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リンダーホフ城とノインシュバンシュタイン城はルートヴィヒ2世の城でまとめる事にしました。
しかし、双方、城内の撮影ができない為に外観と庭の写真しかありません。
ニンフェンブルク宮殿は撮影できたのに・・。
悲劇のフランス王妃マリーアントワネット(Marie-Antoinette)や非業の死を遂げたオーストリア皇妃エリザベート(Elisabeth)の話は私のブログの中でも不思議と読者人気が高いのですが、今回紹介する、ルートヴィヒ2世(Ludwig II)はその男性版。彼は昔ドイツ、バイエルンにあった王国の美貌の王様です。
ルートヴィヒ2世もまたマリーアントワネットのように個人の贅沢にお金を使いすぎて国民の支持を失ったと言う点で似ているし、皇妃エリザベートも同様。
つまり、今回は美貌の王様に、悲劇をもたらしたお城の紹介
となります。
因みに ルートヴィヒ2世については、以前墓所も紹介しているし、生まれた宮殿も紹介していますが(最後にバックナンバーを載せます)、ルートヴィヒ2世と皇妃エリザベートとは曽祖父母が共通の先祖で、エリザベート母方の従甥(じゅうせい)にあたる関係です。
ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)
バイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の家系と生い立ち
ホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城
ルードヴィヒ2世とワーグナー
ワーグナーの為の劇場建設
リンダーホフ城(Schloss Linderhof)
バイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の家系と生い立ち
バイエルン王、 ルートヴィヒ2世(Ludwig II)
(Ludwig II)(1845年~1886年)(在位:1864年~1886年) はバイエルン王国4代目の国王
です。
写真はバイエルン王城協会発行の冊子(王 ルートヴィヒ2世)から
1864年即位したばかりの頃?
そのバイエルン王国は、 現在のドイツ・バイエルン州を含むもう少し広い地域に1806年~1918年まであった王国
ですが、実はその歴史は12世紀にまで遡る家系です。
ルートヴィヒ2世の家系、 ヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家
は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に仕えていたオットー1世(Otto I)(1117年~1183年)に始まり、以来ずっと バイエルン公としてバイエルンを治めてきた君主一族です。
※ 17世
紀には神聖ローマ皇帝の選挙権を持った7人の選帝侯の一人に入る家系。
そんな家系でルートヴィヒ2世は、まだ皇太子であった父マクシミリアン2世(Maximilian II)(1811年~1864年)とプロイセン王女であった母マリー・フォン・プロイセン( Marie von Preußen)(1825年~1889年)との間に跡継ぎとして誕生。
街には祝砲が鳴り、ミュンヘン中の市民に知らせられたと言うくらい 喜ばしく、祝福された待望の誕生であった
そうです。
皇太子であった父マクシミリアン2世は、 前王ルードヴィヒ1世(ルードヴィヒ2世の祖父)の退位を受けて1848年に3代目バイエルン国王に就任。
※ 以 前「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」の所で紹介しているが、
ルードヴィヒ1世の退位は王の逝去によるものではなく、
ローラ・モンテス(Lola Montez)と言う女性とのスキャンダルによる残念なものでした。
この 2代目の王ルードヴィヒ1世
(ルードヴィヒ2世の祖父)は 北欧神話のヴァルハラ(Walhalla)に着想した魂の館。ヴァルハラ神殿(霊廟)を建設 している。
芸術を奨励、ミュンヘンに大学を造り近代化に励み、ドイツ初の鉄道も施設している。
非常に女性好きな王だったと言う所は正反対
であるが、
ルードヴィヒ2世に通じるものを感じる。
実は総じて ヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家は芸術の造詣(ぞうけい)が深い家系のようだ。
一方、 3代目の王となったマクシミリアン2世
(ルードヴィヒ2世の父)は息子ルードヴィヒ2世が多大な影響を受けた 中世の城をイメージしたホーエンシュヴァンガウ
城を再建
している。
それは廃墟に近いシュヴァンシュタイン城を購入しての改築(1853年)であったが、ベルリンで学び、ドイツ、イタリア、ギリシャを旅行して見聞した事に加え、 徹底的に中世を研究しての再建らしい。
勉強熱心なマクシミリアン2世は、その城に芸術家や学習者。科学者を集め、歴史研究に没頭したらしい 。
ホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城
ノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城からの撮影
冬のホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城
マクシミリアン2世は、前王の父(ルードヴィヒ1世)とは違い真面
目な堅物?
政務については、彼の治世に王国の安定を回復し、 ドイツ統一の戦いではバイエルンの独立を維持しつつミュンヘンを文化的で教育的な都市に変えようと努力もあり
国民には人気があったらしいが、国王は決定を下す前に長官と学識経験者の助言を繰り返し求めたらしく審議が中断する事ばかりだったらしい。
ある意味 マクシミリアン2世は学問オタクだったのかもしれない
。
その為に 2人の息子の教育には非常に厳しかったと言うが、どうも肝心な帝王学が抜けていたようだ
。
王子達の使命や将来待ち受ける問題や心構え、人生を生き抜くすべを教えていなかった。
しかも、早すぎる突然の マクシミリアン2世の死。
ルードヴィヒ2世は無防備に、わずか18歳と言う若さで王になってしまった。
1865年頃
ミュンヘンの画家、フェルデイナント・フォン・ピロティー(Ferdinand von Piloty) (1828年 ~1895年)作
ルードヴィヒ2世とワーグナー
マクシミリアン2世は、学術的に中世の城を再現してみせた。
時はちょうど中世ブームだったと言うのもあったかもしれない。
しかし、 ルードヴィヒ2世の造った城は、王、個人の趣味の世界
だ。
時代は中世であっても、それは 現
実世界と言うよりは想像を駆使した夢物語の世界
。
ルードヴィヒ2世が幼少期に過ごしたのは、父の趣味で至る所に中世騎士伝説が描かれた城だ。
森や渓谷に出て素朴な村人と触れあう事はあっても、同年代の友を持つ事もなく、城に閉じ込められるようにすごした
。
自分の感情を外に表現したりぶつける相手もなく、ただひたすら目の前の
中世の伝説の世界へ自らを誘い自分中心の世界を造りだし、その中で一人で遊ぶ事が日常?
だったのかもしれない。
当然だが、 王は理想主義、ロマン主義に傾倒
していく。
詩人フリードリヒ・フォン・シラー(Friedrich von Schiller)がお気に入りだったらしいが、 王は神話や伝説の本を好んで読んでいたそうだ。
そして、 騎士伝説に観る気高く、美しい者が王の好みとなった
のだろう。
そんな時に新しい型の音楽に出会った。
1861年 、ルードヴィヒ2世16歳の
時にリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)自作のオペラ「ローエングリーン(Lohengrin)」に出会う。
※ どこで観たか場所が特定できないが、もしかしたらウィーン宮廷歌劇場であったかもしれない。
※ ワーグナー自身ザクセン宮廷音楽家という地位にありながら先頭に立って革命に関与。結果、国外逃亡を余儀なくされ、その初演は1850年、友人リスト委ねられた。
ワーグナー自身が、それを聴くのは、1861年のウィーン宮廷歌劇場だったと言う。
この ワーグナーが造りだした世界感にルードヴィヒ2世は同じ感覚の理想を観た
? のだろう。
この日を境に彼は ワーグナーの大ファンとなり
、全ての作品と、手に入れられるあらゆる出版物を収集。
ワーグナーは、ただの音楽家ではなく、 ルードビッヒ2世の「神」となったのだ
。
そんな経緯で ワーグナーの世界の虜になった王は、3つの城の建設を計画した
。
リンダーホフ城
(1874年着工~1878年完成)
ヘレンキームゼー城
(1878年~1886年ルートヴィヒ2世が亡くなり建設中止 未完)
ノイシュヴァンシュタイン城
(1869年~居住1886年ルートヴィヒ2世が亡くなり建設中止 未完)
リンダーホフ(Linderhof)城
完成したのは南バイエルンにあるこのリンダーホフ城だけ。
父(マクシミリアン2世)が亡くなり、 ルートヴィヒ2世(在位:1864年~1886年)、が即位すると、真っ先に彼が行ったのがワーグナーとの謁見である
。
父の城で中世の騎士にあこがれた少年は、ワーグナー(Wagner)の、
オペラ、ローエングリン(Lohengrin)を観て虜となったのは至極(しごく)当然の事。
彼は即位後(在位:1864年~1886年)、 借金に苦しむワーグナーをミュンヘンに呼び寄せ、借金を肩代わりしてかつ莫大な支援をする
事になる。
※ その中にはバイロイト祝祭劇場(Bayreuther Festspielhaus)も含まれる。
つまり
バイエルン王
ルートヴィヒ2世(Ludwig II)は、ワーグナーに心酔し、熱狂的なファンとなり、パトロンとなりお金を使った。
しかもワーグナーのお金の使い方も尋常ではなかったらしい。
王の無駄な城建設もあるが、ワーグナーに莫大なお金を投じた事も国民の反感を買った要因の一つ
なのである。
※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13
日)
※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~
1883年)
ドイツのロマン派を代表する歌劇作家で、作曲家。
もともと父マクシミリアン 2世が「王家の小屋」と言う狩猟小屋を持っていた所。
1869年頃より土地を手に入れ始め1874年に建築が開始され、1878年に完成。
ヴェルサイユにあるトリアノン宮殿を手本にして建てられたと言われる新古典様式? の建造物です
。
実は彼がパリ旅行でヴェルサイユに行き、トリアノン宮殿(le Trianon)を気に入ったからのようです。
本物のトリアノンより装飾は凝って素晴らしい。 それこそがルードビッヒ2世(Ludwig II)のこだわりのたまもの。新古典様式ではない部分です。
※ サイズ的にはプチ・トリアノンなのですが、グランド・トリアノン説もあます。
宮殿のホールには
太陽王と呼ばれたブルボン家のルイ14世(Louis XIV)に敬意を表して騎馬像のブロンズが飾られ、天井には「誰よりも偉大なるべき」と刻まれている。
ワーグナーの世界感にひたる為に建設されただけかと思いきや、偉大なる王の継承者になるのは自分だと言う信念も込められていたようだ。
庭園正面の扉装飾は実にこだわりが・・。
お金かけてますね
ワーグナーの為の劇場建設
今風に言えば、ルートヴィヒ2 世がした事はオタクの極致。
根っからのロマン主義者である彼は、ワーグナー(Wagner)の造り出した世界に、まさに理想を観たのだろう。おそらく何もかもが好きだった。
先ほども触れたが、 王は年金だけでなく、ワーグナーの夢の実現の為にバイロイトに劇場を建設
する。
それはオペラ「ニーベルングの指環」を上演する目的での建設だ。
つまり現在も毎年開かれているバイロイト音楽祭のルーツは、この 祝祭劇場が元なのである。
このオペラ「ニーベルングの指環」を上演するにあたり、
ワーグナー自身がものすごいこだわりを持って構想。特別の劇場で、祭典としての上演を念願。場所も自分で決めた。
それは自分のオペラをわざわざ見に来てくれる人達の為の劇場でもある
。
※ 1876年初演は不評の上、大赤字。第2回は1882年まで開かれていない。
この バイロイト音楽祭は、ワーグナーの為の劇場だったのでワーグナーのオペラしか上演されない
。にもかかわらず現在は人気でチケットがなかなかとれないらしい。、
※ 今年(2018年)のバイロイト音楽祭は7月25日~8月29日まで
全てが王の出資ではないが、建設から上演までは莫大な費用がかかり、結局王に泣きついたようだ。
宮殿側から南側庭
段丘テラスと円形の堂、
城はもともと狩猟小屋の場所と言うだけあって、山はほどよい借景となっている。
渓谷に造られた宮殿はなかなか便の悪い場所であり、ツアーバスでないと大変。
おそらく元はホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城を拠点にした狩猟場だったと思われる。
城内の撮影はできないので、下の写真はウィキペディアから借りてきました。
リンダーホフ・ヴィーナス・グロッテ(Linderhof Venus Grotto)
人工の鍾乳洞であるヴィーナス・グロッテはタンホイザーのヴィーナス山の場面が再現されている。
バックの絵はアウグスト・ヘッケルの作品でヴィーナスの元にタンホイザーが描かれている。
それよりも画期的なのは、1867年に実用化されたばかりの新発明、発電機・ダイナモ(dynamo)を使用していた事だ。
この発電システムにより、王を幻想世界に誘う為の水中照明や波動装置、回転ガラス板による交番式変更装置が採用された事はかなり驚くべき事だ。
この洞穴ははワーグナーの世界感にひたる為に建設された。
ここでルードビッヒ2世は楽士にオペラのさわりを演奏させ、自身はローエングリンの扮装をして船遊びを楽しんでいたらしい。
城の後方北側の山の斜面
海神ポセイドンの噴水
ワーグナーの為に、そして自分の為に、王自身もワーグナーの音楽世界を体現する城や乗り物を造り夢の実現を図っている。
王は理想の城で夢の世界にひたった。
しかしそれは王の職務にどんどん反比例。
ドイツも激動の時代ではあったが、政治的陰謀や個人攻撃、またワーグナーに対する国民の不満。
王は、王としての職務を半ば放棄してどんどん現実逃避に走る。
それらはやがてバイエルンの国庫を揺るがす重大事に発展。
結果、莫大な費用が王を追い詰め、地位のみならず、命まで奪われる事になる。
彼が王でなかったなら究極の趣味人としていられたが、
国庫を湯水のように使ってオタク道を走った彼は精神異常者として扱われた
のだ。
※ 王の最後については2015年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」で書いています。
リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)
ルートヴィヒ2
世の存在自体が、もはやオペラになりそうなストーリーを持っている。
西の庭園
像はローマ神話のファーマ(Fama)
ラテン語でファーマ(Fama)は噂 (うわさ)や名声を現す。ファーマ(Fama)を人格化した女神だそうだ。
彼女はよい噂を好み、悪い噂には憤ると言う。
ルードビッヒ2世は、嫌な噂を聞いたらここに来ていたのだろうか?
次回
リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬
リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー
ルードビッヒ2世に関するバックナンバー
リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)
ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物
リンク
ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)
リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)
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