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おとといの夜義父が、そして昨日の夕方義母が心配してだろうけれども私のところ、義父は家に、義母は点滴を打っているとき、に会いにきた。義父にはなぜもっと健康管理に気をつけなかったのか?と言われ。義母にはそんなになったのはフライのようなものを食べたからじゃないの?と言われた。なぜこんなことを言われるのか私にはわからなかったが、夫にはこっちでは普通だといわれた。何が普通なのか私にはさっぱりとわからないし、分かりたくもない。私は炊き出しの前に具合が悪くなり夫はその前の一週間近くも病院通いで私が具合が悪くなった間中、炊き出し、再び病院そして葬儀と忙しかった、みなそうだった。私はそれでも夫に家事育児をしてほしいなど言わなかったから風邪をこじらせたのに。私が具合が悪くなった当初、炊き出しに使う玉ねぎを炒めたり、野菜をいためたりいろいろな匂いが建物中に充満していていたのは確かだ。それで咽喉の調子がおかしくなったと考えられるが、私はフライなど食べてはいない。私は家事育児のほかはとにかく横になっていたいほどだるかった。食欲すらなかった。具合がわるくて確かに義妹のところへはなかなか顔がだせなかったが日本で言うお通夜、初日、三日目に出席した。炊き出しのときからずっとマスクをつけて、咳き込みながら、、、。そして木曜日に具合が悪くなる日の朝は息子を学校に迎えに行く前に彼女の家にいって、一時間掃除機をかけたりおもちゃや散らかっているものを片付けたりした。そしてどんなに具合がわるくても夫が彼女のために出掛けることを止めたりもしなかった。私は私なりの配慮をして無理をしたために病気をこじらせたとはこの人たちは全く考えないようだ。私も同じようにこの時期を辛い思いで過ごしたとは全く考えないようで心に冷や水をあびせかけられたような気がした。金曜日の朝、私の酸欠が一番ひどかったとき私は夫に行かないでくれと頼もうと思った、でも結局彼を行かせなかったことを死ぬまで誰かに後ろ指をさされるかもと思うと嫌だった。だから我慢できるから行ってきてと言った。夫にいってらっしゃいと言うとき、一瞬私の頭の中で、あなたにもう会えない可能性もあるかもしれないねえ、、、という気持ちがよぎるほど私の体調は良くなかったにも関わらず。私のこういう性質をおそらく多くの人は理解しないのだろうということを私は今までの経験で知っているけれど、まさか具合が悪くなったことを、しかもまだ完治もしていないのに咎められるとは思いもしなかった。私の考え方が間違っているのだろうか?にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月26日

義妹の旦那の容態が悪化したと聞いたときただならぬものを感じ、今の私にできることは何か?と思った時、私は神にこう願った”もしも彼の二人の子供が父親のいない子供にならなかったら私が予約していてもうすぐ手に入る小巡礼を、自分の力では行けない人に譲渡する”と。結局彼は助からなかったが、一度こう願ったからには私はもう自分は行けないと思い、義妹に譲渡しようと思った。彼女が旦那さんの代わりとして行っても良いし、自分のために行ってもいいと。夫にその話をしたらそれじゃあ、私と息子の分も彼女の娘と息子に譲渡しようと言う事になった。私はちょうど夜中にオレンジ色の光をみた頃に夢を見た。2.5メートルぐらいの幅の川のようなところにものすごい勢いで水が流れている中に数人泳いでいる人がいて、私も中に入ってみたが水が口の中に入ったときにこの水は濁っていると思い吐き出して川から上がった。次の場面は幅が1メートル強ぐらいのところでここにも水が勢いよく流れていて緑のボールが流されて、私は自分のものだと思って追いかける水の流れが数箇所から集まるところに緑のボールは止まって浮かんでいたが私がそのボールを拾ったかどうかは定かでない。次の場面はどこか広い、美しいイスラム教会(マスジト)の中にいて衣装ケースの中に白い衣服や下着などが一杯に入っていてこれは誰の?自分のものだという気はしたが確認のために中のものを手にとるとやはり私のものだった。これは日本に残していた私の荷物が手元にようやく届いたのだと私は思っている(そんな荷物など勿論存在しないが)こんな夢をみた。この夢を見たときに義姉のひとりに話したら、何か宗教的に良い行いをしたんじゃない?といわれたので、すぐに小巡礼のことだと思い当たった。そして今日、病院へいくときに夫が、小巡礼のことを妹に話そうと思うけど良いね?と言ったので、”ぜひそうして、私は6日ぐらい前に夢をみて、もうこの行いに対する報いを受け取っていると思うから、、、”と言って夢の話をし始めた。夫は私が水の勢いが強い川のようなところに人が泳いでいて、、、とここまで話したら、、、それは三途の川だよ、泳いでいるのは死者だよ、と言った。嘘!!!と私が言うとほんとだよ。僕はいままで何度もそういう夢をみているといった。自分ではないけど親戚の夢をみて亡くなった、、、、。私は自分が中に入って泳いだけれどすぐに水からあがったことを話し、やはり今回の酸欠状態は一歩間違えばあの世行きだったのだと思った。それを救ってくれたのは義妹の旦那さんのために神に願い、そして義妹へ譲渡した小巡礼であったのだろう。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月25日

もう一つ思いついたので書く。酸欠の症状はチアノーゼ(唇や爪が紫色に変色する)だけではないことに今回気付いた。私は自分を見るときも人をみるときも顔や手のひらの血色がわるかったり、唇の色が悪かったりすると注意を促すが、今回自分のチアノーゼの症状はなぜか見てないのでわからない。しかし症状が悪化する数日前に鏡で自分の顔をみたときに目が異様に腫れていた。それは寝不足や寝すぎや、沢山泣いた、泣きながら寝たとかそういうときの腫れ方とは違っていた。敢えて書いて表現すると目を手術した後とか麻酔をした後に近い腫れ方だった。そして目の周りが黒紫色をして陰りがあった。こういう目が昨日まで続いていた。そして今朝みてみたら治っていた。このような症状を周囲の人にみたり自分の顔に表れたらぜひ注意してほしい。呼吸器官に異常があるかもしれないと一度疑ってほしい。オレンジ色の光を目でみるなどということはあまり普通では考えられないだろうけれど鏡は毎日すくなくとも一度ぐらいはご覧になられるであろうから。。。。。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月25日

ここずっと不調で風邪を引きずっていた。しかし日曜日だったか?月曜日だったか?夜中に眼が覚めたらどこからやってきたのかオレンジ色の光が差し込み、私の足元で手鞠のボールぐらいの大きさに固まって、そして消えた。オレンジ色の光は良くない、銀色やメタリックの青とか緑は助けだったり、守ってくれるプラスのエネルギーだが、オレンジ色のエネルギーはマイナスのことをもたらす。特に健康面で。写真などにオレンジ色の光が映っている事があるが、、、現像中やフィルムに光がはいって写真に悪影響を与えた場合などは別、、、、足や腰、頭などにオレンジ色がかかっている人は脳溢血などによる半身不随などに注意したほうが良い、、、。とにかく私はこの体調不良が普通の風邪で終わらないだろうと察した。この前に風邪をこじらせ嫌な目にあったときは右手の生命線近くに赤い・がポツリと突然現れた。これで私は不調をほっといてはならないと察したが、このようにいろいろな状況を使って私に知らせてくれる何か?があることは有難い。火曜日、木曜日と医者に行ったにもかかわらず、もっと体調が悪くなり、この二人の医者(近所の診療所の医者)はまったく私の体の診断を誤ったのであろうと確信し、昨日病院に行ってきた。夫はここ三週間ちかく東奔西走が続き、家のことぐらい、息子の世話ぐらい自分がしなければと思っていたけれど木曜日に医者から処方された注射をした後夕方からは、息苦しさにたっている事もできず、ひどい頭痛と酸欠で、それでも夫が義妹のための諸事が終わるまでと息苦しさを我慢していたのだろうと思う。息苦しさがピークに達していた昨日の朝でさえ、夫に、、もし義妹の旦那の初七日以外の用事だったら貴方が外出することを許さないだろうけれど、、、と言った。ようやく病院について医者に見てもらえたのは午後4時近く。点滴と注射をした後もまだ息苦しさと頭痛がひどくて、肺がやられてい長いこと我慢していたから、すぐには治らないのだろう、二日間入院するようにといわれた。息子がいるから家で治療はだめですか?といったら同じ点滴と注射を一回分再び処方してもらって今日も射ち、それでも治らなかったら入院といわれた。でも現在息苦しさは取り除かれ、咳と頭痛、、、熱のためなのだが、緩和されているのでおそらく入院しなくても大丈夫だろう。夫は今日も義妹の旦那の会社が行うセレモニーに出席しなければならない。これが終わればなくなって40日目の行事までしばらく落ち着けるだろうが、、、。はっきりいって私にはここまで無理をしなければいけない、ここの親戚づきあいというものは全く理解できない。私のように体調の不調を限界まで我慢することに慣れている人間だから暮らせるのかもと思う。普通の日本人の常識を逸脱していて、一度でもこのような目にあったら自国での生活を望む外国人がほとんどであろうと思う。でもまあ、最近のイラン人の若い人々も私たちのような思考をするだろうと思う。息子が大きくなるぐらいには海外とそう変わらなくなるかもしれない。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月25日

おとといようやく医者に行って来た。風邪が十日も治らなかったから。ひどく咳き込み止らない。現在ようやく咳は軽くなったがまだ咳き込む。空手ももう2週間ちかく行っていない。息子はエネルギーを持て余し、私に挑んできたり、拳闘もののアニメをみてはヒロインの動きを真似て動きエネルギーを発散している。横目でみると、アニメの動きの真似なのに足腰がきちんとしていて様になっていたりして感心した。昨日はとくにひどく咳き込んだので義妹の家に行かず、息子の面倒をみてやり、、、ここ一週間弱、ほとんどほったらかしで父親の顔もほとんどみておらず、精神不安定になっていたので。たまっていた家事をしていた。金曜日が初七日でこの日まではまだ落ち着かないけれど。夫もずっとやすんでいた大学に本日やっと行けた。期末試験も近く、その前の期で平均20点(満点)を得たけれど今期はまず無理であろう。旦那さんを亡くした義妹の娘も昨日から中学に通い始めた。こちらは弔問し、葬儀に出席してくれるだけでなく校長と教頭がわざわざ車で迎えに来て送ってくれたそうだ。イランの学校がそうなのか、この学校が特別なのか、あるいは義妹夫婦の娘だからそうなのかは私にはわからないが、有難いことだと思った。この13歳の娘にも彼女の小さいながら世界があり人との関係がある。そこで、たった一人で辛い思いをできるだけしないでほしいと思っていたから。それでも毎年父の日がくれば、そして人生において楽しいこと、うれしいことがあった時でも自分の父親がそばにいて一緒にそれを喜べたらよかったのにとその都度思うことだろう。DSC02081 posted by (C)maryam f dDSC02080 posted by (C)maryam f dDSC02079 posted by (C)maryam f dにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月23日

昨日、入院していた義妹の旦那さんが亡くなった。おとといの夜中から具合が悪くなって医者に訴えていたにもかかわらず医者は何の悪いところもないといい続け昨日の朝早く容態は急変、血圧は下がりその後心臓発作を起こし、緊急手術することになったが手術前に医者は5パーセントの可能性もないと言っていたという。そして午後三時過ぎに妻と二人の子供を遺し他界した。彼はイラン人には非常に珍しく日本人のモーレツ社員のように働く人だった。頑強な身体とそういう彼の性格がこういう不幸を引き起こしたと言えるかもしれない。仕事に厳しく、自分に厳しく、潔癖で、山のように不動の意志を持ち、それでいてユーモアに溢れていた。日本人的な顔立ちをし、非常に色白で結婚当初、彼と二人で郵便局員の対応に当たったらその局員は貴方たち兄妹ですか?と尋ねたことがあったほど。今朝早くから、彼が帰りたいと切望していたであろう彼の自宅に彼が着くのを迎え、そして彼を埋葬するために墓地へいき、彼のために祈った。その間中、なぜ私は今ここにこうしているのだろう? なぜ彼はこんな姿なのだろう? と何度も思った。。。。頭が良く、分別のあった彼はなぜわからなかったのだろうか?命というものがいかにかけがえのないものかということを。死んでしまったら無だということを。彼は私のように死を望んではいなかったであろうに。ほんの僅かでも彼は望んではいなかったはずだったろうに。47歳の誕生日を迎えたばかりだった。湯水のごとくに金を使うという表現があるが彼は家族だけでなく親戚、知人、多くの人々のために湯水のごとく彼のエネルギーを使っていた。彼の妻の人柄もまた同様。なぜこんな良い人が、なぜこんな良い夫婦にこんな不幸が?、、と皆思っただろう。神は御身の下に招く人を慎重に選ばれるのではないかという、参列者の一人が口にした言葉が印象に残った。彼の冥福を心から祈るにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月19日

私が肉体に縛られるという意識を持ったのは三歳になる前。私の持病によるためだ。性格的に活動的でお転婆だった私はもっと走りたい、もっと動きたいのに体の方がそれに従わない、胸が苦しくて、体が動かないことに気づいた。心は駆けるが体のほうは駆けていってくれなくて何度となく悲しい思いをした。息が吸えるが吐けなくなる発作のたび、酸欠状態になりそれが長時間続くと息苦しさが全身を襲う。そんな時私は何とかしてその状態から逃げ道を探すように苦しみに対する意識を外に飛ばすことを想像し、肉体の苦しみを感じないように試みることしかできなかった。しかし不思議なことに、外へ意識を飛ばすほどに自分という意識は益々冴え渡っていくのだ。私はこの自意識によって命を救われたことが二度ほどある。一度は大学の二年の終わり学友と出かけ、彼女らと別れた後本格的に発作を起こした。出かけた先から主治医の所までの一時間半の間私は酸欠状態と戦っていた。電車やバスの中で私は立っていられたがまっすぐ、普通には立っていられなかった。それでも都会の人々は尋常ではない私の姿を見て何か気付いてはいたが誰一人として声をかける者はなかった。一人だけ女性が私の状態に気付き非常に心配そうな表情で見ていたが恐らく私の瞳がそれを拒否していたのを察したのか彼女もやはり沈黙を保っていた。都会の無感情さは冴え冴えとした私の自意識には冷ややかで心地良かった。都会の無感情を全身で感じる程、私自身は冴え渡りその意識の力だけで私は自分の体を支えることができた。何度階段の上で、ここから落ちたら、転げ落ちたら、さぞ無様な姿で、頭を強打したら死ぬかもしれないな、、、と思ったが意志の力だけで持ちこたえた。ようやく主治医の所に着き、医者は私の状態をみて血相を変え、なぜここまで我慢したのか?という表情で手当てをした。私の発作は治まっていった。酸欠状態がなくなるとどういう状態になるか皆様はご存知であろうか?酸素を欲し続けた脳みそに酸素が行き渡り始めるとどういうことがおこるかご存知であろうか?脳の中でキリスト教会の鐘が高々と鳴り響くような激しい頭痛が襲う。。。。よくドラマなどで九死に一生を得た主人公が”私は生きていたのか、、、”などというシーンがあるが私にとってあの台詞ほど滑稽なものはない。私の場合、”生”を得た瞬間に”生”の重圧と辛苦が痛みとなって肉体に襲いかかってくる。生きるということは私を決して甘やかしたりはしないのだ。それは17の歳に棺桶に片足をつっこんで戻ってきたときもそうだったし、20歳の時に酸欠状態から救われた時もそうであった。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月17日

20101215本日やっと毎年恒例の炊き出しが終わった。今年も5つの大鍋でご飯を炊いた。一つがだいたい60-70人分(イラン人のお腹の)。日本人ならば100人前ぐらいになるだろう。それにGHORMEH SABZIという料理を作った。私は乾燥ライムをつぶして種とヘタをとる作業を8-9時間数日に分けてしていたがそれが終わった昨日の朝に発熱して今朝まで熱でうなされていた。今年は息子が生まれたときからの神様との約束で(息子が就学したら羊を一頭犠牲にすると私が約束をしていたので)犠牲にしてお肉を提供した、私たちのほか義妹も一頭犠牲にした。このようにその他の親戚や近所の人からも、私たちも神様と約束したからとお金や品物が加わり、それらを合わせて振舞われる。義妹の旦那さんの病状がはっきりしてきた。先週、彼が心臓の血管の通りの検査をする日、夫、義妹は私に内緒にしていたのだが私は夢をみていた。義妹が夢の中で妊娠していて、みるとお腹はすでに4,5ヶ月ぐらいの大きさになっている。誰かが妊娠する夢は妊娠した人に心配事や悲しみが降りかかる意味を持つ。彼女の場合すでにお腹まで膨らんでいたのだ、、、、、。すぐにお布施をしてできるだけ大事にならないよう願ったが、、、、その後彼は心臓の血管に異常があって手術しなければならないし、肺も水、血液がたまっていてそれが完治するのには絶対安静にし、かなりの時間がかかることが医者から告げられた。別の義妹には、未来をみるのをやめなさいよ、、、といわれた。誰でも不幸な未来を見るのは好まず、怖く、目を背けたくなるのだろう。でも私の場合、カードは単なる道具にすぎない。カードでみると夢をみなくなったり、予感のようなものが多少なくなるだけで、カードでみることをやめたとしても、虫の知らせというものが私の周りにあるものや状況をつかって知らせることに変わりはない。ただカードを使おうが、夢でみようが、予感がよぎるにしてもはっきりと分かる場合ばかりではないし、その予感はなんと20年も先のことだったりもする。そういうものを感じるとき大抵私は筆をとって文章に残すのであとでこれはこういうことを言っていたのか、、、とわかる、時々実際にその渦中にある自分よりもそれを予感していたときのほうがその物事の本質を捉えていて我ながらぞっと背筋が寒くなるような時さえある。そういうものを感じるのは心が研ぎ澄まされているとき、非常にひややかで落ち着いていて、何物にもとらわれていないとき、だから夢は私に多くのことを語るのではないかと思う。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月15日

以下の文章はたぶん一年半ほど前に書いたのだと思う、、、、。数日前に久しぶりに中島みゆきの 時代 を聞いた。その歌詞が頭に残っていたのか、人との出会いと別れということについて頭に浮かんだ。高卒後親元を離れてから現在に至るまでの20年余りの間、私は十数回の引越しをした。そんな私にとって出会いと別れとは、人の力を超えたところ、神の手にゆだねられているというか、、、自分の意志とは無関係に働く、個人の意志ではどうにもならないもの、、、そういう気がしてならない。これまで私には、こんなに深く思い、こんなに心が通じ、今後もずっと関わりを持ち続けるであろう、あるいは持ち続けたいと思った人とちょっとしたことがきっかけでその日を限りに二度と会うことがなかったということがどれほどあっただろう。。。。それからまた、私が物心ついてから現在までおそらく、星の数にたとえられるほどの人とすれ違ったと思われる。人生の中で一言もかわさない、目も合うことがないような、ほんの少しその場に居合わせただけというような人がいかに多いことであろうか、、、、しかし、普通だったら通りすがりの一人に数えられるだけの人と思いもかけず出会い、ほんのちょっとしたことがきっかけで人生の長い、長い時をともに過ごすことになる場合もある。そんなことを考えると神というか人間の力の及ばないものの存在を感じてしまう。一期一会、、、、この言葉はこういう天命、運命というかそういうものの存在をなんと謙虚に真摯に受け入れた言葉であろうかと思う。一期一会という言葉をこの世に送り出した日本人はどのような体験をしてどのような思いでそれを言葉に、文字にしたのだろうかと思いを馳せたのであった。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月12日

昨日やっとアーカムのDVD4枚目の私の分担の翻訳が終わった。ほっとした。二ヶ月期間があったが、自由な時間を使ってやれる気楽さもあるが気が緩みすぎると後が大変になる。とにかく終わった、終わった。2週間ほど前に、12月の一ヶ月のことをホロスコープ法(その月の状態を12のポイントからみる占方)でカードでみてみたら、、、、また塔のカードが現れた。今回は逆位置で。以前このカードが4ハウス、蟹座の位置でプライヴェート生活、家庭のことや母親をみる位置に出て、ぞっとした通り、義両親が交通事故で九死に一生を得たことがあったが、今月はハウス3、ふたご座の位置でここは兄弟姉妹、コミュニケーション、国内旅行、友人とはいえない関係の人々知人や近所の人など、義務教育期間の学習などをみるところであるがここに塔の逆位置がでた。塔のカードは78枚のカードの中でもっとも恐ろしいショッキングな意味を持つ。例えを書くと正位置ででると倒産すること、事故、事件などその物を指す。逆位置の場合はショッキングさが少し緩和されるが、倒産、事故、事件後の処理、借金の返済など長く嫌な状態が続くことを指す。今月は国内旅行は絶対駄目と思ったが旅行のことではないと思った。ただこのハウスを指す人々は広範囲に渡るので一体どんな人にこの災厄がふりかかり、私に影響するのかわからなかった。8日にそれがわかった。この日の朝顔を洗っていたときに、確か今月はハウス3に塔のカードがでていたっけ、、、一体何だろう?と頭をよぎった。その5分後に義姉から電話がありその日の朝義妹の旦那の一人が4時まで家で残業をしていて立ち上がったら意識がなくなってたまたま義妹がそれに気がついて救急車を呼び入院して検査しているということを話した。心臓が痛み、血糖値は400を超え、普段高血圧の彼の血圧は100に下がっていたという。(私は100が普通で風邪をひくと80とか90まで下がるのだが)それから現在まで入院し、現在も検査中だが原因はまだはっきりしない。このカードの意味からきっと病気の回復には時間を要するのであろうという気が私はする。もちろんそうあって欲しくはないが、、、、。彼らには子供が二人いて下の息子はまだ3歳。本日は私が彼らを預かっている。(上の娘は中学生なので学校が終わってから。)カードによっては現状から今後どんなことが起こるのか予想がつく場合がありそれで私は月一回はみるようにしているのだが、この塔のカードはそれがなかなかうまくいかない。唯、ショッキングなことが起こるのであろうと心の準備をすることだけできる。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月12日

十日ほど前にユーロニュースだったか、ロシアトゥデイだったか?海外のニュースで年末になると日本では自殺者が急増するというのを報道していた。そんなことで私もちょっと前にここで臨死体験のことを書いたので死ということをテーマに自分のことを述べたいと思った。私が死というものとはじめて対峙したのは小学校の4,5年生だったように思う。時間というものの不思議に気付いたのはもっと早く小学校3年生だったかもしれない。。。。それはなんの前触れもなくこんな風に訪れた。カレンダーを眺めているうちにある考えが浮かんだのだった。今日は昨日になり、明日は今日になる。まだまだ先だと思っているが、一週間後、二週間後、一ヶ月先の夏休みもいつかは今日になる。今この時小学校に通っている私も、いつか過去となり振り返って思い出されるときが、必ず、絶対、否応なしに、そのときがやってくるのだ、、、、、だとしたら生きている以上、かならず死ぬ日というものもやってくる。今日が終わったということはそれだけ私が死に近づいたということ。。。この動かし難い事実に直面したときの、小学生だった私が感じた恐怖心をあなたは想像することができるであろうか、、、。小学生の私にこの恐怖は何度となく、時に背後からそっと、時にふりかかるように私を襲った。しかしそれをなんとか克服しようと、その恐怖心に打ち勝とうと、自己を鼓舞するかのように中学一年生になった私はある日こんな文章を書いた。たぶん課題だとか宿題ではなく、自分でタイトルをつけて何かに突き動かされるかのように書いたのだと思う。以下はその全文。(この作文は市の文集に掲載されたので私の手元に残っていた。)一度きりの人生なら私たちは生まれてきた以上必ず死ななければなりません。それがいつなのかは、私にはわからないけれども。明日かもしれない。それとも百歳を過ぎてからかもしれないが、いつかは死に直面する日は来るのです。そんなことを考えると、時々怖くなることがあります。今、私は13歳です。その13年間何をしてきたでしょう。人に迷惑をかけることはあっても、人に尽くした事は。。。今の私には迷惑をかけないようにするだけで精一杯だと思います。まだまだ未熟だし。だから何をしてもこの年はいろいろな経験として将来きっと役に立つと思います。今の私が存在するために、何千何万という人たちが一生を尽くして働いているということを忘れてはいけないと思います。だからその人たちのためにも私は自分に与えられた人生だからといって無駄にしてはいけないと思います。もちろん自殺なんてもってのほか、その人たちのことを考えると、絶対にしてはいけないことだと思います。今はそのひとたちが私にしてくれていることを今度は、何年か先にわたしたちがしなくてはいけないのではないでしょうか。そのためにはもっと勉強をして、自分に自信がもてるようにならなくてはいけない責任があると思います。そう思えば思うほど、(どうして自殺なんてするのかなあ)と思ってしまいます。私は死ぬ時は、後悔や悔いを残して死にたくありません。限りある命を無駄にしたくありません。一日一日を大切にしていかなくてはやりたいこと、やらなければいけないことが沢山ありすぎるぐらいなので、一生のうちにやりきれないと思います。それでも精一杯過ごしていけば、明日死んでも諦めがつくのではないでしょうか。私は時間を大切にするようになったと思います。(一日が三十時間だったらなあ)と思ったぐらいです。本も読みたいし、宿題もあるし、あれもこれもやりたいと、そのうち睡眠時間を惜しく思います。今、この時は、一度きりしかない、その時間をどう生きるかによってその人の人生は変わるのではないでしょうか。やりたいことを残して死んでいくのは辛いことだけれど、それも運命でしょう。運命は変えられなくても人生なら、その人次第でどうにでも変えられると思います。少なくとも、努力をしなければ、幸福の扉はいつまでも開かないと思います。そして一日一日を悔いなく過ごしていけば、やりたいことを残して死んでも、少しは報われるのではないでしょうか。私は一度きりの人生を精一杯生きてみたいと思います。この文章を書くという行為が当時の私にできた死の恐怖というものに対する精一杯の抵抗であったと思う。こんな私ではあったが高校時代に死を決意したことがあった。決して安易な理由からではなかった。しかし運命は皮肉なことに、その直後にちょっとした医療ミスのために私を臨死体験へと導く。私はいわゆる窒息によって呼吸が止まり、心臓も停止した。息を吐いたあと、吸おうとしたら、呼吸器官が閉鎖され息を吸うことができなかった。気を失うときに私はこのままでは死ぬであろうことを悟り、心拍停止といわれる状態の中、はっきりと自分を意識していた。手当てを受けたのが国立病院であり、入院中に起きた事故であったため13人もの医師がかけつけ、私は一命をとりとめた。この臨死経験によって私は死を、自殺しようと思ったことを撤回せざるを得なかった。これで、私は死というものから遠ざかることができたか?否、この臨死体験は私に死の安らぎというか、静かな心地よさというような魅力を教えたのであった。気が遠のく間は確かに苦しく、辛く、死に対する恐怖に怯えはしたが、その先にあった死というものはなんと簡単に安らかに訪れるものであろうか、というのが私の実感であった。死ぬということに対する恐怖よりも憧れのほうが強くなった。”死というものは表には恐怖、裏には魅力と書いてある薄っぺらな紙である”という結論に私は至った。死への魅力はその後何度となく私を誘惑する。容易にこの魅力から逃れられなくなってしまった。大学2,3年の頃はその傾向が特に強かった。この時期、私は生きているということに疲れていた。失恋したとか、夢が打ち砕かれたとか一般的に考えられる自殺の原因となる悲劇的な出来事が起きたからでは決してない。日常に疲れ、飽きて、自分の生に価値を感じられなくなっていたのだ。とにかく生きていることが辛かった。生活することが苦痛であった。洗濯、掃除、買い物、食事、排泄、生きているために必要なことすべてが煩わしく、買い物してお金を払うために人と関わりをもつことすら、道で人とすれ違うことにすら耐えがたい嫌悪を感じていた時期があった。ただし、私が生活することを厭う原因は肉体と精神が全く対立してしまうことに因る。それは大学時代に始まったのでなく、私は小学生の頃から肉体と精神が別々であったらいいな、と思っていた。肉体の感覚に耐えられないときに、できるだけ意識を外へ飛ばして苦痛を感じないようにできないものか、ということを考え、試していた。(私はこれまで身体と精神を別々にすることしか考えなかっただが、つい最近身体が虹へかえる という歌詞を聴いて感銘した。身体のほうが精神と同化できたらさぞ素晴らしいことと思う。思うというより救いを求めるような願望か?)そういう時私は なぜこんな身体に縛られなければならないのか? と思った。私が死を思うのは、社会や、周囲の人間関係などに不満があったからではなく自分の肉体による圧迫が一番大きかった。しかし生きている以上、私は自分の身体と付き合っていかなければならず、時々私は自分の身体をズタズタに切り裂きたい衝動にかられた。私は一人暮らしをしていたとき、包丁などの刃物を身近なところに置かないようにしていた。自分がこういう精神状態のときに何をするか信頼できなかったから。その頃(現在41歳の私が21歳のときに)書いた文章が幾つかある。突然訪れる感情の横溢左目に涙、右目にも涙が溢れるに至って初めて気付く嗚呼、私は悲しかったのだとそれほどに私の悲しみに対する感覚は失われてしまっているのか?私のはりつめた精神をたとえるならばのど笛にナイフの先を突きつけて何時間も佇んでいるそして最初の一瞬に突き通していたら今私は紅の夥しい鮮血に包まれて永遠の安らぎを手に入れていたのに、、、と後悔する血が見たい生きた肉体から流れ出す鮮血がみたい瞬く間に肉体を覆っていく躍動感溢れる真っ赤な血がみたい生きているという証がみたいからだろうか?生きていると実感したいからだろうか?しかし私の身体を傷つけそこから流れ出す血は果たして、赤いだろうか?当時の私は傲慢にも、たとえ私が今死んだとしても、確かに悲しむ人はいるだろうが、時が経てば、それは癒されるであろうし、私が死んだ事によって悲しむ人の生活に支障をきたすわけではなく、いずれは元の生活にもどっていくのだ、、、と思っていた。中学時代とはまったく逆の思想である、、、、。この私の傲慢な考えは、その後ある人と出会い、また、大学3年の冬に友人の自殺というものを目の当たりにし、、、自殺の大罪というものを自ら感じ、うちのめされ、そしてそれで死の魅力を覆い、なんとか精神の均衡を保つという状態に変化していった。それでもやはり、、、一度知ってしまった死の魅力からは容易には逃れられず、私の精神にそれは今現在でも確実に存在しているけれど。私は2010年12月現在、通算して約11年半海外に在住している。私のような人間は日本にいると惰性に流され、時間に、義務に責任に流されるままに生活し、そのうちに疲れはて、自己を見失い、生きることに飽きてしまう、大学時代のように。海外で生活する良さは、まず日本語が使えないことである。それから日本で成長、生活するにつれ日本人として知らず知らずに身についている、常識や習慣、文化的、歴史的背景というものの中にある、母国で暮らす上の土台とか基礎というか、支えともなるものが全く役に立たないということである。そしてそれを、大人でありながら一からここで築いていかなければならなかった。会話をするにも意識的に行わなければならない。母国語ではないので常に相手の目や動作、抑揚、雰囲気など言語以外で思いが伝わることにも敏感になって意思の疎通をしなければいけなかった。日本で生活するより、単なる日常生活であっても、もっと、もっと自覚的に生きる必要を迫られるわけで、否応なしに生きる事を実感させられるわけである、汝、生きるつもりであらば惰性でなくそれなりの苦労を覚悟せよ、、、、と日々、言われているようなものである。私はここでは常に外国人である、甘えは許されない、妥協もない、以心伝心とか馴れ合いという感覚はない。そういう決定的な境界線を間に挟んだ人間関係も私にはプラスに働いているのかもしれない。日本で生活していたらとっくに自殺していたかもしれない、、、その可能性は否めない。ということで日本を脱出したことは私にとっては死を憧憬するという慢性的病の特効薬であったと思われる。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月09日

今週もまた水、木、金の三連休のうえに土曜日も幼稚園と小学校が休校。大気汚染のためだが、確かに空気は汚く淀み、光化学スモッグが発生している。私たちが住んでいるところはまだいいが、ちょっと南の下の方へ行くと、吐き気を催す。今までテヘランの中心のみが車のナンバーの下一桁が偶数か奇数かで車の通行を規制していたが、4日ほど前からはテヘラン全地域でそれが施行されるようになった。私が空手教室に通うのは日、火、木曜日(1,3,5シャンベ)で幸い私が使用している車は下一桁が奇数番号で規制にひっかからない。息子は咽喉の炎症が治りきらず、抗生物質を服用中。先週は学校も空手も重要な授業があったり、クラスがあって休めず、息子に無理をさせてしまったため。先週は私もめでたく昇段し緑帯をしめるようになった。夫は大学の勉強を順調にすすめ、しばらくすると試験が始まる。こちらは断食月が終わってから結婚式のシーズンであったが、二日後からモハラム月が始まりモハラムの9,10日はアーシュラ、タスワで毎年恒例の大掛りな炊き出しがあるし、2,3ヶ月ぐらいの間は国家体制で喪に服す状態になる。去年もそうであったが、世界的に年末年始を祝う時期にこちらは喪に服す。それが明けると今度はイランは年末ムードになり大掃除がはじまり、新年を祝うための準備に忙しくなるだろう。こちらの新年は毎年春分の日だから。。。日本はこれからが年末ムードだが、かれこれ10年以上もこちらに住んでいるとクリスマスや年末年始とは縁が遠くなってしまった。しかし衛星放送番組などでクリスマスソングを聴くと日本の慌しい、活気に満ちた光景は眼に浮かぶけれど。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2010年12月04日
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