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落盤事故で33名全員が構内で無事確認されたから、安全な救出完了はクリスマス前になるのではと思われていたが、69日目の救出成功はなによりの朗報だ。愛人騒動だとか33人全員が本を出版するまでは触りの部分はしゃべらないとか、話題満載だ。33人以外の鉱山労働者が閉山で首になったので、クリスマスも年越しも祝えない状況だ。閉山でメディアが去った寂しくなった鉱山で抗議行動をしているのが痛々しい。確かに33人が完全救出されたのは今後の非常時のリーダー論含めた危機管理には恩恵を与えたと思うが、落盤事故前にも死亡事故含め数回の事故があったのが、なぜ危険性のあるまま操業続けたのか、メディアの報道は余りない。世界のメデイアからも再発防止策を追跡取材するより、閉山して世界の関心が失われれば、追跡そのものにも力は入らず、忘れられていくような気がしてならない。 優れたリーダーの役割以外に、暗い坑内で歌を歌って皆の気持ちを高めていたのも成功の理由と報道されていた。12年程前京都の舞鶴市で豪雨により由良川が氾濫し、観光バスの18人が、真っ暗な濁流の中でバスの天井上にあがり、「上を向いて歩こう」や「結んで開いて」の童謡等を歌いながら、翌朝のヘリコプター救出を約10時間超、待った。歌は体温が下がるのを防ぎ、一体感が出来、気持ちが明るくなる効用がある。チリの鉱山でも、日本で言うところの唱歌や童謡、国歌などが唄われたようだ。その意味で約40年程前に「ともしび」などの歌声喫茶に若者は殺到したものだ。カラオケのような個人やヂュエット中心でなく皆で斉唱する歌声ブームの復活の兆しがあるようだ、東京や大阪で「ともしび」などが再開した話を聞いて、見知らぬ者同士が一緒に唱うことで健康になるばかりでなく、危機管理にも役立つとなると歌さまさまということだ。 チリの事件では33人が程良い響きで記憶に残った。丁度遍路歩きに西国三十三カ寺参拝が1,000年ほど歴史を刻んで定着している。また京都には三十三間堂がある。またキリスト教社会ではイエスキリストが33歳の若さで磔になったことから「33」には意味のある数字として刻まれている。特にスペインのバルセロナで建築中で2027年~2030年完成目標で急ピッチで建設が進んでいるあの『聖家族教会』(サクラダファミリアイ)には桝目16個の1~16の数字で埋めた枠が 縦横斜めの並ぶ4文字を足し算すればピッタリ33となる石板が掲げられている。イエスキリストへの追悼の意味があるが、33以外の数字ではこうはいかない、という不思議な数字だ。ルービックキューブの枠回しと同様に16数字がどのような16カ所配列かはここではクイズとしておこう。 たまたまピッタリ33人であった為に奇跡的に全員が生還出来たとも受け取られる。日本でも『33』は余り大きな数字でなく、ぞろ目で目出度い数字だ。特に小・中学校の教育を重視するという観点から、30名学級或いは35名学級の全国導入が、現実を帯びてきた。財政事情が厳しい中でも、国民の教育投資熱は健在なので、教師が33人X2=66の瞳を見渡し、行き届いた(息届く感じ)教室空間を醸し出すのが良いと賛同を得られつつある。つまり33名はリーダーが意見集約してまとめる単位としては、小中学生のみならず、大人の社会でも程良い人数と言うことだろう。
2010.10.18
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団塊の世代が定年退職を迎え、世の中全体が高齢化社会への歩みを速めている。しかし お年寄りの仲間入りした団塊世代は、その青少年時代によく聞いた音楽にビートルズやグループサウンズ等が加わり、もう少し上の年代が、唱歌、童謡や演歌にどっぷり馴染んだのと比較すると、若干唱歌離れ(「消化」ふそく)を起こしているのではと思っている。そこで、団塊やその子や孫達も、唱歌や童謡が懐かしく歌えるように、その曲にまつわる背景などを述べてみよう。 先ず唱歌とは、明治初期から第2次大戦まで学校教育用に制定されたもので、文語調が特徴だと思う。教室で唄い易くする為に、どうも無断で作曲者作詞者の思惑とは別に、勝手に改作が有ったのではとも思っている。森進一さんが‘'おふくろさん‘'の歌詞を無断で一部改変したことで、作詞家 川内康範先生の逆鱗に触れ、先生没後遺族が水に流し森進一‘'おふくろさん‘'が復活したことがあった。唱歌の改変が大きな問題にならなかったのは、大らかな時代だったと言うべきか、作詩家作曲家に著作権意識が高まっていなかったというべきか微妙な雰囲気でお茶を濁したと言うことなのだろう。 童謡はわらべ歌とも言っていたようだが、口語調を特徴として、大正中期~昭和初期に掛けて、北原白秋が中心になって唱歌反対、童謡推奨の運動を起こした。「仰げば尊し」が卒業式の歌から消えつつあるが、名曲にもかかわらず、去りゆくのは残念だが、文語調は現代には歌として定着しづらいのは判る気がする。この口語調の歌提唱は、後に 「赤い鳥」童謡運動となって盛り上がった。この運動の中心に、国学者「本居宣長」の子孫である「本居長世」(山田耕作の東京芸大同期)が中心だったのは興味深い。 それでは順不同で、唱歌や童謡の歌にまつわる背景を述べてみよう。1.「故郷」(ふるさと) 作詩:高野辰之 作曲:岡野貞一 大正3年(1914年)唱歌制定。 このコンビで「春が来た」「春の小川」「朧月夜」「紅葉」等の馴染みの曲がある。故郷 は、日本の原風景そのもの。作詞家:高野辰之が育った長野県・中野市(永江村)真宝寺脇、班川の風景と言われている。JR飯山線「替佐駅」、千曲川に合流。 作曲家:岡野貞進一は、鳥取出身。14歳で洗礼したのが作風に影響を与えている。賛美歌のゆったりした3拍子が反映されている。2.「椰子の実」 作詞:島崎藤村 作曲:大中寅二 昭和11年NHK国民歌謡,歌手:東海林太郎。 28歳の藤村が、親友で後の高名な民族学者となる柳田国男から、伊良湖岬で、椰子の実を拾った話を聞き作詞。戦争中は南方出征兵士が戦地で好んで歌った。 実際に石垣島から椰子の実を流し、渥美半島への漂着分を調査、20年間、毎年100 個、合計2,000個を流した。その内、数個が実際に渥美半島の岬側伊良湖半島に 漂着した。3.「早春賦」 作詞:吉丸一昌 作曲:中田章 大正13年(1924年)唱歌制定。 長野県大町市、安曇野市に由縁あり。作詞家 吉丸一昌が、長野県安曇野市(穂高町)穂高川河畔の雪解け風景に着想して作詩。 モーツアルトのピアノ協奏曲27番「春への憧れ」(K591)等とモチーフが同じとも指摘がある。4.「浜千鳥」(童謡、名作抒情歌) 作詞:鹿島鳴秋、作曲:弘田竜太郎 大正9年(1920年)童謡 作詞家 鹿島鳴秋が、娘を幼くして亡くした。「親を亡くした子供達の生まれ変わりの『千鳥』をモチーフ」に制作。 5.「浜辺の歌」作詞: 林 古渓 作曲 成田為三 明治45年(1912年)制作、大正7年唱歌制定 作詞家 林 古渓が、神奈川県藤沢市 辻堂先の茅ヶ崎より湘南海岸の朝夕をイメージして制作。作曲者 成田為三に渡された際、起承転結4節の3節4節の4行を手違いで失う。後の唱歌制定の際、3節前半と4節後半を混ぜた3節が誕生。作詞関係者は後に3節は唄わない様要請。現在は2節までが定着。 歌が醸す物悲しさは、この海岸で古渓の恋人が結核の転地療養し、秋だったのが影響。 作曲家 成田為三は北秋田市(旧米内沢村)出身、留学帰りで音大教授の推薦で西洋的な聞き易い曲とする。記念館が北秋田市にあり。 6.「月の砂漠」作詞:加藤まさお 作曲:佐々木すぐる 大正12年(1923年)唱歌制定。 作詩家 加藤まさおが、千葉県夷隅郡・南房総・御宿海岸で2頭のラクダに王子と姫が乗るイメージで作詩。中国崑崙山脈、タクラマカン砂漠やゴビ砂漠等の壮大な風景が思い浮かぶ。7.「初恋」 作詞 石川啄木 作曲 越谷達之助 石川啄木21歳、函館・大森浜散策時、初恋の辛さを「一渥の砂」(北上川上流の渋民(玉山村)に収集)。しばしの安息と諦め感。 (村木孝蔵46歳没、同名曲有り) 8.「故郷の人々(スワニーリバー)」作詩作曲:スティーブン.C.フォスター(米)大正4年(1915年)完成 フォスターは他にも「草競馬」、「おースザンナ」、「ケンタッキーの我が家」、など馴染みの曲がズラリ。フォークソングの原型だろう。スワニーリバーはジョージア州~フロリダ州北西部~メキシコ湾に注ぐ。川の透明度は高く、神秘的で時が止まったような静寂に包まれた大自然の中を川はゆっくりと流れる。小津安二郎監督がこの歌も含めフォスターのファン。 9.「証城寺の狸囃子」作詞:野口雨情 作曲:中山晋平大正13年(1924年)唱歌制定。 野口雨情が、千葉県木更津市の證誠寺訪れ、和尚から毎夜歌合戦の狸が、最後におなかが破れて死ぬ話を聞き作詞。作詞を和尚に見せると、和尚は紹介した話は出鱈目で、先祖の住職が狸と踊るとは何事だと不満を表明。そこでお寺の名前を証城寺に変更して完成した経緯があるそうな。10.「箱根八里」 作詞:鳥居忱(あきら)、作曲:滝廉太郎 中国にある函国関は、三国志のシーンにも出てくる険しい関だ。現在の箱根の関所近辺の険しさは函国関ほどでもなさそう。歌の景気良さはこの大げさな表現に関係。
2010.10.08
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