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用語解説の意味でもどうしてもテンプル騎士団より先に紹介しておきたかったので差し込みました (;^_^A 突然ですが、ロンドンを離れて中東に・・。
写真はエルサレムの聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre)から。
十字軍が何を守ったか?
テンプル(神殿)騎士修道会のルーツがここにあります。
聖墳墓教会のレアな写真もあるので全2回ものになりそうです。
十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1
十字軍とはどんな軍隊か? その目的は?
そもそもなぜ十字軍なるものが誕生したのか?
どんな人達が十字軍に参加したか?
巡礼の地エルサレム
十字軍とはどんな軍隊か? その目的は?
イスラム教徒からキリスト教徒の聖地である
エルサレムを奪還する為に教皇の名の下に各国の王侯に聖地奪還の為の軍隊派遣を要請。
それを受けて組織された討伐軍隊が十字軍(crusade)
です。
十字軍の出陣は時期や出立の場所などさまざまあり、何回かの十字軍(crusade)を数えますが、最初の趣旨で言えば、 教皇のお墨付きによる地元領主と共に聖地を目指したきちんとした団体のみが十字軍(crusade)と数えられるでしょう。
なぜなら聖地奪還ではなく、異教徒討伐や略奪的進軍に変わり、真の目的を失っているものもたくさんあるからです。
※今回は敢えて回数には踏み込まず、十字軍が何だったか・・だけ紹介します。
エルサレム旧市街 神殿の丘
オリーブ山から撮影
岩のドーム(右手前)と聖墳墓教会(左奧のドームと尖塔)
そもそもなぜ十字軍なるものが誕生したのか?
発端は1095年に東ローマ、 ビザンツ帝国の皇帝アレクシウス2世が西のローマの教皇に助けを求めた書簡。
ビザンツ帝国の皇帝アレクシウス2世は1071年の戦いで セルジューク朝トルコに奪われた土地を取り返す為の軍隊を要請
。
彼らは聖地の支配者でもあったので セルジューク朝トルコを打倒して欲しい・・と言う所が本音
。
しかし、ローマの教皇ウルバヌス2世は想定外の方向に動いた。
1095年11月28日フランスの クレルモンでの教皇演説
では
「 東方のキリスト教徒の救援に出かけ、聖地を奪還しよう。
・・それは 天上の栄光を勝ち得るチャンス。
巡礼であると同時に聖戦であり、何よりも贖罪となる。
と言うような内容。
参加志願者が我先に十字軍のバッジを受け取ったのは免罪のキップを手に入れたような熱狂だったのでは? と推察できる。
そして 翌年から幾多の団体が聖地に向かって出かけた。
第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年
ここはラテン語でVia Dolorosa(苦難の道)
イスラエルのエルサレム、旧市街、
イエスが十字架を担ぎ3度目に倒れた場所。ゴルゴダの丘の一歩手前。
見える 聖墳墓教会はキリストの磔刑の場所であるゴルゴダの丘の跡に326年コンスタンティヌスの母ヘレナが巡礼と聖遺物収拾に出かけたおりにここを断定
。
ヴィーナス神殿を取り壊し 、聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre)が建設されたの336年。
(ゴルゴタの丘の所在については、今更・・だが実は異論がある。)
聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre)
どんな人達が十字軍に参加したか?
全ての参加者が軍人(騎士)ではなかった。
完全に戦闘モードの軍隊は全体の1/6程度。
それに非戦闘要員を足すと数万人単位の団体だったようです。
諸侯は自分の周りに騎士を随行。(唯一の本物の戦力)
お付きの 従者や戦えない聖職者もいたし、農閑期の村人など半武装の者もいた
。
(ここまでは教皇も想定内)
しかし免罪キップとなる巡礼ついでに一山あてたい者もいたし、 出稼ぎ気分で随行した者の他に貧困から脱出して新天地に行きたかっただけの足手まといとなる参加者の方が多かったようだ。
その為に わずかな騎士は大勢の武器を持たない者達を守る役目もしなければならず本末転倒。なかなか聖地にたどりつけず疲弊
。
1101年に20万人の十字軍一団が出立しているのですが、聖地にたどりついた者はわずか1%。(それ故「第二次」と言う称号も付かず忘れられた。)
特に トルコ経由の西ルートは危険だらけ
だったと言う。
聖墳墓教会入り口
現在の教会はビザンティン時代、十字軍時代と19世紀に建てられているらしい。
ローマ・カトリック、ギリシャ正教、アルメニア教会の聖地の為に勢力とすみわけができているそうです。
でも、教会の扉を開けるのはそれらキリスト教徒でない者がわざわざ選ばれている・・とか・・。
巡礼の地 エルサレム
313年
、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世によりミラノ勅令が発布。
これは全帝国民の 信教の自由を認めた内容
である。
これより
今まで迫害されていたキリスト教徒は自由を得、キリストの生誕の地や十字架に架けられたゴルゴダの丘のあるエルサレムは熱狂的信者の巡礼の地となった。
キリスト教が公認されて 真っ先に聖地に巡礼し聖遺物を持ち帰ったのがコンスタンティヌス1世の母ヘレナ(Helena)(246年/250年~330年)である。
先に述べたように、ヘレナは場所を特定してそこに教会をたてたばかりか、いくつかの重要な聖遺物を発見している・・とされる伝説がある。
キリストの脇腹を刺したロンギヌスの槍(Lance of Longinus)など・・。
しかし 聖地は638年
イスラムの街となる。
イスラム帝国、第2代正統カリフ(634年~644年)の時代である。
それから十字軍がエルサレムに乗り込むまでイスラムの王朝が支配。
しかし、イスラムの街になった後もキリスト教徒の巡礼は続いた。
心が広かったのはイスラムの国の方だった
。
イスラムの国(アッバース朝、アイユーブ朝時代)はそれなりに 関係を保っていたので、聖地にはいつでも巡礼に訪れる事ができたと言う
。
それ故に 本当は聖地奪還の必要はなかった
。
(エジプトのファーティマ朝時代、カリフ、ハキムの時代に不具合はあったらしいが、彼の死後再び巡礼は保護されていた。)
実際十字軍の派遣直前1026年にはノルマンディー公リシャール2世が700人を引き連れて巡礼に出かけているし、1065年には12000人以上のゲルマン人が巡礼に出かけていたと言う。
セルジューク朝トルコはイスラムの中でも問題児ではあったが、その時代さえ聖地の巡礼を拒む事はなかったと言う
。
ただ、 そこに至る巡礼路には盗賊がいて巡礼は大変危険
だったようだ。
しかし、 キリスト教徒にとって巡礼はその道程が含まれる
。
特定の信仰を持たない日本人にはちょっと解りかねない カトリック信者の死生観
がそこにあったと思う。
ゴルゴタ(Golgotha)の丘は現在、聖墳墓教会の中に含まれている。
ゴルゴタとは髑髏(されこうべ)の意。
いわゆる行灯の下には大理石の石の板が・・。
これが磔(はりつけ)にされたキリストが下ろされて寝かされた場所だと言う。
それにしても 十字軍の功罪は、聖地にいた者をほぼ皆殺しにし、略奪の限りをつくしたと言う事
だ。
その中にはイスラム教徒だけでなくキリスト教徒も沢山いたと言う。
それ故、 奪われたものを取り戻す為の彼らイスラムの反撃が始まるのは必然であった
。
十字軍と聖墳墓教会・・・つづく
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)
リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)
リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)
リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)
リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)
リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)
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