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(テレビで)エリザベス女王が議会出席の為に久しぶりに王冠をかぶっているのを見た。
おそらく、ウエストミンスター憲章にのっとった形式的な議会参加である。そして、王冠は「王冠への忠誠」の為に必要な道具なのであろう・・。
王冠の正面には例のスペインのペドロ王がグラナダ王(イスラムのスルタン)から奪い取った「黒大使のルビー」が光っているのが見えた・・。
王冠はロンドン塔の金庫から出されてきたものだし・・。王冠にはそれはそれは深い歴史がきざまれている。長い歴史の中に壮絶な事件がたくさん盛り込まれている国だけに、王冠もさぞや重かろう・・・と、ふと思ったのだ・・・。
今年2010年3月「セビーリャのアルカサル 6 (黒大使のルビー)」の中、巨大ルビーの惨劇の中で紹介。
リンク セビーリャのアルカサル 6 (黒大使のルビー)
さて、ハワイ王国の話であるが、 ハワイを最初に見つけたのはジェームズ・クック
である。
彼はイギリス海軍省と王立協会の後押しで、第三回目の航路発見の任についていた
。
要するに 最初にハワイにかかわった国はイギリス
なのである。
ハワイ統一王朝 2 (ハワイ王国とイオラニ宮殿)
ハワイ建国と滅亡のプロセス
イギリスとの安全保障条約
イオラニ宮殿
ハワイ王国
ハワイ王国の滅亡
カメハメハ大王像
1883年のカラカウア王の戴冠式の日に除幕
アリイオラニ・ハレ(ハワイ州最高裁判所)の正面
に飾られ、イオラニ宮殿を見守るように立っています。
左手の槍は平和を象徴、右手はハワイの繁栄を表現とか・・。

キャプテン・クックによるハワイ発見から100周年の記念像として制作。
ところがこの像は全く本人に似ていないのだそうです。(拡大版は前回載せてます。)

最初の像はイタリアで鋳造され、運搬中に船が沈没。再度制作した像は白人系の顔。
後に引き上げられた最初の像は現在ハワイ島のカメハメハ大王の生誕地カパアウの町に置かれているそうです。(因みにもう一体、ハワイ島のヒロにあるらしい。)
イギリスとの安全保障条約
ジェームズ・クック以降、 多くの外国船がハワイに渡来し、
カメハメハはこれら外国人と積極的に交流を持ったと言われています。
前回最後に紹介したように、クックに同行していた イギリス人のジョージ・バンクーバーを参謀として迎えたのは、島内の対抗勢力を押さえる為だけではなく、ハワイの属国化を狙う諸外国に対処する必要が生じたから・
・のようです。
カメハメハは英国と安全保障条約を結びます
。(ハワイにおけるイギリス人の安全を保障する代わりに有事の祭はイギリスがハワイを防衛する。)
ジョージ・バンクーバーは、アメリカによるハワイへの影響力が日増しに強まる中で、彼はイギリスによってハワイは護られなければならない・・と言う使命感があったようで、王の許可の元にユニオンジャックを掲げたと言われる。
(ハワイの国旗の一部にユニオンジャックがデザイン
イオラニ宮殿の扉に付いている王朝のオリジナル・デザインの紋章。
「UA MAU KE EA O KA AINA I KA PONO」・・大地の生命は正義によって保たれる。1843年カメハメハ3世のスピーチから選ばれた言葉らしい。
ハワイ王国
ハワイ王国を建国したのは1810年。それからリリウオカラニ女王が廃位のサインした1895年までの
85年間がハワイ王国の期間
です。
初代カメハメハ1世から.カメハメハ5世までの5人にルナリロ王、.カラカウア王、.リリウオカラニ女王と8人の王が統治。(皆短命だった)
6代目(ルナリロ)と7代目(カラカウア)王は選挙で選ばれています。
イオラニ宮殿(Iolani Palace)
7代目カラカウア王(1874年~1891年)により1882年に完成
。
それはアメリカにおける唯一の王宮でした。
1882年~1891年・・カラカウア王とカピオラニ王妃が使用。
1891年~1893年・・リリウオカラニ女王が使用し、幽閉されていた宮殿でもあります。
1階右に大きなホールと玉座があったように記憶しています。
1階左がリビングとダイニングだったか・・。2階右の部屋がリリウオカラニの幽閉された部屋だったような・・・。(彼女が制作していたハワイアン・キルトが飾られていたような・・・。)
昨年1月に行ったのにもう忘れてます・・・![]()
ハワイ王国滅亡後は共和国の、そして自治領の、と所有変わり、 1893年までハワイ州の政府庁舎としても使用
されていたようです。
その後宮殿は放置されて荒れ果て、 1978年、宮殿は修復されて博物館として現在も公開
されています。
一度に見学できる人数が限られている(自由には見学できません)ので、要予約。
宮殿内は撮影禁止。ボランティアの人が宮殿内部の解説をしてくれます。
尚、宮殿内の床はコアの木を使用しているので、土足厳禁。靴カバーを付けるか、ヒールの場合は靴を脱ぐ事になります。
リビングには歴代国王の肖像画がかけられていたと思います。
ハワイ初の電話や自家発電による電気が通じていて、近代的な西欧の生活様式でした。 半地下部は、厨房やランドリーなどの裏方部屋。
イオラニ・バラックス
近衛兵の詰所は現在チケット売り場とトイレとお土産屋さんになっています。奥に見えるのが宮殿。
宮殿の左側面右が正面
宮殿の正面と裏だけ階段が付いています。
宮殿の左側と裏側は駐車場。(数は少ない)
リリウオカラニ像と後ろに見えるのが宮殿。
リリウオカラニ(LiLI UOKALANI)(1891年~1895年)
リリウオカラニ女王は ハワイ王国最後の女王です。先王のカラカウア王の妹
になります。
「アロハ・オエ」の作詞者としても有名
です。
ハワイ王国の滅亡
ハワイは近代国家になるにつれて諸外国に狙われていきます。
カラカウア王はハワイ経済のためアメリカとの交渉を積極的に行っていたようですが、そのサトウキビの大規模なプランテーションで成功した砂糖貴族達によって追い詰められる事になる
のです。
王政派と、王政を廃してアメリカへの併合を目指す共和制派との対立はリリウオカラニ女王の時にピーク
となります。
リリウオカラニは女王として 即位すると、ハワイアンの為のハワイを作る為、権利を取り戻すべく新憲法を発布。共和制派との対決姿勢を強める事に・・。
(当時すでにハワイの土地の3分の2が外国人の所有だったそうです。)
女王の動きを機具した 白人権力者は1893年1月アメリカ海兵隊をイオラニ宮殿に向け、包囲して政庁舎を占領して女王を幽閉
。(日本はハワイ王室の味方として抗議の軍艦を出したと言います。)
1894年ドールを大統領とする暫定政府が出来、事実上ハワイ王国は終焉。
つまり、ハワイ王国は白人勢力の圧力により崩壊したと言う事になります。
1895年1月6日、王政派が反乱を起こすとリリウオカラニは再び首謀者として逮捕され、幽閉。
結局、 1895年1月22日、女
王廃位の署名を強要され、彼女がサインした時、王室は完全に消滅した
のです。
ウキペディアより、リリウオカラニの即位の写真(パブリックドメイン)
back number
リンク ハワイ統一王朝 1 (ハワイアンのカプ、マナ、フラ)
リンク ハワイ王国歴代の君主 1 (カメハメハ朝)
リンク ハワイ王国歴代の君主 2 (カラカウア朝)
リンク バーニス・パウアヒ・ビショップ博物館 1 (ホノルル)
リンク バーニス・パウアヒ・ビショップ博物館 2 (鳥の羽のマント)
ノースショア(North Shore) 2016年08月14日
ハナウマ・ベイ(Hanauma Bay) 2 2013年12月23日
ハナウマ・ベイ(Hanauma Bay) 1 2013年12月20日