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台風の影響が心配された今日のバスツアーでしたが、雨に降られることも無く「桧原湖ウォーク」を楽しんで来ました。さすがは観光の名所、眺めが素晴らしかったですよ。先ほど無事帰宅し、留守番をしてくれた愛犬との散歩も済ませました。旅の詳細については、明日以降改めて書かせていただきますね。今日は先ず無事帰宅の報告だけで失礼します。< 10月のラン&ウォーク >ラン月間回数:13回 ラン月間距離:124km ウォーク回数:毎日(登山2回、バイクツーリング:1回=87km) ウォーク距離:219km 月間合計:343km 年間走行距離:2249km 年間距離合計:3962km これまでの距離累計:73,996km
2010.10.31
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数日来の寒さにファンヒーターをつけようとしたら、灯油を入れるポンプが壊れていた。何とかその晩は我慢し、翌日HCへ買いに行った。新しいポンプは気持ち良く作動し、あっと言う間に容器を満たした。そして今日は居間にもコタツをセット。これで妻も暖かく仕事が出来るだろう。 薬局でハンドクリームを買って来た。仕事で清掃を1時間担当しているが、その時冷たい水で何度か手を洗う。また昼食や夕食の後は、食器を洗うのが私の役目。そんなことが手荒れの原因になるのだろう。ハンドクリームは手だけでなく顔にも摺り込む。皮膚に良いかどうかは分からないが、私には重宝な存在だ。これも晩秋以降の恒例行事みたいなもの。 萩の枝を始末した。葉が枯れる前に地上から50cmほどを残し、全ての枝を伐る。この萩は近所の山で採って来たもの。まだ20cmほどの弱々しい苗だったのが、今では2m以上にまで育った。さほどきれいではないが、台所の窓から見えるのが良い。次はイチジクの枝切りが待っている。萩やイチジクはバッサリ枝を伐っても、翌年はそれ以上に復活する強い植物だ。 庭のドウダンが紅葉している。シャラの葉もきれいに色づき、そして落葉し始めた。それらの葉が芝生に散らばる。シュウメイギクの花は案外長く咲いている。彩の乏しくなった庭で、一際鮮やかなのはバラ。色は朱とピンクの中間か。そしてこれからは小菊が庭の主役になるだろう。 今年もクチナシの葉がほとんど食い尽された。犯人はアゲハの幼虫。どこにいるのか分からなかったが、先日2匹見つけた。彼らの旺盛な食欲には驚く。すっかり丸坊主になったクチナシも、来春には再びたくさんの葉を茂らせると思う。生命力と生命力の戦いは、微妙なバランスの上に成り立っているようだ。 先日畑のレタスの葉を何枚か千切り、サラダにした。まだまだ成長の途中なので、まるまる全体を切ってしまうのは勿体ない。今年発芽したアシタバの若い茎はお浸しに。独特の香りが口に広がる。小カブは蒸し器で蒸し、何の調味料もつけずに食べた。カブ本来の甘みと苦みが美味しい。この蒸し器は耐熱プラスチック(?)製で、つい最近買ったもの。 チヂミ菜を間引きがてら10本ほど切った。冬の仙台には貴重な青物だが、妻の要望で初めて作ってみた。種は専門店で買ったのだが、良くみたら原産地は中国だった。寒さに強く葉が縮れるのが特徴。冬は葉が凍結しないよう、甘みを増す。今回は炒めて食べたが、まだ甘みは出てなかった。 寒さが厳しかったここ数日、夜間は愛犬を玄関に入れた。コンクリートの床では寒いため、段ボールの上にカーペットの敷物を敷く。日中太陽が出れば芝生へ移動。日影のガレージを嫌って、芝生へ出せと盛んに吠える。飼い主に似たのか、結構自己主張の強い犬だ。9月に12歳になった我が家の愛犬はまだまだ元気。当分病気の心配はなさそうだ。 さて、明日はバスツアーで福島県の桧原湖に行く。磐梯山の裏にある自然豊かで景色の良い場所だ。そこを10km歩き、温泉に入るのが目的のツアー。心配なのは台風の影響。どうやら明日は関東の沖合を通過するみたいだが、問題はこれから雨がどうなるか。濡れずに湖畔のウォークと紅葉を楽しめたら最高なのだが。
2010.10.30
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昨日の仙台は最高気温が6度台。高い山々は初雪で真っ白になった。10月の気温としては過去最低の記録で、お正月頃の気温とか。警備の立哨中は今季初めて白手袋をした。そして帰宅後は自室にコタツをセット。これでようやく暖かい室内でブログを書ける。 さて、今年の楽天は最低だった。最下位の6位と言う順位が示すように、盛り上がらない試合の連続。選手に怪我が続いたし、外人の助っ人や抑え投手はほとんど機能しなかった。活気があったのは、セパ交流戦の期間中くらいのもの。前年のCS中に野村前監督に解雇通告をした球団に抗議してファンクラブを脱会した私は、終始覚めた目で試合を観ていた。 今年の観客数は前年比で5万人の減。Kスタでの1試合平均で千人減った計算とか。あんな詰まらない野球をしてたら、球場に行かないのは当然。応援していても盛り上がらないからだ。球団も大いに慌て、急遽ブラウン監督にクビを通告した。1年目の順位の責任は問わない契約だったにも関わらずだ。 困った楽天球団が目をつけたのが「燃える男」星野阪神SD。熱血漢の彼なら、Kスタから去ったファンを再び球場に呼び戻せると考えたのだろう。わざわざ三木谷オーナーが出向いて、監督就任を要請したようだ。現場復帰したがっていた星野は、直ぐにその話に乗った。だが、CSを戦っているさ中の阪神には、最後まで礼儀を尽くしての上だった。 健全経営を目指す楽天だが、このままではさらにファンが去ると危惧。星野新監督には選手の引き抜き交渉など、運営の権限も与えるようだ。これまでは素人の球団首脳が運営にまで口を挟み、なかなか良い選手を確保することが難しかった。強いチームを作るには、色んな場面で星野監督の力を借りざるを得ないと判断したのだろう。 そして昨日のドラフト会議。星野新監督は1位指名候補の大石投手(早大)の交渉権こそ獲れなかったが、念願の左腕投手塩見(八戸大)を指名出来た。監督自身の評価では80点のドラフトだったようだ。選手の強化策はドラフトだけでない。今後は他チームとのトレードやFA宣言した選手との交渉になるだろう。経験の豊富な新監督なら、きっと絶大な手腕を発揮してくれると思う。 話題の斎藤投手(早大)は日ハムが交渉権を引き当て、大石投手(早大)は西武に決まった。共に楽天の田中マー君と同世代。来季はきっと彼らの息詰まる熱戦を身近に観られるはずだ。今年はわずか3回しかKスタへ足を運ばなかった私だが、来季は足繁く通うことになると思う。星野新監督は就任の挨拶でこう言った。「私が東北を熱くします」。現役当時を彷彿させるストレート勝負に、大いに期待したいと思う。
2010.10.29
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< 山上での不思議な出会い > 山形神室から3つ目の峰であるトンガリ山へ向かう。トンガリ山は名前とは違って、さほど尖がっては見えない。それとも下界から仰ぐと三角形に見えるのかも。トンガリ山の手前で小休止し、仙台神室からの縦走コースを振り返る。ここから見る仙台神室は、まるで溶岩ドームのような不思議な形をしていた。 真下を覗くと、仙人沢から見えたジャイアント桧の一際高い姿が目に飛び込む。そして林の間から垣間見えた絶壁が丸見え。私達が歩いた仙人沢は、ちょうど山の陰。あそこから山が見えなかったのだから、ここからも沢が見えない訳だ。美しい紅葉を散りばめた麓の山々。こんな見事な風景は、なかなか観られないはず。 標高1241mのトンガリ山頂上から下ろうとした時、思いがけない顔が目の前にあった。走友会の長老であるD堂さんがニコニコ笑ってこちらを見ていた。一瞬、ええっ!と仰天。何故D堂さんがここにいるのか。その謎は話を聞いて分かった。何と彼は私のブログを読み、後を追いかけて来たとのこと。山が好きな彼は、バイクに乗って1人で山に出かけることも多いようだ。 それに多分山の上で私に会えると計算していた由。いやはや驚いた。そこまで計算済みの行動だったとは。その後この近辺で暫く休憩し、バイクを置いてある笹谷峠へ下山したことを後で知った。今回は山形神室、仙台神室までは行かなかったのかも。 標高1146mのハマグリ山山頂には、誰が造ったのか、本物のハマグリを貼り付けた「ハマグリ山」の標識があった。これは愉快とばかりに写真を撮るツアー仲間。笹谷峠から見上げたハマグリ山はなだらかで小じんまりした山の印象が強かったのだが、どうしてどうして。登り下りともに結構手間取った。 笹谷峠までの下山途中、登山道から外れて山形県側にある「テラス」に寄った。ここからの眺望がまた絶景。山形市内のビルや千歳山が確認出来、国道286号線の曲がりくねった峠道はすれ違う車まではっきりと見えた。それは私が苦労しながら8月に走ったコースだった。空の高みから観た風景を、私はこの先もずっと覚えているに違いない。 峠の駐車場まで下り、6時間47分もの縦走がようやく終わった。トイレと整理体操を済ませると、女性陣が最初に麓の温泉へ行った。大型タクシーが戻って来るまでの間、私はD堂さんのバイクを探した。だが、どこにも見つからない。ひょっとして仙人沢の登山口に置いたのかもと思い直した。 後日私のブログに書き込んでくれた文章から判断すると、途中で私達が山形方面を眺めている間に、彼は駐車場まで下っていたようだ。第2陣で待っている私達の姿を見た由。そして同じく駐車場へ下りたT田さん達とも会えたようだ。 戯れにWガイドのリュックを背負ったらやたらと重い。20kgあるが、夏場は30kgほどの荷物になるそうだ。山岳ガイドのタフさに驚く。さらに驚いたのが、登山ツアーに参加する客の中には、毎回自分の荷物を添乗員やガイドさんに背負ってもらう人がいるそうだ。そんな人に登山する資格はないと思うのだが、一応客なので文句が言えないのだろう。 そこへ普段の服装をした小父さんが電気自転車に乗って現れた。仙台から関山峠を通って山形へ出、笹谷峠を経て再び仙台へ帰る途中とか。距離は170kmになる由。それなのにバッテリー節約のため、ペダルを踏んで登って来たとか。いやはや、たまげた。世の中には変わった人もいるものだ。 下界の温泉で汗を流し、ゆっくり湯に浸かると、ようやく冷えた体が温まった。浴後は缶ビールをグビリ。隣には登山の初っ端に怪我した人が。彼も缶ビールをグビリ。もう頭の手拭いや止血用のガーゼは無く、怪我の跡もきれいに塞がっていた。穏やかで案外気の良い人だった。今年の登山はこれが最後だが、来年も幾つかの山に登りたいと思っている。果たして来年はどんな景色やドラマが私を待っているのか、とても楽しみだ。<完>
2010.10.28
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< 山の上から見えたもの > ダンゴ平から仰ぐ仙台神室の威容。結構勾配は厳しそうだが、両側が切り立った断崖でないためさほど危険性はなさそうだ。緩かった傾斜が徐々にきつくなり、足元の土が滑る。一度足を踏み外し、腹這いになったままズルズルと落ちた。その時誰かが手を引っ張ってくれた。気恥かしかったが、何とか体勢を整えた。 標高1356mの神室岳(仙台神室)の頂上はさほど広くはない。私達ツアー仲間だけでもう満員。笹藪を掻き分けて峰の東側に進む。東側だけが頂上からは見えないのだ。手前右手が川崎町。そして手前左側が太白区の二口峡谷だ。遥か遠方に太白山。これは我が家の近辺の山。標高321mだが三角形の独立峰なので、離れていても良く目立つ。 頂上に戻って周囲を眺める。北側には七つ森、泉ケ岳、北泉ケ岳、船形山。そして手前には磐司岩に連なる糸岳、大東岳、小東岳、南面白山。そしてこの夏走った二口峠のジグザグ道がはっきり見えた。何と工事中のブルドーザーまで見える。その遥か彼方には標高2236mの鳥海山が雲の上に。これは秋田と山形の県境に聳える秀峰。 西方には葉山と標高1984mの月山。少し離れて朝日連峰の大朝日岳や以東岳など。そして手前にはこれから登る山形神室。そこから南に目を転ずると、縦走コースのトンガリ山からハマグリ山まで一望出来た。そしてその向こうには瀧山、三宝荒神、雁戸山、熊野岳、刈田岳など蔵王の山々が連なっていた。山の上から見えたのは360度、山、山、山だった。 仙台神室はさほど高くはないが、独立峰なので視界が素晴らしい。それに、天気にも恵まれた。これこそ山の醍醐味。豊かな気持ちで弁当と果物、お菓子を食べた。頂上への登頂を待っていた次のグループに譲って下山。下りは一層滑り易いので要注意。おまけに目の位置が違うため、角度が増すように見える。登山道の脇に生えた木の枝を掴みながら慎重に下りる。 ガイドの後からスイスイ下りる1人の男性。ステップがとても軽やかだ。彼こそ頭部に怪我をした人。「怪我が無ければ合格だね」とガイドさん。ダンゴ平からは長い稜線を登る。下から見えたピークは山形神室ではなかった。その向こうが本物の頂上。粘土質の滑り易い道に苦しみながら、前進に次ぐ前進。 この辺りは背の低い木しかない。トイレに行くのも暫く我慢。登山用語で「キジ撃ち」が男性の小用、「お花摘み」が女性の小用を指す隠語だとは知っていたが、その現場に立ち会ったのは今日が初めてだった。登山で7時間もの縦走ともなれば生理現象を止めることは困難。女性も慣れた様子で「お花摘みに行きます」と出かけて行く。 遅れる人が出だす。ガイドさんが「大東岳」と名付けた女性だ。恰幅が良いため、登りが苦手なのだろう。私は技術こそないが体力があるせいか、ほとんど遅れずに着いて行ける。ようやく2つ目の山形神室に到達。ここは標高1442m。仙台神室よりわずかに低い。短い休憩の後スタートした途端、道端で休んでいた女性を見てビックリ。 何とT田さんだ。「膝を傷めてウルトラマラソンを走ることが困難になった」と涙を流しながら彼女が話したことを思い出す。「まだ走ってるんでしょ?私は登山は出来るの」。そう言えば八幡平に登った帰りも隣のバスに彼女が乗っていたっけ。元気そうな顔に安心し、握手をして別れた。それにしてもこんな山の上で走友に会えるとは。 嬉しくなって山形神室から下り始めた時、グラリと体が揺らいだ。「痛っ!」急いで体勢を立て直したものの、膝に激痛。遠近両用の眼鏡で下ばかり見ていたため、視野が歪んでしまったのだろう。これは大変。膝周辺の細かな筋肉を傷めたようだ。これで無事下山出来るだろうか。一抹の不安が胸を過った。<続く>
2010.10.27
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< 一難去ってまた一難 > 後で大きな声がした。どうやら私の後を歩いていた男性が怪我したようだ。頭から血が流れている。それを手拭で縛る男性。直ぐにガイドと添乗員が集まり治療開始。先ずオキシフルで消毒し、その上から滅菌済みのガーゼと幅広のバンドエイドで抑え、さらに鉢巻。原因は男性が飛び出た枝に頭をぶつけたこと。 幸い帽子を被っていたために、傷の深さは2mm程度で済んだ。彼は私達と逆向きで倒木を潜ったため、枝に気づかなかったようだ。私は帽子を後ろ向きに被っていた。つばの長い帽子は視界を妨げるからだ。彼はつばを前向きにして被っていた。そのことも枝が見えにくい原因になったと思う。治療に要した時間は20分。幸い傷が大したことなくて良かった。再び隊列が進み出す。 間もなく仙人大滝のある沢との合流点に到達。木々の間から滝が見えた。名前とは違って、それほど大きな滝ではなさそうだ。滝まで往復30分かかるみたいで、今回はパス。そのまま沢を直進し、途中から尾根道に登った。左手の林の間から直角の崖が見えた。「甘い匂いがするのはカツラだよ」。Wガイドが教えてくれた。確かにそんな匂いがしたが、葉が落ちてどれがカツラの木か分からない。 「スズメバチだ。動かないように」。先頭のガイドが立ち止まった。彼の周囲を1匹の蜂がブンブン唸りながら飛んでいる。「こんな時は手で払ったりすると攻撃されるよ」とガイド。最後尾の添乗員さんから無線で「黄色スズメバチが6匹います。静かにかつ速やかに進んでください」。私達は何事も無かったようにその場を離れた。結局1匹の蜂だけはしばらく私達の後をつけていた由。攻撃される心配はないと判断し、ようやく巣へ戻ったようだ。 見晴らしの良い場所まで来ると景色が一望出来た。深い山々。赤、黄色、褐色に染まった木々。そしてその中に緑が点在する。「あれがコシアブラ」とガイド。薄黄色に透き通った5枚の葉。春先の新しい葉は天ぷらなどにして食べると美味しいと聞いたことがある。良く似ているが3枚葉の方はタカノツメ。「満点だね」とWガイド。「ここは山だから満点じゃなくマウンテン」。私が混ぜっ返す。左手には一際大きな桧。「あれはアントニオ桧(猪木)」。ガイドも負けてはいない。 列の後方から山ブドウが届いた。いつの間に採ったのだろう。食べてみるとほんのりと甘い。その山ブドウの蔓が大木に絡んでいるのを見た。葉は鮮やかな赤。見事な色だ。遠方に尖がった山が見えた。あれが今日登る神室岳(仙台神室)かと思ったら、別の山とのこと。どうやら標高971mの三方倉山のようだ。 何度か休憩が入った都度、私はお握りを食べた。ツアーで渡される弁当は巻き寿司とサンドウィッチのセットだが、量が少なく7時間近くかかる縦走では最後まで持たない。そのため今回はコンビニで2個のお握りを買っていた。急いでお菓子も食べ、お茶を飲む。 出発後間もなく、目の前に壁のような岩場が現れた。70度ほどの急角度。他に道はなく、ロープを伝わって登るしかない。女性には厳しい登りだったろうが、私は案外楽に登れた。幸い傷めた尻や左肩に痛みは出なかった。 尾根から初めて仙台神室の威容が見えた。かなり厳しい角度の山容。これからあそこを登るのかと緊張が走る。やがて道は一旦沢へ下り、そこから涸れ沢の登りと変わった。目まぐるしいコースと眺望の変化。ここを登り切ると「ダンゴ平」。そして仙台神室への最後の登りが始まる。<続く>
2010.10.26
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< 仙人の棲む沢 > マイクロバスに乗ったツアー客は19名。うち女性が10人で男性は9人。それに添乗員さんとガイドさん。このメンバーで今日は約7時間の縦走をすることになる。神室岳(仙台神室)~山形神室~トンガリ山~ハマグリ山の登山ツアーを知ったのは1カ月以上前のことだった。 この夏走った笹谷峠から見えたのが全山笹に覆われたハマグリ山だった。そして二口峠から見えたのが異常に尖がった神室岳(仙台神室)だった。2つの峠越えマラニックで馴染んだ山の名前。その山に登るためのツアーがあると知った時はビックリした。これはまさに自分のために企画されたツアーではないか。直ぐに申し込んだのは言うまでもない。 今年が第1回の「伊南川ウルトラ遠足」へは残念ながら行くことが出来なかった。それに代わるイベントとしても自分には意義深いと考えた。問題は高低差が栗駒山の約2倍と言うコース。初級の栗駒に対してこちらは中級クラス。果たして自分にも登ることが出来るだろうか。 おまけに朝の散歩で転倒し、尻と右肩を強打した。その痛みが登山までにどれだけ緩和されるか。前日の土曜日はほとんど何もせずに体を休めた。それが原因か、前夜は就寝中に胃の調子がおかしくなった。きっと運動不足が影響したのかもしれない。おまけに起床直前には頭痛もした。それでも家を出て集合場所に向かう頃には、何とか参加出来そうな体調に戻っていた。 マイクロバスに乗り込んだツアー客の大部分は、どこにでも居そうな雰囲気の中高年者。本当にあれで縦走に耐えられるのだろうかと思うような雰囲気の人が多かった。これならさほど心配しないで登れるかも知れない。そんな安堵感を抱きながら新聞を読んでいた。1人用座席だったことも私には幸いした。どうしたら尻の痛みが軽減するか、あれこれ姿勢を変えて座れたからだ。 山形道古関PAでトイレ休憩と登山前のストレッチ体操を済ませる。ここから一般道に下り、大型タクシーに乗り換えて仙人沢の登山口まで2往復。笹谷峠の国道286号線が狭く、大型車が通行出来ないためだ。夏に走ったコースを車中から眺めるのはとても不思議な気分。車はさすがに速く、10分ほどで登山口に着いた。 添乗員さん、ガイドさんから登山前の注意。添乗員さんは栗駒山登山でも一緒だったIさん。とても丁寧で親切な人だ。ガイドのWさんは福島県郡山市が自宅とか。俳優の黒沢某に似た容貌で話好き。それにダジャレが得意な人のようだ。先頭がWガイドで最後尾は添乗員さん。今日は班分けはせず自分の体力を考慮の上、好きなポジションを選んで歩いて良いとのこと。私はWガイドの直ぐ後についた。その方が面白い話が聞けると考えてのことだ。 一歩林に足を踏み入れた途端、神聖な気分に満たされた。東栗駒コースの泥道とは大違い。自然林がそのまま残っているせいか、登山道がとても清々しいのだ。まさしく仙人が棲む沢と言う感じ。見るもの全てが新鮮。まだ登りが緩いため、まるでピクニック気分だった。ところがそんな空気が一変した。倒れかかった大木を潜り抜けた時、思わぬ事故が起きたのだ。<続く>
2010.10.25
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仙台神室~山形神室~トンガリ山~ハマグリ山縦走登山から無事帰宅しました。尻の痛み、肩の痛みが心配でしたが、6時間45分ほどかけて何とか全行程を踏破出来ました。登山の途中で2名の走友と遭遇したのにはビックリでした。登山の詳細については明日から書き始める予定です。どうぞお楽しみに~。
2010.10.24
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ようやくマウンテンバイクでの歴史探訪の旅を書き終えた。書き始めて3日目の朝、散歩の時に怪我をした。土手を下りようとした時に、滑ってしたたか尻を打ったのだ。愛犬が引っ張ったのも原因になったと思う。兎も角、その時から猛烈に痛んだ。転んだ時、とっさに右手をついたためか、右肩にも強烈な痛み。今週はその痛みに耐えながら仕事を続けた。 寝ていても痛むが座ってパソコンに向かう時が一番酷い。歴史に関するブログの時は事実関係の調査を含め、1回当たりの執筆に少なくても3時間はかかる。その姿勢が尻の痛みをさらに倍加させた。だが必死になって書いたのに、第1回201件、第2回167回、第3回162件、第4回146件、第5回132回、第6回103件と日を追ってヒット数が激減。 読者はきっと「ぶらり自転車の旅」に、冒険話を期待していたのだろう。ところが意に反して話の内容が宮城県南部の郷土史だったため、退屈したのかも知れない。それでも最後まで書き終え、私は満足だった。ほとんど予備知識がなかった今回のコース。それが途中でもらった資料や、帰宅後にネットで調べたことで、色んなことを学んだ。私が書いた内容はそれらを上手につなぎ合わせただけに過ぎない。 川崎町の龍雲寺で取った「ナラタケ」は翌日の味噌汁に入れた。香り同様、古い朽木の味がした。美味ではなかったが、それがナラタケの特性だと考えたのだが、妻は少し食べただけで残りを全て捨てたようだ。とても残念だった。さて、念願だった玉ネギの苗をようやく植えた。猛暑の影響か、今年の苗はあまり出来が良くないようで、例年より少し安かった。 今シリーズ掲載中に「秋田内陸ウルトラ」の記録集が届いた。完走はしたが記録なしに終わった秋田。今さら記録を見ても仕方がないとは思ったが、見るだけは見た。100kmの部の完走率は57.8%の由。66歳以上のランナーの完走率を調べたら37.5%。完走者全体と比べれば20%以上低く、「チャレンジ賞」の厳しい状況が裏付けられた。走友達の健闘ぶりが分かったことも大きな収穫だった。 今日は10時から「長野マラソン」のエントリーが始まる。ランネットからの申請も昨年は10分ほどで定員に達したとか。果たして首尾良く申し込めるかどうかは分からない。<結局私がもたもたしているうちに、つながらなくなった(泣)>そして明日は大勢の仲間が「第1回伊南川ウルトラ遠足」に参加する。晩秋の尾瀬周辺は紅葉が美しいようだ。厳しいコースに耐えながら、最後までレースを楽しんで欲しい。 私は明日、登山の予定。この夏走った二口峠と笹谷峠の中間にある、仙台神室、山形神室、トンガリ山、ハマグリ山を縦走するコースだ。尻と肩にまだ痛みが残っている。2週間前に登った栗駒山の2倍ほど高低差があるとのこと。果たして最後までついて行けるかどうかは分からないが、頑張って登る積り。早朝から出かけ、帰宅は遅くなる予定です。
2010.10.23
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< 峠と街道 > 自転車を押しながらさらに山道を登ると、舗装道路と交差するように昔の街道が突然目の前に現れた。幅は5mほどだが大きなU字溝のような形のため、道路の部分は2mもない。私にとっては初めて見る街道だが、その清々しい佇まいに驚いた。これが昔、実際に人が歩いていた道か。えも言われぬ感動が私の胸に湧き起こった。 夏の笹谷峠越えマラニックで初めて知った四方峠。その後「みやぎ県政だより」の10月号の表紙に載った「いにしえの面影を今に残す峠道」として紹介された「旧羽前街道保存地区」の存在。もしこの2つの出来事が無かったら、私は今ここに立つことはなかったろう。古くは平安時代から使われ、江戸時代には参勤交代や出羽三山参りにも用いられたと言う街道にようやく来ることが出来た。 文治5年(1189年)源頼朝による奥州藤原氏征伐(奥州合戦)の際は、この周辺が戦場になった由。攻める頼朝の鎌倉軍は28万騎。それに対して守る藤原泰衡側は17万騎。最前線の阿津賀志山(現在の福島県国見町)で敗れた藤原軍はここまで退いて7度にわたる激戦を展開するも敢え無く敗退。結局4代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏は滅亡し、この3年後に鎌倉幕府が誕生する。 四方峠の頂上付近には物見櫓が造られていた。そこからは蔵王町方面と背後の川崎町方面が望めた。四方が良く見えるというのが峠の名前の由来。物見櫓のある小山ともう一つの小山の間を街道が通っている。ここが古来交通の要衝であることが一目瞭然だ。石標には「江戸へ百里 笹谷へ五里」と刻まれている。 この背後に「盗人森」がある。きっと悪党が旅人を襲って身ぐるみ剥いだのだろう。これでは物騒と、慶長7年(1602年)に猿鼻宿が開かれた。先刻通った小さな集落がその名残で、今は花町集落と名を変えている。宿場開設以降最大で13の藩が参勤交代に用い、1日300人ほどの往来があった由。だがあまりにも厳しく冬季は多くの死者が出た笹谷峠に代わって、標高の低い七ヶ宿街道の2つの峠(金山峠、二井宿峠)が開かれると、諸大名はこぞってそちらを使うようになる。 峠からは再びマウンテンバイクに乗った。だがかなり厳しいアップダウンが続き、砂利や泥の悪路。それでもオフロードに強いのがマウンテンバイクの良いところだ。途中には「毒清水」、「黒滝不動尊」、「一字一石一ノ宮」など旧街道の面影を残す場所があった。麓近くで標識を発見。急ブレーキをかけた途端に転倒。幸い倒れたのが草の土手で、怪我はなかった。標識は「水上一里塚」に関するもの。少し離れた旧街道の横に、高さ3mほどの一里塚が残されていた。 朝も通った川崎町経由で帰宅。全行程は87kmに及んだ。膝や脚に故障はなかったものの、体重が2kg減っていた。そしてこの夜は一度もトイレに起きなかった。それだけ疲労が激しかったのだろう。いずれにせよ今回のツーリングで、私は「旧笹谷街道」を踏破したことになる。蔵王町宮から川崎まではマウンテンバイクで。そして川崎から山形まではマラニックで。ふとしたことがきっかけで始まった峠越えと街道探訪。2つともなかなか面白い冒険だった。これは案外癖になるかもね。<完>
2010.10.22
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< 四方峠を訪ねて > 県道12号線をさらに北上して曲竹地区まで来た時、「重要文化財我妻家住宅」の標識発見。さほど遠くないはずと判断し、見学に行く。残念ながら日曜日にしか開いてなかったが、外から住宅の様子が見えた。我妻(あがつま)家は鎌倉時代から続く旧家で、戦国時代末期から江戸時代の初期までは、刈田嶺神社の神職を務めていたようだ。このため今でも「禰宜(ねぎ)屋敷」と呼ばれている。 江戸時代は旧曲竹村の肝入を勤める豪農で、農業の傍ら紅花や木綿の商いも手掛けていた我妻家の敷地は千坪。主屋は桁行が25間(38m)あることから、「二十五間」とも呼ばれていた由。主屋、文庫蔵、前蔵、板蔵、穀蔵、表門が重要文化財に指定。村民を飢饉から救うための蔵も備えていたと言う。家の前を流れている小川は、さながら堀のような佇まいだった。 昨日日本武尊(やまとたけるのみこと)のことについて記したが、今日になって尊が現在の三重県で最期を迎えたことを知った。宮内庁の参考陵墓が三重にあるほか、奈良、大阪にも陵墓がある由。尊は亡くなった三重から白鳥に姿を変え、都に向かって飛び去ったとか。白鳥になったのは妻の弟橘媛ではなく、彼自身だったようだ。 相模灘で妻が海に身を投げた時、尊は「吾妻はや」と悲嘆に暮れた。それ以降関東の地を「あずま」と呼ぶようになったとか。日本武尊を祭神とし、白鳥大明神の別名を持つ神社の神職の名が我妻氏だったことを単なる偶然とは思えなかった。吾妻も我妻も同義だからだ。なお、我妻(わがつま、あがつま)姓および白鳥姓は、宮城県内では結構見受ける姓だ。 「笹谷街道」への分岐点は蔵王町役場の脇にあった。ここからかなりの急こう配が始まる。それにしてもこの新しく広い道が本当に旧街道だったのだろうか。心配になって周囲を見ると、「道中まつり」の幟が目に入った。翌日の日曜日がそのお祭りのようで、大名行列が再現されるようだ。多分間違いはないのだろうが何だか不安。 自転車の籠に3匹の子犬を乗せた男の人が坂を下って来た。彼に四方峠のことを聞く。「しほうとうげ」と言うと「しかたとうげ?」と聞き返すが、この道で間違いはないようだ。だが仙台から来て仙台へ帰ると言うと、「ずっと登り坂だよ。どこかへ泊るの?」と今度は驚いたような声。人家のない寂しい道をさらに登る。 今度は自転車に乗る老人と遭遇。トンネルを潜ると峠への道があり、手前に石碑があるとのこと。さらに坂はきつく、とうとう一番小さいギアで登るしかなくなった。疲労で膝が痙攣し出す。もう我慢の限界かと覚悟した時、目の前に東北道。お爺さんがトンネルと言ったのは、東北道の高架橋のことだった。 入口に立派な「羽前街道」の標柱。そして「道中まつりの」案内板とテントが何張りか。ここからは本格的な山道。もう自転車を押して歩くしかない。間もなく「関所」に見立てた小屋があった。その中に猿鼻宿に立ち寄った大名の大きな名札が掲げられていた。○ 秋田二十万五千石 佐竹右京大夫○ 鶴岡十三万石 酒井左衛門○ 新庄六万八千石 戸澤大和守○ 山形六万石 秋元但馬守○ 本荘二万石 六郷兵庫頭○ 天童二万石 織田若狭守 どれも日本海側の藩ばかりだ。奥羽山脈を眺めながら遥々と旅し、海抜800m以上の険しい笹谷峠を越え、この寂しい山の中を通って宮から奥州街道へ入ったのだ。お金もかかるし、体の負担も相当大変な旅であったことが実感出来た。それにしても最上氏亡き後の山形が分割されたとは言え、わずか6万石だったとは。<続く>
2010.10.21
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< 神社と縁起 > 村田町の中心街はきっと仙台平野の西端なのだろう。そこから大河原町までは全くの平坦。畑には見事な秋ナスがテカテカと光っていた。そろそろ昼食を摂る時間帯だ。だが、休憩する適当な場所がない。道路端では埃を被ってしまう。仕方なくそのままペダルを漕ぐ。国道4号線とぶつかる手前左側に面白い形の建物が見えた。「はねっこアリーナ」とある。どうも大河原町立の体育館のようだ。 ようやく国道4号線に出て右折すると猛烈な南風。これはなかなか前途は厳しそう。風に抵抗しながら頑張って前進。大河原町の名所は白石川沿いの桜並木。春先には「一目千本」のソメイヨシノの向こうに雪を被った蔵王連峰が見えるのだが、今どの辺を通っているのか分からない。12時15分、蔵王町に入る手前で神社発見。そこで休憩することにした。 地図を確認すると、私が通ったコースは桜並木からは少し遠かったようだ。神社下の草むらに座り、赤飯を食べる。1パック100円だったが、やはり量が少なかった。バナナ、ミカン、お菓子も食べ、エネルギー源とする。 神社の名は大高山神社。延喜式にも記載された柴田郡で唯一の式内社のようだ。ご祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で、後に橘豊日尊を合祀している。橘豊日尊は第31代用明天皇のことで、聖徳太子の父に当たる。若かりし日東征した尊は在郷の娘と結ばれたが、東征後帰朝。残された娘は男子を産む。尊を恋しがる娘を不憫に思った村人は成長した男子に、母の想いを尊に伝えるよう説くと、男子は白鳥になって都に飛び去った由。 12時35分出発。相変わらず南風が強くて難儀。蔵王町に入って直ぐ蔵王エコーラインへの近道があったが、わざわざ宮まで行ってから右折した。奥州街道から羽前街道(笹谷街道)へ入る分岐点を確認するためだ。間もなく左手に石碑発見。自転車から下りて確認すると、「小野訓導顕彰碑」だった。 大正11年7月。宮尋常小学校の訓導(教師)になったばかりの小野さつき(22歳)は写生(美術)の時間に4年生の児童を率いて白石川へ行ったのだが、あまりの暑さに3名の児童が川に入って流された。彼女は袴姿だったにも関わらず川に飛び込んで2人を助け、3人目を助けようとした時に、児童と共に流されて溺死した。美談は全国に伝わり、顕彰碑を造るための基金2万円(現在の3300万円)が寄せられた由。この話はその後修身(道徳)の教科書にも載ったようだ。 先を急ぐ。道は緩い上り坂。暫くペダルを漕ぐと、左手にこんもりとした森。そこが刈田嶺神社だった。境内に自転車を停め、石段を登って参拝。元々神社は標高799mの青麻山(あおそやま)の頂上にあった。当時山の名は大刈田薬師嶺で、創建は延暦10年(791年)。坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際、山頂に若宮白鳥神社を合祀したのが縁起の由。刈田郡で唯一の式内社で別名「白鳥大明神」。ご祭神は日本武尊。 当神社は古来朝廷の信頼篤く、事後奥州藤原氏、伊達氏の庇護を受けた。永正11年(1514年)伊達氏によって現在の地に遷移。境内には白鳥古碑群がある。どうやらこの周辺には日本武尊東征の伝説が残されているようだ。彼の妻である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、尊の東征にも同行し、荒れ狂う相模灘で海の神の怒りを鎮めるために自ら身を投げたと伝えられている。 これは無論神話でしかないが、大和朝廷の王子クラスが東西の賊を征伐に出向いたことはあったのだろう。たしか弟橘媛の魂は、やはり白鳥になって都に戻って行ったように記憶している。気高い姿の白鳥は神の使いとして崇められており、東北には昔から白鳥が飛来していたのだろう。都の貴人が鄙の娘と結ばれる話も良くあるストーリーだ。貴人の東征と白鳥伝説は、今日訪れた3つの神社に共通のテーマだったのが面白い。<続く>
2010.10.20
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< 蔵の町村田 > 前方に蔵王連峰が見える。そしてその手前には鈴蘭峠。8月に蔵王エコーラインを走った時は、今ほど景色を観る余裕はなかった。後で通る予定の四方峠は鈴蘭峠と同じ稜線にあり、高さもほとんど同程度のはず。もらった資料によれば四方峠は標高388mとのこと。今夏鈴蘭峠を走った時は350mほどはあるとの印象を受けたが、私の勘はどうやら間違ってなかったようだ。 県道14号線を左折して村田町方向へ向かうと、長い登り坂が私を待っていた。村田町の標識が出た途端再び川崎町の標識。そんなことが2度続いた。どうやらこの辺りは町境が入り込んでいるようだ。さらに登ると右手に山形道が見えて来た。坂の頂上付近から仙台方向へ左折する支倉地区の圓福寺には支倉常長の墓があるようだ。 支倉常長は伊達政宗の命を受け、慶長18年(1613年)遣欧使節としてスペイン及びローマへ赴いたことで有名。政宗が当時スペインの支配下にあったメキシコと通商する許可を得るためだった。だが政宗が日本の支配者ではなく「奥州王」でしかなかったことなどから、通商の盟約を得ることは出来なかった。ローマ法王から貴族に列せられ、キリスト教徒となった常長を待っていたのは思いがけない事態。 元和6年(1620年)に帰国した彼は、留守中にキリシタン禁止令が発布されたために罪人となってしまったのだ。政宗は彼を殺すことは出来ず、故郷の支倉に幽閉。帰国の2年後悲嘆のうちに常長は死去する。亨年51歳であった。後年の系図には常長の名は無く、代わりに支倉長経の名が残っているようだ。キリシタンであったことを知られないための措置と考えられている。訪れてみたいと思いながらも今回は止むなくパスした。 坂を登り切ると5km以上の急な下り。ほとんどペダルを漕ぐこともなく一気に村田町の中心街まで来れた。街中に神社発見。自転車から下りて確かめると白鳥神社だった。平安末期の前九年の役で源義家が苦戦していた時、当神社の藤の木が2匹の龍になって助け、無事勝利したとの言い伝えがある由。その藤の木が今も境内に残っている。 道なりに進むうち県道25号線に出た。これは岩沼市方面に向かう道。間違ったことに気づき慌てて戻ると、道路が閉鎖されていた。どうやらこの通りが「蔵の陶器市」の会場のようだ。自転車を押しながら蔵の続く街並みを歩く。ここ村田町には江戸の一時期伊達一門の城があった。奥州街道からは少し奥まっているが、紅花などを商う商人の町として栄えたようだ。その名残が多くの蔵なのだろう。 あまりの賑わいに「町には窯元が多いのですか?」と住民の方に尋ねた。「ここで陶器を作っているのは6人だけですよ。後は全国からの出品です」。もらった資料を見ると、北は北海道、南は滋賀県までの69名の陶芸家が作品を持ち寄っているようだ。道理で賑わっているはず。町の商工会青年部が中心となり、今年でもう10回目の開催とか。立派な町興しと言えるだろう。 老舗のお菓子屋さんで見本の羊羹を食べ、お茶をいただく。出店では1パック100円の赤飯を2パック購入。これは安くて助かる。結局この日使ったお金は、スポーツドリンク100円と赤飯200円の合計300円だけ。これで約8時間87kmを楽しんだことになる。次は大河原町を目指して一路東へ向かう。<続く>
2010.10.19
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< 不思議な墓(2) > 国司壇を見つけたのはたまたまで、私の目的は龍雲寺にある川崎伊達家の廟所を訪れることだった。お寺の東方100mほど離れた場所に墓地がある。廟所の在処を尋ねると直ぐそこにあると言う。確かに古そうな墓石がずらりと並んでいた。だが、仙台藩の歴代藩主が眠る廟所とは違って厳かさが全くない。 一般の墓域との区別も無く、それほど大きくない墓石が直接地面の上に立っているだけの廟所。藩主の親戚筋であればもっと立派な墓でもおかしくないと思うのだが、何故これほど貧相なのだろう。私の疑問は一気に膨らんだ。 戦国時代まで、この川崎は砂金氏が治めていた。一説によれば砂金氏の祖は源義経の家来だった由。また浪々の末にこの地に辿り着き、守護となったとの説もあるようだ。伊達氏が米沢、岩出山を経て仙台に入るとその配下となって仕え、元和4年(1618年)城を元々の本城から笹谷街道近くの川崎館に移し町割した。だが、元禄15年(1702年)同家は廃絶する。 その後、享保7年(1723年)に一門の伊達村△(「言」に「全」の字)がこの地に入る。交通の要衝である笹谷街道を守る必要があったのだろう。城はそれ以降「川崎要害」と呼ばれた。石高は2千石。伊達藩は一門(11)、一家(17~21)、準一家(8~15)、一族(22~33)、宿老(3~8)、着座(29~45)、太刀上(4~10)、召出一番座、召出二番座、平士、組士、郷士から構成されているが、最上格の一門で2千石はあまりにも低い。中には7千石取りの一族もいると言うのに。 廟所には第2代から第8代までが夫人と共に眠っていた。第8代伊達邦賢は幕末の戊辰戦争で敗れ、家禄を返上し川崎要害は廃城となった由。この小さな宿場町に激震が走った時代があったのだ。墓地から退散しようとた時、木の株にキノコがびっしりと生えているのを発見。傍の人に聞くとヨシタケだそうだ。一般名はナラタケで食用になるとの返事。喜んで袋に詰めた。 その時バスが近づくのが見えた。「伊達なバス旅」で20名ほどの参拝客があるとのこと。そのツアー客に配る資料を私にもくれた。廟所の配置図と「羽前街道(笹谷街道)」に関するパンフレットだった。これは良いものをもらった。だが、このことで再び迷いが生じた。果たしてここから村田町方面に向かうべきか、それとも旧笹谷街道が通る四方峠経由で蔵王町へ向かうべきか。 県道14号線との分岐点で自転車を停め、私は地図を広げて見た。一旦村田町へ出、「蔵の陶器市」を観てからもう一度ここへ引き返し、四方峠に向かうのはどうか。だが、それは無謀だと分かった。ここから村田町までは結構距離がある上に、長い坂道を登る必要がある。坂道を往復し、さらに四方峠の坂道を登るのはかなりの負担だ。 それよりも村田町経由で大河原町に出、そこから蔵王町に入って逆に四方峠を北上するのはどうか。当初のコースから逸脱し、距離も予定より伸びてしまうが大きな登りが2つで済むし、見たいところが全て見られるのが良い。かなり冒険だが今日はそれで行ってみよう。覚悟は決まった。果たしてどんな事態が生じるか。<続く>
2010.10.18
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< 不思議なお墓(1) > 前夜、私は迷っていた。翌日走る予定のツーリングのコースだ。夏に知った「笹谷街道」の四方峠から蔵王町の宮に抜ければ距離は75.5km。それに対して川崎町から大河原町に抜ければ68km。果たしてどちらを取るか。そして心配なこともあった。先週の登山以降、膝の調子が少しおかしかったのだ。 長距離のランニングに比べれば自転車は遥かに楽。だが長い距離のツーリングを暫くしてなかったため不安もあった。峠などの登り坂はかなり膝に負担をかけるからだ。土曜の朝、いつものように愛犬との散歩を終え、朝食を摂りながら妻にこれから自転車で出かけることを告げた。だが妻の反応がおかしい。前夜は了解していたのに、今朝になって心変わりしたようだ。 妻の希望は天気が良いから一緒にハイキングにでも出かけたいというもの。先週は登山に付き合ったし、翌日の日曜日は仲間と絵を描きに出かける妻。一方、長距離のランニングはまだ無理と判断し、自転車での旅のコースや距離を事前に調べていた私だった。たまには自由に行動したい。男には無性に冒険したくなる時がある。それに自転車の旅は一見遊びのようでいて結構トレーニングになるし、知的関心を満たすことも出来る。 返事をしない妻の様子が気になったが、家を出て一旦ペダルを踏み出すと、頭の中は冒険のことで一杯になった。国道286号線の旧道を西に向かう途中、ランニング中のM井さんに遭った。来週の「伊南川ウルトラ」に向けての練習とのこと。羽黒台から茂庭へ向かう坂道が、ランとは違ってかなり脚や膝に堪える。果たして今日一日、私の膝は坂道に耐えられるのだろうか。 川崎町に入り、碁石小学校前の自販機で最初の休憩。早くも汗ビッショリになったため半袖Tシャツを脱ぎ、長袖1枚になる。100円のスポーツドリンクを買って飲み、残りはリュックへ。ここまでも、そしてここからもずっと登り坂が続く。釜房ダムの橋からようやく平らな道。杜の湖畔公園を過ぎて笹谷街道へ左折する途中、雲龍寺へ寄る。 お寺に入ったが墓はない。100mほど東側に墓があるらしい。そこへ行きかけて、道端に立派な石の塔を発見。説明板によれば「国司壇」の由。国司クラスの墓が普通こんな田舎にあるわけがない。陸奥国国司でここに墓があってもおかしくない唯一の人は藤原朝臣実方中将くらい。彼は笹谷峠を越えて出羽国の阿古耶の松を観に行った帰り、落馬して亡くなっている。 名取市愛島塩手地区に墓碑があるが、山形市の千歳山頂上にも墓がある。そこに葬られることが彼の希望だったようだ。だが陸奥国国司が、隣の出羽国に葬られるよりは、亡くなったとされる名取周辺に葬られたと考える方が無難だろう。だが一つの謎が残る。阿古耶は彼の娘の名前。何故その名がついた松をわざわざ観に行ったのか。 阿古耶の松は山形市千歳山の頂上にある。初代は既に枯れて今は2代目のようだ。一方笹谷峠の宮城県側の登り口にも阿古耶の松があるようだ。言い伝えによれば、阿古耶は松の精の化身である青年に恋するあまり亡くなったみたいで、歌枕にもなっている。和歌に通じていた実方中将が、その名前を自分の娘につけたと考えれば合点が行くのだが。 国司の墓は43体の石仏に囲まれていた。名取市愛島の墓碑は墓としての雰囲気がほとんど感じられない。きっとあそこは落馬した現場であり、遥かに阿古耶の松を臨めるこの地に遺体を葬ったと考える方がより相応しいように思った。何はともあれ、歴史好きの私にとっては大収穫だった。<続く>
2010.10.17
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今日はマウンテンバイクに乗って、県の南部を巡って来ました。足を停めたのは川崎町の雲龍寺(川崎伊達家墓地)、村田町の「蔵の陶器市」、大河原町(大高神社)、蔵王町(刈田嶺神社、羽前(笹谷)旧街道の四方峠)です。ここから再び川崎町を経由し、自宅へ戻りました。距離は87kmほど。かかった時間は8時間です。峠道はさすがにきつく、途中で膝が痙攣しましたよ。詳細は明日以降書く予定です。お楽しみに。
2010.10.16
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歌を歌いながら番組に登場する際の曲は、あまり正しい音程ではなかったですね。でも親分の指摘はいつも冷静かつ正確でした。誉められないプレーには「喝!」を、そして賞賛すべきプレーには「あっぱれ!」と、実に分かり易い解説。つい最近まで出ていた番組に、2週間ほど顔が見えないと思っていたら、胆のうがんで入院していたとか。視聴者には最後まで衰えた姿を見せなかった大沢親分は立派でした。「あっぱれ!」と叫びたい心境です。親分、もう何の心配もしないで、安らかに眠って下さいね。合掌。 来年の「東京マラソン」ですが、またもや落選の通知が届きました。これで5年連続の落選。まだ一度も東京のど真ん中を走ったことがないんです。中には何度も当選している仲間もいます。私はよくよく籤運が悪いのか、それともこれが普通なのか。まあ申し込み率が10倍の人気大会ですから、外れてもしかたないのでしょうかね。代わりのレース「いわきサンシャインマラソン」で諦めることにします。 サッカー日韓戦は見応えがありましたね。目下2連敗中と苦手にしている韓国に対して、アウェーで引き分けは立派だったと思います。先日の対アルゼンチン戦と言い、ザッケローニ監督に変わってからの日本は、明らかに強くなった気がします。これで今年の強化試合は終わりのようですが、来年は監督の出身地であるイタリアとの強化試合が実現しそうです。選手の秘められた可能性を引き出す才能が高い監督ですから、選手もがぜんやる気が湧きますよね。 さて、チリの銅鉱山で起きた落盤事故。地下700mに70日間も閉じ込められていた鉱夫33名の救出劇には世界中が熱くなりました。最初は救出がクリスマス頃になると伝えられていました。口には出さなくても、多分助からないだろうと言うのが一般の人が受けた印象だったのではないでしょうか。それがチリの大統領の号令の下、最新鋭の掘削機の導入など、次々に対策が実行に移されました。 NASAの技術を始め、各国の技術援助が今回の全員無事救出を実現させたとも言えるでしょうね。長い間地上で待ち受けていた家族の心配と喜びは大変なものだったと思います。父親が地下に閉じ込められている間に生まれた女児の名前がエスペランサ。スペイン語で希望を意味するその言葉に、全てが表わされていると言っても過言ではありませんね。 それにしてもあの鉱山は今後どうなるのか。多大な負債に喘ぐのは目に見えているようです。そしてあの現場で動いていた中国製の巨大な機械はクレーンだったかな。世界中の資源を一手に確保しようとする中国の凄さが伝わって来るような気がしたのは私だけでしょうか。日本の技術も導入されたと聞きました。少しでも役立ってくれて嬉しいです。 全員が無事救出されたのは、強力なリーダーが居たからとか。牧師さん代わりの人も居たし、お医者さん代わりの人も居たようです。落盤で閉じ込められた経験を持つ人も確か2名は居たはず。そして33名全員が何らかの任務を負わされて居たとか。その責任感が最後まで彼らを生かしてくれたのでしょう。「エスペランサ」。希望さえあれば、人は暗闇の中でも生きられることを、彼らは身を以て示したのです。良かったね。おめでとう!!
2010.10.15
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< 倒れる > 下りの須川コースの状態は登りの東栗駒コースほど悪くはなかった。それでも泥道はぬかるみ、注意を要した。頂上からどれくらい下りた頃か、昭和湖の白濁した湖面が見え出した。ここは昭和に入ってから爆発した新しい火口とのこと。強い硫黄臭を放つ湖は、コバルトブルーの不思議な色合いをしていた。 ここでトイレ休憩になった。湖の端にあるトイレに急いで駆け込む。2時間ほど苦しんだ下腹部の具合が、これで一挙に解決。再び泥道を下りる。沢が白く濁っている。ガイドさんの説明によれば、昭和湖の湖水が混じっているとのこと。さらに30分ほど下ると、寂しい湿原に出た。ここが名残ケ原。湿原の「なれの果て」と言った感じ。久しぶりに木道を歩く。 ゴールの須川温泉が近いせいか、風に乗って強い硫黄臭がして来る。やがて栗駒山荘や須川温泉の建物が見え出す。登山道の直ぐ傍に温泉の源泉があり、大勢の人が見物していた。温泉の裏では足湯に浸かる人達も。私達はバスが待つ駐車場へ行き、リュックを下ろした。5時間半近くかかった縦走を終え、全員でストレッチ体操。これで翌日の筋肉痛が和らぐ由。 荷物を整理し、洗面具と着替えを持って温泉へ。建物に入る前に、泥だらけのシューズを洗う。湯船に浸かる前に頭と体を洗う。空腹が激しかったため、入浴は短時間で済ませた。硫黄臭の強い温泉は人気が高く、中には泊っている湯治客もいる。財布を取りにバスに戻り、売店でパンと牛乳を購入して空腹を満たす。 その時、緊急放送。何と私の名を呼んでいる。急いでフロントへ行くと、妻が倒れた由。今は安定を取り戻し、ゆっくり着替えをしているとか。慌てて女湯の前に行き、中の様子を地元の小母さんに聞いてもらった。かなり回復して間もなく出て来るとのこと。妻の話では、「湯当たり」と低血圧だろうとのこと。私は空腹による低血糖と硫黄などの臭いも関係したのと思う。 妻のためにパンと牛乳を買い、バスに戻ろうとすると大粒の雨。バスの外で待っていた添乗員さんにことの顛末を報告。妻が倒れた時に借りた手ぬぐいの主を尋ねると、7月の末に参加した八幡平登山で一緒だった女性とその友達だった。誰に介抱してもらったか記憶の無い妻に代わってお礼を言う。 その後、私の財布が見当たらなかったり、妻のデジカメが見当たらなかったりとゴタゴタが続いたが、それらもちゃんと見つかった。もう外は黄昏。バスは一関市経由で東北道へ出た。その途中、2年前の岩手・宮城内陸地震で真っ二つに折れた「まつるべ大橋」が、暗闇の中で幽かに見えた。 水浸しの登山道、スリルに満ちた沢登り、全山を埋め尽くす紅葉、ガスの切れ目から観えた下界、そして妻が倒れた須川温泉。まあ色んなことが起きた今回の登山だったが、それだけに良い思い出になると思う。次に私が登るのはもっと厳しい中級コースの山。初心者の中高年登山だが、また新たな経験が出来るのではないかと期待している。
2010.10.14
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< 3つの名前を持つ山 > 新湯沢沿いのコースは100mほどで終わったが、初めての沢登りはなかなかスリルに満ちていた。ここまでに10回ほど妻の手を持って引き揚げたはず。暫く泥んこ道を行くと、標高1434mの東栗駒山が間近に見え、傾斜が緩くなって来た。自然に心が浮き立つ。 東栗駒山から左手に聳える栗駒山まで一面の紅葉。木々が一斉に色づき出したようだ。それに加えて赤褐色の草紅葉がなだらかな斜面を覆い尽くしている。ここまで苦労して登った者にしか観られない光景だ。だが頂上に近づくにつれ、風がきつくなる。風速25m以上の強風にガスが千切れて流れ飛ぶ。 ガイドさんが言う。「あれだけ風が強いと、もう直ぐガスが晴れますよ」。その彼に尋ねてみた。「もし雨が降ったらどうだったんですか?」。「東栗駒コースは無理なので、中央コースを採る予定でした」。なるほど良く整備され、沢のない中央コースなら、足元がしっかりして雨でも登れた訳だ。 東栗駒山の山頂でも小休止。エネルギー補充のため途中で少しずつ弁当を食べていたのだが、それもここで尽きた。サンドウィッチと巻き寿司のセットだが、運動量の多い登山ではとても物足らない。強い風で体温を奪われないよう、薄手のウインドブレーカーを着用し、冬用の手袋をはめた。 濡れた軍手はリュックにしまった。先刻川に落ちて濡れたズボンが、風に吹かれて次第に乾いて来た。登山用のズボンの素材は速乾性のようだ。「下着は木綿を避けるように」との注意があったため、私はランニング用のハーフタイツを履いていた。確かに速乾性で良いのだが、前屈みになると下腹部が苦しい。おまけにベルトが緩いため、何度かズボンを上げながら進んだ。 東栗駒山頂から一旦下り、今度は稜線沿いに栗駒山頂を目指す。ここまで既に1時間半以上は歩いている。添乗員さんの話によれば最初手間取った分のロスは、十分取り戻したとのこと。やはり皆頑張って登ったのだろう。1時間ほど登ると、裏掛けコースとの合流点に到着。そこにはロープが張られ、進入出来ないようになっていた。途中崩落している個所があって危険なのだとか。 ガスが晴れると見事な風景が広がった。栗駒山は標高1627m。登山を開始したイワカガミ平との高低差は500m以上。ここまで3時間ほどかかった。この山は3つの名を持っている。先ず宮城では栗駒山。岩手では須川岳。そして秋田では大日岳。宮城の栗駒は春先の「雪形」からの命名。つまり農作業の目安だった訳だ。 岩手の須川は酢川、あるいは酸川が語源だろう。岩手県側では極めて酸性度の高い温泉が湧いている。これに対し、秋田の大日は「大日如来」が語源。きっと山岳宗教との関係が深かったのだと思う。今では呼び名も栗駒山に統一されている。頂上では無くなった弁当の代わりにお菓子を食べた。 ここから「天狗平相撲取り場」まではなだらかな下り。目の前には急な崖が迫り、下界の雄大な景色が一望出来る。学生時代に登ったのは表掛けコースだった。駒の湯を出発してデロコ沢、石飛び八里、御室を経由し、頂上に達したはず。いつも登山は初夏だったため、石飛び八里には雪渓が残っていた。それが今は一面の紅葉に変わっている。 「天狗平相撲取り場」から須川温泉コースを下る。左手には標高1424mのなだらかな秣岳(まぐさだけ)が見える。ここは秋田県。右手遥か前方には標高1355mのこんもりとした笊森(ざるもり)。ここは岩手県。そして真下に小さく見えるのが火山湖の昭和湖だ。針葉樹が多い秋田県側が青々とした森なのに対し、落葉樹の多い岩手県側では、今が紅葉の真っ盛りだった。<続く>
2010.10.13
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< 2つ目の失敗 > 笹をつかみ、灌木の枝をつかんで、繰り返し岩を乗り越える作業は結構きつい。ガイドさんが「歩く速さはこれくらいで大丈夫ですか?」と第4班に聞いた。「いや速過ぎます。もっとゆっくり進んでください」最初に音を上げたのは妻だった。普通でも大変な山道が、水が溢れて泥んこ状態だととても歩きにくくて疲れる。「分かりました。もっとゆっくり歩きましょう」。 スピードは少し落ちたが、それでも私達は必死だった。滑ること、転ぶこと、水に濡れること、汚れること。初心者はそんなことを極端に恐れる。この朝、家を出る時に履いたのは、高校の山岳部に所属していた第1現場の若者からもらった革製の登山靴だった。だが、私には少し窮屈過ぎて歩くと足が痛んだ。それでは5時間半もの道程に耐えることは無理。そう判断して、慣れたキャラバンシューズに替えたのだった。 ズック製だから軽くて履き易い代わり安定感が不足し、水が浸入する。出来れば可能な限り濡らしたくない心境だった。妻のことも忘れ、必死で前進。ある程度距離を稼ぐと、立ったままでの休憩が入る。「お父さん、水」。妻が慌てて私に催促。そしてお菓子も食べたいと言う。どうやら思いがけない運動量で、血糖値が下がったのだろう。私も水を飲み、お菓子を食べてエネルギーを補給。 2度目の休憩時に、堪りかねてセーターを脱いだ。激しい運動でとても暑い。それ以上無駄な汗はかかない方が良い。1枚脱いだだけでもその効果は抜群。気持ちが良くなって再び歩き出す。300mほど進んだ時、目の前が何故だかスースーすることに気づいた。手で目を触ると眼鏡がない。先ほどセーターを脱いだ際に、外した眼鏡を忘れて置いて来てしまったようだ。 これは一大事。眼鏡がないと不便極まりない。折角苦労して登った山道だが、ここは引き返すしかないだろう。慌てふためいて、滑る道を下る。最後尾の添乗員さんに、そのことを告げると、彼も一緒に付いて来ると言う。ツアー客に万が一のことがあれば、彼も責任を問われるからだろう。先頭のガイドに無線で事情を話し下山。 「どの辺りですか?」。添乗員が何度も尋ねる。だが、どの場所と言われても識別できる特徴がある訳でもない。「少し広い草地です」。あまり慌て過ぎて、とうとう水に落ちた。ズブズブと靴の中に泥水が入る。ええい、もうこうなったらヤケクソだ。一旦濡れてしまえば怖いものはない。 眼鏡はちゃんと元の場所にあった。「こんな地面に置いたんですか」。呆れたような添乗員の声。だが一体どこへ置けば良かったと言うのか。人に踏まれる場所ではないし、ちゃんとこうして覚えていたのだから。多分往復で600mは損したと思う。だが、そこはウルトラマラソンで鍛えた体。先頭のガイドに無事眼鏡発見を報告し、全速力で元の隊列に戻る。 やがて登山道が途切れ、沢にぶつかった。ここは地震の際に駒の湯温泉を埋め尽くした泥流が発生した新湯沢の最上流部。普段なら細い流れなのだろうが、降り続いた雨で水かさが増し、流れも急。ところがガイドの姿が見えない。4、5人のグループで沢の右岸を登って行ったところ、後から呼ぶ声。どうやら途中で左岸に渡るようだ。慌ててガイドがいる場所まで戻ると、彼はロープを張って安全を確保していた。 私は他に安全な経路はないか、岩を飛んでそこへ向かおうとした。だがその先はやはり渡れそうもない。引き返す途中、安全だと思えた岩が不安定。それでも無理に飛んだら、滑って川へ落ちた。幸い深さはさほどでもなく、膝から下が濡れた程度で済んだ。やはり勝手な判断だったと反省。これが2つ目の失敗だった。<続く>
2010.10.12
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< 雨は上がったものの・・ > 今回の栗駒山登山ツアーは、かなり前から参加を決めていた。だが登山間近になって心配なことが起きた。1つ目が天候。天気予報がひっきりなしに変わったが、前夜まで大雨注意報が出ていたことだ。2つ目が妻の体調。無理に走ったためか、風邪をひいてしまったようだ。私自身は雨中の登山を経験するチャンスと考えていたが、妻は参加を見合わせることにした。 雨は夜半まで続いた。トイレに起きるたび、強い雨の音が聞こえていた。だが、未明になって雨は治まり、大雨注意報も解除になったようだ。朝起きると雨の心配は去り、妻の体調も戻っていた。これで登山は決行だ。朝食後、自転車で集合場所へ向かう。始発地点だったためか、ここで乗る参加者は5名だけ。添乗員さんの話によれば、当初41名だった参加者が雨の心配などで33名に減ったとか。 仙台駅前に寄り、泉中央から最後の乗客が乗り込む。中には運動靴の人も。「おいおい、そんな靴で大丈夫かよ」と驚いていたのだが、後で登山靴に履き替えるようだ。「登山した後は、靴の泥を良く落としてからバスに乗ってください」。と添乗員さんが話していたように、靴を履き替えるか、良く泥を落とすのが登山の際の常識のようだ。私達夫婦はそんなことも知らず初めて山の服装をし、キャラバンシューズにスパッツを着け、意気揚々としていた。 私達が登る予定の栗駒山は標高1627m。宮城、岩手、秋田の3県にまたがるこの山は、高さの割には長いアプローチを持つ。東北百名山の一つで、宮城県側からは湯浜コース、大地森コース、表掛けコース、中央コース、東栗駒コース、裏掛けコースがあるが、地震による崩落などで幾つかのコースは登山を禁止されているようだ。秋田県側からは秣岳コース、そして岩手県側からは須川コースと笊森コースがある。 今回は「イワカガミ平」から東栗駒コース経由で栗駒山頂に達し、そこから須川コースで岩手県の須川温泉まで下りる5時間30分の縦走。高低差は500mほどの初級Bコースとか。それほど難しくはなさそうだが、何しろ雨後の登山は初体験なのでどうなるか分からない。今年は八幡平と泉ケ岳にも登った。妻もランニングを始めたので、以前に比べれば体力も付いたとは思うのだが。 県道栗駒築館線を山に向かうと、地震の爪跡があちこちに残っていた。何人かが生き埋めになるなど、悲惨な被害があった耕英地区を車窓から眺めながら、さらにバスは山を登る。事前にもらった弁当をリュックにしまい、バナナと味噌パンでエネルギーを補充した。着替えや洗面具など取り敢えず不要なものはバスに残し、標高1113mのイワカガミ平駐車場で登山前のストレッチ体操。 33名の参加者を6つの班に分け、2人のガイドが引率する。シンガリは沢登りが大好きという添乗員さんが務めた。ガスの合間から下界が見える。特徴のある大地森の下には、春先に行った「世界谷地」があるはず。そして上方に見える、標高1434mの東栗駒山は鮮やかな紅葉に包まれていた。 さて、いよいよ5時間半に及ぶ縦走が始まる。良く整備された中央コースから、直ぐに右に逸れて登山道へ。その道が前夜までの雨で水が溢れ、岩も僅かに残された赤土の部分もかなり滑り易くなっていた。対処を間違えば水の中に落ちるのはもちろん、転んでけがをする可能性も高い。気軽なハイキング気分がどこかへ吹き飛び、緊張感が漲って来た。<続く>
2010.10.11
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お天気が心配だった今日の栗駒山登山でしたが、何と雨は一切降らずに終わりました。でも連日の雨で、登山道が沢のようになっていましたよ。疲れました。足が滑って泥んこにもなりました。頂上付近は風が強かったのですが、紅葉がとてもきれいでした。縦走を終えて須川温泉にも入りました。登山の様子については改めて明日から書かせていただきますね。
2010.10.10
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昨夜、巨人がヤクルトに敗れたことで最終的な順位は3位となった。従ってCS第1ステージは甲子園で開催されることになる。スターを揃えシーズン後半までダントツだった巨人だが、終わってみれば3位とは情けない。今後はCSで勝ち上がるしか道はない。一方のパリーグは今日から西武ドームでロッテとのCS第1ステージが始まった。果たして両リーグともどんな結果になるのか楽しみだ。 昨夜の注目がもう一つ。ザック・ジャパンの第1戦がアルゼンチンを相手に行われた。メッシなどのスターを擁するアルゼンチンは世界の強豪。果たして新監督の采配はどうかと誰もが注目していたのだが、終わってみれば1対0の大金星とは恐れ入った。こぼれ球を走り込んだ岡崎がゴールに突き刺した。そして鉄壁の堅い守備を貫いた戦法は見事だった。イタリア人監督のザッケローニ氏は極めて誠実な人柄のようで、今後がとても楽しみになった。 中国人の民主運動家である劉暁波氏(54歳)にノーベル平和賞が授与されたと言うニュースは、世界を驚かせた。氏は天安門事件の際、非暴力での反対運動を指導して逮捕され、インターネットを通じて世界に訴えた「08憲章」で懲役11年の有罪判決を受け、目下服役中の人らしい。 中国政府は国内での影響を怖れ、「ノーベル賞委員会」とノルウェー政府に対して、受賞対象から除外するよう圧力をかけたとか。同委員会はノルウェー政府から独立した機関であり、ヤーグラン委員長は「中国は経済、政治大国になり、世界に影響力を持つ。中国のありようは常に議論されるべきだ」として、これを拒否した由。 中国が人権を無視した大国になることに警告を発したわけで、同賞がかつてチベットからインドに追われたダライ・ラマ氏に授与されたことにも通じる。また、英国に亡命中の中国人研究者にも物理学賞が与えられたこともあるとか。中国政府は今回の事態に反発し、劉氏の夫人を拘束して自宅から離れた場所に隔離した。外国の報道陣との接触を阻むためだ。 さらに劉氏の平和賞受賞を伝える中国国内でのNHKのニュース、英国BBCのニュースが、相次いで放送を妨害されたことも世界を驚かせた。天安門事件では一般市民約1500人が軍によって銃殺されたようだが、今回のニュースも同様に国民は真実を知らされないままだ。まさに暗黒の大国と言えよう。 さて今日の午前中、久しぶりに所属走友会の練習会に行って来た。多分1年以上、参加してなかったのではないか。まだ脚が重たく、仲間のスピードに十分ついて行けなかったものの、それでも気持ちは良かった。明日の「松島ハーフマラソン」にはM仙人はじめ大勢の仲間が参加する。大雨に負けず、最後まで頑張ってほしい。 そして、私はバスツアーで栗駒山へ登山に行く。大雨でも決行するようだが、5時間の縦走に耐えられるかどうか。風邪気味の妻は、急遽参加を見合わせるかどうかを検討中。今回の雨中の登山で、果たしてどんな体験が出来るのだろう。
2010.10.09
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先日、久しぶりに病院で診察を受けた。いつもは診察券を出し、血圧降下剤だけもらってくる。だが、血圧は安定していても3か月に1回はドクターの診察を受ける必要があるのだ。「さすがのAさんでもこの夏は大変だったでしょ?」。ドクターが私に尋ねた。「そんなことはないですよ。7月、8月と過去最高距離の走り込みをしました」。 驚いているドクターを尻目に私は続けた。「エコーライン越えなど3つの峠越えをしましたよ。そして先月の終わりには秋田で100km走って来ました」。私が走っていることを知ってるドクターも唖然とした様子。だが、ウルトラランナーにとって、そんなことはさほど特別なことではないと思うのだが。 今日は仕事の帰りにツーリストへ寄り、旅行代金の一部を支払って来た。対応してくれたのは顔馴染みの女性社員。彼女も私がランナーであることを知っている。だが、一昨年の「沖縄本島西海岸縦断」と昨年実施した「東海岸縦断」の話をすると、絶句していた。「ハブの恐怖と戦いながら1日14時間以上走る」と言った時のことだ。 今回の内容はそれらに比べれば平和そのもの。初日は南部の道を30km走って3年越しの「沖縄本島1周」を完成させ、翌日は「NAHAマラソン」で42km走るだけだからだ。ただ12月初旬の沖縄は、東北のランナーには初夏の気候。それが那覇空港到着の2時間後にはいきなり30km走るのだから、本人も少し心配ではあるのだが。 先日「秋田内陸」を共に走ったT田さんからメールが送られて来た。彼らの仲間であるK彦さんが、そのレースでウルトラマラソン50回完走を果たしたことが掲載された地元紙の記事が添付されていた。その中には250km超級のレースも幾つか含まれているので、大変な記録だと思う。K彦さんの快挙に心から拍手を送りたい。 因みに私のウルトラレースはまだ43回だ。その中には50kmのレースもあるし、100kmレースでリタイヤ(80km付近で2回)したものも含まれていて、完走は40回のはず。そしてフルの完走は45回。3回のリタイヤはこの中には含まれていない。 今朝は自転車で通勤中に、ランニング中のM仙人と遭った。「秋田」では11時間台で楽々完走した仙人は70歳。近く「チャレンジ賞」の賞品である米3kgと日本酒が大会本部から届く予定とのこと。彼は明後日のハーフマラソンにも出場する由。さすがは仙人、強靭な肉体だと感心したのだが、まだ幾分疲労が残っているとか。人間的な一面があったと知り、ちょっぴり安心した私だった。 私は最近良く昼寝をしている。勤務中はさすがに居眠りは出来ないのだが、帰宅して昼食を摂った後は眠気が我慢出来なくなる。目が覚めると1時間から1時間半ほど経っているので、昼寝の範疇を越えているのかも知れない。毎朝早く起きるため、これで案外バランスが取れているのだろう。 体験的に見れば、ウルトラランナーの体力は普通の人に比べれば並外れたものがあるように思う。そんなウルトラランナーにもいつか「賞味期限」が迫る。精進を重ねて少しでもランニング生命を延ばす努力を続ける一方、健康に対する過信は避けたいと思う。70歳まで100kmレースに挑戦し続けること。それを当面の目標にして励みたいものだ。
2010.10.08
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中国の漁業監視船がようやく尖閣諸島の日本領海付近から立ち去ったと言う。中国国内のほとぼりが少し冷めて来たのか。それとも菅総理と温家宝首相との「廊下会談」の成果が表れたのか。それでも中国ではあれは「会談」ではないとの扱いのようだし、東シナ海の海上基地からは「炎」が出ていると言う。ひょっとしたら日本との協議を破って、既に採掘を開始しているのかも知れない。 いずれにしてもあの国はとても信用出来る近代国家とは言えないように思う。巨大な国土と多数の少数民族。それを漢民族が権力で支配する構造は危険に満ちているし、国内の不満を国外へ向けさせる手法は、近隣諸国には迷惑至極としか言いようがない。ギリシャの国債を大量に購入して支援するなどの戦略を着々と実施する中国。今後の動向に注目だ。 一方、北朝鮮では三代目のお披露目があったようだ。謎に包まれた金正一の3男金正恩がようやく報道陣の前にその姿を現した。容貌は祖父の金日成に酷似し、性格は父親に似ていると言う彼は、まだ20代の若さなのにメタボ体形であることが一目瞭然。国民からは既に「チビ大将」のあだ名が付けられたとか。 長男の金正男が滞在していたマカオから姿を消したとも伝えられているが、長男や次男を担いでの権力闘争が勃発する可能性もある由。今後どのような事態になるか皆目見当がつかない。チビ大将の登場が果たして「吉」と出るかどうか。 ノーベル化学賞が2人の日本人に授与されたとのニュースは久々に明るい話題だった。共に米国パデュー大学で有機化学を研究した同窓とは奇遇。亡き恩師は生前、2人をノーベル化学賞候補に推薦すると話していたそうだ。彼らが開発に成功したクロスカップリングは、現在「液晶画面」とか各方面で実用化されている由。 北海道大学名誉教授の鈴木章氏は80歳で、パデュー大学特別教授の根岸英一氏は75歳。ノーベルは若手の研究者に賞を与えたいと願っていたようだが、それにしては受賞者の年齢が高過ぎるように思う。さて、日本人のノーベル賞受賞者は合計18名。さすがの中国も到底追いつけないだろう。今回の受賞が日本の国威向上につながることを祈りたい。 今季は6位と低迷した我が東北楽天。あまりの無残さに試合を観に行く気さえ起きなかった。オリックスとの開幕戦では、少なくても2勝1敗で行けた試合がブラウン監督の強行策で3連敗。あれですっかり勢いを失い、それ以降1度も勝率5割に達しないまま終わってしまった。 シーズンの終盤には、田中マー君始め相次ぐ中心選手の怪我で泣き、リンデンは監督批判により途中解雇される始末。シーズン終了後には監督の解任、中村紀、小坂、憲史などへの戦力外通告、福盛の引退と続いた。あの成績でKスタの入場者が激減し、おまけにエース岩隈が大リーグへ去ると言う、ファンにとっては暗いニュースも。 やはり野村監督の解任が早過ぎたのだと思う。球団もこの事態を重く観、新監督の人選に乗り出した。目下進めているのが阪神の星野SD。既に三木谷オーナーが阪神球団に割愛を申し入れ、ペナントレースが終了する今日辺りから本人と交渉を開始するとか。北京オリンピックでメダルを逸し、批判を浴びた彼にとっては名誉挽回のチャンス。実現する確率は高そうに思う。果たして来年は楽天が強くなって、ファンを球場へ呼び戻せるだろうか。
2010.10.07
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キンモクセイが匂っている。萩の花が雨に零れる。シュウメイギクは鮮やかに咲き、コムラサキとウメモドキの小さな実が光る。そして例年なら秋分の日辺りに咲く彼岸花が、今年は2週間も遅れて、炎のような花を咲かせている。「秋田」の完走記を書いているうちに、いつしか季節は秋になったようだ。 少し前のこと、白菜や大根を間引きし、追肥した。その際2度目に蒔いた白菜の苗より、間引きした方が大きかったため、何本かを移植した。その白菜が次第に大きく育っているのが嬉しい。間引きをすると青虫の被害が直ぐに判別出来て良い。 密集していた大根、白菜、小カブはかなり青虫に食われていた。そのうち大根と白菜は間引きで勢いを取り戻したが、小カブの成長は著しく停滞してしまった。それらはシジミチョウの幼虫による被害なのだが、クチナシやアシタバ、三つ葉にはアゲハの幼虫が食べた痕跡が著しく、間もなくさなぎになると思う。 イチジクを枝から10個ほどもぎ、妻がワイン煮を作った。ポリフェノールがたくさん含まれているワイン煮を、毎朝カスピ海ヨーグルトに混ぜて食べる。何が悪かったのか、そのヨーグルトが最近上手に固まらなくなった。少し緩めのヨーグルトだが、何でも美味しく食べられる私には何の問題もない。 生協から届いたリンゴは身が軟らか過ぎてモサモサだった。妻が電話で苦情を言ったら、届いたのはまた同じようなリンゴだった。軟らかいリンゴが嫌いな妻に代わって、私だけがせっせと食べている。裏庭の柿の実がほんのり色づき出した。 さて、時間内完走が果たせなかった先日の「秋田内陸100kmマラソン」だが、「チャレンジ賞」は良く考えてあると感じた。ランナーが普通65、6歳辺りから衰えることを主催者は知っているのだろう。だからこそあの賞は値打ちがある。もちろん例外はあって、強いランナーは13時間以内でも楽々完走出来るのだろうが。 先週末は妻と買い物をし、映画を観た。買ったものは登山用のザックカバーとスパッツ。前者は雨の時にリュックをカバーするもので、後者は脚の汚れを防ぐものだ。次の日曜には妻と2人で栗駒山に登る予定なのだが、どうやら雨になりそうな気配だ。 今回観た映画は「悪人」。前から観たいと思っていたのだが、その前に主演の深津絵里がモントリオール映画祭で最優秀女優賞を受賞すると言うおまけが付いてしまった。主演の男優は昨年の大河ドラマ「天地人」で一躍有名になった妻夫木聡。これがテレビとは打って変わって、陰のある青年を見事に演じ切っていた。 深津絵里の方は今回の映画で初めて知ったのだが、どことなく面影が小柳るみ子に似ていると感じた。殺人事件と逃亡劇がストーリーの中心。濃厚なベッドシーンが何度か出て来たのにはビックリ。隣の席の婆さんも、その時は息を潜めて凝視していたようだ。 ようやくランニングを再開したものの、まだ体の奥に疲労が残っている感じ。左目からの出血も少し気になるところ。猛暑時の疲れが今頃になって出たのだろうか。今朝バスの中から、O川さんが走っているのを発見。「佐渡島一周」で怪我したと聞いて心配していたのだが、再び走れるようになったようでとても嬉しい。良かったねO川さん!!
2010.10.06
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< 「指輪運搬人」の願い > 「秋田内陸」から帰宅後、私はまるまる1週間走らなかった。それはいつもの100kmレースより30分も速く走った自分への「ご褒美」でもあった。帰宅の翌日には旅行会社へ行った。12月の「NAHAマラソン」への飛行機がかなり混んでいるとM井さんに教えてもらったせいもあるが、その日が給料日だったからだ。色んな経緯はあったが、最終的には希望する便を格安で確保することが出来た。 10月に入って直ぐ、来年1月にある「勝田マラソン」のエントリーと支払いも済ませた。「アンケート調査」が実施されたスタート時間が11時前に変更された場合は、当日の列車では間に合わないため前泊せざるを得ないだろう。ようやくランニングを再開したのは先日の日曜。23kmのコースを走ったのだが、まだ脚に疲れが残っているように感じた。 一方レースの完走記は、帰宅の翌日から書き始めた。無我夢中で走ったことや、大勢の仲間と一緒に宿泊したこともあって、いつもならレース中の出来事をその日のうちにメモする作業が今回は出来なかった。このため細部の記憶が定かでない部分もあったが、何とかレースの模様を再現出来たように思う。 さて、レース翌日のことについても若干書き加えて置きたい。仙台に帰る朝、私はいつものように4時過ぎには目が覚めた。旅館の玄関ホールに行き、届いていた地元紙を広げると、前日のレースの写真が載っていた。何と写真の中央には懸命に走るM仙人の姿があった。70歳の彼が車中泊でレースに臨み、見事11時間台で完走したことを仲間から聞いていた。来年は「エベレストマラソン」に挑戦する彼の強さを、改めて知らされた思いだ。 朝食前には6人で角館の武家屋敷を観に行った。当初は旅館の周辺をブラブラ歩くだけの予定が、急遽F田長老が車を出してくれたお陰で、レース直後に通ったコースを検証することが出来た。そしてコースを外れた部分にも何軒かの武家屋敷が点在することも分かった。喧しい現代で江戸時代からの古い家が残る街はとても貴重な存在だと思う。 朝食を終えて帰途の途中、女性軍は武家屋敷見学に寄った。その間に私達は「秋田内陸鉄道」角館駅隣の物産館でお土産を買った。私が選んだのは秋田名物の「もろこし」。角館名物の「焼き饅頭」と「武家屋敷煎餅」など。いずれも値段が安い割には量も内容も立派なもの。道の駅では「ナメコ」の徳用袋も買った。きっと妻も喜んでくれるはず。 帰路は東成瀬村を通り、岩手の須川温泉経由だった。須川温泉で昼食を摂り、「栗駒道路」から開通したばかりの国道398号線へ出た。私はこの間、窓の外を食い入るように見つめていた。この夏3度走った峠越えだが、このコースも来年以降の候補に入っていたためだ。だが私の予想を覆すほど地形は厳しかったし、人家が全く見えなかった。もし実行となれば、水や食料の確保には苦労するはず。 外の眺めに注意していた2つ目の理由は、「岩手・宮城内陸地震」で生じた災害からどれくらい復興が進んだのかを自分の目で確かめるためだった。道端の断崖には生々しい修復の痕が残り、山腹に大きな土砂崩れの残る個所もあった。付け替えた道路や補強した橋梁。崩壊したと言う「花山御番所」の石垣も元通り積み直されていた。あの辺鄙な道が、宮城と秋田の山間部をつなぐ大切な生活道路だったとは。 その車中で、背中に「指輪運搬中」と書いたシャツを着たランナーをレース中に観たと、M井さんが話してくれた。彼が不思議に思って尋ねると、青年はゴールで待っている彼女に手渡す「婚約指輪」を持って走ってると教えてくれた由。何とか完走して、自分の想いを彼女に伝えたかったのだと思う。 ところが「その青年がレースの途中で吐いているのを見たよ」とY田さん。誰も同じ条件だが、13時間で100kmを走らなければならない「秋田内陸」のコースは、決して容易に走破出来るものではない。果たしてその青年が、無事彼女に指輪を届けられたかどうかは分からない。 色んなドラマがあった5年ぶりの「秋田内陸」。その完走記を8回に亘ってようやく書き上げることが出来た。長い間のご愛読を心から感謝し、本編の結びとしたい。<完>
2010.10.05
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< ゴール後に待ち構えていたもの > 声の主を探す余裕はなかった。タイムアウトにはなったけど、私はまだ戦いの最中なのだ。偶然にもその光景をM仙人とKさんがマイクロバスの中から見ていたそうだ。2人は入浴の帰りだった由。最後の力を振り絞り、両手を挙げてゲートに飛び込む。スタッフの女性が飲み物をくれた。だがいつも首に掛ける「完走の証し」が今回はなかった。 興奮が治まらない私を待ち構えていたのは、地元放送局の矢継ぎ早のインタビュー。「時間内にゴール出来なかったですけど感想は?」。「来年も出場しますか?」。「悔しいので必ず来年はリベンジします!!」。きっと放送局の人はそんな答えを期待していたのだろう。 だが私の答えは違った。「自分なりに全力を尽くしたので、とても満足しています。来年のことまでは考えてません」。これでは何の面白みもないだろう。だがそれが私の偽らざる心境だった。インタビューが終わると、北海道のH賀さんが私に手を差し延べた。この感激を古川組の仲間に伝えてくれると言う。 「完走証」発行コーナーで「時間外完走」を告げると、「認定書」に100kmとだけ記載してくれた。やはり正式の完走とは扱いが違う。ゴール後の騒動で正式なタイムは不明。多分13時間を30秒ほど過ぎた辺りだと思う。体育館で荷物を受け取り、男子用トイレで着替えを済ます。それから重たい脚を引きずり「テント村」へ行った。 とてもビールを飲めるような状態ではない。まずウーロン茶を飲み、うどんをもらう。これは4分の1ほど残した。次に引き替えたおでんも、卵やこんにゃくは食べられなかった。最後のASと2か所の給水所はパスし、必死に走った。100kmの疲労で、まだ胃が正常に働かないのだと思う。そしてうどんの汁が酸っぱく感じたのは、体内のイオンバランスが崩れたことによる味覚障害のせいだろう。 ゆっくりとしか食べられなかったせいで、集合時間に気づくのが遅過ぎた。「南仙台走友会のAさん。至急本部テントまでお越しください」。スピーカーから私を呼ぶ声。「あっ、しまった!」。急いで駆け付けるとKさんが待っていてくれた。そして宿のマイクロバスへ。私が時間切れで完走したことは既に伝わっていたようだ。車内に入ると、皆が拍手で迎えてくれた。 マイクロバスは真っ暗な道を、角館まで100km戻る。コースの途中で見た走友会の横断幕と、宮城UMCの旗を回収。その後寄ったコンビニでビールと夜食の巻き寿司を購入。寒気と胃の調子がようやく治まったため、1人缶ビールで祝杯。宿のご主人が「道路をクマが横切ったよ」と教えてくれた。ウルトラレースが一段落し、ようやくクマも安心して出て来たのだろうか。 それにしても、後30秒タイムを短縮する余地はあったのだろうか。スタート時のロスは仕方ない。給水給食のロスも最低限のものだった。途中のトイレも不可抗力。ペース配分もあんなもの。問題は最後の赤信号4か所。あれで一体どれくらいロスしたのだろう。制限時間を後30分延ばしてもらえたら最高だが、鷹巣市街での交通規制をもう少し何とかしてもらえると嬉しい。もちろん自分の走力アップが一番なのだが。たかが30秒。されど30秒。 宿での入浴後、何人かがS村さんの部屋へ集合した。S村さん提供のワイン、M井さん提供のビールとつまみで、夜遅くまで懇親会が続いた。残念ながら時間内完走とチャレンジ賞受賞は果たせなかったものの、自分の力は何とか出し切ったと思う。来年のことは分からないが、多分また挑戦することになるのではないか。疲労とアルコールが効き、私はようやく安眠して翌朝を迎えたのだった。<続く>
2010.10.04
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< 2度目の花火 > 田圃の中の一本道は遮るものがない。風が吹けば風に苦しめられ、太陽が出れば暑さに苦しむ。だが今日のこの道はとても穏やか。風もなく、気温も心地良い程度で助かる。問題はゴールまでに残された時間だけ。取り敢えず次の第5関門を通過出来れば、一応ゴールまでは走ることが出来る。 「完走出来ますかねえ」。抜きながら声を掛けたのは沖縄出身のY良ちゃん。確か彼には50kmも前に抜かれたはず。「そのスピードなら大丈夫だよ。でもどうしたの?」と尋ねたら、20分間どこかで寝ていたのだとか。いかにも南国の男らしい話に頬が緩む。だが、歩道は小さな段差ばかりで、躓かないよう注意が必要だ。 所々で稲刈りが進む田圃。その遥か先の山影に次のASがある。ほとんどのランナーが疲れて歩いている。その無言の行進の脇を、スピードを上げて走り去るランナー。彼らは時間内完走を目指す人だ。ここであのスピードが出せるのは、普段から練習を積みペース配分がしっかりしてるランナーだけ。残念だが私にはその力がない。今はキロ7分ちょっとのスピードがせいぜい。 ようやく1本道の終わりが近づく。右折して坂道を登りかけた所が最後の関門だと思っていた。もしそうなら完走は可能だろう。だがそこは関門ではなく85km地点の普通のASだった。ガッカリしたが、ここで落ち込んでいる暇はない。果物を素早く掴み、食べながら坂道を登る。 やはり5年間のブランクは大きい。脚も衰えたが肝心な個所の記憶がなかった。坂を登って左折すると、旧合川町の街並み。ここでようやく記憶が蘇る。合川駅前を通過し間もなく右折。登り坂の手前に最後の第5関門。ここからゴールまでの距離は約11km。そして私に残された時間は1時間14分。完走出来るかどうかのギリギリの線。ここから坂道が幾つか続くため、厳しい戦いになるだろう。パンを食べながら必死で登る坂道。 最初の坂道はクリヤー。道路脇の距離表示がゴールまでの残りの距離に変わる。1kmずつ数字が減るのが嬉しい。秋田内陸鉄道の踏切を過ぎると2つ目の坂が目の前に。ここは緩い代わり距離がやたらと長い。ペースを守って辛抱のランニング。F士さんに抜かれたのは坂の途中だった。あの調子なら完走は間違いないだろう。 坂を登り切ると今度は下り。橋のたもとの水飲み場には寄らず、北秋田空港の地下道へ。後から追いすがるランナーを振り切って爆走に次ぐ爆走。「残り5km」の標識がなかったが、距離は変わってないはず。地下道から外へ出、お巡りさんの誘導で信号を渡る。 ここから米代川の橋までは長い下り坂。元気ならタイムを稼げる場所なのだが、脚が伸びない。その時猛烈な勢いで抜いて行った女子ランナー。あれはO友さん。確か30kmほど前で抜かれたはず。膝の故障で長いブランクがあった彼女だが、残り4kmからロングスパート出来る力が残っていたとは。 無理に着いても最後まで持たない。私はラスト1kmからのスパートに全てを賭けていた。遥か前方に鷹巣の町と広大な秋の田圃。そしてその向こうに美しい八甲田の山々。5年ぶりの懐かしい風景だ。米代川の堤防を少し走り、橋を渡る。残り2km。夕暮れで足元が良く見えなくなって来た。歩道の状態が悪いここでは無理が出来ないと判断。 鷹巣の商店街に入ると、お巡りさんが「残り1.1km」と教えてくれた。最後の力を振り絞ってスピードを上げる。ペットボトルは捨てた。明るい街中は応援する人が大勢いた。スピーカーで名前を呼ばれる。「宮城県のAさん、お帰りなさい」。思わず涙が出そうになったが安心は出来ない。時間はギリギリのはず。 「大丈夫、まだ間に合うよ!!」。誰かが叫んだ。思わず時計を見ると、確かに間に合いそうな感じ。「これは奇跡的な完走か」と一瞬喜んだが、間もなく厳しい現実が待っていた。信号が進む度に赤なのだ。「ええっ!?」と驚く。貴重な時間がどんどん減って行く。2つ目の赤信号で「もう駄目だ!」と叫ぶ。「ゴールまでギリギリなんだけど」。4つ目の赤信号で思わず声を上げると、お巡りさんが「青」に切り替えてくれた。 最後の街角を右折するとゴールは間近。何とか間に合わせようと懸命のダッシュ。その時、上空で花火の音がした。この日2回目の花火を、私は歓迎の合図とばかり思っていた。だが、大太鼓の音が聞こえない。花火は制限時間に達した合図だったのだ。第20回記念大会は無情にもゴール目前で終わった。「Aさ~ん!」。Eちゃんの声が聞こえた。<続く>
2010.10.03
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< ようやく80kmを突破 > コースの右手に森吉山が見え出したのは、どの辺りからだったろう。標高1454mの美しい形をしたこの山は県立自然公園に指定され、登山やハイキング、キャンプなどで人気があるようだ。もう直ぐ旧森吉町に入るころ、視覚障害者を伴走する「バルタン星人」に抜かれた。ここまでかなりスローペースだったことに驚く。だがスピードを緩めず、そのままゴールを目指して走り去る彼ら。ベテラン同士の見事なペース配分だった。 68.6km地点の第13AS付近でS木さんの奥様が立っていた。「Aさ~ん」と私の名を呼び、「ずいぶん遠くまで来ましたね」と感想。「ええっ?」と内心驚く私。これでもゴールまで行けるかどうかのギリギリなんだけどなあ。それにしても25km辺りで抜かれたS木さんはまだ来てないのだろうか。それを聞けないまま通り過ぎた。 所属する「南仙台走友会」の横断幕を発見したのは70km地点。「ええ~っ、こんな所に何故?」と思ったが、これは何よりも嬉しい激励だった。後で聞いたら旅館のご主人がわざわざ張りに来てくれたのだとか。コースの右側には「宮城UMC」の旗もあったようだが、それには気付かなかった。 高低図には表れない小刻みなアップダウンが続く。これが案外厄介で、疲れたランナーを苦しめる。ちょっとした坂道でも歩き出すランナー。この辺りからは、黄色いゼッケンの50kmの部の歩いているランナーをドンドン追い越す。彼らはまだ20kmしか走ってないのになあ? 78km地点は坂の手前。8年前にブログ仲間のらむ・かなさんと一緒にリタイヤした思い出の場所。お猿のぬいぐるみを着た彼は体調不良で、私は疲労骨折の後遺症で足が痛み、敢え無くバスに収容された。そして翌年は再び81kmの関門に捕まった2人だった。私はまだ疲労骨折の後遺症に苦しんでいたのだ。 その第16ASにようやく着いた。ここは元森吉町の役場があったところ。そして4つ目の関門が置かれた場所でもある。ASに近づくとスタッフの人が冷たいタオルを手渡してくれた。それで汗ばんだ顔や腕を拭う。ふう~っ。気温は20度で暑くはないが、久しぶりに生き返った感じだ。 素早くエネルギーと水を補給してスタート。ゴールまで後19kmほど。そして私に残された時間は約2時間30分。これからドンドンスピードが落ちるため、これでも自分にとってはかなり厳しいレースが続くはず。兎も角次の関門を突破出来るよう頑張るしかない。療養所の前で応援してくれるお年寄り達に声を掛ける余裕はもうない。ただ手を挙げてそれに応えるのが精一杯だった。 それにしても国道へ出るまでが長い。裏道がこんなに長かったことを5年ぶりのランナーは思い知った。ようやく見覚えのある洋館を発見。この珍しい建物は「浜辺の歌音楽館」。この地で生誕した作曲家成田為三を記念する博物館だ。「かなりや」や「浜辺の歌」の美しいメロディーを一度は口ずさんだことがあると思う。特に「浜辺の歌」は私が好きな歌だった。 間もなく国道へ出、阿仁川に架かる橋を渡る。国道105号線はそのまま鷹巣へ直進するが、私達は左折して県道2号線を旧合川町方面に向かう。いよいよ田圃の中の長い長い一本道の始まりだ。あの単調さにどれだけ耐えられるのか。<続く>
2010.10.02
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<9月のランニング>走行回数:16回(うちレース1回)走行距離:256km<9月のウォーク>回数:毎日距離:156km(職場での80kmを除く)<9月の合計>412km<2010年の累計距離>3619km(うちラン:2225km)<これまでの累計>73,653km
2010.10.01
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< 峠と北緯40度を越えて > 急な坂道にも次第に慣れて、ゆっくりだが再び走れるようになった。気温が低いためか、脚に痙攣が起きないのが嬉しい。そして二重に見えて苦しかった目も、どうやら落ち着いてくれたようだ。声を出しながら登って行くうちに、峠の様子を思い出す。「いわて銀河」のメリハリのある峠に比べれば、ここ大覚野峠の登りは短くて楽。 間もなく頂上部のトンネルが見え出す。ここは標高560mほど。崖崩れ防止用のトンネルを2つ潜ると下り坂。ここから北秋田市に入る。合併前の名前は阿仁町。国道に沿って阿仁川の深い峡谷が続く。急激な下りは脚に来るので要注意。調子が良かった数年前まではスピードを出して下れたが、今は慎重に行くしかない。 42km地点の第8ASでトイレ休憩。数キロ前からどうも腹の調子がおかしかった。そのまま我慢することも考えたが、後々のため思い切ってトイレに入ったのだ。やはり判断は正しかったようで、事後腹具合に悩むことはなかった。水を飲んで再び坂を下る。 49.7km地点の第9ASが第2関門。ここの関門閉鎖は12時30分だが、私が着いたのは11時18分。何も預けてないため、十分時間はあった。だが腹ごしらえをしようにも、肝心の味噌汁がない。本当はここで味噌汁に小ぶりのお握りを入れてかき混ぜ、「猫マンマ」にして食べる積りだった。短時間で食べられ、しかも塩分補給が出来て一石二鳥なのになあ。 どのASでも食べ物が5年前より画一化され、貧弱になっていた。きっと広域合併が進んで市町村の数が極端に少なくなり、大会への補助金が大幅に減ったのだろう。果物、お握り、パンをそそくさと食べ、ペットボトルに水、アミノバリュー、アスリートソルトを補充。スタートは11時25分。残り50.3kmを6時間35分で走れば完走出来ると素早く計算。 56km地点の笑内(おかしない)に着く手前で、確か仙台明走会のG島さん、F士さんに相次いで抜かれたように思う。背中のゼッケンの余白に「仙台マックス爺」とマジックで書いていたが、それを見て何人かのランナーが話しかけて来た。青森の方は、時々私のブログを見ている由。またある人は「誕生日が一緒ですね」と言ってくれた。結構ブログの隅々まで見てるんだねえ。 付近には上桧木内や比立内など「内」がつく地名が多い。「ナイ」はアイヌ語で「小さな沢」と言う意味だったはず。宮城UMC3熟女の1人、K村さんを抜いたのはこの辺りだったか。いつもは歩くような速度の彼女が、スピードランナーに変身していた。「秋田」に寄せる想いの深さが伝わって来る。 山道への迂回路入口で、暫く前に抜かれたF田、H多の両先輩に遭遇。頑張った70歳コンビもどうやら疲労が出だしたようだ。長老達にエールを送り1人先行。2kmの間に60mほど登る小高い山があり、歩くランナーが目立つ。その横を歌を歌いながら走って登る。曲は「ゲゲゲの女房」の主題歌の「ありがとう」。例え「から元気」でも、歌が出るうちはまだ大丈夫。 60km地点で腕時計を見ると、中間地点での「貯金」が減っていた。再び国道へ出、萱草大橋を渡る。間もなく左折して阿仁合(あにあい)の集落へ。ここの私設ASで名物の「シソジュース」を2杯いただく。100mも行かない所に64.4km地点の第12AS。ここが第3関門で閉鎖時間は14時。貯金がさらに乏しくなった。 国道へ出ると、目の前に急な登り坂。ここは数十mなので歩いてもさほどロスはない。坂を登り切ると左手に「阿仁異人館」と「伝承館」。明治期には鉱山があり、外国人技術者が住んでいた由。「北緯40度」のゲートでは、待ち構えるカメラマンの前に両手を広げて飛び込む。間もなく65kmの標識。ゴールまで残り35km。本当の戦いはこれからだ。<続く>
2010.10.01
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