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モンシロチョウを観察する中で、何度か「さなぎ」のことが話題になる。(当然のことだが。)「何日ぐらいさなぎなのかな?」「さなぎになったら、すぐ成虫?」「いや、色が変わって・・・。」「どうやって出てくるんだろう。」その観察の途中に、一人の子どものさなぎが飼育箱のふたからとれて落ちる。ちょうど私も近くにいたので、テープを使って飼育箱の壁にさなぎを貼りつけ、次のように説明した。「本当は、落ちたらダメなんだよ。成虫になるとき、羽を乾燥させないといけないから。」この話が、他の子どもたちにも聞こえたのだろう。「えっ!」と声を挙げながら多くの子どもたちがのぞき込む。そんな中、一人の子どもが「私のさなぎも落ちそう」とつぶやく。数名の子どもが心配していっしょにのぞき込んでいるのだが、次のように会話が発展していく。「どこにさなぎがつくのかな?」「さなぎになったのを見たら、全部ふたの棒のところについていたよ。」「そうだね、全部そのへんだ。」「細い棒じゃなくて太い棒?」「この棒につきやすいんだよ。」「落ちたらどうしよう。」「ボクの幼虫、上にあがっていく。」「さなぎになりたいんじゃないの?私のも上にあがっていって、動かなくなったんだよね。」「えっ、ボクのも今、動いていないよ。さなぎになるのかな。」後日談だが、次の朝、その幼虫はさなぎになっていた。子どもたちの力はすごい・・・。
2007.06.05
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モンシロチョウを観察する。数名の子どもが育てていた幼虫がさなぎになっていて「さなぎになりました」という声があちこちから聞こえる。もちろん、まだ幼虫のままの子どもの方が多いため、「幼虫からさなぎへの変化」とともに「大きさ」「色」「形」「エサを食べる量」「動き」「ふんの量」などを視点にして観察をはじめる。「飼育箱のふたにさなぎがついていて、観察しにくい。」「ボクの幼虫も、ふたについてるよ。」「(ふたについているさなぎを)かきにくい。」「ふたを取ればいいじゃん。でも、どうしてボクの幼虫、よく動くんだろう。」「あれ、幼虫がプラスティックケースをのぼるの?どんどん上っていく。」このさなぎと幼虫が「ふたについている」ことが、後半のキーワードになる。また、観察の途中に同じグループで、次のようなことも話題になっていた。「どうして食べてばっかりなんだろう。」「食いしんぼうだからじゃない。」「幼虫って、キャベツばっかり食べていて飽きないのかな。」「ブロッコリーの葉も食べるよ。」「じゃあ、キャベツしかおいてないから?」「一人だから食べるしかないんじゃないの?」「チョウ(成虫)もキャベツを食べるのかな?」子どもたちにとっては、観察の途中の「世間話」だったのだろう。しかし、しっかりとモンシロチョウを「見ている」ことが分かる会話である。(つづく)
2007.06.05
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「オクラをそだてよう~その6」のリフレクションのつづきのつづきである。○子どもの言葉を大切にしない私 今回、授業の中で「ぼくのホウセンカは、子葉が1枚しかない」「食べられたんじゃないの?」「えっ、食べられないよ」「子葉は落ちたかもしれない」というグループでの会話を、他の子どもたちに紹介した。そのときの「紹介の仕方」を鹿毛雅治先生(慶応義塾大学)に指摘される。はじめは、「どんな話し合いをしていたのか、他のみんなにも紹介して」と、そのグループの子どもたちに促したのだが、なかなか上手く(大きな声で)発表することができなかった。そこで、代わりに私が紹介してしまったのである。そのときは「子葉ない」オクラやホウセンカがあることを他の子どもに知らせればよいしか思っていなかった。しかし、前回のblogで書いたように「子葉が1個しかない」といった子どもには、その子どもなりの自分のホウセンカに対する思いがある。その思いも他の子どもたちに伝えなければならないのである。つまり、その子どもの言葉でなければ、その思いは伝わらないのである。「上手く」発表できない子どもの代わりに紹介してしまった私。子どもの、子ども自身の言葉を、これまで全く大切にしていなかったのである・・・。○「板書が少ない」ということ 授業後、鹿毛先生から「板書が少ない」ことも指摘される。たしかに、3年生を担任するようになってから、極端に板書しなくなった。どうして板書しないのかと問われると、板書は「まとめる」ためにするものという意識が強いことが明らかになってくる。オクラやホウセンカを観察する中で、「まとめ」なければならないことは、そう多くない。オクラとホウセンカを育てる中で、いろいろなことに子どもたちは気づくが、その多くは単元の目標から考えると「プラスα」なのである。一人一人が育てている個体によっても違いがある。つまり、「まとめる」必要がないのである。「まとめる」必要がないから書かない。しかし、鹿毛先生は板書は「『学び』を可視化するためのツール」になると話された。また、加えて次のように話された。「そのときは(教師が)理解できない発言でも、黒板に書いておくことによって、後から理解できることがある。グループ活動を見まわっているときに、ふと黒板を見て『そういうことを考えていたのか』と分かることがある。」黒板を使う目的が全く違うのである。よく考えれば、その通りである。「思いがけない発言」に価値があるといいながら、その発言を板書しないというのはおかしなことである。それら発言よりも、これまでやってきた「まとめ」の方が、私にとって重要だったのである。板書に対する考え方を一から見直さなければならない。今回、たまたま鹿毛先生に授業を見ていただくことができた。ただ、授業後に話ができたのは10分ほど。しかし、これほど多くのことを振り返り、これまでの自分の授業(授業観)を見直すことができた。やはり、授業を振り返るとき、「プロンプター(語りの促進者・聞き役として授業の振り返りを支援する役割を担った人)」の役目が大きい。
2007.06.02
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「オクラをそだてよう~その6」のリフレクションの続きである。○植物をそだてる子どもの思いに寄り添っていない私 今回の授業を振り返って、次の2つの場面が印象に残った。 一つ目は、なかなかスケッチを描きだせずに「ホウセンカが難しいから」といった子どもの、そのときの「うれしそうな」表情である。なかなかスケッチを描き出すことができない子ども。どうして「うれしそうな」表情をしたのだろうか。ビデオや観察カードを見ながら気づいたのだが、ホウセンカの葉がたくさん出てきたことがうれしかったのではないか。「かきにくい」ということよりも、葉がたくさん出てきて「うれしい」という気持ちが強かったのだろう。 二つ目に、「子葉が一枚しかない」といった子どもに、他の子どもが「落ちた子葉をここに貼ればいい」といった場面である。この場面を私自身は見ていないのだが、どうして「ここに貼ればいい」といったのだろうか。「子葉が一枚しかない」子どもの観察カードを見て、その理由がなんとなく分かった。カードの気づきの欄には、「子葉が1個しかない」としか書かれていない。この子どもは、いままで大切に育てたホウセンカの子葉が落ちたことで「ホウセンカが枯れるかもしれない」と思ったのではないか。私に「子葉が一枚しかない」といったとき、どんな思いで何を私に伝えたかったのだろうか。あらためでビデオを見ると「子葉が1個しかない」ということばが「ぼくのホウセンカは、大丈夫ですか」といっているように聞こえる。「ここに貼ればいい」といった子どもは、この心配な思いを理解していたのであろう。この子どもの思いやりのある行動に「ありがとう」といった意味も理解できる。 「葉がどんどん増える」「子葉が落ちる」ことは、私にとって「当たり前」のことだが、子どもたちには違ったのである。植物を種から育て、観察を続けるときの子どもたちの思いに、全く寄り添うことができていなかったのである。「ともに植物を育てよう」ではなく、「『葉が増える』ことや『子葉が落ちる』ことを教えよう」という立場であったのだろう。佐伯胖先生(青山学院大学)の「あくまでも人間である教師は、子どもと二人称的に『あなた(YOU)として』関わる他者である」(学びへの誘い)という言葉を思い出し、心が痛む思いである・・・。(つづく)
2007.06.01
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