2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全28件 (28件中 1-28件目)
1
人間はみな不完全なので、ねたみの気持ちと闘うには精力的で継続的な努力が不可欠である。「互いを敬う点で率先しなさい」と聖書が述べているのを知っているのと、それを行なうのとは、全く別の事柄である。パウロは罪に向かう傾向が自分にあることを認めており、その傾向と闘うために「自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行か」なければならなかった。(Ro 12:12. 1Co 9:27)わたしたちにとってそれは、他の人と張り合おうとする考えをはねのけ、そのような考えを積極的な考えに置き換えることを意味するかもしれない。「自分のことを必要以上に考えない」よう、神に助けを求めて祈る必要があるのである。-Ro 12:3. 聖書の研究と黙想も助けとなる。例えば、神の約束しておられる将来のパラダイスについて考えてみていただきたい。その時、すべての人が平和を楽しみ、健康で、豊かな食物と住まいとやりがいのある仕事を得る。(詩編 46:8、9;72:7、8、16。イザヤ 65:21-23)他の人と張り合おうとする人がそこにいるだろうか。恐らくいないだろう。そうすべき利用がないのである。確かに、その時の生活がどのようなものかについて神は細かな点すべてを明らかにしておられるわけではない。しかし、すべての人が、興味をそそる分野で何かを学んだり技術を磨いたりすることができるに違いない。天文学を学ぶ人もいれば、美しい織物を作る人もいるだろう。どうして他の人をねたんだりするだろうか。仲間の活動は刺激になっても、いら立ちの原因にはならないはずである。そのような気持ちは過去のものになるだろう。 そのような生活を願っているのであれば、今、同じ態度を培うよう努めるべきではないだろうか。今日一部の人たちはすでに霊的パラダイスを享受し、周囲の世界に見られる多くの問題から解放されている。神の新しい世では競争心などなくなるのであるから、今それを避けるのは確かに賢明なことである。 では、自分を他の人と比較するのは間違っているのだろうか。ふさわしい場合もあるのだろうか。ふさわしい比較 他の人と比較すると苦々しく思ったり落ち込んだりすることがよくある。しかし、いつもそうとは限らない。この点に関して、使徒パウロが、「信仰と辛抱とによって約束を受け継ぐ人々に見倣う者となる」よう勧めていることに注目することができる。(Heb 6:12)Jehovahの古代の忠実な僕たちが持っていたような特質を培おうと努めるなら、豊かな報いを得る。確かに、それには多少の比較が伴うかもしれないが、見倣うことのできる模範や改善の必要な分野を知る助けとなる。 ヨナタンという人物について考えてみることができる。ヨナタンはある意味で、ねたみを感じても無理のない立場にあった。イスラエルのサウル王の長子として、自分が王になることを期待したこともあったかもしれない。ところが、Jehovahがお選びになったのはヨナタンより30歳ほど年下の青年ダビデだった。ヨナタンは恨みに思うことなく、Jehovahによって王に指名されたダビデに無私の友情を示し、ダビデを支持した。(1Sa 19:1-4)ダビデをライバルとみなした父親とは違い、ヨナタンはJehovahのみ手が物事を導いていることを認め、神のご意思に服した。自分をダビデと比較して、「なぜわたしでなくダビデなのか」などとは考えなかった。 わたしたちもそのような精神態度が必要である。対抗心を持つのはふさわしくない。円熟した人を特徴づけるのは、協力の精神や一致や愛であって競争ではないのである。「愛はねたみの大敵」と社会学者フランチェスコ・アルベローニは述べている。「だれかを愛しているなら、その人にとって益になる事柄を願い、その人が成功し幸福であるときに自分も幸福に感じる」のである。 仲間のクリスチャンの優れた模範を称賛するのがふさわしいこともある。平衡を保ってそのようなクリスチャンと自分を比べるなら、その信仰に健全な仕方で倣うよう促される。(ヘブライ 13:7)しかし注意しないと、見倣おうとする態度が競争に変わることもある。ある人を称賛したものの、その人に引けをとったと感じて、けなそうとしたり批判しようとしたりするなら、見倣おうとする態度はねたみというレベルにまで低下してしまうだろう。 不完全な人間はだれも完璧な手本とはならない。であるから聖書は、「愛される子供として、神を見倣う者となりなさい」と勧めている。そして、「キリストはあなた方のために苦しみを受け、あなた方がその歩みにしっかり付いて来るよう手本を残された」とも述べている。(Eph 5:1、2.1Pe 2:21)愛、温かさ、同情心、謙遜といった、Jehovahやイエスの属性こそ、わたしたちが倣おうと努めるべきものである。時間を取って、お二方の特質や目的や物事の行ない方について自分と比べる必要がある。そのような比較は、生活を豊かにして確かな指針や安定性や安心感を与え、円熟したクリスチャン男女の丈の高さに達するための助けになる。(Eph 4:13)お二方の完全な模範に倣う点で最善を尽くすことに努力を傾けるなら、自分を他の人と比べようとはあまり思わないだろう。
2005年02月28日
コメント(0)
『わたしは聡明だろうか。魅力的だろうか。有能だろうか。健康状態は良いだろうか。威厳があるだろうか。好かれているだろうか。どの程度そうだろうか』。わたしたちが鏡の前に立ってこのような事柄について考えることはほとんどないかもしれない。しかし、ある著述家によると、「人は言葉には出さないものの、そのような事柄についてふと考えることがよくあり、ある程度満足できる答えを心の中で出して」いる。自分に何ができるかよく分からないという人が、競争心やねたみの気持ちなど少しも抱かずにそのような事柄を思い巡らす、ということもある。それは単に自己評価をしているにすぎず、必ずしも間違ったことではない。とはいえ、正しい自己評価の方法は自分を他の人と比べることではないのである。 さまざまな要因により、わたしたちの能力は異なっている。自分よりも何かを上手に行なえるように見える人は必ずいるはずである。であるから、そのような人をねたましげに見るよりも、自分の行ないを神の義の規準に照らして評価する必要がある。その規準は、何が正しくて良いことかを知るうえで確かな導きとなるからである。創造者である神はわたしたちが個人としてどのような者であるかに関心をお持ちである。わたしたちを他のだれかと比較する必要はないのである。使徒パウロはこう助言している。「各人は自分の業がどんな者かを吟味すべきです。そうすれば、他の人と比べてではなく、ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう」。-ガラテア 6:4。
2005年02月27日
コメント(0)
他の人と比較して自分が“勝者”になろうとする人は、競争心を表わすことが少なくない。他の人より優れた者になりたいという気持ちがあり、そうなったと思うまで満足しない。そのような人のそばにいるのは心地よいことではないだろう。その人との付き合いには緊張が伴い、関係も張り詰めたものとなる。そのような人たちは多くの場合、謙遜さが欠けているだけでなく、仲間を愛するようにという聖書の助言を当てはめ損なっている。その人たちの態度は、他の人に劣等感や屈辱感を抱かせやすいからである。-Ma 18:1-5. Joh 13:34、35. 他の人に“敗者”だと感じさせるなら、ある意味でその人を傷つけることになる。一人の著述家によると、「自分が欲しいと思っているものを自分と同じ状況にある人が手に入れたように見えると、自分がそれを得ていないことをなおさら辛く感じ」る。競争心があると、他の人の持ち物や物質的繁栄、地位、評判、優位性などのゆえに、その人に対しねたみやそねみ、怒り、悪感情を抱くようになる。結果として、競争は激しくなるという悪循環を招く。聖書は、「競争をあおる」ことを非としている。-ガラテア 5:26。 ねたみを抱く人は、競争相手の成し遂げた事柄を悪く言うことにより、傷ついた自尊心を守ろうとする。そのような反応はささいなことに思えるかもしれないが、気づいて抑えないなら、悪意のある行動に至りかねない。聖書中の二つの事例からこのねたみについて考えてみる。 イサクはフィリスティア人の中で住んでいた時、祝福されて「幾つもの羊の群れと牛の群れ、また大勢の僕たちを持つようになった。そのためフィリスティア人は彼をそねむようになった」。そして、イサクの父アブラハムの掘った井戸をふさいで対抗し、フィリスティア人の王はイサクにその地域から出て行くよう求めた。(創世記 26:1-3、12-16)彼らのそねみは悪意に満ちた、破壊的なものだった。自分たちの中でイサクがそれ以上繁栄するのを我慢できなかったのである。 何世紀か後のこと、ダビデは戦地で目覚しい働きをした。イスラエルの女たちはダビデの功績をたたえ、「サウルは千を打ち倒し、ダビデは万を」と歌った。サウルはある程度称賛されたものの、そのような比較を自分への侮辱と受け取り、心の内でねたみを抱くようになった。その時以降、サウルはダビデに対する敵意を募らせていった。すぐにダビデを殺そうとし、その後も繰り返し殺害を試みたのである。ねたみの感情からなんと邪悪な行為が生じるのだろう。-サムエル第一 18:6-11。 であるから、他の人の成し遂げた事柄や有利な立場などについて自分と比較してねたみや競争心に似た気持ちが生じるときは、用心したいものである。それらは有害な感情であり、神のお考えと相いれない。では、どうしたらそのような態度を避けることができるだろうか。その点を調べる前に、人が比較を行なう別の理由について考えてみよう。
2005年02月26日
コメント(0)
自分を他の人と比較することがあるのはなぜだろうか。比較は自尊心を保ったり高めたりする助けになる、というのが一つの見方である。人は他の人と同じ程度の成功を収めると満足感を覚えることが少なくない。別の見方は、他の人と比較することは、自分の能力で何ができるかや自分の限界がどの程度かを知り、自分に対する不安を和らげようとする試みである、というものである。わたしたちは他の人が成し遂げた事柄を目にする。いろいろな点で自分と似ている人が何かの目標を達成したなら、自分も同じような目標を達成できると思うかもしれない。 比較の対象となるのは大抵、同性の人、年齢の近い人、社会的地位が同程度の人、知り合いなど、自分と立場が似ている人である。自分と明らかに差がある人とはあまり比較しないだろう。言い換えると、十代の普通の少女が自分を学校の友達と比べることはあっても、一流のファッションモデルと比べることはあまりないし、ファッションモデルが自分を普通の少女と比べることはまずない。 比較はどんな点で行なわれるのだろうか。知性、容姿、富、服装など、地域社会で大切なものとされている所有物や特性であればどんな点でも、比較がなされることがある。とはいえ、自分が関心のある事柄に対して比較しやすいものである。例えば、切手収集に特に関心がない人であれば、知人の切手コレクションをねたんだりはしないだろう。 比較は人の内に、満足から落胆まで、あこがれや見倣いたいという気持ちから不安や敵愾心まで、実にさまざまな反応を生じさせる。そうした感情の中には、有害でクリスチャンの特質と相いれないものもある。
2005年02月25日
コメント(0)
自分よりも容姿の美しい人、人気がありそうな人、のみ込みの早い人、学校の成績が良い人に会ったことのない人が果たしているだろうか。ほかにも、自分より健康な人、満足のいく仕事を持つ人、社会的に成功している人、友人が多そうに見える人もいることだろう。その人たちはより多くの物やお金、より新しい車を持っているかもしれないし、自分より幸せそうに見えるかもしれない。わたしたちはそうした点で自分を他の人と比べるだろうか。比較してしまうのは仕方のないことだろうか。クリスチャンがそのような比較を避けたいと思うことがあるのはなぜか。どうすればだれとも比べることなく満足できるだろうか。
2005年02月24日
コメント(0)
ドイツのルーテル教会では、17世紀から18世紀にかけて敬虔主義という宗教運動が起こった。この運動の支持者の中には、その信条のゆえにあざけられたり、迫害されたりする人もいた。ある敬虔主義の学者たちは、フランクフルト・アム・マインの北約150キロにあるベルレブルクに逃れた。学者たちはそこで、宗教に深い敬意を払っていた地元の名士カジミール・フォン・ウィットゲンシュタイン・ベルレブルク伯爵の庇護を受けた。そのような伝道師や学者たちがベルレブルクにいたため、現在ベルレブルク聖書として知られる新しい翻訳聖書が誕生した。それはどのようにして作られたのだろうか。 保護を求めて避難した人の一人にヨハン・ハウクという人物がいた。ハウクは、地元の神学者の不寛容のゆえにシュトラスブルク(ストラスブール)の郷里を後にしなければならなかった。学識があり、有能な言語学者でもあったハウクは、べryれぶる区にいた仲間の学者たちに、「全く純粋な翻訳聖書を作り、ルターの訳を修正し、神の言葉の意味をその字句や精神に沿って正確に訳す」という真剣な願いを打ち明けた。(「ベルレブルク聖書の歴史」)目標は、注釈や解説の付いた、普通の人でも理解できる聖書を作ることだった。ハウクはヨーロッパの他の国々の学者たちにも協力を求め、この仕事に20年の歳月を費やした。ベルレブルク聖書の出版が始まったのは、1726年のことだった。広範囲にわたる注釈があったため、8巻に分けて出版された。 確かに、ベルレブルク聖書には幾つかの興味深い点がある。例えば、出エジプト記6章2、3節はこうなっている。 「さらに神はモーセに話してこう言われた。わたしは主である。そしてわたしはアブラハムに/イサクとヤコブに/十全な神として現れたが、わたしの名エホバによっては彼らに知られるようにならなかった」。注釈には、「エホバのみ名……取り分けられた名/もしくは/宣明された名」と記されている。エホバという神の固有名は、出エジプト記3章15節や34章6節の解説にも出ている。 こうしてベルレブルク聖書は、本文、脚注、解説のいずれかでエホバのみ名を用いている多くのドイツ語聖書の一つとなった。神の固有名にはふさわしい敬意が払われるべきである。そしてそのみ名に賛美と栄光の誉れが帰されるように祈ることはわたしたちを創造してくださった神に感謝するとともに主権は神のものであることを認めることの重要性を認識させるものなのである。
2005年02月23日
コメント(0)
杭につけられて処刑される犯罪者の苦しむ時間を短くするため、情けの一撃として脚を折るのは、ローマ人の習慣だったようである。ユダヤ人の依頼で、兵士たちはイエス・キリストの傍らの杭につけられた者たちの脚を折ったが、イエスがすでに死んでいるのを見た彼らは、イエスの脚は折らなかった。こうして、詩編 34編20節の預言が成就した。―Joh 19:31‐36.次の聖句を比較してみてもこのことが関係しており聖書が千年以上も前に書かれていたことと調和していることが理解できる。Ex 12:46; Nu 9:12.
2005年02月22日
コメント(0)
John 19:33、34.によると、『兵士の一人がイエスの脇腹を槍で突き刺し、すぐに血と水が出た』時、イエスはすでに死んでいた。しかし、Matthew 27:49、50.は、この時イエスがまだ生きていたことを示している。なぜこのような違いがあるのだろうか。 モーセの律法は、犯罪者を処刑用の杭に夜通し掛けたままにすることを禁じていた。(De 21:22、23)であるから、イエスの時代には、杭につけられた犯罪者が日暮れになってもまだ生きていた場合、死を早めさせるために脚を折ることが習慣的に行なわれていた。そうすると、犯罪者は体を支えていられなくなり、呼吸がしにくくなる。イエスの傍らで杭につけられた二人の悪行者の脚は折られたものの、イエスの脚は折られなかったことから、兵士たちがイエスは死んだと思ったことが分かる。兵士の一人がイエスの脇腹をさしたのは、疑問の余地をなくすため、またイエスが後に息を吹き返してそれが復活だと偽って布告されることがないようにするためだったのだろう。 Matthew 27:49、50.の記述では、出来事の順序が異なる。こう述べられている。「別の者は槍を取って彼のわき腹を突き刺した。すると血と水が出た。イエスは再び大声で叫び、それからご自分の霊をゆだねられた」。しかし、この太字の部分は、古代の聖書写本すべてに出ているわけではない。多くの権威者たちは、それが後代にヨハネの福音書から書き加えられたものの、誤った位置に挿入された、と考えている。そのため、多くの翻訳聖書は、この箇所を角括弧や丸括弧で区切るか、注釈的な脚注を付けるか、文章を完全に省くかしている。 ウェストコットとホートによる定本は、この部分を二重の角括弧でくくっている。そして、この文章は「書士たちによって挿入された可能性が高い」と述べている。 であるから、圧倒的な証拠が示しているのは、John 19:33、34は事実を記しており、ローマ兵が槍で突き刺した時にイエスはすでに死んでいたということである。
2005年02月21日
コメント(0)
奇跡的ないやしや復活など、昔起きたような奇跡は、今はない。しかし、間もなく到来する神の新しい世では、そうした奇跡が今度は全地球的な規模で再び起きる、と確信できる理由がある。それらの奇跡は恒久的な救済をもたらし、現在のわたしたちの理解を超えたものとなるだろう。 奇跡的に備えられた聖書は、今でさえ奇跡とも言えるようなことを行なえる。ヘブライ4章12節はこう述べている。「神の言葉は生きていて、力を及ぼし、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、また関節とその骨髄を分けるまでに刺し通し、心の考えと意向とを見分けることができる」。そう、聖書は多くの心の正直な人々の生活を変化させる助けとなってきた。それらの人は人生が目的あるものとなり、将来へのすばらしい希望を持つようになったのである。
2005年02月20日
コメント(0)
聖書ほど広く頒布されている本はない。聖書も一つの奇跡だと皆さんは思われないだろうか。聖書が存在しているのは「超自然的な働き」の結果であると言えるだろうか。確かに聖書は人間によって書かれた本だが、筆者たちは、自分の考えではなく神の考えを記したと主張している。(サムエル第二23:1、2。ペテロ第二1:20、21)考えてみていただきたい。筆者たちは、約1600年という歳月の間に存在した40人ほどの人々である。経歴も、羊飼い、軍人、漁師、文官、医師、祭司、王など、実に様々であった。それにもかかわらず、真実で正確な、一致した希望の音信を伝えているのである。 使徒パウロは聖書を「人間の言葉としてではなく、事実どおり神の言葉として」と書いてある。一見矛盾しているかのような点が聖書の全体的な音信とどのように調和しているかを知れば、その調和のとれた内容自体、神が著者であられる証拠であることの証拠である。 聖書ほど、抹殺しようとする熾烈な試みに遭った本はほかにないことを皆さんはご存知だろうか。それでも聖書は今なお存在している。しかも、部分訳も含めれば優に2000を超える言語に翻訳されている。本として物理的に生き延びてきたことも、内容が損なわれることなく保存されてきたことも、神の介入を明らかに示している。聖書はまさに奇跡なのである。
2005年02月19日
コメント(0)
「奇跡」という言葉には第二義的な意味がある。「非常に目覚しい、もしくは極めて異例の出来事、事柄、または偉業」というものである。わたしたちは皆、神の介入とは無関係なその種の奇跡を目にしてきている。 自然界の物理法則に関する知識を増し加えた人間は、かつて一般に実現不能とみなされていた事柄を成し遂げている。例えば、コンピューター、テレビ、宇宙工学その他の近代的な発明によって今では普通になされていることを、100年前にはおそらくほとんどの人が不可能と考えただろう。 ある科学者たちは、神の創造物に見られる科学的な驚異の一部しか理解できていないことを認め、どんな事柄であっても全く起こり得ないとはもはや言えないとしている。せいぜい、起こりそうにもないとしか言えないということである。そのように述べて、将来の“奇跡”のための道を開いておくのである。 しかし、「奇跡」という言葉を、第一義的な意味、つまり「超自然的な働きに帰せられる」物事という意味で用いるとしても、わたしたちはだれもが奇跡を目にしたと言うことができる。例えば、わたしたちは太陽や月や星を見る。それらはすべて、創造者ご自身の「超自然的な働き」によって造られたものである。さらに、人体の機能を細部にわたって完全に説明できる人がいるだろうか。脳の働きについてはどうか。胎児の発育はどうだろうか。「人体という機械」という本はこう述べている。「中枢神経によって制御および調整されている人体は、高性能の感知器、移動可能な自動制御エンジン、自己再生するコンピューターである。非常にすばらしく、神秘的な面の多い創造物と言えよう」。「人体」を創造した神はまさに奇跡を行なわれた。わたしたちはその奇跡に今もなお驚嘆させられているのである。まだ気づいておられないかもしれないが、あなたが目にしている奇跡はほかにもある。
2005年02月18日
コメント(0)
聖書は様々な奇跡に言及している。(Ex 7:19-21. 1Ki 17:1-7;18:22-38. 2Ki 5:1-14. Mt 8:24-27. Lu 17:11-19. Joh 2:1-11;9:1-7)それらの奇跡の多くはイエスがメシアであることを明らかにし、イエスが神の後ろ盾を得ていることを証明した。イエスの初期の追随者たちは、異言を話したり霊感の言葉を識別したりする、奇跡的な賜物を発揮した。(Ac 2:5-12. 1Co 12:28-31)そうした奇跡的な賜物は、クリスチャン会衆の揺らん期において役に立った。 当時、聖書の写しは数がかぎられていた。何であれ巻き物や書物を持っていたのは、大抵、裕福な人々だけだった。異教の地では、聖書やその著者Jehovahについて何も知られていなかった。キリスト教の教えは口頭で伝えられなければならない状況にあった。奇跡的な賜物は、神がクリスチャン会衆を用いておられることを示すのに役立った。 しかし、パウロは、それらの賜物は必要がなくなれば過ぎ去る、ということをこう説明している。「預言の賜物があっても、それは廃され、異言があっても、それはやみ、知識があっても、それは廃されます。わたしたちの知識は部分的なものであり、預言も部分的なものだからです。全きものが到来すると、部分的なものは廃されるのです」。―コリント第一13:8-10。 今日、人々は聖書だけでなく、用語索引や百科事典も入手できる。訓練を受けたクリスチャンが、聖書に基づいて神に関する知識を得るよう人々を援助している。であるから、イエス・キリストが神の任命された救出者であることを証明したり、Jehovahがご自分の僕たちの後ろ盾となっておられるという証拠を提出したりするのに、奇跡はもはや必要ないのである。
2005年02月17日
コメント(0)
昔、神がときおり介入して、人間には不可能な事柄を行なった、と聖書が述べていることは、だれも否定できない。神についてこう書かれている。「[あなたは]しるしと、奇跡と、強いみ手と、伸ばされた腕と、大いなる恐ろしさとをもって、ご自分の民イスラエルをエジプトの地から携え出されました」。(エレミヤ32:21)想像してみていただきたい。その当時最も強大だった国家が、初子の死を含む、神からの十の災厄によって屈服させられたのである。まさに奇跡である。―出エジプト記7-14章。 幾世紀も後に、4人の福音書筆者は、イエスの行なった35ほどの奇跡を書き記した。実のところ、イエスが行なった超自然的な業の数はそれら筆者たちが記した数より多かったことが示唆されている。そうした記録は事実だろうか。それとも作り話だろうか。―マタイ9:35。ルカ9:11。 もし聖書がその主張どおり神の真理の言葉であるならば、聖書に記述されている奇跡を信じられる明確な理由がある。聖書は過去に奇跡が起きたことをはっきりと述べている。奇跡的ないやしや復活などである。しかし、そうした奇跡がもはや起きないということも、同じようにはっきりと説明している。 では、聖書を事実として受け入れている人々も、現代における奇跡は信じないということなのだろうか。
2005年02月16日
コメント(0)
キリスト教を受け入れた人々の多くは、意見がまちまちである。イエス・キリストや、キリスト以前の神の僕たちが行なった奇跡に関する聖書の記述を事実として受け入れる人もいる。しかし、プロテスタントの宗教改革者マルティン・ルターに同意する人も少なくない。「宗教百科事典」はこう述べている。「ルターもカルバンも、奇跡の時代は終わったのであり、奇跡が起こることを期待すべきではない、と書いた」。同じ資料によれば、カトリック教会は奇跡を「知的に弁護しようとせずに」信じることに固執したとある。一方、「学理的なプロテスタント社会は、キリスト教の実践はおもに道徳の問題であり、神も霊の領域も現実の人間の生活に大きくかかわったり影響を及ぼしたりはしない、と信じるに至った」ということである。 クリスチャンと唱える人々の中には、聖職者を含め、聖書に述べられている奇跡が実際に起きたことを疑問視する人もいる。一例として、出エジプト記3章1-5節にある、燃える茂みに関する記述を挙げることができる。「聖書が実際に述べている事柄」という本の説明によると、ドイツの一部の神学者は、それを文字どおりの奇跡についての記述とはみなしてはいない。代わりに、「良心のかしゃくや燃えるような痛みに対する、モーセの内なるかっとうの象徴」と解釈している。その本はさらに、「炎は、神の臨在に伴う陽光の中で一斉に咲いた花を表わす、とも考えられる」と述べている。 こうした説明は納得がいかないと思われるだろうか。では、皆さんは何を信じるだろうか。奇跡が起きたと信じるのは現実的なのだろうか。現代における奇跡はどうだろうか。“天使に聞く”ことができないのであれば、だれに聞けばいいのだろうか。
2005年02月15日
コメント(0)
奇跡はほとんどの宗教で信じられている。「宗教百科事典」は、仏教、キリスト教、イスラム教の創始者たちが奇跡に関して様々な見方を持っていたと説明しているが、「これらの宗教のその後の歴史が明白に示しているように、奇跡および奇跡に関する物語は、人間の宗教生活の肝要な一部となってきた」とも述べている。同じ資料には、「仏陀自身、時々奇跡を行なった」とある。後に「仏教が中国に移植された」時、「伝道師たちはしばしば奇跡的な力を見せた」ようである。 同百科事典は、奇跡とされている事例の幾つかに言及した後、結論としてこう述べている。「信心深い伝記作家たちの語る、こうした奇跡に関する話しをすべて受け入れる気にはならないかもしれない。しかし、それらは仏陀の名を高めるという良い意図で創作されたに違いない。仏陀は熱心な追随者たちにそのような奇跡的な力を授けることができた、と言われてる」。さらに、イスラム教についてもこう述べられている。「イスラム教信者の大半は、奇跡を期待することを決してやめない。伝承の中でマホメットは、公衆の面前で幾度も奇跡を行なった人物として描写されている。……聖人は死後にさえ自分の墓所で信徒たちのために奇跡を行なうと信じられており、聖人たちの執り成しが信心深く祈願される」。
2005年02月14日
コメント(0)
ある男性は、通り過ぎた車のバンパーに張られたステッカーに注意を引き付けられた。「奇跡は起こる―天使に聞いてみよ」と書かれていたのである。この男性自身、信仰の厚い人だったが、よく意味が分からなかった。運転手は奇跡を信じている、ということなのだろうか。それとも、奇跡も天使も信じていないことをおどけて述べているのだろうか。 ドイツの著作家マンフレート・バルテルの述べた、「奇跡という言葉は、即座に読者を相反する二つの陣営に分極化させる」という所見に、皆さんも興味を持たれるかもしれない。奇跡を信じる人は、軌跡は起きると確信しており、よくあることかもしれないと考える。(ここでの「奇跡」とは、「人間もしくは自然界のあらゆる既知の力を超越した物質界の作用で、またそれゆえにその原因が超自然的な働きに帰せられる作用」のことと定義されるものである) 例えば近年ギリシャでは、奇跡を信じる人々が、ほぼ月に一度の割合で奇跡は起きると主張しているとのことである。そのため、ギリシャ正教会のある主教は次ぎのように忠告した。「奇跡を信じる者は、神やマリアや聖人を人間化しがちである。度を越した見方をすべきではない」。 奇跡がそれほど広く信じられていない国もある。ドイツで2002年に公表されたアレンスバッハ世論調査によると、国民の71%は奇跡を真実ではなく作り話とみなしていた。しかし、奇跡を信じる3分の1足らずの人々の中には、処女マリアから音信を授かったと主張する3人の女性がいる。マリアが1羽の鳩と天使たちを伴ってそれらの女性に現れたとされてから数ヵ月後、ドイツのウェストファーレンポスト紙はこう伝えた。「現在までに、約5万人の巡礼者、いやしを求める人々、また好奇心をそそられた人たちが、女性たちの見た幻に深い関心を寄せている」。さらに1万人がマリアの出現を自ら体験しようとその村に押し寄せる、と予想された。1858年にフランスのルルドで、また1917年にポルトガルのファティマでも、同じように処女マリアが現れたと言われている。
2005年02月13日
コメント(0)
女性を劣ったもののようにみなす文化の中で育ったある男性はこう述べている。「わたしは男性中心の教育を受け、女性が虐待され、粗末に扱われるのを見て育ちました。ですから、女性に対して創造者と同じ見方をするには、つまり女性を家庭で男性のできないところを補う助け手、子どもの教育におけるチームの一員とみなすにはたいへんな努力が要りました。わたしにとって妻に称賛の言葉を述べるのは容易なことではありませんが、子どもたちに見られる良い特質は妻の骨折りのおかげであると思っています」。 確かに、子どもの教育という責任を担っている母親は自分の役割を誇りに思うことができる。それは価値ある仕事であり、称賛や心からの感謝を受けるに値する。人は母親から多くのことを学ぶ。一生を通じて役立つ習慣、良い人間関係を築くのに欠かせない礼儀作法を教わるし、若者に正しい道を歩ませるものとなる道徳的また霊的なしつけを受ける場合も少なくない。皆さんはお母さんのこれまでの働きに対して、最近、感謝の気持ちを表わされただろうか。
2005年02月12日
コメント(0)
創造の際、女性には家族の取り決めにおける誉れある役割が与えられた。聖書の最初の本はこう述べている。「Jehovah Godは言われた、『人が独りのままでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼を補うものとなる助け手を造ろう』」。(創世記2:18)そこで、最初の女性エバが、アダムを補うもの、つまり対をなすものの一方として与えられることになった。エバは、アダムの助け手となるのに最適な存在として造られた。人間に対する神の目的の一部をなし、地球とその生き物の世話をするだけでなく、子孫を生み出し、その世話をすることにもなっていた。真の伴侶として知的な刺激と支えをもたらすのである。創造者からこの美しい贈り物を受けたアダムは、それを心から喜んだ。―創世記1:26-28;2:23. その後、神は女性の扱い方に関する指針を定められた。例えば、イスラエル人は母親を敬うべきであり、侮べつをもって扱ってはならなかった。『自分の父や母の上に災いを呼び求めた』息子は、死刑に処せられることになっていた。クリスチャンの若者たちは、『親に従順である』よう強く勧められた。―レビ記19:3;20:9.エフェソス6:1.申命記5:16;27:16.箴言30:17. 妻は夫の指示を仰ぎつつ、女の子も男の子も教育することになっていた。ある息子は、「あなたの母の律法を捨て去ってはならない」と命じられた。(箴言6:20)また、箴言31章には、「[王レムエルの]母が矯正のため彼に与えた重みのある音信」が載せられている。王の母は賢明にもアルコール類の乱用を避けるよう息子である王に命じ、こう述べている。「ぶどう酒を飲むことは王のすべきことではない。また、『酔わせる酒はどこにあるのか』とは、高官の言うべきことではない。飲んで、布告されたことを忘れ、苦悩の子らの言い分を曲げることのないためである」。―箴言31:1、4、5. さらに、結婚を考えている若い男性は皆、レムエル王の母が「有能な妻」について述べたことを考慮に入れるべきである。「その価はさんごよりもはるかに貴い」とされている。そのような妻が家族に多大の貢献をすることについて述べた後に、王の母はこう言う。「麗しさは偽りであることがあり、美しさもむなしいものとなることがある。しかし、Jehovahを恐れる女は自分に称賛を得る」。(箴言31:10-31)人間の創造者が女性に家庭内での誉れと責任の伴う地位をお与えになったことは明らかである。 クリスチャン会衆においても、妻や母親の立場にある人たちは敬われ、愛されている。エフェソス5章25節は、「夫たちよ、妻を愛し続けなさい」と述べている。母と祖母により「聖なる書物」に敬意を払うよう育てられた年若いテモテには、霊感を受けた次のような助言が与えられた。「年長の婦人には母親に対するように……当たりなさい」。(テモテ第二3:15.テモテ第一5:1、2)であるから、男性は年長の婦人に対して自分の母親であるかのように敬意を示すべきである。神は確かに女性を尊び、尊厳のある立場を与えておられるのである。
2005年02月11日
コメント(0)
母親の役割は十分に認識されないことが多いばかりか、軽んじられることさえあった。ここ何十年かの間に、子どもの世話という役割を小さな事と見る人たちが現れた。子どもの世話は職業を持つことほど大切でなく、一種の重荷でさえある、というのがその見方である。たいていの人はそのような考え方を極端な見方とするが、母親たちは家事や子どもの世話を二流の仕事と感じさせられることがよくある。女性は自己の潜在能力を十分に発揮するために、家庭の外で仕事をする必要がある、と感じている人もいる。 それでも、多くの夫や子どもは家庭での母親の働きに感謝するようになっている。ある人はこう述べている。「わたしが今日ここにいるのは、母による訓練のおかげです。父は厳格な人で、子どもたちをすぐに罰しましたが、母は物事を説明し、筋道を立ててよく考える点で助けてくれました。そのような教え方をしてくれた母に心から感謝しています」。 6人兄弟のある男性は、限られた教育しか受けていない母親に育てられた。父親は家族を捨て、家を出ていた。彼は当時の様子をこう述べている。「母はメードと管理人の仕事をしていて、収入が多くなかったので、子ども全員の学費を払うことはできませんでした。お腹をすかせて寝ることもしばしばでした。母にとっては、雨露をしのぐために家賃を払うことさえたいへんだったのです。こうした窮状にあっても、母は決してあきらめませんでした。自分たちを他の人と比べないようにと教えてくれました。母の勇気と献身的な態度がなかったなら、わたしたち子どもはうまく切り抜けてはこられなかったでしょう」。 ある男性は夫の立場から、子育てにおける妻の助けについての感想を次のように述べている。「妻の働きには感謝しています。わたしが家にいない時も、子どもたちは行き届いた世話を受けています。妻がわたしと張り合っているなどとは感じていません。それどころか、わたしは妻に感謝しており、子どもたちにも父親のわたしを敬うのと同じように母親を敬わなければならないことを教えています」。 またある男性は、妻が母親の役割を上手に果たしていることをためらわずに褒め、こう述べている。「妻は娘のことでたいへんよくやってきましたし、家族の霊性にも大いに貢献しています。妻が成功を収めているのはその信仰のおかげだと、わたしは思います」。彼の妻は聖書の原則に従って娘を教育している。 そうした原則にはどのようなものがあるか。母親に対する聖書の見方についてはどんなことが言えるか。昔の母親たちは子どもを教える者として、どのように尊厳を与えられ、敬意を受けていたのだろうか。
2005年02月10日
コメント(0)
メキシコのツォツィル族には、十二、三歳になった娘を金品と引き換えに嫁に出す風習がある。そのようにして少女たちは多くの場合、二人目ないし三人目の妻を求めるかなり年上の男のもとに売られる。男性はその少女が気に入らなければ家に帰らせ、お金を返してもらうことができる。あるひとりの女性は子どものころにこの風習に直面した。この女性の母親もやはり売られて妻になり、子どもを産み、離婚されていた。13歳になるまでにこのすべてを経験したのである。最初の子どもを亡くし、その後、さらに二度売られ、全部で8人の子どもを産んでいた。 彼女はそのような生活を避けたいと思った。どのようにしてそれが可能になったかをこう説明している。「小学校を卒業した時、自分は結婚したくない、学業を続けたい、と母に話しました。わたしにはどうすることもできないから、お父さんに話しなさい、と母は言いました」。 「お前は嫁に出す」と父は言いました。「スペイン語を話せるし、読み書きもできる。他に何がいると言うのか。勉強したいのなら、学費は自分で払えばいい」。 「そこで、わたしは刺しゅうの仕事をして、学費を稼ぎました」。そのようにして彼女は、売られるのを免れた。彼女が大人になったころ、母親は聖書を研究するようになり、勇気を得て、彼女の妹たちに聖書に基づく価値観を教え込んだ。母親は自分自身の経験から、幼い少女を金品と引き換えに嫁に出すという風習のもたらす悲惨な結果を教えることができた。 ほかにも各地で行なわれているのは、家庭内では男親だけが男の子をしつけるという風習である。彼女はこう述べている。「ツォツィル族の女性は自分たちが男性より劣っていると教えられます。男性は非常に横暴です。幼い少年たちは男親の真似をし、女親に対して、『お母さんには指図されない。お父さんから言われるのでない限り、従わない』と言います。ですから、女親は男の子を教育することができません。しかし今、わたしの母は聖書を学んでいるので、弟たちを上手に教えています。弟たちはエフェソス6章1、2節の『子供たちよ、主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい。……あなたの父と母を敬いなさい』という言葉を暗記しています」。 ほかにもある国々で普通に行なわれているのは、“女子割礼”、つまり現在では一般に女性性器切除(FGM)と呼ばれる風習である。少女の外陰部の一部あるいは大部分を切除するのである。この風習は、有名なファッションモデルであり、国連人口基金の特別大使でもあるワリス・ディリーによって広く知らされた。この人は子どものころ、土地のソマリア人の風習に従って、母親からFGMを受けた。ある報告によると、中東とアフリカの800万人ないし1000万人の女性や少女が今でもFGMの危険にさらされている。米国においてさえ、推定1万人の少女たちが同様の危険にさらされている。 この風習はどんな信念に基づいているのだろうか。女性の外陰部は罪深く、少女を汚し、結婚に不適格な者する、と考える人がいるのである。さらに、外陰部を切除する、つまり切り取ることは、子どもの純潔を守り、貞節を保たせる手段とみなされている。この風習のある土地でそれを守らない母親は夫や地域社会の怒りを買うことになりかねない。 とはいえ、宗教的、医学的、また衛生的に見ても、この痛ましい風習を支持する正当な理由がないことに気づいた母親は少なくない。「不快な風習を捨てる」というナイジェリアの報告書は、多くの母親が勇敢にも娘にFGMを受けさせるのを拒んできたことを明らかにしている。 確かに、世界各地の母親たちは、様々な課題に直面しながらも、子どもを保護し、教育することに成功している。では、その努力は本当に感謝されているのだろうか。「これまで行なわれてきた数々の研究は、女性が中心的な役割を果たすような開発戦略でない限り、その効果が期待できないことを示しています。女性が十分に関与した場合、その恩恵は速やかに現れてきます。すなわち、家族が健康になり、食事内容が改善されます。収入や貯蓄、再投資も増えていきます。そして、家族について言えることはコミュニティについても、また長期的にはすべての国々についても言えることなのです」。―国連事務総長コフィー・アナン、2003年3月8日。Dateline UN,March 2003 Vol.39 国連広報センター発行
2005年02月09日
コメント(0)
今日、多くの母親にとって少なからぬ問題になっているのは、家計を助けるために働きに出ることである。さらに、様々な理由から、だれの助けもなしに子どもを育てなければならない場合もある。 メキシコのある母親は、女手一つで二人の子どもを育てた。「子どもたちを道徳的また霊的に訓練するのは容易なことではありませんでした」と彼女は言う。「以前、思春期の息子がパーティーから半分酔って帰ってきたことがありました。今度そんなことをしたら、家に入れない、と言い渡しました。それで次に同じことをした時は、家から閉め出しましたが、たいへん辛い思いをしました。ありがたいことに、あの子は二度とそのようなことをしませんでした」。(若者のアルコールの関係する事故・事件・中毒は世界的に深刻であることを踏まえての事である) その後まもなく、彼女は聖書を勉強するようになり、それが子どもたちの心に道徳的価値観を教える上で役立った。夫が外国へ行っている場合 発展途上国では、妻に子育てを任せて、もっと豊かな国に出稼ぎに行く夫が少なくない。ネパールに住むある母親はこう述べている。「夫が外国に行って7年になります。子どもたちは父親の言うことは聞いても、わたしの言うことはあまり聞きません。いつもここにいてリーダーシップを取ってくれたなら、どんなに助かるでしょう」。 様々な困難があるが、彼女はこの問題に対処している。自分はあまり教育を受けていないので、人に頼んで年上の子どもたちの勉強を見てもらっている。しかし、子どもたちの霊的な教育には特別の注意を払っており、子どもたちとの毎週の聖書研究を自分で司会している。毎日聖句の討議を行ない、いつも子どもたちを連れてクリスチャンの集会に出席している。母親があまり教育を受けていない場合 ある国では、女性の非識字率が比較的に高いことが問題になっている。教育を受けていない母親が不利であることについて、6人の子どもを持つメキシコの女性はこう説明する。「わたしの母はいつも、女は勉強しなくてもよい、と言っていました。ですから、わたしは読み書きを習ったことがなく、子どもたちの宿題を見てやれませんでした。たいへん辛いことでした。でも、自分の子どもたちには同じ思いをさせたくないので、教育を受けさせるよう懸命に努力しました」。 母親があまり教育を受けていない場合でも、状況を変えることはできる。「女を教育するのは、男を教える教師を育てること」とは至言である。ネパールの3人の男の子の母親は、以前は読み書きができなかった。しかし、聖書の真理を学んで子どもたちにも教えたいという願いから、一生懸命に読み書きを学んだ。子どもたちにきちんと宿題をさせ、定期的に学校を訪ねては子どもの勉強の進み具合について先生たちと話し合った。 母親から受けた霊的また道徳的教育について、彼女の息子はこう話す。「母親の教え方で最も良かったのは、わたしが何か間違えると、聖書中の例を引き合いに出してくれたことです。この方法は効果的で、助言が受け入れやすくなりました」。彼女は息子たちを上手に教育することができ、息子たちは3人とも神を恐れる(愛する)若者となった。 二人の子どもを育てているある母親は「わたしは小学校しか出ていません。わたしたち家族は孤立した村に住んでおり、最も近い中学校でもかなり離れたところにありました。でも子どもたちには自分よりも教育を受けさせたいと思ったので、多くの時間をかけ、ABCと数の数え方を教えました。娘は学校に上がる前に自分の名前をつづり、アルファベットのすべての文字を書くことができました。息子は幼稚園に行くころには上手に読めるようになっていました」。と語った。 霊的また道徳的教育はどのようにしたのかと彼女に尋ねると、彼女はこう説明する。「聖書の物語を教えました。娘はきちんと話せるようになる前から、身ぶり手ぶりで聖書の物語を伝えることができました。息子は4歳の時に、クリスチャンの集会で大勢の前で聖書朗読を初めて行ないました」。あまり教育を受けていなくても、子どもを上手に教育している母親は大勢いる。
2005年02月08日
コメント(0)
多くの母親にとって、重要な発育段階にある子どもたちを教育する上で問題となるのは、家計を助けるために働きに出るようにという圧力である。国際連合の統計によると、多くの先進国では、3歳未満の子どもを持つ母親の半数以上が働きに出ている。 また、父親が他の都市や外国に出稼ぎに行っていて、母親一人で子育ての重責を担っている場合も少なくない。例えば、アルメニアのある地方では、男性のほぼ3人に1人が仕事を求めて外国に出かけていると伝えられている。父親が家族を捨てた、あるいは死亡したために、女手一つで子どもを育てている母親もいる。 一部の国で、多くの母親にとって問題となっているのは、自分自身が教育を受けていないということである。国連経済社会局の推計によると、全世界の読み書きのできない8億7600万人の打ち、3分の2は女性である。事実、ユネスコによると、アフリカ、アラブ諸国、東南アジアの女性の60%余りは読み書きができない。その上、女性に教育は必要ない、教育を受けさせれば子育ての役割を果たせなくなる、と考える男性が多くいる。 アウトルック誌によると、インドのケララ州には、娘は15歳までに母親となるのが普通という地域がある。そこでは教育を受けた花嫁を望む人はだれもいない。隣国のパキスタンでは、男の子のほうが大事にされる。教育を受けさせて、収入のよい仕事に就かせれば、親は老後の面倒を見てもらえるからである。一方、「発展途上国における女性の教育」という本によると、「親は娘の教育に金をかけない。それは家族を経済的に助ける足しにはならないと思っているから」ということである。 また、土地の風習に関係した問題もある。例えば、一部の国では、母親は娘を金品と引き換えに嫁に出すことや女性性器切除などの風習を守るように期待される。女親が男の子を教えたりしつけたりすることがタブー視される場合もある。母親はこうした風習を守り、男の子の教育を他の人にゆだねなければならないのだろうか。 次にそうした問題に対処している母親たちのことを取り上げてみる。また、母親とその働きに対する認識を深くし、子どもを教育する母親の役割について平衡の取れた見方とはどのようなものかについてもさらに考えてみたい。
2005年02月07日
コメント(0)
「家庭に関係した仕事こそ、人間にとって欠くことのできない仕事である。……母親が務めを果たさないなら、次の世代は存在しないか、存在しないほうがましであろう」。―セオドア・ルーズベルト、合衆国26代大統領。 母親は人の一生において、なくてはならない存在だが、その役割がただ子どもを産むだけでないことは明らかである。今日、世界のほとんどの地域で母親が果たしている役割について、ある著述家はこう述べている。「母親は個々の子どもの健康、教育、知力、個性、性格、情緒の安定を守る面で主要な存在である」。 「母親のさまざまな役割の一つに、子どもの教育がある。子どもが最初に覚える言葉や話し方は通常、母親から学ぶ。そのため、人が最初に習得する言語はしばしば母語と呼ばれる。一般に、母親は毎日父親よりも多くの時間を子どもと共に過ごすので、子どもの一番の先生、または主なしつけ役ということになる。であるから、「教育は母乳によって」というメキシコのことわざは、母親の重要な役割に対する賛辞である。 人間の創造者であるJehovah Godも、母親たちに誉れを与えておられる。その証拠に、「神の指」によって石の書き板に書き記された十のおきての一つは子どもたちに、「あなたの父と母を敬いなさい」と促している。(出エジプト記20:12;31:18.申命記9:10)また、聖書の格言は「あなたの母の律法」について述べている。(箴言1:8)生まれてから最初の三年間に子どもを教えることの大切さは、現在では広く認められているが、ほとんどの子どもはその間、主に母親の世話を受ける。
2005年02月06日
コメント(0)
相手が唯一真の神を恐れない人、あるいはクリスチャンの規準に敬意を払わない人である場合、その悩みを聞くことに時間をかけすぎないよう注意する。なぜかというとその悩みの多くは、聖書と調和しないライフスタイルが原因で生じているかもしれないからだ。聖書の助言を軽視する人たちを助けようとすると、どちらの側もいらだたしい思いをすることになりかねない。(箴言9:7)また、愚かな話や卑わいな話をさえたっぷりと聞かされるはめになる。(エフェソス5:3)であるから、話し合いに不安を感じた場合は、勇気を出して、自分には助けになれないこと、またそのような話題を不快に思うことを率直に伝えることも必要だろう。 異性から、打ち明け話を聞いて欲しいと言われた場合は、さらなる注意が必要である。聖書が警告しているように、心は人を欺く。(エレミヤ17:9)異性と親しくするなら、ロマンチックな感情が生じ、不道徳につながりかねないからである。 また、だれにも言わないと約束することがないようにすることも現実的で賢明な見方である。悩みを打ち明けてきた人を助ける面でわたしたち人間には限界があるかもしれないからだ。そのことを謙遜に認めたいものだ。―箴言11:2.
2005年02月05日
コメント(0)
アドバイスをする必要があると思う場合はどうだろう。もちろん、わたしなんかはまだまだ経験が足りない。(箴言1:4)だから、あらゆる悩みにアドバイスを与えられるような立場にはいない。とはいえ、詩編19編7節はこう述べている。「Jehovhaの律法は完全で、魂を連れ戻す。Jehovahの諭しは信頼でき、経験のない者を賢くする」。そう、「経験のない」者であるとはいえ、聖書の原則に関する十分な知識を持っているならば、その原則は、困っている友達を助けるものとなる。(箴言27:9)説教じみた言い方を避けながらも、聖書が述べていることを幾らか伝えるのはいかがだろうか。聖書のどの原則を当てはめたらよいのか分からない場合は、聖書をその真理を意味するところを教えてくれている唯一の経路からの助言を調べることができる。 自分自身の経験を話してあげるのは効果的かもしれない。実際的な提案をすることもできるだろう。自分の意見を押しつけるのではなく、自分にとって何が役立ったかを説明することができる。(箴言27:17)とはいえ、状況は人によって異なるということを念頭に置いておきたい。自分に役立ったことが他の人にも役立つとは限らないからである。これが平衡の取れた実際的な見方をするということである。補足:なぜ聖書から神のみ名が除き去られたのか…皆さんはお考えになったことがあるだろうか?これは迷信のためにみ名が隠されたことに始まっているようである。 ユダヤ人の間ではある時期に、神の名(四文字語で表わされる)を発音することさえ間違っているという迷信的な考えが生じた。そのみ名の使用をやめるために、最初、一体どんな根拠が挙げられたのか、確かなことは分かってはいない。中には、み名は不完全な人間の唇で語るにはあまりにも神聖すぎるとみなされたのだと考える人もいる。しかし、ヘブライ語聖書そのものには、かつて神のまことの僕のだれかが神の名を発音するのをちゅうちょしたことを示す証拠は一つもない。いわゆるラキシュ書簡などの聖書以外のヘブライ語の文書は、西暦前7世紀後半のパレスチナでは神の名が普通の通信文の中でも使われていたことを示している。神には固有のみ名があり、それは神の性格や属性―この方はどなたで、どんな方かということ―を、完全に要約し、表現しているのである。神の名の英語の発音としては、大抵のヘブライ語学者は“Yahweh”のほうを好むようだが、最もよく知られているのは“Jehovah”(日本語では「エホバ」)である。
2005年02月04日
コメント(0)
聖書は、「黙っているのに時があり、話すのに時がある」と述べている。(伝道の書3:7)悩みを抱えている人があなたと話したいと思う場合、普通、最も良いのはその人の話をただ聞いてあげること。実際、聖書は「立場の低い者の訴えの叫び」を聞こうとしないことを非としている。(箴言21:13)その問題について話す勇気を奮い起こすには時間が必要だったことだろう。あなたが進んで耳を傾けるなら、相手は話しやすくなるかもしれない。「たいていは相手の話を聞いてあげるだけです」と、ある若者は言う。「悩んでいることを話してもらい、同情を示すようにします」。他の若者もこう述べている。「話を聞いてもらうだけでいいという人もいます」。 つまり、相手はあなたに問題を解決してもらおうとは思っていないかもしれない。話をよく聞いてもらえさえすれば、それでいいのである。だから、話をよく聞くことは大切である。周囲に気を奪われたり、不必要に話を遮ったりしないようにしたい。あなたがそこにいて、話を聞いてあげること自体が大きな助けとなる。そうすることで、あなたの心からの気遣いを示せるのである。 では、聞くだけで何も言うべきではないという意味だろうか。それは問題の性質にもよる。たいていの場合、思い遣りのこもった、親切な受け答えをするのはふさわしいこと。(箴言25:11)例えば、知っている人が非常に辛い経験をしたのであれば、一番良いのは同情の言葉を述べることだろう。(ローマ12:15)箴言12章25節には、「人の心の煩い事はこれをかがませ、良い言葉はこれを歓ばせる」とある。必要なのは、ちょっとした励ましかもしれない。あなたならきっとその試練を乗り越えられると思う、と述べてみる。「そう思うのも無理はない」とか、「本当にたいへんだね」などと言うなら、あなたが誠実で、助けになりたいと思っていることを知ってもらえる。 それと同時に、箴言12章18節は、「剣で突き刺すかのように無思慮に話す者がいる」と警告している。「そんなのは大したことじゃない」、「忘れるしかない」、「そんな風に思うべきじゃない」などという言葉を避けるのは大切である。また、問題を小さく見せようとして冗談を使うのは禁物である。相手は、自分の気持ちを尊重してくれないと思うかもしれない。―Proverbs 25:20. とはいえ、何を言ったらよいのか分からない場合はどうだろうか。正直になることが大切。何と言ったらよいのか分からないけど、それでも力になりたいと思っている、と話してみる。「何かできることはない?」と尋ねてはいかがだろう。そう、その人の重荷を軽くするために行なえる実際的な事柄が何かあるだろう。―Ga 6:2.
2005年02月03日
コメント(0)
友達か同級生の一人と話していると、突然、相手が悩みを打ち明け始める。それは十代の若者に特有の、服、お金、外見、仲間、成績などについての悩みかもしれない。あるいは、もっと深刻で扱いにくい悩みかもしれない。 米国の状況は、若い人が抱えている問題の深刻さを如実に物語っている。ニューズウィーク誌によると、「国立精神衛生研究所(NIMH)の概算では、思春期の若者の8%と子ども(4歳児も含む)の2%がうつ病の症状を呈している」とのことである。別の調査はこう述べている。「年間に15歳から19歳までの女性の1000人につき約97人―アメリカのティーンエージャー100万人―が妊娠する。これらの妊娠の大多数―78%―は意図せぬものだった」。また、不安定な家庭環境下で生活している若者は数知れない。身体的または性的虐待の被害者も大勢いる。米国の高校3年生の半数以上はアルコールを乱用したことがある。驚くべき数の若者が摂食障害と闘っている。 この事実からも分かるように、若者の多くがだれかに話を聞いてもらい、悩みを打ち明けることを切実に必要としているのも不思議ではない。そしてたいていの場合、最初に相談を持ちかける相手は同年代の仲間である。ただ決して、素性の分からないネット上の人々に軽々しく悩みなどは打ち明けないことは賢明なことと言えるだろう。 さて、面と向かってそのような悩みを持つ友人や仲間に悩みを打ち明けられるという状況に直面した場合どう対処すればよいだろうか。また、話の内容が自分の手には負えそうにない場合はどうだろうか。
2005年02月02日
コメント(0)
多くの研究者は、進化論の見地に立って、生物学や遺伝学および関連分野の研究に取り組む。進化論的な見方ゆえに、誤った結論に至ることも少なくない。例えば、初期のダーウィン主義者は、虫垂、脳下垂体、扁桃などを痕跡器官とみなした。それらが何の機能も果たしていないように思えたので、進化の後に残された物だと考えたのである。しかし、やがてそれらの器官の重要な役割が明らかになり、進化論者は見方を改めざるを得なかった。 最近、同様のことが遺伝学の分野で生じた。かつての研究では、人間や他の生物のDNA の98%は何の機能も果たしていないように思えた。そのため、進化論の影響を受けた多くの人が、これらのDNAは“進化の過程で生じたがらくた”であるという仮説を立て、すぐにそれが通説となった。 しかしこの場合も、ダーウィン主義に基づく仮説は間違っていた。最近になって科学者は、“がらくた(junk)”DNAが体内で不可欠な役割を果たしていることを発見した。生命に不可欠な特別なタイプのRNAを作っていたのである。“junk”DNA理論が性急に受け入れられたことは、「通説が事実の客観的分析を狂わせることの典型的な事例」であり、「この場合はそれが四半世紀続いた」と、オーストラリアのクイーンズランド大学にある分子生物化学研究所の所長ジョン・S・マティックは考えている。この過ちは「分子生物学の歴史における最大級の誤りとして記録に残るだろう」と、マティックは述べている。 DNAには理知ある設計者がいると考える方が、はるかに分別のあることではないだろうか。そのような見方をする人は、神のみ手の業の中で不可解に思える点もたいていは解き明かされてゆくと考えている。そうした解明によって失望させられるどころか、畏敬の念がいっそう深まる。―箴言1:7.伝道の書3:11.
2005年02月01日
コメント(0)
全28件 (28件中 1-28件目)
1