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エルメスのApple Watch、ベルトだけでなく、エルメスのロゴ入リ時計も出していました。販売はApple公式とエルメスの一部。ベルトでお値段が異なりますが、公式価格147,180〜181,258円(税込)らしいです。Break Time(一休み)最近ジェネレーションZ(Generation Z)と言うワード(word)を耳にする。近年はデジタル環境の変化を以って世代(ジェネレーション)の区分けがされている。ジェネレーションZは現在の先端世代の総称らしい。終戦後(1945年)の日本の状況は、まだ生き証人がいるけれど、悲惨であったと聞いてきた。戦争賠償金など日本経済はどん底で、当時の日本人は何も考えずに、がむしゃらに働いて戦後復興を成した。しかも戦後わずか9年目にして好景気の時代を迎えている。※ 1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」と宣言したそうだが、1954年~1973年までの19年間に続く経済成長期を「高度経済成長」の時代と呼んでいる。この時代を経てデジタル社会が到来するのである。今はデジタルのコンテンツばかりに目が向くが、一朝一夕にデジタル社会になったわけではない。当然そこには経済的背景も存在するし技術革新は必須。自分の生まれていない時代も含めて「一度整理しておかなければ」と言う事で今回デジタル機器の変遷とデジタル世代について経済もからめてザックリまとめて考察もしてみました。当初こんなに長くなる予定ではなかったのですが・・。まあ、いつもの事ね。それにしても家の古い機器を引っ張りだして撮影しましたが、お金かけたねー。と言う感想ですデジタル機器とデジタル世代(Digital generation)戦後のベビーブーム世代デジタル・ジェネレーションとは?ざっくりデジタル史 Apple とMacintoshとスティーブ・ジョブズ氏記録ツールの変遷(Floppy・MO・Zip・光磁気ディスク・ハードディスク他) データの情報量の単位 フロッピー(Floppy)とフロッピーディスクドライブ(Floppy disc drive) ZIPドライブとMOディスクドライブ ハードディスクドライブ(hard disk drive/HDD) ソリッドステートドライブ(Solid State Drive/SSD) MD, DVD, SDカード, USBフラッシュドライブ 光ディスク(第1世代~第3世代)インターネットの普及デジタル・ジェネレーションX世代(Generation X)の時代 カウンター・カルチャー(counterculture)Y世代(Generation Y)ミレニアム世代の時代 ジェネレーションYの学力Z世代(Generation Z)の時代グリニッジ(Greenwich)のコーヒーサイフォン戦後のベビーブーム世代かつては、ジェネレーション・ギャップ(Generation gap)と言うと文化や価値観、思想など、生まれた時代(世代)で異なる事によって起こる認識のズレを単純に指したワード(word)であった。例えば親の育った時代環境と子である自分の現在の環境が違うのは当たり前だから、物の価値観も違ってくるのは当たり前。昨今の親はそれを理解しているが、一昔前の親はそれを受け入れなかった。いつの時代も同じ価値観だと信じて疑わなかった? だから絶えず親と衝突していたのだ。しかも、昔は一つの家に3世代以上が同居していたからね。だから高齢化社会になればなるほどジェネレーション・ギャップの幅は広がるのは必然と言えた。しかも日本は80年前(1939年~1945年)に戦争を経験している。第二次世界大戦(World War II)。しかも負け組だ。これはどこの国もそうであるが、戦争の前後で社会は激変する。まして日本は敗戦国。戦前と戦後に大きなジェネレーション・ギャップが生じたのは当然である。何しろ敗戦国日本の現状は相当に酷かったから、戦争を越えて生き残り、かつ激動の戦後を乗り越えて来た人達の精神力は凄まじかった。強く無いと生き残れ無かったのだから父権も強くなろう・・。戦争は良い物ではないが、その激動を乗り越えて今に繋いだ彼らに敬意は表しても良いと思う。※ 現在は戦後生まれが全国民の8割を越えた。戦前と戦後と言うジェネレーション・ギャップは消えつつある。それにしても逆にまだ国民の2割が戦前生まれと考えると。驚きかも・・。ところで、戦後、世界的なベビーブーム(1946年~1952年)が巻きおこった。これは平和で安定した社会だからこそ新たなジェネレーションが誕生したわけだが、日本では1947年~1949年の3年間に出生数が800万人を超え1949年の出生数は269万6638人で戦後過去最多を記録。極端な人口増加を起こしたのである。※ 2019年の出生数は86万5239人なので今より3.1倍も多かった。※ 2020年の出生数は84万832人とさら減少。※ 1950年から減少に転じる。因みに、アメリカではこの世代をベビーブーマー(baby boomers)と呼ぶが、日本では堺屋太一氏が1976年に著した未来予測小説「団塊(だんかい)の世代」から、「団塊の世代」と呼ばれるようになったらしい。彼らは戦後混乱期、しかも連合国軍による日本占領下で生まれた世代(ジェネレーション)である。最も彼らも必ずしも思想は一塊りとは言えない。戦後孤児、母子家庭など育つ家庭の経済事情の差は今以上に大きく、学歴の開きもまた大きかった。ただ一つ共通であったのは、彼らがもれなく「戦争を知らない子供達」だったと言う事だ。親世代との価値観のギャップは今以上に想像以上に大きかった? だから思春期を迎えると、親への反発、社会への反発が爆発したのだ。彼らは60年代に学生生活を迎え、高校を卒業した者は金の卵と呼ばれ労働の主力とされた。一方大学に進学した者は学生運動に興じる。「自分達が正しい。」は思春期あるあるな思考だが彼らは過激に反発。また抵抗をした。どこの大学も学生紛争が起こり、ある意味華やか? 賑やか? だった時代に青春時代を過ごしている。客観的に見るとやりたい放題な世代だったのでは? この学生運動は後に過激さを増すが、基本大学を卒業すれば引退だし、振り返れば一つの流行のように去って行った感がある。※ 大学の自治会に所属していたが、私の頃は何もなかった。極めて平穏でした。彼らは高度経済成長期に学生時代or青年期を過ごし、役職が付く頃、バブル景気(1986年~1991年)を経験し日本経済に貢献。彼らが現在69歳~75歳。今の高齢化社会の戦後世代の先端にいる人達だ。が、残念ながら、彼らはデジタル世界の住人には入らない。でも、彼らの中からデジタル世界を切り開いた者が現れたのは事実だ。デジタル・ジェネレーションとは?そもそも、Z世代、ジェネレーションZ(Generation Z)と言うワード(word)はアメリカやカナダ中心に始まっている。遡ればジェネレーションZ(Generation Z)はカナダの作家ダグラス・クープランド(Douglas Coupland)(1961年~ )が1991年に著した小説「ジェネレーションX」と言うワード(word)に由来しているそうだ。※ Generation X 加速する文化のための物語 (Tales for an Accelerated Culture)ジェネレーションX(Generation X)は、およそ1960年代中盤~1970年終盤に生まれた世代が該当?とされているが、発案国アメリカではケネディ政権下(1961年~63年)からベトナム戦争終結(1975年)までの時代に生まれた世代を区切りとしている。つまりアメリカがベトナム戦争の泥沼にはまって社会が反戦などで激動しているさなかに幼少期を過ごし、80年代頃? 青年期or成年期に最初にパソコンに触れ始めたのがX世代である。そしてX世代を皮切りにY世代(ミレニアム世代)、Z世代、α(アルファー)世代とデジタルの進化と浸透に伴い次世代にもこの仕分けは続く?あとで細かく紹介。ざっくりデジタル史ここで、私の記憶も交えて、ちょっとデジタルの歴史をざっくり振り返ります。但し、専門家ではないので細かさと正確さは強く求めないでください。テレビが普及し、その後来るデジタル革命。※ 日本ではNHKが1953年2月1日テレビの本放送を開始。1958年、受信契約が100万件。1959年、白黒受像機の普及が200万台。しかし、デジタルと言っても電卓とか、電子時計とかワープロ程度。パーソナル・コンピュータは庶民にはまだ未知の物。パソコンが庶民に浸透するまでは時間を要した。それは金銭的理由が主だった?アメリカでは、1962年11月ニューヨーク・タイムズ紙て将来のパーソナル・コンピュータ(Personal Computer)に関する見通しが語られた記事が掲載されたそうだが、実際Personal ComputerがIBM から発売されるのは1970年代だ。でもそれはまだ相当に庶民から遠かった。まして日本には無縁。1985年、大型の携帯電話が開始された(まだ重くて高価)。3kgもあったから携帯と言うよりは肩にかつぐショルダー型にせざる終えなかったのだろう。※ 月額の基本料金が2万円以上、通話料金が1分100円もしたらしい。重い携帯電話が流通する80年代中盤頃? パソコンも流通。 こちらも非常に高価。Apple とMacintoshとスティーブ・ジョブズ氏Apple Computerが最初のApple Iを発売したのは1976年らしいが、日本で当時それを知る人はどれだけいたか? でもこれは革命的パソコンだった。そして1984年、Apple ComputerはMacintosh(マッキントッシュ)を発売。通称MAC(マック)は最初からウインドウズ。画面のアイコンをクリックするだけのシンプルパソコン。今のとほぼ変わらない。コアなファンが多かった。ある意味サブカルチャー的存在のパソコン登場で一気にマニアに広がった?このApple Computer 創始者がスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)(1955年~2011年)氏である。2011年10月5日スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)氏が亡くなった時にちょうどハワイにいた。写真はワイキキのAppleのShop前で撮影。多くの人が彼を偲んだ。( TーT)m彼は私たちに色の付いたパソコンを最初に提供した人だ。そしてそれは誰でも簡単に操作できるユーモアと「遊び心」が随所に詰まったパソコンだった。カラーや音響は当初から優れていたからユーザーは音楽関係や映像関係、そしてなぜか医者に多かった。でも、当時パソコンはまだ能力も低い割には値段が高かったから仕事で必要とする人以外はあくまで趣味人に限られていた。前述、Macintosh(マッキントッシュ)の発売は1984年と紹介したが、MAC(マック)以外のパソコンはまだ数字とアルファベットが羅列(られつ)するよくわからない世界であったのだ。MAC(マック)は、ほぼ今のパソコンと同じ、アイコンがならぶ解り易いパソコン。だからマニュアルが無くても何とかなったが日本のパソコンの主流は後に出るマイクロソフト(Microsoft) のウインドウズ(Windows)に持って行かれた。それは官公庁がウインドウズ(Windows)系を使用していた事が原因だ。当初MAC(マック)で始まった会社もどんどんウインドウズ(Windows)に乗り換えて行くのを知っている。私自身もそうだ。今はWindows。ネット株のアプリがMAC(マック)になかったから、仕方無く移行した。でも映像や音楽を司るには今もMAC(マック)だろう。特にカラーは当初から定評があった。マイクロソフト(Microsoft) のWindowsはガンマ線の量が多く、比べると色がくすんでいたしカラーの数が全く違っていた。デジタル写真はMAC(マック)の方が断然綺麗だったのだ。とにかくMAC(マック)は動作環境の中にも遊び心がたくさんつまっていた。当初からMAC(マック)にあったゴミ箱のアプリだってそうだ。いらない書類などゴミ箱に入れるとゴミ箱はふくらんだ。早く棄てるよう促した? シャットダウンの前に必らず削除した。また作業がフリーズすると導火線に火のついた丸いバクダンが登場したし、違うフロッピーを入れたらペッと吐き出したりする。ちょっとワガママさも感じる親近感あるパソコンだった。利用する人達の遊び心も面白かった。iTunesで取り入れた音楽に合わせてユーザーの誰かが開発したアプリは可愛い女の子が踊りながら歌詞を表示するものだ。女の子をクリックしたら洋服がスケルトンになる。使う人達も個性ある変わり者だったのは間違いない。スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)氏がガレージで創造したパソコンは、彼の夢が詰まっただけで終わるものではなかった。私たちに便利で楽しい創造世界を与え、遠い未来を親近間ある明日にしてくれた。自分が当時どんな気持ちでパソコンをしていたか? トラブルがあっても苦じゃなかった。彼はパソコンを相棒のように、最初の起動時に名前を付けさせた。私の初代はトロンちゃん。次代がサリーちゃん。とにかく可愛い友達のようなパソコン達だった。そう言う意味で言うと、今のiPhoneは違うのよね。スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)氏が今この世界にいない事が非常に残念です。直接「ありがとう」と言いたかったです。心からご冥福をお祈りいたします( TーT)m ところで、パソコンの普及期、80年代~90初頭初頭まではパソコンは分厚いマニュアルを読んで自分で何とかするしかない時代であった。パソコン教室なんて無いし、カスタマーセンターもなかった。マニュアルで解らなければ、友人のそのまた友人の伝をたどってパソコン・マニアを見つけて教えをこいた事もあった。全部なつかしいわー。当時のパソコン通信と言えばコンピュータ同士をつなぐLAN接続。しかもデジタル情報を記録するツールはまだフロッピー (Floppy disk)。モニターはまだブラウン管の時代。でもMacintosh のLCシリーズはソニーのTrinitronを採用していたのでカラーの発色も綺麗。私のパソコン(PC)初購入は90年代初頭? はっきり覚えていないが、1994年発売のMAC LC575は持っていた。当時の販売価格は358000円もしていたらしい。全く覚えていない。標準メインメモリ 8MB。最大搭載メモリ 36MB。ハードディスク 160MBしかないのに※ 当時はパソコンよりむしろメモリーが高かった。写真下、右のドーム型PCのiMacは私のデスクトップタイプパソコンの3代目か4代目。1998年6月発売の初代ボンダイブルーのiMac G3も発売してすぐに購入。流線型の美しいパソコン。人気で手に入れるのが大変でした。販売価格は178000円だったらしい。LC575のお値段の半値だから、これでも当時は安い方。「下がった」と言うべきか?このiMacG3は後に複数のカラーバリエーションで展開。でもやはりこのカラーが一番良い。一体型で良かったのですが、CDディスクドライブが割とすぐに故障。その修理費が数万かかった。Macはスティーブ・ジョブズが復帰してオシャレに蘇った。そのデザインだけでオブジェ。だからいろいろ装備したくなる。配線はオシャレじゃないし、使いづらいからキーボードもマウスも無線仕様にした。右側 iMac G4 2002年発売。アームに液晶ディスプレイが付いた変わり物。左側 iMac G5 2004年発売。液晶ディスプレイ一体型。新しい物好きなのではありません。当時のパソコンはCPUもハードもメモリーも進化がすさまじく1年毎に買い換えないとついていけない状況だった。(本当は半年くらいです。)この時点で右のiMac G4はすでにクラシック音楽を聴くだけの専用機になっていた。もはやメモリー増やすよりCPUも良い物を・・で買い換えたと思う。因みにiMac G5からiTunesはネットに接続するようになった? だからiMac G4では重くて無理だったのかも・・。右の球体2個と奧にウーハーがある。左の四つ葉のクローバー(別売り)2個も音響用スピーカーです。Appleのおかげで音響機器(オーディオ)はいらなくなった。因みに、2001年10月MAC(マック)専用のデジタルオーディオプレーヤーiPodが発売される。iPodも5機種くらい買いました。一番のお気に入りが右のiPod nano。海外旅行のお供で活躍。左からiPhone 12iPod touch (PRODUCT)REDiPod nano 第6世代 (PRODUCT)RED※ iPod nano 第6世代は右のベルトに取り付けて使用。一応クリップにもなっている。これが後に進化してApple Watchになったのかな? 因みに最近エルメスがApple Watchに参入。文字盤にエルメスのロゴ入リ、素材も違う? ベルトでお値段が異なります。※ (PRODUCT)REDはApple shopでしか購入できないタイプで寄付が付いたもの。※ Appleで直接購入すると文字の刻印サービスがあるのだが、今回のiPhone 12は無かった。※ iPhone 12の赤は一般のお店でも購入できる。※ iPod touchにもバーチャルアシスタントSiriが搭載されている。他メーカーでもデジタルプレヤーは出ていたが、iPodではフォスター電機(Foster Electric Company)のイヤフォンを純正の付属イヤフォンとして採用したので良いヘッドフォンをわざわざ購入しなくても最高の音楽が聴けた。音にもこだわっていたApple。スティーブ・ジョブズは神 °˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖° m(゚-゚*)ところで、私は音楽CDは買う派です。決してレンタルはしなかった。初期のパソコンはiThunesがうまく移行せず、パソコンを変える度に音源の入れなおしの必要があったからです。最も一度パソコンに落としたらCDはいらなくなるのでディスクは綺麗なままで保存されています。今はサブスクでしか音源を聴かない人達が増えているようですが、私は音源のCDを本箱に並べているのでジャケットを見るだけでも過去に自分が付き合った音楽が見えて楽しい。そしてジャケットがあるから永遠に忘れる事なく思い出す。サブスクだともし音源が消えたら過去の自分の音楽履歴も失われる。スマホ無くしたら終わりだし、年齢を重ねて行くと記憶も薄れて行くからね。絶対忘れるよ。情報と言うのは聞くだけでなく、目でも捉えてダブルで脳裏に焼き付けた方が良いのです。サブスク頼りにしていると、いつか困る事になるゾと、アナログな事を言いながら、今「Ado」の「ギラギラ」をリピートしながら書いている。「Ado」は基本ネット配信。仕方ないからiTunesから購入。AdoさんはジェネレーションZ(Z世代)を代表する人です。やはり天才が多い?(YouTubeの)ストリートピアノにもはまっているが、Z世代は革命児が多いのかな?記録ツールの変遷(Floppy・MO・Zip・光磁気ディスク・ハードディスク他)パソコンのデータのバックアップは大切です。かつては大容量の記録ができるツールが無く、フロッピー(Floppy)を何十枚も使用した時代もあった。今考えると狂気の沙汰ですねデータの情報量の単位コンピュータでは主に2進数を扱うので2の10乗=1024 が単位1bit(ビット)=8byte/B(バイト)1KB(キロバイト)=1024B(バイト)1MB(メガバイト)=1024KB(キロバイト)1GB(ギガバイト)=1024MB(メガバイト)1TB(テラバイト)=1024GB(ギガバイト) ※ 1024でなく、1000バイトであらわす時もある。解り易いから?フロッピー(Floppy)とフロッピーディスクドライブ(Floppy disc drive)2DD=約720kB(キロバイト) ワープロ用2HD=約1.44MB(メガバイト) パソコン用上のフロッピーディスクドライブ(Floppy disc drive)はUSBが付いているので近年の物。昔のはもっと大きかったしケーブル接続だった?そもそも昔のパソコンにUSBポートなんて無いからね。ZIPドライブとMOディスクドライブZIPドライブ(Zip Drive)とMOディスクドライブ(MO disc Drive)ZIPドライブ(Zip Drive)登場。Zipでも100MB(メガバイト)。MOディスクドライブ(MO disc Drive)登場。640MB(メガバイト)※ MOは光磁気ディスク(magneto-optical disc)の事。ZIPドライブ(Zip Drive)は1994年後半にアメリカのアイオメガによって開発されたリムーバブル磁気ディスクメディア。100MBから後に250MB、750MBの製品が登場するがその頃は他に乗り換えている。やっと外付けの大容量ハードディスクドライブ(hard disk drive/HDD)登場外部補助記憶装置として利用。上の大きい方のが古い 外付け別電源 3TB(テラバイト)=約3000GB(ギガバイト)下のポータブルハードディスク(HDD) 4TB(テラバイト)=約4000GB(ギガバイト)上下共、撮影写真の保存用のみで使用。どれも容量で値段が違います。今は大容量で、しかもサイズも小さくなってきたが・・。ソリッドステートドライブ(Solid State Drive/SSD)すでに大容量の記憶媒体は次世代のSSDに突入。パソコンに内蔵されている標準SSDは240GB(ギガバイト)~ それを容量の大きいSSDにチェンジした残骸が上らしい。写真もらいました専用ケースに入れて外付け用もできる。2~3年前あたりから新型パソコンはすでにハードディスク(HDD)からソリッドステートドライブ(Solid State Drive/SSD)に移行が始まっています。半導体メモリをディスクドライブのようにしたもので、以前のHDDがディスクを回転させて読み込んでいたのと事なりディスクに磁気的に記録するため振動にも強く、消音。消費電力も少なくすむ上に軽量というメリットずくし。データの転送速度はHDDの5倍はあるらしい。技術革新は日々起きていて素晴らしい事だが、デジタル世界に終わりは無いから先端を追っかけるのは大変だー。我々庶民は安価になったら導入。次のが出たら安くなるから一歩遅れてついて行ってる感じかな?※ 今のパソコンはネットだけなら長く使用できますが、パソコンの世代が開き過ぎると、データの移動ができない物もあるので気をつけてください。MD, DVD, SDカード, USBフラッシュドライブ一般の人がお馴染みの小容量の記憶媒体 サイズ比較用ですミニディスク(MiniDisc/MD)光ディスク かつてのカセットテープ代わり? 音楽の録音用に一時期使用。DVD(Digital Versatile Disc)光ディスクSDメモリーカード(SD Memory Card/SD)フラッシュメモリー系 デジタルカメラ、スマホなどで利用USBフラッシュドライブ(USB flash drive)フラッシュメモリー系SDメモリーカードとUSBフラッシュドライブは簡易に持ち運べる大容量フラッシュメモリ。USBフラッシュドライブはそのままUSBに差し込めるので便利。SDメモリーカードはサイズにあったリーダライタが必要。カメラやスマホのSDカードは形が様々。リーダライタは複数形が読み込める物が便利。下は4タイプ付いている。※ パソコン自体にSDメモリーカードの差し込みが付いている場合もある。読み込みの速度はパソコンの能力そしてリーダライタの能力による。それにしても今は何でもUSB接続が一般的になったけど、昔は各社のパソコンに互換性も無かったから接続のジャックとか、コネクターの形は様々。その互換性の無いパソコン同士、またプリンターやファックスなど器具に繋げる為にケーブルも色々購入してきた。今更使用しないだろうケーブル。解る人は解るらしいが、何のコードだったか解らなくなったケーブルの束。お金かけてきただけに棄てるに棄てられないジレンマ。今は逆に貴重?デジタル世界をリードしてきた「ジェネレーシヨンX」以前の人達。彼らに断捨離って無理そう。光ディスク(第1世代~第3世代)10年毎に変革されている。1980年代初頭第1世代のCD(Compact Disc)が登場。1990年に第2世代のCDが登場。従来のCDの約6倍の記録が可能になったDVD(Digital Versatile Disc)は第2世代。※ 1991年ソニーがMD(MiniDisc)を発表するが、これはあまり流行らなかった。いわゆる昔のカセットテープがMDに代わった感じ? 2000年に第3世代CDが登場。青色レーザー(Blue laser)を使用したBlu-rayはここに入る。※ 2005年頃持ち運びできる小さなフラッシュメモリ(Flash Memory)が登場。値段は高価。その主力がUSBフラッシュドライブ(USB flash drive)。写真とか小さなデータの持ち運びに利用しています。値段がシェアを決めるが今は用途で分けられているかも。海外旅行で写真を撮ると一日の枚数も膨大で、しかも最近はカメラの性能も上がりかなり高画質。データは一度デジカメのメモリーからパソコンに落とし、それを携帯している外付けのハードに移動させる。この作業を毎晩行うのが結構大変です。充電の為のコンセントも諸々順番待ちだし・・。 パソコンはもちろん旅行に携帯するデシタル機器もどんどん増えて行く。カメラもニコンなのでそれなりに大きい。電池の予備などもある。キャリーケースがデジタル機器で一杯。そして重い。インターネットの普及インターネットが開発され庶民も利用しだすのが90年代だが、日本では2000年代からやっと本格化。高速通信が可能になった事も大きいが、何より通信費が価格破壊された事が要因だ。90年代でも、日本でのパソコンの普及率はまだ低い。限られた人だけ。ネットが無い段階でのパソコンの用途は限られている。当初はワープロの延長にすぎなかったパソコン。私にとっての初期のパソコンはワープロ代わりと音楽と時々ゲーム。Macintoshではかなりハイレベルな3Dゲームができた。日本ではやっと安価な携帯電話が普及。しかしアナログだ。通信にISDNが開始されるのは90年代末。 アメリカでは93年にはインターネットでピザの宅配が行われていた(カリフォルニアの地域限定)が、その時点で日本の公式ホームページは3件しかなかった。そのうちの一つが首相官邸の写真一枚のせてただけの日本政府。世界の大学がインターネットでつながり始めていたのに日本のネット環境はまだ皆無。「アメリカより8年以上遅れていた」。因みに93年時点、日本のインターネット代は月額30万~80万円くらいしていた。(私、当時調べてました。)ミレニアム(新世紀)になってやっとメモリーが安くなりパソコンも安価になり、通信費も安くなりインターネットは当たり前のツールになってきた。その時にADSL通信が開始。とは言え、古いCPUのパソコン、あるいはハードやメモリの低いパソコンでは使用できなかったから買い直しです。メモリーの数字は一気に上がったし・・。ADSLから光通信の期間は割と早かったような・・。当時は光と言っても遅くて実際の速度はADSLと変わらなかった。パソコン自体の立ち上がりも遅くて、作動するまでに色々用事ができた。ある意味なつかしー。 日本でインターネットが普及したのはソフトバンクが2001年(平成13年)9月「Yahoo! BB」サービスを開始して確か月額2980円? と言う格安通信費を打ち出したから。これがなければ日本の通信費は高いまま、日本庶民のインターネット時代はもっと遅かったはず。孫社長ヾヾ(^-^) ありがとぉ♪ところで、先に「インタネーットだけで日本はアメリカより8~10年スタートが遅れている」と前述しましたが、実は私、93年頃に日本ですでにインターネットを経験しています。日本ではまだ稀少でした。国立ガン研の研究者が独自でインターネットを確立。それが国立ガン研のみならず厚生省からも支持された研究室となっていて、そこで一時期秘書をしていた事があるのです。ネットサーフィンはその時に経験。しかし当時、アメリカのサイトくらいしか見る所もなかった。また当時、アメリカと言えど、サイトは文字多め。企業によっては文字しかなかった。ネットを自宅でしたら幾らになるか? を当時調べたのもそうした理由です。因みに、当時のガン研を利用するインターネットのお値段はA宅→ 国立がん研のサーバーにアクセス → 例えばアメリカの大学のサーバーに接続。A宅の料金は国立がん研のサーバーにアクセスしている時間の電話料金と言う事でした。当時の国立がん研は大学教授や医師などの希望者に無料でアカウントを出していたので私も知り合いの私立医大の教授を紹介。先生曰く、インターネットで通信をしようと世界の医者から言われるけどインターネットて何? と言う世界だったそうで、とても喜んでいました。そして2000年期になって、ようやく私も自宅でISDNを契約しインターネットを始められた。前述したよう2001年にソフトバンクがADSLを使用した格安インターネットサービスを開始。私もすぐに乗り換えた。実はたまたま派遣の仕事でその時にソフトバンクのコールセンターに居たのです。インターネットとはご縁がありありだったのです。さて、2000年期に入り携帯もデジタル化し、スマートフォンも登場。日本は2010年くらいから本格的に普及? この10年で激増したが未だガラ系は高齢者に残っている。私は基本パソコンで処理するのでスマホはラインとゲームと電話のみ。電話はガラの母用です。パソコンを持っていない者はスマホでネット接続。だからスマホ・マスターは若者だったのかもしれない。2020年以前、パソコンよりむしろスマートフォンが主流?スマートフォンでインターネットするのが当たり前のようになった。今はスマホだけで色々できる時代。逆に無いと何もできない不便さ。しかし、スマートフォンが主流だと思っていたが、2020年1月、コロナのパンデミックで時代はまた変革された。会社とお家のリモートによりパソコンがまたバカ売れ。子供の学校や塾もリモートに突入。新しいα(アルファー)世代が誕生するのです。※ X世代、Y世代(ミレニアム世代)、Z世代とアルファベットはZで終わり。次に来るのはギリシャ文字の α(アルファー)となり、α(アルファー)世代になるらしい。デジタル・ジェネレーションX世代(Generation X)の時代先に紹介しているとおり、アメリカではケネディ政権下(1961年~63年)の時代からベトナム戦争終結(1975年)までの時代に生まれた世代を区切りとしている。そして青年期以降にパソコンもしくはインターネットを経験して現在にいたる世代。45歳~60歳以下。世代と経済の互換性を見る図を造ってみた 表1 1940年~1980年初頭しかし、この世代はアメリカに限定される部分がある。日本と同じには語れない。ベトナム戦争(1964年~1973年)の開始から敗北により精神も経済も疲弊していた時代にアメリカで生まれた子供達だからだ。※ 日本は第二次世界大戦(World War II)以降に戦争は無い。しかしアメリカでは再び戦争に突入。その頃アメリカでは親世代の離婚率も上昇している。ベトナム戦争は終わっても時代は代理戦争(冷戦)に突入。アメリカでは徴兵制度があったから、それは他人事ではすまされなかったのだ。カウンター・カルチャー(counterculture)50年代の経済が好調であった古き良き時代を懐かしむ親世代に対して、若者の間では60年代末からヒッピー(hippie)が流行する。一時は一世を風靡(ふうび)するヒッピー(hippie)。位置づけからすればサブカルチャー(subculture)と言えるが当時は反体制的なカウンター・カルチャー(counterculture)として捉えられた。※ counter・・対抗する、立ち向かう、正反対に からcountercultureは既存に対抗する文化。世代が違うから詳しくは解らないが、教会的な倫理に反した自由奔放な生活や生き方をして既存の体制に反逆した若者達だ。アートはサイケ、ファッションが独特で男性でもロン毛でヒゲを生やしアクセサリーをジャラジャラ? ドレープのあるローブのような長い羽織をしたり、今の目線でオシャレではあったが総じてアナーキー(anarchy)な印象がある。実は叔父に1人いた。小汚いカッコと叔母に言われ、お金はかかっているんだ・・と反論していた叔父。流行が過ぎると叔父はハイソサエティー相手のアクセサリーのデザイナーになった。そして今は行方不明です。(。>﹏<。) 自由すぎだ。話しは戻って、叔父もそうだが、日本の場合は一過性の流行の域を出なかった? 本気の人は今も貫いているかもしれないが、たいていの人はすぐに次の流行に乗った。因みに第一次ブランドブームが起きたのも70年代だ。つまり日本では思想よりもスタイルとファッションが真似されただけ? 日本での半体制派は学生運動の方に目立っているかも。だから日本とアメリカは違う。アメリカのヒッピー(hippie)の特徴はベトナム戦争の徴兵をのがれた若者が多かったと言われている。だからここから反戦活動も始まっている。Generation X は幼少期に彼らを見ているわけで、ヒッピー(hippie)である自由主義な親に翻弄された世代でもあるかも・・。私の記憶は70年代以降であるが、こうして振り返ると新しい世の中に新しい思考の人達が集まってワサワサしていたアナログだけどユニークな時代だったのかも・・。自分はGeneration X に入ると思うが、確かに「何でも許容できる振り幅あり」の世代かもしれない。それは先のように当時の社会環境が育てたのかも? 同性愛にしたって、私は普通に肯定派。同じ人間同士、なぜ悪い? 逆に肯定派でも「それを個性として肯定する人」はどうかと思う。「好き」な気持ちに理屈をつける必要は無いからだ。考えはシンプルで良い。・・・と思っている。そもそも論議する必要性も無い。カトリックの教会的にはあるのだろうが・・。最近流行のようにジェンダーレス(genderless)が来ている。ジェンダーレス(genderless)は男女の性差による環境が取り払われた世界と言える。すごく良いと思う。流行にしてほしくはない。これが当たり前の世界観にこれからきっとなるだろう。Generation X 自体がすでに理解ある世代なのかもしれない。言われればホイホイ信じちゃう? 納得しちゃう? ところもあるかも・・。それが良いのか悪いのか? は別として・・。Y世代(Generation Y)の時代1981年頃~1990年台後半頃までに生まれた世代。デジタル社会となった2000年代以降に成人を迎えた世代だからミレニアム世代とも。現在40歳~20代半ば。表2 1980年~2021年現在バブル期にパソコンが一気に進化と同時に売れたのだろう事が想像できる。アメリカより遅れる事、日本にデジタル社会が到来するのは、ほぼミレニアムからと言える。インターネットの通信の環境が整うのがこの時期だからである。それにしてもジェネレーションXは高度成長期に生まれて、バブル経済期に成人しているので最もラッキーな世代かも。一方、ジェネレーションYはバブル期に生まれてはいるが、成人する頃にはバブル崩壊後の不景気でつつましい生活をよぎなくされた世代かもしれない。特にジェネレーションYの後半に生まれた者は親が不景気の時代に幼少期をすごしているから尚更だ。この図を見て思うのは、インターネットに真っ先に食いついたのはジェネレーションXだったのではないか? と言う事。特に彼らはバブルを経験しているので不景気でもひるむ事なく欲しい物を手に入れたと思う。そしてジェネレーションZは、そんなジェネレーションXの子供世代である。何でもそろった環境を与えられた最も良い世代かもしれない。彼らの将来は明るい。新しい未来を造るのは彼らなのだろう事が間違いなく予想される。ジェネレーションY 現在26歳の甥のケース6歳の誕生日に子供用PHS(携帯電話)をプレゼントしたらSNSで20歳の男性からナンパのメールが来て笑った。甥は早めだったが、それでも彼らの時代携帯電話は中学時代(2007年)クラスのかなりに普及していた。ただ画像を送ると高額料金を請求される時代であったから使用に制限がかなりあった。パソコンに関しては、自宅のパソコンに触れる程度。今ほどに学校にパソコンは普及していなかったと思われる。パソコンの値段はまだ高かったから家でもあまり触らせてもらえなかったかもしれない。中学の入学祝いに電子辞書を贈った。辞書は完全に本からデジタルに移行していた世代だ。書物離れが加速するのも解る気がする。彼らはパソコンこそ触れていないが、電子辞書と言うツールで検索はしていた。デジタル機器の取り扱いは思っているより慣れた世代かもしれない。自分の信じた道をきちんと構築して進学、就職と勧めてきた甥は頭の良い子。彼は中身的にはジェネレーションZに近いかも。ジェネレーションYの学力ただ、懸念するのは彼らが完全に「ゆとり教育」世代だと言う事。「ゆとり教育」の弊害は、確実に日本全体の学力レベルを落としたと言う事。甥のように親が気づかい塾に通っていた子とそうでない子の学力差はかなりだ。できる子にとって公立の学校は、満足できなかったろう。日本では横並び教育が推奨されてきた。ダメな子が落ちこぼれないように標準が下げられる。だから頭の良い子は先に進めない。天才が生まれない土壌。むしろ天才を疎む土壌があるように思う。日本を造り牽引するのは標準の子では無いと言う事にいつ気付くの?天才をたくさん育てて日本に貢献してもらわなければならない。その天才がたくさん出てきているのが「ジェネレーションZ」かも。Z世代(Generation Z)の時代1990年後半頃~2012年頃に生まれた世代。とは言えGeneration Yとの端境期(はざかいき)は微妙。※ 1990年以降とする分け方もある。私が分類するなら、バブル経済の終わりに生まれた世代かな?現20代前半以下から小学生くらいまでの若者。彼らが今、時代の先端を行く? 注目のジェネレーションZ(Generation Z)である。※ 小学生(9歳)以下は次の世代にカウント? α(アルファー)世代。ジェネレーションαが決まっている。おそらくリモート世代に分類かな?とにかく生まれた時からデジタル・ネイティブで、スマホ・ネイティブでSNSネイティブ。彼らジェネレーションZの大半がジェネレーションXの子供の世代。先に紹介しているようインターネットに真っ先に食いついたジェネレーションXの子供達と言うのが特徴と言える。「独特の感性を持つとも評される彼ら」当然である。私たちがかつて見ていた未来の中に生まれているのだから当然世界の感じ方も違ってくる。このボーダレスなグローバルな世の中しか知らない彼らだから、最初から日本だけなんて眼中にない。目の前にあるのは地球全土だろう。壮大な世界の中で自由に生きていこうとする彼らがうらやましくて仕方が無い。ある分析によれば、彼らは「恐怖・リスクを避けて、安全・安心を求める」とされているが、これはGeneration Yの分析のように思う。生まれた年代を1990年初頭とするか? 終わりとするか? で違いがでたのではないか? と思う。Generation Xの子供達であるならば、何も怖い物は無いのではないか? 好きな物に飛びつく。そして実行する。目の前には自分の想像した世界が広がっている。その実現が彼らには可能。そんな自信に満ちた世代と感じられる。何より親が子を信じて応援している世代だ。子供の頃から諸々、英才教育を受けてもいたはず。それはGeneration Zの親(Generation X)は先に紹介したよう高度成長期に生まれて、バブル経済期に成人しているからだ。お金が無くても子供の為に自分の時以上に可能性を与えたいと願ったのではないか? と思うからだ。そう言う意味でGeneration Yとの違いは、親自身の経済的背景が端的に表れているのではないか? と推察する。私の造った表を見てね。最後にインターネットにまつわる伝説を一つ紹介グリニッジ(Greenwich)のコーヒーサイフォンインターネット事初めの伝説があります。私は雑誌か何かで読んだのか?初期のインターネットは写真一枚、あるいは文字しか無いと言うのがほとんど。そんな中で唯一UPされていた動画がイギリスのグリニッジ(Greenwich)の研究室に置かれたコーヒーメーカーだったと言う。普通にサイフォンにコーヒーがたまって行く映像がずっとカメラで撮され流されていただけ。でも、そんな映像を見た世界の人から「コーヒーが出来ていますよ。」と言うメールのお知らせがたくさん届いたと言う。私も無い時代にネットサーフィンしているから解る。画像は飛びつきますわ。皆さん敢えてグリニッジのコーヒーを監視していたと言うのも解ります。写真はかろうじて・・だろうけど映像は全く無かった時代ですから。その頃から考えると本当に未来に来たようです。インターネットの機器の変遷。自分も整理しておいて良かったです。おわり
2021年08月24日
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ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂のジオラマの写真追加しました。尚、誤字の他に若干の書き換え修正もしています。今回は「福者」の説明を書き足すだけの予定でしたが、いっそ過程から・・と「迫害」、「殉教」、「異端狩り」、「聖遺物収集」、「聖人」など書いている間にどんどん盛り込まれ、本来、キリスト教史に関する補足的な説明回の予定でしたが、気付けば非常にマニアックなネタの集合となりました。本来5本くらいにバラして載せてもよい内容の物をまとめて掲載しています。それぞれに時間かかってます。いつもよりさらに長いかも・・。写真は「殉教者記念堂(martyrium)」となるヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の写真を軸に構成しています。個人的なサンピエトロ大聖堂の謎も見つけて入れ込んだりしていたので聖堂の方も盛り沢山さんです。また、「聖遺物収集」や「聖人」については他からも写真を引っ張っています。中世の聖遺物収集や聖遺物容器などカトリック教徒の方でも知らない人のがほとんどでしょう。興味を持って追わないと集められないレアな聖遺物写真載せています。それにしても、例によって書いているうちにどんどん違う方向に進み内容も増え、着地もタイトルも二転三転。当初はラベンナのサン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)も載せる予定でしたが、サンピエトロ大聖堂の内容が増え過ぎてカットしました。2回目のワクチン前に出せず、辛さ2倍でワクチン後2日完全休息。今回もお待たせしましたm(_ _)m聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂副題 使徒ペテロの殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)キリスト教の発展と殉教と異端 神学的異端? 帝国が動乱するとキリスト教徒との関係悪化 二人の皇帝による迫害 皇帝の都合による迫害中止 キリスト教公認後の異端者狩り ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano) 迫害と殉教聖人のハウツー(how-to)本?「黄金伝説」殉教者信仰が生んだ殉教者記念堂マルティリウム(martyrium) 殉教者記念堂マルティリウム(martyrium) 殉教者信仰から聖遺物収集に 聖遺物からの免罪符問題 聖人の仕分け遺物のロッジア(Loggias of the Relics)聖人と認定されるまで(神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人) 殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr) 証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor) 列聖の審査 プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel)聖なる扉(Porta Santa)キリスト教の発展と殉教と異端以前少し触れたが、キリスト教徒の迫害は当初はユダヤ人の憎悪による抗争から始まった。※ ペンテコステからパウロの布教のあたりについて「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」の中「異教徒に広がるキリスト教 ペンテコステの日の奇跡」で書いています。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)信徒らの布教によりキリスト教が拡大する中で当然、摩擦は起きるし殉教者も出たであろうが、地域的に単発に起きていた程度で、最初はそれほど多かったわけではないそうだ。何しろ当時のローマ帝国は多神教。帝国は広域だったのであらゆる民族の宗教を認めてきていたから当初ローマ帝国からの迫害は無く、ほぼ単発の民衆迫害がある程度だったらしい。2世紀になると異教から改宗した支持者も出だし教養あるギリシャ人の信者が増え始めていた。徐々に完成されつつあった教会組織は、3世紀初頭、数はまだ少ないもののパレスチナ、シリア、小アジア、イタリア、北アフリカにまで広がり、さらにその世紀にエジプト、ヒスパニア、ガリアで教会や司教の存在が確認されるまで拡大していた。※ この時点ではまだキリスト教徒はローマ帝国から放任されていたから組織は安定? 教会の建築など文化も生まれつつある。迫害による殉教が増えるのは、3世紀後半のローマ帝国による直接的な迫害であったが、他にもキリスト教徒の増加に比例して増えた部分もあった。西はローマ、カルタゴ、東はアレクサンドリア、アンティオキア、エフェソスにある教会がそれぞれの地域を統括するべく司教座が台頭。それらは独自の考えを持ち、司教座間の教義上の主張点にズレも出てきていたが、少しずつ着実に地中海地域での改宗がすすめられていた。※ 布教がカルタゴまで広がると信仰や典礼に使う言葉はギリシャ語、アラム語に加え、ラテン語が加わる。その中でもパレスチナのアンティオキア(Antiochia)や北アフリカのアレクサンドリア(Alexandria)は初期のキリスト教の拠点となって行った。アンティオキア(Antiochia)は使徒パウロ(Paulos) (BC10年頃〜65年頃)がギリシャやアナトリア方面への伝道の拠点にしていた古くからの国際都市。初期キリスト教の基盤造りから貢献している。アレクサンドリア(Alexandria)はギリシア教父のオリゲネス(Origenes)(185年頃~254年頃)が私塾のキリスト教学校を開設しアレクサンドリア学派の拠点を造った都市。こちらは思想の観点からキリスト教を理解しようとした神学者の拠点となった。オリゲネス(Origenes)は初期のキリスト教神学、弁証学、禁欲主義において最も影響力のある人物(神学者)で神学他複数の分野で約2000の論文を著したと言われる。キリスト教の発展に特筆すべき人物であると思うが、死後に異端の疑惑をかけられ多くの著作が処分されている為か? 評価どころか、知名度も低い? 彼は聖書を「神の霊的真理」とプラトン派の哲学者の立場からアプローチして解釈してみせた。キリスト教は哲学的な宗教であると彼はキリスト教をただの宗教から神学に高めた人物と言える。※ これにより多くの教養あるギリシャ人がキリスト教を高く評価するようになったのは確か。神学的異端?「父・子・聖霊(せいれい)」の三位(さんみ)をどう解釈するのか? それこそキリストを人として捉えるのか? 神として捉えるのか? 最初の一歩で後の理論は大きく変わる。論争は永遠に続くのか? 解釈しだい? 正統派とされない考えは即「異端」とされた。それは時の皇帝の考え方にも影響し「正統」は変化した。だから、紙一重の所に常に異端はある・・とも言える。帝国が動乱するとキリスト教徒との関係悪化帝国の四方からのゲルマン民族など異民族の侵略が始まる「3世紀の危機」。帝国側も動乱状態で半世紀で70人の皇帝も現れた。そしてまたも疫病の発生による戦力の低下に加え、無能な皇帝による経済政策の失敗。そして財政難。※ コンスタンティヌス1世(Constantinus I) (ローマ皇帝在位:324年~337年)の経済及び金融改革まで経済危機は続く。このローマ帝国の低迷の危機に比例して帝国とキリスト教、両者の関係は悪くなって行く。なぜなら逆にキリスト教は信者を増やし、財源も確保。ローマ教会では財産も資金も豊富にあった。また先に紹介してたよう知識人層から浸透していたキリスト教は、この頃農民層にまで及んでいた。※ 農民の人口は帝国の9割。特に北アフリカでは禁欲的な修道院が支持を集めていたそうだ。だが、地方と都市でその信仰の解釈には開きもあったらしい。二人の皇帝による迫害251年~256年にカルタゴで開かれた司教キュプリアヌス(Cyprianus)(200~210年~258年)による教会会議は、この組織がもはやローマ帝国の中で他の追随を許さない教団になっていた事を知らしめた。デキウス帝(Decius) (201年~251年)による迫害はこれに起因する。つまりローマ帝国の中で拡大し始めたキリスト教徒と力を持ち始めていた教皇を牽制(けんせい)する為に全世界規模でのキリスト教抑圧に着手したのだ。実際、257年には教会の財産と統率力を狙いアレクサンドリアの司教ディオニシオス(Dionysius)とカルタゴの司教キュプリアヌス(Cyprianus)が逮捕、追放され逆らったカルタゴ司教キュプリアヌスは258年殉教した。因みに 司教ディオニシオス(Dionysius)(200年~268年)の方は迫害が収まった翌年(259年)、すでに殉教していた前教皇に代わり第25代ローマ教皇に即位(在位:259年~268年)している。303年まで続く信仰寛容令もあり、ローマ教会の再建を背負ったものの秩序と平和が保たれた治世で彼は殉教せずに亡くなった最初のラッキーな教皇となった。同じような事をしながら極端に明暗が・・・ディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)の迫害は痛かった。彼はテトラルキア(tetrarchia)を考案し、軍人皇帝時代を収拾し3世紀の危機を乗り切った策士とも言える皇帝だ。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の所「農業形態の変化と停滞したローマの再建」でも触れているが彼の時代、辺境出身者が増え、軍の将校にも異民族がいる時代となっていた。もはやローマらしさもラテン語さえも薄れてきていた。だから彼は帝国を結束させると言う理由で古来ローマの神々への礼拝を義務として再興させている。キリスト教徒限定ではなかったが、やはりキリスト教徒の反発が目立ちキリスト教徒迫害の時代になった。彼の直属の部下から聖セバスティアヌスが誕生している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック※ 聖セバスティアヌスについては次項 「聖人のハウツー(how-to)本? 「黄金伝説」」で書いています。皇帝の都合による迫害中止テトラルキア時代の東方ではガレリウス(Galerius)(在位305年~311年)東方正帝が死の直前キリスト教の神に救いを求めたと言う。そして彼は迫害の終結のサインをしたそうだ。一方西方ではマクシミアヌス(Maximianus)(在位286年~311年)西方正帝とコンスタンティウス(Constantius)(在位305年~306年)西方正帝で主導権争いが起きていたので迫害は中止された。ライバル、マクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)をローマ近郊ミルヴィオ橋でやぶり勝利するとコンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)は帝位に就いた。※ この事は「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中「ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略」で詳しく書いているが、彼はキリスト軍として勝利したことになっている。リンク クリスマス(Christmas)のルーツ実際、本当に夢のお告げがあったかは定かでないが、神の好意があったとしてコンスタンティヌス帝はローマの教会に莫大な寄進をしている。そして、ローマのペテロ(Petros)ら殉教者の墓地に壮大なバシリカ聖堂の建設が始まった。キリスト教公認後の異端者狩りキリスト教をローマ帝国が公認した時に、時の皇帝コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(270年代前半~337年)は教義の統一を図る為に325年5月第1ニカイア公会議を開催して全ての教会を集めている。同じキリスト教徒であっても、教義の解釈は様々だったからキリストの誕生日、命日など典礼、聖職組織、信者の倫理、入信者の為の問答集など作られ、全認識の教義の統一及び調整に向けられた。つまり、共通のマニュアル造りをしたのである。それはローマ、カルタゴ、アンティオキアなど地方毎の大都市の拠点となる教会で進められ、特に教義の元となる聖書50冊とその解説書はアレクサンドリア教校が担ったらしい。ローマ帝国主導でキリスト教の教義が一本化されたわけだが、「はい解りました。」と皆簡単に決まったとは思えない。どうしても譲れないカ所は、どこの教派も相当数あったのではないか? と思われる。ほとんどが、しぶしぶ新しいテキストを承諾したのだろうと想像する。実際、キリスト教からかなり離れた怪しい派(異教とのミックス)も存在していたと思われるが、そうした所は改変を拒否すれば当然異端として厳しく取り扱われる事になる。異端では無いと信じていたのに異端として扱われたキリスト教派も相当数いたと思われる。※ 以前、秦氏の所で触れた景教(ネストル教)は教義の統一を受け入れ無かった為に異端として排斥されローマ帝国を出ている。 それにしても、この早い段階でのコンスタンティヌス1世による教義の統一があったからこそ基盤と組織がしっかりした宗教となり、キリスト教は世界宗教になれたのだ。それには多少ローマ帝国主導の創作もあるにはあったが、今となっては、コンスタンティヌス1世の先を見据えた政治戦略の成功例だったのでは? と思う。ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)ここは聖ペテロのお墓の上に建立された殉教者記念堂(martyrium)が始まりで大聖堂に発展した。旧聖堂は326年頃建立。典礼を行うための教会堂ではなく、あくまでペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設されたものであるが、これをローマ皇帝が協力して造ったのである。まだキリスト教が公認されたとは言え帝国の国教にはなっていないのにだ・・。※ キリスト教が正式にローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世(Theodosius)(347年~395年)の治世392年。キューポラ(Cupola)手前、聖堂のファサード(facade)を飾る聖人像 右、イエス・キリスト 左、洗礼者ヨハネ たぶんファサード上部には13体の聖人像。ファサード下の手前右にパウロ像、左に聖ペテロ像が置かれていてる。サン・ピエトロ大聖堂の高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737㎡。大聖堂隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などが連なり「バチカン市国」と言う国としてユネスコの世界遺産文化遺産に登録されている。因みに洗礼者ヨハネも聖パウロも12使徒(しと)ではない。が、聖パウロは12使徒の活動以上に、キリストの教えを理解し、まとめ記し、後世残る宗教としてのキリスト教の基板を整え、キリスト教をユダヤ人以外の民族にも広げた重要な人物なのです。彼の存在なくしてローマの国教に抜擢される事もなかったろうし、まして世界展開など考えられなかった。・・と言う意味で聖パウロは重要な使徒なのです。※ 「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」の中、使徒(apostolos)パウロの伝道で詳しく書いています。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)※ 洗礼者ヨハネについては「クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)」の中「荒野の修道士バプテスマのヨハネとキリスト」で少し触れています。リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)広場中心にオベリスク。それをはさみシンメトリーに噴水が配置されている。下の写真はウィキメディアから借りたサンピエトロ広場ですが、広場メインに紹介したかったのでサイドを少しカットしています。正面通路がテヴェレ川にぶつかった左にサンタンジェロ城があります。ヴァチカンからサンタンジェロ城まで秘密の通路があり教皇の緊急避難用に使われていた。テヴェレ川(Tevere)とヴァチカンの丘にはさまれた平原アゲル・ヴァテイカヌスは元々非衛生な湿地だった所。しばしばテヴェレ川も氾濫しては犠牲も出すので人が住む所ではなく墓地が延々と連なる他はその墓地に沿って皇帝らの競技場があったていど。コンスタンティヌス帝による大聖堂の建築はこの地域の振興に役立ったと言う。民家が寄り、1世紀後には修道院が集まって来た。8世紀にはアルプスの北から聖ペテロと殉教者の墓への巡礼者が押し寄せ宿泊施設もできた。カロリング家の協力で、この地区は新たに廟(びょう)や礼拝堂が建立される。カール(Karl)大帝(742年~814年)は2度目のローマ滞在を記念して宮殿を建て献上したらしい。しかし、ここはもともとアウレリアヌス城壁の外である。846年サラセン人による大聖堂とこの地区の襲撃と略奪を受け、教皇レオ4世(Leo IV)(790年?~855年)はサンタンジエロ城から大聖堂一帯に壁を構築。大聖堂中心に囲まれたこの街は中世を通じて「レオの都市」と呼ばれるのだが、これがヴァチカン市国(Vatican City)の原型である。ヴァチカン公式の本から。下はサンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)とサン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)聖堂前のサン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)の設計で1656年~1667年に建設された。4列のドーリア式円柱による列柱廊と140体の聖人像に囲まれた広場の中央にオベリスクが立つ円形の広場となっている。下はヴァチカン内のジオラマより下は聖堂前からの広場広場は典礼前、準備がすすめられている。今日、世界のキリスト教徒の最大の巡礼地の一つとなっているが、現在の聖堂はルネッサンス時代、バロック時代を通して改築され17世紀に完成したもの。ルネッサンス時代はブラマンテやラファエロ、ついでミケランジェロも建築主任となっている。※ ラファエロはアテネの学童の壁画の中に自身とミケランジェロも描き込んでいる。※ ミケランジェロは聖堂のドームだけでなく、システィナ礼拝堂の天井画含め壁画にも参加しているが、最後の審判の図の中に自身の抜け殻となった皮だけ描き混んでいる。今回はシスティナ礼拝堂まで載せていませんが、何かしら爪痕が残されているのを探すのも面白い。リンク ヴァチカンとシスティナ礼拝堂迫害と殉教ところで、キリスト教がローマ帝国の国教になると迫害は形を変える。迫害される側から迫害する側にポジションが移動したからだ。※ キリスト教が認知されたミラノ勅令以降、他信徒の異教の神殿が攻撃され、キリスト教の教会に変わって行く。問題なのは、キリスト教徒による反キリスト者(異教徒)狩りのみならず、キリスト教徒同士なのに因縁を付けて迫害の対象とした中世の魔女狩りは、もはや他信徒からの迫害よりも酷く残虐になっていく。つまり他信徒からよりむしろ同教徒からの攻撃が増えるのだ。以前「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)」の冒頭で紹介しているが、記号論哲学者で、中世研究者でもあるウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の小説「薔薇の名前(Il Nome della Rosa)」はミステリー小説に位置づけられるのだろうが、明らかにこれは中世の異端狩りの恐ろしさを伝えている。紙一重? 真の聖者であったとしても、誰でも簡単に異端者にされる時代もあったのだ。٩(๑º﹏º๑)۶怖ぃ~※ 小説は難しいが、映画にもなっています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)それにしても、迫害の時の信者の態度はその場と後において2度明暗が分かれたらしい。あくまでキリスト教徒として抵抗をした者は獄中にいても、またたとえ殺されたとしても英雄視され殉教者となったが。迫害怖さに信仰(キリスト教)を一時的にも棄てた者は、その後に教会に戻る事を簡単には許されなかったし、終生裏切り者の烙印が押される事になった。因みに、ローマ帝国に対して「単に逆らった」だけなのに英雄視され聖人のように扱われる事象も増えたらしい。誰が尊者か? 教会管理上の大きな問題に発展。そもそも地方発の聖人は正式な記録もなく、伝承のみで実在かも不明? 出自があいまい。地方の小さな教会では教皇庁の許可もなくかってに聖人として祀っていた、御当地聖人も多かったと思われる。殉教者が必ずしも聖人になれるわけではないが、中世はすでによく解らない聖人がたくさんあふれていた? のかもしれない。だから13世紀に発行された「黄金伝説」はその時点での聖人を明確に世に示した書だったのかもしれない。聖人のハウツー(how-to)本? 「黄金伝説」ハウツー(how-to)本と言うほど簡略な本ではないが、キリスト教で崇敬されている諸聖人の伝記がまとめられ、聖人を知るならこれしかないと言う本が「Legenda sanctorum」or「Legenda aurea)」である。日本訳で「黄金伝説」と訳されているが、「伝説の聖人」の方が意味はわかりやすいかも・・。1267年頃、中世イタリアの年代記作者でジェノヴァの第8代大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine)(1230年? ~1298年)はキリスト教の殉教者や聖者を記た「黄金伝説」を執筆した。ラテン語散文で記され第1章 主の降臨と再臨から始まり第176章の献堂式まで聖人たちの伝説の他キリスト教の祝祭日など織り交ぜて書かれている。日本語訳され一部聖人が抜粋されたヤコブスの「黄金伝説」を私も持っているが、聖人と呼ばれる人物の行動や生活。いかに殉教に至るのか。また殉教後の奇跡の話しなど1人1人かなり詳細に語られている。原本は見ていないが、ざっと数えて聖人だけでも170人くらい載った伝記物となっている。13世紀に執筆された同書は中世以降最も流布した本の一つとされるが、ここに記されている一言一句を全て真実として受け止め、カトリック教徒は祀ってきたのだろう。おそらく、唯一の聖人の解説書であり「黄金伝説」登場の聖人はこの本により確実に定説化されたと思われる。作者の創作はなかったのか? この本の取材のネタ元はどこなのか? と、いつものクセで疑問を持った。が、それは聖セバスティアヌスの件で理解した。おそらく、ミラノと同様に、それら諸聖人の地元の教会から上げられた聖人伝説を集めて編纂(へんさん)したのがジェノバの司教ヤコブス・デ・ウォラギネだったのだろうと思われる。そこには確かに良い意味でヤコブスの創作もあったかもしれない・・と思う。物語性もあるのでこれを愛読書にしたカトリック教徒は星の数ほどいただろう。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で撮影した聖セバスティアヌス以前ポルディ・ペッツォーリ美術館でも紹介している絵です。写りの関係で再び使用しましたが作者不明です。彼はディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)の迫害の時の被害者の1人。聖セバスティアヌスはディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(在位:284年~305年)とマクシミヌス(Maximinus)帝(在位:308年~313年)の両皇帝に気に入られ、ローマ軍の第1歩兵隊の指揮官をしていたミラノ出身の実在の人物。当時のローマ帝国はキリスト教徒の拡大を恐れ迫害に転じていたので彼は敬虔なるキリスト教徒ではあったが、隠れキリスト教徒であったのかもしれない。また2人の皇帝のお気に入りである。美形だったのかもしれない。だから? 聖セバスティアヌスの図像は必ず若い美形で描かれている。それ故、人気の聖人なのだろう。ディオクレティアヌス帝は彼がキリスト教徒であること知ると矢で射る刑を与えた。沢山の矢を受け、ハリネズミのようになったがそれでも死ななかった。再びディオクレティアヌス帝の前に現れると帝に説教したので今度は棍棒で打たれて殉教したとされる。※ この伝説のベースに関しては、ミラノ司教の聖アンブロシウスが大いに係わっているらしい。ところで、近代文学の作家、芥川竜之介(氏)がこの「黄金伝説」について座右(ざゆう)に備えておくべき本として紹介しているそうだ。そう言ってから氏はすぐに自殺した。殉教と自殺は天と地ほど違うのに・・。ついでに同じく作家の三島幸夫(氏)が恋がれたグイド・レーニ(Guido Reni)の聖セバスティアヌスも紹介。下の絵はウィキメディアからですが・・。グイド・レーニ(Guido Reni)(1575年から1642年)はラファエロ風の古典主義的な画風のボローニャ派の画家。彼の作品はキリストにしても美しい。聖人像のどの作品も色っぽい。兵士であった事から兵士の守護聖人ではあるが、イタリアで黒死病が流行した際、パヴィア地方にある聖ペテロ教会で聖セバスティアヌスの祭壇を建立すると流行が止ったと言う事から黒死病から信者を守る守護聖人にもなった。殉教者信仰が生んだ殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)殉教(Martyrdom)とは、己の信仰を全うするが故に、迫害などで命を落す事をさす。殉教者はその当事者だ。そもそも当初の殉教者は初期キリスト教で布教と言う重要な役割を果たした使徒(しと)に向けられたものだった。※ キリストの12使徒の他、使徒パウロあたりまでをカバー?だが、時代が進み、キリスト教の迫害時代を経てローマ帝国の国教になるまでの間、キリスト教徒として命を落とす者が増え続けた。要するに殉教者としてカテゴライズされる者が増大したのだ。※ 新大陸やアジアへの宣教師による布教が始まると殉教者はまた増加。キリスト教の信徒として、義を貫いて命を落とした者は礼讃(らいさん)され、殉教者として祀られるようになると言う殉教者信仰なるものがあるのだが、それは当初から存在した。キリスト教の最初の殉教者となったステファノ(Stefano)(生年不明~35年または36年頃没)から始まる。エルサレムの北部、郊外にあった彼の墓地には多くの巡礼者が集まったらしい。最も公式にステファノの墓が定められたのはキリスト教がローマ帝国の国教に制定(392年)された後の415年である。殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)2世紀頃のキリスト教会ではすでに尊い活動、あるいは迫害により命を落とした者を殉教者(じゅんきょうしゃ)とし、またその者の遺骸や遺物の上に墓を立て、崇敬すると言う事が行われていた。※ この時点で聖人の定義はまだ定まっていない。殉教者を葬った場所には小さな礼拝所が設けられた。それは後にまわりに堂ができ教会で覆われたりするのだが、当初はシンプルなモニュメントのような廟(びょう)であったようだ。ラテン語でマルティリウム(martyrium)と呼ばれた。(日本語訳では殉教者記念堂)※ 英語にするとマルティリウム(martyrium)はマーティダム(martyrdom)。それはなぜか「殉教」とか「苦難」そのものの訳語となりラテン語の意味とは異なるのである。(・_ ・。)? ※ 現在マルティリウム(martyrium)自体が建築用語となっている。最古の物がヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)、中央祭壇の下から発見されたと言う。その殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が下のようなもの。現物写真は無い。もともとサン・ピエトロ大聖堂の場所(アゲル・ヴァテイカヌス)は120年~160年頃には墓地が広がっていた場所。殉教した12使徒のペテロが葬られた場所に殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が造られたのが最初? なのかも。コンスタンティヌス1世は敢えてその上に旧サンピエトロ聖堂を築いたのだろう。※ 聖堂中心の地下が聖ペテロの墓とされている。そしてキリスト教がローマ帝国で公認される313年以降、そうした殉教者の墓の拝所は少し大がかりになり堂で覆われた礼拝堂となっていく。これら殉教者を祀る為に造られた記念礼拝堂そのものが、ラテン語でマルティリウム(martyrium)となったようだ。ところで、これを殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)と解釈して良いのか解らないが・・。サンピエトロ大聖堂左翼 中央にあるのが聖ヨセフの祭壇(Altar of St. Joseph)である。マリアの夫、聖ヨセフ(St. Joseph)に捧げられた祭壇とされ、キリストの父とはされていない。実は祭壇に置かれている古代の石棺には、使徒シモン(Simon)とユダ・タダイ(Jude Thaddeus)の遺物が入っていると言う。使徒シモンもユダ・タダイについても、実は伝承のみで詳しい記録は残っていないらしいが、ペルシャで殉教したのではないかと考えられている。さらに伝承では彼らの遺骸はペルシャからローマに運ばれ、現在のサン・ピエトロ大聖堂の場所に埋葬されたらしく、後年その遺物が納められた? と聞く。そう、公式にヴァチカンが公言しているのだからこの祭壇も殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)に入るのかな? と思ったのです幼児キリストを抱く聖ヨセフ。左に大天使ガブリエル?絵はAchille Funiにより1961年に書かれ1963年にモザイクで製作されている。実はこの記念堂は割と新しい? ヴァチカン内の絵画類は順次モザイク画に置き換えられています。殉教者信仰から聖遺物収集に2世紀半ばのおそらく最古とされる記録であるが「ポリュカルポスの殉教録」では、殉教者を「宝石よりも貴重で黄金よりも価値がある。とし、その遺灰を拾い集め、埋葬し、命日には集会を開いて故人を祈念した。」と、あるらしい。この理念は以降、欧州各地に広がり、教会はこぞって誰かしら聖人の遺物を欲しがり、持つに至るのである。これが聖遺物収集の発端か・・。聖遺物収集については、すでにあちこちで書いています。リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)聖遺物信仰も少しカルト的です。聖人の遺骸を持った聖堂は勝ち組です。遠方から聖人を拝みに巡礼者が殺到するので教会は潤うからです。10世紀以降、聖人の遺体自体が容器に入り聖堂や廟に移される。また聖人の遺骸は分割され頭部や腕など細かくなった遺物は装飾性の高い聖遺物容器に移される。例え指1本でも聖遺物と言うお宝になったのです。因みに中世「聖遺物コレクション展」なる催しも開催され地方から巡礼者を集めています。需要があるので聖遺物を集めるブローカーも存在しています。全部、怪しいけどねミュンヘン・レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)からヴィッテルスバッハ家のコレクションは初期キリスト教の神聖な遺物として認定されたお宝です。普通、こう言うものは撮影できないのですが、レジデンツは太っ腹です。しかもこれらは巨大金庫の中に納められている展示品です。(金庫の中で撮影してます。)私が見た中でもこれだけ大量に有したコレクションは始めてです。※ 以下に他にも紹介しています。リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)当時はまだ高価なガラスと宝石が散りばめられた聖遺物箱(Reliquary)に入れられて飾られたのです。そうなると何が変わるのか? 聖遺物は持ち運びがたやすい動産となり欧州中の各教会に普及するのですが、同時に盗難にも遭いやすくなったそうです。盗んだお宝をしれっと飾る教会もあるわけで、聖なる宝を盗むなど何事か? と思うかもしれませんが、「聖人がうちの教会に来る事を望んだ結果だ。」と言われれば「そうなのかな?」と言う解釈もあるそうで笑える最も当事者の教会にとっては死活問題ですから奪い合いです。聖遺物からの免罪符問題かくして、教会は聖遺物を集め、巡礼者を集めたがった。巡礼者もそんな聖遺物を拝みに出かけた。それは中世後期には異常な高まりをみせるのです。なぜか?聖遺物を拝みに行く事でポイントがたまったのです。何のポイントが?死後、天国に行く為の免罪行為として利用されたからです。※ 実際のスタンプではなく、自分の中にある自分の善行としてのポイントです。聖遺物を拝む事で過去にしでかした自分の罪がチャラになる。そんな風に言われて多くの聖遺物を見れば善行するより楽勝。だからたくさん聖遺物が集まるコレクション展への人々の巡礼はハンパなかったようです。コレクション展は大行列だったらしい。当然、そこには入場料? あるいはお布施が存在していたわけで、免罪ポイントを結局お金で買った事になった訳ですが・・。私も俗人、行ったでしょうね※ 免罪符についてまだ完全なのを書いていませんが、興味のある方は参考として以下見てください。リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家リンク 2013年ハロウィーン(Halloween) 1 (煉獄思想とジャック)煉獄思想が免罪符問題を造り、そこに教会のお金集めが乗っかり、結果宗教改革の革命が起きるのです。キリがないのでこの辺で・・。それにしてもよーく考えて見るとイエス・キリスト以外にその関係者なる複数の聖人を祀って礼拝してしまったらそれは多神教です。殉教者信仰もまたカルト(cult)的な要素を持ち合わせている。だから? 教皇庁は多神教にならないよう、一つの教会に守護聖人は1人のみ・・と言う苦肉の解釈? 制限を加えたようだ。聖人の仕分けこのあふれかえるように増えた聖人を17世紀になって教皇庁は整理している。それが第235代ローマ教皇であるウルバヌス8世(Urbanus VIII)( 1568年~1644年)(在位:1623年~1644年)である。※ フィレンツェのバルベリーニ家出身のウルバヌス8世は聖職者というよりは政治家? 親族を多く登庸してバルベリーニ家にさらなる富をもたらしている。※ 以前「ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠」の所で家門にミツバチを入れている見本としてローマ教皇ウルバヌス8世の紋章を紹介している。リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠ウルバヌス8世は教会改革を進め、その中で聖人の仕分けをして怪しいのは削り、また多くの聖人を認定したとも言われている。地方で呼び名が違う為に同一人が複数に数えられていたのも多々あったらしい。また聖人はランク付けし、ランクにより典礼の種別も行っている。以降? 時代で? 聖人は時々見直されるようになった。何と、聖人からはずされる場合もあるのですウルバヌス8世は、新大陸やアジアへの布教活動に熱心で聖職者を要請する教育施設としてウルバヌス学院(Colegium Urbanum)を創設したりと布教に前向きな活動をしています。※ 現在、聖人を決める秘蹟の判定や典礼については、典礼秘跡省(ラテン語: Congregatio de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum)が行っているらしい。ヴァチカン公式の本からの聖堂の図。確かにギリシャ十字の聖堂が下に足された感じです。No35 教皇の祭壇 聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi) 地下(ペテロの墓)右上から時計回りに59 聖ヘレナ(St Helen)64 聖ロンギヌス(St Longinus)32 聖アンデレ(St Andrew) (洞窟入口)36 聖ヴェロニカ(St Veronica)29 ペテロの司教座 ベルニーニによる玉座の祭壇57 ミケランジェロのピエタ(Pietà)8 聖なる扉(Porta Santa)ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)内部下は典礼の時の仕様です。身廊先に見えるのがクロッシングのキューポラ下にあるベルニーニの大天蓋(だいてんがい)アートな聖水盤ロココ時代のイタリアの彫刻家であり画家であるアゴスティーノ・コルナッキーニ (Agostino Cornaccini)(1686 年~1754年)によって設計デザインされジュゼッペ・ローニ(Giuseppe Roni )がシエナの黄大理石の水盤と黒大理石のバルディリオドレープの彫刻を担当している。教皇庁のアヴィニョン捕囚時代(1309年~1377年)が過ぎ、教皇庁が再びヴァチカンに戻ると都市の整備と拡張も行われる。特に聖堂の老朽化は甚だしく、崩壊寸前だったそうだ。教皇ユリウス2世(Julius II)(1443年~1513年)はブラマンテに大聖堂再建計画を依頼。工事は1506年から1世紀半に及ぶ。当然造営の建築主任は何人も交代した。当初のブラマンテの計画では、元のコンスタンティヌス時代のバシリカにドームを載せるだけのギリシャ十字のシンプルなものだった。それが計画から着工、また完成までギリシャ十字か? 縦長長堂式のラテン十字か? 二転三転した。1546年、ミケランジェロが主任になるとギリシャ十字型に決まり建築が進むが、ミケランジェロが亡くなるとまたプランは変更。彼の図面を利用しながらも収容可能人数を引き上げるよう身廊部が引き延ばされ縦長長堂式のラテン十字となった。身廊の奥行き187m。上の写真で言えば、クロッシングまでのアプローチ(身廊の長さ)がかなり長いのが解る。おかげで正面前からのドームは見え無いほど後退している。とは言え、現在の聖堂は、ほぼミケランジェロのプランなのだと言う所が個人的にちょっと感慨深いミケランジェロのピエタ(Pietà)1489年、フランスのジャン・ピレールド・ラグローラ枢機卿は「最も美しい大理石の作品」と依頼した。他にも候者がいた中、ミケランジェロ(Michelangelo)(1475年~1564年)が渾身の聖母子を彫り上げた。ライバルがいたからこそ、彼が署名を刻んだ唯一の作品となった。ピエタは十字架の降下直後のキリストの死を悼む母マリアの姿であるが、ここではマリアは若々しい乙女の姿で描かれている。それは「マリアはキリストの母にして花嫁」と言うキリスト教の神学的解釈に基づいているらしい。下、「ペテロの座像」は以前「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」で載せているので今回のせません。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)堂内の装飾はバロックを代表する建築家で画家で彫刻家のジャン・ロレンツォ・ベル二ーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)が担っている。「ベル二ーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛される程のバロック芸術の巨匠である。彼の作品は華やかで気品がある。クロッシンクの中央祭壇の上にベルニーニ製作のバルダッーキノと呼ばれる天蓋(てんがい)のついた聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)が置かれる。実はその地下は聖ペトロの墓だそうだ。もともと墓地だった場所であるが、今は地下グロッタもあり、歴代教皇らの眠りの場所となっている。祭壇建築の時に地下からもろもろ出土したらしいが、ほとんどそのままさわらずに残したらしい。ミケランジェロが設計したキューポラ聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世はブロンズ製の巨大な天蓋バルダッキーノ(Baldacchino)に覆われた中央祭壇を希望した。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)はその依頼を受け、1624年~1633年、4本の支柱を持つ天蓋のついたブロンズ製の巨大な聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)を製作する。その天蓋(Baldacchino)にはバルベリーニ家の紋章である蜂が散りばめられている。本来の天蓋(てんがい)は布製である。ここは敢えて全てブロンズで製作しているわけだが、ベルニーニは、割とリアルに布の雰囲気を出して製作している。流石である。 (*゚▽゚ノノ゙☆パチパチねじれた支柱は太い幹に蔦(つた)が巻き付いたイメージらしい。その地下が墓(Tomb)下の箱に聖ペテロの聖遺物が? と思ったが違うらしい。後方内陣、ペテロの司教座にはベルニーニ製作の「玉座の祭壇」が置かれている。実は後陣にペテロの司教座を造るのは当初予定ではなかった。信徒でなければ入れ無い領域なので遠方から撮影です。堂は薄暗いので拡大するとボケます。アレクサンデル7世(Alexander VII)(1599年~1667年)(教皇在位:1655年 - 1667年)の意向で9世紀の木製の「ペテロの司教座」椅子を納める為に製作されたらしい。一種の聖遺物容器となっているそうだ。下、まれに予告なく法王自らミサをとりおこなう事がある。遺物のロッジア(Loggias of the Relics)ところで、ベルニーニは中央の教皇の祭壇がある聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)を四方からまるで結界を貼るように四隅に聖人の聖遺物を納めた10m級の彫像を設置している。※ 4つの巨像は、1639年から1640年の間にドームを支える4つ橋梁のニッチに設置された。※ 像は全て制作者が異なる。これは 1624年、ウルバヌス8世の依頼によるものであるが、ドームを支える4つの橋梁のニッチに彫像の上に、関連する聖遺物が備えられたらしい。天蓋左奧 聖ヴェロニカ(St Veronica) 天蓋右奧 聖ヘレナ(St Helen)天蓋手前左 聖アンデレ(St Andrew) 天蓋手前右 聖ロンギヌス(St Longinus)彫像の製作に関しては、ベルニーニはともかく、他の制作者は実物大のスタッコ・モデルを製作して審議にかけられているらしい。問題なのは 確かに最初ウルバヌス8世は、これらのロッジアに4つのニッチに貴重な聖遺物を納めたらしいが、遺物は現在元の場所に無いらしい。現在聖ヴェロニカの像の上の礼拝堂に3つの聖遺物が保管されている?。しかし、聖アンデレの聖遺物は過去の教皇によりギリシャ正教会のパトラス(Patras)の聖アンドリュー教会に寄贈されてしまったらしいのだ。※ 聖アンドリュー教会(聖アンドレアス教会)またはアギオス・アンドレアス教会(Church of Aghios Andreas)と呼ばれるギリシャ最大の教会らしい。※ 時の教皇は、第262代ローマ教皇パウロ6世(Paulus VI)(1897年~1978年)と思われる。他についても最新情報が解らないので詳しくは不明です。本来ならベルニーニの彫刻作品、聖ロンギヌス(St Longinus)だけ紹介して終わる所ですが、聖遺物が祭壇を中心に4隅の柱に配置されていたと言うのが気になりました。たまたまでしょうが、大聖堂の方位から見ると、聖ロンギヌスの位置はまさに鬼門(きもん)上です。※ 裏鬼門に聖ヴェロニカ(St Veronica)何か結界のような意味がウルバヌス8世にあったのか? もはや誰にもわからないでしょうね。聖ヘレナ(St Helen)こちらはウィキメディアからですアンドレア・ボルジ(Andrea Bolgi )(1605年~1656年)製作。コンスタンティヌス1世(Constantinus I) の御母。早くからキリスト教を信仰していた彼女は早くから聖地に聖遺物を探しに旅に出て色々なキリストにかかわる遺物を発見して持ち帰っている。持っている品は磔刑の時の十字架と言う事らしい。発見時はすでに木片。それが納められていた。聖ヘレナ(St Helen)の向いに、聖ロンギヌス(St Longinus)ベルニーニ自身による製作。キリストの脇腹を指したとされるロンギヌスの聖槍(せいそう)を持つロンギヌス。実際は、死の確認の為に突っついた。と言う事らしい。その槍の穂先が収まっていると言う。※ 聖槍はウィーンの宝物館やメルク修道院にもあった。天蓋手前左 聖アンデレ(St Andrew)フランソワ・デュケノア(François Duquesnoy)(1597年~1643年)製作。しかし、教皇が聖アンデレのために選んだモデルは実際にはベルニーニのデザインらしい。ペテロの弟でギリシアで宣教し殉教した。X十字の磔刑に処された事からX十字は彼のアトリビュート(象徴)となっている。聖アンデレの聖遺物は何と彼の「頭蓋骨」だったらしい。先に紹介しているよう1964年、ギリシャ正教会のパトラスの聖アンドリュー教会に寄贈? あるいは返還されたとも・・。実際今は無いのです。聖ヴェロニカ(St Veronica)フランチェスコ・モーキ(Francesco Mochi)(1580年~1654年)製作。聖ヴェロニカの像は、ヴェロニカの聖顔布を称えるために作成ヴェロニカのヴェールは、キリスト教の布の遺物イエスが十字架をゴルゴタに運んでいる時、額の汗をぬぐう為にと渡したベール。キリストの顔が浮かび上がっていたと言う聖顔布が聖遺物らしい。もし聖遺物をペテロの墓地の四隅に結界的な意味を込めて張りめぐらしていたのだとしたら?聖域の浄化に役立っていたのかもしれない?それは1点が欠けた段階で崩壊しているし、今はどれも撤去されている。これはカトリックの思想ではないが、あった方が良かったのに・・と私は思う。聖人と認定されるまで(神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人)そもそも聖人とはどんな人が選ばれるのか?信仰以前に、まず人としても、生き方においても高潔である事。人徳があり、信仰においては過去の事象において崇敬されるべき行動があり、それは後世においても不変であり模範とされる人?これはどんな宗教でも絶対条件ではないか? と思われるが、さらにカトリックの場合、選定の入口に2つの条件ルートが存在する。それが聖人候補となる者がまずどちらなのか? これにより審査条件は大きく変わるのである。殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr)か?証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor)か? 殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr)・・・信仰のために命を捧げた者。殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられた者。 証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor)・・死ぬことはなくともイエス・キリストに対する絶対的な信仰を持ち、且つその生き方でゆるぎない信仰を示した人。また生前からカリスマ性のあった聖職者など生前の功績や人格が重要。さらに絶対条件として奇跡の証明が必要。またそれは時代の科学で証明できない奇跡でなければならない。※ 奇跡の証明でよくあるのは、墓から掘りおこした時、生前の時のままに綺麗である事(痛んでいない)。また誰かしらの病気などの奇跡的治癒に貢献した。等・・。その上で現在の聖人認定には至るステップ(段階)がある。列聖省による長く厳しい審査があり、一気に聖人になる事はない。神の僕(Servi Dei) → 尊者(Venerable) → 福者(Beatus) → 聖人(Sanctus)例えば、近年、死後すぐに列聖の為の審査に入り、わずか数年で聖人となったケース(教皇ヨハネ・パウロ2世やマザー・テレサ)もまれにあるが、ジャンヌ・ダルクのように当初(1431年)異端として火刑に処されながら1456年に復権。1869年列聖の申請から1909年列福。1920年列聖。と、481年と言う長い年月で評価が一変したケースもある。が、通常は早くても列福まで本人の死後数10年から場合により100年はかかるらしい。※ 当人が生前いかに崇敬されているか? の判断故か? 近年は関係者の存命中に判断されるようになったので列福、列聖が急がれているのではないか? と思う。※ 守護聖人や証聖者(Confessor)については「ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)」で書いています。ミラノでは実際に列聖準備に入った福者が祀られていたのでその写真もあります。リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)列聖の審査1.候補者となり、列聖の為の調査が宣言されると → 神の僕(かみのしもべ)(Servi Dei)とカテゴライズ。2.列聖省が様々な調査を行い、その人物が英雄的、福音的な生き方(生涯)であったことを認定した時 → 尊者(そんしゃ)(Venerable) の敬称が付く。3.尊者の徳ある行為あるいは殉教により天に在住し「その生涯が聖性に特徴づけられたもの」であると証明された時。 → 福者(ふくしゃ)(Beatus) の敬称が付き列福する。※ 列福には、最初、地域司教の管轄下の司教による調査が行われ、そこで徳と聖性が認められると教皇庁に資料が送られ列聖省にて調査・審議が行われる。※ 1831年の教会法改正以降、その人物の取次ぎによる最低1つの奇跡(超自然的現象)が必要とされる。殉教者はその対象外。教皇が列福の教令に署名。サン・ピエトロ大聖堂での列福式を以て「福者」と宣言され列に加えられる。 → 列福(れっぷく)(Beatification)4.徳と聖性が認められた福者(Beatus)が聖人(Sanctus)の地位にあげられること。 → 聖人(せいじん)(Sanctus)の敬称が付き列聖する。再び福者と同様な調査と手続きが行われ、徳と聖性が認められると教皇により列聖の宣言が出され、聖人の列に加えられる。サン・ピエトロ大聖堂で列聖式が行われる。 → 列聖(れっせい)(Canonizatio)プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel)絵 Giovanni Francesco Romanelli(1610年~1662年) 製作(1638年~1642年)モザイク Cristofari 製作(1726年~1728年)絵画は神殿での聖母マリアのプレゼンテーションの祭壇として描かれている。マリアの宮詣での図なのである。現在この祭壇は聖ピオ10世に捧げられている?プレゼンテーションチャペル祭壇の下にある教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓?ポンティフィカルローブ(pontifical robes)で包まれ顔は銀の仮面で覆われクリスタルの棺に納められた聖ピウス(St. Pius X )(1904~1914年)。いつの時点の説明かわからないのですが、どれもここは教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓と紹介されています。今は聖人となった聖ピウス10世(St. Pius X )は今もこの場所におられるのか?※ 1954年5月29日、ピウス12世によって列聖されている。通常は、列聖までの間一般公開される祭壇「最後の埋葬までの間に保管される場所」ではないか? と思うのです。大聖堂では、時々特別典礼として列福者など一時的にこのように公開されています。パウロ2世も確か聖セバスティアヌスの礼拝堂で公開されてから地下に行ったような・・。ただ、聖ピウス10世(St. Pius X )は20世紀の偉大な教皇として評価されているので一つの礼拝堂が墓所としてあてられたのか?聖なる扉(Porta Santa)ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の聖堂に入る戸口の話しです。入口正面に戸口は5つ。そのうちの右端の門だけは開かずの扉となって、通常は完全封鎖されています。西暦1300年に始まったと言われるカトリックの特別年(聖年)。その年だけに開かれる特別の戸口です。この年にローマに巡礼すると特別な赦しを与えられるのだそうです。※ 聖年にはバチカン四大バシリカの聖年の扉がすべて開く。ヨハネによる福音書第10章9節イエスは「私は門です。私を通して入る者はだれでも救われる」と言われているようで、門は聖域に至る象徴となっているのでしょう。聖なる扉(Porta Santa)の外側フィレンツェのフェルディナンドマリネッリ芸術鋳造所によって鋳造されたヴィココンソーティ(Vico Consorti,)による聖なる扉(Holy Door)。実は1950年のクリスマスに聖年を終えた後にブロンズに置き換えられた。それ以前は木製。ラテン語で(Porta Santa)もともと、この門はコンスタンティヌス1世の指示? 最初から定められていたようです。ただ、恩赦が与えられる特別な扉であったので、中世これを悪用して商用化? お金をとっていたのでしょう。その為に時の教皇が扉を封印する事にしたようです。聖なる扉(Porta Santa)の内側聖年にしか開かれない扉なのでレンガとモルタルで固められて絶対に開ける事はできないようになっています。小さな礼拝所の写真? と最初思いましたが実はかなり巨大で十字の下まで2mくらいあるのでは?扉の内部にはサンピエトロ大聖堂聖省(Fabbrica di San Pietro)の刻印が入った煉瓦が詰まっていて、それらの奧に聖年の扉の鍵が入った箱が保管されている。十字の下の四角から表面に覆われたモルタルをを崩すのです。実は私はこの塞がれた扉を見ていないのです。なぜなら、私はラッキーな事にたまたま訪問した時が聖年で門が開いていたのですめったに無い聖年です。かつては100年に一度、それが50年に一度となり現在は特別聖年を除く25年に一度。最近は教皇の考えにより特別聖年が定められると開かれるようです。※ 近年は度々開かれている。それでも今や訪問者が増えて大渋滞だそうです。聖年にこの門をくぐる為に入場券の予約が必要らしい。私の時はほとんど人もいなくて、普通に通り抜けました。今は情報が早いからかも? 昔はそんな情報も無かったので・・。門を見て知ったくらいです。御利益は「恩赦(おんしゃ)?」があるそうです。先に紹介した免罪のポイントのような事です。カトリック信者ならあこがれかも? 結果は死んでからでないとわかりませんが・・。聖ペトロの教会ですから、聖ペトロのモザイク画です。彼は天国の門の番人ですから天国の門の鍵を持っています。それが彼のアトリビュートです。※ 聖ペトロの話しは「アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の中「ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ」で触れています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ疲労困憊。おわります。 (^o⌒*)/ 一度このまま載せますが、チェックを後からします。後で修正が多々出ると思います。(>人<) Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
2021年08月08日
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