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「新リア王(下)」高村薫 新潮社 今回の表紙はやはりレンブラントで「瞑想する哲学者」である。しかし、これはどう見ても老い疲れた老政治家でしかない。 この下巻の見所は、栄の金庫番英世の自殺の真相でもなければ、栄の王国が息子の優の裏切りによって瓦解してゆく様を関係者を一同に会して会話体で描いたことではない。ましてや、一瞬だけ出てきた警視庁時代の合田の声でもない。福田王国の老王栄と、息子の優、そして官僚役人になったもう一人の息子の貴弘とのパーティでの「三酔人経綸問答」とでも言うべき日本論である。もちろん、中江兆民の様に立場を明確にして、理路整然と日本のあらゆる問題について論議したわけでもない。しかし、新自由主義的な優と、ケインズ学派的な貴弘、そして豊かな教養を持ちながらも、エリート意識でしか政治をみる事のできない典型的な自民党政治家、彼らの父の栄。この三人の、それなりに日本の将来を「考えている」かのようで実は非常に自分勝手な論理がとても面白く、そこだけ抜き出してパンフにすればいいのに、とさえ思った。 いや、決して冗談ではないのだが、いやしくも革新系政治家を自認するような政治家ならば、一度この本を通読する事をオススメする。「敵を知り己を知れば百戦云々」という。敵と噛み合わない理想論を振り回すのは時間の無駄である。一秒つどに彼らの頭の中を脳スキャンで広げて見せたような本書を読めば、いわゆる保守の国会議員の発想がわかるようになるのではないか。 私には現代のアベノミクスが、バブルの隆盛を控えた80年代後半の中曽根不沈空母、民活導入、規制緩和、新幹線・原発などの大型公共事業への陳情処理に明け暮れる自民党政治に重なって見えて仕方ない。彼等の頭の中を解剖することは決して無駄な作業では無いはずだ。 しかし、上下読み終えるのになんと四ヶ月近くかかってしまった。非常に難解でな作品なのだ。取材力は圧倒的なので、再読、再々読にはもちろん耐え得るだろう。文庫になった時に、原発、再燃の部分をどう変えて行くのか、とっても楽しみな本でもある。あゝ、これでやっと合田が出てくる次作「太陽を曳く馬」に向かえる。 2013年3月30日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年04月06日
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今までやっと「晴子情歌」まで読んでいる高村薫の小説なのですが、そのあと「新リア王」「太陽を曳く馬」を上梓し、去年「冷血」を刊行したと聞いていました。これらが「びみょーに」繋がっている事を知っている私は去年末にやっと続きを読む決心をしたのでした。 「新リア王 上」高村薫 新潮社 多田和博装幀の表紙は、全ての高村薫の単行本の中でも最高傑作だと思う。もうこれ以外には〈リア王〉のイメージを作れないほどのインパクトがあった。闇の中から浮かび上がる皺だらけの老人。老いさらばえて、世の中から棄てられているかの様に見えるが、眼光だけは真っ直ぐ私を見て衰えてはいない。元の絵は、レンブラントの「金の鎖をつけた老人」である。 言っただろう、敵に足元をすくわれる屈辱も敗北感も、この腹の炉に放り込んで燃やせばエネルギーに変わるのだ、と。そのいつもの仕組み通り、私はこの七十四歳の心身に俄然力が満ちてくるのを感じ、何よりもそのことが私を陶然とさせた。忙しく回転する頭やふつふつする臓腑の一つ一つが嬉しく頼もしい、この感覚は若い君にはわかるまい。朝からもう何段の階段を上がったり下がったりしたか覚えてもいない、いい加減膝の骨にきていたはずの疲労もまるで感じない、この一瞬一瞬のなんという軽快さ!裏切りも策謀も仕掛けられるうちが花というが、あらためて我が身を振り返るまでもなく、この福澤榮は青森一区の、いや青森の、老いぼれてもなお〈王〉だったということだー!(167p) (内容紹介) 保守王国の崩壊を予見した壮大な政治小説、3年の歳月をかけてここに誕生! 父と子。その間に立ちはだかる壁はかくも高く険しいものなのか――。近代日本の「終わりの始まり」が露見した永田町と、周回遅れで核がらみの地域振興に手を出した青森。政治一家・福澤王国の内部で起こった造反劇は、雪降りしきる最果ての庵で、父から息子へと静かに、しかし決然と語り出される。『晴子情歌』に続く大作長編小説。 内容(「BOOK」データベースより) 55年体制を生きた政治家の王は80年代半ば、老いて王国を出た。代議士の父と禅僧の息子の、魂の対決。 代議士と禅僧。水と油の様な2人はしかし、因縁のある父子でもある。生涯で唯一2人は数日間を共に過ごし、水と油の様なお互いの人生を語り始める。そこは、高村薫、問答体の小説と言えども、いやだからこそかもしれないが、その描写は細に入り微に入り精緻を極めるだろう。 そこで浮かび上がるのは、禅問答の様な会話から明日の政局を判断する代議士の半日であり、世間と隔絶した永平寺の一日であり、利権と票の動きのみが最大の関心事になる自民党政治の世界であり、青森の辺境で福澤王国を築いた政治家一族の確執であり、詰まるところ「ある日本の姿」なのだろうと思う。 青森と言えば、原発立国でもある。「自民党政治の終わりの始まり」を描いたと言われるこの小説を現代に読む意義は何か。それをこれから見極めて行きたい。そしてできる事ならば、今年中に新作「冷血」まで辿りつきたい。 2013年1月22日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年04月04日
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「ステップ」重松清 中央公論社僕の胸の奥にはずっと、朋子を亡くした悲しみがあった。美紀はママのいない寂しさと一緒に大きくなった。悲しみや寂しさを早く消し去りたいと思っていたのは、いつ頃までだっただろう。いまは違う。悲しみや寂しさは、消し去ったり乗り越えたりするものではなく、付き合っていくものなのだとー誰かが、というのではなく、僕たちが生きてきた日々が、教えてくれた。(343p)最初は男手一つで息子を育てた「とんび」の娘版かと思っていた。しかし、テイストは全く違った。「とんび」は見事な浪花節、涙を最初から最後まで搾り取るものだったが、「ステップ」はむしろ恋愛小説、男やもめと娘との、或いは再婚相手との、或いは残された義父と孫娘との、静かに育てあげるラブストーリーだった。涙は出なかった。もちろん、著者は家族小説の第一人者なので、ほっこりさせてしんみりはさせてくれた。この単行本初版は09年だった。しかし、家族のうち1人が理不尽にもあっという間に居なくなってその後を生きて行くという設定は、3.11以降の東北で無数に起きていることに違いない。文庫版あとがきで著者はそのことに触れるかな、と思ったが一言も触れなかった。思うに、著者の見識だと思う。2013年3月15日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年03月27日
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岡山では、昨日やっと開花宣言がなされました。今日は一輪だけ咲いている木や、二分咲きぐらいまでの桜ばかりでした。それでも確かにいつもの年より一週間ぐらい早い。四月の声を聞いた頃に満開かな。「看守眼」横山秀夫 新潮文庫5年ぶりぐらいの横山秀夫の短編集を読んだ。流石だ。横山秀夫の短編に駄作は存在しない。唸るほどの傑作はなかったが、全て何かを残す佳作ばかりだった。今回は警察小説ではない。表題作は、警察の部内報担当の女性と看守が出たのみ。あとは、フリーのライター、家裁調査官、県警情報管理課、新聞社の整理部、県知事秘書という表舞台に立たない人間ばかりにスポットを当てている。組織の中で居場所を探し、保身を考え、それでも仕事にどこかで誇りを持っている。そんな人物を描く事がまっこと上手い。2013年3月3日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年03月25日
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「生涯野人 中江兆民とその時代」岳真也 作品社もはや、この御仁には何を言っても無駄だ。と後藤象二郎は思った。根がまじめなくせに、妙に人を喰ったところがある。すこぶる頭が切れるのに、惚けている‥‥それは、ずっと以前に、あの坂本龍馬にも感じたことだった。(131p)私の知る限りでは、初めて中江兆民が小説の主要人物になった。それどころではない。主人公である。画期的だ。こうやって作られたら分かるが、幕末から明治時代の思想家、政治家のオールスターが出てくる。「兆民」という番組名で大河ドラマにするべきである。しかし、小説としては不満だらけだ。作者は大学教授らしいが、まるで学術論文から抜け出そうという意識がない。1番面白い処が客観叙述で通している。少し生き生きしていたのは、龍馬との出会いや芸者との会話部分のみ。留学時代や、「策論」提出、日清戦争の時の気持ち、事業や右翼政党に近づいた時の「本心」、癌だと言われた時の気持ちの揺れ動きなど、「美味しい」処が全く「小説的」ではないのである。本人にしゃべらせなくても、冒頭にある様に周りに喋らせたらもっと面白くなるのに、という場面はいくらでもあっただろうに。特に、留学時代にその後の人生を全て「予行演習」させる作りにすれば良かったし、「策論」に書かれたクーデター後の具体的な「妄想」は小説的に作っても良かったし‥‥あゝ俺に書かせろ!無理だけど。今や、私の好む大河小説を採用したら、堀潤プロデューサーの様にNHKを退社に追い込まれるだろう。何時の間にか、そんな時代になっている。空恐ろしいことではある。まあ、私の知らない事も幾つかあり、読んでいて面白くはあった。例えば、板垣退助の爵位辞退の文章を書き「華族令は国の弊害のもとになる」とまで書いていたとは知らなかった。ほんに明治時代はある意味、自由だったな。2013年3月3日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年03月23日
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「48億の妄想」筒井康隆 文春文庫 この本を読んでみようと思ったのは、ひとえに想田和弘氏のこのツイートを見たからである。 @KazuhiroSoda: アイドルの坊主頭を見ながらもう一つ連想したのは、筒井康隆が1965年に発表した『48億の妄想』という小説だ。それはすべての人間がテレビで演じるために生きているような世界で、番組のために戦争まで起こしてしまうわけだが、今読むと筒井氏の先見の明には舌を巻くばかりだ。 「アイドルの坊主頭」とは言うまでもなくAKB48峯岸の恋愛禁止条例違反の謝罪映像のことである。 私は、1965年に作られたこの小説が、現代日本とAKBの現実をあまりにも予言している様で、ビックリしてしまった。それは、例えばこのような記述である。 「すべての人間が投書家になった今では、マスコミの受け手がすなわち送り手の一部でもあった。大衆はすでに、自分たちを特殊な作り手のひとりとして意識していた。もちろん彼らは、はじめのうちマスコミに対して、何らかの抵抗するものを持ってはいた。だが、やがてマスコミの中に巻き込まれ、今すでに自己訓練も成長も止まってしまっていた。」 テレビがデジタル化した現在、これはほとんどリアルな現実である。 「今ではすべての人間が、家から一歩外へ出さえすればアイを意識して行動していた。大っぴらにアイが設置されていなくても、どこに隠してあるかわからないのだ。人びとの行動をアイが捕らえるのではなく、アイに捕らえてもらい、あわよくば放送してもらうために人びとが行動していた。」 これはまだそこまで現実化はしていないかもしれない。しかし、YouTubeの人気映像を見ていると、現実化はすぐそこまでという気かする。 「放送開始以来23年、カラーテレビは普及し、人間にとってテレビは、空気や水と同様の生活必需品になっていた。そしてテレビを見ることは、呼吸や食事同様の自然な生存方法だった。560万台のアイが日本全国にばらまかれた。しかし、だからといって、テレビに出たいという人間の数が低下することはなかった。逆に様々な生活条件の中でテレビを見るいろいろな人間たちがるら、自分の仕事や趣味からの延長で、テレビに出演したいという思いをますます拡げていったのである。彼らにとっては、出演に必要な特技、つまり演技力などは、どうでもいい問題だった。出演するために、利用出来るものはなんでも利用してやろうと目を血走らせているだけだった。」 現代の人間がすべてそうなっているわけではないが、「アイドル」であろうとしている峯岸たちは「こういう心境」になっていると私は思う。 「過去百何十年かの間にマスコミは、平凡な人間を有名にしてしまう新しい力を持った。いやむしろ情報社会の大衆ーテレビの視聴者や活字情報の読者である大衆が、マスコミと協力して名声を製造する方法を発見したと言ってよい。大衆はそれらの有名人の名前で頭の中をいっぱいにした上、さらに有名人を求め続けた。だが、大衆は、彼ら有名人への自分たちの賞賛が、人工的に作られたものに捧げられているのだということを信じようとはしなかった。人工合成物に過ぎない有名人を、真の英雄だと思い込んでいた。いや、思い込もうとしていた。(略)彼らは大衆と同じ性格を持っていなければならなかったのだ。そして今、大衆の視界は、分かり切った男女の姿でいっぱいになっていた。現実の知人と間違えられて話しかけられるテレビ・タレントほど、人気があった。自分たちの空虚さを反映しているだけのイメージに飛びつく大衆は、大衆自身の影を増やし、拡大させているだけだった。(略)にもかかわらず、有名になりたがる人間は、あとを絶たないー何故だ?折口は考え続けた。彼らには自信があるのだー折口はそう思った。自分の才能に自信があるのではない。いったん有名になりさえすれば、常に自分を宣伝して、いつまでも忘れられることのないように、始終ニュースやゴシップを作り続けて見せるという自信た。」 この「有名人」を「アイドル」へ、「大衆」を「ファン」に置き換えれば、そのままAKBとファンの関係になるだろう。しかも、AKBにはこの数年間常にハンディカメラがついて回り、まるで空気のようにプライベートの「感情」を公開することを自らの使命だと思い込もうとしていた。これまで三回作られた映画ドキュメンタリーはその集大成である。 AKBの姿は、テレビ時代の全盛が始まる48年前に筒井康隆が予言したことであり、まさに近未来の我々の姿でもある。 非常に空恐ろしい。 更には、ほとんど尖閣諸島問題と同じような事が、第二部ではリアルに描かれている。メデイアに踊らせれて戦争まで触発される様な「武力衝突」が「演出」されるのである。 「どちらの政府も、民間で勝手に喧嘩している限りでは、むしろこの喧嘩を喜ぶはずなのです。韓国のマスコミ関係者に尋ねたところでは、韓国政府としては、野党や学生たちの抗議や非難が日本漁船に向けられている間は現政権を維持することが出来、安泰でいられるわけですし、その間の国民の攻撃衝動とエネルギーを、デモや地下運動から喧嘩の方へ転じさせておくことも出来るわけで、おそらく大喜びだろうということでした。また、わが国の政府にしたところで、大衆の関心が韓国に向けらることに対しては異存はないのです。(略)また、アメリカは、日本人の敵意や攻撃欲が韓国に向けば、それを利用して経済侵略が出来る」 「そしてマスコミは」P・Pがにやりと笑って言った。「それを材料にしてニュースがつくれるというわけですな」 もう、韓国を中国に置き換えれば、現代の日本を解説しているが如きだ。 さて、こうやって誕生したマスコミの寵児たちは最後のニセ戦争のドタバタでみんな見事に死んでゆく。一応、「物語」の上では。 2013年2月26日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年03月20日
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「ことり」小川洋子 朝日新聞出版社もう20年近く前のことになるのか、著者小川洋子は私の家から5キロほどの近くに住んでいた。そのことを知ったのは、彼女がそこから居なくなる直前だったと思う。私は偶然、彼女が住んでいた当時地域で1番のマンモス団地へ、配達業務で毎日通っていた。そして芥川賞候補になった作家が、私が配達している棟の何階かに住んでいる事を聞くことになる。賞を逃した作品は当時書店にうず高く積まれていたが、私は文芸書は読まないので、興味はなかった。しかし、営業の一環として棟の奥さんには顧客の可能性は聞いたと思う。どう答えてくれたのかは記憶にない。しかし、毎週配達の度に降りてくる奥様たちとは一線を画して、どうやら世間付き合いは上手くない様だ。私は棟を見上げながら、そのさらに上を飛ぶ何かの鳥の声を聞いた気がした。その後、彼女は芥川賞を獲り、何時の間にかその団地から消えていた。著者の作品を読むのは、さらにその10年後「博士の愛した数式」の映画を観たあとになる。次の水曜日、食卓の上にボーボーはなかった。「小鳥のブローチは愛の歌を歌えなかった」と、お兄さんは言った。誰に向かってというのでもなく、ただ言葉を宙に浮かべるようにして、小声で言った。「そういう小鳥もいる。小屋の片隅で、いつまでも歌えないままでいる小鳥」(70p)小鳥の小屋の小声をずっと聴き続けているかの様な読者である私には、お兄さんの「失恋」は哀しい。私は遠い日の終わった「片想い」を思い出す。「それにしても、世の中に、こんなにもたくさん鳥にまつわる本があったなんて……。私が気づかない場所に、こっそり鳥は隠れているものなんですね。私の目に届かない空の高いところを、鳥たちが飛んでゆくのと同じですね」(112p)図書館司書のこの言葉は、彼女に恋をしている小鳥の叔父さんにとってもだが、私の片想いの淋しい記憶にとっても、何よりもの宝物だ。人は独りで生きていける。それは誰の力も借りないで、ということじゃない。そうではなくて、誰の目にも止まらない処で鳴くことはできるのである。けれども、その密かな鳴き声をじっと聞いてくれる人がいることはなんて嬉しいことなのだろう。私はこの厳しかった冬に、たまたま日中によく街路樹のある道を通る様になった。そうすると、今まで気がつかなかった小鳥たちが見えて来た。鶯色のまん丸い小鳥がいたので、「今年初めての鶯を見ました。まだ鳴かないようです」なんてFacebookに書いたりしたが、あとでよく調べるとメジロだったりした。雀よりも少し大きくて、茶色い羽根を持った小鳥や、橙色の嘴を持った小鳥、曇った空に溶け込んでしまいそうな大きめな小鳥、様々な小鳥が驚くほどに山にいかなくても我々のすぐそばに、住んでいるのである。名前が未だにわからない。けれども、町の片隅に彼らは生きているのである。でも、出来ることならば、小鳥の叔父さんの様に、生涯一羽でいいから「ことり」を救いたいな。2013年2月14日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年03月17日
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「SOSの猿」伊坂幸太郎 中公文庫 「作家や漫画家、画家や音楽家の生み出した作品が、意図したわけでもないのに、近い未来のことを表現していたということはよくあります」(368p) 舞台が仙台かはわからないし、他の本の登場人物が出てくるような遊びはないし、伏線の回収はハッキリしていないし、等々なのだが、「第二期伊坂幸太郎」はそれでもどこを切っても伊坂幸太郎なのだと再確認した。伊坂は真面目なのだ。世の中の、何処からか発せられる「暴力はいつだって悪いことなの?」という問、或いは「引きこもり」「虐待」などのSOSに、ついつい付き合わざるを得ないのだろう。私は作家の「優しさ」を感じてしまう。そうやって、相談に乗っているうちに、世界全体を無意識下に入れてしまったのか、「システムのあり得ない失敗」の事を今回の彼は心配している。2009年の心配は、やがて大きくは原発事故に、小さくはトンネル崩壊事故やボーイング787の事故を予言するだろうし、「魔王」「ゴールデンスランバー」「モダンタイムス」で、消費される独裁者が次々出てくるような世情を予言するだろう。その小さな予言が、何処かで「フイッシュ・ストーリー」の様に「世界を救う」事がないとは誰が言えるだろうか。 「それこそが作り話の効力よ。物語は、時々、人を救うんだから」(212p) 2013年2月6日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年03月15日
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「太白山脈 第3巻 全羅道の悲しみ」趙 廷來/著 ホーム社 沈宰模(シムジェモ)と権炳済(クオンピョンジェ)は虹橋の上に立って広々とした楽安平野を眺めていた。「あの手前に見えているのが玉山で、その向こうに曹渓山に抜けるオグム峠があります。左の方に遠く見えるあの大きな山が澄光山で、右側のあの切り立った山が帝釈山です。あれらの山並みはすべて曹渓山に連なっていますが、今後特に問題となると思われるのは澄光山です。澄光山は高さのわりには懐が深く谷が多いだけでなく、その位置がまた微妙で、鳥城や宝城に山並が続きます。未確認ではありますが、廉相鎮が率いる反乱軍は曹渓山に身を潜めているものと思われます」権炳済が指差しながら説明した。(113p)この小説は段落だてごとに登場人物たちの主観で物語が進んで行く。そこに出てくる人物は、沈宰模の様に共産主義者と敵対する立場の地方軍司令官でありながら、小作人の立場に立とうとする者や、金範佑の様に共産主義者にはならないが、民主民族独立派の立場に立つ者、廉相鎮の様に知識と行動力を併せ持った南朝鮮労働党の闘士、其の弟で反動の走狗となる廉相九。その他、当時のあらゆる代表的な階層男女が、主観的に当時の「時代」と「人生」そして「土地」を語り、行動し、生きるのである。面白くないはずがない。あの時(2012年夏の旅)に漫然と眺めていた筏橋の山々が、この小説を読むとまた違う景色で迫ってくる。写真は筏橋の高台から見た曹渓山方面。真ん中辺りに流れている川の上から二番目の橋が虹橋。遠く薄っすら霞んでいる大きな山が玉山だと思われる。内容(「BOOK」データベースより)激動の韓国現代史を背景に、戦争と青春を真正面から取り上げ、苛酷な運命を生き抜く人間群像をかつてないスケールで描く話題作。待望の第三巻!!町に潜入しようとして負傷した左翼の安昌民を密かに治療したことが発覚し、病院の院長と女性教師李知淑らが逮捕され、順天の裁判所に送られた。町には戒厳軍が駐屯し、市場も再開されて人々の暮らしは表向き平穏さをとりもどした。かつて日本軍の兵士としてビルマ戦線で戦った過去をもつ戒厳司令官沈宰模は、日帝協力者に激しい憎悪を抱いており、ともすれば筏橋の有力者と反目しあう。一方、鄭河燮を匿っていたことをかぎつけられた素花には、青年団長廉相九の苛酷な拷問が待ち受けていた。2012年12月2日読了
2013年01月22日
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「太白山脈 第二巻」趙延来 ホーム社アメリカ人をアッサリ信じるなソ連にソックリ騙されるな日本人がニワカに立ち上がる朝鮮人はチョット気をつけろ金範佑はふと立ち止まった。6、7人の子供たちが、ゴム跳びに夢中になりながら歌っていた。(略)民の心は天の心だといわれている。その歌は天の教えであり予言なのかもしれない。日本人が立ち上がる、朝鮮人は気をつけろ‥‥‥。予言をきちんと受け止める者はおらず、だから実践されないままに、予言はいつも果たせない課題として残るのかもしれないと、金範佑は思った。アメリカ人をアッサリと信じ、ソ連にソックリ騙されたあげく、互いに異なる政権を打ちたて、予言とは反対方向へ行っているのが現実だった。(364p)内容(「BOOK」データベースより)筏橋では軍と警察が青年団の助けを借りて左翼の残党や同調者の捜索に乗り出した。その先頭に立ったのが、曹渓山に逃れたパルチザンの隊長、廉相鎮の弟で、青年団の団長に成り上がった廉相九である。住民同士が左翼と右翼に分かれて憎しみ合い、多くの罪もない人々が殺されて行く中、有力者の息子で、教師としても人望のある金範佑は、こうした状況を収拾しようと奔走するが、そんな彼に容共の嫌疑が…。一方、秘密党員の鄭河燮と巫堂の素花は、深く愛し合うようになり、運命的な絆で結ばれる。私は筏橋へ行く前に和順(ファスン)に泊まっている。目的は世界遺産和順支石墓群を見るためだったのだが、この小説の中では和順の歴史的事件について触れている。光州から和順に至る長い道路がある。私はバスで通った。そこで和順の炭鉱労働者と、米軍とが1946年対峙し、労働者の投石に対して米軍は戦車砲と小銃でもって弾圧したのである。私は知らなかった。物事を水に流す日本人と違い、韓国人は白黒をハッキリさせなくては気がすまない性質がある。一方で、ハッキリ出来ないというのが世の大勢だから、それは永く「恨(ハン)」と成って残り、現在に至る韓国人の国民気質となるだろう。思うに、その「恨」が解けぬままに残っている最大のものは、倭奴(ウェナム)の日本であり、次が米軍の米国なのだろう、と私は次第に分かって来た。写真は、たまたま和順郡庁で出逢ったものです。そこで行なわれていたテロ対策訓練で実際の「銃」を持って構える若い警察隊です。
2013年01月21日
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「空と風と星と詩」尹東柱 金時鐘 編訳 岩波文庫「弟の肖像画」ほのあかい額に冷たい月が沈み弟の顔はかなしい絵だ。歩みをとめてそっと 小さい手を握りながら「大きくなったらなんになる?」「人になるよ」弟の説はまこと 未熟な答えだ。何食わぬ顔で手を放し弟の顔をまた覗いて見る。冷たい月が ほのあかい額に濡れ弟の顔はかなしい絵だ。(1938.9.15)「아우의 印象画」붉은 이마에 싸늘한 달이 서리아 아우의 얼굴은 슬픈 그림이나. 발걸음을 멈추어 살그머니 애딘 손을 잡으며 「늬는 자라 무엇이 되려니」「사람이 되지」아우의 설은 진정코 설은 対答이다. 슬며시 잡았든 손을 놓고 아우의 얼굴을 다시 들여다 본다. 싸늘한 달이 붉은 이마에 젖어아우의 얼굴은 슬픈 그림이다. 尹東柱(ユントンジュ)の詩集岩波文庫版が21世紀のこの時に至って、やっと出版された。韓国における詩の位置付けは、本屋に行けば圧倒的に高いということがわかる。一番いい場所をいつも陣とっているのである。その一番人気が未だに出ていなかったことが不思議でならない。「死ぬ日まで天を仰ぎ、一点の恥じ入ることもないことを」という有名な詩句を聞いたことはあっても、その詩業の全容を知っている人はほとんどいない。私も知らなかった。リリカルな優しい心と、キリスト教に支えられた強い精神、中国に国境を接する場所を故郷とする心像風景、時代が常に死と接することを強要した覚悟、若くして才能を花開かせ散らしていった運命、平易な言葉で豊かな内容を表した表現力、それらは、ここに収められている66編を読むことで納得するだろう。原詩を巻末に載せているのも嬉しい。尹東柱の人生を紹介した訳者の解説も力がこもっていた。2012年12月14日読了
2013年01月18日
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「クーナ」作 是枝裕和 絵 大塚いちお イースト・ブックス是枝裕和監督の秋のテレビドラマ「ゴーイング・マイホーム」の中で宮崎あおいが子どもたちにこの本の読み聞かせをしていて、森に住む小人・クーナの説明をしていた。図書館で見つけた時、「あっ、既にあったんだ」と思った。のであるが、良く見ると是枝裕和作だった。ドラマにあわせて刊行されたらしい。実は初回は見たのであるが、途中を丸まる抜かしてしまった。テレビが壊れていたためである。8回と9回は見たのであるが、なんと最終回を見逃してしまった。だから私にとって、「クーナとは何か」は今だに謎のままなのである。この絵本の少女が「おじいちゃん」から聞いた話によると、クーナとは以下のような生き物らしい。森に住んでいる小人で、昔は北の国に住んでいたけど、最近はちょっと怠け者でどんどん南下している。クーナの声は、人間にはチルチルチルって聴こえる。また、傷を癒す能力や糸を紡いだり畑仕事も手伝うらしい。時にはお墓に現れて、死んだ人にも会わせてくれるらしい。クーナは「にんげんにはみえないものがみえるんだって」それはいいものだけじゃない。クーナが臆病で、なかなか森から出て来ないのは「たぶん にんげんにはみえないこわいものがまちにはたくさんあるからだって」ドラマの中で、阿部寛や娘はクーナに会うことは出来たんだろうか。宮崎あおいは会えないよね。そういう位置づけだった。大きな変化のないドラマだった。こわいもの、巨神兵が東京に現れたりはしない。けれども、とってもドラマチックなドラマだったのではないか、と勝手に思っている。2012年12月27日読了
2013年01月14日
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「葬神記 考古探偵一法師全の慧眼」化野燐 角川文庫実は、考古学をテーマにした推理小説をずっと探していたので、個人的には嬉しい。一法師探偵も言っているが、犯罪捜査の鑑識と発掘調査は似ているのである。鑑識だけでは無い、僅かな事実をもとに推理していく手法は、ほとんどそのまま考古学に応用出来るだろう。しかしながら、小説としては、残念な内容になっている。何処からか引き出して来たような伝説で無理やりネットパニックを演出。わざわざヤマを三つも盛り込む仕掛けを作っている。それよりか、登場人物を絞って魅力的な人物造形をするべきだった。確かに弥生時代は何故か偶像崇拝が無い。そこへ来て、あの魅力的な「発見」は普通の人はいざ知らず、私のような弥生時代ファンには、ドキドキする設定ではある。だからこそあのラスト、みーんな古屋を称えているのが、どうしても納得いかない(笑)。2012年12月7日読了
2013年01月12日
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「孤愁」稲見一良、小川竜生、真保裕一、高村薫、貫井徳郎、花村萬月ほか、角川書店北村薫のアンソロジー教室の本を読んで、アンソロジーを読みたくなった。図書館で目に付いたのがコレである。稲見一良や高村薫は好きだし、どうやら珍しいハードボイルド集らしい。読んでみるとなかなか良かった。 選者の特別な拘りで作った本ではなく、全てかつての角川月刊誌「野性時代」からとって来た短編集なのであるが、見事に「独身者のハードボイルド」がキーワードになっていた。もともとハードボイルドの主人公は独身者が多い、というかそればっかりだから当たり前なのだが、それでもハードボイルドではない登場人物や設定でも、ハードボイルドになるのだということを認識させてくれるということでも良かった。しがない経理のおばさんでも、独身女流作家でも十分ハードボイルドしているのである。独身者のアイロニー、淋しさ、ブライド、かっこよさ、かっこ悪さ、傷、様々な職業、なれのはて、がこういう色んなバリエーションで描かれると、ちょっと圧倒された。独身者のひとりとして。稲見さんの「曠野」は「セントメリーのリボン」にも載っていた作品だが、巻頭を飾って異彩を放っていた。注目すべきは高村薫の「日吉町クラブ」だった。読んだ覚えがない題名だと思ったら、まさしく単行本未収録作品だった。しかも、読んだら紛うことなき「レディ・ジョーカー」の先駆形だった。競馬場で知り合った4人の男。ある会社社長の誘拐を企てる。目的は身代金にあらず。誘拐の後、日数が経てば無事開放の予定。その四人が集まる経緯から、犯行の細かな計画まで実に詳細に描かれている。「レディ」を読んだ人なら、こちらも十分に楽しめる。そうそう、この本は既に絶版になっている。しかし、Amazon、楽天の古本には比較的安く出ていた。こういう類の本の運命としては、そんなモンだろう。2012年12月22日読了
2013年01月11日
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「平台がおまちかね」大崎梢 東京創元社出版社営業・井辻智紀業務日誌シリーズ第一弾、だそうです。正直、日常ミステリーとしては物足りない。日常ミステリは好きなんだけど、飛び切りの「謎」を用意して欲しいのは、私のわがままなんだろうか。けれども、それ以外は快調です。文章のテンポもキャラクターも素晴らしく、安心して読んでいられます。実は「成風堂」シリーズと間違って読んでしまったのですが、最後にちょっとリンクしてあって、そこもサービス精神があってGOODです。何よりも昔の憧れの出版社のお仕事小説として、情報量がたっぷり。お店のポップが出版社の営業の目に止まって、そこからベストセラーが生まれるという経緯は確かにあるかもしれない(本作の内容とは関係無いけど)。知らない世界を知ることは、やはり小説の醍醐味ですね。だから、リアルに営業くんの仕事ぶりが心配になってきたりする。この前、ある本が賞を獲った。それを朝刊で読んだ私は直ぐにAmazonで注文したのであるが、その時は2-3日後にお届けボタンだったのに、5日経っても発送されない。もちろん一挙に注文が殺到したためだろう。受賞の対象になっている時に、営業くんはいったい何処まで準備していたのであろうか。まさか、新聞発表の日に増刷の連絡していないだろうな、などと色々と推理するのである。一週間経っても発送されなければ、それで決まりだ。私は営業くんにバツを独り密かに贈るだろう。2012年12月18日読了【後日譚】その件の書名は云うまでもなく、大佛次郎論壇賞を獲った大島堅一氏の「原発のコスト」(岩波新書)である。新書は12月28日に届いた。奥付を見ると、12月14日に第二版を刷っている。増刷をして、手に届くまでまるまる二週間掛かった計算になる。それをもっと早く出来ないかどうかは私は判断出来ないが、早くして欲しかったという気持ちはあった(店での注文ならば更にかかっただろうから、これで良しとしなければならないかもしれない。因みに一週間後に岡山最大の丸善に行くと既に品切れだった)。賞の発表は14日だった。奥付を考えると、その前日くらいに発注した可能性がある。思うに発注のタイミングは努力したというべきだろう。私がAmazonに発注したのは、14日の午前だったのだが、その時に既に在庫が切れるという事態だけが恨まれるのである。
2013年01月10日
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「悪の教典」貴志祐介 文春文庫映画を見て面白かったので買って見た。最近では、珍しいことである。蓮実先生、若い頃はいろいろ悪いことをしていたとは思っていたけど、まさか幼少にしてあそこまでとは思わなかった。もしかして、彼が唯一殺すことができなかった憂実との関係が終わらなければ、蓮実にも他の選択肢があったのだろうか。蓮実は、インスタントコーヒーを淹れると、応接用の椅子に座って目を閉じた。映画のようなイメージを脳裏に描きながら計画を細部まで再検討してみる。たぶん、やれる。‥‥‥いや、やれるはずだ。同じことを成功させた人間は、未だかっていないだろう。だが、外部からの侵入者とは違い、校舎の中のことは知悉しているし、マスターキーも使える。最後までやり抜くのに必要な頭脳と体力、精神力も備えている。それでも、さすがに躊躇があった。これまで一度として犯行に億したことはないが、今度ばかりは、やりすぎではないかという気もする。‥‥‥しかし、他に代案がない以上は、やるよりない。(191p)先ず検討したかったのは、蓮実は本当に「完全犯罪」を最初から目論んでいたのか、ということだった。目論んでいた。しかし、躊躇は一瞬したみたいだ。私は映画の感想で「動機も方法も確かに完全犯罪に向かっていた。しかし、どうしてもクラス全員殺すのは、綻びが起きない方がおかしいのではないか。」と書いた。確率からすれば失敗する可能性は10%以上(←蓮実主観を想像)あっただろう。それでも実行してしまうこと自体、精神構造が理解できなかったのであるが、蓮実が自分の犯罪をスポーツに例えていた。普通では危険極まりない直滑降などのスキーをあえて行うスポーツがあるという。スピードと思い切りの良さが、彼の成功を保証しているらしい。この記述で「なるほどね」と思ったのである。自分には理解不能な精神構造を小説という形で追体験するのは、確かに小説や映画の役割であり、エンタメの使命だろう。AKBメンバーに秋元康がこの映画の試写会を強制させたのは、「アイドルとは疑似恋愛の対象である」という信条を持つ彼としては当然だったのかもしれない。メンバーの中でも一際知的で感受性が強い大島優子が「この映画嫌いです」と大泣きしたのは、この作品の本質を1番理解した証左だろうと思う。優子は、センターとしてこの映画の中の蓮実の役割を担わざるを得ない。もちろん、蓮実と正反対に「共感能力」が強い彼女はまるで自分がAKBメンバーを殺したかのような錯覚を覚えたかもしれない。また、後で秋元康の意図も察知しただろう。後でひつこい様に「この映画嫌いです」とブログに書いたのは、「人生をエンタメに徹せよ」という秋元康のメッセージに関して若者らしい「反発」だったのかもしれない。というような、ある事ないことをつらつら思わせてくれるこの小説はやはり見事なエンタメ小説でした。2012年11月29日読了
2012年12月28日
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「えーっ!バイト高校生も有給休暇とれるンだって!」航薫平 フォーラム・Aこの前読んだ本「人生で必要なことは全てマクドナルドから教えてもらった」では、カリスマ店長の熱血仕事ぶりに感心はしつつも、その労務感覚(←彼はエリアマネージャーも経験した幹部)には?を付けることが多かった。それだから、世のバイトは有給休暇も取れない、最低賃金もクリアしない、過労死寸前の名ばかり店長がいても仕方ないとあきらめている、というのは「よくある話」なのかもしれない。昨日(2012.12.25)は「すき屋」のゼンショーがアルバイトの残業代請求を拒否し、団交さえも拒否していた事態を「謝罪」する「和解」があった。何事もアクションを起こさなければ、本来ある権利も勝ち取れないのだ。しかし、ここまではしたくないというのが、多分大半だろうと思う。後書きで筆者は云う。ぼくの目の前の高校生たち、何かあるごとに「どうせ」だとか「しょせん」だとか、すぐに自分を卑下したコトバが出ちゃうんだよね。「確かに、法律は弱い立場の労働者を守ってくれている。でも、法律って使えないしょ。職場での人間関係悪くするぐらいなら、いまのままでいいし」うん。このセリフ、これまで何度きいたことか。(略)「同じ高校生、しかも同じ市内の高2生がそれまでもらえなかった有給休暇をとれるようになったんですよ、と他校で紹介すると、生徒さんたち、目の色が変わるんですよね。同じ高校生が何かしたというのはすごく勇気を与えています」本書・森町司法書士のモデルであるK司法書士が、よく言っておられることだ。(略)本巻所収の3編は、すべてそこで報告された実話がモデルなんだ。(158p)最近はいろんな労働相談の本が出回るようになった。その中でここに紹介されている事例は入門篇に当たるだろう。しかし、類例書との大きな違いは、対象が高校生だということだけではない。非常に実践的なのである。それは、実話がモデルということの強みだろうと思う。「人間関係を壊したくない」というのは、大人のパートからもよく聞く。そのまま使うことはできないが、「解決のヒント」が、この中にあると思う。2012年12月5日読了
2012年12月26日
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「猟犬探偵1セントメリーのリボン」谷口ジロー 画 稲見一良原作 集英社私がその年の読書ベストに推した事のある稲見一良の「セントメリーのリボン」を、想定出来うる最良の漫画家(「事件屋稼業」と「犬を飼う」の作者)が描いた。小説は小説で素晴らしいのだが、時には映画化すると素晴らしい作品になってしまって、見返すのが至福の時間になるような作品はある。例えば「ロード・オブ・ザ・リング」がそうである。この漫画もそういう作品になった気がする。谷口ジローは漫画化するに当たり、出版社の許可が下りず20年待ったらしい。盲導犬協会にも取材し、熱をこめて実に丁寧に仕上げてくれた。また、短編と中編を違和感なく組み合わせてくれた。静かに始まり、静かに終わる。綺麗な表紙なので、犬好きの人にクリスマスプレゼントするのもいいかもしれない。リボンをつけて。【内容説明】竜門卓は失踪した猟犬探しを生業とするアウトロー探偵。5年程前に、祖父の死によって膨大な山地を相続し、人里離れた山奥で相棒のジョーとともにつつましやかな生活を送っている。猟犬探しの謝礼は、自分が決めた額しか受け取らず探す犬の種類も限定するような、自分のポリシーを頑なに貫く、ひと筋縄ではいかない男。そんな竜門のもとに、その腕の良さを聞きつけ、また新たな仕事が舞い込んで来た……。2012年11月15日読了【付記】先日、映画サークルの忘年会でプレゼント交換があり、私はこの本を贈りました。リボンをつけて。
2012年12月12日
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「獣の奏者4完結編」上橋菜穂子 講談社文庫「松明(たいまつ)の火を想像してみて、ジェシ。松明の火は自分の周りしか 照らせないけど、その松明から、たくさんの人たちが火を掲げていったら、ずっとずっと広い世界が、闇の中から浮かび上がって見えてくるでしょう?」息子の頭に顎をのせ、さわさわと春風にゆれる木々をながめながら、エリンは言った。「おかあさんね、そういう人になりたいの。松明の火を、手渡していける人に」(64p)前回、私は「作者の側にヨハル的な考え方(時代に合わせなければいまの生活は成り立たないのだから、リスクがあっても突き進むのは、仕方ない)に批判的な視点がないのが気になる。」と書いた。私は作者が本作を書いていた時には思いもよらなかったはずの「原発問題を考えざるを得ない時代」の課題に合わせて、作者がどう世界を構築しているか「検討」したかったのである。安全が全く確立出来ないままに「再稼働」を認めてしまうような為政者たちに、どんな視点を持っているのかを。作者はやはり、長い射程で世界を見ていた。「知らねば、道は探せない。自分たちが、なぜこんな災いを引き起こしたのか、人という生き物は、どういうふうに愚かなのか、どんなことを考え、どうしてこう動いてしまうのか、そういうことを考えて、考えて、考え抜いた果てにしか、ほんとうに意味のある道は、見えてこない‥‥」エリンは静かな声で言った。「だからね、おかあさんはあきらめないわ、ジェシ。自分から死んだりなぞ、絶対にしない。災いを起こしてしまうのであれば、その災いの真っ只中に飛んで、その先に道があるかどうか探すわ。そして見つけたことを伝えるために、死に物狂いで生き抜くわ」(339p)核兵器も、原発事故も、細菌兵器も、いや戦争は全て「そこには、もう、勝者も敗者も」いないのだ。エリンの選んだ道は、これが「正解」と言えるものではなかったかもしれない。エリンの「再稼働」決断は間違いだったと、ラストには判断することが出来る。しかし、そもそもそういう正解があるならば、小説などで表さず論文を書けば良いのだ。小説には、一度しか現れず、時は覆らない物語の中で生きている主人公の「決断」が描かれる。エリンの決断を活かすも殺すも、結局はその後に渡された「松明」の運命次第だろう。私たちは、幸いにも現実ではなくてこの本の中で「松明」という形で「再稼働」の意味を受け継ぐことが出来るだろう。一回の災いで、全てを捨て去る為政者もいれば、出来ない為政者もいるだろう。それは、現実に生きる私たちや、未来の子供たちの課題である。その時「災いの真っ只中に飛」びこんだエリンの物語は、語り繋いでいかなければならない。2012年10月29日読了
2012年11月27日
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「太白山脈」第一巻 趙廷来 ホーム社発行金範佑は鳳林の前の道を通り、昭和橋を渡ることにした。足元だけを見つめ、そそくさと歩いた。駅に着くまでは決して顔を上げないつもりだった。昭和橋に一歩足を踏み入れてからは一層うつむいて歩いた。橋の半ばまで来ただろうか、彼はぎくっとして足を止めた。上から土が撒かれていたものの、どす黒い色を帯びた染みが目に入った。それがかわいた血痕だと、すぐ気づいた。(略)「昭和橋の下の川の中にも、川岸にも死体がごろごろころがっていて、そりゃ、見ていられねえ」と、数日前に文書房の言った言葉が思い出された。(207p)今年の夏の韓国への旅の中で一番心に残った処は、全羅南道の筏橋(ボルギョ)であった。そこは小説「太白山脈」の舞台である。私は初めてその小説が韓国内で広く読まれていることを知ったし、1948年の麗水・順天事件というものがあり、日本植民地時代の残滓と米ソ冷戦下のもとに、左翼運動の蜂起と挫折の中でいかに多くの人間が亡くなっていたのかを初めて知った。筏橋には、この小説に出てくる地名と建物がほとんどそのまま残されているのである。人間関係は全くの創作らしいが、お陰で小説の情景がありありと目の前に浮かんだ。それどころではない、私は主人公の一人チョン・ハソブが生まれた酒造店の跡取りと(その時は小説を読んでいなかったので)それとは知らずに言葉を交わしていたのである。私はその時聞きかじりの僅かな知識で、その跡取り息子に聞いていたのである。「事件の時、筏橋では現実でも、あの昭和橋の下に死体が山の様に浮かんでいたというのは、本来にあったことなんですか?」「本当です」彼は無造作に答えた。「500人、いや少なくとも200-300人以上は犠牲になっています」「えっ!この筏橋だけで、ですか?」この筏橋は二時間も歩けば主要な所は歩いていける小さな町なのである。「それはいったい…」私は言葉にならなかった。私はそのあと、麗水・順天事件の博物館が無いか、色々問い合わせたが、墓地はあっても資料館は全くない様だ。未だ韓国の中では、歴史的にきちんと整理されていないと思った。小説の中でしか、書けないことはあるのだろう。私はこの小説を読み始め、私自身の長く浅い韓国との付き合いの中で、初めてその人々の心の奥底まで覗いた気がした。2012年10月24日読了
2012年11月10日
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「日御子」帚木蓬生 講談社使譯(しえき=通訳)の視点から見た1-3世紀の北九州の古代史である。作者はよく勉強していて、今まで読んだ古代小説の中では最も詳しく自然な古代社会の再現を行っていて、なおかつ、倭国と中国、朝鮮半島との交流を学説と想像を織り交ぜながらきちんと再現していた。私の夢である古代小説のそのまま「ベース」となり得る小説だったと言っていい。多くの読者にとっては、今まで読んだこともない生き生きとした古代が目の前に広がったのではないだろうか。帚木蓬生の「創造」部分で特に秀逸だなあと思ったのは、以下の通り。・使譯(あずみ族)の家系に伝わる三つの教え。人を裏切らない。人を恨まず、戦いを挑まない。そして、良い習慣は才能を超える。これは、そのままこの作品のテーマにもなっている。特に二番目の家訓の理由として「人が人をいつくしみ、愛している間は、天が導いてくれる。しかしその人間が邪悪な心を持ったとたん、天の眼にはその人間の姿が見えなくなるのだ。つまり天の恩恵が受けられなくなり、その人間は山をうろつく獣と同じになってしまうのだ」と言っている。実はこの教えが巫女頭になった灰のひ孫の炎女から弥摩大国王女日御子に受け継がられ、この物語全体の基調になって行く。・更には、炎女から「骨休めは不必要、仕事を変化させる一瞬に、休みがある」という教えが付け加えられる。これはおそらく帚木蓬生の信条なのだろう。しかし、その弛まず努力する生活があずみ一族を全ての国で生きながえさせる力になるのだ。・一族は「木火土金水」の順番で名前を付ける、という仕組みも面白い。灰(かい)→針(しん)→炎女(えんめ)→在(ざい)→銘(めい)→治(じ)と変わって行く(途中飛んでいるのは、その間特別活躍する描写がなかったから)。そうする事で弥生時代でも堂々と漢字を使う事が出来る。・生口とは何だったのか。深めている。・製鉄の秘密、鉄が国をどのように変えるのか。等々、灰や針や在に中国まで朝貢の旅をさせる事で、我々に「カルチャーショック」を追体験させようとしてくれている。一方で、せっかくの長編なのに、国々の和平への道のりや中国や朝鮮諸国の倭国の国々への扱いがあまりにも「良心的」過ぎるという弱点もあるように感じられた。一言で言えば、「リアルではない」のである。また、良く知られていない弥生時代を説明するあまり、文がくどくなっていた気がする。また、もっと掘り下げるべきところを掘り下げていない。例えばこんな会話がある。「ある生口が、裏切られても、裏切ってはいけませんかと、訊いた。いい質問だった。銘、どう思う。裏切られて裏切り返すとどうなるだろう。この世の中がたちまち裏切りで満ちてしまう。獣にしても虫にしても、魚にしても、裏切る話は聞かない。人の世だけ起きるのだとすれば、これ以上の情けなさはない。獣以下、虫以下、魚以下の世の中になってしまう。そうならないのは、世に、裏切られても裏切らない人間がいるからだ。そうした人間は大河が溢れるのを防ぐ土手に似ている。土手があってこそ、流れは正しく大地を潤し、海に注ぐ。」(在が銘に語った言葉)これを言葉だけで終わらさずに、ドキドキする様なドラマにして欲しかった。そうすれば、現代の課題に答える見事な小説になっただろう。2012年9月25日読了
2012年10月19日
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昨日は中秋の名月でした。岡山は台風一過見事に晴れました。知人が写した満月を拝借しました。「美作の風」今井絵美子 ハルキ文庫(内容紹介)津山藩士の生瀬圭吾は、家路をおとしてまでも一緒になった妻・美音と母親の三人で、つつましくも平穏な暮らしを送っていた。しかしそんなある日、城代家老から、年貢収納の貫徹を補佐するように言われる。不作に加えて年貢加増で百姓の不満が高まる懸念があったのだ。山中一揆の渦に巻き込まれた圭吾は、さまざまな苦難に立ち向かいながら、人間の誇りと愛する者を守るために闘うが・・・・・・。市井に生きる人々の祈りと夢を描き切る、感涙の傑作時代小悦。この人の小説を読むのは初めて。今時代小説で流行っている料理帖モノの先駆けらしいが、私が手にとったのはその理由ではない。この小説の題材が津山山中一揆(騒動)を扱っているからである。この一揆の事はほとんど知らなかった。しかし、岡山の地方を舞台に小説が書かれること自体が珍しく、題材が一揆なのはさらに珍しい。興味を覚えたのである。結果、よく歴史的事実に取材しながら、なおかつ視点を一人の津山藩士にする事できちんととしたエンタメ作品に仕上げていた。それは同時にこの作品の弱点にもなっていたのではあるが。他の人はいざ知らず、私は二年間津山市内の借家に住んでいた事がある。よって、圭吾の住む田町の街並みも、一の宮、川辺、二ノ宮、院庄などの地名も、地図をまざまざと思い浮かべる事ができる。山中一揆がどの様に広がっていったのか、初めて知る事が出来た。享保年間、年貢加増に加えて、津山藩主死亡により領地減知による山中地域の公領への変更で二重に年貢を取られまいとする農民の必死の抵抗が、やがて一揆に広まっていく。藩内の勢力争いが一段落ついた途端に強権発動をする家老。異例の一般農民含めて51人もの犠牲者を出したこの一揆の遠因は、二回の騒動で改易を体験してきた津山藩松平家の体質にある事を描く。また、農民の苦しみよりも藩の存続を第一とする中間管理職たちの「狡さ」も描く。惜しむらくは、一揆首謀者の徳右衛門の人物造形の描写があまりにも説明不足で、何故あそこまで急激に一揆が広まったか、全然説明出来ていないということだ。それを描くと、あまりにも重くなりすぎるので、已めたのであろうか。2012年9月23日読了
2012年10月01日
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「ソウルで新婚生活」たがみようこ だいわ文庫時々思い出した様に買う「楽して覚えるハングル」本の一冊である。確かに印象的な漫画にハングルも日本語も書いている。しかし、何事も意識して覚えようとしない限りは、覚える事は出来ないという事も、覚えるのであった。「一ヶ月も韓国にいればもう韓国語ペラペラでしょう」と人は言う。いやあ、結局なんも覚えれんかった(^_^;)。 韓国「通」初心者にとって、共感出来るところは多く、漫画と文章のツボは抑えている。2012年7月26日読了とりあえず、数日の日記を書き写したぶんだけは韓国旅行記そろそろ始めなくちゃ。
2012年09月09日
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「ロング・ロング・アゴー」重松清 新潮文庫ねえ、運が悪くても幸せなことって、あるよね…」ぽつりと言った私に、母は「幸せに運の良し悪しなんて関係ないわよ。ラッキーとハッピーは違うんだから」と笑ってテーブルから離れました。今気が付いたけど、新潮文庫の重松清の品揃えは大部分が短編集なのだ。しかも、「舞姫通信」「見張り塔からずっと」から始まっており、重松清の実質上デビューからの付き合いだった。「ナイフ」「ビタミンF」「エイジ」文学賞を獲った初期の作品群、鳴かず飛ばずの最近の短編、しかし常に家族にこだわり、テーマも新しいことに挑戦し、やって来たのだということが、この品揃えを見てわかる。今回のテーマは「再会」だと云う。しかし、裏のテーマがある。重松清はいつもそうだ。それは、冒頭に有る様に「運」と「幸せ」の関係である。話は変わるが、(今さらですが)卓球女子の銀メダル本当におめでとう。韓国の地で祝っていました。最高の笑顔ですよね。「しあわせ」な笑顔とはこれだと思います。特に石川佳純ちゃんの今後が楽しみです。
2012年09月06日
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9月1日に26日間の韓国旅行から帰ってきました。今回は途中でカメラは失くすは、二回も台風が来るわで大変でしたが、とても楽しく旅を終わらすことが出来ました。韓国の新たな地平を見た想いです。レポートを始める前に出発前に読んだ本のレポートを済ませておきます。「英雄の書」宮部みゆき 光文社「気をつけろ。〈英雄〉は"輪"に居る。諍いの時代が到来するぞ」宮部みゆきのファンタジーである。基本的に、彼女がこの20年間嵌っているロールプレイングゲームの世界の小説版といっていいのかもしれない。「物語を紡ぐ」とは、どういうことなのか。彼女は、自分の小説世界に分け入って帰れなくなったことがあったのではないか。物語が現実か。現実が物語か。現実には、現実を凌駕する様な陰惨で非現実的な事件も起きる。毎日新聞連載が07年からだそうだが、小泉というエセ〈英雄〉も跋扈していた。「物語とは何だ、ユーリ」と、アッシュは逆に尋ねてきた。「"紡ぐ者"が創るお話。嘘でしょう」「"紡ぐ者"ばかりが作り手ではない。人間はみな、生きることで物語を綴る」ラトル先生も同じことを言っていた。人間は他に生きる術がない、と。「だから物語は、人の生きる歩みの後ろからついてくるべきものなのだ。人が通った後に道ができるように」だが、しかし。「時に人間は、"輪"を循環する物語の中から、己の目に眩しく映るものを選びとり、その物語を先にたてて、それをなぞって生きようとする愚に陥る。〈あるべき物語〉を真似ようとするのだよ」その〈あるべき物語〉は、様ざまな名前で呼ばれる。あるいは正義。あるいは勝利。あるいは征服。あるいは成功。(略)"紡ぐ者"どもは、己の罪を自覚しようがしまいが、一方で希望を、善を、美を温もりを、命を寿ぎ、人に安らぎを与える物語を紡ぐことで、かろうじて業と共に生きることを許されている。この地で"咎の大輪"を回す無名僧どもと、"輪"に生きる"紡ぐ者"どもは、〈英雄〉と〈黄衣の王〉がそうである様に、ひとつの盾の裏表なのだ。(537p)迷宮から戻って来た宮部みゆきは、「かろうじて業とともに生きる」ために、こういう"物語"を紡がざるを得ない。宮部みゆきの、50歳を前にした、一つの作家宣言だったのだろう。しかしこれは一冊で終わらすべきだ。「ドリームバスターズ」でも同じことをやろうとしている気がしてならない。
2012年09月05日
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またまた韓国長期一人旅をしてきます。前回、段取りの悪さで苦労したので出来るだけ準備しようと思って色々見ているのです。こういう本を読むこともその一つです。「韓国歴史地図」韓国教員大学歴史教育科 平凡社高い本なので、韓国旅行の下準備で韓国古代の復習のために借りたのだけど思った以上に良い本だった。古代の処しかみていないが、韓国の博物館によくある古代文献をそのまま歴史的事実の様に表示する様な事はせずに、良心的な記述になっていた。ビジュアル的に作ってくれると、複雑な古朝鮮から三国時代に移る様子がやっと頭に入った様な気がする。細かい戦闘も、地図に落とし込んでいるし、近い将来買ってもいいかな。ただ、遺跡の場所が大まかに地図に落とし込んでいて、地名もわからない。よって、この本で遺跡巡りは到底無理。そこは(他は変に詳しいので)詳しく書いて欲しかった。 【送料無料】韓国歴史漫歩 [ 神谷丹路 ]旅の案内かと思いきや、「日帝」か行って来たことをルポする本でした。本気で行きたいと思った統営・道南にある「岡山村」(戦前、岡山県の住民が沢山住んでいたという処)は、いくら韓国の優秀なサイトNAVERで調べても出てこない。明成皇后ゆかりの地、驪州は、行けるかもしれない。2012年7月19日読了
2012年07月27日
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8月韓国旅行の事前準備の一つである。(←あまり準備にはならなかった)「倭国史の展開と東アジア」鈴木靖民 岩波書店一冊10500円もするので、当然買うことは出来ない。今年の2月刊行、最新の情報が得られると期待していたのであるが、主には2000年代の論文が中心だった。基本は文献史家。資料批判が何処迄なされているか、さっぱりわからないので、あまり参考にならなかったが、一応、彼は日本の書物だけではなく、韓国刊行の書物も一通り目を通しているらしく、アジアの視点からみようみようとしており、刺激を受けた。帯方郡、楽浪郡の成立から滅亡に至る数百年は、そのまま私の目指す弥生動乱、倭国統一の時代でもある。これからもうしばらく考えていきたい。以下防忘録二世紀初頭の107年、倭国王師升等が、生口多数を献上し、安帝に会見を願ったという。(「後漢書」)しかるに倭国王師升とは、倭の面土、すなわち面土=末盧か、イト国かの首長であり、彼が北部九州の小国群の統合体を代表して後漢に入すたのである。奴国を代表する統合体は楽浪郡の後援の元に成立していたので、面土国王は、奴国の側近にして使者という立場で後漢に赴いたのである。(3p)「魏志」東人伝に見られる祭祀での共通部分。ト占は、朝鮮、日本共によく見られる。殺牛(扶余)は、六世紀新羅の迎日冷水碑、等に記され、日本でも「続日本紀」以下の史書に記される。渡来人の影響があったと思える。鬼神(馬韓、弁辰)は先ず農耕祭祀。他に多様な祭祀。(1)春の種下し、秋の収穫、労働感謝(馬韓、弁辰)(2)祖先(祖霊)祭祀(馬韓)、(3)星まつり(高句麗)、(4)社稷(土地神、穀霊)(高句麗)、(5)祭天(高句麗、サイ、扶余)天神(天体)(馬韓)、(6)軍事(戦争)(扶余)、(7)大穴(高句麗)、(8)山川(サイ)、(9)虎(動物神)(サイ)1-4、8は、東アジアの普遍的民俗である。6の例は「日本書紀」で、蘇我物部戦争で、厩戸皇子が四天王像を作り、祈願戦勝をしたという。(71p)楽浪郡、帯方郡の滅亡(312)の後、金海での鉄器の集中と倭系遺物の出土から、既存の流通ルートが変わった。金海は、人的・物的流通センターとなった。(91p)239-247年、魏の公孫氏駆逐を契機として行われた倭国王の帯方郡、楽浪郡との外交は、生口・布・錦・白珠(真珠)・青大勾玉などの特産品を献上し、代わりに各種の高級品を回賜されるという交易の側面を濃厚に帯びていた。当然、経由する弁韓にも外来の物資が行き交い、流通した。金海の大成洞墳墓群や少し時代を遡る良洞里墳墓群で出土した中国東北系の遺物、おおが木槨墓が受容されたルートの一つだろう。(92p)180年の倭国争乱頃、弁韓南部でも同金海の鳳凰洞などの高地性集落、大成洞墳墓群などでの鉄ていの集中的な出土、昌原・城山の製鉄遺跡、義昌での鉄状鉄製品の出土、加えて洛東江下流域での鉄鉱山の分布、などを考え合わせると、鉄を巡る覇権洗いの起こった可能性は十分に考えられる。例えば、「三国史」列伝の脱解王の居道が居漆国とキト?王国を攻略した説話を、キト?王国を蔚山地方に比定し攻略の目的を鉄生産を巡る争いと解釈する説かある(李賢恵1998)。2012年7月11日読了
2012年07月25日
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「咲、白磁の小さな壺があったな。あれを持ってきてこの手に握らせてくれないか」 すっかり熱は下がったようなおだやかな表情であった。咲が巧の手に小さな八角壺を握らせた。巧はそれを頬に当てた。「冷たくてとても気持ちがいい」 そつ呟くのを聞いて咲は、巧の熱がまだ高いことをさとった。「白磁というのは本当にいい。こんなに冷たくて気持ちがいいのに、見つめていると心は温かくなってくる…」(まるであなたの人柄そのものじゃあないですか、白磁の温かさは) 咲は巧の呟きに対して、心の中で答えた。 巧の病症は一時回復の兆しを見せた直後、再び悪化した。(148p)「白磁の人」二宮隆之 河内書房映画「白磁の人」を観て、今も韓国の人たちの敬慕の対象であるという稀有の日本人、浅川巧について興味を覚えた。興味を覚えると、いろいろ知りたくなるのが私の悪い癖で、先ずは原作を読んだ。ついでに言えば、八月の韓国旅行の準備でもある。浅川巧の墓参は一つ決定している。映画は見事にこの原作を換骨奪胎、脚色していることを知った。悪軍人小宮中尉は、原作では途中で心を入れ替える事になっているが、映画では敗戦時に朝鮮人によって袋叩きにされる。映画では最も感動的だった巧の母親のエピソードは、原作では全く入っていない。著者も書いているが、巧の態度は「クリスチャンだったから」というよりも「巧という人間が持っていた心の純粋さ」からきたものだと私も、思う。浅川兄弟や柳宗悦の民芸運動は、朝鮮民芸の発掘に貢献したかもしれないが、当時の日本の植民地政策に何の痛痒も与えなかった。むしろ、武断政治から文治政治に移る時に利用された感さえある。個人は時代を変える事のできない事の証左でもあった。しかし、一方では、個人は人を変える事が出来る。それは、一粒の種かもしれないが、40年後の日韓新時代の一衣帯水に花開く事もあり得るのだとも思う。まだ、それは道半ばではある。
2012年07月24日
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あの日、君と Boys (集英社文庫) (文庫) / ナツイチ製作委員会/編 伊坂幸太郎/著 井上荒野/著 奥田英朗/著 佐川光晴/著 中村航/著 西加奈子/著 柳広司/著 山本幸久/著「今まであちこちの学校に通ったけどさ、どこにでもいるんだよ。『それってダサい』とか、『これは格好悪い』とか、決めつけて偉そうにする奴が」「そういうものなのかな」「で、そういう奴らに負けない方法があるんだよ」僕はその時はすでにブランコから降り、安斎の前に立っていたのだと思う。ゲームの裏技を教えてもらうような、校長先生の物まねを伝授されるような、そういった思いがあったのかもしれない。「『僕はそうは思わない』」「え?」「この台詞」「それが裏技?」(「逆ソクラテス」伊坂幸太郎)安斎くんや僕や優等生で美少女の佐久間さんは、いつも担任の久留米先生に貶められる様な扱いをされる(結果的にクラスでいじめを受けている)草壁くんへのみんなの先入観を打ち破る為に、様々な仕掛けを画策する。大津のいじめ自殺(殺人)事件が喧しい。イジメで自殺した教室に、安斎くんは必要だったかもしれない。伊坂幸太郎は、参考文献に「超常現象をなぜ信じるのか」(菊池聡)をあげているが、この題名の権威と言えば、安斎育郎氏が有名な事は、伊坂幸太郎も知っているだろう。だから、隠れ主人公に安斎くんと名付けたのだと思う。更に言えば、これをきちんと理論だてて何度も言及していたのは、安斎育郎も敬愛していた加藤周一である。事実認定は科学の領域である。しかし、価値認定は文学や思想や「個々人の思い」の領域であって、それは明瞭に区別されなければならない、とずっと言っていたのである。イジメは価値認定を事実認定であるかのように押し付けられる、クラスの中の一つの運動だろう。更に加藤周一は、ベトナム戦争で「なぜ文学者や素人の市民が結果的に正しい判断をしたのか」という事も言っている。政治学、あるいは歴史学の場合には、学問が進めば進むほど歴史的な現象が現在起こっていることの必然性を理解することになるので、進めば進むほど批判力が低下する。そう考えると、なぜヴェトナム反戦運動が数学者と英文学者から出て政治学者から出なかったかが説明できる。(『私にとっての20世紀』)この「あの日、君と」という短編集、夏休みのためのオリジナル文庫である。伊坂幸太郎は今回この文庫のために、書き下ろしの短編小説を書いた。専門家が跋扈する「原発」時代の少年少女や我々に必要な「文学」を感じているのかもしれない。「僕はそうは思わない」それは、イジメから脱出するためにも、独りデモに参加するためにも、有効な呪文になり得るだろう。さて、この文庫、結局みるべき短編が載っているのはこの伊坂幸太郎と、奥田英朗「夏のアルバム」、西加奈子「ちょうどいい木切れ」だけだった。あと五人も中堅どころの作家がかいているのだが、なんだか小説家志望の作文の様に感じた。奥田英朗も、西加奈子も、初めて読んだが、やっぱり有名な作家は有名なだけはあるのだ。2012年7月8日読了
2012年07月22日
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「初つばめ」藤沢周平 実業之日本社文庫 町を横切って堀ばたに出たところで、目の前をすいと掠めすぎたものがあった。そのものはあっというまに白く濁ったいろをしている春の空に駆け上がり、陽射しをうけてきらりと腹を返すと、今度は矢のように水面に降りて来た。 ーおや、つばめだよ。 となみは思った。立ちどまって、水面すれすれに下流の八幡橋の方に姿を消すつばめを見送った。今年初めて見るつばめだった。今年どころか、何年もつばめを見たことなどはなかったようにも思う。(202p「初つばめ」)「松平定知の藤沢周平を読む」選という副題がついている。松平定知が朗読番組で紹介した作品を集めたという。ほとんどは今まで読んだことのある短編のアンソロジーである。けれども、こうやって買ってみなければ、案外再読の機会は無いのだと思い知った。次は何が出て来るのか、という愉しみもある。本棚の奥に眠っている文庫の再読では、読む前に読んだ気になる短編も幾つかでてくるので、興が削がれる事があるのである。人が選んだものならば、ほとんど最後までラストを思い出さない。藤沢周平の短編は、設定が全く同じでもラストが違うという作品が多いからである。松平定知が朗読を始めたキッカケになった「踊る手」は、最初から最後まで全く記憶になかった。藤沢の市井ものは、全部読み尽くしたと思っていたが、もしかしたら目こぼしがあったかもしれない、とかえって嬉しくなった。久しぶりに読むと、やっぱりなんという透明な文章なんだろ、と思う。「踊る手」は最初から最後まで子供の視点での話だった。途中で大人になったりはしない。それでいて描いている世界は、大人の貧困の世界で、しかもラストはなんとなく明るい。成る程、名作だと思う。「初つばめ」の場合は、まるで短編の教科書のように、「つばめ」の文字を借りて、弟の為に苦労し通しだったなみの人生が好転する萌しが鮮やかに描かれていた。どのように教科書なのか。‥‥‥それを説明するのはやはり「やぼ」である。ただ、「何年もつばめを見たことがなかった」やえの半生を想うばかりである。2012年6月21日読了
2012年07月20日
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今日の「さようなら原発17万人集会」では、市民のタテカンとともに労組の旗も目立っていたという。確かに労組が全国から結集している。けれどもそれは動員とは少し違う。そもそも労組の動員だから市民の行進とは違うと考えるほうがオカシイ。関東圏では交通費も出ない手弁当参加は多いだろうし、地方でも相当あるだろう。交通費は出ても貴重な祝日を潰して参加するのである。そこには『怒り』があるのだ。さて、この前読者モニターで珍しい本格労組小説なる物を読んだ。以下は、ブログ読者宛というよりか、講談社編集者と作者に向けて書いた文章である。ちなみに現在は労組とはひとつ機関紙に映画評連載を抱えるだけで大きく手を切っています。「ともにがんばりましょう」塩田武士 講談社 なにを隠そう、私は91年から05年にかけて連続14年間労組の中央執行委員という役職をこなして来た者である。別に好きでやっていたわけじゃない、好きでやるはずがない。毎月まる一日会議で潰れ、下手をすると関連会議や合宿、労働交渉、集会等々で、休みや仕事が終わった後の半分以上が潰れるのである。「私の青春を返せ」と言いたい。(←それでも何故やっていたか。成り手がいなかったのと、使命感、そして世界が広がる面白さである) この小説は無謀にも、そういう労組活動そのものをまるまる描いている。労組員500人と言えば、私の所も正規(1番多い時は)500人、パート800人だったので、似ているとも言える。ここでは、執行委員は一年交代だと云う。まあ、そんな所もあるだろう。しかし、いかにも非現実的な処が散見する。ろくな専従もいないのに、あまりにもスムーズに引き継ぎが行われる。新執行委員はみんなベテランのように労組の仕事をこなしている。それから、一般的に非労組員は、労組活動に無関心だ、この小説にもそういう記述はある。しかし、一般労組員があまりにも労組に協力的だ。新聞社社員となれば、忙しい仕事の代表選手だ。労組活動に見向きもしなくて当たり前だと思えるのであるが、なんと毎月の央委員会の前に支部長会議が成立し、中央委員会が実出席でほぼ全員で成立して、物凄く活発に意見が出るなんて、私の処ではあり得なかった(100人に6人の役員配置は妥当。本来は分会がないといけない。それにしても、分会長会議でも100%近い出席率は凄い)。こんな戦闘的な労組が果たして存在するのか。 また、これは提案ですが、回答がでてからやっと職場の声を経営にぶつけて事態が進展する場面がありましたが、団交は提出団交の時に「現場の意見」を最も出すべきです。私の処では、提出時に800人団交をした事もあります(←今は昔)。経営者の対応や、交渉の推移もあんなもんだと思います。小説で読むとひつこいぐらい同じようなことを議論しているようにみえるが、労組対経営では、力関係では最初は情報量、人事権、等々で経営の方が上なのだから、あとは「団結の力」しか武器はないのです。ひつこいぐらいの議論がなくては、勝てないのが現実。(労使協調の労組とはそこが違う)普段、表に出る事のない労組活動をよくぞ小説にしてくれました。そのことだけは、感謝します。 これは、秋季闘争でしたが、最もきついのはいうまでもなく春闘です。是非とも春闘編まで頑張って下さい。ともにがんばりましょう。
2012年07月16日
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「わが母の記」井上靖 講談社文庫母の頭を毀れたレコード盤が回っているだけの場所のように考えていたが、そのほかに何か小さな扇風機のようなものでも回っていて、それが母にこの人生から不必要な夾雑物を次々に払い落させているかもしれないのである。(82p)映画を見て興味を覚えたので、20年ぶりぐらいに井上靖を読んだ。小説のようなエッセイのようなこの連作を読んで、やっぱり井上靖は上手いなあ、と感心した。乾いた文章の中に隠しきれない叙情性がある。映画では、樹木希林の演技に総てを負っているが、小説では、「頭の中の消しゴム」や「レコード盤」等の絶妙な比喩を使いながら、耄碌していく頭を見事に描いていて、私の読んだ中て一番説得力のある認知症小説になっていた。単に病状の描写が素晴らしいだけでなく、毀れた頭を理解することで、自分の母親の人生を理解するようにななる。おばあちゃんの時のことを思い出した。驚いたのは、映画では一番涙を搾った「あの場面」が、じつは映画的創作だった、ことである。
2012年07月13日
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「司馬遷の旅」藤田勝久 中公新書司馬遷は生涯に少なくとも七回中国大陸を広く旅した。二十歳のときには、長江流域の史跡を辿り、曲阜で孔子の礼を学び、影響を受けること大であった。その旅で、どの様なことを見聞きし、学んだのかを想像する事は、「史記」を読む以上に波乱万丈の司馬遷の人生を髣髴させるだろう。まろさんに教えられて、この本を紐解いたが、「史記」の研究者でもない私はとりあえずあまり紹介する文章はない。しかし、豊富な地図は、いつか中国を旅するに十分である。まさに幾千万の旅ポイントがあることをしったのである。今回の読書記録がちょっと淋しいので、この前棚田を見て、津山洋学資料館を見たときの旅の記録をあと少し付け加えます。あの棚田を見た後は県北津山に行きました。用事を済ましたあとは、すっかり観光気分。津山城下を散策です。城下町なので、やっぱり京都みたいに玄関の間取りで税金が決まっていたのでしょうか、全ての家が玄関間取りは狭くおくに細長い家の間取りになっています。隣が空き地になっているここなんかはその様子がよくわかります。出雲街道が通っていたここは、昔は栄えていたらしい。表通りはこんなに綺麗にそろえています。なぜかほとんどの家にこの可愛らしく不気味な人形がぶら下がっています。なんだったんだろ。出雲街道を一本外れれば、昔の面影がいまだに残る道があります。狭い道です。その狭さを利用して、ちょうどここの場所が寅さん映画の最後の作品第48作において、ひろしとサクラの息子が後藤久美子の花嫁行列をじゃまして、後藤久美子をさらっていく場面が撮影されました。普通の道だけど趣のある道、映画の人たちはやっぱり目の付け所が違います。
2012年07月11日
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《岩波文庫》アリストパネース著 高津春繁訳女の平和 【中古】afb「性的ストライキでもって、ギリシャの女たちは平和を勝ち取った。」 ギリシャ時代初期の戯曲にして、史上初の平和思想を謳った書物だとも云われる。有名な古典である。しかし、それだけで読んだ様な気持ちになって未読のままだった。しかしやはり読んでみないとわからない事は多い。 最近「テルマエ・ロマエ」という「ローマのお風呂」という映画が大ヒットしている。その中でも、戦争で疲弊しているローマ兵士の疲れをいかに癒やすかということが大きなテーマになっていた。 男たちは戦争を始める。それが大前提になっている。そして女たちは間違いない無く全員戦争がなくなればいいと思っているのである。喜劇だから、表明できたのだろう。しかし、その表現の素晴らしいこと! 提案者が「戦争を終わらせるにひと肌脱いでくれる?」と聞くと、女たちは一様に賛成する。「私はね、平和が見えるというなら、ターユゲトスの頂上にだって行く」この山は2407mらしい。ちょっとした大登山である。カロニーケの反応が最も面白い。「私はね、まるでカレイの様に身をふたつに割いて、半分を喜んで提供するわ」さらにもう一度念を押す。「やりますってさ、たとえ死ななくちゃならないったって」で、性的ストライキを提案すると直ぐに意見を翻す。「ほかのことなら、なんだっていいけど、必要とならば火の中だって歩くわよ。(性のストライキだけは勘弁してということらしい)」でも、説得されて本当に平和がくるの?と段々本気になって行くのである。「暴力で無理矢理やってきたら?」この答えがいい。「仕方ない、しぶしぶ従うのよ。暴力で得たものに楽しみはなし」「なあに、すぐにやめるわよ。女と協力しなければ、男は決して愉快になれないんですからね」ローマ市民たちが大笑いしているのが目に浮かぶ。 お風呂文化と云い、この様な観劇文化と云い、人類は果たして「進歩」しているのか。 読んで分かったのは、彼女達の戦略はこれだけでは無かったのである。アクロポリスを同時に占拠して、戦費の凍結を図っているのである。 役人との問答で、戦争を止めるにはどうしたらいいか。紡錘の糸の喩えでもって説明している。「第一に、洗い桶で生の羊毛を洗う様に、このポリスから油脂と汚れを洗い落として、台の上で無頼漢どもをたたき出し、アザミを摘んで取り除き、政権を求めて党をなし羊毛の中の塊みたいになっている奴らを梳きほぐし、その核を抜き取らなくてはなりません。それから市民、在留外国人、外国人、それから国庫の債務者も、みんないっしょに混ぜ合わせ、全体に共通の善意という糸巻き籠の中へ梳き入れる。それからこの国の植民都市を一つ残らず、これは別々に引き出した糸と同じに考える。次にみんなから糸を取り、ここに集め、一つにまとめ、それから大きな糸玉をこしらえあげて、この玉から国民の外套を縫ってあげなくちゃなりません。(49p) 昔も今も平和を実現するためには、畢竟、内政を良くし、外交で勝ち取るしかないのだ。
2012年07月10日
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堀田善衛は結論は自ら持ってはいるが、押し黙り書かずにそれを提示する文体である。実際に会えば、難しい爺さんだったかもしれないが、色々考える処あり、好きである。ある文が目に止まった。 かつて1945年の日本敗戦のとき、8月15日から一週間ほど過ぎたころ、当時上海にいた日本人の間に、どこからともなく、ひとつの流言が伝えられてきた。 それは広島と長崎に投下された原子爆弾によって、当の広島と長崎はもとより、広島から始まって、中国地方及び近畿一帯、また長崎から始まって、九州全部に、じわじわと放射能が広がって、人々は全滅するであろう、というものであった。 当時として、放射能に付いての知識や情報なども、ほとんど皆無の状況にあって、それは胸に重い錘鉛を打ち込んでくるような、暗く重い経験であった。 そうして、その流言を流言として、明白に否定してくれる人も情報もまた、皆無であった。かくて、敗戦後の10日目ほどのある夜、故武田泰淳が、十枚ほどの原稿用紙にしるしたものを持って、日僑ーそれは外国にいる中国人を華僑と呼ぶことと相対する言い方であるー抑留地区の、ある家にいた私を訪ねてきた。武田氏も私も、同人雑誌『批評』の同人で、私は詩人ということになっていた。ー詩をひとつ書いたから見てくれないか。と武田氏が言った。対して私は、ー見るというより、あなた自身読んでくれないか。と答えた事を覚えているが、奇妙なことに私は、武田氏のその詩が漢詩であろう、と早合点していたのであった。武田氏が、中国文学の専攻者からでもあったが、武田氏は、私のすすめに率直に応じてくれて朗々と朗読を始めたのであった。それは長い、長い、長詩であった。 その冒頭だけがいま私の耳裡に残っていて、しかもそれは私の耳裡に残っているだけであって、そのあとの数十行、あるいは数百行は、武田氏の引き上げ帰路の混乱の間に、一切失われてしまったのである。 その冒頭の一行、 かつて東方に国ありきそれが武田氏の長詩の開始一行であった。 かつて東方に国ありき その国には、その国に固有なものと、中華大文明との混淆と相互醸成による、一つの確かな文化があった。しかしいま、その文化が、原子爆弾による放射能によって滅亡するとなれば、幸か不幸か、中国の地にあって敗戦を迎えた、われら日本の文学者は、中華大文明の庇護のもとにあって、かつて東方の島国にあった文化を、営々として継承しなければならなぬ運命にあるものではなかったか‥‥‥。 武田氏の長詩は、おおむねかかる趣旨を、堂々かつ悲傷を籠めた調べの、文語体によるものであった。 当時、私たちはまだ若かった。私は28歳で、武田氏は33歳であった。(268P)これは、堀田善衛「天上大風」(ちくま学芸文庫)の中にある「国家消滅」(1990)という文章の一部である。 堀田善衛がこの文を書いたのは、原発のためでも反核のためでもないが、現代の私たちには、あったかもしれない、あるかもしれない或る風景が目の前に広がるだろう。実際、「そのようなこと」になれば、私たちは、国内にいても国外に逃れる可能性が高い。その時感じるのは、ひとつはここにあるような哀しみにも似たどうしようも無い「喪失感」であるに違いない。想像しただけで、私は自分自身を失ったような気分に成る。しかし、考えてみれば、福島の或る人々は、永遠に「ふるさと」を既に失っているのである。まだ私は目にしていないし、それが形になるにはまだ時間がかかるのかもしれないが、いつか武田泰淳の長詩みたいな詩に私たちは、出合うことになるのだろう。
2012年07月06日
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「フィッシュストーリー」伊坂幸太郎 新潮文庫「英語で『fish story』 ってのは、ほら話のことだ」(205p) 伊坂は「ほら話」の力を信じているから、ほらの中に真実があると信じているから、 小説を書いていられるのだろう。 「だいたいさ、正義なんて主観だからさ。そんなのふりかざすのは、恐ろしいよ」「おまえはいつも難しいことを言う」と父が苦笑した。「だから、結婚できないのかね」母がまた言う。(148p) そして、多分「正義」を信じている。(私と同じように)ずいぶん捻くれた信じかた 、だけど。 「フィッシュストーリー」他三遍の中編含むこの本、伊坂ファンとしては珍しくこのの作品を見落としていた。同じような題名が多いので、読んだものと思っていたみた いだ。今回映画「ポテチ」上映を記念して読んでみた(これを書いている時点ではまだ未鑑賞)。帯に出演者の名前に、濱田岳、木村文乃、大森南朋、石田えりの名前がある。主人公今村に濱田岳は決定しているだろう。となると、ちょっと捻くれた恋人大西は木村文乃という新人なのか。多分黒澤は大森南朋だろうな。脳内映写をしながら読み進めていったのだけど、途中で話の大筋は分かってしまって、何処に落ちるのかだけが関心事だった。木村文乃の出来が総てを決めるような気がする。結局「ゴールデンスランバー」のような多くの伏線を回収する爽快感は無い。一体これをどうやって二時間の映画に仕上げるというのか、私の関心はそちらに移って行った。 「これ、いい曲なのに、誰にも届かないのかよ、嘘だろ。岡崎さん、 誰に届くんだよ。俺たち全部やったよ。やりたいことやって楽しかったけど、ここまでだった。届けよ、誰かに」五郎は言って、そして清々しい笑い声を上げた。「頼むから」(200p) そして伊坂は「希望」を信じている。(私と同じように)ずいぶん捻くれた信じ方だけど。 そして、映画を見た。配役予想は全員合っていた(←流石、私)ところが、想定外だったのは、映画作品には珍しい中篇映画だったのです。見終わった直後に書いた感想をそのまま載せる。評価は五点満点で四点。原作を4日前に読んだばかりだった。こんな中編を何処まで膨らませるのかと思いきや、どんどん進んで行ってあっという間にラストへ。後で確かめると、たった68分の中編だった。 いつも通り、原作通りだ。若葉さん役の木村文乃があんまりすれっからしじゃないのは意外だったけど、これはこれで良い。本で読むより展開が速くて、ついついラストでは、若葉さんと同じで「たったこれだけのことなのに」泣いている私がいた。結果を総てわかっている筈なのに…。いや、一つだけ。中村監督が重要な役で出ていて、初めてお姿拝見したけど、名前と作風からしてもっとスリムな人だと思っていました(^_^;)。
2012年06月14日
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いちおう、読書記録なので絶賛であろうが、酷評であろうが載せることになります。十津川警部ファンの人がいたなら、すみません。「十津川警部「吉備 古代の呪い」」西村京太郎 中公文庫初めて西村京太郎の作品を読む。決して決して十津川シリーズが読みたかったわけではない。当然のことながら、古代吉備について書かれた本なので、食指が動いたのである。内容紹介小説「吉備 古代の呪い」が好評を博した岡山県総社市在住の郷土史家が、招待された古代史研究会の前夜、服毒死した。そして招待状は偽物だった!?ビックリした。こんないいかげんな推理小説初めて読んだ。十津川警部の推理は、肝は全部「想像」である。根拠は無い。都合良く犯人があぶり出される。さて、「非常に面白い」と小説の中で絶賛される「吉備古代の呪い」であるが、温羅伝説と歴史の折衷案である。ほとんど小説の体をなしていなくて、単なるプロットに過ぎない。多分西村京太郎が本物の郷土史家によもやま話を聞いて、チャチャチャと作ったのが関の山である。一回ぐらい鬼の城と吉備津神社、吉備津彦神社に取材して、美味しい酒を飲んて、作ったぐらいの代物でした。この人は小説を舐めている。(←あまりにも酷いので、ちょっと見境なくなっています、すみません)
2012年06月03日
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「かあちゃん」重松清 講談社文庫内容(「BOOK」データベースより) 同僚を巻き添えに、自らも交通事故で死んだ父の罪を背負い、生涯自分に、笑うことも、幸せになることも禁じたおふくろ。いじめの傍観者だった日々の焦りと苦しみを、うまく伝えられない僕。精いっぱい「母ちゃん」を生きる女性と、言葉にできない母への思いを抱える子どもたち。著者が初めて描く「母と子」の物語。 「母は、わたしとあなたのお母さんを会わせなかったんです。わたしにひどいことを言わせなかったんです。あなたのお母さんというより、わたしを守ってくれたんだと思うんです」友恵さんは啓太くんを振り向き、「最近わかったの」とわずかに笑って言った。啓太くんは黙って目をそらしたが、友恵さんはそのまま私に続けた。「立場が逆転にならないとわからないことってありますよね。あのときあなたのお母さんに言わないで良かった、母に止めてもらって良かった…」(50p) 語り手が章ごとに代わる連作方式。一章ごとに様々な立場の母と子の関係、許し、許される、或いは、許さず、許されない、関係が描かれる。 「とんび」の父子関係でもしこたま泣かされたが、コレにはそれ以上ヤられた。特に最後の7、8 章は要注意である。決して人前で読んではいけない。 内容と全く関係ないが、母のことを思い出した。 私の母親は、死んだ一、二年間 は望んでも夢で出てくる事はなかったが、それ以降は当たり前のように元気な姿で出てくる。登場回数は多分私の周りで一番高いと思う。決して怒らない人だった。唯一怒ったのが、私が六歳のとき、わが家の建て前で大工さんや親戚一同が飲んでいる時に、兄ちゃんと一緒に残ったグリコのキャラメルの箱の「おまけ」を全部開けた時である。残り物だから、開けてもいいさ、と兄ちゃんが言うから私は嬉しくなったのだ。どんなものが出てきたか、私は全然記憶が無い。ともかく、気がつくと私と兄は母親の前でずいぶん長い間正座させられ、ずっとベソをかいていた。母親は生涯で多分一番怒った。ずっと泣きながら、怒った。「こんな情けない子に育てた覚えはありません」ずっとそんなことを言っていた。あの時ほど、母親が怖く、そして悲しかった事は無い。でも、あの時の事は、未だ夢ではかすりもしない。 さて、ここでは、26年間夫の巻き添えで死んで仕舞った同僚の家族のために笑顔を封印し働きづくめに年取った母親が出てくる。頑固である。相手側から非難される事は、一切無いけど、決して許されると思っていなかったのだろう。そして、イジメに加担した友恵さんの息子も同じようにある「覚悟」する事になる。頑固になる。イジメをし、自殺未遂に追い込んだことを決して忘れない。それを肯定的に描いたのがこの小説だ。これは、著者重松清本人も同様だ。彼の場合はイジメられた側かもしれない。ずっと彼の文庫本を買っているが、何があったか知らないが、初期のあるときから、彼は文庫本の解説を一切拒否するように なった。もう既に20年近くになるのではないか。彼の作風や言動からは、窺えない「何か」がある。それが、おそらく人間ということで、面白い。
2012年05月27日
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「とんび」重松清 角川文庫健介の寝顔に目を戻し、息を大きくついた。よし、よし、とまた二度頷いた。「親が子どもにしてやらんといけんことは、たったの一つしかありゃあせんのよ」「…なに?」「子ども寂しい思いをさせるな」海になれ。遠い昔、海雲和尚に言われたのだ。子どもの悲しさを呑み込み、子どもの寂しさを呑み込む、海になれ。なれたのかどうかはわからない。それでも、その言葉を忘れたことはない。(405p)NHKのドラマは観ていないが、ロケ地になった西大寺五福通りと今回六ちゃんを嫁に送り出す堤真一の「ALWAYS 三丁目の夕日'64」は観た。それで脳内ドラマは完璧だったと思う。海が見えるお寺はこの前行った尾道にさせて貰った。後半からは、(周りに人がいるので嗚咽は出来なかったが)洟をすすりつづけた。私に子どもはいない。けれども(今は亡き)親はいる。ヤスさんとタイプは違うけれども、共感する処多かった。ベタベタの父子物語たけど、悪い気はしない。騙された気はしない。途中から「理」のスジは押しやられて「情」のスジが私を通って行った。2012年3月4日読了
2012年05月26日
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『男は旗』光文社文庫 稲見一良船上レストラン兼ホテルのシリウス号に次々と個性的な面々が集い、冒険目指し出港する。 稲見一良9冊の単行本のうち、5冊目に当たる本書は、まだ体力を保っていた頃の最後の長編。切れは無いけど、愛しい登場人物たちが縦横に活躍する。 日系三世の美少女シャーリーが出港を前に二式飛行艇を博物館からまんまと盗み出す。切実な必要に迫られての盗みではない。遊びである。しかし稲見一良は、二冊目の長編「ソー・ザップ!」でもそれぞれの技を競い合っての四人と一人が命のやり取りをした。いうなれば命をかけた「遊び」であった。短編では、まるで遊びのように老人と少年が米軍基地から米軍機を盗み出すラストもあった。 社会倫理から無縁の所で、男の「美しさ」を求めた稀有の小説群が稲見一良の小説だろうと思う。 「変なことを伺いますが、ブックさんが書いてこられた小説はどんなものですか?いわゆる純文学というやつですか?」「初めから終わりまで、つまらない言葉の羅列に尽きるシロモノをジュンブンガクという。だが、眠れない夜、睡眠剤として効果がある、と言った男がいる。第一、純文学とか通俗文学なんて区別するのは日本だけだ。私が書きたいと思うのは、ハルヲ・サトーのいう″根も葉もない嘘八百″ だ。物語の中の男や女 と一緒になって、ワクワクドキドキする小説だ」(219p) 2012年5月8日読了
2012年05月24日
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「おそろし 三島屋変調百物語事始」宮部みゆき 角川文庫 さて、世にも怪奇な物語をひょんなことから17歳のおちかが聴き取る事に相成りました。とは言え、まだ五話でございます、これからまだまだ続くというこの話、そもそも何故おちかが怪奇話を聴くやうになったかといへば、おちか自身がとっても恐く、おそろしく目に遭ひ、或いは、恐く、おそろしい事をしたからでございます。ショックを受けて心を閉ざしがちになった姪を江戸に引き取り、元気つけようとして、主人の三島屋伊兵衛がショック療法で始めたモノなのでございます、処が、怪奇は、一回話を聴くだけでは収まらず、なかなか大変なことになって参ります、詳しくは読んで頂くとして、それでおりくは、何故か、元気になって行くのでございます。 このお話の作者の意図を、解説で縄田一男うじが、見事に書いていらっしゃいます。それを書き写して、私の簡単な話の紹介に変えさせて頂きたく思います。 戦後の高度成長期からバブル期にかけて、来世に地獄も極楽も無いと割り切ってしまった時点で、物質的豊かさに溺れ、現世に極楽を見いだすべく奔走に奔走を重ね、かえって地獄を作り出してしまった日本人そのものの姿ではないか。また書きての側からいえば、戦前はお金は無くても心があった時代であり、戦後は心は無くてもお金があった時代。そして平成の今は、心もお金もなくなった時代。宮部みゆきは、その乱離骨灰と化した日本の荒野に、人間のあるべき姿を取り戻すべく、物語を書き続けているのではあるまいか。(489p)
2012年05月23日
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「書店ガール」碧野圭 PHP文芸文庫本屋が本をきれいに並べないでどうする。魚屋が魚を、八百屋が野菜を綺麗に並べるのと同じことだ。こうしてきちんと本棚に並んでいると、お客様に取ってください、とスタンバイしているようじゃないの。みんなは平台ばかり気にするが、棚の並べ方だって大事なことだ。五ミリのラインで一直線に背を見せる。しおりの紐が背の側に垂れていないように、スリップは飛び出さないように本の最終ページに深く挟み込む。そういうことに気を配ってこそ、書店員だ。手を掛けて一段一段、綺麗になっていく棚を見るのは楽しい。掌の感触で本を実感する。忙しさにかまけて手を掛けないでいると、その棚のあたりは空気が淀んでくる気がする。(42p)解説の北上次郎さんが、美味しいセリフを全部紹介したので、とりあえずこれを選びました。書店員は前にも書いたが、憧れの職業である。この本を読むと、労多くして給料少なしということはわかるが、一冊の本の持っている「力」を信じているので、その「現場」には憧れるのだ。今回は大野梢のような推理小説ではない。あえて言うと、お仕事小説だ。書店閉店の危機に反目しあっていた女達が団結するという話である。ありきたりの話ではあったが、楽しく読ませて頂いた。
2012年05月20日
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「サイン会はいかが?」創元推理文庫 大崎 好きでないと勤まらない、よくそう言われるが、好きであることさえ忘れるようなめまぐるしい毎日だ。検品、品だし、レジ、返品、発注、そこに接客業の煩わしさや、売り上げの重圧がかかり、これ以上出来ない、と切れそうになるのはたびたび。激務の割りに低賃金でもある。辞めていく人も多い。 けれど、本をかいしてのささやかな出来事は、ときにたのしく、ときに刺激的で、ときにはほろりとさせてくれる。(292p) 本屋に勤めるのが、ささやかな夢である。大変な事は、このシリーズを読むとよく分かる。それでもその夢が色あせない。けれど、しがない岡山の地方都市には、書店の求人は一切ないのである。 このシリーズを読むのは、三冊目。すっかりファンではあるが、ホントは少し物足りない。日常の推理物はすきなのだが、ちょっと謎解きが「恣意的」、つまり北村薫の云う「本格的」ではないのである。短編集の今回は、それでもテンポが好いので、それも気にならなくなる。そして、私の「物足りなさ」は、作者の意図が私の思いとずれているからではないかと、今回気が付いた。 すごい書店、すごい売り場に憧れるものの、その「すごい」とはなんだろう。頭の中にはすぐにマニアックな専門書がずらりと並んだ都会の大型書店も浮かぶし、二坪ほどの小さな書店にぎっしり詰まった書棚もかすめる。でも自分が本当にやってみたい「すごい」とは、どちらからも離れているような気がする。そればかりか、「すごくなくてもいいから」という言葉が浮かび、大きく引っ張られた。 自分が目指したいのは、すごくなくてもいいから身近な人たちが笑顔をのぞかせてくれるような棚だ。(262p) あんまり「本格的」なのも本当は良くないのかもしれない。それは、いろんな事に通じる。
2012年05月19日
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北方謙三「草莽枯れ行く」(上)を読んだ。 相楽総三と清水次郎長の話。これは明確に日本版「水滸伝」だ。革命小説だ。 自分が武士なのか町民なのか、総三は昔から考えていた。国はすべての民からなり、武士はその中の一部である。その一部の者が、学問を修め、国がどうあるべきかを考えていた。だから今、時代の流れを導くのは武士であるべきなのだ。しかし、それは、武士以外の民に受け入れられるものでなければならない。 民の意志が作られるのは、そこからだろう。そのために、武士は命を賭ければいい。米一粒も作ってはいない武士に、出来ることは命を賭けてすべての民を縛る古い価値を打ち壊すことである。(38p) 北方謙三なので、単純な幕末小説などになるはずがない。一方の主人公に清水次郎長を選んでいることでもそれはうかが える。清水次郎長の周りは今で云う「不良の溜まり場」だ。しかし、百鬼夜行の幕末では、其処のほうが珍しい程「真っ直ぐな男たち」が居る。そして、総三も、珍しい程真っ直ぐな理想家肌の革命家という設定なのである。 「もう一ついいですか、坂本さん」「なんだね?」「私の友人に、決起を試みている尊攘派の志士が居ます。その男は、どこの 藩の人間でもない。しかし、決起すべきだと考えているのです。たった一人であろうともね。それを見て他の武士が集まる。やがてそれは大きな流れになって、時代を作っていく。そう考えている男が居るのです。」「草莽の志士か」「そうです」「草莽は枯れ行く。そしてまた新しい草莽が芽吹く。それを繰り返し、無数の草莽が、大地を豊かにしていく。その大地から大木の芽が出ることもある」「いつ?」「五十年先か、百年先か」「そんな」(173p) 益満休之助の云う「友人」の相楽総三と坂本龍馬はやがて合間見える。 「藩は大木。大木には大木の役割があり、草莽には草莽の役割がある。大木があって草莽があって、はじめてまことの大地でしょう」「気持ちは分かる。気持ちは分かるぜよ、相楽さん」「私も、坂本さんと話してみて、坂本さんの気持ちは分かるような気がします。確かに、倒幕の戦いは、薩摩と長州が組めば闘えるかもしれない。しかし私はそこに、草莽が加わったという歴史を刻んでおきたいのです。ほんの小さなものでもいい。間違いなく草莽の力があったということをね」「相楽さん」坂本は、弄んでいた靴を寝台に放り出した。「あんたの言うことは、正しいぜよ。しかし、正しいにもいろいろあるきに、それを考えてくれんかのう。このわしとて草莽よ。どこの藩の後ろ盾も無い。薩摩と長州を駆け回って、商売をしようとしちょる。草莽は、草莽の生きる場所ちゅうもんがある、とわしは思うぜよ。大木と一緒に雨や風に叩かれたら、草莽は枯れる。わしはそう思う。雨や風に叩かれるのは大木に任せ、わしらはわしらの生きる場所で生き延びればいいきに」(230p) 前の章で「草莽は、枯れ行く」と達観していた坂本は、相楽と共に草莽として生き延びようと、語っている。矛盾なのではない。これが革命の日々なのだ。 おそらく、坂本龍馬の暗殺が相楽総三を変えるだろう。それは、下巻の話になるだろう。
2012年04月18日
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読書モニターで読んだ本。「私の箱子」 一青妙 講談社「開けた瞬間、台湾から届いた手紙のにおいがした。」父母が亡くなって何年も経ってから開けた母親の箱子。その中には、父母のラブレター、父親からの手紙、母親の日記、その他いろんな「思い出」が詰まっていた。1970年生まれ、台湾ハーフ、台湾五大財閥の一つの家に生まれた父親の環境を色濃く受けながら、それでもまるで一昔前のような親子の手紙のやり取り、細やかな愛情を一身に受けて、著書はこの家族物語を綴っています。近くて、それでも韓国ほどには、まだ知られていない近現代の台湾の実像を知るよすがにもなり、とても興味深いエッセイでした。また、私の父母が亡くなった後に見つけたラブレターとも言えない手紙のやり取りの束のことも思い出してしまいました。雑多な思い出箱の様に順序不動で描かれる家族の歴史の中に、著書はこれから生きる道標を見つける。それは多分どの子供にも共通する作業なのだと思う。ただ、国民性なのか、全てを語らなけれは気が済まないかたりぐちは、エッセイイスととしては、どうかと思う。
2012年03月26日
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ガソリンの値上げがこの月曜にあった。これでうち打ち止めにはなりそうにない、さらに上がるだろう。それはペルシャ湾の機器から来ている。アメリカはイランが悪いのだと言う。しかし、私たちはイランのことをほとんど知らないで今まで来た。情報はほとんど入らない。そういう中で、このマンガは新鮮だった。「ペルセポリス 2 マルジ、故郷に帰る」マルジャン・サトラビ 園田恵子訳 バジリコ出版 二巻目は、1984年から1994年まで15歳から25歳迄のマルジの疾風怒濤の青春時代が描かれる。 ウィーンでの4年間、恋とマリファナ、自由と責任、そして身体の成長と精神の成長とのバランスと取り方に失敗して(しかし、日本の若者よりも十分大人ではあるが)、マルジはイランに帰る。イランはイラクとの停戦直後だった。 両親は相変わらず進歩的思想の持ち主だか、社会はヨーロッパと比べれば非常に抑圧的ではある。しかし、彼らは強かに自由を愉しむ術を持っていた。 1991年、湾岸戦争が起きる。彼らの意見は西洋、特に日米間のそれとは、少し「視点」が違う。私は大いに傾聴に値すると思う。彼ら親子の会話を聴いてみよう。 (西洋のスーパーが買い占めに走っている報道を見て父娘は笑う) 父「いかれてるよ。戦争は6000キロも遠くで起きているのに怖がるなんて。あんまりお気楽に暮らしているから、何にでも不安になるのさ」 母「何を笑っているの」 マルジ「テレビの、湾岸戦争に怯えるヨーロッパ人を見て、あの人たちはよっぽど悩みがないんだろうって言ってたの」 母「いつからイランのメディアを信用するようになったの?反西洋の宣伝工作がその目的なのよ」 マルジ「気にすることはないわよ、ママ。西洋のメディアもイランを攻撃しているもの。そうして私たちは、原理主義者でテロリストだっていう悪評が生まれるんだから」 母「それはそうかも。こっちの狂信とあっちの軽蔑と、どっちもどっちね」 母「個人的にはサダムが嫌いだし、クウェート人にも何の親近感もわかない。でも、自分たちを「解放者」と呼ぶ連合軍の厚顔無恥さも同じくらい嫌いだわ。連中がいるのは、石油のためなんだもの」 父「その通りだ。アフガニスタンをみてみろ!10年間戦争をして、90万の死者を出したのに、いまだ、混乱状態だ」 父「誰も指一本動かそうとしない。アフガニスタンが貧しい国たからだ」 父「最低なのは、クウェートへの介入が人権の名のもとになされていることだ!どの権利だ?どの人間だ?」 もちろんイランでこの様な人たちは、少数派だった。しかし、歴史は彼らの分析が正しかったことを示している。 もちろんイランがテロリストかどうかはともかく、原理主義的な思考をしがちだということは忘れ無い。しかし、それ以上に私たちとしては、西洋のハイエナ的な思考を忘れてはならない。 特に現代の様な新たな石油危機が起きている様な時に、当たり前のことだけど、イラン国内に宗教はちがうが、合理的思考が出来る「庶民」がいることを忘れてはならない。
2012年03月21日
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「ペルセポリス1 イランの少女マルジ」バジリコ出版 マルジャン・サトラビ 絵を一目見た時、日本の漫画の概念とは大きく違う内容に違和感を覚えた。しかしやがてこれもマンガなのだと思う。しかも、かなりの傑作である。以下の絵が冒頭のページである。 1979年、10歳のマルジがイスラーム革命に出会う、イランイラク戦争が始まり、1983年独りでウィーンに疎開する処迄が第一巻である。 ヴェールの下に隠されているイラン女性の強(したた)かさ、賢さ、悩みを真正面から描き、あの時イランに「何が起きていたのか」、感情を抑制した、白黒をハッキリさせた絵で見事に描き切っている。 信仰と革命と戦争の日々。進歩的な両親のおかげもあり、10代とは思えない批判精神に富んだ社会の描き方である。 イスラーム革命のあと、政治犯が釈放された。彼らからマルジは直接「拷問」の話を聴く。そして革命家の叔父アヌーシュとの交流と死別(左翼革命がイスラム教の革命に転化した)、そしてうまいことにイラクとの戦争が起こり、国論は一つになる。爆撃されて死んでもおかしくない状況のなかで、マルジはそれでもイギリスのロックやヘヴィメタルの洗礼を受けていたりする。 ウィーンに行く前の晩、祖母はマルジに云う。「この先おまえはたくさんのバカに出会うだろう。そいつらに傷つけられたら、自分にこう言うんだ。こんなことをするのは愚かな奴だって。そうすれば仕返しなんてしないですむ。恨みや復讐ほど最悪なことはないんだから…。いつも毅然として、自分に公明正大でいるんだよ」 …思うに、これもイスラム教の教えなのである。
2012年03月20日
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TBSTV「運命の人」が最終回を迎えた。原作で言うと、最終巻をほぼ1日の二時間スペシャルにまとめたという感じである。またTVらしい脚色もあり(琉球ガラス職人の女性が米軍被害者の少女に直接会うというようなこと等)、どうかという点もなきにしもあらすであった(読売渡辺恒夫モデルがかっこよく描かれすぎ)が、原作にない2011年の風景もちらりと見せて終わらせたことには「よかった」と思う。近年にない良心的な作品であったのではないか。ちなみに原作はつい一週間ほど前に読み終えたのであった。「運命の人4」山崎豊子 文春文庫「 日本全体のうちの0.6%に過ぎない面積に、米軍基地の75%が集中している異常な状態が、祖国復帰後13年経っている今なお続いていることを、本土のヤマトンチューはどれほど知っているだろうか。新聞記者時代、沖縄返還協定の取材に当たり、最初にスクープ記事を放ったのが、米軍の基地返還リストであった。当時、弓成は記事の中で返還される基地の少なさを批判したが、今にして思えば紙の上の憤りでしかなかった。沖縄に住んでこそ実感出来たこの不条理を、もっと国民全体が知らねばならない。その伝え役の一人にならねばと、強く自覚した。」(96p)最高裁にも敗れ、自暴自棄になった弓成は沖縄に一人安住の地を求める。其処で、新聞記者時代のスクープ合戦から離れたところで、真の「沖縄問題」に入って行く。此処で出て来る証言者の何人かは「実名」である(山崎豊子は良い関係が持てた取材相手を描く時、時々そのようなことをする)。そのうちの一人、反戦地主の島袋善祐氏の話を私も90年代の初めに聴いたことがある。職場の私的サークルで沖縄戦績めぐりをした時、ラッキーにも氏のバラ畑に訪ねて話を聞けたのだ。生粋の沖縄人らしい丸い輪郭に掘りの深い顔立ち、人懐こい笑顔と楽しそうに語る土地闘争の衝撃的内容が印象的だった。密約問題の本質は、この四巻目にいたり、やっと本題に入った。この様な構成を、私は支持する。2012年3月10日
2012年03月18日
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「楊令伝7」北方謙三 集英社文庫 「人間は小さなものだと思う。濡れた砂で作った、像のようなものだ。乾けば、崩れる。だから、志が必要なのだ。誇りも」 と、楊令は云う。 童貫軍との本格的な戦いが始まった。 呼延灼の最期は「水滸伝」を視野に入れてもベストテンに入る名場面だったと思う。 その直後の楊令のトラウマにはビックリ。
2012年03月04日
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「運命の人 3」山崎豊子 文春文庫「大野木です。最高裁から通知が届きました」? いつもと変わらぬ静かな声に、上告が認められたのかと体を乗りだしかけたが、大野木弁護士はそれから長い間、沈黙していた。「先生ー」「決定は上告破棄です」「そんな!そんな馬鹿な」沖縄返還密約事件を描くTBSの「運命の人」プロデューサーの瀬戸口克陽氏はこのドラマの本質に付いて「マスメディアも本来は闘うべきだったのに防戦一方になり、本質がすれたまま、男女の問題として展開していった。国民にとってもっとも大事なものはなにかという大きな視点に立つことは出来なかったのか。きちんと検証すべきだと思います」原発問題で、真実を自ら明らかにしようとしない政府や官僚らの姿に「40年経った今も、基本的構造は何も変わっていない」と語ります。(赤旗日曜版1月29日号)?第三話が終わった。弓成記者はあっさり逮捕された。これからしばらくあまり面白く無い裁判劇になるが、果たしてどのように料理するのか。??さて、第三巻は丁寧に裁判経過を追っています。判断は読者が出来るぐらいの材料は出ている。TVの問題意識は良し、もう同じ轍は踏んで欲しくない。「もっとも大事なことは何か」沖縄の人々の命の問題である。沖縄の人々の地方自治の問題である。宜野湾市長候補の伊波洋一さんは、そのふたつを大事にする人だ。防衛局長が職務権限で圧力をかけようと、負けられない闘いではある。そして、それを突きつめていけば必然的にアメリカのいうなりに、沖縄を犠牲にしようとする、琉球のときから繰り返し繰り返しつかわれる「捨て石」という位置づけ。これにきキッパリ、ノーという人が求められている。伊波洋一さんはそういう人だ。
2012年02月02日
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