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ご主人を亡くしたのはあなただけではありません。そのショックは深いことも、大変なこともわかります。そういう目にあった人でなければ、その奥底の苦しみが分からないということも知っています。しかし、誰かがお世辞を使って癒してくれたからといって、宿命転換できますか。自分の力で生きていく以外ないのです。一寸先は闇です。乱暴な言い方ですが、みんな最後には死ぬのです。そういう重大事の時に、悠々と前進していけるための御本尊なのです。信心なのです。信心は感傷ではありません。堂々たる確固たる人生への前進です。いまこそ御本尊を抱き締めて生きていかなければ、信心の奥底に入ったとはいえません。 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 28, 2013
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(支部の皆さんから目つきが怖いといわれます)心配いりません。本当に真剣になった場合は、きつくなるのが当たり前です。自信をもちなさい。人にどのように見られるかではない。自分がどれだけ相手のために真剣か。 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 27, 2013
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(「冥」という字の意味を教えてください)「冥」は「冥の照覧」です。あなたがずっと、杉並での女子部時代から、あせらず、背伸びせず、人に認められても認められなくても、まっすぐ信心をやってきたことに対して、私は私なりに賞賛したのです。冥の照覧という意味です。御本尊がちゃんと見ていらっしゃる。冥ということは、因果の理法ということですね。例えば、ここに字を書いたとしよう。明るければ見える。暗くなったら見えなくなる。しかし書いた字そのものは、どんなに暗くなっても現存するのです。これが因果の理法です。(だれが見ていなくても、諸天と諸仏は見守っている。師は知っている。ゆえに、「どう見られるか」ではない。自らが「どうあるか」「どう行動したか」である) 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 26, 2013
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(一生懸命やっていますが、願いがなかなか叶わない)よく皆さんは口では"なる"と言いながら、心の中では、あまり思わない場合がある。願いは、心の奥底のものが叶うのです!"病気が治りますように"とお願いしながら、心では、治らないかもしれないな......、と思う。これが御本尊に通じてしまうのです。信心をきちっとしていれば、どんなことでも叶いますよ。厳しいようだが、叶わないのは信心をしていないのです。皆さん方の心に聞けば、よく分かるでしょう。信心が通れば、どんなことでも絶対、現証として現れます。ただ、宿業の深い人は即座に現証があらわれない場合もありますが、それでもキチンと分かるものです。何らかの形態で現象が出ます。 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 25, 2013
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(小さい子ども2人抱えているので、学会活動が大変です)グチをこぼし始めたらキリがありません。学会活動は、自分自身のためだと思って、やりなさい。(活動するのは)学会のためとか、人のためだと思うと、甘ったれた気持ちになったり、気取りが出たり、反感の気持ちが出たりするのです。そうなると同じことをやっても面白くない。それが結果としてあなたの態度に表れて、一家の中で、"活動をやりすぎだ"とか、"やれどうだ"とか、もめごとが始まるのです。自分が本気になって信心をして、やりきっていけば、一家はちゃんと収まります。御本尊に願いきっていけば、必ず変毒為薬されます。 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 24, 2013
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信心反対の夫を持った婦人は大勢います。決して心配することはありません。夫が信心していないからこそ、よけいに題目があがるのですから。1年で願いが叶わなかったら、2年にしなさい。2年で叶わなかったら、3年でしなさい。そして一家にあっては、よき妻として、よき母として、よき女性として振舞いなさい。悲愴な姿があってはなりません。明るく、朗らかにいくのです。何でも御本尊に願っていきなさい。苦しい立場で、歯を食いしばって活動してきたのですから、功徳が出ないはずがありません。 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 23, 2013
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後輩の人が心から納得できるようにしてください。みんなが納得して、座談会が終わった後は、お風呂にでも入ったような、すがすがしい気持ちで別れさせていく、それぐらいの指導力をもった幹部になってもらいたい。 師匠と弟子というのは、どこまでいっても一対一の関係なんだよ。私に直接、ぶつかってきなさい。 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 22, 2013
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仏法は勝負であるということは、生活は勝負であるということです。それは、幸福になったか、不幸になったかということです。 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 21, 2013
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「法華の慢」は許されるのです! 大聖人が仰せです! 御本尊を根本とした確信は、これはどんなに確信をもって言い切っても、「増上慢」ではないのです!したがって、御本尊に任せ、御書に任せて、広宣流布のために戦っていく自信、確信は、絶対に必要なのです! 増上慢とは、我見や、「未だ得ざるをこれを得たり」と思う慢心を言うのです。つまり、あくまでも御本尊を根本にして考えるか、自分を根本して考えるかによって違ってくるのです。 ですから、"少しでも仏法を知る人に教わっていこう""先輩について信心を深めていこう"という謙虚な心があれば、増上慢ではなくなっていきます。 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 20, 2013
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やりなさい!あなたのためにやりなさい。自分で決めたことだもの。自分の決心を行躰(修行の姿)即信心で実行しようと、そのまま行動するところに功徳があるのではないですか。そこに信心の一つの完成があるのです。1ヶ月でできなかったら2ヶ月。2ヶ月でできなかったら3ヶ月でやりなさい。自分自身が成仏する以外にないのです。御本尊に誓ったことを、一生成仏のためにやろうと決めたことを、それを自分なりにやって、初めて自分の完成があるのです。それが一念三千です。 自分はこう決めたと、それをやるのが自分の大成長、大功徳を受ける大源泉である、こう私は言い切れるのです! 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 19, 2013
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題目を唱え、折伏を実践していても、付くべき人に付かなければ不幸に終わる場合がある。それは、"学会の組織に付いていなければならない"ということです!根本は御本尊、それから大変に生意気な言い方になりますが、創価学会といえば、私が最高責任者です。中心者であります。「法」といっても、詮ずるところは「人」によって、指導され、「人」によって理解させる以外に道はないでしょう。それをするのが会長としての私の責任です。ただし、その根本は、御本尊根本という、異体同心がなければなりません。 「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」苦しくても、学会についていらっしゃい。必ず良かったという時がくるから! 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 18, 2013
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「私たちの生活の上で見れば、"もうこれでよいのだ"とあきらめたりしないで、いつも価値創造していく。人生を希望に燃えてすすんでいく。そのような生きがいのある人生、その一念が、本因妙という意味になるのです」 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 17, 2013
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「生命力というのは、あくまでもそこに幸せが含まれています。根性というのは、いい場合もあるし、悪い場合もある。"根性曲がり"ということもありますから」「信心の上で根性を持ち、信心の上で土性っ骨を持ち、広宣流布のために生命力を大性にすることは、一番、大切なことです。信心していこうという根性、三障四魔と戦おうという根性は大事です。それは生命力がなければできないことです」 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 16, 2013
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「これからは、人間革命と共に"頭脳革命"です」「"本門の時代"に形式は不要です。これからは"勝ったか負けたか"です。どんな証拠をつくったかということだけを私は問題にする。男が弁解するものではない」信心は形式ではない。なぜなら形式には中身がないからだ。心がないからだ。まして組織が形式で動けば団結がなくなる。心があわなければ勝負に勝てない。 【「本門の陣列は立つ!」】大白蓮華2012・7月号
February 15, 2013
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しばらくの苦こそ候とも・つい(遂)には・たの(楽)しかるべし、国王一人の太子のごとし・いかでか位につかざらんと・おぼしめし候(そうら)へ(上野殿御返事、1565頁) <解説>しばらく苦しみが続いたとしても、最後には必ず楽しい境涯になるのである。たとえば、国王のたった一人の太子のようなものである。どうして、最後には(国王の)位につかないことがあるだろうか、あるはずがないと確信されるがよい。 同志への指針師の心のままに、熱原の法難を戦い抜く若き後継の弟子・南条時光に、大聖人は渾身の激励を送られた。今がどんなに苦しくとも、必ず勝利する。仏にならないはずがない--揺(ゆ)るぎない大確信が「宿命」を「使命」に変える。勇気ある信心が「苦難」を「歓喜」に変える。ここにこそ、仏法の透徹した楽観主義があるのだ。 【御書とともに 名誉会長が指針を語る】聖教新聞2011・9・4
February 14, 2013
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事業の破綻という最大の苦境と戦う中で、先生は、私に学問を授けてくださった。美しい師弟であった。 試練の中で学んでこそ、学問は実を結ぶ。知識は光となる。そのことを、苦学し抜かれた先生は深く知っておられた。 "恵まれた環境だから、勉強ができるのではない。君も今は大変だろうが、すべてに意味があるんだぞ"--『巌窟王』を通して、先生は、このように教えてくださったのである。 師匠の老神父は、弟子のダンテスに、こう語っている。「人智のなかにかくれている ふしぎな鉱脈を掘るためには、不幸というものが必要なのだ」(モンテ・クリスト伯) 皆も苦しみに負けてはいかない。言うに言われぬような苦難と戦ってこそ、「智慧の鉱脈」を見つけることができる。ここに『巌窟王』の大きなテーマがある。 トインビー博士も「悩みを通して智はきたる」との古代ギリシャの詩人の言を一つの身上とされてきた。博士は戸田先生と考え方が、よく似ておられた。 「雄々しく不幸に立ち向かわれたことによって、りっぱな、強いお方におなりなのです、こうして、不幸は転じて、幸運となります」(同) 『巌窟王』の忘れえぬ一節である。仏法の「難即悟達」『難即仏』の法理にも通じる。 妙法を持った諸君は、不屈の創価の巌窟王と立ち上がっていただきたいのだ。 ◇ どんな思うようにいかぬ苦境にあっても、忍耐強く、祈りまた祈り、未来への大道を切り開くのだ。これが巌窟王の精神である。 【広布第2幕 第9回 全国青年部幹部会 全国学生部幹部会】聖教新聞08・6・11
February 13, 2013
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外交下手の者が外交をやらされたり、実務の下手なものを庶務にしたり、庶務の上手なものを他の仕事をさせるのは下手な使い方である。人を使うということは、非常に重大なことである。人というものは、使う場合を間違うと一軍の大敗を招く。ゆえに、その人に合った働き場所を与えることが必要である。戸田二代会長指導
February 12, 2013
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当今は、自ら菊となって咲きたがる人や、安直に鉢植えを買って、すましている人が多すぎるようだ。次の時代は青少年たちのものである。世の指導者たちが、自ら咲くということよりもかげで次代の担い手を育成することに、全魂を傾けるならば、どれほど美しい社会が現出することか、と思わずにはいられない。 私には、菊作りの経験はない。しかし丹精こめて見事な大輪を咲かせる信境は理解できるような気がする。手塩にかけた青年たちが、立派に成長していくのを見守っていくことを、最大の楽しみとしているからであろう。それぞれが個性豊かに存分に力を発揮し、社会に開花していくのをみるとき、それまでの苦労を忘れる菊作りの心境に相通ずるものがあると思う。「菊作り菊見る時はかげの人」とあるように、その心境はかげの人でなければわからないし、それでよいのだと私は思う。
February 11, 2013
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指導者の偉さというのは、どれだけ大勢の弟子たちを訓育したかによる。死後、その証拠として、国家のため、大衆のため、そして社会のために働く偉大な人材をそろえたかによって、指導者の偉大さは決まるのである。 人の面倒を見てあげた苦しみ、面倒を見てあげた行動、それだけが自分自身の福運に変わるのである。また、その福運は自分の子供や子孫末代にまであまねく伝わっていく財産となるのである。
February 10, 2013
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優れた指導者とは、身分の貴賎上下に関係なく、有能な人材を見いだし、その能力をもっと有効に発揮できる地位に配置する人だ。われわれは、すべての人が、その所を得て、思うがままに、社会の発展のために働ききっていける社会を建設しなければならない。 人間は、どんなことがあっても絶対に手段として用いてはならない。人材としての特性を発見し、磨き上げ、歓喜することに無上の生きがいをもっていくような幹部になってもらいたいものだ。
February 9, 2013
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一冊の本でも組違えがあると使いものにならない。それと同じように、人財も置き方を間違え、組違えると組織が死んでしまうし、それぞれの有能な人材も、殺してしまうことになる。 あくまでも、"いかにしたら境涯を開かせることができるか"と理を尽くして指導し、"どのようにしたら、広宣流布の人材として立ち上がらせることができるか""どこへ向けたら、適材適所となって信心が進むか"と、同志愛をもって本人の実践しやすいように指導することが肝要である。
February 8, 2013
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だれびとたりとも人材である、ということを念頭においた指導、育成を忘れてはならない。あの人はだめだといういき方はいけない。自分より優れた点はかならずある、それを生かしていこう、育てよう--これが人材育成の根本精神である。自分は偉くないのだ、周囲の人が、ぜんぶ自分以上の人材である、と心の底からいえる人が偉い。人材育成の基本的条件は、第一に、多少不安や力不足があっても、この人を将来立派な幹部にしていきたいと考えたならば、まず登用して、それから育成することである。第二に、人生、社会の多くの経験をとおして、指導力をつけさせていくことである。第三には、教学を身につけさせなければならない。第四に、その人の人柄であり、信頼できる人柄の人物を育てるべきである。
February 7, 2013
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ほんとうの人材を育てるのは大誠実である。テクニックではだめだ。心から人材を育てるという一念がなければならない。人材に育てようという一念があれば、そういう真心があれば、たとえ、敵対するようなことがあっても、心の奥底ではその人のことを慕わしく思っているものだ。仏法は大誠実が基調である。そうすれば、十人いて三人しか育たなくても三十人分の働きをする。技術や策で十人のうち九人育てても、それは九人分の働きしかない。そうした大誠実で祈って指導にあたっていくことが、信心即生活なのである。
February 6, 2013
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若々しい優秀な人、また、社会的に立派な人を見つけて応援する一方、多くの人々を教育し、有為な人材に育て上げることが大切である。人材を見つけ、育てられないような人は、本当の指導者とはいえない。指導者、先輩、幹部というものは、後世のために何人の人材をつくるか、見つけるか--活動の原点はその一点にしぼられる。そうでなければ、たんなる権威主義に終わってしまう。反対に、人材を見つけ、伸ばしていけば、今度はその人と一緒に楽しみながら進んでいけるのである。
February 5, 2013
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人材育成は勝利の本因妙指導者となる人物を見つけて、育てることが、一切の戦いの先手を打つ根幹になる。それが無限の未来へ向かって、たくましく成長し、たえず勝利の因をつくっていくことにもなる。これが本因妙である。 人材の育成とは接すること人材の登用というのは見つけることである。つねに会ってあげることだ。何度も何度も、楽しい対話、納得のできるような激励、これを繰り返していくことである。接することが断絶を防ぐことであり、接することによって人材が育つのだ。教育にしても教師とあまり個人的接触がないからいけないのである。人材の育成とは接することなのだ。それがすべて、しぜんのうちに人材になっていくのである。
February 4, 2013
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一人ひとりの本質人材は育成することもあるが、人材を発見することも大切である。広宣流布という目的観に立ち、信心根本に指揮をとっている場合には、"この人はまじめだ""この人はひじょうに頭がよい""この人の信心は純粋である"というように、おのずから一人ひとりの本質がわかってくるものである。 人材は見つけるもの人材は見つけるものだ。ちょうど鉱脈のなかから金やダイヤモンドを掘り出すように、まず見つけて、それから育てていくのだ。だんだんと育ててよくなる場合もあるが、原則として、人材は見つけるものである。
February 3, 2013
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人間性指導者の心しだいで、世界の人類に、善悪いずれかの影響を与えるから、指導者は人間性豊かな人でなければならない。学会が、よい人材を育成しなくてはならないのは、人々を幸福にするためには、まだまだたくさんの指導者を必要とするからである。 人材を見いだす指導者は第一にも第二にも、人材を見いだすことに、賢明でなければならない。 自分が人材たれ自分が、御本尊に照らされて恥じぬ人材でなければ、人材は見えないだろう。 仕える使われてきた人は、人を育てることはできない。仕えてきた人は、人を育てることができる。
February 2, 2013
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永遠に栄えゆく源泉人材を見つけよう。人材を守ろう。人材を育てよう。それが永遠に栄えゆく源泉だ。 令法久住の任務学会は有形の城でなく、人材の城を築いてゆくのである。それが一切の根本なのだ。私がもっとも心をくだき、力をそそいでいるのは、永久の崩れない人材の城を築くことである。これが令法久住の任務なのである。
February 1, 2013
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