わたしのこだわりブログ(仮)

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2013年08月21日
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星 ​写真の入れ替えをしました。​

聖地から地中海に分散した聖ヨハネ騎士修道会は、ロードス島ではロードスの騎士団(Knights of Rhodes)と呼ばれマルタ島ではマルタ騎士団(Knights of Malta)と呼ばれたのです。

他にも聖騎士団 ジョン(Saint John)とも呼ばれています。


ウイーンにマルタ教会があり、これを書いた後に訪問して写真を撮っていたので 次回のロードス騎士団の方にマルタ教会の写真追加します。
リンク ​ 騎士修道会 3 (ロードスの騎士) ​​




修道騎士は修道中に子孫を作る行為は許されない。
それ故、数百年続いた紛争中の聖地に新しい生命が生まれるはずはなく、戦士が死ねば、新しい戦士を外部から補充しなければならなかった。

常に「前線で戦う騎士募集中」だったと言う事だ。

何だか虚しいような事実であるが、これを彼らは正義で貫いていたのだから凄すぎる。


騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)

修道院が軍事化した理由
テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)の末路
聖ヨハネ騎士修道会(Knights Hospitallers)成り立ち

クレルヴォーの修道士ベルナールの肝入りで人気を博したテンプル騎士団にはお金も人もあふれるほど増えた。
1129年のトロワの宗教会議で公認される前後から寄進が始まり、アラゴン、カステーリャ、イングランド、フランスに支部が造られユーグド・バイヤンが亡くなる1136年には西ヨーロッパにかなりの土地を所有する程になっていたと言う。

テンプルはもはや貧しき騎士ではなくなり、中世最もお金を持った教団に成長する

​​ この頃、そんなテンプルを真似て仕事幅を拡大。修道会の中に軍事力を持ったのが巡礼病院だった聖ヨハネのホスピタルである。
彼らは傭兵を雇い騎士修道会にシフトして行く のである。

赤字に白い十字は聖ヨハネ騎士修道会のマーク

ステンドグラスはウイーンのマルタ教会(Maltese Church)のもの。
正式名は「洗礼者聖ヨハネ教会」。今回紹介している聖ヨハネ騎士修道会のウイーンにおかれた教会で創建は1217年。
ウイーンのマルタ教会は次回に写真追加します。

第1回十字軍 アンティオキア攻囲戦 (1097年10月~1098年6月)

ウィキメディアコモンズより
作品は後年1474年に描かれたもの。

アンテオキアの鉄壁の城壁は、かつてユスティニアヌスが築いたもの。
一時はイスラムの元にあった街を再び十字軍が取り戻す為の攻防戦である。
絵画には聖ヨハネ騎士団の十字の旗が描かれているが、聖ヨハネ騎士団が成立するのは1136年以降のはず。因みにテンプル騎士団もまだ無い。
正確に言うならアンテオキア戦闘の段階では、各国の寄せ集めの軍隊による戦いであるし、甲冑を身に付けた戦士も少数だったはず。確実にこんな劇的な戦いではなかったぽっ

修道院が軍事化した理由
聖地が奪還されたから終わりだ。・・と思うのは浅はかだ。
力で奪った物は奪い返される可能性がある。ましてそこは異教徒の中の小島に近い場所。さらにそこはろくに作物も育たない痩せた土地で食料を確保する必要があった

巡礼者ばかりか、あらゆる巡礼物資が欧州側より船で届けられることになる
当然彼らは 安全に物資が届く為の港の確保を必要とする。防衛上その対象はシリアやパレスチナの海岸線1000km
当初十字軍が確保した港は2つだけ、 その後近隣の港街を落とす為に戦いが始まる

しかし主要部隊は聖地を奪還するとほとんどが国に帰ってしまった。
戦士はいくらでも必要であったのに・・。

1291年 アッコ包囲戦(The Siege of Acre)

十字軍が建国したイェルサレム王国の首都アッコがイスラム勢に襲われている所。
作品は1840年に描かれた作品。
抵抗しているのは聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団。

1291年陥落。生き残りの騎士団らはキプロス島に逃げ延びる。
ウィキメディアコモンズより

星 攻める側から攻められる側に・・
後にその立場が逆転。十字軍は聖地エルサレムを奪われ、、アッコを奪われキプロスやロードスに逃れて縮小されていく のである


テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)の末路
1305年、フランス王フィリップ4世(Philipe IV)(1268年~1314年)によりテンプル騎士団に対して執拗なまでの攻撃が始まる
でっち上げの異端告発や風評をも操ったのだ。

問題だったのは「アヴィニョン捕囚 」と呼ばれる当時ローマ教皇自体か特殊な状況下におかれていた事である。教皇は次々亡くなりフィリップ4世におされて教皇クレメンス5世が即位。 教皇庁はローマでなくアヴィニョンにおかれ、教皇権は完全にフランス王の強い影響のもとに置かれていた時代 である。

かくして フィリップ4世の思惑のままにテンプル騎士団は弾圧されて1307年にテンプル騎士団の総長ジャック・ド・モレー始め騎士団全員捕らえられ 財産が没収 。拷問の後に異端審問にかけられた
1312年テンプル騎士団は解散。
1313年総長ジャック・ド・モレーはフランスでフィリップ4世により火刑に される。
しかし、 酷かったのはフランスだけ である。他の国はむしろ同情的だったようだ。

このフィリップ4世は教会にも負けず君主権を確立した王であるが、かなりブラックな王のようだ。
テンプル(神殿)騎士修道会が壊滅させられた本当の理由は、フィリップ4世のしかけた財産狙い・・と言うのが真相のようだ

注:テンプルの資産についてはテンプル教会で・・。
リンク ​ ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)

14世紀のイラスト(テンプル教会の冊子より)
pict-テンプル騎士 6.jpg
火刑にされるテンプル騎士


聖ヨハネ騎士修道会(Knights Hospitallers)成り立ち
第一次十次軍以前に破壊されたエルサレムの巡礼病院再築の為にイタリア、アマルフィの商人が「洗礼者聖ヨハネ修道院」の跡地に建てた病院が始まり である。
ジェラード修道士(Blessed Gerard Thom)(1040年~1120年)が1099年~1120年初代総長になる。

当初は祈りと戦いと病人と貧者の為の看護団体として宿泊所も兼ねた巡礼病院であった が、先述のように 1136年頃から傭兵を雇い1160年には祈りから完全に軍事化され戦う教団に変貌 。(修道会としては一番古いが軍事化するのはテンプル騎士団の後)


ところで、ジェラード修道士がどこ系の修道会かは解りませんが「洗礼者聖ヨハネ修道院」の跡地に建設された巡礼病院の 後ろ盾はベネデイクト修道士会 だったようです。

ベネデイクト会バックの聖ヨハネ騎士団とベネデイクト会から分派したシトー会バックのテンプル騎士団は事ある毎に何かともめて対立。
が、 ライバルのテンプル騎士団が1308年に異端審問で捕らえられると軍事面の主力部隊が聖ヨハネ騎士団に移り、テンプルの遺産も舞い込んで来る


1113年に聖ヨハネ看護団体として認可された時は聖墳墓教会に隣接した場所に所在していた。
pict-エルサレム 9.jpg
偶然撮影したこの門が聖ヨハネ看護団体の本拠だったかどうか確証はないが、信徒の巡礼病院か、宿泊施設であったのは間違いなさそう。

右:十字 ・・・マルタ十字の形状を持つこの印はKnights Hospitallers 時代の印 ?
左:鷲 ・・・福音書記者ヨハネの象徴のワシ(騎士団のヨハネは洗礼者ヨハネなのだが・・)
中:羊 ・・・・正確には「 勝利の旗を持って立っている小羊
旧約時代にはイスラエルの民を表し、 キリスト時代になると洗礼を受けた信者を表す羊 であるが、ここでは勝利の旗を掲げた 傷ついていない羊の姿 をとっている。これはヨハネによる黙示録の傷ついた羊とは対照する健康な羊を表現?

​シンプルに考えたら
杖を持つ羊全部が洗礼者ヨハネを現すアトリビュートかな? 
pict-エルサレム 11.jpg

ところで私は長らく誤解をしていました。 聖ヨハネ騎士修道会は 福音所記者のヨハネであると・・。
本当は キリストを洗礼した洗礼者のヨハネ(John the Baptist)のヨハネ由来 だったようです。

洗礼者のヨハネはサロメに首を落とされ殉教するヨハネと同一人物で、旧約の登場人物ですが、キリストの洗礼者だけあって、カトリックや正教会でも聖人として扱われています。
ビィザンティン時代のイコン、デイシス(Deisis)ではキリスト、聖母と共に居るのがこのヨハネですが、西方教会での扱いはほとんど無い気がします。


さて、 中東を追われ、落ち武者になった聖ヨハネ騎士団はキプロスを経てロードス島に身を寄せます。
ロードスの旧市街ははまさに聖ヨハネ騎士団が要塞化した街そのもの なのです。
次回「騎士修道会 3 」「ロードスの騎士」で関連写真紹介。今回はおまけです。

ロードス島 ロドス・シティの要塞とグランドマスターの城館
pict-ロードス島 2.jpg

今や世界的リゾート地になったロードス島には大型客船が多数出入りする。
pict-ロードス島 16.jpg
歴史は紀元前7世紀に遡る。

pict-ロードス島 14.jpg

カステーリャの守備した城壁
pict-ロードス島 15.jpg

St Ag Nicholas  聖アギオス・ニコラス要塞
pict-ロードス島 13.jpg

pict-ロードス島 10.jpg

ロドス・シティ Marine Gate
pict-ロードス島 3.jpg

2回で終わらず m(_ _)m ゴメンナサイ 

リンク ​ 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
リンク ​ 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)

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Last updated  2021年03月09日 03時02分01秒
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