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李陵 山月記 ハルキ文庫 / 中島敦 【文庫】 「李陵」 この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于に降服を申出れば重く用いられることは請合いだが、それをする蘇武でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下して了った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄を持して曠野に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌したとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を──滑稽なくらい強情な痩我慢を思出した。単于は栄華を餌に極度の困窮の中から蘇武を釣ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠に凄じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人げなく見えた蘇武の痩我慢が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人己が事蹟を知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵は、かつて先代単于の首を狙いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。 中島敦「李陵」を初めて読んだ時に、私は誤読をしていた。李陵は最後まで自分に誇りを持って人生を全うしたのであり、蘇武は漢への忠節を持して極北で19年を耐えたのだ。そこには、忠節に対する男の態度の違いがあったのだ。という読み方をしていた。 久しぶりに本作を読んで、戦前に書かれたにしては、(正に隠れて天皇制批判をしているかのように)兵士が捕虜として捕まった時にどういう風になるのか、を予め予行演習しているかのような展開に驚きを禁じ得なかった。それと同時に、私の読み方は大きな勘違いであることに気がついた。 蘇武は「節旄を持して」忠節を守っていたから、耐えたのではなかった。「痩我慢が、かかる大我慢にまで成長してい」たのである。意地を張るとも云う。誇りとでも云うだろう。そして、李陵はそんな蘇武に気後れをする。しかし思うに、李陵にしても自死しなかったのは、義理などではなく誇りだっただろう。それが最後の漢の使節の誘いを断固断る処に結実する。 翻って、北方謙三版「李陵」である所の「史記武帝紀6」では、どのように描いたか。 北方も「節旄」を守ってという形にはしていない。むしろ、蘇武は自然を楽しんでいた。さらには、狼を飼ってそれに武帝の名前を付けて徹としていた。「国がない。そんなものを求めて蘇武は酷寒の地にいるのか」と李陵に呟かせている。蘇武の中にむしろ無政府主義者への端さえも見つけようとしているのである。そういう李陵に、蘇武に対する「気後れ」はない。この李陵もやはり、武帝に対する憎しみを越えて、自らの人生を選びとっている。しかし、そこまで描くのに五巻目と六巻目、本を二冊まるまる使っている所が中島敦とは違う処である。 2014年3月4日読了
2014年03月06日
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「史記 武帝紀6」北方謙三 ハルキ文庫 「読み終えたぞ、桑弘羊」 「今上本紀まで、でございますか?」 「そうだ。太初年間の俺のことまで、これでもかというほど書いてある」 「お怒りになっては、おられないようにお見受けします、陛下」 「ほかの帝の記述は、見事であった。俺が気になったのは、俺だけが、ある感情にもとづいて書かれたのではないか、ということだった。司馬遷を、見くびったものよ。ほかとまったく変わりなく、俺の強さも、名君たるところも、いや凡庸さや愚かさや弱さも、はっきりと書かれている。俺がいて、俺を読んでいる。俺はそういう思いにとらわれ、昨夜はほとんど眠れなかった。そして今日になっても、どこにも不快なものはないのだ」(312p) その後、武帝は父親の孝景本紀と今上本紀のみに不快を示して破棄を命じた。司馬遷は、それは「自分でも気づかぬまま、抱いた」武帝の死を願う気持ちを見抜かれたと思い、却って喜ぶのである。 司馬遷の今上本紀は武帝の無味乾燥な儀式のみを描いて全く面白味がない。おそらく、書き直したモノだと思う。 ここで、北方謙三は「司馬遷は武帝に復讐をするために史記を書いたのではないか」という説や、武帝は司馬遷の史記を読んでいないか、内容を理解していなかった、という説を尽く否定した。 司馬遷は自ら気づかないほどの武帝への「私情」をなくして、司馬遷としての「歴史」を書いたのであり、武帝はそれを理解した。となっている。それもまた、漢(おとこ)と漢の関係ではあるだろう。しかし、武帝はまだ列伝までは読んでいない。武帝は果たして「大苑列伝」を読んでも同じ感想を抱くだろうか。北方は果たしてそれを描くだろうか。それは最終巻を待たねばならない。 それと同じ漢と漢との関係は、この巻では李陵と蘇武の間でも描かれる。ただそれは中島敦「李陵」との比較で論じたいので、ここでは置く。 しかし、司馬遷の武帝への感情の変化、蘇武の武帝への感情の変化について、この巻では繰り返し繰り返し述べられる箇所があった。それこそが、わざわざ一巻をかけて武帝紀を書いた理由なのだろうが、冗長なのを感じざるを得なかった。蓋し、謙如不及遷。 2014年2月25日読了
2014年03月05日
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「普請中」(ちくま文庫版森鴎外全集2「普請中 青年」より) 12月の旅で買った古本である。有名な鴎外の「普請中」を読んでみた。「日本はまだ普請中だ」と言った鴎外の日本論を知りたいと思ったのである。日本論ではなかった。しかし非常に巧妙な小説だった。 渡辺参事官は木挽町のまだ仕上げ工事が残っているレストランで、留学時代付き合っていた踊り子と再会する。彼女は男連れで公演旅行をしていたが、渡辺にはまだ気持ちが残っている風情を見せる。しかし、渡辺は完全に醒め切っていた。まるで「舞姫」の後日譚のような仕掛けではある。 「大丈夫よ。まだお金はたくさんあるのだから」 「たくさんあったって、使えばなくなるだろう。これからどうするのだ」 「アメリカへ行くの。日本は駄目だって、ウラヂオで聞いて来たのだから、あてにはしなくってよ」 「それがいい。ロシアの次はアメリカがよかろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」 「あら。そんなことをおっしゃると、日本の紳士がこういったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がといいましょうか。あなた官吏でしょう」 「うむ。官吏だ」 「お行儀がよくって」 「おそろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ」(80p) フィリステルとは、ドイツ語で俗物、固陋な人間ということである。舞姫と恋愛した昔の青年森鴎外はここにはいない。粗筋は陳腐な男と女の話だが、それを明治末年の日本の姿に重ねているのが、この文豪のなんとも「凄み」ではある。 親しく交わるべきドイツ西洋文明(舞姫)は、忘れた頃にロシアから流れて日露戦争に勝ったばかりの日本にやって来た。しかし、日本(渡辺)にはドイツと腰を据えて全面的に交わる余裕はないのだ。彼らは忙しい。全てが精養軒営業直前までトンカラリとするほどに普請中なのである。新興国のアメリカに行っても仕方ないと、日本は彼女を冷たく見送るだろう。しかも、渡辺の作ろうとしている日本は何なのか。それは多分「俗物」でしかない、と森鴎外は云うのである。 「五足の靴」で、北原白秋、木下杢太郎、与謝野鉄幹たちがのんびりとした九州旅行をした三年後、この短編を書く直前の明治43年(1910年)の5月に何が起きたか。大逆事件である。この一ヶ月後に書いた「ル・パルナス・アンビュラン」では、自分の葬儀を戯画化してみせた。11月の「沈黙の塔」では、当時の文学をざっと概観してみせて「社会主義、共産主義、無政府主義」やマルクス、バクーニン、クロポトキンなどの 名前さえ出てくる。12月の「食堂」では、 「今度の連中は死刑になりたがっているから、死刑にしない方がよいというものがあるそうだが、どういうものだろう」 敷島の煙を吹いていた犬塚が「そうさ、死にたがっているそうだから、監獄で旨い物を食わせて、長生きをさせてやるがよかろう」と言って笑った。そして木村の方に向いて「これまで死刑になった奴は、献身者だというので、ひどく崇められているというじゃないか」と云った。(174p) という逆説で、どうも死刑反対を書いていると思う。鴎外はおそらく事件後の文学への弾圧を正確に予想し、そして恐れていただろう。一ヶ月後、幸徳秋水たちは死刑になる。 森鴎外の役人の顔と文化人の顔と。科学の顔と文学の顔。俗物と倫理。森鴎外は凄かった。したたかさが垣間見える一冊であった。 2014年2月13日読了
2014年02月17日
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「恍惚の人」有吉佐和子 新潮文庫 最近どうしても読みたくなって、30数年ぶりに再読した。このベストセラー本が私の実家の本棚に入ったのは、確か昭和48年。私は中学生だった。読んだのは、高校に入って数年後、埃をかぶった箱カバーを開けた。夏休みの無聊を慰めるためだったと思う。この物語の一人息子敏くんとは同年代になっていた。 当時の私の家には「老人問題」が勃発していた。80歳後半になろうとしていたおばあちゃんは、もう一人で外出は出来ず、家族の顔も時々間違えるようになっていた。廊下に失禁の後が延々続くのは、もう少しあとだったか? 昔読んだ時は、茂造老人の人格の豹変、家族の名前をいびり抜いた嫁と孫しか覚えてない、突然の徘徊、キリのない食欲、夜中の幻覚、そして糞の畳への塗り付け等々にショックを覚え、それぐらいしか覚えていなかったことを読みながら思い出した。 今回再読して、ものすごく新鮮だった。いま敏世代は介護する側に回っている。私も数年前には父親の最期を看取り、一昨年から叔母夫婦の介護計画を立て悩んでいる。嫁の昭子の右往左往、仕事を辞めないで介護しようとする彼女の工夫と努力と間違いには、大いに共感した。今回は完全に昭子の立場で、あるいは茂造老人の立場で読むことができ、景色は大きく広がった。 昭和47年刊行のこの時代、介護保険はおろかヘルパーさえいない。高度経済成長の最中の老人介護問題という面であらゆる矛盾が噴き出てくる直前に、この本が出てきたのだろう、と今ならわかる。 私のおばあちゃんは結局看護婦長をしていた叔母が毎日介護にきてくれて、刊行から約10年後92歳で家の中で往生した。その叔母ももういない。 恍惚の人は認知症の人と名前を変えて、私の現在と未来を未知のモノにしている。 2014年2月8日読了
2014年02月14日
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「走り出す」笹本敦史 去年「民主文学」で新人賞を受賞した笹本敦史さんから最新の「民主文学二月号」を頂いた。感謝。そこに受賞第一作「走り出す」が巻頭で載っている。前回「ユニオン!」は、生協の委託労働者が労組を作って団体交渉をするまでだったけど、今回は生協労組が委託労働者の組織化の端緒をつけるまでの「前日譚」である。視点は生協労組の女性専従、山田妙子になっている。 「いつもなら、配達が終わってからパンか何かを買って食べるんですけど、今日は早く帰るつもりだったから食べなかったんですよ」 今井は空腹を訴えるように腹を押さえた。 「でも早く終わらなかったということね」 「そうですよ。帰ろうとしたらセンター長に呼ばれて」 「センター長って、生協の?」 「そうです。あの人は悪い人じゃないんですけど、突然、仕事を言いつけることがあるんですよ。今日も利用人数が目標に届かないから、電話で注文をとってくれって言われて。オレ個人の目標は達成しているんですよ。ひどいですよね」 妙子は一度頷いた後、言った。 「でもね、目標がどうこういう前に、センター長が直接あなたに指示すること自体が法律違反なのよ」 「そうなんですか?」 今井の声が大きくなった。 「偽装請負っていうのが問題になったことがあるでしょう。あなたに指示できるのは雇い主である協同デリバリーの上司だけ。生協が直接指示したら偽装請負ということになるのよ」 「でもセンター長に限らず、ブロック長とか普通の職員とかがいろいろ言ってくることがありますよ」 「困ったものよね。『あなたの指示を聞く筋合いじゃありません』って言ってやればいいのよ」 今井は慌てたように首を振った。 「無理ですよ。生協さんのおかげで食わせてもらっているんだぞってマネージャーが言うんですよ。何があっても生協の職員さんに逆らってはならんって怒られるんです」 「生協の方には労働組合から言うから、今後そんな事実があったらすぐに教えて」 妙子は微笑みながら言った。(164p) 前回は委託労働者の秒刻みの労働実態を描いて迫力があったが、今回はたたみこむようなリズムある会話の応酬に魅力があった。 そして、女性ベテラン専従の妙子と、百戦錬磨のようでいてアルコール依存症の河田、実直で大人しい書記長の香川、委託労働者で組織化のキッカケを作けど自分本位の今井、委託労働者のいかにもリーダーらしい横山等々と、それぞれのキャラクターをはっきり立ち上げているのも魅力的。 そして、今井の強烈なキャラで全然進んでいなかった組織化が一挙に進み、端緒がついた途端に今井は気まぐれに辞めて、代わってしっかりしたリーダー横山が入ってくる。ところが、その横山が過労死なみの労働で倒れて、次の新しいリーダーが入るキッカケになる。まるで「小説のような」展開なのだが、なんと全て事実らしい。いくつかの微妙な性格は創作であるが、モデルは誰もが分かるような感じで存在するらしい(^_^;)。 そんな風に、テーマは小説としては珍しい「労組の組織化」なのに、短編の中にちゃんと伏線の言葉やら、ドキドキの展開やらがあり、エンタメとしても読めるところが「新しい民主文学」だと、私はこの新人に期待しているところなのです(←エラソーだな)。 2014年2月8日読了
2014年02月10日
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「降魔の剣」北方謙三 新潮文庫 日向景一郎シリーズの第二弾である。あれから五年。旅を終えて江戸に住居を移し、景一郎はひたすら土を練り始めた。 大人のエンタメである。婦女子にはお勧めできない。いや、別に読んでも違法では無いのだが、「こんなに不道徳で、いやらしいくて、人でなしの男たちが登場する話を読ませて、許さない!」と怒られても私は関知しないという意味である。 父親の子ども森之助と叔父の鉄馬と共に暮らしている。景一郎の強さは既に鬼神の域にある。人ではない。鬼から人になろうとしていたのだろうか、土を練りながら人になるときもある。鉄馬は女に溺れ、左腕を失くし、死亡フラグは思いっきりずーと立っていたが、なぜか生き残る。森之助は不気味に育っている。 強いとは何なのか、とふと思ったりする。 景一郎は、陽炎の中に榊原を見ていた。鬼は、どこなのか。また、俺の心に戻ったのか。ふるえる。なにかが、ふるえはじめる。駆けていた。榊原も。陽炎が消え、すべてが鮮明になり、自分の息が聞こえ、蹴散らされる土が見えた。駆けている。鬼。追っているのか。追われているのか。(286p) 2014年1月24日読了
2014年02月09日
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「歴史小品」郭沫若 平岡武夫訳 岩波文庫 老子、荘子、孔子、孟子、始皇帝、項羽、司馬遷、賈誼らの人物についての短編集である。もちろん様々な書物から材を採っているが、最大のモノは司馬遷「史記」であることは、訳注を読むと明らか。エピソードの多くがそこから引用していることが読み取れる。 もちろん四書五経からも多くのエピソードを採る。所謂中国古典教養を換骨奪胎して庶民に「読み物」を提示したのが、これだと思われる。もちろん、途中のちょっとしたエピソードや最後の一文で作者は自らの創作を入れる。それらは画龍点晴と同じく、成功しているのと、失敗しているのがあるだろう。 司馬遷のエピソードは、あまり作者の創作は入らなかった。すっかり「ヒゲがなくなったのに」相変わらずヒゲをさする真似をして舌打ちをするエピソードだけは、作者の創作であろう。真面目な司馬遷が舌打ちをするのか、どうかは私は判断出来ない。 司馬遷は自叙伝を最後まで書き終えた処で、終わらせている。引用は有名な「あの部分」である。そうだろう、そうだろう、と私は肯く。 2014年1月29日読了
2014年02月04日
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「美味しんぼ 110 福島の真実1」作・雁屋哲 画・花咲アキラ 小学館 最近あの「美味しんぼ」がすごいらしい、という噂を聞いて思わず買ってしまいました。 「美味しんぼ」が110巻まで続いているということにもビックリしたが、去年一年間は丸々「福島の真実」という連載を続けていたということにもビックリした。マンガが放射能汚染問題を描いたからでは無い。それはマンガの使命であって、むしろ遅いぐらいだ。そうではなくて、この「週刊ビックコミックスピリッツ」の看板シリーズが二年間の取材を経て、正面から原発問題を描き切ったらしいことに、関係者たちのなみなみならぬ努力を感じるからだ。単行本の後編は今年二月末に出るらしい。 単に福島生産者の苦悩だけを描いてはなく、消費者の立場から自ら現場に行って全て線量を測っている。また、会津地方などの線量は不検出なのに風評被害で売れなくなった美味しそうな料理の紹介も忘れていない。 単行本の裏表紙には、その一覧がある。写真は飯館村の郷土食・凍み餅である。ほとんどの料理は、岡山ではみたことのないものばかりだった。飯館村では、事故以前に取られた物で作られた料理が振舞われた。それを食べて、あの海原雄山が泣くのである。 「目の前にある食材が飯館村最後の食材。少なくとも向こう10年以上は手に入らない貴重なものと思うと万感胸にせまった」 2014年1月19日読了
2014年02月01日
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「The MANZAI 6」あさのあつこ ポプラ文庫 ぼくは秋本が好きだ。感謝している。この街に来なかったら、秋本に出逢わなかったら、ぼくはこんな風に前を向けなかった。頭のあげ方を、笑いながら歩くことを、まっ、いいかと開き直ることを、他者の笑いをエネルギーに換えることを、まっすぐに他人に向き合うことを、自分を信じていいんだということを、一人で生きることを、誰かと生きていくことを、お好み焼きの美味しい食べ方を、リフティングのコツを、グラスの洗い方を、キャベツの芯が意外に美味いことを、人間がうざくて熱苦しくて、だからこそ、面白くてかけがえのない存在なのだということを、ぼくは秋本から教わった。みんな、どれもこれも全部、秋本が教えてくれた。 だけど、反対だってあるはずだ。 ぼくが秋本に教えた何かが、与えた何かがあるはずだ。あると信じたい。信じなきゃやってられないじゃないかよ。(184p) 最終巻だから、歩くんが心の中でこんな風に呟いてもいいじゃない。友情の純粋な部分をチラリと見せてくれたって、いかにも気恥ずかしくて本人の前では間違っても気取られてはいけない男の子らしい告白を見せてくれたって、まあ許してあげましょう。 五年前に読み始めたポプラ文庫創刊時のシリーズの結末部分が、ポプラ文庫らしいこのような少年の友情物語で終わってホント良かった。 5巻の正月のドタバタを読んでいた今年の7日までの時に、私の私的リアルでも、やっぱり私の長引いた歯痛や叔母の入院や叔父の兄の急死やなどたった一周間の間に暗くなることもあったけど、そしてこの6巻の中でも親しくなったおばあちゃんの急死や秋本の出生の秘密やらあったけど、私の歯痛は急激に痛みが緩和し、叔母の容態は安定し、お兄さんの葬儀は恙無く済んで、この物語もそれぞれは爽やかに終盤に移った。マア、世の中も物語も完全ハッピィエンドなんてありはしない。 2014年1月12日読了
2014年01月30日
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「本へのとびら ー岩波少年文庫を語る」宮崎駿 岩波新書 少し宮崎駿の認識を改めねばならない。私は「宮崎駿は、世界は滅ぶべき運命にあると確信している人」と思っていた。ナウシカの漫画版後半や「もののけ姫」「ハウルの動く城」などを見ていると、そう思わざるを得なかったのである。しかし、宮崎駿はこの本の中で繰り返し以下のようなことを述べる。 何かうまくないことが起こっても、それを超えてもう一度やり直しがきくんだよ、と。たとえいま貧窮に苦しんでいても、君の努力で目の前がひらける、君を助けてくれる人間があらわれるよ、と、子供たちにそういうことを伝えようと書かれたものが多かったと思うんです。そうじゃないでしょうか。 要するに児童文学というものは、「どうにもならない、これが人間という存在だ」という人間の存在に対する厳格で批判的な文学とは違って「生まれてきてよかったんだ」というものです。生きてて良かったんだ、生きていいんだ、というふうなことを、子供たちにエールとして送ろうというのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけだと思います。(163p) 「終わりが始まった」と彼は現代を認識している。 生きていくのに困難な時代の幕が上がりました。この国だけではありません。破局は世界規模になっています。おそらく大量消費文明のはっきりした終わりの第一段階に入ったのだと思います。 そのなかで、自分たちは正気を失わずに生活していかなければなりません。 「風が吹き始めた時代」の風とはさわやかな風ではありません。おそろしく轟々と吹き抜ける風です。死をはらみ、毒を含む風です。人生を根こそぎにしようという風です。(151p) そのなかで、未来には希望を持っている。少なくとも絶望を選択してはいない。 本当の終わりが始まった時代に、軽々しくファンタジーを作れない。けれども「いずれ必ず、新しいファンタジーは出てきます」(164p)、と宮崎駿はいう。 私は宮崎駿の世界観を全面的に賛同はしていない。けれども、現代を「轟々と風が吹き抜ける」時代だという認識には、賛同するし、いつかはそこで未来を掴み取るファンタジーが出来上がる(それは宮崎駿の作品ではない)ことに賛同する。 2013年12月28日読了
2014年01月16日
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ちょっとチカラの入った読書ノートはいとま申して、ストックから北村薫の新作を一つ。 言い訳。何しろ歯が痛い。治ったかと思うと、時折急激にやってくる。この一週間でロキソニンを30錠以上飲んだ。胃がボロボロである。今宵はやっと予定の歯医者にかかる。「おかげでおせちもお餅も酒も無かったよ」と嫌味を言うべきかどうか迷っている。 「いとま申して 「童話」の人びと」北村薫 文春文庫 途中で読むのが嫌になった。 狙いは共感出来る。 北村薫のお父さんが遺した日記を手がかりに、大正末から昭和初年の旧制中学生の青春と、金子みすゞや淀川長治も寄稿した雑誌「童話」を巡る昭和の空気を再現しようというのだろう。 構成も、いかにも北村薫らしい。 日記の一つの言葉に拘って、再現無く調べてゆく。よって世界は広がらない。政治や歴史は語られない。それも日常の謎解きを大切にする著者らしい拘りなのだろう。 ただ私は、大正から昭和にかけての「時代」のイメージが全然湧かなかった。残念という他ない。 2013年12月20日読了
2014年01月06日
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あけましておめでとうございます。除夜の鐘が鳴った途端に、歯痛の激痛に苛まれ、七転八倒のお正月を迎えた私です。健康の大切さを身に染みてわかった今年の一日目でした。 緊急医から応急処置してもらったのに、鎮痛剤がなかなか効かなくて昨晩も七転八倒しました(涙)。 さて、やっと痛みが落ち着いたので、今日の午後映画に繰り出しました。そして、調子が良かったのかさらに軽いこの本を一冊読了したのでありました。 「The MANZAI 5」あさのあつこ ポプラ文庫 2008年の正月、私はかなり暗い環境でこの明るい青春漫才ストーリーを読んでいた。末期ガンの父親の看病をしながら、毎日付き添いで寝ずの番をしながら読んでいた数冊のうち一冊がこれだったのである(読んだのは一巻目と二巻目)。あの頃はまさかこれが全六冊のシリーズになるとは思っていなかった。でも彼らの話にかなり癒されていた。 中学二年から一年と少し経って、ツッコミの秋本をイヤイヤながらウケながら瀬田歩も、色恋を絡ませながら仲良し7人組が成立する。今回は、中学三年の大みそかから正月にかけてのてんやわんやの一節である。 歩は大みそかのてんやわんやで、なぜか病院に担ぎ込まれる。そこで「不治の病でもう長くない」と元旦の朝にシクシク泣いているおばあさんに出会う。図らずも、今年の正月、そういう気持ちになる入院患者の気持ちはよく分かるのである。歯痛の激痛の中、お気楽な正月番組を聞きながら、明日の治療の展望もないままに、10分が永遠のような時の中では、闘う気力は一晩で無くなるモノです。さそういえば、末期ガン父親も病院が始まるまでの五日間何度も「はよ死なせてくれ」と言っていた。指定の数倍の麻薬パッチを要求して、何もわからない我々兄弟は、貼っても貼っても苦しみが治まらない父親を眺める他なかった。後で病院の医師から「そんなに貼っていつ死んでもおかしくはなかった」と言われた。それ程までに、今の苦しみから逃れるためには何でもしたくなるモノだと、図らずも今年私も体験したのである。昨晩は既定の量を越えて鎮痛剤を飲んだりした。おばあちゃんたちが元旦の朝に泣きたくなるのも当たり前です。 そんな時に、秋本、歩の「ロミジュリ」コンビが即興の漫才パフォーマンスを彼女たちの前で披露することが、どれだけの「力」になるのかも、私はよくわかる。目の前のライブには、それだけの力がある。 少年たちは、きっとそれを肌で感じるだろう。
2014年01月02日
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昨日、秘密保護法案が参議院安全保障特別委員会で強行採決された。今日にも本会議で成立しそうである。しかし、日本共産党委員長が言っていたように「今回の強行劇は、安倍政権の終わりの始まり」になるだろうし、そうさせなければならない。安倍政権の基盤は弱くはないが、脆いと思う。幾つか出来ているヒビを的確に攻めていかねばならない。 さて、読書ノートは粛々と記録しておこう。 「疾風ロンド」東野圭吾 実業之日本社 「新参者」で久しぶりに東野圭吾に目覚めたせいもあり、本屋に山積みされている、この「長編書き下ろし文庫」なるモノを衝動買いしてしまった。「新参者」が映画の傑作に例えれば、こちらはテレビ二時間スペシャルドラマ。かあるく読ませて貰った。 (「BOOK」データベースより) 強力な生物兵器を雪山に埋めた。雪が解け、気温が上昇すれば散乱する仕組みだ。場所を知りたければ3億円を支払えーそう脅迫してきた犯人が事故死してしまった。上司から生物兵器の回収を命じられた研究員は、息子と共に、とあるスキー場に向かった。頼みの綱は目印のテディベア。だが予想外の出来事が、次々と彼等を襲う。ラスト1頁まで気が抜けない娯楽快作。 七割方は展開が予想出来た。最後の50pでの二転三転までも。しかし、楽しく読ませて貰った。エンタメとはそういうモノだろう。 東野圭吾はずいぶんとスキーが好きなんだろうな、と思った。 2013年11月26日読了
2013年12月06日
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今朝は秘密保護法反対で地元選出参院議員にFAXしました。意図は機械的に仕分けをする議員秘書の手をすこしでも止めたい、ということです。上の句は秋桜子の句を借用しました(^_^;)。 さて、読書ノートは粛々とつけておこう。 「新参者」東野圭吾 講談社 私はテレビ版と映画版の加賀恭一郎シリーズを評価していない。阿部寛が加賀に相応しくないからである。外見が、ではない。むしろこの作品でも加賀を「彫りが深くて浅黒い」と描いていて、ピッタリなのかな?とも思う。しかしテレビや映画にすると、必ず阿部寛が全面にでるのである。主人公だから当たり前だろ、というかもしれないが、このシリーズの素晴らしいのは、加賀は登場するのは必ず途中からであって、活躍するのは最後の最後であって、むしろむしろ謎解きだけしてそのまま居なくなることさえあったのである(初期は違う)。そこが素晴らしかったのだ。テレビや映画だと、どうしてもスターを最初から最後まで登場させなくてはならない。だから映像化は最初から期待できなかった。 「新参者」は、加賀の出番は比較的多いが、あくまでも物語視点を「謎を抱えた人物」に置く。しかも、犯人探しは最後にとっておいて人情話に終始する。事件推理を追いながら、同時に「日常の謎」解きの物語を作るという荒技を今回は挑戦している。しかも成功している。 東野圭吾の小説群の中でも、「白夜」や「私が彼を殺した」以来の傑作になったと思う。 ずっと知りたかった「眠りの森」に登場した浅岡美緒との関係が一つわかったのは収穫だった。加賀は多分、今でもずっと彼女を待っているはずだ。加賀が捜査一課から所轄に移ったのは、あの事件のあとの顛末のせいだとは今回分かった。また、そのあと所轄で華々しい成果をあげ、上司もそのことを認めていながら、上に上げないのは、彼女との関係を加賀が精算する気が一つもないからに違いない。 いつか再び彼女との物語が紡がれることを願ってやまない。 2013年11月23日読了
2013年12月05日
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「シロは死なない」作/北方謙三 絵/浦沢直樹 小学館 北方謙三で検索していたら、珍しくもこんな「児童読み物」があったので借りて見た。 ここには、歴史上の戦いはない。犯罪がらみのバイオレンスもない。舞台は現代、しかも普通に高層住宅に住んでいる小学一年の男の子と捨て犬シロとの出会いと別れの話なのである。 しかし、やっぱり北方謙三。「漢(おとこ)」の、或いは「ハードボイルド」な話になっていた。 男の子が捨て犬を発見して、見捨てることができない。助けようとして「命をはる」。男ならば、誰でも共感出来る話になっていた。 シロを見つけた、その上に大きなケヤキが立っている。孝夫はおじいさんの真似をして腕組みをして「うん、りっぱだ」というのが習慣になっていた。ある日、それに返事をするように泣いていたのがダンボールの箱に入っていたシロだったのである。 2013年11月14日読了
2013年12月04日
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「獣の奏者外伝 刹那」上橋菜穂子 講談社文庫 恋をしたとかなんとかは親の身勝手にすぎない。生まれてくる子の幸せを考えるなら、エリンのような立場にある者は、親になどになってはいけないのだ、と。 皿の底に残った透明な汁をすくいながら、わたしは小さくため息をついた。 (そう考える人には‥‥) エリンの気持ちはけっしてわかるまい。 あの子はよしとしなかったのだ。ー飼われた王獣のように、去勢された生を生きることを。国政に押しつぶされ、生き物としてあたりまえに生きることをあきらめる‥‥そういうことを、よしとしなかったのだ。 それでも、心を支えているのがそういう「思想」だけだったなら、彼女は子を産もうとは思わなかっただろう。ー惨い仕打ちを受ける母を見なければならないことが、子どもにとってどんなことか、彼女は誰よりもよく知っているのだから。 それでもなお、エリンが子どもを産む気になったのは、彼女の心のもっと深いところで、これまでの暮らしを幸せだったと感じているからなのだ。 ‥‥生まれてきて、よかった。 ジェシに乳をやりながら、エリンがそうつぶやいたことがある。(274p) 上橋菜穂子の作品を読んでいると、架空の物語の中の話というよりも、人類史の中で女性の思ってきた想いを代弁しているという気が時々する。共同体の中で、産むということに制限をかけられた無数の女性たちの、それでも産むことを決意する女性たちの代弁者である。(単なるストーリーテラーとしてではなく)女性の産むという行為を根源の処で描こうとするのは、彼女の出身が人類学者だったことと無関係ではないだろう。 「獣の奏者」本伝は、「人類は自然への介入をどこまで為すことができるのか」という壮大なテーマを扱って見事に完結した。その一方で外伝は、女性の人生と性を扱ってブレがなかった。 そのとき、父が言った言葉は、いまも胸に深く刻まれている。 ー雌雄が交わって実を結び、次代を育む花もあれば、自身が養分をしっかり蓄えて根を伸ばし、その根から芽を伸ばして、また美しい花を咲かせる植物もあるのだ。(364p) 若い時の恋を封印し一生独身を通したエサル師を、著者はそのように励ます。それもまた、人類史的な励ましである。そしてまた、私をも励ましてくれた。 2013年11月10日読了
2013年11月23日
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「マンモス・ハンター (下)エイラ地上の旅人」ジーン・アウル 白石朗訳 集英社 エイラシリーズはここに至って、クロマニヨン人の部族の集いが描かれる。たった10数人ほどでひとつの廬(いおり)を立ち上げていた彼らは何百キロと旅をして、夏の間に部族同士の交流を欠かさない。何百人という同族たちが集まるのだ。50人ほどで協力しながら、マンモスを狩ってゆく。ネアンデルタール人が一頭を狩るのに四苦八苦していた一方、彼らは一挙に数頭の群れをそのまま狩るのである。 ひとつの共同体の萌芽がここにある。その準備も次第と作られていたようだ。 子供同士の喧嘩に対して、女長会と男たちの采配が描かれる。二つが全く違っていたのは興味深い描き方だった。女長会は子どもの喧嘩の原因を問わない、怪我が起きるような喧嘩は両方を罰するのである。一方、男たちの族長会の裁きは「立派な心がけが理由の喧嘩」となれば赦すのである。 ひとつの喧嘩が他の喧嘩の火種になるから、あらゆる喧嘩は罰するべきか。それとも、人の勇気は讃えるべきだから、少々の喧嘩はむしろ奨励するべきか。しかし、何れの場合も「話し合い」で良否を決めていて、1人の人間が裁きをするようにはなっていない。 人間は「言葉」によって多くのものを獲得したが、「言葉」によって人と人との「争い」も生じるようになった。しかし、それは長い長い間は「話し合い」により解決して来たのではないだろうか。 「言葉」ではなく「全身」で意味を伝えるネアンデルタール人は、ウソと思い違いによる争いは生まれなかった。しかし、それは族長による独裁を許すことにもなった。クロマニヨン人の「言葉」は、新しいことを受け入れ、類推し、発見する機能があったのではないか。だとすれば、いっときの気の迷いから始めた「戦争」も、止める機能を発見する時がくるのかもしれない。 うじうじ長引いたアエラとジョンダラーの恋愛話には一段落がつき、これから新しい舞台での新人類たちの物語が始まる。 2013年11月8日読了
2013年11月16日
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「マンモス・ハンター (中)エイラ地上の旅人」ジーン・アウル 白石朗訳 集英社 あいかわらずゆっくりと進む。エイラ18歳の冬から春の冬解けまでのお話である。 (あらすじ) 旅の途中、思いがけぬ愛の相克に悩むエイラ。 マンモスを狩る一族のもとでの暮らしが始まるが、エイラの心は一族の彫り師ラネクとジョンダラーとの間で揺れ動く。嫉妬でひびの入ったジョンダラーとの絆をどうするか、エイラは決断を迫られる。 Amazonの説明は以上。この三角関係の描写はまるで韓国のメロドラマなので、飛ばして読んでOK。魅力的なのは、あいかわらずクロマニヨン人の一族の描写である。エイラはいったんライオン族の一員となる。そのための儀式が終わったあと、ひと冬を過ごす間に、エイラは親を亡くした子狼を一族に迎え入れる。 その間に、蒸風呂や複雑な毛皮の洋服の作り方、エイラの縫い針の発明、骨で作る鍬や鋤など様々な驚くべき「技術」が紹介される。 それよりも、興味深いのはときおり起こる諍いに対するこの一族の解決法である。 「ここに〈話の杖〉がある」タルートはそう言って杖を高くかかげ、自分の言葉をさらに強調した。「これよりこの問題をなごやかに話し合い、誰にも公平な解決をはかろうではないか」 「母なる女神の名において、誰であろうと〈話の杖〉の名誉をけがさぬように」トゥリーがそう言い添えた。「さて、最初に発言したい者はだれ?」(328p) マンモスの骨で出来たテントの中で約20人ぐらいが生活している一族。村の決め事や諍いは全員一致が原則でこのように徹底的話し合われる。 エイラが元いたネアンデルタール人の氏族では、意見を主張し合う場はあったが、最終的にリーダーの決定に、意に沿おうと沿わまいとみんな従わねばならなかった。エイラはその方がいいと思っていたし、クロマニヨン人のリーダーのタルートには人々を抑える力を持っていないと疑っていた。しかし、実際はタルートは騒ぎが一線を越えてまで大きくなることを許しはしない。自らの意思を押し付けるだけの力はあるが、タルートはそんなことはせずに、人々の合意を取り付け、意見の歩み寄りと擦り合わせをうながすことで族を束ねているのである。タルートは人々を重んじることで、人々から重んじられているのである。エイラは次第とそのことに気がついてゆく。 これは、「言葉」によって社会生活のあらゆる革新を成し遂げて来た我々の祖先(クロマニョン人)が、必然的に身につけた「知恵」だろう。 かのヒトラーは「人間が生きたり動物界の上に君臨したりするのは、人間性という原理のおかげではなく、ひとえにもっとも残忍な闘争のためだ。」と主張したという。 しかし、そうではない。「エイラ地上の旅人シリーズ」を読めば読むほど、闘争ではなく、話し合いと助け合いこそ、人間を他の動物と違うものにしたのだと思い知る。 2013年11月1日読了
2013年11月15日
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「小暮写眞館(下)」宮部みゆき 講談社文庫 宮部みゆきの文庫本化作品はパーフェクトに読んでいる。よってこれも即効で読みました。なぜそこまでこだわるのか。彼女が私と同い年だからである。しかも、独身を通している処も似ている。私は彼女の作品を通して、自分の体験することのなかったもう一つの人生を体験している気になっているのかもしれない。彼女のカメラアイとも言える描写力を通して、私の世界は何倍にも広がる。少しづつ変わってゆく作風が、人生の綾を教えてくれる。例えば、昔は中年男と少年しか生き生きと描けなかったのに、ここに至って高校生の男の子をここまで描ける。垣本順子さんみたいな年頃の女性も魅力的に描けている。人生53年も生きていれば、幾つかの近親の葬式にも参列しただろうし、どうしようもない後悔や、それをくぐり抜ける体験もしただろう。それを彼女は多分小出しに出している途中なのだろう。 英一はなぜ、インスタントカメラの中の写真を現像に出さなかったんだろうか。最初は「あれれ」と思ったけど、今は「青春だなあ」と思っている。 2013年10月24日読了
2013年11月13日
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「小暮写眞館(上)」宮部みゆき 講談社文庫 「君、いくつ?」 「誕生日がきたら、十七です」 そっか、と微笑む。「先、長いよ」 「はあ」 「もしかしたらあの子かもしれないし、別の子かもしれないけど」 君がこれから、結婚しようと思うほど好きになる女性。 「泣かせようなんて、これっぽっちも思わないんだよ。幸せにしようって、いつも本気で思っているんだよ。だけどね、何でか泣かせちゃうことがあるんだ」 男って、そんなふうになっちゃうことがあるんだ。 「だから、あほんだらなんだよね」(387p) これが、誰が誰に対して言った言葉か、どのようなシチュエーションで出された言葉か、328pぐらいの段階で推理出来たならば、その推理力は少なくとも私よりは優れているということになる。おめでとう(←嬉しくない?)! 宮部みゆきの作品は文庫本になった段階で全て読むことにしているので、義務として読んだのであるが、最近には珍しく明るい基調で、読後感は良かった。とは言え、まだ半分しか読んでない。 第一章と第ニ章はどちらも「不思議な写真」を巡るミステリー仕立てである。 このまま、最後まで行くのか? 小暮写眞館のお爺ちゃんの幽霊話はどうなるのか? それは後半で出てくるのか? さて、続きを読もう! 2013年10月19日読了
2013年11月12日
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「太白山脈4トラジの歌」趙廷来 集英社 「‥‥ところで、この世の中の出来事を見通すにはそれなりの眼力がなけりゃならん。水溜りにも流れがあるように、この世の中の出来事にもそれなりの根っこがあり、脈絡があるんじゃ。どんな出来事もある日突然起こるわけじゃなく、みんな互いに関連しているんだから、その根っこを探り当てられなけりゃ、世の中をきちんとみることはできねえ。今度のこともただなんとなく起こったわけじゃなく、済州島での戦いと関連あるし、済州島の戦いは南だけの単独選挙と関連あるんじゃ。それから単独選挙に反対して立ち上がったのは一昨年の騒ぎと関連し、一昨年の騒ぎは、解放になって国が二つに分けられたことに始まるんじゃねえのか。わしが言うことが分かるかのう」(68p) 知識人だけがこの国の矛盾を理解していたわけではなかった。東学党の乱で伝令係を担って、日本軍の虐殺から生き残ったというこの村の長寿老人も、大まかな処で朝鮮戦争に向かい、そして現代に至るまで大きな「恨」を抱えようとしているこの国の姿を観ていた。 馬三洙が突然、声を張り上げた。 「じゃあ、どうするんだよ。目の前に差し迫った小作問題だって解決できねえのに、世の中の流れにあれこれ言ってみたところでどうにもならねえ。何を言ってもどうせ雲をつかむようなたわごとなんだし、粥腹から力がぬけるだけさ」 「のう徳甫、お前のいうことももっともだが、わしらの話がかならずしもたわごとだとばかりは言えねえぞ。甲午の乱の時にしろ今回のことにしろ、先頭に立って戦い、死んでいったものたちは、自分だけいい暮らしをしようと思ってやったわけじゃねえ。間違った世の中を正し、みんながいい暮らしをするためじゃねえか。その者たちが信じていたのは何だ。自分たちの体か、手に持った銃か。いや、いや、そんなものは取るに足らねえ。自分たちの後ろにいるたくさんの者たちの気持ちも自分たちと同じだと信じる、その気持ちに支えられて戦いもし、死にもしたんじゃ。その気持ちがなけりゃどうやって戦う力を振り絞り、死ぬ覚悟ができるちゅうんじゃ。命が惜しくねえ者がどこにいる」(70p) 韓国の人たちにどうしてもかなわない、と感じるのはこういう描写である。日本人も確かに闘ってきた。しかし、何十万人も命を賭して闘ってきた経験が我々にはない。東学党の乱にしろ、光州にある記念館でちゃんと顕彰しているし、3.1独立運動には至る処に記念館があり、そして碑が建てられている。光州事件には国立墓地がある。韓国の人たちはそれらの「歴史」の上に育ってきているのである。 よく韓国の反日運動は激し過ぎると言われる。偏向教育のせいだと云う。確かに、偏向していると私も思う。事実の間違いがあれば正さなくてはならないとも思う。しかし、「激しい」のは当然だと私は思う。彼らはそれだけの犠牲を払ってきているし、それを忘れないのは当たり前なのだ。むしろ、日本人の方が羊のように大人し過ぎるのである。日章旗が焼かれているのならば、その場に行って堂々と口げんかをしてくればいい。それぐらいのリスクを負わないと彼らの「歴史」と対等に闘えないのではないか。 彼等の「命の賭し方」はここでは問わない、問えないし、わからない。廉相鎮のゲリラ戦は、ついには本格的な戦争に変化している。これから朝鮮戦争に突入するはずだが、近親憎悪のような時代に人々はどうなってゆくのか。 内容(「BOOK」データベースより) 廉相鎮率いる左翼勢力は栗於地域を解放区として掌握、農地改革を実施し、農民の支持を得ていた。解放区の噂が流れる中、筏橋では農地改革をめぐって地主と小作人たちの対立が深刻化し、地主たちが左翼に加担した者に小作をさせないことを決めたため、さらに不穏な空気が漂い始めた。一方、“アカ”の追及に執念を燃やす青年団長廉相九による拷問を受け鄭河燮の子を流産した素花、アカの夫を持ったために廉相九に犯され身ごもって自殺を図る外西宅…苛酷な運命に翻弄される女たちの愛の行方は…。 2013年10月19日読了
2013年11月11日
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「マリアビートル」伊坂幸太郎 角川文庫 「『国ってひどいね、恐ろしいね。政治家って駄目だね』って言いたいのか。ありがちな意見だな」 「そうじゃないよ。ようするに、『ぜんぜん正しくないこと』を『正しい』と思わせることは簡単だって話だよ。だいたい、国や政治家だって、その時は、『正しい』って思い込んでいて、騙すつもりなんてないのかもしれない」 「だからどうした」 「大事なのは『信じさせる側』に自分が回ることなんだ」(270p) 「グラスホッパー」から数年後の、殺し屋ばかり出てくる小説である。 (あらすじ) 酒浸りの元殺し屋「木村」は、幼い息子に重傷を負わせた悪魔のような中学生「王子」に復讐するため、東京発盛岡行きの東北新幹線〈はやて〉に乗り込む。 取り返した人質と身代金を盛岡まで護送する二人組の殺し屋「蜜柑」と「檸檬」は、車中で人質を何者かに殺され、また身代金の入ったトランクも紛失してしまう。 そして、その身代金強奪を指示された、ことごとくツキのない殺し屋「七尾」は、奪った身代金を手に上野駅で新幹線を降りるはずだったのだが……。 こんなにも胸くそ悪いやつばかり出てくる小説は久しぶりだ。最初はなかなか進まなかった。ところが、終わりの80pになった頃でやっと面白くなって来た。この悪魔のような「王子」が「悪の教典」のハスミンのように、生きてゆく話なんだ。そういう話なのだとやっと分かってきたからである。最近偶然にもこういう頭のいいサイコパス(人間への共感性を欠いた人格異常者)の話を何度も聞くようになった。「悪の教典」もそうだが、この前観た映画「凶悪」の「先生」もそう。それどころか、現実に女をつぎつぎと「コントロール」して、バラバラ殺人をしていた元ホストがこの前捕まったばかりである。だとしたら、最後は? 映画や現実では、犯人は最後には捕まる。「王子」はどうなるだろう。 ところで、ここに出てくる「鈴木さん」、私の中のイメージとまったく変わってしまっていた。 ところで、この「王子さま」のような悪魔が、現実に政界を握っている気がしてならない。 2013年10月5日読了
2013年11月07日
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「天狗争乱」吉村昭 朝日新聞社 朝井まかて著の「恋歌」で、水戸天狗党のことが出て来て興味を覚えたので、読んでみた。 「恋歌」では、藤田東湖の息子小四郎が天狗党を率いて出奔して以降は、伝え聞いた以上の天狗党の顛末を書いていなかった。この本をよんで、かなり複雑な様相を呈したのだということが初めて分かった。 作品は、突然天狗党の日光からの山下りから始まる。激派と言われる天狗党の中でも若衆ばかりの過激派田中げん蔵の栃木町焼き打ち事件から一挙に物語を始めるためであったからだろう。あとは淡々と吉村昭らしく事実を組み立てて、この幕末悲劇物語を構成していた。 水戸尊皇攘夷派の中には、藤田小四郎たちのの激派、榊原新左衛門たちの鎮派、そして田中たちの過激派に分かれていた。そして、その思想と決定的に意をことにする門閥派が、幕末瓦解の危機にあった水戸藩最終段階で顕然化する。 残念なことに、この詳細な天狗党始末記を読んだあとでも、水戸尊皇攘夷運動とは何だったのか。尊皇思想のメッカである水戸が、なぜ明治維新「革命」の中で役割を果たすことができなかったのか。全然わからなかった。その意味では、「恋歌」の方がよっぽどすんなり心に落ちた。 水戸天狗党の最初の目的は、幕府に横浜港閉鎖をふくむ攘夷決行を促すことにあったという。それを一師団ともいえる軍勢で、力づくで成そうとしたらしい。その最初の発想自体に、私はついていけない。その背後にどういう戦略構想があったのか、この作品では全然明らかにしていないからである。その「理想」のために武力を背景とした脅しで商人から何百両何万両という軍資金を獲る。過激派田中のように無法を働くか働かないかの違いはあるが、藤田小四郎たちもやっていることは同じ、だと私には思えた。 田中の顛末は、70年代の過激派を見るようで、これだけを取り出して映画化すれば面白い。 幕府や一橋慶喜のマヌーバーぶりに辟易した。いつの時代でも出てくる「政治家の苦渋の決断」(そう言えば、安倍という人も消費税増税の時にそう言った)をするのである。 力作なだけに、もう一歩突っ込んで描いて欲しかった。 2013年10月6日読了
2013年11月01日
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「日輪の賦」澤田瞳子 幻冬舎 この新人作家の小説を読もうと思ったのは、北方謙三「史記3」の解説子(西上心太)が北方版とこの作品とが、シンクロニシティの様に似ている、と書いていたからである。日本の持統天皇の中央集権国家確立への外患内患に対する動きが、武帝のそれと似ているというのだ。 一般的に私は日本の古代を舞台にした小説を応援したいと思っている。まだ時代小説として確立してないだけに。だがこれはダメだった。 北方謙三の史記とは、文体、狙いから恐ろしく違う。自分が調べた知識を九割方使い切ってしまうが如く、説明的な描写が山ほどある。そして、現代まで続く天皇制の基礎が持統天皇の御代に発したとでも言いたげな結論に辟易した。 まるで論文を読んでいるかのような面白味のない小説だった。この解説子含めてもう信用しない。 2013年9月17日読了
2013年10月25日
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「みんなのうた」重松清 角川文庫 ふふ、っと笑う。レイコさんのほうを見て、「いいこと教えてあげよっか」とつづけ、人差し指を口の前で立てた。 「田んぼのカエルの声、よーく聞いてて」 聞こえた。いつも変わらない、ごくあたりまえのケロケロ、ケロケロ。 だが、イネちゃんは「この雨、もうすぐあがるんだよ」と言った。 「そうなの?」 「うん。雨の日にカエルがこういう鳴き方をするときは、いまはどんなに天気が悪くても、明日は晴れなんだって。おじいちゃんが教えてくれたの。よーく聞いたらわかるから」 カエルが仲間を呼んでいるように聞こえるかどうかがポイントだという。 「雨が降っていると地面に出ても水がたっぷりあるから、田んぼから外に出て遊びにゆくわけよ、お調子者のカエルは。でも、ちゃーんとわかっているやつは、田んぼに残っているわけ。で、お調子者の仲間に教えてあげるの。おーい、そろそろ帰って来いよぉ、雨が上がると干からびちゃうぞぉ、おまえのふるさとはここの田んぼなんだぞぉ‥‥カエル、帰れ、カエル、帰れ、カエルカエレカエルカエレ‥‥って感じで聞こえない?おじいちゃんは、そんなふうに鳴くカエルのこと、フルサトガエルって呼んでた」(155p) 中国地方の「田舎」の中核市鶴山市の沿革町梅郷町に東大への夢破れてレイコさんが帰郷した。他県のモンにはわからんかもしれんが、岡山県人にはすぐピンと来る。人口減少が続いている10万人都市鶴山市は県北最大の津山市、梅郷町は重松清の実家のある真庭市、そして県内最大の都市山陽市は岡山市であることを。だから、とってもイメージ豊かに読む事が出来た。 田舎の天気予報名人の「おじいちゃん」のエピソードは、レイコさんにとって忌むべき田舎が次第と愛しいモノに変わってゆく風景の一つではある。 それでも、同じ県北の美作市で作家活動を続けているあさのあつこと違い、重松清は決して田舎に帰ろうとはしない。レイコさんも最後の決断は、重松清と同じだった。東京に行ってしまった。重松清にとって、常に岡山弁の会話は「フルサトガエル」なのである。それが若干寂しい。 最後は若干のお涙頂戴の話に持ってゆき、曖昧に終わらす。重松清に物足りないのは、そういう処なのである。 2013年9月16日読了
2013年10月24日
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「野生馬の谷(下)エイラ地上の旅人4」ジーン・アウル 佐々田雅子訳 集英社 エイラは男を見つめた。無作法だということはわかっていたが、そうせずにはいられなかったのだ。相手が意識を失ったり眠ったりしている間に観察するのと、こうして目を見開いているときに向かいあうのとでは、まったく違っていた。この人は青い目をしている!(123p) ついにエイラはジョンダラーに出逢った。思えば作者は周到な仕掛けを作って2人を遭わせたことになる。野生馬の谷の生活で、エイラが馬を育て、ライオンを育てたのも仕掛けだし、ジョンダラーの弟が常に旅の先陣を切り兄を谷に連れて来た段階でライオンに殺されるのも、「運命」という仕掛けを作っていたのだ。 それまでゆっくり流れていた物語が突然本流として流れだす。なんということか。この長い物語は、2人のラブストーリーである可能性が高くなった。それと同時にネアンデルタール文化とクロマニヨン文化の出会いと融合の物語なのかもしれない。 言葉を介さないで2人はお互いを観察する。エイラはジョンダラーの服が外衣に革紐を締めただけの簡素な服装とは違い、革や毛皮を切り分けた断片を糸でつづり合わせた複雑な構造を持っていることに気づく。ズボンも作っていて、服を二枚重ねしているのにも驚く。それは同時に私の驚きでもある。弥生人の服は簡素な貫頭衣という認識の私にとって、3万5千年前の新人の服がこうなっていて、尚且つ貝殻や骨や羽で模様をつけていたのだ。穴は石器や骨で穿ち、糸は動物の靭帯を使うのだそうだ。あり得るかもしれないが、すごい技術である。下手をすると、現代の服よりも豪華。 ジョンダラーはエイラの薬師としての申し分のなさに驚く。また、2人も気がついていないが、石を打って発火する方法や馬やライオンを家族として迎えているのを見て、エイラの中にクロマニヨン人をも超える才能があることに驚くのである(火打ち石と牧畜の発見)。 一冊の約半分をかけてお互い嫌われていると勘違いしながら、愛情を確かめ合うまでの経緯はもどかしいほどではある。17歳と21歳の2人の行く末はこれからも見守らなければならない。 2013年9月16日読了
2013年10月16日
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「野生馬の谷 エイラ地上の旅人」(上)ジーン・アウル 佐々田雅子訳 集英社 エイラシリーズを借りた。前回の「大地の子 エイラ」とは訳者も出版社も違う本だが、物語は前回の続きになっている。実は「大地の子」シリーズはまだ続いているらしいのだが、途中で終わっているらしいし、子供読者を意識して性的場面は省略されているらしいので、こちらを読むことにしたのである。違和感はあまりなかった。 今回はエイラが14-16歳ぐらいの話だろうか。ケープベア(洞穴熊)の一族から追放されたエイラは自分と同じクロマニヨン人を求めてヨーロッパ黒海の北方を旅する。孤独に苛まれたエイラは野生馬の谷で、仔馬のウィニーと共に暮らし始める。ふた春目には仔ライオンのベビーも仲間に加わる。それと並行してヨーロッパ中部からジョンダラーとソノーランの兄弟がまだ見ぬ大海を目指してドナウ川沿いに旅をしていた。 エイラは賢く逞しいので、1人で生き抜く知恵を持っていた。谷までのエイラの旅を巻末の地図で目測すると約800キロぐらいだろうか。たとえ半年かがりとは言え、ものすごい距離だ。そしてジョンダラーはおそらくその三倍以上の距離を旅して、やがてエイラに出会う運命らしい。 ジョンダラーたちの登場によって、クロマニヨン人の意識と生活が一挙に目の前に見えて来た。彼らには彼らなりの信仰があり、一つの部族は土偶信仰を持ち、一つの部族は鳥の信仰を持っていた。どちらも女神信仰が基礎になっているのが面白い。 一つビックリしたのは、シャムドイ族が筏やくり抜きの舟だけではなく、準構造船と言ってもいいモノを作っていたということである。ホントか?ホントに三万五千年前の技術なのか?日本ではやっと古墳時代に普及した技術なのに!しかし、作者のリサーチ力は定評がある。エイラの薬草や食物の知識、動物解体技術、その他も根拠のある技術である。ホントだと思わざるをえない。 こういう描写にまたもや私はドキドキする。しかも、クロマニヨン人はネアンデルタール人よりも男女平等なのである。それは言葉によってコミニュケーションをとる種族の特性なのかもしれない。しかも、部族通しはそもそも絶対数が少ないので、出逢ったら対立はしない。それよりも技術の交流と「男女」の交流に全力を尽くすのだ。これを何万年もやって来た人間がたった数万年の間に戦争を始めたからといって、止める事が出来ないはずはない、と私は思うのである。 さて、これから下巻を読もう! 2013年9月11日読了
2013年10月15日
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原発作業員が描いたというマンガを読みたくて、数年ぶりに週刊モーニングを買った。 モーニング:新人賞に原発ルポマンガ 48歳新人が福島第1での実体験描く 2013年10月03日(毎日新聞デジタル) 事故後の福島第1原発で作業員として働いた経験をつづったルポマンガ「いちえふ 福島第一原子力発電所案内記」が週刊マンガ誌「モーニング」(講談社)主催の新人賞「第34回MANGA OPEN」の大賞に輝いたことが3日、分かった。作者は48歳の竜田一人(たつた・かずと)さん(ペンネーム)で、同作は3日発売の同誌44号に冒頭4ページをカラーに変更して掲載。竜田さんはこれが商業誌デビューとなった。同誌編集部によると、ルポマンガが大賞を受賞するのは初めてで、新人賞の受賞作をカラーで掲載するのは異例だという。 「MANGA OPEN」はマンガだけでなく、マンガ原作やイラスト、CG、アニメ、ゲーム、映画、音楽、フィギュアなど多ジャンルの作品を対象とした新人賞で、1997年から毎年2回発表。今回は「グラゼニ」の原作者の森高夕次さんと「メロポンだし!」の東村アキコさんが選考委員を務めた。 「いちえふ 福島第一原子力発電所案内記」は、竜田さんが東日本大震災の後、同原発の作業員になった経緯や“1F(いちえふ)”と呼ばれる福島第1原発で働く様子を描いたルポマンガ。防護服に身を包み、自身の被ばく線量を測定しながら働く現場や立ち入り禁止となっている原発周辺の状況などが描かれている。 竜田さんはルポマンガを描いたきっかけを「センセーショナルに取り上げがちなあの場所ですが、実際の現場の空気感みたいなものを伝えられればと、こんな作品を描きました」と説明し「収束作業はまだまだこれからですが、現場は必ずやりとげる覚悟で臨んでいます。扇情的な報道に踊らされることなく、冷静に見守っていただけるように願っております」と読者にメッセージを寄せている。 選考委員の森高さんは「物書きとしての本質を体現していると思える迫力があった! とんでもない熱量を秘めた作品」、東村さんは「圧倒されました。文句なしの大賞です」と絶賛している。 カラー表紙には編集者が「これは「フクシマの真実」を暴く作品ではない。これが作者がその目で見た、「福島の現実」。」と、書いていた。私もそう思う。 内容は大まかにはよく知られていることがほとんどではある。しかし、準備段階で、一つ一つの細かい作業は、テレビではそこまで映さないし、文字で紹介されたことがもしかしてあるとしても、マンガとして見ることで非常にわかりやすくなっている。 事故の一年半後からやっと「現場」に入った下請け作業員の気持ちがよく出ている。 それは、作業員たちはむしろ一部週刊誌の意図的な「誇張」に反発しているという現実であり、安全面も作者によれば「一部のマスコミや「市民団体」が騒ぐほどのものではない」という認識である。 ともかく実際に見た福島の現実を、「作業員たちは放射線をキチンと管理しながら、誇りを持ってやっている」という視点でありのままを描いたのが、このマンガである。 しかし、マンガというのはやはりすごいのだと改めて思った。 確かに線量の管理はされているのかもしれない。しかし、見れば見るほどこれが「安全な環境」とはとても思えない。命を削っているとしか思えない。ましてや、汚染水のこぼれた部分からあまりにも高濃度のセシウムが出ていたとなればいつ大量ひばするかわからない。 また、自分たちは当たり前と思っている労働環境も自分が認識しないまま酷いことをちゃんと書いている。「六次下請け以下まである」ことの存在を証言している。作者には当然どのようにピンハネされているのか、その構造は見えないだろう。 作者の視点などに不満のある人はいるかもしれないが、私は大いに心が動かされた。ルポルタージュや映像では描くのがむつかしい作業員たちの「心」がここにある。 ところで、久しぶりに週刊モーニングを見た。 そしたら、弘兼憲史の島耕作が何時の間にか会長になっていた。課長から部長になって取締役になったことは知っていたのだが、何時の間にか社長にもなって、それを降りたらしい。経済連の幹事に就任し、農業委員会に入るのだという。別に彼がどこまで出世しようと構わない。(ガンで余命短いらしい)総理のために、「雇用の受け皿を生み出す」手助けをするらしい。つまり、TPPの不満の受け皿を一生懸命考える役割を担うということなんだと私は受け取った。ゲンナリ。
2013年10月05日
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山崎豊子氏が亡くなられた。 90年代後半、初めて氏の「大地の子」を読んで以降、後半の長編群は全て読んだ。現実の経済や政治、そして歴史の暗部を見事にトレースしているので、多くの主人公は必ずしも善人でもないし、結末も多くはハッピィエンドにはなってはいない。こんな作品には初めて出会ったので、大いに魅了された。 「大地の子」では、残留孤児の運命もさることながら、文化大革命期における知識人の弾圧の凄まじさに圧倒された。また、そこから立ち上がる中国という国の底力も見た気がした。 「不毛地帯」では、瀬島龍三という「悪人」の内面を正面から描いて圧巻だった。 「二つの祖国」は、外から第二次世界大戦をみるという体験をさせてもらった。 「沈まぬ太陽」の御巣鷹山篇では涙なしには読めなかった。あそこで初めて一部実名が使われていた。主人公は基本的に悲劇の人格者なのではあるが、最初と最後に野生動物の狩猟場面が出る処に、山崎豊子の本領があったようにも感じる。 「運命の人」は、去年に読み終えた作品である。最後の沖縄篇は少し結論を急ぎすぎた。既に80歳を越えていたので、無理もないか。 なんと、今年の8月から「約束の海」という「新連載」を始めていたという。この作品は、構想5年、取材3年、執筆は1年前から。太平洋戦争の発端になった真珠湾攻撃に参戦し、最初の日本人捕虜になりながらも戦後を生き延びた実在の人物と、現代を生きる彼の息子(架空の人物)の父子2代にわたる「戦争と平和」の物語。息子は海上自衛隊の潜水艦に搭乗する2等海尉という設定だそうだ。驚いたことに、予定の20回分を既に書き終えているという。こんな人、見たことがない。 「この作品は、多数の関係者を取材し、小説的に構成したもので、登場人物、関係機関なども、すべて事実に基づいて再構成したフィクションである。」 これは「大地の子」の扉の裏に書かれている一文である。こんなことが書ける作家は日本にはもう誰もいない。 あれ程、実名が分かる書き方で権力の暗部を小説化したのに、遂に一度も訴えられることがなかった。圧倒的な取材力の賜物である。この力技、このあと誰か追いつける作家はいるだろうか。 奇しくも、維新敗北して大阪の癌が快方に向かった直後に逝った。女傑らしい去り方。慎んでご冥福を祈ります。 作家・山崎豊子さん死去…権力の矛盾切り込む(読売新聞) http://t.co/2k3WPEO4VN
2013年10月01日
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「風樹の剣ー日向景一郎シリーズ1ー」北方謙三 新潮社文庫 途轍もないチャンバラ小説である。描写は簡潔、全編想像で補う他ないものすごい高度な勝負の連続である。もちろん、剣豪には上には上がある。しかし、景一郎は生き延び、そして勝つ。 18歳の景一郎は初めて真剣で勝負をして失禁する。それを試した芳円が祖父の将監に聞くと将監はこう答えた。 「真剣を執らせると、あれは強いか弱いかもわからぬ。逃げ惑うだけだろう」 「どこに、天稟があるのですか?」 「臆病さにだ。臆病だから、相手の剣先を見切ろうとする。それができるようになる。人間がなぜ臆病なのだと思う。生き延びたいからだ。他人よりずっと臆病ということは、ずっと生き延びたがっている、と言ってもよい。それで、身を護る術を覚える。生き延びたいという思いを、克服できるようにもなる。つきつめれば、剣とはそういうものだ」(32p) 日向景一郎には世の習わしが一切通じない。江戸時代、剣のみで生きるということがそれを可能にしている。病死する将監から「父親を切れ。それ以外、お前の生きる道はない」と言われ、探し求める中で超人的に強くなってゆくも、その過程で加賀藩の暗殺者とも対立するし、罪のないものも衝動のまま殺したりもする。そして、景一郎の出生の秘密が明らかになったときに父子の対決があるだろう。構造的には「父親殺し」の物語であるが、父親も不治の病に掛かっていたから生を拾ったに過ぎず、話はまだ続くことから、1人の人間の「自分探し」の物語だと言えなくもない。 連作短編集でもあり、一遍ごとにあらゆるタイプの剣豪が出てくる。重たい読み物が続いたので、軽い読み物と思って手にとったのではあるが、確かにエンタメ小説で気分転換にはなったのではあるが、流石北方謙三、簡単には読み捨てはさせてくれない作品だった。 2013年9月1日読了
2013年09月04日
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「恋歌」朝井まかて 講談社 明治生まれのひよっこに、いったい何がわかる。 私は扇子を遣いながら鼻を鳴らした。 おまけに花圃さんと夏ちゃんときたら、小説などに手を染めて。あの二人こそは真に見所があると思って目をかけてきたのに、当世の流行りに惹かれて和歌から離れていく。 歌はもう、命懸けで詠むものではないのだろうか。 そんな考えが湧くと、心底、己が独りであることを思い知らされる。(242p) 読者モニターで読みました。8月21発行の新作です。 まさか、樋口一葉の歌の師匠の中島歌子がこんな激烈な人生を歩んでいたとは。意表を突かれた。もしかしたら、全て著者の創作かと思い調べたら、本当にこの江戸商家の娘である歌子は、恋を成就して水戸藩士に嫁入りしたらしい。夫が天狗党として弾圧される中で自らも獄舎に入れさせられ、そして夫と死別している。のちに「歌はもう、命懸けで詠むものではないのだろうか」と明治生まれの女子たちの軽薄さを嘆くのも当然に思える。 幕末小説は数限りなくあれども、尊王攘夷に最も急先鋒でありながら、維新の波の中で切り捨てられた水戸藩の側から、しかも天狗党の妻たちの側から描かれたものは寡聞にして知らない。数ヶ月の悲惨な獄舎の場面も酷かったが、子どもたちが数多く斬首されるにもショックを覚えた。全ては水戸藩の党派争いが原因である。女性の視点だから見える裏の日本史だと思う。 薩摩や長州と比べて貧しい藩内事情が、気を狭くし、「己より弱いものを痛めつける、ほんで復讐を恐れて手加減できんようになる」という貞芳院様の党派争いが酷くなった原因の指摘は、生活保護受給者を叩く現代にも通じるようにも思った。 君にこそ恋しきふしは習ひつれ さらば忘るることもをしへよ この小説では、歌子の手記の最後の方に書き留められた歌ということになっている。実際には歌子の代表歌だ。もし、未だ生きている「最初のおとこ」のことを歌ったならばプレイガールの歌になるけれども、その男がすでに死んでいる最初の夫ならば、これ程に恋情に溢れた歌はないだろう。 2013年8月2日読了
2013年08月25日
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「思い出のとき修理します」谷瑞恵 集英社文庫 全く興味がない小説家なのですが、ひとえに集英社ナツイチ特性ブックカバーのために買いました。しかも推しメンの松井珠理奈が感想文を書く対象というので、イヤイヤながら読みました(^_^;)。 仕事にも恋にも疲れ、都会を離れた美容師の明里。引越し先の、子供のころに少しだけ過ごした思い出の商店街で奇妙なプレートを飾った店を見つける。「思い出の時 修理します」。時のあとの計の字が取れたままにしただけの時計店だったのだが、そこを営む青年との出会いで明里も変わってゆく‥‥。 ちよっとした恋愛モノと推理モノとファンタジーを絡めた連作短編集です。よくある‥‥。 「思い出が必要なのは、生きた人間だけだろう?」(173p) 過去は変えられない。けれども修理して前に進むことは出来る。そんなメッセージを込めた優しいお話でした。可もなければ不可もなし。‥‥というようなことよりも、現在17歳の珠理奈がおそらく28歳ぐらいの明里を演るのはむつかしいのではないかと、要らない心配をしてしまう私でした。いや、近年ますます大人びた顔立ちになってきた彼女だから、大丈夫かもしれない、などとも思ったりします。仕事と恋への自信を失って、佇んでしまった彼女が立ち直って行く様を五回ぐらいのドラマシリーズで見てみたいものです(^-^)/。 2013年8月18日読了
2013年08月23日
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「共喰い」田中慎弥 集英社文庫 全く興味がない小説家なのですが、ひとえに集英社ナツイチ特性ブックカバーのために買いました。しかも押しメンの大島優子が感想文を書く対象というので、イヤイヤながら読みました。一応芥川賞受賞作です。 作品ごとにキャラを変えるタイプの小説家らしく、「共喰い」だけでイメージを持つと困ると思われているようですが、この文庫の中の二つの作品に共通するのは、「家族の血筋」みたいなのものみたいです。 「共喰い」は、セックスと暴力が表のテーマです。描写は具体的ですが、話の構造は単純であり、父親殺しと母親の愛が裏のテーマです。全く単純です。 大島優子がこの作品を選んだことの方が私には事件です。多分他のメンバーは手に余るという思いやりが半分以上、あっちゃんが主演した「苦役列車」の向こうをはる衝撃的な作品に主演した場合のシュミレーションを行ったというのが三割ぐらい。あとは残り物で仕方なく、といったところでしょうか。 ともかく優子の感想文を早く読みたい(^-^)/。 2013年8月9日読了
2013年08月22日
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「こころ」夏目漱石 集英社文庫 恥ずかしながら初めて読みました。きっかけは単純、集英社文庫の特製AKBカバーが欲しかったんです(^-^)/。安かったし、315円。 これが「岩波文庫読者が選ぶ100冊」の一位に選ばれたのは、納得です。見事なエンタメ推理小説でした。最初に「謎」が提示されて、「伏線」が張り巡らされて、「事件」が起きる。そして「真の原因」は「何処か」に隠されている。 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。(6p) 冒頭である。「先生」と呼ばれる過去形の人物は一体何者なのか。この書き方自体に何かの「事件」の匂いがぷんぷんする。 38pには意外な展開が書き込まれていた。まさかこれが青年の先生への同性愛の恋物語だとは知らなかった。しかも、青年はそのことに気がついていないが、先生はきちんと気がついていながら「私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」と断る。 こんな生々しい会話もしているわけです。しかも、ここで「ある特別の事情」と伏線が張られる。 「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」私の声は頸えた。(87p) この頃になると、死亡フラグ立ちっぱなし。 事件の真相らしきものは、第三部の「先生と遺書」によって展開されるのではあるが、実はテーマとしては第一部の「先生と私」で出尽くしていると言って良い。名探偵ならば第一部で「解決したよ、小林くん」と云うべきところだろう。 「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃では人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」(50p) 一般的に事件の蚊帳の外に置かれていたと云う評価の「奥さん」ではあるが、常に先生の側に居て約15年、彼女が先生の自殺の「真相」に気がつかなかったわけがない。この言葉に自殺の真相が集約されている。と私は観る。単純に親友Kへの罪の意識でもなければ、「明治の精神」に殉死したのでもない、「人間は淋しい」といったウジウジした気持ちでもない。そして奥さん自身はとっくにそんな夫を馬鹿な男と客観視出来ていることも、この言葉から読み取れる。 人間の心の不可思議さを位置づけた素晴らしい推理小説でした。 2013年7月21日読了
2013年08月21日
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「辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件」城山三郎 角川文庫 明治40年、土地強制執行によって谷中村が打ち壊されて、荒畑寒村の「谷中村滅亡史」が上梓された以降も村民と田中正造の闘いは続いていた。 昭和36年に城山三郎がこの「辛酸」を書いた頃、田中正造は忘れられた存在だったという。しかし城山三郎は田中正造の華々しい議員活動や天皇直訴などの場面を中心に据えることはしなかった。ここにいるのは、襤褸を纏った田中翁が谷中村にのたれ死ぬ姿であり、谷中村の青年が闘いを引き継いで敗れてゆく姿である。明治40年からさらに約15年、強制執行の補償問題という裁判闘争を借りて、谷中村に住み続けたいと願う農民たちと貧乏弁護士の気の遠くなるような闘いが描かれる。 いまや疲れきった早川弁護士が谷中村残留民に提案する。 「家を壊されても踏みとどまったという一事で、きみらの大義名分はりっぱに立った。現に東京の人士の多くは、鉱毒問題はそれにふさわしい劇的な終焉を遂げたと思っている。これ以上踏みとどまっても、それに何ものも加えることはないんだ。田中さんは正義は必ず勝つという信念だ。しかし、鑑定人に人を得なければ勝てないことは、我々弁護士間の常識だ。とすると、これ以上の犠牲を出さないことこそ、残留民の心がけることがらではないのかね。鑑定費用の予納を求められているが、それすら払えないのが実情だろう」 「いや、それは、わしがきっとどこかで調達する」 正造がさらに顔を赤くして口をはさんだ。早川は取り合わず、宗三郎に向いたまま、 「いま、せっかく県の方から和解を申し出てきているんだ。もう一度考え直してみたらどうかね」 「お言葉ですから、一度、皆の衆と相談してみます」 そう言ったとき、宗三郎は、横から正造の灼きつくすような眼光を感じた。唾を飲み込み 「ただ、私の考えでは、和解が出来るくらいなら、強制破壊前にとっくに応じていたと思うのです。わたしらは、どんなことがあっても谷中を見捨てたくはない。がんこ者の集まりなんでがす」(52p) 早川は正造をじっと見つめていたが、 「田中さん、最後に私の意見を聞いてください」 正造の喉の奥から、うっ、という声が漏れた。 「田中さんのなさっていることは、谷中一村のためといいたいが、四百戸中わずか十数戸のための事業だ。そうした小規模のことのために‥‥」 正造は憤然として遮った。 「ひとり谷中の問題ではありません。国家の横暴を認めるかどうかという大問題です。国民の生活を保護すべき国家が、略奪と破壊をこととしている。これは日本の憲法の問題、憲法ブチ壊しの問題でがす。このまま放っておけば、日本が五つあっても六つあっても足らんことになる」(88p) まだ公害問題が公けになっていないごろに作られた小説である。経済小説を一生の仕事にした作者の覚悟のほどが伺える。 題名は田中正造が好んで書いた揮毫から採っている。 辛酸入佳境 楽亦在其中 しかし、谷中残留民に遂に楽しみはその中に求めることは出来なかった。三國連太郎が主演した「襤褸の旗」(1974)も観てみたい。 2013年8月4日読了
2013年08月19日
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「大地の子エイラ(下)」ジーン・アウル 中村妙子訳 評論社 第一部を読み終えた。まさかこういう小説が可能だったとは!いま驚きと羨望と希望と失望とそしてワクワクするような次の物語への渇望を感じている。 驚きは、失われた種族のネアンデルタール人をひとり1人の個性までくっきりと描いているということだ。「2001年宇宙への旅」で描かれた彼らは、言葉は片言しか持ってなくて、とても知性的な部族には見えなかった。しかし、この小説ではその弱点はろうあ者が手話で自由に話すように完全に克服していると描く。彼らは統率のとれた社会性を持っており、20数人の集団でリーダーと副リーダー、まじない師と、薬師とを持ち、信仰を持ち、それぞれが役割を担う。前頭葉が発達していなかったり、二足歩行がまだ十分ではなかったりする機能的な制限のために、論理的な思考ができなかったり、投石器使いではアエラに遅れをとったりはするが、その巨大な脳の中に直感的な思考や記憶の蓄積という驚くべき能力も併せ持っていた。7年に一度の氏族会では、オリンピックのような競技をしたり、アイヌの熊祭りのようなことをして、部族の団結と秩序を保っていた。その目に見えるような「世界の再現力」にただただ驚くばかりである。 羨望は、古代を舞台にここまで魅力ある小説が出現したということだ。古代を舞台にした小説は数限りなくある。しかし、それはほとんどが既にある伝説や聖書や物語の焼き直してあり、荒唐無稽なものが多かった。これはあくまでオリジナルであり、非常に科学的であり、しかもまだ不明な処だけを想像力で補っただけなのである。だから、粗筋をいうのは簡単だ。地震で孤児になった五才のクロマニヨン人の少女がネアンデルタール人の部族拾われ、次第と受け入れられてゆく。タブーに触れて死刑に等しい追放を受けたが、その知恵と行動力で乗り切る。次期リーダーに嫌われ暴行によって11歳で男の赤ん坊を授かる。しかし、その男がリーダーになった時に、アエラは1人その部族から離れる決心をするのであった。 この話が三巻にも及ぶ大長編になり、まだまだ続くのである。 弥生時代を舞台に小説を書きたい私は、その構成力に羨望を抱かざるを得ない。 同時に、希望も抱く。文献史料が全くなくても、考古学の研究が不十分でも、ここまで説得力のある、エンタメの小説は描けるのだ。 同時に、失望する。目の前のこの力技は私にはないことを。 いまはただ、まだまだ始まったばかりのアエラの物語の次を読むだけだ。それならば、私でも出来る。 2013年8月7日読了
2013年08月16日
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「大地の子エイラ(中)」ジーン・アウル 中村妙子訳 評論社 この本を読み出すと暫くして世の中は夏休みに入った。そうすると、小さな女の子がTシャツなどの薄着で巷に飛び回っているのを目にするようになる。その女の子たちがエイラに見えて仕方ない。小学高学年ぐらいだと、もう150センチの身長も珍しくはない。背を真っ直ぐに立てて長い足で走り回る。手をぐるぐると回す。止めのないお喋りをする。そんな普通の動作がネアンデルタール人にとっては異常な動作に見える。顔は扁平で金髪で青い目、となるとエイラになってしまうのではある。髪が黒くて真っ黒に日焼けして鼻ぺちゃの日本人でも、ネアンデルタール人にとってはエイラと同じように十分「醜い」容貌に見えたことだろう。 エイラの物語は、そのまま新人類たる我々の可能性そのものである。この(中)巻でエイラは、ネアンデルタール人のように本能で記憶するのではなく、論理的に学習し記憶する。洞穴熊の1番の石投げ器使いよりも遥かに上手く狩りが出来た。最も知恵のあるまじない師クレブよりも数を数えることを難なく成し遂げた。そんな当たり前のひとつひとつのことがこんなにもドラマチックだったとは、私たちはどうして想像することが出来ただろう。 エイラが一族の掟に触れて厳冬期の森に追放された時に、優れた生存能力を発揮したのは、偶然性もあったが、必然性もあった。追放=死と捉えていた洞穴熊族がエイラの帰還を死の世界からの帰還としか思えなかったのは、応用の効かなくなった種族の限界に囚われていたからだろう。我々は我々の種族であるエイラに共感しながらも、失われた種族の洞穴熊族にも想いを馳せざるを得ない。 2013年8月2日読了
2013年08月15日
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「大地の子エイラ(上)」ジーン・アウル 中村妙子訳 評論社 ときは紀元前三万年ごろ、黒海に突き出ているクリミア半島山腹の洞穴と周辺の草原が舞台。約20人のネアンデルタール人の部族と地震のために1人になったクロマニヨン人の女の子が登場人物である。 著者のジーン・アウルは言う。 「私はイラクのシャニダール洞穴の発掘に関するラルフ・ソレッキの著書に興味を覚えました。そこで最初に発見されたネアンデルタール人の人骨化石は、一方の肩が萎縮し、片腕が肘のところで切断されている老人のそれでした。私はそれを、ネアンデルタール人がきわめて人間らしい心情を持っていた証拠だと考えたのです。そのような障害をもつ男には、自分ので狩をすることなどもってのほかだったでしょう。しかも萎縮は、ごく早い時期からのものと思えました。誰かが彼を保護し、めんどをみたに違いありません。ネアンデルタール人は獣とは異なり、彼らのうちの弱者を捨てて死にいたらしめはしなかったのです。彼らには思いやりが、社会的良心があったのです。」 このネアンデルタール人はこの物語の中で、クレブというまじない師として重要な役割を果たす。ネアンデルタール人は新人のクロマニヨン人と比べて、言葉を流暢に発することが出来ない。しかし、それを補ってまるで手話のようにして見事な言語体系を持っていたし、ほぼ完成された宗教を持つまで訓練されていたと、この物語では設定されている。さらに驚くのは、その大きな脳の許容量を活用して、先祖の記憶さえも蓄積出来ると設定されていたということである。しかし、私たちの科学はそのことを否定出来るほどにはまだ進んではいない。むしろ、この物語を読んで、それは「真実」なのではないかと、直感で私たちに囁きかける。 やがて物語は、新たに人類の主役に躍り出るクロマニヨン人のエイラの目を通して、この太古の時代に人類が起き忘れてきたことを発見するのではないかと言う「予感」を告げるだろう。 素晴らしい本に出会った。ドキドキしながら、読み進めている。 2013年7月20日読了
2013年08月14日
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ずっと自衛隊員の自殺を追いかけて来た三宅氏の最新刊。その元凶を自衛隊の「腐敗した軍隊体質」にあるというまで突き詰めているのが本書である。 「自衛隊という密室 いじめと暴力、腐敗の現場から」三宅勝久 高文研 自衛隊の自殺者は多い。2004年度が100人、05年度101人、06年度101人と3年続けて過去最悪を記録し、2006年度の10万人あたりの自殺率は38.6で、一般職国家公務員の自殺率17.1の2倍以上にあたるという。 また、2007年度の数字を見ると、暴力事件での懲戒処分80人。わいせつ事件での懲戒処分60人。脱走による免職326人、そのうち半年以上も行方が分からず免職になった自衛隊員は7人。病気で休職している自衛隊員は500人にのぼっている。 自衛隊という組織の中にある「暴力の闇」。男性の自衛隊員から殴打も含む虐待を受け、声を出すこともできなくなり自殺に追い込まれた女性自衛隊員。異動のはなむけとして15人を相手に格闘訓練と称したリンチを受け亡くなった自衛隊員。先輩の暴行を受け左目を失明した自衛隊員。上司からセクハラされた上に退職強要を受けた女性自衛官の裁判闘争。その上、“臭いものにフタ”をして隠蔽する。 また、制服幹部一佐の年収は1,000万円以上、退職金は4,000万円。そして納入業者に役員待遇で再就職。防衛省との契約高トップの15社に在籍しているOBは2006年4月に475人もいて、三菱電機98人、三菱重工62人、日立製作所59人、川崎重工49人などとなっている。2008年度の1年間で、防衛省と取引のある企業に再就職した制服幹部一佐以上は80人。三菱重工と防衛省との年間契約高は2,700億円にのぼっている。その中で、氷山の一角が贈収賄事件として暴かれている。 そして、そのさらに上に、国会議員になったヒゲの隊長の佐藤正久や田母神空幕長などの組織を私物化する体質と「愛国心の鼓舞」がある。 これらが全て戦前の軍隊組織の体質だと著者は云う。だから、いじめの末の自殺は、結局はこの体質自体を変えない限り止むことはない、というのが素人の私でもわかる処方箋だろう。しかし、その体質は民主党の「政権交代」があっても少しも揺るがなかった。むしろ強化された。ならば、せめて普天間基地の日本からの撤退まで行くような徹底的な「政策交代」が必要だろう。 2013年7月12日読了
2013年08月10日
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「オー!ファーザー」伊坂幸太郎 新潮文庫 「あの、つるつるしただけの、こんにゃくだって、だし汁に漬けとけば味が沁みてくるんだ。親に育てられて、影響を受けないわけがないだろうが。外に干した洗濯物が、外気の影響をまったく受けないわけがないだろ。年がら年中一緒にいる親から、何の影響も受けない、なんて言い張れるやつがいたら、その方が乱暴だ」(155p) 小説の中で主人公も話の流れの中でも、この担任の主張を肯定しているわけではないが、それでも「どうしようもなく影響を受けてしまう」主人公の話である。 しかも、主人公には四人もの個性的な父親がいる。 この前読んだエッセイに出てくる「実物」伊坂父親もやはりかなり個性的である。一度も犬を飼ったことがないのにも関わらず、著者の父上は常にポケットにドッグフードを入れていると書いている。出会った犬を喜ばす、そのためだけに常日頃から準備しているのである。まあ、確かに尻尾を振って犬が喜ぶ様は一種の快感だろう。しかしそれは普通の人には常にポケットに異物をいれるほどの情熱とは結びつかない。この親ありてこの子あり、この本も書くべくして出来上がった本ではある。 2013年7月8日読了
2013年08月07日
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「小川未明童話集」 ハルキ文庫 小川未明童話集を紐解いてみた。ふと目次を見た時にとても懐かしい題名を見つけて「もしかしたら」と思ったのである。それは「眠い町」という話である。 果たして、あの懐かしい話だった。実に(多分)40数年ぶりの再会である。私が幼稚園に通っていたころ、両親は共働きをしていた。かまってあげられないのを不憫に思ったのか、母親は私たち兄弟に月一冊ごと届く絵本シリーズを買い与えていた。そのおかげで私は本が好きになったのだろうと確信しているのであるが、なぜか内容を覚えている絵本は二冊しかない。そのうちの一冊がこの「眠い町」なのだが、何時の間にかボロボロになって無くなっていたのである。作者などは興味がないので、覚えているはずがない。 そのあとに読んだどの童話とも違う不思議な話なのである。だから、覚えていたのだろう。 こんな話だった。 ある日少年は訪れるとどうしても眠ってしまうという町に入り1人の老人に出会う。老人から頼まれて、かけるとすべての物や者が錆びたり眠ってしまう一袋の砂を持って少年は世界を旅する。 というものです。老人が云うのには 「私はおまえに頼みがある。じつは私がこの眠い町を建てたのだ。私はこの町の主である。けれど、おまえも見るように、私はもうだいぶ年を取っている。それで、おまえに頼みがあるのだが、ひとつ私の頼みを聞いてくれぬか。」 と、そのじいさんは、この少年に話しかけました。 ケーは、こういってじいさんから頼まれれば、男子として聞いてやらぬわけにはゆきません。 「僕の力でできることなら、なんでもしてあげよう。」 ケーは、このじいさんに誓いました。じいさんは、この少年の言葉を聞いて、ひじょうに喜びました。 「やっと私は安心した。そんならおまえに話すとしよう。私は、この世界に昔から住んでいた人間である。けれど、どこからか新しい人間がやってきて、私の領土をみんな奪ってしまった。そして私の持っていた土地の上に鉄道を敷いたり汽船を走らせたり、電信をかけたりしている。こうしてゆくと、いつかこの地球の上は、一本の木も一つの花も見られなくなってしまうだろう。私は昔から美しいこの山や、森林や、花の咲く野原を愛する。いまの人間はすこしの休息もなく、疲れということも感じなかったら、またたくまにこの地球の上は砂漠となってしまうのだ。私は疲労の砂漠から、袋にその疲労の砂を持ってきた。私は背中にその袋をしょっている。この砂をすこしばかり、どんなものの上にでも振りかけたなら、そのものは、すぐに腐れ、さび、もしくは疲れてしまう。で、おまえにこの袋の中の砂を分けてやるから、これからこの世界を歩くところは、どこにでもすこしずつ、この砂をまいていってくれい。」 今回読んでみて、実はこのじいさんの含蓄のある言葉のことは覚えてなかった。私の覚えていたのは、少年が次々と砂をまいてゆく場面である。 ある日、彼はアルプス山の中を歩いていますと、いうにいわれぬいい景色のところがありました。そこには幾百人の土方や工夫が入っていて、昔からの大木をきり倒し、みごとな石をダイナマイトで打ち砕いて、その後から鉄道を敷いておりました。そこで少年は、袋の中から砂を取り出して、せっかく敷いたレールの上に振りかけました。すると、見るまに白く光っていた鋼鉄のレールは真っ赤にさびたように見えたのでありました……。 頁をめくれば、いっぺんに寂れてゆく鉄道。それは絵本の醍醐味です。 またある繁華な雑沓をきわめた都会をケーが歩いていましたときに、むこうから走ってきた自動車が、危うく殺すばかりに一人のでっち小僧をはねとばして、ふりむきもせずゆきすぎようとしましたから、彼は袋の砂をつかむが早いか、車輪に投げかけました。すると見るまに車の運転は止まってしまいました。で、群集は、この無礼な自動車を難なく押さえることができました。 またあるとき、ケーは土木工事をしているそばを通りかかりますと、多くの人足が疲れて汗を流していました。それを見ると気の毒になりましたから、彼は、ごくすこしばかりの砂を監督人の体にまきかけました。と、監督は、たちまちの間に眠気をもよおし、 「さあ、みんなも、ちっと休むだ。」 といって、彼は、そこにある帽子を頭に当てて日の光をさえぎりながら、ぐうぐうと寝こんでしまいました。 私は少年が「正義の行い」をしている気持ちにもなりましたが、一方では、世界を錆させてしまう行いがなんとなく「いけないこと」のようにも感じていました。不思議な感覚です。 ケーは、汽車に乗ったり、汽船に乗ったり、また鉄工場にいったりして、この砂をいたるところでまきましたから、とうとう砂 はなくなってしまいました。「この砂がなくなったら、ふたたびこの眠い町に帰ってこい。すると、この国の皇子にしてやる。」 と、じいさんのいった言葉を思い出し、少年は、じいさんにあおうと思って、「眠い町」に旅出をしました。 幾日かの後「眠い町」にきました。けれども、いつのまにか昔見たような灰色の建物は跡形もありませんでした。のみならず、そこには大きな建物が並んで、烟が空にみなぎっているばかりでなく、鉄工場からは響きが起こってきて、電線はくもの巣のように張られ、電車は市中を縦横に走っていました。 この有り様を見ると、あまりの驚きに、少年は声をたてることもできず、驚きの眼をみはって、いっしょうけんめいにその光景を見守っていました。 皇子にならなくていいから、私は老人は少年を褒めて欲しかった。だから、このラストはショックだった。でも、このラストがあったから、心にずっと残ったのかもしれない。 新品の物をわざわざ錆びさせにゆく行為に、いったい何の意味があるのか。 それは長い間、長い間、私の大きな疑問だった。いや、今もそうかもしれない。けれども、人生も後半になると、なんとなくわかるのも確かです。震災あとには一層その気持ちが強まったかもしれない。 小川未明の作品には、その後に読んだ宮沢賢治や新美南吉とはまったく違う不可思議で怖くて切なくて残酷な作品が多い。今回童話集を買ってビックリした。 2013年6月29日読了
2013年08月04日
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「あんじゅう 三島屋変調百物語事続」宮部みゆき 角川文庫 「とりわけ深い理由もなく、私が師匠に尋ねたのです。先生はどういうきっかけで手習所を始められたのですか、と」 その返答のために、加登新左衛門は〈くろすけ〉のことを語った。 ー昔、儂は人嫌いでな。偏屈で孤独を好み、ひたすら学問に打ち込もうとすることを、胸の奥で誇っておった。この世には愚か者ばかりが多い。儂は己の貴重な時をさき、愚か者が泳ぐ俗世という池につかる気はない、と。 とんでもない思い上がりであった。 「世間に交じり、良きにつけ悪しきにつけ人の情に触れなくては、何の学問ぞ、何の知識ぞ。くろすけはそれを教えてくれた。人を恋ながら人のそばでは生きることのできぬあの奇矯な命が、儂の傲慢を諌めてくれたのだよ」 だから加登新左衛門は、子どもたちに交じって暮らす晩年を選んだのだ。 人は変わる。いくつになっても変わることができる。おちかは強く、心に思った。(502p) いわゆる長屋怪談小説第二弾である。とはいっても、ほとんど怖くはない。人の心が1番怖い、という基本点は守りながらも、かなり人情味あふれる小説である。ましてや、くろすけ(暗獣)は「切なく可愛い」生き物だ。 基本設定はほとんど「となりのトトロ」の真っ黒クロスケの親玉版みたいである。むしろ、あの暗闇を好み家に巣食う「不思議な生き物」の正体を突き詰めようとしてこの物語が出来たようにさえ思う。 そういう意味では、第四話の「吼える仏」は「指輪物語」のゴクリを江戸時代に蘇らせようとしているかのように思えた。しかも、ゴクリが指輪を存分に使えばどうなるか、ということまで描いてしまった。 宮部みゆきはホラーも好きなのだが、ファンタジーも好きなのだ。今回はかなりその色が濃かった。 2013年6月28日読了
2013年08月02日
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「ユニオン!」笹本淳史 「民主文学6月号」 想像していた以上に面白かった。生協の個別配達の委託労働者である武志の一日の描写で、登場人物たちの置かれている状況を無理なく説明したあとに、一挙に労働組合結成と初団交とその結果までを描いたのは、構成としてはベストだったと思う。 労働組合結成をテーマにした小説は、小林多喜二の時代或いは1950年代60年代を別にすれば、驚くほど少ないと思う。ましてや、エンターテイメント小説としては、(ここに登場する)新労組の未来以上に前途多難である。けれども、ここに描かれている「請け負い労働」は、バブル破綻以降の労働市場の賃金引き下げや多様化の中で非正規雇用の拡大と共にとても増えた雇用のひとつである。それが「より良きくらしと平和のために」成長してきたはずの生協組織で採用されている処が、現代の矛盾を象徴的に現していると思う。その中での労働組合作りにチャレンジする青年群像が描かれる。しかも、タッチとしては純文学ではない。青春小説と言って良いのである。 この小説の1番の魅力は、武志の仕事が一分刻みで事細かに描かれている処である。 「はい、これ注文」 差し出された注文書に目を走らせ、間違いなく記入されていることを確認する。もし白紙であったら、本当に注文がないのか確認する必要がある。注文するつもりなのに書き忘れているという可能性もあるからだ。また注文人数の 確保が配達担当の主な課題のひとつとされているため、注文がないと言われる場合は、何か一点でも注文してもらうようお願いする。 大型トラックが目の前をゆっくり通って行った。武志のトラックがじゃまになるかもしれない。 「ありがとうございました」 慌ててあいさつをして、トラックへ走る。案の定、大型トラックが立ち往生していた。 「すみません」 手を上げて言いながらも、トラックの運転手とは目を合わさない。空シッパーを荷台に放り込んで閉め、トラックの下部と周囲を確認して運転席に飛び乗り、注文書を助手席に置くとすぐに発進させる。次の配達場所の前を通り過ぎてしまうが、止まることはできないので、諦めて旋回することにする。五分近いタイムロスだ。 「落ち着け。落ち着け」 武志は自分に言い聞かせる。 物語には、細部にこそ真実が宿る。一日65軒、一軒5分以上使えない配達の中で時には合計45キロの荷物を五階までかけ上がらなければならない重労働、トラブルやクレームに気遣いながら、営業までしなければならない「生協の個別配達」という世間には全く知られていない専門性のある労働がここにある。それを知ることの面白さ。その割には正規の半分も貰えない報酬の低さ、その仕事への誇りや将来への不安もある程度描かれている。 枚数の関係からか、労組作りに話が移ると人物の類型化と説明的な台詞が増えてきたのは残念なところだった。労組専従も二人出てきたのだから、一人を原則的な人物、一人を際立ったキャラにすれば魅力が増したかもしれない。 これならば、まだまだ何人かに焦点(例えば美紗子や古田)に当てながら、もう少し作れるのではないか?。 新しい青春労組小説、期待しています(^-^)/。 2013年6月11日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年06月14日
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「やし酒飲み」エイモス・チェツオーラ 土屋哲訳 岩波文庫 じぇじぇ!ジュジュマン(精霊?魔法使い?神?)の話であった。 初めて「アフリカ文学」を読む。しかも内容は、現代感覚を微量に取り入れただけのように思える殆どアフリカ神話の世界。最初は読み進めるのが苦痛だった。初めての方は、訳者による解説から読んだ方がいいと思う。(あらすじは表紙写真を参照して下さい) しかし、驚くほどに日本神話に似ている。主人公は「神」なのだが、非常に人間的なのである。娘を怪物から助けて妻にする。その子どもが怪物になり殺されそうになるのも似ている。 生まれたばかりの赤ン坊が怪物になるのは、一度ではない。それを殺すの父である主人公なのだが、まるきり倫理的苦痛を感じていないのである。 森林は、万能ではない神である男にとって危険極まりない処だった。それは、アフリカの自然の厳しさでもあるのだろう。 突然の不幸と生と死の往来、そして突然解決出来る未来。それは不思議ではあるのだけど、やはり何処か普遍性のある人間の人生なのかもしれない。 2013年6月7日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年06月13日
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「真夏の方程式」東野圭吾 文春文庫 「ふうん、なんかつまんないね」 「どうして?何がつまらない?」 「お金に繋がらないってところが。僕だったら、やる気が出ないな。大体、理科って苦手なんだよね。あれって何か役に立つのかな。ねえ、科学の研究なんて楽しい?」 「この上なくね。君は科学の楽しさを知らないだけだ。この世は謎に満ちあふれている。ほんの些細な謎であっても、それを自分の力で解明できた時の歓びは、ほかの何物にもかえがたい」 小学生の男の子との世間話でも「本気で」話をする湯川教授が可愛いです。 ガリレオシリーズは好きではない。特にテレビドラマ化されてから好きではなくなった。あまりにも軽く読め過ぎるのである。暇つぶし用の一冊としては、ちょうど良かった。 終わり方はかなり強引だ。話の筋は通っている。しかし、湯川は当然だろうが、刑事の草薙がこれで済ますのが不思議でならない。 でも、男の子の宿題は果たせそうだ。それは嬉しかった。 映画はどうなるのだろうか。「勉強するとは何か。科学とは何か」キチンと答えを出しているだろうか。観る予定はないので、7月以降映画を観た人はそこだけでいいから誰か教えて欲しい。 2013年5月22日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年06月07日
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「松本清張傑作選 黒い手帖からのサイン 佐藤優オリジナルセレクション」新潮文庫 松本清張は、いやしくも推理小説や社会派小説ファンならば、一度は通らなければならない山である。しかし私は30年間も躊躇している。その裾野は広く、その峰は思いっきり高いのではないかと思うからである。一度登り始めたら後戻り出来ないのではないか、と。 その偵察旅行として、このアンソロジーを選んでみた。優秀な選者は面白いものだけを選ぶだろうし、信頼出来る選者は私の嫌いな話を選ばないだろうと思うからである。浅田次郎、海堂尊、原武史は私の趣味ではない。佐藤優ならば信頼出来ると思った。あと、興味あるのは宮部みゆきぐらい。 今回のアンソロジーのテーマはインテリジェンスである。唸らせてもらわなければならない。最初の「共犯者」「殺意」はそれ程でもなかった。何処かのサスペンス劇場で見たような話だった。もちろん、松本清張がテレビをまねたのではなく、その反対なのだろうと思うのではあるが、やはり興ざめしたのである。ところが、「捜査圏外の条件」には唸った。検索が発達した現代ならば、この手は使えないが、昭和30年初めならば十分有効な完全犯罪の方法がそこにあった。更に「声」で唸る。電話交換手が300人の声を聞き分けるという、現代では考えられない設定も新鮮だったし、一部と二部が倒叙方式で語り手を変えて、事件を立体的に見させる方式も新鮮だった。「腹中の敵」「群疑」「山師」は秀吉から家康時代に渡る時代小説である。時代小説を描きながら、会社組織の残忍性を描くのは、藤沢周平より15年ぐらい前に松本清張が始めていたのである。「点」は公安スパイの末路をホントリアルに描く。社会派のドキドキするような秀作であると同時に、1950年代の貧困層が見事に活写されていた。そして、戦後社会派小説の始まりである「張り込み」を初めて読んだ。 結果、松本清張はとっても面白い。たいへん困ったことになった。 2013年4月24日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年05月08日
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「永遠のO」百田尚樹 講談社文庫 この作品は映画化されるらしい(2013年12月公開)。読んで分かったが、ヒットする要素が満ちている。一つは、ジブリプロデューサー鈴木敏夫の云う二つの要素がある。「一人称の目でつくった映画。これは観客が感情移入できるんです。しかも、ここには現実ではありえない感動がある。この二つの要素をかね揃えれば映画はヒットする」(「映画道楽」39p)もう一つこの作品には小説としてヒットする要素があり、映画にもそれは有効だろうと思う。それは「主人公の宮部久蔵とは何者なのか」という謎を最後まで引きずることに成功したからである。神風特攻隊員にあるまじき死ぬのを恐れる臆病者、しかし天才飛行士、彼はなぜ零戦搭乗員になり、「必ず生きて帰る」と言っていたのにも関わらずなぜ特攻隊員に志願したのか。その謎を宮部久蔵の孫が生き残りの戦争体験者の話を聞く中で、解明していく。と同時に、とても過酷で生き残った兵士はほとんどいなかったといわれる海軍戦闘機乗りたちの現実と、彼らから見た第二次世界大戦を浮き上がらせてゆく。 先の記事(「このろくでもない、すばらしき日本」)で私はこのように書いた。 いま、百田尚樹の「永遠のO」を読んでいる途中なのですが、この中で現代の姉弟が第二次世界大戦の戦略批判をする場面があります。 戦争当時の長官クラスが強気一点張りの作戦ばかりとって、主人公の宮部のような優秀な兵士たちをたくさん死なせた一方で、自分が前線の指揮官になった時には突然弱気になる。これは「構造的なもの」があるのではないか。彼らはペーパーテストで出世して来た人間である。彼らはマニュアルには強いが、そうでない場合には弱い、ミスを恐れる。そして自分が間違っているとは思わない。(一方、アメリカは結果責任をきちんと取らせるらしい)そして、高級士官は、尽く失敗の責任を取らなかった。 まだ結末を読んではいないが、これは現代の合わせ鏡だと作者は言いたいのだろう、と思う。2006年の作品ではあるが、原発事故がそれを見事に証明した。 ‥‥‥‥最後まで読み切って、多くの若者たちにわかりやすい読み物を提示したかったのだろう、と思った。大きな戦略的な間違いといくつもの戦術的な間違いを犯した戦争指導者たちの愚かさを糾弾するのと同時に、それを遂行した若者たちの名誉を回復したかったのだろう。 しかし、どこか私には違和感が残る。 ストーリーテラーとして技巧的なのである。最初に謎を提示して、それを解決してゆく方式を他の著作でも採っているらしいというのがひとつ。官僚主義批判は手垢のついた戦争批判なのだということがひとつ。 それでも、感動的な物語だったということは変わりない。しかし、この「感動」。作者の「戦略」なのではないか?という気がしてならない。 もしかして、誰もが感動出来る話で間口を広げて、やがては自分の本当に書きたいものを売ってゆくという「戦略」なのではないか。そうではないことを祈りたいのだが‥‥。というのも、現実世界で、著者は以下の様な発言をしていることをつい最近、知ったからである。 『Voice』4月号2013/3/9 憲法改正で「強い日本」を取り戻せ いまこそ誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を開けるときだ 対談「渡部昇一(わたなべしょういち・上智大学名誉教授)×百田尚樹(ひゃくたなおき・作家)」 〈抜粋〉 百田 日教組の教職員は子どもたちに、「日本は侵略戦争を行い、アジアの人々を傷つけた」「日本人であることを恥ずべきだ」ということを教えてきましたからね。そのような誤った知識を死ぬまで持ち続ける日本人も多い。広島県のある高校は修学旅行で韓国に行き、生徒たちに戦時中の行為について現地の人に謝罪をさせたとも聞きます。世界中を見渡しても、そのような教育をしている国はどこにもありません。 百田 「侵略戦争」といっても、日本人は東南アジアの人々と戦争をしたわけではない。フィリピンを占領したアメリカや、ベトナムを占領したフランス、そしてマレーシアを占領したイギリス軍と戦ったわけです。日本の行為を「侵略」と批判するなら、それ以前に侵略していた欧米諸国も批判されてしかるべきでしょう。 百田 日本の人口1億人に対して、自衛隊の隊員数は25万人です。海外と比較をすると、スイス軍は人口780万人に対して、軍隊は21万人もいます。しかも現役を退いたら、60歳ぐらいまでは予備役として登録される。一家に1丁自動小銃が配布されており、日常は普通の仕事をしていても、事が起きれば戦場に赴く。歴史的には「永世中立国」として200年以上戦争をしていないわけですが、軍隊をもつことは、戦争に対するもっとも有効な抑止力であり、平和の維持にはそれだけの労力がかかることを理解しているわけです。 百田 だからこそ安倍政権では、もっとも大きな政策課題として憲法改正に取り組み、軍隊創設への道筋をつくっていかねばなりません。世界の約200か国のうち、軍隊をもっていない国は、モナコやバチカン市国、ツバルといった小国をはじめとする27か国しかない。日本のような経済大国がそれに当てはまるのは異常なことです。 百田 世間では、「憲法は神聖で侵さざるべきものである。改正するなんてもってのほかだ」という、「憲法改正アレルギー」のような意識が蔓延しているようにも感じます。しかし世界中のどの国も、憲法改正はごく普通に行っている。アメリカは18回、フランスは24回、ドイツは58回、メキシコに至っては408回も改正しており、世界最多の回数といわれています。(略) 百田 アメリカも大東亜戦争で痛い目に遭っていますから、もう二度と日本が立ち向かえないようにした、ということですね。9条で「交戦権の放棄」を押し付けたのもそうです。いまの日本には自衛隊がありますが、9条を厳密に解釈すると、相手に銃を向けられて引き金に指がかかってもいても抵抗できない。向こうが撃ってくれば初めて反撃できますが、それも最低限のものに限られ、たとえば一発撃たれて十発撃ち返したら、過剰防衛として処罰される。こんな馬鹿なことはないでしょう。 小説は所詮エンターテイメントの世界、普通はこういう「時評」にその人のリアルな認識が出ると思う。「侵略の定義は決まっていない」と宣ったのは、現在の日本国首相ですが、本屋大賞受賞者のこのお方も「本気で」そう思っているようです。なおかつ、手垢の付いた「憲法改正アレルギー批判」もなされており、自民党の憲法改正草案も全面的な賛成に回りそうです。 おやおや、と言いたい。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年05月07日
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「バイバイ・フォギーディ」熊谷達也 講談社 憲法改正国民投票を前に高校生がプレイベントをするという、実に現代的(?)な内容。ネットとメデイアを逆利用するスーパー高校生杉本岬の活躍が清々しく、しかも参考になる。 熊谷達也は本来はマタギ小説などの冒険小説を得意分野にしていて、政治小説なんて書く人じゃない。でも、ものすごく真面目に書いている。しかも、結果的にこれからの未来を予感させるような小説になった。連載は2011年2月号から2012年1月号まで。彼は仙台在住の作家である。偶然にも大震災の大変な時に被っている。原発のゲの字も出てこない。けれども、問題意識は変わったのかもしれない。 内容(「BOOK」データベースより) 憲法改正についての国民投票実施が決まった春、函館H高校女子生徒会長の杉本岬は、全国の高校生による模擬国民投票に向けて動き出す。メディアに取り上げられ有名人になった岬だが、掲示板サイトに彼女を批判する書き込みがされ苦境に陥る。岬の同級生の田中亮輔は地元パンクバンドのギタリストだが、憎からず思っている岬を助けたいと願いながらもなすすべがない。国民投票の結果は?そして、二人の恋と未来はどうなるのか?政治オタ女子高生とイマドキパンク青年が、もやもやした日々をぶっ壊す。 という内容です。題名は「さよなら、霧の日々」という様な意味。彼らのイベントのテーマであり、ミュージカルのテーマ曲です。 私は今の高校生、このぐらいやってもおかしくないと思う。ずっと前に私のブログにコメントくれていた中学生の女の子は驚くほどしっかりしていた。この本に関して云えば、高校が理解があり過ぎるとか、杉本岬がうまいこと有名になり過ぎるとかはあるけど、よく出来た政治ラブコメ小説になっていた。 ご存知のように実際の国民投票法も対象者は18歳以上になっている(ただし、法改正が必要)。まだ社会のしがらみに汚されていない高校生たちは、現実でもそろそろ動き出してもいいんじゃないかな。高校生だけのデモを企画して「僕たちにも投票権を」と主張してもいいんだよ。 大人もふにゃふにゃしてはいられない。 最後のページに主要参考文献が載っているが、(一応護憲派の本ばかりだったが)参考にしたのはこの12冊のみだったはずがない。例えば内田樹の「9条どうでしょう」の内容は所々に出て来た気がする。 2013年4月19日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年04月28日
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「おれに関する噂」筒井康隆 新潮文庫「48億の妄想」を読んだ時に「この本も傑作揃いですよ」と教えてもらったので、さっそく古本屋に注文して読んでみた。いゃあ、面白かった。筒井康隆初期の短編集だそうだが(単行本は昭和49年発行)、かなり売れている頃のエピソードは、編集者の戦略通りに作品を書かされ作者もそれに乗っかる「養豚の実際」や無限ループの「講演旅行」に見事に反映されている。「おれに関する噂」もそうだが、いつの間にか「世間」(?)という「情報」(?)にコントロールされる恐怖がいろんな所にちりばめられているのである。それは、使い捨ての消費社会に対する政府の節約キャンペーンを皮肉った「YAH!」にもあてはまるだろう。集合住宅に住んでいる夫婦の元に、無料で家計簿診断をしてくれるという男がやってくる。「無料ならば‥‥」と始めたそれはだんだんとエスカレートしていき‥‥。おれのことばに、チョビ髭があっと叫んで飛び上がった。「それをおっしゃてはいけません。いつあなたがそれを言い出すかと、実は恐れていたのです。どうせ家は買えないものと諦めて、なかばやけくそになったサラリーマンのそういう考え方、それこそが諸物価を値上がりさせている原因なのですよ。乏しい給料をはたいて次々と流行のものを買い漁ってゆく現在の大多数サラリーマンの消費生活こそが、物価高や大企業の公害を生んでいるのです。諸悪の根元はそういったサラリーマンたちの、分をわきまえぬ贅沢、やけくその購買意欲、乞食的虚栄心にあるのですよ。あなたもそういう連中のひとりに身を落としたいのですか」彼は喋り続けた。これは政府や役人の考え方だ、おれはぼんやりとそう思った。しかし反駁する気にはなれなかった。(165p)流されて、死ぬほど働いて、気がついたら貯金を全部持っていかれた夫婦の姿は、やがてインフレと社会福祉削減と消費拡大キャンペーンで貯金全てを持っていかれる我々の未来をも暗示しているのかもしれない。2013年4月8日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年04月18日
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世は村上春樹やら本屋大賞やら喧しいのだが、私はもくもくとお気に入りの作家の小説を読むのを基本とする。お気に入りは今のところ、7-8人ていどか。「バイバイ、ブラックバード」伊坂幸太郎 双葉文庫文庫では最後に伊坂のロングインタビューが載っている。質問者の「死が底流にあるけれど、本作は軽やかだ」という指摘にこう答えている。「そこで本当に救われない話を書いちゃったら、最悪な気がしちゃうんですよね。現実の世界を見れば、いくらでも笑えない暗い話はあるんだから。さわやかなだけの話やきれいごとだけで出来ている小説は書きたくないんですけど、どうせ読むなら読み終わったあとにほのぼのしたり、ニコニコできるほうがいいじゃないですか。僕自身、そのためだけに書くし、そのためだけに読んでいるような気がするんです。この話もよくよく考えれば結構暗い話かもしれないけど、どこかでニヤニヤしたい。良い小説というのは、必ずニヤニヤできると思いませんか?文章がおもしろいとか、気の利いたフレーズが出てくるとか。とにかく笑えないといやなんです。泣き笑いっていうのは大切だと思うんですよ。」(359p)伊坂幸太郎のスタンスがよく分かるインタビューだった。だけどもう仙台シリーズはないんだろうか。黒田さんやカカシやあの人やこの人出て来ないのかな〜。少し寂しい。この本は、五股をかけていた女性と一人一人別れ話をして、〈あのバス〉に乗らなければならない青年の話なんだけど、ウィットの効いた会話は健在。ナンパの指南書になるくらい。ナンパの極意は誠実さと躊躇わない行動と、少しのウソであることがよくわかった。ちよっと真似出来そうにはない。2013年3月25日読了 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年04月14日
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