わたしのこだわりブログ(仮)

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2013年08月25日
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星​ウイーンのマルタ教会の他、ロードスの写真も入れ変え中身も多少追加しました。
書き換えたのでお約束。
「新 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)」にしました。

​​​
今回はテンプル騎士団の紹介が目的だったので The First Crusade(第一次十字軍)から騎士修道会設立までのいきさつををメインに紹介しました。

十字軍についてはその後も何度かの遠征があり、欧州の諸王達も利権をかけた隊を派遣しているので複雑な歴史がたくさん続きます。
が、それはまたどこかで関連してきたら取り上げる事にしてとりあえず聖ヨハネ騎士修道会の最後を簡略に紹介して終わります。


新 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)

アトリビュート(attribute)「 獅子」
流れ流れて・・聖ヨハネ騎士修道会は?
ロードス島(Rhodes)
ロードスの騎士(Knights of Rhodes)
ロードスの騎士からマルタの騎士に
ウイーンのマルタ教会(Maltese Church)
現在の聖ヨハネ騎士修道会正式名称

アトリビュート(attribute)「 キリストを現す 獅子」
マルタ教会の天井のクロッシングに付いていたライオンの彫物。
これの意味がわかりました。スマイル
通常ライオンと言えば福音書記者マルコのシンボルでありアトリビュートとなる物と連想してしまうが、ここでは全く別の意味で使われていた。

​​ ライオンは中世にはすでに百獣の王と認識されていた事から「全人の王キリスト」にもなぞられていたらしい。
また、ライオンは眠っている間もまぶたを閉じ無い動物と考えられていた?  悪魔が「主の羊(人間)」を盗む事が無いよう常にキリストが見守っている 。と言う考えからもキリスト自身になぞられる存在らしい。​​

図は、子ライオンと共に描かれている。
生まれて間もく目を開かない子ライオンに向い吠えて蘇(よみがえ)らそうとしている光景らしい。
その行為もまたキリストが死して神の声に蘇った事が掛けられていると言う。因みに羊は人民一般を現すアイテムです。

​​​​
キリスト教におけるアトリビュート(attribute)とは、その物が何か別の意味を持って表現されている 。と解釈される存在です。
例えば聖人が何かを持っているとすると、その 持ち物で誰かわかるような象徴的なアイテム がアトリビュートと言えます。
以前紹介した使徒ペテロのアトリビュートは鍵(かぎ)。それは彼が天国の門の鍵をキリストから預かった人だからです。
​キリスト教では、いろんなアイテムがアトリビュートとして使われています。
解説の本も出ているくらい数が多いし、一つのアイテムで幾つも意味を持つ場合もあるのでややこしいのです。おそらく時代の認識も違ったからかもしれません。


さて、今回はロードス島へ渡ってロードスの騎士となった聖ヨハネ騎士団です。
​​エルサレム(Jerusalem)  アッコ(Acre)  ​​
​​キプロス島(Cyprus)  ロードス島(Rhodes)  マルタ島(Malta)​​


流れ流れて・・聖ヨハネ騎士修道会は?
一時は聖地を奪還したものの、やがで再び聖地はイスラムの手に落ちてしまう。

​​エルサレムにいた十字軍の騎士修道士はエルサレムが陥落すると、王国の首都を北のアッコ(Acre)に移動。
1291年、そのアッコ (Acre) も陥落。

十字軍国家は中東の拠点を失い地中海の島に逃れてイスラム勢力と戦う事になる。
テンプル騎士団もヨハネ騎士団もキプロス島 (Cyprus) に待避 。​

​​※ ルアド島に逃げて立てこもったテンプル騎士もいたが 1312年テンプル騎士団は解散。

キプロス(Cyprus)島はイングランドのリチャード1世がたまたま占領してエルサレム王が買い取った場所であり、一応十字軍国家の属州であった。
が、キプロスに逃げた段階でテンプルは主要騎士を失っていたので(事務職ばかり?) ほとんど機能していなかったようだ。

一方、聖ヨハネ騎士団はキプロス王国の内紛に巻き込まれ島を出る。
そして当時東ローマ帝国(ビザンツ帝国)領であったロードス島(Rhodes)に渡るのである。
1309年、聖ヨハネ騎士団はロードス島を占拠 してそこに本拠を移すと名前も ロードス騎士団(Knights of Rhodes)と呼ばれるようになる。


ロードス島(Rhodes)
現在はギリシャ共和国の所領 となった ロードス島は極めてアナトリア半島に近いドデカネス諸島にあり、ロードス・シティは島の北端に位置。
pict-ロードス島 19.jpg
ホメロースの詩にも謳われる古代都市だったロードス・シティはBC408年に建設された街。
14世紀から15世紀にかけて聖ヨハネ騎士団が街を占領中に城塞を築き街そのものを要塞化 した。


城壁の上から撮影した市街
pict-ロードス島 17.jpg

同じく城壁の上から撮影。大型客船が多数寄港している。
pict-ロードス島 18.jpg

pict-ロードス島 23.jpg

pict-ロードス島 9.jpg

聖ヨハネ騎士修道会の遺構はどこよりもこのロードス島に多い
ロードス・シティの旧市街はそれ自体がこの島の一番の観光名所になっている。

​​ 中世の城塞都市の特質が最も良く残された場所として
1988年「Medieval City of Rhodes(ロードスの中世都市)」ユネスコの世界文化遺産に登録。
pict-ロードス島 22.jpg
11の門と何層にもかさなる厚い城壁

pict-ロードス島 21.jpg

まるで万里の長城のように延々続く城壁は、その上を歩いて回る事ができる。
pict-ロードス島 20.jpg

ロードスの騎士(Knights of Rhodes)
聖ヨハネ騎士団がロードス島に本拠を移す(1309年)と 1522年オスマン軍によりロードスを追われるまでの200年ちょっとの間に 彼らはここにテンプル騎士団の財産を使って 鉄壁な要塞を築くのである。

もともと巡礼者の病院として発展した彼らは病院としての慈善事業を進めながら戦士として戦ってきたが、ここに来て海軍力も保持する事になる。

​ロドス・シティは高い城壁で囲われた街である。その城壁は区分毎に郷土別に部隊が守備していた。​
pict-ロードス島 1.jpg
Langue(ラーング・舌)部隊
​フランス(仏北部)、オーヴェルニュ(仏中部)、プロヴァンス(後の仏)、アラゴン(後のスペイン)、カステーリャ(後のスペイン)、イタリア、ドイツ、イギリス​

星もともと 騎士団は寄り集まりの為、言語もバラバラ その為に戦時は言語により部隊が分けられた
全体にはフランス出身者が多かったので第1公用語はフランス語。第2公用語はイタリア語。



騎士団通りには、Langue(ラーング・言語?)部隊毎に館が建ち並んでいる。


pict-ロードス島 5.jpg





pict-ロードス島 6.jpg

pict-ロードス島 12.jpg

騎士団長の館
pict-ロードス島 7.jpg





1856年に火薬庫の爆発事故で崩壊。1937年にイタリア人によって再建されるも歴史的な正当性を欠いたリノベーションになったと言う。




pict-ロードス島 24.jpg

ロードスの騎士からマルタの騎士に
1522年、オスマン帝国の第10代皇帝スレイマン1世の軍勢の前にロードスは陥落。

星ロードスを追われた聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)はしばらく流浪の民となり、1530年に神聖ローマ皇帝カール5世よりマルタ島の賃貸契約が締結
賃貸料・・・鷹一羽

マルタ島に渡ってさらなるイスラムからの攻撃を受ける。

キリスト教徒側からするとイスラム勢力と一括りにしているが、実は十字軍が戦ったイスラムは一つではない。
ルイ9世を捕虜として捕らえ十字軍を撃退したのはマムルーク朝であったが、 騎士団が地中海に出てから戦うイスラムはオスマン帝国 になる。

オスマン朝(1299年建国?)はアナトリアの小国から発したイスラム王朝であるが、やがてバルカン半島のキリスト教圏や、同じイスラムのマムルークの所領など西アジア、北アフリカのイスラム教国を征服して地中海の過半を覆う大帝国に発展。

そんな勢いのある軍隊の前にもはや 島一つの騎士団はそれほど相手にされず 、むしろ台頭してきたモンゴル帝国の方が驚異 だったようだ。

1565年の「マルタ包囲戦」はかろうじて撃退するも 1798年6月13日敵はオスマン帝国でなく、ナポレオンの艦隊にあっさり降伏してマルタをあけ渡す。


マルタ騎士団はここに終わる?
しかし聖ヨハネ騎士修道会はなぜか今も生き残っている
居所を失った聖ヨハネ騎士団は、ロシアに助けを求める。
1801年にロシア皇帝パーヴェル1世を騎士団総長にして生き延びるのだ。

1834年に本拠はローマに移り慈善団体として、 現在世界の約94か国と外交関係を持ち、在外公館を設置。国際連合にオブザーバーとして参加する国際組織になっている のである。
(⌒▽⌒;) オッドロキー 


ウイーンのマルタ教会(Maltese Church)
正式名は洗礼者ヨハネ教会(
​Church of Saint John the Baptist)
​​​​​​​​

教会は、カールスプラッツ駅からオペラ座の横を通りシュテファン大聖堂に至るケルントナー通り (Kärntner Straße) 沿いで偶然発見。スマイル



最初は聖ヨハネ騎士団の後方支援の事務所として1217年頃に建てられた場所らしい。
現在の建物は15世紀半ばに建立? さらに1806年に再建された。
第一次世界大戦後、財政難で一度手放され、1960年に買い戻されたと言う。

下は、エントランス上部とパイプオルガン


1730年、祭壇画はJohann Georg Schmidtにより描かれた。




現在の聖ヨハネ騎士修道会正式名称
エルサレムの聖ヨハネ病院の騎士団 (Hospital of Saint John)はその過程からいろんな呼び方がされてきた。
ロードス騎士団(Knights of Rhodes)
マルタ騎士団(Knights of Malta)
​聖騎士団 ジョン(Saint John)

現在の正式名称
KNIGHTS HOSPITALLERS OF THE SOVEREIGN ORDER OF SAINT JOHN OF JERUSALEM KNIGHTS OF MALTA
ロードスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会


騎士修道会おわり

騎士修道会バックナンバー
リンク ​ 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
リンク ​ 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)

リンク ​ 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1
リンク ​ 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)







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Last updated  2023年04月20日 22時02分14秒
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