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ノルマン人をパリで撃退した人物を追加しました。次の関係で・・。今回は、単独にするか、かなり迷走しました(;^_^Aこの民族移動問題は「アジアと欧州を結ぶ交易路 12」の伏線にもなっています。彼ら「蛮族」と呼ばれた民族を単純に紹介するのにノルマン人の例はわかりやすいかと、モンサンミッシェルの中に入れ込みました。 だからいろんな情報が混在しています。オムレツまで載せたし・・。言語体系で民族を分類した系図(Family tree)があります。「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」はその祖の一つで、その言語を源流とする民族は、ヨーロッパ大陸からロシアそして中東からインドに及ぶ。※ 大航海時代以降は、南北アメリカ大陸やアフリカ、オセアニアにも広がった。この語族に属する言語を公用語としている国は現在100を超えている。つまり世界の国の半分近くはこの言語民族をルーツとしているかもしれないと言う規模だ。国際連合では現在6つの公用語がおかれているが、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語の4つは「インド・ヨーロッパ語族」である。※ 残り2つの公用語は中国語とアラビア語。つまり「インド・ヨーロッパ語族」の発祥から移動をたどれば必然的に欧州の世界史が見えてくるはず。しかし、今回は「インド・ヨーロッパ語族」そのものでなく、その一部一派のみです。また、「ローマ帝国vs蛮族」の「蛮族(ばんぞく)」とは何か? の説明を兼ねています。モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)どこが発祥(源郷地)か?エデンの園の場所、考えてみました初期の民族移動ローマ帝国内の異民族の協力者スカンディナビアの民(北方系ゲルマン人)ヴァイキング(Viking)の源郷ヴァイキング(Viking)の移動ノルマン人(Normands)とノルマンディー公国(Duché de Normandie)ノルマンディー公国(Duché de Normandie)の成立「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系は?モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)インド・ヨーロッパ語族の分布図ウィキメディアの図に書き込みしました。実は、欧州の歴史をいろいろ調べていて個人的にちょっと思った事がある。欧州には、ほぼ2世紀毎に大量の異民族が流入してきているように思う。どこかで人が湧くように人口が爆発的に増えている場所があるのではないか? 彼ら異民族は、元の土地に人があふれ過ぎて食糧が足り無くなり、他の地に移住する為に集団移動してきた人々だろう。また、部族に追われて逃げるように移動して来た集団もいただろう。かつてモーセがイスラエルの民をカナンに導いたように指導者が大量の移民を携えての民族移動であったのだろうと想像できる。歴史を見ると、それはある程度の期間で定期的に起きているように思ったからだ。どこが発祥(源郷地)か?「インド・ヨーロッパ語族」の発祥となる源郷は現在2説あげられている。トルコのアナトリア説・・8000~9500年前のアナトリアを発祥とする説。南ロシアのクルガン文化説・・5000~6000年前の黒海・カスピ海北方(現在のウクライナ)に存在したクルガンを発祥とする説。上の説については、それを導く学説があると思われますが、私はその源郷説以前があったのではないか? と考えたのです。そこが発祥ではなく、そこにたどりつく以前の場所と言う意味です。あくまで個人の仮説であり、何の根拠もない突拍子もない仮説ですが・・。アナトリア半島からカスピ海あたり? の経度はともかく、緯度はもう少し南だったのではないか?※ 先の2説はいずれも緯度が高いので寒いと思われる。なぜなら、環境の思わしくない土地での人口増加は考えられないからだ。暖かい方が断然良い。※ スカンディナビア半島に居たゲルマン人が他に移動したのは食糧の問題だったし・・。もしかしたら最初のスタートはメソポタミア(Mesopotamia)あたりだったのではないか? 温暖で肥沃なティグリス川とユーフラテス川周辺なら人口増加は可能。※ そこにはナツメヤシがたわわに生(な)っていたと思われる。※ BC8000年には文明の片鱗が見えている。そこは世界最古の文明が存在した場所とされている。また、そこはまさにアダムとエヴァ(Adam and Eve)が住んでいたエデンの園があったとされる場所でもあるのだ。旧約聖書は案外史実を語っているのかもしれない。エデンの園の場所、考えてみましたメソポタミア周辺の地図ティグリス川(Tigris)とユーフラテス川(Euphrates)中流域? 私の予想位置がピンクの円あたり。ティグリスの源流あたりのアルメニア説もありますが、緯度が高く寒い。実際イラクとパキスタンの国境には巨大なザグロス山脈が走っている事もあり、アルメニア説は厳しいかと思う。ノアの箱船はそのあたりらしいが・・。クウェートより下の説もあるが・・。民族の発祥地としてはなさそうなので消去。裸で暮らしていた事は無いだろうが、気候を考慮すると.北緯35度以下の方が温暖で良さそうだ・・と言う理想論も入っています※ 中東は、今は砂漠化していますが、数千年前は森林もありもっと緑が豊だったようです。※ メソポタミアの中流域にしたのは水害を考慮したからです。初期の移動はザグロス山脈があったから、北上(黒海の向こう)するか西方(アナトリア半島)に活路を見いだすしかなかった? と、考えてみた。絵画によるエデンの園ウイーン造形美術アカデミー、ヒエロニムス・ボスによる三連の祭壇画の一部、楽園から。ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)作※ 三連の祭壇画は、左翼に楽園(エデンの園)、中央に最後の審判、右翼に地獄が描かれている。図は、楽園(paradise)と称されるエデンの園(Garden of Eden)であるが、エデンを描く時のお決まりだろうか? 誰もがこれを描く時にストーリー仕立てに描いている。イヴを創生するキリストから始まり、ヘビにそそのかされて約束を破り木の実を食べる二人。そして原罪を背負って楽園を追放される二人。ボスの場合、さらに上に天の天使と堕天使サタンとの戦いも描かれている。以前「造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)」で紹介しています。リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)クラナッハ(Lucas Cranach)の「アダムとエヴァ(Adam and Eve)」、「エデンの園」、「楽園」はクラナッハ(Cranach)特集で紹介しています。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)初期の民族移動源郷地を出てから、彼らは一端北上して東へ、西へと進路を分かち入植地を求めた。アナトリア半島から欧州に入植した者、あるいは黒海北部にいったん定住してから再度移動を始めさらに北へ、西へ。北ルートはスカンディナビア半島まで到達。西はバルカン半島から欧州へ、あるいはアナトリア半島から欧州へと考えられる。下の図はオリジナルですが、史実と混ぜて仮説を足したものです。私の案(欧州側のみ)では全て南から北へ移動。スカンディナビアからは後にリターンして来たのでは? と考えている。※ リターンしてくる時にはゲルマン語派(Germanic languages) になっているが・・。古代ギリシャの文明を開いたギリシャ人も、古代ローマの文明を開いたローマ人も彼らの子孫達である。彼らもまた「インド・ヨーロッパ語族」のメンバーなのだ。※ ギリシヤ文化を造ったギリシャ人はヘレニック語派(Hellenic languages)の祖。※ ローマ帝国をつく造ったローマ人はイタリック語派(italic languages)の祖。そして、後に入植地を求めてローマ帝国を脅かした蛮族(ばんぞく)は後発の入植者であり、彼らもまた出自は「インド・ヨーロッパ語族」だったのである。※ ヨーロッパ中北部に広まり、そこを原郷地としたゲルマン人のゲルマン語派はドイツ語、英語、オランダ語、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語、アイスランド語などの祖語となるのだ。彼らはある程度の集団で移動し、入植地を見つけるが為に欧州各地に散った。時にその地の者を滅ぼし、時に融合してローマ帝国とも戦う事になった。やはりインド・ヨーロッパ語族の系統図「family tree」が欲しい左側が欧州系です。また、今回の所「北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語」をピンクで囲ませていただきました。英語史に関する話題を提供する堀田隆一氏による「History of the English Language Blog」で公開されていた「インドヨーロッパ語族の系統図(日本語版)」から出典させていただきました。リンク hellog~英語史ブログ #455. インドヨーロッパ語族の系統図印欧語系統図として最も解り易い図かと思います。ローマ帝国内の異民族の協力者ローマ帝国の力に陰りが出始める4世紀以降。進軍での戦いなら得る物もあるが、防衛での国境線での戦いは無益(むえき)でしかない。ローマ皇帝は時に彼らと和議を結んだ。ローマ帝国内の居住を許す代わりに彼らにはローマの兵隊として戦ってもらうと言う条件で・・。それがローマ帝国内にできた直轄領以外の異民族の協力者による属州である。※ もちろんキリスト教が導入されてからは、キリスト教に改宗する事も条件である。しかし、ローマ帝国に力が無くなると、彼らの態度は一変した。「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の時に590年のイタリア半島地図を紹介したが、半島では、すでに移民の彼らロンゴバルド人(Longobardi)に浸食されつつあった。西ローマ帝国が消滅してからローマ帝国との契約は反故(ほご)? 彼らは568年頃イタリア半島内にロンゴバルド王国を建国して一時勢力を拡大しローマ教皇を悩ませた。だが、ローマ教皇の依頼を受けたカール大帝により彼らは駆逐される。774年には首都パヴィア陥落。因みに、ロンゴバルド(Longobardi)とは長い顎鬚(あごひげ)を意味。顎鬚を蓄える事が彼ら民族の特有の掟だったらしい。(民族の特性が呼び名に)そして彼らも、彼らを滅亡させたカール大帝率いるフランク王国(Frank kingdom)のフランク人(Franks)もまたインド・ヨーロッパ語族のメンバーである。※ ロンゴバルド(Longobardi)人はゲルマン語派。下の図はオリジナルですが、史実です。カール大帝率いるフランク王国人の祖がどこからの分派か不明ただ、フランク王国(Frank kingdom)の祖は俗ラテン語を起源とするロマンス諸語の中の西ラテン諸語であり、フランス語はそこから成立している。因みにイタリア語は東ラテン諸語です。4世紀以降に起きた? 東のアジア系遊牧民フン族(Hun)の西進によってゲルマン系諸民族は大移動をしたと言われているが、スカンディナビアに関してはそれが理由とは思えない。※ ゴート族についてはまだこれからです。スカンディナビアの民(北方系ゲルマン人)ところで、今回は「モン・サン・ミッシェル 3」です。このノルマンディーに住み着いた民族のルーツから入ります。彼らはどこから来たのか?ノルマンディー地域 (Région Normandie) 首府ルーアン(Rouen)「モンサンミッシェル」のあるノルマンディー地方(Normandie)はインド・ヨーロッパ語族、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語を話すノルマン人の土地です。以前、「ヴァイキング(Viking)」を特集した事がありますが、彼らもまたインド・ヨーロッパ語族であり、古代にスカンディナビア半島や北海沿岸に定住したゲルマン語派北ゲルマン語群に属し古ノルド語を話す人々だったのです。つまり、地域により呼び方は違うが、スカンディナビア半島や北海沿岸に居た彼ら北方系ゲルマン人(主にノルウェー)がいわゆるヴァイキング(Viking)と呼称された人々なのである。北方系ゲルマン人が移住したスカンディナビア半島は環境が厳しい。農業や漁業はあったにせよ、農地は少なく、冬の日照も極めて少ない。生産すると言うよりは海賊行為による略奪を生業(なりわい)?船の操作は長けていたので商人色の強い一派もいたが、イスラムのように、彼らもまた奴隷交易をしていた事がわかっている。最も彼らのメインの交易品は皮革製品。主に毛皮?実際の所、略奪で得た物よりもむしろ交易で得た富の方がはるに大きかったと言う。しかし、彼らは絶えず良い土地への移住を求めていたようだ。だからアイスランドやグリーンランドにまで到達するのである。(行ってから失敗と気付いている。)ヴァイキング(Viking)の源郷ヴァイキングと言う呼称は古ノルド語で「湾」、「入り江」、「フィヨルド」の意らしい。実際彼らはそうしたスカンディナビア半島のフィヨルドの入江を源郷にしていた。陸地の殆どはスカンディナヴィア山脈で平地はほとんど無いノルウェー(Norway)は北緯57度以上という高緯度だが暖流の関係で冬でも不凍港らしい。海岸には巨大な氷河が削れてできたフィヨルドが発達。それは数万年掛けて積もって固まった雪が氷河を形成。それが氷河時代の終わりごろに融解して海水域が変わり土地の隆起と沈降が始まり削られた谷に海水が進入してできたものだ。※ BC6000年頃には現在の地形になったらしい。ソグネ フィヨルド(Sogne fjord) ノルウェー最大のフィヨルド。写真はおそらくフロム近く?上下の2枚は2006年5月。北欧の観光時期は限られている。5月ではまだ早い感じベストは7月から8月。メキシコ湾から北上してきた暖流は欧州西部で東グリーンランド海流とノルウェー海流に分岐する。その暖流の影響で。高緯度にもかかわらずノルウェーの海は凍らない(冬でも不凍港)。しかし、外は寒い。だからクルーズは冬でもあるらしいが、寒くて冬は船外に出られない。最深部の深さで1308m、平均幅5km。世界で最も長く、深いフィヨルド下の写真3枚は2004年8月。これが夏のピーク北欧の名物と言えばエビやカニがある。冬でも捕れるのだろうが、やはりエビのシーズンは初夏 ?ヴァイキング(Viking)らも食べ物には困った事だろう。冬は野菜不足からヴィタミン不足だったかも。なんでこんな寒さの中に暮らしていたのか? 暖かい土地があるなんてきっと知らなかったのだろう。グリーンランドに移民した人々はだまされて渡っているし・・。ヴァイキング(Viking)の移動その彼らは8世紀から11世紀あたりに人口増加? 新たな入植地を求め幾度めかの民族移動を始めた。北フランスのノルマンディーに侵略して入植した人々がノルマン人と呼ばれる人々だ。また、船を操る彼ら一部はアイスランド、グリーンランド、アメリカ大陸にまで到達するのである。※ 北極圏を中心に地図を見るとアイスランドもグリーンランドもノルウェーからは割りと近い。ノルウェー、オスロ(Oslo)のヴァイキング博物館(Vikingskipshuset)からヴァイキング(Viking)の大型船800年代後半に使用されていたとされるオーセバルク船(Oseberg)※ 1904年に発掘特徴は船首と船尾をつなぐ竜骨が大きい。その構造により喫水線を浅くする事ができ安定性が高い。フォルムは非常に美しいです。独特な装飾も彫刻されている。ヴァイキング(Viking)の小型ボート写真の入れ替えの必要もあるのですが、2010年2月、ヴァイキング博物館(Vikingskipshuset)書いています。リンク ヴァイキング 2 (ロング・シップとクナル)リンク ヴァイキング 3 (竜頭柱とヴァルハラ宮殿)リンク ヴァイキング 4 (副葬品)ノルマン人(Normands)とノルマンディー公国(Duché de Normandie)8世紀末、フランク王国の販図がまさに北はドーヴァー海峡、南はピレネー山脈。東はライン川を越えてエルベ川に達していた頃。毎年春になると北フランスはヴァイキング(Viking)に襲撃されるようになっていた。春先は海が穏やかになったかららしいが、彼らは街や修道院を襲って金品や食糧を奪い、ついでに女子供をさらって行く。さらわれた者は奴隷として使役されたり売られて行く。また身分のある者を捉えた場合には身代金と引き換えにしたと言うので、前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」で紹介した地中海でのサラセンの海賊と同じような状況が、同時期に北海側でも起きていたという事になる。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊ところで、フランク王国の人々は、彼らの事をヴァイキングではなく、「北国の人」の意で、ノルマン人(Normands)と呼んで恐れていた。身代金効果は大きく、より人さらいは過激に増したらしい。もちろん東フランクの男たちは武器を手に取り戦い撃退していたらしいが、西フランクは騎士が戦い、一般人は逃げるしかすべがなかったので悲惨だった。だからなのか・・。なぜ北欧に近い場所でなく、少し遠いノルマンディーだったのか? の疑問の理由が分かった気がする。フィヨルドを出て北フランス(西側)に略奪をしに来ていた一派は、地元民を追い出し帰国せず砦を築いて越冬し、徐々に「居座り」定住を始める。そして、885年、ノルマンに定住した彼らはセーヌ川を遡り、直接バリに多勢で侵略に向かった。この時は3万人のノルマン人(ヴァイキング)が700艘の船でパリに襲来。大事件である。しかし、この時はロベール家のウード(Eudes)(852年以降~898年)により撃退されている。※ ロベール家は後のフランク王国カペー家の開祖そして、911年、西フランク国王シャルル3世 (Charles III)(879年~929年)(在位:893年~922年)はその脅威? いや、王として国民を守る決断? により、彼らと契約を交わす。ノルマンディー公国(Duché de Normandie)の成立蛮族であったノルマン人の侵略者の長ロロ(Rollo)(846年頃~933年)は北フランス(ノルマンディー)への正式な定住を許される。最もそこはすでにロロが陣取りしていた場所。族長ロロ、以下皆キリスト教に改宗。フランク王国の貴族となりロベール1世(Robert I) (在位: 911年~933年)と改名して即位。ノルマンディー公国(Duché de Normandie)を開いたのである。※ 妻にシャルル3世の娘をもらう。契約では、これから北フランスに到来するノルマンの侵略者はノルマンディー公国が撃退すると言うもの。つまりこれでフランク王国は自ら防衛をせずにロロに丸投げした事になる。まさに「夷(い)を以て夷(い)を制す」を実現させた内容であるが、西側諸侯からのシャルル3世の評価は低い。創始者ロロの銅像 ウィキメディアからですが、下をカットしました。ノルマン公国時代の首都があったのがファレーズ(Falaise)。ロロこと、ロベール1世はヴァイキングの親分だっわけです。しかし、ノルマン人は封じたとは言え元ヴァイキング。じっとして敵が来るのを待っているだけの人々ではなかった。下の図はオリジナルですが、史実です。スカンディナビィアにいたインド・ヨーロッパ語族、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語を話す一派は北フランスを侵略してフランク王国内にノルマン公国を得る。→ ノルマンディー公国(Duché de Normandie)さらに彼ら(ノルマン公国)はイングランド攻め異教者を駆逐。ノルマン・コククエストを果たしイングランドを得る。→ イングランド王国(Kingdom of England )ノルマン王朝(Norman dynasty )の開始。ロロ(Rollo)から7代目の子孫ギヨーム2世(Guillaume II)(1027年~1087年)はノルマン・コンクエストによりイングランドを征服しイングランド王に即位してしまう。※ ノルマン朝の初代イングランド王ウィリアム1世(William I)(在位: 1066年~1087年)として即位。つまり一介の海賊にすぎなかったノルマンの征服者は最終的にイングランドまでも手中にしたのである。さらに少数ではあるが、イタリア半島を南下したノルマンの一派数十人がイスラム教徒に戦いを挑み南イタリアとシチリア島の奪還に成功している。ゲルマン人の根性恐るべし・・である。総じて、古来文明のあったギリシャやローマ帝国と戦ってきた、いわゆる蛮族と呼ばれる彼らもまた「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」を源流とした同族の民族であったと言う事である。「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系は?ところで新たな疑問が・・。では「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系はあるのか? と言うと、ある程度の地域での語族研究はあるものの、「インド・ヨーロッパ語族」ほどに広域に及んだ研究はされていないようなのだ。例えば台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族のオーストロネシア語族(Austronesian languages)。南北アメリカ大陸の先住民の言語体系であるアメリカ先住民諸語(Native American languages)。など、あるにはあるが他を含めて地域が分散しすぎているのだ。もしかしてこれらの幾つかはどこかで祖がつながっているかもしれない? と考えが及ぶ。実際、つながりそうな地域はある。新たな仮説として、アジア・ヨーロッパ・北方アフリカの全言語と、アメリカ先住民諸語は同祖ではないか? とする少し拡大したボレア大語族(Borean languages)説も出ている。また、もっと広範囲に実はユーラシア一帯? あるいは北半球? が実は同祖? ではないかと言うような仮説もある。※ ユーラシア大語族(Eurasiatic)※ ノストラティック大語族(Nostratic languages)多分個別に学者が研究していて相互間が無いからなのかもしれない。もし、各所で研究している全てをコンピューターに入れ込んで解析したら? 面白い結果が出るだろうなと思う。ただ、言語族は必ずしも民族を示していない。DNAとは結果が違うのだろうなさて、タイトルはモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)でした。本土側からのモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)過去ログです。リンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルモン・サン・ミッシェルはノルマンディー公国でもブルターニュとの境界に近い西の端にある。難攻不落の城塞型の修道院になるのは966年の事。でもその話は次回です。なるべく早めになんとかします。 m(_ _)m今回は参道などちょっとだけ紹介。いざ、モンサンミッシェル内部へ跳ね橋式の王の門が見える。王の衛兵が派遣されていたのでそう呼ばれる。王の門の手前に3ッ星のホテル・レストラン ラ・メール・プーラール(La Mere Poulard)がある。ホテルの創業は1888年。アネット・プラール(Annette Poulard)とヴィクター・プーラール(Victor Poulard)夫妻のホテルでは併設しているレストランのオムレツが有名。プーラールおばさんのオムレツと店の名前にもなっているが、アネットが考案したもの。卵を泡立てたスフレのようなオムレツに塩をふりかけただけのシンプルなもの。焼け具合により中程は、ほぼエスプーマ(Espuma)料理の状態。※ エスプーマ(Espuma)は食品を泡々にするエルブジ発祥のマシンです。リンク エルブジ・ホテル アシエンダ・ベナスサ 4 (料理後編)当時は栄養価の高い卵は贅沢品であり旅の巡礼者にはもってこいのご馳走であったと思われるが・・。世界展開の中で? 有楽町にも店舗がありましたが今年2021年2月14日に閉店したようです。旅の土産話しに食すのは良いが、オムレツ自体はわざわざ東京で食べに行くほどの物ではなかったのは確か・・。味より、その歴史に価値があるのでしょうね。下は王の門の上から撮影。右がホテル・レストラン ラ・メール・プーラール下は王の門の内側メイン参道であるが、回りは店舗が所狭しと並ぶ。グーグルで確認したら現在はテイクアウトの店が増えているようです。そして下は早朝かも。店舗が開いていない時の静かな参道。次回はモンサンミッシェルの内部を載せて完結予定です。なる早で頑張ります。載せるだけなので次は楽かと・・。そしてその次に「アジアと欧州を結ぶ交易路 12」の予定です。そこはちょっとお待たせするかも・・。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年04月26日
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ラストにBack number追加しました。前回、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)が帝国の再統一を目指し戦闘をおこなっていた時に歴史的パンデミックが発生。野望は断念せざる終えなかったと言う所まで紹介。542年~543年頃からエジプトで発生した疫病は地中海世界に蔓延。東ローマ帝国にも到達し帝国の人口の半数近くを失うダメージを受けている。エジプト、パレスチナはローマ帝国の穀倉地でもあったから、農作物の生産さえ滞る事態で、街からパンは消え食糧難による飢餓も発生した。疫病の進行ペースは現代よりは遅いにしても、時間をかけて欧州全土に蔓延していく。60年は続いた? とされている。※ 実はそれだけではなかった事も判明。パンデミック以前に、ユスティニアヌス1世はイタリア半島と北アフリカの異民族統治の属州を奪還、再征服の途中にあった。西ローマ帝国の失われた領土を全て回復するべく腹心の部下ベリサリウス将軍の活躍はすさまじかった。※ フラウィウス・ベリサリウス(Flavius Belisarius)(500年/505年 ~565年)ユスティニアヌス1世の為に何度も頑張ったのに帝の嫉妬で不遇な生涯を送っている。)ユスティニアヌス帝の評価はこの再征服にある。しかし、ベリサリウス将軍がいなければ無理だったかもしれない。勢いに乗った才能ある軍師がいたからこその勝利だったのではないかと思う。実際、帝の後を継いだユスティヌス2世(Justinus II)の代で先帝の拡大した領土はあっと言う間に奪われてしまったからだ。以降、ローマ帝国は縮小の一途をたどる。ユスティヌス2世(Justinus II)(520年~578年)(在位:565年~574年,578年)ユスティニアヌス1世の甥であると同時に妻はテオドラ王妃の姪である為に息子のいなかった伯父ユスティニアヌス1世の後帝位を継いだ。しかし、彼は有能ではなかった? ササン朝との戦争で北アフリカをロンゴバルトとの戦いで再びイタリア半島の大部分を失うとユスティヌス2世はショックのあまり? 精神に異常をきたしたと言う。※ その為にユスティヌス2世の娘婿ティベリウス2世(Tiberius II) (520~582年)は義父ユスティヌス2世の代わりに574年頃から副帝として政務についていた。(在位:574年,578年~582年)ユスティヌス2世は自分を攻めたのかもしれない。フォローするなら、部下にめぐまれなかった事はもとより、疫病の発生や地震による影響があったのだろうと思われる。さて、今回は衰退して行くローマ帝国の続きですが、前回予告したように「地中海を荒らして暗黒の中世と言わしめたイスラムの海賊の話し」もあります。これは交易において重大な事件なのです。しかし関係する海賊の写真はほぼ無いので、ローマ帝国時代のトルコの遺跡アフロディシアス(Aphrodisias)とイタリアのアマルフィ(Amalfi)から持ってきました。トルコのアフロディシアスは、エフェソスの近くにありますが、あまり紹介されていないので。※アマルフィ(Amalfi)のおまけはイスラムのミックスした建築です。しかし、その前に今回も最初はアルマ・タデマの作品からローマの祭りについて・・。アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)祭りと舞台劇シンクレティズム(syncretism)アフロディシアス(Aphrodisias)ローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世アウグストゥス(Augustus)からバシレウス(Basileus)へ東ローマ帝国と 元 西ローマ帝国領の関係ローマ教皇とカール大帝イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海サラセン(Saracen)の海賊ムデハル(mudejar)様式に似たアマルフィの大聖堂セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)春(Spring) 1894年 油彩 179.2cm×80.3cm画家ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)J. Paul Getty Museum, Los Angeles完成まで4年を費やしたと言うタデマの作品の中でも人気の作品。絵画の中のモデルはタデマの家族や友人達だそうだ。当初、ドイツの銀行家Robert von Mendelssohnが購入。1895年ロイヤルアカデミー、1899年ベルリン、1900年にはパリ万国博で展示され複製画が大量に売れたらしい。作品は人気と相まって? なのか? 不思議にも所有者が転々と変わっている。タイトルは春(Spring)となっていて、実際内容はメーデー(May Day)に子供たちが花を集めるビクトリア朝時代の慣習を表現。それを古代ローマ帝国時代の春に行こなわれていたポピュラーな祭りであるセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)に例えた絵画となっている。が、そもそもCerealia(セレアリア)は穀物の女神セレス(Ceres)の事。彼女はローマ神話に登場する12人の最高神であるディー・コンセンテース(Dii Consentes)のメンバーの1人。※ ディー・コンセンテースとは、ギリシャの神々ではオリンポス12神(Olympus 12 God)の事。穀物神である女神セレス(Ceres)のセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)は4月中旬から下旬までの7日間開催されていたらしいが、詳細はわからない。祭りと舞台劇ところで、祭りと言えば演劇がつきものである。セレアリアの祝祭にもBC175年以降、演劇が含まれていたらしいが、神に奉納する演劇のルーツはもちろん古代ギリシャである。古代ギリシャでは演劇は神事に欠かせない捧げ物としてディオニューソス神の祭りから始まったとされる。以前、古代ギリシャと古代ローマの劇場の違いに触れた事があるが、古代ギリシャの劇場にはステージに祭壇が付いていて、ディオニューソス神に敬意を表する儀式から開始され、神に犠牲の動物を奉納するのが伝統であったそうだ。演目は当初は悲劇が中心。後に喜劇やサテュロス劇が加わるが、劇場で神々の物語や後に陥落した街の悲劇も演じられるようになった。※ 演じたのは男性であるが、女性のキャラクターも後に登場してくる。口承で伝わっていた話を、文字に起こし、神々や英雄らを体系的に整理したのが叙事詩人ヘシオドス(ēsíodos)(BC700年頃)が最初と言われているが、個々の神や英雄の詳細は、後世の詩人の創作力による所が大きい? 神事で創造され演じられたギリシャ神話も多かろう。上はアフロディシアス(Aphrodisias)から出土した女神? 「悲しみの仮面」を持っている。劇場に置かれていたものかもしれない。解らないのはなぜ古代ローマ帝国がギリシャの神々をローマに翻訳したのかである。確かにギリシャの文化を継ぐエトルリア文化をもってローマ帝国は建国されているけれど・・。シンクレティズム(syncretism)古代ギリシャのオリンポス12神(Olympus 12 God)をはじめとする神々は対応するように古代ローマ帝国ではローマの最高神ディー・コンセンテース(Dii Consentes)として置き換えられている。因みに、先の穀物のローマの女神セレス(Ceres)は、ギリシャではデーメーテール(Dēmētēr)である。ギリシャ神話とローマ神話の中身が同一だと子供の頃から不思議に思っていたが・・。古代ローマの政治家にして博物学者であるプリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus)(23年~79年8月)はこれら置き換え(translatability)について「nomina alia aliis gentibus(他の国の他の名前)」と表現している。これは単に名前をラテン語に置き換えただけではない。神話や図像さえも自分たちの神と同一化? 同一視? して文化に取り込んでいるのである。「その神様はうちの国ではこう呼ばれているのですよ。」的な事だ。つまり最初からそうであったようシンクロ(同期)させちゃっている?いや? 迎合か?文化が違うのだから、当然相異するべき信仰を、しかも矛盾するようなものまでも混合して結合する。と言う荒技でギリシャの文化に乗っかっちゃっているのである。※ 最も全ての宗教でそれができる訳ではないがたいがいの国は後から来た宗教との折り合いを付ける為にしばじば使用されてきた技かもしれない。おもに宗教、神学、神話において、元来異種なものを「無理くり」地元神と関係性を持たせて、地元に根付かせる。的なやり方である。これがシンクレティズム(syncretism)である。ローマがそれをしたのは意図があっての事か? 今回交易で調べていて「ローマの市民権」の下地に「ギリシャの市民権」を借りてベースにしている事などを見ると、もしかしたら古代ローマ人はギリシャ文化を尊厳していたからなのかもしれない。「寄らば大樹の陰」か? 「先祖は一緒」としたいのか? もしそれが正しいなら逆に潔(いさぎ)良い真似方かも・・。アフロディシアス(Aphrodisias)トルコ南西部エフェソスにほど近いアフロディシアス(Aphrodisias)は、BC3世紀に築かれたアフロディーテ(Aphrodītē)神殿を中心にBC2世紀頃に急速に形成された古代ローマの都市群の遺跡がある所。世界文化遺産に登録されている。アフロディーテ(Aphrodītē)神殿BC1世紀のイオニア式神殿 13×8本の円柱を持つ。神域自体はBC3世紀にはあったとされる。東ローマ(ビザンツ)時代はカリア地方の大主教が置かれアフロディーテ神殿はキリスト教の教会に転用されていた時期もある。※ シチリアのアグリジェント(Agrigento)の神殿も教会に転用されてましたね。カリアの町はローマの帝国の軍人ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(Lucius Cornelius Sulla Felix)( BC138年~BC78年)が、デルポイ(Delphoi)の神託を受けてBC82年「アフロディーテ神殿に斧と金の冠を奉納」した事から、以来アフロディシアスの名で呼ばれるようになる。スッラは共和制期末のローマ帝国内で、民衆派の内乱を粛正。その奉納の年に独裁官に就任する。デルポイの神託の効力は本当にあったと言う事か? スッラの後、まもなくローマは共和制から帝制に移行する。この街は以降ローマと関係が深まり大きく発展。ジュリアス・シーザーの頃に街も建て替えられたのかもしれない。特権が彼と帝制ローマの初代皇帝アウグストゥスに与えられている。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス」の中、「リュディア王国とデルポイの神託」でアポロン神殿を載せています。デルポイの神託は本当に人気があったようです。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス下は一応アフロディーテ(Aphrodītē)と言うことになっているが、本来はカリア地方で祀られていた地元神だったようだ。この土地はアッシリア人により始まっている。ヘレニズム期に歴史の表に出て来た時はエフェソスと同じようにギリシャ的な街造りがされている。アフロディーテ(Aphrodītē)はギリシャのオリンポス神の一柱。ローマ帝国ではウェヌス(Venus) 美の女神ヴィーナスである。ここに、先に紹介した神様のシンクロ(同期)が行われているのであるが、そもそもアフロディーテでもなかったようだが・・。 円形劇場(Theater)ヘレニズム期に造られた劇場は山の斜面が利用されている。聴衆席、半円形舞台(オーケストラ)、舞台の3部構成になっていて、ローマ帝国時代になると、都市の名士の為に半円形舞台の中に特別席がもうけられるようになる。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス」でエフェソスの劇場も紹介していますがエフェソスの方が規模は大きい。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス※ 初期の頃「音楽堂と野外劇場と競技場と闘技場」について少し紹介しています。リンク 古代ローマの円形劇場 1 (ギリシャとローマの違い)奧に見えるのはアゴラ(Agora)。 集会場や市場などの商業地区である。オデオン(odeon)音楽堂小規模な劇場である。会議場として造られたのかも。スタジアム(stadium)他の遺跡ではなかなか見られないほぼ完璧なスタジアムが見学できる。地中海域では一番良い状態のものらしい。262m×59m トラックのサイズ 225 m (738 ft) × 30 m (98 ft).30000人収容スタジアム内の石の残骸は、かつて地震で劇場が失われた後、ここを一部改装して劇場を造った跡らしい。テトラパイロン(Tetrapylon) 門かつては、街は城壁で囲まれて4つの門があったのかもしれない。3つの門と書いている人がいるがテトラ(Tetra)と言うのだから4つのはず。この門は街のメインストリートの北に位置するので古い時代の北門か? と思ったが東門らしい。街はさらに拡大している跡が空撮でわかるので、すでに門ではなく、街のモニュメントと化していたのかも。メインストリート度重なる地震で修復はままならず、最後は放棄? ポンペイと違った事情で保存されたのである。この遺跡は割と良く残っている方である。共和制ローマの時代から最終的に14世紀までアフロディシアス(Aphrodisias)は辛うじて存続したが、やはり衰退のきっかけは度重なる地震の影響かと思われる。ウィキペディアには7世紀初めの地震となっているが、トルコの地震の歴史から見ると該当する巨大地震は以下3件。262年のアナトリアの西と南の海岸に起きた震度9の地震。※ エフェソスの街の多くが倒壊している事からご近所のこちらも同じレベルと考えられる。526年のアンティオキアを中心にした震度8の地震。557年のコンスタンティノポリスで起きた震度10の地震。※ 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノポリスは完全倒壊していたらしい。※ 550年の地図をベースに書き込みました。557年と言えば先にも紹介した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位 : 527年-565年)の治世である。前回紹介したよう、542年~543年頃、歴史的パンデミック(pandemic)が起きたばかりである。立て続けに557年の巨大地震では、再征服など行けるわけがない。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世同様にユスティニアヌス1世の治世後半は気の休まる時が無かったと言う波乱の時代だったかもしれない。ところでアフロディシアス(Aphrodisias)の街の繁栄は近隣での大理石の採掘にあった。同時に彫刻でもローマ帝国内でカリアの彫刻師は評価が高く、石のみならず、彫像も小アジアの属州や帝国の各地に輸出される交易品だったのだ。どこかの壁面に組み込まれていた? と思われる巨大パーツの彫刻。改めて「手彫り」なのだと思うと凄い作品です。アフロディシアスには彫刻家の学校がヘレニズム時代後期から存在し、5世紀の東ローマ帝国時代までは盛況だった? らしい。技術のある職人が育ち、また寄って来ていた事もあったのだろう。完成、未完成の大理石の彫像や石棺がアフロディシアスには埋もれていたのである。前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」で紹介した「ロリカを付けたアウグストゥス帝」の大理石の彫像もアフロディシアスの工房作品だった可能性が極めて高い。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世栄耀栄華(えいようえいが)を極めたローマ帝国はいつのまに消えたのだ? と思っていたのは私ばかりではないだろう。ローマ帝国の歴史はユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)あたりでだいたい終わっている。正式に東ローマ帝国が滅亡するのは1453年。まだ900年弱残っているのにだ・・。1453年の滅亡の時はすでに歴史の主役では無くなっていたからまさにフェードアウトして行った感のある終わり方である。滅亡するまでの間に何があったのか? これを説明するのは確かに容易ではないし長い歴史を細かく説明するのは無意味かと思う。私流のザックリ解説です。ユスティニアヌス1世以降は東ローマ帝国自体が変容してもはや今までのローマ帝国では無くなった。・・と言うのが大きな理由の一つだと思う。ユスティニアヌス朝もユスティニアヌス1世を除いて以降ろくな皇帝は出なかった。強いて言うなら次の朝を築いたユスティニアヌス1世の縁戚、ヘラクレイオス1世(Heraclius)(575年頃~641年)(在位:610年~641年)は特筆しなければならない皇帝だ。※ 彼はクーデタを経て帝位に就いている。ヘラクレイオス1世が帝位に就いた時は前回紹介したようユスティニアヌスの時代に発生した疫病がパンデミックとなり60年にわたって流行していたし、先に紹介している557年にコンスタンティノポリスで起きた震度10の地震の影響で人口が激減していた。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中「ユスティニアヌスの黒死病」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック壊滅した帝都コンスタンティノポリスの再建で莫大な費用がかかっていたし、属州だって同じくパンデミックと地震の影響で壊滅状態。穀物の生産もままならなかっただろう。国庫は財政破綻の状態であり、当然軍事力も低下していた。そんな時にサーサーン朝ペルシアに襲撃され大事な穀倉地であったシリア・パレスティナを、次いでエジプト・アナトリアを占領されローマ帝国の権威が失われる事態が起きる。一度は絶望したヘラクレイオス1世であるが627年にニネヴェの戦いでサーサーン朝に勝利、翌628年に自らサーサーン朝の首都クテシフォンへ侵攻し、結果サーサーン朝は滅亡する事になる。が、勝利の向こうで、次の強敵、イスラム教を信仰するアラブ人の勢力がシリアへの侵攻を開始していた。636年、自ら軍を率いるがヤルムークの戦いでアラブ人に敗戦。シリア・パレスティナを今度は別の敵に奪われる事になったのだ。※ シリア・パレスティナを失った事はローマ帝国にとって非常に大きな痛手となった。このイスラム教を信仰するアラブ人の勢力こそが、中世期のキリスト教国を苦しめる最大の敵となるのである。話しはヘラクレイオス1世に戻って、抵抗むなしく帝国領土を減らす事になった皇帝ヘラクレイオス1世であるが、それ以上の功罪が彼にはある。彼の治世に公用語をラテン語からギリシア語へ切り替えたのだ。「公用語はラテン語」と言うのはローマ帝国のアイデンティティ(identity)であったと言える。もはやローマ市民のローマ帝国ではなくなり、ギリシア人のローマ帝国? になってしまったようなもの。これはもうローマ帝国ではないだろう!! と私もツッコミたくなる。この時点で「ローマ帝国は終わった。」と言うのも確かに、致し方無いのだ。アウグストゥス(Augustus)からバシレウス(Basileus)へアウグストゥス(Augustus)は、ラテン語で「威厳者」または「尊厳者」を意味する歴代のローマ皇帝の称号のひとつ。初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)以降ローマ帝国の皇帝を示す最高の称号であった。しかし、ヘラクレイオス1世はそれを好まずギリシャ語で「主権者(sovereign)」を意味するバシレウス(Basileus)と称している。それはギリシア語の君主の称号を意味。そしてその称号は以降の東ローマ(ビザンチン)帝国で800年間使用される事になる。ローマ帝国がローマ帝国でなくなった決定打かもしれない。東ローマ(ビザンチン)帝国と 元 西ローマ帝国領の関係前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中で以下に紹介している。東西の皇帝は等しく同等の権限を有し、東西いずれかの皇帝が没した時は残り一方の皇帝が東西の両地を統治する事が決められていた。それ故、西ローマ帝国が滅した時は東ローマ帝国の皇帝が全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一がされた事になった。476年、軍人オドアケルがクーデターを起こし西ローマ帝国の皇帝制は解体された。この時、西ローマ帝国は実質滅亡した。先の事を踏まえると、もはや東ローマ(ビザンチン)帝国自体も以前のローマ帝国では無くなっていたが、かつての西ローマ帝国領は、まだ東ローマの直轄領としてイタリア半島にも残っていたのだ。※ イタリア半島でもローマやラヴェンナ、地中海域にはシチリア島やサルデイーニャ島など。下は717年、東ローマの直轄領の販図。かつての規模のローマ帝国はもう無い。驚く程縮小されている。地図はウィキメディアのを借りて若干構成を変えました。そもそも西ローマ帝国で皇帝がないがしろにされていたのはローマ教皇の力が強かったからに他ならない。しかし、ローマ教皇は軍隊を持たない。それはこれから起きるイスラム教徒の侵略に対して絶望的な事態を招いたのである。※西ローマの皇帝制が解体された時、付随する軍隊も当然消滅している。危機の時は本家の東ローマ(ビザンチン)帝国がフォローしなればならなかったのだが・・。いざ危機となり、ローマ教皇は再三助けを求める手紙を送っても、ローマがまさに襲われた時でさえ東ローマ(ビザンチン)側は軍隊さえ送ってくれなかった。もっとも東ローマ(ビザンチン)側にもそんな余裕はなかったのだ。だからイタリア半島のみならず、地中海域の警備もがら空きの空白を生んでいた。だからその時になって、ローマ教皇側は慌てて自衛の道を探る事になった。因みにこの時の恨みは後に東ローマ(ビザンチン)が滅亡する時の因縁となる。ローマ教皇とカール大帝教皇に応(こた)えてくれたフランク王国のカール(Karl)王(742年~814年)に大帝の称号を与えたのはまさにローマ教皇の感謝であったが、同時に神聖ローマ帝国と言う新たなローマ帝国の樹立は東ローマ(ビザンチン)帝国との縁切りを示していたと思われる。カール(Karl)大帝=シャルルマーニュ(Charlemagne)大帝 神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年写真はウィーン王宮内宝物館で撮影北方蛮族でしかなかったフランク族であるが、カトリックに改宗したのはどこよりも早かったと言う。ローマ教皇レオ3世(Leo III)(750年? ~816年)(教皇在位:795年~816年)はカール(Karl)王率いるフランク族の軍事力に賭けたのだ。フランク王国の覇権は北はドーヴァー海峡、南はピレネー山脈。東はライン川を越えてエルベ川に達していた。イタリアではロンゴバルト族を南伊に排除し勢力を拡大していた。カール王はローマ教皇レオ3世により「神聖ローマ帝国の皇帝」に任ぜられた。つまりかつてのローマ帝国に変わり、カール大帝はキリスト教国である西欧の国を守る大任を教皇からまかされたのであった。もっとも二人の死後、再び戦乱となるが・・。以前、ザルツブルグのザンクト・ペーター修道院の所で「カール大帝の文教政策」について書いています。軍才だけでなく、考え方においても、統治者としても、ただ者ではなかった。リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海622年~750年に至るイスラム帝国の販図 ウィキメディアから借りたものに書き込みしました7世紀に入ってイスラム教徒の勢力が拡大。時代的に先に紹介した東ローマの直轄領の販図に重なる時代です。ローマ帝国の力が弱まってくると北から、東からゲルマン民族が流入し戦いが続く。すでにイスラム正規軍?はイベリア半島を手中にしピレネーまで越えようとしていたし、中東やアフリカはイスラム化してその彼らは盗賊や海賊となってまずは地中海から欧州への侵略が始まったのである。同時に各地で起こる侵略者との戦いにローマ帝国の軍隊は足り無かった。もはや東ローマは自身の帝都も危ぶまれる事態であり、かつてのように地中海の警備もままならず、地中海は盗賊の思いのままに荒れ放題と化す。※ ローマ帝国が安泰していた時代は帝国の海軍が地中海交易の安全を確保していた。ローマ帝国による地中海の警備がいつの頃からか? 消えた。地中海域でのかつての大規模農園は中世まで多少残るには残ったらしいが、輸送途中でイスラムの海賊に襲われる事も・・北アフリカのイスラム教徒は誰もが盗賊となって地中海に繰り出した。人を人と思わない誘拐に近い略奪。それは聖戦の名の元に彼らは正当化した。地中海域の島や沿岸(フランス南岸やイタリア半島)では多くのキリスト教徒のローマ市民が連れ去られ、売られイスラムの奴隷として生涯を終えるなどと言う暗黒時代を迎えたのである。中世初期から中世に至る暗黒の時代(Dark Ages)とはまさにイスラム教徒の侵略によるキリスト教徒の苦難を指している。サラセン(Saracen)の海賊中世のローマ帝国側ではイスラム教徒の海賊達をサラセン人(Saracen)と呼んでいた。本当はアラブ民族でも砂漠に住むベドゥインを指したワードだったらしい。北アフリカにいた彼らベルベル人やムーア人はイスラム教徒となり、海賊を生業(なりわい)にしたからだ。古代ローマの時代の北アフリカでは牡蠣の養殖や大規模な生け簀で魚も養殖していたらしい。また大規模農園が広がるローマ帝国の重要な穀倉地帯でもあったのに、彼ら新たなイスラムの住人は農業など見向きもしなかったらしい。(そう言う仕事は得意ではなかったのだろう。)アルジエリアとチュニジアは7世紀末には完全イスラム化。中世を通じて海賊の一大基地に成り上がったと言う。サラセンの海賊が常用するのはガレー船の中でも小型のフスタ(fusta)。帆柱は1本、船の長さと同じくらいに大きな三角帆。漕ぎ手は16人~20人。船頭に漕ぎ手と戦闘要員を合わせても40人程度の乗員。そんな彼らの海賊行為はまさに行き当たりばったり。地中海の島々や、後にフランス南岸やイタリア半島に密(ひそか)に忍びより、村人をさらい、食糧など奪い逃げる。組織化された海賊ではないが部族単位? そんなのが無数にいて、地中海の島々や後にフランス南岸、イタリア沿岸は彼らのターゲットとなるのである。村々では自衛の為に「サラセンの塔(Torre Saracena)」と呼ばれる見張塔を建てる事になる。それで彼らが忍び寄るのを監視したのであるが、フランスやイタリア沿岸の海岸腺に沿って無数に建てられていたのだからいかに酷かったか・・を物語っている。今も地中海沿岸にはそれら塔が残っていたりする。下はイタリアのアマルフィから 見張塔 トッレサラチェーノ(Torre Saracena)の跡である。アマルフィの街は840年頃に作られたと言うが、すでに当時は海賊に侵略されていた防衛の痕跡がある。アマルフィ(Amalfi)の街はそもそも絶壁に建っているが、他の島や沿岸の村々でも、みな高台に居を構えるにいたったのである。当然、襲われにくいし、逃げられやすいように・・。決して風光明媚(ふうこうめいび)などと言う事情ではなかったのだ。イスラム教徒は、オセロのように世界をイスラム教一色に変える為に戦いを拡大して行く。「右手に剣、左手にコーラン」がスローガン。「誤った教えを信仰する異教の信徒に対して、武力を持って(強制時に)改宗させる。」それこそが彼らの言う「ジハード(jihād)」だった。※ イスラム法学上のジハードは、まさにこの異教徒との戦闘を意味するそうだ。また、それを達成する為にはどんな手段であっても問題無しとされた。アマルフィ(Amalfi)の街からアマルフィ大聖堂(Duomo di Amalfi)聖アンデレに献堂されたのでサンアンドレア聖堂(Cattedrale di Sant'Andrea)とも呼ばれる。987年頃、マンソネ(Mansone)公爵によって建てられたと言う。入口の門の写真のみウィキメディアからかりました。Xにクロスした十字架で殉教したのでそれが聖アンデレ(Sant'Andrea)の象徴となっている。景観が人気のアマルフィ海岸であるが、そもそもこんな土地だから耕地は無い。輸出に向けられる特産品も無い。だから彼らは海に出て行くしかなかった。アマルフィはイスラムの攻防の後に海洋都市国家に成長して行く。土地は少ないのにイタリアを代表する4つの海洋都市国家の一つにまでなったのである。イスラムと渡りあえる海上戦力が役にたったのだろう。海賊に侵略されていた過酷な時代があったとは、今の人は思いもよらないだろうが・・。ところで、サラセン人の海賊行為も後にビジネスライク(businesslike)な変化を遂げる。拉致した人々は当初は奴隷として売り飛ばされていたが、新たに身代金を取ると言うビジネスが生まれたのだ。身代金は身分の高い者からだけでなく、都市全体も対称となった。街や村の回りを荒らし回り、彼らを散々脅してから退去をほのめかしお金を受け取る。シチリアの守備の堅かったシラクサまでもが身代金を払って退散の取引をしていると言う。彼らサラセン人も海賊であげた収益の一部を上納していたからだ。つまり、正規のイスラム軍ではなく、彼らサラセン人の場合は、聖戦に関係なく、単純にビジネス海賊だった? と言える。シチリア島もシラクサを除いてイスラムに略奪された。965年に全島が陥落すると都はパレルモに移される。そうなると彼らの次の狙いはイタリア本土。シチリアを拠点に襲って来るのだから皆戦々恐々。アマルフィだって対岸の近くだ。そしてついにイスラム軍はローマにまで達するのである。そんな時代だから地中海で遠くに船を出す事さえ危険でできなくなった。共和制から帝制初期のローマ帝国で行われていた大型輸送船による大規模な物流などすでに夢幻(ゆめまぼろし)? キリスト教徒側からしたら危険な地中海での交易は消えたに等しい、だが、イスラム側からすれば地中海でのキリスト教徒を対象にした誘拐略奪行為自体が地中海交易の目玉であったと言える。これは落ちか? せっかくなのでアマルフィの写真を追加しました。ムデハル(mudejar)様式に似たアマルフィの大聖堂実は大聖堂の建築にイスラム建築の影響が見られるのです。実際、アマルフィはイスラムの支配を受けた事はないはずなのですが・・。それはまるでイベリア半島のムデハル様式のようなミックス? なのです。教会横の鐘楼は、そもそもイスラム教のミナレット(Minaret)のようです。※ イスラム教の礼拝の呼びかけをするアザーンが流される塔。マジョルカのタイルで装飾されているらしい。タイルを使うのはそもそもスペインだものね。イタリアならガラスのモザイクが本当。教会の工事をしていない状態の時の正面写真。逆光だし、カメラの解像度も悪いのであしからず。増築されてチャンポンなのは解るが・・。やはりモスクの跡を改築したように見えてしまう。もっともシチリア島でイスラム文化が育っていたのでブームはあったらしいが・・。天国の回廊(Chiostro del Paradiso)ロマネスクのようでロマネスクでも無い。以前アルカサルの所で紹介していましたが、ムデハル(mudejar)様式 はイベリア半島がレコンキスタ(Reconquista)された後に育った特殊な融合文化です。それはイスラム教徒の建築様式にキリスト教の建築様式が融合された特異なスペインの建築スタイルです。※ キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動がレコンキスタ(Reconquista)です。そもそもムデハル(mudejar)とは、イスラム教徒を指すワードです。レコンキスタされ、イスラムの国からキリスト教の国に変わった後も、改宗して土地に残った元イスラムの人々をスペインではモリスコ(Morisco)と呼んでいました。その元イスラム教徒の職人達(モリスコ)の技術がいかされて、キリスト教の様式と融合。ムデハル様式(イスラム的要素のある様式)が生まれたようです。それは単純な「文化の融合」ではなく、ムデハル達の職人技術の上に成り立つ様式なのだそうです。それが、シチリアでも育っていたのかもしれません。さすがにイタリア全土には及ばなかったかもしれないが、シチリアに近い地中海の湾岸部ではそうしたモリスコ系のムデハルのデザイナーや職人がたくさんいたのかも知れない。実際、シチリアのバレルモにあるヌォーバ門(Porta Nuova)は確実に影響が出ています。参考にヌォーバ門(Porta Nuova)紹介どう見たってムーア人にしか見えません。1535年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が隣接するノルマンニ宮殿(Palazzo dei Normanni)に入城する記念に建築されたらしい。そもそも、何で門柱にムーア人像を取り付けたのか? 理解できません。魔除け?※ カール5世(Karl V)(1500年~1558年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I) 神聖ローマ皇帝(在位:1519年~1556年) スペイン国王(在位:1516年~1556年)エマヌエル通りの終点に位置する。観光の目玉らしいが、これを見て皆は何を思う?さて、今回も長くなりましたが、実質のローマ帝国はここで終わりとします。が、11世紀から始まるキリスト教徒側の反撃? 西ローマ側だった者らによるエルサレム奪還の十字軍の遠征。西側はそのどさくさで東ローマ(ビザンチン)帝国を滅亡に導いている。次回は、海洋都市国家の予定ですが、伏線として「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」の説明を「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」に入れてます。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 27 イギリス東インド会社(中編)リンク イングランド国教会と三王国の統合3 名誉革命リンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa) アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年04月07日
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