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マリーアントワネット関連back numberのリンク先をラストに追加しました。
その理由はマンガ家、池田理代子(1947年~ )さんの描いた「ベルサイユのばら」のおかげだ。
実際私も小学生の頃にこれを読んでフランスに興味を持ち、マリー・アントワネット(Marie Antoinette )についていろいろ調べた経験がある。
過去には宝塚でも長く公演された事もあり、かつ「ベルサイユのばら」はずっと増刷され続け今も人気のようだ。
マンガは、多少少女好みのフィクションが入っているものの、ほぼ歴史的事実に添った展開になっている。
「可愛い」姫がオーストリアから嫁いで来たところから始まりフランス革命前期までが時代テーマとなっている。
マリー・アントワネットはマンガの中では脇役のはずが、確実に主役を食っていた。
主役はフィクション。でも彼女は現実にその歴史を生きた人だからだ。
「事実は小説よりも奇なり」と言う言葉があるが、劇的な彼女の人生には驚きだ。
蝶よ花よと育てられ、王妃となって贅沢三昧。それが何を間違ったか?
フランス革命において断頭台の露と消える事になろうとは・・。
さて、 コンシェルジュリー(Conciergerie)はフランス革命の時に革命裁判所が置かれ、革命の反革者を次々に裁判にかけては有罪にした恨みの場所である
。
フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)
革命前の牢獄の事情
コンシェルジュリー(Conciergerie)
革命裁判の時の囚人のカテゴリー
ピストール(Pistole)とリーブル(livre)
革命後のマリーアントワネットの足跡
マリーアントワネットの独房
ハスティーユ襲撃(La Prise de la Bastille)の図(ウィキメディアから)

王政に対する諸々の市民の怒りが爆発し、暴徒となってバスティーユ監獄は襲撃された。
1789年7月14日の事だ
。 これが契機となり、暴動はフランス全土に広がり、絶対王政が崩壊するフランス革 命(Révolution française)の序章
となった
。
※ 政治犯の開放などと言われているが、実際たいした犯罪者もなく、今となっては単に武器奪取が目的だったのでは? と考えられているらしい。
このバスティーユ(要塞)監獄は革命の直後に解体されたそうで、今はバスティーユ広場(Place de la Bastille)となっている。
※ フランス革命(Révolution française)の期間
一般には1789年
とされている。が、革命は突然始まったのではなく、 1787年から予
兆
はあり1789年のバスティーユ襲撃で幕を切った感がある。
革命中は市民の代表の左翼が実権を握るも残忍な独裁政権となり恐怖政治の時代が訪れる。
1799年
、パリ民衆の後押しもあった
ナポレオンがエジプトより帰還して総裁政府にクーデターを起こし( ブリュナールのクーデター
)勝利すると自身で新たな総領政府を樹立。
ナポレオンが独裁権を握るまでが革命期と分類
されるようです。
革命前の牢獄の事情
ところで、
バスティーユ監獄に居た政治犯は私達が想像できないほど自由に生活していたらしい
。
最初、バスティーユ(Bastille・要塞)は1370年にパリの東の要塞として建設された。それが ルイ13世(1601年~1643年)の時代に国事犯の収容施設となっている
。
建物がもともと要塞だったので暗く陰気な印象はあるが、 実際収容されていた者達は自分の家具を持ち込み、使用人や料理人を雇う事も可能で、食事もレストランなみ。
施設内には遊戯所なども完備され、
むしろ好んで住み着いていた者もいたらしい。
察するに国事犯と言う事は、結構身分のある者達しか犯罪者になり得なかったのでは?
同じようにコンシェルジュリー(Conciergerie)のあるシテ宮 では、アンリ4世の暗殺者など、多くの国事犯が収容されていた時期があり、裁判が終わり罪が確定するまでの間、バスティーユ同様に、そこそこ優雅な生活をしていたのではないかと想像できる。(もともと王宮だったし・・。)
また 牢屋は革命裁判の時でさえ、お金次第で差があった。どうも牢屋に入居するのにお金が必要だったらしいのだ。
我々が思いつかない変な因習(いんしゅう)ではあるがそれで牢獄での快適度も買えたのだから驚く。
留置受付
革命裁判の時の囚人のカテゴリー
パイユー(Pailleux)、ピストリエ(a la pistole)、高貴の者、と 囚人は払える金額に応じてカテゴライズされていたらしい
。
革命政府の時でさえ、牢屋が有料であった?
囚人の冨と看守の気まぐれにより牢獄での生活は非常に差があったと言う。
パイユー(Pailleux) ・・・最も最下層のランクは 牢屋の料金を支払えない者の雑居坊。
床に藁(わら)を引き詰めただけの非衛生な場所。ホールの一画を改造して
裁判の時に造られた通称「パリ通り( rue de Paris)
」には窓一つなかった。
ピストリエ(a la pistole)
・
・・中流層。簡単なベッドがあり2~4人 くらいのコンパート。
牢屋の使用料は1ヶ月1ピストル(金貨一枚)したらしい
が
おそらくピストリエの中にもいろいろランクがあったのだろう。
高貴の者
・・・富裕層や著名人。家具のある独房に入り家具を持ち込むことも可能。読書や仕事をすることも可能。金貨をかなり要したのではないか?
前回紹介した衛兵の間から 金網の向こうが革命期の通称「パリ通り( rue de Paris)
」
現在は売店になっているようだが、革命裁判の時に、そこは最も低いランクの牢 獄があった所。
そこは死刑執行人ムッシュー・ド・パリの管轄だったらしい。
パイユー(Pailleux)

床にワラ(Paille)が敷かれ雑魚寝の状態から「わら族・パイユー(Pailleux)」と呼ばれた。
牢獄は半地下なので暗くジメジメ。ネズミが走り回る環境で誰もがそこで病気になったらしい。
ピストリエ(a la pistole)

自
費で独房にはいる囚人をピストリエ(a la pistole)と呼んだ。
上の写真か下の写真かどちらの部屋が一か月の賃料が1ヶ月1ピストール (Pistole)した部屋か不明。
ピストール(Pistole )とリーブル(livre)
ピストール(Pistole)は当初は1537年に使用されたスペインの金貨に与えられた名前
。
ルイ13世(1601年~1643年)の頃に1ルイ(金貨)・・10リーヴルと同額、
1ピストール(金貨)・・10リーヴルと相場
されている。
このフランス語のピストール(pistole)が ピストル(pistol)の語源である。
一説には1ピストールでピストルが一丁買えたとか・・。
リーブル(livre)は781年から1794年までフランスで使用されていた通貨。
リーブル(livre)は含有率がバラパラで何種か出ていたらしい。
1726年、ルイ15世の大臣フルーリ枢機卿の元で金や銀の換算法がはっきり決められたようですが、1794年以降リーブルがもともと俗称であったフラン(franc)にチェンジされている。
そのフランもEUの通貨統合で消えているが・・。
この革命期にどれくらいの価値か想像付かないが、もしピストル一丁が買えるならかなりのお値段なのだろう。(やはり動乱の時は金が一番信用できるのかもしれない。)
少しの家具が付いて本なども持ち込めた。こちらの牢屋はおいくらだろう

当然食事にも大きく差が出たらしい。
宇屋はしばしば看守達の小遣い稼ぎの為に入り人数も調整されていたらしい。が、ロベスピエールが実権をにぎるとその回転ペースは早まり、1日に処刑される人数も大幅に増えた
。

1・・ 女囚の中庭
2・ ・マリーアントワネットの記念礼拝堂
3・ 12人の場
所
4・ ・マリーアントワネットの牢屋再現
5・・ パリ通り(
rue de Paris) パイユー(Pailleux)の牢獄
6・・ 警備の間 1793年~1795年まで革命法廷が開かれた場所
1・・
女囚の中庭

周囲の建物2階までが女性囚人の独房であったらしい。(大分改装されているが・・。)
革命後のマリーアントワネットの足跡
1789年
、マリーアントワネットは革命でヴェルサイユ宮殿を出た後. ルーブル宮殿の一画にあるテュイルリー宮(Palais des Tuileries)に身柄を移される
。(そこそこ自由だったようだ。)
1791年
、フェルセン(Fersen)の助けにより国外逃亡を図るが失敗( ヴァレンヌ逃亡事件
)。これにより国民の信頼を失い最悪の状況に向かった。
1792年8月10日、パリ市民と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃
。 ルイ16世一家は捕らえられてタンプル塔に幽閉される。
タンプル塔(Tour du Temple)

前回紹介した元、テンプル騎士団のパリ事務所である。後にヨハネ騎士団の修道院になった後、バスティーユができるまでの間牢獄としても利用される。
ナポレオンが忌み嫌い1808年に解体され無くなった。
1793年、1月ルイ16世と家族の別れ

1793年1月にルイ16世はルイ15世広場(後のコンコルド広場)にて公開ギロチンで処刑。
1793年8月2日、マリーアントワネットがコンシェルジュリーに移送。
1793年10月15日、死刑判決。
1793年10月16日、夫と同じルイ
15世広場にて公開ギロチンで処刑。
マリー・アントワネットの独房(再現)

ほぼ同じ場所に復元されているらしい。
窓の外は女囚の中庭。もちろん世話係はいたが、タンプル塔よりもいっそう酷い場所になっている。
壁紙はユリの紋章が見えるので、元の王宮の部屋の一室だった可能性もある。

二人の憲兵が常に監視していたそうだ。

今まで散々素敵なベットを紹介してきたが、彼女が最後に寝たベットはこんな安ぶしんのベットだった

早い人では裁判1日で素早く処刑されるが、酷い罪状をあれこれ付けられ、裁判の判決が出るまで彼女はここに2ヶ月半ほどいた事になる。(冬でないだけマシだったか?)
刑場に向かうマリーアントワネット

ダヴィットのスケッチだそうだ。実際の姿を映したものと考えられている。
最後まで彼女は気丈に振る舞ったと言う。
断頭台・ギロチン(guillotine)
残忍なようだが、死の苦痛からはすみやかに解放される為に考案されたものらしい。
刃先が斜めにカットされているのもスッパリ切れる為で、これを提言したのがルイ16世だったそうだ。
これを革命裁判の時は広場で公開処刑に使われた。
マリーアントワネット記念礼拝堂
1815年にマリーアントワネットの部屋の後に整備されたもの。
時はナポレオンがエルバ島に流され、第一帝政期が終わり王政復古していた時
だ。
フランス復古王政(1814年~1830年)ルイ16世の弟ルイ18世が即位。
この期間があったからこそ、ルイ16世やマリーアントワネットの遺骸は見つけ出されて王家の墓であるサン・ドニ聖堂に運び葬られる事ができた
。
そしてこの堂も王妃らの魂を偲んで建立されたわけだ。
絵画はいずれもマリーアントワネットであるが、部屋が狭く正面から撮れなかったのかも・・。

右の絵は、神父と交わす最後のミサかも。
1793年6月、ロベスピエールが公安委員会に加わって、1794年7月までの僅か1年の間に2700人以上が
フーキエ・タンヴィル(Fouquier-Tinville)に起訴され有罪判決を受け処刑されている
。
著名人の裁判で付く証言者や弁護者らも次々に抹殺されると言う何が何でも処刑・・と言う革命政府の恐怖独裁はロベスピエールの失権を受けて終わりを告げる。
そしてロベスピエール自身もギロチンで処刑。他のジロンド党員も次々逮捕されたそうだ。
※ 恐怖政治(仏: La Terreur)、(英: Reign of Terror)は、テロリズムの語源となったそうでフランスの暗黒の一面かもしれない。それにしてもパリ市民は昔から過激ですね。
マリーアントワネットの肖像
絵はヴェルサイユ宮殿プチトリアノンに飾られていたもの。
おそらく世界の王朝でも初まって以来の悲劇の死を迎えた妃である。その美貌と相まって、特にマンガ本の影響大で日本では絶大な人気を誇っているのは確かだ。
とりあえず私もご冥福を祈りたい 〔†〕 m( ̄0  ̄〃)
フランス王の宮殿 (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)終わります。
back number
リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)
リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)
リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)
フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)
リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)
リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式
※ フォンテーヌブロー宮殿にもマリーアントワネットの為に造られたベッドがあります。
マリーアントワネット関連back number
リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿
リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃
リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
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