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『鎌倉散策 目次』👈リンク「正続院」を後にして、さらに円覚寺参道を奥に進む。左手にあったのが「佛日庵」。入口から「佛日庵」の「本堂」を見る。「佛日庵」は、「円覚寺」の開基 北条時宗公を祀る塔頭寺院。時宗公はこの場所に小さな庵をむすび、禅の修業を行ったと言われている。1284年に時宗公が亡くなると、間もなく廟所として創建された。北条氏滅亡後は次第に衰微したが、天文年間(1532~55)に鶴隠周音(かくいんしゅういん)が廟所の南に玉泉軒を営み、そこに居した。北条氏の末裔を称し鎌倉を治下に収めた後北条氏の庇護を受けた鶴隠周音は、玉泉軒を佛日庵と改称し、円覚寺の塔頭として中興した。川端康成の小説『千羽鶴』の舞台になったことでも知られる茶室 烟足軒(えんそくけん)も、もともとは常に茶を嗜んだという鶴隠周音が構えたもの。右手奥に「開基廟」が見えた。その先に「開基廟 山門」。「贈従一位北條時宗公御廟所」碑。「山門」から「開基廟」を見る。「開基廟」の前、両側には緋毛繊の縁台が置かれていた。ズームして。「開基廟圓覚寺大檀那である北条時宗・貞時・高時をお祀りしてあります。廟所とは、石碑を建てその上にお木像を祀るお堂を建てたものが正式のお墓で、国に特に業績のあった人にのみ許されたものです。時宗公は、一二八四年四月四日に亡くなられています。つまりは圓覚寺が建立されてから二年後のことです。時宗公が亡くなられた後に開基廟が建立されたようですが、現在の開基廟は江戸時代一八一一年に改築されたものとされています。新編相模風土記によれば、お堂の下に各遺骨を納めた石櫃があるとの伝えが記されています。また、幾度の困難な戦災をくぐり抜け、ずば抜けた才能で幕府をまとめあげていたことから、学問の神・開運の神と崇められていました。」「開基廟」の内部には木造の「北条時宗像」が確認できた。出家した後なので剃髪と。この木造の下には石の棺があるそうで、そこに時宗の遺骨が納められているのだと。元の来襲を食い止めた時宗、元の植民地計画から日本を護った英傑。但し、この元の襲来こそが北条家滅亡を生んだのかもしれない。早世で円覚寺創建から僅か2年で亡くなったと。元寇からは3年目。更にズームして。貞時と高時の木像は、時宗の左側に並んであるとネットから。 【https://ameblo.jp/2055masumi/entry-12214788215.html】より「開基廟」の「山門」から「本堂」を見る。以前に戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第十四番「佛日庵」の「延命地蔵尊」の御朱印です。以前に戴いた鎌倉三十三観音霊場第三十三番「佛日庵」の「十一面観世音」の御朱印です。更に最奥に向けて坂を上って行った。右手にはシャガ(射干、著莪、胡蝶花)の群生が。佛日庵の向かい側にあったのが「白鹿洞(びゃくろくどう)」。「白鹿洞」碑。「白鹿洞円覚寺開堂の日、開山無学祖元禅師の説法を聴こうとして集まった多くの人々と共に、この洞穴より白鹿が群れをなし、禅師の説法を聴いたという。大衆は大いに驚異し、この奇瑞譚により山号を「瑞鹿山(ずいろくさん)」と定めた。これはお釈迦さまが初めて説法をおこなった鹿野苑(ろくやおん)の嘉例に擬したという。寺号は「円覚興聖禅寺』というが興聖の号は開山国師ゆかりの地、径山の「興聖萬寿禅寺」に由第している。」この洞穴より白鹿が群れをなし出て来たのか。左手奥にあったのが「續燈庵(ぞくとうあん)」の「山門」。寺号標石「續燈庵」。「山門」。扁額は「萬冨山」。「山門」が開いていたので境内へ。正面に「本堂」入口。「本堂」。続燈庵(ぞくとうあん)は、第三十世大喜法忻(だいきほうきん・仏満禅師)の塔所。本尊は観音菩薩。室町幕府の引付方頭人の今川範国が法忻のために創建し、のちに今川氏親によって再建された。本尊の観音菩薩は、もと東慶寺に伝えられた像。法忻は、浄妙寺・浄智寺・円覚寺・建長寺のなどの住職も勤めている。「銅造仏応禅師骨壺」(夢窓国師の1327年(嘉暦2年)の銘:重要文化財)を所蔵する と。右手に「寺務所」。墓地と奥には「やぐら」が。休憩所か?そして最奥にあった「黄梅院(おうばいいん)」を訪ねた。掲示板には「発願発願に燃えているものはみな若い いつまでも年をとらないあの菩薩たちのように」と。「黄梅院北条時宗公の夫人、覚山尼が時宗公追善の為に建立北条時宗公の夫人、覚山尼が時宗公追善の為に建立した華厳塔の敷地に円覚寺第一五世夢想国師の塔所として建てられ、国師の門弟方外宏遠(ほうがいこうえん)が文和三年(一三五四)に開創した。後の応安元年(一三六八)、室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)が分骨され足利家の菩提所としての性格を帯びている。山号は「伝衣山」。 本堂には 本尊「千手観世音菩薩坐像」の他に「夢窓国師坐像」、室町期のものとされる銅像「千手観世音菩薩立像」、木造「聖観世音菩薩立像」がまつられている。」「山門」。扁額は「傅衣山」。木札「大本山円覚寺 百観音霊場 第二番札所 黄梅院」。左手に「本堂」が見えて来た。梅の古木に咲く白い花はセッコク(石斛)・長生蘭であろうか。岩の上や大木に着生して、花を咲かせる着生ラン。「黄梅院」の「本堂」。当初は夢窓疎石の塔所として建てられたが、足利将軍家の手厚い保護を受け、以来足利氏の菩提寺としての性格が強くなったとのこと。扁額「黄梅院」と書かれているのであろうか。「梅」の木偏は何処に?「黃乗◯」と私には・・・・。『先生』から木編を毎の下に持って来る「くずし字」であると。よってやはり「黄梅院」と書かれているのであろう。境内の「聖観世音菩薩像」。「愛は人の心を豊かに育む 献眼献腎なされし美しい心に思いを馳せ茲に聖観世音菩薩を奉安す 合掌」。近づいて。「献眼献腎供養塔」と。観音堂(武山堂)。武藤山治の寄進。「武山堂」碑。近づいて。扁額「聖観世音」。「聖観世音像」。安置されている「聖観世音像」は中国から請来したとされる。「武山堂」前から「本堂」を見る。朽ちた樹の切り株から彫り出した仏像が。「本堂」前から「山門」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉・円覚寺内の緑溢れる参道を奥に向かって進む。左手に石段、その先の両脇に石仏が。右手の石仏。錫杖(しゃくじょう)を持っているので「地蔵菩薩像」。左手の石仏。仏像の手の指の形・印相は、「禅定印」。境内にも様々な石仏が。奥には「やぐら」が。左手には古い建物が。ここにも塔頭があったのだろうか?しかし、案内板等はなく。更なる詳細は不明。そしてその前の参道の反対側が「法堂跡」。「法堂跡法堂とは禅宗寺院で住持が説法をする重要な場である。円覚寺法堂は北条高時公の時代、北条貞時公十三回忌にあたる元享三年(一三ニ三)に建立。「直指堂」と命名された。円覚寺が創建されてから約四十年後のことであった。鎌倉時代未期には山門、法堂はもちろんのこと、方丈・華厳塔・佛日庵なども揃い寺の諸建物がことごとく整えられた。法堂落成から応安七年(一三七四)の大火で全山が焼亡するまでの約五十年間が寺勢の最も繁栄した時期だったのである。」。「旧法堂跡地」。右手の「百観音霊場」の壁の角にあったのが「佛牙舎利塔道」と刻まれた石碑。これは「佛牙舎利塔道」、「正続院」への「道標」であろうが数箇所にあった。左手にあったのが「寿徳庵」への石段。寺号標石「寿徳庵(じゅとくあん)」。前方に「山門」が見えた。通路が開いていたので、行けるところまでと進む。「山門」。「南山」という篇額が掲げられていた。「山門」が開いていたので中に入らせてもらった。正面に「本堂」が見えた。「寿徳庵」は、円覚寺第150世・叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。墓地には中興の三浦道寸(義同)一族の墓がある。三浦道寸は1516年(永正13年)北条早雲により滅ぼされた。これにより三浦一族は400年の歴史に終止符を打ったのだ。山号:南山(なんざん)寿徳庵宗派:臨済宗・円覚寺派中興開基:三浦道寸本尊:聖観世音菩薩寺宝:木造月潭中円坐像扁額「寿徳庵」。墓地の奥には「やぐら」があった。「寺務所」であっただろうか。ここまでに訪ねて来た「円覚寺」の境内を見下ろす。朽ち果てた藁葺き屋根の建物の姿が見えた。「寿徳庵」を後にし、緑豊かな石段を下りて行く。前方に帰路に訪ねた「方丈書院」の「信徒会館(宗務本所)」の屋根が見えた。更に参道を奥に進む。左手の「やぐら」の中の石仏。秋の紅葉も見事なのである。そして右手に「方丈」の庭園が姿を現した。心字池のある美しい「方丈」の枯山水の庭園。秋にはこの様な紅葉の絶景が。 【https://4travel.jp/dm_shisetsu/11348207】より帰路に訪ねることに。左手に「大用国師塔所」の標石が立つ。「大用国師(誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)延享2年(1745年)〜文政3年(1820年))」は伊予国出身の臨済宗の僧・歌人で、無用道人と号した。香川景樹に和歌を学び、歌集「誠拙禅師集」がある。また、円覚寺仏日庵の東山周朝に師事してその法を継ぎ、天明3年(1783年)に円覚寺前堂首座に就任した。晩年は京都相国寺に移ったとされるが、塔所は円覚寺塔頭「正伝庵」なのだと。江戸時代後期、修行道場を再興するなど、それまで一時衰退していた円覚寺を再興した人物であると。ここが「正伝庵」への入口。門扉越しに「山門」を見る。扁額「正伝」。正伝庵(しょうでんあん)は、第二十四世明巌正因(みょうがんしょういん)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。1348年(貞和4年)、万寿寺(廃寺)内に創建された寿塔を、1354年(文和3年)、円覚寺に移した。正因は、円覚寺の国宝「洪鐘」の撰文をした西澗子曇(せいかんすどん)の弟子。南北朝期の「本尊宝冠釈迦如来像」と開祖「木造明巌正因坐像」(1365年(貞治4年)作 鎌倉国宝館に寄託)が安置され、木造明巌正因坐像は、2020年(令和2年)、国の重要文化財に指定された。禅の普及に努めた鈴木大拙が住まいしたことでも知られる と。「佛日庵墓地」への門扉は閉められていた。そして左手に「妙香池(みょうこうち)」。「妙香池」の上に見えているのは、国宝舎利殿がある塔頭「正続院」境内の「一撃亭」。「妙香池総門前の白鷺池と並び、円覚寺創定当初から知られた放生池である。建武ニ年( 1335 )頃の円覚寺境内図にすてに見られる。今回江戸時代初期の絵図に基づき、自然風の姿に戻し「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元した。」夢窓疎石の作庭であると。「虎頭岩」。波浪の浸食に模して造られているとのこと。数匹の亀の姿が。そして前方に「舎利殿」への道が見えて来た。「贈従一位北條時宗御廟所」碑と「国宝 舎利殿」案内板。「正続院」の「山門」・「修行道場入口門」に向かって進む。新緑のモミジ葉が青空に映え輝いていた。「正続院」の「山門」前に「佛牙舎利塔」と書かれた石柱があり、表に「従大唐國能仁寺拝請」、裏に「寛政四年壬子十月十五日」、そして「征夷大将軍源実朝公」と刻まれていた。舎利殿には、実は佛牙舎利(ぶつげしゃり)、つまりは釈迦の歯が納められているそれを南宋から請来したのは源実朝であることがわかるのであった。「山門」・「修行道場入口門」には「本派専門道場」、「臨済録提唱」と書かれた木札が。その奥に「座禅道場に付き立入り禁じます」、「入制大攝心(にゅうせいおおぜっしん)」と書かれた看板が。「入制大攝心」の「攝心」とは、心を攝(おさ)めるという意味。正続院(しょうぞくいん)は、円覚寺の開山無学祖元(仏光国師)の塔所(開山塔)。本尊:文殊菩薩。鎌倉地蔵巡礼第13番札所(手引地蔵)。もともとここは、三代将軍源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めるために、九代執権北条貞時が1285年(弘安8年)に創建した祥勝院(舎利殿)があった場所。「舎利殿 国宝円覚寺の舍利殿には「佛牙舍利」と尊崇されるお釈迦様の歯牙をおまつりしております。その由来は将軍源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものです。この舍利殿は鎌倉にあった大平寺(尼寺・庭寺)の佛殿(鎌倉時代未~室町初期に再建)を移築したもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構です。関東大震災に倒壊しましたが、昭和四年に復元しました。内部正面に佛舍利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥壇があり、観音菩薩と地藏菩薩がまつられています。隣は円覚寺派の厳格なる修行道場となっており、円覚寺開山無学祖元祥師をおまつりした開山堂とともに円覚寺随一の幽邃の地となっています。正月の三が日、五月の連休日と十一月の宝物風入などの特別期間以外は修行の為、孫観を制限させて頂いております。」扁額「萬年山」。「山門」とその奥に「舎利殿」。ズームして。「舎利殿」をネットから。正続院の中心となる建物は舎利殿(昭堂)。源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めていることから舎利殿と呼ばれる。当初の舎利殿は、1563年(永禄6年)の火災で焼失し、現在の舎利殿は、西御門にあった尼寺太平寺の仏殿を移築したもの。我が国最古の禅宗様建築物といわれ、国宝に指定されている。 【http://www.a-utsunomiya.com/photos/uncategorized/2010/05/07/p5030335_2.jpg】より以前戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第十三番の「正続院」の「手引地蔵尊」の御朱印です。「正続院」の「山門」近くの建物・「一撃亭」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.26
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そして最後に重要文化財になっている「旧石井家住宅」に向かって両脇に蕗が群生している通路を進んで行く。「石井家は室町時代後期、1500年代に地侍から始まったとされる旧家で、江戸時代にはこの辺りの名主を務めてきました。この住宅は幅約13m、奥行き約9mの規模を持った農家で、神奈川県内に多い「四方下家造り」の構造を持っています。室内は、板敷きの「ひろま」と、その奥に畳敷きの「でい」「へや」が配される「三間取り」。ひろまの前面にしし窓を付け、でい、へや周りも土壁塗りで閉鎖的で、おそらく江戸中期、元禄年間(1688〜1704年)の建立と考えられます。石井家住宅は、鎌倉から甲州に至る甲州街道筋である鎌倉市関谷にありましたが、近年に至り建物が老朽化し取り壊すことが検討されました。これを惜しんだ石井家の菩提寺、龍寶寺の住職が寺に寄贈を受け、境内に移築、保存を行い、現在に至っています。昭和44年(1969年)、国の重要文化財に指定されました。」とネットから。「旧石井家住宅」入口は潜戸になっていた。「国重要文化財 旧石井家住宅」案内板。「重要文化財竜宝寺旧石井家修理銘・・・前半(解体移築修理事業の概要)は省略・・・その後は下記にほぼ同じ」「重要文化財旧石井家住宅石井家は後北條時代の地侍から発したと伝えられる旧家で、近世はこの地の名主をつとめてきたと云う。この住宅は桁行七間半、梁間五間の規模をもった農家で「四方下家造り」の構造からなり、平面は「ひろま」の奥に「でい」と「へや」が配される「三間取り」である。「ひろま」の前面にしし窓をを付け、「でい」「へや」廻りも土壁塗りで閉鎖的で古式が感ぜられ、恐らく江戸中期の初頭を下らない頃(元禄時代)建立であろう。石井家住宅は鎌倉から甲州に至る甲州街道筋である鎌倉市関谷1575(倉骨)にあったが、近年に至り建物が老朽化し取り壊し建替することを菩提寺である龍寳寺の住職が、これを惜しみ、同寺に寄贈をうけて、境内に移築保存となったものである。この住宅は神奈川県下に例の多い「三間取り四方下家造り」農家の典型で様式手法より見て十七世紀の後半頃のものと推察される。建築後の経過については明らかでないが、後世は生活の便宜から諸々に改造の跡も見られたが、しかし側柱、内部柱等の主要材のほとんどは当初のまま遺存して今日に至ったものである。昭和四十四年六月二十日重要文化財に指定されて、昭和四十五年一月一日修理の工を起し、国庫補助金及び県費並に市費の補助金を得て工期九ヶ月をもって修理を行った。前述移築工事のため重要な建設位置の設定を初め、建物の解体と同時に入念に実測調査を行い、更に修理に先だち解体材の調査と後世改変の痕跡調査をして明確な資料にもとづいて文化庁の許可を得て現状変更を行ない、出来る限り当初の様式に復元整備した。」旧石井家住宅の向かいに展示されていたこの車は何であろうか?横から。馬車式霊柩車??霊柩車が個人所有??「踏柄臼」。杵の柄の部分を足で踏んだり離したりを繰り返すことで杵が上下し、臼の中の穀物などをつくもの。石井邸の内部土間に入る。土間は「ニワ」と呼ばれ、約9.1mと約6.4mの広さであると。正面が炊事場のようであった。土間から内部の部屋を見る。手前に板敷きの「ひろま」と、その奥に畳敷きの「でい」「へや」が配される「三間取り」。なお、「でい」は普段使うことがない客間、「へや」はでいの北側にある寝室。各室の名前がひらがななのは、昔の農民のほとんどが文字の読み書きができなかったので、名称が文字になることなく口頭で伝承されていたためであると。約9.1m☓約4.5mの「ひろま」には「囲炉裏(いろり)」が。周囲の竹は「火吹き竹」であっただろうか。別の角度から。畳敷きの10畳の「でい」には端午の節句の兜が飾られていた。10畳の畳の敷き方・中央に縦に5畳はユニーク?なのであったが・・・。そして隣の10畳の「へや」から客間「でい」を見る。「へや」には箪笥(たんす)類が置かれていた。天井・屋根下の柱と梁の姿。土間の竈(かまど)を見る。土間の天井。梁の曲線が歴史を感じさせるのであった。「天賜百福」と書かれた掛け軸。下の百の字は全て「福」の字であると。再び天井裏の梁の姿を。曲がりくねった木材を使ったダイナミックな梁は必見なのであった。ぐんにゃりと曲がりくねった木材を巧みに利用しており、まるで現代アートのごとし。この家屋を建てた人々のセンスと遊び心がひしひしと感じられたのであった。年季の入った達磨ストーブ。「茶づくり用火炉」。下から炭火を焚いて茶葉を手もみし、緑茶を作る道具。我が実家にも子供の頃あり、自宅で緑茶を作っていた。裏山。勝手口から30畳ほどの広い土間を見る。「旧石井家住宅」の横にあった「社」。弁天社であろうか。その手前にあった「横穴」。防空壕とはまた少し違った雰囲気を醸し出していたが。「やぐら」ではないし、戦時中の防空壕にしては高さがない。横井戸であろうか。「社」を正面から。正面の彫刻。脇障子の彫刻。(右)脇障子の彫刻。(左)。そして「旧石井家住宅」を後にして「山門」前まで戻ると右手にあったのが「玉縄幼稚園」。龍寳寺 が経営する幼稚園であろう。茅葺きの「山門」を後ろ斜めから。茅葺きの「山門」を前方斜めから。そして「日比谷花壇大船フラワーセンター」、「龍寶寺」、「玉縄歴史館」、「旧石井家住宅」の散策を終え、車に戻り帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2021.05.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉・円覚寺塔頭・「松嶺院」の散策を続ける。「拾翠巌佛」。「毘盧遮那仏立像(びるしゃなぶつりゅうぞう) 大日如来 江戸中期の作 ひつじ・さる歳生まれの守り本尊」と。よく見ると袈裟に一面仏像が彫られていた。石仏3体が並ぶ。「空」と刻まれた石碑。「この碑は、第二次世界大戦に於いて、祖国の平和と愛する人々の幸せを祈り、学窓より敢然と大空の決戦に参加、勇戦奮闘の果て、散華された本県関係の海軍飛行科予備士官、及び戦後本会の為尽瘁された物故戦友の霊を慰め、且つその偉業を顕彰するため、遺族と生存同期生により建立したものである。昭和六十三年十一月 社団法人 白鴎遺族会神奈川県支部」「白鴎遺族会 」は昭和18年、海軍航空隊に入隊した約5000人の第13期海軍飛行専修予備学生は三分の一を神風特別攻撃隊の中枢として失う。白鴎遺族会はその同期生と遺族の連帯のもとに発足、社団法人として活躍中とのこと。「青松観音(せいしょうかんのん)」。「聖観音菩薩立像 大慈悲を以って衆生を救ってくださる子(ねずみ)歳生れの守り本尊」。素朴な石仏。この石仏も。「松嶺院」の境内裏山の墓地内は撮影禁止。芥川賞作家開高健、中山義秀、俳優佐田啓二、女優田中絹代、オウム真理教の被害者坂本弁護士一家の墓もある。これらの墓には小さな案内板が付けられている。田中絹代の墓石には顔のレリーフが飾られ、墓誌には開高健だけが戒名ではなく俗名で彫られている。しかし、何と言ってもようやく裁判が結審したオウム真理教が起こした一連の事件で、一家が惨殺された坂本弁護士一家のピンクの御影石で造られた五輪塔に「和」と彫られた墓には新しい生花が供えられていた。「合掌」。写真中央の墓地の崖面には、コンクリートでやぐらを埋めた様な跡も見えたのであった。そして「遍路みち」で境内を一周して入口まで戻る。ここにも美しい豪華な牡丹の花が。前方に大きな石塔。「護國塔」。日露戦争戦没者の慰霊塔で、亀の甲羅の上に乗った石碑には「護国塔 従軍司教釈宗演 書」とあった。円覚寺二百七世・釈宗演は、日露戦争には従軍司教として出征しているのだと。夏場は、花と緑につつまれた美しい場所なのだ。「空手道始祖松濤船越義珍先生之論 空手に先手なし」碑。「空手道の始祖 船越義珍は、明治三年十月十日(明治元年十一月十日)沖縄県首里市に生を享け、十一才(十三才)の頃より安里安恒、糸洲安恒の両師に学び、その奥義を極めて大正初年沖縄尚武会会長に就任、大正十一年五月上京爾来、空手道の指導に専念、昭和三十二年四月二十六日、八十八才を以て天寿を全うされる迄斯の道の普及と向上に全魂を傾倒された空手道は先生によって唱道されたが、その主眼は伝来の唐手術の理念の換骨奪胎にあった空は武芸の極致は己を空しうするにあるの意であり、道は術から武士道への醇化を志向されたものであることから、「空手に先手なし」「空手は君子の武芸」の金言を以て術の乱用を戒められたのもこの理解に基づくものである。空手道の始祖としての先生の遺徳を偲び、その功績を顕彰するために門下生の有志により松涛会を結成し、拳禅一致の訓言に因みここ円覚寺境内にこの記念碑を建立する。昭和四十三年十二月一日 大濱 信泉 謹書」そして「松嶺院」を後にして隣の藁葺き屋根の「選佛場」を訪ねた。「選佛場選佛場とは、佛さまを選び出すという意味で、修行僧の坐褝道場のことです。創建時代の座禅道場は建武ニ年の境内絵図に山門と佛殿の間の左側に裳階(もこし)つきの大建築として描かれていますが、永祿六年十ニ月の大火で焼失してしまいました。元祿十ニ年(一六九九)、伊勢長島城主松平忠充が江戸の月桂寺、徳雲寺住職一睡磧秀の薦めにより円覚寺に大蔵経を寄付され、同じ位置に経典を収蔵する蔵殿と座禅道場を兼ねた現在の選佛場が建立されました。その後坐褝道場は正続院に移り、現在の選佛場には、南北朝時代の薬師如来が中央に祭られています。年ニ回地元の薬師講衆が参詣し、ご祈祷が行われ、また平成十五年より円覚寺百観音霊場の一番として、大慈大悲観音菩薩が安置されています。」「選佛場」内部。左右に畳が敷かれていた。この畳の上で座禅を。中央に南北朝時代の「薬師如来像」。衣紋を深く彫り出し、袖下を長く垂らす宋風のスタイル。穏やかにうっすら残る唇の紅が以前は印象的であったがこの日は・・・。お顔をズームして。「吊灯篭 」。「大慈大悲観音菩薩像」。お顔をズームして。そして次に「仏殿」へ。円覚寺の伽藍は、建長寺と同様に中国の径山(きんざん)・万寿寺に習った左右対称型の様式で、その中心となるのがこの仏殿です。 弘安五年(1282年)の創建当時から存在していましたが、長い歴史の中で遭遇した震災により幾度も倒壊・焼失を繰り返しました。現在の仏殿は、昭和39年(1964年)に落慶法要を迎えたもので、関東大震災で倒壊した先代の仏殿から頑丈な鉄筋コンクリート製に作り替えられました。なおこの外観は、元亀四年(1573年)の仏殿古図を参考に復元されたもの。「仏殿円覚寺の本尊さまをおまつりしてある建物で、関東大震災で倒壊しましたが、昭和三十九年に再建されました。本尊さまは冠を被っておられるので、宝冠釈迦如来とよばれます。華厳の盧遮那仏とも称されます。本尊様は一ニ八ニ年(弘安五年)佛殿開堂の際に建立されましたが、一五六三年(永禄六年)の大火で焼失、お顔のみが救出されました.後に江戸時代、天甫昌円によって一六ニ五年(寛永ニ年)佛殿が再建される際に体部が補造されました。その時、本尊様の両脇に梵天、帝釈天がまつられました。「大光明寶殿」の扁額は一三七八年後光厳天皇より賜りました。開山毎歳忌、達磨忌、臨済忌、祝聖などの諷経や毎朝の暁天坐禅がここで行われています。」「仏殿」内部。ご本尊は冠を被っておられるので、「宝冠釈迦如来(鎌倉市指定文化財)」と呼ばれ、華厳の盧遮那仏とも称されます。脇侍は、向かって左が「帝釈天」、右が「梵天」とされており、何れも鎌倉市の指定文化財となっている。冠を被っておられるので、「宝冠釈迦如来」。宝冠と胸飾りを纏うおごそかな姿は圧巻。以前戴いた「鎌倉五山 第二番 円覚寺」の「宝冠釈迦如来」の御朱印です。仏殿に入って左奥に鎮座する二体の坐像は、左が「達磨大師像」、右が「無学祖元像」。左 達磨大師(だるまだいし)坐像。右 無学祖元(むがくそげん)禅師像。「右 無学祖元(むがくそげん)禅師像 左 達磨大師(だるまだいし)坐像 寄木造(樹種不明)黒漆塗り 作風から十四世紀前半、鎌倉時代末期作製。 大変に若々しい青年のような達磨さま。 目を大きく見開き、ロをつよく結んでいる。 先師から嗣いだ「禅の教え」を中国の地に 広めんとする崇高な意志が伝わってくる。 像高 五ニ・七cm」天井の龍は「白龍図」。なお円覚寺仏殿の龍の爪は3本だが、建長寺仏殿の龍の爪は5本ある。「白龍図(天井画)前田青邨画伯 監修守屋多々志画伯 作」。「佛心」と書かれた大きな屏風。力強い作品を生み出し続け、「天使の書家」とも呼ばれるダウン症の書家、金澤翔子さん(30)の書展「心」が16日、鎌倉市山ノ内の円覚寺で始まった。同寺は金澤家の菩提寺(ぼだいじ)で、この日は52歳で亡くなった父・裕さんの十七回忌。翔子さんは席上揮毫(きごう)で、心を込めて「佛心(ぶっしん)」と書き上げた。参拝者ら約200人が見つめる中、1メートル数十センチ四方の紙2枚に書を書き上げ、「元気とハッピーと感動を、心を込めて書きました」と笑顔で話したと 神奈川新聞が報道。「木魚」と「太鼓」。そして「仏殿」の前から「三門」を見る。「選仏場」の横の道は「龍隠庵(りょういんあん/りゅういんあん)」の入口。寺号標石「龍隠庵」。参道角にあった石仏。道を進むとあった「龍隠庵」案内板。新緑のモミジ葉が美しく輝いていた。左に折れ、右に折れると正面に崖をくりぬいた「やぐら」が。見上げて。新緑のカオスを楽しむ。「やぐら」の中に「観音像」。この石段の上に「龍隠庵」。「やぐら」の中の五輪塔。「龍隠庵(円覚寺塔頭)」円覚寺百二世大雅省音(おおがしょういん)の塔所。もと龍隠軒と称した。長尾忠政により創建。本尊は観音菩薩。百三十七世芳隠省菊によって開かれた。法珠院の宿寮(龍隠軒)であったが、一四ニ六年(応永三十三年)に塔頭に列せられる。のちに法珠院が衰退し、龍隠軒のみが残った。そして引き返し「仏殿」脇の参道を奥に向かって進むと左手にあったのが「居士林(こじりん)」。「居士林(濟蔭庵(さいいんあん))明治の頃より円覚寺では、在家の人の座禅(居士林)が盛んになり、山岡鉄舟鈴木大拙、夏目漱石などの虎児が参禅しました。大正11年にこの濟蔭庵に居士の座禅道場として居士林が開設されましたが、大正15年に消失、早大濟蔭団が中心になり復興運動を起こしました。幸いなことに柳生新陰流の剣道場を柳生基夫氏が寄付を決断され、昭和3年にこの濟蔭庵に移築して以降80年近く、学生や社会人が中心となって雲水と同じように修行する学生座禅会、土日座禅会を運営してきました。堂内には本尊の不動明王がまつられ、「頭燃を救うが如し」の扁額が掲げられ、心の安らぎを求めて座禅に来る人を持ち受けています。」「山門」。「居士」とは在家の禅の修行者を指し、居士林は禅を志す在家のための専門道場。もと東京の牛込にあった柳生流の剣道場が、昭和3年(1928)柳生徹心居士より寄贈され、移築された。現在も学生坐禅、土日坐禅会など、初心者でも参加できる坐禅会が定期的に開かれている と。「仏殿」を横の参道から見る。左手にあったのは「円覚寺」関係者の住居か? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.25
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そして「玉縄歴史館」の2階に上がると、玉縄のくらしを伝える様々な農具や民具が展示されていた。中央に「こびき大鋸(おが/おおが)」が様々な大きさで。人力で製板するための幅広の縦挽き鋸を指して呼ぶ。動力による製材機械が登場するまではこれで板材に製材していたわけである。昭和20、30年代までは出番が多かったという。籾の選別用の「唐箕(とうみ)」👈リンク。脱穀した籾には、稲の葉や藁くずが混ざっているため、これをさまざまな方法で取り除く必要がある。なかでも風の力を利用する方法が風選(ふうせん)。風が吹くときに、籾と藁くずが混ざったものを高いところから少しずつ落とし、重い籾は下に落とし、軽い藁くずやゴミは遠くに飛ばす方法。風が無いときは、筵(むしろ)や団扇(うちわ)、農業用扇風機などで風を起こしました。明治時代になると人工的に風を起こし、籾や藁くずなど、それぞれの重さに選別する唐箕(とうみ)が中国から伝えられた。風選の原理を応用した便利な装置で、一般の農家に広く普及したのは大正時代と言われている。作業の絵が理解しやすいのであった。「種蒔き器」。箱の中に野菜種をいれ、土に種まきをする時に使う機具。「田舟」稲苗を入れて、田植えに水田の上に浮かせて移動して使う底の浅い小舟。「代撹車(しろかきぐるま)」稲の苗代(なえしろ)を作る土ならしの機具。様々な籠も。「馬鞍(木製)」と「杵」。「足踏み脱穀機」👈リンク。「俵編み機」👈リンク。「千歯こき」👈リンク。櫛状の歯の部分に刈り取った後に乾燥した稲の束を振りかぶって叩きつけ、引いて梳き取る。稲の場合にはこれで穂から籾が落ちるので、脱穀が完了する。「電動式脱穀機」。「イネコキ ミノル式 電動ベルト駆動式脱穀機 」「藁草履(わらぞうり)作り機」。藁草履(わらぞうり)。「鍋」、「釜」、「火鉢」。懐かしい「竹とんぼ」。「うどん作り機」「徳利」。「角樽」。2階展示室を振り返る。そして1階に戻る。「鎌倉・玉縄城址歴史ミュージアム絵図」。「玉縄城まちだより」。「玉縄城歴史散策のすすめ」。このパンフレットのマップが置いてあったので頂いて来ました。「玉縄城址マップ」。私は既に昨年に「玉縄城を偲ぶコース」👈リンク は散策済みなのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「雲頂禅庵」の前の風情ある板塀と白壁の道を振り返る。そしてここを左に曲がると石段が続いていた。円覚寺は今までに何回か訪ねたが、この道、塔頭を訪ねたのは初めてであった。石段を上り終え道なりに右に曲がり進むと左手にあったのが「白雲庵」への入口。「白雲庵」碑。花崗岩の石段を上っていくと大谷石の石垣と花崗岩の石畳が綺麗な「白雲庵」の「本堂」が左手に。「本堂」前の対の「七重石塔」。「本堂」。臨済宗大本山「円覚寺」の塔頭のひとつである。円覚寺第十世で暦応3年(1340)10月4日に示寂(じじゃく)した東明恵日(とうみんえにち)禅師の塔所(たっしょ)。塔所とは僧侶の墓所のことと。正和年間(1312~16)に退居寮として開創。禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。また、白雲庵学林を形成し、関東五山文学の中心拠点となった。室町時代末期に臨済宗に転宗。扁額「白雲庵」。「白雲庵」の名の由来は、禅師が中国白雲山の住職だったこと、また「白雲抱幽石」という漢詩の一節に因んでいる。円覚寺には、江戸時代前期には40の塔頭があった。現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。白雲庵はその中で最も古い塔頭である と。庫裡であろうか。右手に五重石塔が三基。扁額「幽石軒」墓地の前の見事な石塔。赤い牡丹の花。近づいて「本堂」を斜めから。少し離れて。「白雲庵」を後にして進むと石畳の道路脇には顔だけの石像が。羅漢像でもなさそう・・・!?。頭だけなのでかなり不気味な光景。なぜここに??まとまって、現代アート??更に進むと右下に下がる石段があり「塔頭 伝宗庵(でんしゅうあん)」と刻まれた石碑があった。しかし、この「塔頭 伝宗庵」も一般開放はしていない模様。円覚寺の「塔頭 伝宗庵」は、第十一世南山士雲(なんざんしうん)の塔所。本尊:地蔵菩薩。士雲が自らが開いた。土紋装飾の「木造地蔵菩薩坐像」は国の重要文化財(鎌倉国宝館に寄託)。その他、室町時代作の「木造南山士雲坐像」、「慈恩寺詩板」、「中世文書」を伝えている。境内には、北鎌倉幼稚園が設置されている。「伝宗庵」を樹の間から見る。左手にあったのが「富陽庵」と刻まれた石碑。石段の上に「山門」が見えた。「山門」。富陽庵(ふようあん)は、第六十一世東岳文昱(とうがくぶんいく)の塔所。本尊は文殊菩薩。文昱は、壽福寺に住し、建長寺七十一世となり、その後、円覚寺に移った。開基は上杉朝宗。開祖木像と大仙庵開祖桃渓徳悟像を安置している。その他、百二世大雅省音像などの蔵物があり、1416年銘の開祖供養塔がある。「富陽庵」の境内。ここも一般開放していなかった。更に進むと右側に「北鎌倉幼稚園」の正門が。「幼稚園 園内」。「北鎌倉幼稚園」。北鎌倉幼稚園は、戦後人心の虚脱と混迷の中で、幼児の将来を案じた地元の人々の要望に応え、当時円覚寺管長であった朝比奈宗源老師が設置者となり、昭和23年4月より開園した幼稚園と。そして「道標」今まで訪ねてきた3つの庵の名が。「これより左え 冨陽庵 白雲庵 雲頂庵」そして坂道を下って行くと受付もなく「三門」の横に出たのであった。「円覚寺」案内図。そして久しぶりに、「円覚寺」中心部の散策をゆっくりと。「三門」を正面から。楼上には十一面観音、十二神将、十六羅漢像が安置されている。現在の山門は、天明年間(1781~89年)、第189世誠拙周樗によって再建されたもの。山門は「三門」とも呼ばれ、三解脱門の略。解脱・涅槃に至る方法である3種の三昧(さんまい)。一切を空と観ずる空解脱、一切に差別相のないことを観ずる無相解脱、その上でさらに願求(がんぐ)の念を捨てる無願解脱。扁額「圓覚興聖禅寺」は伏見上皇の勅筆と伝えられている。「山門(三門)県重要文化財山門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払う門とされます。山門を通って娑婆世界を断ち切り、清浄な気持ちで佛殿の本尊さまをお参りしなければならないとされます。現在の山門は一七八五年(天明五年)開山五百年遠諱の年に大用国師(誠拙周樗)によって再建され、「円覚興聖褝寺」の扁額は伏見上皇(北条貞時の時代)より賜りました。楼上に十一面観音、十二神将、十六羅漢像をおまつりしてあり毎年六月十八日に楼上で観音懺法(観音さまに懺悔をする儀式)が行われます。また毎年八月には山門を取り巻いての盆踊りがにぎやかに行われています。」「三門」の天井。「三門」を抜けると、その先に「仏殿」がある。巨大な「仏殿」は後に訪ねた。左手に見えたのが「松嶺院」。近づいて。扁額「松嶺院」。「松嶺院」を訪ねることにする。「山門」。扁額は「圓通山」。「山門」の先の左手には見事な牡丹の花が。100円を賽銭箱に入れて境内に入る。「円覚寺」境内の塔頭。「円覚寺」第150世・叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。もともとは「不閑軒」といわれていたが、松嶺院月窓妙円尼から寺領の寄進があったことから「松嶺院」と呼ばれるようになった と。「松嶺院」の建物の周囲・「遍路道」を巡り牡丹を中心とした花々を楽しむこととした。「たんちょうそう(丹頂草)」。「本堂」。 <宗派> 臨済宗円覚寺派 <山号寺号> 圓通山(えんつうざん)松嶺院 <開山> 廣圓明鑑禅師・大拙祖能 松嶺院は、1535年(天文4)に示寂した円覚寺第150世の叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の 塔所で、もともとは不閑軒と称し寺地には円覚寺第40世の大拙祖能(たいせつそのう)の塔所で ある。青松庵があったと伝えられており、足利高基の息女である松嶺院月窓・妙円尼 (みょうえんに)から寺領の寄進があったことなどから改称された。 境内には木造の大拙祖能坐像や木造の叔悦禅懌坐像が安置されている。その先に小さな枯山水の庭があった。そして「遍路道」沿いに咲く様々な色・種類の牡丹の花を楽しんだのであった。曲がった先にも。この日が「遍路道」の牡丹の花見のピークか。菩薩立像。白壁沿いに緩やかな階段を上る。歩いて来た道を振り返る。「松嶺院」の先に「円覚寺」の「三門」と「仏殿」が見えた。これでもかと真っ赤な牡丹。藁葺の「選仏場」の先に「仏殿」が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.24
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「龍寶寺」の散策を終え、「山門」前まで戻り、左側にあった「玉縄歴史館」を訪ねた。「玉縄ふるさと館」を改修して2020年8月1日にオープンした「玉縄歴史館」。鎌倉市植木128 。料金200円を料金箱に入れて入館する。「玉縄歴史館へようこそ令和2年8月1日、玉縄ふるさと館は、歴史民族資料館、国重文古民家旧石井邸を含めて、「玉縄歴史館」と名称を改めました。市民の声、市の博物館構想にも呼応して「歴史館ギャラリー」もオープン、市民学芸員も増員し、鎌倉・玉縄地域の文化センターをめざして再出発します。この民俗資料館は、龍寶寺先代住職が伝統的な「農家の暮し」を惜しみ、地域から民具農具の寄贈を受け、平成4年に展示したことに始まります.その後、収蔵品の老化が進んでいたことから、玉縄城址まちづくり会議は平成20年から美化、補修、展示替えを行い、龍寶寺と作業協定書、鎌倉市とリニューアル協働事業協定書を締結、平成23年3月「ふるさと館」を発足させました。ー階の展示は、主として玉縄城関係の歴史資料と自主制作したした玉縄城立体模型、玉縄城城鳥瞰図、玉縄から出土した縄文期や後北条時代の出土品、その奥が新たにオープンする「歴史館ギャラリー」です.そして2階には、玉縄のくらしを伝える農具や民具を展示しました。また、農家では鎌倉唯一の国重文古民家旧石井邸、ここでは江戸時代の農家の暮らしと住居様式を身近に体験できるよう、展示に工夫しています.皆さま、どうぞゆっくりとご見学ください。」「玉縄城」は永正10年(1513年)北条早雲(伊勢盛時)により築かれたとされているが、それ以前から砦か小城があった可能性も考えられてる。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。さらに鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面があった。大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の相模三浦氏と争うが、長期戦となった。この際、同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興が新井城に籠る三浦義同の援軍として挟撃してくることへの備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれた。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえ、また小田原城の守りとしての役割も担った。祖 :北条早雲初代:北条氏時二代:北条為昌三代:北条綱成四代:北条氏繁五代:北条氏舜六代:北条氏勝の幟が展示されていた。壁には多くの写真、そして模型展示も。玉縄城地形模型。玉縄城は、1512年(永正9年)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城された。1526年(大永6年)の安房の里見実堯の攻撃も、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃や1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えた。代々の城主は、氏時、為昌、綱成、氏繁、氏舜、氏勝。しかし、難攻不落と呼ばれた玉縄城も1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲され開城した。その後、本多正信が城主となったが、1619年(元和5年)に廃城となった。中央が「玉縄城本丸」そしてその下に「大手門跡」。出土した土偶埴輪や壺の展示コーナー。絵画と甲冑。花鳥風月図。「玉縄城大手門模型」。中央の空堀に「大手門」が。「玉縄城推定復元模型」。「鳥瞰図模型」をネットより。 【http://kahoo0516.blog.fc2.com/img/20151101221626e97.jpg/】より「玉縄城跡北東部の調査」。「発掘調査成果」。「玉縄城鳥瞰図の地名案内」。「近年は宅地化が進み周囲に数多くのマンションが建築された。清泉女学院中学校・高等学校に隣接する住宅地に「早雲台」、周辺地域に「城山」「城廻」「関谷」「植木」等の地名を残し、辛うじて龍寶寺から玉縄城大手口へと至る七曲坂、久成寺(鎌倉市)から同じく大手口へ至る、ふわん坂・陣屋坂等が残っているが、それ以外に往時の状況を偲ぶことは困難である。」と。「鶴岡八幡宮復元模型」(左)と「逆井城の物見櫓」(右)。「鶴岡八幡宮復元模型北条氏綱による天文元年(1532 )から天文九年(1540 )まで八年間に及ぶ八幡宮の造営は、その規模や建物配置は現存する仆物とはやや異なり今日知ることはできない。しかし、天正一九年(1591 )豊臣秀吉による造営計画の図面である「鶴岡八幡宮修営目録見絵図」が現存し、絵図はほぼ北条氏時代の建物を踏襲していると思われる。本模型はこの絵図により作成されているので、氏綱造営の八幡宮の姿を思い浮かべることができよう。しかしながら、その指図による修営は、秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄、慶長の役のために中断し、下宮の修理しか行われなかった。」逆井城の物見櫓(茨城県坂東市に復元)(右)四代城主北条氏繁が築いた『逆井城』。このような高度な重層造物が『玉縄城』にも林立していたと推察されます。」「早雲公肖像画」と「戦国北条家系図と花押・印章」。後北条氏の祖・初代・「早雲公肖像画」。「2万年前から神奈川の海岸線の変化」。6000年前は藤沢、茅ヶ崎、平塚地区は、かなり海岸線が奥にあったことが理解できたのであった。そして我が家・標高41mは6000年前も陸地であった事が解ったのであった。「鎌倉谷戸かるた」と発掘された貝殻類。【戦国時代の鎌倉、その発見と検証展】についてこの展示は、当会が企画協力した録倉歴史文化交流館における「戦国時代の鎌倉展」の貴重な展示資料を、当ギャラリーに移転し開催するものです。ーっーっ、当会が発見し検証してきた後北条氏、玉縄北条氏の事績を辿っています。頼朝が幕府を開き、その後、室町幕府が東国を管轄する銀倉府を置き、鎌倉府が減亡すると鎌倉が都市としての役割を失い荒廃していきます。そこに登場するのが伊勢宗瑞(北条早雲)でした。「枯るる木に 又花の木を植え添えて もとの都に 成してこそみめ」宗瑞は、こううたって幕府の再興を誓い、その永正9年(1512)に鎌倉鎮護の城、玉縄城を築きました。玉縄城は代々宗瑞遺訓を継ぐ玉縄城六代の城主が守り、関東経営に奔走し、そして鎌倉と周辺領国を治めました。特に三代綱成、四代氏繁など英傑名君の事績は輝きを放っています。宗瑞の後を継いだ小田原の北条氏綱は、玉縄城主と協力して、鎌倉八幡宮の再建を進め鎌倉の寺社を積極的に保護するなど、あらたな都市計画をすすめました。こうした鎌倉の再建には後北条氏の庇護をうけた多くの職人が当たり、後々まで鎌倉を拠点に活躍します。本展では、こうして荒廃した鎌倉で小田原の北条氏と玉縄の北条氏と鎌倉の人々がこの時代の鎌倉のまちづくりを進め、現代に繋がる基礎を築いていった様子を玉縄城の史料を通してお伝えします。玉縄歴史館ギラリーは、私たちの10年来の夢を形にして、昨年の8月にオープンしました。鎌倉の地域史を発見し、検証し、伝える場、地域の芸術文化発表の場としての役割を果たしてまいります。皆さまのご来場を心からお待ちしています。」「関東戦国時代のはじまり持氏の死後、鎌倉公方は不在の状態になりました。その間、関東では持氏の遺児を擁立したことにはじまる結城合戦(ゆうきがっせん)が、京都では将軍義教が暗殺される嘉吉の乱(かきつのらん)が起こり、日本の社会情勢は混乱します。その後、幕府の承認を得た足利成氏(しげうじ、持氏の子)が5代鎌倉公方になり、鎌倉府は再興きれます。しかし、上杉氏、幕府との対立は続き、享徳3年(1454 )に成氏が関東管領上杉憲忠(のりただ)を殺害したことにより、享徳の乱が起こります。鎌倉府は成氏方と、幕府に援助された上杉方に分かれ、再び争うことになりました。翌年、成氏は鎌倉から出陣し上杉方と関東各地で戦います。その後、成氏が鎌倉へ戻ることはなく、下総国古河(現茨城県古河市)を本拠とし、古河公方と呼ばれました。鎌倉は関東の中心地という役割を終え、荒廃していきます。「枯るる木に 又花の木を 植え添えて もとの都に 成してこそみめ枯れてゆく木に、また花が咲く木を植え添えて、もとどおりの都にしてみせよう伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲)」「後北条氏の関東進出初代宗瑞の跡を氏綱が継ぐと、姓を北条に改め、山内・扇谷上杉氏の領地である武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)を中心に領国を拡大していきます。一方、甲斐国(山梨県)の武田氏や駿河国(静岡県の一部)の今川氏との対立により敵勢力に囲まれてしまいますが、天文6年( 1537 )には扇谷上杉氏から武蔵国の河越城を奪い、北武蔵の覇権を握ります。3代氏康の代には、山内・扇谷上杉氏の勢力を打倒し、さらに領国を広げます。また、武田氏・今川氏との三国同盟を締結し、甥である足利義氏を5代古河公方に就任させることで、関東での支配を盤石にしました。」「北条早雲と玉縄城北条早雲は、永正9年(1512)鎌倉街道上之道の要所に玉縄城を築きました。以後、小田原北条氏と共に玉縄城主六代は鎌倉の寺社を守り、武家文化を守り玉縄城の総構えを充実させ、関東を制覇する北条軍の先頭に立って戦いました。」「北条氏の支配領域」。「戦国北条氏の主な武将の生没年」。「玉縄北条関係系図」。「後北条氏と鎌倉幕府の一家臣であった伊勢氏は、関東を支配する正当性を得るために、様々な手段を尽くしました。北条氏への改姓や古河公方への接近、そして鎌倉の寺社保護です。鶴岡八幡宮の修造は、その代表的なものと言えます。修造にあたり、氏綱は鎌倉在住の職人のほか、小田原、伊豆、遠くは京都、奈良から職人を集め、敵対する関東の諸将にも協力を要請しています。これらの動きは、修造事業が単に八幡宮の建物の修復を目的としたものではなく、関東支配の正当性を補完する意味を持っていたことを表しています。鎌倉を整備し、「もとの都に成す」ことは、鎌倉幕府、鎌倉府に続く存在として後北条氏を位置付ける上で、極めて重要だったのです。長尾景虎(のちの上杉謙信)が、鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行ったことからも、関東の武士たちにとって、鎌倉が重要な場所であったことがうかがえます。」「戦国時代の鎌倉の町明応6年(1497)の「善法寺分年貢注文」(相模原市光明寺蔵)は、戦国時代の鎌倉の町の姿を伝えてくれる貴重な資料です。米町青物屋の三郎次郎・中座紙屋の右衛門四郎・銀細工の源三郎塗師の助四郎など、商人や職人の名が記されています。彼らは、かって大町地域にあった善法寺の門前に住んだ人々でした。「米町」や「中座」は、いずれも大町の地名で、鎌倉時代から続く商業地でした。また扇ガ谷地域には、大工や仏師、鍛冶職人が居を構えていました。特に寿福寺門前には仏所があり、仏師が多く住んでいました。鶴岡八幡宮修造を担った後藤善右衛門も仏師後藤家の出身と考えられています。この後藤家をはじめ、三橋家・伊沢家・加納家などの仏師の家が、寿福寺門前にありました。」「扇ガ谷村絵図(鎌倉国宝館蔵)同様の絵図が、江戸時代天保年間(1830 ~1844)頃作られており、同時期に作成されたと推測されます。」「鎌倉の寺社復興後北条氏は、初代宗瑞から5代氏直まで、鎌倉の寺社に諸公事(飛脚や陣僧※)の免除や所領の安堵を度々行い、積極的に保護しました.代表的なものとして、建長寺、円覚寺、東慶寺の諸公事免除などが挙げられます。3代氏康は、荏柄天神社の再興のために関所を設けて関銭や造営費にあてた他、検地により各寺社に所領を寄進しています。※陣僧・・・合戦に同行し、戦死者の弔いや敵方への使者をつとめる。」「北条氏綱の鶴岡八幡宮修造大永6年( 1526 )、里見氏との合戦により、鶴岡八幡宮は大きな被害を受けました。これを受けて、氏綱は八幡宮の修造を計画します。その様子は、八幡宮の僧快元が記した『快元僧都記』に詳しく書かれています。それによると、まず修造にあたり全体を統括する総奉行が置かれ、大道寺盛昌ら5名が任命されました。その下に、仕事内容などにより担当が分けられた奉行や職人をまとめる大工、職人たちがいました。修造は天文元年( 1532 )から始まります。はじめに上宮仮殿の造営が行われ、同5年( 1536 )に仮殿が完成し遷宮を行い、同9年(1540 ) 11月に上宮の正殿が完成し、正殿遷宮が行われました。氏綱は、翌年死去しますが、その後も下宮の修造は続けられ、同13年(1544 )にようやく全ての修造事業が完了しました。修造と同時に、浜の大鳥居の造営も行われています。浜の大鳥居は、八幡宮創建当初に参道の最も南に建てられたといい、後北条氏の時代にはなくなっていました。氏康はそれを再建し、天文22年(1553 )に完成させます。1990年の発掘調査により、現在の一の鳥居から約200m北の地点で柱の跡が見つかり、これが氏康の建てた浜の大鳥居であると考えられています。」「後北条氏滅亡後の鎌倉天正18年(1590)に豊臣秀吉により小田原城を攻められ、後北条氏は滅亡します。玉縄城城主の北条氏の菩提寺であった龍宝寺の僧良達らの説得により開城します。勝は、はじめ降伏を拒みますが、玉縄北条氏の菩提寺こうして鎌倉は、後北条氏の手を離れます。しかし、後の時代になっても武家政権の古都として鎌倉は重要な土地であり、豊臣、徳川の時代にも手厚く保護されます。秀吉は、後北条氏を滅ぼした直後に鎌倉に入り、氏綱以来となる鶴岡八幡宮修造を徳川家康に命じます。天正19年(1591)には、その設計図として修営目論見絵図が作成されました。文禄元年(1592 に下宮が完成し、江戸幕府2代将軍秀忠のときに八幡宮全体の修造が行われます。江戸時代に、鎌倉は参詣・遊山の地となり、鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺などをはじめとする寺社は、人々の尊崇をうけ続けました。」「玉縄北条氏鎌倉の統治は玉縄城を中心に行われ、代々後北条氏の一族が玉縄城主になりました。氏綱の弟氏時が初代城主になり、氏綱三男の為昌が2代城主になりました。為昌が若くして亡くなると、為昌を補佐していた北条綱成が跡を継ぎ、これ以降は綱成の子孫が玉縄城主になりました。綱成は、福島氏の出身で、氏綱から「綱」の字をもらって綱成と名乗り、氏綱の娘(大頂院殿)を妻にしました。また、鎌倉を直接治める役職として、鎌倉代官が置かれ、主に大道寺氏がその役割を担いました。」「玉縄城史玉縄城は、永正9年(1512 に伊勢宗瑞により築かれました。相模国東部を支配していた三浦道寸(義同)を攻めるため、三浦半島の付け根の位置に築城されたと考えられています。また、武蔵国や房総半島に対する拠点でもありました。宗瑞の子である氏時が初代城主になり、その後為昌(氏綱三男)、綱成、氏繁、氏舜、氏勝と続きます。玉縄城は、永正15年(1518 )に扇谷上杉朝興、大永6年(1526 )に里見氏、永禄4年(1561)に長尾景虎(この時に関東管領に就任し上杉政虎と改名。のちの上杉謙信。)、同12年(1569)に武田氏の攻撃を受けますが、いずれも落城しませんでした。特に大永6年の里見氏との戦いは激しく、討死した甘粕氏以下35名を供養する「玉縄首塚」が現在も鎌倉市岡本に残っています。この戦いによって鶴岡八幡宮は焼亡し、氏綱の手で修造事業が進められました。」「玉縄城 ジオラマ」。「玉縄城のすがた」。「長谷川雪堤・画 植木村 龍寶寺」。「山門図」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「成福寺」を後にして「成福寺」背後の山(亀甲山)にある小袋谷の鎮守・「厳島神社」を目指して先程の道を引き返す。正面に「厳島神社」の石鳥居と石段が見えた。石段を上って行くと左手に石碑が3基と手前に「戌子九月吉日」と書かれた石柱があった。「市指定有形民族文化財 庚申塔(寛文十年銘)」庚申塔(寛文10年(1670年)銘)。下部に三猿の姿が。「鎌倉市指定有形民俗資料 石造庚申塔この塔は寛文10年( 1670・江戸時代)の舟型塔で上部中央にキリク(阿弥陀)、それより下方右にサ(観音)、サク(勢至)の種子(しゅじ)が刻んである。阿弥陀三尊の種子を塔につけた庚申塔としては鎌倉では最も年代が古い。塔身には願文と思われる文字が刻んであるが風化がはなはだしく全体は判読できない。下部の壇には、三猿が正面向きに右から「雄のいわざる」「雌のきかざる」「雄のみざる」が横に並び、悪いことは「いわない」「きかない」「みない」と教えている。厳島神社の参道へ移すまでは、小袋谷の「水堰橋」の北側にあった。平歳17年( 2005年) 小袋谷厳島神社氏子会注:庚中塔は干支(えと)の庚中(かのとさる)にあたる日に、人の体内にいる虫が天の神に その人の罪を告げようとするためこの日に限って徹夜するという信仰にもとづいて 建てられたものといわれます。 また、庚申様は豊作を祈り、病や災いを防ぐ神としても知られています。」種子(しゅじ)とは密教で、仏・菩薩(ぼさつ)の象徴として書き表す梵字(ぼんじ)。種字。種子字。その右隣には「文字庚申供養塔」(寛政12年(1800年)銘)と青面金剛童子(安政7年(1860年)銘)。更に「小袋厳島神社」の石段を上って行った。そして左側に「二の石鳥居」が現れた。狛犬(阿形像)(右)。狛犬(吽形像)(左)。「拝殿」。かつては「弁天さま」と呼ばれていた社で、成福寺の南側にあった(JR横須賀線の踏切の向こう側)。しかし、関東大震災で崩壊したため、周辺の吾妻社、八幡社とともに合祀され、厳島神社として現在地に移された。現在地は八幡社があった所で、成福寺の鬼門除けの宮だった。吾妻社は現在の小袋谷公会堂の場所にあったという。なかなか変遷された経緯が複雑である。八幡社は応神天皇、吾妻社は橘姫命、厳島神社の祭神は市杵島姫命で現在の祭神も同じである。祭神:応神天皇、橘姫命、市杵島姫命 例祭:七月二十二日以降の日曜日 神事芸能:鎌倉神楽、子供神輿渡御(例祭) 宝物:石造庚申塔寛文十年(1670)銘)「拝殿」正面の彫刻。境内から「拝殿」を見る。そしてJR横須賀線沿いを歩き踏切・第一鎌倉踏切が右側に見えて来た。湘南新宿ライン・横須賀線の逗子行きの電車が北鎌倉駅方面に。この踏切を渡らず手前を左手に折れ少し進み、県道21号線との交差点の先を右に入って行った。この辺りは鎌倉市台地区の住宅街で右側には山が迫っていた。右手に現れたのが、JR横須賀線へ抜ける素掘りの隧道。「台の手掘隧道」と呼ばれているらしい。坑口は周囲が金網で養生されており、シダが密集して若干ワイルドな雰囲気。この出口側には横須賀線沿いに道はあるが、途中で終わっており、ここを通過し回り込まないと先程の踏切には、辿り着けないのであった。私もこの隧道を潜り、横須賀線沿いの道に出て北鎌倉駅方面に向かう。そして暫く進むと左手に「八幡神社」への石段が現れた。石段の上に石鳥居が見えた。石鳥居を潜り更に石段を上る。「庚申塔群」。「青面金剛像」六臂で、手に、輪宝、鉾、羂索、蛇、弓矢、金剛杵、日月、劒などを持つ。「文字庚申塔」。下部の「三猿」。正面石段上に「本殿」。狛犬(阿形像)(右)。狛犬(阿形像)(左)。「奉納記念碑氏神に祈る心を心とし氏子皆幸あれと願うなり。われ長寿を感謝しこれを記念して左記を奉納する。一、石垣 玉垣一、石段一、狛犬壱対」以下略」「本殿」元禄十一年(一六九八)、将軍綱吉、小坂郷台村を石野、別所両人に領ち賜う。別所氏の領地は藤沢、鎌倉間。及び戸塚、鎌倉間の要路に当れるを以て、毎月五、十日の両日に市を立て諸物を売買交易し漸時股賑を来たし、小名を市場と称するに至りき、ここに領主別所氏享保二〇年(一七三五)八月十一日を吉日と撰び、字亀井なる高地を神地と定め平素敦く尊信せし石清水八幡宮を勧請し鎮守とす。「相模風土記」に「稲荷社、八幡宮二社ともに村の鎮守とす。とあるは当八幡神社を言えるなり」とある。又「神明、春日を合祀す」とも記されている。 社殿は関東大震災で全潰し、大正十五年十二月十日、再建し現在に至る。「内陣」。境内の「稲荷社」。多くの狐様が。「本殿」前から石鳥居、石段を見る。そして石段を下り、再びJR横須賀線に沿って進む。こちらは線路の反対側が崖。そして左前方に素掘りの隧道に赤い門の如き物が現れた。「好々亭門 (こうこうていもん)」。独特のデザインの隧道だが、これはもともと洞門山と呼ばれるこの山の尾根の向こう側にあった会席料亭「好々亭」の店主が駅から料亭への近道として開削したものであると。中央に「好好洞」の文字が。右側に「好々亭門」、左側に「御会席 成吉思汗料理」の文字が。好々亭は2007年に廃業し、現在この隧道は地域の生活道路として活用されているのだと。「好好洞」のトンネルを抜け向こう側の道路に行く。「好好洞」を抜けて振り返る。会席料亭「好々亭」は10年以上前に閉店したようだ。そして「好好洞」を戻らずに、右手に進むと前方正面に神社らしき建物が現れた。その手前右手5、6段の石段の上、左側にあった「庚申塔群」。「市指定有形民俗資料 庚申塔(寛文五年銘)一基」。その右側には「角柱型庚申塔」正面に「堅牢地神」(けんろうじしん又はじじん)と刻まれていた。文政十一年(1828)と刻んである。「堅牢地神」とは、バラモン教の中の12の神が仏教に取り込まれ、それぞれの方位や位置を守る十二天の一つ。「舟型庚申塔」上辺に梵字の「キリーク」(阿弥陀如来を表す)を刻み、中心に「奉供養庚申所願成就也 敬白」と刻まれているとのこと。右脇に「寛文五年(1665)」、左脇には「乙巳(きのと・み)十月十五日」と。下には三猿が彫られていますが、中央は「めす」、両側は「おす」とのこと。塔身は高さ136センチで、市内で最大といわれている。「自然石型庚申塔」中心に「青面金剛」と刻み、裏に「万延元年(1860)」とある。奥から「庚申塔群」を見る。「御嶽大光〇〇」。木曽の御嶽山(おんたけさん)を信仰する「起立講(きりゅうこう)」の碑であろうか。右が「尖頭角柱型庚申供養塔」 正面の上のほうに、よこ書きで「庚申」、その下にたて書きで「供養塔」と刻み、 下辺にはー猿が彫られていまる。 寛政十二年(1800)の銘が中央が「舟型庚申塔」 中央に「奉造立庚申供養」、右脇に「二世」、左に「安楽」と願文を刻んでいます。 下辺に三猿が彫ってあります。造立年代は不明」左が「尖頭角柱型庚申塔」 正面に「庚申供養塔」と。。 右側に寛政九年(1797)とある。 奥の右側に「舟型庚申塔」 上辺に「日月」を付け、中心に六手合掌の青面金剛像を刻みます。 造立年代は不明中央に「唐破風付笠塔婆型(現在は、笠がない。)」 上辺に「日月」を付け、中心に六手合掌の青面金剛像を刻み、 下辺には、三猿が彫られていますが、左右のものは横を向いている。 享保十二年(1727)と彫られている。左側に「尖頭角柱型庚申塔」 中心に「青面金剛童子」と刻み、 右側に「嘉永二年(1849)」とあるそして「八雲神社」境内へ。扁額「八雲神社」。「本殿」。鎌倉市山ノ内585。山ノ内の「八雲神社」は、鎌倉時代、疫病が流行した際に、村人が京都の祇園社(現在の八坂神社)の神霊を勧請したと伝えられ、「午頭天王社」と称されていた。室町時代に関東管領上杉憲房が武運長久を祈願して勧請したとも伝えられる。拝殿向拝に、一弦琴を弾く中国の伝説上の女性・玉巵と龍の彫刻が施されている。玉巵弾琴(ぎょくしんだんきん)。玉巵(ぎょくし)は、正式には太真王夫人(たいしんおうふじん)といい西王母の末娘である。絶世の美女であったと。「木鼻(右)」。「木鼻(左)」。そして北鎌倉駅方面からの正規の?参道である石段の先にある境内社の「稲荷神社」の石鳥居と左に石碑が見えた。石鳥居の先に「稲荷社」。「稲荷社」。「清瀧不動尊」碑。明治34年12月の建立。前方の石は「晴明石」とも呼ばれ、火難・災難よけの神の石といわれていると。「びっこ石」とも呼ばれる。むかし、鎌倉街道にあった鎌倉十橋の一つ、十王堂橋(今は暗渠)の際にこの大きな石が埋まっていたと。この石を知らずに踏めば足が丈夫になり、知っていて踏めばびっこになるといわれていた。現在は、八雲神社の境内のここにに移されているのだと。「趣意書 山之内稲荷社建立事業への御寄付お願い」。「國常立尊大神 大己貴大神 少彦名大神」が刻まれた緒神は、明治22年建立。裏に碑文があったが、難しくて読めなかった。台石の左に「世話人 関戸祐一 栗田安◯ 山之井庄右ェ門 河内弥三郎 鈴木定次郎」右に「発起人 関戸長左ェ門 桃田与惣右ェ門 伊藤喜三郎」などの銘が刻んであったが。高台から「本堂」を見る。狛犬(右)。狛犬(左)。石段を下りて行くと「村社 八雲神社」碑。石段を振り返る。こちらが本来の参道なのであった。そして脇の細道から「北鎌倉駅」のホームを覗く。そして線路脇の細道を左に曲がり進み長い石段を上る。階段の途中左には横穴が有り入口には扉が付いていた。民家への入口であろう。ポストや玄関チャイムもあったので。そして石段を上り切ると正面に山門が現れた。扁額は「大機山」。寺号標「雲頂禅庵」。「境内の拝観はできません」とあり、「山門」の下には格子状の扉が閉まっていた。ここは既に円覚寺境内であり、円覚寺境内の一番西にある塔頭・「雲頂禅庵」。正面に新装なった「本堂」。「「雲頂菴」は、もとは禅宗では五山、十刹に次ぐ寺格「諸山」に列せられていた大崎山 長勝寺の塔頭でした。長勝寺は1296年、大覚禅師 蘭渓道隆の法嗣 仏燈国師約翁徳倹により創建され、その後、二世 空山円印が開山塔頭として雲頂菴を興しました。開基は、長勝寺、雲頂菴ともつまびらかではありません。鎌倉幕府の滅亡、南北朝の混乱、室町幕府の成立など激動の時代にもよく寺勢を保ってきましたが、永享の乱(1438年)によりすっかり衰え、かろうじて命脈を維持していたところ、文明年間の1460年前後から、主の関東管領 上杉氏をおさえて台頭してきた長尾氏 ― 長尾尾張守 忠景・顕忠父子 ―が後ろ盾となって(中興開基)再び寺勢を盛り返し、戦国の乱世の時代に大檀那 長尾氏の厚い外護のもと寺勢を保ち、円覚寺において中心的な役割を果たしました。その後、江戸時代に入って円覚寺の塔頭に列せられ、今日に至っています。」とネットより。「本堂」の右手にある白壁の建物は「庫裡」であろうか。「雲頂菴について」をホームページより。「山門」前から南西方向の山の中腹には「北鎌倉女子学園中学校・高等学校」が見えた。「雲頂禅庵」の境内の隅にあった石仏を見上げて。水子地蔵菩薩(子安地蔵菩薩) であろうか。「雲頂菴」の関係者専用の入口がその先に。ここまでは車が入って来られるようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.23
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そして「日比谷花壇大船フラワーセンター」を後にし、帰路のトンネルを出た直後の右側にあった「龍寶寺」に立ち寄った。前回訪ねたのは、昨年6月9日で約1年ぶり。鎌倉市植木129。「龍宝寺●宗派 曹洞宗●山号寺号 陽谷山(ようこくざん)龍宝寺●建立 16世紀中頃●開山 泰絮宗栄(たいじょそうえい)●開基 北条綱成(ほうじょうつなしげ)玉縄三代城主の北条綱成(ほうじょうつなしげ)が建立した瑞光院(ずいこういん)ともいわれる香華院(こうげいん)がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。本堂には、釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、北条氏繁、北条氏勝の位牌や源実朝の位牌も安置されています。また、境内には「正徳の治」を行なったことで知られる朱子学者の「新井白石の牌」があります。山門を入ったすぐ右には、玉縄ふるさと館があり、その先には、もと関谷にあった江戸時代中期の民家である国指定重要文化財の旧石井家住宅があります。」「陽谷山 龍宝寺 案内」石碑。宗派 曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏開山 泰絮宗栄大和尚開基 玉縄城主(北条綱成、氏勝)本堂 木造銅葺重層入母屋造 (昭和三十五年建立) 設計 大岡 実山門 江戸時代元禄年間造鐘楼堂 設計 大岡 実面山瑞方禅師の銘文記す一、玉縄北条氏の供養塔一、新井白石公の碑一、金比羅宮一、子育地蔵尊堂一、福徳稲荷堂(天保年間造)一、弁天堂一、道祖神一、玉縄ふるさと館一、旧石井家住宅(国重要文化財) 歴史民俗資料館(鎌倉市指定)「山門」の扁額は「陽谷山」。寺号標「曹洞宗 陽谷山 龍寶寺」。「三界萬霊寺」碑。「禁葷酒(きんくんしゅ)」碑。「酒の匂いをさせて山門を潜るべからず」という意味。「葷=くん」とは、酒や、ニラ、葱 の様に 強い香りのするものを意味している。ニンニク・ネギ・ニラ・ラッキョウ・ノビルなど、においが強くくさい野菜、これらの五つの野菜を五葷と言うのだそうです。五葷は、精力がつき過ぎて人間の心を乱すところから、修行の妨げになると考えられ禁止されたようです。「禁葷酒入山門」(この場合、普通は、「くん酒 山門に入るべからず」と漢語では読む。石畳の参道を進む。右手にあったのが「玉縄歴史館」👈リンク。ここは、後日ゆっくり訪ねたのであった。その先、右手にあったのが「子育地蔵堂」。「子育地蔵尊」。團野功雄の歌碑。「いぞそらは 吾が身散るとも 我が心 堅く護らん 皇孫の國 功雄」。裏面には「神風院殿至誠明道大居士 神風特別攻撃隊至誠隊隊長 従七位功三級勲五等海軍少佐團野功雄 支 昭和十九年十月二十九日大東亞戦争比島沖航空戦ニ於テ 第ニ神風特別攻撃隊隊長トシテ勇戦名譽ノ戦死ス 行年二十四歳」とあるそうだ。辞世の句だと。更に参道を進む。左手には石碑群があった。2基の庚申塔と馬頭観音と銘がある石塔が立っていた。「道祖神碑」。「力石」であろうか。「文字庚申塔碑」(左)そして左手には「芍薬園」があったが、ここも「日比谷花壇大船フラワーセンター」と同様に花のピークは終わっていた。参道の奥の小さな社は「福徳稲荷堂」。そして正面の石段上に「本堂」。鹿の姿がある石灯籠。「回向柱」。「本堂」「本堂」の扁額「龍寶寺」。内部から住職の読経の声が聞こえてきていた。法要が行われていたが3名のみが着席。これもコロナ対策であろう。家族でのご先祖への供養もコロナ禍でままならないのである。「本堂」横にあったのが「玉縄北条氏供養塔」。「玉縄北条氏供養塔永正九年(一五一二)伊勢宗瑞(通称北条早雲)が玉縄城を築城し、小田原城の支城として関東進出の重要な役目を果たしてきました。戦乱の渦中に、その名を轟かせた北条綱成、氏繁、氏勝は玉縄城主としてよくこの地を治め、外に向かっては勇猛果敢に戦いました。この供養塔は、龍賓寺住職四世良順大和尚が建てたものです。(推定元和年間~寛永五年頃)元は、現在の栄光学園の敷地内にありましたが、造成工事のため龍賓寺墓地裏の尾根上に移設しました。この度、玉縄城築城五〇〇年を記念して参詣し易いこの地に再度移設しました。なお、この供養塔は旧地に建っていた頃、いっも塔が倒れていて誰かが直しておくとすぐにまた倒れているので土地の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたとのことです。」「本堂」横にも「火灯窓」が。「本堂」の裏にも渡り廊下で繋がれている建物が。裏山への石段もあり、山頂には三代・北条綱成、氏繁、氏勝の墓所もあると知ったのでこの墓所も訪ねた。龍宝寺裏山には、龍宝寺四世の良順和尚によって、元和年間から寛永5年頃(1615年から1628年)に建てられた玉縄城主:北条綱成、氏繁、氏勝の墓といわれる石塔が並んでいた。中央に北条綱成:瑞光院殿實州宗心大居士右に北条氏繁:龍寶寺殿応大栄公大居士左に北条氏勝:上嶽寺殿角翁良牛大居士 裏山の墓地から戻り、本堂を振り返る。「寺務所」であろうか?参道の裏の細道の奥には「日本ミツバチ」の巣箱があったが、蜂の出入りは全く無かった。芍薬畑の隅には花菖蒲が咲いていた。純白の花菖蒲。そして竹林の先にあった「鐘楼」。「欅(けやき)一本造」と。鐘をズームで。反対側から。竹林の下には「旧石井家住宅」の姿が。そして参道を戻り「玉縄幼稚園」手前の細道を右に入るとあったのが「新井白石之碑」。「新井白石」の知行一千石のうち二百石分が「龍寶寺」の門前にあったことから、「新井白石」と「龍寶寺」僧との間に親交が生じ、享保11年(1726年)にこの石碑が建てられたと。「新井白石之碑」。碑文は室鳩巣(むろきゅうそう・室直清)の撰文といわれるが、風化によって全く読めない。「新井白石之碑」の横にあった「金比羅宮」。正面から。「内陣」。「金比羅宮」の脇の細い坂道を上って行く。右手に石仏、石塔、石碑が並んでいた。「越元童子」、「元禄十一戊寅十一月十六日」の文字が。様々な石碑が並ぶ。五輪塔と宝篋印塔。「大絶餓鬼会為當山門前捕虜収容所病疫者諸精霊菩提供養塔 當山」とある。戦時中は山門前に捕虜収容所があり、そこで病死した捕虜の菩提をここ龍宝寺が弔って来ているのだと。そしてこの後に訪ねた「旧石井家住宅(重文)」。元禄期に建てられた農家(名主)。参道から。「センダン」の木で、別名は”金鈴子(きんれいし)や“千珠(せんだま)"と呼ばれています。「センダン」と書かれた札。「栴檀は双葉より芳し」(センダンは苗の段階から良い香りがするように、才覚のある人物は幼少時からそれを発揮するという意味)で知られるが、本来これは熱帯アジア産のビャクダン(白檀)を語ったもの。センダンの枝葉や材には香りがないのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「木曾塚(木曽義高の墓)」を後にして前の道を東に進み県道21号線・鎌倉街道に出てここを右折して進むと、右の高台にあったのが「鎌倉大船キリスト教会」。鎌倉市大船5丁目11−12。県道21号線・鎌倉街道を渡り、教会の先にある急な石段を上る。この鎌倉街道の場所は「切通し」の如き場所であった。路端にあったのは真っ赤なツツジだったであろうか。スマホの案内に従い大船の住宅街を進む。これから訪ねる予定の「多聞院」、「熊野神社」の案内板があった。「熊野神社」の石鳥居の前、「多聞院」入口の右側にあった「庚申塔群」。門前の右手に5基の石塔あり、そのうちの3基が庚申塔。ほかに念仏塔、 地蔵尊があった。一番右から「南無阿弥陀佛」と刻まれた「念佛塔」。「板状駒型庚申塔」日月雲台 青面金剛像 合掌六臂 邪鬼 三猿上辺に「日月」、中央に合掌した六手の青面金剛像。邪鬼を踏んで立っている。下辺に三猿。「元文五庚申十月吉日」(1740)と。右手に「奉供養庚申塔 粟船村」とあった。「粟船」は「大船」の地名の前身で、江戸の中期ころまで(「青船」とともに)使われていたと。大昔は大船あたりも海で、入り江があり、粟を積んだ船が出入りしていたのだと。「舟型庚申塔」日月雲台 青面金剛像 四臂 邪鬼 二鶏 三猿 蛇上辺に「日月」、右に「奉納庚申供養為二世安楽」中央に四手の青面金剛像。手には、輪宝、棒、縄(羂索)、蛇を持っている。下辺に三猿。右に「延宝八庚申十一月吉日」(1680)とある。石の頭部には切り込み?が。「板状駒型庚申塔」日月雲台 青面金剛像 合掌六臂 邪気 三猿 (上部継)上辺に「日月」、中央に合掌した六手の青面金剛像。ただし、顔の部分が欠損していた。下辺に三猿。左に「享保十三申年十一月」(1728)、右に「庚申塔」と(下に)「講中」と。そして一番左に「地蔵尊」。そして正面に「熊野神社」の石鳥居、右側に寺号標。「真言宗 多聞院」。「掲示板希望に起き 努力に生き 感謝に眠る人は幸福である。」プロ野球選手・監督の野村克也氏が座右の銘にしていた言葉であると。特に“感謝”は人生の基本だと説く。人間は決して一人では生きていけない。感謝の心を持って謙虚に生きなければいけない。そして、「それを言葉や行動に示すことが大切だ」と説く。「多聞院」の「本堂」。鎌倉市大船2035。扉は閉まっていたが「本堂」に近づいて。「多聞院」は、正式には「天衛山福寿寺多聞院」といい真言宗大覚寺派の寺院。永享の乱により衰退した山ノ内の観蓮寺を、後北条氏に仕えた地侍の甘粕長俊が、1579年(天正7年)熊野神社を勧請するとともにこの地に移し、同社の別当寺として創建したと伝わる。別名「多聞天」ともいわれる本尊の毘沙門天が寺号の由来。「とげぬき地蔵」として知られている。開山 南介僧都開基 甘糟長俊本尊 毘沙門天扁額「天衛山」。「衛」のくずし字がこの様に!?。「水手向き地蔵尊」。水子供養であるようだ。「鐵扉寄附者」碑。「本堂」の鐵扉であろうか。「台座」だけが残されていた。「最蔵坊塚」鶴岡八幡宮神職鈴木左近重安の墓と伝えられている と。宝形造瓦葺の「本堂」を再び。右手奥にあった「不動堂」。大きな扁額「不動尊」と「社号標」の「天衛山 福寿寺 多聞院」。墓地の奥には「やぐら」が並んでいた。そして隣りにあった「熊野神社」を訪ねた。扁額「熊野神社」。石鳥居とその先に「拝殿」への急な石段。石段を上って行った。狛犬(右)。狛犬(左)。そして正面に「拝殿」。扁額「熊墅社」。「琴平宮(大船)」。扁額「琴平宮」。中央に「拝殿」、右手に「琴平宮」、左手に「神楽殿」。「神楽殿」。境内にあるやぐらと祠。「地神塔」。「やぐら」の中に小さな木造りの社が。「天照大神宮千九百年歳紀年碑」。「陸軍工兵壱等喇叭(ラッパ)卒石井乙次郎君碑」。ここにも小さな社。そして「熊野神社」の帰路に「多聞院」の「本堂」の鐵扉が開いたので再び訪ねた。青い「鐵扉」には観音様の後ろ姿?が描かれていた。「本堂」の「内陣」。天井格子には様々な植物の絵が描かれていた。ご本尊・毘沙門天の他十一面観音菩薩座像、牛頭天王、弘法大師像、聖観音、不動明王、薬師如来像などがあると。「本堂」の襖絵。そしてこちらが「本堂」の如き「庫裡」。境内から「庫裡」を。そして「多聞院」を後にすると右手にあったのが「大船町内会館」。多聞院の前の道には、立派な素掘り隧道があったが、ここには入らず手前を左手の細い山道に入る。右手に入っていくと、ここが「高野の切通し」。鎌倉七口とは違ってあまり知られていない切通で、かつては、山ノ内荘と六浦荘とを結ぶ尾根道だったという。この切通しを進み、古道に沿って進むと大船高校の入口となるのだ。枯れ葉が積もった切り通しを歩く。横壁には洞穴が、昔の防空壕の名残か?途中、枯れ枝の山が。ご近所の方が片付けてくれたのであろう。だんだん崖の高さが増して来た。今気がついたが、上部からの木の幹は・・・・・危ない!危ない!。苔生した場所も。地層も確認できるのであった。馬一頭が何とかすれ違える幅。「高野の切通し」を独り占め。前方の路面は全体が苔生して。滑らないよう足元に注意して進む。そして下り坂に。そして出口へ。「六国見山登山道標」が立っていた。「至ル 六国見山(約六百米)」と表示されていた。再び「高野の切通し」を引き返す。左下には「多聞院」の墓地と庫裡が見えた。全く人の姿はなく。そして再び素掘り隧道まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は4月9日(金)、「古都「鎌倉」を巡る」の3回目として、JR大船駅から北鎌倉に向けて歩き出し、最後は建長寺の裏山にある「建長寺半僧坊」まで歩いたのであった。小田急線、JR東海道線を利用して「大船駅」で下車し、東口からこの日のスタート。「松竹通り」を大船二丁目方面に進む。途中右手奥の「中央労働金庫大船支店」の建物の壁には一面に「つる植物」が美しく。道路の両脇にはツツジが開花中。そして右側にあったのが「山蒼(さんそう)稲荷神社」。北向きの一の鳥居から境内を見る。鎌倉市大船2丁目21。東を向く二の石鳥居の先に「社殿」があった。二の鳥居の扁額「山蒼稲荷神社」。「手水舎」。正面に狛狐とその奥に「社殿」。狛狐(右)。その後ろに真っ赤に塗られた社務所?狛狐(左)。台座の裏には「松竹株式会社」の文字が。各町内会の名前も。「奉献 山蒼稲荷神社由緒碑今世初期、或ル先覚カ遠大ナ都市計画ヲ目論ミ、此地一帯ノ開発ニ着手シタカ、当初ヨリ災厄ノ続出ニ事業ノ中断ヲ余儀ナクシ、為ニ、地元有志ト協議ノ末、霊主教某教主ニ本旨ノ時宜ヲ諮ッタ。スルト某ハ此地ノ、守護神トナスベク稲荷大明神ヲ招致シ、以テ、鎮守ヲ祈願スルニ然カス、トノ指教ヲ寄セラレ且昭和五年秋教主カ御神体ヲ刻マレタノテ時ヲ藉サス、眺望絶佳、樹林鬱蒼ノ丘ニ社殿ヲ建テ、山蒼稲荷神社ト命名シ御神体ヲ祭祀スルニ、以降、神助ノ故カ事業ノ都テカ順調ニ進捗シ初期ノ目的ヲ遂ケ大船今日ノ発展ノ因ヲ作シタ。而ルニ同九年、松竹蒲田撮影所カ此地ニ矚目シ進出セントスルヲ識リ本所ニ社殿ヲ遷シテ現今ニ至ッテイル。本神社カ此処ニ坐ス経緯ヲ敍述シタ所以ハ向後、尚、彌増シ、此処ノ伸張ト災厄祓除ニ既往ノ霊験ヲ垂レ給ワンコトヲ希ッテニ他ナラナイニ拠ル。 以上ノ考証ハ巷間、僅カニ散見サレタ記録ト流布スル口碑ニ基スイタモノテアル。昭和五十七年十一月三日 抍岡 智 撰」要旨は「大正11年(1922年)大船駅東口一帯を、東京の田園調布に倣って、高級住宅地にするという大船田園都市構想が計画されていました。しかし、開発に着手した当初から事故が続いたため、地元の有志が集い、昭和5年(1930年)に、松竹撮影所があった場所に山蒼稲荷神社(さんそういなりじんじゃ)を建立し祈願したところ、災厄が治ったと。その後、山蒼稲荷神社は、昭和9年(1934年)松竹撮影所建設のため、現在の場所に移された」と。「社殿」近づいて。道路脇の歩道には鎌倉市の花「リンドウ」、1975年(昭和50年)10月25日に制定された。「漢字で書くと「竜胆」、呼び名の「リンドウ」は竜胆(リュータン)が訛ったもので、中国でこの名が付けられました。これはリンドウの根から「リンドウコン」という薬がとれるのですが、竜の胆(きも)のように苦いということからだそうです。リンドウの薬効は古くから、世界的にも知られていて、主には苦味健胃、消化不良、食欲増進、解毒などに効果があるそうです。うさぎに化けた神様がリンドウの薬効を教えてくれたという言い伝えもあります。」とネットより。「松竹前」交差点を直進する。そして直ぐに右折したが道が間違っていることに気が付き戻る。「現在位置」。正面に「鎌倉女子大学 大船キャンパス」の正門が。鎌倉市大船6丁目1−3。1989(平成元)年、平成の幕開けとともに、校名を「京浜女子大学」から「鎌倉女子大学」に変更したのだ。「校章」。校歌・学生歌の作詞者でも あった学祖夫人・松本千枝子先生が日本神話の三種の神器をモチーフに 意匠化したもの。日本神話でいう「三種の神器(八坂瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)・矢咫(やた)の鏡・草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)」でかたどられています。この3つは教育でいう「知育・徳育・体育」を象徴すると同時に、人間として最も大切な徳とされる「知・仁・勇」を意味しています。創立60周年を機に、英語の大学名”KAMAKURA WOMEN'S UNIVERSITY” と教育の理念である「感謝と奉仕」を意味す るラテン語“GRATIA ET MINISTERIUM”が入れられた。そして引き返すと左側にあったのが「松竹大船ショッピングセンター」。左折し、「松竹大船ショッピングセンター」の南側を進む。左側にあったのが「鎌倉芸術館」の建物。「鎌倉芸術館」の正面に廻り込む。「鎌倉芸術館催物案内」。そして「鎌倉芸術館」正面。鎌倉芸術館は1993年に開館した1500席の大ホールと600席の小ホール、展示ギャラリー、リハーサル室などを完備した大型文化会館。鎌倉市大船6-1-2。開館から2006年3月までは財団法人鎌倉市芸術文化振興財団が管理を行っていた。2006年4月からはサントリーパブリシティサービスグループ(サントリーパブリシティサービス株式会社・株式会社共立・株式会社東急エージェンシー)が管理を行っているとのこと。「共に生きる」の大きな書が正面玄関の2階の館内に展示されていた。書家・金澤翔子さんが揮毫した「共に生きる」で鎌倉市に今年の1月に贈呈されたものと。作品は縦約1m、横約4mであるとのこと。左手奥に「鎌倉女子大学」のキャンパスが見えた。左手にあったのが「大船中央病院」。正面に「三菱電機(株) 情報技術総合研究所」。正門横の八重桜が満開。ズームして。南東に進み、大船5丁目の住宅街の坂道を上って行った。右手の急な石段を上る。石段の上には「大船むくどり公園」があった。公園の奥を進むと石碑が現れた。ここは「常楽寺」👈リンク の裏山(粟船山)にあたり、「木曽義高の墓」と伝わる塚があった。塚の先に石碑が2ヶ所に。塚に生える木の近くには「卒塔婆」が奉納されていた。「木曽冠者義高之墓」碑。「義高ハ義仲ノ長子ナリ 義仲嘗(カッ)テ頼朝ノ怨(ウラミ)ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸(ヨウヤ)クナル 爾来(以後)頼朝ノ養ウ所トナリ其女(ムスメ)ヲ得テ妻トナス 後義仲ノ粟津ニ誅(チュウ:殺)セラルルニ及ビ遁(逃)レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル 塚ハ元此地ノ西南約二町木 曾免(キソメン)トイフ田間ニ在リシヲ延宝年中(1673‐1681)此ニ移ストイフ 旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ余韻ヲ伝ヘテ数奇ノ運命ニ弄(モテアソ)バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級(シュキュウ:首)ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ」意味は【木曽義高(きそよしたか)は、木曽義仲(よしなか)の長男であります。かって義仲は、頼朝の怨(うらみ)を招き、戦になろうとした時、義高を人質として鎌倉に送ることで、ようやく和解することができました。それ以後、義高は、頼朝の世話になり、 その娘を妻に迎えました。そして義仲が大津で殺害されたことを聞いた時、鎌倉を逃げ出しましたが、入間川で捕えられて斬られました。塚は、もとこの場所から西南に約200メートルの所の木曽免(きそめん)という田の間にあったものを、 1680年頃に、ここに移したそうです。旭将軍といわれた義仲は、激しく豪快な短い人生を送り、不運で薄命であったその息子の首が、この場所にて永い眠りを結んでおります。】と。「木曽清水冠者義高公之墓」と刻まれた石碑。もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、1680年(延宝8年)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。木曽義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。1183年(寿永2年)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫(源頼朝と北条政子の長女)の婿ということで鎌倉に送られてきている。しかし、頼朝は義仲討伐の兵を京に派遣し、源範頼・源義経らが義仲を討つと、鎌倉の義高をも誅殺した と。そして塚の横の階段を下って行った。左手に石祠の如きものが現れた。「姫宮の墓(姫宮塚)」。北条泰時の娘の墓とも大姫(源頼朝と北条政子の長女)の墓ともいわれていると。「栗船稲荷 姫宮の墓」。「栗船稲荷」。下の写真の「影隠地蔵」は、入間川に架かる新富士見橋を渡って1キロメートルほど先の奥州道交差点に面して立つ。この地蔵が「影隠地蔵」と呼ばれるのは、源義仲の嫡男で頼朝の娘婿となった清水冠者義高が、実父の死をきっかけに頼朝から追われる身となったとき、難を避ける目的で一時的に地蔵の背後にその姿を隠したためといわれているのだ。現在は石の地蔵で柏原よりに立っているが、かつては木像でしかも広瀬側に地蔵堂があり、その中に安置されていた。石の地蔵になったのは明治7年(1874)のこと。その理由ははっきりしませんが、明治政府がとった仏教の抑圧・排除運動である排仏毀釈により、木像の地蔵が処分されたためと。・狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕・指定日:昭和52年(1977)9月1日【https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/citypromotion/tanoshimu/minamotoyoshitaka.html】より「清水冠者源義高終焉の地」👈リンク木曾義高(木曽義高)は4月26日、武蔵国の入間河原の八丁の渡で追いつかれれて、堀親家の郎党・藤内光澄に首を捕られました。享年12。首は鎌倉に送られたが、遺体はそのままだったようで、里人により、討ち取られた入間河原に葬られましたが、畠山重忠らの助言があったようで、その地に狭山・清水八幡宮が建てられている。 【https://hotokami.jp/area/saitama/Hkktp/Hkktptm/Dyymg/154780/】より「清水八幡市指定文化財 史跡所在地 狭山市入間川三-三五-九 八幡神社指定年月日 昭和五十ニ年九月一日清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。義高は源(木曽)義仲の嫡男ですが、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝とその妻北条政子のとの間に生まれた娘、大姫の婿となっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふるかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町を目指して逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果たした地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡宮ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われます。」 【https://twitter.com/KagolaboJp/status/1502551514103316481/photo/3】よりそして再び階段を上り「大船むくどり公園」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉山の「檑亭」を後にして、次に訪ねたのが「日本山妙法寺」。鎌倉市鎌倉山1丁目19−5。民家のような建物であった。2015年10月05日に設立した法華経系宗教法人「日本山妙法寺 鎌倉道場」であるようだ。扁額「日本山妙法寺」。題目塔「南無妙法蓮華経」。「立正安国」の文字が。境内の「五輪塔」。そして次に訪ねたのが「鎌倉山神社」。鎌倉市鎌倉山2丁目27−11。「鎌倉山神社祭神 大山津見命(おおやまつみのみこと) 御父 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと) 御母 伊邪那美尊(いざなみのみこと)当神社はもともと本村笛田の農民の鎮守でまた津村の漁民の海上守護の神・(「山の神」)であったのを昭和の御代に当地が鎌倉山住宅地として発展すると共に住宅地の鎮守として奉斎された。昭和十年に鎌倉山在住の有志達の浄財により改装され「鎌倉山神社」と改称された。爾来今日に至るまで鎌倉山住人有志たちが社殿を御守りし毎年八月八日例祭を執り行っている。」社号標「鎌倉山神社」。「社殿」は石宮。「社殿」には、釈迦や、亀に乗った摩利支天の木像が安置されているとのこと。石宮の屋根には「隅切り角に三の字」の紋が。我が市内にある時宗総本山「遊行寺」の宗紋と同じ、その理由は??相模湾が見えた。湘南モノレールの先に相模湾が。ズームして。湘南モノレールの軌道が案外急勾配なことが分かるこの場所。鎌倉山で一番高い場所から江ノ島の姿も。そして更に東に進んでいくと、歴史を感じる黒門があった。ここは別荘・「扇湖山荘(せんこさんそう)」の入口であったが閉まっていた。この別荘を構えたのは戦前の実業家だった長尾欽彌氏で、胃腸薬「わかもと製薬」で財を成した人物。東京世田谷の深沢に本邸があり、1934年(昭和九年)当地に土地を求めて別荘としたものです。敷地は緩やかな傾斜地に一万四千坪もの広さを誇り、飛騨高山から移築した民家や宮家の茶室などが点在し、名立たる庭師の手による庭園が広がるまさに絵に描いたような大豪邸。戦後は人手に渡って「鎌倉園」の名称で料亭となり、三和銀行の研修所を経て市に寄贈され現在に至っていると。「傾斜地に建てられてあるので変則的な三階建てになっており、土台として鉄筋コンクリート造りの洋風建築を築き、その上に木造二階建ての民家を乗せてある」と。ネットからの写真を転載させていただきます。母屋(本館)の奥の部屋の囲炉裏をこちらもネットから。 【https://hosaka.kanagawanet.jp/blog/2017/11/25/2033/】より次に「聖福寺跡」を訪ねた。「聖福寺公園」の中を歩く。この公園の八重桜は今が満開。シバザクラも濃いピンクの花を。近寄って。ネモフィラも。和名を瑠璃唐草(るりからくさ)という花。そして「聖福寺公園」を出た場所にあった石碑。場所は、江ノ電・稲村ヶ崎駅手前の道をひたすら山に向かって上って行ったところ。ここまで鎌倉観光で足を伸ばす人は稀有であろうと。鎌倉市稲村ガ崎5丁目39−6。北条時頼が子供のために建てた寺・「聖福寺阯」碑。「あと」という読み方を持つ漢字には「址」「阯」「後」「迹」「痕」「趾」「跡」「踪」「墟」「蹟」「蹤」などがあり、石碑によって違うのだ。「聖福寺ハ建長六年(紀元一九一四年、一ニ五四年)四月 関東ノ長久並ニ北条時頼ノ息、時輔(幼名聖寿丸)時宗(幼名福寿丸)ノ息災延命ノ為建立セシモノニシテ、其ノ寺号ハ両息ノ名字ニ因ミシモノト伝ヘラルモ、廃寺ノ年代詳ナラズ、此谷ヲ聖福寺谷ト呼ブ鎌倉町青年團建」【聖福寺は1254年4月に、北条時頼(ときより)により建てられた寺です。その目的は、鎌倉幕府が長く続くことと、時頼の2人の息子、時輔(ときすけ、幼児の名前:聖寿丸[しょうじゅまる])と時宗(ときむね、 幼児の名前:福寿丸[ふくじゅまる])が病気をせず長生きできることとを願うためでした。寺の名前は、2人の息子の名前を採ったものと伝えられていますが、この寺が廃止された時期よく分かっていません。 この谷を聖福寺谷(しょうふくじがやつ)と呼んでいます。】と。・建長6年:1254年。宝治-建長-康元。天皇は後深草天皇(89代)、将軍は宗尊親王(6代)、 執権は北条時頼(5代)・北条時頼:1227-1263。鎌倉幕府5代執権。建長寺を建立。出家後は最明寺殿。次に近くにあった「熊野権現社」を訪ねた。正面に石鳥居、その奥に石宮の社殿が。社号標「熊野權現社」。石宮の「社殿」。「不動明王」の石像も。そしてこの日の最後に「龍口明神社(りゅうこうみょうじんしゃ)」まで車で向かう。駐車場に車を駐め石鳥居に。鎌倉市腰越1548−4。社号標「龍口明神社」。「掲示板」。石灯籠。「記念碑 龍口明神社由来御祭神 玉依姫命(神武天皇母君) 五頭龍大明神 玉依姫は海神族の祖先豊玉彦命の姫君に在して彦炎出見尊の妃に在します上に鵜鷀草葺不合尊の母神に在しまし、豊玉姫の妹御に在し給ひ、龍神として尊崇された。 五頭龍大明神の御由緒は欽明天皇十三年四月十二日戌の刻より二十三日辰の刻に至る迄大地振動して終日息ず。即ち孤島を湧出した此を江の島と云い天女降む。是辨戝天の作るところなり。天女惡龍の惡業を戒めた。龍は遥かに天女の麗質を見、其の後改心し村人に害を与えることなく山と化した。村人はその山の海に突出た所の龍の口の様な岩上(龍の口)に社を築き白髭明神と称し村の安泰を祈願した。此龍口明神社の発祥と伝えられている。養老七年三月より九月迄江の島岩窟中にて泰澄、慈覚両大師が神業修行中夢枕に現れた神々を彫作し辨戝天一体を岩本院に、二体を白髭明神社へ納めた。即ち玉依姫命(長さ五寸)と五頭龍(長さ一尺)の御木像が御神体である。此の時、龍口明神社と名付け、江の島と当社の繁りと両地の平和と隆昌を祈願した。鎌倉時代には神䕶により如何なる惡業をした者も此処に血を流すことにより世人に尽すと此の前の地を刑場とした事もある。又氏子はその祟りを恐れ当社の移転改築を長年拒んできた。然し大正十二年関東大震災で全壊した社を昭和八年改築し今日に至ったが、境内地が藤沢市片瀬地域内の飛地津一番地に有ることゝ時代の推移と共に同地区の発展及び人口増加に伴い御祭神のご神慮に依り、此度氏子百余名は江の島遠望清浄の地、竜の胴に当る蟹田ヶ谷一五四八番地の四の当地に遷座申し上げ、此の地の守護神として奉祀するものである。」「龍口明神社」の白い幟の先には。「御神木」はタブの木であろう。正面に「二の鳥居」。「手水場」。龍の手水口。「社務所」。「拝殿」前方に。もともとは龍口(たつのくち)の龍口寺西隣に建っていたが、安政2年(1773年)に龍口が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われた。鎌倉時代には刑場として使用された時期もあり、氏子達は祟りを恐れ、長年移転を拒んでいたという。大正12年(1923年)、関東大震災により全壊、昭和8年(1933年)に龍口の在のままで改築したが、 昭和53年(1978年)に、氏子百余名の要望により、江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転した。なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、拝殿・鳥居なども、移転前の姿で「元宮」として残されているのである。狛犬(阿形像)(右)。狛犬(吽形像)(左)。「五頭龍大神」は武相鎌倉と江の島に伝わる「五頭龍と弁財天」の伝説に登場する一身五頭の龍神。「拝殿」御祭神は玉依姫命。五頭龍大神創建522年と伝わる鎌倉一の古社といわれ江島神社とは夫婦神社と云われている。723年江の島岩窟中で泰澄大師が修行中夢枕に現れた神々を彫刻。弁財天は江島明神へ玉依姫命と五頭龍大神の御木像を白鬚明神へ納めたといわれその時に龍口明神社と名付けられたと。60年毎に還暦巳年祭が行われ近年では昭和4年・平成元年に斎行。平成13年には御鎮座1450年祭が斎行。この時と還暦巳年祭に限り五頭龍大神の御神体が御開帳され江島弁財天と共に江島神社中津宮に安置されると。龍口明神社は昭和53年、龍の胴に当たる現在の地に遷座され日本三大弁財天として名高い江島神社と夫婦神社として崇敬されているのだと。扁額「龍口明神社」。「内陣」。「拝殿」の屋根。「五頭龍大明神」像が今年・令和三年(2021)十月鎮座予定であると。「社務所」。「絵馬」。御朱印を頂きました。境内を振り返る。そしてこの日の最後に訪ねたのが境内社の「経六稲荷社」。鎌倉市腰越1543−6。石鳥居を潜り社殿に進む。朱の「社殿」。扁額「経六稲荷」。境内の「庚申塔」。「この庚申塔はもと手広と津村の境の庚申塚にありましたが、永く後世に伝えるため龍口神明社のご厚意を得て当地に移しました。」「板状駒型庚申塔上辺に日月を浮き彫りし、中央に合掌六手の青面金剛像、その下に三猿がつきます。像の向かって右に「庚申供養 久遠成就、左に「正徳三年(1713)葵巳」とあります。下の壇には9名の名前がある。「駒形庚申塔」上辺に日月を彫り、中央に「庚申供養塔」と彫り、下に三猿がつく。向かって右側面に文政十一年(1827)、左側面に九月吉日とある。同じく「駒形庚申塔」。上辺に日月を彫り、中央に「庚申(以下破損のため不明)」と彫り、下に三猿がつく。向かって右側面に弘化五年(1848)戌申正月吉日とあった。「舟型庚申塔」上辺に日月を浮き彫りし、中央に合掌六手の青面金剛像が邪鬼の上に立っている。像の足元向かって右に「奉」、左側に「納」と。向かって右側面には安永三年(1774)、左手には十一月とある。「石祠」。(明治18年(1885年)銘)。「山王大権現」碑。「社殿」前にあった「石祠」には稲荷様が。そしてこの日の2回目の「古都「鎌倉」を巡る」を終え、帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.19
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『鎌倉散策 目次』👈リンク更に「檑亭」の山の斜面を活かした広大な回遊式庭園の散策を続けた。竹林の中には様々な表情の「十六羅漢像」が。「羅漢とは、完全に悟りの境地に入った仏教の修行者たちで、十六、十八あるいは五百羅漢と称され、しばしば、絵画、彫刻であらわされ、信仰の対象となっています。この十六羅漢像は石造で、山腹の竹林に座し、落ち着いた感をいだかせます。これらの像は江戸時代の作で、九州の国東半島からこちらに移し、安置いたしました。」と。様々な表情の羅漢様がここにも。タケノコも顔を出していた。レストランで出るタケノコ料理もここからのものなのであろう。竹林の中を更に進む。「この檑亭の庭は造園の係の方に、丹精して花や木やこの立派な竹林を育てております。庭を散歩なさる皆様も何卒静かに鑑賞していただき度いと存じます。柵をのりこえて中に入り、木や草花を決して取ったりなだらないで下さい。そして皆様で鎌倉に一ヶ所よりない自然に恵まれた庭を大切に育ててゆきましょう。檑亭主人」。休憩用のベンチも用意されていた。「甘味処 露庵」はこの日は閉まっていた。「コーヒー、そばだんご、おしるこ、甘酒、ところてん、氷水などをお楽しみいただける甘味処です。」「露庵露庵は茶室「月庵」に呼応じて月の光にぬれる露の美しさを想い小島二合庵師(元鎌倉市長)によって命名されました。」「石造十三重塔」。「石造十三重塔石の層塔には三重、五重、九重、十一重、十三重の塔がある。塔身に東、西、南、北の四方仏を梵字で彫った供養塔で鎌倉時代から造塔が流行した。塔右脇にめずらしい石造りの日時計もある。」これは?「日時計」。「水場」「仁王像」。阿形像。吽形像「石造 仁王像仁王さんは口を開いた金剛像と口を結んだ力士像この一対で阿吽の呼吸を示しお釈迦様の教えを守る。もと、九州国東半島にあったものといふ。」「八角堂」この堂の建つ丘は庭の中心で「まんだらが丘」と呼ばれている。「法隆寺夢殿を模して建立しました。壇の周囲には、古代瓦のコレクションを嵌入しています。また、この堂の建つ丘を仏の世界という意味で、まんだらが丘と呼んでおります。以前は本尊として観音菩薩が安置されておりましたが、盗難にあい今は置いておりません。」と。「石灯籠」。庭園の散策道を更に進む。萱葺き屋根の平屋建ての小さな建物は「寄付(よりつき)」。亀山宗月の設計、数寄屋師金子寿慶の作。石灯籠であろうか。藁葺き屋根の「寄付」を正面から。「この寄付は三畳半代目で南面中立用の腰掛をもち、亀山宗月の設計、数寄屋師、金子寿慶の作です。」茶室「月庵」「この茶屋は「月庵」と名付けられ明治四十三年(一九一〇年)京都の数寄屋師、木村清兵衛の作です。席は四畳半で水屋と台所が付属します。」明治43年、京都の数寄屋師木村清兵衛の作。4畳半で水屋と台所が付属している。別の場所から「月庵」を。「この辺りに咲く花 白芙蓉」。「酔芙蓉」と異なり赤くならない芙蓉である。6月になれば、紫陽花が咲くのであろう。「三重塔」。こちらは現代風の灯籠。そして「檑亭 本館」のレストランが見えて来た。「「檑亭」名前の由来「檑」とは「すりこぎ」のことです。古来、すりこぎは山椒の幹で造ったものを最上とし、この地に山椒の木が多くあったところから、檑亭の名がつけられました。」と。前庭には大きな石灯籠が。1階は予約無しの蕎麦処、2階は要予約の和懐石が楽しめるとのこと。2階には日本初のステンドグラスがあるのだと。前庭の菖蒲園。先ほど見た「三重塔」が前庭の奥に。ズームして。「八角堂」の屋根を前庭からズームで。そして1Fの「そば処」へ。昼食用のおにぎりをコンビニで既に購入済みであったため、「とろろ蕎麦」を注文。1000円と入亭代の倍であったが・・・・・。「福」と書かれた屏風が近くに。梅の花と菅原道真の歌『東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ』が朱記で。前庭から相模湾の水平線を見る。そして「檑亭」の「本館」を再び振り返る。そして「山門」に向かって進む。「山門」を入った右横がチケット売り場であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.18
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして次に訪れたのが「檑亭(らいてい)」。鎌倉山の「檑亭」は、鎌倉山が宅地開発された当時の様子を伝える貴重な建物で、鎌倉市景観重要建築物に指定されている。当初は「清香園」と称し、鉄道事業家・土木技術者として知られる菅原恒覧が 営んだ別荘。昭和3年7月に鎌倉山住宅株式会社が鎌倉山を宅地化しようとした際に 宅地の分譲を受け、関東大震災で倒壊した横浜戸塚の農家を昭和4年7月に移築し、 翌昭和5年に、先程訪ねた青蓮寺(鎌倉市手広)の玄関の材料を買い受けて、 本館の西北隅に増築し、これを玄関とした。昭和44年に現所有者が和風レストランとして開業し、現在に至っている。急カーブの手前右側に「山門」があった。鎌倉市鎌倉山3丁目1-1。高松寺から移築された「山門」。高松寺は1642年、日隆を開山とする日蓮宗の尼寺として西御門の太平寺跡辺りに立てられたが、1925年(大正12)の大正関東地震で本堂は全壊し、宮城県若柳町に移った。本館の北方、東側道路に面して建つ間口三・二メートルの四脚門で、切妻造桟瓦葺である。円柱の本柱間を冠木で繋いで絵様虹梁を重ね、控柱は頭貫と台輪で固める。皿斗付大斗の三斗を詰組とし、軒は二軒繁垂木、妻飾は虹梁蟇股である。禅宗様意匠を取入れた四脚門。山門の扁額は「壽延山」と当時の「高松寺」の山号がそのままに。「檑𠅘(らいてい)」と書かれた大きな看板が「山門」の先の道路脇に。「山門 ここは海抜約六十米鎌倉西御門にあった高松寺の山門(1700年頃築)当寺が宮城県に移転されるに際し、昭和6年(1931)この地に移築。高松寺は日蓮宗の尼寺であった山門形式は四脚門。もとは藁葺」。「山門」手前の右手にあった石塔にも「壽延山」と刻まれていた。「登録有形文化財 第14ー0177~0178この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」「鎌倉市景観重要建築物等 第24号 平成15年3月31日指定檑 亭 (RAITEI)檑亭は鎌倉山が住宅地として開発された当時の歴史を今に伝える貴重な建物です。本館は、横浜戸塚の養蚕農家を移築したもので、玄関部分は手広の青蓮寺からの移築によるものです。建物内部は太い梁を交差させた天井、ステンドグラスの窓、須弥壇を模した暖炉、古道具を用いた家具・照明器具など、和洋折衷の特異な空間が創り出されています。入口に立つ山門は、禅宗様を基調とした四脚門で、西御門にあった高松寺から移築されたものです。緑に囲まれた鎌倉山に佇む檑亭の建築物は、鎌倉山ならではの優雅な雰囲気を醸しだしています。 建設年 昭和4年(1929)設計者・施工者共に不詳 ◎ 一般公開はしていません 鎌倉市」「廻遊式庭園 檑𠅘」500円を支払い「檑亭」内部に入る。500円は「御食事券先払」扱いでレストランで利用できたのであった。「庭園裏山(百仏崖奥)に鎌倉山天満橋が祀られています。学業・成就・冤罪除の飛梅絵馬もおいてございます。ご参詣下さいますよう。」「山門」をくぐると、庭園へと続く石畳のアプローチが。正面に「青蓮寺」から移築された「玄関」と左手に「本館」。「玄関」上の彫刻。「玄関 鎌倉手広の青蓮寺(鎖大師)の玄関が関東大震災で倒壊した古材を補修移築 本館 2003年3月鎌倉市景観重要建築物に指定された本館は、横浜市戸塚の豪農猪熊家の旧宅を 昭和4年(1929年)に移築改築したものです。江戸時代の大地主の住宅建築の重厚さを しのばせます。」「檑亭散策マップ」。 【https://www.raitei.com/garden.html】より玄関の横から下に階段を下りていくと右手に石灯籠が並ぶ。 宝永4年(1707年)と… 山門と同じく、高松寺の灯籠らしい。別の角度から。「五重塔」。更に進むと「百仏崖」。「山門建立の際、崖地を埋め、石垣、石壁を築き、各所より無縁仏を迎え安置しました。この数およそ百体になったところから、百仏崖と名付け、現在でも春秋のお彼岸の際は、円覚寺僧堂の修行僧の方々に供養をお願いしております。読経の声がこだまし、荘厳な空気に満たされます」と。「百仏崖十王、十三佛、四天王、なぞは筑前國より昭和八年この地に移された。十王の本地は久成如来深位菩薩で、亡者が冥土に赴くとき初七日より第三周年まで順次十三法庁に於いて生前の善悪行為を◯明せるゝとのことである。故に現在は春秋の彼岸の折りには北鎌倉から供養の為に多数の僧侶にお参りして頂いています。」各所の無縁仏を迎え安置した数が百体。現在でもお彼岸の際は円覚寺の修行僧が供養を行っているのだと。様々な角度から無縁仏を追う。「無縁界法塔」。複雑に積み上げられた石塔。「石造碁将棋盤」。「碁盤」。縦横19本の線を持つ盤を19路盤と。「将棋盤」。縦横9マスずつ、計81マス。「石造碁将棋盤囲碁、将棋を中国では文人墨客の遊びと呼ぶ。この盤はいかにもそれにふさわしく深山に遊ぶ仙人の姿を彷彿させる。」「碁盤」の横には、対戦用の石椅子もあった。石造りの「貫なし鳥居」か?「鎌倉山天満宮」のものであろう。その先にあったのは「二宮金次郎像」。正面から。理知的な顔であった。本の上にはお賽銭が。そして「鎌倉山天満宮」が最奥にあった。「鎌倉山には戦前まで天満宮が祀られていましたが、参詣者も絶え、社殿も荒廃してしまいました。それを悲しんだ人々の尽力で昭和52年(1977年)に再建され、改めて筑紫大宰府天満宮から神霊を勘請いたしました。ご祭神の菅原道真公は、学問成就・冤罪祈願の神様として親しまれております。毎月25日には「月例祭」を執り行っております。また、檑亭では道真公由来の「飛梅絵馬」をお分けしております。祈願には白梅の絵馬、その御礼には紅梅の絵馬をご奉納ください。」と。石鳥居と石段の上に「社殿」が。「鎌倉山天満宮」の「社殿」。「内陣」。「天満宮昭和五十二年(一九九七年)旧正月に太宰府天満宮から分祀されたものです。学業成就、冤罪除にご参詣下さい。「御飛梅絵馬もお預け致して居ります。鶴岡八幡宮の古材を拝受して建てられました。」「社殿」の前から石段、鳥居を見下ろす。マップがここにも。「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」であろうか。宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種。そして「石造十王像」。「閻魔大王を中心とした10人の地獄の王様で、亡者の裁きを司ります。国東半島から移動安置しております。」と。閻魔大王を中心に10人の地獄の王様たちが並んでいた。中心に鎮座する「閻魔大王」。向かって右側。向かって左側。「石造十三像閻魔大王を中心とした十人の地獄の王さまたち、亡者の裁きを司さどる。この一連の石造も九州からこの百仏崖に移動安置されたものである。」十六羅漢群(じゅうろくらかんぐん)。右手に三重塔であろうか?「羅漢とは悟りの境地に入った修行者の事、十六・十八・五百などの羅漢像が日本各地に存在し、信仰の対象にされています。檑亭の十六羅漢像は大分国東半島から移設したものだそうで、江戸期の作だと。静寂の竹林や草むらの中に鎮座しています。」と。様々な表情の羅漢様。苔むした散策道を足元に注意しながら進む。竹林の葉音を楽しみながら。竹林の中、正面に見えて来たのが「永楽洞門」。近づいて。潜って反対側から。高松寺の檀那水野家の家紋、「永楽通宝紋」と「沢潟紋」(おもだかもん)が浮彫りされた門。水野家は清和源氏の一流。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.17
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「青蓮寺」を後にして、次は裏にあった「熊野神社」に向かう。「鎖大師」バス停の横に名所案内があった。「青蓮寺」の脇の道を100m程西に向かって行くと正面に石鳥居が現れた。石段の上に「熊野神社」拝殿が姿を現した。狛犬・阿形(右)。狛犬・吽形(左)。「拝殿」。鎌倉市手広5丁目1−1。祭神:伊弉冉命(いざなみのみこと) 事解男神(ことさかのおのかみ) 速玉男神(はやたまのおのかみ)。手広の鎮守。もともとは青蓮寺支院の宝積院が管理していたとされ、本地仏は如意輪観音であったという。このことから青蓮寺の鎮守であったのかもしれないが、宝積院が江戸時代に廃寺になったので詳しいことはわからない。慶安元年(1648)の棟札には「別当宝積院」と見え、『新編相模風土記稿』にも「宝積院持」とある。またこの棟札には領主大岡氏・年寄和田氏・名主内海氏の他、官途衆(かんどしゅう)・百姓衆が見える。例祭の日に社殿の鰐口(社殿や仏堂につるされている金属製の音響具)を叩くと、「どんどん」という音がして神様が出てくるという伝説がある。社殿に棲みついた「てん」が音に驚いて飛び降りてくるので、このような伝説ができたと。扁額「熊野神社」。境内の石塔。石祠が並んでいた。「拝殿」前にはイチョウの老木が。「拝殿」前から参道を見る。そして同じ道を引き返し、「青蓮寺」前の県道304号線・腰越大船線まで戻り横断歩道を渡る。再び「青蓮寺」の山門を見る。道路を渡った場所にも「鎖大師」と刻まれた石碑がポツリと。そして直ぐ先あったのが「歓廣稲荷大明神(よしひろいなりだいみょうじん)」。足場パイプで出来た仮設の手摺を利用しながら慎重に石段を上って行くと朱の鳥居と「社殿」が。比較的新しい「鳥居」と「社殿」であった。扁額は古く「正一位 歓廣稲荷大明神」。「内陣」。祭神:稲荷神(宇迦之御魂神( うかのみたま )/ 五穀豊穣の神)。そして県道を西鎌倉方面に向かって、擁壁の下の歩道を進み、カーブを過ぎると坂の頂上になるが、その手前に左手に戻るような急坂があり、ここを進む。左手にあったのが鎌倉景観百選の一つ「谷戸坂の切通し」であったが・・・。残念ながらバリケードが設置され「危険 落石のおそれがあるので通行を禁止します」と。フエンスの隙間から「谷戸坂の切通し」を。昔はこの切通しを歩いた記憶があるのですが。いわゆる「鎌倉七口」とは別の切通しであるが、原型のよく残っている切通しの一つ。鎌倉では一番迫力のある切通しだと思うのですが、残念ながら。写真の石碑には漢字だけが刻まれていた。「惟時維安政年間我郷有篤志家細谷久兵衛 内海津左衛門 和田茂左衛門之三氏 大奨励実業転計公益当時於隣村津有荒野氏等斡旋 而共村民開拓之五町三段有歩称字猫池台大井窪于仝?仰其福徳爾来星移物変?恨?其功績不垂竹帛茲同志者相謀鏤石而顕彰之明治卅三年十月建之 当村 齋藤政吉作並書」であると「ネット」👈リンク より。安政年間(1854~1859)に細谷久兵衛、内海津左衛門、和田茂左衛門等有志が、隣の津村の荒野氏等を斡旋して、字猫池の辺り5町3段(反)を開拓した功績を称える顕彰碑の様である。一番迫力のある切通し・「谷戸坂の切通し」を意地でもカメラでとフェンスの隙間から。切通しの下の道は小竹が生い茂ってしまっていた。そして再び車に戻る為に、擁壁のある県道の坂道を、往路とは反対側の歩道を下る。そして途中にある「トンネル」は「ヤマノイハイツ手広」というアパートの居住者用のトンネルなのであった。何故かこの入口部分だけが黒変しているのであった。入口には「ヤマノハイツ手広」と「私有地につき関係者以外通行禁止」の看板が。そして歩道から、先ほど訪ねた「青蓮寺」の境内を望む。「本堂」を高見で正面から。そして「青蓮寺」の駐車場に戻り、車で次の目的地の鎌倉山にある「普賢光明寺」に向かう。民家の入口の様な「普賢光明寺」、表札には名字も。鎌倉市鎌倉山4丁目8−2。「普賢光明寺は平成19年に建立された新しいお寺です。故に、古来のお寺のように檀家やお墓を持たず、信徒の方々のご協力によって成り立っているお寺です。」とネットには。「山門」と「本堂」。「本堂」の「内陣」。次に徒歩で近くにあった「靈元根本道場」に向かう。途中、民家の生垣にはピンクの「トキワマンサク」の花が満開で迎えてくれた。「靈元根本道場」鎌倉市鎌倉山4丁目11−8−4「南無妙法蓮華経 靈元根本道場」碑。通称銭洗大黒天。開山は大本山本圀寺68世久村諦道上人(松葉谷長勝寺54世)とのこと。単立寺院であると。「銭洗大黒福聚尊天法華総本寺大本山本圀寺六十八世久村日鍳猊下により開眼された銭洗大黒聚尊天に、天・地・人を司る福禄寿無量の御利益を授け下さる神様てす。その御本地は久遠実成本師釈迦牟尼佛です。(大黒天神)。俗世の銭は、沢山の人々の欲念、執着心が凝り固まって災いを起こします。この悪想念を大黒天即ら釈迦佛・日天の威神力に依って洗い流し、清浄な神の銭に替える作法が銭洗なのてす。一心に大黒様に祈りながら、銭に御水を掛けて、己の邪悪な欲心と銭に憑いた執着心を共に大黒天に御供養するのです。銭洗い供養した銭のうちの一部を浄財・福銭としていただき、お守りとして次の機会まで身につけて幸・福を呼ぶのです。欠かさず大黒様に供養した人は必ず現世安穏後生善処と佛の世界へ行けるのです。大黒天神授文寿福増進安穏楽 除病延命息災我福我円満重果報 衆人愛敬従恭敬 入来衆人得七寳南無妙法蓮華経(大黒徳自在円満菩薩陀羅尼呪)法華総本寺大本山圀寺別院靈元根本道場 謹告」台座に「知法思國」と書かれた像は日蓮上人像であろうか。そして鎌倉山ロータリー。鎌倉市鎌倉山4丁目1-5。鎌倉山ロータリーには「鎌倉山」碑が建っていた。関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の鳥居の石柱を再利用したものであると。そして道を間違えながら、徒歩にて「夫婦池公園」の前まで行く。その先に「しのぶ塚」。しのぶ塚は笛田山佛行寺の「源太塚」と対になる塚である。この「しのぶ塚」は昭和48年(1973年)に建立されたもの。「しのぶ塚」は、梶原景季の妻・信夫のもの。景季の父景時は、御家人66名の弾劾に遭い、景季とともに謀反を企てて駿河国で討死した。信夫(しのぶ)は嘆き悲しみ自害したと伝えられている。そして再び車に戻り、次に訪ねたのが「鎌倉山さくら道」。「鎌倉山さくら道」沿いにあった「佐佐木信綱文学碑」。鎌倉市鎌倉山3丁目21−11。 「日ぐらしに 見れどもあかず ここにして 富士は望むべし 春の日秋の日」歌碑がある所に住んでいた弟子の要望により詠んだそうだが、今は竹林が迫っていて富士山の姿は見えなかったのであった。昔は案内プレートが石碑の裏にあった記憶があるが・・・撮影を忘れたのか?そして右手にあったのが「ル・ミリュウ 鎌倉山」。高台にあり鎌倉の景色が一望できる人気のカフェであるようだ。「鎌倉山記」に到着。「夫婦池公園」碑。ここからも「夫婦池公園」に行ける山道があるようだ。「夫婦池公園」案内図。「夫婦池公園」は、鎌倉山(鎌倉市の西に位置する)の山合いにある2つの池(上池・下池)と桜が有名。豊かな自然が残されており、ヨシの群生地、イワボタン、ツリフネソウ、ハンゲショウなどの貴重な植物が自生し、カワセミ等も生息する場所として鎌倉でも隠れ家的な公園となっているとのこと。開園時間 8:30 ~ 17:15(通常)休 園 日 12月29日 ~ 1月3日「夫婦池」への「山道」が確認できた。「【夫婦池の由来】約330年前の江戸時代天領の頃に代官(成瀬五佐衛門重治)が笛田村に灌漑用水として現在の下池を掘らせました。その後、笛田・手広の住民により中央の堤が建設されて上池と下池ができました。上下一対の池のため、現在「夫婦池」と呼ばれています。」とネットから。そして大きな石碑が道路脇にあった。「鎌倉山記「天慶の乱に平貞盛が将門を夷滅してより平氏の威勢漸やく東国に張り其孫直方鎌倉邸に在りて幾多の荘園を領有す、後冷泉天皇の世、源頼義相模守に任ぜられて鎌倉郡に入るや直方の婿となり源氏の根據を東國に植ゆ、當時京都奈良に於ける山門の豪僧が朝廷に迫るや頼義、直方等源平二氏相連引して朝廷を守護す、後頼義、義家の前九年、後三年の役に従事したる将士は實に此地方の荘園より抬頭したるものなり、當時鎌倉郡を周匝したる群峰を概稱して鎌倉山と言ふ、此等の丘岳は文献に記録せられたる以外に豪族闘爭の古戰場なりしことは親不知の嶮、戰道が峯等の地名が今猶ほ存するを見て之を知るを得べし、治承四年源頼朝が兵を相模に起し一勝一敗の後、漸やく房總の地に勢を張るや安達平九郎盛長の説に從って府を鎌倉に開き、之より荊棘の地變じて大都となる 昭和三年七月廿七日菅原通濟君同志と協力して鎌倉山を闢き道路を通じて住宅地となす、鎌倉が義貞の為に壊滅したる後六百年にして嶮峯の上に彩瓦の新屋起り戰道變じて自動車道となり朽創を裏む苔土に吉士の笑語を聞き釵玉の埋もれたる短草に妙婦の衣裙飜へり昇平の氣蒸々として山谷の間より湧く、昭和十年七月余此地に遊び菅原君と共に風物の變化を語り歩して鎌倉山神社の石磴に昇れば富士山、箱根連峰、天城山等の遠岫交も濃淡の色を示し斜陽陰裡に來徃する船影の彼方に大島を見天地双碧人と家と皆な畵中のものたるを覺ゆ、嗚呼、曽て鎌倉の大都が鬱然として荊棘の中より湧き出でしことを回想すれば百年の後鎌倉山の形勢それ如何ぞや之を思ふて感慨限りなし乃ち茲に此事を録して以って後世の語り草となす昭和十年七月 竹越與三郎 撰 菅原通濟 題東京青山 石勝刻 」と碑文には鎌倉山の由来が「延々と」記されていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.16
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『鎌倉散策 目次』👈リンク更に「青蓮寺」の散策を続ける。境内の「ししおどし(鹿威し)」。今年の若竹が使われて。ししおどし(鹿威し)とは田畑を荒らす鳥獣を音で威嚇し追い払う為に設けられる装置類の総称。中央付近に支点を設けて支え、上向きに一端を開放した竹筒に水を引き入れる。竹筒に水が満杯になるとその重みで竹筒が頭を下げ水がこぼれて空になり軽くなる。その軽くなった竹筒が元に戻る際に支持台(石など)を勢いよく叩き音響を生ずるのだ。十三重塔この塔は?これも横に線が十三本あるので十三重塔か。「動物供養墓」「動物供養墓近年、犬や猫等をペットとして飼うだけでなく、家族の一員として生活を共にする方が増えてまいりました。そして、動物たちは多くの場合、人より先にその寿命を終えます。その最後を手厚く供養し葬ってあげたいと考える方々から、ご相談をいただくようになりました。そこで当山は、皆様のそのお気持ちを大切に考え、動物供養塔を建立することにいたしました。当山では、動物が亡くなり火葬された御骨を合祀し永代にわたり供養することが出来ます。動物は、時に私たちの心を癒し、時に生きがいを与えてくれる存在です。そんな動物たちの最後が、皆様に温かく見守られ供養される事を、当山は心より願っております。供養を希望される方、またはご質問等ある方は、寺務所までお気軽にお越し下さい。・・・・・中略・・・・・十二神将のご真言 :オン クビラ ソワカ伐折羅大将のご真言:オン バザラ ソワカ 平成21年9月吉日 開眼 飯盛山 仁王寺 青蓮寺 手広山 寶積院 薬王寺」「本堂」を左斜めから見る。「大黒様」。「不動明王」と二体の「童子」中央に「不動明王」。背景の赤いモミジが不動明王の後背の火焔の如し。不動明王の後背の火焔は迦樓羅炎(かるらえん)と呼ばれるもので、不動明王が火焔の中に身を置き、自らを火焔そのものにすることによってあらゆる煩悩を焼き尽くすという凄まじい姿勢を示しているのだ。これを学んだのは、「旧東海道を歩く」で我が地元の「藤沢宿」を歩いた折に、大山道(田村通り大山道)が東海道と分岐する辻堂(藤沢市城南1丁目)の四ツ谷辻に大山道道しるべがありその道しるべの上の、下記写真の「不動明王」を見た後のブログ記載時であったのだ。「矜羯羅(こんがら)童子」「不動三尊において、制多迦童子 (Ceṭaka) と共に不動明王の脇侍を務める。通常は不動明王の左(向かって右)に位置する。「矜羯羅」とは、サンスクリットで疑問詞の矜 (kiṃ) と、「作為」の意味である羯羅 (kara) を合わせたもので、直訳すれば「何をするべきかを問い、その命令の通りに動く」という意味であり、奴僕や従者を指す普通名詞であるが、矜羯羅童子の場合は不動明王の奴僕三昧を表すとともに、仏法に対して恭敬であるさまを意味している。十五歳ほどの童子の姿をしており、蓮華冠をつけ、肌は白肉色である。合掌した親指と人差し指の間に独鈷杵をはさんで持つ。天衣と袈裟を身に着けている。」とウィキペディアより。「制多迦(せいたか)童子」。「不動三尊において、矜羯羅童子(こんがら Kiṃkara)と共に不動明王の脇侍を務める。通常は不動明王の右(向かって左)に位置する。「制多迦」とは、サンスクリットで奴僕や従者を意味する。十五歳ほどの童子の姿をしており、五智如来における「五智」示す五髻を結び、肌は紅蓮色である。左手には金剛杵、右手には金剛棒を持つ。瞋心悪性であり、袈裟は着けず、天衣のみを頸と肩に無造作に巻きつけている。」とこれもウィキペディアより。「奉寄進 不動明王 矜羯羅、制多迦 両童子」庭園の池に架かる石橋。「聖徳太子像」お顔をズームで。「南無聖徳皇太子」碑。「六地蔵」像の前の石碑には「奉寄進六地蔵 為雨親十三回忌追善菩提 平成ニ年七月吉日 藤沢市本鵠沼 林一郎 青蓮寺現住 権中僧正金弘代」墓地の最奥を見る。「本堂」を斜めから。月の模様のある石灯籠。「椿地蔵」。かつては、鎌倉街道(県道32号線)の手広の交差点付近にあった地蔵尊。大豆の数珠を供えてお参りすると「いぼ」が取れるという言い伝えから「いぼ地蔵」・「いぼとり地蔵」とも呼ばれていたのだという。地蔵の前には、いぼをイメージした丸い石?が祀られていた。庭園の池に架かる石橋には二羽の野鳥が日向ぼっこ中。「コガモ」であろうか?「大師像」。「大師像」。墓地の最奥まで墓石、石仏が並ぶ。古そうな石仏、墓石も多く。道路脇の擁壁の中に色の変わった部分が確認できた。ツツジも咲いて。「大師像」。「陣出の泣塔」その昔、洲崎合戦の戦死者の供養塔(宝篋印塔)を青蓮寺に移したところ、毎晩、すすり泣くような声がしたため、元の場所に戻したという言い伝えがある。境内には様々な花も咲いていた。「カラー」の花であろうか。滝の近くに「不動明王」。ズームで。滝の水は僅かに。書かれている文字は殆ど消えて。境内から本「本堂」、「山門」方向を見る。屋根の紋は?「塔頭寶積院薬王寺」と「弘法大師一千百年御遠忌供養塔」を見る。アセビの下の「大師像」そして蛙の像を。「蛙の像」。奉納された「灯籠」。「御朱印」。そして「山門」を出て、「鐘楼」を振り返る。「鎖大師 青蓮院」の「新規墓所受付」案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.15
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『鎌倉散策 目次』👈リンク青蓮寺の散策を続ける。「塔頭 寶積院 薬王寺(たっちゅう ほうしゃくいんやこうじ )」江戸時代まで、青蓮寺には、寶積院と東福院の二つの塔頭があった。その一つ寶積院が本堂の前に再建されている。本尊は薬師如来。江戸時代には熊野神社の管理も行っていたという。扁額は「手廣山(てびろざん)」。「青蓮寺塔頭手広山 寶積院 薬王寺(地下納骨堂)青蓮寺には、江戸時代に二つの塔頭寺院があり、その一つを再建したのが、この「手広山寶積院薬王寺』です。当時は、手広の熊野神社も『寶積院薬王寺』が管理運営に当たっていました。ご本尊「薬師如来」は、江戸時代に安置されていた仏像で、左手に薬壺(やっこ)を持ち、右手は施無畏(せむい)の印を結んでおられます。施無畏の印とは、人の心から恐れる気持ちを取り除く意味があり、病を應し恐怖を取り除いて下さる仏さまです。阿弥陀如来の西方極楽浄土に対して、薬師如来は、東方浄土を表します。」「本堂」横にあった井戸。石柱には「奉寄進為両親菩提井戸壱基」と。蛇口柱の上には大きな石の蛙が鎮座。懐かしい手押し井戸ポンプも健在のようであった。「本堂」前の「常香炉」の建物・香閣(こうかく)も立派。煙を浴びることで、心のお清めを行う場ですが、同時に、煙を体の痛いところや具合の悪いところにあてると、改善するといわれているのです。「手広山 寶積院 薬王寺」案内板。「手広山 寶積院 薬王寺 について 青蓮寺には、江戸時代2つの塔頭(たっちゅう)寺院、寶積院と東福院がありました。塔頭寺院とは、お寺の中にあるお寺を意味します。その1つを再建したのが、この手広山 寶積院薬王寺です。青蓮寺は安土桃山時代の天正19年(1591)に徳川家康から寺領を安堵される程に由緒あるお寺でした。寺領を安堵された印しを朱印と言いますが、徳川幕府になってなってからもこの朱印は更新されていました。寺領は、現在の手広交差点(山門から約500m先)付近までありました。その為に幕府の政策として青蓮寺から力を削ぎ、その力を分割する為に創られたのが寶積院であったと言われています。江戸時代は、手広の熊野神社も寶積院が管理運営に当たっていました。本尊の薬師如来は、江戸時代に安置されていた仏像で、左手に薬壺(やっこ)を持ち、右手は施無畏(せむい)の印を結んでおられます。施無畏の印とは、人の心から恐れる気持ちを取り除く意味があり、病を癒し恐怖を取り除いてくれる仏さまです。阿弥陀如来の西方浄土に対して、薬師如来は東方浄土を表します。 名 称:手広山 寶積院 薬王寺 (てびろざん ほうしゃくいん やくおうじ) 本 尊:薬師如来 宗 派:高野山真言宗 設 立:平成18年1月31日 高野山 金剛峰寺本山に正式登録され開山 建 物:地上 寶積院 地下 納骨堂 備 考:宗教法人としては、青蓮寺が寶積院を包括して管理運営しています。」「本堂」を斜めから。大師像。「本堂」。弘仁10年(819)に弘法大師空海が開いた寺。本尊の弘法大師像(重要文化財)は鎖大師[くさりだいし]とよばれ、両足の関節が動くようになっている。公開は1月21日・4月の第3土曜と8月16日、12月21・31日。静かな境内には薮内佐斗司の五輪塔童子が立つ。「鎖樋(くさりとい)」と「天水受け」。「鎖大師」の寺だけに「鎖樋」にも力が入っていたのであった。「天水受け」も歴史を感じさせるのであった。「本堂」正面。扁額は「鎖大師」。「関東八十八ケ所霊場 第五十九番 飯盛山 青蓮寺」。蟇股の見事な龍の彫り物。「木鼻」(右)。「木鼻」(左)。「大黒様」像。「弘法大師一千百年御遠忌供養塔」。「塔と庭園についてこの塔は、五輪塔を本尊として萬霊供養と諸祈願成就の為に建立いたしました。五輪塔は、真言宗=密教では、宇宙の主要構成要素の五大を形で表したものです。諸大を加えた六大で一つの完成された形となります。詳しくは、五輪塔近くの五輪塔の展開図をご参照下さい。完成された形=五輪塔=真理=大日如来となります。五輪塔は、密教の根本仏である大日如来を表す一つの形にもなります。塔婆は、この五輪塔を形どって作られています。この五輪塔の中には、水晶で作られた宝珠型の舎利器が安置されています。その舎利器のなかには、金・銀・瑠璃・硨硨磲(しゃこ)・瑪瑙・珊瑚・真珠等の宝玉と舎利が祀られています。舎利とはお釈迦様の遺骨のことですが、現在では青森県津軽半島の舎利が浜などで僅かに採取できる自然の力で生成された限られた色・形・大きさの瑪瑙系の石をお加持し、舎利として安置しています。五輪塔童子は、それぞれが頭の上に青い蓮の花を咲かせ、その上に金色の五輪塔を乗せています。この青い蓮は、青蓮寺の名前に由来しています。そして、五輪塔を表す5つの梵字をそれぞれの童子が持っている姿になっています。この五輪塔と五輪塔童子は、東京芸術大学大学院教授 薮内佐斗司先生の造立によるもので平成20年2月14日に開眼をいたしました。この塔周辺の造園工事は、有限会社フカワガーデン 普川清氏 監修の元に整備されました。そして、この五輪塔・五輪塔童子・基礎工事・塔周辺の造園工事費用は、全て東京都在住の信者さんが、ご先祖のご供養の為にご寄進されました。当山と致しましては、その行為に多大なる感謝をすると共に、そのお気持ちを寺院発展と社会貢献に繋げていきたいと考えています。青蓮寺は、当山がどなたでも気軽にお参り出来る場所に、ご先祖やご縁の有った方々のご供養に始まり、今を生きる私たちの願いごとをする場所として、子どもたちが楽しく遊べ、人々の心が癒される空間になることを目指し境内の整備を進めています。 飯盛山 仁王寺 青蓮寺 第64世住職 手広山 寶積院 薬王寺 第1世住職」庭園と前の道路脇の擁壁を見る。これでもかと「大師像」。シャクナゲ(石楠花)の花も満開。薮内佐斗司(やぶうちさとし)氏の五輪塔童子を追う。それぞれ金運、健康運、勝負運、出会い運、恋愛運をもたらすとされていると。優しく触れながらお願い事をすると願いが叶うとのこと。「きゃの五輪塔童子」。「きゃの五輪塔童子ラッキーカラーは青。ものごとの真実を観察する智慧を授かりたい時。やっぱり人生「愛」が大切。だからこそ愛や恋に悩んでしまった時、また西方を旅行するならこの童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「かの五輪塔童子」。「かの五輪塔童子ラッキーカラーは黒。正しい行いをする智慧を授かりたい時。出会いが必要な時、人や物事を引き寄せたい時、また北方を旅行するならこの童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「らの五輪塔童子」。「らの五輪塔童子ラッキーカラーは赤。自分の心やものごとを在りのままに映し出す智慧をを授かりたい時。自分を見つめ直したい時、勝負ごとに勝ちたい時、東方を旅行するならこの童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「はの五輪塔童子」。「はの五輪塔童子ラッキーカラーは白。宇宙との一体感、宇宙の一部である自分を感じたい時。やっぱり普段の生活が大切で、健康に過ごすのが一番の時には、この童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「あの五輪塔童子」。「あの五輪塔童子ラッキーカラーは黄色。全てを平等に見る智慧を授かりたい時。商売繁盛やBusinessでの成功、そして金運アップを目指す時、また南方に旅行に行くならこの童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「五輪塔展開図」案内板。「五輪塔展開図真言:アビラウン ケン バザラダドバン萬霊(ばんれい)供養と諸祈願成就のために建立され、商売繁盛や勝負運、健康運、恋愛運などをもたらすとされ、手で触れながらお願い事ができます」「供養塔(五輪塔)」。「南無大師像」。この文字は「和」であろうか?正面から「南無大師像」を。「本堂」を再び。かなり古そうな「大師像」。「大師像」を何体カメラに収めたであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.14
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は「古都「鎌倉」を巡る」の2回目。この日は車で行き、古刹等の駐車場に車をその都度置かせて頂き、周囲の寺院、神社等を巡ったのであった。最初に訪ねたのが「稲荷神社(三十番神宮)」。鎌倉市手広3丁目13−8。「石鳥居」。「社殿」。小田原・北条氏の家臣であった腰越津村の玉縄北条氏の家臣「嶋村釆女氏」が、晩年津に移り住んだ時に隠居所の守護神として祀り、笛田の日蓮宗「佛行寺」が別当寺となった。明治八年ごろ、宮辺の指示(神仏分離)により取り壊されそうになったので、嶋村家の稲荷祠を遷座し、これは稲荷神社であると届出て取り壊しを逃れた(鎌倉こども風土記参照)といういきさつは興味深い。以来、稲荷神社として守られて来たと。「社殿」に近づいて。三十番神宮の祭礼としては、10月9日に佛行寺住職による祭礼、その後講中による直会(なおらい)が執り行われる。又、稲荷神社としての祭礼は、1月31日に岩瀬の「五社稲荷神社」の宮司によって行われ、合わせて稲荷講などを行う。過去のいきさつ(歴史)から、一つの神社で、仏式と神式の祭典がそれぞれ毎年あるのは珍しいとのこと。扁額は「三十番神宮」。古くから「番神さま」(ばんしんさん)と呼ばれてきた堂。「三十番神」というのは、「一ヶ月三十日間、交替で国を守るとされる神」のこととされている。また、日蓮宗では、「法華経の信仰者を守る神」として三十番神を祀るという習慣があった と。「内陣」。境内にある「稲荷神社祠」。登記上は主神。「庚申塔」は明治29年(1896年)の銘が。小さな五輪塔。「修行一千ヶ寺供養塔 南無妙法蓮華経 逆修霊隻院鶴?山?日林信士」。「平成御大典記念植樹」の梅の木?。そして次に「青蓮寺」へ。鎌倉市手広5丁目1−8。駐車場の周囲には石碑が並んでいた。「弘法大師一千年御忌供養塔」。「青蓮寺‥持‥記念之碑」。「鎖太師 護摩本山 桂林記念 之碑」「玄關一宇」と刻まれた石碑。「玄關一宇」の意味は?「南無大師遍照金剛」碑。この石碑は「神田末廣講」と書かれているのであろうか。「御自作 鎖大師 相州二十一箇所第十九番札所」「相州廿一ヶ所第拾九番札所 鎖弘法大師」碑。「青蓮寺飯盛山青蓮寺と号し、開山は弘法大師で本尊は鎖大師です。この本尊は鎌倉時代中期の写実的彫刻で国の重要文化財に指定されています。」そろそろ新しい物に更新をお願いいたします!!「山門」を正面から。山門に掲げられている寺標。右側「高野山 真言宗 準別格本山」左側「飯盛山 仁王院 青蓮寺」。「山門」を潜ると直ぐ右側、枝垂れ桜の先に「鐘楼」。「サクラ”八重紅枝垂”ゆるく垂れた枝に、紅色八重咲きの美しい花がつきます。」開花の時期には。廻り込んで別の角度から「鐘楼」を。立派な石垣台座の上に。近づいて。見事な三手先組物であろうか。梵鐘。「南無大師遍照金剛」の文字が。こちらも別の角度から。「鎖大師遍照殿」と刻まれていた。境内の至る所に様々な石像がこれでもかと言うほどあった。「不動明王」像。「弘法大師像」。右手に持つ「五鈷杵(ごこしょ)」、左手には「数珠」。「東高野山奥之院 東京永楽講」と刻まれた石柱。花を付けた大きなアセビの樹の下にも先程と同様な像が。これも「弘法大師像」であろうか。「第二番」の文字があるが。緑の溢れる境内の参道を「本堂」に向かって進む。「南無大師遍照金剛尊」の幟の間にあった石碑。「念佛碑記竝銘」であろうか。(明治33年(1900年)銘)。」青蓮寺由来が記されているようだ。ここにも「大師像」。それぞれの講中や信徒が奉納したもののようであった。これも。「手水場」。鉢には湧き水?が溜まっていた。「庫裡」。扁額「阿字第一生命」と「くずし字の先生」から。「大師像」。「南無遍大師照金剛」碑。右手に「寺務所」。「不動明王」。「南無大師遍照尊」。「稚児大師像」色の付いた「不動明王」。可愛らしいパンダ等の像も。「大師像」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.13
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして次に訪ねたのが日蓮宗の寺・「仏行寺」。鎌倉市笛田3-29-22。正面に銅板を葺いた薬医門様式の「仏行寺」の「山門」。寺号標「笛田山 佛行寺」が「山門」左手に。題目塔「南無妙法蓮華経 日蓮大士」。裏面には「引導精霊法界万魂」と刻まれていた。法界とは、真理の世界、全宇宙のことで、万魂とはこの世の中の、一切の生きもののこととされている。この塔は供養塔としてありますが、造立することが供養の目的ではなく、造立し万魂をこの塔に宿らせ供養することが目的とのこと。側面には「笛田山佛行寺」と。「山門」を潜って境内へ。「仏行寺のあるここ深沢地域一帯は、名将として鎌倉幕府の創成と基盤整備に多大な貢献を果たした梶原景時を始めとする梶原氏ゆかりの地域であり、梶原氏ゆかりの梶原郷はいまも「梶原」という地名として残っているのだ。梶原景時は源頼朝亡き後、有力御家人たちに敵対視され、滅ぼされてしまいます。景季も父に従い鎌倉を去った後再起を狙いますが駿河において討ち取られます。これをきいた景季の妻、信夫(しのぶ)はこの地において自害。その悲しみは癒やされることなく、いつまでも悲しい泣き声が聞こえてきたといいます。村人たちは信夫の霊を慰めるため1495年(明応4年)、仏性院日秀に供養を依頼し、この地に庵を結んだのが仏行寺の始まりといわれています。」と。「本堂」。名将 梶原景時の嫡男、梶原景季ゆかりの寺院であり、笛田の静かな住宅地にあった。開 山 仏性院日秀創 建 1495年(明応4年)本 尊 十界互具曼荼羅「本堂」の横には竹林があった。「本堂」前の右手には寺務所が。そして「仏行寺」の裏山の斜面一面には「ツツジ」が植えられ、安養院と並ぶ「ツツジ」の名所ちなっているのであったが、この日はまだ開花が進んでいなかったので、4月16日に近くまで行ったので再び訪ねてみたのであった。この日も「本堂」脇を進み裏山に向かう。裏山の斜面への狭い通路には「やぐら」があった。その先の途中の崖にもやぐらがあり、また多くの石像が並んでいた。そしてこの日は斜面のツツジが開花して美しかった。この種類のツツジの開花はこれからが最盛期。斜面の高い場所から「本堂」の裏の「庭園」の景色を楽しむ。池には睡蓮の葉が確認できたが、花の姿は未だであった。そして斜面の最頂部まで行くと墓地が拡がっていた。そして途中の通路を左に上って行く。すると正面に現れたのが佛行寺の起源とされる「源太塚」の石碑。2~3段の石垣に囲まれた直径5メートルほどの立派な塚.これが「源太塚」。この塚には梶原景時の子源太景季(かげすえ)の片腕が埋められていると伝わっているのだ。景季は木曾義仲追討の戦いのとき、宇治川の合戦で佐々木高綱と戦陣を争った人物である。景季の妻信夫(しのぶ)は悲しみ、自害したといい、それから毎夜信夫のすすり泣きが聞こえるので村人が信夫の霊を慰めるため仏行寺を建てた、という伝説があるのだと。かつてはこの付近に信夫塚もあったそうだが、現在では鎌倉山に移されているのだと。「石灯籠」。「源太塚」を廻り込んで。しかし、何故に「腕」のみ、しかも「片腕」なのであろうか?そして「源太塚」を後にし、同じ細い坂道を下って行った。再び崖の「やぐら」の中の石仏群を見ながら下る。様々な姿の石仏が並んでいた。様々な種類・色のツツジが咲き乱れていた。「地蔵様」が「本堂」裏の庭園の入口に。サルスベリの老木も新芽を出していた。そして「本堂」裏から池のある庭園そして斜面のツツジを楽しんだのであった。そして後日に再び。そして境内の寺務所前の芍薬も開花。可憐な黄色の花。そして再び「本堂」を見る。扁額は「笛田山」。本堂前にはシンビジュームの花が。こちらはデンドロビューム。そして「仏行寺」を後にして坂道を下って行くと築地塀に歌川広重の東海道五十三次の浮世絵を陶版の大型タイルにして埋め込んでいるお宅が右手にあった。築地塀は比較的新しかったが。上段「日本橋」から「品川」、「川崎」と左に。我が「藤澤」。そして「京都 三条大橋」へと。どの様な方がお住まいの家なのであろうか。先に進むと左手にあったのが「笛田東芝町内会館」この付近は東芝の社員の方々の住む住宅街なのであろうか?しかし、近くに東芝の事務所、工場はないと思うが・・・・。道路沿いの藤の花も満開近かった。そして江ノ電バス「梶原口」から藤沢駅行きのバスに乗りこの日の帰路についたのであった。この日の歩数は・・・。頑張りました!! ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.12
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして山を下り次に訪ねたのが「八雲神社前」交差点の手前にあった「円久寺」。鎌倉市常盤621。寺号標石「常葉山 圓久寺」.「円久寺」門柱。「寺務所」であろうか。境内参道を進む。題目塔「南無妙法蓮華経」「本堂」。圓久寺は、文明年間(1469~1487)開創と伝えられる由緒正しい寺院で、江戸時代には、鎌倉比企ケ谷妙本寺の末寺であった。関東大震災によって一度本堂が失われたが、直ぐに再建し、現在に至っていると。境内を取り囲むのは、四季を通じて青々と茂る竹林。しっとりと佇む本堂の美しさを、よりいっそう引き立てている。圓久寺の本堂の裏側周辺には、「北条氏常盤邸跡」として昭和53年に国の史跡に指定されており、「コスモス寺」とも呼ばれているのだと。近づいて。何故か中心線がズレていて左右が非対称な珍しい「本堂」。圓久寺は山号を常葉山(じょうようざん)、院号を感光院(かんこういん)と号し、文明年間(1469~1487)開創と伝えられる日蓮宗の古刹です。開山は日伊上人(日惺上人)といわれ、江戸時代には池上本門寺・鎌倉比企ヶ谷妙本寺の末寺。なお、この常葉山という呼称により、常葉村と呼ばれ、現在の地名である「常盤」となっているのだと。次に「円久寺」の直ぐ左隣りにある「常盤八雲神社」を訪ねた。「常盤八雲神社 由緒常盤の鎮守、此の地は平安時代後期、塚原景時の領地であり、当社は治承年間(1177~1181)に除災祈願のため建立された。慶長年間(1596~1617)当村、矢澤与左衛門光広が熊野社を勧請、これを八雲神社に合祀し、さらに明治時代、村内鎮守、御嶽神社、諏訪神社の両社も合祀された。牛頭天王とも呼ばれた素盞嗚命を祀る当社の例祭(天王祭)にも現在も当時の天王信仰の盛大さをうかがわせる神輿渡御が行われる。伝 説昔、梶原にあった加護社のご神体が大雨で流された。それを見つけた農民が山に祀り麦飯を供えたのが起こりというものである。参拝の時「常盤の天王麦天王竹の子びしゃくで水かけろ」と唱えるしきたりがあるのはこの伝説による。祭 神 素戔嗚尊 速玉之男命 伊邪那美命神 徳 除災招福 農業守護 産業振興 良縁成就例 祭 七月」石段を上って行った。正面に「社殿」。鎌倉に4つある八雲神社の一つ。ここ常盤は平安後期から梶原景時の治めた地域。鎌倉市常盤534。創 建 1177年〜1181年(治承年間)祭 神 素盞嗚命(すさのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、 伊弉冉命(いざなみのみこと)蟇股の見事な彫刻。「常磐 八雲神社」と書かれた大きな提灯が「社殿」の両側に。「常盤八雲神社」を後にし「常磐口」を左折して進む。振り返ると見えたのが「フォルム鎌倉常盤」。所在地 神奈川県鎌倉市常盤422番6号総戸数 192戸階層 地上3階建 地下1階築年月 1998年7月眺望は良いのであろうが、湘南モノレール「湘南深沢」駅 から徒歩17分。その他はバスで「藤沢駅」か「鎌倉駅」に向かう必要があるのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.11
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「極楽寺」を後にして、「桜橋」の架かる道路を鎌倉山方面の北西に向かって住宅街を進んで行った。「熊野新宮」と刻まれた石碑が郵便ポストと電柱に寄り掛かるように道路右側に。両脇に「八雲神社」、「諏訪神社」とも刻まれていたのでネットで調べてみると「極楽寺駅から5分の熊野新宮は、極楽寺の鎮守杜です。新宮社と言われます。導地蔵の前を通り、最初の曲がり角を右折してすぐのところにあります。かつては、極楽寺の境内の中にあり、建武二年(1335年)に足利直義によって土地が寄進されたそうです。現在の社殿は昭和2年(1927年)に再建されたものだそうで、翌年に同地域の八雲神社・諏訪神社を合祀したそうです。」と。石碑のあったT字路を右折して「熊野新宮」に向かって山の裾野を進む。100mほど歩くと正面に石鳥居が見えて来た。「熊野新宮」に到着。鎌倉市極楽寺2丁目3−1。正面に「石鳥居」。石段を上って境内に。「狛犬(阿形像)」(右)全身が正面を向いた狛犬は珍しい?「狛犬(吽形像)」(左)。「極楽寺 熊野新宮祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 速玉男命(はやたまおのみこと) 素盞嗚命(すさのおのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと)由緒 もと新宮社と称し文永六年忍性菩薩の勧請と伝えられ、鎌倉時代極楽寺全盛の当時より 熊野新宮と号し同寺の鎮守として広く神地を有し、厚く幕府の崇敬を受けて栄えた。 昭和三年に同地区の八雲神社、諏訪神社の両社を合祀し、極楽寺、稲村ガ崎全町の鎮守 として年々盛んな祭典を執行し、殖産興業の守護神として多くの進行を集めている。例祭 七月五日 八雲神社例祭 神輿発御 七月十二日 神輿渡御祭 九月九日 例大祭👈リンク 湯花神楽の神事あり 熊野新宮 宮司」「社殿」『忍性菩薩行状略頌』に文永六年(一二四九)四月、新宮草創のことが見え、又、永仁六年(一二九八)炎上、正安二年(一三〇〇)二月二十三日に年月を経ずして新宮を勧請したとある。建武二年(一三三五)二月には足利直義が百貫文の地を寄進している。関東大震災により昭和三年九月十日、村内の無格社・八雲神社と同・諏訪明神を合祀して極楽寺区の氏神社として年と共に盛大な祭典を行っている。現在の社殿は昭和二年の造営である。向拝唐破風懸魚、蟇股等の見事な彫刻。「本殿」を見る。向かって左の「脇障子」の彫刻。向かって右の「脇障子」の彫刻。境内の石碑群が「コ」の字型に並んでいた。右側から2基。「聖徳太子」碑。次に「庚申供羪塔」。正面右から「 白川神社 長﨑神社」碑。「神武天皇」碑。中央に「國常立尊(くにのとこたちのみこと) 御嶽山神社 八海山神社 三笠山神社」。日本神話の神。「日本書紀」では、天地開闢(かいびゃく)のときあらゆる神に先立って現れた第一神。国土生成の中心的神とされる。「古事記」では、国常立神の名で、第6番目に現れた神 であると。「大穴牟遅(おおなむじ )少名毘古那(すくなびこな)」碑。「三十三度登山」碑。富士山の登山記念碑か?「石仏」「富士浅間大神」碑。「古神札収納所」。そして引き返して先程の石碑のあったT字路を右折して進む。前方に見えて来たのが「鎌倉市立稲村ヶ崎小学校」。道路を挟んで東西に校舎が別れていた。それぞれの校舎は渡り廊下で行き来することが出来るようであった。現在でも、極楽寺3、4丁目は「西ヶ谷町内会」と呼ばれているのであろうか。民家の庭に白い珍しい花が咲いていた。ネットで調べてみたが「ヒトツタバコ」、別名「ナンジャモンジャ」であろうか?途中左に折れ進むと左手にあったのが「月影地蔵堂」。「月影地蔵」碑。境内の石仏群が左手に。正面に「月影地蔵堂」。数多くの墓碑が並んでいた。「月影地蔵堂」。もとは月影ヶ谷の阿仏尼邸にあった地蔵像をこの地に移したのでこの名があると伝えられている。地蔵堂の裏を上ると鎌倉山。陣鐘山を越えると聖福寺跡。扁額は「月影地蔵」。月影地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は、鎌倉二十四地蔵の一つ。赤い衣を着た白い地蔵尊。現在の月影地蔵尊は江戸時代のもののようであり、阿仏尼が参拝した月影地蔵尊を模したものであろう と。以前に戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第二十一番 「月影地蔵尊」の御朱印です。歴史を感じさせる墓石。更に極楽寺4丁目の住宅街のひたすら上り坂を進んで行く。山間の奥まで住宅地が続いていた。そして坂道を上り終えた場所にあった狭いトンネル。トンネル内部を鉄板で覆っていて照明が点灯していないトンネル。「打越トンネル」という名称らしいが「極楽寺のお化けトンネル」👈リンクとも呼ばれているのだと。興味のある方は上記👈リンク にアクセスして下さい。そして「極楽寺のお化けトンネル」を抜けると、鎌倉市笛田(ふえだ)6丁目に入る。よって極楽寺と苗田を繋ぐトンネルであるのだ。道路脇の「シャガ」の花が迎えてくれた。しばらく歩き「子守神社」を訪ねた。鎌倉市笛田5丁目34−6。石鳥居。その先に急な石段が続いていた。石鳥居の扁額「子守神社」。「社殿」。かつては、笛田本村という地区の一画で、「山の神」「産神」として崇められた蔵王権現社が祀られ、仏行寺によって管理されていた。戦後、開発が進み打越の住民が増えると、新たな鎮守を祀ろうという気運が高まり、昭和21年に子守神社に改称されたという。祭神は子守大神(こもりのおおかみ)玉依姫命(たまよりひめのみこと)「石祠」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.10
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「成就院」を後にして、「極楽寺坂」を下り「桜橋」まで戻る。朱色の欄干の「桜橋」。現在の桜橋は昭和32年3月に完成。江ノ電が下を走っており、赤い高欄が目印の小さな橋。再び「極楽洞」を見る。1907年(明治40年)に建造されたレンガ造のトンネルで、設計は土井治男による。平成22年11月24日に鎌倉市景観重要建築物33号に指定された。江ノ電の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社は1902年(明治35年)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している電車としては日本で最古になる。極楽洞は レンガ造りの抗門で、桜橋から見ることができるのだ。江ノ電唯一のトンネルで、藤沢方は極楽洞、鎌倉方は千歳開道と表示されている。江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を偲ばせるのだ。延長:209m、高さ:5.285m、幅:3.940m。アーチの頂部に2ヶ所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、現在でも建設当時の原型をとどめているのだと。赤い屋根の建物は「導地蔵尊」極楽寺の門前、一見民家のような御堂である。道行く人が縁側に座って寛いでいるこの御堂は「導地蔵(みちびきじぞう)」、「極楽寺地蔵」といわれ、中には鎌倉二十四地蔵の一つである立派な御地蔵様が。鎌倉市極楽寺2-2-2。扁額「導地蔵」。1267年(文永4年)、極楽寺の僧、忍性が運慶作の地蔵を安置したのが始まりといわれている。兵火によって当初の地蔵は焼失したというが、1333年(元弘3年)に起こった新田義貞の鎌倉攻めのこか定かではない。現在の地蔵像は室町時代につくられたものだと。「内陣」。「導地蔵」にズームして。以前に戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第二十番「極楽寺」の「導地蔵尊」の御朱印です。堂の横にあった素朴な地蔵尊。そして久しぶりに「極楽寺(ごくらくじ)」を訪ねた。趣のある茅葺き屋根の「山門」。「極楽寺(ごくらくじ)開山は良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長2年(1262)に北条業時(なりとき)に招かれて多宝寺住持となり、その後文永4年(1267)に極楽寺に開山として迎えられました。極楽寺は正元元年(1259)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。 ● 宗 派:真言律宗 ● 山号寺号:霊鷲山感応院極楽律寺(りょうじゅせんかんのういんごくらくりつじ) ● 建 立:正元元年(1259) ● 開 山:忍性菩薩(にんしょうぼさつ) ● 開 基:北条重時 」寺号標石「極楽寺」。その右には「當山 開基 北條重時 開山 忍性菩薩 墓 寺ノ内ニアリ」と刻まれた石碑も。「鎌倉の旧地名 寺中(じちゅう)(現在の極楽寺三丁目)現在の極楽寺三丁目のうち北側の旧字名(あざめい)で、極楽寺の境内に含まれていることが地名の由来とみられます。かって、極楽寺の境内は、現在の稲村ケ第小学校や極楽寺ニ丁目・四丁目の周辺なども含めた広大な範囲に及び、多くの塔頭(たっちゅう)のほか、施薬院(せやくいん)などの医療施設もありました。極楽寺の開山である忍性(にんしょう)は、医療・福祉といった救済事業を行うとともに、道や橋、井戸などを造る事業にも取り組んだことで知られます。極楽寺地区の旧字名として、寺中以外にも、極楽寺の北側にある谷戸「馬場ヶ谷」(ばばがやっ/ばんばがやっ)があります。忍性が坂ノ下にあった馬用の病舎において治療した馬の調馬を行った場所とされ、地名の由来になっています。」「山門」の脇右下にある小さな「くぐり戸」から境内に入った。「境内配置図」【https://omairi.info/2018/09/30/gokurakuji-tpl-keidaisanpo/#outline__2】👈リンク より参道両側の桜並木は既に終わり新緑の若葉のトンネルになっていた。以前に桜の時期に訪ねた時の写真であるが、満開時にはこの様にソメイヨシノが。この日は、わずかに八重桜が花をつけていた。右手に「太子堂」。如意輪観世音が安置されている堂。「鎌倉観音霊場第二十ニ番」札所。以前に戴いた「鎌倉三十三観音霊場第二十ニ番 極楽寺 如意輪観世音」の御朱印です。本堂前のサルスベリ(百日紅)はかなりの古木・樹齢200年以上をと。開花すれば・・・こちらはネットより。 【https://iwalkedblog.com/?p=7685】より「八重一重咲分け桜」。八重の中に一重の花を見つけました。「八重一重咲分け桜北条時宗公が手植えと伝えられ、現在の桜はその古株より発生したものである。一枝に八重と一重とが混生し、淡紅色の極めて美しい桜である。一名御車返しと云う。原産地は鎌倉桐ケ谷と言われ、この桜は当地に存在する唯一のものである。」「本堂」。屋根には北条氏の三つ鱗。極楽寺(真言律宗)は、正嘉年間(1257~59年)、北条重時の発願で正永和尚が深沢に建てた念仏堂(極楽寺と称していた。)を起源としている。1259年(正元元年)、北条重時(二代執権北条義時の三男)が、その念仏堂を現在の地に再建し、1267年(文永4年)、重時の子長時(六代執権)、業時の兄弟が念仏寺だった極楽寺を律院に改めて、当時多宝寺にいた忍性を開山に迎えた。七堂伽藍と四十九の支院を持つ壮大な寺院であったが、新田義貞の鎌倉攻めによって焼失、以後再建を繰り返したが、その度に焼失し、現在は吉祥院を残すのみ。本尊は釈迦如来。寺宝として十三仏十二番札所である大日如来、木造清涼寺式釈迦如来立像 木造忍性菩薩像 木造文殊菩薩像など。「本堂」には扁額は無く。以前に戴いた「鎌倉十三佛霊場第十ニ番 極楽寺 大日如来」の御朱印です。境内「転法輪殿(宝物館)」の前に「千服茶臼 製薬鉢」が。「千服茶臼 製薬鉢開山忍性菩薩が施薬悲田院、癩病所を設けた折に使用されたものだと伝えられる。往古社会救済事業をなした極楽寺の貴重な遺品の一つである」。赤子を抱く「子育地蔵尊」。「寺務所 納経受付」。「御朱印受付所」もここに。境内の石仏。「八重一重咲分け桜」と左手に「転法輪殿(宝物館)」。白の藤の花は開花中。ズームして。「極楽寺の井」。「極楽寺の井山門前を掘りおこした時に発見された井戸です。鎌倉石を八段積み上げての大きなものです。ここで開山忍性菩薩が粥を施したと伝えられます。昔の人々にとって憩の井戸であったろうと思われます」。「客殿」の玄関。白菖蒲。そして桜の花が落ちた参道・花莚(はなむしろ)を「山門」に向かって歩く。花嵐中での桜吹雪も見たかったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.09
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして更に進むと左手のコンクリート擁壁には大きな案内板が。「明鏡山円満院星の井寺」と「舟守地蔵」の案内板。その上には白地に墨で「南無虚空蔵菩薩」と書かれた多数の幟が。まずは「虚空蔵菩薩」を祀る「明鏡山 円満院 星井寺」への石段を上る。幟には、「日本三虚空蔵、丑・寅年生の守本尊」とも。鎌倉市坂ノ下18-28。石段下には「本尊虚空蔵菩薩」と刻まれた石碑があった。石段の上に「明鏡山 円満院 星井寺」の本殿。この石碑には「南無遍照金剛」?。「本堂」前に狛犬。「星の井水神」。「星井寺」の境内には小さな「舟守地蔵堂」があった。小さなお堂の中に船の台座に乗った石製のお地蔵様・「舟守地蔵」が立っていた。昔から海上安全、大漁祈願など、船や水に関係のある人々から厚い信仰を集めていると。「明鏡山 円満院 星井寺」高僧行基と縁あると伝えられ歴史ある寺。成就院の境外仏堂となっている。ご本尊<虚空蔵菩薩> 虚空とは無限の知恵を表し、御真言<のうぼうあきゃしゃきゃらばやおんありきゃまりぼりそあか>を唱えることで、頭脳明晰になるといわれる。*丑・虎年生まれの方の守り本尊*鎌倉13仏霊場13番札所(朱印は成就院で承ります)と。扁額は「明鏡山」。「内陣」には御本尊の「虚空蔵菩薩」が。「明鏡山円満院星の井寺(御本尊虚空蔵菩薩安置)天平年間、聖武天皇の御代に諸国行脚中の行基僧正が当地の古井戸「星月の井」に明るく輝く明星の光りが移るとのうわさを地元民から聴き、井戸をのぞくと中に虚空蔵菩薩のお姿が写し現われていた行基はそのお姿を仏像に彫り当地にお堂を建立し安置した。かの像は明星の照曜の如き光を放ち、鏡に影の移る如くでありました。以後数百年経って幕下の征夷大将軍源頼朝公はこの菩薩を崇敬し、この菩薩像を内陣仏の秘仏とし、仏師運慶に外陣仏を作らせた、これが前立尊であるという。秘仏虚空蔵菩薩はわが国では唯三体の木彫の仏像で大変貴重な仏像であります。これに加えてこの御仏は明星と一体で、その分身であり限りない知恵をそなえた御仏で、経典では虚空蔵菩薩は、西方香集世界の教主で娑婆世界の苦難する人々の利益のために無不畏陀羅尼を説くことを、釈迦・敷蔵の二仏に許された御仏であります。即ちその本尊に礼するものは三世十方一切の諸仏を礼することと同じであるといわれます。又、虚空蔵菩薩を本尊として修業する虚空蔵求聞持法では心を静かにしこの真言を唱えれば天より明星が口に入り、菩薩の威はあらわれて頭脳は明晰となり記憶力は増進するといわれております。秘仏であるが衆生に縁を結ばせるべきでるとして三十五年一度に開帳し衆生にそのお姿を拝する事が許されました。近代に至り熱心な信仰者の意に添うようにと毎年正月十三日に開帳し善男善女もそのお姿を毎年拝することが出来るようになりました。正月十三日の初護摩供養には、丑年寅年の人々の守本尊として、また、知恵、記憶力をお授け下さる虚空蔵様として地元民をはじめ各地より善男善女が参詣にまいります。」以前に戴いた「鎌倉十三佛第十三番」の「星井寺」の「虚空蔵菩薩」の御朱印です。そして「星井寺」の隣りにあったのが「星の井」。「舟守地蔵(虚空蔵堂境内安置)いつの時代に開眼されたお地蔵であるか不明であるが、往年より海上安全、大漁満足、身宮安泰、海難、水難除け、その他船舶水に関係した一切の事業に従事しておられる人々に大きな功徳をお授け下さるお地蔵として近郷、近在の人々に深く崇敬されております。また、その昔より願主の心清く精進すれば願い事を数日で成就させていだける有難いお地蔵様であるとも言い伝えられております。 昭和59年7月 虚空蔵堂護持会」「星月井」碑。碑文には「星月夜ノ井ハ一ニ星ノ井トモ云ウ鎌倉十井ノ一ナリ坂ノ下ニ属ス往時此附近ノ地老樹蓊鬱トシテ昼尚暗シ故ニ称シテ星月谷ト曰フ後転ジテ星月夜トナル井名蓋シ此ニ基ク里老言ウ古昔此井中昼モ星ノ影見ユ故ニ此名アリ近傍ノ婢女誤ツテ菜刀ヲ落セシヨリ以来星影復タ見エザルニ至ルト此説最モ里人ノ為メニ信ゼラルルガ如シ慶長五年六月徳川家康京師ヨリノ帰途鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ以テ其名世ニ著ハルルヲ知ルベシ水質清冽最モ口ニ可ナリ 昭和二年三月建 鎌倉町青年団」【この井戸は鎌倉十井(じゅっせん)のひとつです。星月夜(ほしづきよ)の井とか、星の井とも言います。この地域の名前は坂の下です。昔この付近は、木が多く昼でも暗いほどだったので、星月谷(ほしづくがやつ)と言いましが、その後、星月夜に変化しました。 井戸の名前は、多分ここからきたのものです。またここの土地の多くの老人は、次のような話を信じています。昔はこの井戸の中に、昼間でも星の影が見えたので、この名前が付いていたが、近所の者が誤って包丁を落してからは、星影がみえなくなったという話です。 1600年6月に、徳川家康(とくがわいえやす)が京都より帰る途中、鎌倉を通り、この井戸を見たことがありました。その時以来世によく知られるようになったのです。水質は清く冷やかで飲むのに最適です。】と。「星月井」、「星の井」、「星月の井」、「十井之一 星の井」と様々な表現が。「星の井(ほしのい)この井戸は、鎌倉十井の一つで、星月夜の井、星月の井とも呼ばれています。昔、(この辺りは山深く、うっそうと木々が繁り、昼でも暗かったため、)この井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。奈良時代の名僧・行基は、井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあります。井戸の水は清らかで美味だったので、昭和初期まで旅人の飲料水として売られていたそうです。 平成11年12月 社団法人鎌倉青年会議所」「星の井」には立派な屋根が取り付けられていた。そして「成就院」の東参道から境内に向かう。前方に寺号標石と東側山門が見えた。鎌倉のアジサイ三大名所として知られる有名な階段を上って行った。寺号標石「普明山 法立寺 成就院」。「相刕廿一ヶ所 第十三番 弘法大師」と刻まれた石碑。「弘法大師相模二十一ヶ所霊場」の石碑であるようだ。新たに出来た東側(長谷側)「山門」。扁額には「東結界」。「山門」を潜り更に石段を上って行った。振り返ると「由比ヶ浜」、「材木座海岸」の姿が。海岸への人出は少なく。鎌倉市大町5丁目にある焼却場「名越クリーンセンター」の煙突も見えた。そして成就院の「山門」が正面に。扁額は「普明山」。「宝篋印塔」。「御朱印」、「護摩祈祷」案内。「弘法大師像」。成就院(真言宗大覚寺派)のある地は、弘法大師が100日間にわたって虚空蔵菩薩をまつる修行を行なった場所といわれ、1219年(承久元年)、三代執権北条泰時がこの寺を創建し、北条一族の繁栄を祈願したと伝えられている(創建は1221年(承久3年)という説もある。「本堂」。成就院は、1219年に鎌倉幕府三代執権、北条泰時(ほうじょうやすとき)によって建立された寺院。この地は弘法大師が修行をした場所で、一族の繁栄を願って建立されたと。1333年、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにあい、戦火により伽藍は焼失した。その後、西ケ谷という場所に移されたが、勢いはすっかり衰えてしまった。1700年頃、成就院は祐尊(ゆうそん)という僧により再建された。現在は、アジサイの名所として、鎌倉だけでなく全国的にも有名な寺院となっているのだ。開山:弘法大師開基:北条泰時(伝)本尊:不動明王(縁結び不動明王)扁額は「成就院」。以前戴いた鎌倉三十三観音霊場・第二十一番札所「成就院」の「聖観世音菩薩」の御朱印です。境内には様々な石碑が。「成就院建立時の五輪塔の一部」。「伝文覚(もんがく)上人像萩原守衛(碌山)が文覚像制作に影響を与えた像」。「八角堂聖徳太子千三百年御忌記念に建立」扁額は「和貴」。「子安地蔵菩薩 子生石安産・子育・子授に功徳あり」。「縁結び不動明王像」近づいて。「本尊御分身 縁結び不動明王像ご縁日 二十八日」。「本尊 不動明王御分身 護摩祈祷」案内。「なで蛙善心廻幸は「善き心幸せを招きかえる」という意味であると。「十三重塔」。手水場。龍の手水は鎌倉一美しいといわれると。コロナ対策で休止中。そして「成就院」を後にして西側の参道を下っていくと、極楽寺坂の反対側に新しい阿弥陀如来像と五輪塔の姿が確認できた。ズームして。五輪塔には梵語が刻まれていた。五輪塔に刻まれている文字 ・梵字(種字、サンスクリット)は上から「キャ・空」、「カ・風」、「ラ・火」、「バ・水」、「ア・地」であると。 【http://www7b.biglobe.ne.jp/~boso/kiisobo/kiiso_04.html】よりこちらも新たに出来た「西山門」が前方に。潜り西側の「山門」を振り返る。扁額は「西結界」。「成就院境内」案内。「成就院」を後にし、次の「極楽寺」へと歩を進めたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.08
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「稲村ヶ崎公園」を後にし、国道134号を渡り稲村ヶ崎1丁目の住宅街を北上し途中を右折して進む。山の裾野の細い道を進んで行くと山の斜面にあったのが「白山神社」。鎌倉市稲村ガ崎1丁目6−5。石段の途中に朱の鳥居が有り、更に石段を上ると「社殿」が。「白山神社」を後にして来た道を戻り極楽寺川を渡り江ノ電近くのT字路を左折。江ノ電に沿って進み、踏切を渡ると直ぐ左にあった石碑には「持法日實法師」と刻まれていた。「文化八年(1811)辛未 八月二十一日」、「師は濱工實相寺歴代上人の弟子にして、当地に住し日蓮上人袈裟懸松を守りし法師なり。」の文字が刻まれていた。そして更に50m程進むと右手にあったのが「日蓮袈裟掛け松跡」。1271年9月12日、幕府に捕らえられ龍ノ口の刑場へとひかれて行く日蓮は、この地において、神聖な袈裟が血に染まるのは恐れ多いと近くにあった松の枝に掛けたといわれています。当時の松はもうなくなってしまっていたが、石碑とともに、一本の松が植えられていた。「文永八年辛未年九月十ニ日 南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 御袈裟縣松光則寺 日仁 第三十ニ世」と刻まれた石碑。まだ小さな松が植えられていた。江ノ電線路に沿った道を戻って行くと「針磨橋」の案内板があった。「この橋は、「針磨(はりすり)橋(ばし)」と呼はれ、古くから往来があった十の橋を選んだ「鎌倉十橋」の一つとして、江戸時代に刊行された『新編鎌倉志』や『新編相模国風l土記稿』にも記述があります。橋の名は、昔、この付近に針をつくる人が住んでいたことに由来するといわれています。」この場所には、以前、昭和13年3月に鎌倉町青年団が建て石碑があり、「鎌倉十橋ノーニシテ 往昔此ノ附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセシ者住ミニケリトテ此ノ名アリトイフ」と書かれていた。【この橋は鎌倉十橋のひとつです。昔この付近に、鉄を砥いで針に仕上げることを商売にしている職人が住んでいたので、この 名前が付けられたといいます。】 【https://4travel.jp/travelogue/10853556】より「十橋之一 針磨橋」碑。現在の橋を見る。この橋のあるあたりは、阿仏尼の屋敷跡で、この近くに針を磨く老婆(我入道)が住んでいたために、この名がついたと。民家の門であろうか?「御代川」と。更に北に進み江ノ電の踏切を渡る。踏切の直後、左手にあったのが「阿佛邸旧蹟」碑。鎌倉時代の有名な日記「十六夜日記」👈リンクの作者阿仏尼の住んでいた屋敷跡の石碑。阿仏尼は歌人藤原定家の子の為家の妻、為家が亡くなってから所領相続のことで争いが起こり、阿仏尼は執権北条時宗に訴えて裁判を受けたいが為に、1277年(建治三年)に京都から鎌倉に来たのですが、その道中と鎌倉滞在の日記が「十六夜日記」。「阿佛邸舊蹟阿佛ハ藤原定家ノ子為家ノ室ニシテ和歌ノ師範家冷泉家ノ祖為相ノ母ナリ為相ノ異母兄為氏為相ニ属スベキ和歌所ノ所領播磨細川ノ庄ヲ横領セルヲ以之ヲ執権時宗ニ訴ヘ其ノ裁決ヲ乞ハントシ建治三年京を出デテ東ニ下リ居ヲ月影カ谷ニ卜ス即チ此ノ地ナリ其ノ折ノ日記ヲ十六夜日記ト云ヒテ世ニ知ラル係争久シキニ彌リテ決セズ弘安四年遂ニ此ニ没ス」大正九年三月建之 鎌倉町青年会」【阿仏尼(あぶつに)は、和歌の名人として有名な藤原定家(ていか)の息子である為家(ためいえ)の妻であり、また名家冷泉(れいぜい)家を起こした為相(ためすけ)の母でもあります。あるとき、為相の義理の兄為氏(ためうじ)が、播磨(はりま:兵庫県)細川にある為相の領地を奪ったので、これを鎌倉幕府(北条時宗)に訴えるために、1277年に京都を出発して、東海道を旅行して、鎌倉の月影ヶ谷(つきかげがやつ)という場所、すなわちこの場所に住みました。その時の旅行記を「十六夜(いざよい)日記」といい有名です。裁判は長引き、生きている間には決着が着きませんでした。1281年に、ここで亡くなっております。】傍らの句碑には「月影能 谷若葉して 道清志」再び踏切を渡り、極楽寺駅に向かって線路に沿って歩く。右手・創作小物・服飾の店「趣味の部屋比呂」の入口近くにあった「江ノ電の絵」。「極楽寺・稲村ヶ崎 おおばひろし」と記載されていた。そして左手に江ノ電「極楽寺駅」。「江ノ島電鉄 極楽寺駅」。「関東の駅百選」にも選ばれている江ノ島電鉄「極楽寺駅」。ドラマやアニメのロケ地としても知られており、ファンから親しまれている駅。「文学案内板 極楽寺周辺○月影ヶ谷(阿仏尼滞在の地) 鎌倉時代中期の女流歌人、阿仏尼は夫である藤原為家の没後、先妻の子為氏と実子為相とのあいだにおこった遺産相続の訴訟のため、京都から鎌倉へ下った。その間のことを記したのが「十六夜日記」で、前半は東海道の紀行文、後半は鎌倉での日記となっている。鎌倉では月影ヶ谷に滞在した。「十六夜日記」には次のように記されている。 東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風絶えず。 (引用文献 新日本古典文学大系51 岩波書店 平成2年)○極楽寺切通 極楽寺開山忍性が開いた道と伝えられ、京都・鎌倉間の往還路だった。鎌倉・南北朝時代の武将・新田義貞は、元弘3年(1333年)5月、一族を集めて倒幕の挙兵をした。各地の合戦で幕府軍を撃破し、鎌倉に迫ると、義貞は軍勢を三隊に分け、極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂の三方から攻めた。一方、幕府軍も三方に手分けして防戦。「太平記」(巻第10 稲村崎干潟と成る事)はこの合戦のありさまを次のように記している。 さる程に、極楽寺の切通しへ向はれたる大館次郎宗氏、本間に討たれて、兵ども片瀬・腰越まで引き退きぬと聞えければ、新田義貞、逞兵二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい楯を掻いて、数万の兵陣を並べて並みゐたり。 (引用文献 新潮日本古典集成 新潮社 昭和55年) 詳細は鎌倉文学館(長谷1-5-3、電話23-3911)にお尋ねください。 平成8年2月 鎌倉市教育委員会 鎌倉文学館」「第3回 関東の駅百選認定」碑。銘板「土木學會選奨土木遺産 2014 江ノ島電鉄(極楽寺駅)」「■江ノ島電鉄(極楽寺駅) 江ノ島電鉄は明治35年(1902年)に開業し、ほぼ、当時の路線で営業している電車としては 日本で最古である。 極楽寺は明治37年(1904年)年開業。駅舎はかなり古い(昭和10年代)木造形式で、緑豊かな 街並みの中に鎌倉らしい佇まいを見せる。 平成11年(1999年)に関東の駅100選に選ばれている。 駅舎の裏手に広がる石積擁壁は建設当時のもので、擁壁の上には駅名の由来にもなっている 真言律宗の極楽寺がある。」「極楽寺駅」周辺案内図。名所案内板。「極楽寺駅」前の坂道を上って行くと、「桜橋」手前左手にあったのが銘板「土木學會選奨土木遺産 2014 江ノ島電鉄(極楽洞)」■江ノ島電鉄(極楽洞・千歳開道) 江ノ島電鉄は明治35年( 1902・午)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している電車としては 日本で最古である。 極楽洞は、江ノ島電鉄唯一のトンネルで明治40年(1907年)鮻工。藤沢方には極楽洞、 鎌倉方には千歳開道と表示されており、建設当時の煉瓦張りがそのまま残されている。 平成22年(2010年)、鎌倉市の景観重要建築物などに指定されている。 延長 209rn、高さ 5.285m、幅 3.940m「極楽洞」案内板。「極楽洞極楽洞は江ノ電の愛称で親しまれている江ノ島電鉄が所有する煉瓦造りの杭門で、右手の桜橋から見ることができます。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原形をとどめています。江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を偲ばせます」「極楽洞」。暫く待つと鎌倉駅に向かう江ノ電が「極楽洞」に入って行った。「極楽洞」入口の煉瓦積みの上部には「要石」が2箇所に。「極楽寺坂」の入口にあった「上杉憲方墓」碑。上杉憲方は、関東管領上杉憲顕の子で、憲顕、憲方と続く家系が山内上杉家となった。鎌倉公方の足利氏満に仕え、1379年(康暦元年)、関東管領に任じられている。憲方は山ノ内の禅興寺を中興(現在は支院の明月院のみが残る。)。「明月院やぐら」にも上杉憲方墓とされる宝篋印塔が安置されている。西方寺址(極楽寺切通沿い)に並ぶ石塔群のうち、七重層塔が三代鎌倉公方の足利氏満の下で関東管領を務めた上杉憲方の墓で、隣の五重層塔は憲方の妻のものと伝えられている。極楽寺切通を挟んで反対側の崖には、妻が建てたとされる憲方の逆修塔が残されている(逆修塔とは、生前に建てる供養塔。)。「国指定史跡 伝上杉憲方墓 昭和2年4月8日指定この場所はかって西方寺と呼はれる寺院の一角てあった。極楽寺切通の出人口付近の斜面を人工的に削り、方形に造リ出した空間に石塔が建ち並んている。上杉憲方の墓と伝えられる安山岩製七重層塔1基を中心に、その妻の墓塔と伝えられる凝灰岩製層塔1基と、凝灰岩製五輪塔4基、その他五輪塔の残欠が散在する。七重層塔の現存高は約290cmで、相輪の頂部を欠いているが、全体的な残存状況は良好である。塔身に浮き彫りされた金剛界四仏の様相や、均整の取れた塔全体の形から、13世紀前半頃のものと推定される。上杉憲方(1335ー94 )は山内上杉氏の祖であリ、武蔵国・安房国などの守護や鎌倉公方を補佐した関東管領を務めた。山ノ内に所在する明月院の開基としても知られる。この七重層塔を上杉憲方の墓とするには年代が合わないが、彼の墓が極楽寺にあると伝えられ、また、この付近に永和5年(1379 )銘の彼の逆修塔(生前供養のための塔)も存在することから、この地が彼の基所であるとの伝承が残されている。」別の角度から。「上杉憲方の墓」・「七重層塔」の最下部の4方には仏像が刻まれていた。そして更に「極楽寺坂」を上っていくと、右側に「成就院」の西側の入口石段が。石段の横には「成就院」の山号の「普明山」と刻まれた石碑があった。「極楽寺坂切通し」を進む。極楽寺の開山忍性が切り開いたとされる「極楽寺坂切通し」(鎌倉七口)は、その旧状を留めていないが、かつては、成就院の山門前を寺とほぼ同じ高さで通っていたという。左手に石碑が。「極楽寺坂此所往古畳山ナリシヲ極楽寺開山忍性菩薩疏鑿シテ一条ノ路ヲ開キシト云フ即チ極楽寺切通ト唱フルハ是ナリ元弘三年(1333)ノ鎌倉討入リニ際シ大館次郎宗氏江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテ此便路ニ向ヒ大仏陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ大将トシテ此所ヲ堅メ相戦フ」【ここは昔は山々が重なっていた所でしたが、極楽寺を開いた僧の忍性(にんじょう)が一本の路を切り開いたと伝えられています。その極楽寺切通(きりどうし)と言うのはこの道のことです。 1333年に新田軍が鎌倉へ攻め入った時、その軍の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)と江田行義(えだゆきよし)がこの道を進行して行きました。それを鎌倉軍の大将大仏貞直(おさらぎさだなお)は、この坂に陣をしいて相戦った場所であります。】。「歴史的風土特別保存地区指定図」。そして左手に「日限六地蔵尊(ひぎりろくじぞうそん)(日限地蔵尊)」。「日限地蔵菩薩」と書かれた木札。「日限地蔵尊当地蔵尊は道行く人々をお守り下さり、お地蔵様の眼のとどく範囲で事故がおきても大事にいたらないと云われ、また善男、善女が邪心を捨て心を清くもち願い事を期日を極めておすがりすれば、その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様であるとして、いつの世か日限地蔵と称されるようになったと云い伝えられております。近年になり盗難・悪戯が激しく、こともあろうに心ない酔漢により佛像が破壊されるに至りました。これ等保護のためやむなく見苦しいシャッターを取り付けました。日限六地蔵尊護持会」なるほど、シャッターの奥に「六地蔵」が。そして「成就院」への東側からの石段の前には「地蔵菩薩像」が。「地蔵菩薩像」をズームで。地蔵菩薩のシンボルといえば「錫杖(しゃくじょう)」と「宝珠」。「現在地」案内図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.07
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「海の見える坂道」そして「七高通り」を下り江ノ電踏切を再び渡り国道134号まで戻り左折し鎌倉方面に向かいながら江の島の姿を振り返る。すると「七里ヶ浜駐車場」を過ぎた場所に「海側歩道通行止め」の案内板とバリケードがあった。台風10号の高波で2019年8月13日未明に擁壁が被災し、鎌倉市稲村ガ崎三丁目・国道134号の稲村ヶ崎駅入口交差点付近で海側の歩道の一部が陥没。未だに復旧工事が行われており、歩道の一部区間を通行止めとしていたのであった。しかし山側にある歩道に渡りたかったが、横断歩道もなく交通量も多いため安易に手前にあった海岸に降りる石段を下り波打ち際を進む事を決断してしまったのであった。最初は、短い距離と考え気楽な気持ちで波打ち際を歩き、江の島の姿を撮影。満潮の時間であったのか、波がかなり近くまで押し寄せて来ていたのであった。左側前方には工事用の仮設架台が。しかし仮設架台の先は岩場となっており、滑らないように、そして波に注意しながら進まざるを得なかったのであった。この間、カメラのシャッターを押す余裕は全く無く。「西田幾多郎博士記念歌碑」は一時的に何処かに移動されているのであろうか?この後に訪ねた「稲村ヶ崎公園」にも見当たらなかったのであったが、現在何処に?300m以上進んだであろうか、この間歩道に上がれる場所はなく何とか「音無川」の河口まで進めたが、「音無川」を渡るルートはなく焦ったが、何とか川の堤防を通り国道134号の「音無橋」の下を潜るルートを発見し、国道134号の歩道に戻ることが出来たのであった。やれやれ!!そして前方に「稲村ヶ崎」の姿が確認できた。国道134号の「稲村ヶ崎駅入口」交差点を左折し向かったのが「十一人塚」。「十一人塚」碑。「十一人塚碑元弘三年(1333)五月十九日 新田勢大館又次郎宗氏ヲ将トシテ 極楽寺口ニ攻入ラントセシニ 敵中 本間山城左衛門手兵ヲ率イテ大館ノ本陣ニ切込ミ 為ニ宗氏主従十一人戦死セリ 即遺骸ヲ茲(ココ)ニ埋メ 十一面観音ノ像ヲ建テ以テ其ノ英魂ヲ弔シ 之ヲ十一人塚ト称セシト云ウ」【1333年5月19日に、新田義貞(にったよしさだ)軍は、大館宗氏(おおたち 又は おおだち むねうじ)を武将として、極楽寺坂から攻め入ろうと準備している時に、鎌倉側の武将である本間山城左衛門(ほんまやましろざえもん)が大館の本陣に切込みました。 その結果、宗氏とその部下11人が戦死しました。 その遺体をここに埋め、十一面観音の像を建ててその魂を祭りました。それゆえ十一人塚と言うと伝えられています。】「鎌倉市指定史跡 「十一人塚」 昭和36年11月15日指定元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めに際し、新田氏の一族である大館宗氏は極楽寺坂の切通から鎌倉へ攻め込みました。しかし北条方の反撃にあい、宗氏以下11人は稲瀬川で討ち死にしたと伝えられます(『太平記』『梅松論』)。十一人塚は、その11人を埋葬し十一面観音堂を建てて霊を祀った所といわれます。」「大館又次郎源宗氏主従十一人墓」には「元弘三年癸酉五月九日」の文字が。「鎌倉時代の出土人骨の埋葬について昭和34年晩秋、極楽寺橋付近の造成現場で、鎌倉時代末期の武士ものと見られる多数の人骨が発見されました。発掘調査の後、鎌倉時代の人々を知るための貴重な研究資料として、その多くは東京大学人類学教室に運ばれました。一部は、地域の人によって左手の丸い石の下に埋葬されたことが、当時を知る人から伝えられ、その経過を記録として残すために本説明板を建てました。」正面の石碑には「新田義貞 稲村ヶ崎 古戦場入口」と。そして更に江ノ電の踏切を渡り直ぐに左折して進む。右手石段の上にあったのが「稲荷神社」。鎌倉市稲村ガ崎2丁目。「社殿」。「内陣」。前方左手に江ノ電「稲村ヶ崎駅」が見えた。再び「十一人塚」の角まで戻りここを左折。「音無川」に架かる「極楽寺橋」を渡る。「極楽寺橋」を渡った先に「一方庵」という座禅道場があるとのことであったが工事中のこの建物か?「稲村ヶ崎温泉」の敷地を通らせてもらい、「稲村ヶ崎」に向かう。国道134号の「稲村ヶ崎公園前」交差点を渡る。「鎌倉海浜公園稲村が崎地区・稲村ヶ崎公園」の中に入ると直ぐ左側にあった石碑群。「稲村崎」碑。今ヲ距ル五百八十四年ノ昔 元弘三年五月二十一日新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ祷レリト言フハ此ノ處ナリ 大正六年三月建之 鎌倉町青年會」【今から584年前の昔、元弘三年(1333)5月21 日に、新田義貞がこの岬を廻り、鎌倉に攻め込もうとしました。そこで、黄金の刀を海に投げて、潮が退くことを海神に祈ったと伝えられているのはこの場所です】 と。「史蹟 稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」碑。中央は明治天皇が詠んだ歌碑。 「明治天皇御製 新田義貞投げ入れし 剣の光あらわれて 千尋の海も くがとなりぬる 海軍大将 岡田啓介謹書」千尋:広い くが:陸地 の意。この石碑は表面が劣化し判読不能であった。「かながわの景勝50選 稲村が崎」碑。なぜこの石碑は「稲村ヶ崎」ではなく「稲村が崎」?「関東の富士見百景 富士山の見えるまちづくり地点名 鎌倉市からの富士」碑。この日は残念ながら富士の姿は・・・。「ボート遭難慰霊碑」1910(明治43)年1月23日に、ここ七里ヶ浜沖で、小学生1人を含む逗子開成中学の生徒が乗るボートが転覆し、12名全員の命が失われた海難事故の慰霊碑。海底で抱き合ったまま発見された兄弟(徳田4兄弟の長兄・勝治と末弟・武三)の姿をモチーフにブロンズ像が建てられたのだ。真白き富士の根(嶺) 歌碑「ボート遭難の碑真白き富士の嶺、緑の江の島仰ぎ見るも、今は涙歸らぬ十二の雄々しきみたまに捧げまつる、胸と心」ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に力も尽き果て、呼ぶ名は父母恨みは深し、七里ヶ浜辺」「ボート遭難の碑」建立への想いが刻まれていた。「みぞれまじりの氷雨が降りしきる この七里ヶ浜の沖合いで ボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら12人が遭難 転覆したのは 1910年(明治43年)1月23日のひるさがりのことでした前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は 当時世間をさわがせました……が、その遺体が発見されるにおよんで さらに世の人々を感動させたのは 彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした……友は友をかばい合い 兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです死にのぞんでも なお友を愛し はらからをいつくしむ その友愛と犠牲の精神は 生きとし生けるもの理想の姿ではないでしょうかこの像は「真白き富士の嶺」の歌詩とともに 永久にその美しく尊い人間愛の精神を賞賛するために建したものです1964年5月17日 逗子開成交友会・鎌倉開成会」遭難者の氏名以下 省略させていただきます。真白き富士の嶺記念碑建設委員会鎌倉観光協会鎌倉市製作 菅沼五郎 別の角度から兄弟の姿を再び。「稲村ヶ崎」眼下の岩場。再び「かながわの景勝50選 稲村が崎」から江の島の姿を。海に切り立つ断崖を。ここが、1333(元弘3)年5月の新田義貞鎌倉攻めの突破口となった所。北条軍の強固な守りにより、新田軍は鎌倉へ攻めあぐんでいました。21日の深夜、稲村ガ崎の岩頭に立って、義貞は兜を脱ぎ海と竜神に祈り、自らの金造りの刀を抜き海に投げ入れ竜神に祈願しました。すると竜神はそれを聞き入れ、稲村ガ崎の潮がサーッと引き、一面平らな砂浜が広がりました。潮の引いたのを見て、6万騎を率いて岸壁沿いに鎌倉へ攻め入り、源頼朝以来141年続いた鎌倉幕府は滅亡したのであった。そして小高い山に向かって歩く。頂上に立つ石碑。「ローベルト・コッホ碑」1908年(明治41年)、弟子の北里柴三郎と鎌倉を訪れたドイツ人細菌学者ロベルト・コッホの記念碑。かつて、霊山山には「霊山園」と呼ばれた公園があって、眺望の良さで知られている場所だった。北里柴三郎は、「霊山園」にロベルト・コッホを案内し、のちに記念碑を建てた。しかし、大正12年に起きた関東大震災によって崖崩れが起こり、山容が変わってしまったといわれている。記念碑は、昭和58年、鎌倉市医師会によってに霊山山から稲村ヶ崎に移転された。「碑文の大意は明治42年( 41年の誤り) 7月、ドイツの大医コッホ先生が北里博士と一緒に鎌禽に遊び富士山を望みて大変喜ばれた。霊仙山頂でコッホ先生は日の出と日暮れの素時らしさを見て堪能された。帰国後数年も経たないうちに亡くなられたので、山の所有者である村田氏らと相談し、石碑を建てて事蹟を遺そうと考えた。山の下の稲村ガ崎は新田義貞中将が武運を祈って刀を沈めたといういわれのある地である。海と富士山のおりなす絶景のこの地を今は海外の偉人がここに留まって風景を賞した所として世に伝えるべきと考える。大正元年9月永坂周記弁書」「細菌学の泰斗ロベルト・コッホとその高弟北里柴三郎との師弟愛を語るこの碑は、もと霊仙山上にあったが、地盤の脆弱化により原状保持に懸念あるため、コッホの結核菌発見百年を機とし、各方面の協力援助を得て、碑を山の南端稲村ガ崎に移し、以て永くその保全を計るものである。 澤 壽郎 撰 小島寅雄 書 昭和五十八年十一月 鎌倉市医師会」「ローベルト・コッホ碑(解説)この碑は、世界的細菌学者ドイツのローベルト・コッホ博士の来日を記念して、弟子である北里柴三郎博士と鎌倉市関係者により大正元( 1 91 2 )年9月、建立されたものである。当初、霊仙山頂に建立されたが地盤の脆弱化により、昭和58 ( 1983 )年1 0月、鎌倉市医師会等によりこの地に移設された。コッホ博士は、病気と病原菌の関係を客観的に証明する方法を提案し、病原細菌学という新しい分野を開拓した人である。明治35 ( 1905 )年「結核に関する研究」でノーベル生理学・医学賞を受賞している。北里は破傷風菌の純培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見、それを応用した血清療法を確立し、現代免疫学の祖と言われている。」「碑文の大意」は上記に。「ローベルト・コッホ碑」から引き返しながら絶景を再び。「江の島」をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.06
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「行合川」を渡り直ぐに左折し江ノ電の踏切を渡り、坂道を上って行くと、右手の「田辺公園」のフェンスの隅の道路側にお題目の法塔が立っていた。「南無妙法蓮華経 行合川」と刻まれていた。「行合川」の歴史ある過去を偲ばせてくれる遺跡や案内板等はこれ以外にはなかったのであった。「田辺公園」入口。さらに、北に進んでいくとY字路があり下の如き案内板があった。「現在位置」の矢印ではなく左側の道を「行合川」に架かる「雨乞橋」に向かって進む。七里ヶ浜1丁目の住宅街を進む。150m程進むとT字路の角に「石柱」と小さな石の祠があった。「日蓮聖人雨乞霊跡道」の石碑。このT字路を左に曲がり「行合川」に架かる「雨乞橋」を渡る。更に坂道を上って行った。突き当りを左に進む。右手に見えて来たのが日蓮上人の雨乞い伝説で知られる霊光寺の「雨乞の池」干ばつに苦しんだ1271年、時の執権北条時宗は極楽寺の名僧・忍性に雨乞いを命じるものの効果が出なかった。次に日蓮がここ田辺ヶ池の淵に立ち「南無妙法蓮華経」と唱えると大雨に恵まれたという伝説の場所である。池の奥に社殿の如きものも見えたが、行き方が判らず諦めたのであった。道を引き返し左手に折れて進むと崖下にあった石碑。ここにも「日蓮聖人雨乞霊跡道」と刻まれた石碑。こちらは朱の文字で。その先にも石碑が。「日蓮上人祈雨旧跡」碑「古称金洗沢ハ此ノ池辺ナリ文永八年六月天大イニ旱ス幕府良観房忍性ニ命ジテ雨請ノ修法ヲナサシム顕ナシ時ニ日蓮此ノ池畔ニ雨ヲ祈ル忽チ甘雨地ヲ霑オストイウ世ニ伝ヘテ日蓮上人祈雨ノ霊跡トナスハ此ノ処ナリ 昭和三十一年三月 建 鎌倉友青会」【古い呼名での金洗沢(かねあらいざわ)は、この池の辺りです。1271年6月に、雨がまったく降らなかったため、幕府は僧の忍性(にんしょう)に命じて雨ごいを行わせましたが効果はありませんでした。その時、日蓮(にちれん)がこの池のほとりで雨ごいをすると、 たちまち雨がふり出し大地をうるおしたと世に伝えられています。その日蓮上人の雨ごいの場所がここであります。】更に崖の下の道を進んで行った。正面に「霊光寺」山門が姿を現した。「山門」に到着。「日蓮大聖人 祈雨現証 霊蹟 龍王山 霊光寺」「山門」の扁額は「龍王山」であったが、下に降ろされていた。「山門」前のお題目塔「南無妙法蓮華経 霊光寺」。「本堂」への石畳そしてその先の石段を上って行った。石段もクネクネと曲がり。石段横の斜面の石碑、石塔群。右手は「妙法大六天魔王」、左手には「風の神塔」と刻まれていた。天魔(てんま)とは第六天魔王波旬(はじゅん、より邪悪なもの)、すなわち仏道修行を妨げている魔のことである。天子魔(てんしま)・他化自在天(たけじざいてん)・第六天魔王(あるいは単に魔王)ともいう と。「風の神塔」は「風神様」であろうか?「南無妙法蓮華経 毛塚塔」(右)と石祠(左)。「毛塚塔」の前で手を合わせたのであった。「疫神塔」。スサノヲを祀っていると。スサノヲには疫病を払って貰う御利益があると信じられていたと。そして「疫神塔」の前でも合掌。「石仏」享保20年に江戸の講中が建てた題目塔。「日蓮大菩薩祈雨之舊跡也」と刻まれていた。側面には「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」。「日蓮聖人祈雨霊像」「雨乞の池」に向かって立っているのでは。雨乞いのお題目を唱えている日蓮聖人のお姿、そしてここが実際に祈祷された場所と。「日蓮聖人祈雨霊像」昭和40年(1965年)建立。ズームして。更に。迫力のある精悍なお顔。「手水場」と「石仏」。「遵亀海神塔」と刻む石塔が亀の甲羅に乗っていた。そして山の尾根の如き参道の前方奥に「本堂」が。手前の門柱は傾いて。左手の柱には「萬歳門」と刻まれていた。開基が大日本帝国海軍大将の上村彦之丞であることから「萬歳門」と?「本堂」。宗 派 日蓮宗本 尊 日蓮聖人創 建 明治末開 基 上村彦之丞(大日本帝国海軍大将)明治の末にこの地から1735年(享保20年)に造られ日蓮大菩薩雨乞いの地と書かれた石塔が出土したことから開かれた。これを聞いた大日本帝国海軍大将の上村彦之丞(1849-1916)が創建。上村彦之丞は日清、日露戦争で数々の軍功を挙げ、戦後は横須賀鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務めた人物。「観音像」。「山門」と同じ寺号標「日蓮大聖人 祈雨現証 霊跡 龍王山 霊光寺」。本堂の扁額「祈雨霊蹟」も下に降ろされて。上村海軍大将筆の扁額と。ここが本来あるべき場所なのだが。フェンスも傾いて。「妙詠◯尼 元禄四年」と刻まれた、浄行菩薩像であろうか。通称を「あらいぢぞう」という浄行菩薩の石像。浄行菩薩は、水で洗い清めるとご利益が有ると信じられ、自分の悪い部分をタワシで洗うと良いという。「田邊龍神塔」田辺が池の主で、日蓮の雨乞を擁護した龍神である由が刻まれていた。明治44年造。白椿の花。それにしても、歴史のある寺であったが、全く人気のない廃寺の如き寺であった・・・。そして「霊光寺」を後にして七里ガ浜東2丁目の住宅街を東に進む。大きなガラス窓のある建物は民家であろうか。そして丘の上に「鎌倉プリンスホテル」の客室が見えた。「海の見える坂道」を下って行った。左手にあったのが「バンケットホール七里ヶ浜」入口。「鎌倉プリンスホテル」連絡口でもあるようだ。右には「神奈川県立七里ガ浜高等学校」正門が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.05
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「小動神社」を後にし、国道134号を鎌倉方面に進む。再び「小動」交差点まで進むと右手にあったのが「鎌倉市腰越漁港施設案内図」。「小動岬」の周囲は石積みの防波堤で囲まれていた。道路の反対側には「津波避難情報」案内板。小動交差点脇・「津波避難情報」案内板の奥にあった「安曇野型双体道祖神」。平成元年八月吉日 龍護山 満福寺 (第二十九世住職岡沢嘉春建立)。その横にも2体の双体道祖神があった。原型を留めない程、激しい摩耗。海岸の傍なので、已む無しかと。鎌倉市腰越2-6-24、「小動」交差点の横断歩道を2回渡って遊歩道を進む。「遊歩道」の横を江ノ電が通っているのであった。藤沢駅から江ノ電に乗り鎌倉駅方面に向かうと、突然この場所から湘南海岸の海が目の前に迫って来る場所なのだ。三浦半島・逗子、葉山方面を見る。「小動岬」から江の島の「大堤防」そして「湘南港灯台」の姿が見えて来た。七里ヶ浜そしてその先に稲村ヶ崎が。左手に白き瀟洒な建物が姿を現した。「鎌倉海岸キリスト教会」。鎌倉市腰越1丁目4−17。線路脇に案内板が二つ。「鎌倉海岸キリスト教会の由来(旧腰越独立教会)恵風園胃腸病院の前身恵風園療養所の創立者中村春次郎博士の長女新居姜子さんはニ三才からアメリカで生活しておりましたが、ニ八才の時、聖書に出会いクリスチャンになりました。そして、生まれ故郷に教会を建てたいとの願いを持ち、三〇年間祈り続けました。それを知ったアメリカの五六の教会が教派を超えて献金してくださいました。六〇才になった一九四九年の八月、三七年ぶりに帰国し、恵風園から敷地の提供を受け会堂建設に着手しました。一九五〇年七月一六日、最初の礼拝が初代牧師戸川ニ郎師により持たれました。教会名は、どこの教派にも属さす、正統な聖書信仰をあらわす意味で腰越独立教会といたしましたが、ニ〇一三年七月、キリスト教会であることを明示するため、鎌倉海岸キリスト教会に変更いたしました。」「集会案内」「鎌倉海岸キリスト教会」の屋根の上の十字架が見えた。振り返ると「江の島シーキャンドル(展望灯台)」が姿を現して来た。3両編成の「江ノ電」が私の横を走って行った。「江ノ電」の踏切を渡り坂道を上り、「鎌倉海岸キリスト教会」を。入口は右側に北向きにあるのだろうか。「江の島」の全景が姿を現した。前方に「江ノ電鎌倉高校前」駅が見えて来た。「藤沢」行きの電車がホームに滑り込む。こちらは2両編成。「江ノ電鎌倉高校前」駅。「鉄道の日 第1回駅100選駅」との表示板。1997年(平成9年)選定の「関東の駅百選」らしい。「江ノ島大橋」そしてその後方に箱根の山々も姿を現す。右手には先程訪ねた「小動岬」の姿が。前方に「鎌倉高校駅前」交差点。交差点を左折し踏切を渡り、歩いて来た「小動岬」方面を見る。ここが腰越と七里ヶ浜の境界。ここは江ノ電の鎌倉高校前駅から鎌倉高校の正門へと続く坂で、「日坂」(にっさか)という切通。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めの際、新田軍がこの坂を通ったことから、「新田坂」と呼ばれていたが、いつしか「日坂」と呼ばれるようになったといわれるのだ。前方の七里ヶ浜は、稲村ヶ崎から小動岬までの約2.9㎞の海岸。日本の渚100選の景色。「日坂」。ちなみに、江ノ電「鎌倉高校前駅」は1953年からの駅名称で、それ以前は「日坂駅」というのが駅の名前だったという歴史があるのだ。このことからも、いかにこの坂道(日坂)が昔から地域のランドマーク的な存在だったかということが想像出来るのだ。鎌倉行きの江ノ電が踏切に向かって。この踏切は1990年代に人気を博した漫画で、アニメも制作された「スラムダンク」の印象的な場面で登場する場所のため、聖地巡礼の観光客が海外からも訪れる有名スポットにもなっているのだ。この地は「スラムダンク」以外にも数々の映画やドラマの舞台、モチーフとなった場所でもある。なお、この踏切はブラタモリでも登場。番組では、鎌倉の海と江ノ電の眺めが特徴的な国際的観光スポットとして紹介されたのであった。更に鎌倉方面に進むと藤沢行きの「10型」車両が来た。1997年(平成9年)に開通95周年を記念して造られた「レトロ⾞両」。外観はオリエント急⾏を彷彿とさせるデザイン・塗⾊となっているのだと。再び振り返って。この日は富士山は姿を現さなかった、もっと右にあるのだが。ここから江ノ電は国道134号と一時的に別れて行く。そしてこの先が複線区間となり電車の行き違い場所になっているのであった。山の上の民家、相模湾を一望できる絶景の場所。記憶では、表札は英語表示ではなかったろうか?よって外国から来られた方の住居か?この日は静かな湘南の海。もっと天気が良ければこんな光景がと・・我儘にも。 【http://blog.livedoor.jp/kagirohi2006/archives/50585000.html】よりそして反対方向の三浦半島を再び見る。左手にあったのが「顕証寺」。鎌倉市七里ガ浜1丁目5-21。「本門佛立宗 顕証寺」、「高祖日蓮大士ご降誕800年慶讃」と書かれた案内板。本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)は、長松清風によって開かれた、日蓮を宗祖と仰ぐ、法華系仏教の一派である。宗派としての独立より日が浅く、新宗教に分類されることもある と。境内のストレリチア(極楽鳥花)が咲いていた。コンクリート製の白と朱赤が鮮やかな建物が「本堂」。顕証寺は七里ガ浜を前に、相模灘の正面には伊豆大島、東には三浦半島の眺望、西に江ノ島を見ることができる。そして、四季折々に素晴らしい景色を演出してくれる富士山を望む最高のロケーションに立地する新宗教である。「寺務所」であろうか。眺めの素晴らしい「墓苑」。「管理寺務所」「顕証寺の歌」碑。「朝日に映ゆる 富士の嶺 緑の江の島前に見て 我が法域は ここに建つ 恵みあり永遠の識神 妙法の五字 我等待たん」五字とは「妙法蓮華経」であろうか。更に国道134号から離れて1本山側の江ノ電に沿った道を鎌倉方面に進む。踏切もない先に民間の門が。この先にはこの様な線路を跨いで自宅に入る民家が多くあるのだ。そして緩やかなカーブの先、前方に見えてきたのが「七里ヶ浜駅」。「七里ヶ浜駅」入口前を通過。1903年(明治36年)、田邊駅として開業。その先に見えて来たのが「行合川」に架かる「行合橋」が。下を流れる「行合川(ゆきあいがわ)」日蓮が龍ノ口で処刑になりそうになったとき、急に雷雨が激しくなり、役人の太刀が折れるなど不思議な現象が起こったため、龍ノ口からは幕府に知らせるための使者を、幕府からは処刑中止(赦免)を知らせる使者を走らせた。七里ヶ浜駅の近くを流れるこの行合川は、両方の使者が行き合った場所ということから生まれた名と伝えられているのだ。時は1271年(文永8年)であった。前方に「行合川」に架かる国道134号の「行合橋」が見えた。「行合川」の鉄橋を走る江ノ電。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.04
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「浄泉寺」を後にして、国道134号の「小動」交差点まで行き横断歩道を渡りUターンして「小動神社(こゆるぎじんじゃ)」入口まで戻る。社号標「小動神社」海に突き出た爽やかな小動山に建つ小動神社。かつて風がなくても美しくゆらぐ松があったことから小動(こゆるぎ)と名がついたという風情ある場所。「小動神社」の石で出来た一の鳥居。左横にあったのが「鬼子母神(きしもじん)」。鎌倉市腰越2丁目6−10。扁額「子育て 子授けの神様 鬼子母神」鬼子母神は安産や育児の神様。しかし鬼子母神は仏教の神様。かつて日本もともとの信仰(神道)と外国から入ってきた仏教が融合し一つの信仰として合体した。いわゆる神仏習合(しんぶつしゅうごう)。その名残で神道の敷地に仏教の神様がいたり、その逆で仏教の敷地に神道のお社があったりするのだ。そういうわけで、大正時代まで近くの寺がこの小動神社を管理してした。小動神社の鳥居から道路を挟んだ反対側にある、先程訪ねた「浄泉寺」という寺と。左手に神輿舎。「お仮屋」の札が。「お仮屋」の前に「小動神社」の案内板があった。「小動神社主祭神 建速須佐之男命・建御名方神・日本武尊小動の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。縁起によれば、源頼朝に伊豆配流の時代から仕えた佐々木盛綱が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請したものと伝えられています。元弘3年(1333)5月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。7月第一日曜日から第二日曜日にかけて行われる天王祭は、江の島の八坂神社との共同の大規模な祭で、町一帯を回る御輿や氏子五か町の囃子屋台などで大いに賑わいます。」長い参道を進んで行った。「祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) (1月例大祭の祭神) 素盞鳴尊(すさのうのみこと) (7月天王祭の祭神) 【奥方:櫛稲田姫命(くしいなだひめみこと)、 御子神:八王子の命(五男三女神)】 建御名方神(たけみなかたのかみ) (8月諏訪祭の祭神) 歳徳神(としとくしん) (お正月の神様) 伝承 相模風土記に往時、弘仁年中( 810年~ 822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に 神女影向あり、この松を小動の松と云うとあり。新編鎌倉史に、土御門内大臣の歌 『こゆるぎの磯の松風音すれば、タ波千鳥たちさはぐなり』の歌は、此所の事とも云い、 或いは、大磯の浜を詠うとも云う。相模の名所「こゆるぎ」の歌、多しとある。 社名は、古くは八王子宮、八王子大権現などと称された。相模風土記には、八王子社を 鎮守とし、社地を小動(古由留義)と云うとあり。 明治初年、現在の『小動神社』と改称した。明治42年当所字、神戸の鎮守であった諏訪社を 合祀した。由緒 文治年中( 1185年)佐々木盛綱の創建と伝えられる。盛綱は、源頼朝に伊豆配流の時代から 仕えた武将で、源平合戦の時に、神恩報賽のため守護神である父祖伝来の領国、近江の 八王子宮を新たに勧請すべく、その地を探し求めていたが、ある日、江の島弁財天に参詣の 途次、小動山に登り、大いにその風光を賞せされ勧請の地と定められた。 新田義貞が、鎌倉攻めの戦勝を祈願をされ、後に『報賽』として『剣一振に黄金』を添えて 寄進され、社殿は再興された。 ハ王子宮縁起によれば、新田義貞を中興の祖と称している。江戸時代、小田原城主、 大久保忠真公( 113 , 000石)は【三神社】の扁額を揮毫し奉納された。 三神社とは、三柱の祭神を尊称したものである。社殿 文化14年4月(1817年)当所、井上氏の丹誠により、400有余の氏子により、再建されたと 棟札に記録がある。しかし、大正12年9月1日の関東大震災により被害を受け、昭和4年12月 本殿は修復されたが、拝殿は新築された。現在の、『神寶殿』・『山車小屋』は平成15年から 平成18年にかけて新築し、『本殿・幣殿』は平成19年4月大規模修復された。 境内社として、海(わたつみ)神社(海上安全の神様)・稲荷社・金刀比羅宮・第六天社を、 お祠りしています。祭礼 1月16日 例大祭(湯花神楽祭)【鎌倉神楽奉納】社殿内にて 4月第二土曜日 祈年祭 7月第二日曜日 天王祭 江の島八坂神社との共同の大規模な祭りで、午前11に海中渡御、午後2時 には江の島八坂神社の神輿が、龍ロ寺下より小動神社社頭まで神幸し、 腰越五ヶ町の祭囃子・山車がお迎えに出て、大いに賑わいます。 8月下旬 諏訪祭 12月第一土曜日 新嘗祭」右側に「直会殿」。左側に「手水舎」。石段の上に「二の鳥居」が見えて来た。右側に「授与所」。「拝殿」。ホッかぶりした狛犬(阿形)のマスクが外れていたので。正しい位置に直してあげました。狛犬(吽形)。屋根の見事な彫刻。こちらの紋は「丸に四つ目菱」という、佐々木家の家紋。1185年(文治年中)に佐々木盛綱が創建したと伝わっている。向拝の見事な彫刻。扁額「小動神社」。「内陣」の奥の扉は閉ざされていたが扁額には「三神社」とあったが、これが御祭神。建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと))、建御名方神(たけみなかたのかみ)、日本武命(やまとたけるのみこと)の三柱を尊称したもの。「本殿」を横から。「海神社(わだつみじんじゃ)」。「海神社祭神 綿津見神(わたつみのかみ) 別名 船玉神(ふなたまのかみ)とも云う漁業の神、航海の神例祭 一月十六日「社殿」。「龍王海神」。石碑群。右から、水神社、青龍不動、「國常立尊 八海山神社 三嶽山神社 三笠山神社」と刻まれた石碑。『日本書紀』では国常立尊(くにのとこたちのみこと)と表記されている。 別名を国底立尊(くにのそこたちのみこと)ともいう。 『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記される。右から「神武天皇 白川神社」、「日清役戦勝 献木紀年楠」、「登山三十三度 篠崎浅五郎」と刻まれた石碑。「日露戦勝紀念碑」。「稲荷社」。祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 併神 佐田彦神(さたひこかみ)=猿田彦神(さるたひこかみ) 大宮能売神(おおみやのめかみ)=天鈿女命(あめのうずめのみこと)商売繁盛・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の神例祭 二月二十七日両脇に石の社殿も。ズームして。「金刀比羅宮(ことひらぐう)」。祭神 大物主神(おおものぬしのかみ) 別名 大国主命(おおくにぬしのみこと)海神竜王ともいい航海安全、海難救助を司る神例祭 一月九日「社殿」。扁額「𨤾刀比羅宮」。「天皇陛下御在位六十年 社殿修復竣功記念碑」「二の鳥居」と「神寶殿」を見る。「神寶殿」。「神寶殿」の内部を覗く。「天王祭 相模神輿」「諏訪祭 江戸神輿」。「天王祭 相模神輿」。「天王祭 旧神輿」。そして「大六天社」。石鳥居の扁額は「六天王」。祭神 第六天神 別名 淤母陀流神(おもだるのかみ)諸願成就の神例祭 四月第一土曜日「庚申塔」と「猿田彦大神 堅牢大地神」碑。「大六天社」の「社殿」。そして「腰越八王子山遠見番所」「八王子山台場(設置当初は八王子山遠見番所)は異国船の相模湾渡来を監視・通報する為に天保9年(1838年)~同14年頃に、当地を治めていた烏山藩が設置したと推測されている。この番所は烏山藩の後に管理を引き継いだ川越藩によって大砲が据え付けられ、台場としての機能も持つにいたった。しかし台場となって以降も異国船をうち払うよりは、監視・通報する番所としての性格を強く持っていた。弘化3年(1846年)8月、八王子山台場の管理は川越藩から彦根藩へと引き継がれ、その後長州藩に管理を移管された。しかし鎖国が終わると、異国船を監視し、それらを打ち払う理由が乏しくなった。このため八王子山台場の重要性はさがり、自然に使われなくなっていったとみられている。」とウィキペディアより。「幕末相摸湾の防備を固めた腰越八王子山遠見番所天保十三年、当時の鎌倉郡腰越村は、慕府から相州警備を命じられた川越藩の管理のもと、愃常的な海防への協力を余儀なくされました。ここ小動神社展望台の左手には、かって番所が置かれ、主に異国船渡来の通報拠点としての役割を担ったとのことです。」大砲が据え付けられていた番所跡から「腰越漁港」そして「江の島」を見る。左手に「小動岬」。かつては「小動」という地名の由来となった「小動の松」が岬の山頂にあったと。番所跡から「小動神社」の「社殿」を見る。正面から。そして帰路の参道横にあった「腰越 小動會」の建物。内部に入っていた神輿。「令和三年 小動神社 祭事 予定表一月 九日(土) 正午十二時 金刀比羅宮 例祭一月十六日(土) 午前 十時 例大祭(湯花神楽祭) 海神社 例祭二月二十七日(土)午後三時 稲荷社 例祭四月 十日(土)午後ニ時 祈年祭 第六天車 例祭七月四日(日)~十一日(日) 天王祭(神輿神幸) 十一日 午後二時 江の島八坂神社神輿 腰越神幸八月下旬(日)~次週(土) 諏訪祭(神輿神幸)十二月四日(土) 午後二時 新嘗祭 予定通りに開催されることを、ただただ祈るのみです。そして「小動神社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.03
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『鎌倉散策 目次』👈リンク源義経の「腰越状」の「満福寺」を後にして湘南海岸沿いを走る国道134号に向かって進む。前方、国道134号の先に「小動神社」の一の石鳥居が姿を現した。国道134号に着くと「関東ふれあいの道」の標識。「小動岬と小動神社 横断歩道を渡ろう」と。まずは、横断歩道を渡らずに右に折れ、直ぐ近くにあった「小動山 浄泉寺」を訪ねた。鎌倉市腰越2丁目10−7。朱に塗られた「山門」が歩道右側にあった。昭和30年(1955)国道134号整備で山門や本堂の位置が移動されたとのこと。現在の山門は国道に面していて南向き、本堂は南東向きに建てられていたのであった。その工事の際、開元通宝など中国の古銭が大量に発掘されたと。この腰越が古くから流通の要所であった事が解るのであった。山門の屋根の浪の飾り瓦。禅宗様式の朱の「木鼻」。「石灯籠」の前に「迥國供羪塔」、「厄除弘法大師 腰越 浄泉寺」と刻まれた石碑が並んでいた。梵語が刻まれた石碑。「山門」を潜ると正面に「本堂」が。「石塔・石仏群」。「浄泉寺永代供養堂」。「小動山 浄泉寺 永代供養廟この永代供養廟は昨今の少子化、各家族化等によって、墓地の維持継承に不安がある方の為に建立を発願致しました。今後は代々住職によって供養させて頂きます。この廟の御本尊は真言宗祖弘法大師様です。お大師様は「虚空盡き、集生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きん」と永く我々をお救い下さるというご請願を立てられました。亡くなられた方も我々もお大師様の慈悲の元に深く帰依することによって現世においても来世においてでも大きな安楽を得ることが出来るのです。 当山 住職 書」「地蔵堂」。「本堂」819年(弘仁10年)、空海によって開かれたと伝えられる真言宗大覚寺派の寺院。本尊の不動明王は、左手で剣を持っていることから「左剣不動明王」と呼ばれる。もとは青蓮寺末寺であったが、現在は古義真言宗大覚寺派の末寺である。中興開山は室町時代の僧、元秀である。「内陣」。扁額「浄泉寺」。関東大震災の供養塔「大正十二年九月一日 関東大震災殃死者供養塔」。「大覚寺五十二世門跡全宜大和尚」墓。「墓誌」。鎌倉青蓮寺住職。大山寺住職。1884年(明治17年)生。1969年(昭和44年)死去。「寺務所」。「本堂」を斜めから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.02
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「満福寺」境内の横にある「鎌倉七里ヶ浜霊園」へのトンネルに向かう。この「鎌倉七里ヶ浜霊園」は満福寺が管理していて、満福寺のすぐ横にあるこのトンネルを抜けると墓地がある。 宗教・宗派不問となっている。 霊園は少し高い位置にあり、相模湾、江の島、富士山などを見ることができて景色が良い。 園内には茶房義経庵などがあるのだったが・・・・。トンネル入口横にあった小さな「稲荷神社」。トンネルの入口の壁、トンネル内壁にも仏画が描かれていたのでカメラで追いながら進む。両脇の天女(飛天)が迎えてくれた。「横笛を吹く天女」。「蓮の花を持つ天女」。「千手観世音菩薩」。別名 千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言い、生きとし生けるものすべてを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩です。千の手と手のひらの千の眼によって悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べる広大無限な功徳と慈悲から「大悲観音」、または観音の王を意味する「蓮華王」とも称されます。阿修羅や金剛力士などが属する二十八部衆を配下とします。「虚空蔵菩薩」。虚空蔵とは宇宙のような無限の智慧と慈悲の心が収まっている蔵(貯蔵庫)を意味し、人々の願いを叶えるために蔵から取り出して智慧や記憶力、知識を与えてくれるとされています。真言宗の開祖・弘法大師は虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるという虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を行った。無限の記憶力がつき、仏の智慧を体得することができるといわれています。求聞持法の本尊像のほかに、増益(ぞうやく)や除災を願って行う修法の本尊である五大虚空蔵菩薩があります。これは虚空蔵菩薩の持つ智慧を5方に配し、金剛界五仏の変化した姿としたものです。「文殊菩薩」。正式名称は文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)といいます。「三人よれば文殊の知恵」という格言があるように、知恵の神様として学業向上や合格祈願に有名な菩薩です。モデルとなった人物が存在し、古代インドにあるコーサラ国の首都・舎衛国(しゃえこく)のバラモン階級の者だったといわれています。仏教の経典を書物にまとめる作業などに関わったといわれていますよ。ただし、本来は学問などの知恵を司るのは虚空蔵菩薩であり、文殊菩薩は物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味する「智慧」を司っています。「普賢菩薩」。普賢とは「全てにわたって賢い者」という意味で、あらゆるところに現れ命ある者を救う行動力のある菩薩です。文殊菩薩とともに釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多いですが、独尊で祀られる場合もあります。文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たすとされています。また、女性の救済を説く法華経の普及とともに女性に多く信仰を集めました。トンネル内の仏画を独り占めしながら進む。大きく口を開けた龍の姿。ズームして。反対側にも。顔をズームして。「勢至菩薩」。正しくは大勢至菩薩といいます。智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救うとされています。大勢至菩薩と表記されることもあります。智慧とは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味します。阿弥陀如来の右脇侍として観音菩薩と共に三尊で表され、独尊で祀られることはほとんどありません。浄土信仰の高まりとともに流行する来迎形式の阿弥陀三尊の場合、観音菩薩が死者の霊をのせる蓮台を持ち、勢至菩薩が合掌をする姿でつくられます。その姿勢は、立像・坐像のほかにひざまずいた姿の跪像もみられます。「大日如来」。大日とは「大いなる日輪」という意味です。太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏です。密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。この2つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が出来上がるのです。「不動明王」。語源は「動かない守護者」を意味し、インド神話のシヴァ神の別名です。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てます。その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け継がれているのです。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。大日如来の化身として、どんな悪人でも仏道に導くという心の決意をあらわした姿だとされています。特に日本で信仰が広がり、お不動様の名前で親しまれています。そして、五大明王の中心的存在です。五大明王とは、不動明王を中心に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の5体のことを指し、不動を中心に東西南北に配されます。不動明王の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されることも多いです。ちなみに不動明王の持っている龍が巻きついている炎の剣が単独で祀られている場合があります。不動明王の化身とされ、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)などと呼ばれています。「阿弥陀如来」。無限の寿命を持つことから無量寿如来ともいいます。限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主です。四十八願(しじゅうはちがん)という誓いを立て、その中には「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導くとあり、広く民衆から信仰されました。ちなみに他力本願も四十八願の誓いから来ており、本来は阿弥陀様にすがって極楽に行こうという意味です。阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。さらに二十五菩薩を従え、雲に乗って往生者を迎えにやってくるといわれています。そのほか来迎の様子をあらわす場合もあります。今まで、多くの古刹を巡って来たが、仏教や仏像の知識がほとんど無く、石碑や案内をそのまま転記して来たが、今回それぞれの仏像の特徴やご利益等をネットの「仏像ワールド」から学んだのであった。「丹頂鶴」に似ているが。「翁亀」。長寿の亀らしく長い尾があり、風格が。そしてまさに極楽浄土の如きトンネルを出て「鎌倉七里ヶ浜霊園」側からトンネルを振り返る。「鎌倉七里ヶ浜霊園」を見る。「茶房 宿坊 義経庵」案内板が。しかし工事用のネットも。「階段昇降機」も設備化されていた。ここにも「慈悲観音像」。『慈』とは、「抜苦(ばっく)の心」、苦しみを抜いてやりたい、という心。『悲』とは、「与楽(よらく)の心」、喜んでほしい、楽しませたい、という心。苦しんでいる人を放っておけず、その人に何とか笑顔になってほしいと念ずる心を「慈悲」というのだと。「観音霊堂」と書かれた建物。「八角形の建物」。「内陣」にはステンドグラスを背景にした菩薩像とその周囲には位牌や骨壷が。ここは「納骨堂」であるようだ。ズームで。この建物は義経庵(ぎけいあん)という喫茶店であったが「茶房 義経庵」の案内板もなく・・・。この先にはレストラン等もある多目的施設「義経庵」があったが・・・。実は、去る2月12日の早朝5時55分頃に満福寺で火災が発生し同じ敷地内の多目的施設ここ「義経庵」が全焼してしまったのだ。火は4時間後に消し止められたが男性僧侶が逃げる際に転倒して軽症、近くを通る江ノ島電鉄が上下合わせて20本運休、最大1時間25分の遅れを出すこととなったのであった。既に建物は全て片付けられていた。「義経庵」の周囲の山の木々は火災の影響で枯れているものも。「義経庵」は既に更地になっていた。山の斜面の木々も黒く焼かれて、根元付近から伐採されていた。「火力の凄まじさ」👈リンク が想像できたのであった。「納骨堂」の屋根そして霊園を見下ろす。「ペット共同墓地」もあった。「水子共同墓 やすらぎの墓」。内部には骨壷が。そして片瀬東浜海岸が美しく。「ライオン像」とその間に「女性像」。「小動神社」方面を見る。「小動岬」を見る。こちらが「義経庵」の入口なのであろう。狛犬の如きライオンの姿が。「義経庵」への石畳の歩道。「合祀墓 みんなのおはか」。「片瀬海岸西浜」を再び。その奥に箱根の山々が。「江の島大橋」と「江の島」。「江の島」そして「江の島シーキャンドル(展望灯台)」が見えた。腰越市街と「龍口寺本堂」の緑の屋根、そして「仏舎利塔」の最上部が見えた。墓地を見る。この後に訪ねた「小動神社」の参道を見る。途中に訪ねて来た「妙典寺」をズームで。そして再びトンネルを通り引き返す。「満福寺」の「本堂」と「慈悲観音」と「トンネル入口」を見る。「満福寺」の「山門」への階段を坂道から。「真言宗 満福寺」案内板。そして踏切を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.01
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「電車通り」から別れて「小動」交差点方面に進むと左手にあったのが「義經腰越状旧跡 満福寺(まんぷくじ)」。「山門」に向かって進むと江ノ電の踏切があった。折しも鎌倉駅行きの江ノ電が通過。最後部車両は1000形のラッピング車両・オリパラ仕様の車両であった。オリンピックのセーリング会場が江の島ヨットハーバーなのだ。そして「山門」への石段を上って行った。「義經腰越状七百五十年記念」碑。「山門」「文学案内板 源義経と腰越鎌倉時代前期の武将・源義経は、幼名・牛若丸、のちに九郎判官と称した。父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。治承4年(1180)、奥州から兄・頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)、兄源範頼とともに源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。帰洛後、洛中の警護にあたり、後白河法皇の信任を得、源頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門壇の浦に平氏を壊滅させた。しかし、頼朝との不和が深まり、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。「平家物語」(巻第十二 腰越)には次のように記されている。 さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあい具して、関東へ下向せられけるとき、 腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官,本意なきことに思ひて、 「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、参らせられけれども、用ひ られざれば、判官力におよばず。その申し状に曰く、 源義経,恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに撰ばれ、勅宣の御使として 朝敵を傾け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略) (引用文献 新潮日本古典集成 昭和五十六年)しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などの作品にもなり、現在でも「判官もの」として親しまれている。中世には鎌倉と京とを結ぶ街道筋のうち、腰越は鎌倉-大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。 平成八年二月」「義経 腰越状旧跡 満福寺」。 「山門」の扁額は「龍護山」。「満福寺龍護山湍禧寺と号し、開山は行基( 668 ~ 749 )と伝えられ、本尊は薬師如来像です。源義経(1159 ~ 89 )が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があリます。 ー古義真言宗ー」「義経宿陣之址」👈リンク 碑。「文治元年(1185)五月 源義経朝敵ヲ平ラゲ降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋(ガイセン)セシニ 頼朝ノ不審ヲ蒙(コウム)リ鎌倉ニ入ルコトヲ許サレズ 腰越ノ駅ニ滞在シ鬱憤(ウップン)ノ余 因幡前司大江広元ニ付シテ一通ノ歎状(タンジョウ:嘆願書)ヲ呈セシコト東(吾妻)鑑ニ見ユ 世ニ云フ腰越状ハ即チコレニシテ 其ノ下書ト伝ヘラルルモノ満福寺ニ存ス」【1185年5月、源義経(みなもとのよしつね)は、平家(へいけ)と戦って、平宗盛(たいらのむねもり)を捕虜にし、鎌倉の入り口である腰越(こしごえ)まで帰ってきましたが、頼朝は義経の事を信用していないため鎌倉に入ることを許しませんでした。 そのため腰越に留まったままでした。この時、無念の気持ちを一通の嘆願書(たんがんしょ)にして、大江広元に渡したことが、吾妻鏡(あづまかがみ)に書いてあります。これが世に言う「腰越状」で、その下書きといわれるものがここの満福寺に残っています。】石仏。「手水場」。水口の龍。「本堂」。鎌倉市腰越2丁目4−8 。「本堂」の扁額「満福寺」。「龍護山 医王院 満福寺」。本堂に掲示された「相模國廿一霊場 第十五番 腰越 満福寺」「わすれても くみやしつらん たびゞとの たかのゝをくの たまがわのみづ」と弘法大師が詠んだとされる歌。大師が旅人の命運を心配し思いやった心の表現ととれると。「本堂」前右手には「慈悲観音」像。お顔をズームして。蓮の花(蓮華)を持つ「慈悲観音像」。蓮華には泥の中にあっても、水をはじく性質があり、泥に汚されす清浄であり、とても綺麗な花を咲かせる蓮華は、仏教において煩悩を滅却し解脱して涅襲の清浄の境地を目指す境地と合致するのだと。「弁慶の手玉石」。怪力と言われた弁慶が手玉にとった石と。「義経 腰越状」碑。横から。凛々しい武者姿の義経が口頭で書状の中身を伝え、弁慶がそれを書き記す姿が。「腰越状」👈リンク が碑にもきちんと書かれていた。本堂右奥にある「義経公手洗の井戸」「弁慶の腰掛け石」。「硯の池」。「腰越状」を書く時に墨を摺る水を汲んだと言われている「硯の池」。「鐘楼」。「梵鐘」。反対側から。「大師遍照金剛」碑。「六地蔵」。赤い椿の花の周辺には多くの石仏の姿が。「小動(こゆるぎ) 昭始会 物故者供養」碑。こちらにも石仏が。二体の「水子地蔵尊」。「満福寺復興記念碑」。「弘法大師」像。相模国大師廿一所霊場第十五番・東京十五日講「腰越 満福寺 弘法大師」碑。「本堂」の中に入れるとのことで拝観料を払い内部に。拝観料200円を奉納し入堂する。玄関の天井の鎌倉彫。中央は十二支であろうか。正面で大きな「寿老人」が迎えてくれた。「日本最大級の長寿を授ける寿老人」と。丁寧にお参りしました。そして上段に「義経腰越状」。写しであろうか?下檀には腰越状版木(江戸時代に作られた物)「腰越状写しと現代文セット」の土産品。「不動明王」も迎えてくれた。「本堂」の中心部の部屋へ。赤いカーペットの廊下?の上の天井には「家紋」が並んでいた。檀家の方々から寄付されたものであろう。手前の部屋の隅には「青年太子像」(右)が。「青年大師像弘法大師様は十九歳の頃、室戸岬の洞窟で嚴しい修行をなされ、明星を見て悟りを得られました。その時、仏法の大きさを思い「大海も池の如し」の境地てあったと思われます。者年大師の力強き、意志の強さ、仏道に邁進する厳しさが、この像全身に表現されています。」天井には巨大な龍の絵が。。義経と弁慶、静の姿が襖絵として様々に描かれていた。『弁慶の立ち往生』衣川の戦いで数百本の矢を受け立ち往生したとも言われているが、生き延び後に義経記を書き残したとも伝えられている。弓矢を受けながらも立ちふさがる弁慶の姿。兄・頼朝に直接思いが伝えられず、失意の中で北国へと落ちていく義経と弁慶の姿が。『平泉への道』鎌倉を追われ弁慶と共に雪の中を平泉の藤原氏のもとに向かう義経。『我が子との分かれ』義経の子を生んだ静は、頼朝の命によりその子を取り上げられ、由比ガ浜に流されたとも砂浜に埋められたとも伝えられている。『静との別れ』。『腰越状』平家を滅ぼし鎌倉に入ろうとした義経は腰越にて止め置かれ、ここ満福寺にて自分の気持ちを頼朝に書き届けたが聞き入れられず、これより追われの身となり悲劇の旅が始まってゆく。ズームして。『静の舞』「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔をいまに なすよしもがな」。義経を慕い舞い踊る静。その心のこもった舞の美しさは八百年過ぎた今も語り継がれている。『旅立ちの静』義経の後を追い旅立つ静、八幡宮の舞殿で舞ってから八百年が過ぎた今も義経にめぐり逢うまで旅を続ける静。二人の間にはもはや源氏も平家もない。人間として求め合う姿がそこにあるように思える。「本堂祭壇」。ズームして。御本尊の薬師如来像。「本堂」に吊されている人天蓋の上にも家紋が。「位牌堂」中央に「千手観音」、手前に「五鈷杵(ごこしょ)」。「位牌堂」の天井には 鎌倉彫の花の寺にふさわしく、48種の鎌倉彫の花々が七色に乱れ咲いている。 梅、ボタン、ハス等の全て図柄の異なる絵を描き、それを彫って七色の漆を塗って仕上げてあると。そして客殿の書院の襖絵や掛け軸、絵画も美術館で鑑賞しているが如し。大きな付書院(つけしょいん。出窓状に張り出した書院)の地袋(じぶくろ)の引き戸にも鎌倉彫が用いられているのであった。襖にも丸い鎌倉彫がはめられていたのであった。鎧や木造仏もあった。襖には様々な花の絵が。こちらにも。御朱印を頂きました。戴いた御朱印の袋です。そして外に出る。五鈷杵(ごこしょ)と如意宝珠(にょいほうじゅ)を持つ弘法大師像であろうか。「源義経公慰霊碑」。墓地への入口。境内から「龍口寺」の「本堂」と「仏舎利塔」が見えた。境内から「山門」と「鐘楼」を見る。「鐘楼」と「水子地蔵堂」を見る。「慈悲観音像」の裏には「おねむり小僧」が。長くなりましたが、久しぶりに「満福寺」を訪ね、ほぼ本堂内は独り占めでゆっくりと写真を撮りながらの参拝、そして堂内鑑賞が出来たのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.30
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「勧行寺」を後にし次に訪ねたのが「龍口山 妙典寺」。鎌倉市腰越2丁目20−5。入口にあった題目碑「南無妙法蓮華経 妙典寺」。門柱には「日蓮宗 妙典寺」と。「水子地蔵尊」。本堂前には仏法を護り飯食を豊かにし、福徳を給(たま)う「大黒天像」が。「妙典寺福徳大黒尊天この大黒様は本堂内に安置されている大黒様の御前立(おまえだち)です。御前立を拝むことにより本堂内の大黒様を拝む事と同じ御利益が得られます。大黒様の頭を撫で合掌し心静かに。寿福増進安穏楽 除病廷命息災我福我円満重果報 衆人愛敬従恭敬人来衆人得七宝 南無妙法蓮華経'の「大黒天神授文」を三回御唱え下さい。大黒様は仏去を護り、飯食を豊かに、福徳を給う神様として仏教では福徳円満自在菩薩の化身と説かれています。大黒様の御姿はいったい何を示されているのでしようか。働いて働いて真黒になる。つまり大黒になって働けば足元から「幸」が盛り上がってくるのであろうと教えられています。大黒様は希望を叶える小槌を持ち、この小槌で物をたたくと「コツコツ」音がします。つまりコツコツとたゆまず励む事が幸福への近道であるのです。つまり大黒様とは私達の精神そのものの姿なのです。努力する事が愚かであるかのように考えられる今の世の中であればあるほど、大黒様の精神は光り輝き、私達の心の中に留めるべき相なのです。 瀧口山妙興寺住職」「本堂」。正和2年(1313年)、天目が建立した日蓮宗の寺院。旧本山は比企谷妙本寺、池上法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。扁額「妙典寺」。「内陣」。「寺務所」。「動物供養墓」。ズームして。愛犬の写真入りで。墓碑に刻まれた「一切衆生 悉有仏性」とは、生きとし生けるものすべては生まれながらにして仏になる資質を持っていると説かれたお釈迦様の教え。人に限らず動物たちも同様であると。右手の高い場所にある墓地はこの後に訪ねた「満福寺」の「富士見墓苑」。「#私はあなたにうつしません #あなたは人にうつさないで #私はあなたを信じます」と。そして次に訪ねたのが向かいにあった寺「龍口山 東漸寺」。鎌倉市腰越2丁目22−13。「東漸寺」の「山門」を見る。題目碑「南無妙法蓮華経 東漸寺」。「山門」の扁額「龍口山」。「東漸寺山門の由来当山の山門の形式を薬医門という。建立の施主は藤沢市片瀬上州屋六代目新倉守蔵氏で、日蓮聖人御入滅第七百遠忌の御報恩に撰すると共に、新倉家先祖累代の供養、更には昭和五十一年十月十二日五十ニ歳で逝去されし令室、慈修院妙珠日喜大姉(俗名喜代子)霊位の菩提を弔い、一基建立されしものにして妻の早逝を痛まれし守蔵氏は、この山門を出入りする人々が、薬方の力を受けずとも斉しく長寿されんことを願い、この薬医門の形式を選定されたり。今茲にその縁由を勒銘し以って後証と為す。」「山門」を潜り境内に。植木がきれいに整えられた「東漸寺」境内。「本堂」。550年に渡って続いた龍口寺輪番八ヶ寺のひとつであり、日東上人が1325年に開山。日蓮上人が仏法の力によって処刑を免れたといわれる聖地・龍口刑場を護持するために建てられた腰越六寺のひとつです。龍口刑場の地は江戸時代に入り1601年、島村采女が土地を寄進し本格的な寺院、龍口寺となりました。龍口寺には選任住職は置かれず、腰越六寺が輪番で維持しました。後に藤沢市片瀬のふたつの寺院を追加し龍口寺輪番八ヶ寺となり明治19年(1886年)、龍口寺に住職が置かれるまでこの制度が続きました。龍口寺輪番を勤めた腰越六寺(本龍寺、本成寺、勧行寺、妙典寺、東漸寺、法源寺)はみなこのあたりにあるのだった。扁額「東漸寺」。境内の五重石塔。そして次に訪ねたのがこの寺にも題目碑「南無妙法蓮華家経 本成寺」。「龍口山 本成寺」山門。境内には綺麗に手入れされた松の古木が。内陣。ズームして。境内の稲荷神社。動物供養碑。「本堂」。1309年(延慶2年)、日賢によって開かれた。もとは本覚寺の末寺。扁額「日蓮宗 本成寺」。境内の藤の花も開花直前。墓地の奥にあった「無縁塔」。そして「本成寺」を後にし、海岸方面に向かい江ノ電の踏切を渡る。鎌倉方面を見る。こちらは藤沢方面。そしてGoogle Mapの道案内に従って進む。徒歩に設定してあるため、この様な狭い道まで案内するのであった。そして海岸に突き当たる道に出て、次の訪問寺「満福寺」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンク先程歩いて来た道を龍口寺方面に向かって引き返す。腰越5丁目の辻にあった戦没者慰霊塔の横にあった「庚申供養塔・道祖神塔・堅牢地神塔」。ここには庚申供養(こうしんくよう)塔二基、道祖神(どうそじん)塔一基および堅牢地神(けんろうじしん)塔一基が祀られていた。これらの塔は、もとは長山の入口「小学校への道」角などにあったものと。 一番右にあったのは「故近衛歩兵一等卒坂巻周蔵墓」碑。「明治廿八年八月七日」と刻まれていた。そして「庚申供養塔・道祖神塔・堅牢地神塔」案内板。石塔①は「庚申供養塔」。石塔②は「道祖神」。石塔③は堅牢地神塔。石塔④は庚申供養塔。石塔①は庚申供養塔です。弘化三年(一八四六年)、講中(信者の集まリ)による建立です。自然石の真ん中に「庚申」、上部に日月(太陽と月)が彫られています。石塔②は道祖神です。道祖神は道路の悪霊を防いで道行く人を守ってくれる神様です。この道相神は昭和六年(一九三一年)、坂本定吉など七名による建立で、大きく「道祖神」と彫られています。石塔③は堅牢地神塔です。堅牢地神は大地をつかさどる神様で、大地を堅甲(かたくて丈)にします。天保七年(一八三六年)の建立です・正面に「堅牢大地神」、左右に「五毅豊穣、「天下寨平」と彫られています。石塔④は庚申供養塔です。寛政五年(一七九三年)、井上傳兵衛など八名による建立です。正面に六本の腕を持っ青面金剛立像、上部に日月(太陽と月)、下部に三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)、左に「天下泰平」、「五穀成就」と彫られています。」そしてその先の庚申供養塔・道祖神塔・堅牢地神塔の先の地蔵堂の中には大小の地蔵様が並んでいた。これも「六地蔵」なのであろうか。昔、この場所にあった観音堂に関する逸話が残っているのだと。観音堂には十一面観音像が祀られていた。「明治の初めごろ、この付近に住んでいた木材から板や角材を作る仕事をしていた人の夢枕に観音様が立たれ、「わたしは長いことここに住んでいますが、もうこのように堂は荒れ果ててしまいました。縁日になっても誰も供養してくれません。」といいました。その人は驚いてお堂へ行ってみると、なるほどお堂はみるかげもなく荒れ果てており、このことを宝善院の住職や世話人に話しました。そしてみんなで相談して盛大に供養をしました。また、これはきっと観音さまが安住の場所を探しているためだろうと考え、観音像を宝善院に移したということです。(かまくら子ども風土記 181ページより)」と ネットから。そして腰越3丁目を走る江ノ電の線路に向けて南下すると、5差路の角にも「道祖神塔群」がネットフェンスに囲まれて。「道祖神塔道祖神は道路の悪霊を防いで道行く人を守ってくれる神様です。石塔①は神官姿と考えられる像を浮き彫りにした道祖神です。文化十三年(一八一六年)に氏子(氏神様を信しる人達)により建立されたものです。腰越にある年号の記載されてある道祖神の中で最も古い道祖神です。石塔②も神官姿と考えられる像を浮き彫りにした道祖神です。像の右に「天下泰平」と彫られています。石塔③は「道祖神」と文字を彫った道祖神です。安政七年(一八六〇年)に岡田兵左衛門により建立されたものです。石塔④も「道祖神」と文字を彫った道祖神です。慶応四年(一八六八年)の建立です。下の台石には「三ケ街」とあり、中原町、下町及び土橋の世話人の名前が刻まれています。石塔⑤は上部を欠く、文字を彫った道祖神です。小型の道祖神、石塔⑥と⑦があります。毎年一月の左義長(どんと、サイト)の時にはそのうちの一つが海岸に移されお祀りされます。」石塔①は道祖神。石塔②も道祖神。石塔③は「道祖神」と文字を彫った道祖神。石塔④も「道祖神」と文字を彫った道祖神。石塔⑤は文字を彫った道祖神。小型の道祖神、石塔⑥。小型の道祖神、石塔⑦。「道祖神」案内碑は朱記で。県道304号線・腰越大船線に出るとあったのが「本行寺」。寺号標石「祈祷道場 龍松山 本行寺」。鎌倉市腰越3丁目25−19。「本行寺」は、腰越の市街、住宅地に建つ鉄筋コンクリート造りの寺で、二階が「本堂」のようであった。「本行寺」の前の県道304号線・腰越大船線沿いの川は西鎌倉から腰越へと流れる「神戸川(ごうどがわ)」。「神戸川」下流方向に向かって進み、右折し「本龍寺橋」を渡って直ぐ右折して進む。左手にあったのが「龍口山 本龍寺」。鎌倉市腰越2丁目26−2。「掲示板」には「一華を見て春を推せよ」👈リンク と。寺号標石「日蓮宗 本龍寺」。題目塔碑「南無妙法蓮華経 本龍寺」。境内に向かって進む。正面に「本堂」が見えた。境内参道の両脇には芍薬の鉢植えが並んでいた。そして「本堂」前に。「この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。平成14年、立教開宗750・創建700年を期して、本堂建て替え並び寺域整備を行う。」宗派 池上法脈 土富店法縁 妙本寺末寺本尊 大曼荼羅御本尊創建年 1302年「本堂」内には臨滅度時大曼荼羅御本尊(模刻)、 雨乞い日蓮聖人像 、日行聖人像(室町期、鬼子母神 、大黒天・三面大黒天が安置されている」とウィキペディアより。「本堂」の見事な龍の彫刻。扁額も見事な彫刻に「本龍精舎」と。既に開花を迎えた牡丹の花。「本堂」を斜めから。2階建ての寺務所。芍薬の鉢が並ぶ。駐車場前から「本龍寺」を振り返る。そして海岸に向かって南下する。前方に江ノ電の踏切が現れた。ズームで江ノ電の通過を。 進んで行くと右手に「勧行寺」があった。鎌倉市腰越2丁目19−15。源義経ゆかりの地「腰越」。腰越の地名には諸説あるのだと。「北の山に住んでいた人々が南の海側の肥えた土地を求めて、山の腰を越えて移り住んで来たことから、この地名がついた説。5つの頭をもつ龍が住んでいて、五頭竜の難を逃れるために、子どもの「子」「死」「越える」という字をあて「子死越(こしごえ)」とか、恋しいという字をあて「子死恋(こしごい)」というようになり、「腰越」になったという説。昔、干潮時は浅瀬で、背に物を背負って渡ることができ「背負越場(せおいこしば)」と呼ばれ、背負越で越すことから「腰越」になったともいいます。」とのネット情報。「本堂」。龍口寺を守った腰越六寺、龍口寺輪番八ヶ寺のひとつ。日蓮宗の聖地を守ってきた歴史ある寺院。境内には本堂の他、水子観世音菩薩があった。本 尊 文殊菩薩、三宝祖師創 建 1303年(嘉元元年)開 基 但馬阿闍梨日実上人天和3年に堂宇を焼失、寛政3年に大暴風雨で、大正12年に関東大震災で潰されたが、その都度再建された とのこと。扁額「龍口山」。「勧行寺」墓苑 ・永代供養墓やすらぎ。「水子観世音菩薩」像。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「龍口寺」を後にし、「仁王門」前の小道を腰越(こしごえ)に向かって東に進む。ここが藤沢市と鎌倉市の境である。三叉路の正面に石標があったがその場所は鎌倉市腰越。石標には「天下泰平龍口山 南無妙法蓮華経 日月清明 法源寺」と刻まれていた。そして下には「法源寺」、「ばたもち寺」とも刻まれていた。ここから先は「法源寺」の境内参道なのであろう。「法源寺略縁起鎌倉市に源氏山とゆう丘があり、その源氏山から和歌江浦 (只今の鎌倉材木座海岸沖合いにある日本最初の築港で史蹟になっております) の出船 入港を見物する人々を相手に茶店を出していた日蓮大聖人の帰依者であった老婆がありました。たまたま当小動岬の近くにある自宅に帰宅していた文永八年九月十二日 御法難にあい竜ノ口の刑場におもむく大聖人が、自宅の前を通り遊ばされたので急ぎ差しだすにぎり飯が、つまづきころんで砂にまみれごまをまぶした如くになりましたが、日蓮大聖人は老婆の心からの御供養を僖こび遊ばされ警護の武士の許しをえてこの世の最後の供養にと僖んで召し上られました。後世に至り、当山の金子家の墓所に葬られている老婆の供養にと毎年九月十二日に日蓮大聖人が御難を除かれ命ながらえ給いしにちなんで「延命のぼたもち」又は「ご難よけのぼたもち」とよばれて、いつしかにぎり飯がぼたもちとして皆様に差し上げる様になりました。」三叉路を左に進むと、直ぐに「創価学会鎌倉国際教学会館」の入口があったが工事中の看板があり門は閉ざされていた。「創価学会鎌倉国際教学会館」の坂道の右側には巨岩が。最初からここにあったものであろう。移動するには巨岩過ぎる。そして100m程進むと正面に見えて来たのが「龍口山 法源寺」。神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。本尊は三宝祖師。旧本山は大本山法華経寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。通称ぼたもち寺。「法縁(ほうえん)」というのは、戦国時代から江戸時代にかけて、全国にお坊さんが修行する学校が開設されていったなか、やがて、その檀林で学んだお坊さん達が、教えて頂いた先生のもとで学閥をつくって行った。これが法縁と言われるものであると。鎌倉市腰越5丁目1−17。「本堂」左手にあったのが、「稲荷大善神」がまつられる「稲荷堂」。この「稲荷大善神」には、龍口寺の経八稲荷などと共に日蓮の身を守ったとする逸話も残っているのだと。扁額は「経一殿」。こちらが「本堂」。文保二年(1318年)、妙音阿闍梨日行が建立した。以前本寺は別の地に所在していたというが、龍ノ口刑場での処刑を受けた人々の供養のため移転して来たといわれる。移転の時期は不詳。「本堂」には本尊の三宝祖師像の他に、日蓮像もまつられている。この像は一木二体の像で、一方は龍口寺妙見堂にまつられているといわれる。立派な扁額「法源寺」。「本堂 内陣」。「本堂」と「稲荷堂」の間の奥にあったのが「寺務所」であろう。裏の墓地に続く道の脇には竹林が広がっていて、その前にあったのが「水子地蔵尊」。「水子地蔵尊」。小さな「水子地蔵尊」が並んでいた。一つだけ倒れていたので、直しておいたが・・・。「本堂」裏の墓地入口。台座に「武治正王霊」と刻まれた石仏。その横にあったの「庚申塚」碑。1667年(寛文7年)の銘の入った庚申塔は、人まねき庚申塔とも呼ばれ、市の有形民俗文化財に指定されているとのこと(右側)。そして八重桜が満開で迎えてくれた。「法源寺」を後にし、参道を戻り、小道を更に腰越(こしごえ)に向かって東に進む。左手に民家の古い板塀があったが、「管理地」と書かれた札が貼り付けられていた。その先の左手には鉄筋コンクリートの建物の入口門が。表札には「霊鷲寺」と。扁額には「佛眼宗」と。鎌倉市腰越5丁目5−14。しかし、境内には入れなかった。「仏眼宗(ぶつげんしゅう)は、菊地霊鷲(1908年 - 2001年)により1951年開かれた本願寺系新宗教。霊鷲は富山県大門町の生まれで真宗大谷派の出自であるが、浄土真宗の本山西本願寺にて得度し、その後一派を立てた。1951年の宗教法人届出の名称は「仏眼宗」であったが、3年後から「仏眼宗慧日会」と称している。開祖自身は、戦後初の宗教法人設立認可を受けた新宗教と記しているが、真偽は不明である。霊鷲死亡後は娘の菊地静流が後継者として現在に至っている。」とウィキペディアより。更に腰越の住宅街を東に進む。道路脇にあった大樹の枝の隙間から朝の陽光が。 そして戻ると、左手角にあった「石碑群」👈リンク。鎌倉市腰越5のこの辻には観音堂跡があったという。中原観音堂とも呼ばれていた。地元の古老がいうには奥の民家が管理していたという。観音堂には明治のはじめ頃まで、十一面観音を安置していたが、宝善院に移されたと伝えられている。現在は地蔵堂が置かれており、庚申塔や軍人の墓や戦没者慰霊塔(忠魂碑)が建ち、三界萬霊塔の周りには墓地が広がっている。「霊光無盡」塔と「霊光無盡塔合祀者氏名」。左手の碑には「霊光無尽 大覺寺門跡大僧正全亘(花押)」と刻まれていた。腰越地区の戦没者慰霊碑であり、御影石の石柱で囲まれた一郭に慰霊碑と合祀者名碑及び碑誌の3基が建立されている。 慰霊碑は、もともと戦前に忠魂碑として建てられていたのを戦後の昭和25年8月、各戦役の戦没者を合祀した慰霊碑として再建したものであるとのこと。裏面には「忠魂碑」と。側面に「陸軍大将植田謙吉書」と忠魂碑として建立された際の刻字も残っていた。慰霊碑右手に平成8年3月に建立された。慰霊碑に合祀されている324名の氏名が刻まれている。氏名碑全高:約244㎝、幅222cm、厚さ27.5cm刻字(正面):「霊光無盡塔合祀者氏名」と合祀者324人の氏名が7段にわたって刻まれている。(裏面)「平成八年三月吉日 明照会」合祀者の中には日本のクラシック・バレエ育ての親と言われる「エリアナ・パヴロバ」の名がある。エリアナは昭和2年、七里ガ浜に日本初のバレエ稽古場を設け、多くのバレリーナを育てた。その後、日本に帰化し、昭和16年慰問先の南京で死去し、軍属の戦病死とされた。道路脇のフェンスの奥には「この塔は、戦没者慰霊のため、地区の融資や 遺家族が相談し、多くの住民の協力を得て、 腰越小学校の一隅に放置されていいた忠魂碑を 昭和二十五年八月ここに移し霊光無盡塔として再建したものです。日清・日露の戦役、第一次世界大戦、太平洋戦争 などで戦没された当地出身者並びに当地にゆかりのある者を合祀し、霊光の無盡であること を祈念し、その氏名を銅板に刻み台座下の 石室に奉安してあります。」と。更に進んで行くと左手に次に訪ねる「宝善院」の案内表示板が。「案内板」に従い左手に進むと前方左手に「宝善院」の入口が現れた。寺号標石「真言宗 加持山 宝善院」。「山門」に向かって参道を進む。「山門」手前の左側には「墓地」が拡がっていた。正面に「山門」の「薬医門」が。「宝善院」と書かれた提灯が対で。「真言宗 寶善院」と刻まれた碑。「東国 新四国 第八十六番霊場 寶善院」、「小田急沿線武相観世音第三十ニ番 加持山」碑。「山門」手前の左にあった御堂に入った「地蔵尊」。そして「山門」を潜る。「山門」の扁額は「加持山」。そして石畳の先に「本堂」が。「本堂」。宝善院(真言宗大覚寺派)は、加持山霊山寺・泰澄山瑠璃光寺という2つの山号寺号をもつ寺院。創建は天平神護年間(765年~767年)とされている。開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。開山の泰澄は、信仰していた十一面観音像をこの地に祀った。江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともあると。扁額「寶善院」。「内陣」。「本堂」前から境内を見る。「十一面観音 観音堂」碑。「三つ鱗」紋。賽銭箱にも「三つ鱗紋」。「加持山 寶善院 興隆碑」。「弘法大師像」。近づいて。宝善院の裏手から「太師堂」を見る。扁額「太師堂」。そして「観音堂」。金色に輝く「宝珠」をズームで。「南無十一面観世音菩薩」と書かれた幟が並ぶ。そして再び「山門」前に戻る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして前方に「五重塔」が見えて来た。周囲の木々と調和し見事な景観。明治43年(1910)に建立。神奈川建築物百選の一つ。五重塔は、この世と私たち人間を形作っている5つの要素、すなわち「地・水・火・風・空」を表していると。初層の上部には彫刻師永田伊助作の日蓮大聖人御一代記が奉納されている。神奈川県でただひとつの「純木造の五重塔」であると。神奈川県には3つの五重塔があるが他の2つ(川崎・香林寺と川崎大師平間寺)は鉄筋コンクリート造。龍口寺の五重の塔は、木造ケヤキ造で五重塔。「五重塔仏教の開祖であるお釈迦さまが亡くなられた時、その御遺体は荼毘(火葬)に付され、その遺骨(御仏舎利という)は八つに分骨されて、その当時、インドで主流の八部族に渡された。そして、八つの部族は塔を建立し、それぞれに頂いた御仏舎利を、その中に安置してお祀りした。この塔のことを、古代インドの言葉である梵語(サンスクリット語)で「ストゥーパ」という。このストゥーパが五重塔の起源であり、法要で供養する卒塔婆の語源である。五重の塔は、この世と、また、私たち人間を形づくっている五つの要素である「地」「水」「火」「風」「空」の五大を意味する。龍ロ寺の五重塔は明治四十三年(一九一〇)竣工、欅造り銅板葺き、神奈川県で唯一の木造本式五重塔である。初層の上部には彫刻師・永田伊助の手になる日蓮大聖人御一代記が奉納されている。「神奈川建築物百選」にも選定されている剛健優美な五重塔である。」屋根の一辺は4.5m、高さは約30m。塔は、縁がなく基壇上に建つ。一層部は中央間桟唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも彫刻を施す。見事な組物と彫刻。組物は三手先組物。中備えの彫刻は龍ノ口の法難を素材にしたものと。「五重塔」から「本堂」への石段を下る。遠く前方に相模湾の水平線が見えた。振り返って。塔建設の発願は、のちに日蓮宗管長となる龍口寺第四代、藤原日迦上人(1837~1916)。近くに「五重宝塔初重銅瓦寄附 川崎 最初牡丹餅講」、「五重宝塔二重目銅瓦寄附 橘結社中」、「五重宝塔寄附 新橋片瀬講」などと記された碑が置かれていることからも分かるように、造塔にあたっては、多くの檀信徒の寄進がなされた。碑にある「牡丹餅」というのは、日蓮が鎌倉幕府に捕らえられ、斬首のために刑場であった龍ノ口へ連行される途中、「桟敷の尼」が黒胡麻の牡丹餅を捧げ、奇跡的に処刑を免れたという故事(龍口法難)にちなんだもの。「本堂」の屋根を見る。日蓮宗の寺紋である井桁橘が頂部に。石段を下りた場所から「五重塔」を見上げる。五重塔の最上階の垂木のみが放射状であることがその階下の垂木との比較で解るのであった。「本堂」の横には湧水の小さな池があった。そして「本堂」前脇には上屋のかかった堂の中に石仏が。「浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」。側には、“さぁ、菩薩さまをお洗い下さい”とばかりに水桶とタワシの山が!。『浄行菩薩』とは法華経に出現する菩薩様で、水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩(苦しみのもと)の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩様とのこと。そして「本堂」を正面から。天保3年(1832)建立。欅造り銅版葺。間口12間・奥行き15間。神奈川県の代表的な木造大建築物。藤沢市片瀬3丁目13−37。「内陣」。「四月八日は、お釈迦様の誕生日です。仏像に甘茶をかけて下さい。」この日は四月六日。龍口寺本堂内に安置された龍ノ口刑場の「敷皮石」。以前戴いた「寂光山 龍口寺」の「南無妙法蓮華経」の御朱印です。以前戴いた「寂光山 龍口寺」の「妙法」の御朱印です。以前戴いた「寂光山 龍口寺」の「藤沢七福神」の「毘沙門天王」の御朱印です。「本堂」前から「山門」方向の境内を見る。「百度石」。「日蓮大聖人像」。ズームして。左手には数珠と立正安国論の巻物を持っています。お顔を更に。砲弾の如きものも。境内から出て来たものであろうか。台石の上に、竹の根元を模した碑と自然石?と共に置かれている。 背後に石碑が置いてあるが、由来等一切不明である。 砲弾長約54㎝、直径20㎝。竹の碑には「奉納 大正二年九月十二日 横濱市野毛町三丁目百□□・・・」と刻まれている。「鐘楼」と内部に「延寿の鐘」。龍ノ口法難七百年記念事業として、千葉県の中山法華経寺の鐘楼が移築されたと。700貫(2.6t)の梵鐘は新たに鋳造され、「延寿の鐘」として、毎朝妙音を響かせていると。「延寿の鐘」の下部には4種類の龍のレリーフが施されていた。境内の歌碑。「日蓮聖人像」と「五重塔」を振り返る。「鐘楼」も入れて。「大書院」。欅造り瓦葺。昭和初期、信州松代(まつしろ)の蚕糸業で財を成した窪田家の建物だったものを昭和10年に移築したとのことである。二つの石碑。「日本海軍大東亜戦争戦没者 慰霊碑」。日本海軍戦没者47万3千余柱と殉国者200余柱の英霊を慰霊する。昭和62年4月8日建立。「日本海軍大東亞戰争戰没者殉国者 南無妙法蓮華経 慰霊碑 龍口十三世 日宣(花押)維時 昭和六十二年四月吉日 海交会 龍口寺大本願人 秦野秀雄 建之」「追悼の辞」碑。「追悼の辞大東亜戦争日本海軍戦没者四十七万三千余名殉国者二百余名の 御英霊に捧ぐ 祖国日本の繁栄と同朋の幸福を念じつ 悠久の大義に殉じた 御英霊に感謝申し上げ御冥福を祈る 施主 元海軍一等兵曹 秦野秀雄 奉賛者 元法務大臣 秦野章 元参議院議員 藤井裕久 衆議院議員 田中慶秋 立正山光妙寺 柴山宣哲主要慰霊行事 一 中部太平洋ソロモン方面慰霊祭施行 海交会 昭和五十六年十一月十二日より十二月一日まで一 タラワ ナウル グアム マショロ島慰霊祭施行 昭和五十八年十一月二十二日より十二月一日まで 熊野原妙光寺 田中栄海 亀井野法泉寺 酒井光雄 愛国歌手 渡辺はま子一 南太平洋方面慰霊祭施行 昭和五十九年十一月二十八日より十二月九日まで一 フィリッピン 台湾 沖縄方面慰霊祭施行 昭和六一年十一月二十六日より十二月十日まで 世話人 海交会 元海軍中尉 山北林 謹書 元海軍少尉 米本八百重(碑面裏) 昭和六十二年四月八日建之 (以下奉賛者名は略)」「大書院」前から「本堂」を見る。「大書院」入口。藤沢市片瀬3丁目13−37。扁額は「寂光山」。「龍口会館」。龍口寺が運営する葬儀会館。藤沢市片瀬3丁目13。そしてここ龍口寺で行われる「龍口法難会」は、9月11日~13日。特に盛り上がりをみせるのは12日の夜に行われる「万灯練り供養」👈リンクなのである。この祭りには今まで何回も妻と出かけており、ブログにもアップしているので上記👈リンクにアクセスして見てください。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク龍口寺の境内の散策を続ける。「本堂」の左側にあった「経八稲荷堂」。石鳥居の扁額は「経八稲荷大明神」。赤い幟には「正一位経八稲荷大明神」の文字が白抜きで。「経八稲荷大明神」の社殿。経八稲荷堂は地元に古くから伝わる八体の守護神で大檀越島村家に安置されてい地元の八体の守護神の一つ。平成11年(1999)竣工。江戸時代以来、ご神体として稲荷の木像を安置。「経六稲荷」は鎌倉腰越の龍口明神社横にあった。「経八稲荷大明神」前の「茶筅塚(ちゃせんつか)」。茶筅供養は、針供養や筆供養と同様、道具への感謝の気持ちを込めて行うもの。年に一度、使い古した茶筅、壊れてしまった茶筅などを持ち寄り、感謝とより一層の精進の気持ちを込めて炊き上げる行事。国宝・阿修羅像(興福寺蔵)と同じ三面六臂(さんめんろっぴ)の石仏が「茶筅塚」の横に。妙見大菩薩(妙見さん)に似ているが。「當山大檀越蓮行院日要居士之霊位」の塔婆と石碑群。龍口寺の大檀越(おおだんおつ)の島村家の墓地なのである。龍口寺が創建される際に寺域を寄進した島村家。大檀越とは大檀家の意。「龍口寺大檀那 嶌村采女之墓」と刻まれた石碑。島村采女は腰越津村の信者で、龍口寺に大な土地を寄進したのだと。本堂左側の階段を上り「七面堂」に向かう。「七面堂」の横にあった石碑群。中央の円柱形碑には「萬人歯骨塚」と刻まれていた。日蓮聖人は数本の歯を失った際に、自らの生命を支えてくれた分身として、感謝を込めて仏前に歯を供え、 毎月礼拝したのだと。子供の頃、歯(乳歯)が抜けたら丈夫な大人の歯(永久歯)が生えてくるようにという願いを込めて、屋根や縁の下へ投げたことを想い出したのであった。正面から「萬人歯骨塚」碑を。生命は尊きものとする日蓮聖人だからこその歯骨供養という行事。その後、弟子たちがこれを「御肉牙」と称し、立派な容器に収めて後代に伝え供養会を行った。現在は毎年歯と口の健康週間中に藤沢歯科医師会が供養を行っているとのこと。「萬人歯骨塚整備の辞歯は人の生命を支えるかけがえのない存在である。健康で幸福な人生を送る人々のために、歯科医師は日夜努力を惜しまないが、病気や事故、あるいは宿命の老化により、生きながらにして大切な歯を失うことが多い。 永久歯は失えば再び戻らないのである。日蓮聖人は、存命中に数本の歯を失われた。この歯を自らの生命を支えてくれた分身として、感謝を込めて仏前に供え、 毎月礼拝された。生命こそ、何にもかえ難い財宝であるとする日蓮聖人ならではの歯骨供養である。のちに直弟たちは、これを「御肉牙」と称し、立派な容器に収めて後代に伝え生前の日蓮聖人と接しうるよすがとして供養会を開き、信仰のより所とした。いま、この「御肉牙」は大本山池上本門寺に伝存している。爾来、日蓮宗では、壇信徒の歯骨を小壺に容れて各本山寺院に収める信仰的習慣がうまれ、今日に至る。当山でも、古来歯骨塚が存在したと伝えられる。のち、明治十四年九月十三日、横浜の入歯師水野房吉氏が、自らの歯科修業(行学)の結願を記念して、現存の「萬人歯骨塚」を再建、毎年一回藤沢市歯科医師会が施主となり、いまも供養会が営まれている。再建から百有余年を経て、近年に至り、塚石の風化も著しく、周辺の荒廃も目立つようになった。茲に、藤沢市歯科医師会の協力を得て、その保存策を協議した結果、再整備の浄業を実施することに決定をみる。藤沢市歯科医師会の善業の功徳甚多なり。その資助の法功をここに 誌し、永く顕彰するものである。併せて、歯骨供養の信仰を通して、広く衆庶に歯の大切なることを喧伝し、歯科衛生・治療の知識・関心を高揚せんと欲すると 爾か言う。(平成十二年十月八日 霊跡本山龍口寺第十四世 慈悲院日立 和南)」「奉納金拾圓永代施餓鬼料」碑。法華経信者を守護するという七面大明神を安置する御堂・「七面堂」。他に日朝上人像、鬼子母神像も安置されている。平成元年(1989)竣工で、江戸時代初期に身延七面山の七面大明神をを勧請したと。「七面堂」前の左にあった石像。見事な迫力ある「龍」の石像。龍口という地名はこの地に残る五頭竜伝承にちなんでつけられたという。この伝承は、かつて悪事の限りを働いていた五頭竜が江の島の女神(弁財天)に惚れ、改心し山に姿をかえて津村・腰越村の守護神となったというものであり、伝承によるとちょうどこの辺りがその五頭竜の頭部にあたるため、「龍口」という地名がつけられたという。扁額「七面天」。「七面天女山撃県南巨摩に聳える七面山の守護神。七面山は標高一九八ニmを誇り、日本ニ百名山の一つ。富士山のほぼ真西にある為、春分秋分の日には富士山頂からのご来光が拝める。(我が家もほぼ富士山の真東にあるのだが。)八大龍王仏法守護の龍神。法華経を守護する八神の龍神で、龍神の中の王とも称される。因みに当地は江ノ島弁天に恋をした五頭龍が鎮座し、そのロの部分に当たる為龍の口という。三十番神日本国を一ヶ月問、日替わりで守護する三十柱の神々。若き日の日蓮聖人が比叡山にて修行中、その真摯な大願に歓喜した三十神が姿を現したという。」題目碑「南無妙法蓮華経」。「三十番神」👈リンク 碑。日本国を一ヶ月問、日替わりで守護する三十柱の神々。一日は熱田大明神、三十日は吉備大明神と。「七面堂」から左方向へ進み丘に建つ「仏舎利塔」を目指す。龍口寺の裏山山頂にある「仏舎利塔」は、1970年(昭和45年)、龍ノ口法難七百年を記念して建立された。金色に輝く釈迦如来像が安置されている。塔内には仏舎利が安置されている。仏舎利とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨を指す。「仏舎利塔」の中央部に金色に輝く「廣供養舎利」・「釈迦如来像」が安置されている。更に「釈迦如来像」をズームして。「御仏舎利塔仏教の開祖であるお釈迦さまが亡くなられた時、その御遺体は荼毘(火葬)に付され、その遺骨(御仏舍利という)は八つに分骨されて、その当時、インドで主流の八部族に渡された。そして、八つの部族は塔を建立し、それぞれに頂いた御仏舎利を、その中に安置してお祀りした。この塔のことを、古代インドの言葉である梵語(サンスクリット語)で、「ストゥーパ」という。龍ロ寺の御仏舎利塔は昭和四十五年(一九七〇)、日本山妙法寺大僧伽山主・藤井日達猊下の発願により、この地に涌現した。仏塔内部にはインド・ネルー首相より拝受した御仏舎利が奉安されている。海外ではシャンティ・ストゥーパ(平和の仏塔)と尊まれる、白亜に輝く美しい御仏舍利塔である。」仏舎利塔に上がり一周しながら、ここからの眺望を楽しむ。かつては江ノ島や相模湾を一望のもとにできたが、国道134号・国道467号沿いに複数の高層ビルが建って以降、視界がビルに遮られるようになったとウィキペディアより。マンション越しに江ノ島を見る。「江の島展望灯台」・「江の島シーキャンドル」をズームで。片瀬漁港、そしてその先に微かに伊豆大島の姿が。「富士山」は残念ながら山頂は雲の中に。ズームして。中央の山は金時山。箱根火山の外輪山の最高峰。神奈川県南足柄市、箱根町、そして静岡県小山町との境にある。外輪山の中では最も北にあり、北に足柄峠へ続く尾根を分けている。「犬猫等異類一切之霊位」碑が「仏舎利塔」の下に。再び「仏舎利塔」を振り返る。そして「七面堂」に向って同じ道を戻る。右手の林の中にもエンジン式の農業用・工事用「モノレール」を発見。現在でも利用しているのであろうか?そして再び「七面堂」の前を通り「五重塔」の方向に進むと左手に墓地があった。「支倉常次之像」と「支倉志津子之像」。支倉常長の子孫夫妻なのであろうか?ネットで調べてみると「宮城県にある[龍口神社(たつのくちじんじゃ)が老朽化した為に平成2年に生を郷に受け育ち京にて事業に成功された故支倉常次殿が巨財を投じ、平成御即位記念に社殿をはじめ奥の宮、末社2社、社務所、倉庫、便所2棟、鳥居、手洗舎を建立寄進され、更に境内地整理美化されご神域を備えられ現在に至る。」とあったが・・・・ここ龍口寺との関係は?「慈修院日觀上人」、「慈承院日林上人」の墓碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク私の住む藤沢市は、海岸から反時計回りに鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。コロナ禍で不要不急の外出の自粛要請の中で、自分の体力維持も同時に重要であるため3密(密集、密接、密閉)の可能性の少ない、そして飛沫感染によるリスクの小さい、「屋外の散歩」としてマスクの完全着用の下での隣接市の神社仏閣を訪ねることを始めているのである。これまでに、横浜市戸塚区、泉区にまたがる「鎌倉古道」そして綾瀬市の神社仏閣、「大和市」の神社仏閣を歩き、現在「大和市」のブログアップの途中ではあるが、同時併行でこの日は、南部で隣接する「鎌倉市」の神社仏閣を訪ねる目的で散策に向かったのであった。鎌倉市の主要な古刹や神社は過去に既に訪ね、「鎌倉五山」、「鎌倉三十三観音」、「鎌倉十三仏」、「鎌倉二十四地蔵尊」、「鎌倉七福神」のそれぞれの寺、神社の「御朱印」を全て戴いているが、未だ訪ねたことのない古刹や神社がまだまだ多数あるので、今回の散策になったのであった。この日は4月6日(火)、まずは何回か訪ねている藤沢市片瀬にある「龍口寺」からスタートして、その後直ぐに鎌倉市に入り湘南海岸に沿って稲村ヶ崎方面へと歩を進めたのであった。小田急線を利用して藤沢駅に向かう。「善行駅」手前からトンネルを見る。小田急線「藤沢駅」に到着し江ノ電「藤沢駅」へ。鎌倉駅行きの江ノ電に乗り「鵠沼駅」で「藤沢駅」への上り線との『行き違い』。鉄道用語では『行き違い』を「上下の列車がすれ違う」意として定義されているのだ。「鵠沼駅」を出て「境川」を渡る。そして江ノ電「江ノ島駅」に到着。「国道467号」に出る。「龍口寺」前の交差点には、乗って来た「江ノ電」が「鎌倉駅」に向かって進んで行ったのであった。左側に「龍口明神社(元宮)」その先に「龍口寺」の「仁王門」が。「龍口明神社(元宮)」の石鳥居が左手に。もともとは龍口(たつのくち)の龍口寺西隣に建っていたが、安政2年(1773年)に龍口が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われた。鎌倉時代には刑場として使用された時期もあり、氏子達は祟りを恐れ、長年移転を拒んでいたという。大正12年 (1923年)、関東大震災により全壊、昭和8年 (1933年)に龍口の在のままで改築したが、 昭和53年(1978年)に、氏子百余名の要望により、江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転した。なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており(周りは藤沢市片瀬)、拝殿・鳥居なども、移転前の姿で残されている。扁額は「龍口明神社」。右手にあったのは「庚申塔」であろうか?「至誠通神」👈リンク 碑。関東大震災に関する石碑のようだ。そして階段を上ると朽ち果てた入口木戸が。しかし南京錠がかけられていて立入禁止になっていた。「社殿」。龍口明神社は、552年(欽明天皇13年)、江島弁財天の霊感に降伏した五頭龍を祀ったのが始まりという。もともと、ここ龍口(たつのくち)の龍口寺の横にあって、1773年(安政2年)に龍口が片瀬村に編入されると、津村の飛び地として扱われてきた。1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊したが同地に再建されている。しかし、1978年(昭和53年)、氏子の要望で鎌倉市腰越1548−4に移されたと。鎌倉市津1。「龍ロ明神社御祭神・・・玉依姫命 五頭龍大神御例祭・・・十月第一 土・日曜日御創建・・・欽明天皇十三年(西暦五五ニ年)昭和五十三年に瀧のロにあたるこの地より龍の胴にあたる津の新鎌倉山に御遷座され日本三大弁財天として名高い江島神社ど夫婦神社として人々に崇敬されています。」地図にある遷座地の西鎌倉にある「瀧口明神社」も既に訪ねて、御朱印を戴いているのである。仁王門の左側にあったのが「龍口刑場跡」。そしてここは藤沢市。ここ龍口寺は日蓮の四大法難の一つ、龍ノ口法難の霊跡である。正しい信仰のあり方を主張する『立正安国論』を幕府に提出して、他宗との対立を深めていた日蓮は、文永8年(1271)9月12日、訴えにより捕らえられる。続きは龍口寺のパンフレットに。「翌十三日子丑の刻(午前一時前後)に至り、日蓮聖人を土牢から引き出し、敷皮石(座布団状の石の上に皮を敷く)の上に座らせ、斬首の準備を整えた。このとき、日蓮聖人は、法華経の行者として、法華経に命を捧げることは、むしろ喜びであると、泰然自若として、題目を大音声で唱え、首の座についたという。日蓮聖人の手紙には、このとき江の島の方から満月のような光りものが飛び来って、斬首役人は目が眩み、おののき、たおれたと記されている。伝説によると、このとき処刑に使われた蛇胴丸という名刀に、この光りものがかかり、三つに折れたともいう。いずれにせよ、幕府の使者が到着して、斬首の刑は中止されたのである。龍の口刑場へ連行されて、処刑中止となった人物は、歴史上日蓮聖人以外、誰も知られていない。誠に尊いことである。」と。「無妙法蓮華経」碑。「由来塚此の題目は伊豆玉沢妙法華寺に現存する六老僧日昭阿闍梨に授与したまえる日蓮大聖人眞筆の大曼陀羅より虔しんで抜写せるものなり」「當地は鎌倉幕府時代の刑場跡である。幕府の公式記録である『吾妻鏡』には腰越、龍の口に於いて斬首との記載が多く見られる。奈良時代の僧・泰澄、一説には鎌倉時代の僧・文覚が龍口明神に法味を供養したところ、国に背く悪人が出来した時は首を斬り社頭に掛けよ、との神託を受けた。これによって龍の口が処刑場になったと旧記にある。文永8年(1271)9月13日子丑の刻(午前2時)、日蓮大聖人は『立正安国論』の諌言により、幕府に捕えられ、この刑場・敷皮石(首の座)にすえられた。しかし処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来りて、執行人共は眼がくらみ、この奇端の為、ついに大聖人の首を斬ることが出来なかった。かくして此処は日蓮大聖人龍口法難の霊場であり、世の安寧の為に身命を賭けられた寂光土と称される所以である。 霊跡本山 寂光山 龍口寺」「龍口刑場跡」碑。石碑には何やら文字が刻んである。日蓮という署名が判別できた。これは「四条金吾殿御消息」という日蓮の手紙の一節であるとのこと。「裟婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、 片瀬の中には龍口に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか。 文永八年九月廿一日 日蓮(花押)」龍ノ口刑場は、鎌倉時代から室町時代の刑場で、龍口寺内に石碑が建てられている。1271年(文永8年)9月12日、松葉ヶ谷で捕らえられた日蓮の伝説が残されている場所として知られている(龍ノ口法難)。しかし、実際に、この刑場がどこにあったのかは不明であると。以前は下記の如き木製の案内板があったが「当地は鎌倉幕府時代の刑場跡で、文永八年(1271)九月十三日子丑の刻(午前二時)日蓮聖人は立正安国論の諌言により、この刑場敷皮石(首・座)にすえられ時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来りて、役人共は眼がくらみ、この奇瑞の為ついに聖人の首を斬ることが出来なかった即ち日蓮聖人龍の口法難の霊場であります寂光山 龍口寺」藤沢市片瀬3丁目13。「日蓮聖人龍口法難六百五十年記念碑」。1921年(大正10年)に建設されたものであろう。「日蓮宗霊跡本山龍口寺」木製看板。「寂光山 龍口寺 境内図」 【https://blog.goo.ne.jp/sgh44103-anyt/e/7a19bfa8aad6d01634b73f0a6627b030】より「龍口寺 仁王門」扁額は「瀧乃口」「仁王像(阿形像)」。仁王尊像作者は浅草寺の仁王門の彫刻家、村岡久作氏。「仁王像(吽形像)」。天上の龍の絵。手前の龍。後方の龍。その両脇に、日蓮宗の寺紋である「井桁橘」と、その横に丸に「立ち沢瀉(おもだか)」紋、そして龍の絵が。「立ち沢瀉」紋と龍口寺の関係は?寄付者の家紋なのか?その先、階段の上に「山門」。山門は元治元年(1864)竣工で、欅造り銅板葺。大阪雲雷寺の発願で、豪商鹿島屋某が百両寄進し建立された。階段下にあった「龍口法難七百年記念報恩塔」。横面には「天下泰平国土安穏」と刻まれていた。「常夜灯」の五重石塔。山門の中国の故事などの見事な彫刻。扁額「龍口寺」。裏面に「寂光山」の扁額が掛かる。扁額に下に「2匹の龍の彫刻」。山門の彫刻。仙人であろうか。この山門の彫刻は中国の故事を著しているのだとか。それぞれズームして。この彫刻は「覆水盆に返らず」の故事を著していると。「木鼻(右)」。「木鼻(左)」。「山門」を境内側から見る。以前は「山門」の正面中央に「龍口寺」、裏面に「寂光山」の扁額が掛っていたが、この日は裏面の「寂光山」の扁額はなかった。右手にお題目碑。「山門」を潜ると正面に「本堂」が。「手水舎」「寂光殿」。堂内に各々位牌を設置する。お骨は50年間骨壺に安置し、後に合葬する。年1~2回法要を行い供養する。地下納骨室および一階位牌堂で構成されており、正面御宝前に釈迦牟尼如来御尊像を奉安し、法要を営むことができる と。「妙見堂」。「北辰妙見菩薩」を祀る堂。妙見菩薩は北極星を祀ったもので、日蓮も崇拝したことから、日蓮宗の寺院には多く見られる と。扁額「妙見大菩薩」。正面の奥には「法難六百五十年報恩塔」その手前の2本の石柱には「最初牡丹餅(ぼたもち)結社」と刻まれていた。「霊跡本山 寂光山 龍ロ寺 縁起鎌倉時代、日本は内乱や大震災・飢饉疫病の蔓延など、まさに地獄の様な悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮大聖人は『立正安国論』を著し幕府に奏上し、法華経の思想に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起した。しかし、幕府は政策への中傷と受け止め『貞永式目』の「悪口の咎」に当たると解釈し、文永八年(一ニ七一)九月十ニ日、鎌倉松葉ヶ谷の草庵で説法中の日蓮大聖人を捕らえ、市中引回しの上、この龍ノロの刑場に連行した。日蓮大聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り龍ノロの刑場へ処刑中止の使者を送った。その問にも刑場では評定の決定を待ちかねて、十三日の子丑の刻(午前ニ時頃)、日蓮大聖人を上牢から引き出し、敷皮石に座らせ、斬首の準備を整えた。その瞬間、江ノ島の方より満月のような光りものが飛び来たり、執行人は眼がくらみ、畏れおののき混乱の中、使者が到着し斬首の刑は中止になった。その後、幕府の面目もあり、佐渡島へ三年間流罪となったが、この大法難によって日蓮大聖人は「上行菩薩の再誕・法華経の行者」としての信念を一層深められ、その後、数々の重要な法門を著述された。この震場は、延元ニ年(一三三七)、直弟子の日法聖人が刑場跡に「敷皮堂」を建て、自作の祖師像を安置したのが始まりであり、大聖人自ら『滝ノ口に日蓮が命をとどめておくことは法華経の御故なれば、寂光土ともいうべきか』と獅子吼された随一の霊場である。」「御霊窟」前。石柱は「南無妙法蓮華経 一萬部成就塔」。「御霊窟」「龍口法難の際、幕府に捕らえられた日蓮大聖人様が一晩幽閉されたと伝えられる洞窟【宝暦六年(一七五六)の祖師像を奉安】」中には「祖師像(日蓮像)」が安置されていた。左の墓碑には「南無妙法蓮華経 身軽法重(しんきょうほうじゅう) 死身弘法(ししんぐほう)」👈リンクと刻まれていた。横には「法善房 日行法師」や「日蓮上人」らの名が刻まれていたが、それ以上のことは分からなかった。「五輪塔」。その奥の「やぐら」のごとき洞にも観音像が。「南無妙法蓮華経」、「高祖賛」とそれぞれ刻まれた碑。「仏舎利塔」、「七面堂」案内板。白い建物は「納骨堂」。 ・・・つづく・・・
2021.04.24
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タイトル👈リンク 発表日★鎌倉散策・長谷寺へ 2014.12.13 ★鎌倉散策・海藏寺へ 2014.12.14★鎌倉・御霊神社へ 2016.07.19★鎌倉・長谷寺へ(その1) 2016.07.20★鎌倉・長谷寺へ(その2) 2016.07.21★鎌倉・壽福寺へ 2016.07.22★鎌倉・海蔵寺へ 2016.07.24★鎌倉・浄智寺へ 2016.07.25★鎌倉・円覚寺へ 2016.07.26★大船観音へ 2016.07.27★鎌倉・寿福寺へ 2017.01.22★鎌倉・神苑ぼたん庭園へ(その1) 2017.01.28★鎌倉・神苑ぼたん庭園へ(その2) 2017.01.29 ★鎌倉・鶴岡八幡宮へ 2017.01.30★大船フラワーセンターへ(その1) 2017.06.16★大船フラワーセンターへ(その2)・バラ園 2017.06.17★大船フラワーセンターへ(その3)・花菖蒲園 2017.06.18★大船フラワーセンターへ(その4)・芝生広場、鑑賞温室 2017.06.19★鎌倉散歩・葛原岡神社へ 2017.06.21★鎌倉散歩・銭洗弁財天、佐助稲荷神社へ 2017.06.22★鎌倉散歩・妙本寺へ 2017.06.23★鎌倉散歩・本覚寺から東慶寺へ 2017.06.24★鎌倉散歩・明月院へ 2017.06.25★鎌倉散歩・常楽寺へ 2017.06.26★鎌倉・長谷寺の紅葉ライトアップ 2017.12.22★晩秋の鎌倉紅葉巡り:円覚寺(その1) 2017.12.23★晩秋の鎌倉紅葉巡り:円覚寺(その2) 2017.12.24★晩秋の鎌倉紅葉巡り:浄智寺(じょうちじ) 2017.12.26★晩秋の鎌倉紅葉巡り:葛原岡神社⇒源氏山⇒銭洗弁財天 2017.12.27★晩秋の鎌倉紅葉巡り:佐助稲荷神社⇒鎌倉歴史文化交流館 2017.12.28★晩秋の鎌倉紅葉巡り: 2017.12.29 鶴岡八幡宮⇒源頼朝の墓⇒島津忠久、大江広元、北条義時の墓★晩秋の鎌倉紅葉巡り:荏柄天神社⇒鎌倉宮⇒大巧寺⇒本覚寺 2017.12.30★晩秋の鎌倉紅葉巡り:妙本寺 2017.12.31★鎌倉の冬を歩く(その1) 2018.02.03 鎌倉駅~大巧寺~夷堂橋~妙本寺~ぼたもち寺~八雲神社★鎌倉の冬を歩く(その2) 2018.02.04 祇園山ハイキングコース~別願寺~上行寺~安養院~本興寺~辻薬師堂~釈迦堂切通し~ 大町釈迦堂口遺跡 ★鎌倉の冬を歩く(その3) 2018.02.06 妙法寺~安国論寺~長勝寺★鎌倉の冬を歩く(その4) 2018.02.10 銚子の井~日蓮乞水~小坪トンネル~名越切通~まんだら堂やぐら~法性寺墓地~ 日蓮の岩窟~山王大権現~法性寺 ★鎌倉の冬を歩く(その5) 2018.02.11 鎌倉市子ども自然ふれあいの森~衣張山~平成巡礼道~上杉朝宗及氏憲邸址★鎌倉の冬を歩く(その6) 2018.02.12 旧華頂宮邸~報国寺★鎌倉の冬を歩く(その7) 2018.02.13 浄妙寺~杉本寺~鎌倉駅~帰路★「かまくら 長谷の灯かり」へ その1~4 2018.09.01~ 極楽寺~御霊神社~長谷寺~光則寺~甘縄神明宮~鎌倉文学館 小町通り・イタリアンレストラン「ラ・ルーチェ/La Luce」★龍口寺『龍の口法難会』ぼたもち供養&万灯練り供養(その1~3) 2019.09.21~★日比谷花壇大船フラワーセンターへ 2020.06.24★藤沢歴史散歩:その8 鎌倉市植木地区を訪ねる 2020.07.01 二伝寺~久成寺~圓光寺~ 貞宗寺★藤沢歴史散歩:その9 鎌倉市榎木地区を訪ねる 2020.07.02 陣屋坂~相模陣稲荷神社~玉縄城跡周辺~七曲坂~玉縄城長屋門~諏訪神社~ 龍宝寺~玉泉寺~山崎跨線橋★藤沢歴史散歩:その11 鎌倉市山崎地区を訪ねる 2020.07.04 妙法寺~庚申塔~天神山城~北野神社~山崎交差点~江の島への道標~昌清院~ 富士塚公園~富士講石碑★藤沢歴史散歩:その12 鎌倉市寺分~梶原地区を訪ねる 2020.07.05 湘南町屋駅~泉光院~上町屋天満宮~泣塔~洲崎古戦場跡~等覚寺~大慶寺~ 駒形神社~東光寺~梶原 御霊神社~鎌倉市立深沢小学校★古都「鎌倉」を巡る(その1): 2021.04.24 龍口寺(藤沢市)(1/3) ★古都「鎌倉」を巡る(その2): 2021.04.25 龍口寺(藤沢市)(2/3) ★古都「鎌倉」を巡る(その3): 2021.04.26 龍口寺(3/3)★古都「鎌倉」を巡る(その4): 2021.04.27 法源寺~庚申塚~霊鷲寺~戦没者慰霊塔~宝善院★古都「鎌倉」を巡る(その5): 2021.04.28 庚申供養塔群~道祖神塔群~本行寺~本龍寺~勧行寺 ★古都「鎌倉」を巡る(その6): 2021.04.29 妙典寺~東漸寺~本成寺★古都「鎌倉」を巡る(その7): 2021.04.30 義經腰越状旧跡・満福寺 ★古都「鎌倉」を巡る(その8): 2021.05.01 鎌倉七里ヶ浜霊園★古都「鎌倉」を巡る(その9): 2021.05.02 浄泉寺★古都「鎌倉」を巡る(その10): 2021.05.03 小動神社★古都「鎌倉」を巡る(その11): 2021.05.04 七里ヶ浜を歩く・鎌倉海岸キリスト教会~江ノ電鎌倉高校前駅~日坂~顕証寺 ~七里ヶ浜駅 ~行合川★古都「鎌倉」を巡る(その12): 2021.05.05 行合川碑~日蓮聖人雨乞霊跡道碑~雨乞の池~日蓮上人祈雨旧跡碑~霊光寺 ~海の見える坂道 ★古都「鎌倉」を巡る(その13): 2021.05.06 七里ヶ浜~十一人塚~稲荷神社~極楽寺橋~稲村ヶ崎公園 ★古都「鎌倉」を巡る(その14): 2021.05.07 白山神社~持法日實法師碑~日蓮袈裟掛け松跡~針磨橋~阿佛邸旧蹟~極楽寺駅 ~極楽洞~上杉憲方墓~極楽寺坂~日限地蔵菩薩★古都「鎌倉」を巡る(その15): 2021.05.08 星井寺~星の井~成就院★古都「鎌倉」を巡る(その16): 2021.05.09 桜橋~極楽洞~導地蔵~極楽寺 ★古都「鎌倉」を巡る(その17): 2021.05.10 熊野神宮~稲村ヶ崎小学校~月影地蔵堂~極楽寺のお化けトンネル~子守神社★古都「鎌倉」を巡る(その18): 2021.05.11 円久寺~常盤八雲神社 ★古都「鎌倉」を巡る(その19): 2021.05.12 仏行寺~笛田3丁目~梶原口~帰路★古都「鎌倉」を巡る(その20): 2021.05.13 三十番神社~青蓮寺(1/3)★古都「鎌倉」を巡る(その21): 2021.05.14 青蓮寺(2/3)★古都「鎌倉」を巡る(その22): 2021.05.15 青蓮寺(3/3)★古都「鎌倉」を巡る(その23): 2021.05.16 熊野神社~歓廣稲荷大明神~谷戸坂の切通し~普賢光明寺~靈元根本道場~ 鎌倉山ロータリー~しのぶ塚~佐佐木信綱文学碑~夫婦池公園碑~鎌倉山記 ★古都「鎌倉」を巡る(その24): 2021.05.17 檑亭(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その25): 2021.05.18 檑亭(2/2)★古都「鎌倉」を巡る(その26): 2021.05.19 日本山妙法寺~鎌倉山神社~扇湖山荘~聖福寺阯~龍口明神社~経六稲荷社★古都「鎌倉」を巡る(その27): 2021.05.20 大船駅~山蒼稲荷神社~鎌倉女子大学~鎌倉芸術館~木曽冠者義高之墓・姫宮の墓★古都「鎌倉」を巡る(その28): 2021.05.21 鎌倉大船キリスト教会~庚申塔群~多聞院~熊野神社~高野の切通し★古都「鎌倉」を巡る(その29): 2021.05.22 甘糟家長屋門 ~長窪の切通し~高野台供養塔~成福寺★鎌倉・龍寶寺に立ち寄る 2021.05.22★古都「鎌倉」を巡る(その30): 2021.05.23 厳島神社~台の手掘隧道~八幡神社~好好洞~八雲神社~円覚寺塔頭・雲頂禅庵★玉縄歴史館・重文旧石井家住宅へ(その1): 2021.05.24 玉縄歴史館(1/2)★玉縄歴史館・重文旧石井家住宅へ(その2): 2021.05.24 玉縄歴史館(2/2) ★玉縄歴史館・重文旧石井家住宅へ(その3): 2021.05.25 旧石井家住宅★古都「鎌倉」を巡る(その31): 2021.05.24 円覚寺(1/7)・塔頭白雲庵~伝宗庵~富陽庵~北鎌倉幼稚園~円覚寺・三門~松嶺院★古都「鎌倉」を巡る(その32): 2021.05.25 円覚寺(2/7)・松嶺院~選佛場~仏殿~龍隠庵~龍隠庵~居士林★古都「鎌倉」を巡る(その33): 2021.05.26 円覚寺(3/7)・法堂跡~佛牙舎利塔道標~寿徳庵~方丈庭園~正伝庵~妙香池 ~正続院・佛舎利塔★古都「鎌倉」を巡る(その34): 2021.05.27 円覚寺(4/7)・佛日庵~開基廟~白鹿洞~續燈庵~黄梅院★古都「鎌倉」を巡る(その35): 2021.05.28 円覚寺(5/7)・烟足軒~如意庵~方丈庭園~百観音霊場~柏槇~方丈書院★古都「鎌倉」を巡る(その36): 2021.05.29 円覚寺(6/7)・唐門~蔵六庵~浴場跡~弁天堂~洪鐘~洪鐘道~帰源院~三門★古都「鎌倉」を巡る(その37): 2021.05.30 円覚寺(7/7)・洪鐘道~看門寮~桂昌庵閻魔堂~総門~白鷺池~臥龍庵 ~北鎌倉古民家ミュージアム~明月院通り~県道21号線★古都「鎌倉」を巡る(その38): 2021.05.31 長寿寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その39): 2021.06.01 長寿寺(2/2)~第六天社★古都「鎌倉」を巡る(その40): 2021.06.02 建長寺(1/7)・西外門~建長寺境内文学案内板~総門~拝観受付~参道~三門 ~妙高院~鐘楼★古都「鎌倉」を巡る(その41): 2021.06.03 建長寺(2/7)・西来庵~同契院~巨福稲荷大明神~柏槇~重修碑~青銅灯籠★古都「鎌倉」を巡る(その42): 2021.06.04 建長寺(3/7)・仏殿~建長寺調査研究所~曙観音~震災追憶供養塔~柳下湖麿歌碑 ~比田井天来先生碑~法殿★古都「鎌倉」を巡る(その43): 2021.06.05 建長寺(4/7)・大庫裡(応真閣)~唐門~方丈(龍宝殿)~方丈庭園★古都「鎌倉」を巡る(その44): 2021.06.06 建長寺(5/7)・唐門前石碑群~宝珠院~天源院~龍峰院~正統院~神雷戦士の碑 ~河村瑞賢遺跡登り口~達磨円覚大師像~青銅鳥居★古都「鎌倉」を巡る(その45): 2021.06.07 建長寺(6/7)・半僧坊道~鉄鳥居~石鳥居~天狗像~半僧坊大権現堂~相模湾見晴台 ~勝上巚地蔵堂~ 勝上嶽展望台~御朱印所★古都「鎌倉」を巡る(その46): 2021.06.08 建長寺(7/7)・虫塚~回春院~正受庵~河村瑞賢遺跡~北鎌倉駅~帰路へ★古都「鎌倉」を巡る(その47): 2021.06.09 北鎌倉駅~円覚寺前庭~華蔵院~大六天社~禅居院★古都「鎌倉」を巡る(その48): 2021.06.10 円応寺(閻魔堂)★古都「鎌倉」を巡る(その49): 2021.06.11 巨福呂坂洞門~神奈川県立近代美術館鎌倉別館~二十五坊旧蹟碑~新宮神社~道元禪師顕彰碑 ~旧巨福呂坂切通し~青梅聖天社★古都「鎌倉」を巡る(その50): 2021.06.12 鶴岡八幡宮・西鳥居~志一稲荷~鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム~鎌倉十井・鉄井~紅葉稲荷社 ~鶴岡八幡宮(1/3)・三の鳥居~太鼓橋~源平池~旗上辨財天~社務所~手水舎★古都「鎌倉」を巡る(その51): 2021.06.13 鶴岡八幡宮境内(2/3)・祖霊社~舞殿~奉納酒樽~祈願受付所~大石段~大銀杏~桜門 ~丸 山稲荷社~本殿(上宮)~武内社~上宮祈祷所~明治天皇閲兵の處碑★古都「鎌倉」を巡る(その52): 2021.06.14 鶴岡八幡宮境内(3/3)・若宮 ~柳原神池~由比若宮遙拝所~鶴亀石~歌碑~白旗神社 ~鎌倉国宝館~さざれ石~齋館~実朝桜~畠山重忠邸址碑~正一位稲荷社~政所跡★古都「鎌倉」を巡る(その53): 2021.06.15 宝戒寺~筋替橋跡~西御門碑~西御門 八雲神社★古都「鎌倉」を巡る(その54): 2021.06.16 太平寺跡~来迎寺~石川邸(旧里見弴邸)~白旗神社~法華堂跡碑~頼朝の墓★古都「鎌倉」を巡る(その55): 2021.06.17 法華堂跡~三浦泰村一族の墓~毛利季光墓~大江広元墓~島津忠久墓~村田清風句碑 ~ルル ドの洞窟~東御門碑★古都「鎌倉」を巡る(その56): 2021.06.18 清泉小学校前~大蔵幕府舊蹟~岐れ路道標~荏柄天神社★古都「鎌倉」を巡る(その57): 2021.06.19 弘法大師八十八箇所道~蒲原有明旧居跡 (川端康成仮寓跡)~覚園寺★古都「鎌倉」を巡る(その58): 2021.06.20 鎌倉宮★古都「鎌倉」を巡る(その59): 2021.06.21 通玄橋~理智光寺橋~理智光寺址碑~護良親王墓~永福寺跡(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その60) : 2021.06.22 永福寺跡(2/2) ★古都「鎌倉」を巡る(その61) : 2021.06.23 瑞泉寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その62) : 2021.06.24 瑞泉寺(2/2)~通玄橋★古都「鎌倉」を巡る(その63) : 2021.06.25 亀ヶ淵橋~鎌倉虚子立子記念館~二階堂亀ケ渕・三寳稲荷~大塔宮バス停~段葛~段葛碑 ~二の鳥居~鎌倉駅~帰路★古都「鎌倉」を巡る(その64) : 2021.06.26 大船・玉縄首塚~鹽釜神社~黙仙寺~玉泉寺★古都「鎌倉」を巡る(その65) : 2021.06.27 神明神社~伏見稲荷神社 ~ 岡本神社~谷戸池~金剛寺~金翅鳥院★古都「鎌倉」を巡る(その66) : 2021.06.28 横浜市栄区・定泉寺~御霊社★古都「鎌倉」を巡る(その67) : 2021.06.29 横浜市栄区・常勝寺~戸塚区・燈明寺~五霊神社★古都「鎌倉」を巡る(その68) : 2021.06.30 柳小路駅~長谷駅~稲荷神社~収玄寺~白日堂★古都「鎌倉」を巡る(その69) : 2021.07.01 光則寺★古都「鎌倉」を巡る(その70) : 2021.07.02 桑ヶ谷療養所跡~鎌倉能舞台~加賀谷邱~川端康成記念会~甘縄神明宮★古都「鎌倉」を巡る(その71) : 2021.07.03 鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)~鎌倉文学館★古都「鎌倉」を巡る(その72) : 2021.07.04 吉屋信子記念館~染谷太郎太夫時忠邸跡~由比ヶ浜駅~タンコロ~海水浴場開場100年碑 ~家族とビーチ碑~さくら貝の歌 歌碑~魚藍観世音の石碑~鎌倉安全協會碑~篠田邱★古都「鎌倉」を巡る(その73) : 2021.07.05 鎌倉彫工芸館~和田塚~和田塚駅~六地蔵~裁許橋~問注所舊蹟~御成小学校正門 ~旧鎌倉図書館~今小路通り ★古都「鎌倉」を巡る(その74) : 2021.07.06 鎌倉市役所~御成隧道~諏訪神社~鎌倉歴史文化交流館(1/5) ★古都「鎌倉」を巡る(その75) : 2021.07.07 鎌倉歴史文化交流館(2/5)★古都「鎌倉」を巡る(その76) : 2021.07.08 鎌倉歴史文化交流館(3/5)★古都「鎌倉」を巡る(その77) : 2021.07.09 鎌倉歴史文化交流館(4/5)★古都「鎌倉」を巡る(その78) : 2021.07.10 鎌倉歴史文化交流館(5/5)~合槌稲荷社跡~古我邸~結の蔵~巽神社~八坂神社★古都「鎌倉」を巡る(その79) : 2021.07.11 寿福寺・庚申塔群~源氏山碑~山門~源実朝をしのぶ碑~参道~太田道灌邸舊蹟碑 ~英勝寺(1/2) ★古都「鎌倉」を巡る(その80) : 2021.07.12 英勝寺(2/2)★古都「鎌倉」を巡る(その81) : 2021.07.13 扇谷上杉管領屋敷迹碑~護国寺~厳窟不動尊~鎌倉市川喜多映画記念館~ 鎌倉市鏑木清方記念美術館~小町通り~とんがり帽子の時計台~帰路 ★古都「鎌倉」を巡る(その82) : 2021.07.14 鎌倉駅西口~とんがり帽子の時計台~刃稲荷~寿福寺トンネル~寿福寺~伝・阿仏尼の墓 ~稲荷大明神~扇ヶ谷架道★古都「鎌倉」を巡る(その83) : 2021.07.15 岩船地蔵堂~薬王寺★古都「鎌倉」を巡る(その84) : 2021.07.16 扇ヶ谷架道橋~向陽庵大悲堂碑記碑~水鑑景清大居士碑~化粧坂~源氏山公園~源頼朝公像 ~化粧坂碑★古都「鎌倉」を巡る(その85) : 2021.07.17 海藏寺★古都「鎌倉」を巡る(その86) : 2021.07.18 扇ノ井~相馬次郎師常之墓~藤谷黄門遺蹟碑~浄光明寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その87) : 2021.07.19 浄光明寺(2/2)★古都「鎌倉」を巡る(その88) : 2021.07.20 松巌寺殿の石碑~泉の井~妙傅寺★古都「鎌倉」を巡る(その89) : 2021.07.21 若宮大路~鎌倉市農協連即売所~延命寺~金子サト記念碑~下馬碑~琵琶橋~浜の大鳥居跡 ~日米海底通信の史跡~鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居) ★古都「鎌倉」を巡る(その90) : 2021.07.22 畠山重保供養塔・畠山重保邸跡~京急りんどう号~閻魔橋~石清水の井 ~元鶴岡八幡宮(由比若宮) ★古都「鎌倉」を巡る(その91) : 2021.07.23 清水湯~啓運寺~妙長寺~亂橋碑~向福寺★古都「鎌倉」を巡る(その92) : 2021.07.24 五所神社★古都「鎌倉」を巡る(その93) : 2021.07.25 来迎寺(材木座)~長勝寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その94) : 2021.07.26 長勝寺(2/2)★古都「鎌倉」を巡る(その95) : 2021.07.27 松葉ケ谷草庵~実相寺~九品寺~新居閻魔堂阯碑~補陀洛寺★古都「鎌倉」を巡る(その96) : 2021.07.28 最宝寺跡~辨谷(弁谷)碑~新善光寺跡~弁ヶ谷東やぐら群~光明寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その97) : 2021.07.29 光明寺(2/2)~蓮乗院~千手院★古都「鎌倉」を巡る(その98) : 2021.07.30 内藤家墓地~光明寺裏山の展望碑~秋葉山大権現社~北条経時公・良忠上人墓所★古都「鎌倉」を巡る(その99) : 2021.07.31 和賀江嶋~六角の井~白鬚社~住吉城址~正覚寺~帰路★古都「鎌倉」を巡る(その100) : 202108.01 鎌倉駅旧駅舎時計台~鎌倉市役所~御成隧道~鎌倉児童ホーム~蓮華寺阯 ~新佐助隧道~浅間神社★古都「鎌倉」を巡る(その101) : 2021.08.02 長谷隧道~一向堂公園~北条氏常盤亭跡~タチンダイ~火の見下バス停~大仏切通 ~旧鎌倉加圧ポンプ所 ★古都「鎌倉」を巡る(その102) :鎌倉大仏・高徳院(1/3) 2021.08.03 ★古都「鎌倉」を巡る(その103) :鎌倉大仏・高徳院(2/3) 2021.08.04 ★古都「鎌倉」を巡る(その104) :鎌倉大仏・高徳院(3/3) 2021.08.05★古都「鎌倉」を巡る(その105) : 2021.08.06 大巧寺~本覚寺~夷堂橋~妙本寺~蛇苦止堂~琴弾橋~蛭子神社~日蓮上人辻説法跡★古都「鎌倉」を巡る(その106) : 2021.08.07 宇津宮辻子幕府跡~カトリック雪ノ下教会~鎌倉彫資料館~二の鳥居~段葛~北条時房邸跡 ~妙隆寺★古都「鎌倉」を巡る(その107) : 2021.08.08 若宮大路幕府舊蹟碑~土佐坊昌俊邸址碑~宝戒寺 ★古都「鎌倉」を巡る(その108) : 2021.08.09 宝戒寺橋~紅葉山やぐら~青砥藤綱舊蹟碑~東勝寺橋~東勝寺跡~北条高時腹切やぐら ~大蔵稲荷橋~大蔵稲荷~関所橋~關取場跡碑~大御堂橋~文覺上人屋敷迹~碑田楽辻子のみち★古都「鎌倉」を巡る(その109) : 2021.08.10 勝長寿院跡碑~荏柄天神社参道~北条義時邸跡~歌之橋碑~北条泰時邸跡 ~鶴岡八幡宮三の鳥居~段葛~鎌倉駅旧駅舎時計台~江ノ電帰路 ★古都「鎌倉」を巡る(その110) :五社稲荷神社~大長寺 2021.08.11 ★古都「鎌倉」を巡る(その111) :西念寺~栄泉寺跡~福泉 2021.08.12 ★古都「鎌倉」を巡る(その112) : 2021.08.12 白山神社・今泉寺(こんせんじ) ★古都「鎌倉」を巡る(その113) :今泉不動・称名寺(1/2) 2021.08.13★古都「鎌倉」を巡る(その114) :今泉不動・称名寺(2/2) 2021.08.14★古都「鎌倉」を巡る(その115) : 2021.08.15 鎌倉湖墓苑~鎌倉湖~鎌倉霊園★古都「鎌倉」を巡る(その116) : 2021.08.16 切通庚申塚~朝比奈切通し~熊野神社★古都「鎌倉」を巡る(その117) : 2021.08.17 十二所神社~峰本朝比奈店~大江稲荷~光触寺★古都「鎌倉」を巡る(その118) :旧華頂宮邸~金剛窟地蔵尊 2021.08.18★古都「鎌倉」を巡る(その119) :報国寺(1/2) 2021.08.19★古都「鎌倉」を巡る(その120) :報国寺(2/2) 2021.08.20★古都「鎌倉」を巡る(その121) : 2021.08.21 華の橋石碑群~一条恵観山荘~青砥橋~青砥藤綱邸旧蹟碑~足利公方邸旧蹟碑 ★古都「鎌倉」を巡る(その122) : 2021.08.22 鎌倉泉水教会~松久寺~十二所庚申塔塚~salon de 酔鯨館~梶原井戸★古都「鎌倉」を巡る(その123) : 2021.08.23 明王院~明石橋~大江廣元邸址碑~イエズス会日本殉教者修道院~十二所公民館~大慈寺跡碑★古都「鎌倉」を巡る(その124) :杉本寺 2021.08.24★古都「鎌倉」を巡る(その125) :浄妙寺 2021.08.25★古都「鎌倉」を巡る(その126) : 2021.08.26 鎌倉駅~大巧寺~妙本寺(1/3)★古都「鎌倉」を巡る(その127) :妙本寺(2/3) 2021.08.27★古都「鎌倉」を巡る(その128) :妙本寺(3/3) 2021.08.28★古都「鎌倉」を巡る(その129) : 2021.08.29 常栄寺~三神山妙法教会~八雲神社~教恩寺~大町橋~魚町橋~町屋阯碑~逆川橋★古都「鎌倉」を巡る(その130) : 2021.08.30 別願寺~上行寺~安養院~黒澤家墓~佐竹屋敷跡碑~大寶寺~六方の井★古都「鎌倉」を巡る(その131) : 2021.08.31 花ヶ谷花咲地蔵尊~黄金やぐら~妙法寺★古都「鎌倉」を巡る(その132) :安国論寺(1/2) 2021.09.01★古都「鎌倉」を巡る(その133) :安国論寺(2/2)~大黒堂 2021.09.02★古都「鎌倉」を巡る(その134) : 2021.09.03 長勝寺バス停~鎌倉駅旧駅舎時計台~湘南海岸~江の島ヨットハーバー~帰路✦古都「鎌倉」を巡る(その135) : 2021.09.15 湘南モノレール~鎌倉中央公園 ✦古都「鎌倉」を巡る(その136) : 2021.09.16 稲荷社(山崎)~山崎打越の庚申塚~神奈川縣護國神社~馬頭観世音碑~神明神社 ~鎌倉市立山崎小学校~魯山人星岡窯跡 ✦古都「鎌倉」を巡る(その137) :稲荷神社~光照寺 2021.09.17✦古都「鎌倉」を巡る(その138) : 2021.09.18 宮の台橋~鎌倉小坂郵便局~藤源治橋~COTONOHA(コトノハ)~十王堂橋~JR北鎌倉駅前 ~円覚寺前~東慶寺前~浄智寺前~宝庵・たからの庭・たからの窯~天柱峰の碑 ~ 竺僊梵僊和尚顕彰碑~瓜ヶ谷やぐら群✦古都「鎌倉」を巡る(その139) : 2021.09.19 相鎚稲荷社~葛原岡神社~日野俊基墓✦古都「鎌倉」を巡る(その140) : 2021.09.20 源氏山公園~太田道灌公の墓~デベッカ家の墓所~大佛次郎の墓~北条政子の墓~源実朝の墓 ~高浜虚子の墓~森田愛子の墓~寿福寺境内~鎌倉駅へ✦古都「鎌倉」を巡る(その141) : 帰路の江ノ電の車窓から 2021.09.21✦古都「鎌倉」を巡る(その142) : 2021.09.22 古都鎌倉の寺社巡りを完遂して 以上
2021.03.06
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「命にかかわる危険な暑さ」という言葉を毎日のように耳にした7月末そして8月も終わり今日から9月、しかし暑さはさほど変わっていないのではと。先日に、これもNHKのニュースで鎌倉の長谷、極楽寺周辺で「かまくら 長谷の灯かり」が開催されていることを知り、翌日の26日までとのことで、行こうと則決断しその旨を旅友グループの「LINE」に書き込みました。するとクイックレスポンスで、いつもの旅友Sさんそして横浜にお住まいのUさんが参加されるとの書き込みが。17時過ぎに自宅を出て、江ノ電・藤沢駅に到着。ホームの壁には「かまくら 長谷の灯り」のポスターが。そしてその隣には「江の島 灯籠 2018」のポスターも。長谷・極楽寺エリアの8名所が夜間一斉ライトアップと。鎌倉の美しい文化と自然を感じる「灯かり」の世界。『かまくら長谷の灯かり』が、8月20日(月)~26日(日)開催されていたのです。長谷・極楽寺界隈の寺社、施設を会場にした光による演出やお参りと併せて体感できるイベント。時間は、18時半から20時半までですが、各会場の最終入場は20時までとのこと。江ノ電・藤沢駅で旅友のSさんと17:45前に合流。利用した江ノ電電車が4両編成で藤沢駅ホームに。そして目的駅の極楽寺駅に向けて出発。海岸線に出て窓から振り返ると、江の島の姿が。遠く雲の上に富士山の頂上、右側の裾野も姿を現してくれました。この日の相模湾は、未だに荒れ模様であった。電灯が灯ってはいるものの未だ未だ明るい極楽寺駅に到着。時間は18:15。「極楽寺駅」にフォーカスしたつもりでしたが、何故か赤いポストに。しかし怪我の功名?何故か?旨く明るく撮れていました。ここで久しぶりのUさんと合流。寺への入場は18:30からとのことで、暫し江ノ電の撮影スポットの桜橋の上で待つ。極楽寺駅から坂を登った突き当りがこの桜橋で、下に極楽寺トンネルが見えるのです。極楽寺トンネルは沿線唯一のトンネルで全長209mと予想外に長いのです。トンネルから出てくる電車を撮影しましたが、今度は暗すぎて・・・。「かまくら 長谷の灯かり」の会場MAPをパンフレットから。夜間一斉ライトアップされる場所は高徳院、光則寺、極楽寺、収玄寺、長谷寺、甘縄神明宮、御霊神社、鎌倉文学館の8箇所。18:30前には既に極楽寺・山門の前には行列が。山号の霊鷲山(りょうじゅさん)と書かれた扁額。山門の手前には、無料貸し出ししてもらえる提灯がテーブル上に並んでいた。この後、入場した先でも散策用の提灯を無料で配布してくれたのです。足元の灯かりになるだけでなく、他の人が持っているのも美しく幻想的で目を楽しませてくれたのです。何と、提灯のLEDライトは、無線データ通信で刻々と色が変わるハイテク提灯だったのです。併せて境内等の提灯も同期して色が変わったのです。「持ち帰っても光りません。お持ち帰りにならないように」と。極楽寺は詳名は「霊鷲山感応院極楽律寺」。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は北条重時、開山は忍性であると。鎌倉市の西部、鎌倉七口の1つである極楽寺坂切通の近くにある、鎌倉では珍しい真言律宗の寺院である。僧忍性が実質的な開祖である。中世には子院49箇院を有する大寺院であったと。山門脇の潜り戸から境内に。この時の拝観料が無料である事が嬉しいのであった。参道の両脇には、演出テーマである「茅葺きの山門をくぐり抜けると広がる、蓮の花が浮かぶ極楽浄土をイメージした灯り」が、未だ暮れきってはいなかったがオレンジとピンクの光が並んでいた。透明のアクリルの筒の中に入ったものも。アクリルの筒にも映り込み、やわらかな灯りと対になって。幻想的な蓮の灯かり。百日紅の古木もライトアップされていた。蓮の花の形も微妙に異なって。本堂前にはお参りの列が。「うちわで日本画」のワークショップ会場も。料金1500円で自分だけのうちわが作れるのだと。参道もかなり暗くなり灯かりが鮮やかに輝き始めた。幻想的な世界を楽しむ。参道の脇の灯かりを再び帰路にも。そして極楽寺坂切通を歩き、次の灯かりの場所:御霊神社へ向かう。御霊神社手前の、この踏切からの「トンネル+江ノ電+アジサイ」も人気の撮影スポット。踏切を渡り、ライトアップされた御霊神社を鳥居越しに。境内隅では鎌倉囃子?の生演奏も行われていた。境内には細長の竹をイメージした灯かりが並べられ、オレンジ色に。お祭りの賑わいを表現していると。灯りをズームで。どなたかの脚が映ってしまいましたが悪しからず。境内に古木もライトアップされて。今度は赤く。階段前から刻々と色合いを変える本堂の姿を、人が写らないようにと。紫に輝く本堂。青く。ピンク?に。色の変化を楽しみ、シャッターを押す。そして1段下の階段から、再び青く輝く。灯りを接写。これぞ「灯かり」。それにしても日本語には「灯かり」を表現する言葉の多いこと。『灯し火 ・ 洋灯 ・ 燭 ・ ラムプ ・ 電灯 ・ 明り ・ とぼし ・ ともし火 ・ 洋燈 ・ 明かり ・ 明 ・ 灯 ・ ランプ ・ 電燈 ・ 灯火 ・ ランペ ・ 燈 ・ 燈火』等々まだまだ切りが無いのです。日本の伝統的な灯りは、日本の伝統的な文化や歴史、生活感を表現し、日本人特有の精神性、価値観の元に造られて来たからなのであろう。境内横の別の鳥居から、御霊神社を後にしたのであった。 ・・・つづく・・・
2018.09.01
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『鎌倉散策 目次』👈リンク報国寺を後にし、次の寺は浄妙寺(じょうみょうじ)。浄妙寺は、鎌倉市にある臨済宗建長寺派の仏教寺院。山号は稲荷山(とうかさん)。詳名は稲荷山浄妙広利禅寺(とうかさんじょうみょうこうりぜんじ)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇。鎌倉五山の第五位、鎌倉三十三観音第9番の寺、札所本尊は聖観世音。浄妙寺 山門をくぐる。 当初は密教系の寺院で”極楽寺”と称し、東の極楽寺と呼ばれたと。月峯了然が住職となったとき”浄妙寺”と名を改め禅寺になった。 鎌倉五山の第五位となり、最盛期には七堂伽藍を有し、塔頭23を数える大寺であった。しかし度かさなる火災や震災で失われたと。 「浄妙寺(じょうみょうじ)源頼朝の伊豆挙兵以来の重臣・足利義兼が、退耕行勇を開山として建立しました。行勇は源頼朝や政子が帰依した高僧です。鎌倉五山第五位の由緒ある禅宗の寺で、室町時代は境内に二十三の塔頭を持つ大寺院でした。現在は総門、本堂、客殿、庫裡が残っています。茶室・喜泉庵と枯山水の庭は平成三年に復元されました。本堂の奥にある鎌足稲荷神社は鎌倉の地名の由来になったとされています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:稲荷山浄妙寺(とうかざん) ● 建 立:文治4年 (1188) ● 開 山:退耕行勇 (たいこうぎょうゆう) ● 開 基:足利義兼写真は、茶室と枯山水庭園」浄妙寺の境内&参道。本堂前の庭園は梅の花と枯山水の庭で知られている。よく手入れがされていて、境内は国史跡に指定受け。本堂は、宝暦6年(1756)再建で、寄棟造り、銅板葺きで、起りと呼ばれる膨らむような形状の屋根が特徴。堂内に、南北朝時代作の釈迦如来坐像を安置。「本堂内陣」の扁額「方丈」。本堂の左にある茶室・喜泉庵枯山水の庭を眺めながら抹茶と落雁を味わえると。この枯山水の庭にも雪が残っていた。 寺の奥にある石窯ガーデンテラスに向けて本堂脇の坂道を進む。石窯ガーデンテラス。洋館を改装して創られたカフェ&レストラン。四季折々の庭を眺めながら、焼きたての石窯パンやおいしいお茶・食事が楽しめると。この日は定休日であった。本堂裏の足利貞氏の墓。延福寺跡のやぐらと足利直義(あしかが ただよし)の墓。 延福寺は、足利尊氏の異母兄高義が母契忍禅尼の供養のために建てた寺で、開山は足庵和尚と伝えられている。一説には、高義の菩提を弔うために建てられたとも(高義の法号は「延福寺殿」)。浄妙寺境内の西北が延福寺のあったという場所。足利 直義は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。河内源氏義国流、足利氏の嫡流・足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍、足利尊氏の同母弟。足利将軍家の一門。世に副将軍と称される。兄・尊氏の覇業を補佐して室町幕府創設に貢献し、兄弟による二頭政治によって政権の基礎を固めた。しかし観応の擾乱で失脚し、復権を企んで政敵の高師直一族を討ち果たした。しかし尊氏とも対立し、 1352年(文和元年・正平7年)足利尊氏によって幽閉されていた足利直義(高義・尊氏の弟)は延福寺で病死したと伝えられていると。尊氏に毒殺されたとの説もある(観応の擾乱)。延福寺跡のやぐらを反対側から。鎌足稲荷社。『御由緒大織冠藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された鎌足公は翌大化2年(646)東国に向かわれ、相模国由井の里に宿泊されました。その夜、「あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願もなし遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい」との神告があり、お告げのままに鎌を埋納したことによるとされています。「お稲荷さま」というとキツネをイメージする人もいますが、キツネは稲荷大神のお使いであって、稲荷大神そのものではありません。』と境内案内板より 。この鎌を、大蔵の松ヶ岡に埋納したことから「鎌倉」になったといわれているのだと。 正面に先程登った衣張山の頂が見えた。そしてこの日の散策の〆に杉本寺を訪ねる。鎌倉市二階堂にある天台宗の寺院。山号は大蔵山( だいぞうざん)。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所の第1番札所。鎌倉最古の寺とされていると。寺伝によれば、天平6年(734年)行基が十一面観音を安置して創建。文治5年(1189年)堂宇が焼失しているが、このとき観音像は自ら本堂から出て、境内に避難したと。『吾妻鏡』によれば、中世には大倉観音堂と呼ばれ、文治5年(1189年)の火災時には別当浄台房が炎の中から本尊を持ち出し無事であったと。同書には建久2年(1191年)源頼朝が当寺を参拝し、修理料を寄進したとあると。背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長(?-1337年)が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害しているのだと。山門への階段を登る。山門前の階段の両脇には「十一面杉本観音」と書かれた幟が。山門(仁王門)は切妻造、茅葺の八脚門。左右に金剛力士(仁王)像を安置する。金剛力士像は運慶作との説もあるようだが。江戸時代、18世紀半ば頃の建立。運慶作ではと言われている阿行像。運慶作ではと言われている吽行像。仁王門をくぐった右手にある大蔵弁財天。お参りすると、大きな蔵が建つとか。十分お参りしましたが、時既に遅し!大蔵弁財天の中には小さな湧水の池があり、置石もあって、静かな雰囲気。 夏になると、階段の苔も緑一色に変わり美しい姿を楽しめる場所。 この階段は苔の保護?の為に常に立入禁止。 脇の階段の横にあった石像。この人物は誰?日本武尊(やまとたけるのみこと)?茅葺きの屋根が特徴的で雰囲気のある観音堂。嬉しいことに堂内に上がって秘仏三体の十一面観音、前立十一面観音などさまざまな仏像を拝観出来るのであった。秘仏の三体の十一面観音様。 【http://blog.livedoor.jp/takenoji/archives/17277670.html】より鐘楼。見応えのある鐘楼脇の五輪塔群も苔むして。南北朝時代の戦いの軌跡と。七地蔵尊。一番風化の激しい地蔵は、杉本義宗の守り本尊といわれているのだと。観音堂横の奥の神社。扁額は「熊野大権現、白山大権現」。観音堂の前には、十一面杉本観音と書かれた白幟が取り囲む。そしてやや脚の痛みも感じられたので、帰路は杉本観音前からバスに乗り鎌倉駅まで。朝8:30から15:30までJR鎌倉駅を起点にして多いに歩き回ったのであった。そして17時前には、心地よい脚の疲れと共に帰宅したのであった。 そしてこの日の散策・移動経路が下の図。我がSONYデジカメのGPSロガー機能により、移動した経路を帰宅後に地図に示してくれるのである。この地図をズームすればもっと詳しく移動の経路が地図上に示され、更にそれぞれの写真の撮影場所もかなり正確な位置として示されるので、ユーザーには有り難い機能なのである。「この写真、何処で?何を?写したのか」と言う事が無いのである。 地図はGoogle Earthとリンクしているので、日本国内だけでなく海外とも連動しているので海外旅行時には更に有り難い機能なのである。 そして、鎌倉は、まだまだ見るところがありそうなのであった。いつもの様にこうやって歩けることに感謝して次の機会にと。 ・・・END・・・
2018.02.13
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『鎌倉散策 目次』👈リンク平成巡礼道を下りきり、報国寺の前を通り「旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい)」前まで歩く。しかしこの日は生憎、休園日のようであった。次回の建物内部の公開日は4月7、8日と書かれていた。旧華頂宮邸は、1929年(昭和4年)に華頂宮博信侯爵邸として建てられたもので、国の登録有形文化財。西洋民家にみられる柱や梁などをそのまま外部に現し、その間の壁を石材、土壁などで充填したハーフティンバースタイル。鎌倉市の景観重要建築物にも指定されている。戦前の洋風住宅建築物としては鎌倉文学館に次ぐ規模。華頂宮家は、伏見宮家の分家にあたるのだと。造:木造3階建て、洋小屋組 敷地面積:約4500平方メートル建物述べ床面積:577.79平方メートル 屋根:銅板葺き外壁:木骨モルタル塗り門の照明灯も歴史を感じさせてくれた。報国寺(ほうこくじ)まで戻り入山する。報国寺は、鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は功臣山。本尊は釈迦三尊。境内に竹林があり、「竹の寺」とも称される。鎌倉三十三観音霊場の第10番、鎌倉十三仏霊場の第8番(観音菩薩)、東国花の寺百ヶ寺の鎌倉5番札所。この寺は、1334年(建武元年)天岸慧広(てんがいえこう)の開山により創建されたと伝えられ、開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれている。臨済宗における寺格は諸山(しょざん)に列せられていた。諸山とは、五山制度に基づく寺格の一つである。五山・十刹の下の寺格の寺。1438年(永享10年)におきた永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃していると。山門を潜ると参道脇には美しい苔と白砂の庭園が拡がっていた。白砂の先の石仏。日本の石仏というより、なんとなくインド風?の外観。こちらは純日本風の石仏。竹とツツジの植栽の横を進む。こちらもなんとなくシルクロードを渡ってきたような石仏。小さな五輪塔群。迦葉堂(かようどう)。本堂の右手には、仏陀の弟子、迦葉から名をとった迦葉堂と呼ばれる2階建ての建物が。ここには、仏乗禅師坐像、迦葉尊者立像などが祀られていて、日曜日には日曜座禅会が開かれていると。ただし、普段は公開されていないようであった。報国寺 本堂。1334年(建武元年)天岸慧広の開山により創建されたと伝えられている。宅間法眼作と伝わる本尊「釈迦如来坐像」が安置されている。南北朝時代のもので市指定の文化財。本堂内部。拝観券:200円 を購入し有名な竹林を散策に。報国寺は足利氏ゆかりの寺で、通称「竹の寺」と呼ばれている。本堂裏手にある孟宗竹林の「竹の庭」が報国寺が「竹の寺」と呼ばれる由縁。竹林の中に石仏などが配置された幽玄の世界。自然下での竹類の分布は、気候が温暖で、湿潤な地域、あるいは熱帯に限られており、アジア東部と南部、それにアフリカと南アメリカに多く、日本が北限とされているのだ。(小型の笹類の北限は、サハリン)。冬季が寒冷だったり、降水量の少ないヨーロッパや北米では、大型に育つ竹類の自然分布は、殆ど知られていない為、欧米人にはこの報国寺は人気の寺。茶席・休耕庵。竹の庭を見ながら抹茶を楽しめる場所。五重石塔も境内の苔むした庭園内に。竹林を抜けると崖にやぐらが見えた。開基足利家時と「永享の乱」の折に自刃した足利義久らの墓と伝えられている。 やぐらの中には五輪塔や宝篋印塔が並んでいるのが見えた。こちらのやぐらにも多くの五輪塔が。竹林と本堂裏の間の庭園。木下利玄の歌碑。木下利玄は、明治から大正にかけて活躍した歌人。この寺に墓があると。「あるき来て ものゝふ果てし 岩穴の ひやけきからに いにしへおもほゆ」見事な庭園の先にやぐらが。サンシュユ(山茱萸)の木。温めた牛乳にサンシュユの枝を入れ、保温して一晩置くとヨーグルトができるのだと。ブルガリアにはヨーグルトの木と呼ばれる木があり、サンシュユはヨーグルトの木の親戚にあたるため、実際に同じようにヨーグルトを作れるのだと。山茱萸の音読みが、和名の由来である。早春、葉がつく前に木一面に黄色の花をつけることから、「ハルコガネバナ」とも呼ばれる。秋のグミのような赤い実を珊瑚に例えて、「アキサンゴ」とも呼ばれると。私も養蜂場に植えているが、残念ながら蜜は出ない花のようである。残雪が庭園の白砂の如し。珍しい茅葺き屋根の鐘楼。境内の白梅も花を開き始めていた。露座の石仏を横から再び。 ・・・つづく・・・
2018.02.12
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『鎌倉散策 目次』👈リンク法性寺山門を後にし、横須賀線に沿って歩くと直ぐ左手にあったのが馬頭観世音と轢死者供養塔。「久木ハイランド入口」の交差点を左手に折れ暫く道なりに進む。鎌倉逗子ハイランドという新興住宅地の高台に向かって歩く。ここは西武不動産(株)が開発した住宅地。”新興住宅地”という名の先駆けで、早40数年が経過しているようであった。途中鎌倉逗子ハイランド手前を左に折れ自治会館方面に進む。更に左手に折れ浄妙寺緑地に向かう。浄妙寺こなら公園を左手に折れ更に進むと「鎌倉市子ども自然ふれあいの森」に到着。まだ雪がかなり残っていた。更に坂道を上っていくと水道山展望台に到着。前方下に逗子海岸、そしてその先に葉山マリーナが確認出来た。そして反対側には稲村ヶ崎そしてその奥に江の島が見えた。水道施設はフェンスで囲まれていた。ここでカラスに見守られながら軽く腹ごしらえ。南方向に小高い丘が見えたので、坂を下りその丘に向かう。途中、道の傍らには地蔵尊が置かれているほか、 その少し先に、稲荷神社にある狛狐 ? が2体置かれていたが 、周囲に祠などなく、・・・・。そしてパノラマ台という展望台に到着。由比ヶ浜・稲村ヶ崎・江の島と富士山が望める絶景スポットとのことで訪ねたが富士山の姿は・・。 ここからの江の島の姿。稲村ヶ崎もはっきりと。パノラマ台を後にし、坂道を下りかまくら幼稚園の手前左に「関東の富士見百景」の案内板が。ここからは富士山だけでなく、鎌倉の町と、七里ヶ浜、稲村ケ崎、江の島と美しいポイントを見渡せるのであったが、残念ながらこの時間はここからも富士山は完全に雲に隠れていた。天気が良ければ・・・下の写真の如くに。 【http://livedoor.blogimg.jp/nori_suke55/imgs/e/9/e9588d5a.jpg】より。浄明寺緑地のお地蔵さま。「巡礼古道」に入り衣張山(きぬばりやま)山頂を目指す。「巡礼古道」は杉本寺から逗子・岩殿寺に至る山越えの巡礼道。落ち葉に埋もれた山道を、小鳥の声を聞きながら進むと、やぐらや庚申塔、磨崖仏などに出会いながら巡礼古道を一人占め。かつての巡礼道は、鎌倉ハイランド住宅地により寸断されてしまったが、そこを抜けると名越切通に向かう山道にも再び入れるのであった。尾根道を進むと、衣張山の手前の山の頂にも石仏が。相模湾の姿も。そして衣張山(きぬばりやま)標高121mに到着。山頂には五輪塔と地蔵様が。この場所からの相模湾と江の島。江の島をズームで。私と同じハイキングの方が上着を脱ぎ、一休みされているのかと思いきや周囲に人の姿はなし。忘れ物らしい赤いジャケットが淋しそうに玉縄桜の若木に吊されていた。そして巡礼古道を下る。山道にも未だ残雪が凍結して。衣張山山頂下の石切場趾。この衣張山の石切場跡は、崖の入口から10mは奥に掘り進まれていた。中世に掘られたやぐらとは比較にならないほど深く、高く大きいもの。天井も高い。落石も殆ど見られないから東日本大震災でも剥落もしなかったのであろう。しかしここで切り出した石を、どの様に山の下まで運び出したのであろうか?途中、昨年の台風時に?倒木したのであろうか太い樹木が巡礼古道に横たわっていた。多くの五輪塔が巡礼古道の脇に。途中、風にさらされてはいたが、穏やかなお顔の野仏・夫婦地蔵?も見送ってくれた。 小さな沢に架かる丸木橋も頼りなげに。「平成巡礼道」と書かれた札が。この山道はかなり急な山道であった。ここを反対に登っていくのはかなりの難行か?これぞ「平成巡礼道」 。いや「ぜいぜい巡礼道」。下っていく私の膝も笑いはじめたのであった。 高校時代、クラブ活動で長時間兎跳びをやった後の感覚。久しぶりの懐かしい?感覚なのであった。そして「田楽辻子(でんがくずし)のみち」と書かれた標識が。『鎌倉時代に呼ばれていた小路で、路名の由来は、路ぞいの釈迦堂前に田楽師が住んでいたためと伝える。辻子は通り抜けのできる小路のことで、十字路を辻という。「吾妻鏡」などの田楽にまつわる記事に基づいて現在の道筋をたどると、筋替橋(すじかえばし)を起点として宝戒寺裏から滑川を渡り、大御堂ヶ谷・釈迦堂ヶ谷の入口をへて宅間ヶ谷に出て六浦と合流する小路と考えられる。』 と説明板に。「田楽辻子のみち」沿いには、文覚上人屋敷跡、勝長寿院跡、釈迦堂切通、上杉禅秀邸跡、衣張山があると。「上杉朝宗及氏憲邸址(うえすぎともむね・および・うじのり・ていあと) 」の石碑。『朝宗は足利氏満 満兼に歴任し 入道して禅助と号す 人称して犬懸(いぬかけ)の 管領といふ 其子氏憲 嗣て持氏の執事となり 入道して禅秀と号す 然るに後 持氏と隙あり 応永廿三年氏憲は 持氏の叔父満隆と謀り 満仲を奉じて兵を起せしも遂に敗れ 翌年正月 一味 と共に 雪ノ下の鶴岡別当坊に自尽す 此処は即ち其の邸なり』 「上杉朝宗は、足利氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)に仕え、出家してからは禅助(ぜんすけ)と言いました。当時の人は、犬懸(いぬかけ)の管領(かんれい:将軍代理職)と言いました。その子の氏憲(うじのり)が跡を継いで持氏(もちうじ)の許で事務を取り仕切り、 出家してからは名前を禅秀(ぜんしゅう)と言いました。しかし、持氏と仲たがいになり、1416年に、氏憲は持氏の叔父(おじ)の満隆(みつたか)と共に計画して、満仲に勧めて戦いを起そうとしましたが失敗しました。 そして1417年1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自殺しました。ここはその屋敷があった場所です。」 と。 ・・・つづく・・・
2018.02.11
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『鎌倉散策 目次』👈リンク長勝寺を後にし、311号線を逗子方面に向かって歩く。左手の美容室の家の前にある「大町五丁目自治会掲示板」の足元に「十井之一 銚子の井」と刻まれた古い石柱が。その横の狭い小道の奥に、石の蓋を被せた井戸があった。この井戸は「銚子の井」(ちょうしのい)またの名を「石井の井」(いしいのい)とも呼ばれている、 鎌倉十井(かまくらじゅうせい)の一つ。この銚子の井戸は、上に六枚の花弁の形をした蓋が乗せられていた。蓋の直径は110cm、高さ60cmの大変に重そうな形。井戸枠も蓋と同じように外形は六角形をしており、 内側は円筒状の形状をした石製のもの。いつ彫られた井戸なのかは不明ですが、新編鎌倉志(1685年に刊行)に記載されているため、江戸時代初期には既にあったものと思われます。井戸の名の由来は、井戸の形がお酒を注ぐ銚子に似ているからと言われています。井戸の内側は円ですが、外側は六角形でその一辺はつぎ口のように突き出しています。「石ノ井(いしのい)」ともいわれていますが、これは近くの長勝寺の開基である石井長勝にちなむとも、六枚の花びらのような形をした蓋や側面が石造りになっているからとも言われます。なお日蓮乞水と同じものだったという説もあります。311号線に戻り進み、ナビに従い直ぐに再び狭い脇道に入る。こんな狭い道をナビは案内する優れものなのです。 裏通りに出て右に進むと、右手にあったのが鎌倉五名水の一つ「日蓮乞水」が。手前の狭い空地には何があったのでしょうか? 1254年(建長6年)、日蓮は名越切通を越えて鎌倉に入ったと。その折、水を求めた日蓮が、持っていた杖で地面を突き刺したところ水が湧き出したと。『新編鎌倉志』には、「日蓮乞水は名越切通に達する路傍の小さな井戸を云う 昔日蓮が房総より鎌倉に来る時 此処にて清水を求めしに俄かに湧出せしとなり 大旱(たいかん)にも涸れる事なしとぞ、鎌倉五名水の一なりと云う」と記されていると。石碑には、「南無妙法蓮華経日蓮水」と刻まれていた。大旱とは、ひどいひでりの事。現在は、井戸の形をしているが、元は湧き水であって、穴があいているだけであったと。竹で蓋をされた「日蓮乞水」の上には蓮の花が飾られていた。更に311号線に向かって進むと正面に鎌倉市名越クリーンセンターの煙突が現れた。前方に鎌倉・逗子を結ぶ小坪トンネル。左の下り線のトンネルは歴史を感じさせてくれた。停駐車禁止の取締中のお巡りさんにこのトンネル内を通行可能かと問い合わせると右側の上り線にトンネル内を歩ける歩道が付いていると教えてもらう。お巡りさんの指示に従いトンエル内の歩道を歩く。そして再び次のトンネルが。ここで結果的には遠回りをしてしまう。トンネルを出たら次のトンネルには入らず、右手に折れ進むと名越切通・小坪階段口が左手にあったのである。 私は更に次のトンネルを通過し、 亀ヶ岡 団地の中を遠回りして、長い急な坂道をひたすら上り名越切通の入口に漸く到着。約30分のロスか? 更に進むと切通の雰囲気の場所が前方に。ここが亀が丘団地から名越切通への入口。治承4年(1180)に源頼朝が居を構えた鎌倉は、南方を海に、それ以外の3方を丘陵に囲まれた要害の地であった。そのため、陸路を鎌倉に入ろうとすると、その多くは細くて急な尾根超えの山道か、危険な波打ち際の崖下の道であったと。13世紀前半、執権北条氏の権勢が確立する頃になると、鎌倉も政治経済の拠点として発展したが頻繁となる物資や人びとの往来にとって、それまでの交通路は大きな妨げとなったと。その難渋を除くため、都市の基盤整備の一環として、後に「鎌倉七口」などと呼ばれるこの様な切り通し路が開削されたと考えられていると。「国指定史跡 名越切通」の文字が。 名越切通は、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路のひとつであり、戸塚宿から鎌倉を経て浦賀へ続く浦賀道の一部でもあった。切通を含む名越路(名越坂とも)は、より南側にある小坪路とともに、かつては鎌倉から三浦半島へ連絡する数少ない陸路であった。地域名ともなっている「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われると。「第一切通」と呼ばれるこの切通しは、名越切通の道筋にある複数の切通しのなかでも最も大きく深い。これが『新編鎌倉志』に記された「大空峒(おおほうとう)」ではないかと言われているが確証はないと。また『新編鎌倉志』には「左右ヨリ覆ヒタル岸二所」とあるが、実際には小規模な切通しは数箇所あり、どれが「小空峒(こほうとう)」にあたるかは定かではないとのこと。名越切通は直接近代の道路として整備されず、狭隘な山道として残されてきたうえ、切通し道に隣接した平場や切岸が目立つため、鎌倉七口のなかでも特に中世の旧鎌倉の防衛遺構の一部としての切通しの姿をよく保っているとのこと。名越切通・第1切通の最も狭まった部分。戦の時には、この狭い場所は突入防止の重要なポイントであったと。 しかし、実際にはこの巨岩は関東大震災で動いたのだと。下方の名越切通を突入せんとする敵を、この上部平場から矢で射る事が出来る構造。第2切通。第3切通。更に進んでいくと「まんだら堂やぐら」と書かれた案内柱が。「やぐら」とは、鎌倉を中心として点在する墳墓。丘陵山腹を穿って造られている。漢字では、「窟」・「矢倉」などとも書く。「やぐら」は、方形に削られた「玄室」と玄室への入口である「羨道」とからなっていて、「玄室」には、納骨穴を造り、その上に五輪塔や宝篋印塔などの供養塔が置かれているのだ。なかには壁面に五輪塔や仏像などが彫刻されているものもあるとのこと。階段を上っていくと正面には「立入禁止」のフェンスが。現在は公開終了中で2月24日から期間・曜日限定で開放されると。因みに、この名越切通は鎌倉の世界遺産登録申請物件21ヵ所の一つであると。フェンスの金網の隙間から写真撮影。「まんだら堂やぐら群」には、約150穴の中世の「やぐら」が残されていると。鎌倉市内でもこれだけの「やぐら群」の存在は珍しいのだと。かつて、この場所には、死者を供養するための「曼荼羅堂」があったというが、その「曼荼羅堂」がどのような建物で、いつの時代まで存在していたのかは不明と。やぐら内に置かれている五輪塔は、後に動かされたものが多いらしい。分かれ道を、上り坂の法性寺方面に向かう。分岐にはきちんと方向表示があり、迷わずに進めるので安心なのであった。「帝釈天王 猿畠山 法性寺道 南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑も歴史を感じさせてくれた。左手に石廟(せきびょう)が二基。崖下は法性寺口への道。 先へ進むと、新たに整備された展望広場。 法性寺道の展望広場から小坪方面の眺望。法性寺の墓地最奥にもやぐら(洞穴?)が。以前は五輪塔等が納められていたのであろうか?墓誌由来と刻まれた石碑。法性寺の歴史・由来が刻まれていた。風化が進んだ大きな断崖そしてやぐらの下にある法性寺墓地。奥の院には、日蓮の弟子日朗の廟所があった。「日朗菩薩墳墓霊場」の扁額が掛かる。日朗は、「日蓮六老僧」の一人。1271年(文永8年)9月12日、日蓮が捕らえられて佐渡流罪となったときには、一緒に捕らえられ、光則寺にある土牢に幽閉された(龍ノ口法難)。幽閉から解放された後は、佐渡に流されている日蓮のもとに8度も訪れたという。1274年(文永11年)、赦免された日蓮を迎えに出向いたのも日朗だったと。1320年(元応2年)に亡くなった日朗は、その遺言から安国論寺で荼毘に付され、ここに葬られたと伝えられているのだと。奥之院。 奥之院本堂屋根には左に蕾付き牡丹の花の飾り瓦が、右には唐獅子の飾り瓦が上がっていたが、左右で違うのは珍しいのだと。奥の院 扁額。 両山とは、ここ鎌倉の長興山妙本寺と池上の長栄山本門寺。奥の院 内部。日蓮の岩窟。松葉ヶ谷法難の折、日蓮が白猿に導かれて避難したという岩窟。1260年(文応元年)7月16日、日蓮は、法華経を信じるよう著した『立正安国論』を北条時頼に提出した。しかし、それから40日後の8月27日、松葉ヶ谷の草庵が念仏信者によって焼き討ちされてしまう。3匹の白猿に「お猿畠」に導かれた日蓮は、この岩窟に避難し、白猿から、滋養のある自生する生姜を捧げられたと。毎年、日蓮が龍口法難に逢った9月12日は龍口法難及び松葉谷法難しょうが供養が行われると。 奥の院前の鳥居を潜り階段を上る。 山王大権現。(さんのうだいごんげん)山王大権現とは、日吉(ひえ)神社・日枝(ひえ)神社の祭神で、その使いはこれも猿であると。小坪そして逗子湾が見えた。奥の院をあとにし更に坂道を下っていくと法性寺・本堂が右側に。私のこの日の散策路は法性寺の奥の院から本堂、山門へと逆方向に歩いたのであった。本堂の境内の紅梅は既に満開。更に坂道の参道を下ると、山門がありここを潜り山門を振り返る。法性寺の山門には、山号「猿畠山(えんばくさん)」の扁額が架けるられていた。そこには日蓮を案内してきたとされる山王権現の白猿があしらわれていた。なお、この扁額の「猿畠山」は日蓮終焉の地である池上本門寺の第79世伊藤日定の揮毫であるとも記載されていた。「日蓮大聖人焼討御避難之霊趾」と刻まれた石柱。日蓮上人が文久元年に鎌倉松葉ヶ谷の草庵を他宗の僧に焼き討ちされてここまで逃げ延びたとき、3匹の白い猿が出て食物を与えるなどして日蓮の世話をした。恩に感じた日蓮は、ここに寺を建てるように弟子に頼んだのであった。 ・・・つづく・・・
2018.02.10
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『鎌倉散策 目次』👈リンク八雲神社右横の狭い通路が「祇園山ハイキングコース」入口。 「祇園山ハイキングコース」は東勝寺址の裏の「北条高時腹切りやぐら」までの1.5kmのコース。「こんな場所に入っていいのか?」という雰囲気であったが、案内表示を信じて銅鳥居のある諏訪神社の階段の横の狭い石段を登って行った。「祇園山ハイキングコース」案内図。狭い急な山道を5分ほど上っていくと祇園山見晴台に到着。見晴台の平場には首が取れてしまっている2体?の石仏と方位盤が置かれていた。 鎌倉市街と由比ヶ浜が一望できるここは、最高に眺めがいい場所。由比ヶ浜とその先に稲村ヶ崎。この時間には富士山の白き雄姿も青空に映えて。この日は「祇園山ハイキングコース」はTRYせずに再び八雲神社まで戻り、更に歩を進める。左手には民家風のお寺・別願寺が。別願寺は、鎌倉公方代々の菩提寺であり、鎌倉での時宗の中心として栄えた寺。元は真言宗の寺で能成寺と言ったが、1282年(弘安5年)、住職だった公忍が一遍に帰依し、名を覚阿と改め時宗に改宗した。同時に寺の名を別願寺としたと。室町幕府の出先機関で関八州と伊豆・甲斐を支配する鎌倉府の長である鎌倉公方第四代足利持氏(あしかがもちうじ、1398〜1439)の供養塔。 多くの石塔が。倶会一処(くえいっしょ)とは、浄土教の往生の利益の一つと。 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味であると。別願寺の前にあったのが、上行寺。日蓮宗寺院で、山号は法久山、院号を大前院。創建は正和2年(1313年)で、開山は日範上人。本尊は三宝祖師。癌封じの寺として知られる。左甚五郎作の龍が山門の上部に。 瘡守稲荷(かさもりいなり)と身がわり鬼子母神が祀られ、癌封じ(がん封じ)はもとよりあらゆるの病を封じてくれるというご利益があることで知られていて、全国からお参りする方が多いのだと。堂入口には様々な御利益(ごりやく)が書かれていた。ちょっとゴチャゴチャしてて、整理整頓が必要??・・・と身勝手にも。十三重石塔。水子地蔵。本堂。色彩豊かな七福神。そして次に訪ねた寺は安養院(あんよういん)。春になると正面にピンクのツツジが咲き、多くの観光客が訪れる寺。正面山門。鎌倉市大町にある浄土宗の寺院。山号は祇園山。寺号は長楽寺。本尊は阿弥陀如来。千手観音(田代観音)を安置し、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所第3番札所。この寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係していると。長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷(はせささめがやつ、鎌倉文学館付近)に願行を開山として創建した寺と伝えられると。長楽寺は1333年(元弘元年)兵火により焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。なお、安養院は政子の法号から取られたものであると。日限地蔵(ひぎりじぞう)。日限地蔵は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩であると。 本堂。本堂には正面に本尊の阿弥陀如来像が祀られている。その後ろに高さ1.85mの千手観音が。この千手観音は比企ヶ谷にあった田代寺が火事で焼失したため、こちらに移されたものと。他にも、毘沙門天、北条政子像、法然上人像、善導大師像、願行上人像、尊観上人像、釈迦如来の誕生像、釈迦如来の涅槃図、「安養院如実妙観大禅定尼」と書かれた北条政子の位牌があると。鎌倉市指定天然記念物の槙(まき)の大木。樹齢は約700年。前身寺院の善導寺の開山の尊観上人がお手植えの槇と伝えられていると。地蔵尊。一番右は夫婦地蔵、中央は御助地蔵、左側が親子地蔵。本堂の裏に進む。石塔の説明板であるが、何故かいろいろな場所が消されて?いた。歴史検証により、変わって行く事実が目の前に。 ひときわ大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)。鎌倉時代の作として、国指定の重要文化財。ドッシリとした作りが印象的な宝篋印塔。宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいうと。後には供養塔・墓碑塔として建てられたと。 徳治三年(1308年)の銘が刻まれており、名越の善導寺を開山した尊観上人のお墓と伝えられていると。現在、鎌倉に存在する宝篋印塔の中で、年号が推定できる最古のもの。北条政子の供養塔。これは北条政子のお墓だと伝えられている、これも宝篋印塔。「安養院殿如実妙観大禅定尼、嘉禄元年七月十三日」と刻まれているのだと。嘉禄元年は1225年にあたると。しかし実際には、宝篋印塔は室町時代のもので、文字はあとから彫られたものではないかと考えられているのだと。 311号線を渡り本興寺を訪ねる。朱色の山門のある本興寺は鎌倉市大町にある日蓮宗寺院。山号は法華山。旧本山は比企谷妙本寺。この日の散策で最初に訪ねた大巧寺と同じ「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」と刻まれた石碑。本堂。見事な「百日紅」(右)と「しだれ桜」(左)、イチョウの古木が迎えてくれた。百日紅の花の名所の寺であるようだ。境内の赤い社と隆々とした古木。本興寺は、「辻の本興寺」とも呼ばれ、門前には日蓮の「日蓮聖人辻説法之舊地」碑が建てられていた。「此辺ハ往昔ニ於ケル屋敷町ト商家町トノ境ヲナス地点ニ位シ 幕府ニ近キコトトテ 殷賑(隆盛)ヲ極メシ所ナリ 建長五年(1253)五月 日蓮聖人房州ヨリ鎌倉ニ来リ松葉ガ谷(やつ)ニ草庵ヲ結ビ 日ニ日ニ此辺リノ路傍ニ立チ 弘通(ぐつう:布教)ノ為メ民衆ニ対シ獅子吼(ししく:強声)ヲ続ケシ址ナリトテ 世ニ辻説法ノ旧蹟ト伝ヘラル」【この辺りは、屋敷町と商家町との間にあって、幕府に近いことから大変にぎわっていた場所です。1253年5月、日蓮聖人(にちれんしょうにん)が房州(千葉県南部)から鎌倉に来て松葉が谷(まつばがやつ)に住み、民衆への布教のため、 毎日のようにこの辺りの道端に立って、大声を張り上げていた場所であるといわれています。一般に辻説法の跡といわれています。】本興寺近く、JR横須賀線三浦道踏切の手前右にある「辻薬師堂」。この薬師堂は、建久元年(1190年)に、源頼朝が二階堂(現在の鎌倉宮あたり)に建立した医王山東光寺(一説に、二階堂行光が承元3年・1209年に永福寺の傍らに建立)の境内にあったものといわれる。その後宝永元年(1704年)、薬師堂は、大町名越御嶽(名越切通しの近く)にあった古義真言宗長善寺に移された。長善寺は、奈良時代の神亀年間に由比の長者染谷太郎時忠の建立といわれる古刹。その後、大町辻に移り、延宝2年(1674年)5月には、水戸光圀も訪れていると。江戸末期に焼失したが、薬師堂だけは残ったという。明治期の横須賀線敷設工事に伴い、現在地に移設されたのだと。「辻薬師堂」内部。小さな堂の中に安置されているのは薬師三尊像、十二神将像であると。踏切傍に立つ石碑には「南無妙法蓮華経 轢死精霊」踏切事故で亡くなった方の慰霊碑であろう。踏切手前の横須賀線沿いの小路を逗子方面に向かって歩き、再び311号線を渡り更に我がIphonesのナビに従い住宅街を進む。釈迦堂切通しに向かうが、やはり「通行止め」の表示板が。更に山の下の住宅街を進むと「釈迦堂切通し」が目の前に現れたが、その手間にバリケードが。「この先 落石のため通行止め」 と。2010年の大雨で崖崩れをおこして以来、通行止めになったままの釈迦堂切通し。しかしバリケードの横には住宅街が迫っていたのであった。 「釈迦堂切通し」は、鎌倉時代の面影を良く伝えてくれる切通しであると。切通しと言うより洞門の如し。谷戸の名は鎌倉幕府三代執権・北条泰時が父・二代執権北条義時の霊を慰め様と釈迦堂を建立した事による。この切通しは大町方面に通じているのだ。この切通しは鎌倉の外の地域とを結ぶ切通しではないため鎌倉七切通し(七口)には数えられてはいないと。釈迦堂は洞門の北側入り口の西方にあったといわれ、字名が釈迦堂として残っている。一帯は北条時政の屋敷跡であったと。上部に3基?のやぐら跡が?。巨大な崖をくり抜いて、トンネルの状態になった切通しの様は圧巻。この切通しは、800年ほど前に掘られたトンネル。このまま更なる崩壊が進まぬ事を祈るが、保存工事も早急に必要ではと。そして一端途中まで往路を戻り、奥の住宅街の坂道を再び上っていくと開けた場所(平場)が。大町釈迦堂口遺跡正面は発掘中か入場禁止となっていた。大町釈迦堂口遺跡は、釈迦堂切通の東側、衣張山西側中腹にある遺跡で、2008年(平成20年)の発掘調査まで、鎌倉幕府初代執権の北条時政邸とされて来たのだと。しかし、最も古い遺構でも13世紀後半頃のもの推定され、時政が没した時期からすると「北条時政邸ではない」という判断が下されたのだと。また、「建物跡」や「やぐら」などが新たに発見され、寺院跡の可能性が高いとのこと。そのため、史跡名も「北条時政邸跡」から「大町釈迦堂口遺跡」と変更されているのだと。北条泰時が義時を弔うために建てた「釈迦堂」かもしれないという説も・・・浮上と。綺麗に積まれた石垣は発掘されたものか? ・・・つづく・・・
2018.02.04
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日(1/29)は寒さが和らいだので冬の鎌倉散策に出かけて来ました。7:45に自宅を出て、小田急線、東海道線、横須賀線を乗り継ぎ、8:30過ぎにJR鎌倉駅に到着。若宮大路(わかみやおおじ)の鎌倉駅入口の交差点を渡る。最初に訪ねたのが大巧寺(だいぎょうじ)。大巧寺は別名「おんめさま」とも呼ばれ、安産祈願の寺として知られている。「おんめさま」とは「お産女様」(おうめさま)が訛った言葉。山門を潜り境内へ。 大巧寺はもともと大行寺と称する真言宗の寺院で、当初は十二所の梶原景時の屋敷内にあった。創建年や開山などは不明だが、源頼朝の祈願所とされた事から、鎌倉時代初期頃までには創建されていたと推測される。この寺で頼朝が軍議を行った結果、大勝利を収めたため、頼朝の命により「大巧寺」という名称に改名した。文永11年(1274年)、日澄により日蓮宗に改宗する。これに基づき現在では開山を日澄としている。2年(1320年)現在地へ移転したとのこと。本堂。毎月、戌の日 及び 大安の休日には、安産腹帯守授与所は混雑すると。境内を縦断し裏側入口から出る。裏側にも「南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩 大巧寺」と刻まれた石塔が。そして数分歩くと、夷堂橋に到着。正面に本覚寺山門と日蓮ゆかりの恵比寿堂が。 夷堂橋(えびすどうばし)の石碑。『鎌倉十橋の一にして 此辺は 往昔夷堂ありしといふ 此川 は上流にて胡桃(くるみ)川と いひ 浄明寺門前に至り滑 (なめり)川の名あり 文覚(も んがく)屋敷と伝へらるる辺 は 坐禅(ざぜん)川と唱へ 此 辺は夷堂川と呼び 延命寺の 傍よりスミウリ川と名つけ 魔(えんま)堂址の辺にては 閻魔堂川といふ』「この橋は鎌倉十橋のひとつです。ここには昔夷堂があった と言います。この川は現在は滑(なめり)川といいますが、 昔は場所によって多くの呼び 名がありました。上流では胡 桃(くるみ)川といい、浄明寺 門前では滑川といい、文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは坐禅(ざぜん)川といい、この辺りでは夷堂川と呼び、延命 寺の辺りはスミウリ川といい、閻魔(えんま)堂跡の辺は閻魔堂川といいました。」と。夷堂橋から滑川を見る。妙本寺(みょうほんじ)山門に向かって歩く。妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。妙本寺のある谷戸は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があったと。ここ妙本寺は昨年の晩秋に紅葉の穴場👈リンク として訪ねた寺であるため今回はパスして次の寺へ。 比企能員邸址(ひきよしかず・ていあと) 石碑。『能員は頼朝の乳母(うば)比企禅尼の養子なるが 禅尼と共に此の地に住せり 此の地比企が谷(やつ)の名あるも之に基づく 能員の女(むすめ) 頼家の寵(ちょう)を受け 若狭局(わかさのつぼね)と称し 子一幡(いちまん)を生む 建仁三年(1203)頼 家疾(病)むや 母政子関西の地頭(じとう:庄官)職を分ちて 頼家の弟千幡(せんまん)に授けんとす 能員之を憤り蜜(ひそか) に北条氏を除かんと謀(はか)る 謀泄(漏)れて 郤(反)つて 北条氏の為一族此の地に於て滅さる』 「比企能員(よしかず)は、源頼朝の乳母(うば)であった比企禅尼(ひきのぜんに)の養子であり、禅尼と共にこの場所に住んでいました。この土地の名前が、比企ヶ谷(ひきがやつ)というのもこのためです。 能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて、一幡(いちまん)という子供を生みました。1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある政子が頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡(せんまん)に渡そうとしました。このことに能員が怒り、ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、逆に北条方に覚られ、比企一族はこの地で滅ぼされてしまいました。」 と。「体曲がれば 影ななめなり」と。日蓮大聖人は『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲がれば影ななめなり』と。体である信心が確立されてこそ、その影である仕事をはじめ、世間のことも順調に進んでいく。また、たとえ仕事で困難に直面することがあったとしても、見事に乗り越えていく力がでると。「体」⇒「自己の内面」と読み替える自分がいたのであった。そして妙本寺山門の右側に、「ぼたもち寺」は右に行くとの案内が。そして2分もかからずに「ぼたもち寺」に到着。「幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。こじんまりとした境内にはあふれるように草花が植えられています。」 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:慧雲山常栄寺 (えうんざん) ● 建 立:慶長11年 (1606) ● 開 山:日詔 (にっしょう) ● 開 基:日祐法尼 (にちゆうほうに)写真は、ぼたもち供養、「日蓮聖人龍の口法難ご絵伝」より」鎌倉時代、この地に住んでいた「桟敷の尼」が龍ノ口刑場(藤沢市片瀬)へと護送されていく日蓮に「胡麻入りのぼた餅」を捧げたのだ。刑がまさに執行される時、江ノ島方面の空に光る物体が出現したために、周囲がが恐れをなして刑は中止になった。その後、老婆が渡したぼたもちは「首つなぎぼたもち」として語られて、この伝説から「ぼたもち寺」と呼ばれていると。常永寺の寺号は「桟敷の尼」の法号「妙常日栄」にちなんだもの。ぼたもち寺 山門。「たつのくち くびれおんざを ふしおがむ 婆のまごころ ぼたもち 常栄寺」と。「ぼたもち寺」と。立派な門扉には、家紋の「橘」(日蓮宗の寺紋)と「笹竜胆」(源氏の家紋)が飾られていた。「橘」(日蓮宗の寺紋) 「笹竜胆(ささりんどう)」(源氏の家紋)こぢんまりとした境内の先には本堂が。更に近くによって。 本堂の扁額「現無量神力(無量の神力を現じたもう)」。法華経の一節であると。境内社。 境内社の稲荷神社。本堂向かって左側境内庭に建っているのが、開基である「日祐法尼」の墓。桟敷の尼夫妻の墓。「これやこの 法難の祖師に はぎのもち ささげしあまが すみにしところ 塚本柳斉詠 梅香書」と刻まれている石碑。ぼたもちと日蓮の逸話が本堂前の壁に掲載されていた。 裸馬に乗せられて引き回されている日蓮に、ゴマ餅を捧げる桟敷尼の絵。 田中優子女史画 『ぼたもちでら常栄寺縁起』と。「首つぎの おはぎを祖師に 供養せし 信と勇とを 仰がんいざや」 「これやこの 法難の祖師に はぎのもち ささげし尼が すみにしところ」 境内の紅梅が咲き出していた。そして次に八雲神社を訪ねる。石の鳥居には立派な注連縄が。昔は鎌倉祇園社や祇園天王社などと称したが、明治維新に際して現社名に改称したと。厄除け開運の神社としても知られており、地元では「八雲さん」や「お天王さん」などと呼ばれ親しまれている神社と。左手に寛文10(1670庚戌)年の銘のある庚申塔が。昭和40年に鎌倉市有形民俗文化財に指定されたと。永保年間(1081年~1084年)の創建で牛頭天王を祀る祇園信仰の神社として鎌倉幕府の誕生以前から続く長い歴史を持っていると。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田比売命(いなだひめのみこと)、八王子命(はちほうじのみこと)。新羅三郎「手玉石」。近江の国で元服したことから、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の名で呼ばれていると。平安時代後期の武将で、河内源氏の二代目棟梁源頼義の3男なので、源義光とも呼ばれると。八幡太郎義家や加茂二郎義綱の弟にあたると。新羅三郎義光の子孫は、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏と発展。応永年間(1394年~1427年)、新羅三郎義光の子孫、佐竹氏の霊祠を合祀したと。右から諏訪神社:祭神は健御名方神稲荷神社:祭神は宇迦之御魂神於岩稲荷社:祭神は田宮於岩命。宝物庫内の神輿。社宝として江戸時代のもとのいわれている、神輿が4基展示されていた。他にも、剣、銅鏡、猿田彦神の面、瓦、陶器、薬研など、多数の宝物が陳列中。ガラス張りになっているので、ガラス越しに自由に見学することができた。 天水盤。武州鋳物師の鈴木文吾が惣型法によって鋳造された天水盤。鈴木文吾は大正10年に生まれ、「伝説の鋳物師」、「現代の名工」などと呼ばれる鋳物師。2007年には川口市文化賞を受賞。父の死を乗り越えて造り上げた東京国立競技場の聖火台の物語は、半世紀を過ぎた現在も多くの人に語り継がれ、「伝説の鋳物師」と称される原点となったと。社務所。未だ巫女の姿はなし。 いずれの神社、寺院も以前訪ねた折御朱印をいただいているので今回は無し。 ・・・つづく・・・
2018.02.03
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日の晩秋の紅葉巡りの最後は、鎌倉の紅葉の穴場の妙本寺(みょうほんじ)へ。妙本寺は鎌倉市大町にあるの、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。前方に総門が見えた。妙本寺の総門の傍らには比企能員邸址の碑が。碑には「比企能員は頼朝の乳母・比企禅尼の養子であるが、禅尼とともにこの地に住した。この地を比企ヶ谷というのもこのことに基づく。能員の娘は頼家の寵愛を受け、若狭局と称しており、(頼家の)子の一幡を生む。建仁3年(1203)に頼家が病になると母の政子は関西の地頭職(じとうしき)を分け、頼家の弟千幡(せんまん、後の実朝)に授けようとした。能員はこれに怒り、密かに北条氏を討とうと謀をめぐらせたが、かえって北条氏のためにこの地において滅亡した」といった意味の言葉が刻まれているのだ。妙本寺比企谷幼稚園。昭和10年の頃、大正12年の関東大震災によって倒壊し、その復興を待ち望まれた、当時比企谷妙本寺の支院であった大円院境内に建築工事が始まり、昭和12年3月八角形の夢殿を模した見事な建物が完成された。これは、当時の比企谷妙本寺貫首島田勝存上人の発願による、宗教的情操を基盤とする幼児教育の殿堂、比企谷幼稚園で、昭和12年4月開園始業したと。妙本寺方丈門。妙本寺 案内図。本堂への階段を上る。階段上には鐘楼が。二天門前の紅葉。モミジが陽光に輝いていた。そしてその後ろに二天門の見事な彫刻が。この彫刻の前で手を拍つと龍が鳴き声をあげるという「鳴龍」の伝説も残されていると。二天門を正面から。仏教の守護神である四天王のうち、持国天と多聞天(毘沙門天)を安置していることから「二天門」と呼ばれている。2011年(平成23年)9月に保存修理が終わり、美しい姿が蘇っている。朱の門であるが、あいにく逆光であった。向かって右側が持国天。持国天は東方を守護。左側が多聞天。多聞天は南方を守護。ものすごい形相で邪鬼を踏みつけて。二天門を潜ると広い境内の先に大きな祖師堂が。境内左手にあるのが巨大な日蓮聖人銅像。二天門を祖師堂側から。妙本寺の祖師堂はその棟札から天保九年(1838)と推定されていると。桁行 (正面) 五間、梁間 (奥行) 六間で、瓦葺き入母屋造り。正面は約 18.7m、奥行きは 約 19.7mの堂々とした建造物。 軒の周りは、禅宗様で、尾垂木が上下二本でている二重尾垂木で、三手先の斗栱を柱の上とその中間(中備え)のも配している。斗栱の部材も大きい建物にふさわしく大型のもの。軒の周りは、禅宗様で、尾垂木が上下二本でている二重尾垂木で、三手先の斗栱を柱の上とその中間(中備え)のも配しています。斗栱の部材も大きい建物にふさわしく大型のもの。向背 (正面に突き出した屋根の部分) は海老虹梁や籠彫手挟、虹梁受けに花の籠彫り、中間に龍の丸彫、木鼻の獅子鼻・象鼻とするなど、彫り物に見るべきものも多々。祖師堂内部。祖師堂横にあったのが「万葉集研究遺跡」の石碑。竹御所が葬られたという新釈迦堂の供僧仙覚の万葉集研究を顕彰した碑。竹御所の墓(新釈迦堂)の入口に建てられている。竹御所とは鎌倉幕府第2代将軍源頼家の娘。政子の死後にその実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一、源頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は、幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした人物と。1246年(寛元4年)、仙覚は四代将軍・藤原頼経の命により『万葉集』の校合を行い、1253年(建長5年)には後嵯峨上皇に奉献している。その後も研究を続け、1269年(文永6年)には『萬葉集註釈』(萬葉集抄、仙覚抄)を完成させたと。仙覚の生没年等の詳細は不明だが、妙本寺で滅んだ比企氏の出身とする説があると。祖師堂の回廊から鎌倉の紅葉の穴場のこの見事な紅葉を楽しむ。鎌倉最大級の木造仏堂である祖師堂周辺の紅葉の景色は圧巻。これ以上の言葉は邪魔。 祖師堂から二天門を。境内の横の銀杏の紅葉はこれからか。祖師堂横には比企一族の供養塔が建てられていた。『吾妻鏡』によれば、源頼朝の乳母を務めた比企禅尼は、1159年(平治元年)の「平治の乱」に敗れ、翌年伊豆国に流された頼朝を支え続け、1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵を果たすまでの約20年の間、仕送りを続けていたという。そのため、比企禅尼の養子比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の信任が厚く、二代将軍頼家の乳母夫となり、さらに娘の若狭局が頼家の側室となって一幡を出産するなど権力をつけ、北条氏と並ぶ存在となった。しかし、1203年(建仁3年)、比企能員は、北条時政によって暗殺され、比企一族も北条義時らによって攻められ滅亡したと。市指定 天然記念物の銀杏の老木。これも比企一族の墓であろうか?二天門を斜めから。そしてこの日の「昼間」の晩秋の鎌倉紅葉巡りの〆に再び二天門の紅葉を。そして再び鎌倉駅まで徒歩にて戻り、ここから江ノ電で長谷寺へ。そして「長谷寺の紅葉のライトアップ」を楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ --------晩秋の鎌倉紅葉巡り 完----------
2017.12.31
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『鎌倉散策 目次』👈リンク更に鎌倉散策を続け荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)参道に到着。長治元年(1104年)に創建。源頼朝が鎌倉幕府開府にあたり鬼門の方向の守護社として社殿を造営、さらに徳川家康が豊臣秀吉の命で社殿の造営を行ったと。現在は菅原道真を祀る神社。荏柄天神社の石碑には、『「和名鈔」当郡に「荏草」と記せる郷名あり。今、その名を失すれども、当社付近の旧称なりしがごとし。草に「かや」の古訓あれば、「えがら」は「えがや」の転訛なるを、後、文字をさえ今のごとく改めしものか。社前の松並木を、古来「馬場」と称す。本社はもと、中央に管公(菅原道真)束帯の坐像、右方に天拝山祈誓の立像、左方に本地仏十一面観音の像を安置せしも、勧請の年代を伝へず。頼朝公はじめて大蔵の地に幕府を設けし時、当社を以て鬼門の鎮守となす。爾来、歴代将軍の尊奉せし所。天文年間(1532~1555年)、北条氏康社前に関を置き、関銭を取りて社料に供せしめし事あり。徳川氏の世には、鶴岡八幡宮造営の節毎にその余材残木を受けて、本社修造に抵(あ)つるを例とせしと云ふ。』と書かれていると。荏柄天神拝殿・本殿(重文)。寛永元年(1624年)に鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を譲り受け移築されたと。社務所。ここ荏柄天神社は、 鎌倉を代表する学問の神様。荏柄天神社は、福岡市の太宰府天満宮、 京都市の北野天満宮とともに日本三天神に数えられている。お守りは守袋、梅守、祈願鉛筆、祈願絵馬 、祈願はちまきなど受験に欠かせない祈願グッズが各種揃っているのだ。 拝殿横の壁にはたくさんの合格祈願?の絵馬が。絵筆塚。平成元年(1989)には、清水崑の遺志を受け継いだ横山隆一をはじめ漫画家154人のカッパの絵を青銅にレリーフした筆形の「絵筆塚」を建立された。高さ3m20cm、最大直径1m、重さ800kgもあると。漫画家を目指す人にとっては、大きなパワーを得られる場所であると。カッパのレリーフが飾られた筆形の塚をズームで。 熊野権現社へ。二階堂の鎮守だった社で、1873年(明治6年)、荏柄天神社に合祀されたと。熊野権現社は山の洞穴内に鎮座。奥に熊野権現の石祠が。熊野三柱神である伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)が祀られているのだと。神輿庫。大銀杏。鎌倉では一番古い樹齢900年以上の銀杏の木と。境内には尾崎迷堂の句碑が、御神木の大銀杏の下に建てられていた。尾崎迷堂は、杉本寺の住職も勤めた僧侶。僧侶のかたわら俳句に精進し、土地の人々と俳句を通じて交流を深めた人物でると。句碑には「大慈咲き大悲さきたるさくらかな」と刻まれ、右大臣・実朝の姿が偲ばれる。裏面には「荏柄天満天神献詠 鎌倉右大臣 実朝の忌なりけり」と刻まれているのだと。荏柄天神本殿。三間社流造、銅板葺き。若宮旧本殿は正和4年(1315年)の鎌倉大火の後、翌正和5年(1316年)に建立された。記録によれば、中世、近世を通じてたびたび修理が行われているが、社殿全体が再建された記録はない。移築と度重なる修理を経ているとはいえ、鎌倉地方における中世建築の稀少な遺構の一つである。関東大震災でも被害を受け、幣殿と拝殿は震災以降の再建。次に近くにある鎌倉宮へ向かう。護良親王(もりながしんのう)を祭神とする神社。明治天皇から武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武の新政に尽力した親王の功を賛え、親王が捕えられていた寺の跡地に今の鎌倉宮が出来たのだと。 建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮(おおとうのみや)。鎌倉宮・一&二の鳥居は全国的にも大変珍しい「白地に赤」の配色。白は「純真無垢、純粋」、赤は「赤誠・赤心、まごごろ」の意味が込められていると。 鎌倉宮 配置案内図。 拝殿への階段。祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められたのだと。階段の右横には「厄割り石」の置かれた祠が。拝殿の前に置かれてある「かわらけ」(有料)に息を吹きかけて身体の中の悪いものを移し、そのかわらけを地面に埋め込まれた「厄割り石」に投げて割ります。かわらけが割れることで厄払いになるといわれています。そして階段上に鎌倉宮 二の鳥居。手水舎。手の汚れを洗う場所とともに心の塵を洗いおとすこと、心の煩累(はんるい)を洗い去り浄める場所と。拝殿。鎌倉宮拝殿・本殿の裏側には、護良親王が幽閉されていたとされる土牢があるとのことであるが有料であった。拝殿向かって左の「南方社」と右の「村上社」の2つ境内社があり「村上社」の前には「撫で身代り」像が。「村上社」には、「元弘の変」において護良親王の下で戦い、親王の身代わりとなって自刃した村上義光(むらかみよしてる)が祀られていると。村上義光は、1333年(元弘3年)、窮地に立った護良親王を救うため「われこそは護良親王」と身代わりとなって自刃したという。2004年(平成16年)12月20日、台風で倒れた境内の樹齢103年の欅を使って彫られた像が村上社前に置かれたこの「撫で身代り」像。「撫で身代わり」と呼ばれ、病気や厄除けの身代わりにご利益があるとして多くの者が参拝しているのだ。撫でるとと体の悪いところを身代わりになってくれるとされると。私も頭と顔とお腹を丁寧に撫でたのでした。社務所入口門。社務所前より境内に向けて。社務所前の庭の紅葉を楽しむ。休憩所(太平殿)には鎌倉宮の獅子頭が展示されていた。そして拝観後、鎌倉宮からはバスに座って鎌倉駅まで戻る。更に頑張って駅前にある大巧寺を訪ねる。大巧寺は別名「おんめさま」とも呼ばれ、安産祈願の寺として知られている。「おんめさま」とは「お産女様」(おうめさま)が訛った言葉で、境内に祀られている「産女霊神」を指す。私も孫の誕生の前には安産祈祷と安産お守りを授かる為に何回か訪ねた寺。本堂。安産祈祷は毎朝住職が本堂で産婦の安産を祈願する祈祷で、出産予定日まで続けられる。産婦に授与される安産お守りはお札、腹帯守、麻紐、秘妙符から構成される。このうち、腹帯守は腹帯に入れるお守りで帯祝いの時に使う。また麻紐は産後、産婦の髪を結ぶお守りになる。秘妙符の中には粒が3つと折り紙が入っている。粒のうち1つは出産予定月の朔日に飲み、他の二つは陣痛が始まった際に飲む。折り紙は色によって性別を占うものといわれており、赤だと女子、白だと男子が生まれるという伝承があるのだと。犬はお産が軽く安産であるという伝承から、犬を縁起物として扱っている。このため戌の日は吉日として安産祈願者で混みあうことが多いと。来年は戌年でもあり参拝客が増えるのであろう。そして本覚寺(ほんがくじ)へ。日蓮宗の本山(由緒寺院)で山号は妙厳山。本尊は釈迦三尊像。身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれる。若宮大路に向けて入り口を作ってはいけない規則があったため、本覚寺は小町大路(辻説法通り)に入り口を向けているのだと。現在の本覚寺の山門がある場所の前には、夷堂と呼ばれる堂があったと。この夷堂は、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものであった。文永11年(1274年)に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていたとのこと。山門(仁王門)。江戸時代のもの。明治初期に三浦半島の寺院より移したという。巨大な仁王像 阿像。仁王像 吽像。手水舎。夷堂。前身となった天台宗の夷堂は、本覚寺の創建時に境内に移されたが、明治の神仏分離令によって寺とは分離され、地区の七面大明神、山王台権現を合祀して蛭子神社(ひるこじんじゃ 「蛭子」は「えびす」とも読む)となった。昭和56年(1981年)に本覚寺境内に再び夷堂が再建されたと。人形塚。毎年10月の第一日曜日に行われる人形供養は、「物を大切にする」という考え方から始められたものと。本堂で供養法要が行われた後、人形のお焚き上げがあるのだと。寺務所・僧坊。本堂。本堂は大正時代の創建。 何故か山門と本堂は一直線上にないのだ。 鐘楼 応永17年(1410年)銘の梵鐘。日出上人が木更津八幡宮の別当寺で法論に勝ち、従者に持ち帰らせたと伝えられていると。日蓮上人分骨堂とその前の紅葉。本堂右側にあるこの分骨堂には、日蓮上人の墓がある身延山から分骨された遺骨が安置されていると。 赤い帽子と前掛けをしている「しあわせ地蔵」が境内に。願い事をとなえながらその頭をなでると願いがかなうと言われていると。私もこの地蔵様にも「・・・・・」 と唱えながら。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.30
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉歴史文化交流館から更に歩を進め小町通りを歩き右に曲がると鶴岡八幡宮の境内に到着。鶴岡八幡宮は、正月三が日の初詣客の数が、毎年、全国10位以内にランクインする全国有数の神社で、鎌倉を訪れる多くの人が立ち寄る、鎌倉観光のメッカ。鶴岡八幡宮 若宮大路 大鳥居(三の鳥居)。中央の段葛(だんかずら)は、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の参道、若宮大路のなかで、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道をいう。終着点にはここ三の鳥居がある。2014年末(平成26年)の整備工事によって、桜の植え替えが行われ、樹齢5年程度の若い樹が移植されている。太鼓橋。三の鳥居を過ぎてすぐのところにある源平池にかかっている石橋。昔は、太鼓橋を一気に渡ると出世するという言い伝えがあったようだが、現在は柵が置かれ通行禁止になっている。私が子供の頃は、この橋を駆け上った記憶があるが。鶴岡八幡宮 境内案内図。 太鼓橋の右(東側)に北条政子が造ったと伝わる源平池の源氏池がある。今はその時期ではないが、源氏の象徴の「白」の蓮の花を植え、三つの島を配したと。三は産に通じ、子孫の繁栄を意味するのだと。現在も三つの島があり、写真右の島は旗上弁天社(はたあげべんてんしゃ)。ここには北条政子が平家の滅亡を祈願した弁財天座像が祀られていたと。旗上弁天社の紅葉も美しかった。源氏池に浮かぶ島のひとつにまつられている「旗上弁財天」は、鎌倉・江ノ島七福神の弁天様に指定されており、正月には七福神めぐりを楽しむ多くの人々で賑わうのだ。再び鶴岡八幡宮の参道に戻る。表参道を進むと、舞殿(下拝殿)が正面に。1193年に造営された舞殿は鶴岡八幡宮若宮の回廊跡に建っているのだ。ウィキペディアによると『義経の側室静御前は文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しきと義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡う でしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょ うじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛。この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。閏7月29日、 静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子 を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。 9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消 息は不明』と。左手に大きな手水舎。この日は舞殿で結婚式が行われていた。舞殿を回って前から。大石段の上が鶴岡八幡宮 本宮(上宮)。石段の上に立つ楼門にかけられている扁額(へんがく)の「八幡宮」の文字。「八」の文字をよく見ると、2羽の鳩の形をしている。鳩は八幡神の使いとされ、鶴岡八幡宮の境内にもたくさんの鳩がいて、大切にされているのだ。鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣した人の土産として有名な鳩サブレーは豊島屋の初代店主である久保田久次郎が鶴岡八幡宮を崇敬しており、本宮の掲額の「八」が鳩の向き合わせであることと、宮鳩が多数いるところから着想を得たためと言われているのだ。鎌倉幕府の三代将軍・源実朝が暗殺されたときに、暗殺者(実朝の甥の公暁)が、この木の陰に身を隠していたとの伝説から、「隠れ銀杏」とも呼ばれた大銀杏は、2010年3月の強風時に、惜しくも倒壊してしまったのだ。現在、親木から生えた若芽を育成し、大銀杏の再生をはかっているのだ。「がんばれ大イチョウ」の木札には子供達の様々な想いの書き込みが。「また歴史に残る大木になれ」とも。倒壊し切り倒され、根元の部分を移植された大銀杏の親木からも若木が芽生えて成長中でこの日は黄色く黄葉していた。鶴岡八幡宮 拝殿。中央からの撮影は禁止とのことで参拝の後に斜めから。宝物館手前には巨大な神輿が並んでいた。おみくじ・お守り・お札売り場。大石段を降り若宮の角を左折して進むとそこは柳原神池(やないはらしんち)。かつて、この辺りは「柳原」と呼ばれ、柳の名所となっていたと。「年経たる鶴ヶ岡辺の柳原青みにけりな春のしるしに」は、三代執権北条泰時が詠んだ歌といわれている。この日は柳では無くモミジの紅葉が美しかった。鶴亀石。白旗神社の手前には、「鶴亀石」という2つの大きな石が祀られていた。水で洗うと鶴と亀の模様が浮かび上がると言われる、なんとも縁起の良い石なのだと。雨の日には、鶴と亀の模様が浮かび上がるのであろうか?確認できないのが残念。ただ、触れるだけでもパワーがもらえる、あるいは良運が訪れるということで、触って帰る方も。そして私も二つの石を。「鶴岡八幡宮」の境内の一角にあるのが「白旗神社」。境内の中にあるため、独立した神社ではなく鶴岡八幡宮の摂社ということになっていると。白旗神社は、神奈川を中心に関東・中部・東北地方に70数か所あるらしい。しかし関西方面にはないとのことであるが。私の家から車で10分くらいに場所にも「相州藤沢 白旗神社」がある。藤沢宿西方面の総鎮守。 もとは相模一の宮の寒川神社の寒川比古命の分霊を祀り、寒川神社と呼ばれていたというが、その創建年は不明。寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしている。のちに、奥州平泉で自刃した源義経を祭神として祀ったことから、白旗神社と呼ばれるようになった。 伝説によると、奥州平泉の衣川館で自刃した義経の首は、腰越の浜で首実検が行われた。その後捨てられた首は、潮にのって境川を上り、白旗神社近くに流れ着き、里人に洗い清められ葬られたと伝えられているのだ。 この鎌倉の白旗神社は源頼朝をご祭神としてお祀りしている神社である。白旗というと戦いにおいては降伏するときの旗のイメージが強いが、もともとは源氏の旗印。平家は赤旗。源平の戦いでは紅白別れての戦いだったと言うこと。運動会で紅白に別れるというのは、こういう習俗的なところが受け継がれているのだろう。紅葉を楽しみながら再び源平池方面に歩を進める。この辺りは紅葉がピーク。神苑ぼたん庭園は休園中であるとの表示が。畠山重忠邸址の石碑は、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を出たところに建てられていた。『吾妻鏡』の建久10年(1199年)の条には、「畠山次郎重忠の南御門宅」とあると。畠山重忠は、源頼朝に仕えた武将。頼朝の挙兵時には大庭景親に従ったが、間もなく頼朝に従い、頼朝の鎌倉入りでは先陣を勤めた。宇治川の合戦では、おぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといい、一ノ谷の合戦のひよどり越えでは、愛馬を背負っておりたという伝説が残ると。段葛の造営や佐助稲荷神社の建設に力を尽くしたが、頼朝死後、北条時政に騙され武蔵国二俣川(横浜市旭区)で最期を遂げたと。店の前庭の休憩場所には真っ赤な大きな蛇の目傘が。ここに座って暫し休みたかったが・・・・。源頼朝の墓所入口に到着。 建久9年(1199)12月27日源頼朝は、御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬したのだ。その落馬が原因で、翌年の建久10年(1199)1月13日に53歳で亡くなり、大倉法華堂跡(現在の白旗神社)に葬むられたと。ややピンボケであるが、歌碑には「君出でて 民もしづまり 九重の塵も おさまる世とはなりけり」と書かれていた。歌は明治時代から昭和時代にかけての歴史学者、大森金五郎の作であると。現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあり、江戸時代に島津氏によって建てられたもの。建久6年(1196)から頼朝が亡くなった正治元年(1199)までの3年間、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けている(仏事の記録はあり)のだと。そして頼朝の死は謎に包まれていると言われているのだと。源頼朝の墓 説明板。法華堂跡 石碑。法華堂跡は、大倉幕府跡の裏山にある源頼朝墓を中心とする史跡。治承4年(1180年)に平氏との富士川の合戦の後、鎌倉に戻った源頼朝が、鶴岡八幡宮の東側にある大蔵郷に建てた館が、大蔵御所でありこれが大倉幕府跡。法華堂とは、1189年(文治5年)、源頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂のこと。持仏堂は、頼朝の死後「法華堂」と呼ばれるようになり、現在、源頼朝墓が建てられているこの場所が法華堂の跡だといわれているのだ。源頼朝の墓へは、大倉山の南につくられたこの石段を上って行った。50段以上はあったのではないか。源頼朝の墓は大倉山の斜面の常緑樹を背景として、静かに佇んでいた。ボランティアと謂うオジサンから暫し源頼朝の墓についての説明を聞くが写真は写さないで欲しいと。法華堂跡(現在の白旗神社)と源頼朝の墓は、1927年、それぞれ国の史跡に指定された。その後、文化庁では調査の結果から法華堂と源頼朝の墓は同じものだった可能性が高いと判断し、範囲を少し広げて、2000年1月の官報で「法華堂跡(源頼朝墓)」とすることを発表したと。もしかしたらこの墓は単なる「記念碑」であり、源頼朝は法華堂跡すなわち白旗神社の地下に眠っているのかもしれないとも。高さ186cmの五層の石塔には多くの花が左右に手向けられていた。階段を下り左に曲がって進み島津忠久、大江広元、北条義時の墓に向かう。 南側から墓へ通じる階段を上る。鎌倉市雪ノ下3は鎌倉時代に大倉御所があり、その北側に源頼朝を葬った法華堂があった。寺院の堂舎は残っていないが、江戸時代に薩摩藩が再建した頼朝の墓があり、その東側の平場が第2代執権北条義時の墓所とされ、更にその奥の斜面に大江広元・季光、島津忠久の墓がある。左側が毛利秀光(伝大江広元の子),中央が大江広元,右が島津忠久(伝源頼朝の子)の墓と言われている。毛利季光墓毛利季光は、大江広元の四男。季光はその四男で毛利氏の祖である。相模国毛利庄を父から受け継いで毛利氏を称し、自身の武功によって安芸国吉田荘の地頭職を得た。ただ、季光は妻の実家である三浦氏の反乱に与して自害している三浦泰村の妹を妻とし、宝治合戦では三浦方につき、三浦一族と共に源頼朝の法華堂で自刃した。季光の娘は北条時頼の正室となっていたが、戦後離別したという。季光の墓は、1921年(大正10年)、鶴岡八幡宮西側の鶯ヶ谷の山にあったものが移されたといわれている。大江広元墓の石碑。大江広元は、源頼朝の政務の側近として「政所別当(長官)」を務めた人物。大江広元・季光、島津忠久の墓は崖に穿たれた石窟の中で、階段は下から別々にあるが、墓は同じ形式で3基並んでいた。島津忠久墓島津忠久は、九州島津氏の祖で、源頼朝の子ではないかとされているが定かではない。江戸時代には、島津藩主や家臣が墓参したという。現在の墓は、1779年(安永8年)に修造されたもので、源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したものであると。墓から階段を降ると平場になっており、右側にやぐらが。中には墓石らしき物と共に、『三浦若狭守泰村外一統五百余人』と書かれた卒塔婆が立っていた。三浦若狭守泰村は、宝治元年(1247年)の宝治合戦で、北条軍と安達軍の前に大敗し、妻子一族郎党と共にこの鎌倉の法華堂で自害して果てた人物。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンク銭洗弁財天を後にし、坂を下り右手に折れ更に進むと左手にあったのが佐助稲荷神社(さすけいなりじんじゃ)・下社。下社の内部。祭神は宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、佐田彦命(さるたひこのみこと)、大宮女命(おおみやひめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。下社の横にあるのは十一面観世音菩薩が安置されている小さな祠。縁結びの神様であると。徳川時代、足柄郡の尼寺から縁あって当地に安置された木像十一面観音は、良縁にうすく諦めて仏門に入られた美しい尼姫君、赤松幸運(あかまつこううん)がこの世の若い男女に良縁あらんことをと祈りつつ彫られたと伝えられていると。更に真っ直ぐ進むと参道には数え切れないほどの朱色の鳥居が続いていた。鳥居は、神様の世界と人間の世界の結界の意味があり、朱色は魔除けの色とされ、多くの神社仏閣で用いられているのだ。異空間へ迷い込むが如し幻想的な光景。拝殿前の階段の両脇には佐助稲荷神社と書かれた幟が。社伝によると、平治の乱後に伊豆に配流された源頼朝の夢に、この神社の神霊が現れて挙兵を勧め、「前右兵衛権佐」だった頼朝を助けたため、この名が付けられたと。手水舎。佐助稲荷神社 拝殿。源頼朝を歴史的快挙に導いたという伝説から、鎌倉の最強の「出世稲荷」と言われているのだと。私もしっかりとお参りしては来ましたが??・・・・時遅し!!拝殿横にはこれも数え切れないほどの小さな狐様が奉納されていた。狐は穀物が実るころ、山から下りてきて人里に姿を現したので、神様のお使いとされたと言われているのだと。本殿に上る階段の横には真っ赤な幟がこれも両脇に。この階段の先には年代の古い稲荷様とお社が並んでいた。こちらも苔と稲荷様と銀杏が風景に溶け込んでいて、独特の雰囲気を感じられたのであった。拝殿の右奥にあるのは泉狐霊。霊狐泉のある稲荷山は、古くから麓の田畑を潤す水源であり、里人は、この生命の湧き水を「霊狐の神水」と呼んだのだと。拝殿脇の右階段を上り小さな本殿へ。本殿前にも無数の狐様が。苔むした岩に鎮座する可愛らしい狐様。拝殿前から朱の鳥居がトンネルの如く並ぶ参道を見る。いったい鳥居の数は?今も増え続けているのであろうが。佐助稲荷神社を後にし、民家の脇を歩いて行くと赤い実が撓わに付いたピラカンサスの巨木が。このトンネルの先は?この先の隧道が出来る以前の旧隧道か?紅葉を楽しみながら歩を進める。佐助隧道を歩く。そして鎌倉歴史文化交流館に立ち寄る。ここを訪ねるのは初めて。鎌倉歴史文化交流館入口。 企画展「甦る永福寺」を楽しむ。(館内は撮影禁止)。『永福寺は、奥州合戦等で命を落とした源義経や藤原泰衡らをはじめとする諸霊を供養するため、源頼朝が建立した寺院です。壮大華麗な大寺院として隆盛しましたが、室町時代の火災以降は再建されず、のちに廃寺となってしまいました。史跡永福寺跡の発掘調査は、昭和56年度に試掘調査を開始して以来、平成19年度まで長きにわたり実施してきました。その結果、それまで幻であった永福寺の姿が明らかとなりました。二階堂・阿弥陀堂・薬師堂が複廊で繋がり、翼廊・中門・釣殿といった寝殿造り風の建物と一体の建物群を構成していること、建物の前面には大きな池があり、橋が架けられていたこと、周囲の山にも人の手加わり、堀切や経塚がつくられていることなど、多くのことが解りました。』(上記と下の写真は鎌倉市HPよりの転載) 発掘調査の成果と最新のCG技術で再現された永福寺大伽藍は平等院鳳凰堂の如し。歴史文化交流館の庭の紅葉。ツワブキ(石蕗)の黄色の花も。葉は蕗(ふき)に似ている。名前は”つや”のある葉から”つやぶき”。それが変化して「つわぶき」になったのだと。そして次に鎌倉・鶴岡八幡宮に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク樹木の根が露わになった山道を上り切り、坂を下った場所にあったのが葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)。 葛原岡神社は、後醍醐天皇の側近・日野俊基(ひのとしもと)を祀る神社。明治天皇が日野俊基に従三位を贈り、1887年(明治20年)に創建された。日野俊基は荒廃した鎌倉幕府を倒すため、後醍醐天皇を中心としたクーデターを計画するが、事前に計画が漏れ、ここ葛原岡で切られることになった。現在では由比ガ浜地区の鎮守(ちんじゅ)として人々の信仰を集めていると。奥に本殿が。 手水場。魔去ル石葛原岡神社の「魔去ル石」は、「かわらけ」に魔が去るように願をかけて投げつける石。「魔が去る」が転じて「勝る」につながり、幸せを勝ち取ることができるという。藤原仲能の墓の碑。「此処は道智塚或は阿古耶尼(あこやに)の塚と伝へられしも 海蔵寺伝に拠り 藤原仲能の墓所と考察せらる 仲能は従五位下前能州大守にして鎌倉幕府評定衆たりしが 後年 海蔵寺中興の大檀越(檀家長)となり 建長八年(1256)十二月九日寂し 道智禅師と称(たた)へられしものの如く 其位牌同寺に現存す」意味は「この場所は、道智(どうち)の塚または阿古耶尼(あこやに)の塚であると伝えられていますが、海蔵(かいぞう)寺の伝えによりますと、藤原仲能(なかよし)の墓と考えられます。仲能(なかよし)は、鎌倉幕府の重臣でしたが、その後、海蔵寺の発展に尽くしました。 1256年12月9日死に、道智禅師と言われたらしく、その位牌(いはい)がこの寺に現存しております。」合鎚稲荷神社(あいづちいなりじんじゃ)。鎌倉時代の鍛冶職人(刀工)、五郎入道正宗に縁のある稲荷社だと。戦国時代、正宗の子孫は北条氏綱から無量寺ヶ谷に土地を与えられ、そこを屋敷とした。その屋敷跡とされる場所に大正時代に建てられたのが合鎚稲荷社だと。2013年(平成25年)に葛原岡神社へ移された(現在の建物は新たに造られたもの)。縁結び石縁結びの利益があり、良縁に恵まれるとされる「縁結び石」は平成22年冬に良縁の願いを広く叶えるために右「男石」、左「女石」に御霊をお迎えして祀ったと。社務所で縁結びのお守りを授かると赤い糸のついた五円玉が頂けると。それを自分の手で縁結び石のしめ縄にしっかりと結びつけるようだ。神社境内近くの公園の紅葉も見事。陽光が射し込み朱のカオスの世界を。銭洗い弁財天方面に向かうと右側にあるのが葛原岡神社の祭神である日野俊基の墓。日野俊基は、1324年(正中元年)、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。この時俊基は許されたが、資朝は翌年佐渡に流された。後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったと。1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年6月3日、葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂のここ葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流されたのだ。 「俊基朝臣墓所」と刻まれた石碑。ここは源氏山公園内。源氏山は白旗山または旗立山とよばれたこともあるようだ。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂切通し(けわいざかきりどうし)が。元弘3年(1333)5月18日、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道である。わずか80m程の坂道であるが幕府軍の抵抗は激しく、新田軍は、4日後の21日になっても突破できなかったと。化粧坂切通しは、鎌倉七切通しの一つで、武蔵方面から葛原が岡を通って鎌倉へ入る切通し。現在でも現役の道であるが、もちろん!!舗装はされていなかった。源氏山公園広場に到着。源頼朝像。平安時代の、後三年の役(1083~1087)に源頼朝の先祖である源頼義(八幡太郎)は、陸奥の豪族・安倍氏の討伐に出陣。その時、ここ源氏山の山上に白幡を立てて、氏神の岩清水八幡宮に戦勝を祈願し、出征した。源頼朝も此れに習って、平家追討の時、この山頂で、源氏の戦勝を祈願したと言われていると。昭和40年に出来たこの源氏山公園。桜(4月)、紫陽花(6月)、紅葉・さざんか(11月)の時期が美しく人気の公園である。それにしても優しい顔の源頼朝像なのであった。源頼朝像の先の高台のモミジは紅葉の真っ盛りであった。暫し紅葉の風景を追いかける。サザンカもモミジ葉を背景に。紅葉のプロセスが解る姿。朱の滝の如し。ピンクのサザンカの花も青空に映えて。そして坂を下って行くと右手に銭洗弁財天入口が。 銭洗弁財天宇賀福神社は、お金を洗うと何倍にも増えて戻ってくるといわれる霊水「銭洗水」が湧く神社。銭洗水は境内の洞窟(奥宮)で湧き、ご利益にあずかろうと多くの参拝客が訪れる。 また、弁財天の縁日である巳の日は特にご利益があるとされ、一段と賑わいを見せる。平安末期、鎌倉は災害が続き貧困にあえぐ庶民のために,源頼朝が世の救済を祈願した処。巳の年の文治元年(1185)の巳の月、巳の日の巳の刻、宇賀福神から「この地に湧き出す水で神仏を供養せよ、そうすれば天下泰平の世が訪れる」と源頼朝の夢にお告げがあり、そこで源頼朝はこの地に社を建てて宇賀福神を祀った。その後、世の中の混乱は収まったと伝えられている。この話が発展していつの頃からか、その霊水でお金を洗うと倍になると言う信仰が生まれた。鎌倉五名水の一つである。洞窟の口もとに社があり、社は宇賀福神で洞窟の中の社は銭洗弁財天。四方を急峻な崖で囲まれており、入り口は隧道になっている。銭洗弁財天 境内案内図。奥宮への入り口 。宇賀神と弁財天が祀られている洞窟前のお参りどころ。本宮。日本神話に登場する水の神様・市杵島姫命が祀られていると。大きな外置屋根付香炉からは線香の煙がモウモウと。奥宮。宇賀神と弁財天が祀られている洞窟。ここで湧き出る霊水は「銭洗水」と呼ばれる鎌倉五名水のひとつ。この水でお金を清めると、心の不浄も清められ金運上昇のご利益があるとされている。また、洗ったお金はすぐに使うほどご利益が大きいとも。弁財天の縁日である巳の日は特にご利益があるとされ、一段と賑わいを見せると。子供達が楽しそうにお金を洗っていた。私???も持ち金全部を。七福神社。商売繁盛のご利益があると。さらにその奥に見える社は、下之水神宮。この地から湧き出る霊水の守護神として、「水波売神(みずはのめのかみ)」という水の神様が祀られていると。社の脇には、岩壁から水が湧き出ていた。一条の滝・滝口をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.27
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