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しばらくブログをあまり書く気になれなかったのだが、
そういえば、私は自分の今までの仕事遍歴について書こうとしていたのだと思い出した。
やり始めたことは最後までやらなくちゃ、と、
最後に書いたのがいつだったか見直してみると、
5月31日の日記
だった。
なんと、五か月以上も経ってしまっていた
この時に、私が精神的に煮詰まってしまって仕事をやめることになったことを書いているのだが、
もちろんその仕事をしている間に様々な思い出がある。
辛かったことも多いが、様々な障害を持った子ども達から学んだことは数限りない。
短い命を生き切った子もいれば、「三年の命」と出生時に医師から宣告され、
そのつもりで精一杯育てていたら、いつのまにか40歳を超えたという子もいる。
その多くはダウン症候群の子で、その一人のお母さんは、
高齢出産だったこともありすでに70歳を超えてしまい、
「こんなに長生きするなんて、想像もしなかった」と苦笑いしながら、
今は自分が先立つことが不安な様子。
私自身も、当時の唇真っ青な様子にハラハラしたことを思い出し、
(心臓疾患を抱えていたのだ)
枯れ枝のようなお母さんの姿を思い浮かべながら、複雑な気持ちになってしまう。
今までのブログに、この時代の思い出を書いたものがいくつかあるので、
それをここにアップしておこう。
「Yちゃん」2004年01月09日
もっと書いていないかと、過去のブログを見直したが、
自分が想像するよりブログの分量が多いので全部確認できず、
さらにその時代の子ども達のことについてはYちゃんのことくらいしか見つからない。
多分、その子ども達やその親が今も健在のため、
書きたくても書くのを躊躇したままになっていたのだろう。
でも、すでにあちらの世界に旅立った子ども達について、
少しだけエピソードを書いておきたい。
その子が、私に何を教えてくれたのか、その子がこの世に生きた証としても…。
「あの子の笑った顔を見たいんです」
Hちゃんは、重度の脳性まひ児と診断されていた。
当時、一歳を超えていたと思うが、寝たきり状態であった。
脳性まひは、大きく分けてアテトーゼ型(不随意運動型)、痙直型(四肢変形になりやすい)などがあり、
そのほかにも失調型や混合型もある。
Hちゃんは、強いて言えば失調型なのかもしれなかったが、
なにしろ筋肉はグニャグニャで、自分で動くことはほとんどなく、
空腹時に悲しげな泣き声は発するけれど、
そのほかの不快を表現する力もないようだった。
首もすわっておらず、当然お座りなどもできないし、あやしても笑ったりはしない。
それでもお母さんは、首が座らずにグラグラする体を背中にくくりつけるようにして、
徒歩や自転車で通って来ていた。
私は、お母さんと一緒に医師やPTから指示された訓練メニューで、
手足を他動的に動かしたり、抱っこして体を揺らしながらあやしてみたりと、
試行錯誤してみたのだが、状態の改善はあまり見られなかった。
それでも、他動的に動かすことで、多少ふにゃふにゃだった筋肉が、
筋肉らしい張りを感じるようになってきたかなと思うようになった頃、
熱心だった母親がピタリと訓練室に来なくなってしまった。
しばらくして、心配になった私は家庭訪問をした。
母親は、最近ある新興宗教の集まりに通うようになったのだと、申し訳なさそうに言った。
聞けば、ずいぶんお金も払っているようだ。
私は、神仏頼みでこのような障害が改善するわけがないと思っているのだが、
藁をもすがるようにその信仰に頼ろうとする母親に、色々な危惧を言うことができず、
やっとの思いで、
「それでも、時々は顔を見せてください。他のみんなも待ってますし」と言った。
それに対して、母親は遠慮がちではあるがキッパリと答えた。
「先生、ごめんなさい。この子は訓練では良くならないって。
今の宗教の先生は、真剣に祈ったら絶対に良くなるからって言うの。
私は、歩けなくてもいい、話せなくてもいい、あの子の笑い顔が見たいんです。」
私は、全身をハンマーで殴られたようなショックを受け、
その衝撃から自ら逃げるように玄関を後にした。
その家に背を向けて歩きだした途端、私はこらえきれず号泣した。
何も言えなかった自分に対する情けなさ、母親の切ない思い、
無責任に「祈れば良くなる」という宗教に対する怒り、
そんな様々なものが全身を駆け巡り、嗚咽が止まらなかった。
今でも、こうやって書きながら当時の思いがよみがえってくる。
その後、彼女が訓練室に顔を見せることはなかった。
祈りの場に連れて行かれたあの子が、
せめて集まったみんなにかわいがってもらっていることを、私は祈るばかりであった。
その数年後、新聞の死亡欄にHちゃんの名前を見つけた。
私は迷ったけれど、葬儀には行かなかった。
どうしても行く気になれなかったのだ。
その宗教によって、母親とHちゃんは救われたのだろうか。
Hちゃんは、笑顔を母親に見せることができたのだろうか。
私は、彼女のことも含め、
多くの宗教が障害を持つ子の親に優しい言葉をかけて近寄っていくのを見聞きしている。
私は宗教を否定するものではないし、人間には宗教心は大切なものだとわかっているつもりだ。
それでも、私自身は特定の宗教には決して所属しないとある時期に決めた。
特に、強い勧誘や、金品を過剰に売ったりする宗教には、反射的に否定してしまう。
今の私であれば、当時のお母さんになんと言うだろう。
それでも、あの時のあのお母さんを説得できる自信もない私でもある。
「シュウ君」
彼も、重度の脳性まひという障害をもって産まれた。
彼の場合は、「アテトーゼ型」だったと思うが、
私が出会った当時は4~5歳くらいで、
それまで十分な機能訓練もしていなかったらしく、
手足には筋肉の緊張からくる変形もみられた。
それによって、もともと困難な自分の意思による動きが制限され、
不随意運動と筋緊張により、食事もとても困難だったし、言葉を発することもできなかった。
お母さんが献身的に見事な介助・介護をする人で、
私ならとても怖くてできない食事介助を、息子の様子や動きを見つめ、
絶妙のタイミングで食事をさせる姿に、
「母親の力ってすごいなー」と感心させられるばかりだった。
彼は隣町から、母親が自動車を運転して通って来ていた。
見た目は寝たきりの重度障害児であったが、
彼は知的な遅れはあまりないように思われた。
話すことはできないけれど、みんなが話していることはちゃんとわかっているし、
様々な言葉かけや働きかけに、ちゃんと目や表情で意思を伝えてくれる。
そして、自分の要求も彼なりに表現しているようで、
それを母親が的確に受け止めて通訳をしてくれるのであった。
この二人は、本当に一心同体状態に、私にも見えた。
同じ時期に、同年齢のやはり脳性まひアテトーゼ型の男の子が通って来ていた。
こちらの子の方が障害の程度が軽いのか、
動きにくい足を必死に蹴って移動したり、
言葉にはならない声を絞り上げるように発して自分の意思を伝えようとしたり、
思いどうりにならなかったり、自分の思いがちゃんと伝わらないと泣いたりと、
表情は格段に豊かであった。
だから私は、シュウ君の方が障害が重いのだと思い込んでいた。
ある時医師が「この二人の障害の程度はさほど違わない」と言った時、
私は「そんなバカな!」と驚いた。
「違うのは、その子の性格と母親の対応です」と言うのだ。
シュウ君の方が性格的におとなしく、母親の対応が完璧なせいだというのである。
うーん、なるほどと、一応は納得はしたものの、
やはり私は半信半疑で、その後の二人の様子を観察した。
そして、「やはりそうなのだろう」という気持ちになってきたのだ。
難しいものである。
母親が完璧に息子の気持ちを受け止めそれを表現したら、
子ども自身が必死で訴えたり、悔しがったりしてバタバタする必要もないのだ。
それはその子にとっても、母親にとってもストレスのない穏やかな時間となり、
それが不幸なこととは決して言えない。
しかし、そのことが子どもの「わかってもらいたい」という意欲を刺激しないとしたら…。
これが、健康な子どものことであれば答えは簡単である。
子どもの自立を願うのであれば、親は心を鬼にして突き放すことも必要なのだ。
たとえ障害を持っていたとしても、原則はそうである。
もしも、施設に入所しなくてはならないとなれば、
やはり他人に意思を伝えられるようにするのも、大切な訓練なのだ。
医師やPTはそれを視野に入れての指摘をしたし、私もそれには同感ではあった。
しかし、まだ学齢に達していない子どもなのだ。
普通の子どもたちでも、まだまだ親に甘えている年頃だ。
心を鬼にしなくてはならないのかどうか、私にはよくわからなかった。
あの当時、このような母子に対して、
よく「母子分離の必要性」が医師やPTから言われることがあった。
私は自分の確たる信念もないので、それをオウム返しのようにお母さんに伝えたり、
「この子の将来のためには、必要なことだよね」なとと、
知ったかぶりみたいに言うこともあった。
しかし、内心は迷ってばかりであった。
「本当に、この子にそんな将来はあるのか?」と思うことも多かったし、
「将来は施設で暮らすしかないのか?」とも思ったり…。
結局、いつだって私は中途半端の思いでお母さんや子ども達と向き合うことになっていた。
隣町にも、母子通園施設ができて、その時からその親子とは接点がなくなった。
シュウ君はどうしたかなあ、と思うことはあっても、確認することもなく年月は過ぎた。
何年か前、その町で就労継続支援事業所で働いていた時、
当時、いっしょに通っていた別の障害の若者と再会した。
驚いたことに、その子も「長生きはできない」と言われていたのに、
元気に自宅で生活して、障害者の活動に積極的に関わっていた。
「ところで、シュウ君はどうしている?」と聞いた時、
「あいつ、去年死んだよ。ずっとお母さんが家で面倒をみていた」と教えてくれた。
そうだったのか、あのお母さん、最後まで面倒みていたんだと、
私は二人の生き方に、心から拍手を送りたいと思うばかりだった。
結局、あの頃の医師達が言っていた「母子分離」はあの親子にはなかった。
できなかったのか、あえてしなかったのか、私にはわからない。
しかし、その時その時精一杯、
彼らににとって一番良いと思う生活を選んだことは間違いが無いだろう。
私が彼らと関わった頃から比べたら、格段に福祉サービスは充実しているはずだ。
彼らが、十分にそれを活用して、シュウ君なりに納得できる人生であったことを願っている。
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