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Back numberをラストに入れました。禅庭三昧の予定でしたが、今回もあれこれ発見が込められておりますしかも禅だけに収まっていません。まず、冒頭の挨拶つもりで書いていた元寇(げんこう)の話し。長くなったので五山禅寺に直接関係ないけど本文に入れました。タイトルにも入れましたが・・宋に至るまでの交易を調べていた過程で大発見? アジアにおける「黄金の国ジパング」伝説は元寇(げんこう)の襲来に関係していたのかもしれない。歴史もいろんな分野から掘り進めて行くと、思いもかけないところで重なる事がある。マルコポーロと元寇の襲来が繋がるとは私も思っても見ませんでした。本筋の禅寺では、京都五山の相国寺の塔頭(たっちゅう)として、再び鹿苑寺(金閣)と慈照寺(銀閣)も取り上げました。今回禅寺と言う認識でアプローチした時に、金閣と銀閣の意味が解ったのです。義満が、また義政がこれを造形し、いかに使ったのか・・。それを踏まえて、金閣と銀閣がある点において相克する。その観賞の仕方も実は全く異なるのだと言う事に気が付いたのです。また夢窓疎石がらみの天龍寺ではまたまた交易の話しが登場です。他にも禅庭の石組も追求したし、能楽の成立についても触れています。もはや内容多過ぎで小雑誌です室町時代の文化は、今に繋がる物が多く、興味は尽きないほどいろいろ出て来るので大変です。でも面白かった。京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパングクビライとマルコボーロと黄金の国ジパング黄金の国ジパングの出所日本仏教の再構築(禅の導入)足利家が生み出した北山文化と東山文化足利義満と北山文化世阿弥と義満北山澱北山澱の作庭家は誰?鏡湖池に組まれている石組み義政の東山文化向月台(こうげつだい)と月相克する金閣と銀閣の演出雪舟筆の山水図2幅夢窓疎石(むそう そせき)の禅庭なぜ禅僧が作庭家になったのか?京都五山 第1位 天龍寺天龍寺船(造天龍寺宋船)による貿易曹源池(そうげんち)庭園 龍門瀑(りゅうもんばく)クビライとマルコボーロと黄金の国ジパング宋(そう)(960年~1279年)の国は1279年に南宋が滅ぼされて終焉した。その南宋を滅ぼしたのがモンゴルから南下してきたモンゴル帝国の第5代皇帝クビライ(Khubilai)(1215年~1294年)である。彼はモンゴル帝国の国号を大元と改め1271年、元(げん)(1271年~1368年)の国が誕生する。それは唐の滅亡(907年)以来の中国統一王朝となった。クビライ(Khubilai)は内陸、モンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一したチンギス・カン(Činggis Qan)(1162年~1227年)の孫である。彼もまた攻めの領土拡大政策をとり朝鮮半島の高麗を従属させ、大陸のみならず樺太、日本、東南アジアのジャワ、ベトナムにまで船団を組んで襲撃した。※ 内陸のモンゴル出身と思いきや、元(げん)は何千と言う船を操り東南アジアからペルシャに至る海上ルートも手中に収めた海洋国? でもあったのだ。日本へも最初は服属を求め使者が来たが日本が使者を斬り殺すと2回襲撃に来ている。「元寇(げんこう)or蒙古(もうこ)襲来」と日本史で言われる戦いである。実は3回目の予定もあったらしい。前回記したが、日本では鎌倉時代(1185年 ~1333年)にそれは起きた。first 1274年、文永の役(ぶんえいのえき)・・元と高麗の連合軍の艦隊で襲来。second 1281年、弘安の役(こうあんのえき)・・東路と江南の二手から大船団が襲来。first は28000人の兵に船舶900隻が壱岐、対馬経由で博多に上陸。日本軍は騎兵含み1万人で対応。苦戦したが元軍も損害を受けてfirst は撤退した。second は東路4万人(船舶900隻)と江南からは移民団など計10万人(船舶3500隻)と言う大軍で日本に襲来。日本軍は騎兵含み4万人で対応。※ 因みに2度とも日本軍の指揮は北条実政(ほうじょう さねまさ)(1249年~1302年)が執っている。鎌倉幕府も博多の防備を強固にしていたが、暴風雨(神風)も重なり船団は難破したりと撤退。日本の損害も非常に大きかったが、撃退したのは奇跡と言えた。クビライ(Khubilai)は日本を植民地にしようとしていたのか? 幕府は毅然(きぜん)とした態度で応対。立ち向かった事で危機回避できたと言える。それにしてもこんな状態にありながらも、元との交易自体は途切れる事なく存在していたと言う。それはクビライ(Khubilai)が対外貿易振興策をとり、日本からの貿易船の受け入れも留学僧らの上陸許可も出していたらしいのだ。(・_・?) なぜ?黄金の国ジパングの出所ところで、東方見聞録を著したマルコポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)が、まさにこの時代に元(げん)来ている。(1271年~1275年頃クビライと謁見?)彼はクビライ(Khubilai)の使者として活躍し、気に入られてクビライの元で長く働いている。おそらく帰るに帰れない状態だったと思われる。1295年、本国ヴェネツィアに帰国できたのは、ある意味奇跡だった。 欧州への帰国後、彼は元(げん)で聞いた「黄金の国ジパングの話し」を東方見聞録で紹介した。※ 東方見聞録はマルコが直接著した本ではなく、1298年頃、牢獄で知り合ったイタリア人小説家がマルコの冒険話しを著したもの。全4冊。実は正式タイトルは不明。他国ではイル・ミリオーネ(Il Milione)(100万)とか、マルコポーロの冒険(The Travels of Marco Polo)とも呼ばれている。「黄金の国ジパングの話し」は、ひょっとしたらクビライ自身がマルコに語った事なのかもしれない。クビライが攻めた高麗の前に新羅の国があった。※ 936年に朝鮮半島の新羅を含む後三国の統一を果たして建国したのが高麗。新羅は黄金文化の国。かつて日本は新羅(しらぎ)(668年~836年)との交易で金を輸出していた。また宋との貿易でも砂金を輸出している。日本が言われる程黄金に満ちている国とは到底思えないが、新羅の黄金文化は日本から輸入される金で支えられていたと伝えられていた? あるいは信じられていたのかもしれない。実際の砂金の産地は不明だが・・。佐渡金山の鉱山発見は1601年頃の山師によるとされているが、それ以前から川で砂金が採れたのではないか? もしその砂金が朝鮮半島に売られ、新羅の黄金文化を少なからず支えていた可能性は十分考えられる。当時、新羅と現 石川県の港に定期航路があったらしい。(韓国中央博物館に地図あり。)韓国中央博物館から新羅時代の黄金物新羅王国-ファンナムの金冠5〜7世紀に韓国の新羅王国で作られた王冠は慶州の墳墓から発掘された。韓国の国宝となっている。冠に付いている翡翠(ヒスイ)の勾玉(まがたま)は日本産? の可能性が高い。新羅の黄金文化は4世紀頃に突然登場して200年程で消えたと言う。下も新羅の耳飾りであるが、独特な線の細工はソグド人の金細工ではないかと思う。新羅はシルクロードで遠いペルシャ方面とも交易をしていた。「草原の遊牧民?との関係性が問われている。」と博物館では解説されていたが、草原の遊牧民ではなく、彼らはソグディアナ(Sogdiana)を源郷とする交易商人ソグド人と思われる。ペルシャから長安(ちょうあん)や長江(ちょうこう)に至るまでシルクロードで荷を運び続けたのは彼らソグド人なのである。※ ソグド人の説明は以下でしています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)左は耳飾りにも使われている細かいリーフが束になっている首飾り。墓に黄金の副葬品を入れる文化は仏教の伝来と共に消えたらしい。三国時代 新羅の純金官母。約5世紀頃(書記400年代)と推定朝鮮半島統一王朝の高麗(こうらい)を従属させたクビライが金は海の向こうジパング(日本)からもたらされたと思い込んだ可能性は高い。それ故、クビライは「日本へ行けは砂金がいくらでも採れる」と信じて日本攻めを決行した可能性が高い。first でクビライは高麗の者らを連れて日本に進軍してきている。道案内か? secondでは大量の移民団をすでに連れて来ている。「黄金を採りに日本へ行くぞ!」とトレジャーハンティング(Treasure hunting)的な日本攻めだったのかもしれない。その執着は大きかった。3度目はかなわなかったが・・。クビライはマルコに「私は再び日本に行って金を我が物にする。」なんて自慢したのかもしれない。元寇の襲来は「黄金の国? ジパング伝説」がベースにあったのかもしれない・・と言う仮説でした。さて、ここからが本スジの五山です。日本仏教の再構築(禅の導入)ところで、武家の信仰を一心に集めたのが、鎌倉時代から比護されてきた禅宗である。禅の精神は武家の精神に通じる所があって? 室町幕府の時代に入っても禅宗が興隆(こうりゅう)したと紹介した。確かに禅宗は武家に合っていたがそれだけではなかった。実のところ当時の仏教界の現状に起因する。老舗仏教の天台や真言系の寺の堕落(勢力拡大や争い)が酷い有様で、皆の心が離れていたからだ。栄西(1141年~1215年)禅師が1187年、再度南宋行きの船に乗ったのも日本の仏教界の現状を嘆いたからで、禅の心に真の仏教を呼び戻そうと禅の導入に未来を見たのだろう。そして禅師は持ちかえった禅を布教し、武家らに禅が受け入れられた。実際、争いの絶えない彼らを納める為に、例えば平清盛(1118年~1181年)も延暦寺と僧兵の駆除の攻撃をしている。第6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)(1394年~1441年)も僧兵の制圧をしている。天台系仏教寺の延暦寺(えんりゃくじ)はすでにこの頃から軍事独裁国家のごとき様相を呈していた。(調べるとかなり悪さをしている。)仏道の者が仏道以外の道に進んでいたので世間は逆にドン引きだったのだろうと思われる。(すでに堕落の極みだった。)※ 以下のリンク先は信長による焼き討ちの事を書いたものですが、平清盛と足利義教の事も触れています。これに終止符を打ったのが織田信長なのです。リンク 比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由足利家が生み出した北山文化と東山文化後醍醐天皇の新政(1333年~1336年)に対して武士や朝廷内部からの不満が爆発して起きた南北朝の長い動乱(1336年~1392年)。これは皇統の分烈が招いた戦いでもあった。後醍醐天皇(南朝) VS 足利尊氏 光明天皇(北朝)1336年、光明天皇より足利尊氏(1305年~1358年)は権大納言に任命された。自ら鎌倉殿を継承すると言う意味で「鎌倉大納言」と称す。室町幕府の実質的誕生である。1338年、光明天皇より足利尊氏(在位:1338年~1358年)は征夷大将軍に任命され室町幕府が名実ともに成立する。南北朝の動乱が決着するのは1392年。北朝の勝利で終決。すでに第3代将軍 足利 義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)の時代である。この時に義満は幕府を京都に移転させた。京都と言えば今まではきらびやかな貴族文化が花開いていたが、室町時代は、京の街が幕府の本拠となると武士が増え、武家の好む文化が京でも開花するのである。足利義満と北山文化いわゆる北山文化と東山文化と呼称されるそれらは、室町幕府の権勢下で3代将軍 足利義満が引退後に北山に建てた別邸(後の鹿苑寺)、その北山澱を意識して8代将軍 足利義政が東山に建てた別邸(後の慈照寺)。それらから発信された文化の総称である。室町時代(1336年 ~ 1573年)。この内1336年 ~ 1392年は南北朝動乱の時代である。1392年、皇統分烈の動乱を収めたのが3代将軍の足利義満(1358年~1408年)だ。平和になった義満の時代(在位:1369年~1395年)大陸(明)との交易も再開される。だからこそ文化は花開き始めた。また義満自体が芸術、芸能に造詣(ぞうけい)があり、好きだったのではないか?と推察する。だが足利将軍家によって統治されていた室町時代(1336年~1573年)は15代将軍 足利義昭(1537年~1597年)(在位:1568年~1588年)の時代まで続きはするものの、幕府(足利家)の権勢が安定して続くのは 応仁の乱(1467年 ~ 1477年)までなのだ。つまり実質の足利時代は1392年~1467年と割と短い。残りおよそ100年は将軍家の弱体により動乱時代となり続く。因みに、足利家の権勢が弱体を始めるのが8代将軍 足利義政(あしかが よしまさ)(1436年~1490年)(在位:1449年~1474年)の時。彼が慈照寺(じしょうじ)を造営したのは応仁の乱後の1482年。引退後である。第3代将軍 足利義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)の時代に(前期)北山文化が開花する。北山文化を代表する建築が鹿苑寺舎利殿(ろくおんじしゃりでん)通称 金閣寺(きんかくじ)。その北山澱から俗に北山文化などと呼称されるのだが、それは義満が37歳で引退した後の話である。彼は引退した後に明とのプライベート貿易を始めている。北山澱は彼の引退後の宮殿であった。金張りされた金閣寺を見ればわかるよう一見、建築は豪華な貴族文化が見てとれる寝殿造り。が、金閣自体のコンセプトは極楽浄土の表現らしい。思想が盛り込まれて作庭された「禅庭」は今、特別史跡・特別名勝・世界遺産に認定されている。北山澱は皇族や武将らの接待などでも派手に利用されたと思われる。また、彼は芸術を奨励して美しい物を愛でるのは事の他好きだったようだ。ここでは観劇など色々なイベントが夜な夜な催され、また色々な文化が発信されたと思われる。要するにセレブの娯楽場? 的な要素も多分にあった? ところで、3代目義満はおぼっちゃまと言って良い育ち。そもそも足利家は源氏の出自。2代目将軍の父の早世により義満はわずか10歳で家督を継承し、12歳で征夷大将軍になっている。帝王学を学ぶのはそれからだが、回りの人間にめぐまれたのだろうと推察する。それ故、様々な改革など本当に彼の功績によるものなのか? が今ひとつ見えない。旧態の天台や真言系の寺が勢力を持って敵対していた時代である。宋に習って五山を京都にも導入して他勢力を抑えた事など良きブレーンがいてアドヴァイスがあったと思われる。実際、管領細川頼之が幼少の義満を助け、また将軍職を継いだ後も補佐役として活躍したらしい。1383年、左大臣に就任し源氏一の長者となる。人柄は解らないが、人望はあったらしい。義満の出家時には、多くの武家や公家、皇族らまでが追従して出家しているらしいので・・。金閣と銀閣については、後でまた触れます。世阿弥と義満足利家は明との交易で財を成したので経済的余裕もあるし、義満は育ちが良い。半ば公家のような生活をしていたので元々、芸能は好きだったのだろう。観阿弥(かんあみ)(1333年~1384年)、世阿弥(ぜあみ)(1363年~1443年)親子を見い出したのも義満である。世阿弥(ぜあみ)12歳。義満がいかに贔屓(ひいき)にしていたのが観劇の記録にも残っている。南北朝時代まではものまね芸に近い猿楽芸能(現在のコントに踊りがついたようなもの?)あるいは神楽の一種(各種神事で神に献げる舞)であった舞台芸能。当時は大衆の芸能に近かったものを至高の芸能に高め能を完成させたのが世阿弥(ぜあみ)である。能は今や最高級の芸能舞台である。余談であるが、少年藤若(後の世阿弥)は舞のみならず、連歌や蹴鞠(けまり)も堪能でまた賢かったようだ。義満のみならず、当時の関白 二条良基にも気に入られた。藤若にプレゼントすると義満が喜んだので、諸大名もこぞって藤若に贈り物をしたと言われている。因みに二人は5歳違いです。義満は弟のように可愛いがったのかもしれない。才能だけでなく美貌もあった。ある意味それも才能である。世阿弥は貴人らの保護により芸能の道を究める事に精進(しょうじん)できたのである。能楽(のうがく)は禅由来の芸能ではありませんが、空間の中での舞に見る動と静の使い方。独特な時間軸を持つ優美な舞台である。幽玄(ゆうげん)と言う言葉は能にこそ表されていると思う。それは至高の美かもしれない。能楽の完成に関しては、世阿弥はともかく、足利義満がいなければ完成は出来なかった。そういう意味で彼の存在の意義は北山澱造営よりもあったと私的には思う。ところで、能のスローな動きは当時の人の生活のリズムだと言われた事がある。本当か? 参考写真に能を振興する銕仙会(てっせんかい)の写真館からお借りしました。能に興味のある方は勉強できるサイトです。リンク 銕仙会 能楽事典写真は世阿弥の作品である井筒(いづつ)です。「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生いにけりしな 妹見ざるまに」by在原業平伊勢物語の井筒をベースに書かれた続編的な作品で、帰らぬ夫を幽霊になっても待ち続ける女の霊の話しです。能を初めて観る方にも解り易く美しい作品かと思います。たしか私が学生時代に観世能楽堂で初めて見た能も井筒だった。北山澱1397年、足利義満は北山に山荘(北山澱)を建築するのだが、それに先立ち1382年、御所の北に相国寺を建立している。それが京都五山、第2位の寺格を持つ禅の伽藍(がらん)である。※ 現在、北山澱は相国寺の山外塔頭「鹿苑寺(金閣)」と位置づけされているがそれは義満の死後である。生前は寺ではないので。※ 東山の慈照寺(じしょうじ)(銀閣)も相国寺の山外塔頭となっている。京都五山2位 相国寺山外塔頭 鹿苑寺(金閣)1397年、もともと西園寺家の寺のあった場所を譲り受け足利義満はそこに離宮として山荘(北山澱)を建立。1398年舎利殿が完成すると亡くなるまで義満はこの舎利殿に住み着いたらしい。※ この時、舎利澱金閣以外は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。北山澱の作庭家は誰?禅寺となるのは義満の死後で1408年以降。遺言があり夢窓疎石にを開山を依頼。義満の法号「鹿苑院殿」から北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)と命名された。上は相国寺のホームやWikipediaにも書かれているが・・。夢窓疎石(むそう そせき)の方が先に亡くなっています。と、言うか、そもそも義満が生まれる前に夢窓疎石はすでにこの世に居なかった。足利義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)夢窓疎石(1275年~1351年)※ 夢窓疎石(むそう そせき)は臨済宗の禅僧にして日本初の作庭家。義満の死後に禅寺として開山され、その開基は夢窓疎石(むそう そせき)にお願いしていると言う話しがそもそも通用しない。ところでこの鏡湖池(きょうこち)や金閣は義満がここを造営した1398年頃に完成? 石は大名や義満が中国から運ばせた名石が置かれているので西園寺時代の池ではない。さて、この庭であるが、最初に造営した1398年も、すでに夢窓疎石はこの世に居ない。つまり誰の作庭か全く謎になってしまった。因みに、庭自体は江戸期に改庭されているようです。一つ考えられるのは、夢窓疎石(むそう そせき)の名を継承する2世が居たのかもしれない? と言う事。確かに「夢窓派」と呼ばれる門派は存在しているが、その話しは聞かない。まあ、義満に協力したのは夢窓派なんだろーなとは思うが・・。それにしても誰も気づかなかったの? ※ 現在の金閣は、1950年(昭和25年)に放火で消失。1955年(昭和30年)再建されたもの。鏡湖池(きょうこち)の中の金閣(きんかく)鏡湖池(きょうこち)は池泉(ちせん)回遊式庭園であると同時に舟遊式庭園でもある。※ 回遊式庭園とは、庭内を歩き回って様々な角度から観賞できる庭園です。金閣は三層造りになっている。一層・・寝殿造の法水院(ほっすいいん)。※ 法水とは、煩悩を洗い流す水を意。二層・・武家造の潮音洞(ちょうおんどう)。※ 海の音のように遠くから真実がやってくるという意。三層・・(中国風)禅宗仏殿造の究竟頂(くっきょうちょう)。※ 「究極」という意。床は漆塗りで、それ以外の柱や天井には金箔が貼られて仏舎利が安置されていたと言う。湖面に写るよう計算されて建築された金閣であるが、高台から眺める夕陽に映える金閣が特に良いらしい。さらに金閣が夕陽によりきらめき、より美しく水に写るように? 金箔が貼られたとも言われている。つまり、今風に言うと「映える(ばえる)」仕様に敢えて造られていたのである。鏡湖池の中の小島は金閣の漱清(そうせい)から眺められる。鏡湖池に張り出す切妻造りの釣殿、漱清(そうせい)は船着場にもなっている。下、手前、出亀島。右奧、入亀島鏡湖池の中の石や小島には名前がそれぞれあり(出亀島、入亀島、淡路島、葦原島など)、日本各地から集められた名石が置かれている。九山八海石は、将軍・足利義満が中国から運ばせた名石。実は日本庭園の石組は、仏教の世界観を表す石組みと、道教の流れを汲む神仙蓬莱思想(しんせんほうらいしそう)を表す石組み、他、道教思想から来る石組み、また自然景観を表す造形の石組みなどから造られているそうだ。つまり、適当なバランスで置いているわけではなく、テーマに沿った配置がある程度決まっていると言う事でもある。しかし、金閣は仏教を示すものであったが、鏡湖池に配置された複数の石や石組は仏教だけにとどまっていない。およそ日本庭園の石組みほとんどのスタイルが込められているように思う。それは思想的にはチャンポンである。鏡湖池に組まれている石組み三尊石組(さんぞんいわぐみ)・・仏教の三尊仏をなぞった石組。神仙蓬莱石組(しんせんほうらいいわぐみ)・・中国の道教を由来とする神話、神仙思想からきている。須弥山石組「九山八海(くせんはっかい)」・・古代インドの仏教思想である須弥山(しゅみせん)の世界観を表す。他にも蓬莱思想に由来する夜泊石(よどまりいし)など石へのこだわりが強い。※ 4つの石で停泊する舟を表す夜泊石。舟は蓬莱島(ほうらいじま)に仙薬を取りに行く? 蓬莱島は神仙の島。そこには不老不死の薬があるらしい。※ 鏡湖池では葦原島(あしはらじま)島が神仙の蓬莱島(ほうらいじま)を表しているらしい。鶴亀石組(鶴石組、亀石組)・・鶴は千年、亀は万年の長寿を願う思想が込められている。鏡湖池には無いが、金閣の裏手に自然の景観を表現する石組がある。龍門瀑(りゅうもんばく)、鯉魚石(りぎょせき)・・滝を表す石組みである。滝を登る鯉(こい)? 水量によって見え方は微妙。この水量だと修行僧が滝に打たれているように見え無くもない。鏡湖池は盛り沢山。金閣の派手さに合ってはいるが・・。葦原島と赤松中心右の少し大きめの3つ石が三尊石組(さんぞんいわぐみ)優美な北山の鹿苑寺(ろくおんじ)庭園。芸術性の高い庭園ではあるが、義満が最初に作った時にもこうだったのか? ちょっと疑問がわいた。後世、石が追加されているのではないか?義政の東山文化8代将軍 足利義政(1436年~1490年)(在位:1449年~1474年)の時代、東山文化が隆盛(りゅうせい)する。足利義政は応仁の乱(1467年~1477年)のさなかでも能を愛でていたと言う楽天家?政治よりも文化芸能の方に興味があったのでしょうね。実際、足利義政は政治を省みなかったが、文化の振興には力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集、鑑賞したと言われている。足利義政は応仁の乱後、京都の東山に祖父義満にならって山荘を建てた。山号が東山(とうざん)。慈照院殿(銀閣)は東山文化を代表する建築と禅庭を持つ。※ 慈照寺(銀閣)も相国寺の山外塔頭に鹿苑寺(金閣)と位置づけされている。特に夢窓疎石(むそう そせき)由来の禅庭はこの時代には完成されていた? 枯山水(かれさんすい)は禅庭の行き着いた最終局面かもしれない。北山澱と東山では、そもそも活用の仕方も違うが、義満時代の仏教をベースにした華麗さを持つ鹿苑寺の禅庭と比べると、東山ではシンプルさの中に哲学を観るような進化を遂げている。義満時代の北山文化が発展し、昇華(しょうか)されたのが東山文化と言われる所以(ゆえん)だ。京都五山2位 相国寺山外塔頭 慈照寺(銀閣)錦鏡池と銀閣月待山(つきまちやま)手前の展望所からの撮影写真上下とも松の木で向月台は隠れている。慈照寺の看板から庭園をいろいろな角度から干渉し楽しめるよう散策コースがもうけられている。これを池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)呼ぶ。向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんしゃだん)向月台(こうげつだい)高さ180cm。最初からこの形ではなく、今の形になったのは近世らしいが、名前通り向月台(こうげつだい)の向こうから月は出るのだろう。向月台バックに月待山が在るし・・。敢えて言わせてもらえば、松の木が大きくなりすぎである。全体に銀閣の前の木の高さを低くしないと月が見えないではないか。※ 今はどうなっているか解りませんが・・。向月台(こうげつだい)も銀沙灘(ぎんしゃだん)も白砂の砂盛りで造作されている。モダンとしか言い様の無い形をしているが、これらは月を愛でる為に作られた造作と考えられる。月光が白砂に反射して銀閣を照らし銀色に輝く事から銀閣と呼ばれる・・との説もある。確かに銀閣の屋根も光を反射しやすい文様がある。輝銀沙灘(ぎんしゃだん)で造られた台地と月を盛る為の高台(こうだい)これら砂にも色々種類があるらしい。室町時代に隆盛する諸文化は禅(Zen)による所が大きいのも納得である。また禅自体も室町時代に権勢を誇るが、足利氏の力が衰えると臨済宗も衰退して行ったと言う。相克する金閣と銀閣の演出銀閣の粗めの白砂が敷き詰められた銀沙灘(ぎんしゃだん)と白砂で形造られた向月台(こうげつだい)。銀閣手前にあり、撮影に邪魔だと思っていたが、これは銀閣から向月台(こうげつだい)そしてその向こうに月を観る為に造られたのは間違いなさそう。銀閣から観ると月は調度、向月台(こうげつだい)の向こうに見えるはず。月を迎える台なのだから・・。また、時に向月台の上に乗っかる場合もあるのではないか? 向月台は高台(こうだい)の役割もしているかも。月が昇ると海面のようにきらめく銀沙灘(ぎんしゃだん)。向月台は月を背にしているので逆光でシルエットだけが浮かぶ。その上に光輝く月が鎮座した時は最高の時。月光の中で輝きを放つ銀閣と言うよりは、月光に照らされた銀沙灘(ぎんしゃだん)の青白い輝きと月の美しさを銀閣から愛でる為に、確かに設計されたのだと想像できる。向月台の影は一服のアクセントでもある。いずれにせよ、月待山に登る月を愛でる為に考案された、奧の深い造詣であるのは間違い無い。※ そう言う意味でやっぱり松の木がじゃまなのだ。一方、金閣は先ほど金閣が陽によりきらめき、より美しく水に写るように? 金箔が貼られたとも言われている。と紹介したが・・。私は違うと思う。「金閣造営」のところでも触れたが金閣もまた夜に「映える(ばえる)」よう造営されたと思うからだ。引退後に明との交易で舶来物も富も手にした義満は北山澱で観劇など色々なイベントを夜な夜な催し余生を過ごしたと思われる。引退した時、義満はまだ37歳だった。それにセレブは夜に活動するものだからね。金閣前の鏡湖池(きょうこち)にはたくさんの松明がかかげられ、金閣はきらびやかに発光し夜の闇の中に浮かび上がるように光輝いていたはずだ。まさに黄金の宮殿だったはず。義満はそれを舟で池から眺めていたかもしれない。まさに北山澱の目玉である金閣は極楽浄土にある宮殿を表現した建物だったのではないか? と推察した。つまり銀閣と金閣の用途は大きく異なる。派手に振る舞った義満に対して、静を感じながら風流を愛でていた? 義政の余生。金襴の極楽浄土を表現した義満。余計な物を排除してシンプルさの中に美しさのみを取り出した義政。義政の銀閣は、禅文化の行き着いた所の造形だったのだろう。それらを踏まえて言えるのは、金閣も銀閣も夜に「映える(ばえる)」よう設定されたイルミリオン(Ilmilion)のようなもの。双方日中に観覧してもその持つ意味を理解は出来ないだろうと言う結論です。是非夜に体現(たいげん)してみたいものです。雪舟筆の山水図2幅 共に国宝左(1470年筆) 秋冬山水図2幅のうちの冬景図右(1495年筆) 破墨山水図(はぼくさんすいず) 雪舟自序月翁周鏡等六僧賛の詩画軸の下部両作には25年の歳月の開きがある。雪舟(せっしゅう)(1420年~1502年 or 1506年) は48歳の時に明に渡っている。左の作品は帰国してすぐ? 「宋では李在(りざい)と長有声(ちょうゆうせい)に画法を学んだ」と右の作品(上部)に書かれている。つまり、左の作品が宋で学んだ技法で描いた山水画。右の作品が雪舟76歳のときの作で本来は詩画軸。破墨山水図(はぼくさんすいず)は雪舟が辿り付いた山水画の境地? 相国寺の塔頭(たっちゅう)慈照院に伝来。6人の禅僧の賛が付されているので「雪舟自序月翁周鏡等六僧賛」とタイトルされている。夢窓疎石(むそう そせき)の禅庭夢窓疎石(むそう そせき)(1275年~1351年)は禅僧であり作庭家。また漢詩人でもある。後醍醐天皇より「夢窓国師」の国師号を下賜。禅僧としても当然立派な方ではあるが、禅庭の作庭家としそての方が知名度がある。代表するのが天龍寺庭園や西芳寺(苔寺)の庭は「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。何より禅庭「枯山水(かれさんすい)」の第一人者として世界的な作庭家である。京都の建仁寺で禅宗を学んでいるので臨済系の禅僧であるが、最初から禅宗だったわけではないようだ。天台で満足出来なかった夢窓疎石は禅宗に移り各地で修行を行っている。なぜ禅僧が作庭家になったのか?明確な理由はわからなかったが、禅僧にとって作庭も修行で在るらしい。作庭に修行の成果も現れる?いずれにせよ、夢窓疎石は修行で各地を回っている。修行地の地形、景観、自然をたくさん見聞し、また禅の修行の中で自(おのず)と自然の眺望や景観を体得したのだろうと思われる。渓流、滝、海岸、海などでは水場の風景を。坐禅の修行場では洞窟や坐禅石から石と石組みを得たのかもしれない。また生き物である亀や鳥を観察。伝説の獣である龍なども想像して石に投影させる。山や島においては石の置き方、また松などの配置でいかようにも変化がつけられる。そう考えると、観察力がするどく、また想像力もずば抜けてあった人なのかもしれない。夢窓疎石の作り出す庭園が人工物であるにもかかわらず、滝は本物の滝のようにあり、池も川もおよそ人工物とは思えないリアルさがあるのもうなずける。寺の庭と言う限りある敷地の中で、山野を作り池や小川、時に海を造って表現した。夢窓疎石は本当に天才です。ザックリ言うと、前期の禅庭は景観演出につきるが、それらは石組みに集約されている。自然に見える自然(実は人工)の中に様々な石を置き、その配置で、何かしらの世界を表現する。山、川、滝、島、龍、亀、etc。後期の方は、もはや自然の岩や木々や水さえ使わずに自然の世界感を表現すると言う大胆な発想による進化をみせた。枯山水(かれさんすい)はもはや庭を越えた至高のアートだ。また、苔をふんだんに使った演出では精神の静寂をいともたやすく導いてみせた。禅庭はただの景観演出からより深い精神性を示すものに進化している。確かに、作庭する禅僧の力(りき)次第で善し悪しも変わったのだろう。水を白砂で表現して海や池、川など水面を表現。当然、その中に絶妙なバランスで配置される石の意味は大きい。何より全体のバランスとアートしている白砂の文様。それ自体にも禅の心が投影される?それらはただのアートで終わらせない奥深い意味を持つ。現代アートでは、アートの意味は作家の言ったが勝ち。作家がそう表現したと言えばそれが正論であるが、枯山水の表現は作家がわざわざ言わなくても見た者が感じ取れるものなのだ。京都五山 第1位 天龍寺夢窓疎石により作庭された曹源池(そうげんち)庭園は国の特別名勝・史跡となっている。夢窓疎石からの流れで京都嵐山にある天龍寺も再び紹介しますが、前のとはアプローチが違うので別物です。山号 霊亀山(れいぎざん)臨済宗天龍寺派の大本山。開基 足利尊氏(1305年~1358年)(在位:1338年~1358年)開山 夢窓疎石(むそう そせき)(1275年~1351年)1994年「古都京都の文化財」としてユネスコ世界文化遺産に登録された寺社17の中の一つ。曹源池(そうげんち)庭園前の大方丈創建1339年。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立。天龍寺船(造天龍寺宋船)による貿易この天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立したものだ。天皇とは言え、南北朝の動乱(1336年~1392年)では敵対していた相手なのに・・。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)(1288年~1339年)第96代天皇・南朝初代天皇 (在位:1318年~1339年)元々大覚寺統の離宮であった嵯峨野の亀山殿を禅院に改め開山する事になったが、天龍寺の創建には莫大な費用がかかる事が予想された。尊氏や光厳上皇が荘園を寄進しても全く足りず、造営費捻出の為に考え出されたのが、貿易船の一時的再開だったそうだ。元冦(げんこう)以来途絶えていた元との貿易。※ 元寇の襲来(first 1274年、second 1281年)室町幕府公認の下に「寺社造営料唐船」として天龍寺が舟を出し、その利益で造営費用を捻出したそうだ。そうして天龍寺は1339年に創建し、1345年に落慶したと言われる。こうした室町幕府のバックアップもあり、苦労もあり。また、立派な寺でなければならなかった。天龍寺をどうしても五山の第1位に据えたかったのだろう。※ 相国寺は1382年建立。最初から2位?※ 南禅寺は繰り上がり「別格」と言う特別措置になった。それにしてもなぜ足利尊氏は敵対していた後醍醐天皇の為にそこまでしたのか?一説には尊氏が後醍醐天皇の怨霊に悩まされていたから・・とも言われる。夢窓疎石の勧めも在り、もともと禅宗は後醍醐天皇や大覚寺統が支持していた事もあり縁の地に大きな禅寺の建立が決められたと言う事らしい。やっぱりね・・。と思った。ところで、1342年8月に2隻の天龍寺船(貿易船)が元に向かい、莫大な利益を上げて帰国したと言われるが、一体何回、何を売って商売してきたのかが不明です。庭園は広く、池の全景写真は撮影ができません。下は大方丈からの庭園池泉回遊式庭園で嵐山や亀山を取り込んだ借景式庭園。見所は池の中央奥に見える龍門瀑と手前に見える龍の石組みです。右手前、龍が海面から頭と背中を出しているところらしい。曹源池(そうげんち)庭園 龍門瀑(りゅうもんばく)先ほど金閣の所で滝を表す石組み「龍門瀑(りゅうもんばく)」と鯉魚石(りぎょせき)の事はふれたが、こちらはもっと大きな龍門瀑(りゅうもんばく)である。鯉が滝を登ると龍になるという故事「登竜門」にちなんで鯉を石に見立てる鯉魚石(りぎょせき)は滝造りに欠かせないアイテム。天龍寺の鯉魚石は、鯉が滝を登り龍へと変化する瞬間を表現した珍しい配置らしい。そもそもは、ひたすら修行を繰り返すという禅の理念を鯉の滝登りに当てた? 石組が龍門瀑(りゅうもんばく)。他に遠山石が蓬莱島(ほうらいじま)を表現。水落石が三石で三段の滝を表現?となる。石が多く、他にも石橋が置かれたりと、遠くから観たら一体にはなっているが、実際は間隔があって寄せて組まれた石組らしい。京都五山禅寺終わります。南禅寺のお庭、結局紹介出来なくて・・。「京都五山禅寺 4」はやるつもりないですが、絵になる石組みや枯山水もあるので特別編で紹介するかも・・。先週から毎日今日載せよう・・。と、一週間がすぎ、もう年末です。今年も一年が早かった。結局今年もコロナに振り回された感がありますが、ワクチンや治療薬も来年には国産が登場。少しは明るい年になる事を期待しています。例によって後から修正あるかと思います。訪問ありがとうございました。m(_ _)mback numberリンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング
2021年12月28日
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Back numberをラストに入れました。最近の日本でのコロナ急減少。良い傾向ではありますが、世界の情勢を見ると少し不気味ではあります。なぜ日本だけ? これから遅れて日本もまだ増加するのか?そんな時に新たなコロナの上陸。世界が驚愕して株価は暴落。注意する事に変わりはないが、気にしすぎたら生活が成り立たない。最も、除菌やマスクはもはや生活の一部となっている。マスクなどすでにファッション化して柄物はともかく、マスクピアスなども出ていて、順応の高さに驚く。若い人は特に環境の適応能力が高い。どんな時にも遊び心を捨てていない。良い傾向である。それに、慣れてしまえば元の生活の方が無防備で怖い事を思い知ったからね。さて、今回も日本編の続きです。計らずも、今回は日本の交易の話しが半分。禅文化まで辿り付くのに遠くから入り過ぎました。日本では平安から鎌倉時代の激動期に禅が伝わるのですが、それは中国が宋(そう)の時代です。当時の日宋の関係を見ていたらおもしろい事に気が付いたのです。武家政治に移行した期間にプライベート交易が増え、平家や足利家がその富を得ていたのです。何故だ?興味の深追いをして、交易自体の確認をしていたら飛鳥時代まで遡ってしまいました。遡ったのはシステムの確認でもあります。時代と共に輸出入の品は変わります。相手国の状態で交易自体も変化していきました。朝廷から武士に権勢が変わったから日本に輸入される品物もガラっと変わった? 増えたのです。もたらされる文化も上層から中層へと移った。武士の文化が禅を引き寄せたと言っても過言でないかもしれない。今回Part2は交易と禅の影響を受けた文化? の2本立ての予定でした。交易に時間を掛けすぎたのもありますが、最後に禅文化をチャチャと入れて終わらせるつもりが、チャチャと終わらせられなくなりました。禅を甘く見ていました。禅からもたらされた文化の深さ。あれもこれも載せたい。少し突っ込みたい。いつまでたっても終わりが見え無い。そんな訳で 分割させていただきました。つまりPart3 行きます (^^;)※ Part3 はなる早で仕上げる予定です。すでに半分できているので・・。写真ですが、今回は南禅寺三門と建仁寺の禅庭。他、五山禅寺のあちこちから引っ張っています。次回は相国寺の山外塔頭金閣と銀閣の庭。禅庭に関しては(訂正)天龍寺と南禅寺を考えています。結構写真はあるのです。「アジアと欧州を結ぶ交易路 15」を待っている方申しわけありません。年内は無理です。やる気にならないと書けない部分もあるので・・。京都五山のPart3 を出して、年越か正月に何かショート物が出せれば良いのですが・・。そんなわけで (*_ _)人ゴメンナサイ京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化絶景かな絶景かな by石川五右衛門(南禅寺)公式の外交使節団(遣隋使と遣唐使)遣隋使と遣唐使がもたらしたのは先進文化遣唐使の停止、再開、停止そして唐の滅亡おまけ 新羅との交易遣唐使の停止後の大陸との交易事情 宋(そう)→明(みん) 新羅民間レベルの日宋交易(にっそうこうえき)平家による宋(そう)とのプライベート貿易太宰府を排した独占的貿易で平家台頭なぜ公式の太宰府を避けたのか? 代用貨幣から貨幣経済へ日宋貿易と日明貿易が民間レベルの交易であったわけ足利氏によるプライベートの貿易禅宗から生まれた文化建仁寺方丈 襖絵(ふすまえ)と庭園禅の心〇△□とは絶景かな絶景かな by石川五右衛門(南禅寺)南禅寺三門からの眺望 見えるのは京都盆地です。1778年、大坂角の芝居小屋で初演された歌舞伎狂言「楼門五三桐さんもんごさんのきり」「絶景かな、絶景かな。・・」は、芝居の中、南禅寺の山門の上から夕暮れ時の満開の桜を眺め、桜をめでた石川五右衛門(いしかわごえもん)の有名なセリフです。舞台でのセリフですが、実際ここがその脚本の絶景スポットなのです。「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と続く。実際の撮影ですが、前日に降った暴風雨で満開の桜は葉桜に代わってしまって残念でした。三門を反対から見た所です。見えるテラスからの景色です。天気が微妙でかなり明るくしています。南禅寺は京都盆地の東に位置しているので盆地の向こうに見えるのは嵐山方面です。真裏に法堂が見えます。そもそも法堂の山門ですからねそう言えば、回廊が付いて一周回れる三門はここだけ? 前回紹介していますが、高さ22m。三門自体は東福寺と同じ高さですが、こちらの方が見晴らしは良い。海抜も高いのでは? 第90代、亀山天皇(1249年~1305年)(在位:1260年~1274年)が1289年、出家して法皇となり1291年、南禅寺を開山。五山の中で南禅寺が別格なのは亀山天皇の勅願に寄る所らしい。禅宗に帰依し、亀山法皇の出家で公家の間にも禅宗が広まったと言われるが、その実、出家しても好色ぶりは変わらなかったと言う。亀山上皇時代には元寇の来襲などもあった。野心家で、兄の後深草天皇を差し置いて皇位継承した事から亀山系の南朝と後深草系の北朝(持明院統)と言う皇統の分裂を招いた。南北朝動乱の元凶がここ。何度か消失し、現在の法堂は1909年の再建。水路閣が方丈の裏庭を通っています。南禅寺と言えば、石川五右衛門の句で有名な三門ですが、それ以上に有名なのが水路閣(すいろかく)と呼ばれる水道橋です。京都ものの推理サスペンスでは出ない事が無いと言えるほど出てくる水路閣は、南禅寺の敷地内を通過しています。以前水路閣については書いています。リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)方丈の禅庭については後半に・・。宋との交易を調べていてここまで遡(さかのぼ)りました (^o^; 公式の外交使節団(遣隋使と遣唐使)遣隋使(けんずいし)と遣唐使(けんとうし)の名前くらいは記憶に残っていると思いますが、これが正式に確認できる日本の最初の公式の外交使節団です。※ 遣(けん)とは訓読みで「つかわす」。遣隋使は「随に送った使者」の意です。遣隋使(けんずいし)は推古天皇(在位:593年~628年)の御代に日本の正式な外交使節団として、隣の大国である随(ずい)(581年~618年)の第2代皇帝の煬帝(ようてい)(在位:604年~618年)に両国間の国交を開く為に派遣された使者です。※ 推古8年~推古26年(600年~ 618年)の18年間に3回~5回派遣された。遣唐使出港の想像図(難波宮) 大阪歴史博物館のパネルから前期難波宮は第36代、孝徳天皇(こうとくてんのう)(596年(推古天皇4年)~654年)が造営したとされる。ここで、百済からの外交使節なども受け入れていた。難波宮は初期の日本の外交窓口でもあった。件の遣隋使や遣唐使船はここ難波宮から瀬戸内海を通り大陸に向かった。奈良の都の者らもここまで見送りに来ていた? 外交使節の為の宿泊所もあったらしい。前期難波宮は686年、大蔵省の失火から全焼。後期難波宮は726年、第45代、聖武天皇(701年~756年)が再建を指示。732年完成。平城京の副都と位置づけされたらしいが・・。都の再建は聖武天皇(701年~756年)の御代、735年~737年に天然痘が流行した事によると思われる。以前「四天王寺庚申堂」の所でも書いているのだが、後期難波宮(大阪の宮)の建設などは、飛鳥に居られなかった切迫した状況があったからだと考えられる。実際どの程度使用されていたのかは解らない。難波宮廃止と長岡京遷都は同時に決められたらしい。桓武天皇(737年~806年)は平城京でなく、難波宮を長岡京(784年~794年)に移築。難波宮は784年に解体され消えた。しかし結局、長岡京も都があったのは10年ほど。794年には平安京に遷都されている。難波宮は、大阪湾に面した上町台地にあった。それは奈良の都に繋がる旧大和川の河口にある。下は大阪歴史博物館のパネルから。埋め立てが進み、現在とはかなり地形が異なってますが、およそ現在の大阪城跡南の所。大阪歴史博物館は難波宮(なんばぐう)の史跡の上に建っている。※ 地下の史跡見学ツアーがあります。下は小学館の「日本歴史館」の挿絵から借りました。東シナ海を渡るのは危険を伴う航海です。新羅(しらぎ)との関係が悪化した時は東シナ海を南路渡ったらしいが、大陸側まで寄港地が無い。長期の航海となり、また食糧なども多く積む為に船の大型化も図られたらしいが、考えたらこれはガレー帆船。長くはこげないので帆に頼る所も多かったと思われるが造船能力も低く季節風など航海技術も乏しい。3割の船は難破したと言う。その為に一気に沈まないよう船の設計も考えられたらしいけど・・。時間かせいでも泳げなければ・・。下も小学館の「日本歴史館」の挿絵から遣唐使船復元図全長25m。最大幅9.7m。120~140人乗り。この設計で復元船の実物が造られている。楠(くすのき)が主で杉、檜(ひのき)、松も使われた。船底を隔壁(かくへき)で区切ってブロック割にし、一気に沈まないよう対策されたらしい。タイタニック船の沈没を思い出した遣隋使や遣唐使に選ばれる事は名誉な事であるけれど、命がけだったわけで、無事に帰国出来た者が成功者になれたのですね。大阪歴史博物館の宮中フィギュア(宮中の侍従達)です。ところで、大陸側(随や唐など)から見ると、皇帝に対して周辺国の君主が認めてもらう為に貢物(みつぎもの)を持ってやって来る朝貢使(ちょうこうし)に捉えられるようだ。が、実際、朝貢を受けた大陸側(随や唐など)は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜(かし)する為に貢物を献上する側の方が(土産が多く)お得となっている。※ 返礼もあるので大陸側も、何者でも朝貢を認めた訳ではなかった。話しは戻って、有名な「日出ずる処の天子・・」の書き出しで始まった失礼な? 文面であったが、煬帝(ようてい)はこれを認めてくれた。間違いなく国のトップからの使者と理解したからだろう。国のトップ同士が話しを付け、この時(第一回は600年)、正式に国交を結んだ? 開かれた? のである。遣隋使と遣唐使がもたらしたのは先進文化日本は仏教の輸入が当初の目的であったが、同時に大陸の先進的な技術や文化、政治に至るあらゆる物を学び持ちかえったのである。これは唐の時代になっても同じく遣唐使船には僧侶だけでなく、文官や政務官など多くの留学生が同行し、あらゆる物を学び、吸収して帰国した。※ 仏教に至っては、派がすでに複数誕生しているので、誰に師事するか? もあったろうし、流行の派(最先端の仏教)は重視されたかもしれない。また、彼らの帰国時には経典のみならず、書や暦、陶磁器などすぐれた文化の名品も持ち帰っている。実際、遣隋使や遣唐使の帰国時には皇帝から天皇へのたくさんの土産が持たされたはずだ。※ それらは奈良の正倉院に現在も宝物として残されている。つまり遣隋使と遣唐使は単に交易を目的としたものではなく、彼らが持ち帰ったのは国交によってもたらされた文化というお宝だったと言う事だ。遣唐使船はただの交易船では無かったと言う事でもある。日本からしたら、実際に正倉院にある「ササン朝の切子グラス(6~7世紀頃)」など遠くペルシャからもたらされた古代ローマン・グラスはあこがれ以上の眩しい文化だったろうと思う。※ 古代ガラスについては「アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード※ 仏教の伝来については、「倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)」の中、「仏教の伝播」・「日本へのルート」・「日本への伝来」 で多少書いています。リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)当時、70の周辺各国が唐に朝貢使(ちょうこうし)を送る関係が合ったとされる中、朝貢関連の国との取引もむしろ唐に派遣した遣唐使(630年~894年)よりも多くあった。遣渤海使(けんぼっかいし) (728年~818年) 輸出 (絹、絁(あしぎぬ)、糸、水銀、椿油、漆など) 輸入(毛皮、昆布、朝鮮人参、日干し、蜜など)遣新羅使(けんしらぎし) (668年~836年) 輸出 (金、絹、絁(あしぎぬ)、錦、真綿、美濃絁) 輸入(佐波利製食器(金属食器)、朝鮮人参、絨毯、香辛料など)遣唐使らの航路図資料は小学館の日本の歴史(上)から借りました。遣唐使は公式な外交船。だから難波宮から出港していた。遣唐使の停止、再開、停止そして唐の滅亡唐(とう) 618年~907年該当する日本の時代は、飛鳥時代から平安の中頃まで飛鳥時代 592年 ~ 710年奈良時代 710年 ~ 794年平安時代 794年 ~ 1185年日本と唐の関係は当初良行であったが、同時に日本は朝鮮半島の百済(くだら)とも300年に及ぶ強固な同盟関係を持っていた。※ 当時朝鮮半島には日本の統治領もあった? 「朝鮮半島の倭人について」は、「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」で触れています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)朝鮮半島で起きた動乱で百済(くだら)は唐や新羅と敵対し戦争(白村江の戦い)になった事から、日本は百済側に付き参戦。それ故日本も唐や新羅と敵対関係になり遣唐使は一時停止された。※ 白村江(はくすきのえ)の戦いについても「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」の中、「百済の最後、白村江の戦い」で書いています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)以降に遣唐使は再開される。しかし。894年、菅原道真の建議により再び遣唐使は停止された。国内の災害や唐の衰退などが要因であったようだ。そうした事からその間、日本の朝廷は許可なく異国に渡ることを禁じた渡航制限と、唐や宋などの商船の来航制限をもうける措置をとったらしい。停止から13年、唐は907年に滅亡した。結局、遣唐使は再開されないまま終わった。つまり、ここに公式の外交使節団は終ったのである。次代の宋(そう)の成立には間がある。※ 唐以降の変遷 唐(とう)→宋(そう)→明(みん)おまけ 新羅との交易新羅(しらぎ) BC前57年~935年※ 7世紀中盤(三国時代)・・新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立(ていりつ)※ 668年~900年(統一新羅時代)・・朝鮮半島唯一の国家新羅の時代※ 10世紀(後三国時代)・・新羅が分烈、後高句麗と後百済の再び3国に。新羅の商人もかなり日本に来ている。白村江の戦い(663年)以後、668年以降に日本は遣新羅使を派遣し国交回復?以降の天皇は親新羅政策をとったが8世紀の終わりに新羅の内乱が勃発。多数の難民が日本列島へ亡命し帰化申請する事態が発生。翌780年に公式の遣新羅使は停止されたが、民間レベルの交易はやはり残ったらしい。※ 韓国の国立中央博物館で新羅時代の日本への航路図を見た。朝鮮半島から新潟に航路を取って新羅の商人も頻繁に日本に来ていた事を示していた。彼らは日本(新潟の糸魚川)で産出される翡翠を欲っしていた。華々しい黄金文化で栄えた新羅(韓国)では、勾玉(まがたま)として翡翠は必需。しかし、絶対的に需要はあるが自国で産出できなかったからだ。大陸側にとって、日本の翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)、真珠(しんじゅ)はまさに宝玉であった。遣唐使の停止後の大陸との交易事情 宋(そう)→明(みん) 新羅民間レベルの日宋交易(にっそうこうえき)宋(そう) 960年~1279年※ 960年 ~ 1127年 (北宋)※ 1127年 ~ 1279年 (南宋)該当する日本の時代平安時代 794年 ~ 1185年 (平氏政権 1167年 ~ 1185年)鎌倉時代 1185年 ~1333年※ 栄西(1141年~1215年)、臨済宗(りんざいしゅう)を1191年宋より持ちかえる。※ 道元(1200年~1253年)、曹洞宗(そうとうしゅう)を1226年宋より持ちかえる。唐が滅んだ後、当然次の宋(そう)との間で国交が交わされ、遣宋使(けんそうし)が派遣されると思うところだが、実際、交易は行われていたが、それが遣隋使や遣唐使の時のような皇帝と天皇による国際的な国交か? と言うとそのクラスではなかったと思う。単なる民間の交易を認めただけ・・と言うレベルに思う。1401年の遣明使(けんみんし)にしても、幕府の使者よる派遣で朝廷による使者ではなかった。先に触れたが、朝貢(ちょうこう)受ける側も相手を選ぶ。相手は国のトップである天皇でなければならない。宋と明の交易は単に交易を認めただけのレベルで、朝貢(ちょうこう)にレベルがあったとするなら、極めて低いレベル。明との交易では勘合札まで持たされているのだ。遣隋使や遣唐使の時のような最上級の国交とは決して言え無かったと言える。そう言う意味では遣唐使レベルの国交は以降、無かったと言えるのではないか?遣宋使船の復元模型図であるが、船を見れば一目。一般の船である。こちらも小学館の「日本歴史館」の挿絵から。いらない部分を落として若干修正して出しています。平家による宋(そう)とのプライベート貿易大陸との間に全く交流が無かったわけではない。民間レベルの交易は常に存在していた。むしろ宋代になると唐以上に日本に来航する商人が増え貿易は活発化する。お互いに欲しい物があったと言う事だろう。遣隋使や遣唐使と異なるのは、その交易の窓口が確実に北九州博多に移動した事だ。正式な遣隋使や遣唐使なら宮中まで来なければならない。基本は私貿易なので宮中にあいさつする必要はなかったが、朝廷による検閲は行われた。検閲の間に商人が暮らす商館もできたし、11世紀中頃には宋商人の集まった街まで出来ている。中世の博多は交易窓口として大いに栄える事になる。また、南宋に渡る日本船も年間40~50艘(そう)あったらしい。輸出 (砂金、銀、水銀、硫黄(いおう)、阿久夜玉(アコヤ真珠)、夜久貝、琥珀、水精(水晶)、象眼、緋襟、鷲羽)輸入 (沈香(じんこう)、麝香(じゃこう)、甘松(かんしょう)、衣比(えび)、丁子(ちょうじ)、綾、錦、羅(うすもの)、穀(こめ)、呉竹、甘竹、吹玉、銅銭、陶磁器、薬、書物など)※ 沈香(じんこう)、麝香(じゃこう)、甘松(かんしょう)は香(こう)の材料です。香道(こうどう)と言う文化があるが、貴族は着物に香をたきしめるのがオシャレとされたから? 香の原料の輸入が多い?一方、宋の側は日本の金や宝玉などが多いが、特筆するのは硫黄(いおう)である。宋代になると硫黄(いおう)の量が特に増していると言う。どうも火薬の材料になっているらしい。つまり、火薬を使う兵器の発達による需要だろう。そう言えば、鉄炮伝来の時に日本は硝石(しょうせき)を輸入していた。火縄銃の火薬の材料である。10世紀から13世紀、日本と中国の宋朝の間で日宋貿易(にっそうぼうえき)は民間レベルでは盛んに行われていた事が解る。この民間レベルの交易に目を付けて成功したのが平家なのである。平忠盛(1096年~1153年)は舶来物を院に献上して近臣となると、伊勢産の水銀などを輸出して利益を上げた。この宋との交易は平家の富を増し、財政基盤を造る事になる。太宰府を排した独占的貿易で平家台頭平忠盛は太宰府を排除して、日宋貿易の独占を図ろうともしたらしい。日本は古来より、防衛の意味でも交易の正式な窓口を北九州博多の太宰府(だざいふ)に設定していた。それ故、当初は太宰府だけでの取引であったが、それを嫌ったのはむしろ宋の商人の方だった? だから? それ以外の場所での密かな取引が横行していく。実際、太宰府を避けて宋の商人が博多や薩摩、越前まで来航していたと言うが、平家政権下(1167年 ~ 1185年)の日宋貿易では瀬戸内海の港も利用したらしい。これら手法で朝廷を介在させない民間レベルの交易がより増大? 平家による交易の独占が可能になった。なぜ公式の太宰府を避けたのか? その理由は、商船が到着すると官人が臨検(りんけん)を行い、交易に至るまでが時間がかかりやっかいであったからだ。来航理由、船員の氏名、積荷の確認をし官人がリストを造り京都に送った。京ではそれが朝議にかけられ天皇の親裁いかんで商人を追い返すか、滞在を許可して貿易を許可するかが決定された。この間1~2ヶ月を要した。あわよくば貿易が許可されたとしても、最初に朝廷が買い上げる品のリストが造られ、先物買いされた。残りが民間の貿易になるのだから、朝廷が欲しい積荷が優先で許可が出たはずだ。逆に興味の無い品には許可がなかなか出なかったかもしれない。しかも当時の日本は「絹を代用貨幣としていた」。つまり日本にはまだ貨幣経済が存在していなかったので朝廷の支払いは絹反(きぬたん)であったと思れる。物々交換にしても言い値にしても、取引はお互いが満足した物でなければならない。シルクロードで絹を商売にしている国である。宋の者に絹はいらなかったはずだ。何より、京都にお伺い立てる時間が惜しい。帰国も貿易風を待たなければならないとすると、滞在はより長くなる。それ故、朝廷との取引で不満が出たのは当然だろう。だから平家は朝廷を差し置いて、 私的な交易を行い宋の商人の欲しい物を提供し良い条件を提示して素早くビジネスしていた? 輸出入の市場を独占できたのだろうと推察する。代用貨幣から貨幣経済へ貨幣と言えば、708年に日本で鋳造発行された和同開珎(わどうかいちん)がある。また以降250年の間に十二種の貨幣(皇朝十二銭)が鋳造されているのだが、もともとの流通量が少なく、平城京と平安京の一部で多少出回ったものの? 貨幣として流通する事もなく958年を最後に廃止されたらしい。唐を真似て貨幣を鋳造したものの、そもそも原材料の銅は輸入にたよっていたので数も少なく流通しなかった。日本の市場で貨幣は時期尚早(じきしょうそう)。市中ではまだ物々交換の方が良かったのだろう。そんな中で朝廷じたいも絹を放出して現物に替えていた。つまり朝廷が代用貨幣として使用した物品貨幣は絹織物であったと言う事だ。当然、絹の相場に上下もあったので、宋銭が出回れば、必要の無い絹は余剰し、価値は下落した。平家は宋との交易を進展させると、仏具の材料として輸入していた銅製の宋銭(一文銭)を大量に輸入して国内で流通させようと考えたらしい。実際、絹よりも利便性の高い宋銭の流通は、朝廷が禁止しても進んだ。つまり実体経済で必要とされたのは宋銭だったから貨幣としての絹の需要は減り、絹の価値は下落。よって朝廷の収入は減少して行く。下は大阪造幣局博物館で撮影したものです。一方、宋銭を大量輸入した平家は財を増やし資金力で朝廷を圧倒。平家による政権の基盤となり、ここに武士の進出が始まった?※ 平清盛の地位が上がると共に平氏一門の官位も上がった。※ 1179年(治承3年)後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。平清盛(1118年~1181年)と後白河法皇(1127年~1192年)との確執は宋銭の流通問題にもあったのだ。因みに、日宋貿易を半ば独占した平清盛(1118年~1181年)は、その富を政権基盤とし、娘である平 徳子(1155年~ 1214年)を入内(じゅだい)させ将来の天皇となる孫(高倉天皇と徳子の子)も誕生させた。清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当・中納言に昇進。栄華を極めるに至る。※ 高倉天皇(1161年~1181年)第80代天皇(在位: 1168年~1180年) 安德天皇(1178年~1185年)第81代天皇(在位: 1180年~1185年)誤算は高倉天皇の早世か? 後白河法皇との関係はより悪化。また清盛自身も突然の熱病で1181年に急死。話しは戻って・・絹を代用貨幣とした経済は源平合戦(1180年~1185年)以後も続いた。鎌倉時代に入ってようやく幕府は1226年に宋銭を認めたが朝廷が公式に認めるのはさらに4年後の1230年。また、源平合戦(1180年~1185年)以後は、公式ではなかったが鎌倉幕府(1185年~1333年)は民間の交易を認め、また唐や宋などの商船の来航制限を解除したらしい。互いに需要があったからだ。またこの時代に貿易船で大陸に留学する僧も増えている。※ 大陸側が政変で国が変わっても私貿易は続いている。因みに、銅の宋銭を輸入して日本での貨幣の流通を図っていた平家であるが、当の宋ではすでに紙幣経済が現れている。重い銅銭では取引に不都合で最初、手形が利用されるが、不当たりも出だした事から紙幣に移行したらしい。1215年、紙幣の価値維持で宋は銅銭の利用を禁止。それらは輸出に回された。※ 紙幣は手形から進化したものだった。日宋貿易と日明貿易が民間レベルの交易であったわけ宋(そう)(960年~1279年)の後に日本が交易をするのは明(みん)であるが、実はこの間に元(げん)の国が存在する。「元寇(げんこう)の襲来」と、習ったはずだ。モンゴルから発した元(げん)は鎌倉時代に2度に渡り艦隊を組んで日本に襲来した異国の敵である。先に触れた亀山上皇時代に襲来している。first 1274年、文永の役(ぶんえいのえき)・・元と高麗の連合軍の艦隊で襲来second 1281年、弘安の役(こうあんのえき)※ 台風と言う神風で撃退したと習った記憶があったが、そうではなかったらしい。しっかり上陸され戦闘が行われている。明(みん) 1368年~1644年該当する日本の時代室町時代 1336年 ~ 1573年 (南北朝時代 1337年 ~ 1392年)(戦国時代 応仁の乱 1467年 ~ 1590年)安土桃山時代 1573年 ~ 1603年江戸時代 1603年 ~ 1868年足利氏によるプライベートの貿易平家だけではない。室町幕府を開いた足利氏も私交易を行っている。足利義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)は1401年に明との交易を開こうと試みた。実は在職中の交易ではない。なぜなら、明側は天皇の臣下(幕府)との公式の通商を拒否したので義満は出家して一個人として民間レベルで明と交易をする事になったからだ。なぜ個人が?遣明船は幕府が送ったが、将軍ごときでは相手にされなかったらしい。国を代表する天皇クラスでなければ取引はしない? それが明の意向だった? ただし民間レベルの渡航は認めたのだろう。そう考えると勘合札(かんごうふだ)などと言う証票(しょうひょう)が必要だった理由も解せる。遣明船だったらあり得ないからね。それ故、室町幕府が交易していたのではなく、当初は足利義満個人が明との独占的な交易を行い、結果的に足利家の富を築く事になる。それは宋と平家との貿易に非常に似ている。異なるのは足利家から征夷大将軍が出ているので政情も安定していた事だろう。プライベートなのだからお金は自由に使えた。だから芸術にお金を贅沢に使う事ができたとも言える。将軍の立ち位置では正式に国交が結べない。これはもしかしたら鎌倉幕府も室町幕府と同じ理由で国交が結べず、民間レベルの貿易しかできなかったのではないか? と考察もできる。※ 鎌倉時代は元寇の襲撃があり大陸側も安定していなかったが・・。また、それらを踏まえると、かつて「日出ずる処の天子・・」の書き出しで隋(ずい)に送られた書簡は、やはり「この国のトップが挨拶している」と言う事を相手側に明確に知らしめた一文であった。つまり、隋も、唐も、宋も明の皇帝も、日本のトップとしか国交はしないよ。とい言う態(たい)だったと言う事だ。そう言う意味で日本は希望したが、遣宋使も遣明使も成立しなかったと考えられる。最も公式は無くても、現実に必要な貿易は行われていたから交流があったと言うのは事実。実際、留学を希望する者らにとって渡航の道が開けた事の方が意義があったと思われる。先にも触れた臨済宗(りんざいしゅう)を輸入した栄西禅師(1141年~1215年)は1187年に宋に留学(2度目の宋への渡航)。1191年宋より帰国。これは平清盛の時代に宋に渡っているので平家の貿易船? で渡航していると思われるが勉学して戻ってくる時、平家は没落していた。※ 俗に源平合戦と呼ばれる「治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱」は平家政権に対する反乱で、敵対していた後白河法皇を源頼政がバックアップして 平氏 vs 源氏による戦闘が始まった。1180年から6年に渡る戦いは、最終的に1185年の「壇ノ浦の戦い」で平家が負け終焉。次代、鎌倉幕府は源氏による政権となった。栄西禅師が帰国した時は源氏の時代となっていたが、帰国してからは鎌倉幕府の庇護を受ける事ができたと言うわけだ。禅(Zen)が日本に入ってきた時はそんな時代の狭間だったのです。禅宗から生まれた文化京都と言えば今まではきらびやかな貴族文化が花開いていたが、幕府の本拠となると武士が増え、武家の好む文化が開花する。ところで、武家の信仰を一心に集めたのが、鎌倉時代から比護されてきた禅宗である。禅の精神は武家の精神に通じる所があって? 室町幕府の時代に入っても禅宗が興隆(こうりゅう)した。また、禅僧が日本に持ち込んだのは信仰だけではない、帰国した僧らは禅の影響を受けた文化のみならず大陸でのあらゆる文化を持ち込み広めて行く事になる。建築、庭園、漢詩文、山水書画(水墨画、書道)の他、茶道、華道、武道、等「道」と付くものがたいていそうである。なぜなら「道」そのものが中国哲学上の用語となっていて、礼や義などを超越した真理とされている。つまり万物、広げれば宇宙まであらゆる終始に道は存在する。老子や荘子などの道家(どうか)や孔子などの儒家(じゅか)によって説かれ、あらゆる「道」に思想が形成されて行く。今は古武道と一括りされるが、剣術、柔術、槍術、弓術、砲術なども禅の浸透と共に技術が体系化されてまとめられ道が形作られた。前回も触れたが、茶を日本に持ち込み、文化より先に茶会に精神性を与えたのも禅寺院である。茶祖 建仁寺でとり行われる四頭茶会(よつがしらちゃかい)は現在の茶会と異なり、侍香(じこう)、供給(くきゅう)、提給(ていきゅう)、行者(あんじゃ)など多くの役割を僧、非僧により4人の正客を拝する物。※ 現在、茶祖栄西禅師御生誕讃法会で執り行なわれる四頭茶会では表千家、裏千家、(煎茶)花月庵の茶道家元らが顕彰(けんしょう)の奉仕をするそうだ。また、水墨画自体は唐代にはすでにあったが、山水書画と共に水墨画も武士らに好まれた。禅宗では、墨の濃淡で表現する絵に内面を読んだのだ。写実とは事なる、また色彩が無いだけにその濃淡は内面の深さを表現する。つまり目に見える物が全てではない。ある意味抽象だが、物の本質をそこに表現する絵師。また見る者は絵師の精神性をもそこから受け取る。絵の形を見ると言うよりは、それが訴えてくるイメージを受け取る?そうした水墨画は屋敷の屏風(びょうぶ)やふすま絵に描かれるようになり如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)、雪舟(せっしゅう)など相国寺からすぐれた絵師が輩出されている。建仁寺方丈 襖絵(ふすまえ)と庭園重文 海北友松 筆 雲龍図襖※ 海北友松(かいほう ゆうしょう)(1533年~1615年) 安土桃山時代から江戸時代初期の絵師。海北派の始祖。枯山水 大雄苑(だいおうえん)大雄苑(だいおうえん)は1940年に造られた枯山水庭園。方丈の南に位置する。雲龍図襖のある部屋の前庭であり、見えるのは法堂。花頭窓(かとうまど)からの大雄苑(だいおうえん)花頭窓(かとうまど)は蓮の花弁を図案化した上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った禅宗様式の窓1940年に“植熊”加藤熊吉氏氏により作庭。白砂に苔と石を配した枯山水と言う様式である。石塔は織田有楽斎が兄(織田信長)の為に建てた供養塔。白砂に「うねり」と「渦紋」の文様が描かれた枯山水は大海を表しているようです。海北友松 筆 琴棋書画襖重文 山水図襖海北友松 筆潮音庭(ちょうおんてい小書院と大書院の間にある苔の美しい庭。三尊仏に見立てた三尊石が苔の美しい庭に置かれている。仏教の三尊仏になぞって組まれた「三尊石組(さんぞんいわぐみ)」は中央に大きな中尊石、左右に脇侍石(きょうじせき)を据えて構成。日本最古の庭園書「作庭記」にも記される石組みの基本の様式の一つ。仏教思想を反映した石組みは他に「須弥山石組(しゅみせんいしぐみ)」がある。禅の心〇△□とは〇△□乃庭(まるさんかくしかくのにわ)現代の小堀遠州とも称される北山安夫 氏、2006年に作庭。〇△□(まるさんかくしかく)を表現する庭。〇△□ は禅の心を表す図形。〇(円)・・・禅の思想やあらゆる生物、自然、宇宙全体を表現する時に描かれる〇(円)を一円相(いちえんそう)と呼ぶそうだ。また、円は切れていない。途切れず続く(循環する)ので絶対的な真理を表してもいるそうだ。△(三角)・・坐相 足を組んで座禅をしている姿勢を表現した形が△(三角)で、これを座相(ざそう)と呼ぶそうだ。禅には「非思量(ひしりょう)」と言う言葉がある。非思量(ひしりょう)は頭を空っぽにして心を無にすると言う状態を指す言葉らしい。逆に思量(しりょう)はあれこれ考え心が一杯になり視野も心も狭くなってしまった状態を指す。つまり追い詰められた状態が思量(しりょう)である。そんな時は座禅を組んで自我を解放しましょう・・と言う事で座禅する時は「非思量(ひしりょう)」で在らねばならない。□(四角)・・枠で囲まれた□(四角)は捕らわれた心を表しているそうだ。たいていの人は常識と言う枠の中で生きているが、それ故、悩みや苦しみも持っている。そんな枠から一歩踏み出す事で心が捕らわれから解放され、自由になれると言う。〇△□の意味を見て、□△〇のが解り易いのではないか? と思う。結局のところ、捕らわれた心を解放して坐禅を組み無の境地に至り真理を求める。と、言うのが〇△□(まるさんかくしかく)の意図(いと)するところだからだ。他の方の庭の説明に疑問があり、追求しました。庭の解釈も、まさに□四角の枠の中に渦紋の○円がありさらに島? ○円がある。植えられた木は座した人だと思う。白砂は海、あるいは宇宙であり、その中心に真理がある。真理の中心に植えられた木は真理に辿り付いた人? そんな解釈も出来る。Part3 につづく。禅を深掘りするつもりは無かったが、禅のもたらした文化の奧は深いからスルーできない部分もある。枯山水は石組みの意味がわかるともっと面白い。次回は庭園三昧です。ところで、「非思量(ひしりょう)」と言う言葉、私は知らなかった。これ禅用語でしょうね。仏教の方で聞いた事が無い。言葉の方が逆に難しい気がする。Back numberリンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング
2021年12月11日
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