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古代クレタやギリシャ、ローマの文明はどこに消えたのか?
疑問に思っていた人は多いと思う。
疑問に思いながらも追求するチャンスが無かったのは日本の教育では世界史が重視されて来なかったからだろう。
しかし、これからグローバル化の中で「知らない」・・では済まされないかもしれない。
島国一国の日本では想像もつかない戦いの歴史が陸続きの欧州では絶えずあった。
特にほぼ2世紀毎に東よりやってくる大量の侵略者。(インド・ヨーロッパ語族、ゲルマン語派の諸民族)
彼らは数で驚異となる。また同時期に台頭してたきたイスラム教国の聖戦を掲げた侵略は、欧州を暗黒の時代に引きずりこんだのである。
戦いが始まれば全ての創造物は破壊され、ゼロになる。
ゼロが続けば、やがてそれを再生させる人も知識も失われた・・と言う事だ。
クレタやギリシャの文明は古代ローマには継承されたが、かのローマ帝国が滅亡を余技なくされてから、
文明は壊滅されたのだ。(フォロロマーノはその残骸の1つである。)
ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)
ザンクト・ペーター修道院(Erzabtei St.Peter ・ stiftskirche Sankt Peter )
ザンクト・ペーター修道院付属のレストラン「St.Peter」(Stiftskeller das Restaurant)
ザンクト・ペーター墓地(Petersfriedhof)
789年3月
カール大帝(742年~814年)は一般勅令で「すべての
修道院に学校の設立」を指示
つまり 布教にあたる修道院が、修道士のみならず、地域住民の教育を徹底させ、知的水準をあげようとした 事実である
。
その背景には ゲルマン民族の流入により、ローマ時代より築きあげられた高度な文明が破壊された欧州の現状があり、同時に教育が途絶え、乱れ忘れかけられたラテン語の悲惨な現状があったと
思われる。
(長い荒廃の時代に古代ローマ時代から続く、ラテン語はゲルマン語と混ざり乱れ、読み書きのできる者も減ってしまったようだ
。)
カール大帝は、未だ蛮族により荒廃した欧州東方へ遠征し領地を広げた。
彼の生涯の大半は遠征に費やされた・・と言うが、彼はただ領地を増やしたかっただけだろうか?
この勅令を知って、そうではなかったのでは? と思った。
彼は 征服後のフォロー?
修道院や教会を設立して布教と同時に教育を施すよう促して
いる。
(共通の言語と文化、民主主義の導入によりその地は確実にフランク王国に組しただろう。
しかし、実際の意義は、原始的生活まで落ちていた地域の文明化を促した事かも・・。)
もちろん勅令は、修道院の方も修道士自体の学歴向上にもなった。失われた書物を取り戻すべく写本を進め欧州に本を配給。
ザンクト・ペーター修道院は、書写学校として早くから有名だったようだが、1623年にはベネディクト修道士会の大学にまで発展
いろいろ鑑(かんが)みると、 カール大帝の真の狙いは、東欧の文明の回復(ローマの時代に戻す事)にこそあったのではないか?
と思うのだ。
つまり勅令の本音は、 帝国拡充の為の政策と言うよりは、やはり純粋にラテン語の復興と学芸教育の普及を望む・・と言う個人の信念では?
と思ってしまった。
ザンクト・ペーター修道院付属のレストラン「St.Peter」(Stiftskeller das Restaurant)
ザンクト・ペーター教会正面(墓地はこの教会裏手)
写真右下方 C・・墓地入口
R・・修道院レストラン入口
seit 803(803年以来)ザルツブルグでは最古のレストラン
。(欧州最古かは? 定かでない)
修道院の開祖が696年頃なので割と早くからレストランがあった事になる。
ゲートをくぐると中庭があり 、メンヒスベルクの丘に張り付いた建物の方がレストラン入口。
今回、中で食事をしていないのでここまでしか紹介出来ませんが、モーツアルト・ディナー・コンサートのイベントを付けて夜は、団体ツアーの一団で賑わっているようです。(昼は閑散)
日本の団体ツアーでもよく利用。
元々、教会では貧しい人達への救済の為に食事を振る舞っていた事から食堂に転じた? とも?
あるいは、修道僧為の食堂であったか?
何にしても、 現在は修道院には不釣り合いな高級路線のレストランになりお値段が高くなっています。
ホームページで見ると、セレブの写真がずいぶん出ていますが、雰囲気と音楽の付加価値を除くとさほど??? と言うところらしい。
ザンクト・ペーター墓地(Petersfriedhof)
写真は天気の日と雨の日が混じっていますので悪しからず f^^*) ポリポリ
聖堂脇から撮影
昔から、メンヒスベルグの丘は初期キリスト教徒の墓地であった所。
メンヒスベルクの丘に食い込んで立てられている礼拝堂と丘に掘りこまれたカタコンベが存在する。
※ カタコンベについては次回紹介。
Kreuz Kapelle(クロイツ礼拝堂)と左がカタコンベ入り口
丘の下に続いて見える アーチは17世紀以降のザルツブルグの貴族達の納骨堂と礼拝堂
になっている。
(1454年までこの墓地に眠れるのは聖職者のみだったそうだ。)
実はここの墓地はちょっと変わっていて、ザンクト・ペーター
教会(Peterskirche)の裏手墓地の中に小礼拝堂であるチャペルが複数建てられている
。
写真中央奧に見えるのがMargarethen Kapelle(マルガレーテ礼拝堂)
ザンクト・ペーター教会の右にも張り付くようにMariazeller Kapelle(マリアツェル礼拝堂)がある。
下の写真手前に見える小さい建物。
ザンクト・ペーター教会(Peterskirche)聖堂側からの全景
カタコンベから撮影
上の写真も同じくカタコンベから。(左のがザンクト・ペーター教会の聖堂)
下からのザンクト・ペーター教会と墓地。
墓地だと言うのにものすごい人である。
それは、ここが 映画サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)に登場した事から人気があり、特に音楽関係者の聖地のようになっている
からだ。
トラップ一家はナチスに追われてこの墓地の中に逃げ込み墓石の陰に隠れるのだが、実際ここにはそれほど隠れられるような墓石はない。
なぜなら、 ここの墓所の大きな特徴は墓標がアートな美しいアイアンワーク(鉄細工)になっているからだ。
カタコンベからのMargarethen Kapelle(マルガレーテ礼拝堂)
墓地、つづく
リンク ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)
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