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夜景の写真追加しました。どうしても今回で終わらせたくて写真を50枚ほど入れ込みました(;^_^Aこれで行かなくとも、行った気になれると思います。修道士とは、英語でmonk 、ラテン語でmonachus。語源は「独身」に由来し、「独身で暮らすとか、 生きる。」と言う意味から発したそうだ。つまり当初は、人々から離れて生きる世捨て人的な隠遁者(いんとんしゃ)的イメージだったのだろう。修道制の起源は欧州に先立ち、3世紀のエジプトで共同生活を始めた聖パコミウス(Pachomius)(292年?~346年?)に始まるらしい。彼はルール(規則)を作り当初は主の祈りから、共同体が発展するにつれ、規則は聖書から取られた教訓で作り上げられ、個人の能力に合わせて調整されていたので極端な禁欲主義ではなく、祈りと仕事、共同生活と孤独のバランスをとることを目指した修道制を敷いている。欧州修道制の父、聖ベネディクトゥスの制度に似ている? のではない。聖パコミウスのルールはラテン語に翻訳され、それを後にモンテ・カッシーノ(Monte Cassino)で開いた修道会(529年)の規則にベネディクトゥス(Benedictus) (480年頃~547年)が組み込んでいるのだ。パコミオスが死ぬまでに、8つの修道院と数百人の僧侶が彼の指導に従いエジプトからパレスチナ、ユダヤ、シリア、北アフリカ、最終的には西ヨーロッパに伝わるのである。つまり、聖ベネディクトゥスの戒律(Rule of Saint Benedict)には、お手本があったと言う事だ。ところで、キリスト教の公認された当時でさえ、キリストの福音に従い真剣に神を探求して親兄弟と別れ、結婚もせず世俗を棄て、自己の信仰のみに生きた人達は文化に逆らう極端な個人主義者として、意外にも変人扱いされ嫌われていたらしい。しかし、聖ベネディクトゥスの戒律の元に彼らが集団で規則正しい共同生活を始める頃、世俗を棄て神の元に近づこうとする彼らは隠修士から修道士になった。※ 当初はベネディクト会の戒律にのっとって修道生活をする者(ベネディクト会、クリュニー会、シトー会、カルトゥジオ会)に対して用いられるものであり、司教座聖堂参事会員など司祭らは別であったし、後に現れる托鉢修道会士(ドミニコ会、フランシスコ会、聖アウグスチノ修道会、カルメル会)は修道士とは認められていなかったらしい。だが、聖ベネディクトゥスが戒律を造って整備した修道院での修道士の育成により、修道士の社会的地位は上ったと言える。なぜなら、戒律には地域への奉仕も職務として入っているので必然的に地域の人々と接触し、時に師となり助けとなる彼らは隠遁者ではなくなったからだ。実際、彼らの活動で中世の人々はかなり救われたはず。また、そんな彼らを援助する事で徳が得られると考えられ、王族始め諸侯らはこぞって領地を寄進したから富める所は富めた。領地が寄進されれば、領地からの収益が確保できる。教会や修道院にも貧富の差が生まれたのである。ところで、中世においては全ての者が好んで修道士になったわけでもなかった。前に騎士の所で紹介しているが、家督相続の問題により僧になるしかなかった者もたくさんいたからだ。南フランスでは財産は子に均等に相続されたが、北フランス、イングランド、ドイツでは長子のみが総取りの「長子相続」と言う制度がとられていた。だから家督を継げなかった次男坊以下が多くが騎士や聖職の道に進んでいる。リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部修道士城塞化聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)難攻不落の修道院石工mason(メイスン)屋根修道院建築(monastic architecture)交差ヴォールト(Groin vault)聖堂、食堂、貴賓室、騎士の間礼拝堂、地下クリプト城塞化前回、ノルマンディー公、リシャール1世(Richard I)(933年~996年)(在位:942年~996年)の肝入リで966年、ベネディクト会派の修道院をモンサンミッシェルに招聘(しょうへい)した事を紹介。それ故、モンサンミッシェルにはノルマンディー公や他の諸侯から寄進された広大な領地を持っていた。※ この修道院は本土側に広大な領地を持ていて、その富強ぶりは世俗の領主と変わらなかったと言う。修道院は領主所領であり、大修道院長は領主でもあったのだ。モンサンミッシェルは、どちらかと言えば裕福な修道院であったので、修道院の警備の為に防備が強化され、警護の兵隊(騎士)も置かれていた。時代は北欧からのゲルマン人の襲来で乱れていた時代で、海賊となったノルマン人は金品目的で村々の修道院を襲っていたから防衛設備が整えられたのは不思議ではない。しかし、海と絶壁に加え、驚異の干満差を誇るこの小山の修道院は当初から攻めにくかったのは確か。海上の岩島に位置していると言う地の利を生かして修道院を中心に島全体を城壁で囲んでいる。もともと海と絶壁に囲まれ、道は干潮時にだけ現れる砂州だけと言う天然の要塞でもあったが、本格的に城塞化したのは13世紀らしい。13世紀と言う時代は十字軍の時代であり、修道騎士が活躍していた時代である。※ 彼らは修道院付きの職業を騎士とする身分。故に正確には彼らは僧では無い。聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)ここモンサンミッシェルでも1469年、ルイ11世(Louis XI)(1423年~1483年)により聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)が創設されている。王政の権威を打ち出す為に創設されたと言われているが、プランタジネット家エドワード3世が創設したガーター騎士団(Knights of the Garter)(1348年)と以前紹介した事があるブルゴーニュ公国で創設された金羊毛騎士団(Toison d'or)(1430年)が意識され対抗して造られた騎士団だと言われている。※ ガーター騎士団が百年戦争(1339年~1453年)中に設立されているのに対して、聖ミッシェル騎士団は、百年戦争終結後に設立されている。因みに1450年にはデンマークのクリスチャン1世によりエレファント勲章勲騎士団( Knights of the Order of the Elephant)の前身が設立されているのでフランスでの騎士団の設立はかなり遅い。また、現在もガーター騎士団と金羊毛騎士団とエレファント勲章勲騎士団は勲章と共に存在している。聖ミッシェル騎士団は、騎士の王への忠誠を確認する事が目的でもありフランスで最高の騎士団であったが「王朝騎士団」の要素が強かった為にフランス革命後に一度廃止。王政復古で復活したが再び王政が倒れると1830年に公式に政府により廃止された。各国王族に残った中世からの騎士団であるが、王政廃止と共にフランスからは消えたのである。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠最初の防護壁はベネディクト会修道院を置いた時10世紀末にはすでに存在していたらしいが、本格的に城壁が築かれたのは13世紀末。14世紀末のピエール・ル・ロワ大修道院長の時に強化され城塞化を始めた。1417年には当初の城壁の大規模拡張が行われ、王の門(Porte du Roi)が置かれ村の通りは閉ざされた。王の門(Porte du Roi)王の騎士が守ったので王の門と呼ばれる。つり上げ式の架橋で門は閉じられる。百年戦争の時にイギリスが10年に渡って水陸からこの修道院を攻めたが難攻不落。陥落する事は無かったという。※ 百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)は1337年、イギリス国王エドワード3世が、フランス王位の継承権を主張して争いが始まる。英プランタジネット家vs仏ヴァロワ家によるフランス王位争奪の戦いが本筋であったがフランス国内を戦場に、諸侯の領地争いもからみ長い戦いが始まった。この戦争では女戦士ジャンヌ=ダルク(Jehanne Darc)(1412年頃~1431年)も登場してフランス王シャルル7世の戴冠に貢献。百年戦争後にモンサンミッシェルはさらにパワーアップ。砲撃できるよう砲撃の際の死角を無くした稜堡(りょうほ)が組み込まれた建築は、伝統的な要塞建築の原型となる。稜堡(りょうほ)稜堡(りょうほ)は大砲による攻撃の死角をなくすために考案されたもの。位置的に本土と繋ぐ砂州が現れる位置にある。下は入口のコーナーにおかれていた物。石の玉?どうやって飛ばすのでしょうね?モン・サン・ミッシェルの裾のを取り囲む城壁には、中世期の要塞建築の全てが集約されていると言う。難攻不落の修道院何しろ先の百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)の時は、この辺り一帯をイギリス軍が占領していた。イギリス海峡(English Channel)をはさみ目と鼻の先の対岸がイギリスだ。その中で10年に渡りモンサンミッシェルは包囲されたが修道院長であり、ノルマンデイーの知事でもあったルイ・デストゥートヴィル(Louis d’Estouteville)(1400年頃~1464年)が断固として抗戦し死守した。食糧は船で運べたので籠城(ろうじょう)が可能だった?イギリス側も船で海から攻めたが、大天使ミカエルの加護(かご) ?「嵐が起きて多数の船が岩礁にたたきつけられ沈没した」と伝えられている。でも、岩礁はまわりに無い。干満の早さで船を持って行かれ沈没したか?船の精度も良くはなかったのだろうが、いずれにせよ、特殊な引き潮や満ち潮について(干満時間など)知識が無ければ近づいたとしても上陸前に溺れたのかもしれない。また、16世紀の宗教戦争の時もモンサンミッシェルはびくともしなかったと言う。だから「難攻不落」と言う称号はフランスにおいて象徴的な意義を持っていた。上が城壁の内側下が外側からの城壁銃眼(じゅうがん)が無数に備えられている。縦に長いのはボウガン用かも。船を持っていたとの記述は見ないが、ノルマン公国によるイングランド征服戦争の時は軍船6艘(そう)を兵隊付きで修道院が提供している。諸侯以上に裕福だったのかも。モンサンミッシェルの教会自体はこの小さな山の島に集約されているが、寄進された広大な領地は本土に持っていた。その領地では農民から年貢を取り立てていたのであるが、その取り立てはキツく世俗の領主以上に苛酷(かこく)であったと、非常に評判が悪かったそうだ。そもそも領地を持つ大聖堂や修道院はフランス革命の時に民衆の襲撃の対象になっていた。どこも酷かったのだろう。革命のどさくさに襲われ、フランスの修道院はほぼ解体された。だからフランス革命の時、ここモンサンミッシェルも農民が大挙して押し寄せ、事もあろうに、難攻不落を誇った要塞はあっさりと陥落したのである。そしてモンサンミッシェルの修道院はすぐに解体。革命政府の元で監獄として利用された。まず先に牢屋に入れられたのが、ここにいた修道士ら約300人だったと言うのだから、聖職者としては情けない最後である。2014年以前の陸橋の頃のモンサンミッシェルゴールデンブックシリーズの案内本から(地図は上層階から載せています。)※ 着色加工しています。上の写真と聖堂の向きが一致しています。紫・・僧坊ベージュ・・テラスピンク・・礼拝堂ブルー・・貯水槽上階テラスからの聖堂入り口 聖堂前の西側オープンテラスから1144年にノルマンディー・ロマネスク様式のラテン十字をした聖堂が建立。その後2世紀、ベネディクト会派の宗規により権勢を得、ロマネスクの聖堂は絶頂期を迎えた。その後13世紀に火災があったとされる。それが原因なのか?あるいはクリプト(いわゆる地下室)の強度に問題があったのか? 亀裂が生じたらしい。15世紀に前部(身廊一部)、と内陣を取り壊し1446年~1521年にフランボワイヤン・ゴシック様式で内陣を造営し再建している。それ故、既存のノルマンディー・ロマネスク様式と混在している。主要部だけ聖堂の名称を入れました。参考にしてね。聖堂内部側廊このあたりはロマスク様式。身廊内陣クワイヤ、アプス以降はゴシック様式アプス石工mason(メイスン)下は前回紹介したラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある回廊の柱の彫刻。これこそが石工mason(メイスン)の技術です。石工達は聖堂が完成すれば、次の聖堂建設の為に土地を移動。唯一土地に縛りの無いギルドでした。彼らは土地に関してfree lance(フリーランス)の職業集団だったのです。中世は、ドラクエみたいに一般人が生まれた土地を出て冒険するなんて事は簡単にできなかったのです。国を出るには、王なり、街の上層部の許可が必要であった。それなりの理由が必要。唯一出られたのが巡礼であったり、十字軍などの公式の遠征だったのではないでしょうか?ここ、モンサンミッシェルも聖ミカエルの巡礼コースに入っています。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある食堂屋根中世、早い時期の聖堂の屋根はたいてい木造であったそうです。本来、石の屋根の方が、火災の心配もないので理想。しかし石は高価だし、重いし、工事期間もかかる上に、重さで壁が外側に湾曲するからバットレス(控え壁)の必要も生じる。さらに材料費と専門職人の費用が発生するので経費が非常にかかったらしい。(大修道院教会の聖堂の内陣の壁はバットレス(控え壁)で支えられている。身廊の天井は木造。)中世、落雷による火災も多かったので、屋根に火が付けば大きな惨事となる。素早く屋根に上って消火活動ができるような隠し階段が壁の間に造られる事もあったと言う。木枠で組んだ屋根の骨に雨漏りしないように、鉛をシート状に薄くしたものを溶接して雨水がしみこまないようにしたなど工夫が。しかし、この屋根も高価なので、瓦や天然スレートが代用されたようです。(鉛は案外重いので、屋根の傾斜角度によってはくるくる巻いて落ちて来る事もあったとか。)修道院建築(monastic architecture)通常の教会であれば、聖堂と教父らの執務室や寝所くらいのところ、修道会では共同生活を営む修道士の為に大人数分の寝所、集会室、大食堂、大厨房など必要となる。また、修道院長室やVIPの為の応接室、客室も必要。規模が大きくなれば客室も多数用意されていた事だろう。時に身分の高い客人も来るのだから・・。また、勉強の為の大きな図書室、また写本の為の作業場など複数の施設が必要であったはずだ。そしてそれらは回廊で繋がれた構造になっている。修道院建築(monastic architecture)と言う修道会独特の建築スタイルがあるが、回廊は修道院の代名詞とも言える存在だ。スクエア型の中庭を回りが寝殿造りの回廊が繋ぐ、それら外側はたいてい建物で部屋が付随している。そこは完全なる修道僧だけが立ち入れる俗界とは隔てられた領域。つまり回廊自体が建築的な障壁として存在しているそうだ。そう言えば、最後の晩餐が描かれているミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)も複数のスクエア型した中庭で構成されていた。教会に付随する中庭の回廊は自由に見てまわれたが、最後の晩餐が描かれている食堂は僧院の中庭なのでガラスで仕切られ庭には出られないようになっていた。そこは俗人が立ち入れない領域だからなのか?入れたのは唯一、絵が描かれた元食堂の一室のみ。リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)でも、モンサンミッシェルは土地が無いから縦に積み重ねられた。食堂こそ回廊の脇にあるが、僧坊などは違う階層にある。ここは全てが例外的です。次は騎士の間と客間である。メルヴェイユ東棟、地階、修道士の食堂の下の階にある貴賓室(きひんしつ)天井はゴシックの交差ヴォールト食堂の階下にある客間は高貴な来客者用なので煖炉などの設備が整っている。この部屋は「修道院の友」と呼ばれる。いわゆる巨額な寄進をした王族や諸侯などの寄進者を迎え入れる為の部屋だったそうです。つまり聖王ルイしかり、歴代のフランスの王が滞在した部屋でもあると言う事です。※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)下の写真は2つの煖炉。上の写真にも煖炉の跡が見えます。部屋を暖める目的以外に、暖炉で客人が自由に調理できる設備として造られた物らしい。非常にめずらしいもので、この修道院に暖炉があるのは他には次に紹介する騎士の間くらい。一般の修道僧達は寒い中生活していた。ノルマンデイーだし、石組みの堂だから夏は良いけど冬は恐ろしく冷えたであろう。だから彼らの寿命も短かったと聞く。交差ヴォールト(Groin vault)ヴォールトはアーチ状の石造り天井。建築技術が進んで来ると、バレル・ヴォールト(半円筒形のアーチ状の石造り天井)が用いられるようになる。これは、かまぼこ型のトンネルのようなもので、アーチが延長されたロマネスクの様式。このトンネル型のヴォールトに直角に交わってくると、継ぎ目が交差。それが交差ヴォールト。下図の1しかし、ロマネスク式の円頭アーチには問題点があった。柱の間隔で天井の高さが決まる。だから柱を等間隔にすれば高さは揃うが中世の聖堂建築は継ぎ足しの増築となるのでそうは行かない。特にこのモン・サン・ミッシェルは立地が限られているので柱の等間隔は保てない。加えて広く高い建築空間を造るのには限界があった。そこで考案されたのがゴシック式の尖塔アーチと言う技法。尖塔アーチでは柱の位置に関係なく、高さをいかようにも調整できた。1.ロマネスクの交差ヴォールト2.ゴシックの交差ヴォールトゴシックの交差ヴォールトの天井の作り方(上図)木枠を組み、そこに石を骨組みから積み上げて行く。骨以外の場所は軽いレンガや漆喰で埋められ完成したら、木枠は外される。モン・サン・ミッシェルはロマネスクの様式とゴシック様式が入り交じっている。天井に注意して見れば何んとなく解ります。騎士の間ここは、13世紀以降修道士が写本と細密画の制作に従事した部屋でもあった。ギリシャ、ローマの古典、哲学や芸術、薬学や神学書の保存と研究も彼ら修道会の仕事だった。後年大学付属の写本工房が増えてくると、修道院では主に外部工房への写本貸し付けや、逆に写本購入したりする管理の立場として事務作業の方が増えたと言う。が、1469年フランス王ルイ11世が聖ミッシェル騎士団を創設してから騎士の大広間と呼ばれるようになった。この部屋にも大きな暖炉が2つ据えられている。修道士が唯一暖をとれた部屋であったろうが、騎士が常駐して騎士の間になってからはどうだったのだろう?聖堂の南の翼廊地下・・聖マルティネス礼拝堂この礼拝堂は、非常に分厚い壁でできています。(くぼんだ窓)その意味が私も今わかりました。壁で上部階の翼廊を支えていたからのようです。太い柱の地下礼拝堂「縁の下の力持ち」と言う言葉がありますが、本当に縁の下の力持ちがこの太柱の礼拝堂です。ここは、本丸の教会聖堂内陣を地下でささえる土台として、15世紀半ばに建設。※ 身廊の部分には元の岩盤があるので必要無いが、内陣部分にあたる所は基板が無く低くなっている。大人が3人で手をつないだくらいの太さと言うので、直径1.5~1.6mくらい? 聖堂内陣の重量をここで支えているので、無数に、場所によっては密集して柱が立ち並ぶ。聖ステパノ礼拝堂(11世紀頃造られ、13世紀には改修)医務室と修道士の納骨堂の脇にもうけられたこの礼拝堂は、かつて修道僧の遺体安置所だったらしい。写真中央の十字架の台座には「A.Ω」刻まれ、生まれてから死ぬまでを示しているそうだ。そしてその壁の向こう、物資輸送用の大滑車部屋です。かつては納骨堂だった所に大きな滑車が据え付けられた。納骨堂はフランス革命の時に山のようにあった亡骸を窓から放り出して捨てられてから牢獄となっている。その後、反革命派の修道士達がそこに閉じ込められ、革命後は政治犯等も収容され、牢獄としてしばらく使われていた。(1793年~1863年まで)滑車は囚人の為の食事を運ぶ荷物昇降機として19世紀に牢獄になってから設置されたもの。直径6mの滑車は、中に人が入って人夫の重量で回して動力にしていたとか6人で2トンの重さを運びあげられたそうです。この人動力(ひとどうりょく)方式は古代ローマ時代からあり、建築現場で使用されていたらしい。すごく危険そうですが・・。荷台?下は外から見た位置と昇降の石のレール小さな礼拝堂の窓のステンドグラス。ホタテ貝が目にとまった。ホタテは聖ヤコブのアトリビュートである。つまりこれはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を示唆するマークなのだろうか?実際、1998年に、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」は途上の主要な建築物と共に世界文化遺産に登録された。うちフランスではパリ、ヴェズレー、ル・ピュイ、アルルの4つの都市を起点としたルートである。パリとボルドーを結ぶ巡礼路の枝にモンサンミッシェルも入っているようだが、これがサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼に入っていると言う証明を見つける事ができなかった。むしろ、本来モンサンミッシェルは聖ミッシェルの巡礼路の起点の一つである。イタリアのモンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)を今はめざさないのだろうか?そもそも公式にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼に含まれる場所にはホタテの標識があるはず。モンサンミッシェルでは見ていない。解ったら書き加えますね。因みにサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は過去に扱っています。1~14まであります。リンク先は一部のみリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)さて、これでモンサンミッシェルの書き換えは終了です。古いのは削除しました。今回のback numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユモンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部次回こそ? 「アジアと欧州を結ぶ交易路12」の予定。
2021年05月21日
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back numberのリンク先追加しました。修道院とか、建築とか、要塞とか載せたいものが出てきて時間かかってしまいました。 f^^*) ポリポリ モンサンミッシェルは見所も多いから写真もたくさん載せたかったので結局分割しました。次回も「モンサンミッシェル」です。ついでにフランス王国の成り立ちも加えました。フランク王国カロリング朝(Carolingiens)の末、神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年)となったカール(Karl)大帝(742年~814年)の孫の代でフランク王国は東西フランク王国と中部フランク王国(後のイタリア王国)に分烈する。843年ヴェルダン条約によりルートヴィヒ1世の遺児が王国を3分割して相続するが、870年メルセン条約で中部フランク王国は割譲。それらは後のドイツ・フランス・イタリアの三国の原型となる。しかし、割譲された王国も東フランク王国は、ルートヴィヒ4世( 893年~911年)。西フランク王国では、ルイ5世(967年~987年)987年を最後にカロリング朝の血統は途絶え断絶した。ところで、話しは西フランク王国に戻る。西フランク王国では5代目あたりから必ずしも王位はカロリング家の世襲ではなくなっている。有力諸侯や聖職者の推薦で決められたらしいのだ。それ故、西フランクでは諸侯の力が時に王より勝る事になったらしい。前回、ノルマン人(ヴァイキング)の話しに触れたが。「885年、ノルマンに定住した彼らはセーヌ川を遡り、直接パリに多勢で侵略に向かった。この時は3万人のノルマン人(ヴァイキング)が700艘の船でパリに襲来。」と紹介。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人当時のフランク王国はノルマン人がセーヌ川やロワール川の川口から侵略する事が増えて困っていた。この時フランク側の防衛で活躍したのがロベール家(Robertiens)のアンジュー伯、ロベール豪胆公(Robert le Fort)(830年頃~866年)だった。そして次いでパリ伯となっていたロベール家、長子のウード(Eudes)(852年以降~898年)(在位: 888年~898年)は885年のノルマン人のパリ襲撃でノルマン人を阻止し大活躍する。そのパリ防衛の功績で、ウード(Eudes)は諸侯に推挙(すいきょ)されロベール家初の西フランク王国の王となった。※ 因みに、ウードの次代王は、カロリンク朝のシャルル3世 (Charles III)(879年~929年)(在位:893年~922年)に戻っているが、シャルル3世がノルマン公国を公認(911年)した王である。そして、後にカロリンク朝が断絶した時、ロベール家出身のユーグ・カペー(Hugues Capet)(940年頃~996年)が諸侯の推挙で次代のフランク王国の王位に付いた。987年、これよりカペー朝(Capetian)(987年~1328年)の時代が始まるのである。また、これを持って西フランク王国は終わりフランス王国が誕生したと見なされている。ノルマン人(ヴァイキング)を撃退して活躍したロベール家はフランス王国の始祖となったのだ。欧州史は、あちこちで歴史が絡んで来るので大変です。でも、知っているのと知らないのとでは格段に面白さが違いますさて、写真は複数年、季節も混ざっていますので了解お願いします。モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユフランク王国からフランス王国へベネディクト会修道会の招聘(しょうへい)モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院中世の修道院の役割ラ・メルヴェイユ(La Merveille)バットレス (Buttress)前に紹介していますが、トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設されたので、断面を見ると岩山の原型がわかります。下は南西正面角度の異なる教会を紹介ベネディクト会修道会の招聘(しょうへい)ベネディクト会修道会(Benedictine Order)(ラテン語: Ordo Sancti Benedicti)アヴランシュの司教オベール(Avranches Bishop Ober)(生年不明~720年)によって709年10月に開祖されたモン・トーンブ(墓の山)のモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)はノルマンデイーとブルゴーニュのほぼ境界にあった。933年統合されモン・サン・ミッシェルもノルマンディー領に入る。しかし、ヴァイキング(ノルマン人)の襲来が酷くなってきた頃、避難? アブランシュに置かれていた司教座がドル=ド=ブルターニュ (Dol-de-Bretagne)に移転している。それが原因?モン・サン・ミッシェルの管理者(司教座)がブルターニュに移転したと言う事は、モン・サン・ミッシェルの管轄もブルターニュに移動してしまう? 危惧した? ノルマンディー公、リシャール1世(Richard I)(933年~996年)(在位:942年~996年)は966年、ノルマンディーのサン・ワンドリル修道院とイタリアのモンテカッシーナからベネディクト会派の修道士を招いてモンサンミッシェルに修道院を設立させた。もともとノルマンディー建国当初より、歴代公はベネディクト会を擁護していた事もあったらしい。ノルマン公国時代の首都があったファレーズ(Falaise)にあるリシャール1世(Richard I)像ウィキメディアからですが、下をカットしました。※ 3代目(在位:942年~996年)ノルマンディー公リシャール1世(933年~996年)はノルマンディー公国の統治に集中。内政の安定化とノルマン人同士のつながりを強化し西フランクで最も結束力のある国に成長させた。ベネディクト会を擁護していた方には見えませんね。まだヴァイキング感が抜けていないのですが・・。これは像に問題ありなのか?もしかしたらキリスト教に改宗するにあたり、指導してもらっていたのかもしれませんね。修道士の役割はそもそもそう言うものだから・・。狭い岩山の上に建てると言う制約条件が、他と違う独自性を持った教会となっている。つまり、通常なら横に増築される部屋が縦に積み重なる構造になっている。聖堂の内陣は東に向いて立っている。モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院529年、モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)の異教の神殿跡にヌルシア(Nursia)の名門出身のベネディクトゥス(Benedictus) (480年頃~547年)は洗礼者ヨハネに捧げた修道院を建立。530年頃、ベネディクトゥスは修道会則を定め共同で修道生活に入ったとされる。※ 聖人に認定されてから聖ベネディクトゥス(St Benedictus)と呼ばれます。聖ベネディクトゥスの戒律(Rule of Saint Benedict)は、全部で73章からなる修道院生活の規律が示されたもので540年頃に書かれた物と推測されている。中身は修道僧の規律となる生活に関する規範とクリストセントリックな生活(Christocentric life)を送る為の精神論だったとされる。多くは修道院と言うコミュニティーの中で謙虚に従順に在る方法や、修道院の管理に関する項目もあったが、食事の質や分量にまで言及されている。ざっと73規約を見たが、道徳に加え、かなり細かい行動内容にまで言及されている。学校の校則に近いものがあるそれは後に西ヨーロッパ中の修道会へ広がり中世ヨーロッパの修道制度の基本とされ導入されている。聖ベネディクトゥスが欧州修道会の父と呼ばれるのはそれ故である。※ 聖ベネディクトゥスは正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会でも聖人とされている。しかし、実際の全容は解っていない。実は、聖ベネデイクトゥスの死後、581年頃、モンテ・カッシーノはロンゴバルト人(Longobardi)により破壊されその原本が失われているのだ。僧院が再建されるのは718年。※ 表に出たのは難を逃れたベネィクト会の修道士から聞いた話しを 後に教皇(Gregorius I)となる聖アンドレアスの修道士グレゴリウス(Gregorius)(540年? ~604年)が著した事から広まったとされる。当時の聖ベネディクトゥスとベネディクト会が実際にどのような活動をしていたのかは定かで無いが、僧侶たちは毎日8時間祈り、8時間眠り、8時間肉体労働、神聖な読書、慈善活動に費やしていたとされる。聖ベネデイクトゥスが修道院を開いた頃は、西ローマ帝国が無くなり、イタリア半島がロンゴバルト人に浸食され始めた頃である。東ローマ帝国の力はまだ多少あったが、 欧州は絶えず異民族の侵略にさらされよりいっそう暗黒の時代を迎える事になる。そんな中で修道士の活躍はより必要とされた。ベネディクト会では指導できる修道士の育成を積極的に行い各地に派遣もした。教師養成所のような所でもあったわけです。※ ベネディクト会(Ordo Sancti Benedicti)の修道院については以前ヴァッハウ渓谷 (Wachau) のメルク修道院でも紹介しています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架) 「聖ベネディクトゥスがめざしたもの」について書いています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)下の写真、右の塔付きの建物がメルヴェイユ(La Merveille)の一部。塔はコルバンの塔。位置は北東のコーナーモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)地図下は現地で購入したゴールデンブックシリーズの案内本の絵図から。メルヴェイユ(La Merveille)の建物は北側。ブルーは参道のメイン・ルートを示した。(土産物やレストランの中店通り)※ 参道の途中あちこち山頂の教会堂を目指す階段も存在する。中世の修道院の役割初期の修道院はキリストの禁欲思想に由来するものだったらしい。それは己自身を高める精神の修行が目的であった?しかし、中世中葉、ベネデイクトゥス以降の修道院は時勢により目的が違ってきた。彼らは己の精神修行よりもまずやらなければならない仕事ががたくさんあったからだ。荒廃した世の中の立て直しである。特に彼らは辺境地におもむき宣教よりも先に衣食住の復興や文化の復興もしなければならなかったからだ。輝かしいローマ帝国の文化はいつしか蛮族により荒らされていた。ローマ水道も破壊され、修復もままならず使用できなくなっていた。衛生的な水さえも手にいれられなくなり、文化度は所により原始生活にまで落ちていた所もあったらしい。辺境地に向かった修道士は大地を耕し、失われた文明を取り戻すべく活動を始めた。彼らの仕事には失われた書物の写本もあったが、とにかくギリシャ、ローマの古典、哲学や芸術、薬学や神学書の保存と研究と共に修道士はそれらを伝えるべく、学校や図書館を作り文化の向上に力を入れた。彼ら修道士は村落の立て直しなどにも貢献し、農作物を育てる事なども指導していたと思われる。農作物も修道院では必要で在るし、聖祭の為のワイン造りは必要不可欠。彼らはその技術も当然持っていたからだ。彼らはそうした人々に寄り添いながら福音を述べ伝え、宣教活動もした。命を落とす事も多々あったであろう。殉教(じゅんきょう)と言うワードはまさにこの頃から再び増えて行ったと思われる。一つ気になるのは、庶民の識字率の低さである。彼らは読み書きは教えなかったのだろうか?もっとも、貴族の婦人でも中世半ばまで文字を読めない人はあたりまえにいたらしい。※ 識字率について以前書いています。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠リンク ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)メルクやザルツブルグの修道院で、彼らが写本していたのはラテン語の書物。大学など高学歴の人材育成に力が入れられていた?しかし ベネディクトゥスは高い学問を学びながら敢えてそれらを放棄させている。「学在る無知の教え」だそうだ。高い学問を一度は体験し、それらを軽んじる事は無いが、神の王国の前にそれらは必要無い。敢えてそれらを棄て、超越した世界に身を置く事を修行とした?それは高い学問を身に付ける事で悪徳の道に迷い、かえって身を滅ぼす者をたくさん見て来たベネディクトゥスの経験から来ているらしい。手前の建物がメルヴェイユ(La Merveille)呼ばれた建築。ネオクラシックのファサード? 一見ロマネスク風建築なのですが・・。聖堂の入口でもある。下は現地で購入したゴールデンブックシリーズの案内本の絵図ですが、をさらに解説を寄せて編集しています。左手前(北面)ゴシック3層構造のゴシック建築の部分であるが、全てひっくるめてラ・メルヴェイユ(La Merveille)と呼ばれる。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)意味は必ず「驚異」とされているが、何? と思われるだう。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)は不思議とも訳される。本意は オッドロキー と言うところかな?それはゴシックを越えた? 建築技術に加え、まるで空中庭園のような屋上の回廊のある美しい中庭の存在だ。メルヴェイユ(La Merveille)は北側に位置するのでモンサンミッシェル全景の写真撮影ができない。下は世界遺産の本から持ってきました。トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設された。何しろ、そこは古来より神聖な岩山であったからだ。モンサンミッシェルの勢力の拡大と共に岩山の教会は拡大していく。最初の大きな聖堂の着工は1017年。1144年完成。重々しいノルマンディー・ロマネスク様式だったそうだが、クリプト(crypt)の強度の問題か? 15世紀には ひび割れが生じ危険な状態に。しかた無く聖堂の前部を取り壊しテラスにした。下は3層の一番下段。半分は岩山だ。聖堂の内陣も一部壊し、クリプトをしっかり造ってから造り変えるに至った。1446年から1521年。新しくできた聖堂の内陣はフランボワイヤン・ゴシック様式(flamboyant Gothic style)。フランボワイヤンは「燃えるような」と訳されるが、「火炎のような」華麗にして華美な装飾スタイルである。いろんな時代がミックスされています。聖堂は次回に後陣と聖堂の向こうには、3層構造の建物が絶壁に垂直にそそり立つように建てられた。これがラ・メルヴェイユ(La Merveille)と呼ばれる建物だ。上の図のラ・メルヴェイユの1階には礼拝堂付き司祭の間と貯蔵庫が置かれた。※ 司祭の間は巡礼者への施しも行われていた。2階、客間(貴賓室)と騎士の間。3階、広い食堂と回廊付きの中庭。※ 中庭からの眺めが驚嘆に値する絶景となっている。再び上層階に上がる大階段のある東面から3層構造の建物なのに一見、控えめなバットレス (Buttress)だけで支えられている。下は補強となるバットレス (Buttress)の部分を色を付けて見た。一見垂直に見えて、実は非常に巧みに組み合わされた控え壁の構造となっている。それは北面サイドを見れば尚さら驚ろく。バットレス (Buttress)15世紀と言う時代である。ゴシック様式でこれだけ高い建物で垂直性を物つ壁はなかなか見ない。石積みだけの壁は高くなればなるほど下方に重荷が来るので壁は外に湾曲にたわむのだ。それは天井にヴォールト構造が取り入れられるようになるとなおさら壁への負荷は増した。※ ヴォールトは次回説明します。だから壁が外に破れるように崩壊するのを防ぐ為に柱なり壁なりで押さえ込む構造で補強される。それがいわゆるバットレス (Buttress)と言う建築構造だ。因みにモンサンミッシェルでも聖堂部を支えるバットレスはまた異なる。フライング・バットレス(flying buttress)と言う飛梁(とびばり)構造になっている。フランボワイヤン・ゴシック様式(flamboyant Gothic style)の部分それはノートルダム教会の聖堂だと確認しやすい。あそこは側廊の壁面もフライング・バットレスだらけなので。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓因みにフランス語で「支え棒」の事を「アルク・ブータン(Arc-boutant)」と呼ぶらしくフランスの教会案内ではアルク・ブータンと説明されるかもしれない。それにしてもモンサンミッシェルのバットレス (Buttress)は奧が深い。計算され尽くし、かつ機能美さえも備わっている。最もモンサンミッシェルの場合、平地の建物とは異なり、裏側が岩盤により補強されている。1階の半分が岩盤なので可能だったのか?下は2階から3階の部。随所に見られる補強の構造に興味が湧く。3階のアーチは今はガラス? がはめ込まれている。危険だからでしょうね。227本の石柱で支えられた回廊式の美しい方形の庭園になっている。完成は1228年。聖堂より古い。回廊式中庭からの修道士の食堂 食堂は次回にアーチの向こうに広がる海原(うなばら)。見下ろすと目がまわりそうな高所で、空中庭園を想像?皆が感嘆したからラ・メルヴェイユ(La Merveille)驚異なのか? 不思議なのか?「驚異中の驚異」とも伝えられる。聖堂の翼廊の窓ですね。写真と解説を以前より増やした為に次回もモンサンミッシェル」です。なかなか写真のセレクトにも時間がかかり、また図解資料の着色などつまらない所で時間食っています。1週間程度で出せる予定です。緊急事態宣言5月31日まで延長されるようで、なかなか世の中が落ち着かないですね。とは言え、昨年に比べれば通常生活に近いかも・・。旅行は行けないけど・・。昨年から延期されていた姪の式が近づいています。ドレスを買いにデパートに行きたいが、デパートもドレス類は売れないので昨今はそう言う系は縮小されているそうです。でも来週こそ買い物に出かけなければ・・。ネットで失敗したので・・。飲食系だけでなく、そう言うイベント産業の人達も大変ですね。コロナ騒ぎに終息宣言が出されたとしても、完全にコロナ以前の世の中に戻る事は無い気がします。産業も形態も確実に変わって来る事でしょう。また、ネットが増えた昨今ですが、ネットではダメな分野は存在する。とは言え、今までと同じ事をしている企業はダメかも。コロナ後の新しい世界に生きる為に、誰もが進化しなければ。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人 モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年05月09日
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