆかりの地。昭和14年由比ヶ浜で拾われたサクラガイからこの歌ができた。由比ヶ浜に住んでいた鈴木義光(後の八州秀章)氏が、二枚貝なのに二枚バラバラで浜へ寄せられているサクラガイを拾って、「わが恋のごとく 悲しやさくら貝 片ひらのみの さみしくありて」と。この短歌がモチーフとなって逗子町役場に勤めていた土屋花情とともに桜貝の歌が作られたのだと。よって作詞:土屋花情 作曲:八洲秀章(昭和14年)の歌。この円形は淡紅色の桜貝と波間に沈む夕日を表現しているのであろうか。「歌碑設立の趣旨わが恋のごとく 悲しやさくら貝 片ひらのみの さみしくありて不朽の名曲「さくら貝の歌」は昭和14年にこの由比ガ浜海岸の桜貝に魅せられて、作曲家・八洲秀章氏が作った短歌をもとに土屋花情氏が作詞、八洲秀章氏自身が作曲して誕生したものです。当時の由比ガ浜は、さくら貝の絨毯といわれるほど美しく輝いていたといわれています。この歌碑は、環境保全とさくら貝の復活を念じて建立しました。平成24年12月16日 「さくら貝の歌」の歌碑建設実行委員会」「滑川」が海に流れ込む。鎌倉市十二所の朝比奈峠付近を源流とし、鎌倉市街を流下して由比ヶ浜と材木座海岸の間で相模湾に注ぐ「滑川」。かつては上流から下流にかけて胡桃川・滑川・座禅川・夷堂川・炭売川などの別名で呼ばれ、河口付近では閻魔川と言われていた と。若宮大路の起点、滑川交差点の石碑広場。正面から。石碑の裏側に廻ってみると、三つの石碑に「觀」「世」「音」、そして細長い石碑に「魚藍觀世音」と彫られていた。「魚藍観世音の石碑」魚介ハ捨身シテ人ニ愉樂ヲ與エ且ツ養フ功徳マサニ宏大無量ナリ吾等魚鱗ヲ愛スルノ有志挙ツテソノ霊ニ供養シ併セテ浜海不易ノ安全ヲ祈念シコノ碑ヲ建ツ昭和四十一年六月吉日鎌倉市立図書館長 澤壽郎 鎌倉市仏教会々長 具山宣泰そしてこの字を書いた人たちはそうそうたるメンバーであることが石碑の下部から。「観」 内閣総理大臣 佐藤栄作書「世」 神奈川県知事 内山岩太郎書「音」 鎌倉市長 山本正一書そして「滑川」交差点の反対側にも大きな石碑が見えた。ここが若宮大路の起点であり、ここを真っ直ぐ進むと「鎌倉八幡宮」へ。巨大な「鎌倉安全協會碑」。もちろん交通安全を祈念して造られた石碑。「鎌倉安全協會碑」前から「滑川」交差点を振り返る。「津波避難情報」津波避難場所は1550m先の「御成中学校」であると。間に合うのであろうか?甚だ疑問であるが。津波避難タワー建設が急務ではないのか?そして「鎌倉八幡宮」方面に進み、「海岸橋」交差点を左折した。右手にあったのが「篠田邱」。鎌倉市由比ガ浜2丁目21−15。英国調の建物。ひときわ高くそびえる切妻屋根。「篠田邸(旧村田邸)この建物は、昭和5年( 1930 )に建てられた和風住宅の増築部として建築されました。篠田邸は、浄明寺の旧華頂宮邸とともに鎌倉のハーフティンバースタイルの住宅を代表するもので、周囲にひときわ高くそびえる切妻屋根やプラケットの刳形、壁面の装飾.英国調の付柱などが華やかな雰囲気を醸しだしています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.04
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「甘縄神明宮」を後にして、次の目的地の「鎌倉文学館」に向かうと、左手に洋館の如き建物が現れた。鎌倉市長谷1-11-1。「鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)」この建物は、明治41年に横浜・戸塚出身の株仲買人・福島浪蔵氏邸として建てられ、創建当時は、現存の洋館の北側及び東北側に和風棟も建てられ、 広大な敷地には庭園が設けられていたと考えられる。大正10年に三重県桑名出身の富豪、二代目諸戸清六氏の所有となり、関東大震災にも建物は健在で、震災時の救療本部としても用いられていた。昭和11年に4男の民和氏に贈与され、戦時中は一部接収を受けたらしいが その後も諸戸邸として用い続けられた。昭和51年に所有権は諸戸産業に移り、宅地分譲が行われ、昭和55年に一部が鎌倉市に寄贈されたが、このときには和風棟はほとんど姿を消していた。 外観は、バルコニーの柱にギリシア建築の様式を取り入れ、メダリオン飾りが付けられており、ドア枠と窓枠には手の込んだ装飾が施されるなど、きわめて華麗です。また、内部も古典的な雰囲気が感じられます。この建物は、明治期の住宅建築の貴重な遺構であり、造形意匠の密度においては、鎌倉のみならず、県内でも最高のものといえます と。「鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)この建物は、関東大震災により壊滅的な被害を受けた鎌倉に残る明治期の建造物として非常に貴重な存在です。明治期の建物は、それ以降の建物と比較して外観の造形意匠が華やかなのが特徴ですが、この建物はその中でも秀逸なものとして高く評価されています。創建当時は現存の建物の北側、南側に和館があり、現在、住宅地となっている建物周辺の一帯は庭園であったと言われています。建物と背景の丘陵が調和した風景は、この地域が近代に別荘地として栄えた文化・記憶を今に伝える貴重な存在です。」2018年4月28日、国の登録有形文化財に指定されているこの「長谷子ども会館(旧諸戸邸)」が閉館したと。耐震診断の結果、劣化剥(はく)落が著しく、大地震による倒壊等の危険性が高いことが理由とのこと。屋根の下の外装も美しかった。入口玄関の上部のガラスの装飾。更に進むと左手奥に「鎌倉文学館」の入口が見えた。入口左側にはアジサイが咲き乱れていた。「鎌倉文学館」の入口。木々に囲まれた石畳の坂道を進む。4/17~7/4で特別展「作家のきもち」が開かれていた。正門の手前右側に石碑が。「長樂寺跡」碑。元禄元年三月二位ノ禪尼政子 頼朝追福ノ為 笹目ガ谷辺ニ於テ方八町ノ地ヲ卜(ぼく:選ぶ)シ七堂伽藍ヲ営ミテ長楽寺ト号す 元弘三年(1333)五月北条執権滅亡ノ際 兵火ニ罹(かか)リテ焼失セリト 此ノ地即チ其ノ遺址ニシテ 今ニ小字ヲ長楽寺ト呼ベリ」【長楽寺は、1225年3月に頼朝の妻の政子によって、頼朝の供養(くよう)のため建てられました。場所は笹目が谷(ささめがやつ)辺りで、800メートル四方の土地を選び、七堂伽藍(しちどうがらん)を建てました。その後1333年5月に、鎌倉幕府が亡んだ時、戦火で焼けてしまいました。この場所がその跡で、現在でも長楽寺という地名が残っております。】「~鎌倉の旧地名~長楽寺~ Chorakuji (現在の長谷一丁目)長楽寺は旧鎌倉町長谷の字名の一つです。当地に所在した長楽寺が地名の由来とされています。長楽寺は法然上人の弟子隆寬あるいは律宗の憲静(けんじょう)の創建といわれ、鎌倉幕府の四代執権北条経時の墓があったとされます。かなりの高僧がいた大寺院だったようです。この長楽寺跡に旧加賀藩前田家第十六代当主前田利為(としなり)によって昭和1 1年に別荘が建てられました。高台から相模湾を一望できる美しい洋館は、三島由紀夫の小説「春の雪」に登場する別荘のモデルになりました。その後は鎌倉市が譲り受け.昭和 60年に鎌倉文学館として開館し、鎌倉文士の原稿、愛用品などを収集、展示しています。」「鎌倉文学館」正門。鎌倉市長谷1丁目5−3。入館チケット売り場。正面に石積みの隧道があった。館へと向かうゆったりと豊かなスロープにある「招鶴洞(しょうかくどう)」いう洞。「招鶴洞」の名前がつくこのミニトンネルは、源頼朝が鶴を放った場所という説があると。「招鶴洞」を潜って振り返る。右手にあった「やぐら」の如き穴。左に折れまずは「バラ園」を訪ねることに。途中、青のアジサイが迎えてくれた。青の先には紫のアジサイが。そして「バラ園」へ。「バラ園鎌倉文学館のバラ園は春( 5月主旬~ 6月下旬)と、秋( 10上旬~ 11月下旬)に見ごろをむかえます。現在はおよそ180種、200株の色とりどりのバラをご覧いただくことができます。鎌倉にゆかりのある名前を持つバラを探してみませんか?鎌倉: 鎌倉にぶさわしい落ち着きをもつ花。トゲのない珍しい種類。 のこと。化粧坂: 鎌倉市扇ガ谷にある切リ通しの名。静の舞: 頼朝にとらえられた静御前は、愛する源義経を思い、鶴岡八幡宮で舞いを舞ったと 伝えられています。星月夜: 鎌倉の枕詞で、星の光が月の ように明るく見える夜のこと。流鏑馬: 鎌倉時代からある馬上から矢を射る武芸。禅: 鎌倉幕府は禅宗を庇護しました。そのため、今でも鎌倉には多くの禅寺があリます。春の雪: 淡雪のこと。三島由紀夫は小説『春の雪」を書くために、旧前田侯爵家別邸 (現・録倉文学館)を取材しました。大姫: 大姫とは長女の敬称。源頼朝の娘、大姫と婚約者、木曽義高(木曽義仲の子)の悲劇は 後世まで語リ継がれています。」既に峠は越えているようであったが、様々な色のバラが。「由比小町」淡いピンクにやや濃いめの縁取り。「ねじり草」。そして「バラ園」から「鎌倉文学館」を見る。「荒城の月」。「ブルグンド 81」はビロードがかった濃赤色。「パラダイス」。「鎌倉」、鮮明な黄色。「星光」。「プリンス ドゥ モナコ」は白から鮮紅色に変化。「1890年頃に侯爵 前田利嗣の鎌倉別邸として建てられたが、1910年(明治43年)に火事により失われた。現在の建物は侯爵 前田利為が1936年(昭和11年)に洋風に全面改築した建築物である。渡辺栄治が設計し、竹中工務店が施工している。戦後の一時期、デンマーク公使や内閣総理大臣 佐藤栄作の別荘として使用されたが、1983年に前田利建から鎌倉市に寄贈され、外観をそのままに内部の補修・収蔵庫の新築をおこない、1985年(昭和60年)10月31日に開館した。2000年(平成12年)4月28日、国の登録有形文化財となった。」とウィキペディアより。3階建てであったが、3階は木造であり非公開となっていた。前庭のひだりがわ「アンジェラ」。前庭から「バラ園」方向を見る。裸婦像「Regard lointain(遠望)」、1981 H.TAKATA。近寄って。緑の先に相模湾の水平線が見えた。「鎌倉文学館」へのアプローチ。「鎌倉文学館」建物への入口。内部は一切撮影禁止であったので、頂いたパンフレットより。「バラ園」と「鎌倉文学館」。「ステンドグラス」。建物は、洋風と和風が混在する独特なデザインになっていま す。ハーフティンバーという建築様式を基調とし、半六角形の 張り出し窓や半円形欄間の飾り窓、ベランダの手摺などに洋風 デザインを取り入れています。一方、切妻屋根と深い軒出などに和風デザインが見られます。 内部全体は洋風のアールデコの様式ですが、随所に和風様式が 取り入れられています。照明やステンドグラスがすべて違うデ ザインになっているのも見どころです。展示をご覧になりなが ら、歴史ある建物もお楽しみください。 <別邸として使用されていた頃の各部屋の使用方法> 常設展示室 1…居間兼客間 常設展示室 2…食堂 常設展示室 3…配膳室 常設展示室 4…寝室 【http://kamakurabungaku.com/info/floorguide.html】より「文学都市かまくら」明治22年(1889)に横須賀線が横須賀まで開通すると、東京からの交通の便が良くなり、文学者が鎌倉を訪れるようになります。大正時代になると、多くの文学者が、鎌倉に滞在したり暮らしたりするようになりました。昭和時代に入ると、より良い創作環境を求め、さらに多くの文学者が鎌倉へ鎌倉へ移り住むようになります。鎌倉に暮らし、仲間との集い、鎌倉の自然を愛し、作品に描いた文学者たちの思いが、鎌倉を「文学都市」へと高めていきました。そして今もなお、多くの文学者が鎌倉に暮らし、活躍しています。「常設展」👈リンク 鎌倉ゆかりの文学「鎌倉文士鎌倉ペンクラブの結成、鎌倉カーニバルの発案、戦中・戦後の貸本屋鎌倉文庫の運営、そして鎌倉アカデミアへの参加など、鎌倉の文学者は市民生活ともかかわりを持ちました。「鎌倉文士」と呼ばれる文学者を紹介します。」「明治・大正・昭和の文学明治時代、夏目漱石は参禅のため、島崎藤村は旅の途中に、鎌倉を訪れました。大正時代になると、芥川龍之介や有島生馬が移り住みました。昭和に入り、東京の都市化につれ、多くの文学者が鎌倉へ移り住むようになります。明治・大正・昭和の鎌倉ゆかりの文学者を紹介します。」「古典文学鎌倉は『万葉集』をはじめ、多くの古典文学に名が記されています。また、鎌倉幕府三代将軍源実朝は和歌をたしなみ、『金槐和歌集』を編みました。主な鎌倉ゆかりの古典文学に、「徒然草」、「吾妻鏡」、「太平記」、「義経記」があります。」「昭和から現代の文学戦後には、立原正秋や渋澤龍彦らが鎌倉に住み、この地を舞台にした作品を書きました。今もなお、多くの作家が鎌倉に暮らしながら活躍しています。昭和から現代までの鎌倉ゆかりの文学と文学者を紹介します。」「施設の概要」1F:特別展示室22F:常設展示展、特別展示室13F:非公開「敷地図」。①バラ園越しの本館②ステンドグラス③半六角形の張出し窓④テラスからの眺望⑤源頼朝が鶴を放ったという故事にちなむ「招鶴洞」「バラ園」の中から「鎌倉文学館」を写した写真。「相模湾」を望む。「鎌倉文学館のしおり鎌倉文学館は、鎌倉ゆかりの文学の直筆原稿・手紙、愛用品などの文学資料を収集保存し、展示することを目的として、昭和60年(1985)に開館しました。鎌倉文学館の本館と敷地は、以前、加賀百万石藩主前田利家の系譜である旧前田侯爵家の鎌倉別邸でした。鎌倉別邸は、明治23年(1890)頃、第15代当主 前田利嗣氏が土地を手に入れ、和風建築の館を建てたことにはじまります。明治43年(1910)、館は類焼により焼失、後に、洋風に再建されます。さらに、第16代当主前田利為氏が全面改築を行い、昭和11年(1936)、今に残る洋館が完成します。第ニ次世界大戦後、デンマーク公使や佐藤栄作元首相が鎌倉別邸を借り、別荘として使用していたこともあります。また、三島由紀夫は、小説「春の雪」に登場する別荘をこの別邸をモデルに書いています。昭和58年(1983)、第17代当主 前田利建氏より鎌倉別邸の建物が鎌倉市に寄贈されます。そして、建物の外観を残しながら補修と増改築を施し、新たに収蔵庫棟を建て、鎌倉文学館として開館しました。本館の外観は、ハーフティンバーを基調とする洋風と切妻屋根と深い軒出などの和風が混在する独特なデザインです。内部も全体は洋風でアールデコの様式も見られますが、随所に和風様式が取り入れられています。」「文学者ゆかりの場所」。「文学都市かまくら 散策地図」。そして特別展「作家のきもち」2021.04.17 (土) ~ 07.04 (日)喜んだり、悲しんだり、私にちの気持ちは日々ゆれています。それは、夏目漱石や与謝野晶子、川端康成、太宰治らの作家も同じで、その気持ちを抱えながら作品を紡き出していました。本展では、手紙や日記など作家が自分の気持ちを吐露した資料から作家の素顔にふれ、彼らの文学作品をよく味わう展覧会てす。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.03
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「光則寺」を後にして、再び県道32号線・藤沢鎌倉線まで戻り、次に「鎌倉能舞台」に向かって進む。「鎌倉能舞台」はここを左にとの案内板があった。「桑ヶ谷療養所跡」碑が路地の入口左手に。「今を溯(さかのぼ)る七百年の昔、永仁年間鎌倉幕府執権北条時宗公が,、極楽寺僧良観忍性(にんじょう)上人に命じ、貧民救済の目的を以て療養所を設けたるのはこの桑が谷戸なりと云う。又文永年間大旱魃(かんばつ)による飢餓の際,施粥(せしゅく)の炊き出しをなしたるもこの地なりと伝えらる,爾来(以後)、年去り人逝いて幾度変転今は当時を語る跡形もなし。只この里に立ちて静かに偉人の善業を回顧すれば,松韻風と共に来たり我等に訓(教)うるものあらん. 茲(ここ)に桑が谷の歴史を伝え往時を偲ぶよすがとせんとす。極楽寺縁起に曰く、「或ハ凶年ナル則集飢人ヲ深沢谷而施粥救餓(凶年には飢えた人を深沢谷に集めて粥を施し餓を救う)」と、また曰く「爰ニ元帥平時宗朝臣、請シテ上人一朝設斎筵、問訊答話之因ミ、及チ上人談千元帥公曰、治療病人者,八福田之随一ニシテ而仏菩薩之最行也、公聞之丞感歎焉、故ニ新ニ構テ療病所於桑谷、以集テ蓋国之病者、而施ス治療ニ(北條時宗、上人を招き問答せし時、上人曰く病人の治療せし事最善の行為也と、時宗之を聞き感歎し、新に桑谷に療養所を設け、全国より病者を集め、治療を施せり)」と。以てこれが証とすることを得べし。」【今から約740年前の昔の1260年頃、鎌倉幕府の北条時宗(ときむね)が、極楽寺の僧の忍性上人(にんじょうしょうにん)に、貧民を救済する療養所を設けさせました。その場所がこの桑が谷(くわがやつ)といわれています。日照りが続き食べ物が無い時に、 おかゆの炊き出しをしたり、病気の人を預かって治療をしたりしました。現在は当時の物はなにも残っていませんが、ここに立って静かに偉人の行った善業をしのびたいものです。】暫く進むと正面に「神霊教」と書かれた表札のかかる石門が。「神霊教(しんれいきょう)は、東京都港区赤坂に本部を置く神道系の新宗教である。教祖は大塚寛一(1891年 - 1972年)であり、1947年に開教し、1950年には東京支部が開設された。」とウィキペディアより。左手に進むと、道路脇の山の下に「やぐら」の如きものがあったが、入口はトタン板で覆われ閉ざされていた。そして右手前方に「鎌倉能舞台」の建物が現れた。鎌倉市長谷3丁目5−13。昭和45年(1970)日本の伝統文化「能楽」(ユネスコの世界無形文化遺産)の振興と普及を目的として創設された、能舞台。 定期公演「能を知る会®」を年に8日開催する他、能楽博物館として舞台・能面・能装束等を展示公開していると。公演案内のポスター。「道成寺」は国立能楽堂で6月20日(日)に。「鎌倉公演」は7月4日にここ「鎌倉能舞台」にて。正面から「鎌倉能舞台」入口を。「能舞台」をネットから。 【https://www.nohbutai.com/about/】より自販機も「鎌倉能舞台」風のデザインが。日本財団のチャリティー自販機で、1本につき10円寄付されて、さまざまな用途に使われるのだと。「鎌倉能舞台」の裏側には山が迫っており、石段の先には山の頂に向かって山道の如き急な坂が延びていた。この近くに、高校時代の学友のご実家があるとのことであったが・・・。そして再び県道32号線・藤沢鎌倉線まで戻り道路を渡り右手に進む。そして裏道を進み、県道311号線を鎌倉駅方面に進むと、左手には「長谷鎮守 甘縄神明宮」と書かれた案内柱が。左手に折れ進んで行くと突き当り右手にあったのが「加賀谷邱」。瀟洒な洋館風の建物が。こちらは現在もお住いの邸宅だが、関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられた木造2階建の建物で、非公開ながら平成21年に鎌倉の景観重要建築物(指定第31号)に指定。屋根上部に付けられた宝珠や壁のデザインが印象的。「鎌倉市景観重要建築物等第31号 平成21年3月2日指定加賀谷邸 The Kagaya Residence加賀谷邸は、端正なつくりの和風建築物に、一間の洋館部を備えた近代に流行した住宅建築物です。この洋館部は、天井の高い平屋建てで、屋根上部に付けられた宝珠の楝飾りや上げ下げ窓を用いるなど細部のデサインが鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)とよく似ていることから、設計の際に参考にしたものと考えられます。綠に囲まれた谷戸の開静な住宅地の中で、ひときわ目を引く背の高い洋館部は周辺のランドマークになっています。」そして左奥の左手にあったのが「川端康成記念会」であったが、アコーディオンフエンスがあり路地の先には進めなかった。「財団法人 川端康成記念会」と。川端康成記念会は、小説家・川端康成の功績を記念して設立された。川端康成は、1899年(明治32年)、大阪で誕生。東京帝国大学文学部国文学科卒業。『伊豆の踊子』 『雪国』 『千羽鶴』 『山の音』 『眠れる美女』 『古都』などの多くの作品を残した。1968年(昭和43年)、日本人として初めてとなる「ノーベル文学賞」を受賞。1972年(昭和47年)4月16日、逗子マリーナのマンションでガス自殺した(72歳)。1969年(昭和44年)9月30日、鎌倉市名誉市民。そしてその先にあったのが「甘縄神明宮」の石鳥居。社号標石「見越嶽 甘縄神明社」。神明社の裏手の山は御輿嶽(見越嶽)といい、この名は古くから歌などによまれていると。「都にははや吹きぬらし 鎌倉の御興ケ崎(みこしがさき) 秋の初風」。こちらにも「甘縄神明宮源義家朝臣再建」碑。社伝によると、1063年(康平6年)には頼義が、1081年(永保元年)には義家が修復を施しているのだと。「詐欺退散」と書かれた朱印状風の祈願書。左手に「長谷公会堂」の建物が。「新型コロナワクチン 接種予約サポート会場」と。「安達盛長邱址碑。盛長ハ藤九郎ト稱ス初メ頼朝ノ蛭ガ島ニ在ルヤ克ク力ヲ勠セテ其ノ謀ヲ資ク石橋山ノ一戦源家ガト運ノ骰子ハ全ク黯黮タル前途ヲ示シヌ盛長頼朝ニ尾シ扁舟涛ヲ凌イデ安房ニ逃レ此処ニ散兵ヲ萃メテ挽回ヲ策ス白旗鎌倉ニ還リ天下ヲ風靡スルニ及ビ其ノ旧舊勲ニ依ツテ頗ル重用セラル子彌九郎盛景孫秋田城介義景邸ヲ襲グ頼朝以来将軍ノ來臨屡々アリ此ノ地即チ其ノ邸址ナリ 大正十四年三月建 鎌倉町青年団」【盛長は藤九郎と称して、はじめは頼朝が蛭ヶ島にいた時、頼朝のよく力を合わせてその謀を助けた。石橋山の一戦で源家の運命が真っ暗になった時も、盛長は頼朝に従い、小さな船で波をしのいで安房に逃れ、この地に散らばった兵を集め、挽回を講じた。白旗は鎌倉に帰り天下を(頼朝が)風靡する時に及んで(頼朝は)その功績によって(盛長を)大変重く用いた。子どもの弥九郎盛景、孫の秋田城介義景は(この甘縄の)邸宅を継いで、頼朝以来の将軍がしばしば(この甘縄の邸宅に)来臨した。この地はその邸宅の跡である。大正十四年三月建 鎌倉町青年団】「甘縄神明社略詩一、御祭神:天照大神、伊邪那岐尊(白山)、倉稻魂命(稲荷)、武甕槌命(春日)、 菅原道真公(天神)。一、由緒 和銅三年己酉(約一ニ五〇年西紀七一〇年)染屋太郎大夫時忠の創建です。 永保元年酉年(約八八〇年前(西紀一〇八一年))源義家公が社殿を再建せらる。 源頼朝公政子の方實朝公など武家の崇敬が篤く古来伊勢別家と尊稱せられている 鎌倉で最も古い神社です。社殿の裏山は御輿ヶ嶽(見越ヶ嶽とも書く)と云い 古くから歌によまれています。源頼義は相模守として下向の節当宮に祈願し一子 八幡太郎義家が生れたと伝えられています。 都にははや吹ぬらし 鎌倉の御輿ヶ崎 秋の初風」和銅3年(710)行基が草創し、豪族染屋時忠が建立。鎌倉で最も古く歴史ある神社と言われ、長谷の鎮守です。近くには川端康成の邸宅があり、小説「山の音」に登場する神社として描かれていることでも知られており、また、万葉集に登場する鎌倉の名の歌の舞台となった場所はこの神社周辺とも伝えます。「鎮魂」碑。昭和50年8月に鎌倉長谷地区の有志により建立された同地区戦歿者71柱の鎮魂碑。中央の石碑には日輪を表わす円の下に「鎮魂」の文字が刻まれていた。左手の碑には建立の主旨、右手の碑には、戦没英霊71柱の氏名が五十音順に刻まれていた。碑高406cm、幅61cm、厚さ45.5cm、台座56cm。後方左の碑には「太平洋戦争に従い若くして戦没された美霊を慰めその遺族の方々の苦衷を謝し世界の平和と日本國の隆昌を祈念してこの碑を建つ。昭和五十年八月十五日 長谷區有志」「手水舎」。歌碑「鎌倉のみ越(みこし)の崎の石崩(いしくえ)の君が悔ゆべき心は持たじ」【鎌倉見越ガ崎の崖はよく崩れる危険なところですが、私のあなたさまに対する想いは 崖のように決して崩れるようなことはありません。 「あの女め!心変わりしよって」とあなたさまが後々後悔なさるようなそんな不確かな心を 私がもつものですか!】とネットには。御神輿収納庫。甘縄神明宮の御神輿が2基納められていた。祭礼は9月7日~9月14日御輿渡御は9月第二日曜日 であると。神輿(右)。神輿(左)。「北条時宗公産湯の井、二條公爵愛用の井」。源頼義がこの甘縄神明社に祈願をして、義家が生まれたと伝えられており、現在でも子宝・安産を祈願する人々がたくさん訪れているのだと。「北条時宗公産湯の井、二條公爵愛用の井」碑。境内地は鎌倉時代の御家人安達一族の邸宅があった場所であり、北条時頼の母である松下禅尼の実家。そして北条時宗の父は執権時頼。安達氏との関わりも深く、安達邸のあったこの地に「産湯の井戸」の伝承が伝わったらしい。また 二條公爵とは、明治期に長谷に別荘を所有者としていたという二條公爵夫人のことであると。狛犬(右・阿形像)。狛犬(左・吽形像)。「社殿」。関東大震災の際に天保9年建築の社殿が損壊しており、現在の社殿は昭和12年に再建されたもの。御祭神は・天照大神(あまてらすおおみかみ)・伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・倉稻魂命(うがのみたまのみこと)・武甕槌命(たきみかつらのみこと)・菅原道真公(すがわらみちざねこう)「拝殿」正面を見上げる。扁額「甘縄神明宮」。甘縄の「甘」は「海女」、「縄」は「漁をする時の縄」の意味という説があるのだと。独立した「本殿」を「秋葉神社」側の斜めから見る。ズームして。「米(八十八)壽の碑 建長曇華九十翁書」石段の上にあったのが「秋葉神社」。境内社「秋葉神社」。扁額は「火防御守護 秋葉神社」。「屋根修復記念碑 甘縄神明宮」。美しい境内のアジサイ・青。美しい境内のアジサイ・濃いピンク。境内社「五所神社」。明治20年に長谷寺鎮守の五所明神が合祀されたもの。扁額「五所神社」。境内から逗子マリーナ方面を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.02
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『鎌倉散策 目次』👈リンク朝早い事、既に何度となく訪ねている事もあり、この日の「長谷寺」👈リンク は立ち寄らなかった。「長谷観音」交差点を過ぎて大仏方面に北に進むと左手路地の角には石碑が。「日蓮上人 立正安国論 上書 靈跡」、「日朗上人 土の牢 光則寺」と刻まれた石碑。左手に折れ更に路地を西に進むと再び右手に石碑が現れた。「日蓮聖人立正安國論進獻靈所」、「宿谷左衛門 行時 光則 邱址」と刻まれた石碑。 進獻とは貴人に物を献上すること。進献、 献納。題目碑「南無妙法蓮華経」。更に「光則寺」に向かって坂を上って行った。山門の手前に門柱が一対あり、それぞれに「行時山」「光則寺」と。山号の「行時山」(右側)。「光則寺」(左側)。「光則寺」案内板。「光則寺『立正安国論』などによって日蓮聖人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も、北条時頼の家臣であった宿谷光則の屋敷に捕えられました、やがて光則は、日蓮聖人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられています。境内の裏山には日朗上人が捕らえられていたと伝わる土牢が残っています。境内には法華経の信者だった宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩碑があり、樹齢二百年といわれるカイドウの古木をはじめ、四季折々さまざまな花が見られる鎌倉有数の花の寺です。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:行時山光則寺 ● 建 立:文永11年(1274)頃 ● 開 山:日朗上人 ● 開 基:宿谷(やどや)光則」「文学案内板 光則寺」〇 宮沢賢治詩碑 雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/欲ハ ナク/決シテ瞋ラズ」(以下略)〇 宮沢賢治(一八九六~一九三三) 詩人、児童文学者。岩手県生まれ。中学頃より法華経への信仰を深めた。農学校教諭を 辞して、羅須地人協会を創設、稲作指導する。この「雨ニモマケズ」の碑は、賢治の言 葉で法華経の心を説いたものとして建てられた。〇 杉聴雨歌碑 夏のころ三橋翁の墓を弔いて なき人のすかたはみえぬさみたれの宿谷のおくになくほとゝきす 聴雨 杉孫七郎(号、聴雨)は幕末、明治期の萩藩士、官僚。〇 夏目漱石来遊の地 大学予備門時代からの友人、中村是公の別荘が光則寺の側にあった。是公は東大法学部 を卒業後大蔵省に勤務。後、台湾総督府を経て満鉄総裁となった人物。明治四十四年七月 二十一日から二十ニ日まで、是公の別荘に遊んだことが、漱石の日記に次のように 記されている。 七月二十一日[金] 二時過鎌倉着電車で長谷迄くる。別荘は(中略)光則寺の入口の右手の高い所なり、 東南が開けて、東の正面に材木座と山を見る。中間に松原が見える。(後略)〇 夏目漱石(一八六七~ 一九一六) 小説家。東京生まれ。東大大学院を卒業後教職につくが、のち小説家に専念する。行人」 「こころ」「道草」などで、近代的自我の苦悩を主題にすえた作品を発表した。詳細は鎌倉文学館(長谷一-五-三・電話ニ三-三九一一)にお尋ねください。 平成六年十二月 鎌倉市教育委員会 鎌倉文学館」「素玉」と刻まれた石碑が右手に。「素玉」の意味は?それとも「素王」のことであろうか。ここにも新旧二基の石碑が右手に。右側の新しい石碑には「参道敷石 昭和五十八年三月竣工 光則寺第三十ニ世日仁代 石工菁光 杉山堅治」と刻まれていた。「六百遠忌報恩塔(ろっぴゃくおんきほうおんとう)」日蓮聖人の六百遠忌報恩のために造立されました。日蓮聖人が入寂されたのは弘安五年(一ニ八ニ)十月十三日とされることから、六百遠忌は明治十四年(一八八一)建立となる。右手にあったのが「宿谷光則屋敷跡」碑。「宿谷左衛門尉光則ハ 北条時頼ノ近臣ナリ 文応元年(1260)七月十六日 日蓮聖人 立正安国論ヲ時頼ニ上(奉)ラント欲シ 光則ヲ長谷ノ邸ニ訪ヒ縷々(るる:詳細に)其ノ趣旨ヲ説キ之ヲ手交(手渡)ス 聖人竜口法難ノ時 最愛ノ弟子日朗(にちろう)ノ囚(とらえ)ヘラレタルハ 邸後山腹ノ土牢ニシテ 億万斯年師孝(苦行積重)ノ哀話ヲ刻ス 光則深ク聖人ニ服シ 遂ニ邸ヲ寄セテ寺ヲ創ム 実ニ此ノ光則寺ナリ 過グル人其レ襟(えり)ヲ正シテ当時ヲ追懐セヨヤ」【宿谷光則は、北条時頼(ときより:1227-1263)に仕えた役人でした。1260年7月16日に、日蓮聖人(にちれんしょうにん)は、立正安国論(りっしょうあんこくろん)という論文を時頼に渡してもらおうと、長谷にあった光則の家を訪ねました。 そしてその理由を詳しく説明してから、その論文を光則に手渡しました。日蓮聖人が竜口(たつのくち)で処刑されようとした同じ時期、最愛の弟子である日朗(にちろう)も捕らえられ、この家の後の山腹にある土牢に入れられました。 光則は深く日連聖人を信じ、自分邸宅を提供して、寺を建てました。それがこの光則寺であります。これらのことを心を正して思い出してください。】そして正面に朱の「山門」が。銅板葺きの四脚門。慶安三年(1650)の建立。「山門」と手前に枝垂れ桜の枝が。「山門」には安土桃山時代推定の彫刻の付いた蟇股(かえるまた)をのせていた。蟇股(かえるまた)の見事な龍の彫刻と扁額「宿谷」。「供 南無妙法蓮華経 日蓮聖人第七百遠忌報恩」碑。七百遠忌は昭和五十六年(1981)となる。「山門」を潜ると正面に白文字で書かれた大きな石碑が。 日蓮聖人の真筆に基づく「立正安国論御勘由来」を彫った石碑であると。その左には、解説した石碑があった。「立正安国論御勘由来、日蓮世間の體を見て粗一切經を勘ふるに御祈請驗し無く還て凶惡を増長するの由道理文證之を淂了んぬ 終に止むこと無く勘文一通を造り作し其名を立正安國論と号す文應元年庚申七月十六日辰の時屋戸野の入道に付して古最明寺入道殿に奏進し了んぬ 此偏に國土の恩を報ぜんが為也文永五年太歳戌辰四月五日 日蓮 在判」『立正安国論』は、当時の天変地異を法華経にそむいた結果と断じ、正法すなわち法華経を信じなければ安国にならないと、問答体で述べたもの。蓮の花が開花。「宮沢賢治ノ詩雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテヰル一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジヨウニ入レズニヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズサウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」碑の最後には次のように刻まれていた。「南無無邊行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼佛 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩」。アジサイの苗が大量に境内にあったが、その目的は?そして「本堂」。扁額「師考第一」。蓮の花の蕾に近づいて。「橘献木 聖祖第六百五拾年」と刻まれた石碑。可憐なアジサイの花。本堂前庭。カイドウ(海棠)の木。本堂前のカイドウは、樹歳200年ともいわれる古木で、鎌倉市の天然記念物に指定され、神奈川の名木百選にも定められている。春先には。 【https://4travel.jp/travelogue/10903341】より「市指定天然記念物」。「土の牢」案内。こちらは「日朗上人 土の牢」案内。「客殿」。アジサイの花びら、いや額が大きな花。「立正安国論御勘由来」碑を斜めから見る。「ハンゲショウ(半夏生)」。「日朗上人の土牢」に向けて苔生した石段を上って行った。「三橋家の墓」と刻まれた石碑他の石碑群が右手に墓地と本堂の屋根を見下ろす。「開基宿谷光則の墓」「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑。「日朗上人の土牢」が前方に見えて来た。土牢の入り口は2mほどの高さがあり木の格子がはめられていた。「日朗上人の土の牢文永11年(1274)頃に建立された光則寺は、もともとは北条時頼の側近・宿谷光則の屋敷であったが、日蓮聖人が佐渡へ流された時、高弟・日朗(にちろう)上人も捕らえられ、この邸内の土の牢に監禁されたといわれています。その後、光則は次第に日蓮聖人に帰依し、日蓮赦面後は日朗上人を開山に光則寺を創建した。この土の牢は700年以上の歴史を刻んでいると推定されています。」この説明文には「宿屋光則」と記載されていた。学友の「先生」からの「ネット情報」👈リンクによると「宿谷は宿屋とか、屋戸谷とも書き、また読みも「しゅくや」とも読むようで、漢字も読みも一定していない。北条氏嫡流の家来である得宗被官であったと思われる。弘長3年(1263)、病に臥す時頼の看病を許された7人の中に「宿谷左衛門尉」の名が『吾妻鏡』の同年11月20日条などに見えている。日蓮が文永8年(1271)に佐渡に流罪になった際、日朗などの日蓮の弟子をあずかり、その後、日蓮に帰依した人物として知られている。現在、光則寺の裏手には日朗が捕らえられていたという土牢がある。」と。内部の奥の壁際に石仏・五輪塔が並べ置かれていた。「土籠御書」を記した石碑。佐渡流罪となった日蓮は、日朗に手紙を書いたのだ。「土籠御書日蓮は明日・佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられていたはしくこそ候へ、あはれ殿は法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば・父母・六親・一切衆生をも・たすけ給うべき御身なり、法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ、天諸童子・以為給使・刀杖不加・毒不能害と説かれて候へば別の事はあるべからず、籠をばし出でさせ給い候はば・とくとく・きたり給へ、見たてまつり見えたてまつらん 文永八年辛未十月九日 日 蓮花押 筑 後 殿」『日蓮は明日、佐渡の国へ行くことになった。今夜の寒さにつけても、牢の内のありさまが、思いやられて、いたわしくてならない。あっぱれあなたは、法華経一部を色心の二法にわたって読まれたのであるから、その功徳で父母、六親、一切衆生をも救済すべき御身である。他の人々が、法華経を読んでいるのは、口ばかり、意味のうえだけで読んでも、心では読まない。あなたのように色心の二法にわたって法華経を読まれたことこそ、まことに尊いことである。(安楽行品には)「天の諸の童子、以って給仕を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること能(あた)わじ」と説かれているのであるから、必ず諸天から守られ、特別のことはないであろう。牢から出られたならば、速やかに来られるがよい。互いの無事な姿をみたいと思います。恐恐謹言。 文永八年辛未(かのとひつじ)十月九日 日 蓮 花 押 筑 後 殿』と。山道にはコエビソウ(ベロペロネ)の花が。本堂前から先ほどとは反対の左側を廻り込み後方の墓地へ向かうと墓地の手前左手に山の中へ上っていく石段があった。右手には「大橋太郎通貞土牢」と刻まれた道標があった。進んでいく前方の木の付け根にあったのが「大橋太郎通貞土籠」。「大橋太郎通貞土籠」👈リンク大橋太郎通貞は平家の武将で源頼朝に捕らえられ土の牢に十二年入れられてという話があり、それに元づくいい伝えと。実際は古墳時代末の横穴墓と思われているとのこと。中の奥に棚があり五輪塔が安置されていた。「山門」を出ると、左側の長谷幼稚園で旧園舎の前の木々の間にも石碑があったが解読不明。「童子像」も。つづくそして「長谷幼稚園旧園舎」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.01
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鵠沼の「はす池」で蓮の花を楽しんだ後は江ノ電の柳小路駅から第6回目の「古都「鎌倉」を巡る」に向かうために再び江ノ電を利用して、長谷駅に向かう。柳小路駅のホームにあった「えのでん沿線あじさい情報No.2」長谷寺、葛原岡神社、御霊神社、光則寺のアジサイの写真が紹介されていた。江ノ電に乗り込み、車窓からの風景を楽しむ。右手に江ノ島駅が見えて来た。江ノ島駅上り線ホーム。そして龍口寺前の急カーブでは2両編成の先頭車両が見えた。そして湘南海岸沿いに出ると右手後方には「小動岬」の姿が。横を走っているのが国道134号。この道は「古都「鎌倉」を巡る」の「1回目」👈リンク の今年4月6日(火)に歩いた道。電車が進むにつれて「江の島」の姿が現れて来た。前方には三浦半島の姿が見えた。ここ江の島ヨットハーバーにて「2020オリンピック」の「セーリング競技」が7月25日~8月4日まで行われる予定なのだ。極楽寺駅停車時に見えたアジサイの花の姿。そして最初の目的地の「長谷(はせ)」駅に到着。後ほど訪ねた「鎌倉能舞台」のポスターが。江ノ電「長谷駅」を県道32号線・藤沢鎌倉線から見る。江ノ電の踏切を渡りながら、「長谷駅」を見る。そして5分ほど歩き国道134号に出ると左手奥に神社があった。「稲荷神社」。鎌倉市長谷2丁目22−18。目の前は「由比ヶ浜」の海岸。境内には美しい「アガパンサス」の花が。さわやかな涼感のある花を多数咲かせ、立ち姿が優雅で美しく、厚みのある革質の葉が茂る様子には力強さも感じられるのであった。正面に「社殿」と向かって左側にあるのは「境内社」であろうか。創建時期等説明書きはなかった。狛狐(右側)。狛狐(左側)。そして「稲荷神社」を後にして、「坂の下」交差点を右折し再び「長谷駅」方面に戻る。途中、道路脇の店のガラス戸にあったのが「鎌倉長谷寺」の「十一面観世論菩薩」のポスター。今年、2021年に造立1300年を迎えたのだと。長谷駅手前の踏切で鎌倉行きの江ノ電車両を。そしてこの道端にも「アガパンサス」と「クロコスミア(ヒメヒオウギズイセン)」の花が。観光案内板。ここは「収玄寺」と。「収玄寺(しゅうげんじ)」の山門を見る。近づいて。腕木門(うできもん)と呼ばれる山門と。鎌倉市長谷2丁目15−12 。境内に入ると正面にあったのが「四條金吾邸址」碑。石碑は日蓮宗の信者であり、日露戦争の時連合艦隊を率いた、東郷平八郎の筆によるものと。緑青に被われた銅葺屋根の美しい本堂には、日蓮と四条金吾夫妻の像がまつられていると。四條金吾は、日蓮宗立宗当初からの門徒であり、中心的な存在でもあった。鎌倉武士でもあった四條金吾は、日蓮捕縛の報を受け、自らも切腹覚悟で龍の口の刑場に向ったといわれており、信心の篤い人物であったと。江戸時代になってこの四條金吾の屋敷跡に、妙詣尼が収玄庵という寺として開き、1923年に光則寺の日慈が今の本堂を再建し、戦後収玄寺として独立したのだと。裏面には「法華宗乃四条金吾 諱は頼基北條氏の族江間親時の宰臣なり性剛直曽て豆州江間に在て主家の変を聞き馬を飛し三時に函嶺の嶮を踏破して殉死乃列に人る忠烈斯の如志深く日蓮聖人に帰し龍ロ法難には倶に死せんとし佐渡に身延に供給誠を竭して身を終ふ世に日本武士の典型妙宗信者の良範と仰く 遺烈万代光輝大千あゝ此偉人大正十二年二月 為四条邸址復興発起者之嘱智学居士 田中巴之助撰并書」と刻まれていると。境内は隅々まで綺麗に管理され、様々な色。種類のアジサイが開花していた。「アガパンサス」がここにも。赤いアジサイ。そして「収玄寺」の「本堂」。山号: 四条山宗派 :日蓮宗本尊 :十界曼荼羅創建年 :文政年間(1818年-1829年)開基: 日勇正式名: 四条山 収玄寺内陣。さらにズームして。本尊は十界曼荼羅ですが、お前立ちがあるようであった。扁額は「収玄庵」。「日蓮宗 収玄寺四條金吾頼基公(北條氏の一族、江間光時の臣)鎌倉時代 1229年(寛喜元年)生---1296年(永仁四年) 没 67歳宗祖日蓮上人に篤く帰依し、聖人四大法難の一つであるに1271年(文永八年)の龍口法難の際には、殉死の覚悟を決して日蓮に随従した鎌倉武士、四條金吾頼基の屋敷跡。聖人四大檀越の一人とされる。金吾の滅後、「捨身護法」「法準色読」の霊地として一寺が建立されたものである。文政年間(1818 ~ 30 )の創立。当初収玄庵と称したが、大正初期の本堂改築を機に寺号も収玄寺へ改称した。」ここにも青のアジサイが。石仏が。日勇聖人の供養塔。緑青に被われた銅葺屋根の美しい本堂「収玄寺」の「掲示板」には「かまくら長谷 紫陽花まちめぐり」ポスターが。「御みやずかい「仕官)を法華経とをぼしめせ 日蓮上人御遺文 檀越某御返事」と。本書・「檀越某御返事」は一説では武士の四條金吾に与えたといわれていると。短い書状ながら重要な内容が含まれており、1つは3度目の流罪の情報が身延に寄せられ、それに対し日蓮聖人は悦んで受け入れる覚悟を述べていると。もう1点は四條金吾に対し主君に仕えることが法華経の修行であることを諭されたと。引用の聖語はその説諭であると。信仰とはすべてを受け入れる覚悟で今を生きることなのであると。「南無妙法蓮華経 賜紫両山 四十七世 日教」「収玄院日頼聖人 殊勝院日眼聖尼 五百五十遠忌供養塔」と刻まれた石碑が道路に面した境内にあった。そして「収玄寺」の先の路地の先の角にあったのが「白日堂」。1940年(昭和15年)に建てられたと。「鎌倉市景観重要建築物等第13号 平成8年(1996年) 3月1日指定白日堂 Hakujitsudo白日堂は、鎌倉の伝統工芸である鎌倉彫の工房兼住宅を代表する建物で、城郭風と寺院風をあわせた匠が際立っています。通りからは重厚な伝統的意匠とともに鉄平石張りの腰壁をもつショーウィンドという近代的な要素との組み合わせが醸し出す特異な雰囲気を味わうことができます。笹目町にある寸松堂も同一施工者の作品です。」「鎌倉彫 白日堂 伊志良」と入口のガラス戸には書かれていた。明治・大正の仏師・三橋鎌山によって考案された彫り様式「三橋式彫り」の流れを汲む店。店主・伊志良逸子さんが彫る「オーダーブローチ」が人気であると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.30
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『鎌倉散策 目次』👈リンク次に訪ねたのが県道23号線沿いにあった「常勝寺」。横浜市栄区田谷町1405 。石段の入口に「南無妙法蓮華経 常勝寺」と刻まれた石碑。「山門」の手前にあったのは「本堂」の旧鬼瓦であろうか。石段上に「山門」。扁額は「妙顕山」。「本堂」。日蓮宗寺院の常勝寺は、妙顕山智善院と号します。常勝寺は、常勝院日養が永正元年(1504)字坪入谷に創建したといいます。江戸期には寺小屋に提供され、明治5年ここに千秀学校が設置されていました。「本堂」の扁額は「常勝寺」。内陣。中央に日蓮上人像が。参道横の墓地。次に訪ねたのが「燈明寺」。臨済宗円覚寺派金龍山燈明寺。横浜市戸塚区小雀町1160。「山門」を正面に見る。築地塀の横は「六地蔵」であろうか。左手には「岩船地蔵」。「掲示板」。「平常心」、「無理しないでいいよ。私はいつもあなたの味方だからね。大丈夫、大丈夫!」と。寺号標石「燈明寺」。燈明寺山門に掛かる「龍山」の扁額。山門の二字の扁額「龍山」は、江戸時代の書家である佐文山によるものだとされるが、山号の「金龍山」からは金が落ちている。このような扁額を目にしたのは初めて?である。「手水舎」。手水口は今にも動き出しそうな迫力ある龍。境内には中村汀女の句碑もたっていた。「木蔭はや 彼岸詣での 肩袂」「鐘楼」。「梵鐘」。「金龍山燈明寺」の文字が。大きな「石灯籠」。本堂前には「観音堂」が建っていた。扁額は「観音」。石造の「出世観音」である。傍ら下には板碑もあった。鎌倉郡三十三箇所観音霊場の観音さまよりも遥かにに大きく、石造とはいっても繊細な透かし彫りのような精緻さであった。お顔をズームで。天井を見る。「本堂」。常勝寺(田谷町一四〇五番地)日蓮宗智善院妙顕山と号し、本尊に日蓮宗奠定の大曼茶羅を安置しており、寺伝は永正元年(一五〇四)常勝院日養により字坪入谷(伯老庵=現加藤宇八宅前)に創立されのち、寛政十一年現在地=芝後谷に移建されたといっているが、「相模風土記稿」には鬼子母神(長六寸六分運慶作)を本尊とし、開山は日親、寺宝に日親が文明二年(一四七〇)書した曼茶羅一幅を有すると記している。江戸期には寺小屋に提供され、明治五年ここに千秀学校が設置された。「内陣」。本尊は「釈迦如来像」。扁額「燈明寺」。なお寺門の扁額「妙顕山」は遠州掛川城主太田摂津守従五位源資美公の真筆で、明治九年掲げられたものと伝えている。「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」。「賓頭盧尊者おびんずる様、撫仏です。自分の体の痛いところを撫でて下さい」。広い境内を見る。「寺務所」。ユニークな形の塔。以前は五重石塔であったのだろうが最上部が失われていた。「句碑」「ひぐらしや どの木が先に くらくなる」七重石塔と銀杏の木の下のお地蔵さまと石仏。そしてその左側、中央に「開山塔」右に「歴代和尚塔」、左に「英岳塔」が。「百番供養塔(寛政4年(1792年)銘)」。お顔が失われていたが。西国33所、坂東33所、そして秩父34所を巡拝すれば、百観音の霊場巡りが完結する。徒歩で巡った時代には、膨大な労力と時間と金を要したことは、現代の比ではない。その完結を祝って建立するのが「百番供養塔」だと。「犬猫供養」塔。境内には、蓮華を持つ阿弥陀如来坐像の姿が。近づいて。右手の親指と人差し指で輪を作る印相・来迎印を。再び広い境内を見る。そしてこの日の最後に訪ねたのが「五霊社」。横浜市戸塚区小雀町1193。社号標石「五靈神社」。「御大典記念」碑。石段を上り境内へ。石鳥居とその先に拝殿が見えた。手水舎。手水鉢は巨岩を刳り貫いたもの。「拝殿」に向かって進む。狛犬(阿形像)・右。狛犬(吽形像)・左。「拝殿」明徳年間に当地の金竜山燈明寺の開山・円仲省鏡が「一村の五穀豊熟と氏子息災延命」の願意を以て創建した。明治6年11月氏子の総意により伊勢大廟の神霊を祀るお伊勢山に社殿を移し、同二十一年改築を加えたが大正十二年の大震災に倒壊した。翌年再建、更に昭和四十四年に至り鉄筋コンクリートにて現在の新社殿が造営された。 燈明寺の正面丘陵上の本社の旧社地は今でも「元五霊」と呼ばれている。御祭神は天照皇太神 ( あまてらすすめおおみかみ )天忍穂耳尊 ( あめのおしほみみのみこと )天津彦火瓊瓊杵尊 ( あまつひこほのににぎのみこと )彦火火出見尊 ( ひこほほでみのみこと )鸕鷀葺不合尊 ( うがやふきあえずのみこと )内陣。しかし、もとは鎌倉五平氏(関東平氏五家)の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀ったとも。また、村岡五郎良文(平良文)・村岡公致(義致)・村岡致成・鎌倉景成・鎌倉権五郎景政の5柱を祀ったとも。「本堂」屋根。「有馬巴」の如き紋が。「従軍追憶誌」碑。「弓弦の頃はしらねども 戊辰の役を始めとし 大東亜戦の終わりまで 星霜遷移七拾余年 ここ小雀をあとにして 出征にし者や百余名 武運つたなく異國に 儚く散りし強者も 霊は還りて懐かしく 夜空の星の煌めきと なりて故郷に帰りなん 祖国敗れて山河あり 生きとし生ける我等あり 夢は戦野を駆けるとも 戦さの友のあつまりで 永遠の平和を祈りて 従軍の碑を建立し 追憶の詩を捧げなん 献詩 九斎維時昭和五十二年九月吉日建立」下部には戦死者名が記載されていた。下部の台座には「戦時回想」が。「世に戦乱を渇望する者はあらざれど、歴史は戦乱と血臭の累積にほかならじ、殺戮と破壊の戦乱に正義の存在はなかるべし。百年の文化も一朝の瓦礫、勝者は常に正しと敗者は常に邪し、之れ勝てば官軍の由縁なり。就中近代戦争は科学兵器の発達に伴い、人類の滅亡さえ危惧されるにいたる。過去幾多の戦争に敗北をしらず、常勝の信念は自づから自負せる我国も大東亜戦争に於て、故山の燒土と参百六拾余萬霊の犠牲のうえに平和を迎えたるは悲惨なり。此処に戦時回想し、世情の一端を誌し、追憶の資に供せむとす。当時街頭には出征兵士の母妻等が立並び、自木綿の腹巻に、赤糸を結ぶ千人針に、 一針を乞う風影随処に見受けらる。死線、苦戦を脱するを祈り、五錢、十錢の硬貨を縫いつけしもの多かりき。前線兵士の無聯を慰さめる慰間袋つくりに、愛国婦人会の自欅は、活躍また盛んなり。在郷の男女は老いも若きも、竹槍訓練に励み、バケツ、火叩きで空襲を防がんとせしは、愚なるも心情察するに余りあり、勇壮なる軍歌と打振る日の丸の小旗に、颯爽と出陣する兵士は、一様に寄書せる国旗を肩欅に掛け、手には奉公袋を、懐中には召集令状を抱きて、場々と生死の岐路を行進して行けり。留守家族は神社佛閣を詣で、陰膳を供えて、武運長久を願いたるものなり。戦線はすでに、中国全土、東南アジア、大平洋全域に拡大され、緒戦の勝利は、日を追うて利あらず、その頃米機の空襲しきりにして、大都市は灰儘に帰し、物資は窮乏し、食糧は配給となりて、国民の体力の衰えは顕著なり、軍需生産も亦著しく低下、前線えの補給は途絶え、孤立無援となるもの多し。禽獣を捕え草木を食して、孤島に戦えうと聴く。山本艦隊司令長官の帥いる超弩級戦艦武蔵無敵を誇る帝国海軍すでになく、零戦に名をはせし、空軍また然り。天皇は、軍部の執拗な本土決戦論を排し、国民を救い、国家を維持するためには、忍び難きを、忍ばねばならぬと仰せられ、ホツダム條件を受諾、御自らの玉音をもって国民に終戦を告げられる。この時天皇は落涙されしと迫水書記官長は記述しおれり。時に昭和二十年八月十五日なり。かくして大日本帝国陸海軍は終焉し、民主国家日本の誕生を見たるも、未来永劫の平和を祈り念ずるものであります。」と熱き想いが連綿と綴られていた。「敬神親和」碑(昭和44年(1969年)銘)。「五霊社造営誌小雀町の鎮守五霊社は今から五百七十余年前後 小松帝の明徳年間に金竜山燈明寺の開山円仲省鏡禅師によって創建された 祭神は天照大神 天津彦火瓊々尊 鵜鷀葺不合尊天忍穂耳尊 彦火々出見尊の五柱の神聖である 爾来今日迄五穀豊穣 息災延命の鎮守として里人の崇敬篤いものであった 展望広闊なこの地が社地に定められたのは 明治六年で当初は元五霊と呼ばれる地に建立されたのである 明治二十一年九月これを改築し社殿は壮麗を極めたものであったが大正十二年の関東大震災で倒壊したため翌大正十三年に再建し今日に至ったものである 昭和十五年には紀元二千六百年と横浜市合併一周年とを記念して石段百垣の大改修を行った他度々補修を加え保存に努めて来たのであるが約半世紀の歳月を経て建物の朽廃甚だしくこのまま放置することは出来ない状態となった こヽに氏子並びに町民相図り五霊社造営委員会を結成し明治百年を期して社殿を造影し町民の親和と繁栄を祈念しようと決したのある 幸に多数の方々の賛同を得 浄財の寄進を受けたので委員会は当初目標たる社殿造営のほか社務所集会所をともに完成し得たのである この殿堂を中心として町民の融和を図りもって永遠の隆盛を深く祈念するものである昭和四十四年九月吉日 五霊社造営委員会」「玉垣献納記念碑古くは垣としての用に供せられ、御神域を護持し奉り、尊厳の幽美を象徴するものなり。玉垣には、素朴の板塀、朱塗りの丸垣、皮付黒木など多彩であるが、江戸時代中期より堅牢な石造りに極まれりと聴く 古来は大名豪族などの権力誇示に利するところ多きも後にいたり、五穀豊穣、息災延命を祈りて寄進せる里人の素朴な奉納こそよしとせらるこの五霊社における階段 石垣は横浜市合併記念として奉納されたものであり、また明治百年を記念して、近代的な社殿が、氏子及び町民一同の寄進により造営がなされたものである。ここに、又有志相語らい、天皇在位五十年を記念して、玉垣を献納いたしました。昭和五十一年十一月吉日五靈社玉垣建造委員会」。「神楽殿」。「社務所」。「小雀町内会館」。そしてこの日の予定を全て完了し、車で10分足らずで帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンク帰路の途中、次に訪れたのが、定泉寺・田谷の洞窟。ここは鎌倉市と横浜市の境に近く横浜市の寺。横浜市栄区田谷町1501。「真言宗大覚寺派田谷山定泉寺本尊厄除 阿弥陀如来」石段を上り境内へ。「田谷山喩伽洞(ゆがどう) (田谷の洞窟)拝観時刻 午前九時から午後四時まで拝観は受付まで申込みのこと」「真言宗大覚寺派定泉寺」「田谷山喩伽洞」「句碑」「御先祖乃由縁の寺や蝉時雨 やま」永大供養墓 大日堂。新しそうな「大日如来」の石像に近寄って。「本堂」田谷の洞窟のある定泉寺は天文十三年(1544)の創建と伝わっています。境内にあるこの有名な田谷の洞窟は正式名称を田谷山瑜伽洞(たやざんゆがどう)と云い、全長1kmにも及ぶ人工洞窟で、真言密教の修行場として活用された地底伽藍。また、境内にあった著書『田谷の洞窟』によれば、古くは古代横穴住居跡、もしくは古墳跡であったとも云われています。そしてさらに、定泉寺は和田義盛(和田合戦)の三男で朝比奈三郎義秀の邸跡でもあるそうです。境内には朝比奈三郎が日夜礼拝していたと伝わる「朝比奈弁才天」が祀られていました。本堂の内陣。受付。「玉石」。玉石の脇に「おんばらだはんどめいうん」の札が建ててあった。(『観音経』『如意輪観音の真言・おんばらだはんどめいうん』)そしてご利益は、「この玉石を撫で、その手でお腹をさすると玉のような赤ちゃんに恵まれる」そうだ。「本堂」前の「修行大師像」。睡蓮の花が。近寄って。アジサイの花。「本堂」を斜めから。「田谷の洞窟」・「喩伽洞」の入口。田谷の洞窟・正式名称「田谷山瑜伽洞(たやざんゆがどう)の入口。「田谷山瑜伽洞」👈リンク は以前の2017年に洞内を訪ねて入ったのでこの日は入口前までとした。「朝比奈弁財天」。朝比奈三郎が日夜礼拝していたと伝わる「朝比奈弁財天」が祀られている。言い伝えでは朝比奈義秀がこの地に弁才天を祀り、1213年に起こった「和田合戦」で朝比奈義秀がこの敷地内を通って落ち延びたと言われている。 また鎌倉幕府滅亡時にも、落武者が逃れたと云う。この石碑には???「子安地蔵堂」「子安地蔵尊」。「子安地蔵尊」。年ごとにたくさんの水子供養の水子地蔵が安置されていました。更に古い年代のものも。墓地内の見事な墓石群。墓石は並ぶ。「厠」案内。「大小便時 当願衆生 燭除煩悩 滅除罪法おんくろだのう うんじゃく」と。大方廣佛華嚴經(八十巻本)卷第十四 *于闐國三*藏實叉難陀*奉 制譯 淨行品第十一にあるのだと。「烏枢沙摩大明王」という名前の神さまの言葉で、ご真言は「おんくろだのう うんじゃく」。【用便に際し願わくば、心身安穏となる如く、人々をして煩悩を除き、罪穢を滅し除かん】そして次に訪ねたのが、近くの「御霊神社」交差点前にあった「田谷御霊社」。横浜市栄区田谷町1506。「田谷御霊社」は、鎌倉の平氏(鎌倉・村岡・長尾・梶原・大庭五氏)が全盛だった頃に、村岡の御霊社を勧請して創建した十三社のうちの一社で、平安時代末期の創建ではないかといいます。大正12年に田谷の神明社・山王社を合祀しています。一の鳥居は石造り。社号標石「村社 御霊社」。石段を上って行く。朱塗りの二の鳥居は木造りの「両部鳥居(りょうぶとりい)」。両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。すなわち、二本の本柱の前後にそれぞれ控え柱を設け、本柱と控え柱との間に上下二本の控貫(ひかえぬき)をつけたもの。正面に二基の石碑。「支那事変 大東亜戦争 忠霊碑」。支那事変(しなじへん)とは、昭和12年(1937年)から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である(ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)。大東亜戦争とは第二次世界大戦(太平洋戦争)(昭和16年(1941年)〜昭和20年(1945年))のことである。「明治参拾七八年 戦役 凱旋記念碑」日露戦争(明治37年(1904年)〜明治38年(1905年))では、東郷平八郎が率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で撃破して勝利した。明治三十七八年戦役といわれていた。日露戦争の出征軍人の凱旋を記念して、明治40年9月17日に建立された。裏面に出征軍人11名の階級と氏名が刻まれている。 台石には建碑の発起人47名の氏名が正面、左右面にわたって刻まれている。隣接して、支那事変、大東亜戦争の戦没者の忠霊碑が建立されている。碑高208㎝、幅75㎝、厚さ25㎝、台石50㎝、基壇60㎝。狛犬(阿形像・右)。狛犬の台座には「大正十二年 四月吉日 戸塚町 石井」と刻まれていた。狛犬(吽形像・左)。関東大震災の4ヶ月ほど前であり、造立されたばかりのこの狛犬も地震発生のその日にはその激震を感じたのであろう。「社殿祭神は天照大神・大山咋命・鎌倉権五郎景政の三柱の神。縁起によれば桓武天皇の弟早良親王ほか三人を合祀したのが京極御霊社であった。村岡五郎良文は勅を蒙り、平将門征討の途次、京極御霊社を勧請して、相州村岡の里に祭祀すると共に、自らは相模守として村岡城に入った。かくて良文は将門討伐に向かったが、時に国香の子で良文の甥にあたる貞盛が下野の押領使藤原秀郷の援助を得て将門をほろぼしたため、将門は戦わずして関八州を平定し得たのであるが、これというのも一に御霊社の神慮による援護のたまものであるとして、ますます御霊社を厚く尊崇した。良文の曾孫景成は鎌倉大倉谷に館を建てて、鎌倉を氏とした。その子が景政であり、景政は応徳三年(一〇八六)、後三年の役に義家に従い戦功をたて、翌寛治元年凱旋したが、時に村岡の御霊社に御礼まいりをし、印にかぶとを埋めその上に松を植えたといわれる。その松がかぶと松と呼ばれているもので(昭和二十二年枯死)、その後景政の子鎌倉太郎景継は村岡の御霊社を由井の里に勧請し、北条寺頼の命令により景政をも合祀して五座とした。これが鎌倉坂下の御霊社である。その後関東は平氏隆盛時代をむかえるに至り、近郷に十三社分霊されたといわれ、そのうち一柱が田谷の御霊社である。とすれば、当社は平安末期の創建であったと思われる。越えて天保五年総欅材をもって中宮の社殿と鳥居を造営(大工佐藤喜兵衛)、明治二十三年四月三十日には拝殿を改築し御遷宮式を挙げたが、大工棟梁は宮内三右衛門。大正十二年四月亀甲山所在の神明社および山王社を御霊社に合祀するとともに、村社に列せられた。」と。天保五年に社殿再建の棟札が現存して居り、隣接定泉寺と共に古くより現在の地に鎮座し、田谷町民の崇敬社となっていた と。屋根下の彫刻。御神木の「ケヤキ」。天照皇大神と日吉社。真ん中には石祠が。古木の根本に小さな木製祠が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク次に訪れたのは「神明神社」。石鳥居の先に高さ20mほど続く急な石段が。鎌倉市岡本2-6-24。江戸後期から幕末に建てられた庚申塚。左手が「青面金剛童子(文政13年(1830年)銘)」。中央に「堅牢地神(けんろうじじん)(文政元年(1818年)銘)」碑。大地をつかさどる地神で、大地が万物を載せて堅固不動であるところから、堅牢の名がある。万物を生育し負載するはたらきを神格化したもの。右手に「庚申塔(安政7年(1860年)銘)」。「神明神社鎮座地 鎌倉市岡本三一七ー一番地祭神 天照大神(あまてらすおおみかみ) 伊邪讃尊(いざなぎのみこと)例祭日 四月十七日由緒沿革創立起源など不詳であるが五穀豊穣と村民の安寧を祈念し崇められてきた。岡本地区の元村社で氏神様とされてきました。「風土記稿」に神明寺とみえているが、神仏分離によって寺を廃し神社を創建されたものです。石灯籠の先に石碑が。「忠魂碑」海軍水兵小林不二三(こばやし ふじぞう)君の忠魂碑。碑文によると、小林さんは戦艦三笠に乗艦し、日本海海戦に従軍後、明治38年9月12日、佐世保港内で、三笠艦の爆沈とともに殉職。20歳であった。親族や岡本地区の有志らによって明治40年5月に建立された。三笠艦の爆沈は、後部弾薬庫の爆発によるものだが、399名もの死者を出した。原因には諸説があるが不明。碑の正面には忠魂碑の篆額と碑文が、裏面には俳句3首などが刻まれている。碑高264㎝、幅83㎝、厚さ23㎝、台石58㎝。所在:岡本神明社(鎌倉市)「忠魂碑(篆額)海軍水兵小林不二三君碑□□死而寿ふ□死而□者天部固不可測也不二三君小林氏相□ 鎌倉郡玉縄人資性治□夙入舞鶴□兵□日夕精練少不懈怠頗有 令耳□日露役之起や奉職三笠艦□加日本海大海戦君奮撃健冠大□上官死称揚以功叙勲八等賜白色桐葉章既而凱旋佐世保軍 港□艦由失火條忽爆発君与艦體□没殞□年二十実明治三十八 年九月十二日也我□□謀建碑干鎮守神明祠域内□文予乃叙銘曰 海戦奮勇 維國之忠 易□□変 □ゆ艨艟 丈夫□志 溟渤殉□ 勒石□芳 勲績炳煥 明治四十年五月 枢密顧問官従二位勲一等男爵曽祢荒助撰」碑裏面:「・・・ 小林八右衛門 二 小林與右衛門 三笠山月は・・・・ 小林美右衛門 小林七太郎親族建之」台石正面:「岡本部落賛助員中」神社の石鳥居の扁額は朱の「神明神社」。急な石段を上りきると本殿が見えて来た。この広さならここに神明寺の伽藍があったのであろうか。さらに短い石段があり、その上に小さな本殿があった。「手水舎」。「本殿創建年等の詳細は不明。古くから五穀豊穣と村民の安寧の社として崇敬されてきた。本殿には神輿が祀られている。近くには灌漑用の溜め池として造られた谷戸池がある。祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 伊邪諾尊(いざなぎのみこと)。近づいて。鎌倉市には神明神社を称する社殿は二社存在する。台の鎮守と、この岡本の鎮守する神明神社である。神明社は伊勢神宮から勧請や分配を受けた社で、神明とは、天照大神の事で各地の神明社は天照大神、もしくは伊勢内宮・下宮の神を奉祀する。扁額「神明社」。急な石段を見下ろす。途中に踊り場のない石段なのであった。神明神社横の三叉路には「念佛供養塔(文政元年(1818年)銘)」と手前に「丸石」があった。「念佛供養塔」には「南無阿弥陀仏」と刻まれていた。神明寺の名残であろうか。次に訪ねたのが「伏見稲荷神社」と「岡本神社」。住宅街の民家の間の路地を右に入っていった。鎌倉市玉縄3丁目。前方、右手にあった石仏群と手前に井戸が。地蔵像と菩薩像。菩薩像と不動明王像。このやぐら?の中には、何もなかったが。「伏見稲荷神社」、「岡本神社」への石段。そしてこちらが「伏見稲荷神社」への石段。こちらが「岡本神社」への石段。「この道の由来この道は、岡本神社(別称)お伊勢山神明神社の旧参道であった道です。(平安時代から室町時代まで)」左前方の一段高い場所に「伏見神社」の鳥居と社殿が。鳥居の扁額「伏見稲荷」。「社殿」。「伏見稲荷神社」の社殿前から「岡本神社」の社殿が見えた。そして石段を途中まで下り、「岡本神社」の石段を上る。「岡本神社」の鳥居と社殿。鳥居の扁額「岡本神社」。「「復元」岡本神社 (別称)お伊勢山神明神社縁起平安時代、今から約一〇〇〇年前天慶一年(西歴九三八年頃)村岡城主、平良文の一門であった、角田家は、約三万坪の所領を、提供し、岡本神社、(別称)お伊勢山神明神社を、建立しました。その後、室町時代に入り、今から、約五〇〇年前永正九年(西暦一五一二年頃)、この地に侵攻して来た、玉縄城主らによって、岡本神社は、解体されました。解体される前の元の、岡本神社(奥社)のあった場所は、この場所より約三〇〇メートル上方の山項にありました。この神社は、当時、岡本村の鎮守様でありました。同時に、角田家も、岡本(玉縄)地域等で、約二十万坪の所領を、玉縄城主らに、奪われました。当時、角田家は、三浦一族に属しておりました。この度、約五〇〇年ぶりに、岡本神社、(別称)お伊勢山神明神社の(下社)が、復元し、完成しました。下社復元にあたり、佐藤慶春氏に御尽力していただきました。 合掌天照皇大神産土神復元建立者 角田壽久平成十年一月吉日」狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「岡本神社」の社殿。近づいて。斜めから。大船観音の横顔の姿が見えた。そして次に「谷戸池」を訪ねた。鎌倉市玉縄2丁目4−5。玉縄にある谷戸池は、今泉の鎌倉湖(散在ヶ池)や笛田の夫婦池と同じく、農業用水用の溜め池であったと。池の周りには桜の木が植えられ、桜の季節には多くの花見客で賑わうのであろう。「谷戸池」の横にあった「やと池児童遊園」。木製ベンチも置かれていた。次に「金剛寺」を訪ねた。鎌倉市玉縄2丁目11−3。「浄土真宗本願寺派 大船山 金剛寺」。2001年(平成13年)創建の寺。この寺の概観は普通の住宅風で、建物だけ見たらお寺らしくない雰囲気であったが。「金翅鳥院(こんじちよういん)」鎌倉市関谷777−7。「金翅鳥院」の住職は羽田守快(はねだしゅうかい)氏は 1957年、東京に生まれる。総本山園城寺(三井寺)学問所員。鎌倉・金翅鳥院住職。密教および修験道の実践家として知られ、加持祈祷、信仰相談を中心とする宗教活動を展開しているのだと。「天台 寺門宗 金翅鳥院」と、民家の如き御堂であったが。寺の近くのアジサイの花。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は6月2日、車でJR大船駅の西側を訪ねた。「玉縄首塚」。鎌倉市岡本2丁目3。1526年(大永6年)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込んだ。玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)がこれを迎え撃ち、戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となった。この戦いで両軍ともに多くの戦死者を出した。氏時方では甘糟氏をはじめとする30数名が里見軍に首を取られた。合戦後、氏時は、里見方に申し入れて、互いに討ち取った首を交換し、この地に葬ったのだと伝えられている。塚に聳える榎(エノキ)は、このときに植えられたものと伝えられ、「甘糟榎」と呼ばれている。塚も「甘糟塚」と呼ばれていたが、現在は「玉縄首塚」と呼ばれる。「六地蔵」。「甘糟榎」下の「怨親平等(おんしんびょうどう)」と記された石碑「玉縄首塚由来今を距(へだて)る四百四十余年 大永六年(1526)十一月十二日南総の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち府内に乱入せるを知るや時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫)豪士大船甘糟(あまかす)渡内の福原両氏と供に里見の軍勢を此処戸部川畔に邀撃(ようげき:迎撃)し合戦数合之を潰走(かいそう:壊滅)せしめ鎌府を兵火より護る この合戦に於て甘糟氏以下三十有五人は戦禍の華と散り 福原氏は傷を負ひ里見勢の死者その数を知らず干伐収(おさまり)て後城主氏時彼我の首級を交易(交換)し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷関(郷里)死守の霊を慰の怨親平等の資養と為し玉縄首塚と呼称す 経云我観一切普皆平等」【今から473年前の1526年11月12日に、南房総の武将里見義弘(さとみよしひろ)が鎌倉を攻め落とそうと進軍し、鶴岡八幡宮に火を放ち鎌倉内に乱入しました。このことを知った当時の玉縄城主北條氏時(うじとき:早雲の孫)は、大船甘糟(あまかす)と渡内福原の両軍と協力して里見の軍勢をこの戸部川辺にて迎え撃ち、合戦すること数回にして敵を打ち破り鎌倉を守りました。この合戦において甘糟氏以下35人は戦死し、福原氏は傷を負い、里見軍の死者は数がわからないほどでした。戦闘が終わった時、城主の氏時は敵と味方の首を互いに交換し、これらを葬(ほうむ)り塚を築いて塔を建てました。そして郷里を死守した霊を慰めると共に、怨親(おんしん:敵味方)平等という考え方の例としました。これを玉縄首塚とよんでいます。 経云我観一切普皆平等(お経には、すべての人は敵味方なく皆絶対平等であると説いております)。】「馬頭観音」碑。後ろ側にも、古い石碑と五輪塔。「玉縄首塚碑(文政8年(1825年)銘)鎌倉郡玉縄首塚碑」。「鎌倉郡玉繩首冢碑記 西城小姓番士兼編修 間宮士信撰 從五位下大隅守戸川惠 書并題額室町氏季世関東擾亂、北條左京大夫諱氏綱據小田原城、使弟左馬助氏時守玉繩城、當是時也敵國相侵攻伐是務、房國有里見氏絶海屡冦、大永六年十一月十二日房冦放火焚八幡祠、城兵逆戰于戸部川上斬馘甚衆、城兵亦死者三十五人、氏時便以房人首級換吾兵三十五首、爲合豬築冢、後人號曰首冢或呼甘糟冢、甘糟氏葢死者之長也、大永距今三百餘載、物換星移土人亦咸不知其由也、郡人甘糟?・原等奉先思孝追遠弗措将謀樹碑、其孫裔存者聞之各戮力舎財、會有地志編纂之擧、余掌其事乃遣朝岡泰任・村井量令等採索焉、自鎌倉迄藤澤、甘糟等爲之指導途、過家側因説樹碑之課、且爪二生請銘於余、余祖宗亦爲北條氏之義不可辭也、乃係以銘、銘曰赴危殉難 甘喪其元 妖氣一霽 城壘得完 戸部之水 村岡之原 毅魄安在 惟一杯存春草空緑 秋霜自繁 歴載三百 緜務子孫 文政八年歳次乙酉冬十一月建 廣瀬群寉刻」。「戸部橋」を渡る。下を流れる川は「柏尾川(かしおがわ)」。柏尾川は、神奈川県南部を流れる二級河川。境川の支流である。戸部川とも呼ばれる。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km。源流である戸塚区の周囲の区から流れる複数の小川のうち港南区から流れる平戸永谷川(ひらどながやがわ)と瀬谷区から流れる阿久和川(あくわがわ)が合流する戸塚区柏尾町付近から柏尾川の名称に変わる。戸塚駅付近より大船駅付近までJR東海道本線沿いを流れ、手広付近までは神奈川県道304号腰越大船線にほぼ平行に沿う。手広付近からは神奈川県道32号藤沢鎌倉線を藤沢駅方向に流れ、藤沢市川名で境川に合流する。下流になる藤沢方面を見る。「柏尾川」。大船駅方面を見る。正面にJR東海道本線の線路、踏切が見えた。そして「戸部橋」を渡り、直ぐ右折すると左手にあったのが「鹽釜神社(しおがまじんじゃ)」。鎌倉市台1丁目5−15石鳥居の扁額「塩釜神社」。「鹽釜神社」碑。「鹽釜神社」は、江戸時代末期の頃に仙台公に仕えた当地の娘が、帰郷した際に崇敬していた鹽竈神社(宮城県塩竃市)の分霊を祀ったことに始まるという。延命長寿・産業開発・海上守護・安産守護の神として信仰されている。社前を流れる柏尾川の対岸には玉縄首塚があって、8月の玉縄首塚まつりの際には社前に露店が並び賑わう。かつては、鶴岡八幡宮や長谷寺とともに、新年に使う生活用品などを売るため歳の市も開催されていたのだという。「社殿」。「社殿」は大正十二年の建立で、石造りの鳥居は昭和十四年に建立されている。また現在、この「鹽釜神社」は岩瀬にある稲荷神社の兼務社になっている。狛犬(阿形)。狛犬(吽形)。「鳥居寄附芳名」碑。「表題 海軍中将 東郷吉太郎書」の文字が刻まれていた。蟇股の龍の見事な彫刻。木鼻(右)には獅子の姿が。木鼻(左)。「鹽竈神社御祭神竝御由緒鹽竈神社の御祭神は塩土老翁神(しおづちのおぢのかみ)(別宮)武甕槌神(たけみかづちのかみ)(左宮)経津主神(ふつぬしのかみ)(右宮)の三神を御奉祀する。延命長壽・産業開發海上守護・安産守護の神・武徳の神として御神徳髙く広く崇敬尊信せらる。例祭 七月十日」社の内陣は提灯がともされており、赤く染まった空間の中に御神体が安置されていた。それは思いがけない綺麗な色彩を輝かせていた。「鹽竈神社」の「本殿」を斜めから。そして次に訪ねたのが「黙仙寺」。鎌倉市岡本1丁目4−11909年(明治42年)、濱地八郎という人物が、自ら信仰する金剛経を広めるため、永平寺管長日置黙仙禅師を開山に迎え、静岡県にあった祐昌寺という寺を移した と。大船観音建立の中心だった高階瓏仙は黙仙寺の二世。右手に「無我相山」、「金剛経道場黙仙寺」と刻まれた石碑が。入り口の石段左にあった「十三重塔多層塔」。石段を上って行くと右手に石碑が。この石碑には?禅の言葉であろうか?「毎日晨朝(まいにちじんちょう) 諸入禅定(しょにゅう?ぜんじょう) 六道遊化(ろくどうゆけ) 抜苦与楽(ばっくよらく)」ではないかと先生から。「子育地蔵尊」碑。「曹洞宗 無我相山 黙仙寺(むがそうざん もくせんじ)」。山号はこの地の山名である無我相山、寺号は開山者の黙仙禅師の名に由来である。現在大船観音寺が管理されているようであった。座禅場であろうか。「座禅会」、「金剛道会本部」の大きな木札が。更に本堂に向かって樹木に覆われる急な石段を上る。右側に三体の地蔵尊。三体の地蔵尊と観音様もその先に。大きな石塔。上って来た石段を振り返る。「西国三十三番霊場 巡拝記念」碑。「梁宗和尚塔」と刻まれた石碑。「本堂」はシャッターで閉ざされていた。開山 :日置黙仙開基 :浜地八郎本尊 :釈迦牟尼仏大船観音が第二次世界大戦等により、未完成であったのを昭和29年にこの黙仙寺の二世住職で永平寺管長であった高階瓏仙(たかしなろうせん)禅師が中心となって完成に漕ぎ着けたのだと。大船駅近くのマンション「ガーデンアソシエ」。眼下には大船駅が見えた。「黙仙寺墓園」入口の碑。「菩薩像」と「本堂」の裏手を見る。歴代の上人の墓碑であろう。「當山二世玉瓏堂仙大和尚」墓碑。横には「大舩観音完成の禪師」碑。歴代上人「墓誌」。「歴住塔」。「開基塔」。「大松坊無我相菩薩」と刻まれていた。「黙仙寺」の墓園を見る。この「黙仙寺」の近くの山の上には「大船観音寺」👈リンク があったが、ここは子供の頃から何回も訪ねているので、この日はスルーしたのであった。そして次に訪ねたのが「玉泉寺」。鎌倉市玉縄3丁目687「真言宗 聖天山 歓喜院 玉泉寺」の「本堂」。「玉泉寺」は、江戸時代に小林若狭という人物が建立した。山号の「聖天山」は、背後の山に聖天の祠があったことによるという。秘仏本尊の不動明王像は、胎内に小さなお不動さまを抱えていることから、「胎内不動」と呼ばれ、この胎内の像は願行上人が作ったものとされている。願行は泉涌寺派の法燈を鎌倉に植えつけた僧(泉涌寺第六世)で、大山寺の鉄造不動明王像(国重文)を鋳造したことで知られている と。「本堂」の扁額。境内の稲荷社。「 修行大師像( 弘法大師空海)」「本堂」裏の墓地。「六地蔵尊」。「武将のお墓」寺院の裏のやぐらには、小林若狭の父とその家臣一族数十名が葬られていた。布袋様に似ているが・・・。地蔵様の首がなく、抱えているように見えたが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク久しぶりの「瑞泉寺」を訪ねた後は、「通玄橋」まで戻り、橋を渡り「二階堂川」に沿って北上する。そして「亀ヶ淵橋」横に到着。「亀ヶ淵橋」「亀ヶ淵橋」は渡らずに川沿いを更に上って行く。右手にあったのが「鎌倉虚子立子記念館(かまくらきょしたつこきねんかん)」。正岡子規の後継者として知られる俳人高浜虚子と、その娘である俳人星野立子の記念館。館内では四季折々の作品が展示されているほか、記念品の販売等も行われていると。「鎌倉虚子立子記念館」。新型コロナの影響で木曜日のみの開館と。玄関には句をしたためた多くの木札が並んでいた。そしてその先の山裾にあった神社を訪ねた。真っ赤な「三寳稲荷大明神」と白抜きされた幟が並んでいた。竹林の中にあった「二階堂亀ケ渕・三寳稲荷」。小さな社殿であったが、永福寺跡がある亀ケ渕の谷戸に、古来よりお祀りしているお稲荷様。そしてこの日の予定をすべて終え、「鎌倉宮」まで戻る。境内の高台では巫女さん2名が「法螺貝」の練習中であった。その手前では、その様子を撮影する為か、ドローンの飛行準備を行っていたが5分以上経っても飛び上がらないために私は待つのを諦めたのであった。その間も巫女さん達は一生懸命に練習をしているのであったが。そして「鎌倉宮」の横にある「大塔宮」バス停で鎌倉行きのバスを待つ。そして時刻通りに鎌倉駅行きのバスが到着。そして「八幡宮」でバスを下車し、「段葛」を歩く。葉桜の段葛を鎌倉駅に向かって歩く。「二の鳥居」の下にあった「段葛」碑。「段葛(だんかずら)一(いつ)ニ置石(おきいし)ト称ス 寿永(じゅえい)元年(1182)三月 頼朝ソノ夫人政子ノ平産(安産)祈祷ノ為メ 鶴丘(八幡宮)社頭ヨリ由比海浜大鳥居辺ニ亘(わた)リテ之ヲ築ク ソノ土石ハ北条時政(ときまさ)ヲ始メ源氏家ノ諸将ノ 是ガ運搬ニ従ヘル所ノモノナリ 明治ノ初年ニ至リ二ノ鳥居以南其ノ形失ヘリ」【段葛(だんかずら)は、置石(おきいし)ともいいます。1182年3月に、頼朝は、妻の政子の安産の願いを込めて、鶴丘八幡宮の前より由比が浜の大鳥居の辺まで、この参道を築きました。その土や石を北条時政(ときまさ)をはじめ、源氏家の多くの武将たちが運びました。 明治はじめに、二の鳥居から南の方の道が無くなりました。】そして「二の鳥居交差点前」から「二の鳥居」を振り返る。そして「鎌倉駅」に到着。そして「鎌倉駅」から大船駅、藤沢駅経由で帰宅したのであった。この日の歩数は「31,443歩」、この日も頑張りました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「瑞泉寺」境内の散策を続ける。「開山堂(かいさんどう)」ロープが張られ近づけなかったが。「名勝 瑞泉寺庭園」碑。「記念植樹 深草の少将」と。紅白の色鮮やかな椿であるようだ。境内の左奥にある「どこも苦地蔵堂」地蔵堂前には大黒天と布袋尊の姿が。瑞泉寺の地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」は、「どこも苦地蔵」と呼ばれ、智岸ヶ谷の地蔵堂に安置されていたものといわれている。貞享の頃(1684~87年頃)に鶴岡八幡宮の正覚院へ移され、1916年(大正5年)に瑞泉寺へ移された。その頃すでに「どこも苦地蔵」と呼ばれていたという。「地蔵堂」の「内陣」。中央に安置されている「木造地蔵菩薩立像」この日は「木造地蔵菩薩立像」の前には多くの小さな仏像が並んでいた。(むかって右)この日は「木造地蔵菩薩立像」の前には多くの小さな仏像が並んでいた。(むかって左)「どこも苦地蔵尊 鎌倉市文化財 札所七番昔むかし お地蔵様が扇谷の辻におわせし時 之を守る堂守貧窮逃亡を企る 暁の夢に地蔵尊「どこもどこも」と宣う これ何処も苦なりとの教えと八幡宮寺の僧に諭され堂守は一生地蔵尊を守りしと「どこも苦地蔵尊」の名の由来なり」すなわち智岸ヶ谷の地蔵堂の堂主が貧しさのあまり逃げだそうとすると、夢枕に地蔵が現れて、「どこも、どこも」 と告げたという。堂主は 「苦しいのはどこにいっても同じだ」 と悟ったと。以前に頂いた「鎌倉二十四地蔵第七番 瑞泉寺 どこもく地蔵尊」の「御朱印」です。夢想国師が手がけた本堂裏手にある庭園を訪ねた。岩盤を削って造った景観は圧巻そのもの。名勝瑞泉寺庭園(県史跡)。天女洞、池、中島、滝など、庭の約束事をすべて備えた池泉式庭園。かつては草木に埋もれていましたが、1969年(昭和44年)に古面図を基に発掘されたのだと。正面に「天女洞(てんにょどう)」。紅葉ヶ谷を囲む三方の山が天然の垣根をなす、わずかに開けた西の空に富士山を仰ぐ、天台山、錦屏山が背景。2つの橋が確認できた。その先には木戸があったが閉まっていた。山の上には「徧界一覧亭(へんかいいちらんてい)」があり、晴れていれば富士山も遠望できる景勝の地で、多くの伍山僧がここに集い詩会を催したと言われている。残念ながら現在は一般非公開。石庭の上からの写真をネットから。 【https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138297/1】よりそして「本堂」の裏側を見る。廻り込んで。「侍真」の文字が。開山堂(かいさんどう)の裏には石庭見物しているが如くに多くの石仏が並んでいた。「瑞泉寺」の墓地。ここの中央付近に「大宅壮一」氏が眠っているとのこと。「石灯籠」。「鎌倉市天然記念物 冬桜。元禄年間水戸黄門のお手植えと言われています。そして再び「山門」を「本堂」側から。吉野秀雄の歌碑『死をいとひ生をもおそれ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ 秀雄』吉野秀雄(1902~1967)歌人。高崎市生まれ。鎌倉小町に没す。歌集に『早梅集』『寒蝉集』など。全集全九巻あり「庚申塔」。そして再び苔生した石段を下る。この「瑞泉寺」も独り占めなのであった。新緑が身体に染み入って来たのであった。そして「受付小屋」のオジさんに独り占めのお礼の挨拶をして。帰りは「総門」を潜らずに左の道を。県水道のマンホール蓋。神奈川県の鳥「カモメ」、県の花「ヤマユリ」、県の木「イチョウ」がデザインされていた。にかいどうがわ(二階堂川)と刻まれた橋の主柱。欄干には川の流れとモミジ葉がデザインされていた。反対側には「通玄橋」と。「通玄」という語には、深遠なる道理という意味があるという。夢窓国師が開いた瑞泉寺への道に架けられた橋らしい名称である・・・と再び。再び「国指定史跡 永福寺跡 案内図」。永福寺がCGのごとく再建される日が来るのであろうか。「~鎌倉の旧地名~三堂(さんどう)~(現在の二階堂)奥州平泉攻めなどで亡くなった数万の人々の鎖魂のために、源頼朝が平泉の中尊寺大長寿院のニ階大堂を模して永福寺を建立したことが、現在の地名「ニ階堂」の由来となりました。「ニ階堂」の旧字名の一つである「三堂」は、その永福寺に、ニ階堂、薬師堂、阿弥陀堂の三堂があったことに由来します。参道の前面に苑池をたたえる、荘厳な伽藍を誇った永福寺は、このあたりの景観とよく溶け合い、四季を通じて鎌倉の名勝の地となリました。鎌倉時代には、歴代の将軍たちが境内で蹴鞠や歌会を催したことは記録の伝えるところです。「ニ階堂」には他にも鎌の歴史を物語る旧字名が残0ていますが、一四ツ石」は総門、「西ヶ谷」「亀ヶ淵」は僧坊があったところといわています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「永福寺跡」を堪能した後は先程訪ねた「通玄橋」を渡り、久しぶりの「瑞泉寺」に向けて坂道を上って行った。途中、左手の小さな広場にあった「庚申塔」。左の立て札には「「荏柄天神社御旅所」と書かれ、石柱には「三社大権現」と刻まれているようであった。そしてここから瑞泉寺の参道になる。石柱には「旧関東十刹第二位 錦屏山瑞泉寺」と刻まれていた。狭い山道を進むと前方に総門が見えて来たがトラックが邪魔。気持ちが通じたか、直後にトラックが移動してくれた。総門の左側が工事中であった。「佛さま写真観山門鎌倉市内49寺社の非公開も含めた230点の尊像写真。それに朝日新聞神奈川特集に連載された「かながわの仏像」(1980年3月~1985年3月)「野の地歳」(1985年4月~1999年4月まで)10年間毎月1回掲載した仏像と石像130点を展示致しました。」「錦屏山 瑞泉寺蔵 木造 千手観世音菩薩坐像」。「長州藩士吉田松陰と瑞泉寺かって、吉田松陰の伯父「竹院和尚」が住職を務めていた瑞泉寺。嘉永六年( 1853年) 5月、松陰は拍父を瑞泉寺に訪ね、語り明かし、ともに鎌倉・江ノ島を巡りました。その後、ペリーの浦賀来航を間近に見た松陰は、翌年、下田で密航を企てる直前にもここを訪れています。山門の前には「松陰吉田先生留跡碑」があります。」「総門」を抜け、更に長い参道を進む。前方に受付小屋が見えて来た。受付小屋で拝観料200円を払って進む。そして木々に囲まれた坂道は石段に変わる。紅葉ヶ谷の奥にある境内は三方を山に囲まれているので、山が間近に迫って来るのであった。「夢窓国師古道場」と刻まれた石碑。夢窓国師は、瑞泉寺の開山であり後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉~南北朝期に重きをなした僧。作庭にも才を発揮し、昭和四五年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は夢窓国師の作として、国の名勝に指定されているのだ。瑞泉寺(ずいせんじ)鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式ある寺院です。山号の錦屏山は、寺を囲む山々の紅葉が錦の屏風のように美しいことから付けられたといわれています。また境内は、四季を通して様々な花を楽しむことが出来ます。開山の夢窓国師は、後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉 ~ 南北朝期に禅宗で重きをなした僧です。作庭にも才を発揮し、昭和45年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は国師の作として、国の名勝に指定されています。 ● 宗 派:臨済宗円覚寺派 ● 山号寺号:錦屏山瑞泉寺 (きんぺいざん) ● 建 立:嘉暦2年 (1327) ● 開 山:夢窓疎石 (夢窓国師) ● 中興開基:足利基氏写真は、国指定名勝の庭園文学案内板「瑞泉寺」境内が史跡、背後の庭園が名勝に指定されているこの禅刹瑞泉寺には、多くの文人が来訪し、数多くの文学作品が創り出されているが、この案内では文学遺跡、文学碑と、ゆかりの文人を紹介する。〇 中世文学遺跡 徧界一覧亭 夢窓国師の草創で、五山文学発祥の地と伝える。〇 文学碑 大宅壮一評論碑 「男の顔は履歴書である」 (昭和46年建立) 久保田万太郎句碑 「いつぬれし松の根方ぞ春しぐれ」(昭和54年建立) 吉野秀雄歌碑 「死をいとひ生をもおそれ人間ゆれ定まらぬこころ知るのみ」 (昭和43年建立)〇 ゆかりの文人 大宅壮一(評論家) 大佛次郎(小説家) 梶山季之(小説家) 川端康成(小説家) 久保田万太郎(小説家・劇作家・俳人) 久米正雄(小説家) 高浜虚子(俳人) 立原正秋(小説家) 永井龍男(小説家) 山崎方代(歌人) 吉野秀雄(歌人)尚、詳細は鎌倉文学館にご照会ください。瑞泉寺境内にはたくさんの歌碑や文学碑があった。吉田松陰・留跡碑や方代歌碑の他、久保田万太郎、吉野秀雄等歌人の碑も。前住職の大下豊道和尚が和歌に理解があったのだと。山門に至る参道は、苔むした古くからの石段と新しい石段があった。やはり苔むした古くからの石段の方が気持ちが引き締まるので、こちらを慎重に進む。右手にあった新しい石段。そして「山門」前に出る。山門左手前に「松陰吉田先生留跡碑」。前述のごとく「吉田松陰の伯父「竹院和尚」が住職を務めていた瑞泉寺。嘉永六年( 1853年) 5月、松陰は拍父を瑞泉寺に訪ね、語り明かし、ともに鎌倉・江ノ島を巡りました。その後、ペリーの浦賀来航を間近に見た松陰は、翌年、下田で密航を企てる直前にもここを訪れています。」と。裏面には「瑞泉寺竹院上人松蔭吉田先生伯父也先生訪上人於瑞泉寺前後四回其在埜山獄也賦詩日山光竹色人窓青方丈幽深倚錦屏今我為囚空憶昔月中一夜叩雲扁可以知先生魂魄存于此地也昭和四稔四月 蘇峰菅原正敬撰并書」と刻まれているとネットから。山門前右手前には山崎方代の歌碑が。「手の平に 豆腐をのせて いそいそと いつもの角を 曲りて帰る 方代」山崎方代(1914~1985)甲州右左口生まれ、鎌倉手広に没す歌人。歌集に『方代』『右左口』『迦葉』など。随筆集、全歌集手水場山門前にあった、境内配置図「国之指定 史跡 瑞泉寺境内、名勝 瑞泉寺庭園」「瑞泉寺」といえば、庭園が有名だが、敷地内には様々な花が植えてあり、四季折々の花を楽しむこともできるのだ。「瑞泉寺」は「花の寺」とも呼ばれている人気の寺。「国指定史跡 瑞泉寺境内国指定史跡 瑞泉寺庭園 昭和46年11月8日 文部省指定創建は、嘉暦2年(1327)、錦屏山と号し、開山は夢窓疎石、臨済宗円覚寺派に属する。徧界一覧亭も創建と同時期に建てられ、亭の前庭を兼ねた書院庭園もそのころに造られたものと思われる。南北朝時代に入ると、鎌倉公方足利基氏が疎石に帰依したため公方の塔所となり、関東十刹に名をつらぬ、礎石派の拠点として関東禅林に重きをなした。現在、寺内に古建築は残っていないが、発掘復元された池庭と、十八曲して一覧亭にいたる登坂路の遺構はよく保存されている。また、背後の山に多くのやぐら群をふくむ境内地がほぼ全 域にわたって保持されていることは貴重である。 注 意 この史跡、名勝の現状をみだりに変更し、滅失、き損、衰亡等保存に影響を及ぼす行為は 禁止されています。」「山門」。扁額「瑞泉蘭若」「蘭若(らんにゃ)」とは元来は梵語で「町村を去ること近からず遠からず、修行に適した所」の意だが、転じて中国では官寺=公の寺に対して私寺を表すと。よって「瑞泉蘭若」とは、ご自身が気に入って住まう庵、という意味になるのだと。「青蛙木々の涙を仰ぎ見る 風天」「風天」は、たしか渥美清の俳号であったが・・・・。「一覧亭 復興碑」。瑞泉寺の徧界一覧亭は、夢窓疎石が1328年(嘉暦3年)に庭園の山上に建立したもので、富士を正面に望む景勝の地だったという。徧界一覧亭では、鎌倉五山の僧が集まり詞会が開かれた。「前もまた重なる山の庵にて梢(こずえ)に続く庭の白雲」は、疎石がこの亭で詠んだものと伝えられている。その後、荒れ果てた「徧界一覧亭」をみた徳川光圀(水戸光圀)が堂を建て、そのそばに東屋を造り「一覧亭集詩板」を掲げたというが今はない。「山門」を潜り進む。仏殿(本堂)が見えた。「境内 配置図」。 【http://www.kamakura-zuisenji.or.jp/guide/】より左に進むと、久保田万太郎の句碑。「いつぬれし 松の根方ぞ 春しぐれ」久保田万太郎(1889~1963)小説家、劇作家、演出家、俳人。浅草生まれ。小説に『春泥』『末枯』。句集に『道芝』、全集あり。文化勲章受賞「男の顔は履歴書である 大宅壮一」。「男の顔は履歴書である大宅壮一(1900~1970)評論家、大阪府生まれ。「大宅壮一全集」全三十巻。マスコミ塾を記して人材を育て、大宅壮一文庫を残した」「大宅壮一」はキャッチコピーや造語つくりの名人で、駅弁大学、一億総白痴化、恐妻、家庭争議、太陽族、虚業家・・・など、いくらでも挙げることができるが、「男の顔は履歴書」もそのひとつ。そして彼の墓はこの瑞泉寺にあるのだと。「鐘楼」。近づいて。「梵鐘」。「鐘楼」近くの石仏。半跏の地蔵菩薩が新緑に染まって。藤棚は既に花が終わって。「鐘楼」の奥にはこんもりした場所が有り、法衣姿の狸の石像があり、それを囲む様に様々な石仏が並んでいた。「むじな塚」と呼ばれていると。鐘楼の近くにあった「錦屏晩鐘」碑。瑞泉寺の山号が錦屏山(きんぴょうざん)。「安國利生塔(あんこくりしょうとう)」足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓疎石の勧めで全国に安国寺を建てこの利生塔を置いたと。「大玄関」の案内板。「大玄関」。「庫裡」。茶室「南芳庵(なんぽうあん」。平成二十三年(2011)の建立。「本堂」。建物は昭和五十年(1975)の再建。「本堂」の脇には、鎌倉市の指定天然記念物である黄梅と冬桜が植わっている。鎌倉三十三観音霊場札所。「本堂」に近づいて。開山は鎌倉時代末期から南北朝時代初期の禅僧、夢想国師(むそうこくし・別名、夢窓疎石 むそうそせき)によって開山された古寺。夢窓疎石が「禅院相応の勝地」(禅宗寺院にふさわしい景勝の地)として創建した瑞泉院が前身。その後足利基氏(あしかがもとうじ)が中興して寺名を改めました。北条高時(ほうじょうたかとき・鎌倉幕府最期の執権)や後醍醐天皇に帰依された有名な禅僧で、円覚寺や浄智寺の住持を歴史した名僧として有名。稀代の作庭家としても有名で、京都の天龍寺や西芳寺の庭園を設計した作庭家としても優れている。鎌倉市二階堂710大雄寶殿(佛殿)右側:開山夢窓国師坐像中央:本尊釋迦牟尼佛左側:阿弥陀如来 千手観世音 水戸黄門様奉安 札所六番「本堂」には中央に本尊である「釈迦牟尼仏」、右に「夢窓国師像」、左に「木造千手観音坐像(市文)」が安置されていた。本尊である「釈迦牟尼仏」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「永福寺跡」の散策を続ける。前方に見えてきたのが「薬師堂」の基壇。「薬師堂(やくしどう)ニ階堂の北側に建つ脇堂であり、正面は約167E、奥行が約127mの本瓦葺で、南側の阿弥陀堂とほほ同し大きさの堂です。創建期永福寺の特徴をなす、極めて珍しい木製基壇(正面約19.2m、奥行約15.2m、推定の高さ54cm)の上に建てられていました。周囲に線と雨落ち溝、正面には階段が確認されています。」案内板にあった発掘中の「薬師堂」跡の写真。「北翼廊・北中門北翼廊は薬師堂の北側より北に約13.7m、ここで東に折れて東西に約37.3mの規模でに臨む廊下です。板敷で東端を釣殿にあてていたと考えられます。北中門は北翼廊の北面中央に開かれた間口約4.5m、奥行37mの格式の高い四脚門(しきやくもん)です。」案内板にあった発掘中の「北翼廊・北中門」跡の写真。案内板にあった発掘中の「北翼廊・北中門」跡の写真。そして一番端にある「釣殿(つりどの)」。「釣殿池に突き出す南翼廊の先端には釣殿が設けられていたと考えられます。釣殿は邸宅内の遊宴のための建物で、寺院建築に付随するのは大変珍しく、『吾妻鏡』に2代将軍源頼家が酒宴を釣殿で行ったと書かれています。北翼廊の釣殿では礎石や柱が発掘され、建て替えや火災の痕跡が確認されました。」案内板にあった発掘中の「釣殿」跡の写真。案内板にあった発掘中の「釣殿」跡の写真。「釣殿」、「薬師堂」、「二階堂」のCG。 【https://blog.plaza-house.jp/index.php/2020/11/06/post-4646/】より「釣殿」前から池を見る。「釣殿」の礎石の先に谷間の流水を引き込んでいる石で囲まれた水路が見えた。ズームして。「鑓水(やりみず)北翼廊の北側に、谷間の流水を引き込んでつくられていました。発見されたのは素掘りの溝で、長さ約35m、幅は広い所で約3m、狭い所で約1.8m、深さは約20cm程でした。使われていた多くの景石は抜き取られていました。当時の京都貴族の邸宅内の庭園では、趣を凝らして造られた遣水が重要な景観となっていました。※遣水部分の整備では盛土をした上に新たに庭の景色を再現しています。」案内板にあった発掘中の「遣水」跡の写真。「釣殿」近くから池に流れ込む「遣水」。「北中門」近くから「薬師堂」とその先の「二階堂」の基壇を見る。「北翼廊・北中門」跡からの光景。その先にあった階段を上って行った。小さな広場から「永福寺跡」の「基壇」、「礎石」を見下ろす。「三堂」の基壇をズームで。「遣水」の上流には黄色の花菖蒲が美しく。一番北の丘の上から見える「永福寺跡」の姿が地図で。丘の広場の奥に案内板が立っていた。「国指定史跡 永福寺跡永福寺は源頼朝が建立した三大寺院の一つです。奥州平定(文治五年( 1189 ) )で犠牲となった源義経や藤原泰衡らの霊を供養するため、奥州の地で見開した中尊寺大長寿院ニ階大堂や毛越寺などを摸した壮大な寺で、建久五年( 1194 )に中心伽藍が完成したと伝えられています。中心伽藍はニ階堂・阿弥陀堂・薬師堂の三堂で、それぞれに各三人の有力家人を奉行として置き、京都から招いた庭師に造らせた庭園は広い苑地に自然石を配した見事なもので、往時には鎌倉きっての名勝地とうたわれていました13世紀の中頃、大規摸な改修が行われ、嫌倉時代の後半に何度か焼失したものの再建されましたが、鎌倉慕府滅亡後も鎌倉公方の足利氏によって保護されました。しかし、応永十ニ年( 1405 )の火災による焼失以後は再建が行われず、江戸時代の初め頃には廃寺となってしまいました。発掘調査により、前面に池を配し、阿弥陀堂・ニ階堂・薬師堂が一直線に廊でつながり、翼廊というL字形の廊を配した南北130mに及ぶ中心伽藍が発見されました。堂の配置は独特のもので、池に配された庭石の規摸も非常に大きく、鎌倉幕府の独創性と権威を表わす寺として注日されています。永福寺跡は、今後史跡公園として整備し、公開していいく定です。」案内板にあった当時の「永福寺伽藍」の写真。「マロニエ」の花であろうか。薬師堂・ニ階堂・阿弥陀堂の基壇を見る。公園の北側の広場。「国指定史跡 永福寺跡永福寺は源頼朝が文治5年( 1 1 8 9 )に奥州平泉を攻めた後、奥州藤原氏や源義経など、亡くなった数万の将兵の鎮魂のため、建久三年( 1 1 9 2 )に創建した寺院です。中心となるニ階堂は釈迦如来が本尊であったと考えられ、左右対称に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配されており、一切經供養や万灯会等の法要が盛んに行われるとともに、歴代将軍によって境内では華やかな花見・月見・蹴鞠等の行事も行われました。(「吾妻鏡』)。境内には仏堂・翼廊・中門・釣殿・庭園がつくられ、当時の京都貴族の邸宅を彷彿させる華やかで住宅的な要素が組み込まれていたことや、東を正面にして全長が南北1 3 0 mに及び、前面に南北2 0 0 m以上ある池がつくられていたことが発掘調査により明らかになっています。※整備にあたっては創建当初の地盤を保護するため、6 0 c mの盛土をした上に建造物の礎石を据えています。また、伽藍の南側には池が大きく広がっていましたが、池については東岸の一部と現在のテニスコートの部分が未調査のため、整備範囲を狭め、暫定的に板柵で形を整えています。」当時の永福寺伽藍の姿をCGで。北側から池を望む。「二階堂」の前にかかる朱の太鼓橋のCG。正面に大きな蓮の鉢が。「中尊寺ハス中尊寺ハスは、岩手県平泉町に所在する中尊寺金色堂に安置された、奥州藤原氏4代泰衡公の首桶の中に納められていた種子を開花させたものです。1189年に源頼朝が奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした際、泰衡は斬首され、その首が中尊寺金色堂に納められました。昭和25年(1950年)、金色堂の調査が行われた際、首桶の中からハスの種子が発見されました。平成5年(1993年)に種子の発芽試験に成功し、約800年の時を経て甦ったこのハスは「中尊寺ハス」と名付けられました。このハスは、市制80周年記念事業の一環として、平成31年(2019年) 4月9日、平泉町から寄贈を受けたものです。800有余年の時を越え、かっては敵として戦った鎌倉と平泉との間で改めて和解を確認し、市町交流を進めていく証しとして、源頼朝が中尊寺を見て創建の構想を思い立ったとされるこの永福寺跡で栽培しています。」この場所からのCG。 【https://www.shonan-it.ac.jp/topics/20200805_01/】より東側から池越しの光景。この場所からのCG。そして「永福寺跡第二展望台」から池を見下ろす。山の中に入って「永福寺跡第一展望台」への道は閉鎖中であった。これは、後に訪ねた「鎌倉歴史文化交流館」に展示されていたCG写真。「展望台」から下り、「鎌倉宮カントリーテニスクラブ」ハウスを左に見ながら「永福寺跡」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「鎌倉宮」を後にして、横道を「瑞泉寺」方面に向けて北上する。左に「史跡 永福寺(ようふくじ) 入口」と書かれた案内板があった。「国指定史跡 永福寺跡 利用案内」と「同 案内図」が立っていた。「永福寺跡国指定 案内図」。ここにも、以前訪ねたがゆっくり見ていなかったので、後ほどゆっくり訪ねることとし更に進む。「歴史的風土永福寺跡特別保存区域」の柱も立っていた。真っすぐ進んでいくと正面に橋が現れた。「通玄橋」と刻まれた道標が前方に。右 紅葉谷谿瑞泉寺道、左 横浜及本郷道 とも刻まれていた。鎌倉市二階堂178。橋の欄干柱にも「通玄橋」と。「通玄橋」は、永福寺跡の前を流れる二階堂川に架けられた橋。「通玄」という語には、深遠なる道理という意味があるとのこと。「夢窓国師」が開いた「瑞泉寺」への道に架けられた橋らしい名称なのであった。下を流れる「二階堂川」。そして来た道を少し戻ると左手奥にも橋が見えた。「理智光寺橋」。この先に、この後に訪ねた「理智光寺跡」があった。「理智光寺橋」を渡り進むと大きなT字路に到着し振り返る。「理智光寺址」碑。「此所ハ願行上人ヲ開山トセシ 五峰山理智光寺ノ址ナリ 建武二年(1335)淵邊伊守義博ハ足利直義ノ命ヲ承ケ 護良親王ヲ誅(ちゅう:殺)シ奉リシガ 其御死相ニ怖レ 御首ヲ傍ナル藪中ニ捨テ去リシヲ 当寺ノ住僧拾ヒ取リ 山上ニ埋葬シ奉リシトイフ」【この場所は、僧の願行上人(がんこうしょうにん)が開いた五峯山理智光寺の跡であります。1335年に淵辺義博(ふちのべよしひろ)は、足利直義(なおよし)の命令で、護良(もりなが)親王を殺害しましたが、その死に顔のすごさに怖れ、 首をかたわらの藪(やぶ)中に捨てました。それを当時の僧侶が拾い取って、山の上に埋葬したと言うことです。】そしてその前にあったのが「護良親王墓((もりよし/もりなが)しんのうぼ)」の入口。今まで、「もりながしんのう」と読むと思っていたし、そう学んだと思っていたが「後醍醐天皇の皇子の諱の「良」は、「よし」「なが」のどちらかで呼ばれるが、「よし」は根拠になる史料を室町時代まで遡れるのに対して、「なが」は江戸時代にならないと出てこない。「大塔」も「おおとう」「だいとう」の両方で呼ばれるが、由来となる塔が「おおとう」である事から、そちらに揃えて呼ばれる事が多い。」とネットから。鎌倉市二階堂154。「後醍醐天皇皇子 護良親王墓」碑。護良親王が東光寺に幽閉されてから9ヶ月後の1335年(建武2年)7月、十四代執権北条高時の遺児時行が反乱(中先代の乱)を起こしたため、当時鎌倉にいた足利尊氏の弟の直義は、淵辺義博に命じ護良親王を殺害した。護良親王は、義博の刀を噛み折り、死んでもなお放さなかったことから、恐れをなした義博は首を捨てて逃げ去ったという。捨てられた護良親王の首は、この理智光寺の住僧によって葬られたと伝えられているのだと。石碑の裏には「宮内庁」の文字が。「護良親王墓所」への長い階段。うっそうと茂った静寂な森の中の、長い階段の先に護良新王の墓所があるのだが・・・。「お知らせ護良親王墓は、令和元年九月の台風によるがけ崩れのため、当分の間、ここから先の立ち入り及び墓前での参拝を停止します。参拝においで頂いた方は、この場所から御遥拝ください宮内庁多摩陵墓監区寺務所」との表示板が。長い石段は苔生して。これが山頂にある「大塔宮護良親王御墓」、ネットからの転載です。鎌倉市内にも、妙法寺に墓と伝える別の石塔もあるのだが。そのほか、以下のような伝承があるとのこと。宮城県石巻市:親王は逃げ延びここで薨去。墓所は一皇子宮神社新潟県長岡市:親王は逃げ延びここで薨去。墓所は大塔塚群馬県藤岡市:大塔寺天満宮は親王の墓所神奈川県横浜市:親王の首を持ち去り柏尾町王子神社に埋葬山梨県都留市:親王の首を持ち去り石船神社に奉納長野県上松町:親王は逃げ延びここで薨去静岡県静岡市:親王の首を持ち去り埋めた五輪塔あり鹿児島県曽於市:親王の墓説がある五輪塔あり 【https://call-of-history.com/archives/19242】よりそして再び引き返し「二階堂川」に架かる「理智光寺橋」を渡ると右手にあったのが「永福寺舊蹟」碑。「永福寺世ニ二階堂ト稱ス 今ニ二階堂ナル地名アルハ是ガタメナリ 文治五年(1189) 頼朝奥州ヨリ凱旋スルヤ彼ノ地大長壽院ノ二階堂ニ擬シテ之ヲ建立ス 輪奐壮嚴洵ニ 無雙ノ大伽藍タリキト云フ 享徳年間關東管領ノ歿落セル頃ヨリ後 全ク頽廢ス」【永福寺のことを当時は二階堂といっておりました。現在でも二階堂という地名があるのはこのためです。1189年に源頼朝が、義経をかくまった件で平泉の藤原一族を討ち、鎌倉に帰ってきました。その後すぐに、平泉にあった大長寿院の二階堂に似せて、ここに永福寺を建てました。その寺の様子は、規模が壮大で外観も荘厳であり、本当に二つとない程の大建造物であったといいます。しかしこの寺は。1455年以後の関東官領(かん れい:将軍の代理職)の力が弱くなった頃から急速にすたれてしまいました。】「国指定史跡 永福寺跡 案内図」がここにも。「国指定史跡 永福寺跡(ようふくじあと)永福寺は源頼朝が建立した寺院で、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊のため、荘厳なさまに感激した平泉のニ階光堂光長寿院を模して建久3年( 1192年)、工事に着手しました。鎌倉市では、史跡の整備に向けて昭和56年から発掘調査を行い、中心部の堂と大きな池を配した庭園の跡を確認しました。堂はニ階堂を中心に左右対称で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした全長が南北130メートルに及ぶ伽藍で、前面には南北100メートル以上ある池が造られていました。市では昭和42年度から土地の買収を行っており、今後は史跡公園としての整備事業も進めていく子定です。」「発掘調査でわかった建物と庭園」。そしてテニスコート角にあった入口から「永福寺跡」に入る。前方に「国指定史跡 永福寺跡」が広がっていた。目の前の小さな丘は後ほど。「国指定史跡 永福寺跡永福寺は源頼朝が建立した寺院で、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊のため、荘厳なさまに感激した平泉の階大堂大長寿院を模して建久3年( 1192年)に、工事に着手しました。鎌倉市では、史跡の整備に向けて昭和56年( 1981年)から発掘調査を行い、中心部の堂と大きな池を配した庭園の跡を確認しました。堂はニ階堂を中心に左右対称で、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした全長が南北130メートルに及ぶ伽藍で、前面には南北100メートル以上ある池が造られていました。鎌倉市では、昭和42年( 1967年)度から土地の買収を行っており、現在史跡公園として整備事業を進めています。」復元想像CG(作成:湘南工科大学)「AR 永福寺」案内。現地のARマーカーにスマートフォンのカメラをかざすと、永福寺の復元CGが表示され、そのまま約50mの移動範囲内からでも復元CGが見られるのだと。大きな池の先に遺跡群が見えて来た。ここが発掘された「中島」の跡で埋め戻された状態なのであろう。「中島大きく南側に広がる池の中程にあり、様々な岩を組み合わせて島を築いています。島の大きさは、南北に長さ約10m、東西に幅5m、高さは約1.2mあります。※整備では水を張った池中の島として表示できないので、埋め戻して保護しています。」「発掘された中島」の写真。下図のごとく、本来の池の範囲は現状より広く現在の入口の近くまであったことが理解できたのであった。 【https://3myuuyuu.club/kamakura/body.php?gphpnum=60】より現在の池、その先に遺蹟を見る。「南翼廊(みなみよくろう)・南中門(みなみちゅうもん)」跡。「南翼廊(みなみよくろう)・南中門(みなみちゅうもん)南は阿弥陀堂の南側より南に約13.4.m、ここで東に析れて東西に約27.7mの規模で発見されました。板敷で東端が池中に延び、その先に釣殿があったと推測されます。南中門は南翼廊の南面中央に開かれた間口約4.8m、奥行約3.6mの格式の高い四脚門(しきやくもん)です。案内板にあった発掘後の写真。「南翼廊・南中門」跡の前から池を見る。そして隣にあった「阿弥陀堂」跡の南側の基壇。「阿弥陀堂」跡の東側の基壇。「阿弥陀堂ニ階堂の南側に建つ脇堂であり、正面が16.7m、奥行が約12.7mの本瓦葺で、北側の薬師堂とほぼ同し大きさの堂です。創建期永福寺の特徴をなす、極めて珍しい木製基壇(正面約19.2m、奥行約15.3m、推定の高さ54cm )の上に建てられていました。周囲に縁と雨落ち満、正面には階段が確認されています。」案内板にあった発掘後の「阿弥陀堂」跡の写真。そして「南複廊(みなみふくろう)」。「南複廊(みなみふくろう)ニ階堂と阿弥陀堂をつなぐ幅約6.6mの長さ約12.7mの建物で、ニ棟廊ともよばれ前面が廊、奥が部屋になっていました。」案内板にあった発掘後の「南複廊」跡の写真。そして中央の「二階堂」の東側の「基壇」。「二階堂(にかいどう)三堂の中心の仏堂で、大きさは正面約19.4m、奥行約17.6m、周囲に幅2.4mの裳階(もこし:差掛の庇)を付けた本瓦であったと考えられます。基壇は全国的に極めて珍しい木製で化粧されており、大きさは正面が約22.5m、奥行が約20.6m、推定の高さは70cmでした。正面と両側面に階段がありました。堂の本尊は釈迦如来と考えられています。」案内板にあった発掘直後の「二階堂」跡の写真。「二階堂」跡前から池を見る。「指定史跡 永福寺跡」。「堂前の池と橋南北に約200m、東西に約70mの南北に長いひょうたん型をしています。ニ階堂から水ぎわまでの距離は約20mです。岸辺は緩やかな斜面に浜砂利を敷き詰めて砂浜を表現しています。池の水ぎわには、lm程の大きさの葉山の海岸や箱根から運んだ岩が景石として並べられています。創建期には正面の池に幅4.8m、推定長さ35mの反橋が架けられていたと推定されます。」案内板にあった発掘直後の「池」「瓦」の写真。「北複廊(きたふくろう)」。「北複廊(きたふくろう)ニ階堂と薬師堂をつなぐ幅約6 .6mの長さ約1 2 .2mの建物で、ニ棟廊ともよばれます前面が廊、奥が部屋になっていました。」案内板にあった発掘直後の「北複廊」跡の写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「覚園寺」を後にして、同じ道を「鎌倉宮」までひたすら戻る。「幕末関連の書が陳列される鎌倉宮宝物殿鎌倉宮は明治天皇の勅命により、護良新王を祭神として明治ニ年に創されました。宝物殿には、親王の歴史絵のほか、長州出身の伊藤博文、尊王攘夷を唱えた水戸藩主徳川斉昭、「墓末の三舟」と呼ばれた勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟らの書が陳列されています。」「鎌倉宮一、御祭神 大塔宮護良親王一、御創建 明治二年 明治天皇の勅命に由る一、御祭礼 八月二十日」「鎌倉宮の大鳥居」。鎌倉宮の鳥居は全国的にも大変珍しい「白地に赤」の配色がなされている。白は「純真無垢、純粋」、赤は「赤誠・赤心、まごごろ」の意味が込められているのだと。「官弊中社鎌倉宮」と刻まれた石碑。明治以降は、主として歴代皇室の尊崇した神社で、宮内省から幣帛料の供進を受けた神社を言い、大社、中社、小社、別格官幣社の別があったが、1945年にこの名称は廃止されたのだ。「大鳥居」を潜り境内へ。「三浦半島八景 大塔(鎌倉宮)の夜雨」-------「三浦半島八景」---------・大塔(鎌倉宮)の夜雨 ・神武寺の晩鐘・灯台(燈明堂)の帰帆 ・猿島の晴嵐・大佛の秋月 ・城ヶ島の落雁・長者ヶ崎のタ照 ・建長寺の暮雪 「八景」の考え方は15世紀に中国から日本に移入されました。「近江八景」や「金沢八景」が有名ですが、三浦半島地域てもこれまてにたくさんの「八景」が残されています。伝統的な「八景」は次の八つの景色を基本形につくられ、それそれ次のような情景を表すのではないかと言われています・夜雨:水辺の夜の雨 ・晩鐘:山寺の晩鐘・帰帆:港に帰る漁船 ・晴嵐:朝もやに煙る松林・秋月:水辺に映える秋の月 ・落雁:干潟に降り立つ雁の群・タ照:夕日に照らされた達くの山 ・暮雪:夕暮れの雪景色「三浦半島八景」は、神奈川県が三浦半島地区の4市1町と協働してこの地域の”うるおい””にぎわい”づくりをめざし、半島をぐるっとまわれるような新たな「八景」をつくるため、「三浦半島八景」選定委員会を設置し、県民の皆様のご意見を参考に、平成年11月に選定したものです。」「三浦半島 八景」。「鎌倉宮後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神とする神社です。護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど貢献しました。幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕らえられ、28歳で非業の最期を遂げました。社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。十月には境内で薪能が催されます。 ● 祭 神:護良親王(もりながしんのう)(大塔宮) ● 創 建:明治2年 (1869)」「鎌倉ものがたり 鎌倉宮(鎌倉薪能)鎌倉宮は明治2年(1869年)、時の明治天皇の思召しにより、建武中興に尽くした大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)をお紀りする神社として創建されました。近年では毎年、10月初旬に「鎌倉薪能」が境内で行われています。「薪能」は、奈良の春日大社や興福寺が起こりとされる、夜間に野外で「薪」に火を灯して能を奉納する神事で、鎌倉では、夏の鎌倉を代表するイベントであった「鎌倉カーニバル」が交通事情などにより中止となったため、何か鎌倉らしい行事を、と昭和34年(1959年)から始まりました。漫画「鎌倉ものがたり」では、実在しないイベント「葉山薪能」として、狸が演じる薪能が描かれる第268話「葉山薪能」のほか、護良親下(もりながしんのう)が幽閉されたとされる上牢に悪徳不動産会社の人間か閉じ込められるシーンが、第57話「第三の男」で描かれています。」「鎌倉薪能」の光景をネットから。「拝殿」への石段前で開催されているようだ。【http://www.kamakuralife.com/blog/tag/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82/】より一度、観てみたいと。 【https://www.kanaloco.jp/news/culture/entry-19821.html】よりこの石碑は?「百壽奉納 結都実(むつみ) 参道」「現在地」鎌倉市二階堂154。「鎌倉宮」境内配置図」。 【https://omairi.info/2020/04/12/kamakuragu-shr-keidaisanpo-kouhen/】より「二の鳥居」に向かって進む。左側に「手水舎」。季節により様々な飾りが施される手水舎にはミニの獅子頭が並んでいた。御祭神の護良親王が戦いに赴かれる際、「兜の中に獅子頭のお守りをしのばせて、自らを守っていただいた」との言い伝えがあり、鎌倉宮のご創建当初から獅子頭授与されるようになった。また、獅子頭は古くから「厄(悪いもの)を食べ、幸せを招く」と言われている。今では「厄除け・幸運招来・交通安全・身代り」などの願いを叶えるお守として授与されているのだ。「厄割り石」。厄や災いを割るといわれる「厄割り石」。素焼きの陶器・かわらけに息を吹きかけて自分の中にある厄をのせ、石を目掛けて思い切りかわらけを投げ、厄を割るのだと。「亀若丸」亀若丸の頭をなでて折り鶴を持ち帰ると「健康長寿」の御利益が得られるのだと。そして「鎌倉宮」の「拝殿」へ。「内陣」。「巫女さん奉仕者募集」と。「拝殿」横の「村上社」の鞘堂。「村上社」には、「元弘の変」において護良親王の下で戦い、親王の身代わりとなって自刃した村上義光(むらかみよしてる)が祀られている。「村上社」拝殿。「村上義光の像」。2004年(平成16年)12月20日、台風で倒れた境内のケヤキを使って彫られた像が村上社前に置かれていた。「撫で身代わり」と呼ばれ、病気や厄除けの身代わりにご利益があるとして多くの者が参拝しているとのこと。「撫で身代りの由来村上義光公は、護良親王の忠臣にして元弘3年(1333)正月吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。そこへ村上義光公が鎧に十六本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき自分が着用して「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて腹を一文字に掻き切り、壮絶な最期をとげ、その間に親王は、南に向かって落ちのびました。このように身代りとなられた村上義光公を境内の樹齢103年の欅の大木にて彫り上げ「撫で身代り」として入魂しました。」多くの絵馬「身代わりさま」が。拝殿の正面左側には有料の拝観受付があり、拝殿奥を拝観出来るので、久しぶりに向かう。「拝観受付」。「拝観者入口」案内。「拝観」案内図。内山雅善顕彰歌碑鎌倉宮宮司。「大神の 御神威いよいよ高く座し 永久に栄ゆる 鎌倉宮は」「本殿」を見上げる。「大塔宮(護良親王)御聖所」碑。「本殿」の裏手になるこの門を潜ると左手にあったのが「土牢」。「土牢」に近づいて。「護良親王御土牢二段岩窟建武元年十一月より翌二年七月二十三日迄約九ヶ月の間ここに御幽居し給ふ。今より六百四十三年前(昭和五十三年)薨去の御年 ニ十八深さ 四メートル廣さ 八畳◯」実際は東光寺跡にあったのを復元したものらしい。「土牢」の正面の扉の如き白壁には「菊の御紋」が2紋。拝殿、本殿、土牢が一直線に配置された場所なのであった。「神苑」。皇太子徳仁親王殿下の御成婚記念に造園されたとのこと。そして「鎌倉宮」碑。「鎌倉宮碑明治六年四月十六日、車駕鎌倉に幸し、親しく故・征夷大将軍・二品・護良親王を祭らせ給ふ。越えて十七日、闕(けつ=宮城)に還らせ給ひ、太政大臣・三條實美に勅して曰く、親王は皇室式微(しきび=衰退)・武臣専横の日に在り、艱楚嶇嶔(かんそくきん=険しく苦しい道のり)、遂に能く鴻業を恢復す。而して貝錦萋斐(ばいきんせいひ=巧みに言い立てて罪に陥れる)、冤を呑みて薨し給ふ。朕、之を憶ふ毎に未だ甞て歔欷(きょき=むせび泣き)して泣下らずんばあらざるなり。今、親しく遺跡を弔ひ、感慨殊に深し。顧みるに、朕、否徳、幸に泰運に膺り(あたり)、大権を既墜(きつい=本来の場所)に復す。祖宗の遺徳と股肱の力を致したるとに由るといふと雖も、亦、親王の霊、冥冥の中に翼賛したる者なしと謂ふべからず。卿、其れを表彰する所以を図れ實美拝し稽首して、曰く、敬みて明詔を挙はる。抑親王の忠憤義烈身を以て國に殉ず事は史冊に具して必ずしも稱揚を待たず。惟ふに陛下の聖明 今日にして斯の擧あり。洵に是れ曠古の盛典にして 獨り親王の地下に瞑目せさせ給はむのみならず 陛下の聖徳も亦将に久遠に傳はりて泯びざらむとする也請ふ諸れを石に勒せむと。 上 曰はく可なりと。是に於て少内史・巌谷修、命を奉して其(その)由を記し、係ぐる(かかぐる)に銘を以てす。銘に曰く、土窟幽暗 土窟(どくつ=土の洞穴)幽暗(いうあん=奥深く暗い)久没蒿蓬 久しく蒿蓬(かうほう=蒿草と蓬草)に没す昌運維新 昌運(しゃううん=盛んな時節)維れ新に(これあらたに)有煥其宮 煥たる(くわんたる=光り輝く)其(その)宮あり明主之徳 明主(明治天皇)の徳親王之忠 親王(護良親王)の忠千秋赫奕 千秋(せんしう=長い年月)赫奕(かくえき=光り輝く)熟不欽崇 孰れ(いづれ)か欽崇(きんすう=敬い尊ぶ)せざらむ。」「御構廟」護良親王の首が置かれたところ。御首塚とも言うと。「宇津峯城 城跡の山岩(神石)」鎌倉宮鎮座100年を記念して宇津峯神社より送られた宇津峯城(星ヶ城)城跡の山岩。神石とされ、中央が後村上天皇、右は護良親王、左が後亀山天皇と伝えられている。宇津峯城は南朝側の一大拠点として、鎮守府将軍北畠顕信公が入り戦った場所と。「多宝塔」応永15年8月に建立された、日叡上人供養の塔。首を刎ねられた護良親王は、側室である藤原保藤の娘・南方に弔われたと伝えられていると。南方と護良親王との間には鎌倉の妙法寺を開いた日叡が生まれ、後に父母の菩提を弔ったと。「教育勅語碑」皇太子明仁親王殿下(現上皇陛下)のご成婚記念に建立されたもの。「献茶塔」。そして「宝物殿」前の「授与所」。こちらは普段使用されていない?「宝物殿」明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸された。お休みになられた行在所は現在、宝物殿となっている。護良親王馬上像と海軍司令長官・山本五十六の書。山岡鉄舟、高橋泥舟、勝海舟の書、明治天皇御尊影の図、明治天皇勅額などが。そして「冠木門」から出て「源氏門」の正面へ。「源氏門」は、かつて二階堂にあった邸宅の庭園に入る門を移築したものだそうで、二本の門柱に平入り切妻の棟門。優美なむくり屋根のカーブが醸し出す和の風情は、しっくりと日本庭園に馴染むのであった。再び「源氏門」を潜ると左手、社務所前の庭園にに「祓戸(はらえど)」があった、祭礼に際しては、拝殿に向かう前に、御神職一同が、こちらで修祓を受けるのだと。そして「社務所」前の新緑溢れる庭園。左手に「冠木門」。有料拝観域・「宝物殿(旧・明治天皇陛下行在所)」👈リンク の出口の門で、社務所前に出てくることになります。門柱には「明治天皇御座所」と記されていた。「御朱印」案内。「社務所」、「御朱印所」。以前に戴いた「鎌倉宮」の「御朱印」です。先程、「手水舎」に飾られていた「獅子頭」が販売されていた。再び社務所前の庭園のベンチでしばしの休憩。心休まる空間と時間。「太平殿」入口。太平殿は、建武中興六百五十年を記念して昭和58年(1983年)に建設された儀式殿で、一階は参拝者休憩所、二階は結婚式場として利用されていると。二階の結婚式場には、社務所前からこちらの通路を通って入ることが出来るようであった。この日は参拝者休憩所の「太平殿」の一階の入口は閉鎖させていた。入口には「鎌倉宮」の四季折々の写真が。以前は、内部に巨大な「獅子頭」が展示されていた記憶が。社務所前の庭園の紅葉の姿を写真から。巫女さんの姿が。そして「鎌倉宮」を後にして、「瑞泉寺」方面に歩を進める。ここを左折し「永福寺(ようふくじ)」方面に向かったのであった。「えいふくじ」だと思っていたが「ようふくじ」であることを今更ながら。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「荏柄天神社」を後にして「お宮通り」を進むと正面に「鎌倉宮」の鳥居が見えて来た。「鎌倉宮」へは「覚園寺(かくおんじ)」からの帰りに立ち寄ることとしここを左折した。「覚園寺」まで700mと。「現在位置」。「大塔宮」バス停の先にあったのが「弘法大師八十八箇所道」と刻まれた石碑が立っていた。江戸から明治にかけて、覚園寺には四国八十八箇所を模した霊場があって、百八やぐら群には、八十八体の弘法大師像が置かれた。百八やぐら群には首のない石仏を見ることができるが、廃仏毀釈の運動で破壊された弘法大師像なのだという。次の目的地「蒲原有明旧居跡 (川端康成仮寓跡)」を探すが・・・・。左側には「この先行き止まり」の標識を利用して「に覚円寺(KAKUONJI ⬆ 400m先」を追加。このアイデアに感心したのであった。諦めかけ振り返ると、生垣の裏に立つ案内板を発見。ここが「蒲原有明旧居跡 (川端康成仮寓跡)」なのであった。蒲原有明(かんばらありあけ)という詩人は全く知らないのであったが・・・。「庭木のうちでは槙(まき)がいちばん大木てあリ、丈も高い。朝日が今その梢を照し出している。楓(かえで)はうっとうしいくらい緊って来たが、それてもけさは青葉の色が滴る(したたる)ように見える。縁先の左横手に寄って柘榴(ざくろ)が臥ている。この柘榴は槙にも劣らぬ老木てある。駱駝の背の瘤のような枝葉の集団が幾つかもくもくと盛リあかっている。そして太い幹か地を這って遠呂智(おろち)のうねりを思わせるが、一間ばかリ這って、急に頭を斜に上の方へと起ちあがらせている。 蒲原 有明 (著) の「夢は呼び交す」より(岩波文庫)蒲原有明は、明治九(一八七六)年三月十五日、東京麹町に生まれた。本名は隼雄。ペンネームの有明は、父忠載の出身地佐賀県に因んだものである。明治ニ十七年、国民英学会を卒業する頃には詩作を始めている。初め小説に手を染めたが、島崎藤村を識り詩作に専念、明治三十五年一月、初期新体詩風の第一詩集「草わかば」を発表する。次いで翌年、第ニ詩集「独絃哀歌」で象徴詩への独自な展開をみせ、明治三十ハ年、象徴詩として成熟度の高い「春鳥集」を出版した。明治四十一年、第四詩集「有明集」で詩風の完成を示し、わが国近代象徴詩の第一人者と呼ばれるに至った。ここは、大正八年五月に東京中野から鎌倉雪ノ下に移住した有明が、翌年三月に新居を構えた所である。大正十ニ年九月一日の関東大震災で被災し、大破した家屋の修理はしたが、十ニ月に静岡市鷹匠町に移住する。昭和ニ十年六月には戦災に遭い、九月に再びこの地に戻った。この家には、昭和十ニ年から川端康成が有明の持ち家と知らすに住んでいたが、快く迎え入れ、翌年十月に長谷に転居した。昭和ニ十三年七月、日本芸術院会員となる。昭和ニ十七(一九五ニ)年ニ月三日死去。七十七歳であった。この碑は、昭和五十七年、有明没後三十年を記念し、野田字太郎(詩人、明治四十一年~昭和五十九年)を中心に「文学碑」建碑の計画がなされたが実現されず、この度、孫である蒲原一正より建立された。 平成二十二年二月三日」明治時代の詩人蒲原有明の作品の「あまりりすおほどかに ひとりほほゑめるわが戀の 花や、あまりりす。あやしうも貴に、すゐれんの 照りいづる娟にも以もやらず、おもひ屈し、すこしたゆげにも うつむける、あはれ、あまりりす。」様々な「作品」👈リンク を残しているようであるが、私には難解過ぎる詩なのであった。薬師堂ヶ谷の小路を「覚園寺」に向かって更に坂を上って行く。民家の庭にはオオデマリの花が。ズームして。淡いピンクになっている花も。道路幅が微妙に変わる場所に突起物が。「浄心橋」の文字が。ここまでは右側に水路があったが、この先で水路は見えなくなり、暫くすると左側に姿を現したので、道路下を斜めに横断している様であった。「天園ハイキングコース」沿いにあった庚申塔群。ここが「天園ハイキングコース」の「覚園寺口」なのであった。薬師堂ヶ谷の小路を覚園寺へと向かう途中にある庚申塔。かつてこの場所には覚園寺の総門があったのだと。ここから、山道の入ると「百八やぐら」を見ながら天園ハイキングコースに合流することができる。小路を挟んで庚申塔の左側は、廃寺となった大楽寺があった所。そして正面に「覚園寺」の山門が見えて来た。「覚園寺定保六年(一ニ一八)二代将軍・北条義時が、戌神将のお告げにより建てた薬師堂が前身です。その後九代執権・北条貞時が、元寇が再び起こらぬことを願い、戒律を中心とした四宗(真言・天台・禪・浄土)兼学道場に改めました。本堂の薬師三尊坐像と十ニ神将像は屈指の尊像です。奥深い境内は静寂としていて、古都鎌倉の面影をよく残しています。地蔵堂の黒地蔵尊の縁日(八月十日)には、多くの参拝者が訪れます。・宗派 真言宗泉涌寺派(しんごんしゅうせんにゅうじは)・山号寺号 鷲峰山覚園寺(じゅぶせんかくおんじ)・建立 永仁4年( 1296 )・開山 智海心慧律師 (ちかいしんえりっし)・開基 北条貞時」「山門」への石段を上る。境内の参道には蓮の花の鉢が並ぶ。両脇には現代風の灯籠が。紅葉時期には鎌倉市の紅葉の名所となるのだと。 【https://kamakurawakamiya.jp/news/details.php?id=297】より境内には巨大な九重石塔も。紫式部ゆかりの京都・清凉寺の九重石塔のレプリカだと。下部には仏像の彫刻が。十重石塔もあるようだが、その区別は?「寺務所」。「鐘堂」。正面に「愛染堂」。「拝観受付のとなりにあります。元は大楽寺(だいらくじ)のお堂です。廃仏毀釈て、覚園寺に移築されました。中央赤い仏様が、愛染明王てす。仏教ではギリシャ神話と同様にいろんな利益や役割をもった仏が存在します。愛染明王は、「幸せになるためにおそれや不安を打ち消し、ひたすら前にすすむ力」「情熱」をつかさどり、人の「縁(えにし)」をとりもつ仏様です。」「文保元年(1317年)二階堂行朝開基の寺院、明治初年に廃寺となった大楽寺に所属していた仏堂。本尊の木造愛染明王坐像のほか、鉄造不動明王坐像、木造阿閦如来(あしゅくにょらい)坐像(各鎌倉時代、いずれも大楽寺の旧仏)などを安置する」とウィキペディアより。赤い仏様・「愛染明王」像。「2022年NHK大河ドラマ 制作決定」「覚円寺所縁 鎌倉殿の13人 北条義時公の物語」と。番組のタイトルは「鎌倉殿の13人」👈リンク と。「平安末から鎌倉前期を舞台に、源平合戦と鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きと、その勝利者で北条得宗家の祖となった北条義時を主人公に描く。タイトルの「13人」とは、源頼朝の死後に発足した集団指導体制である「十三人の合議制」を構成した御家人たちを指している。NHK大河ドラマにおいて、タイトルにアラビア数字(算用数字)を使うのはこの作品が初めて」とこれもウィキペディアより。作・脚本は三谷幸喜、北条義時を演じるのは小栗旬であると。「三谷幸喜の会見動画」👈リンク もネットから。以前は参拝者は奥の本堂(薬師堂)境内には自由に立ち入ることはできず、定められた時間に、寺側の案内者の先導で、順路にしたがって拝観することが求められていた。しかし、この日は、コロナ禍の下で「有料自由拝観」となっているとのことで500円を支払い内部に入ったのであった。しかし、拝観時の写真撮影は外も含めて拝観ゲートから先は一切禁止されていたのであった。そして拝観ゲートから内部に入る。戴いた案内を見ながらの拝観。以下の写真は全てパンフレットからの転載です。「境内配置図」当日戴いた「パンフレット」の「配置案内図」。「地蔵堂」と「六地蔵」を見上げる。 【https://keiryusai.com/archives/18606】より「地蔵堂」「地蔵堂(じぞうどう)と千体堂(せんたいどう)大地のちからを宿す仏さまが地蔵菩薩てす。田畑に恵みを与えると信仰され愛されている仏様です。大地の力は、「いのち」をはぐくむ力とも解釈され、子どもを育て護る仏様として信仰され、幼子を護るための魔よけ(神社の鳥居や昔の橋が朱色なのと同じ理由て)の朱色の帽子と前掛けをつけていることがあります。黒地蔵尊をまつる地蔵堂となりには、お地蔵様の分身を千体近くまつる千体堂あります。」 【https://www.engakuji.or.jp/blog/29227/】より「内陣」をパンフレットより。「仏様のなかで大地のちからを宿す仏さまが地蔵菩薩です。田畑に恵みを与えると信仰され愛された仏様です。 大地の力は、「いのち」をはぐくむ力とも解釈され、子どもを育て護る仏様とも信仰され、幼子を護るための魔よけ(神社の鳥居や昔の橋が朱色なのと同じ理由で)の朱色の帽子と前掛けをつけるようになりました」以前に戴いた「鎌倉二十四地蔵尊第三番 覚園寺 黒地蔵尊」の「御朱印」です。「やぐら」をパンフレットより。「鎌倉は山が多く平地が少ないことから、鎌倉の武士や有力者のお墓は、人を雇い山の斜面に 穴を掘らせそこに埋葬されるようになります。山の中には、177穴が確認されています。お堂の脇のやぐらは、儀式や修業のためのものと推測されています。」「内海家」をパンフレットより。「 1706年に鎌倉でつくられた裕福な農家です(当時畳が使われた農家は少なかったようです。)1981年に一度 解体され覚園寺境内に移築されました。毎日この明るさのなかでよく暮らしていたなと感心するぐらい家のなかは暗いです。その分屋外の景色はより明るく感じられ、日本人はお日様のありがたさや自然の景色のすばらしさを毎日感じていたと思います。」「薬師堂」「 覚園寺の中心となるお堂です。覚園寺は1218年に開かれましたが当時のお堂は焼失し、現在のお堂は、1354年に再建された建物が元になり、以来なんども修繕が重ねられてきています。中央にまつられている仏様が、本尊 薬師如来、心身ともに元気でありつづける、もし怪我や病気になったらそれとともに前にすすむ力をあたえる仏様です。 元気であり続ける力は、昼夜を問わず一日中必要であることから薬師如来の両側、右に日光菩薩(日の光)、左に月光菩薩(月の光)がまつられています。さらにその外には、中央の薬師 三尊を守護し、参拝者を勇気づける十二神将像がまつられています。十二神将は私たちの干支の象徴でもあります。神将の頭頂部に干支の動物がつけられています。」 【https://keiryusai.com/archives/18606】より「薬師三尊」=木造薬師如来+日光・月光菩薩坐像(国重文)、「木造十二神将立像」(国重文)が安置されていた。像高:薬師如来181.3cm 日光菩薩149.4cm 月光菩薩150.0cm。薬師如来像は鎌倉期の作。日光・月光菩薩像は室町期の作であると。【https://www.onmarkproductions.com/assets/images/choyu-nikko-gakko-kakuonji-kamakura-nihon-no-butsuzo-no-19.jpg】「木造十二神将立像」。吾妻鏡によると、北条義時の夢に戌神将が現れ、そのお告げにより義時は、のちの実朝右大臣拝賀式の折、命拾いをしたと伝わると。「十二神将」👈リンク の中の迷企羅大将(めきらだいしょう、酉(とり)神将)「左)と「伐折羅大将(ばさらだいしょう、戌(いぬ)神将)」(右) 【https://www.ktv.jp/kenbutsu_app/20150905_5/】より「伐折羅大将(ばさらだいしょう)」をパンフレットより。「薬師堂」内の木造仏の配置図。 【https://omairi.info/2019/03/11/kakuonji-tpl-keidaisanpo/】よりそして内部に拝観を終え再び「山門」と巨大な「九重石塔」を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.19
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「東御門旧跡碑」を後にして、南下し「聖心侍女修道会」の角を右折。「清泉小学校」の生徒たちの手書きの力作が、右手のここにも並んでいた。「永福寺跡(ようふくじあと) 清泉小学校当時永福寺は二階堂と呼ばれていました。この近辺が二階堂という地名で呼ばれているのはこのためです。一一八九年に頼朝は奥州遠征から凱旋すると奥州にあった大長寿院の二階堂に似せて永福寺を建てました。しかし、享徳年間(一四五ニ年から一四五五年)に関東管領の勢力がおとろえるにつれて、全く荒れはててしまいました。また永福寺は平泉をまねて作られ、その土台石は丸く伊豆から持ってきた「伊豆石」といわれています。永福寺跡はどろとそ石しかなくて発掘するのはとても大変そうでした。今、石を運ぶのはトラックなので運べばいいのですが昔は大変だったと思います。しかし源頼朝が永福寺の建設現場を視察している時、片目に魚の鱗を入れ、目の悪い人のふりをしていたあやしい男がとらえられました。上総五郎兵衛尉忠光(かずさごろうひょうえのじょうただみつ)と名乗り頼朝を暗殺するためにかくれていたと白状しました。調べると短刀をかくし持っていました。頼朝は永福寺以外にも大御堂、大慈寺を建てましたが、今は民家が建っています。」英語版も。「大塔宮鎌倉宮(おおとうのみやかまくらぐう)荏柄天神社から参道と交差しているバス通りに出て北に向かいニ〇〇メートルほど進んだ突き当り。一八六九年明治天皇が創建した唯一の神社鎌倉宮がある。社殿のうしろの山の中段には護良親王を押しこめたと伝わる幅深さともに4メートルほどの岩窟がある。さらに進めば、護良親王の皇子日叡が師日賢の供養のためにつくったという多宝塔献茶の塔、さらに明治天皇ゆかり「五箇条の御誓文」「教育勅語」の碑もある。鎌倉宮では子供の日に「草鹿(くさしか)」という競技を行うようになった。布で作った鹿の面を弓で射るという競技で弓道連盟の方々の奉納がある。例祭は8月19日、20日である。また、9月21日、22日に境内で薪能がおこなわれる。 2013年清泉小学校史跡委員」右手に「聖心侍女修道会」。そしてその先に「清泉小学校」の正門。「清泉小学校」も正門前を進むと右手にあったのが「大蔵幕府舊蹟」碑。鎌倉市雪ノ下3-11-45。清泉小学校の南西端で、頼朝の墓所から南方200mに建つ石碑。「大蔵幕府舊蹟」「今ヲ距ル七百三十七年ノ昔治承四年源頼朝邸ヲ此ノ地ニ営ミ後覇権ヲ握ルニ及ビテ政ヲ此ノ邸中ニ聴ク 所謂大蔵幕府是カリ 爾来頼家實朝ヲ経テ嘉禄元年政子薨ジ幕府ノ宇津宮辻ニ遷レルマデ此ノ地ガ覇府ノ中心タリシコト實ニ四十六年間ナリ」【今から820年前の1180年に、源頼朝がこの場所に屋敷を建ましたが、権力を得てから後には政治を屋敷内で行いました。いわゆるこれが大蔵幕府であります。それ以後、頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)と続き、1225年頼朝の妻の政子が死に、幕府が宇津宮辻に移るまで、この場所が幕府の中心であり、その期間は46年間でありました。】「東御門」碑について「清泉小学校」の生徒が作った手書きの案内板に書かれていた「大蔵幕府跡」の地図。ここにも「清泉小学校」の生徒が作った手書き案内板が。右手には「大蔵幕府舊蹟」の説明が書かれていた。そして左には、「鎌倉幕府は何故鎌倉に出来たか頼朝が鎌倉を選んだ理由は源頼朝以来、源氏が鎌倉に深いつながりを持っていた事と、鎌倉の地形が三方向山に囲まれ、一方は海という守りやすく敵が攻めにくいという地形であったため、京都に対抗して、東国の武士を支配するのに都合が良かったからだと思われます。」書かれていた、源頼朝、北条政子の系図。そして「鎌倉宮」方面に向かう。「金沢街道」の「岐れ路」交差点に出ると角に石碑が3基。右の石碑にはその名の通り、道標に「右 大師道」と。左の石碑は、「文字庚申塔」。「鎌倉宮」方面に向かうと、「お宮通り」の案内板があった。更に鎌倉市二階堂の住宅街を「鎌倉宮」方面に向かって進む。そして左に折れると「荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)」の入口が見えて来た。鎌倉市二階堂74。杉の樹が上部でクロスし鳥居の如くに。近づいて。社号標「荏柄天神社」。前方石段の上に神門が見えた。「荏柄天神社古くは荏柄山天満宮とも称し、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並び、日本三天神の一つに数えられて来ました。平安時代中頃、雷雨と共に天神の姿絵が降りてきたのを里人が敬い、そこに神社を建てて祀ったのが始まりとされます。源頼朝が大蔵 (現在の雪ノ下三丁目付近) に幕府を開くと、その鬼門を守護する神社として崇められました。境内は国の史跡、本殿は国の重要文化財に指定されています。 ● 祭 神:菅原道真 ● 創 建:長治元年(1104)」「荏柄天神」碑。「和名鈔 当部に柄草と記せる郷名あり 今其名を失すれども 当社附近の旧称なりしが 如し 草にカヤの古訓あれば 江ガラは江ガヤの転訛なるを 後文字をさえ今の如く改めしものか 社前の松並木を古来馬場と称す 本社は元中央に管公(菅原道真)束帯の坐像 右方に天拝山祈誓の立像 左方に本地仏十一面観音の 像を安置せしも 勧請(かんじょう:創設)の年代を伝えず 頼朝公初めて大蔵の地に幕府を設けし時 当社を以て鬼門(きもん)の鎮守(ちんじゅ)となす 爾来(以後)歴代将軍の尊奉せし所 天文年間(1532-1555) 北条氏康(うじやす)社前に関 (せき)を置き 関銭を取りて社料に供せしめし事あり 徳川氏の世には 鶴岡八幡宮造営の節毎に其の余材残木を受けて 本社修造に抵(当)つるを例とせしと云う」【古い辞書である「和名鈔」 に「柄草」という地名があります。現在はありませんがこの神社付近の昔の名前のようです。草の字はカヤ と読め、エカヤがエガヤになり、後に文字を今のように当てたものと推測されま す。神社の前の松並木を昔は馬場といいました。この社(やしろ)には菅原道真(すがわらみちざね)が祭ってありますが、建てられた年代はわかりません。源頼朝が初めて幕府を建設する時、 この社が鬼門(きもん:東北) に当たるように選んでいます。それ以降の歴代将軍も この神社を大切に保護しま した。1548年に北条氏康(うじやす)は社の前に関所を設け、通行税を取り、神社修復の費用に当てました。江戸時代には、鶴岡八幡宮の工事ある毎に余った木材等を使用して、この社の修造を行うのが例になっていたということです。】階段横に建つ石碑は「菅公一千年祭記念碑」。「神門」に向かって石段を上って行く。「神門」。扁額「天満宮」。福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮とともに三天神社と称されています。「手水舎」は使用禁止。「拝殿」。「治承4年(1180年)鎌倉大蔵の地に幕府を開いた源頼朝公は幕府の鬼門に位置する当社を崇敬し、更めて社殿を造立されました。以後、歴代の将軍家を始め、鎌倉幕府の尊社として篤く崇敬され、「吾妻鏡」には二代将軍頼家が大江広元を奉幣使として菅公300年忌を盛大に執行された事など、社名がしばしば記されております。」と。菅原道真公が祀られているせいか、「梅」をかたどった意匠がなされていた。内陣を見る。「松」の水墨画。「梅」の水墨画。内陣中央に御幣が。「国指定史跡 荏柄天神社境内 平成17年7月14日指定国指定重要文化財(建造物) 荏柄天神社本殿 平成17年7月22日指定荏柄天神社は長治元年(1104)の創建と伝え、太宰府天満宮・北野天満宮と並ぶ日本三古天神の一つです。祭神は菅原道真(845~903)。治承4年(1180)源頼朝が鎌倉に入り大倉に幕府を開くと、その鬼門の鎮守とされたと伝えられています。鶴岡八幡宮と共に武家政権の守護神として、また東国における天神信仰や詩歌信仰の中心となりました。社殿奥に建つ本殿は国指定重要文化財(建造物)に指定されています。この本殿は、正和5年(1316)再建の鶴岡八幡宮若宮を、元和8年(1622)に始まる鶴岡八幡宮の造営に際し移築したものと考えられています。門の東側には天神が降った場所とされる位置に大銀杏があり、鎌倉市の天然記念物に指定されています。」「尾崎迷堂句碑」表面 「荏柄天満天神献詠 鎌倉右大臣実朝の忌なりけり」裏面 「大慈咲き 大悲さきたる さくらかな」「文学案内板 尾崎迷堂句碑 荏柄天満天神献詠 鎌倉右大臣 実朝の忌なりけり 裏面 大慈咲き大悲さきたるさくらかな尾崎迷堂(明治24~昭和45 1891-1970)僧侶で本名を光三郎、法名を暢光という。山口市に生まれ、僧の修行をした後、寺の住職を勤めるかたわら、俳句の道に精進した。特に、鎌倉二階堂の杉本寺住職と、大磯の慶覚院住職の時代がよく知られている。俳句は、高浜虚子が選者を担当した「国民新聞」の投句から始まり、大正4年(1915)に松根東洋城が創刊した「渋柿」の同人となり、その後「あら野」を経て、昭和11年(1936)に「えがら」を創刊して活動し、最後は「ぬなは」を拠点として活躍した。その作風は、高雅繊細で、しかも気魂を持っていたといわれる。迷堂は、大正14年から昭和17年まで、杉本寺の住職として土地の人々と俳句を通して交流を深め昭和45年3月に住職をしていた大磯の高麗山慶覚院で亡くなった。句集には「孤輪」(昭和16年)、「雨滴」(同26年)、「芙渠(ふきよ)」(同41年)などがある。 「雨滴」の中から、鎌倉に関する句を抄出する。 歳旦 初鶏や谷合奥の十二所 春 英勝寺一句 尼寺のチューリップなど長閑かな 春 荏柄天神社一句 古ルの絵は磴すぐ下の春田かな 春 八幡宮実朝忌句会一句 実朝忌ここもと山の松寒し」右手にあり「昇殿祈祷について」の案内板があったこの建物は荏柄天神社「神輿庫」であろう。境内の「授与所」、「御朱印所」。熊野権現社への一の石鳥居。「熊野権現社」碑。二の石鳥居とその先に山の洞穴内(やぐら?)に鎮座する「熊野権現社」。新しそうな賽銭箱。その奥に熊野権現の石祠があった。御祭神は熊野三柱神(伊邪那岐命・伊邪那美命・天宇受売命)。「荏柄天神社 社殿」横の道へ進む。「かっぱ筆塚・絵筆塚手前に佇むのが、河童の漫画を描き続けた清水昆氏が愛用の絵筆を供養し、昭和46年に建てた「かっぱ筆塚」です。大きな筆を担いだ河童の姿がレリーフされています。奥にそびえるのが清水氏の遺志を継いで 横山隆一氏らが平成元年に建立した「絵筆塚」です。当時、日本漫画家協会に所属していた漫画家有志がそれぞれのキャラクターを河童のモチーフで描き、それらの作品154枚がレリーフされています。毎年10月には、清水昆氏を偲び讃え感謝の真心を込めて古筆を供養する絵筆塚祭が執り行われております。」途中にあった「古神札納所」。そして正面に「絵筆塚」👈リンク。「絵筆塚」は横山隆一がデザインした筆形の塚で、高さ3m、直径1m、重さ800kgのブロンズ製である。銅製の絵筆塚建立碑(平成元年10月22日)。小島功、手塚治虫、やなせたかし、藤子・F・不二雄ほか、私でも知っている有名な名前がたくさんあった。横山隆一をはじめとする漫画家154人が描いたカッパのレリーフが飾られていた。なかには鉄腕アトムやドラえもん・・・・・・・・も。「かっぱ筆塚」。正面には清水崑氏の河童の絵と、裏には川端康成による「かっぱ筆塚」の揮毫。「絵筆塚」の帰路に「荏柄天神社」の「本殿」を見る。境内には様々な石碑が。由緒にも出てくる樹齢900年以上の「大銀杏」。授与所・社務所前の「御神木」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.18
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『鎌倉散策 目次』👈リンク源頼朝の墓より、東に100メートルほどで法華堂跡への石段が現れた。両脇に石燈籠の建つ石段。「北条義時墓(法華堂跡)」の入口そして「大江広元公墓」登り口。石燈籠には「覚阿大江公御塔前」、「長藩所営相模国鎮成諸臣献之 」と刻まれていた。反対の側面には「安政五年歳次戊午春正月」」と刻まれていた。石段の上にも同じ石燈籠。安政5年(1858年)に長州が大江広元公墓に建立したものと。上段の石燈籠にも同じ文字が刻まれていた。大江広元の墓は十二所の明王院裏山という伝承もあるのだと。「火袋」の下の「中台」には毛利家の家紋「一文字に三つ星(一文字三星)」が彫られていた。こちらは、以前に訪ねた時の写真である。そして「法華堂跡」の広場に出た。「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)この平場は、鎌倉幕府第2代執権の「北条義時」👈リンクの法華堂(墳墓堂)が建っていた跡。北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による幕府の開創を助けました。承久3年(1221)の承久の乱においては後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。義時は貞応3年(1224)に62歳で没しました。『吾妻鏡』には、源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005)に行われた発掘調査により、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、『吾妻鏡』の記述が裏付けられました。」「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」碑。大江広元の墓下の広場・北条義時墓(法華堂跡)の遺構を見る。吾妻鏡でに書かれていた法華堂跡は長くその場所は不明であったが2005年に鎌倉市教育委員会の発掘調査によりその法華堂跡の遺構が発見されたのであった。1辺が8.4mの正方形の形をした「三間堂」があったと推定されていると。北条義時は、1224年(元仁元年)6月13日に死去。6月18日に葬送され、『吾妻鏡』には「前奥州禅門の葬送。故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記録されていると。前奥州禅門は北条義時、故右大将家は源頼朝のこと。8月8日には、走湯山の浄蓮房を導師として墳墓堂の供養が行われ、墳墓堂は新法華堂と呼ばれたのだという。しかし発掘調査後に埋め戻された場所の何処に「三間堂」があったかは、表示されていなかった。前方に「大江広元の墓」への石段下の石鳥居が大きく見えて来た。法華堂跡の奥の山肌、石鳥居の手前には「三浦泰村一族の墓」と伝わる「やぐら」があった。1247年(宝治元年)、五代執権北条時頼と戦った「宝治合戦」に敗れた「三浦泰村」👈リンクら一族約500人は、源頼朝の法華堂で自刃したのだと。泰村は、以前より前将軍藤原(九条)頼経を中心とする反執権勢力に近づくなど不穏な動きをみせていたため、時頼からは危険視されていた。そんな中、時頼の外戚である安達景盛、義景父子が兵を起こし、館を焼かれた三浦泰村ら一族は、頼朝の法華堂に籠って最期を遂げた。法華堂に集まった三浦一族は、頼朝の御影の前に整列し、毛利季光が法事讃を唱えたのだという。最期の様子は、法華堂の天井裏に潜んでいたという承仕法師によってその凄惨さが伝えられているが、中でも三浦光村は自らの顔を刀で削り正体をわからなくしてから自刃したのだと伝えられているのだと。大江広元の墓参道石段下の石鳥居。石段の先には、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓があった。隣の島津忠久の墓への参道の石段には鳥居はなかった。「大江広元の墓」参道の石段を上って行った。右側の石段は「島津忠久の墓」への参道。石段を上ると三つのやぐらのような墓穴3基が並んであり、横穴の内部に近世の五輪塔や灯籠などが置かれ、外回りを石材で近代式に整備されていた。中央が大江広元、左側がその子で毛利氏の祖となる毛利季光、右側が源頼朝の子とも言われる島津忠久の墓であった。その一番左が「毛利季光( すえみつ)墓」。「毛利季光」👈リンクの顕彰碑と小さな石鳥居。江戸後期の亀趺(きふ)に載った毛利季光の顕彰碑。台座の亀のように見える動物は、竜の子の贔屓(ひいき) という中国の伝説上の動物で、このような石碑を亀趺碑(きふひ)というのだと。「故藏人従五位下大江公碑」(文政六年(1823年))。「毛利季光墓」毛利季光は、大江広元の四男。三浦泰村の妹を妻とし、1247年(宝治元年)の宝治合戦で三浦方につき、三浦一族とともに源頼朝の法華堂で自刃した。季光の娘は北条時頼の正室となっていたが、戦後離別したという。季光の墓は、1921年(大正10年)、鶴岡八幡宮西側の鶯ヶ谷の山にあったものが移されたといわれている。「毛利」姓は神奈川県厚木市毛利(毛利台)の地名に由来するのだと。五輪塔の墓石に近づいて。毛利季光の四男経光は、宇治合戦後も生き残り、その子孫が戦国時代に中国地方を制覇した毛利元就を生んだのだ。墓石前の花は枯れてしまっていたが・・・。そして中央には「大江広元墓」「大江広元」👈リンクは、源頼朝の政務の側近として「鎌倉幕府初代政所別当(長官)」を務めた人物。1225年(嘉禄元年)6月10日没。この墓は、1823年(文政6年)、長州藩によって建てられたもの。十二所にも大江広元のものと伝わる墓があるのだと。五輪塔の墓石に近づいて。内部の壁の石が落下している姿も確認できたのであった。亀趺に載った大江広元の顕彰碑。「故正四位下陸奥守大江公碑」(文政6年(1823年))。「故正四位下陸奥守大江公碑」そして石塀で分画された一番右に源頼朝の子ともいわれる「島津忠久の墓」。写真中央には「奉寄進」石碑があった。石段を下りて途中から隣の石段に移り再び上ると正面に「島津忠久墓」。「島津忠久」👈リンクは、九州島津氏の祖で、源頼朝の子ではないかとされているが定かではない。1227年(嘉禄3年)6月18日没。江戸時代には、島津藩主や家臣が墓参したという。現在の墓は、1779年(安永8年)に修造されたもので、源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したものであると。五輪塔の墓石に近づいて。内部の壁の石が落下している姿がここでも確認できたのであった。「奉寄進」石碑。安永8年(1779年)2月建立。石碑には 奉寄進 玉垣 両所 石燈籠 両基 石盥盤 一箇 安永八年巳亥二月 薩摩中將源重豪島津忠久の墓には顕彰碑は建っていなかった。島津忠久の墓側から中央が大江広元、左がその子で毛利氏の祖となる毛利季光の墓を見る島津忠久墓の参道・石段を見下ろす。そして墓を後にして島津忠久墓の参道・石段を下る。右側に広がっていた法華寺の跡地を見る。写真の真ん中に直線状の跡が見えたが、これが「三間堂」の跡の一部か。それとも島津忠久墓への参道の境石又は雨水用の排水溝であったのだろうか。最後の石段を下って行った。そして石段を下り終え、振り返る。右手には句碑と説明碑があった。北条義時法華堂跡の下にある「村田清風句碑」。「鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 むかし語りきくきくむしる尾花哉」清風は長州藩士。毛利氏の小姓として仕え、藩政改革に手腕を発揮した人物であると。全て漢字の案内碑。「村田清風句碑「鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 むかし語りきくきくむしる尾花哉」「村田清風(天明3~安政2・1783~1855)幕末の長州藩(現山口県)の武士で、藩校の明倫館で学び、後に江戸へ出て、和学講習所で国学や兵学を修めました。文化5年(1808)に藩主毛利斉房の近侍となり、約40年間にわたって藩政に参画しました。特に毛利敬親藩主の時代には、兵制や学制の改革、「防長風土記」の編さんなど、多くの功績をあげ、藩革新派の首脳として尊敬されました。弘化年(1845)郷里の三隅村隠退し、尊聖堂という道場を開き、子弟の教育に当たりましたが、安政2年72才で亡くなりました。門人の中からは周布政之助や吉田松陰らの、維新の志士が育っています。清風は、文政6年(1823)に、大江広元の墓の修理のために鎌倉に来て、滞在中に詠んた俳句が鎌倉の大石家に伝えられ、大行湘湖らの呼びかけでこの句碑が建てられました。句碑の除幕式のおり、発起人らが開いた、句会の出版物に、次のように記されています、「序 村田氏庭樹院清風大人は、毛利家の藩士にして、文武両道はさらなり 詩歌連俳をもよくせられしとかや・・・(中略)藩士の遠つ御祖大江氏のおくつき所を修理する仰をかうふり。屡々ここに◯を運び給ひしをり 懐旧の詩句をものせられしを 幾世経る鎌くらやまの山陰にそのかみ慕ふ大石の家にひめおける詩句を そのあるじ湘湖子これを石にちりばのて 永く后の世に伝へむときこゆめる・・・・・・(後略)」そして南に進むと前方に見えたのが「清泉小学校」の校舎。ここを左に曲がり進む。右手奥の林の中に洞窟らしきものが見えたのでズームでシャッターを押す。「清泉小学校」の校庭内であるようだ。案内板には「ルルド」について と。「ルルド」についてルルドは、フランスのピレネー山脈のふもとにある小さな町です。今から1 6 0年ほど前、ベルナデッタという少女の前に、マリア様が何度も現れました。はじめ、ベルナデッタはマリア様だとは分からず、きれいな優しい女の方だと思ったそうです。一緒にお祈りを捧げ、マリア様に命じられて掘ったところからは清らかな泉がわき出しました。この泉でお祈りを捧げ、その水を飲んだところ、病気が治った人がいると、ルルドの奇跡が世界に広まりました。そこで、今でも、心のいやしを求めて世界中から大勢の方々がルルドを訪れます。ルルドの町では病気や障害を持った最も弱い人が一番の主役になり、お手伝いする人もお役に立てた喜びに満たされ、神様の愛の中でみんなが一つになれるのです。ですから、ルルドの町は、喜びと感謝に満ちあるれているのです。カトリックの教会や学校、幼稚園などには、いつでもお祈りができるように、その洞窟を再現したものがよくあります。ルルドの町と同じように、弱い人が大切にされる、誰にとっても温かい場所になろうという願いが込められています。清泉小学校の「ルルドの洞窟」とマリア様について今から5 0年以上前( 1 9 6 0年)、清泉女学院中学校が大船に開校するまでの一年間、当時の中学生は鎌倉清泉小学校の校舎で学んでいました。その生徒たちから「ルルドのマリア様ご出現百年の時に何か思い出を残したい』という願いがあり、ルルドの洞窟を作ることになりました。シスターと子どもたちは校庭の石を拾い集め、一つひとつにマリア様への思いを込めて積み上げ洞窟を完成し、私たちの森にマリア様のご像をお迎えすることが出来ました。当時の子どもたちの精神が今もここに受け継がています。」と。そして十字路の左手に石碑があった。「東御門」碑。「大蔵幕府に四門あり 方位を以て名づく 其東にあるものを東御門(ひがしみかど)といふ 今転じて地名となる 法華堂の東方一帯の地即ち是なり」【大蔵幕府には、四つの門がありました。名前はその方位で付けていました。東にあるものを東御門(ひがしみかど)といい、現在は地名になっています。法華堂の東の方向一帯の地域をいいます。】鎌倉市西御門2丁目-8-10。「清泉小学校」の生徒が作った案内板であろうか?手書きの文字で。「東御門東御門とは、大蔵幕府の東側にあった幕府の門です。東御門の近くには、やぐらがありました。このやぐらは東御門の近くの山をくずしている時にぐう然見つけられた物です。やぐらの中には沢山の五輪塔がありました。東御門には清泉小学校にそって小さな流れがあります。この流れは、大蔵幕府を守っていた堀かもしれないと言われています。今は、東御門のこの石碑だけが残っていて、地名は西御門と呼ばれています。」「住居表示街区案内図」。この場所は鎌倉市西御門2丁目であり、鎌倉市雪ノ下3丁目との境であることが解ったのであった。この小川・東御門川は「大蔵幕府を守っていた堀かもしれないと」と「清泉小学校」の生徒が作った案内板から理解出来たのであった。橋の名は「東御門橋」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.17
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「西御門 八雲神社」の横には「来迎寺」の山門に向かう石段があった。そして石段左の「来迎寺」案内板の裏には石碑が置かれていた。「太平寺跡」碑「太平寺は比企尼寺にして相傳う 頼朝池禅尼の旧恩に報いんため その姪女の所望に聴き姪女を開山たらしめし所なりと 足利の代 官領(かんれい)基氏(もとうじ)の族裔(ぞくえい:子孫) 清渓尼(せいけいに)の中興する所となれるが天文中(1532?1555) 里見氏鎌倉を歯掠(しりゃく)せる時 住持(じゅうじ:住職)青岳尼(せいがくに)を奪ひて房州に去りてより遂に頽破(たいは:滅亡)せり 今の高松寺は 寛永中(1624‐1644)紀州徳川 家の家老水野氏が 其の太平寺の遺址を改修せるものなり」【太平寺は代々比企一族の尼寺でした。源頼朝が池禅尼(いけのぜんに)の昔の恩義に報いるため、その姪(めい)のために建てさせたといわれています。足利の時代、官領(かんれい)基氏(もとうじ)の子孫である清渓尼(せいけいに)が、さらに発展させました。 しかし天文(1532‐1555年)の時、千葉の里見氏が鎌倉を攻め、青岳尼を房州(ぼうしゅう:千葉南部)に連れ去ってからは、とうとう廃止になりました。その後1644年に、紀州徳川家の家老水野氏が、太平寺跡に高松寺を建てたものです。現在はそれもありません。】そして石碑の前の坂を上ると正面にフェンスがあった。現在、テニスコートそしてその奥の一段高い場所が山の麓まで「太平寺跡」とのこと。「「太平寺」は禅宗の尼寺で廃絶する前は尼五山の筆頭だった。開基・開山は妙法尼。頼朝が平治の乱で永暦元年(1160)2月に捕らわれた時、平清盛の継母である池下禅尼が頼朝が亡児家盛に似ていることから助命を乞い、頼朝は流罪で済んだ。後に頼朝が池下禅尼の旧恩に報いるために姪である妙法尼の願いを聞き入れ、建立したという伝説がある。一方で史料上からは弘安6年(1283)頃と考えられている。鎌倉時代から室町時代に繁栄し、特に関東公方足利基氏の室清渓尼、持氏の娘昌泰道安、成氏の娘昌全義天と足利氏関係の女性が住持したことにより、太平寺は足利氏との関係が続いた。弘治2年(1556)、安房に勢力を持つ里見義弘が房総半島からに鎌倉に侵攻した際、義弘は尼僧、青岳尼(しょうがくに)と寺の本尊、聖観音立像を略奪して安房へと連れ去った。青岳尼は天文7年(1538)に戦死した小弓公方足利義明の娘と伝えられ、安房に連れ去られた後、義弘の命によって還俗させられ、妻になったという。こうして住持を無くした太平寺は廃寺となったが、安房へと持ち去られた聖観音像は東慶寺の蔭涼軒主の交渉によって鎌倉に戻され、現在も東慶寺にある。また旧太平寺の仏殿は現在の円覚寺舎利殿である。太平寺の旧跡には江戸初期に日蓮宗の高松寺(こうしょうじ)が建立されたが、昭和6年(1931)に宮城県栗原郡に移転したため現在は同地にはない。」とネットより。昔の「太平寺」の地図。太平寺(高松寺)は現在の西御門の来迎寺の北に位置していたことが解るのであった。 【http://amigokamakura.sakura.ne.jp/ishibumi/118-taihei-ji-ato/118-taiheiji-takamatutera.html】よりそして坂を下り「来迎寺」への石段まで戻る。「来迎寺本堂には本尊・阿弥陀如来坐像と、南北朝時代の仏師・宅間浄宏の作と伝えられる地蔵菩薩像が安置されています。この地蔵菩薩像は、近くにあった報恩寺(廃寺)の本尊でした。本尊脇の如意輪観音像は「土紋」の装飾が鮮やかです。「土紋」は鎌倉特有の仏像装飾の技法で練った土で作った文様を貼り付け、浮き彫りに似た効果を出すものです。厄除けと安産にご利益があるとされます。 ● 宗 派:時宗藤沢山清浄光寺末 ● 山号寺号:満光山来迎寺(まんこうざん) ● 建 立:永仁元年(1293) ● 開 山:一向上人(いっこうしょうにん」鎌倉市西御門1丁目11−1「来迎寺」碑鎌倉観音第五番札所鎌倉地蔵第二番札所鎌倉十三仏第十番札所以前に戴いた「鎌倉観音第五番札所 来迎寺 如意輪観世音」の「御朱印」です。以前に戴いた「鎌倉地蔵第二番札所 来迎寺 岩上地蔵尊」の「御朱印」です。以前に戴いた「鎌倉十三仏第十番札所 来迎寺 阿弥陀如来」の「御朱印」です。そして石段の上に山門があった。「満光山」、「来迎寺」と刻まれた石碑が両側に。山門の扉には時宗の宗門「折敷に三文字」が。宗内では「隅切り三」と呼ぶのだと。そしてその先にも更に石段が。左手には二階建の「寺務所」が。更に進むと、再び「満光山」、「来迎寺」と刻まれた小さな石碑が両側に。そして「本堂」。永仁元年( 1293 )の鎌倉大地震で亡くなった村民を供養するため、一向上人によって創建された。『西御門』という地名は、源頼朝公が開いた大蔵幕府(現在の清泉小学校の校地周辺)の西門があったことからその名が付けられた と。鎌倉には来迎寺と名前の付くお寺は二か所あるのだ。もう一方の「随我山来迎寺」は材木座にあるが、両寺共に藤沢の遊行寺(清浄光寺)の末寺となっている。扁額「満光山」。「来迎寺」の「如意輪観音半跏像」を2枚ともネットから。 【https://n-raikoji.jp/about/】より鎌倉で最も美しい仏像と言われる、「如意輪観音半跏像」。宋朝様式の典型である写実的な衣紋であるが、木像の上に粘土で装飾を施す「土紋」は年代を表す特に貴重なものです。もとは源頼朝の持仏堂である法華堂から移されたものだと言われてます。かつて由比ヶ浜の長者の娘が大鷲にさらわれて亡くなってしまいました。悲しんだ長者はこの如意輪観音に娘の遺骨を納めたと言われています。 【https://kamakuratrip.com/raikouji/】よりそして墓地にあった「南無阿弥陀仏」と書かれた大きな墓碑。墓地が広がる。そして「来迎寺」を後にして、更に奥に向かって進む。途中、民家の庭には「エニシダ」が鮮やかな黄色で輝いていた。正面に見えたのが「石川邸(旧里見弴邸)」。「鎌倉の景観重要建築物 石川邸(旧里見弴邸)石川邸は、大正15年に作家里見弴の住宅として、建てられた建物です。里見弴自らが設計に携わったと言われるこの建物は、玄関ポーチ、2階バルコニーの存在が印象的で、建築家ライトの造形を取り入れたそのデザインは、当時は非常に斬新であったことが想像されます。主屋の奥には、高床式、茅葺きの屋根の茶室があり、コントラストも非常に印象的です。」石川邸(旧里見弴邸)の主屋。脇の道を入って行くと茅葺きの屋根の茶室が見えた。道を引き返すと、「来迎寺 道標」があった場所から20mほどの道路脇右にあった石碑には「呉ふくばし」と刻まれた石碑が。鎌倉市雪ノ下3丁目と西御門2丁目の境の狭い道を東に進む。「鎌倉ものがたり 西御門西御門は、かって源頼朝が御所を建てた「大蔵」(おおくら)の地の西側に位置しており、この御所には、「侍所」(さむらいどころ)「問注所」(もんちゅうじよ)「公文所」(くもんじよ)といった役所が作られ、いわゆる「鎌倉幕府」の武家政治の中心があったため、「大蔵幕府(跡)」と呼ばれています。かって御所があった場所には今、その名残を刻んだ石碑が残されており、御所を取り囲む4つの門「東御門」「西御門」「南御門」「北御門」のうち「西御門」だけが、今もこうして町名に残り、鎌倉のまちの歴史を語っています。漫画「鎌倉ものがたり」では、実際の地名「西御門」がそのまま使われて描かれており、「西御門の姫君」と呼ばれる女性が、一色先生の妻、亜紀子夫人に「鎌倉のかぐや姫伝説」を話す第10話「西御門のかぐや姫」に登場します。」「法華堂跡(源頼朝、北条義時の墓)周辺観光案内図」頼朝の墓、大江広元の墓、島津忠久の墓 案内標識。そして正面に「頼朝の墓」への入口が見えた。地元の「清泉小学校史跡委員」の生徒達が制作した「白旗神社」、「源頼朝」案内板の大作。「薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ法華堂跡法華堂跡の東谷奥には、頼朝を補佐し幕府の土台を築いた大江広元、広元の四男である長州毛利氏の祖・毛利季光、頼朝にゆかりのある薩摩島津氏の祖・島津忠久の墓が並びます。いずれも江戸後期に薩摩藩・長州藩によって整備されました。」「頼朝の墓」入口には様々な石碑、案内板が設置されていた。「法華堂跡」碑。「堂はもと頼朝の持仏(守本尊)を祀れる所にして 頼朝の薨(こう:死)後其の廟所(びょうしょ)となる 建保五年(1217)五月 和田義盛(よしもり)叛(はん:背く)して火を幕府に放てる時 将軍実朝(さねとも)の難を避けたるは此の処なり 宝治元年(1247)六月五日 三浦康村此に篭(こも)りて北条の軍を邀(げき:迎撃)へ 刀折れ矢尽きて 一族郎党五百余人と供に自尽し 満庭朱殷(しゅあん:赤黒色)に染めし処とす」【法華堂は、もと頼朝の守り本尊を祭っていましたが、頼朝の死後その墓になりました。1217年5月に、和田義盛(よしもり)が、反乱を起こし、幕府に火を放った時、将軍実朝(さねとも)が、避難したのは、この場所であります。また1247年6月5日に、 三浦康村(やすむら)がここにこもり、北条軍を迎え撃ったが、刀折れ矢尽きて一族そろって500人ばかり自殺し、庭一面を赤黒色に染めた場所でもあります。】「源頼朝公顕彰碑」石碑(平成12年(2000年)7月、源頼朝会)歌碑「君出でて 民もしづまり 九重の 塵もをさまる 世とはなりにけり」「源頼朝公顕彰碑歌碑は我が国中世史の権威であり源頼朝研究の第一人者でもあった大森金五郎氏によるものである。戦乱の中世を鎮定して民百姓の生命財産を保障すると共に時の朝政を恣しいままにしていた公家衆の特権を剥奪して我が国最初の武家政権を鎌倉の地に創設した不出世の英雄源頼朝を讃えたものである。顕彰碑裏面には源頼朝公の偉業を讃える八百余名の顕彰者名が刻銘されている。」「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久公石塔道」碑。石鳥居越しに「白旗神社」を見る。白旗神社 由緒記一、祭 神 源 頼朝公一、例祭日 一月十三日一、由 緒 この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髻の中 に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。 正治元年(1199)1月13日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍 が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。 その後鶴岡八幡宮の供僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け明治維新に際し寺は白旗神社に 改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。 現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和45年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造 営されたものである。持仏・・・・・守り本尊として、常に身近に置いて信仰する仏像「白旗神社」。扁額「白旗明神」。幟「白旗大明神」が並んでいた。「源頼朝公法華堂之舊蹟」碑。「源頼朝の墓源頼朝は、治承4年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2年(1185)に平家を滅ぼしました。又、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下3丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。正治元年(1199)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪がが整備したものとされます。」島津氏は頼朝公のご落胤、子孫ということですから、自分の祖先の墓所を整備した、ということなのでしょうか。白旗神社を左手に正面石段(53段・頼朝が亡くなった年齢)を上って行った。石段の途中に石鳥居が。石鳥居の柱の前の手摺には「源頼朝の家紋」の「笹竜胆(ささりんどう)」が。石段を上り終わると正面に「頼朝の墓」があった。源頼朝墓は、 鎌倉時代の文治5年(1189)に建てた法華堂があった場所にあった。 墳墓堂とも呼ばれている。 頼朝の墓を中心とする一帯が「法華堂跡」として国の指定史跡となっているのであった。ネット情報によると「2012年2月11日正午頃、墓の相輪(塔頂部65cm)が破壊されるという事件が起こっています。犯人は鶴岡八幡宮の境内で刃渡り約19センチの包丁を隠しもっていたことから、銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕になったとのこと」。現在は見事に修復されていたのであった。更に近づいて。「奉寄進」碑玉垣一圍、石燈籠兩基、水盥盤一箇 安永八年己亥ニ月 薩摩中将源重豪』「頼朝の墓」の横には「水盤」が寂しそうに。「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。治承4年(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年に鎌倉に入りました。元暦2年(1185)に平家を、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、武家による政権が続くことになります。建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墓塔が建てられました。現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。」「史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) 史跡指定年月日 平成十八年七月二十八日 石柱建設年月日 平成三十一年年ニ月一日」墓の横にあるこちらの石塔(安永8年建立)「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道」、「承薩州侯之命東都龍湖親和八十歳謹書」「安永八年己亥二月薩摩中将源重豪建之」とあります。そしてその後方には山道が続いていた。石塔に「島津豊後守忠久石塔道」とあるので島津忠久の墓へと続く道であろうがロープが張られていた。大江広元・島津忠久・毛利季光の墓所があるのであった。「希義公の土と石父義朝が平清盛の前に屈した「平治の乱(1159)」のおり、平家方に捕縛された兄頼朝は当時13才、同じ父母の下に生まれた希義は当時3才と言われていますが、其の後一度として兄弟の再会なく今日に至っています。公家政治から武家政治へ移行の戦乱の狭間、兄弟の悲哀を想い、今日互いの墓所の土と石を交換し835年の時を経て兄弟を再開させたものです。 平成6年(1994)9月25日 源頼朝公報恩会 源希義公顕彰会」「頼朝の墓」を後にして石段を下る。そして次には3人の墓に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.16
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして次に訪ねたのが「横大路」の突き当りにあった「宝戒寺」。鎌倉市小町3丁目5−22。寺号標「天台宗圓頓寶戒寺」。この寺、正式な名称は「金龍山(きんりゅうざん)釈満院(しゃくまんいん)圓頓寶戒寺(えんどんほうかいじ)」。鎌倉の花の寺・梅の花や萩の花でも有名。「鎌倉大聖天」碑の前には、提灯の雨よけの屋根が対で。「金龍山寶戒寺伽藍復興大勧進ご案内」「北條執權邸舊蹟」碑。「往時此の地に北条氏の小町亭在り 義時以後累代の執権概ね皆之に住せり 彼の相模入道が朝暮に宴筵(えんえん:宴会)を張り 時に田楽法師に対し列座の宗族巨室(重臣)と倶(とも)に直垂(ひたたれ:礼服)大口(おおくち:大口袴)を争ひ解きて 纏頭(てんとう:褒美)の山を築けりと言ふも此の亭なり 元弘三年 (1333)新田義貞乱入の際 灰塵(かいじん:灰)に帰す 今の宝戒寺は 建武二年(1335) 足利尊氏が高時一族の怨魂忌祭の為 北条氏の菩提寺東勝寺を此の亭の故址(こせき:旧跡)に再興し 以て其の号を改めしものなり」【昔この場所に、北条氏の小町亭がありました。北条義時(よしとき)以後代々の執権(将軍代理職)はたいていここに住みました。あの北条高時が、朝に夕に宴会をして、ときには田楽法師に対して、列席している重臣と共に、 ひたたれや袴(はかま)を投げ与えて褒美(ほうび)の山を築いたというのもこの場所であります。1333年に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め入った時、戦火で焼けて灰になってしまいました。現在の宝戒(ほうかい)寺は、 1335年に足利尊氏(たかうじ)が建てたものです。この寺は高時一族の恨みを鎮めるために、北条氏の菩提寺であった東勝寺を、この屋敷跡に建てて名前を変えたものであります。】と。六角形の踏石が並ぶ参道を進む。「宝戒寺新田義貞の鎌倉攻めにより、この寺の南東にある「腹切りやぐら」で、最後の執権・北条高時をはじめ北条一族八百七十余名が自害したと伝えられています。滅亡した北条氏の霊を弔うため、また修行道場として、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条氏の屋敷があったとされるこの地に寺を建立させました。境内には四季を通じて花が咲き、九月には白いハギで理めつくされる「萩の寺」として有名です。・宗派 天台宗・山号寺号 金龍山円頓宝戒寺・建立 建武2年( 1335 )・開山 五代国師(円観慧鎮)・開基 後醍醐天皇」「掲示板」。「山門」「宝戒寺」境内配置図。「本堂」。宝戒寺は、後醍醐天皇の勅命をうけた足利尊氏公により、北条氏の霊を弔うため、また国宝的人材を養成する道場として北条氏執権屋敷跡であるこの地に建立された。ご本尊は鎌倉二十四地蔵尊の第一番とされる子育て経読み延命地蔵様で鎌倉三十三観音霊場の寺院の中で唯一、准胝観音様をお祀りし、また、鎌倉江の島七福神の毘沙門天様をお祀りしている。近づいて。「宝篋印塔」。1333年滅亡した北条氏並びに鎌倉合戦東勝寺(とうしょうじ)戦没諸精霊を供養する慰霊塔。鎮魂の祈りを込めた写経、写経石が納められているのだと。「鐘楼」。「聖徳太子堂」。聖德太子は仏教を深く信仰され、仏教の保護に尽力された。また優れた工芸技能者の育成を図ったといわれ、これにちなみ諸職人の守り神として信仰されている。毎年1月22日に聖德太子講が厳修(ごんしゅう)されると。「徳崇大権現堂」。鎌倉幕府執権北条高時公を德崇大権現(とくそうだいごんげん)としてお祀りしている。鎌倉幕府が滅亡した5月22日には北条氏鎮魂の為、毎年大般若転読会(だいはんにゃてんどくえ)が厳修(ごんしゅう)されると。「大聖歓喜天堂」。秘仏である大聖歓喜双身天王(だいしょうかんぎそうじんてんのう)(歓喜天・聖天様(かんぎてん・しょうでんさま))をお祀りしている。毎年5月23日には諸願成就を祈念し大聖歓喜天供(だいしょうかんぎてんく)が厳修される。正面から。扁額は「大聖天」。以前に戴いた「鎌倉三十三観音第2番:仏母准胝観音尊」の「御朱印」です。以前に戴いた「鎌倉二十四地蔵第1番:子育経読地蔵尊」の「御朱印」です。以前に戴いた「鎌倉・江ノ島七福神:毘沙門天」の「御朱印」です。「宝戒寺」を後にして、県道204号線・金沢街道を右に進むとカーブの場所に石碑があった。ここが「筋替橋(鎌倉十橋)跡」。「筋替橋」碑。「鎌倉十橋ノ一ナリ 寶治元年(1247)六月 三浦康村(やすむら)一族ノ叛乱ニ際シ 北条時頼(ときより)ノ外祖(母方ノ祖父)タル安達景盛(かげもり)ハ 其ノ一族ト共ニ 兵ヲ率(ひき)イ此ノ橋ノ北辺ヨリ康村ノ第(屋敷)ヲ攻メシコト 東(吾妻)鑑ニ見エタリ 又文平二年(1265)三月 鎌倉ニ於ケル商家ノ営業地域ヲ数カ所ニ限定セル触書(フレガキ:告知書)中ニ「一所須地賀江橋」トアルハ 即チ此附近ノ事ナリ」【鎌倉十橋のひとつです。1247年6月に三浦康村(やすむら)一族が反乱を起こしました。その時、安達景盛(あだちかげもり)は、その一族と共に兵を率(ひき)いて、この橋の北の辺りに集まり、康村の屋敷を攻めたことが吾妻鑑(あずまかがみ)に書いてあります。また鎌倉において、商店の営業できる地域を数か所に限定するという告知書が1265年3月に出され、その中に「須地賀江(すじかえ)橋」と書いてあり、これはこの付近のことであります。】名所案内。「来迎寺」方面に向かって進む。突き当りにあったのが「YNU 横浜国立大学 教育学部 附属鎌倉小・中学校」正門。鎌倉市雪ノ下3丁目5−10。民家に庭の樹の花。ピンクの「マロニエ」の花であろうか?突き当りを左折し、「YNU 横浜国立大学 教育学部 附属鎌倉小・中学校」の校庭の脇の道を北上する。左手に「頼朝の墓⇒」の案内があったが直進した。更に進むと前方左手に石碑が。先ほどと同じ場所の案内表示。「西御門」碑。「西御門は 法華堂西方の地をいふ 大蔵幕府西門の前面に当たれるを以て此名あり 報恩寺 保寿院 高松寺 来迎寺等此地に在り 今 高松 来迎の二寺を存す」【西御門は、法華堂(ほっけどう)の西の方の土地を言います。大蔵幕府の西門の前面に当たるため、この名前が付いています。この地域には、報恩寺(ほうおんじ)、保寿院(ほじゅいん)、高松寺(こうしょうじ)、来迎寺(らいごうじ)等がありました。 現在は来迎寺のみが存在しています。】このグランド付近が「大蔵御所西御門跡」だったのであろう。現在地は鎌倉市西御門2丁目1−11付近。更に北に向かって鎌倉市西御門1丁目の住宅街を北上する。右手に小さな石碑があった。「右 来迎寺」と。ここを右折し進むと左手にあったのが「西御門 八雲神社」。鎌倉市西御門1丁目13−1。「西御門八雲神社祭神 須佐男命(すさのうのみこと)建立は定かではありませんが、『風土記稿』に因れば字大門の天王社がもとだと考えられます現在の社殿は天保三年の建造だと言われています。須佐男命は『古事記』『日本書紀』でも知られる神様で特に須佐男命は乱暴で天照大神が怒って天の岩戸に隠れた神話や八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した伝説はよく知られています。」3基の庚申塔が並んでいた。右側から「笠塔婆型庚申塔」上辺に日月、六手の青面金剛が彫られている。体の前においた右手には髪の毛をもって人を吊り、左手には剣を、ほかの手には剣、輪宝などを持つ。下に三猿が厚彫りされている。文化五年(1808)の銘が。中央は「船型庚申塔」上辺の右に月、左に日、中央上辺に大日如来を表す梵字を刻みむ。四手の青面金剛が邪鬼の上にたっている。右の上手には鉾、下手は矢をもち、左上手は棒、下手は弓を持つ。下には、三猿が。庚申塔で四手の青面金剛像は少なく、鎌倉でも2基だけだとのこと。左は「船型庚申塔」上辺に「阿弥陀」をあらわす梵字を刻み中央に合掌六手の青面金剛像、下には鶏と三猿が彫られていた。元禄五年(1692)の銘が。小さな石の社も境内に。そして「社殿」。鎌倉の八雲神社は山ノ内、大町、常盤とここの4か所あると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.15
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「明治天皇閲兵の處」の横の石段を下って行くと右手にあったのが「若宮 儀式殿」。「若宮」。「若宮」は、上宮と呼ばれる本宮に対して「下宮」とも呼ばれるが、実は、鶴岡八帽宮創建当初はここがメインの社殿であった。1191年(建久2年)3月4日の鎌倉大火で鶴岡八幡宮は焼失してしまうが、頼朝はすぐさま再建に取りかかり、若宮の再建とともに本宮(上宮)を造営し、現在のような上下両宮の姿となる。 現在の社殿は、1622年(元和8年)から始まった江戸幕府二代将軍徳川秀忠による鶴岡八幡宮の大改修時のもので国重文(寛永の大改修・1626年(寛永3年)完了)。2019年(令和元年)11月、漆塗り等の工事が完了し、彩色豊かな社殿が蘇っている。「若宮」前から「舞殿」を見る。朱色の橋から新緑の溢れた「柳原神池」の左側を見る。「右側」を見る。「柳原神池」では、6月上旬に行われる「蛍放生祭」で蛍が放たれ、夜間に蛍を観賞することができる(ほたるまつり)との事であるが今年も中止なのであろう。「柳原」碑。「此辺は往昔柳の名所にて柳原と唱(とな)へし由 口碑(こうひ:伝説)に 年経たる鶴岡辺の柳原青みにけりな春のしるしに の古歌伝へらる 其の作者詳(つまびらか)ならざれども 一説には北条泰時の歌ともいふ 現存の柳は即ち往昔の名残ならん」【ここら辺り昔は柳の名所で、柳原と言われていたようです。「年経たる 鶴岡辺の 柳原青みにけりな 春のしるしに」という古い歌が伝えられています。その作者は分かっておりませんが、一説には北条泰時(やすとき)の歌ともいわれています。 現在見られる柳は、昔の名残でしょうか。】柳原にある「由比若宮遙拝所」。由比若宮は、1063年(康平6年)に源頼義が由比郷に源氏の氏神・京都の石清水八幡宮を勧請して創建した社。1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は由比若宮を小林郷に遷座。それが現在の鶴岡八幡宮。白旗神社への道の脇には、「鶴亀石」という2つの大きな石が祀られていた。水で洗うと鶴と亀の模様が浮かび上がると言われる、縁起の良い石なのだが、勝手に洗うわけにもいかないので、確認できないのが残念。雨に日には多少は鶴と亀の模様が浮かび上がるのだろうか。「鶴亀石記 相模國風土記稿 に水をもって石面を洗う時は鶴亀の紋様が輝きあらわれると記され大変めでたい石である。」そして「白旗神社」に近い木々の中には句碑が置かれていた。「歌あはれ その人あはれ 実朝忌 裸馬」「大銀杏の下で非業の死をとげた三代将軍源実朝公をいたみ俳人であった菅礼之助(俳号 裸馬)が詠んだ歌歌あはれ その人あはれ 実朝忌 裸馬」。そして「白旗神社」の手前に出る。「白旗神社御祭神 源實朝 命 源頼朝 命例祭日 五月二十八日」。「社殿」の屋根には源氏の家紋の「笹竜胆」が。「手水舎」。竹に小孔を開けて。白旗神社は、1200年(正治2年)、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、源頼朝を祭神として北条政子が創建したのだと伝えられている(一説には源頼家の創建とも。)。もとは上宮の西側にあったが、1885年(明治18年)、源実朝を祀る柳営社と合祀され現在地に遷された。したがって、現在の祭神は、源頼朝と源実朝。明治の神仏分離前までは、この場所には薬師堂があったとのこと。「白旗神社」の参道を「源氏池」方向に進むと左手にあったのが「鎌倉国宝館」。「鎌倉国宝館」👈リンク大正12年の関東大震災により鎌倉の社寺の建造物や仏像などが大きな被害を受けたことから、貴重な文化財を災害から保護しえる施設の必要性が浮き彫りとなり建設されたと。「特別展 鎌倉の至宝」が5月9日まで開催されていた。「文学案内板 鶴岡八幡宮鷯岡八幡宮は、「吾妻鏡」をはじめ「平家物語」や「義経記」などの軍記物語、「海逍記」、「東関妃行」どの紀行、「とはずがたり」や「徒然草」、「金槐和歌集」など、各分野で多数の筰品に描かれています。さらに、近せ、近杙にには数えきれないほど多くの攵学筰品に描かれておリ、また、境内ては、、実朝忌俳句大会やぼんぼり祭りなどの催しが開かれています。この案内板では、境内にある丈学碑のみを紹介します。●源実朝歌碑 山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも 昭和十七年 鎌倉文化連盟建立 正面に見えるのが、関東大震災で倒れた二の鳥居による歌碑。この歌碑は、当初鎌倉ペンクラブ により計画されたのち、鎌倉文化連盟結成とともに、連盟各部の協同事業として、社団法人・ 鎌倉同人会の参道も得。建立された。●菅裸馬句碑(白旗神社前) 歌あ波れ その人阿は連 実朝忌 昭和三十六年 同人社建立・・・以下略・・・」関東大震災で倒壊した二の鳥居を再利用した実朝歌碑。「山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」(金槐和歌集663)と刻まれている と。そして「白旗神社」の石鳥居から「白旗神社」の「社殿」を望む。「鎌倉幼稚園」の横を「源氏池」の広場に向かって進む。広場には白い鳩が悠々と、ここは白の「源氏池」であると。「源氏池」の3っつの島のうち一番奥の島が前方に。こちらは「旗上弁財天社」の鎮座する島。広場にあった「さざれ石」。「さざれ石この石は国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠まれている「さざれ石」です。石灰石が雨水で溶解され生じた乳状液が小石を凝結して「君が代」に詠われているように大きくなって岩に成長したのです。学名を石灰質角礫岩といいます。昭和三十六年 岐阜県春日市で小林宗一氏により発見され五十ニ年に岐阜県の天然記念物に指定されました。この石は発見者の御子息小林文治氏により昭和五十六年に当八幡宮に奉納されました。」。そして「齋館」の入口。例大祭にて神社本庁よりお越しになる献幣使の方が宿泊される「齋館」。「池泉回遊庭園」の「齋館」側の入口。「齋館」の白壁。「実朝桜」が植えられていた。「風さわぐをちの外山に天晴れて 桜にくもる春の夜の月」(金槐和歌集50)左手奥に「鶴岡研修道場」。弓道・剣道・柔道・合気道のそれぞれの武道を通じ、現代に生きる国際人たるに相応しい人格を陶冶する場を崇敬者、特に青少年に提供するという目的の下、創設された施設であると。「東鳥居」を見る。「東鳥居」を潜ると右手角にあった石碑は「畠山重忠邸址」碑。「正治元年(1199)五月 頼朝の女(むすめ)三幡(さんまん)疾(病)み 之を治せんが為当世の名医丹波時長京都より来れる事あり 東(吾妻)鑑に曰(いわ)く七日 時長掃部頭(かもんのかみ)親能(ちかよし)が亀が谷(かめがやつ)の家より畠山次郎重忠が南御門(みなみみかど)の宅に移住す 是と此の地即ち其の南御門の宅の蹟なり」【1199年5月、源頼朝の娘が病気にかかり、これを治すために、当時一番の名医といわれた丹波時長(たんばときなが)を京都から呼びよせました。吾妻鑑(あづまかがみ)によると、7日に時長が、中原親能(ちかよし)の亀が谷(かめがやつ)の家から、 畠山重忠の南御門(みなみみかど)にある宅に移動した、と書いてあるが、この場所が南御門のその家のあった跡であります。】北側に見えたのが「YNU 横浜国立大学教育学部 付属鎌倉小・中学校」の登下校門。「東鳥居」の前の道を県道204号線・横大路に向かって進む。右手に朱の鳥居が見えて来た。朱の一の鳥居の奥に小さな社があった。「正一位稲荷社(しょういちいいなりしゃ)」の二の鳥居。「社殿」安政4年(1857年)京都の朝廷より「正一位稲荷」の神号を許可された。それ以前は築山稲荷という名前だったと。鶴岡八幡宮の源平池を作った時に出た土で築かれたといわれる、土手の上にある稲荷社。扁額「正一位稲荷」。そして正面に県道204号線・横大路が見えて来た。県道204号線・横大路を左に進む。左折して直ぐ左手のビルの壁に小さなプレートが貼られていた。「鎌倉幕府 政所(まんどころ)跡」。政所とは、鎌倉幕府の政庁で、財政や鎌倉市中の雑人の訴訟をつかさどった行政機関。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、税収確保のため、1191年2月に、大江広元を別当に就任させた。当初の政所は「公文所」(くもんじょ)と呼ばれ、行政事務の管理と、鎌倉市中の行政などを担当させた。財政に関する収納や給田などの実務、鎌倉市中の訴訟の受理と裁断、人事の管理、使者の派遣、文書の受理・発給・保管など、日常的な政治実務を処理したとのこと。この前を通る「横大路」の突き当たりは北条徳宗家の屋敷(現宝戒寺)であり、道なりに左に曲がれば、直に三浦氏の屋敷。更には、政所裏手には畠山重忠邸。有力御家人邸が立ち並ぶ一角なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.14
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「手水舎」の先を左奥に入った場所に石鳥居があったので進む。「祖霊社(それいしゃ、みたまや)」と書かれた案内板。境内にご鎮座する「祖霊社」は、氏子崇敬者の祖霊と護国の英霊とをお祀りするために、戦後間もない昭和24年に創建された社。現在は当宮歴代宮司を始め1000柱を超える御霊(みたま)がお祀りされており、ご遺族を会員とする「祖霊社維持会」により運営されているとのこと。社に向かって両脇に石灯籠が並ぶ参道を進む。「祖霊社」「内陣」。「扁額」の「祖霊舎」。鶴岡八幡宮の参道にもどると左手にあった「祓戸(はらえど)」。祭礼に際しては、拝殿に向かう前に、御神職一同が、こちらで修祓を受けるのだと。境内にはマスク姿の巫女さんの姿が。「舞殿」を正面から。鶴岡八幡宮の舞殿は、1191年(建久2年)の鎌倉大火後の1193年(建久4年)に新造された唐破風の入母屋造りの建物。下拝殿とも呼ばれ、各種儀式が行われている。ここは、1181年(養和元年)に源頼朝が建てた若宮の回廊だった所。若宮の上棟式で馬引き役を命ぜられて快く引き受けなかった源義経が頼朝に𠮟責された場所であり、1186年(文治2年)に義経の愛妾・静御前が舞った場所でもある。斜めから。それにして人が少ないのであった。「奉納酒樽」は、鶴岡八幡宮の緑にも囲まれた圧巻の光景。「舞殿」を横から。石段の手前左には茅の輪くぐりの「疫病退散 自祓い所」があった。「茅の輪」。この「茅の輪」を左回り、右回り、左回りの順で三回くぐって、無病息災を祈るのだ。「舞殿」を「上宮」側から見る。右手にあったのが「祈願受付所」。そして「本宮(上宮)」への石段。本宮は61段もある急な大石段の上に鎮座している。階段の上に見える建造物は「本宮(上宮)」ではないのだ。階段を登り切って最初に出くわすのは「桜門」で本宮はその門を越えたところにあるのであった。大きなマスク姿の狛犬(左)。狛犬(右)。石段の左に位置し、樹齢1000年、樹高約30メートルもあった雄大な大銀杏は長きにわたって神社の歴史を見守って来た。しかし2010年(平成22年)3月10日未明の暴風によって倒れてしまった大銀杏であるが、移植された幹の部分の根元から噴き出す芽も年々多くなって大きく成長して来ていたのであった。そして幹の移植とは別に、元の場所の穴が埋められ、根から新しい芽が出るように整備されてこれまでの大きさに成長した銀杏の姿が。そして正面に「桜門」。「桜門」の扁額は「八幡宮」、楼門に掲げられた扁額の「八」の字は、神聖な神の使いとされている二羽の鳩で表現されているのであった。鶴岡八幡宮の象徴「楼門・随身門」の入り口両側には、仁王様でなく、随身(=平安時代以降、貴人護衛にあたった武人)が鎮座していた。向かって右の「随身像(阿形)」は刀を持って鎮座。斜めから。向かって左の「随身像(吽形)」は矢を持って鎮座。斜めから。左手に「授与所」。おみくじや御札が買える場所。「絵馬掛所(えまかけどころ)」。そして「上宮」の左側高台にあった「丸山稲荷社」を訪ねた。丸山上り口には朱の鳥居が並ぶ。石段を上がると「丸山稲荷社」の境内へ。「丸山稲荷社」の絵馬は、赤い鳥居形であった。鳥居の先に「社殿」が。賽銭箱も朱で統一されていた。狛犬(右)。狛犬(左)。「社殿」「丸山稲荷社」(御祭神・倉稲魂神(うかのみたまのかみ))」は、鶴岡八幡宮・本宮の西側にある小高い丘の上に鎮座する鶴岡八幡宮の末社で、源頼朝による由比若宮からの遷宮前よりここ旧・小林郷に祀られていたことから「地主稲荷」の別称を持ちます。もともとは現在の本宮の位置にあり「松岡明神」と呼ばれておりましたが、建久二年(1191年)の大火で旧・若宮が焼失した後、頼朝が大臣山中腹を切り開き本宮を造立し石清水八幡宮を勧請した際に、現在の位置に遷座したものです。その後衰微しましたが、江戸時代・寛文年間になって旧・仁王門前にあった「酒宮(さけのみや)」と呼ばれる稲荷社を丸山に遷すことで再興されました。現在の社殿は、明応九年(1500年)に造営されたものと云われ重要文化財に指定されていますが、当初は本宮西側の石段北側にあった柳営社(御祭神・源実朝公)の社殿でした。明治二十一年(1888年)に白旗神社が本宮西側より柳原神池畔に移転した際に柳営社を廃して実朝公を白旗神社に合祀したことから、御祭神が空座となった旧・柳営社の社殿は丸山に移築され、現在のように丸山稲荷社の社殿となっています とネットから。扁額「丸山稲荷社」。帰路は別の石段から下り振り返る。そして「上宮」横から「授与所」を見る。「鶴岡八幡宮 境内案内図」。そして正面に本殿(上宮)。以前に戴いた「鶴岡八幡宮」の「御朱印」です。そして「武内社」。「本殿(上宮)・回廊・楼門御祭神 応神天皇 比売神 神功皇后 例祭日9月15日本殿建物は幣殿・拝殿を連ねた流権現造で、廻廊が東西に延びて本殿を囲む形になっている。廻廊は内部が区画され往時はさまざまな神事、法会の場として機能していた。楼門中央に掲げられた八幡宮の扁額「八」の文字は八幡大神の神使とされる鳩を象っていて、寛永6年(1629)の曼殊院門跡良恕法親王の揮毫によるものである。本殿内外の上部壁面には鳥獣草木が描かれ、精巧な彫刻も施されているが、細部にわたり見事な彩色が施された現在の社殿は文政4年( 182D本殿火災後、同11年( 1828 )、徳川十一代将軍家斉による幕府あげての事業として再建され、江戸時代末期の幕府作事方による代表建築の一つと評されている。平成8年( 1996 )には国の重要文化財に指定された。」武内社御祭神 武内宿禰 例祭日 4月21日武内宿禰は応神天皇の重臣として側近くに仕えた為、全国の八幡宮にいては末社の神として本殿の傍らに祀られることが多い。極めて長命であったとされることから、特に延命長寿のご利益があると云われている。平成8年( 1996)に重要文化財に指定されました。」左手に「宝物殿」。本殿回廊の西側に開設されている宝物殿では、神社の社宝や御神宝類が展示されており鶴岡八幡宮の歴史を学ぶことが出来ると。大石段の上から「舞殿」を見る。再び「楼門」を見る。右手奥に「上宮祈祷所」の玄関があった。そしてその先にあったのが「明治天皇閲兵の處」。明治6年4月15日に我国初めての陸軍攻防演習が鎌倉で行われた。明治天皇は4月14日に鎌倉に行幸し、鶴岡八幡宮裏の大臣山から閲兵した。山頂には、この事績を記した記念碑が、 昭和3年11月3日に建立された。ここ、山頂へ続く階段脇には「明治天皇鎌倉御野立所」の碑、登り口には由来碑が建てらていた。「明治天皇閲兵の處」碑。碑の正面には「明治天皇閲兵之處ト題スル碑此ノ山上ニ在リ明治六年四月十五日大臣山上ニ初メテ野外對抗演習ヲ閲セラル此レ其ノ御遺蹟ナリ書ハ當時ノ指揮長官曽我陸軍中将ノ揮毫ニ係ル」と刻まれていた。碑高:180㎝、幅83㎝、厚さ13㎝、台石高30㎝。そして、大臣山の山頂にある石碑の説明板。碑正面:「明治天皇閲兵之處」碑裏面:「表題 陸軍中将曽我祐準謹書 明治天皇夙ニ武勇ヲ重ンシ兵制ノ基ヲ定メ給フ六年二月教導團歩兵第一大隊及 歩兵第五大隊ノ鎌倉ニ野営スルヤ特ニ指揮長官ヲ陸軍少将曽我祐準ニ命シテ演 習ヲ統裁セシム四月十四日車駕場ニ臨ミ翌十五日御馬ヲ鶴岡八幡社前ニ立テテ 二隊ノ整列及分列式ヲ親閲シ其ノ攻守對抗運動ヲ此ノ処ニ觀給フ時ニ一隊ハ社 域ヲ拠守シ一隊ハ金澤口ヨリ来リ攻ム朝来ノ大雨御衣ニ滴ル将卒感激シ奮闘ス ルコト時餘劔光銃火勇壮ヲ極ム是レ實ニ天覧野外對抗演習ノ初ナリ茲ニ昭和ノ 大禮ニ丁リ同志ニ檄シテ碑ヲ建テ聖蹟ヲ不朽ニ傳ヘ國軍発展ノ渕源ヲ明ニス昭和三年十一月三日建 鶴岡八幡宮奉賛會 帝國在郷軍人會鎌倉町分會 同 鎌倉郡聯合分會」明治天皇閲兵の処と題する石碑が、この大臣山の山上に在ります。明治六年四月十五日、明治天皇は大臣山にて、初めて我が国陸軍の野外演習をご親閲になられました。天覧野外演習の初めといわれます。その後、八幡宮廻廊にてご装束にお召替えになり、御本宮を御親拝になられました。明治の愛国心、質実剛健の国民思想、その輝かしい躍進と功績に思いを致し明治天皇の遺徳を敬慕し、明治の精神を顕揚するため設立された鎌倉明治会五十周年の佳節に当たり、大臣山の整備事業と記念式典が執行されました。」石段横の石碑。「明治天皇鎌倉御野立所」碑。碑の右面には「昭和十三年三月建設」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.13
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『鎌倉散策 目次』👈リンク左手にあったのが「鶴岡八幡宮」の「西鳥居」。「西鳥居」の先が「流鏑馬馬場(やぶさめばば)」であり、鶴岡八幡宮の境内中央付近を東西に走るこの「流鏑馬馬場」は、旧鎌倉道といわれ、鎌倉道の起点だったとも考えられているのだ。後に鎌倉道は、鎌倉街道と呼ばれるようになり、その主要路は「上の道」、「中の道」、「下の道」と呼ばれる三道である。更に進むと右手鶯谷山(愛宕山とも呼ばれる。)の中腹にある「志一稲荷」が見えた。長い石段の先にある「志一稲荷」。志一とは京都仁和寺の上人の名。この辺りは、鶯ヶ谷と呼ばれる谷戸で、三代将軍源実朝が鶯の初音を聞いたという故事からそう呼ばれるようになった。志一稲荷には次のような伝説が残されている。訴訟で鎌倉に来た志一上人。しかし、筑紫に大切な文書を忘れてしまった。そこで、可愛がっていた狐を使わすと、狐は一夜のうちに持って帰ってきてくれたのだという。しかし、長い道のりを走り続けた狐は志一上人に文書を渡すと死んでしまった。志一稲荷は、その狐を祀った志一上人が立てた祠なのだと伝えられている。それを聞いた畠山入道が「深く感じ入り信仰した」ということや、狐の奇特に感じ入った関東一円の人々が信仰したということが『太平記』に描かれているのだと。祭神:倉稲魂神(うかのみたまのみこと)左手には「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」があった。「特別展鎌倉の伝統工芸 鶴岡八幡宮鎌倉彫名品展 令和3年3月19日(金)~5月16日(日)」のポスター。「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」銘板。ル・コルビュジエに師事した建築家・坂倉準三が設計し、2016年3月に惜しまれながら閉館した「旧神奈川県立近代美術館 鎌倉」。この建物を再利用した文化施設「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」が2019年6月に開館したのだ。館内の様子が写真展示されていた。左カーブの場所・小町通商店街の北端東側の角にあったのが鎌倉十井である「鉄井(くろがねのい)」。「鎌倉十井(じゅっせい)の一(いつ)なり 水質清冽(せいれつ;清冷)甘美(かんみ:まろやか)にして盛夏といえども涸(か)れることなし 往昔(昔)此(この)井(の)中より高さ五尺余りの首許(ばかり)なる鉄観音を掘出したるにより鉄井(くろがねのい)と名付くといふ 正嘉(せいか)二年(1258)正月十二日丑の剋(午前2時頃)秋田城介康盛(あきたじょうのすけ・やすもり)が甘縄(あまなわ)の宅より失火し 折柄(おりから)の南風に煽(あお)られ火は薬師堂の後山を越え寿福寺に到り 郭内(かくない:寺領内)一宇(一堂)も残さず焼失せしめ余焔は更に新清水寺 窟堂(いわどう)若宮宝蔵 同別当坊等を焼亡せしめたること東(吾妻)鑑に見えたり 此の観音はその火炎にかかり土中に埋もれしを掘出したるものならん尊像は新清水寺の観音と伝へ 後此井の西方なる観音堂に安置せられしも 明治初年東京に移せりといふ」【鎌倉十井(じゅっせい)のひとつです。水は清んで甘みがあり、夏でも枯れることはありません。昔この井戸から高さ1.5メートルの鉄の観音像の首の部分が掘出されたために鉄井(くろがねのい)と名付けられたといいます。1258年1月12日の午前2時ごろ、 秋田康盛(あきたやすもり)の甘縄(あまなわ)の自宅より火を出し、おりからの南風にあおられて、火は薬師堂の後ろの山を越えて寿福寺(じゅふくじ)にまでおよんで、寺の建物は、一堂も残らず全て焼けてしまいました。火はさらに新清水寺(しんせいすいじ)、 岩堂(いわやどう)、若宮の宝物殿、宿坊(しゅくぼう)まで及び、焼き尽くしたことが、吾妻鑑(あづまかがみ)に書かれています。この観音像はその火事の時に、土の中に埋まったものを掘り出したものと思われます。観音は新清水寺のものと伝えられるため、 後にこの井戸の西にある観音堂に安置されましたが、明治の初めに東京に移されたということです。】東京都中央区日本橋人形町の大観音寺の本尊がこれであると。道路の反対側にあったのが「紅葉稲荷社」。鎌倉・鶴岡八幡宮境内四隅に鎮座する鎮守稲荷・四社の一つ。江ノ電バス「鎌倉八幡宮前」バス停を通過。その先に「八幡宮前交差点」横に立つ「三の鳥居」が姿を現した。「鶴岡八幡宮 境内案内図」。「三の鳥居」越しに「段葛」を見る。「三の鳥居」前から「太鼓橋」方向を見る。「太鼓橋」とその奥に「本宮(上宮)」が。鶴岡八幡宮の太鼓橋は、1182年(寿永元年)に源平池が造営されたときに架けられたものと考えられている。将軍家が鶴岡八幡宮を参拝するときは、この橋で輿を下乗したのだという。当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていた。鎌倉の古絵図にも「赤橋」と記されている。北条氏の庶流「赤橋流」の苗字は、この太鼓橋(赤橋)の近くに屋敷があったことに由来している と。「太鼓橋」を横から。現在の「太鼓橋」は、昭和2年に、鉄筋コンクリートと石で造られた橋。『新編鎌倉志』には、長さ五間幅三間だったと記されている と。左手には「石灯籠」と「鶴岡八幡宮 案内板」。「鶴岡八幡宮 御祭神 応神夭皇 比売神 神功皇后当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平六年(一〇六三)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡神を勧請したのに始まる。治承四年(一一八〇)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由練の地鎌倉に人ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。建久ニ年(一一九一)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い篤く尊崇した。主な年中行事▼歳旦祭 一月一日▼大祓 六月・十ニ月晦日 古神札焼納祭 半年間の罪穢を祓清め、また古い神札やお守りを藐納する▼ぼんぼり祭 ▼例大祭▼流鏑馬神事▼御鎮座祈年祭」左手にあった「茶寮 風の杜」。「鎌倉国宝館 案内板鎌倉に伝わる国宝・重要文化財の絵画・彫刻など、代表的な美術工芸品・歴史資料を一堂に収蔵・展示する市立の歴史・美術博物館です。」店の入口にあった「源平池」碑。「寿永元年(1182)四月 源の頼朝の命により 専光坊並に大庭平太景義等奉公して境内に池を掘りしこと 東(吾妻)鑑に見ゆ 一説に 夫人政子 源家の興隆を祈請して此の池を造作せしめ 東池に白蓮 西池に紅蓮を植え 源平の旗色を表はしたりと伝へられ源平池の名あり」【吾妻鑑(あずまかがみ)によると「1182年4月に、源頼朝(よりとも)が、専光坊(せんこうぼう)や大庭景義(おおばかげよし)らに八幡宮内に池を掘らせた」と書いてあります。またある説には、頼朝の妻の政子が源家が栄えることを願ってこの池を造らさせ、 東の池には白い蓮(はす)、西の池には赤い蓮を植えさせて、源平の旗の色を表わしたと伝えられており、それで源平池という名前が付いているということです。】治承4年(1180年)8月 源頼朝公は伊豆君国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、10月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした。夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182年)大庭景義に命じ境内の東西に池を掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。左手の「平家池」。「平家池」には四島を造り「四は死なり」と平家滅亡を祈ったのだと。「太鼓橋」の両側にも橋が架けられているが、当初はこの左側の橋のみだったと。「太鼓橋」の左側の池を「平家池」と呼ぶが、この橋は「平家を踏みつぶす」という意味があったのだと。豊かな自然に囲まれた境内、広々とした参道。ここ「鶴岡八幡宮」は子供の頃から既に数え切れない程の回数で訪ねていたがこの様に人出の少ないことは記憶になかったのであった。この日も、「鶴岡八幡宮」はパスする予定であったが、急遽ゆっくり静かに見学できるチャンスと考え予定を変更したのであった。「池泉回遊式庭園 開園中」。神苑ぼたん庭園の牡丹が開花しているのであろうがこの日はパスした。次に源氏池の中にある「旗上弁財天社」を訪ねた。「旗上辨財天御由緒治承4年(1180年)8月、源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに破れて房総に転じ、10月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠地とした。夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182年)大庭景義に命じ境内の東西に池を掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。そして東の池の中の島に弁財天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった他の堂塔と共に除かれた。その後昭和31年篤信家の立願によって再興され、さらには昭和55年9月鶴岡八幡宮創建八百年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。因みに弁財天信仰は鎌倉時代既に盛んで、妙音芸能の女神、福徳利財の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた弁財天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。・・・以下略」朱の鳥居。藤棚の花も終わって。以前訪ねた折の白の藤棚。もちろん源氏は「白」なのであった。正面に、源氏池に浮かぶ中の島にある「旗上辨財天」の社殿。「社殿」を横から見る。以前戴いた「鎌倉江の島七福神 旗上辨財天 弁財天」の「御朱印」です。「社殿」の裏にあった「政子石」。「政子石」とも「姫石」とも呼ばれる陰陽石。古図によると、かつては鶴岡八幡宮社殿に置かれていたもので、北条政子が懐妊したときに源頼朝が安産祈願をした石なのだとか。夫婦円満と子宝の祈願石として信仰され、近年では恋愛成就の御利益があるとして女性に人気のパワースポット。「源氏池」の「中の島」にはためく白の「旗上辨財天」の幟。幟の上部には寺紋の「丸に二つ引き」の「二つ引き」が。「中の島」から「源氏池」を見る。「源氏池」には三島を配し、三は産なりと祝ったのだと。もちろん「平家池」より大きい「源氏池」。右手奥に「齋館」が見えた。「奉納 参道敷石」には四名の名が。源氏池にかかる弓状の橋長約10mの赤い橋・宮橋。参道の対の巨大な石灯籠を見る。1862年(文久2年)、江戸と大坂の砂糖問屋が砂糖船の航海の安全を祈願して奉納したもの。左側が大坂で右側が江戸のもので、それぞれ「砂糖店」と刻まれているのであった。「鶴岡幼稚園」入口。鶴岡八幡宮の経営で昭和25年4月に開園。鎌倉市雪ノ下2-1-31。園舎からは子供たちの声が聞こえて来た。再び「太鼓橋」と「三の鳥居」を振り返る。「参道」の左手の巨大な観光案内図。「鎌倉市観光案内図」。「参道」をほぼ独り占めの初体験に驚きを。左手に先程反対側から見た「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」。「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」銘板。「東鳥居」への参道。「鶴岡幼稚園」の送迎用マイクロバスが園の前に停まっていた。「西鳥居」への参道。左手に巨石が。「よじべえ石」。鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の西の鳥居付近に置かれている石は、由比ヶ浜海岸と材木座海岸の沖にあったもの。1923年(大正12年)に起きた関東大震災で海底が隆起して現れた大石で、漁師の網が切られたり、泳いでいる子どもが引き込まれたりして魔の場所として知られていたらしい。この厄介な石は青年団らの手で引き上げられ、鶴岡八幡宮に納められたらしい。右手にあった大きな「社務所」。そして左には巨大な「手水舎」。社殿と同じ色彩に装飾され、全体を朱塗りとして、彫刻や軸部に彩色が施されていた。手前には竹に小孔を開けた水場があった。コロナ禍で「手水舎」は閉鎖されていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.12
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「円応寺」の「閻魔大王」、「冥界の十王の像」を独り占めで堪能した後は更に県道21号線の巨福呂坂(こぶくろざか)を進むと眼の前に姿を現したのが「巨福呂坂洞門(こぶくろだにどうもん)」。鎌倉市に存在する切通しで鎌倉七口のひとつ。「小袋坂」とも書く。鶴岡八幡宮裏手の雪ノ下から山之内(現在のJR北鎌倉駅付近)を結ぶ道。「巨福呂坂洞門」の右手にあったのが横須賀水道トンネル、正式には「巨福呂坂送水管路ずい道」。ネットで調べてみると昭和55年に横須賀市水道局が造った有馬系統の送水管路隧道であると。隧道の中を覗いた。なにか筒状の物が置いてあった。災害用資材置き場として利用しているようであった。天井にはレールが敷かれていた。資材を運ぶためのモノレールなのであろう。そして出口も見えたのであった。「巨福呂坂洞門」は左に緩やかにカーブしていた。入口左側に石碑が立っていた。「この落石防護施設は、鎌倉七切通の一つである。国指定巨福呂坂の近くにあることにちなんで巨福呂坂洞門と名付けた。切通しを歩いている実感が損なわないようにアーチ状の梁、大きな六角形の天上開部・石積みの壁などのエ夫をしました。 平成五年六月竣功 神奈川 県」と書かれていた。石で造られた「巨福呂坂洞門」銘板。内壁には「巨福呂坂洞門 1998年6月 神奈川県事業名:道路災害防除工事(H3年度~H5年度)路線名:県道21号(横浜鎌倉線)型 式:RCアーチ型 L=59.0M RCアーチ型(片持式) L=9.6 M アーチ半径 R=7.65M施 工:西松建設株式会社」と。天井開口部を大きな六角形にし、石積みの壁を造るなど雰囲気を改善したのだという「巨福呂坂洞門」。天井開口部があるため内部照明はない模様。出口の右側にも先程と同じ石碑が立っていた。そして鎌倉市雪ノ下2丁目を更に進む。左手にあったのが「歐林洞(おうりんどう)」しかし、レストランや喫茶店として20年にわたり愛されて来たが、昨年の6月に閉店したとネットから。そして右側にあったのが「神奈川県立近代美術館鎌倉別館」。「神奈川県立近代美術館鎌倉別館」。ここも、改修工事のため休館中。「神奈川県立近代美術館鎌倉別館」の前庭を望む。「神奈川県立近代美術館鎌倉別館」を正面から。そして更に進むとカーブに石碑があった。「二十五坊旧蹟」碑。大正七年(1918)三月建之 鎌倉町青年會と刻まれていた。「此ノ地ハ頼朝時代以来 八幡宮供僧(ぐそう:僧侶)ノ僧舎二十五坊及ビ別当(僧官)坊ノ置カレシ処ナリ 彼ノ別当公暁(くぎょう)ガ実朝ノ首ヲ手ニシテ潜(ひそ)ミタル 後見 備中阿闍利(あじゃり:規範師)ノ宅モ亦 (また)此ノ地ニ在リタルナリ 応永中(1394‐1428) 院宣ニヨリ坊ノ称ヲ院ト改ム 戦国ノ世ニ至リ 鎌倉管領(かんれい)ノ衰微ニ共ニ各院次第ニ廃絶シ 天正ノ末(1592)ニ於テハ僅カニ七院ヲ存セルノミ 文禄中(1592‐1596) 徳川家康五院ヲ再興シテ十二院トナセルガ 明治維新後遂ニ全ク廃墟ナレリ」【この場所は、源頼朝の時代から、八幡宮の僧侶が住む二十五坊区域と、僧官が住む別当坊などがありました。あの実朝を殺し、その首を手にした別当公暁(くぎょう)が隠れたという後見人の阿闍利(あじゃり:規範師)の住居もまたこの場所にありました。 1400年頃、坊の呼び名を院に変えました。戦国時代に入ってからは、鎌倉管領(かんれい)のおとろえと共に各院ともしだいに減って、1592年頃にはわずか7院だけになりました。1600年頃に徳川家康が5院を再興して12院になりましたが、 明治維新の後はついに全て無くなりました。】とネット情報から。カーブを曲がり終わった場所を左に折れると左手にあったのが「鶴岡八幡宮鶴岡文庫」。鶴岡八幡宮にある「鶴岡文庫」という図書館。鶴岡八幡宮や神社神道についてはもちろんのこと、鎌倉の歴史や文化に関する資料の収集も行っているのだ。更にクランク状に進むとあったのが「新宮神社(にいみやじんじゃ)」の朱の鳥居。しかし残念ながら社殿は改修工事中であった。御祭神後鳥羽天皇(承久の乱後隠岐島へ配流された。首謀者)順徳天皇 (承久の乱後佐渡島へ配流された。後鳥羽天皇の第三皇子)土御門天皇(承久の乱後 自ら望んで土佐国へ配流された。討幕計画に反対していた。 後鳥羽天皇の第一皇子)「今宮四条天皇延應元年(1239)鎌倉中處々喧嘩闘諍ノ事アリ 特ニ其ノ五月廿二日ニハ大騒動ヲ起セシト云フを玄日後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御シ給フ由リテ斯ハ其ノ怨念ノ然ラシメシ所ナラントテ寶治元年(1247)四月大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建テ其院ノ尊霊ヲ勧請シ奉リ順徳院及ビ護持僧長賢ヲ合祀セラル長賢ハ承久ノ後官軍ニ属シテ奮戦後捕ハレテ陸奥ニ謫セラレシ者ト云フ今宮ハ又新宮ト書ス」【1239年に、鎌倉の街中の方々で喧嘩(けんか)や争いごとがあり、とくに5月25日には大騒動が起りました。この日には、隠岐(おき)の島に流されていた天皇の後鳥羽院(ごとばいん)が亡くなったので、これはその恨(うら)みが原因だろうということで、1247年4月に、大臣山の西の麓(ふもと)に神社を建てて、後鳥羽院の霊(れい)と、さらに順徳院と長賢の霊もあわせて祭りました。 これを今宮といい、新宮とも書きます。】改修前の「新宮神社」の姿をネットから。思いの外、小さな神社なのであった。 【http://www.komainu.org/kanagawa/kamakurasi/Shinguu/singu.html】よりそして「新宮神社」を後にして再び県道21号線に向かうと左手にあったのが「鶴岡八幡宮 参拝者専用駐車場」。観光用の大型バスの駐車場のようであったが、やはりコロナの影響下で1台も観光バスの姿はなかったのであった。県道21号線に戻り左に進むと、巨大な石碑が大型観光バス駐車場の前の道路の反対側にあった。入口の石碑には「曹洞宗高祖 道元禪師顕彰碑」と刻まれていた。道を渡り石碑の正面に。曹洞宗の開祖、道元は北条時頼に招かれ鎌倉において約半年の教化を行ったと。この史跡は道元禅師と鎌倉教化を顕彰して平成14年3月に立てられたものと。石碑には「只管打座(しかんたざ)」の文字が刻まれていた。余念を交えず、ただひたすら座禅すること。仏教、特に禅宗の語。「只管(しかん)」はひたすら、ただ一筋に一つのことに専念すること。「只」は「祇」とも書く と。「打坐(たざ)」は座ること、座禅をすること。「打」は助字 と。そして右手には長文の説明が書かれた石碑が。「曹洞宗高祖 永平道元禅師七百五十回大遠忌に値り、我等遠孫今茲に心を一にして、禅師鎌倉行化の事蹟を些か詳らかにし、その恩澤に報いんとする。高祖越前入山後五年目の宝治元年(一二四七)八月三日、時に禅師四十八歳、永平寺開基大檀那波多野義重公(越前志比庄の地頭、京都六波羅探題評定衆)より鎌倉下向の懇請黙し難く、公の先君鎌倉幕府三代将軍源実朝公供養の為同年十一月十五日奉修せる鶴岡八幡宮放生会の彿縁を期してか、永平寺叢林を初めて離れ、漸くのこととして鎌倉行化の途に着く。禅師がその師天童如浄禅師の遺誡を固く守り、権門に近づくことを極力厭い能くよく留意し、「只管打坐」の法燈を行持されたことを拝するとき、この行化は必ずしも心に添うものではなかったと推察される。然し、翌宝治二年三月十三日、永平寺帰山までの凡そ半年余、その波多野公の邸を始め名越白衣舎等鎌倉近在の諸処に在って、執権北条時頼公並びに妻室など、道俗諸緑の求めに応じ、説法授戒等の化導を為し正伝の彿法を弘められたと伝えられる。以後一生不離叢林の志を益々強め、世寿五十四歳を以て遷化されるまで、永平寺に在って門弟等を教化示誨された行實等に触れるとき、感慨深いものを覚えるのは、我等法孫のみであろうか。尚、時下って室町時代五山僧の記したものの中に、執政に日々懊悩する時頼公に対して、禅師が大政奉還出家入道を淡々と提言されたと見い出されることは、禅師の彿法中心第一の立場を物語って余りあろう。終りに、禅師鎌倉滞在中に詠じられたと伝わる和歌を刻し、報恩の丹心を表す。 大本山永平寺監院 南澤道人 撰維時 平成十四壬午平年三月吉辰謹拝建之」更に進むと左手には朱の鳥居があり、その先は鎌倉八幡宮内の境内にある「丸山稲荷社」横に出る参道であった。「鶴岡八幡宮」碑。右手に立派な「手水舎」。石段を上がると鎌倉八幡宮の上宮の横に出るのであったがここはパスして直進。右手に折れ、雪の下二丁目の住宅街にある狭い坂道を上って行った。「ここは駐車禁止(無余地)です。」との表示板があった。久しぶりに「無余地」の言葉を見たのでシャッターを。駐車禁止の標識もなく、法令で定められている駐車禁止場所でない場所であっても車の右側に3.5m以上の余地がなければ駐車してはいけない、という規定があるのだ。よってこの道は駐車禁止の標識は設置されていないが、道幅が狭いため、車を駐車すると3.5m以上の余地がなくなるので、ここは自動的に駐車禁止エリアであるのだ。私の軽自動車の幅は約1.5mであるので6m以上の道幅がない場所には、駐車禁止標識の有無に関わらず駐車は出来ないのである、これからも、この法規は忘れてはならないのであった。150m程進むと前方左手にあったのが先程の「巨福呂坂送水管路ずい道」の出口なのであった。この「ずい道」の長さは200m程度と思われたのであった。「ずい道」の中をこちらからも覗く。「巨福呂坂洞門(こぶくろだにどうもん)」側からの光が確認できたのであった。そして、更に右手の坂道を上っていくと左手に木鳥居があったが、帰路に立ち寄ることとしさらに直進した。「青梅聖天社社殿」の直下にあたる巨福呂坂に面している路端の草むらの中には「巨福呂坂庚申塚」があった。鎌倉から遠方への道であったことを物語る庚申塔や道祖神。現在ではこれが唯一の古道の証明であろうか。左に「駒型庚申塔」上辺に「金剛童子」を表す種子(しゅじ:仏や菩薩を表す梵語)をつけ、中央に「青面金剛」と刻む。天保14年(1843)の銘あり。右には「猿田彦大神碑」。左に「大国立大神」(明治13年(1880年)銘)。中央に「道祖神碑(嘉永4年(1851年)銘)」も。右側に「百番供養塔」。石仏は観音像だ。百番供養塔は西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所を巡礼してきた人達が記念に建てたもので、江戸時代後期に全国に広まっった。村の体の弱い人やお年寄り達が地元にある百番供養塔で巡礼をしたと伝えられている。そしてこの先が「旧巨福呂坂切通し」👈詳細リンク。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた大きな理由は、南は海に、北東西は山に囲まれ、敵の侵入を防ぎやすい地形だったからと言われている。そこで物資運搬にために山などと切り開いて造った道が「切通し(きりとおし)」。中でも「亀ヶ谷坂切通し」「化粧坂切通し」「巨福呂坂切通し」「大仏切通切通し」「極楽寺切通し」「朝夷奈切通」「名越切通し」は鎌倉七口と呼ばれ、鎌倉と外部を結ぶ特に重要な要路として存在したのだ。明治31年(1898年)に新道を拓いた折りに巨福呂洞門の上にあった切通部分は失われ、ここ聖天坂の部分だけが残っているのだと。よってこの先は行き止まりになっていると。雪ノ下から山ノ内へ抜ける道にあり、常陸・奥州への交通路となっていた。新田義貞が鎌倉に攻め入る際には、堀ロ貞光を大将とする軍がここから鎌倉に攻め入ったのだと。「巨福呂坂切通」の地図をネットから。現在の巨福呂坂洞門を過ぎて神奈川県立近代美術館鎌倉別館の前を通過し進むと左手に八幡宮の自動車お祓い所が見える。この先の右手の駐車場わきの小路に入る。この道が旧道の巨福呂坂切通しの道である。駐車場わきの舗装された道を100mほど上ると、道は二手に別れる。左は水道送水管施設であり、右手の道を進む。そこからすぐの左手に、道祖神・石仏群があるが貴重なもの。その手前左に古びた石段があり、登ったところに双身歓喜天(そうしんかんぎてん)を本尊に祀る青梅聖天(おうめしょうてん)があった。階段の上り口に「大聖歓喜天」と表示する説明板があった。旧道巨福呂坂道はこの先で私有地になり、行き止まりになる。通りぬけることはできなかった。江戸時代には円応寺の山門の前を通って建長寺門前に至るはずであるから、現在のトンネル(上は開いている)に切り取られてしまったのであろう。【http://amigokamakura.sakura.ne.jp/03-michi-pas/m5-kobukuro-pas.html】より引き返して「青梅聖天社(おうめせいてんしゃ)」を訪ねた。「青梅聖天社双身歓喜天(そうしんかんぎてん)(鎌倉市指定文化財南北朝時代作)を本尊に祀ります。当歓喜天様は、「新編鎌倉志」巻之三に「鎌倉ノ将軍一日疾劇シフシテ、時ナラズ青梅ヲ望マル、諸所ヲ尋ヌルニ、此宮ノ前ニ俄ニ青梅ノル、是ヲ将軍ニ奉テ、終ニ疾癒ヌ」とあり、青梅聖天と呼ばれました。歓喜大は大聖歓喜天とも称され、仏教を守護し邪悪を除去し、諸願を成就させてくれる尊体として信仰されてきました。ご本尊は男沖と女神が「相抱き正立」して顔をみつめあう姿に造られた珍しい像で、歓喜天信仰を考える上でも貴重な文化財です。一般には夫婦和合の利益あり、などとも説かれておりますが、史跡旧巨福呂坂頂上ちかくに祀られたのは、足柄峠の「聖天堂」と同様に、峠を往来する人びとの安全を願ってのことでした。」苔生した石段を足元に注意しながら上って行った。石段を上り終えると右側にあったのが小さな「御堂」。近くには別の社もあったが、先代の社殿なのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.11
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「建長寺」の隣りにあった「点心庵」。ここは「建長寺」の境内であるようだ。「鎌倉はちみつ」「弊店では自社で養蜂許可を取り、鎌倉養蜂場として養蜂をしています。建長寺様の山内、一般の方は入山できない場所で、鎌倉の自然が産みだした蜂蜜を採蜜させて頂いています。日本で流通している蜂蜜の中でも、国産ハチミツは5%ほどしかありません。当店の蜂蜜は無添加・非加熱・抗生物質不使用。鎌倉カレーや、鎌倉プリンなど自家製スイーツに使用しています。」と店のページから。我が趣味の養蜂の蜂蜜も上に同じく無添加・非加熱・抗生物質不使用そして超濃厚。そして道路の擁壁には「円応寺(閻魔寺)鎌倉十三仏第五番、地蔵尊第八番霊場札所 ⬅50m先山門」。前方に「巨福呂坂洞門(こぶくろざかどうもん)」が見えて来た。そして「円応寺【閻魔堂)閻魔大王像(国重要文化財)初め十王像などが拝観できます。拝観料 200円」と。「南無地蔵菩薩」の赤地に白抜きの幟が並ぶ石段を山門に向かって上る。「山門」前にあった石碑には「わらひ子育だて 閻魔王」と刻まれていた。「円応寺人が死後に冥界で出会う、閻魔大王を中心とした「十王」をまつるお寺です。閻魔大王とは、インド最古の神話「リグ・ベーダー」における「ヤマ」のことです。「ヤマ」は人間として最初に生まれ、死後には楽園の主となりました。インドの「ヤマ」が仏教とともに中国に伝わり「エンマ」となり、道教の影響により閻魔大王を中心とした「十王思想」となりました。「十王思想」は室町時代に「十三仏信仰」となり、日本仏教独自の宗派を越えた葬儀・法要の元となっています。円応寺の「十王」は鎌倉時代に中国から伝わった「十王思想」を彫像したものです。本尊の「木造閻魔王坐像」は運慶の作と伝わり国指定重要文化財です。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:新居山円応寺(あらいさんえんのうじ) ● 建 立:建長2年(1250) ● 開 基:智覚禅師」鎌倉市山ノ内1543。「本堂前」にあった「常香炉」。右手の「鐘楼」の前に「逆修碑」と「石仏」が。「逆修(ぎゃくしゅう、ぎゃくしゅ、げきしゅ)」とはその生前において、死後の菩提のためにと善根功徳を行うことを指していうと。すなわち、その生前に経典を読諦し、または灯明をあげ、または飯米を仏・法・僧の三法に供養するなどをはじめとして、大なるものは寺・塔を建立することなどがそれであるとのこと。逆修の「逆」は予めの意味で、あらかじめ善根を修めるというもので、死後追善をしてもらうのに比べ、はるかにその功徳がまさるのだという。閻魔王にあてられた仏が地蔵菩薩なので、地蔵様がいくつかあった。梵鐘。そして「本堂」へ。臨済禅で建長寺の末寺であると。前身は材木座五丁目十一の十七にあった荒居閻魔堂であると。元禄十六年(1703)十一月二十ニ日、地震と津波に遭って倒壊した為、直後に現在地に移転再興されたようだ。本尊の閻魔大王座像は、鎌倉時代の大仏師・運慶の作と伝わる。入り口には「五色幕(ごしきまく)」がかかっていた。「「五色幕」とは、仏教の寺院の壁などに掛けられている5つの色の幕のこと。配色には差異があるが、一つの例として白・青・黄・赤・黒などがある。五色はインド哲学の五大や中国の五行思想に基づくとされる。ただし青と黒は現在使われる青色(ブルー)や黒色(ブラック)ではなく、伝統的表現の緑(翠)と青(群青)で表される。仏教の寺院であることを表し、釈迦如来の説いた教えを広く宣べて流布させることを表している。寺院の落慶時の法要などや、灌仏会(花まつり)などの年間の大祭で寺院の壁面や堂内の入り口にこの五色幕が掛けられる。真言宗などでは五智如来の色とも言われ、5つの智慧を表す色として知られる。」とウィキペディアより。「本堂内正面」。仏師・運慶の作といわれる国指定重要文化財「閻魔大王坐像」を正面に、そして左右には初江王・宋帝王などの「十王像」が並ぶ。「本堂内右側」。「本堂内右側」を別の角度から。「本堂内左側」。本堂内右側の手前から「智覚禅師像」。「智覚禅師像智覚禅師(道海和尚)は円応寺の初代住職です。建長寺の住職は代々中国からの渡来僧が勤めていました。智覚禅師は日本人として建長寺九番目の住職を勤めています。円応寺の他、山城(京都)の十刹、広覚寺・備前(岡山県)の諸山、吉祥寺の初代住職と成りました。その他、東勝寺、善興寺等の住職をつとめています。道海和尚は延慶二年(1309年)正月八日に亡くなりました。その後、日本の朝廷より「智覚禅師」と言う権威ある名前を頂きました。」「奪衣婆像」。「奪衣婆像『国指定重要文化財』奪衣婆とは亡者(もうじゃ)がニ・七日(死後十四日)に「三途(さんず)の川」を渡った所にいる「おばあさん(そうずかのばば)」です。奪衣婆は三途の川を渡った亡者の着ている物が濡(ぬれ)ていると、その濡れた衣を剥ぎ取ります。なぜならば、三途の川は亡者が生前に犯した罪の軽重によって衣を濡らすからです。」「三途の川(さんずのかわ)奈河津(なかつ)、葬頭河(そうずか)とも言う。亡者がニ・七日(十四日目)に渡る川、途(みち)が三つあるので三途の川と言います。一つ目は浅瀬を、亡者が着ている衣を濡らさぬ様に、裾をめくって石を伝って渡ります。二つ目は深い淵を泳ぐなりして渡って行きます。渡った所に脱衣婆がいます。脱衣婆は亡者の着る濡れた衣をはぎ取り、懸衣翁(けんえおう)に渡します。懸衣翁は衣を衣領樹(えりょうじゅ)の枝に掛(かけ)、亡者が生前に犯した罪の軽重を計ります。葬儀と初七日法要を勤めた亡者は、三つ目は橋の上を、お釈迦様に手を引いて頂き「天上界」へと向かって行きます。」「秦広王(しんこうおう)」。「秦広王初七日に出会う王不動明王の化身刹生の罪を問いただす。人がこの世に生まれ落ちると同時に、その人の左右の肩に「倶生神」が一神ずづつ宿ります。一神はその人の悪しき事のみを一生涯、監視しています。秦広王は倶生神の報告にもとずき、亡者の生前の行いを全て取り調べ、右手に持つ筆で帳面に記録します。この帳面は次の初江王より順次「閻魔大王」へと引継がれます。故にこの帳面の事を『閻魔帳』というのです。亡者は秦広王の取り調べの結果により三途の川の何処を渡るかが決定する。」「宋帝王(そうていおう)」「宋帝王三・七日(二十一日)目に出会う王文殊菩薩の化身。邪婬の罪を問いただす「三途の河」を渡った岸の上に宋帝王の官庁はあります。官庁の前には恐ろしい化け猫が群がり、大蛇が列をなして出てきます。生前「邪婬の罪」を犯した亡者は、化け猫に身体を割(さ)き破(やぶ)られます。大蛇は「邪婬の罪」を犯した亡者の身体に巻き付け、縛(しばり)りあげて身体じゅうの骨を砕きます。「邪婬の罪」を犯した亡者は、宋帝王によって「衆合地獄」に墜されます。」「五官王」。「五官王四・七日(二十八日)に出会う普賢菩薩の化身 身体と口で犯す七つの罪を問う五官王の官庁の左には、「秤量舎」右には「勘録舎」があります。亡者は先ず「秤量舎」に至り、「五官(目、耳、鼻、舌、皮膚)で犯した罪の軽重を秤(はかり)に掛けて計ります。秤は七つ有り、亡者は先ず「妄語」(もうご)の罪を問われます。亡者は順次「飲酒の罪」・「他の過失・罪過を言い募る罪」・「自分を褒め他人を謗る罪」・「他に施す事を惜しむ罪」・「怒る罪」・「仏法僧の三宝を誹謗し貶める罪」それぞれの「罪」をそれぞれの「秤」で計ります。」そして中央に「閻魔大王」。鎌倉時代、寄木造。像高187.5㎝頭部は鎌倉時代のものであるが、その他は江戸時代のものと考えられている。頭部がやや大振りで誇張された忿怒は力強いもの。円応寺で赤ちゃんの名をつけてもらうと丈夫に育つということから「子育て閻魔」とも呼ばれている。この本尊の閻魔大王座像は、仏師「運慶」作と伝わる。運慶は頓死をして閻魔大王の前に引き出されましたが、閻魔様の「汝は生前の慳貪心(物惜しみし、欲深いこと)の罪により、地獄へ落ちるべきところであるが、もし汝が我が姿を彫像し、その像を見た人々が悪行をなさず、善縁に趣くのであれば、汝を娑婆に戻してやろう。」といわれ、現世に生き返された運慶が彫刻したと言われていると。 運慶は生き返った事を喜び、笑いながら彫像したため閻魔様のお顔も笑っているように見えることから、古来「笑い閻魔」と呼ばれていると。「閻魔大王五・七日に出会う地蔵菩薩の化身 国指定重要文化財仏師・「運慶」作と伝わる「閻魔大王」は冥界の最高の王、総司令です。それまでの「四王」の取り調べを記録した「闇魔帳」の他、「倶生神」「人頭杖」「浄◯梨の鏡」によって亡者の生前の「行い」を取り調べます。「閻魔大王」はその取り調べの結果、亡者が次に「六道」(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の何処に輪廻転生するかを決定します。円応寺の閻魔大王は、現在、鎌倉十三仏霊場の第五番・「地蔵菩薩」として近在の信仰を集めています。」「閻魔大王の罪「閻魔大王」は亡者の生前の「行い」を取り調べます。「罪」ある者は地獄に落とし「苦しみ」を与えます。亡者に苦しみを与える事は「閻魔大王」の罪になります。閻魔大王はその罪故、日に三度、大王の前に大銅钁(だいどうかく)が忽然と現れます。するとそれまで従っていた獄卒や亡者達が大王を捕らえ、熱く焼けた鉄板の上に伏させます。獄卒や亡者達は鉄の鉤(かぎ)で大王の口をこじ開けドロドロに溶けた銅を口中に注ぎます。大王の舌や唇は元より、喉から腸に至るまでだだれきってしまいます。その苦しみは亡者が地獄で受けるどの様な苦しみよりも苦しいと言はれています。」「閻魔大王の願い閻魔大王が全ての亡者を、「天上界」に送り、亡者に苦しみを与える事がなければ、大王自身も日に三度の苦しみを得る事はありません。その事は大王自身もよく分かっています。しかし亡者が行った生前の「悪事」を知ってしまうと、どうしても許す事が出来ないのです。その為多くの亡者を地獄に落とし苦しみを与えてしまいます。是は閻魔大王の「業(ごう)」であり逃れる事はできません。「閻魔大王の願い」は全ての人々が「悪事」を成さず「良い行い」だけを行う事です。全ての人々が「悪事」を行わなければ、閻魔大王も亡者を地獄に落とさずにすみます。「閻魔大王」も日に三度の苦しみを味わう事はありません。是が閻魔大王の願いです」「変成王(へんじょうおう)」。「変成王六・七日(四十ニ日)弥勒菩薩の化身「変成王」の取り調べの結果、六道(地獄、飢餓、畜生、修羅、人間、天上)それぞれの内容が決まります。地獄界にには八大地獄(無間阿鼻地獄・大焦熱地獄・焦熱地獄・大叫喚地獄・叫喚地獄・衆合地獄・黒縄地獄・等活地獄)があります。人間界においても平和な国・争っている国、豊かな国・貧しい国があります。変成王は亡者が何処に輪廻転生するか場所を決定します。「泰山王」。「泰山王七・七日(四十九日) 薬師如来の化身舌の(二枚舌の罪)を問う。七・七日(四十九日)までの間は、中有(ちゅうう)又は中陰(ちゅういん)と呼ばれています。亡者の霊魂は「あの世」と「この子」の間を旅しています。七日毎にそれぞれの「王」の庁舎に行き取り調べを受けます。その七日の取り調べは全て亡者の生前の「行いの 善い行い、悪い行い」を取り調べるのです。泰山王の取り調べの結果により、亡者は次に輪廻転生する時、男女どちらに生まれるか、またそれぞれの寿命が決定します」。「平等王(びょうどうおう)「平等王百ヶ日に出会う王 観世音菩薩の化身 遺族の貪欲の罪を戎める。七・七日の「太山王」までは亡者の生前の「行い」(おこない)を取り調べる事により「六道」の何処にどの様な姿で輪廻転生するかが決定します。「平等王」(百ヶ日)からは」、残された遺族の「行い」(法要)によって亡者と遺族の「来世の安楽」を願う事が出来ます。「百ヶ日の法要」を行う遺族はこの日一日中「貪(むさぼり)りの心」を起こさぬ様に、亡者の供養をすれば、亡者のみならず自らも「来世」天上界に行く事が出来ます。」「都市王(としおう)」。「都市王一周忌に出会う王 勢至菩薩の化身生前の罪の重い亡者は、地獄に落とされます。しかし残された遺族が集まり「一周忌」の法要を行えば亡者の罪は許されます。では、「一周忌」の法要はどの様に行えばよいのでしょうか。まず、いぞくはこの日「嗔恚」の罪を犯してはいけません。「嗔恚」(シンニ)とは「怒(イカリ)の心」の事です。残された遺族がこの日「怒りの心」を起こさず、僧侶に頼んで「妙法蓮華経」を読んでもらうか、又は「阿弥陀仏」のお像を造る事が出来れば、亡者は地獄の苦しみから開放されるのです。」「五道転輪王(ごどおてんりんおう)」。「五道転輪王三回忌に出会う王 阿弥陀如来の化身ビッ今日の目的は「涅槃(悟りの世界)」に入る事です。亡者が「六道」の中の「天上界」に転生出来たとしても、亡者は「天上界」に於いて「悪事」を成し地獄に落ちる事があると言はれています。「西遊記」の話は「孫悟空や「諸八戎」「沙悟浄」が「天上界」に於いて「悪事」を行い「贖罪(しょくざい)の為「玄奘三蔵」を守り天竺に「仏典」を求めにいったと言う物語です。「三回忌」の法要の目的は亡者が「涅槃」に至ることです。」以上、「十王」を纏めると「十王」は、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の裁判官的な尊格。人間を初めとする全ての衆生は、よほどの善人やよほどの悪人でない限り、没後に中陰と呼ばれる存在となり、初七日 - 七七日(四十九日)及び百か日、一周忌、三回忌・・には、順次十王の裁きを受けることとなる、という信仰である。生前に「十王」を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰もあり、それを「預修」と呼んでいた。「十王」は死者の罪の多寡に鑑み、地獄へ送ったり、六道への輪廻を司るなどの職掌を持つため、畏怖の対象となったのだと。【https://chisan.or.jp/wp-content/uploads/2019/11/user-201512221216_1.png】より以前に戴いた鎌倉十三仏霊場第五番 「円王寺 地蔵菩薩」の御朱印です。終わりに「地蔵菩薩」。お顔をズームで。「地蔵菩薩鎌倉二十四地蔵 大八番 詫言地蔵尊閻魔大王は生前に罪を犯し、懺悔する事の無い亡者がいくら言い訳をしても許さず地獄に落とします。しかし詫言地蔵尊に予め「お導き」をお願いしておくと、本人に代わってお地蔵様が閻魔大王に「詫び言」を言って預けます。閻魔大王もお地蔵様の「詫び言」は聞き入れてくださいます。「地蔵菩薩半跏像」玉眼・寄木造り(総高155.3センチ・像高74.4センチ)鎌倉市教育委員会 偏の「鎌倉市文化財総合目録」によると「室町時代も早い頃の作品であろう。」と記載されております。」以前に戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第八番 「円王寺 詫言地蔵尊」の御朱印です。「円応寺」の「墓地」を見る。再び「鐘楼」を別の場所から。その横に石碑群が。参道脇にあったのは「句碑」であろうか。私にもいつかは渡る「三途の川」そして出会うであろう「十王」について学び「円応寺(閻魔寺)」を後にしたのであった。この寺も、最後まで「本堂」を独り占めし、ブログ取材、そしてゆっくりと学ぶことができたのであった。合掌。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.10
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日はGWの終わった5月6日(木)、「古都「鎌倉」を巡る」を開始してから4回目の散策に向かったのであった。この日も小田急線、JR東海道線、JR横須賀線を利用して50分弱で「北鎌倉駅」に到着。「北鎌倉駅」改札からは多くの北鎌倉女子学園中学校・高等学校の生徒が校舎へと。バス通りの街道から白鷺池(びゃくろち)の中を真っすぐに「円覚寺」の「総門」に向かう参道の両側には横須賀線や県道21号が通って旧形を損じ、方形の広場は痕跡をとどめないが、前庭がありその先に第一円覚寺踏切がある。右側には「大本山圓覺寺」と刻まれた石碑。左側には歴史を感じさせる五重塔。その先に「前庭」の「白鷺池(びゃくろち)」(左)。(しらさぎいけ)ではなく(びゃくろち)であると。「白鷺池」の名前は、円覚寺開山無学祖元が宋より鎌倉入りした際に、鶴岡八幡宮の神使がシラサギに身を変えて案内したという伝承に由来するとのこと。白鷺池(びゃくろち)(右)。白鷺池はその半分近くが埋められてしまったが、春にはサクラ、秋には紅葉など四季折々の自然の情景が池の周囲に広がるのだ。そして前方にあるのが「第一円覚寺踏切」、踏切を越えると「円覚寺」の「総門」への石段が見えた。石橋「降魔橋」を渡り、バス通りの街道・県道21号線方向を振り返る。「白鷺池(びゃくろち)」と称する左右相対の方形の池が広がり、両池にかかる石橋「降魔橋」が現存しているのだ。そして新緑の輝く「円覚寺」の「総門」前。「総門」への石段を上って行く。「総門」から境内を望む。境内は「前回の散策」👈リンク で制覇済みであるので、この日はここ迄で引き返す。「総門」から「第一円覚寺踏切」方向を見る。石段を下りて再び。「北鎌倉駅」が右手に。「これからだ みどりの風よ これからださえずる鳥よ これからだみちくる潮よ これからだもえでる葦よ これからだわたしの生よ これからだ」と坂村眞民の詩が。「北鎌倉駅駅前」交差点にある古刹案内。県道に戻り、建長寺に徒歩で向かおうとしたが。右手に江ノ電バスの姿が見えたので急ぎ足でバス停に戻り「北鎌倉駅」バス停からバスで建長寺に向かったのであった。そして「建長寺」でバスを降りる。最初に訪ねようとしたのが、前回に訪ねなかったので事前にチェックしておいた下の地図の中央上の緑の文字の「安倍清明大神」碑であったが・・・。しかし、チェック場所には石碑の姿はなかったのであった。そして次に、これも前回行き漏らした「華蔵院(けぞういん)」へと向かう。左手に「亀ケ谷坂切通」への坂道が見えた。こちらは先日訪ねた「長寿寺」の「山門」であったが、この日は木曜日で開門していなかった。そして県道を挟んで「長寿寺」の向かい側にある小路を直進すると狭い「華蔵院」への石段があり上って行った。石段脇にあったのが「只今境内整備中 華蔵院」と。境内入口にはロープが張られ立ち入り禁止となっていた。「華蔵院」は、第六十世伯英徳俊(はくえいとくしゅん)の塔所。開山当初は、龍峰院の向かいにあったといわれている。のちに室町幕府の祈願所となった保寧寺跡に移された。「華蔵院」は、現在、雑木を伐採し 境内を造成整備している最中で、広い敷地には仏旗が掲げられたご本堂があるだけで殺伐としていたのであった。「「華蔵院」は、建長寺六十世伯英徳俊(はくえいとくしゅん)の塔所で、元々は龍峰院参道石段の右手石垣上にある華厳塔付近にあったのですが、後に保寧寺跡とされる現在の場所に移転しました。伯英徳俊は武蔵の人で、宝珠院開山の了堂素安に師事した後、渡元し永和二年(1376年)に帰国しました。その後、臨済宗僧侶としての王道を行く栄達を遂げ、建長寺西来庵塔主を皮切りに、浄妙寺住持、円覚寺五十世、建長寺六十世、京都・天龍寺住持、京都・南禅寺五十三世を務め上げました。御本尊は、ブータンより招来した釈迦如来坐像で、日本の仏像よりスマートな造りが特徴的です。」とネットから。更に先日訪ねた「大六天社」を再び訪ねた。左にあったのが「社殿」であろうか?板塀で完全に閉じられていたが。「「第六天」の由来建長寺の四方の鎮守には、中央五大尊と八幡(東)熊野(北)・子神(西)・第六天(南)があり、第六天は上町に鎮座する。延宝二年(1674)の徳川光圀『鎌倉日記』に「円覚寺ヲ出テ南行シテ、第六天 森ヲ見ルとあり、また、延宝六年(1678)の建長寺境内図(伝徳川光圀寄進)には「四方鎮守第六天」と記されている。社殿に納められた建長寺第二一八世真浄元苗(しんじょうげんびょう)筆の天宝二年(1831)の棟札(むなふだ)によって、宝永四年(1707)に建立した社殿の破損が著しいため、村人が願い出て再建したことが知られている。社殿の形式は一間社流造(いっけんやしろながしつくり)で、幕末社殿としては古風を尊重した造りといえよう。社殿内には第六天像が中心に祀られ、前列には持国天(じこく)・増長天(ぞうちょう)・広目天(こうもく)・多聞天(たもん)の四天王像が安置されている。いずれも江戸時代の作で、小像ながらも彫技は丁寧で量感に満ちた佳品である。第六天は仏教では他化(たけ)自在と称し、魔王の如き力を持つといわれ、神道では第六天神、すなわち、第六番目の神と認識されている。神奈川県内には第六天を祀る社が一八○社以上あり、厄病除けの神や方位神として信仰されている。現在、建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天だけで、建長寺史研究上の重要な資料であるばかりでなく、地域にとっても貴重な文化遺産として永く後世に伝えたい。また、第六天は、上町の氏神でもあり、例祭は毎年七月十五日から二十二日にかけて行われる。」を再びの掲載であるが初めてアクセスしていただいた方に。閉ざされた石段の右側には「青面金剛塔」と「庚申塔」があった。上辺左右に日月、中央に合掌六手の青面金剛像を刻んでいた。下に正面を向いた三猿が彫られている。享保三年(1718)の銘が左に。そしてここで「安部清明大神」と刻まれた石碑を発見したのであった。真実は不明であるが、ひょっとして先程訪ねた場所から、この場所に移したのではないのだろうか?と思ったのであったが。しかし、ネットで調べてみたがその様な記述は見つからなかったのであったが。そして次に訪ねたのが「禅居院(ぜんきょいん)」。石段の上にあった「山門」。居院は、第二十二世清拙正澄(せいせつしょうちょう・大鑑禅師)の塔所。もともとは、建長寺の一塔頭だが、同寺総門の向かい側に位置している。本尊は聖観音菩薩。正澄は、中国臨済宗の僧で、十四代執権北条高時の招きで来日した。浄智寺、円覚寺、建仁寺、南禅寺にも住持している。亡くなる前に筆をとった遺偈(ゆいげ)は国宝。遺偈とは、禅僧が末期に後人のために残す辞世の偈頌(げじゅ)のことで、遺誡偈頌(ゆいかいげじゅ)の略であると。益々判らなくなって来た!!本尊聖観音半跏像は鎌倉時代の作。秘仏に摩利支天坐像が安置され、正澄が日本に来る際に、中国皇帝より託されたものと伝えられている。現在は一般公開されていないようであった。扁額は「眞堂」ではないかと先生から。「山門」前左の地蔵尊。四方竹を背景にお顔をズームで。「山門」の横の板塀の隙間から境内を。「山門」の先は石段が続いているのであった。その上に客殿玄関らしきものがわずかに見えた。「客殿」、「庫裡」とその奥に「本堂」の写真をネットから。 【https://www.ishichou.co.jp/search/detail/id/270】より「禅居院 本堂」。宗派 臨済宗建長寺派山号寺号 石屏山禅居院(せきびょうざんぜんきょいん)創建 1329~1331(元徳年間)開山 清拙正澄開基 小笠原貞宗本尊 聖観音菩薩。 【https://www.e-ohaka.com/detail/id1446110464-048304.html】より「禅居院 本堂」の「内陣」。 【https://www.aiemu.co.jp/graveyard/temple_detail.php?tid=191】から正面から。 【https://www.aiemu.co.jp/graveyard/temple_detail.php?tid=191】からそして山門の横にあったた建物は寺務所であろうか。扁額「梅州庵」。建長寺住持を務めた「中巖円月(ちゅうがんえんげつ)」の塔所であった旧・梅州庵の名を引き継いだものと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.09
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