全7件 (7件中 1-7件目)
1
近代(ルネッサンスとも言う)の三大発明は、1)(黒色)火薬、2)羅針盤、3)活版印刷と言われる。日本が之をどのように導入なり料理したのかを、2010年3月に米国Google社が中国から撤退した背景と、日本の三大発明導入のプロセスが、ちょっと似た所があると思うので、この際触れておこう。 発明そのものは中国で原型が作られ、ヨーロッパが改良を加え近代化に利用し、世界的に発明の恩恵が普及したと言える。時期としては、夫々がルネッサンスより早く事業化された。中国での三大発明時期は、Wikipediaによると 1)黒色火薬(文献には唐代(618年~907年)の「真元妙道要路」に記載があり、2)羅針盤も方位磁針として、11世紀中国の沈括「夢渓筆談」正確には「真貝日誌送」に記載がある。同じく3)活版印刷も東アジアで、2世紀中頃紙が発明され、7世紀木版印刷が発達し、11世紀に陶器への文字印刷、金属活字は13~14世紀に朝鮮(高麗)で行われていたことが確認されている。木版印刷の世界最古品が、「百万塔陀羅尼経」(770年)として法隆寺に残されている。 ルネッサンス時期に開花した側面もあり、「ルネッサンスの」或いは「中国の」とか「世界の」三大発明という名前の付け方もあるが、『近代の三大発明』とした方がマッチしそうだ。 1)黒色火薬については、日本は元寇(1274年文永の役、1281年弘安の役)の際に、その威力を初めて知ることになる。火煙が天高く上昇する様な燃焼物は開発されていた節がある。鉄砲が種子島へ伝来(1543年)してから、織田信長が長篠の戦(1575年)で鉄砲の威力を発揮するまで、ものの30数年であった。その間、日本では狼煙(のろし=狼の糞)をヒントに、黒色火薬の3原料「硝石(硝酸カリウム)75%、硫黄10%、(木)炭15%」の内、輸入しか入手法が無いと言われた「硝石」に似通ったものを、ヨモギに馬尿(アンモニア)をかけるなどした土間の土を使った製法で手当てしていたと推測される。 秀吉が朝鮮出兵した際、捕虜から硝石の製法を聞き出し、前田藩の五箇山や奈良盆地などで、糞尿(アンモニア)を腐敗させ、床下などの湿った土中の硝化バクテリアでHNO2(亜硝酸)とし、土中のCaO酸化カルシウムと反応させ、硝石を国産化していたという説もあるらしい。ただその後は、「鎖国令」もあり、鉄砲、大砲などの進展は止まっている。それに伴い黒色火薬の一原料で、輸入に頼らざるを得ない「硝石」国産化の動きもスローダウンした。兵器という観点でみれば、徳川幕府は外様などの勢力が火薬開発―鉄砲開発することを抑え、厳重な監視下に置かざるを得なったと考える。 Wikipediaなどによると、徳川綱吉は、「諸国鉄砲改め」を交付し、百姓や猟師にも鉄砲所持を禁止したようだ。 ペルーの黒船が来航するまで、日本で鉄砲用、大砲用、花火用などの黒色火薬製造や原料「硝石」製法開発・進展の話が無かったということだ。明治維新以降は、ネックになった「硝石」も、チリ―産などを輸入し、1920年の硝石化学合成までは輸入で凌いだことになる。この日本が1)火薬を導入する過程で、鎖国で平和だったことで、兵器用火薬の開発ニーズが無く、「近代(世界)の三大発明」の日本導入が遅れてもなんら支障なく、潮流から遅れることなく、文化的なレベルは充分維持できたのではないかという点である。 つまり、近代の重大発明であろうが、その発明が、時の幕府として兵器開発とリンクし、急速な富国強兵策も可能なことも判っていた可能性がある。導入に蓋をして拒否したことは、ちょっと観点が異なるかもしれないが、見方によってはGoogle社の中国撤退の背景と似通っている。 2)羅針盤(方位磁針、コンパス)については、日本海事科学振興財団によれば、日本が船磁石として導入したのは、中国宋から鎌倉時代と見られる。続日本書記に、近江の国から朝廷へ「船磁石」が献上された(713年)との記述があるようだ。実際には中国で10世紀北宋の時代に船、旅、測量などに使われていたようだ。コロンブスの大陸発見(1492年)など、大航海のようなスケールの大きいニーズが無く、勿論、動力船も無かったので、高度な方位磁針による航海術導入が遅れたのではないかと推測する。 八幡船などで東南アジア海域まで闊歩していた「倭寇」や、山田長政(タイ)(1590年~1630年)、納屋(呂栄=ルソン)助佐衛門(フィリピン)(1594年頃)などの航海においても、帆船主体のため、簡単な船磁石による航海術ではないかと推測する。夜間は星空を、雨、強風、霧などの場合は、船磁石を見ながらの経験則による操舵ではなかったのかと思う。但し、江戸時代の測量士 金沢左衛門が「逆針」を発明し、航海など利用され、また中国へ逆輸出されるなど注目を浴びた。後の伊能忠敬や間宮林蔵などの測量や、小説j「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛(1769年~1827年)蝦夷函館「廻船問屋」などへも「逆針」などが使用され、後の正確な地図作成やロシア交渉航海に反映されていたのではと考えます。 実質的な導入は勝海舟の幕府海軍伝習所、操練所のような時代から、航海術として導入され普及したのではないだろうか。 日本で操船の際、舵を左に切るのを「とりかじ=取舵」、右に切るのを「おもかじ=面舵」と言うのも、{右舷}西=酉(とり)、{左舷}東=卯(う)からきているとのことで、24針(後36針)船磁石を使いだした鎌倉・室町時代頃から定着したものと推測する。大航海が必要無ければ、特に高度な羅針盤用いた航海術導入は必要でなかったと言えます。 3)活版印刷は、Wikipediaによれば、ヨハン・グーテンベルグが1397年に、独マインツで、鉛・錫・アンチモン合金の金属活字とアマニ油性インクで事業化したのが、普及の端緒となったようだ。徳川幕府は、オランダ経由優れ物のこの印刷技術を輸入することは可能だったが、普及すれば、幕府を批判する瓦版や配布チラシが安価に大量にばらまかれるのを牽制して、実質輸入禁止措置が取られていた節がある。 普及しなかった別の説として、「金属活字のアンチモン合金の製造が困難であったことと、国内産油性インクのノリが悪く、普及しなかった。」とあるが、幕府による規制の方が可能性高いと推測する。 活版印刷術が日本で普及しなかったことにより、大量印刷配布されず限定数の制作をおこなう浮世絵が定着することになった。浮世絵師達の対象を描く繊細さと独特の豊かな色彩感覚が成熟し、世界の芸術家達に大きな影響を与えた浮世絵師が輩出した。 葛飾北斎は、1999年の米国ライフ誌で過去1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人の中に、唯一日本人として選ばれている。 印象派のゴッホやドビッシーが浮世絵「神奈川沖浪裏」を見て交響曲「海」を作曲したことなどが有名である。活版印刷術が普及していたなら、浮世絵が注目されず、独特の色彩感覚や豪快かつユニークな構図をものにする世紀の浮世絵師は生まれなかったとも言える。 つまり、幕府の肝入りで、近代の重要発明を導入しなかったことにより、皮肉にも高度な芸術を育んだということが言える。 米国Google社の検索ビジネスも、印刷の延長線上の情報関連技術とも言える。その検索を好ましくないということで、仮に規制を強めれば、高度な検索ビジネスの発展や普及は遅れる。結果として情報関連技術全般の‘’近代化‘’は遅れることになる。江戸時代と時代背景が異なり、単純な比較は出来ないが、その発明技術と関わる管理者の関係は、いつの世もどこの場所でも吉と出たり凶と出たり、色々と有り得る話である。 End
2010.04.14
コメント(0)
都心部の魅力的な日帰り温泉で、3月20日に全線開通した第2京阪のIC近くでどこかないかと探していたら見つかりました。枚方学研ICから車で5分程の所で、住宅地の山手にある「スパバレイ枚方南」です。(株)メゾネットが経営している温泉で、他に伏見「力の湯」や神戸HAT「なぎさの湯」があり、フットサル場なども伏見で併設しており、健康産業としてユニークな展開をしている。駐車場180台分がほぼ満杯だったので、相当温泉内が混んでいるのではと心配したが、スパなど他の利用客もおり、余裕はあった。最近は温泉入る前に日帰り温泉内で散髪をするようになり、1000円で「髪剪処(かみきりところ)」でサッパリと髪切り温泉に向かった。泉質はアルカリ性単純泉で、露天風呂から京都東山・北山・北摂・六甲が見渡せる。北河内枚方の都心部で、こんなに見晴らしがいいとは驚きだ。京都伏見~大阪浪速の動脈であった淀川の中流に位置し、国道1号線が今まで物流の大動脈として継承し、今度は第2京阪が高速で一部を担うことになる。そんなほぼ中間地点に「スパバレイ枚方南」は位置しているのがよくわかる。昔の淀川物流に想いを致しながら、湯につかった。散髪と温泉でちょっと相乗効果があるのか、湯上りの気持ち良い気分に満足した。
2010.04.11
コメント(0)
四月八日は、ピッカピッカに新調したランドセル姿の入学式があり、西日本や関東ではほぼ桜満開の日でもある。更にお釈迦さんの誕生日でもあり、甘茶(あまちゃ)をお釈迦さんの像に振りかけて、飲むという花祭りが一部の地域で残っている。「春眠暁を覚えず」の温かい気候になり、気持ちよくウトウトさせる(瞑想)シンボルのような行事だ。日本人が春を感じる3点セットが、観桜、入学式(入社式)、加えて春眠(甘茶)でもある。日本が学年や予算などの年度を、西洋並みのカレンダー通り1月1日~12月末に変更するには、気持ちの上でまだまだ吹っ切れないものがあります。 そんな春を感じるべく、日本海の天橋立近辺に行って参りました。先ず、吉田の枝垂れ桜です。舞鶴湾北側にある1609年開山の曹洞宗金剛山瑠璃寺に、京都左京区吉田山にある吉田神社の枝垂れ桜を移植したと言うことです。そのためこの村落が吉田と命名されたようです。樹齢約300年の見事な枝垂れ桜です。階段上のお寺境内には白桃の花がピンク色に咲いており、配色の妙に感激しました。寺には甘茶とお釈迦さんの像があり、子供時代を懐かしみながら、甘茶を掛け、飲みました。甘茶はガクアジサイの変種で、生薬としても使われる。この甘さはフィロズルチン、イソフィロズルチンでサッカリンの約200倍相当な甘味料だ。丁度近くの幼稚園か保育所の子達が遠足がてら訪れており、甘茶を吾輩の子供時代の様な美味しいという感覚では飲んでいなかったようだ。境内はメジロのさえずり(囀り)と子供の声が融合し春の陽気を感じさせた。お体の不自由な方々、お年寄りの方達も沢山訪れていた。枝垂れ桜は「江戸彼岸(エドヒガン)」の園芸種で、ソメイヨシノの人並み70歳~80歳寿命と比較して、「長寿」の品種なので、お年寄りが枝垂れ桜を楽しんでいるのは絵になった。お寺の方や舞鶴吉田しだれ桜保存会の方も、お年寄りやお子達などが楽しみにしている観桜を400年でも500年でも継承しようと、桜守をされておられる姿が印象的でした。 次に天橋立の智恩寺文殊堂を訪れ、「三人寄れば文殊の智恵」の文殊菩薩などを拝観した。天橋立は日本三景の一つだが、この日本三景の選定は、徳川家康が重用した林羅山の息子で儒学者の林春斉が「日本国事跡考」に表したものと言われている。吾輩なりの説だが、山紫水明の緑豊かな森の栄養分が海に流れ、その河口で牡蠣が養殖可能となる。栄養豊富な澄んだ河口域で、皇室に縁を感じさせる「宮」なる名前を地名として拝命しているのは、宮島(広島湾=三景の一つ)、宮古湾・宮城県(松島=三景の一つ)、宮津(宮津藩・宮津湾、天橋立=三景の一つ)。 他に宮崎県とか宮古島などあるが、偶然とは言え河口域の「宮」含む地名は、三景に絞られる。上流の森林が疲弊しておらず、絶えず伐採、間伐、植栽が行われ、牡蠣が養殖可能なように栄養豊富な河口の海にしている。 雪舟が応仁の乱などの血なまぐさい争いを避け、この天橋立に滞在(1501年)し、松林の続く立派な砂州を天にも届くの意気で、国宝「天橋立図」を完成させたのは、この景観の成せる技というものだろう。「立ち上がれ日本」を結党した与謝野馨衆院議員が、参議院選挙に鞍替え出馬するのではないかと噂になっている。与謝野さんの祖父 鉄幹(寛・ひろし)、祖母 晶子夫妻が度々天橋立を訪れ名歌を残している。 直ぐ近くに与謝野町という地名がある。未調査だが与謝野家とはなにか因縁があるのではないかと思っている。 天橋立を見ながら露天温泉とまではいかないが、最高クラスの観光ホテル「文殊荘」グループに属す「対橋楼」が、天橋立へ行く廻旋橋の右手前にある。15時までの限定だが日帰り温泉にも開放してくれている。露天からは天橋立の松林が垣根隙間越えに見える。丁度昼時に入湯すれば、食事処でもあり湯上りに海鮮と山菜主体の和食を堪能できる。宿泊しなくても天橋立に立ち寄った雰囲気は充分味わえる。 6月から休日の高速ETC1,000円は全日低料金定額に変更となる予定だが、中国自動車道・吉川IC~小浜西IC間が社会実験区間として無料になる予定だ。天橋立への車アクセスは随分安くまた早くなるだろう。決して‘’大江山 生野の道は遠ければ まだ踏みもみず天橋立‘’という百人一首にも‘’おさらば‘’ということだ
2010.04.09
コメント(0)
富士山眺望に憧れる気持ちが高い方は、東京・静岡・神奈川などでいつも近くで眺められる(以降「富士眺望可」という)方々というより、どちらかというと地方の方とか中国などから来られた海外観光客ではないだろうか。最近東京の方が運転する車で、東名高速の富士山が見える場所を通過した。吾輩がかぶりつきのように’’わぁ~冨士山が見えるぅ~’’と叫んでいると’’あ、そう’’と冷めた反応で、人前では富士山を見て感嘆するのを控えている様子であった。昔も富士眺望可の方々と、新幹線に乗って窓越しに富士山を眺めたり、飛行機で富士山を見下ろせる場所を通過したことがあったが、総じて無関心な仕草だったのが想い起こされる。吾輩は富士眺望可の在住ではないが、富士眺望可在住の方とそうでない方に、それとなく’’富士山をもっと近くで眺められる所へ行きたいですか’’と聞くと、富士眺望可の方々は、それ以外の方々より、’’それ程でも’’という返事が比較的多かった。都会人らしく気取って応えているのではないようだ。そこで、1-2年後に「富士山」(3,776m)が世界自然遺産へ登録されるのを祈りつつ、いつも眺められない立場から、富士山への想いを語ってみます。 葛飾北斎の「富岳三十六景」中、「神奈川沖浪裏」(大浪に二槽の船が乗り、遠くに富士山)や「凱風快晴」(赤富士)などの浮世絵、横山大観、前田青邨、片岡球子、奥村土牛らの富士山画、夫々模写の安い絵を部屋に飾り、日々眺めていると気分が和らぎ落ち着く。富士山に一度登ったことがあるが、頂上付近では空気が薄くなり、割とエネルギーを必要とする。「富士山は登るものではなく、絵や写真の素材対象として眺めるもの」とは良く言ったもので、眺める景色としては最高です。 富士山のパワーが、蒼蒼たる画家たちに「登れとは言わないが、タンと描いて、撮って」と言わしめているようだ。 絵を眺めるにつれ、本物の富士山を眺めに行こうという気が擡げてくる。そこで余り遠くない所で、ドライブで行けそうな「富士見峠」がないかと地図をめくってみる。 信州の蓼科車山高原~霧ケ峰高原のビーナスラインの途中に「富士見峠」があり、一度車で行って、雲海の上に富士山が見えたのが美しく感激したのを覚えている。また槍ケ岳山荘からご来迎を見た際にも富士山が、雲海の上に鎮座していて偉く感動した。しかしやはり遠い。 朝日新聞の四月初め夕刊一面に、「富士遠望ここでも」が報道された。記事によると、筑波大学付属高校の地理教諭、田代博さんが著作の「今日はなんの日、富士山の日」(新日本出版社)に、富士山遠望の場所北限は福島県の日山(富士山から298km)、南東は八丈島の三原山(同271km)、南西は和歌山那智勝浦町・妙法山色川富士見峠(旧名 小麦峠)(同323km)と記載されているらしい。 そこで、温泉好きな吾輩としては、趣を変えて露天温泉から富士山が望める南西の遠い所はどこかを探って行くことにした。 山梨県や静岡県には露天から富士山眺望可能な露天温泉は結構あるらしい。やはり移動費用が安そうな南西方面に注目だ。 先ず、和歌山に日本最大の降雨地・大台ケ原見晴台があり、富士見の場所があるとのことで、山小屋のお風呂から望めないかと調べたが、流石降雨地で最近は眺められないらしい。世界遺産の熊野参詣道温泉郷に東側の山並みが低い露天温泉を調べたが、ここも不発だった。伊勢志摩は方角的には問題なさそうなので、手始めにヤマハの合歓の郷(さと)展望温泉から富士見をと考えたが、東側山並が高く、遮られていた。 愛知県渥美半島先端の「伊良湖ビューホテル」の展望風呂付近を調べたが、運悪く東側高山が邪魔をしていた。昔1300年前位の奈良時代から、武蔵を始め東国の民は、数十年に掛けてお金を貯め、念願の「お伊勢参り」をするのが流行ったようだ。東海道五十三次の途中、浜松あたりから分岐し、伊良湖岬へ向かい、伊勢賢島への渡し船で「お伊勢参り」するのが標準ルートのようだ。 渡し船では富士山の話題も取り上げられたと偲ばれる。 ちょっと飛躍するが、清水次郎長一家・森の石松が、「金毘羅参り」の渡し船で、清水湊の富士山を思いながら、旅人に石松の評判を聞くシーンがある。渡し船に富士山の話題は絵になる。 この渡し船(現在は伊勢湾フェリー)の途中見えるのが「神島」で、三島由紀夫の「潮騒」の舞台になった所だ。 東側にお風呂施設があれば、窓から富士山が望める方角ではある。 まだまだ調査続行が必要だ。乞うご期待と言いたいところですが、ぼちぼちの長丁場になりそうだ。
2010.04.06
コメント(0)
日本の歴史は、貴族・武家の時代や明治維新などにおいて、時の天皇を味方に出来るかどうかで流れが大きく変わった経緯があります。その代表的なのが南北朝時代です。奥吉野の天川郷(現在の天川(てんかわ)村)が、後醍醐天皇や護良親王などを擁護し、南朝の奥吉野拠点として支えました。紹介する天川村三湯の一つ「天の川温泉」のすぐ近くに、南朝の御所がおかれていた「天河大弁財天社」(日本三大弁財天の筆頭)があります。造りが余り大きくなく簡素ながらも、荘厳で霊験新かな感じがするので、自ずと賽銭を弾むことになりました。吉野熊野国立公園に位置し、世界遺産の熊野参詣道から少し離れた山奥ですが、かくも立派な神社が鎮座しているのかと驚嘆しました。芸能の神様としても有名らしく、時々芸能人が参拝に訪れているのが見られるとのことです。また温泉近くから近畿の最高峰、弥山・八経ヶ岳(1,915m)への登山道があります。「天の川温泉」で’’いい湯だな!’’を味わう前に、天河大弁財天社の参拝をお薦めします。 同じ天川村には、大峯山・山上ヶ岳(1,719m)や稲村ヶ岳(1,726m)へ上る登山拠点「洞川」があります。女人結界地点にも至る登山口前の道路沿いに’’名水ころころ水’’の取水駐車場があり、車番を拝見すると、広く関西一円から取水に来られていて、繁盛しているようでした。この洞川入口に天川村三湯の一つ「大峰千年湯・洞川温泉」があります。 天川村には三湯めぐりとしての三湯目に「みずはの湯・薬湯センター」があります。車のアクセスは、南阪奈道路・葛城ICから山麓30号線で南下し、現在無料の京奈和道路・五條北IC~五條ICを通過して、169号線を南下し大塔の「天誅組遺跡」を見ながら、阪本で左折すれば簡単に行くことが出来ます。手作りの薬草園で収穫した当帰など生薬配合の露天風呂から、対岸の滝を見渡せるのが嬉しい。またハーブサウナのアロマセラピーも珍しい。温泉ではないが薬湯で雰囲気を充分カバーしてくれています。湯上りには隣の季節料理屋「花子」の山菜・岩魚料理が美味しい。入浴する前に営業時間を確認しておくことをお薦めする。 さあ~今日お薦めの「天の川温泉」の紹介です。2月頃の新聞に、兵庫の主婦が、高野槇を原料に200回程抽出実験した末、皮膚化粧品を開発し成功したことが報道されていた。この「天の川温泉」は浴槽が高野槇で出来ており、建物も吉野杉、松、楓などで造られている。木の香りが漂う山のいで湯だ。泉質はナトリウム炭酸水素塩泉で、さらさら感がある。登山、ハイキング、参拝や花見など体を使った後に入ると、先の「高野槇」浴槽と森林浴湯の効果もあり、疲れが吹っ飛んだ感じがした。何と言っても湯上がりが空気が美味しく気持ち好い。 今日4月4日は、節句の奇数月ぞろ目の日とは違いますが、なんとなく縁起が良い気持ちになりました。節句は奇数(陽)月の原則ぞろ目日で、1月7日(人日、正月1日~6日豊作を祈願し、7日目に占う『七草粥』で定着済み)、3月3日(雛祭り、上巳)、5月5日(端午の節句)、7月7日(七夕、この温泉地「天の川」に相応しく満天の星空に天の川が燦然と輝くだろう。)、9月9日(重陽の節句)の五節句です。『陽』が重なり縁起が良いとした中国から伝わり、平安時代には定着している。一桁の重複を重んじ11月11日は含まれていない。日本では9月9日が忘れ去られてしまい今日に至っている。偶数のぞろ目日としては、8月8日が、北京五輪開会式の20(08)年・8月8日・8時8分として目出度い日時として使われた。「8」がお目出度い数の為使われたが、スマイルの日だとか算盤の日だとか定着を試みたが、やはり節句のような日としての格上げは不成功に終わっている。但し、最近はスーパーマーケットやショッピングモールなどの特価日や発売日には縁起の良さそうな日として応用されている。偶数は’割り切れる’とし、それがぞろ目で重なるのは縁起が悪いとか言って、お目出度い日としては定着しないようだ。しかし何度お目出度い日があっても良いので、本日をお目出度い日と見做して鋭気を養い、天川村を後にした。
2010.04.04
コメント(0)
中国から渡来した文化だが、日本人は「8」が末広がりや冨士山の裾野を連想させ、お目出度い数として好む。「1」も、事業仕分けの蓮舫議員が発言した‘’2位では駄目なんですか‘’や、浅田真央選手とキムヨナ選手の五輪、世界選手権の一位(金)、二位(銀)争いで注目され、目標や夢などの数として定着している。「7」も、西洋などからもたらされたラッキーセブンなどで幸福や運などの数として心に刻まれている。それに加えて「48」も日本人が好きな数として上げなければならない。吾輩はその前の「47」に拘り、もうちょっとで「48」だという「47」が、知らない間に日本人の心に住み込んでいるのではないかと思っている。 毎年12月15日頃にはドラマで赤穂四十七士の『忠臣蔵』が取り上げられる。楽聖ベートーベンの第九が日本のみ年末に集中演奏されるのも、一説には『忠臣蔵の討ち入り』をイメージしているのではないかと言われている。それほど『四十七義士』の、‘’苦節の上一致団結して本懐を遂げる‘’物語は、日本人の判官贔屓な感性に切々と訴えるものがあるということだ。この四十七義士に加えて『四十八番目』の義士として「萱野三平」が葬られている。また都道府県数は、たまたま『47』だが、48を目指した数と言えなくもない。昔ひらがなが出来、「いろは仮名文字」歌が出来た時には『47文字』だったのが、「ん」を加えて『48文字』にした流れがある。日本人の心の中には親近感のある「48」を目指した「47」が脈々と潜んでいるのではないかと。つまり‘’「47」+「1」⇒目標のパラダイス「48」‘’だと常々考えている節がある。次に個別に述べて見よう。 先ず赤穂四十七士に加えて「萱野三平」の『四十八番目』が登場する背景を述べてみよう。三平は、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良義央に切りつけた時、赤穂藩江戸上屋敷におり、刃傷事件を赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助に報告する役目を担った。東海道、西国街道(山陽道)を昼夜無く早駕籠で駆け抜け、内蔵助へ伝えた。その後内蔵助中心の仇討メンバーに名を連ねる。しかし三平の父重利は、三平を赤穂藩へ推挙してくれた美濃の旗本・大嶋出羽守へ迷惑をかけることから、仇討への参加を許可しなかった。主君内匠頭への想いと父への孝行の板挟みになり、苦悩の末討ち入りの11ケ月前に自宅で自刃した。時あたかも元禄時代で、芭蕉などの俳人が活躍しており、三平も俳号「涓泉」として多くの優れた俳句を残している。義士である俳句仲間の大高源五が、討ち入り日時決定の為、句会で吉良在宅情報を収集する場面がドラマなどに度々登場する。三平も、仇討準備に句会などで参画していた事が偲ばれる。仇討成功の裏には、不本意ながら参加出来なかったメンバーが縁の下から支えたことを、後世に伝えようとしているのではないか。そんな想いを、浅野家菩提寺の品川「泉岳寺」義士墓に萱野三平が『四十八番目』の義士として葬られている前で、涙して懐きました。 次に47都道府県数への想いですが、明治維新の廃藩置県を経て先の大戦後、1972年沖縄返還で47となっています。北方四島返還を夢見て『48番目』を目指し、‘’戦後の総決算‘’として成就すれば、それを数の打ち止めにしようとしているのではないかと。道州制が叫ばれる中、都道府県数などは余り重要視されない傾向にはあります。が、やはり緑豊かな美しい山紫水明の地方活性・復権が必要ですし、都道府県数「47」の響きは心を揺さぶり続けています。 山田洋次監督の「渥美清・虎さん」シリーズは、虎さんが葛飾柴又・帝釈天門前町「虎屋」から47都道府県の鄙びた神社の祭りに露天を出す形式を取って、漫遊します。水戸黄門も同じ地方漫遊スタイルです。古き良き日本が、柴又にも地方にも残されていることを浮かび上がらせています。老いも若きも心の中に刻まれた名作シリーズとして、輝かしい金字塔を打ち立てました。渥美清さんの健康状態を慮ったと思われますが、48話でシリーズを終了します。47都道府県と48話で完了も、良く出来た話です。 三つ目に、「いろは仮名47文字」が「48文字」で定着した話をします。日本は難しい漢字を‘’いやーな感じ(漢字)‘’のままにせず「ひらがな・カタカナ」を編み出しました。ITワープロ・携帯メールなどのアルファベット英語タイプ入力を必要とする世界潮流にも、なんら臆することなく乗っています。庶民も親しめる、和歌(百人一首含む)・源氏物語などの世界に冠たる長編小説・連歌・狂歌・俳句・川柳・歌舞伎・浄瑠璃・浪曲・落語・童謡・歌謡曲など素晴らしい国語文化を作り上げました。識字率も高く、文盲の無い世界に誇れる国と言えます。経済がちょっと停滞しているので意気消沈気味ですが、少子高齢化社会などの打開策は、この47⇒48文字数変革(文化創造)にヒントがありそうです。Wikipediaによると、いろは歌は平安時代後期に涅槃経の一種「金光明勝王経音義」(1079年)などを原典として、「今様」と言う【七五を四回繰り返す】形式の歌となり普及し始めたようです。[いまよう]な現代風流行歌のようなものです。「色は匂えど散りぬるを 我が世誰れぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔いもせず(ん)」。びっくりするのは同じ仮名が繰り返し使われていないことです。歌が言わんとすることは『諸行無情、是正滅法、生滅滅己、寂滅為樂』らしく、中世日本文化を代表する無常観やわびさびの源流ともなったものの様です。この「今様」形式は、「越天樂」、「我は海の子」、「荒城の月」、「蛍の光」、歌謡曲などに引き継がれている様です。(ん)を加えて48文字とし、リズム良く安定して聞こえ易く仕組まれた様です。この47に追加して累計48文字にし、結果として耳障りを良くしてしまう工夫は、聞き慣れた「今様」(現代風)にしていく作業のことではないかと。打開策も、余り焦らず現代風に、携帯メールを楽しく使いこなす様な、無理せず(無常の心意気)適応させるということではないでしょうか。 最後に、パラダイス「48」がいかに身近なもので、全て熟達完遂出来たことや参詣満願をした気持ちなどを表しているかを述べて終わります。皺(しわ=4x8)32、余話(よわ=四八)や2x4x6=48ではありません。すぐ浮かぶのは大相撲の決まり手総称『48手』です。頭で行う「反り(そり)」、手で行う「捻り(ひねり)」、腰で行う「投げ」、足で行う「掛け」の4手に、各12の変化があると言われています。「今様」(七五の四回繰り返し)によく似た計算式です。朝青竜が引退前にモンゴル相撲スタイルの技を掛けていましたが、これも48手応用技の様です。広辞苑によると、「四十八手の裏表」と言われるのは、相撲の各技に裏と表の変化があることから、「手段には種々変化があること、有りったけの駆け引きや秘術」を意味するとのことです。阿弥陀仏が一切衆生を救うために発した『四十八願』と、お経を唱え続ける『四十八夜』(49日喪明け・満中陰志はここからとの説も有ります。)などから自然に数として巷に普及した様です。赤目『48滝』に代表される景勝地の滝数も「四十八願」と関係している様です。決して相方との48手を連想されないようお願いします。そこで最近秋葉原で素人っぽい美人アイドルグループ『AKB48』が売れている様です。48がお目出度い数であることと無縁ではなさそうです。 再見!
2010.04.02
コメント(0)
高山右近で知られる高槻の北側山の手に摂津峡があり、丁度人々が摂津峡公園の花見に繰り出して賑わっていた。老舗のかじか荘や明月館の手前の田園道路沿いに「美人湯・祥風苑」がある。泉質はナトリウムー炭酸水素塩泉でサラサラとして肌ツヤにはよさそうで、美人湯にはもってこいのようだ。若い女性客の割合も多そうだ。露天は2カ所あり、室内湯と同じ階の小さい露天と2階程階段で上がった屋上にある天空大温泉(男性用)がここち良い。天空露天から周りの摂津峡山並みが鎧戸越しに一望できる。かじかの音も聞こえそうだ。帰りに歩いてライアップされた桜満開の公園を覗いた。若い男女の8名くらいのグループが花見の宴真っ盛りと言うところだった。バーベキュースタイルだが質素な中にも華やかさがあり、花弁がぱらぱら落ちていく中で唱っている姿も絵になっていた。昔の若者達の花見の宴スタイルと余り変わっていない。日本人の桜の下での花見は時代を超えて受けつがえれて行くのでは確信した。
2010.04.02
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1