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前回紹介したフォンテーヌブロー宮殿。マリーアントワネットでお馴染みのヴェルサイユ宮殿。今は美術館として知られるルーブル宮殿である。
他にもフランスには大小たくさんの宮殿と呼ばれる城が存在している。
実際どこが一番古い王宮なのか? と調べて見たら、意外にもそこは現在のシテ島にあるフランスの高等法院(最高裁判所)、パレ・ド・ジュスティス・ド・パリ(Palais de justice de Paris)の場所であった。
日本訳で裁判宮と呼ばれる宮殿は、 革命後に司法組織が改革され、新たな法廷がそこに収まった事から正義の殿堂(Palais de justice)と呼ばれるようになったらしい
。
シテ島には歴代のローマ総督の館もあり、行政と軍事の拠点を置いたと言う
。
5世紀にフランドルを支配したメロヴィング朝もここに居をかまえ宮殿の基礎が築かれている。
当時の王宮の呼び名は パレ・ド・ラ・シテ(palais de la Cité)。
シテ島にある宮殿と言う意味でシテ宮と呼ばれていた
ようだ。(「la Cité」は英語の「 the city」
)
ところで、宮殿が古くからあった事はともかく、裁判じたいもここで古くから行なわれていた。
中世、王には国の防衛、教会の保護、裁判義務があったからだ。
フィリップ2世(Philippe II)(1165年~1223年)(カペー7代)は、パリに城壁を造り、ルーブル要塞を造り、父王からのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame)を建設。そして王宮では裁判もこなしていた。
以前 「ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)」の所で、イギリスのヘンリー2世(Henry II)(1133年~1189年)の事を書いたが、フィリップ2世と領地争いしていた彼もまた度重なる毎日の裁判に疲れて、仕事場に寝泊まりした方が楽・・と言う意味で宮殿にほとんど帰らず仕事場(City)のテンプル教会に寝泊まりしていたと言う。
裁判が王権から切り離されるまで中世の王は毎日いろいろ忙しかったのである。
因みにルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)(カペー9代)の時代にはセーヌ右岸(北側)のマレ地区に貴族の館が集まり始めたらしい。
そんな訳で今回はパレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)・裁判宮とその一部であるコンシェルジュリー(Conciergerie)とサント・シャペル(Sainte chapelle)を紹介します。(全2回)
(写真は2008年~2010年と少し古いですが・・)
ちょうど現在ヒルズの森アーツセンターギャラリーでマリーアントワネット展が開催されているようですが革命後にアントワネットが捕らえられて幽閉された牢獄がコンシェルジュリー(Conciergerie)です。
フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)
フランス王国の始まり
カペー家(Capétiens)
フランス王 フィリップ・オーギュスト(Philippe Auguste)(フィリップ2世)
パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)
サント・シャペル(Sainte chapelle)
聖王ルイ(Saint-Louis)のコレクションルーム
コンシェルジュリー(Conciergerie) セーヌ右岸

シャンジュ橋(Pont au Change)越しのコンシェルジュリー(Conciergerie)
昔は橋の上に家や店がみっちり建っていたらしい。ここは両替商や彫金師の店が建っていた事からChange(両替)なのだろう。
コンシェルジュリー(Conciergerie)
フランス王国の始まり
ローマ帝国の滅亡後に西ヨーロッパ最大となったフランク王国。
しかし カール大帝亡き後、そのフランク
王国も843年ヴェルダン条約により王国が3分割
された。
東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国(現ドイツ、フランス、イタリア)である。
フランスと言う国の原型ができるのはそこからである。
東フランク王国は後の神聖ローマへとつながるが、中部王国(ロタリンギア)北部は後に分割。
西フランク王国(フランスの祖になる国
)は当初から王権が弱体気味で直系も140年程で途絶えた。(西フランクのカロリング朝の終焉)
カペー家(Capétiens)
西フランク王国ではノルマン人の討伐で活躍したパリ伯のユーグ・カペー(Hugues Capet)(940年頃~996年)(在位:987年~996年)が フランス大司教の推しで
カペー朝を開いて継承。
カロリング朝の終焉をもってフランス王国が始まった と
するのが史家の見方
だ。
但し、本人がフランス王と名乗り始めたのは(カペー7代目)のフィリップ2世かららしい。
フランスの建 国の歴史を西フランク王国の創始まで遡のぼるべきか? と言う問題はさておき
、実際カペー家(在位:987年~996年)がブルボン王家の祖で
あり、スペインやルクセンブルクの祖となる家系に間違いない。
カペー家は987年~1328年まで14代続いた。
※ 続くヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝もカペー家の傍系(ぼうけい)である。
カペー家の紋章
紋章(フルール・ド・リス)で解るブルボン王家との関係。
王冠を除くと サン・ドニ(Saint-Denis)市の紋章と一緒だった。
古代ローマの時代にはすでに今のパリに首都がおかれていた
(シテ島とカルチェラタン界隈)。
フランク王国では当初、パリにあった首都は8世紀にはアーヘン(Aachen)に移動。
再び首都がパリに戻るのは西フランク王国のカペー朝の時代である。
パリの街の起源は紀元前3世紀に遡る。(下は現代の地図のデフォルメ)
セーヌ川に浮かぶ シテ島(Île de la Cité)
は常に要所であり、 ガリア征服以前から要塞が築かれていた
。
カルチェラタン(Quartier Latin
)はラテンの街。
ローマ軍はシテ島に政務拠点。左岸に都市を建設。
マレ地区(Marais
)
はルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)以降 貴族の人気の邸宅地
になった。
ルーブル(Le Louvre
)
はフィリップ2世が新たな防衛として建てた 城塞が起源
。
カペー家と言うより フランス王国は、(カペー6代目)ルイ7世(1120年~1180年)の時に危機に陥る
。
フランス北部から西部がイングランド王に持って行かれた
のである。
フランス(カペー家)VSイングランド(アンジューorプランタジネット家)の領土争いが激化。
もともとイングランド王家を開いたのはフランスのノルマンディー公であったのだが、今度はフランス中西部のアンジュー伯ヘンリー2世がイングランド王に即位したからである。(プランタジネット家)
(ここにフランスとイングランドとの因縁の対決が始まる。)
1154年頃(ルイ7世時代)のフランスとイングランドの領地図
ウィキメディアより借りてきました。
緑がフランス領。
下の薄紫以外全てイングランド(プランタジネット朝)領。
※ (カペー6代目)ルイ7世(Louis VII)(1120年~1180年)はノートルダム寺院の建設を始めた王である。
フランス王 フィリップ・オーギュスト(Philippe Auguste)(フィリップ2世)
イングランドを制したのがシャンパーニュ伯で(カペー7代目)のフィリップ2世。
フィリップ2世
(Philippe II)(1165年~1223年)は、 北部諸侯を押さえイングランド(プランタジネット朝)よりフランス側の土地の大部分を奪還
。(現在のフランスの領土の基礎を築いた王である。)
他にもフィリップ2世は冒頭紹介しているように パリに城壁を築き、街の防衛に努め、父王からのノートルダム大聖堂を引き続き建設。内政固めと都市の整備を進め、神学の発展の為にパリ大学の創設にも尽力
している。
フランス建国の偉大な王として、その名はローマの皇帝アウグストゥスになぞられてフィリップ・オーギュスト(Philippe Auguste)と称された
そうだ。
日本訳では、フィリップ尊厳王などと書かれているが、「Auguste」で
偉大なる人と言う意味が込められているのだう。
話をカペー家に戻すと、続く(カペー8代目)ルイ8世や(カペー11代目)フィリップ4世の時代に王権を拡大している。
パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)

元の王宮、パレ・ド・ラ・シテ(palais de la Cité)がここである。
宮殿は度々火災にあっていて、近年の修復が1840年から1914年までの間にされている。
フランスの司法と関係機関(パリ大審裁判所、検察局、弁護士会の他複数の主要司法機関)も入居。
裁判所内の見学は可能。
裁判宮・パレ・ド・ジャスティス(Palais du Justice) 敷地内のサント・シャペル(Sainte chapelle)とコンシェルジュリー(Conciergerie)見学は有料である。

裁判宮入口のアイアン・ワークの門はルイ16世様式。1785年完成。
正面玄関前 5月の中庭 
写真右手がコンシェルジュリー(Conciergerie)
写真左手の建物裏にサント・シャペル(Sainte chapelle)がある。
前述したよう 歴代のローマ総督の館もあったが、 5世紀にフランドルを支配したメロヴィング朝の時代に宮殿の基礎築かれたようだ。
前述の(カペー7代目)フィリップ2世(Philippe II)(1165年~1223年)がこの宮殿で暮らしていた事は解っている。
ノートルダム寺院を建設させた(カペー6代目)父王ルイ7世(1120年~1180年)も? と言うと定かでない。※ それ以前の王はどうもサン・ドニ(Saint-Denis)に関係が深い。
ヴァロワ3代目)のシャルル5世(Charles V)(1338年~1380年)の時に事件が起きた。
1358年。宮殿がパリ市民の暴徒に襲われたのだ。その時寝室に流れ込んだ暴徒が目前で家臣を殺害し返り血をあびたとか・・。。
その 暗黒の恐怖でシャルル5世はこの宮殿を去り1361年マレ地区の邸宅オテル・サンポールに移っている。
そして続くシャルル6世もオテル・サンポールに居し、パリ市民との対立に恐怖を感じたシャルル7世、ルイ11世、シャルル8世はパリを離れロワールに居を移している。
以降この宮殿は王会(国王顧問会議)が使用する事になる。それが裁判宮・パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)のルーツである。
15世紀のパレ・ド・ラ・シテ(palais de la Cité)図
宮殿があるのはセーヌ川の川下の方。反対にノートルダム寺院がある。
当時、王宮は城壁で囲われていたようだ。
サント・シャペル(Sainte chapelle)

聖王ルイ(Saint-Louis)のコレクションルーム
1239年、聖王ルイ(Saint-Louis)こと、ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)はコンスタンチノープルのラテン皇帝ボードワン2世の債務を肩代わりし、その担保にキリストの荊(いばら)の冠をもらい受けた そ
うだ
。
そもそも王は聖遺物のコレクターであったようだ。それら 聖
遺物を収蔵する為に王宮内にサント・シャペル(Sainte chapelle)を建立。
33ヶ月と言う異例のスピードでこのゴシックの教会堂は1248年に完成している。
もちろん聖遺物を納める聖遺物箱には並々ならぬこだわりで、教会建築費用の2倍もかかったと言われている。
残念ながら革命期に箱は溶解されて無くなった。残った聖遺物はノートルダム大聖堂に納めれたらしい。
ところで、完成当時教会はルイ9世の居室と繋がっていたそうだ
。王室礼拝堂かと思いきや、 本当にプライベート・
コレクション・ルームのつもりだったのだろう
。(18世紀の修復工事で変更されている。)
狭いので全景を入れての撮影は難しい。
非常に珍しい形体で、内部は下部礼拝堂と上部礼拝堂の2層構造になっている。
下部礼拝堂のボールトの下には聖王ルイ(Saint-Louis)の像が飾られている。
王の好みで贅がつくされたせいか? 他に類をみない豪華なゴシックとなっている。
他の所はまず色が無い。修復されているせいもあるのだろうが、それ以前に諸々、凝った造りなのが見てとれる。溶解された聖遺物箱、見たかったな![]()
※ 2009年10月に「ノートル・ダム寺院1~9」をシリーズしています。昔は毎日書いていたので1回が短くなっていますからよかったら見てね。
木彫もさることながら、何よりもここはステンドグラスの美しさに定評がある。
フランス王の宮殿(palais de la Cité)は次回コンシェルジュリー(Conciergerie) 内部とサント・シャペル(Sainte chapelle)残りを紹介します
リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)
リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)
リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)
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