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今年もハロウィーンの季節です Back number入れました。過去ログ見たら2009年からずっと取り上げていました今年もワイキキの夜の取材予定ですが、昨日見てきた限りではハロウィーンの飾りをしている所がほとんどありません。免税店でさえ、今年はディスプレイしなさそうですし、いつも散歩する住宅街などほとんど飾りはありません。昨年飾っていた家も飾らなくなっていました。ハロウィーン飾りは、子供が訪ねればお菓子がもらえる家の目印でもあります。昨年よりもいっそう不景気なのでしょうか? さみしい事です 2013年ハロウィーン(Halloween) 1 (煉獄思想とジャック)ハロウィーン(Halloween)と煉獄思想とジャック住宅街の飾り無いよりいいけどかなり地味なデコレーションが多いです。カボチャを飾る家もほとんど見かけません。スーパーのカボチャも売れ行きが・・。大きなカボチャの入ったこんなダンボールが店の中に幾つもある。1ポンド59セントだいたい8~10ポンドクラスのミドルサイズです。中はほとんどスカスカで食べても美味しくないらしい。 だから終わればゴミとなる。実はカボチャ・ランタンは生ものなので特に暑いハワイではすぐに虫がわいたりカビが生えたり・・・と腐りやすいのでハロウィーン直前に造らないと駄目になってしまう。だから代用のプラでできた物を使う家も多くなったのかもしれない。プラの安物カボチャのバケツなら99セントくらいで売っているし・・。2年前に私が造ったものですが・・思った以上に柔らかいのでサクサクとカービングができる。生っぽいのが嫌なのでドライヤーで乾燥させて仕上げてみた。ランタンなので夜ロウソクを入れた時が本領発揮。今はキャンドル型の電気ロウソクを入れるのが安全面でも主流のようです。ところでカボチャ・ランタンになったのは、アメリカに渡ってからで、ご本家のイングランドやアイルランドの方では根菜だったそうです。2009年10月13日ハロウィーン(Halloween)のルーツリンク ハロウィーン(Halloween)のルーツ?20011年10月27日ハワイ最新情報 Hawaii Now 9 (ジャツク・オー・ランタン)ではカブのランタン製作ものせています。リンク 2011 Hawaii Now 9 (ジャツク・オー・ランタン)ハロウィーン(Halloween)と煉獄思想とジャック簡単に説明すれば、ハロウィーン(Halloween)は本来ケルト伝承の宗教行事から発生。死者の国と現世がつながる日がそれであり、先祖をお迎えする日でもあった。キリスト教に取り入れられてからは、ハロウィーン(Halloween)の翌日からは死者を忍ぶ日としても意味合いが持たれた。11月1日の万聖節(ばんせいせつ)・・聖人を偲び祈りを捧げる日11月2日の万霊節(ばんれいせつ)・・全ての死者の魂に対して祈りを捧げる日中世の教会では、万霊節(ばんれいせつ)には、地獄にも天国にも進めずに煉獄でさまよう死者達を救済する為に祈りを捧げる・・と言う煉獄思想も込められていた。ハロウィーン(Halloween)の主人公であるジャック・オー・ランタン(Jack-o'-Lantern)彼は契約により地獄には落ちない。けれど天国にも行けずにランタン片手に煉獄(れんごく)をさまよい歩いて苦しむ死者。まさしくそんな煉獄思想が生んだ産物です。現在は、悪さをする、招かれざる客(ジャック・オー・ランタン)が来たらお菓子を渡してお引き取り願おう・・と言うメルヘンに変わってしまっていますが、実はこの煉獄思想が免罪符問題など、宗教改革の発端になったそうです。もし、ジャックがお高い「免罪符」を教会から買っていたら、今頃天国にいるので、煉獄などさまよっていないだろう・・と言う話にもなるわけです 因みに免罪符の事はフッガー家の所で書いています。フッガー家こそが、その発案者で独占的にお金の回収業務をしていた銀行だからです。リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家今時のお菓子今やなんでもありの仮装大会となったハロウィーン(Halloween)当日。いろいろまた写真撮ってきて紹介する予定です Back number 2013年ハロウィーン(Halloween) 1 (煉獄思想とジャック)リンク 2013年ハロウィーン(Halloween) 2 (ワイキキの夜)リンク 2013年ハロウィーン(Halloween) 3 (コスプレ)
2013年10月30日
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Break Time(一休み)写真 オアフ島(Oahu)友達が、最近言葉少なくなった息子のツイッター(Twitter)をのぞいていたら、フォローされてしまったそうだ つまり、息子は母とは知らずに母のフォロワーなってしまったわけで、彼がつぶやく度に母のスマホに内容が送信される。もちろん息子は全く気付いていないそうだ。母としてはその内容で息子の動向が探れるので安心。しかし、最近彼が送信すると母のスマホが鳴る (・_・?) ハテ?少しおかしいな? とは気づきつつあるようだ。誰でも彼でもフォローするのは個人情報のダダ漏れになるから気を付けないとね さて、今回はまだ始動前。ちよこっと写真だけ紹介。2013.10.25Honolulu International Airport2013.10.25入国と税関を一番抜けした。こんな事はめずらしい。でも迎えに来るはずの甥はまだ家にいた 2013.10.26パパイヤなど果物は量り売り。値段は1ポンドのお値段。2013.10.25昨日ウォーキグに出たら途中の家の塀の上につみあげたパパイヤが乗っかっていた。「庭で採れたパパイヤ。御自由にお持ちください。」と言う事らしいので大きいのを2たつ貰ってきた。明日食べられるかな? ノースショア(North Shore)サンセット・ビーチ(Sunset Beach)2013.10.26日向と日陰の砂の温度はかなり違う。ちゃんと心得て椰子の葉の陰に座ってご主人を持つワンコ。ノースショア(North Shore)エフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park)2013.10.26ライフ・ガード(Lifeguard)のお兄さんは当然サーフィーンも上手でないと務まらない。伝説のサーファーでハワイ初のオリンピック金メダリストでもあるデューク・カハナモク(Duke Kahanamoku)は晩年ホノルルのシェリフ (sheriff)として勤めたと言う。たぶん今のライフ・ガードのような海難の仕事をしていたのだろう・・。それにしてもカッコイイお兄さんが多い事 ノースショア(North Shore)サンセット・ビーチ(Sunset Beach)2013.10.26ここの所波が無いらしくて今日は5フィート。あまり上手な人は来ていなかったとか・・。波の荒い日は当然危険なので上手な人、それ以上の危険な波なら冒険者かプロ級の人しか来ない。もちろん危険な海の日は、ライフ・ガードが上手な人しか海に入るのを許可しない。ノースショア(North Shore)サンセット・ビーチ(Sunset Beach)2013.10.26Stand up Bodyboardサーフボードでなくてボディー・ボードに乗っている所が凄いかも・・最近若い子に流行っている乗り方だそうですよ。 オアフ島の紹介は大方終わっているので今回は面白い物や素敵な写真をなるべく紹介していきます。それにしてもレストラン情報は半年くらいで状況がガラっと変わるようです。美味しいともてはやされて評判になり、雑誌で紹介されるとすぐに味が落ちるのだそうです。地元の人が並んでいるお店が現在の正しい評価です。マズくなったのに今も行列のできている店は観光客しかいない。そして値段が高い。現地の人は安くて量があっておいしくないと来ない。最もローカルの味覚と日本人の味覚はかなり違うけどね・・。
2013年10月28日
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追記しました今回はグラン・プラス(Grand Place)の市庁舎の紹介です。広場にはたくさんの建物があるので、しげしげと見る人は少ないかもしれませんが、広場では一番立派な建物です。しかもこの市庁舎の建物はゴシック建築の実に凝った造りになっています。今回も決して他の人が紹介しない細部を紹介します ブリュッセル(Brussels) 5 (グラン・プラス 5 市庁舎 ガーゴイル)公共建築として建てられたゴシック建築ガーゴイル(gargoyle)グロテスク (grotesque)ブリュッセル市庁舎(The Brussels Town Hall)建物の外観はあまりに大きいので広場の端から撮影してもなかなか全景をとらえるのが難しい。(縦横がどうしても切れるのです。)尖塔までの高さは315フィート(96m)フランボワイヤン(火焔式)・ゴシックの尖塔にはこの町の守護聖人大天使ミカエルが据えられているのだが・・・公共建築として建てられたゴシック建築ロマネスク様式の建築からゴシックへの移行は11世紀末期から12世紀初頭。しかもゴシック様式の建築物は大聖堂と呼ばれる教会が中心である。ところが14世紀に百年戦争や黒死病の流行より大聖堂の建築どころではなくなる。そもそも大聖堂は市民達の献金やボランティアなど市民の協力なくしてできないからだ。ほとんどの所で教会の建築はストップされる中、代わりに建築されていたのが城郭や都市自治体の公共建築だったと言う。ブリュッセル市庁舎(The Brussels Town Hall)の建築は、最初から役所が入る目的で建設された・・と言うのだから驚く。当時のブルゴーニュ公国は東フランスからベルギー、オランダ、ルクセンブルクを領土として織物業で冨を得ていたからこんな建築物も建てられたのだろう。しかし、建築途中で情勢は一変する。広場に面して市庁舎の建築が始まったのは1402年。左翼から建築は始まり左翼の完成は1410年。右翼の方も、ほぼ同時に建築は開始されたそうだが、こちらは資金難でストップ。翼を短くして完成は1444年。時間もかかった上にシンメトリーにはならなかった理由がそこにある。右のアーチは6個だが、左は11個ある。職人がシンメトリーにならなかったので完成後に身を投げた・・なんて書いている人もいたが、もはやそんなレベルではない。装飾も右と左では全く違う。ここまで来ると奇っ怪でさえあるが、予算がなくてかろうじて体裁を保った・・と言われると確かに納得できる。よく見ればその違いは長さだけでは無く、中央入口の戸口でさえシンメトリーではない。それにしても戸口の上にティンパヌム(tympanum)があるなんて本当に大聖堂の入り口のようである。そもそもは教会を中心に手がけていたフリーメイソン達が造ったからなのだろう。ティンパヌム(tympanum)の中心にはキリストならぬ守護天使、大天使ミカエルがいる。大天使ミカエル、フランス語ではミシェル(Michel)、ドイツ語ではミヒャエル(Michael)、スペイン語ではミゲル(Miguel)、英語でマイケル(Michael)。カトリック教会ではガブリエル、ラファエルと並ぶ三大天使の一人。守護者というイメージからしばしば山頂や建物の頂上にその像が置かれている。この市庁舎の尖塔にもミカエルがいるが、あまりの手抜きに紹介するのもはばかられたが・・。近年取り付けた物なのだろうが、どうせ見えないと思ったのか? ゴシックの建物なのにあんまり・・である。ティンパヌム(tympanum)の大天使ミカエルの像の右隣の彫像聖ウルスラか?こうした美しい彫像はやはり左翼半分の方にたくさんある。右翼は窓を大きくしてもともと彫像を置くスペースを押さえているのだ。この市庁舎の見所の一つにガーゴイル(gargoyle)がある。ガーゴイル(gargoyle)怪物の形をあしらった石彫の樋。ゴシック建築で使われる石の雨樋である。古代エジプトやギリシャの時代はライオンなど動物があしらわれていたが中世になると、いろいろな姿が用いられた。人や怪物など架空のグロテスクな彫刻が登場してそれらは魔除けにされた。ガーゴイルがこれだけついた建物を見た事が無い。それにしても人の姿ながら、これぞグロテスク (grotesque)と言える見本のようなガーゴイルである。グロテスク (grotesque)今は奇妙、奇怪、醜怪、不調和、不気味、奇抜なものを指す総称的な形容詞だが、起源は古代ローマに生まれた美術様式だそうだ。語源は、地下墓所や洞窟を意味するイタリア語のgrotta、同じくラテン語のcryptaに由来するらしい。グロテスク様式の壁紙などバロックの装飾にもあり、美術的な位置も確率されているが、全体に奇妙な物や様を指す。追記・・自分で書いたのを読み返しながら・・。もしかしたらこの公共建築は、社会が混乱して経済状況が悪くなる中、仕事のなくなった職人を助ける為、強いては技術を継承させる為に造った仕事だったのではないか? と思った。しかし、あまりの力の入れように市庁舎の建築は途中で地味にならざるおえなくなった。が、考えようによっては左翼と右翼の違いは、技術の違いでもある。職人にとっては技術バリエーションを手に入れたわけで有意義ではあったはず。そう定義すると石工職人の為の市庁舎建設は現実味がある答えだと思う。さて、グラン・プラス(Grand Place)南のギルド・ハウスとブラバンド公の館を残していますが。ここで一端中断します。ベルギー再開は12月中旬以降予定。リンク ブリュッセル(Brussels) 6 (グラン・プラス 6 ブラバント公の館)明日からしはらく海外です。別ネタで紹介していきます Back numberリンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 1リンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 2 (オー・ザルム・ド・ブリュッセル)リンク ブリュッセル(Brussels) 1 (グラン・プラス 1 中世)リンク ブリュッセル(Brussels) 2 (グラン・プラス 2 北東面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 3 (グラン・プラス 3 西面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 4 (グラン・プラス 4 西面ギルドハウス 2) ブリュッセル(Brussels) 5 (グラン・プラス 5 市庁舎 ガーゴイル)リンク ブリュッセル(Brussels) 6 (グラン・プラス 6 ブラバント公の館)リンク ブリュッセル(Brussels) 7 (EU とサンカントネール公園)リンク ブリュッセル(Brussels) 8 (サンカントネール公園とフェスタ)リンク サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)リンク ブリュッセルのコイン・ランドリー(苦戦物語)リンク ブリュッセル(Brussels) 9 (芸術の丘・ Mont des Arts)リンク ブリュッセル(Brussels) 10 (ロワイヤル広場界隈)リンク ブリュッセル(Brussels) 11 (王宮)リンク ブリュッセル(Brussels) 12 (漫画センターとオルタとタンタン)リンク ダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館(Musée David et Alice van Buuren)リンク 小便小僧(Manneken Pis) le Petit Julien鉄道リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)ブルージュもシリーズあります。リンク ブルージュ(Brugge) 1 (街のなりたち)
2013年10月23日
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今回も引き続き凝ったギルド・ハウスの装飾の写真を中心にしています。どちらかと言えば建築系の人向けですね実際そこに行くと位置が高いので実は肉眼では気付かない物もありますし、細部などはたぶん地元の人でさえ見た事も無い部分もあると思います。今回上部の装飾を見ていると、あちこちに最初のギルド達の意匠が残されているのがわかりました。それなのになぜ建物名は何も関係ないドアの近辺の装飾から来ているのか?下しか見えていなかったからなのかな? ブリュッセル(Brussels) 4 (グラン・プラス 4 西面ギルドハウス 2)中世の軒西面ギルドハウス 左3件から続き・・。中世の軒中世の家の屋根は全て山形の形状をした切妻造(きりづまづくり)であり、街においては妻面(つまづら)or妻側の三角の面を道路面に向けるように定められた条例があったと言う。土地に余裕のある場所ではまれに例外もあったろうが、その逆はほとんど無いようだ。つまり欧州の独特な街並み「軒が道路面に連なって並んでいる風景」は中世に美観・・と言うよりはもろもろ合理的な意図で計られて決められたそうなのだ。妻面を道路側に並べた理由の一つは土地の有効な利用が目的。二つ目は屋根からの排水を合理的に落とす事だったようだ。一つ目の土地の有効な利用は、母屋が縦長になり、一見京都のウナギの寝床方式にも思えるが、税金で間口が狭い・・と言うよりは、できるだけ多くの家が表通りに面す事ができるようにと言う市当局の配慮だったようだ。二つ目の排水は家々をつなげる事で共通の樋(とい)を付けて雨水が合理的に落ちる構造で建築されている・・と言う事。ギルド・ハウスはともかく、こうした軒の連なった一般の家々の場合、通りの人から見えない場所に中庭があり野菜を植えたり、洗濯物を干したり、鳥や山羊など飼ったりもできるような通風や採光も考慮された空間も備えられている。今も残る中世の街並みは、こうした決まりが今も生きていて引き継がれ、どんなに敷地が分割されようが、「妻側が表」の原則は守られ続けているから・・のようだ。5 射手同業組合・・・・・・・・・・・・・建物名 雌狼(La Louve)・・・・現在銀行6 船頭同業組合・・・・・・・・・・・・・建物名 角笛(La cornetto)・・現在銀行7 小間物商同業組合・・・・・・・・・建物名 狐 (Le Renard)・・・・・現在銀行中世商人が富裕になると、これらギルド・ハウスのように破風や出窓などに意匠を凝らした装飾が施されるようになったそうだ。5 射手同業組合・・・・・・・・・・・・・建物名 雌狼 (La Louve)・・・現在銀行破風下のメダリヨン(medallion)の肖像は古代ローマの皇帝である。破風の彫刻が射手同業組合を表らわしているのだろう。建物名の雌狼 (La Louve)はこのドアの上のレリーフから来ている。正確に言えばレリーフは、雌狼に育てられている双子の子供達。ローマ建国の伝説これはローマ帝国建国の逸話「双子の兄弟ロームルス (Romulus) とレムス(Remus) 」の話です。陰謀で叔父にテヴェレ川に捨てられた双子を雌の狼が育て、やがて人に引き取られ成長。後に二人は祖父の軍隊に捕らえられて孫と判明するのですが、その後街の建設でもめて兄が弟を殺して兄ロームルス (Romulus)が建国の父となる。「牝オオカミの乳を飲む双子の兄弟の図」は紀元前3世紀には成立していた話で、紀元前269年製造のローマ貨幣にはすでに刻印されていたそうだ。それ故めずらしいアイテムでは無かったようだが、なぜこの建物にローマ帝国関連の装飾がたくさんあるのかは謎である 射手同業組合を示す印はドアの装飾にも現れている。6 船頭同業組合・・・・・・・・・・・・・建物名 角笛(La cornetto)・・・現在銀行資料が無いので定かでは無いが、メダリオンの肖像がスペイン女王イザベラ1世で、サイドがコロンブスとマルコポーロの像かもしれない・・。写真では下の方が見えないが、おそらく海神トリトーン(Triton)ローマ名ではトリトーネ馬に見えるが下半身はたぶん魚。海馬である。窓枠の意匠は海に関する物。ここは船頭のギルド。船や海に関するものが豪華にちりばめられている。A・・建物名 角笛(La cornetto)の意匠B・・建物名 狐 (Le Renard)の意匠建物名 角笛(La cornetto)の由来となった意匠船の警笛代わりだったのかな?7 小間物商同業組合・・・・・・・・・建物名 狐 (Le Renard)・・・・現在銀行5人の女神の像は5大陸をあらわしているようです。狐 (Le Renard)の由来となる狐はやはりドアの上の飾りからきていた。西面ギルドハウス 終わります。グラン・プラスの北西側、王の家の左側のギルド・ハウス右から20 ・・・・・・・・建物名 兜・・・・・・・・・・現在レストラン21 ・・・・・・・・建物名 孔雀・・・・・・・・現在レストラン22 ・・・・・・・・建物名 子狐・・・・・・・・現在レストラン23 ・・・・・・・・建物名 柏の葉・・・・・・現在カフェ24 ・・・・・・・・建物名 聖バーバ・・・・現在レース屋25 ・・・・・・・・建物名 ろば・・・・・・・・現在コブラン屋26 ・・・・・・・・建物名 バターの家・・・現在こちらはそれほどの装飾もないのではしょらせてもらいます。事情がありグラン・プラスあと1~2回で終わらせます。次回は市庁舎です。リンク ブリュッセル(Brussels) 5 (グラン・プラス 5 市庁舎 ガーゴイル)
2013年10月21日
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さて、今回はグラン・プラス ギルドハウスのPart2。最も凝った西サイドのギルド・ハウスの紹介です。美しい装飾がたくさん付いているので写真をたくさん載せました しかし、ギルドハウスについての解説が本によってまちまちです。しかも情報がとても少ない。研究している方が少ないのかもしれません。思いの外時間がかかったのは情報のすりあわせでしたブリュッセル(Brussels) 3 (グラン・プラス 3 西面ギルドハウス)中世の商人グラン・プラス(Grand Place)は北ヨーロッパの中でも極めて成功した商業都市の象徴なのだそうだ。しかし、このグラン・プラスは一朝一夕にできた訳ではない。 13、14世紀にはバラックの市場が無計画に配置されていた。それを時間かけて修正して広場を広げて行ったらしい。1396年に、都市当局は北側の多数の建物を公用徴収して区画整理を始めている。気が長い話であるが、奇しくも1695年8月に起きたフランスのルイ14世のブリュッセル砲撃を受け、1697年に公布された再建計画で正方形にリードしたようである。つまりこのあたりのギルドハウスはほぼ砲撃以降に再建された建物なのである。A 西(正面)と D 北西(右) のギルド・ハウス中世の商人ゲルマン民族の移動により、ローマ帝国が衰退するとかつてあった帝国の広域経済はメチャクチャになり、かつて古代ギリシャや古代ローマが築いた高度な文明は消滅。農業の技術でさえ後退したようです。農業の回復が見られるのが10世紀頃? 生産性も上がり、社会にゆとりが生まれて来ると、冒険する商人が現れ、地元の特産品を遠僻地に売りに出かけ、他の土地の特産品を買い付けて売り買いをしだす卸売り商人が現れます。交易は情報も運び、文化も発展する。彼らは街の発展に大いに寄与。卸売り商人の活動は中世社会の原動力になったようです。guild Merchant・・・最初にできたのはそんな中世の商人(卸売り商人)による組合ギルドだったようです。そして彼ら団体は市政に対する力を増大。都市の自治権を握る存在に発展。craft guild・・・そんな商人のギルドに対抗して遅れてできたのが、製造業である職人達の各種組合です。ところで、ギルド(guild)と言うと思い浮かぶのが石工の職人団体「フリーメイソン(Freemason)」ですが、これは前にも紹介しましたが、彼らは国境を越えたfree lance(フリーランス)の職人集団で、定住型の街のギルドとは一線を画す存在です。グラン・プラス(Grand Place) 西のギルドハウス (市庁舎は左手)右から1 パン職人同業組合・・・・・・・・・建物名 スペイン王の家・・・・現在カフェ2.3 油商同業組合・・・・・・・・・・・建物名 手押し車(La Broouette)・・現在カフェ4 大工・家具職人の同業組合・・建物名 袋(le Sac)・・現在チョコレート屋5 射手同業組合・・・・・・・・・・・・・建物名 雌狼(La Louve)・・・・・現在銀行6 船頭同業組合・・・・・・・・・・・・・建物名 角笛(La cornetto)・・・現在銀行7 小間物商同業組合・・・・・・・・・建物名 狐 (Le Renard)・・・・・・現在銀行1 パン職人同業組合・・・・・・・・・建物名 スペイン王の家・・・・・・現在カフェもとはパン職人の同業組合だったと言うがどこがパン?建物の上に立つ像はギリシャ神話orローマ神話の神々。レリーフの胸像は時の王、カルロス2世(Carlos II)らしい。一説には「スペイン王」と言う名の歴史ある居酒屋があった・・とか・・。守護聖人Saint Albertoらしいが何の守護聖人なのか来歴がわからない。2.3 油商同業組合・・・・・・・・・・・建物名 手押し車(La Broouette)・・現在カフェ1697年建築? 油商(La graisse)と食料品製造業者のギルドハウスだったらしい。右 建物名称 手押し車・・A左 建物名称 袋 ・・・・・・・B→Aには黄金のソリのような一輪手押し車(La Broouette)の絵→Bには袋に頭を突っ込むレリーフがある。現在建物の名前と同じ「La Brouette」と言う名のカフェになっている。4 大工・家具職人の同業組合・・建物名 袋(le Sac)・・・現在チョコレート屋1697年かつては高級家具師たちが住んでいたらしい。外観を彼らの工具のレリーフで飾られている。しかし扉にはなぜか? 建物名・・袋(le Sac)の由来となるレリーフなぜ袋 (Le Sac) なのか?高級家具商の組合の後代替わりして、粉屋か? 穀物商? にでもなったのだろうか?細かく載せすぎて3件しか終わらなかった・・<(; ^ ー^) マイッタマイッタ西面のギルドハウスはさらに・・・つづくブリュッセル(Brussels) 4 (グラン・プラス 4 西面ギルドハウス 2)
2013年10月17日
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グラン・プラス(Grand-Place)で写真を撮りまくったので、写真を選ぶのがしんどいです。いろいろ考えましたが、グラン・プラス(Grand-Place)はとにかくギルド・ハウスが多いので、一周紹介しようかと考えました。(たぶん誰もしていない試みです)そんなわけで今回は王の家のある側、北東面にあるギルドハウスの写真から紹介します。内容はブリュッセルのルーツにまつわる話です。ブリュッセル(Brussels) 2 (グラン・プラス 2 北東面ギルドハウス)王の家(la Maison du Roi)と北東側ギルドハウスノルマン人(Normanean)の襲撃湿地の砦(Brussels)ブリュッセル(Brussels)とセンヌ川(Senne river)ノルマン人(Normanean)の襲撃8世紀後半~11世紀、フランク王国の北部地方は、今度はノルマン人の南下で揺れていた。安定した国が形成されつつあった西ヨーロッパは侵略とも呼べる略奪や、後には半ば強引な入植で脅かされていたのだ。ノルマン人は、スカンディナヴィア半島やバルト海沿岸に原住していた人々で、それは所謂ヴァイキングと呼ばれた人達の事である。詳しくは2010年2月「フレデリクスボー城 3 (ノルマン人とヴァイキング) ヴァイキングと呼ばれたノルマン人」・・でも書いているから見てね。最初、彼らは春になるとやってきて、金品を強奪。身代金ねらいで女子供をさらったり売り飛ばしたりしていたらしいが、そのうち国に帰らず定住して襲って来るようになったと言う。東フランクでは住民が武器を取り交戦したそうだが、西フランクでは被害が大きく全体にフランク王国を揺るがす大きな社会問題になっていたようだ。その極めつけが、885年、ノルマン人のある一派は700隻の船で3万の兵を連れてセーヌ川を上りパリまで侵略に来た事だ。898年、西フランクの王シャルル3世はついに妥協して彼らに領地を与えた。911年ノルマン人の族長ロロ(改名してロベール1世)はノルマン公国を建国。シャルル3世は建国の条件に他のノマルマン人の南下を防御するように頼んだと言う。ノルマン公国については、2009年08月「モン・サン・ミッシェル 3 (ベネディクト派修道院) ノルマンディー公国とノルマン人」でも書いています。写真はアントウェルペン(Antwerpen)を過ぎてからの車窓これはベルギー北西部の平野。平野と言うより干拓の必要な湿地帯である。湿地の砦(Brussels)ノルマン人(Normanean)の侵略者を監視する為に北海沿岸部では監視と防衛の為の砦がたくさん作られたようだ。ブリュツセルの街は、979年にセンヌ川(Senne river)河畔に築かれた砦の一つがルーツになっている。最もこの時にはすでにノルマン公国は建国していたので、未だ他のノルマン人の侵略が収まっていなかった事が確認できる。つまりブリュッセル(Brussels)誕生はやはりノルマン人の南下に起因してできた集落だっと考えられるのだ。今回紹介するのは王の家とCにあるギルドハウスD(北西ギルドハウス) ・王の家 ・C(北東側ギルドハウス)雨の日の広場王の家(la Maison du Roi)現在はブリュッセル市立博物館(Museum of the City of Brussels)で、ここには前々回紹介した「小便小僧(Manneken Pis)の衣装コレクションなども展示されている。現在の建物は、19世紀にVictor Jamarによりネオ・ゴシック建築で再建されたもの。もともとはここは13世紀にパンの市場だった所で、土地建物はブラバンド公の所有だったと言う。それが16世紀にこのブラバンド公の血筋から王が輩出された。神聖ローマ皇帝(在位:1519年~1556年)になったカール5世(1500年~ 1558年)であり、スペイン国王(在位:1516年~1556年)になったカルロス1世の事である。もともと父はネーデルラントの領主フィリップ美公で、母はカスティーリャ女王フアナ。ヨーロッパ王族のサラブレットの血筋から誕生したカール5世にはたくさんの公領の肩書きがあり、ブラバンド公もその一つである。王の家(la Maison du Roi)と呼ばれるようになったのはそれからのようだ。この建物はカール5世が建てさせた・・とも伝えられるが、ここに王は一度も住んでいないらしい。だが、カール5世はフランドルのガン(現在のゲント)が生まれ故郷だそうでこの低湿地のフランドルをとても愛したそうである。(ゲントはそのうち紹介するがブリュッセルから近い)屋根や尖塔にはたくさんの像が取り付けられている。肉眼ではほとんど確認できないが・・。ブリュッセル(Brussels)とセンヌ川(Senne river)砦の回りにはやがて人が集まり、共同体が形成された。湿地にできたこの砦、はbruoc(沼地or湿地)のsella(家)・・と言う語源からブリュッセル(Brussels)になったらしい。中世において、街が発展する要因は何か?それはもちろん物資運搬の為の川が近くにあるか? と言う要素は大きい。何しろ唯一の乗り物と言えば馬くらいの時代(中世後半には馬車の存在もあるが)、やはり大きな物資の輸送手段としては船が一番だった。中世ブリュッセルは繊維産業(リンネル)で発展した。それはSenne river (センヌ川)が存在したからである。Senne river (センヌ川)は ベルギーを横断する河川の一つScheldt river (スヘルデ川)につながりフランス西部からアントウェルペンを通り北海に注いでいる。Scheldt river (スヘルデ川)は、また運河でライン川、マース川さらにセーヌ川とつながり、ダンケルク、リール、リエージュ、といった工業都市をも結んでいるそうだ。川や運河による水上交通のネットワクークがこの国の発展に貢献したのである。しかし、今、そのSenne river (センヌ川)は近くに見当たらない。実はこの河川は現在首都部では下水道化されている。ベルギーの河川の汚染度は今も世界の中でもトップクラスの悪さであるが、このSenne river (センヌ川)が地下にもぐる19世紀以前はこれが疫病(コレラやチフス)の蔓延にも一役買う汚染度だったそうだ。北東面のギルドハウス左から・・19 地方行政官の室 ・・・・・・・・・・・・・・・・現在カフェ18 画家or左官の組合・・建物名 鳩の家・・・・・・・・・・現在レース屋とチョコレート屋17 仕立屋の家・・・・・・・・建物名 黄金の小艇・・・・・・現在カフェ16・・・・・・・・・・・・・・・・・・建物名 天使・・・・・・・・・・・・現在レース屋15・・・・・・・・・・・・・・・・・・建物名 ジョセフとアンナ・・・現在チョコレート屋14・・・・・・・・・・・・・・・・・・建物名 鹿・・・・・・・・・・・・・・現在チョコレート屋注 ガイドブックにより多少名称等が違う。グラン・プラスは市場として11~12世紀にはあったらしい。15世紀には市庁舎が、17~18世紀には同業組合(ギルド)の集会所などが建造駅方面から来るとこの路地から広場にはいる事になる。だからこのあたりはチョコレート屋がならんでいる。右から2件目と3件目がGODIVAである。でもここにあまり良いものは並んでいない。デパートの方がよさそうである。これが「黄金の小艇」???この中では一番豪華な建物である。たぶん元は仕立て屋だったようだ。つづくリンク ブリュッセル(Brussels) 3 (グラン・プラス 3 西面ギルドハウス)
2013年10月12日
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ラストにブリュッセルのBack numberを入れました。カエサルのガリア戦記(紀元前58年~紀元前51年)によれば当時欧州のこのあたり(西ヨーロッパ)にはベルガエ(Belgae)と呼ばれるケルト人が定住していたと言う。紀元前51年この地はローマに征服されてガリア・ベルギカ(Gallia Belgica)と呼ばれる古代ローマ帝国の属州の一つになった。属州はその後アウグストゥスの時代になってからライン川左岸からフランス東北部にわたる地域が加わり現在のベルギーおよびオランダ、ルクセンブルク含む一帯がガリア・ベルギカ(Gallia Belgica)州になったそうだ。Belgicaが現在の国名のルーツになったのは言うまでもない。さて、今回は中世を今に残す広場、グラン・プラス(Grand-Place)を紹介する予定ですが、まず中世とは? ・・から入りたいと思います。ブリュッセル(Brussels) 1 (グラン・プラス 1 中世)グラン・プラス(Grand-Place)ゲルマン民族の移動とフランク王国ゲルマン民族と中世ゲルマン民族の移動とフランク王国3~4世紀頃から、ゲルマン民族のガリア(Gallia)侵入が始まる。(ガリアとは古代ローマ人がつけたケルト人の呼称である。)要するにローマ帝国が管理していたケルト人の居住する土地に大量に移民して来たのがゲルマン民族である。(それも長い時間を掛けて半端ない数で移民してきたのでガリアは混乱したのである。)やがてゲルマン人ははフランク王国(481年~987年)を建国した。(フランク王国の初代メロヴィング朝を開いたのはそもそもゲルマン民族流入のストッパーの為に定住させられたローマの傭兵であったゲルマン系のサリ族だそうだ。)そのフランク王国は5世紀~9世紀、特にカール大帝(742年~814年)時代には西ヨーロッパのほぼ全土を支配するまでに拡大し、彼は西ローマ帝国の皇帝となった。ところでケルト人とゲルマン人は実は非常に近しいゲルマン語派にある関係だ。インド・ヨーロッパ語族と言う言語体系で見れば、ほぼ同族なのである。ウィキメディアコモンズより借りてきました。青・・カール大帝時代のフランク王国赤の教皇領を除いて後はフランク王国の影響のある土地である。ギリシャやローマ帝国の文化が継承され、改宗してキリスト教文化圏となり、ゲルマン的要素が持ち込まれる。広域な文化圏はあらゆるものを取り込んだ。フランク王国の建国によって、これらが融合した新しい文化圏が中世ヨーロッパを作り上げる事になった。ゲルマン民族と中世ところで「ローマ帝国は蛮族により滅んだ」・・と聞いたり読んだ事があると思うが、このわかりにくい蛮族こそが、実はゲルマン民族を指していたのである。進入してきた蛮族も改宗すれば蛮族ではなくなる。つまりカール大帝を排出したフランク王国はかつて蛮族と呼ばれたゲルマン人の一派により作られた国であり、国も大きくなり馴染んでしまえば出自が解らなくなる・・と言う事である。ローマ帝国が滅んだ理由の一つにゲルマン民族大移動の影響があった事は事実である。カエサルが帝国の拡充(領土の拡大)をやめて守りに入った時に攻めのローマは力を止めた。結果、ゲルマン民族の流入を許し帝国の治安は崩れたのである。中世とはいつか?ゲルマン民族の移動が収束して古代ローマが崩壊。フランク王国により新しい欧州の文化が始まった時が中世の始まりだ。もっともこの中世は非常に長い時を刻むのである。グラン・プラス(Grand-Place)1998年、ユネスコの世界文化遺産に登録されたのがブリュッセル(Brussels)の中心にあるグラン・プラス(Grand-Place)だ。それは中世の姿をそのまま残した市民広場なのである。グラン・プラス(Grand-Place)の地図からブリュッセル中央駅(Brussels Central)から徒歩2分くらいにある。地図の右下になるブラバン公の館前から撮影。広場は約170m×70mのスクエア型で左が市庁舎、右が王の家。後は中世のフラタニティ(fraternity)の一つであるギルド(craft guild)ハウスが建ち並んでいる。その建物のほとんどは17世紀以前に建築されたもので外観はそのまま、内装だけリノベーションされて今も現役である。とは言え、今はギルドは無い。こう見えてこの広場はレストラン、ティールーム、チョコレート屋のオンパレードなのだ。市庁舎とギルドハウス側南西に位置するので、どうしても光線のかげんで綺麗にとれない側である。しかも、2週間近く滞在して雨が8割の最悪の日々本来人だらけの広場で人が少ないのは雨or夜遅くなってからの撮影だからである。王の家とギルドハウス側市庁舎前から王家の家とブラバン公の館方面ブラバン公の館今回写真は広場概要にとどめます。ブリュッセル Back number ブリュッセル(Brussels) 1 (グラン・プラス 1 中世)リンク ブリュッセル(Brussels) 2 (グラン・プラス 2 北東面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 3 (グラン・プラス 3 西面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 4 (グラン・プラス 4 西面ギルドハウス 2)リンク ブリュッセル(Brussels) 5 (グラン・プラス 5 市庁舎 ガーゴイル)リンク ブリュッセル(Brussels) 6 (グラン・プラス 6 ブラバント公の館)リンク ブリュッセル(Brussels) 7 (EU とサンカントネール公園)リンク ブリュッセル(Brussels) 8 (サンカントネール公園とフェスタ)リンク サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)リンク ブリュッセルのコイン・ランドリー(苦戦物語)リンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 1リンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 2 (オー・ザルム・ド・ブリュッセル)リンク ブリュッセル(Brussels) 9 (芸術の丘・ Mont des Arts)リンク ブリュッセル(Brussels) 10 (ロワイヤル広場界隈)リンク ブリュッセル(Brussels) 11 (王宮)リンク ブリュッセル(Brussels) 12 (漫画センターとオルタとタンタン)リンク ダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館(Musée David et Alice van Buuren)リンク 小便小僧(Manneken Pis) le Petit Julien鉄道リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)ブルージュもシリーズあります。リンク ブルージュ(Brugge) 1 (街のなりたち)
2013年10月07日
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今月はピンク・リボン・フェスティバル(ピンク・リボン月間)だそうです。目的はもちろん「乳がんの早期発見・早期診断・早期治療の大切さを伝える」事をビジョンとする運動です。日本人女性では15人に1人が乳がんで亡くなっているそうで、1980年と比べると約3倍。その数は年々増加していたそうですが、運動の効果もあったのか? 2011年をピークに気持ち減少してきているようです。ピンク・リボンについてはたまたま前々回の「イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 1」の中、小便少女(Jeanneke Pis)の噴水の所で紹介したところでしたね。今月は東京タワー、都庁、レインボーブリッジ、表参道ヒルズなどが協賛して、ピンクの電飾でライトアップをするそうですで、今回は元祖 小便小僧(Manneken Pis)の紹介です。小便小僧(Manneken Pis) le Petit JulienManneken PisのLegend(伝説)le Petit Julien(プチ・ジュリアン)小さなジュリアン君と言う愛称で呼ばれているのがグラン・プラス近くの噴水像の少年です。彼はベルギー、ブリュッセルの名誉市民であるらしい。若いのに一番歳をくった市民である。噴水は道のコーナーにある。街角の噴水・・と言うよりここは中世には街の水飲み場だった事でしょう。確かに彼は観光客の集客に一役買っているし、お土産にも彼のキャラクターはたくさん使われている。三大ガッカリ・・と言われようが彼の果たしている役割は大きい。特に外交面では特使である。彼のレプリカは世界中に散らばって外交をしているし、彼には世界中の国や企業からプレゼントが後を絶たない。世界中からプレゼントされる彼の衣装は650着を越えていると言う。それらはブリュッセル市立博物館(王の家)に行けば展示公開されている。(有料)1619年にオリジナルの噴水(水飲み場?)を設置したのはブリュッセルの彫刻家ヒエロニムス・デュケノア(Hieronimus Duquesnoy)で当時の大公妃イザベラと大公アルバートの宮廷彫刻家だった人です。彼の生没は不明ですが、息子はローマで成功したバロック彫刻家フランク・デュケノア(François Duquesnoy)(1597年~1643年)です。この像は何度も盗まれ、現在のオリジナルは1965年に製作されたもの。当然これはレプリカである。ブロンズ製。高さ24インチ(60.96cm)ビール会社のイベントの時は水の代わりにビールが吹き出て皆に振る舞われると言う。雨が多かった時期のせいか? 毎日服を着ているわけではなさそうだ。衣装が増えたのは20世紀になってからだと言う。企業はともかく軍や世界各国から民族衣装などいろいろなデザインの衣装が送られて来ると言う。日本からも数種来ていて、5月人形のような兜(かぷと)に甲冑(かっちゅう)の高そうな装束も贈られている。チョコレート製のジュリアン君このあたりは当然ジュリアン君のおかげで店が潤っているのでジュリアン君にあやかる店が多い。Manneken PisのLegend(伝説)ところで、このような像は実は12世紀から15世紀には存在していたと言う説もある。当時は石でできていたと言うが、いつから少年の像になったかで、当然ルーツも異なってくる。伝説自体がたくさんあるのだ。その中で最も有名なのはデューク・ゴドフリー3世の幼少時の逸話だそうだ。ブリュッセルの北ブラバンド(Braban)の公爵家の家督争いの戦いにおいて、父が亡くなり、わずか2歳で戦争にかり出されたのがデューク・ゴドフリー3世Duke Godfrey III (1142年~1190年)である。戦いは1141年~1159年に行われたグリムベルゲンの戦い(Wars of Grimbergen)ベビーとは言え、戦いの主君である彼はバスケットに入れられて戦場で木に吊されていたそうだ。その時、ベビーは敵方の軍の頭上でおもらしをした。(この当たりは誇張?)その時に・・ではないが、結果的にその戦いで勝利したようである。それ故デューク・ゴドフリー3世はduke in the cradle(揺りかごの公爵)と呼ばれるそうだ。前から疑問だったのだが、ジュリアン君は少年と言うにはあまりに小さく顔立ちもベビーそのものである。だから私はこの説にちょっと納得する。それにベビーのいた戦場は、全員でチャンバラするような場ではなくおそらく主将の一騎打ちで勝敗を決める。・・と言う中世式の戦いだったと思うから、ありな話かも・・。一般に日本で知られているのは、爆薬の導火線をおしっこで消して街を守った・・と言う逸話であるが、これには疑問を持っていた。もしそうなら銅像はもう少し少年であっても良いはずであるし、少年のおしっこごときで導火線の火が消せるとも思えない。だいいち導火線を使って火薬を爆破させる・・と言う爆破の歴史自体が近年になってからでないと成り立たない話だからだ。スタンド売りのリエージュ風ワッフル店もちろんサンプルであるがサンプルがまずそうである。夜遅くまで繁盛しているのは皆が見学に来た帰りに買っているからだ。本当に小便小僧、様々である。
2013年10月02日
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