全5件 (5件中 1-5件目)
1

カネノナルキの花がだいぶ開いてきました。蕾は11月頃からついていますが、花がポツポツ開き始めたのは1月になってからだったと思います。とにかく長い時間をかけて少しずつ咲いていきます。短命のサボテンの花とは対照的な咲き方です。それにしても、デッカくなったもんだ。行きつけの理髪店の店主から5、6年前にいただいた頃はまだほんのちび助だったのが、いつの間にかここまで大きくなってしまいました。露地植えにすると、最大で3メートルほどにもなるそうです。それくらい成長力のある植物なので、ある程度の大きさになったら、こちらでうまくコントロールしてこれ以上丈が伸びないようにしていかなければなりません。さて、名前も見た目もまさに樹木のようなカネノナルキですが、実はこれ、多肉植物です。葉をつまむと肉厚でプニプニしているのですぐわかります。多肉植物というのは、「葉や茎、または根の内部の柔組織に水を貯蔵している植物の総称」です。カネノナルキはベンケイソウ科クラッスラ属の多肉植物で、南アフリカ東部が原産地です。というわけで、サボテン類と同様、あまり水を必要としません。特に、花を咲かせようと思えば、夏に水を控えて乾燥気味に育てる必要があります。とにかく、真夏日だろうが猛暑日だろうが、水をやりたくなるのをぐっと我慢して、極限状態のまま放ったらかしにしておく、これが花を咲かせるコツです。 笑え、それってイジメじゃないですか?まあ、それに近いかもしれませんね。でも、水をやりすぎると、葉を茂らすことにばかり集中してしまうんですよ、こいつらは。だから、わざと日干しにして、子孫を残そうという気にしてあげないとダメなんです。えー、ホンマかいなー。たぶん、ホンマです。 笑まあ、植物の育て方も種によってまちまちってことです。もちろん、個体差というのもありますから、何ごとも十把一からげというわけにはいかないという話です。そう、そう、個体差ということで言えば、ウチの成金君はどういうわけか、ピサの斜塔のように傾いていますね。いつ頃からこうなったかはわかりません。最初の植え替えの時に、少し斜めに植えてしまったのかもしれません。植物は人に文句も言えませんから、植えられた時の状態から伸びていくしかないんですよね。でも、うまいことバランスをとって葉を茂らせています。まあ、自然のものっていうのは、もともと曲がったり傾いたりするものではありますよね。そういう意味では、この成金君の立ち姿もなかなか風情があるように思えるのですが、いかがでしょう。今年もちゃんと梅の枝に梅の花が咲いています。自然って偉いですね。梅の枝にサツキの花が咲いたりはしません。先月だったか、養老先生がTVで、「去年までミカンの葉を食べていた幼虫が今年は柿の葉を食べるということはないし、アブラゼミが今年はニイニイゼミのように鳴いてみるかというようなこともない」というふうなことを言っておられたのを、今ふと思い出しました。そうなんですよね。年によって花数が多い少ないとか、花の大きさが若干違うとか、そういう変化はあっても、さすがに梅の枝に他の花が咲くことはないんですよね。そういう当たり前のことをしみじみかみしめながら、毎日梅の花を眺めております。花に飽きたら枝に目を移します。光線の加減でゴールドやシルバーに輝く枝もなかなか見応えがあります。後はいろんなアングルを試して遊びます。でも、写真に撮ると何故かいつも同じようなものが出来上がってきます。そりゃそうだろう。だって、梅を撮ってるんだから。 笑そうか、梅の枝は梅の枝の如く伸びて、梅の花は梅の花の如く咲いているって話だもんな。
2023.02.23
コメント(0)

エリオット・ポーター 西脇順三郎の詩は人文系の知識(特に文学、思想、芸術)がある程度ないと読めないと思われているかもしれませんが、そういうわけでもないんですよね。この人の詩の中には植物の名前や人名、地名などがたくさん出てきますが、それらをチェックするだけでも楽しめます。地名がよく出てくるのは、「散歩の詩人」と称されるだけあって、この詩人があちこちを歩き回っていたからです。歩き回りながら見たり聞いたり感じたり考えたりしたことを題材にし、それにデフォルメを施して詩にしてしまう、というのがこの詩人のスタイルではないかと思われます。ここ最近で読み返した詩の中にも、のっけから地名が出てくる詩があったので、それをちょっと取り上げてみます。カンダは天国に近くさびしい人間の世界の終わろうとするところだ植物になりかけの人間ばかりのようだこれは「天国の夏」という長編詩(243行)の冒頭の部分です。もうこれだけで西脇順三郎のファンはメロメロになりそうなくらい完璧な出だしです。 笑この後の240行を読むと、出だしの3行がいかに上手いかがわかります。正直な話、若い頃はピンとこなかった詩ですが、自らが齢を重ね、まさに「植物になりかけの人間」になりつつある今となっては、そのよさが身に染みて感じられるようになりました。「植物になりかけの人間」というのは物欲の乏しい人という意味です。西脇先生から見ると、カンダの古本屋街をうろつく人はそういう人たちばかりなんですね。あの物欲を笑ったヘブライ人は物質に貧乏な乞食こそその心はすばらしく富んでいる ハテ ホティそれは? 天国はかれらの物であるからと山の上でまず囁いたというわけで、「植物になりかけの人間ばかり」がうろつくカンダは天国に近いわけです。その天国に近い煉獄のような神田界隈をうろつき、あるミズーリ人に贈る古本を摘みながら(物色しながら)、西脇先生は盛んに諧謔の衰退をぼやきます。君の機智の諧謔は人にはわからないこのカンダのふるさとでどじようを食う人たちだけが君の死を悼むのだこのへんになると、少し文学の知識が要求されます。たぶん西脇先生は荒地派のメンバーたちと神田の料亭かどこかでどじょうを食いながら、このミズーリ人に哀悼の意を捧げたのでしょう。さて、このミズーリ人って誰だ?「荒地」でピンときた人もいるかもしれませんが、これはミズーリ州セントルイス出身で、のちにイギリスに帰化した ノーベル賞詩人、T・S ・エリオットのことです。西脇先生は同時代人であるエリオットやジョイスにかなり刺激を受けていたようです。というわけで、この詩はそのエリオットへの追悼詩なんです。だから、カンダという舞台と天国という見立てが採られているんですね。(天国や煉獄はダンテ経由でエリオットにつながる)なあーるほど。 笑でもこのふるさとはすべての老人が休むにはいいところだ物欲の稀薄な人々のブルガトーリオだ死が君の名声や栄光をなくしてくれたから君は裸でこのすばらしいふるさとに浮き上つて休みに来てみたまえ君のキザなコクテール・パーティなどは茄子の皮よりはまだ価値がないでもこのふるさとは永遠に直結しているこのふるさとにきてみたまえいい加減なカンダガワが流れている今回、この詩を読み返して一番笑ったのは、この「いい加減なカンダガワが流れている」という一行です。マジで爆笑しました。これがあるから西脇詩はやめられない。この手のジョークも先生の得意技なんです。さて、最後にもう一つ。かつて、萩原朔太郎の娘である萩原葉子が父朔太郎と西脇順三郎についての話を披露する中で、こんなことを言っています。いつも現実以外のことを考えている。第四次元の世界を考えているような感じでね、何考えているのかは本人しかわからない。西脇先生もそういうところあったわ。(中略) 人間と言うよりほかの世界から来た人の感じ。(笑) この人物評はかなり当たっています。鍵谷幸信の『詩人 西脇順三郎』などを読むと、この詩人の浮世離れぶりがよくわかります。また、その詩の中にも、異次元チックな視点が随所に現れます。そう言えば、先程の「天国の夏」でも、「地球つてあまりいいところでない / なにしろ住みにくいところだ」などとこぼしておられます。 笑明治生まれの人にしては、ちょっと異質な感覚です。ひょっとしてこの人、元祖スターシードだったのではなかろうかと思えることもあります。 笑次にあげる一節なんかも、明治生まれの人が80近くになって書いたものとはとても思えません。 笑ある輝かしい晩のこと世田谷のはずれにあるモナカ屋のおばあさんは笑つてやつと言つた ー「人間なんざまるでばかみたいないきもので自分たちが宇宙人だということをまるで知つていないんだべこの生ぐさい天体に巣を食つて社会という新しい神の世界で人間は自分たちの生存競争にすべての瞬間を無意識に使つているんだよ(『壤歌』より)
2023.02.13
コメント(0)

エリオット・ポーター 仮に西脇順三郎の詩が難解でとっつきにくい印象を与えるとすれば、それは彼のほぼすべての詩に散りばめられた引喩が主な要因ではないかと思われる。実際、わが国で西脇順三郎ほど夥しい引喩を駆使して詩を書いた人はいないのではないか。そういう意味でいうと、この人は空前絶後、唯一無二の詩人と言える。ちょっと待て、その引喩っていったい何やねん?そうだよね、まずそこからだよね。引喩 ( allusion ) というのは「有名な人、場所、出来事、文学作品、芸術作品などを直に述べるか、それらについて言及する修辞技法のこと」である。わかりやすいように、ここで西脇先生の「リムボウ」という詩の中から実例をお見せしよう。ダイヤの指環を十本の指にきらめかすこのおつさんのアヘンの哲学は水道の土手の上の夜の星の間を散歩する別に引喩が入っていることなど知らなくても、「ダイヤの指環を十本の指にきらめかすこのおつさん」という表現はそれだけで十分面白いよね。いったいそれってどんなおっさんなんや?って感じで。実はこれ、ポーのことを言っているらしい。『西脇順三郎全詩引喩集成』(新倉俊一 著) によると、英小説家オルダス・ハックスレーは、彼の詩のことを「ダイヤの指環を十本の指にはめているようだ」と評した、とある。たぶん、きらびやかな技巧を見せびらかし過ぎることを皮肉っているのではないかと思われるが、西脇先生はこの言い回しを面白がって引用しているわけだ。もう一つ、同じ詩の中からピックしてみる。これを予言してアビシニアのリムボウへにげて行く男をみよポー然としてボーをすててヨーロッパをすててステテコすがたで岩の上にはだしで立ってこちらを見つめている男をああパパイアックス!こちらも引喩がどうのこうの言う以前に、まず笑っちゃうよなあ。「ポー然としてボーをすてて/ ヨーロッパをすててステテコすがたで」などというジジイギャグが明治生まれの80歳を過ぎた爺さんの脳髄から平然と飛び出してくるなんて、もうそれだけで感涙ものである。 笑「ポー然として」というのは、文字通り「ポーのように」ということで、「ボー」はボードレールのことらしい。では、この「男」というのは誰か。「アビシニア」と「ヨーロッパをすてて」という語句でピンときた人は割と文学通かもしれない。そう、これは20歳で詩を捨ててアフリカに渡ったランボーのことを言っている。おそらく西脇先生は下の写真を見ていたのだと思われる。これは世界に衝撃を与えたアビシニアのランボーの写真である。たしかに「岩の上にはだしで立って/ こちらを見つめている」。それにしても何という変わりようか!あの美貌の天使が別人を通り越して野獣のような面構えになっているのは驚きである。でも、それ以上に驚きなのは、西脇先生がこのランボーのズボンを「ステテコ」に見立てたその感覚ではないだろうか。凄い! 笑以上の例からもわかるように、西脇先生の引喩は概ね冗談を言うための手段として機能しているケースが多い。そして、『近代の寓話』以降、東洋的空無の思想に傾斜していくにつれその傾向が強まっていく。そんな中、弟子のひとりである鍵谷幸信が言うには、67歳頃から西脇先生は盛んに芭蕉のことを語るようになったらしい。では、いったい芭蕉の何が西脇先生を惹きつけたのか。まずは、彼が書いた「はせをの芸術」という芭蕉論の中の一節を読んでもらいたい。「芭蕉の芸術の本質は俳道である。俳するということは冗談をいうことである。彼はいつも自然詩の中で冗談をいう。だから芭蕉の詩はいつも自然詩と俳とが融合して一つのものになっている。それがためにも句の文意が曖昧になって、芭蕉の句を解く人の頭を乱すのである。」要するに、芭蕉というのは自然詩人であると同時に俳人(=諧謔の詩人)であり、その本質は「俳の精神」、すなわち諧謔なんだということを西脇先生は力説する。萩原朔太郎が蕪村を「抒情」という色眼鏡で見たように、西脇順三郎は芭蕉を「諧謔」一辺倒で論じ尽くす。わび、さび、しをり、細みなどはほとんど顧みず、ひたすら諧謔だけで押し通すその熱意は、ある意味あっぱれである。しまいには、この人の言うように、「古池や…」も「旅に病んで…」も笑いの句に思えてくるから不思議である。そして、ふとこう思う。あれ?ひょっとして西脇先生、芭蕉のことを論じながらご自分のことを話しておられるんじゃない?まあ、でも、ふつう詩人ならどうしてもそうなるよなあ。そして、ぽろっとこんなことまで漏らされたりするのである。「芭蕉の俳の芸術は、パロディの諧謔でもあった。私などの経験でもパロディ(人の文学からもじって詩を書くこと)はおもしろうておもしろうて、淵明のいう忘憂物よりはるかに楽しいものである。エリオットもジョイスもそう感じたのだと思う。芭蕉もそうだったのだろう。着想とか「ふまえる」とかいうような上品なことばで表現できない、もう少し痛烈な肉体的な楽しみであったに違いない。」ここには実作者にしかわからない本音の部分がむき出しになっていて面白い。これをもっとワイルドに言うとこうなる。「パロるのはめっちゃ楽しい。酒なんて目じゃないぞ。体がシビれるくらい楽しい。芭蕉だってきっとそうだったに違いない。体験者の俺が言うんだから間違いない。」 笑というわけで、西脇先生が「詩の本質は諧謔である」と言われる時、それは普遍的なことを述べていると見せかけて、実は先生にとって理想的な詩のありようを語っている、と受け取った方がいいのではないか。なんだか、そんな気がする。僭越ながら西脇先生になりかわって敷衍すればこういうことになる。詩想というのはね、名利栄達物欲の世界の外にある何かを面白がることから生じるんだよ。そして詩を書くことの醍醐味ってのは、引喩を使いこなして冗談を言いながら憂さ晴らしをすることに尽きるんだよ、君。あの世で西脇先生が微妙な苦笑いをされているような気もするが、当方の貧相なオツムでは、このくらいの理解が精一杯というところか。
2023.02.12
コメント(0)

エリオット・ポーター 西脇先生の詩を初めて読んだのは、たしか高校生の時だったと思う。国語の教科書に「皿」が載っていた。『Ambarvalia』という詩集に収めてある「ギリシア的抒情詩」の中の一編である。黄色い菫が咲く頃の昔、海豚は天にも海にも頭をもたげ、尖つた船に花が飾られディオニソスは夢みつゝ航海する模様のある皿の中で顔を洗つて宝石商人と一緒に地中海を渡つたその少年の名は忘れられた。麗かな忘却の朝。これを読んだ時は空気が一変したような気分だった。それこそ湿っぽい日本の気候が急にカラッとした地中海性気候に変わったような。 笑あるいは、異空間から美の女神が突然脳天目がけて垂直的に降下してきたような。 笑うーん、なんちゅうか、本中華、それほど真新しいイメージだったということ。そして、あれから50年近く経った今これを読んでも、やっぱりええなあと思う気持ちに変わりはない。まったく古びてないのである。この新鮮な感動をそのまま冷凍保存しておきたい気分にあえて抗って、余計なことをちょっとだけ呟いてみる。「皿」を読んで、もう少しこの詩の世界に踏み込んでみたい人には、Barbaroi ! というサイトを覗いてみることをお勧めしたい。西脇順三郎の「皿」で検索すればすぐみつかる。下の写真が目印。皿というのは実はこの古代ギリシャの酒杯(キュリュックス)のことなんだよね。この図柄から西脇先生はインスピを得たみたい。上記のサイトには、この詩の構図が、皿<船<地中海というふうに入れ子になっているという説が紹介されている。つまり、この詩は空間的にも時間的にもズームアウトの手法で読み解けるということらしい。また、少年=ディオニソスという暗示もなされている。はい、ここまでが初級レベル。さらに踏み込みたい人には、『評伝 西脇順三郎』(新倉俊一 著)をお勧めしたい。この本の中には、西脇先生が慶應大学の留学生として北野丸に乗ってイギリスに渡った時のことが詳しく書かれている。それによると、西脇先生はカイロで船に乗り込んできた「ギリシャ人の宝石商人に執拗につきまとわれて、地中海をわたり、やっとロンドンで別れた」とある。面白いなあ。ちゅうことは、少年=西脇順三郎ということになるのかあ!これに初級レベルで身につけた知識を加味すると、なんと、なんと、西脇順三郎=少年=ディオニソスちゅうことになったりするのかあー?に、に、西脇先生って、ディオニソスだったんだあー。笑はい、ここまでが中級レベル。さらに高みを目指したい人は、西脇先生の『古代文学序説』などを読むといいのかもしれない。ここまでくると、「もう勝手にしてー」というレベル。当然私も読んだことないので、なんとも言えないが、軟弱者用としては、「ディオニュソスとスサノヲ : 西脇順三郎と折口信夫」(安藤礼二)という論文がネット上で読めるので、そちらをお勧めしたい。それによると、ディオニュソス=スサノヲ=オシリスということになり、ぐるっと回って結局、西脇先生のいう「幻影の人」に落ち着いたりしてしまう。 ナンジャラホイで、ふうー (疲れた)。 笑こんなふうに紹介すると、「西脇先生って、古代ギリシャが専門の人?」と勘違いする人もいるかと思うが、そういうわけでもないんだよね。たしかに古今東西を自在に飛び回る人ではあるけど、メインはやはり近現代の英文学ではないだろうか。そっち方面の香りを楽しみたい人には、『近代の寓話』以降の詩をお勧めしたい。ただ、西脇先生の詩って、だんだん長くなっていくので、ピークと称される「失われた時」なんかは、なかなか紹介しづらいところではある。でも、大丈夫。この前、いいものを見つけてしまった。松浦寿輝さんがある講演会で話された内容を16ページ分の文章にした「現代詩 ー その自由とエロス」というタイトルのウェブページがあるが、これはなかなかの優れものである。手っ取り早く現代詩の美味しさを味わいたい向きには最適この上ないテキストではないかと思う。取り上げてある詩人は、ランボー、萩原朔太郎、西脇順三郎、谷川俊太郎の四人。西脇先生は10ページ目あたりで登場する。話は「失われた時」のラスト5ページ分くらいを例にとって進められるのだが、さすがに「西脇順三郎の詩が大好き」とおっしゃるだけあって、説明がお上手。興味のある方はぜひ覗いてみてほしい。全文をまるごと転載するのは無理なので、ここでは、西脇先生のスタイルの特徴をよくまとめた文を二箇所ピックアップしてみる。「この人の日本語は何とも融通無碍なもので、何を書いてもいいという言い方を先程しましたけれど、まさにそれを実践してしまったのは西脇順三郎です。ほとんど何も頭になくて、とりあえずペンを握ってみる。そこで頭に浮かんだイメージ、よみがえってきた記憶の切れ端、その瞬間にたまたま聞こえてきた会話の断片、とにかく何でもいいからもうどんどん書いていってしまう。」「この『失われた時』なんていう詩は、話のつながりはよく見えないのですが、読んでいくと何か滔々と流れてゆく豊かな言葉の流れ、豊かなイメージの流れに身をゆだねて、ずっと漂い流れてゆくような気がしてきます。そうした意味で、読み手に非常な快楽を味わわせてくれる詩でありまして、(以下省略) 」うん、よくわかる。「失われた時」のラストは特に水尽くしみたいなものなので、余計にそんな感じがするけど、他の長い詩を読んでいても同じような体験をすることがある。不思議な連結の文が牛のよだれのようにだらだらと続いていき、意味はほとんどわからないんだけど、なんか心地よい、なんか面白いと感じて読み続けている自分がいる。これは何かを知る喜びや、何かがわかって嬉しいという読書体験とは全く異質のもので、もっとマジカルというか、フィジカルというか、わけのわからん喜びなんだよなあ。ロラン・バルトの「テクストの快楽」って、ひょっとしてこんな感じのことだろうか、よう知らんけど。 笑ふん、そんな上等なもんじゃないでしょう。あんたのはただわからないことを快感というふうに勘違いしてるだけじゃない?グサっ、でも鋭いツッコミありがとう。いいオチができたところで、そろそろ今日はお開きとするか。残りはまた次回ということで、よろしく。えー、まだやるんかい。
2023.02.10
コメント(0)

エリオット・ポーター 一週間ほど前、久しぶりに林浩平さんの「饒舌三昧」を覗いてみたら、ちょうど西脇順三郎「フローラの旅」展の記事が投稿されていた。毎年開かれている「アムバルワリア祭」(今年のテーマは「西脇順三郎と女性性」) というシンポジウムと並行して、今年は西脇順三郎没後40年記念ということで、「フローラの旅」と題する展示会が催されているらしい。東京まで見に行く金も元気もない田舎の年金暮らしの老人にとっては、林さんのようなブログは大変ありがたい。労せずして貴重な写真を只で見せてもらえるだけでなく、解説までしてもらえるのだから。そして終いは「えてるにたす」のエンディングで締めるあたり、この人、なかなかええ趣味してまんなあ。 笑あ、ごめん、ごめん。このブログを読んでいる人のこと、すっかり忘れてた。たぶん、自分だけご満悦で、何のこっちゃと思われているんじゃないかな。これじゃあ、まるで読者を置いてきぼりにする西脇先生みたいじゃないか。西脇先生も自分が面白いと思うことだけに没頭して、その他のことは完全スルーみたいな人だったみたい。 笑でも、考えてみると、人は概して自分が面白いと思うことしか話題にできないんだよね。そして、その面白さを架空の読み手に丁寧に説明するのはけっこう面倒くさいのも確か。何が言いたいかというと、「フローラの旅」に興味がある人は林浩平さんのブログへどうぞってこと。ここはとりあえず、そのポスター写真にオマケの写真をもう一枚添えてお茶を濁すことにする。続きはまたそれから考えよう。 笑川辺信一 撮影この写真、渋いなあ。たぶん70〜75歳くらいの頃じゃないかな。散歩姿が実によく似合う詩人ではある。でも、この詩人、晩年は身近な人に「自分は詩人じゃない。学者なんだ」と繰り返し言っていたそうだ。慶應義塾大学の教授職は68歳で退いたものの、その後も他の大学で教鞭を執り続け、最終的に講壇生活を引退したのは84歳というから驚きである。とは言え、教育者として熱心だったわけでもなく、学内ビジネスができるほど世渡り上手だったわけでもないらしい。まあ、骨の髄まで学問の人であり、学者としての自負心もあったのだろう。実際のところ、筑摩書房から出ている「西脇順三郎全集」全11巻のうち、詩集は3巻あまりであり、後は詩論、文学論、随筆に当てられている。世間一般的には詩人としての名声の方が高い人ではあるが、ご本人としてはそれだけの人間と思われたくなかったのかもしれない。あるいは、詩は自らの詩論の実例として趣味で(=楽しみで)書いているだけで、それで飯を食ってるわけじゃない(=詩は仕事じゃない)という思いがあったのかもしれない。いずれにせよ、まずは学問、それから絵の腕前と詩の腕前を見てくれという気持ちだったのではないか。「先生は詩もお上手ですね」というふうに、「も」を強調して言うと、上機嫌だったらしい。 笑というわけで、私が常々西脇順三郎のことを「西脇先生」と呼ぶのは、まあ、リスペクトもあるけど、第一にはこの人が単純に大学の先生だったからなんだよね。そう言えば、慶應義塾大学が西脇順三郎の業績を讃えて設けた賞も「西脇順三郎学術賞」だったな。でもねえ、そうは言っても、やっぱりこの人は天性の詩人なんだよね。だから詩人として後世に語り継がれていくべき人ではないかと思う。そういう意味では、今年から小千谷市(詩人の生誕地)が「西脇順三郎賞」という詩の賞を新設したのはめでたいことではないかと思う。ただ没後40年目というのは、ちょっと遅すぎるのではないかという気もするが。もちろん、小千谷市が今まで西脇順三郎に関して何もしなかったわけではない。それなりのイベントやPR活動は行なってきている。まあ、今まではそれだけでもよかったのだろう。なにせ西脇順三郎というのは、昭和40年代には高校の国語の教科書に載っていた詩人である。どれだけの人がこの人の詩集を買って読んだかは知らないが、現代詩の詩人の中では抜群の知名度を誇る人なので、小千谷市の職員がそれに胡座をかいていたとしてもなんらおかしな話ではない。しかし、時は流れ、この詩人の詩をリアルタイムで読んでいた世代の人も次々に他界し、私らのような最後の世代も前期高齢者の仲間入りをしようかという今日この頃、このままいくと、この詩人の名前すら忘れられる時がそのうちやって来るのではないか、ヤバい、と彼らが危機感を抱いた可能性もある。 笑まあ、でも、そんなことはどうでもいいか。それより、最終候補に残った人の名前を見て、思わず笑ってしまった。候補者6名のうち、5人はこちらの知らない名前。(現代詩の世界では皆さん著名な方のようだが)が、笑ったのは最後の名前だった。なんと、「吉増剛造」とあるではないか。吉増剛造のおそらく最後の詩集になるのではないかと思われる「Voix」がノミネートされているのである。この賞は公募(自薦他薦を問わない)とあるので、どうやら本人あるいは関係者が応募したことになる。でも、「今さら何で?」って感じ。吉増剛造くらいの人になれば、もう賞なんていらんだろう。そんなもん、もう腐るほどもらってるだろうし、文化功労者でもあり、芸術院会員でもある人が、さらなる名誉なんて欲しがるだろうか。そう考えると、これはどうも関係者の思惑が絡んでいるのではないかと疑いたくなる。西脇順三郎というビッグネームを冠した賞の第1回目とあって、今回の選考は詩の世界ではかなり注目を集めているらしい。というわけで、栄えある第1回の受賞者には是非ともそれにふさわしいビッグネームの詩人が欲しい。これは主催者側の切なる願いではないのか。選考委員の中には吉増剛造に多大な影響を受けているとされる人がちゃんと入っているところを見ると、ますます怪しい。 笑でも、仮に万一吉増剛造が落とされるということにでもなれば、それはそれでまた面白いかもしれない。そういうことになれば、受賞者は吉増剛造を蹴落として受賞した詩人として注目を浴びるし、吉増剛造の方は詩壇の長老として話題づくりのための客寄せパンダの役を買って出た功を評価されるかもしれない。なんか野次馬根性丸出しみたいになるけど、結果発表(2/28)がちょっと楽しみやなあ。と、ここまで文字を打ってみて気づいた。ああ、もうこんなにたくさん駄文が並んでしまった。別に駄文が悪いというわけじゃない。ちょっと余計な話をしすぎたかなってこと。実を言うと、林浩平さんの記事がきっかけで、その後数日間は西脇先生の詩や随筆を読んで過ごしたので、今回はそこで面白いと思ったことを綴ってみようと思って始めたわけなんだけど…まあ、いいか。夜も更けてきたし、今回はこの辺でやめにしとこう。残りはまた後日ということでよろしく。
2023.02.10
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1

![]()