わたしのこだわりブログ(仮)

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2017年03月03日
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コンシェルジュリー(Conciergerie)の資料を探していたら、今更であるが、フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)の美麗なカタログが出て来た。
写真盛りだくさんの厚めのカタログ。もはや中を見る気にもなれなかった。しょんぼり
捜し物は捜している時には見つからないのである。

ところでコンシェルジュリーは革命裁判の後に改築(1858年頃?)されているので当時と現在では間取りが異なっている。
また建物はひっくるめて裁 判宮(Palais du Justice)と 呼ばれ、現在フランスの司法(裁判所など)や関連施設が入居。
それ故現役のコンシェルジュリーは下層階が一部復元されて公開されているにすぎない。


さて、今回も長くなったので以下2回にわけさせてもらいました m(_ _)m
フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)
フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(アントワネットの最後の居室)
なるべく早めに4回目載せます。


フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)

コンシェルジュリー(Conciergerie)
暗黒の王フィリップ4世とコンシェルジュリー
コンシェルジュリーの変遷
王(フィリップ4世)のコンシェルジュ

ラ・メジスリー河岸(Quaide la Megisserie) からのパレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)

pict-コンシェルジュリー 3.jpg

コンシェルジュリー(Conciergerie)は赤いラインの範囲
pict-コンシェルジュリー 4.jpg
A・・・・ Tour de l'Horloge(オルロージュ塔)・・・文字通り 「時計塔」

B・・・・ Tour de Casar(シーザー塔)・・・ローマ人に因 んだ名前らしい。
※ 恐怖政治時代の1793年、革命裁判所の告発検事に任命された
フーキエ・タンヴィル(Fouquier-Tinville)が住居にしてい場所。彼は些細な罪でも死刑台に送るので市民から非常に恐れられていたらしいが、彼自身もその罪で処刑されている。

C・・・ ・Tour de Argent(銀の塔)・・・・・国 王の財宝の保管塔から由来。

D・・・・ Tour de Bonbec(ボンベック塔・おしゃべり塔) 
※ コンシェルジュリー(Conciergerie)で最古の建物が Tour de Bonbec(ボンベック塔)。
この塔は古くから拷問塔で、囚人がみんな口を割る事からおしゃべり塔( Tour de Bonbec )と呼ばれたらしい。


オルロージュ河岸(Quai de l'Horloge)
pict-コンシェルジュリー 6.jpg
建築された当初、建物は川の中につかる形で建っていたそうだ。現在のような河岸ができるのは16世紀。結果、地面自体が元より少し高くなったそうだ。
pict-コンシェルジュリー 23.jpg
手前 がTour de Casar(シーザー塔)

Tour de l'Horloge(オルロージュ塔・時計塔) 高さ47m。
pict-コンシェルジュリー 5.jpg

Tour de l'Horloge(オルロージュ塔・時計塔)はジャン2世(Jean II)(1319年~1364年)(ジャン善良王)によって建造されている。
1350年~1353年の間に建造。 (塔は コンシェルジュリーより後に建てられた。)

※ ジャン2世はこの時同時に時計塔裏の衛兵の間につながる宮殿の大厨房も建設。

パリ初の公共時計(l'Horloge)は1370年に設置。
1585年にフランスにおけるルネッサンス彫刻家であるジェルマン・ピロン(Germain Pilon) (1528年~1590年)の版に変えられている。
pict-コンシェルジュリー 7.jpg

暗黒の王フィリップ4世とコンシェルジュリー
美男(le Beau)と形容される(カペー11代目)フィリップ4世(Philippe IV)(1268年~1314年) はローマ教皇庁を強引にフランスのアヴィニョン(Avignon)に移動させたたり(アヴィニョン捕囚)、フランス人枢機卿の比率を増やすなど教皇庁を意のままに動かした王 として知られる。
※ 教皇庁始まって以来の惨事?

それ故、 教皇庁の力を利用して強引にテンプル騎士団を解体。その財産を没収。
騎士団の幹部を火あぶりにして宮殿の窓から眺めていたと言う。実際 美貌と裏腹にかなりの非道の王であったようだ。

pict-火あぶりのテンプル騎士.jpg
以前騎士修道会の所で紹介している絵ですが、この処刑場所がパリで、しかも宮殿から見えた場所。つまりシテ宮前の広場? かも?びっくり

また解体後のテンプル騎士団の私財はヨハネ騎士団に行く取り決めになっていたが、フランスだけは王が全ての財産を没収。
フィリップ4世がテンプル騎士団にしていた多額の借金( フランドルとの戦費や宮殿建築費?) 踏み倒しがテンプル解体理由の一つと考えられる
(テンプル騎士団解体は欧州の金融市場の大混乱を起こしたはず。)

※ 現代のヴァチカンの公式見解ではテンプル騎士団を「異端」とした当時の裁判は完全な冤罪。フランス王の意図を含んだ不公正なものであったと認めている。

※ テンプルのバリの本拠地としていた建物のみヨハネ騎士団に継承された。その建物が革命政府により牢獄として利用されたタンプル塔(Tour du Temple)で、皮肉にもルイ16世一家が幽閉された場所なのである。

※ テンプル騎士団については
2013年8月 「騎士修道会 1  (テンプル(神殿) 騎士修道会)」
2013年8月 「騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)  テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)の末路」 で紹介。
リンク ​ 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
リンク ​ 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)
リンク ​ 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)

さて、 テンプル解体後に借金は無くなり、さらにフランス王家には潤沢(じゅんたく)な資金ができた。
それと同時期に裁判宮北翼の敷地にコンシェルジュリー(Conciergerie)は完成
した。
星 建築を指示したのはフィリップ4世なのである。

王宮が他に移動するとここには王室管理府が置かれ、その管理者であるコンシェルジュ(concierge)が居た場所として建物がコンシェルジュリー(Conciergerie)と呼ばれるようになったと言われている

(カペー11代目)フィリップ4世(Philippe IV)(1268年~1314年)美男(le Beau)王の肖像画
pict-王フィリップ美男王.jpg
※ パブリックドメインになっていたのでウィキメディアコモンズから借りてきました。

フィリップ4世は前に紹介したフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)で生まれ、そこで落馬事故により1314年11月に突然亡くなった。
巷では、1314年3月に火あぶりにされたテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーの呪いだとささやかれたとか・・。


パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)見取り図 (右がオルロージュ河岸)
pict-パレ・ジャスティス 1.jpg
コンシェルジュリー(Conciergerie)は5月の中庭から右側。
時計塔から上
はボンベック塔まで。
革命裁判の時は赤く囲った部分に牢獄が造られていた

フランス革命後、1793年3月10日、革命裁判所が設置された頃のコンシェルジュリー(Conciergerie)
pict-コンシェルジュリー 8.jpg
えんじ色の部分がかつての仕切り壁。

2・・・マリーアントワネットが一時は入っていた独房。現在は贖罪(しょくざい)の礼拝堂
4・・・・マリーアントワネット居していた時の復元部屋。


コンシェルジュリーの変遷
牢獄と認識されているようだが、ちょっと違う。ぽっ
もともとはシテ宮(palais de la Cité)は王宮であると同時に王の諮問機関、及び司法、内政、軍の拠点や兵備を備えた場所でもあった。
フィリップ4世は王宮全体の改築と同時にもともと要塞であった部分に加えコンシェルジュリーを建設。城壁を完備して軍事拠点も一つにまとめたのである。

コンシェルジュリーも最初は一階ホールが 食堂ホール。当初はホールの上階が国王の宮殿大広間と居住区になっていて国務行事が行われていた。

以前、「フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)」で紹介したように 1361年にシャルル5世がこの宮殿を去った後 王の執務機関(王室管理府)は諸々残ったのである

司法と裁定の関係で一時収監される牢屋がシテ宮(現在のパレ・ド・ジュスティス)内のどこかには存在していたのは確かだが、当時の
牢屋がどの建物にあったのかは不明。

コンシェルジュリーが 牢屋として表に出るのはフランス革命後の革命裁判の時 である。
コンシェルジュリー内、警備の間(当初は王の部屋に繋がる控えの間であり裁定場所)が1793年に革命裁判所として利用され、その周りに牢屋がしつらえられたのである。
もっともその時でも裁判1日で翌日にはほぼ処刑されているからみんなここに長くは居ない。

因みに、長期牢獄としては、テンプル騎士団から取り上げたタンプル塔が一時変わりを果たし、後にバスティーユ監獄がルイ13世(1601年~1643年)の時代に完成するとそちらに移動。


コンシェルジュリー(Conciergerie)でも古くから存在する衛兵の間へ
pict-コンシエルジュリー 9.jpg
前述したよう16世紀に河岸ができた事により地面が上昇。ホールはもとより7mも低い位置になり、同時に薄暗くなったそうだ。
pict-コンシェルジュリー  24.jpg
上の矢印は1910年に洪水で水没したライン。つまりセーヌ川が氾濫したと言う事だろう。


床面積1800m2。長さ64m。横幅27.5m。高さ8.5m。

pict-コンシェルジュリー 10.jpg
前述のフィリップ4世(Philippe IV)(1268年~1314年)によりこの建物を建設。 1302年~1313年の間。
衛兵の間は当初は王宮で働くスタッフ2000人の食堂として造られたようです。
1350年に前述の ジャン2世(Jean II)(1319年~1364年)(ジャン善良王)により このホール に付随して宮殿大厨房が造られている。


1361年、シャルル5世の代に王宮は移転しているので居住区の方はわずか50年ほどしか利用されていない?
pict-コンシェルジュリー 11.jpg
赤い矢印の 壁の向こう 通称「パリ通り」 と呼ばれるホールをしきった窓の無い部屋。
現在は売店になっているようだが、革命裁判の時に、そこは最も低いランクの牢獄(バイユー)として利用されていた部分。


王(フィリップ4世)のコンシェルジュ
ところで、調べて見 ると コンシェルジュリー建設はフィリップ4世 (1268年~1314年) が信頼していた腹心の部下、アンゲランド・マリーニ(Enguerrand de Marigny)の総指揮の元に建築 されている。

アンゲランド・マリーニ(Enguerrand de Marigny)(1260年~1315年)

1302年コルトレイクの戦い(bataille de Courtrai)以降王の片腕として認められ 1304年に侍従長と主任大臣に任命 されている。
洗練された彼は王の名代なども勤めているようで 王の公務に無くてはならない存在 だったらしい。
こそがまさにフィリップ4世の管理人。コンシェルジュ(concierge)だったと考えられる。

前述した管理者であるコンシェルジュ(concierge)が居た場所として建物がコンシェルジュリー(Conciergerie)であるなら、もしかしたらアンゲランド・マリーニ(Enguerrand de Marigny)が居た場所と言う考えにも及ぶ。


残念 ながらフィリップ4世の死によりそれまでの政策が反動となり窮地に。有罪となり絞首台にかけられて亡くなっている。

次回は牢獄としてのコンシェルジュリーです。
リンク​  フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)





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Last updated  2020年08月15日 19時51分45秒
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