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映画「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」
は
この話はそもそも「トラップ家の物語」(1949年出版)と言う実話からなっています
。
執筆者はマリア・アウグス・フォン・トラップ(Maria Augusta von Trapp)(1905年~1987年)。
映画でジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)が演じた「尼僧のマリア」その人です。
マリアの夫、
ゲオルク・フォン・トラップ(Georg Ludwig von Trapp)男爵(1880年~1947年)
フィクションなのは時代が多少ずれている事。
実際に二人が結婚するのは1927年9月。
ナチスによるオーストリア併合は1938年3月なので10年の差
があり、新婚旅行から戻った・・どころか二人の間には2児が誕生し 子供は7人から9人に
増えている。
そして、1935年、ザルツブルグ音楽祭コーラス部門で一位を獲得。その後音楽一家としてすでに欧州では有名に? (尚、子供はアメリカに渡ってからもう一人増えている。)
一家はヒトラーがオーストリアを併合した年(1938年)の9月にはザルツブルグを脱出して電車でアルプス越えし、イタリア、スイス、フランス、ロンドン経由で、アメリカ、ニューヨークに逃げています。
映画ではアルプスを登りスイスに至るところでエンディング。一家が音楽祭の後に この墓地に逃げるシーンは、映画の為の創作だったようです。(確かにこの修道院は祝祭劇場の隣にありますが・・。)
トラップ一家はなぜ国外逃亡したのか?
トラップ男爵がオーストリア・ハンガリー帝国時代に海軍大佐で、しかもU-boat(ユーボート・潜水艦)の指揮官
であった事からナチスより海軍に招集されていた? とも伝えられ
るが、
オーストリア併合の1938年に男爵は58歳になっているので、ナチスのU-boat乗船が強要されていたとは思えない。
いずれにせよ反ナチスのトラップ大佐は度重なるナチスの要請を断る事が難しくなった? と言う現状に加えて 金融恐慌のおり、投資に失敗。トラップ家はほとんど財産を失い。家は神学校に賃貸すると言う貧窮
。
その時に出会った
フランツ・マティアス・ヴァスナー(Franz Mathias Wasner)神父がトラップ家の歌の指導をし、ディレクターとなり一家の音楽ツアーに同行し、アメリカにも一緒に行くのである。
ピクニックに行く体(てい)で、着の身着のままでのオーストリアを脱出。
亡命の理由はナチス支配から逃れての自由な音楽活動? と言う所だろうが、イコールそれは経済的事情でもあったかもしれない
最終的にトラップ家は演奏旅行で生計を立て、1941年、アメリカ、バーモント州(State of Vermont)に農場を購入して終の棲家としています
つまりトラップ家は戦後も故郷ザルツブルグに戻る事は無かったのです。
(トラップ夫妻はバーモント州ストウ(Stowe)に眠っている。)
ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家
映画「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」
ザンクト・ペーター修道院(Erzabtei St.Peter ・ stiftskirche Sankt Peter )
ザンクト・ペーター墓地(Petersfriedhof)
メンヒスベルグの 丘(Monchsberg)の岩肌に張り付いている
建物の様にもに見える
が・・。

そこは岩肌に彫り込まれた洞穴墓地なのである。
ローマ時代、まだキリスト教が公認される以前(3世紀頃)に、キリスト教徒がミサを行い、死者の埋葬場所にもなっていた岩窟(がんくつ)のカタコンベ(catacombe)がここにある
。
実はこの地は696年、ウォルムス出身のルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教 が来るずっと昔、古代ローマの都市があり、塩の街として栄えていたようだ。
ローマ時代の遺跡がそこここから発見されるようで、ホーエンザルツブルク城の中からも、またこの近くの建物の下からも発見されている。
カタコンベ入り口

後世この初期ローマの墓地はやはり司教達の墓地として利用されてきた。
現在のカタコンベは、18世紀後半に整備しなおされたものらしい。
実はカタコンベはここだけでなく、メンヒスベルグの丘にはあちこち洞穴墓所があったとされている。
おそらく中世におきた崩落事故で他の物は潰れたのかもしれない。
入り口は時間外は閉鎖されている。(有料なので・・
)

この右横に接しているのが、 Kreuz Kapelle(クロイツ礼拝堂)
こちらには音楽家ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn)と、その弟ヨゼフ・ハイドンが納骨されているそうだ
。
ハイドンは1806年69歳で、このザルツブルクで亡くなっている。
実はハイドンはザルツブルグ司教領が解体された時にここに居た。
1789年に起きたフランス革命はザルツブルグにもとばっちりが来たのだ。
共和制となったナポレオン率いるフランスが一時占領し、ザルツブルグ司教領を解体してオーストリアに譲渡。
その時に大司教から庇護を受けていたハイドンは給料も失い財産も奪われたらしい。
入り口はこの向かって左から

左の階段脇に料金所があるが、ここもザルツブルグカードがあれば見せるだけでよい。

すれ違いはきつい狭い階段。
2階 ゲルトラウデ礼拝堂


近年まで遺体の一時的保管場所としても利用されていてらしい。
昔はそのまま、中世には柩に入れられ、安置されたのだろう。
奧の窪地がその区画である。

エジプトの時も石棺の中に入って写真を撮らせている人がいたが、よく平気でできるな・・と感心。

壁の様子から見ると礫岩(れきがん)のようだ。
同じローマ時代のカタコンベでも、アッピア街道沿いのカタコンベとはかなり違う。
ここは 迫害されたキリスト教徒ではなく、あえて辺境に住み着いた隠修士(いんしゅうし)とか、隠者と呼ばれる修道僧の教会堂だったのかもしれない。
そもそもメンフィスベルグ(Monchsberg)とは、僧侶の山を意味する語なのだ。
そう言えばウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の「薔薇の名前」の中でアドソがこのこような岩をくり抜いた中にワラを敷いて寝てたっけ・・・。
3階 マクシムス礼拝堂


石版はラテン語でかかれていて、16世紀のものらしい。



ザルツブルグは、この後ミラベル庭園やヘルブルン宮殿を予定していますが、本日よりしばらく大阪に出かけるので2週間ほど続きは中断させてもらいます m(_ _)m
リンク ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)
あちらからは京都の桜(醍醐寺)を予定しています。
また前回撮影して載せていなかった織田信長の墓がある阿弥陀寺も紹介できれば・・の予定です。
リンク 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院)
リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)
リンク 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)
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