全7件 (7件中 1-7件目)
1
に昨日行ってきました。で、せっかくなのでその概略を書きたいと思います。とはいえ、mixiに書いたやつの文章おかしい所を直した程度のものですが・・・。ちなみにこの講演は大阪で「ジブリレイアウト展」をやるのを記念して行われたものです。まず最初に「ジブリレイアウト展」ということで、レイアウトの説明とその意義について少しお話がありました。詳しい方はもう良く分かっていると思いますが、アニメーションにおけるレイアウトというのは画面の設計図のことです。「絵コンテと何が違うの?」と思われる方も多いでしょうが、絵コンテは演出プランを示すもので、人物がこう動くのだとか、こういう背景がいいだとか、アングルはこうだとかおおまかな見せ方を決めるものだそうです。一方、レイアウトは画面自体の構成、例えばキャラクターと背景とのマッチングだとかいったものをするわけですね。と、基礎知識を頭に入れたところで肝心の空間表現のほうに話題を移したいと思います。実写だと広角レンズだとか望遠レンズを使ったりして奥行(空間)を表現するのですが、いわゆるセルアニメーションというのは全て絵で表現します。つまり実写だとレンズを使って得られる効果をそのまま絵として描いてしまう、ということになります。これはもちろん大変なことですが、逆にせっかく絵(=自らの意思でコントロールできるもの)で空間を描いているのだから、実際の印象に近いような感覚が味わえるような表現に変えることができるんですね。たとえば高畑監督は五重塔を見上げる時の話を例に出されました。普通、理論的には下から塔を見上げると、パースが付くので塔の先は小さくなって見えるのですが、実際に見上げてみると印象として重くのしかかってきているような迫力があります。しかし、アニメーションでそのように描いてしまうと、画面の臨場感が何だか欠けてしまっているように見えてしまうのです。そこで、実際に見えるものではなく、印象と同じものを引き出すために先の部分も大きく描く、ということをしたりするのだそうです。次に高畑監督が話されたのはディズニーのアニメーションと日本のアニメーションの違いです。ディズニーのアニメというのは奥行をあまり描いていない、つまり縦の構図が少ないというのです。具体的にどういうことかというと、ディズニーのキャラクターというのは左右の横移動や斜め移動が多く、前後(つまり画面では縦)の動きが少ないというんですね。一方、日本のアニメは縦の入れ込みの構図が多いのです。どうしてこういった違いが生まれたのか。その問いに対して、高畑監督は次のように考えています。日本人というのは、実は驚くことに鼻のない人間の絵を描いてもさほど違和感を覚えません。目と口さえはっきり描いておけば、わりと受け入れられてしまうというのです。確かに、日本の漫画などを見ていると、鼻を点だけでほとんど表現していないものも多いですよね。一方、西洋の人は鼻をきちんと描かなければ気がすみません。きちんと鼻というものには高さがある、ということを分かるようにしないと気持ちが悪いのです。そのため、鼻を描く際には西洋人は正面の絵でもいわゆる鉤鼻を描いたり、陰影を付けたりします。つまり正面の絵なのに、鼻だけは斜めを向いた絵としてしか描けないのです。こういったことから縦(つまり正面)の構図をディズニーアニメは避けるようになったと高畑監督は主張するのです。とはいえ、ディズニーアニメも全く縦の構図を使っていないわけではありません。ディズニーは「ピノキオ」でこういった縦の構図を用いたのですが、そのシーンだけで48000ドルと膨大な資金がかかったにもかかわらず、ほとんど見向きもされなかったため、縦の構図による臨場感の表現をアニメではできないのだといって放棄してしまったのです。これは最終的には日本のアニメーションによって否定されてしまうことになるのですが、その先駆けとなった映画が高畑監督の「太陽の王子ホルスの大冒険」なのです。ホルスでは積極的に縦の構図が用いられています。最初の冒頭の1カット目もそうです。カメラ手前をオオカミやホルスが駆け抜けた後、画面奥の崖のようなところで乱闘し、そして再びカメラ手前に駆けてくるといった画面構成になっているのですが、こういったものにしたのはそれまでのディズニーなどをはじめとしたアニメーションの表現では何か物足りないと高畑監督は感じていたからだそうです。この物足りない感じはどこからきているのでしょうか?それは横の構図と縦の構図が視聴者に与える効果の違いから来ています。そもそも横の構図は画面を客観的に見せる効果があります。どこか舞台的に思わせ、視聴者は物語の外にいる感覚を覚えるのだそうです。一方、縦の構図は臨場感を与えます。ナメなどを例にとればよく分かると思うのですが、登場人物に感情移入しやすい作りになっているのだそうです。つまり横の構図が多いディズニーアニメはどこか客観的な部分が多く、いまいち臨場感に欠けるため物足りなかったのです。この後、高畑監督は他に密着マルチなどを用いたりした奥行表現などを行っていくことになるのですが、転機が訪れます。それが「キリクと魔女」との出会いです。この作品を見て、それまで縦の表現(奥行)にこだわりすぎて見失っていた客観性もとても大事なことなのだ、とはっとさせられたそうです。高畑監督は「ハラハラ」と「ドキドキ」は違うといいます。「ハラハラ」は先の危険が見えており、キャラクターがそれに向かって進んでいくのを手に汗握る気分で見ていることで、「ドキドキ」はキャラクターと同一化し、先に何が起こるか分からないけれど、危険な状態にある、といったものを指すのだそうです。つまり「ハラハラ」は客観的であり、「ドキドキ」は主観的なのですね。そして最近は「ドキドキ」を重視していたが、実は「ハラハラ」も大事なのではないか、と監督は思い至ったのだそうです。話は変わりますが、高畑監督の作品に「ホーホケキョとなりの山田くん」というのがあります。この作品はそれまでの高畑作品とは空間の捉え方が違っています。というのも、漫画的な空間の捉え方をしているのだそうです。漫画というのは、描いていなくてもそこに実は存在しているものがあったりしますよね。つまり、必要最小限のものしか描いていない。アニメでも同様の空間表現ができないだろうか。そういう試みで作られたのがこの映画だそうです。私はまだ未見なので近々見たいものです。最後にまとめると、日本のアニメは空間をとらえる方に発展してきた、ということです。これは日本にはその土台があり、またそれを実践しようという意欲旺盛なクリエーターたちがいたからです。しかし、最近はそれが行き過ぎている気もするので、少し客観的な画面も入れることも高畑監督は必要だとおっしゃられていました。どちらが優れている、ということはないのだから、きちんと特性を見極めて使え、ということですね。
2009年07月25日
コメント(0)
アニメや小説とは全然違いますが、あまりにも感動したので私事ですが載せてみる。このブログには友達にばれると嫌だから私事は書かないつもりだったのだけどなぁ(苦笑大学の先生でちょっと気になる人がいたので調べてみたら、その人の恩師、月田承一郎先生の記事も出てきた。この月田氏の研究への姿勢に私はすごく感動した。そもそも私が気になってる先生も、月田先生に「お前は凡人だろ?凡人が何か仕事をしようと思ったら勉強しなきゃだめだ。君も勉強しなさい」と初めて会った時に言われ、すごく感動したらしい。もうこれだけで月田先生の偉大な人格がうかがえるものだが、いろいろな記事を読んでいてさらに私は感動した。出てきた記事の一つ。http://www.nacos.com/jscb/jscb/jscb_huho17-1-7.html細胞生物学の永田先生の文ですが、これを読んでるだけで月田先生という人が滲み出ていて泣けてきた。私が見ず知らずの人のことで泣くのって珍しい・・・というか初めてな気がする。特に最後の月田先生のメールの返信の引用はやばかった。↓「ご丁寧に有り難うございました。何とか薬と闘っている状態です。 突然の全く予期せぬことで、まだ自分でも整理はついていないのですが、家族や友人の有り難さが身に滲みています。 分の悪い戦いであることはよく分かっていますが、家庭だけなく研究室のことも必死でフォローしてくれている家内や、びっくりするほど大人になって優しくしてくれる息子(この4月で高2です)や、自分の仕事より優先して必死に最新の治療法を調べてアレンジしてくれる友人などに支えられて生きている感じです。このような人々に囲まれて、これまでの自分の至らなさを逆に感じてます。」もう正直涙ボロボロ。研究者はこうあるべきだと思った。やはり自分のすごさを奢ってしまう人は研究者として向いていないのだと思う。また、最期まで研究者として生きる姿勢を貫いた月田氏に感動。http://nosumi.exblog.jp/2705763/死ぬ直前まで研究者であり続けた姿は、私が尊敬してやまないF先生とそっくりだ。こういう人間で私もありたい。
2009年07月13日
コメント(0)

少し息抜きで落書き。「うみものがたり~あなたがいてくれたコト~」よりマリンちゃん。久々に軽く色も付けてみた。それにしてもろくに資料見ずに書いたから間違ってそうだ・・・。さて、別の課題に取りかかるか!
2009年07月09日
コメント(0)
読んでいる途中、私はこの作品は「辻村深月流霧越邸殺人事件」なのではないか、と考えていた。なぜなら、童謡の見立て殺人や登場人物の名前を重要視した作品であったからである。名前に関連したものが多く出現し、それがうまい具合に絡み合ってミステリーを構成する。これは「霧越邸殺人事件」以外の何物でもあり得ない。あと、そう思った理由を付け加えておくなら、やはり作者が綾辻行人のファンであり、辻村「深月」だからであろう。そして読み終わった感想は「辻村深月だった」ということである。正直なことを言ってしまえば、ミステリ部分はさほど面白いものがなかった。二重人格というのも割と早くから読めていたし、浅葱のほうが作られた人格なのではないかというのも予想の範疇であったし、「ちくしょう、実はそうだったのか」と思わせるにはどこをとっても少し弱い。もちろん言葉のつながりであるとか、ちょこちょことしたトリック自体は非常にうまくできており、相変わらず丁寧な作りをしている、とは感じさせられたが。そういう意味でのインパクトは薄く、「霧越邸殺人事件」とは異なっている。ただ、心理描写はうますぎる。私から言えば辻村深月を読む価値はここにあると思っている。ミステリはオマケ要素にすぎない。幾原邦彦も解説で書いているが、辻村深月は「どうして僕たちのことをこんなに知っているのだろう」?そう思えるほどに若者の心理を描くのに長けている。客観的にその心理を知り、その上で場面に応じて具体的に、あるいは抽象的に文章で捉える事ができる。それが辻村深月という作家の最大の長所なのだろう、と思う。最後にやはり、エピローグに当たるあのシーンにはジーンときた。辻村深月は自分のことを作家というよりは演出家である、と評しているが、なるほど、そうなのであろう、という気がする。「FLY ME TO THE MOON」。その言葉の意味を知ったとき、人は思わず涙を流してしまうだろう。
2009年07月05日
コメント(1)
ハルヒのエンドレスエイトの2回目のコンテは神がかりによいと思う。
2009年07月05日
コメント(2)
ヱヴァ破を見て、つくづく三石琴乃は「奇跡」と関係が深い声優なのだなぁ、と思った。葛城ミサトは「奇跡は自分の力で起こすものだ」と豪語し、「奇跡は起こしてこそ価値のあるものだ」と云う。有栖川樹璃は「奇跡なんてないんだ」と表面上では諦め、しかしその実、最も奇跡を望んでいる。月野うさぎはそれこそ存在自体が「奇跡」と思えるようなキャラクター。よく考えてみれば三石琴乃さんの演技を聞いていても「こんな演技ができるなんて本当に奇跡だ」と思わされることが多々ある。やはり三石琴乃に「奇跡」という言葉はとても似合っているのだろう。
2009年07月04日
コメント(0)
ちょっと遅くなりましたが、2日に見に行ってきたので軽く感想を。これから見る予定の人はネタばれ含むのでご容赦ください。以下大丈夫という方だけどうぞ。さて、序からもう2年くらいになるのでしょうか。序は受験期で劇場では見られなかったので、破こそは劇場で観るぞ、と個人的には楽しみにしていました。制作が当時予定されていたよりかなり遅れていたので少し不安もありましたし、逆にその分もっと良い出来になるのだろうという確信も自分の中ではあったのですが、実際に見た今、やはりその確信は間違いではなかったと言い切ることができます。破とは一体何なのか?何を考えて庵野監督は今、エヴァンゲリオンをREBUILDしようと考えたのか。それを自分なりに解釈しながら、以下では話を進めたいと思います。旧作「新世紀エヴァンゲリオン」は言うまでもなく、鬱作品です。主人公が友人を殺さねばならない事態に追い込まれたり、ヒロインの一人の人格が破壊されたり、作品世界に引き込まれすぎると鬱になってしまうようなアニメです。制作している庵野監督自身でさえ(いや、「だからこそ」)エヴァンゲリオンに囚われ、鬱になっていた、というのは有名な話です。途中、制作をやめようと思ったこともあったそうですし、そのために映画の発表が遅れたりもしていた、とも聞いています。最終的には「新世紀エヴァンゲリオン」は特に話を収束させないまま、終わりを迎えます。何故話が収束しなかったのか。もちろんストーリーが大きくなりすぎた、というのもありますし、伏線をばらまきすぎて結局が何が何だか分からなくなってしまったという感もあります。でもこれは一言でまとめてしまうと、庵野監督がその当時自分というものを測りかね、捉え切ることができなかったからなのではないかと思います。庵野監督自身の中にある「狂気」を庵野監督は制御できず、むしろその「狂気」に飲み込まれてしまっていたのではないか。そう私は考えるのです。このエヴァンゲリオン制作の後、庵野監督はオリジナル作品から手を引きます。「彼氏彼女の事情」「Re:キューティーハニー」など、原作がある作品を扱うようになるのです。これはアニメファンからするとちょっとした事件だったのではないかと思います。それまで「トップをねらえ!」や「ふしぎの海のナディア」など、オリジナル作品を主に作り続けていた庵野秀明が原作付き。なんとも不思議な気分です。同時にもったいないという気持ちも込み上げます。この頃、別にオリジナルの話がなかったか、というと、必ずしもそうではないと思えるからです。エヴァ以降も庵野監督が所属していたGAINAXでは「フリクリ」や「トップをねらえ!2」などのオリジナル作品が制作されています。特に「トップ2」に関しては、前作を庵野監督は担当しているわけですから、声がかからなかったとは考えにくいのです。でも庵野監督は鶴巻監督に「トップ2」を任せた。それこそ本当に丸投げで。監修と庵野監督はクレジットされてはいますが、実のところ参加したのは4話になってから。それまでは制作に全く触れてもいませんでした。それは一体何故なのでしょうか。どうして庵野監督はオリジナル作品を出すのをやめてしまったのでしょうか。それに対して私が考えている答えは、「まだエヴァンゲリオンを自分の中で消化できていない」からです。原作付きをやることで庵野監督は客観的にストーリーを見る力、何を一番伝えたくて、それをうまく伝えるためにはどの表現方法が一番適切なのか、それを見極める力をさらに磨いていたのではないでしょうか。そして自身の過去の作品「トップ」の続編が新たに全く違う方法で別の人の手によって作られたことで、自身の作品をも客観的にすることが監督自身の中でできるようになったのではないでしょうか。だから、庵野監督は今エヴァンゲリオンをヱヴァンゲリオンとしてREBUILDし、当時から自分の中に渦巻いている「狂気」に別れを告げ、更なる高みへ昇華しようとしているのではないか、と私は考えるのです。実際、今回の新劇場版はあくまでエンターテイメントとして作られています。以前より内容もキャラクターもかなり前向きです。これには庵野監督の余裕が感じられます。とにかく自分の中にあるものをすべて突っ込む、という形ではなく、自分の中にあるエッセンスを圧縮し、必要なものだけ詰め込む、という形で制作に挑んでいるように思われるのです。それだけ庵野監督の精神状態が安定している、というのもあるのでしょう。作中で、綾並レイは特攻する際、次のような台詞を言います。「私が死んでも代わりはいるもの」前作ではその後、綾並レイは死に、3人目の綾並レイが登場する。しかし、新劇場版では異なっています。シンジがそれは違うんだ、と明確に宣言するのです。綾並の代わりはいないのだ、だから「逃げちゃダメだ」と。これは大きな変化だ、と思いました。もういっぱいいっぱいで、逃げ出せるなら逃げ出したかった前作。代わりはいくらでもいるんだ、というネガティブな姿勢。それを庵野監督が否定し、新たに新劇場版を作って逃げずに前へ進もうとしている。そんな感じが私の中でしました。そして、それこそが新劇場版の意義であると。実際の真意はもちろん分かりません。けれどもそう感じた、感じさせられた、ということはそれだけ庵野監督は本気なのだろう、と思うのです。本気で作った作品でないと人はなかなか感じられないものです。逆に本気で作った作品でも感じられないことも多々あるのですから、それを考えるとやはりすごいな、と思います。こう感じられただけでも映画館までわざわざ足を運んだ甲斐がありました。次回作も楽しみです。あ、付け足し。ラストはセーラームーンやウテナを彷彿とさせた。榎戸洋二が脚本協力に入っているからかもしれない。あと日常パートは非常にサトジュンっぽかった。確かめる術は現在ないのだが、まず間違いないだろうと思う。そもそもTV版でも日常トリオの一人だったわけで、日常シーンを多く担当していたわけだし。
2009年07月04日
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1

