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これは、単に義務感から互いを愛する、ということではない。アガペーは温かみや感情が伴わないものではない。わたしたちは「互いに対して熱烈な字義的には「引き伸ばした」愛を抱くべきである、とペテロは述べた。 それでも、そのような愛には努力が求められる。「熱烈な」と訳されているギリシャ語について、ある学者はこう述べている。「それは、運動選手がレースの終わりに筋肉をフルに働かせて最後の力を振り絞る姿を描写している」。 であるから、わたしたちの愛は、自分にとって容易なことだけを行なうとか、選ばれた数人の人だけに示すというものであってはならない。クリスチャン愛には、自分の心を「引き伸ばし」、簡単にはできないようなときでも愛を広げることが求められる。(2Co 6:11-13)言うまでもなく、このような愛は培うこと、努力目標にすることが必要である。運動選手が訓練を重ねて技術を磨くために努力する必要があるのと同じである。互いに対しそのような愛を抱くのはとても大切なことである。なぜだろうか。少なくとも三つの理由がある。
2005年05月11日
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愛は自然にわき上がってくる感情に違いないと多くの人は考える。しかしペテロが述べていたのは、愛全般のことではない。最も高潔な愛について語っていたのである。1Pe 4:8.の「愛」は、ギリシャ語でアガペーというものである。この語は、原則によって導かれる、もしくは支配される無私の愛を指している。「アガペー愛は、本来、感情のことではなく、行動へと導く意思決定であるゆえに、命令されることもあり得る」。とある参考文献は述べている。人間は利己的な傾向を受け継いでいるので、敬虔な原則を導きとして互いへの愛を示すためには、諭しが必要なのである。― Genesis 8:21. Romans 5:12.
2005年05月11日
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「すべての事物の終わりが近づきました。……何よりも、互いに対して熱烈な愛を抱きなさい」。(1Pe 4:7、8)ペテロのこの言葉は、2Ti 3:1に預言されている「終わりの日には、対処しにくい危機の時代が来る」。とあるその時代に生活する人たちにとって深い意味がある。 では、「熱烈な愛」とは何だろうか。互いに対しそのような愛を抱くことが重要なのはなぜか。そのような愛を抱いていることをどのように示せるだろうか。
2005年05月11日
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一生懸命に働くことは称賛に値するが、仕事と生活に満足を見いだすためのかぎがもう一つある。それは神との関係である。一生懸命働いて、人生で得られるあらゆる楽しみを享受した古代イスラエルの賢王ソロモンは、次のような結論に達した。「まことの神を恐れ、そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである」。― 伝道の書12:13. 何をするにしても神のご意志を考慮に入れなければならない、ということは明らかである。わたしたちの行う事柄は神のご意志に調和しているだろうか。神を喜ばせようと努力しているだろうか。それとも、ただ自分を喜ばせようとしているだけだろうか。神のご意志を行なっていないなら、やがては落胆、孤独感、むなしさなどの心痛を味わうことになる。 スティーブン・バーグラスは、燃え尽きた重役たちに、『情熱を感じられるような目的を見いだし、それを自分の生活に組み込む』よう勧めている。有意義な仕事をする技術と能力を人間に与えてくださった方に仕えることほど価値ある目的はない。創造者に喜んでいただける仕事をするなら、満足できない状態が続くことはない。イエスにとって父であるJehovahから割当てられた仕事は、食物のように滋養になり、満足感をもたらし、心身を元気づけるものだった。(ヨハネ4:34;5:36)それに、最高の働き手である神が、ご自分と「共に働く者」となるよう招いてくださっているのである。― コリント第一3:9. 神を崇拝し、霊的に成長するなら、やりがいのある仕事に就くための、また責任を担うための備えができる。仕事場は往々にしてプレッシャーやあつれきや要求で満ちている。であるから、強固な信仰と霊性があるならば、より良い従業員、あるいはより良い雇い主になろうと努力するうえで大いに必要とされる力が得られる。一方、この不敬虔な世で生活していると信仰において成長する必要のある分野に気づかされる。― コリント第一16:13、14.
2005年05月10日
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職場でのクリスチャンの態度や行状を同僚その他の人々が見て、聖書の音信に興味を持つようになる場合がある。使徒ペテロはテトスへの手紙の中で、雇われて働いている人たちにこう勧めている。「すべての事において自分の[上司]に服し、これをじゅうぶんに喜ばせ、口答えをしたり、盗みをしたりすることなく、むしろ忠信な態度を十分に示しなさい。それは、すべての事においてわたしたちの救い主なる神の教えを飾るためです」。テトス2:9、10. ある学校の受付係をしているクリスチャンの女性は誤解がもとで、同僚の女性に学生たちの面前で口汚い言葉を浴びせられた。彼女はその時のことを振り返り、「神のみ名(Jehovah)が悪く言われないようにする必要がありました」と述べている。その後の5日間、彼女は聖書の諸原則をどう当てはめたらよいかと考えた。その一つはローマ12章18節の、「できるなら、あなた方に関するかぎり、すべての人に対して平和を求めなさい」というものだった。彼女はその原則を当てはめ行動した。彼女の方から誤解を解く機会を提案し実際に話し合ったのである。その結果同僚は機嫌を直し、問題に対する彼女の取り組み方の知恵を認め感謝した。 彼女は、「聖書の原則を当てはめれば、物事は決して悪い方向には行かない」との結論に達した。
2005年05月10日
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これらは、わたしたち人間を造られた神に栄光をもたらすことにつながる。どんな質の働きをするかは、仕事に対する聖書的な見方をするためのかぎの一つである。神ご自身、優れた仕事をなさった。そして、人間にも才能や能力を付与し、わたしたちがそれを良い目的のために用いることを望んでおられる。聖書の出エジプト記31章1節から11節をみると、神Jehovahが古代イスラエルの幕屋の造営に際し、人々に知恵と理解力を満たし、特定の芸術的また実用的作業を行なえるようにされたことが記録されている。このことから、神が彼らの仕事の役割、技能、デザインなど細かな点に特別な関心を払われたことが分かる。 こうしたことは、わたしたちが自分の能力や仕事の習慣をどう見るかに大きな影響を及ぼす。それらはある意味神からの賜物であり、当たり前のものと考えるべきではない、ということを理解する助けとなる。クリスチャンが、神ご自身に見られているかのように自分の仕事を行なうよう、「何をしていても、人にではなくJehovahに対するように魂をこめてそれに携わりなさい」と訓戒されているのも、そのためである。(コロサイ3:23)神の僕はよい仕事をするようにと命じられており、そうするなら、同僚その他の人々がそれを見てキリスト教の音信に興味を持つようになるかもしれない。 この点を踏まえて、次のように自問してみるのはよいことである。わたしはどんな特質と熱意をもって仕事をしているだろうか。わたしは割当てられた務めを果たす自分のやり方に十分満足しているだろうか。もしそうでないなら、改善の余地がある。― 箴言10:4;22:29.
2005年05月10日
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医療の専門家は、仕事上のストレスを一種の職業病としている。ストレスは潰瘍やうつ病の原因となることがあり、自殺につながる場合さえある。外国にもよく知られているが日本語には、「働きすぎが原因で死ぬこと」を意味する「過労死」という言葉がある。 仕事に関係のある様々な要素、例えば、勤務する時間や環境の変化、上司とのトラブル、職責や職種の変化、退職、解雇などが、ストレスの原因となる。そうしたストレスに面した場合、問題を回避しようとして仕事や環境を変える人もいれば、ストレスを抑えようとしながら、結局は生活の他の分野、特に家庭に影響が及んでしまう人、さらには感情的に参ってしまい、うつ病になり、絶望する人もいる。 クリスチャンには、仕事から来るストレスに対処する十分な備えがある。聖書に数々の基本原則が収められているので、それを当てはめることにより、霊的な面や感情面で良い影響を受け、難しい時期を切り抜けることができる。例えば、イエスはこう言われた。「次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです。一日の悪いことはその日だけで十分です」。つまり、明日の問題にではなく今日の問題に注意を集中しなさい、ということである。そうするなら、問題を過大視して精神的負担を増し加えることを避けられる。― マタイ6:25-34. クリスチャンにとって極めて重要なのは、自分の力ではなく神の力に頼るということである。― エフェソス6:10.フィリピ4:7. 最後の点として、ストレスの多い状況も良い結果をもたらす場合がある。試練に遭うと、クリスチャンは神との個人的な関係をより深めるようになる。また、クリスチャンとしての人格や、圧力の下で耐え忍ぶ能力を培い続けるよう促される。― ローマ5:3、4. ストレスは失望や悲しみの原因というより、霊的成長を促すものとなる場合もある。
2005年05月09日
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聖書は仕事を苦痛の種としているのではないだろうか。という疑問を持つことがあるかもしれない。創世記3章17-19節を読むと、神がアダムとエバに、反逆に対する罰として仕事という重荷を課したように思えるかもしれないからである。神はそれら最初の人間夫婦に有罪宣告を下した際、アダムに、「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついには地面に帰る」と言われた。この言葉は、どんな仕事をも非とするものだったのだろうか。 いいや、そうではない。アダムとエバが不忠実になったために、エデンの楽園を直ちに拡張してゆくことはできなくなった、という意味である。地面は神にのろわれた状態になり、人が土から生活の糧を得るためには、汗水たらして労苦しなければならなくなったのである。― ローマ8:20、21. 聖書は仕事を苦痛の種とするのではなく、大切にするべき喜びの源としている。先に述べたように、神ご自身、勤勉な働き手であられる。神は人間をご自分の像に創造し、地上の創造物の世話をする能力と権威を授けた。(創世記1:26、28;2:15)その仕事の割当てがなされたのは、神が創世記3章19節の言葉を述べる前である。もしも仕事が苦痛の種であり悪であるなら、Jehovahはそれに携わるようにと人を励ましたりはされなかったことだろう。ノアとその家族は洪水の前も後も、なすべき仕事をたくさん与えられていた。クリスチャンの時代にはイエスの弟子たちも、働くよう命じられた。― テサロニケ第一4:11. とはいえ、周知のとおり、現代では仕事が重荷になる場合もある。ストレス、危険、倦怠、失望、競争、欺まん、不正など、今日の仕事に付きものの「いばらとあざみ」を挙げれば切がない。しかし、仕事そのものは苦痛の種ではない。聖書は伝道の書3章13節で仕事とその成果を神からの賜物と呼んでいるのである。
2005年05月09日
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神は働く方である。意外に思えるかもしれないが、神は聖書の中でご自身をまずそのように紹介しておられる。創世記の記述は、唯一まことの神Jehovahが天と地を創造されたところから始まっている。(創世記1:1)創造を開始した時に、神が担われた数々の役割について考えてみると…設計者、組織者、技術者、芸術家、素材選びの専門家、企画開発者、化学者、生物学者、動物学者、プログラマー、言語学者など、挙げれば切がない。― 箴言8:12、22-31. 神がなさった仕事の出来栄えはどうだったのか。聖書の記録によると、それは「良い」、「非常に良い」ものだった。(創世記1:4、31)実に、創造物は「神の栄光を告げ知らせ」ている。わたしたちも神を賛美するべきではないだろうか。― 詩編19:1;148:1. とはいえ、神の仕事は物質の天地および最初の人間夫婦の創造で終わったわけではない。Jehovahのみ子、イエス・キリストは、「わたしの父はずっと今まで働いてこられました」と述べている。(ヨハネ5:17)そう、Jehovahは生き物に必要物を与え、創造物を維持し、忠実な崇拝者たちを救うことにより、働き続けておられるのである。(ネヘミヤ9:6.詩編36:6;145:15、16)特定の務めを果たす際の助けとして人々を、つまり「神と共に働く者」を用いることさえしておられる。― コリント第一3:9.
2005年05月09日
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いつも、自分で状況を変えられるとは限らない。しかし、自分の態度を調整することならできるのではないだろうか。自分が仕事に対する消極的な態度に多少とも影響されているのに気づいたら、神の見方とこの点に関する原則について考えてみるとよいだろう。(伝道の書 5:18)そうすることにより、仕事に適度の幸福感と満足感を抱けるようになった人は少なくない。
2005年05月08日
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「仕事の日の終わりには疲れ切っている」。最近の調査では、雇われて働いている人の3分の1が、よくそう感じると回答した。これは別に驚くべきことではない。人々はストレスに苦しんでいるからである。働く時間も家に持ち帰る仕事も増えているのに、上司がねぎらいの言葉をかけてくれることはほとんどないのである。 大量生産時代が到来して以来、働く人々の中には、自分は巨大で非人格的な機械の歯車の歯に過ぎないのだという気持ちになる人が少なくないのはよく聞くはなしである。斬新なアイディアや独創的な考えを述べても、多くの場合、無視されてしまう。そうしたことは当然、仕事に対する人々の態度に影響する。自分の仕事に関心を持とうとする意欲は容易に薄れ、腕を磨きたいという願いは冷めてしまうかもしれない。その結果、働くことを嫌うようになり、自分の仕事に嫌気が差すことになる。
2005年05月08日
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多くの人が長時間骨折って働く世の中では、勤勉に働くことと仕事中毒とを区別する必要がある。仕事中毒の場合、職場を危険で予測のつかない世界における安住の地とみなす人が多いのに対し、勤勉に働く人は仕事を大切な、時に満足をもたらす務めとみなす。仕事中毒の人は仕事に没頭して生活の他の面を顧みなくなるが、勤勉に働く人は、例えば結婚記念日には、いつコンピューターの電源を切り、気持を切り替えて、配偶者のそばにいるべきかを知っている。仕事中毒の人は体を酷使することに快感を覚え、夢中になるが、勤勉に働く人はそのようにはならない。 現代社会では猛烈に働くことが美化されているので、両者の区別が付きにくくなっている。モデムや携帯電話、ポケベルなどがあるため、職場にいるのも家にいるのも変わらないという状況かもしれない。いつでもどこでも仕事ができるとなれば、過労死する人も出るだろう。 そうした不健全な状況に、ある人々はどう対処しているだろうか。社会学者の観察によると、働きすぎで過度のストレスにさらされている人は、職場に精神修養を持ち込んで職業と宗教を融合させようとしている。サンフランシスコ・イグザミナー紙は、「仕事に精神修養を取り入れるという現象は、かなり一般的になってきた」と伝えている。 ハイテク産業のメッカである、米国のシリコンバレーに関し、最近のある記事はこう述べている。「レイオフ(一時解雇)が続き、重役たちは職場の駐車区画がいくつ空いたかを数えているが、夜に聖書研究が行われる場所の駐車場は不足している」。精神修養がどれほど重要かはともかく、世界中の多くの人は、聖書が仕事に対する見方によい影響を及ぼすので、生き方ももっと平衡の取れたものになるということに気づいている。(日本では?だが…) 仕事に対して平衡の取れた見方をするうえで、聖書はどのように役立つのだろうか。聖書には、現代の職場で直面する様々な問題に首尾よく対処するのに役立つ原則が含まれているのか。
2005年05月08日
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「働く。そう、働くことです!自分にはまだなすべき最善のことがあるというのは、無上の喜びです」。― キャサリン・マンスフィールド、作家(1888-1923年)。 あなたも、仕事に対して上の言葉で表現されているような理想的な見方をしておられるだろうか。今の自分の仕事をどう見ているだろうか。もしかしたら、のんびり過ごせる週末が来るまでの長くて暗いトンネルのように思っているだろうか。それとも、中毒でもあるかのように仕事に熱中しているだろうか。 ほとんどの人は、起きている時間の大半を仕事に充てている。仕事によって、住む場所や生活スタイルが決まる場合もある。成人してから退職するまで、仕事ほど生活を大きく左右するものはない。働いて深く満ち足りた気持になる人もいれば、仕事の価値を収入や名声によって測る人、仕事を単なる時間つぶしと見る人、さらには時間の浪費と考える人さえいる。 生きるために働いている人や、働くために生きている人もいれば、仕事中に、あるいは仕事が原因で死ぬ人もいる。例えば、最近の国連の報告によると、仕事は「戦争よりも、また薬物やアルコールの乱用を合わせたよりも」多くの苦しみと死をもたらしている。この点について、ロンドンのガーディアン紙は次のように述べている。「仕事に関係した事故や病気で死亡する人の数は、毎年200万人余りに上る。……粉塵、化学物質、騒音、放射線にさらされることが、がん、心臓病、脳卒中の原因となっている」。児童労働や強制労働も、まさに現代の労働環境の醜い実態を示すものである。 それに加えて、心理学者スティーブン・バーグラスの言う“超新星燃え尽き症候群”もある。勤勉に働いてその分野での頂点に達したにもかかわらず、「自分が一つの仕事や職業にとらわれていて、そこから逃れることも満足感を得ることもできないと思い込み、慢性的な不安、苦悩、失意、抑圧感」を抱くようになる人がいる、というのである。
2005年05月07日
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相手のことを本気でもっとよく知りたい場合はどうか。もしそうなら、デートや恋愛は単なる楽しみではないということをわきまえなければならない。(俗に言うゲームなどではないのである)デートをするカップルがはぐくむ互いへの強い感情は、結婚の誓いをすることにつながる。結婚後、その感情が二人を夫婦として固く結び合わせるのである。こうした点を念頭において、どうすることができるだろうか。 相手の女性について考えて、幾つもの魅力的な点に気づくかもしれない。彼女が開けてくれた扉をそのまま開いておきたいと思うかもしれない。しかし、慌てて交際を始めるのではなく、後で二人がつらい思いをせずに済むよう手段を講じる。 一つには、いずれかの時点で相手のことをよく知っている円熟した人たちに相談することができるかもしれない。相手にも同じことをするよう勧めることができる。それぞれが、そのような円熟した人たちに相手の長所また短所と思える点について尋ねるのである。 とはいえ、『これは自分個人の生活なのになぜそこまで他人に干渉されなければならないのか』と思えるかもしれない。率直に言って、恋愛のような個人的な事柄であっても、他の人の考えを聞くのは知恵の道である。聖書の見方にもかなっている。箴言15章22節にはこうある。「助言者の多いところには達成がある」。相談相手に決定を下してもらうわけではない。しかし、そのような人からの「魂の助言」によって、相手や自分の、気づいていなかった様々な面が明らかになるかもしれない。― 箴言 27:9. 最も重要なことは、真の幸福はわたしたちを創造してくださった神との関係にある。結婚に向けたステップであるデートを始めるのなら相手との関係がそのゴールまで行き着くかどうかを見極められるよう、神に助けを求めることができる。感情が高ぶる前にこのような方法を取ることは賢明であることに疑問の余地はない。
2005年05月07日
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昔の探検家は、自分が発見した土地をしばしば征服と搾取の対象とみなした。今日、女性をそのようにみなす男性がいる。(女性の中にも男性をそのようにみなす者もいるようだが…)ロマンチックな関係は楽しむが、結婚の責任を担う気は全くない。(これは男性側に問われる責任である)無責任にも、女性の気持ちに付け込んで心を奪おうとする。そのような男性は、欺きによって女性の愛情を手に入れているのである。 一部の若者は次から次に女性と付き合っている。そんなふうに女性の感情をもてあそぶのはとんでもない間違いである。そのような身勝手な態度はどんな結果を招くだろうか。 「火矢、矢と死を射る気の狂った者に似ているのは、仲間の者をだまして、『面白かったではないか』と言った者」。(箴言 26:18、19)男性が利己的にな理由で付き合おうとするなら、相手の女性はやがて男性の本当の動機に気づく。そして、欺かれていたことを知って、心に深い傷を負うだろう。次の例はそのことを示している。 一人の若い男性は、ある女性と付き合っていたが、結婚する気はなかった。お洒落なレストランに連れて行ったり、一緒にパーティーに出かけたりした。男性はデートを楽しみ、女性は、結婚を前提に交際してくれていると思って喜んでいた。しかし、彼がただ一緒に楽しく時を過ごしたいだけであることを知った時、この女性は深く傷ついた。 たとえ無意識にでも女性に間違った印象を与えていたのなら、どうすべきだろう。言い訳をして自分を正当化しようとしても、相手を苦々しい気持にするだけだろう。聖書は次のような原則を与えてくれている。「自分の違反を覆い隠している者は成功しない。しかし、それを告白して捨てている者は憐れみを示される」。(箴言 28:13)事実を直視する必要がある。どんな誤解についても自分に責任があるならそれを認める。そして、もし故意に相手の気持ちに付け込んだのなら、大きな間違いを犯したことを認め、誠実に謝る。 とはいえ、謝ればすべて終わりと考えてはならない。相手の怒りはなかなか収まらないかもしれない。あなたが自分の行動について相手の親に説明しなければならない場合もあるだろう。ほかの問題に直面することも考えられる。ガラテア6章7節が述べるとおり、「何であれ、人は自分のまいているもの、それをまた刈り取ることになる」のである。とはいえ、謝罪して、解決のために最善を尽くすことにより、相手が立ち直れるよう助けることができる。そして、こうした経験から、異性が関係する場合を含め、生活のあらゆる面で『自分の唇を欺まんを語ることから守る』べきことを学べるだろう。― 詩編 34:13.
2005年05月07日
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女の子(女性)の身になって考えてみてみる。良い印象を与えたいと思って、気持ちを伝える言葉を何日も練習してきたかもしれない。えり抜きの言葉をすてきな笑顔で言えるようになっても、断わられるのではないかと心配である。最後に勇気を振り絞り、どきどきしながらあなたに気持ちを伝えたのである。 どうしてそこまでしたのだろうか。あなたに夢中なのかもしれない。あるいは、あなたの良い特質に特別の好意を抱いているのかもしれない。彼女の言葉には、あなたがめったに受けることのないような称賛の気持が込められていたことだろう。 このように述べたのは、あなたの決定に影響を与えるためではなく、親切であるべきことを思い起こしてもらうためである。Jという若い女性はこう述べている。「男性は、相手の女性に対して特別の感情を持っていないとしても、自分に注目してくれたことをうれしく思うはずです。ですから、ただ断わるのではなく、せめて感じよく接し、相手の気持ちにこたえられないことを優しく伝えるべきです」。 では、「気持にこたえられないことを優しく伝える」、つまりやんわりと断わるというシチュエーションを考えてみる。もしかすると、同じ人からの申し出を以前にも断わったことがあるかもしれない。今回はぴしゃっと言ってやろうという気持ちになるかもしれないが、その気持ちを抑えることは賢明である。箴言12章18節はこう述べている。「剣で突き刺すかのように無思慮に話す者がいる。しかし、賢い者たちの舌は人をいやす」。どうすれば「賢い者たちの舌」をもって話せるだろうか。 気持ちを伝えてくれたことや、高く評価してくれていることについて、ただ感謝を述べることができるだろう。無意識のうちに勘違いさせてしまったのであれば誤る。こちらには恋愛感情がないことを、はっきりと、しかし親切に伝える。相手が理解してくれず、もっときっぱりという必要がある場合でも、言い方や言葉を厳しくしてはならない。相手の傷つきやすい感情を扱っているのであるから、辛抱強く接する。立場が逆なら、そういう時の優しさをありがたく思うのではないだろうか。 しかし相手は、あなたがわざと気を引いたと言い張るかもしれない。具体的な例を挙げて、だから自分はその気になったのだと言う。『あの時、お花をくれたでしょう?』、『先日一緒に歩いていた時のあの言葉はどうなの?』という具合にである。このような場合、あなたは真剣に自己吟味しなくてはならない。
2005年05月06日
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「女の子から付き合ってほしいと言われ、悪い気はしませんでした。むしろ、うれしく思いました」。 「男性が女性に対して誠実でないなら、悲惨な結果になりかねません」。 一方は正直な気持を述べており、もう一方は付き合うことに対する現実的な見方を語った若者の言葉である。 女性から関心を示され、聞きたいことがあると言われ聞いてみるとあなたと付き合いたいので、あなたの気持が知りたいと言われた。 交際の申し込みは男性のほうからすべきだと考えている人にとって、これは意外なことかもしれない。そうだとしても、クリスチャンなら次のことを覚えておきたい。女性のほうから申し込みがあったとしても、聖書の原則に反するわけではないということである。このことを知っているなら、ふさわしい返事をしやすくなるだろう。 あなたはよく考えて、自分はデートをするにはまだ若すぎるとか、今のところその子に魅力を感じていないと結論するかもしれない。また、知らずに間違った印象を与えてしまったのだろうかと思い、罪悪感を抱くかもしれない。そんな場合はまず、相手の気持ちを思いやることが大切である。
2005年05月06日
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不親切な扱いを受ければ、生活に悪影響が及ぶ。互いに怒鳴ったり悪態をついたりする荒々しい人たちと接するのがつらくて、おおきく気落ちしてしまう人も少なくない。そのような親切の欠けた態度を示されると敵愾心がわき、不親切には不親切で返そうと思ってしまうかもしれない。 ストレスに満ち満ちた世界情勢も、親切を示すのを難しくしている。その上、幾百幾千万もの人が最低限の衣食住や医療しかない貧しい生活を余儀なくされている。このような将来に希望の持てない状況にあって親切を追い求めるのは易しいことではない。そのため、親切を示すのは優先事項などではなく、むしろ弱さのしるしかもしれない、と安易に結論付ける人もいる。 人に踏みつけにされたりすれば殊のほか、自分はただ利用されていると感じるかもしれない。とはいえ、聖書は、わたしたちが難しい状況に取り組まなければならないときに適切な導きを与えてくれる。 「温和な答えは激しい怒りを遠ざける」。― 箴言 15:1.
2005年05月06日
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聖書は、従順な人々がずっと平和に暮らすという希望を差し伸べている。それを実現するのは、神の王国である。「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように、地上においてもなされますように」と、イエスは模範的な祈りの中で述べた。(Matthew 6:10)神の王国でなければ、神のご意志が地上で確実に行なわれるようにすることはできない。なぜそう言えるのだろうか。この天の王国は、イエス・キリストの手中にある政府であり、地球に対する神の正当な主権を表明する神の手段だからである。― Psalms 2:7-12. Daniel 7:13、14. 天の王国の王であるイエス・キリストは、従順な人々をあらゆる束縛から解放する。人々を捕らえて放さないアダムの罪から、またその罪の結果である病気と死から自由にする。Revelation 21:3、4.にはこうある。「見よ!神の天幕が人と共にあり、……また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり、もはや死はなく、嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。
2005年05月05日
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「耳をくすぐるような話」を好む人は多くいる。前述のIsaiah 48:17、18は神の心からの訴えかけであるが、これは古代イスラエル人の人々が宗教上の偽りに惑わされていたからである。(Psalms 106:35-40)わたしたちも偽りに警戒しなければならない。クリスチャンととなえる人に関して、パウロが次のように書いているからである。『人々が健全な教えに堪えられなくなり、自分たちの欲望にしたがって、耳をくすぐるような話をしてもらうため、自分たちのために教え手を寄せ集める時期が来ます。彼らは耳を真理から背けるでしょう』。― 2Timothy 4:3、4. 宗教指導者たちは、配偶者以外とのセックス、同性愛、大酒など、間違った欲望を満足させる行ないを許容して、人々の耳をくすぐるような話をするのである。聖書は、こうした事柄を容認したり行なったりする人々は「神の王国を受け継がない」とはっきり述べている。― 1Corinthians 6:9、10. Romans 1:24-32. もちろん、聖書の規準にそって生きるには勇気がいる。あざけられる時などは特にそうだろう。しかし、聖書の規準にそって生きることは可能である。かつては麻薬中毒者、大酒飲み、ふしだらな人、ならず者、泥棒、うそつきだったという人が神の言葉を心に取り入れ、聖霊の助けによって生活を変化させ、「Jehovahにふさわしい仕方で歩む」ようになった。(Colossians 1:9、10. 1Corinthians 6:11)神との平和な関係を築くようになり、心が満たされたのである。さらに、将来の確かな希望をも得ることができたのである。
2005年05月05日
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『聖書全体は神の霊感を受けたもので、教え、戒め、物事を正すのに有益です』と、使徒パウロは書いた。(2Timothy 3:16)これは、イエスが神への祈りの中で述べた、「あなたのみ言葉は真理です」という一節と調和している。そのみ言葉とは、今日で言う聖書のことである。自分の信念や価値観が聖書にそったものかどうかを確かめるのは良いことである。― John 17:17. 自分の信念を神の言葉と比較する人は、パウロの教えが聖書と調和しているかどうかを確かめた古代のとしべレアの人々に倣うことになる。聖書筆者乗るかは、べれあの人々を批判するのではなく、その態度を褒めて、「極めて意欲的な態度でみ言葉を受け入れ、それがそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べた」と述べた。(Acts 17:11)宗教上の教えが入り乱れ、道徳が混乱している今日、真摯な態度を示したべレア人の手本に倣うのは大切なことではないだろうか。 霊的な真理が何かを見分ける別の方法は、その教えが人々の生活にどんな影響を及ぼしているかを観察することである。(Matthew 7:17)例えば、聖書の真理に従って生活するなら、夫、父親、妻、母親としてより良い人となり、家族はいっそう幸せになって、自分自身の満足感も深まる。イエスが述べたとおり、「神の言葉を聞いてそれを守っている人たちこそ幸いです」。― Luke 11:28. イエスのこの言葉と関連しているのは、天のみ父が古代イスラエル人に述べた次の言葉である。「わたし、Jehovahは、あなたの神、あなたに自分を益することを教える者、あなたにその歩みべき道を踏み行かせる者である。ああ、あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになるであろうに」。(Isaiah 48:17、18)善良と義を愛するすべての人は、このような温かな呼びかけに心を動かされるのではないだろうか。
2005年05月05日
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聖書は、人間は、なぜ生まれつき霊的な面を備えているのかを説明し、こう述べている。「神は人をご自分の像(カタチ)に創造してゆき、神の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された」。(Genesis 1:27)わたしたちは「神の像に」造られているので、罪と不完全さによって汚されていながらも、神の様々な特質を反映することができる。(Romans 5:12)例えば、創意工夫して物事を行なえる。またいろいろな面で知恵を示し、公正さを求め、献身的に愛を示す能力を持っている。過去を振り返り、将来の計画を立てることもできる。― Proverbs 4:7. Ecclesiastes 3:1、11. Micah 6:8. John 13:34. 1John 4:8. 人には霊的な事柄を受け入れる能力があるが、それは生まれながらに神を崇拝したいと願うところに一番よく表われている。創造者と何らかのかかわりを持ちたいという必要がふさわしく満たされなければ、ずっと続く真の幸福は見いだせない。「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」と、イエスは語った。(Matthew 5:3)とはいえ注意すべきことがある。霊的な必要は、霊的な真理によって満たさなければならない。この真理とは、神に関する事実、神の規準、人類に関する神の目的などのことである。では、霊的な真理はどこに見いだせるだろうか。聖書の中に見いだせる。
2005年05月04日
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聖書には「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸い」とある。これは人間にのみに与えられた能力である。例えば鳥は朝に目を覚ますと、しばらくさえずってから、えさを探しに飛んでゆく。夕方になると巣に戻り、ひとしきりさえずってから眠りに就く。季節が巡ると、つがいになり、卵を産み、ひなを育てる。ほかの動物も同じような決まったサイクルを繰り返す。 しかし人間はそうではない。もちろん人間も食べ、眠り、子孫を残しはするが、それで満足だという人はほとんどいない。自分がどうして生きているのか、人生の意義は何か、どうすれば将来に希望を持てるのかと考える。このように人が心の奥深くで何かを求めているということは、人間にしかない特性があることを示唆している。これを霊性と言う。つまり、人には霊的な事柄が必要で、それを受け入れる能力があるのである。
2005年05月04日
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ある二人のかわいい子どもをもつ父親は幸せな結婚生活を送っていた。しかし自分の人生には何かが欠けていると感じていた。仕事が見つからなかった時期に、政治にかかわるようになり、社会主義を受け入れ、熱心な共産党員になった。 しかし間もなく彼は共産主義に幻滅を感じ政治とのかかわりを絶ち、家族のために尽くすようになる。家族を幸せにするために生きることにしたのである。それでも、心の穴はどうしても埋まらず、本当の意味で心を満たすことはできなかった。 こうした経験はこの父親だけに限ったことではない。人生の意義を見いだそうとし、大勢の人が様々なイデオロギーや哲学、宗教を試してきた。西洋社会では、従来の道徳観や価値観への反抗として1960年代にヒッピー運動が生じた。とりわけ若者たちが幸せや人生の意味を求め、思考に影響を与える薬物を使い、師と仰がれる精神的指導者たちの哲学に傾倒したのである。とはいえ、ヒッピー運動が人を本当に幸福にすることはなかった。むしろ、相手かまわず性関係を持つ若者や薬物中毒者を生み出し、社会が堕落して道徳が乱れるのを速めただけだった。 幾世紀もの間、多くの人が、幸せになろうとして富や権力や教育を追い求めてきた。しかし、こうした歩みは結局のところ失望に至る。「満ちあふれるほどに豊かであっても、人の命はその所有している物からは生じない」と、イエス・キリストは述べている。(Luke 12:15) それどころか、執拗に富を追及する人はたいてい不幸せになる。聖書は次のように述べている。「富もうと思い定めている人たちは、誘惑とわな、また多くの無分別で害になる欲望に陥り、それは人を滅びと破滅に投げ込みます。金銭に対する愛はあらゆる有害な事柄の根であるからです。ある人たちはこの愛を追い求めて……多くの苦痛で自分の全身を刺したのです」。― 1Ti 6:9、10. では、どうすれば、生きる目的を見つけて心を満たすことができるのだろうか。暗がりの中で見えない的に向かってやみくもに矢を放つかのように、試行錯誤をしなければならないのだろうか。いいや、そうではない。人間特有のとても大切な必要を満たせば、心も満たされるのである。
2005年05月04日
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亡くなった愛する家族や親友と再会できるという輝かしい見込みについて考えたことのある方は少なくないだろう。 「死者はどこにいるか」と言う問いに聖書は明確な答えを差し出してくれている。真の希望を見いだすことができるのである。死者は苦しんだりせず、死んだ人は火の燃える地獄で責め苦にあったり、天使になるために神に召されたのでもなく、目覚めて復活する時まで墓の中で待っているのである。― 伝道の書 9:5、10. エゼキエル 18:4. もしかするとあなたとご家族も悲痛な経験をしたことがおありかもしれない。亡くなった愛する家族は今どこにいるのか、再び会える見込みはあるのかと考えておられるのならば、復活に関する聖書の教えを調べてみてはいかがだろうか。 また、『復活はいつ起きるのか。だれがその恩恵にあずかるのか』という疑問が出てくるかもしれない。そうした点について真の希望を教えてくれている聖書を調べることは本当に慰めとなるに違いない。
2005年05月03日
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このことがあってから900年ほど後、シュネムの少し北にあるナインという村外れで復活が起きた。カペルナウムを立ったイエス・キリストと弟子たちは、ないんの門に近づいた時、葬列に出会う。イエスは、一人息子を亡くしたやもめに目を留め、泣かないでもよいと声をかけられた。次にどうなったかを、医師のルカはこう伝えている。「そうして、[イエスは]近づいて棺台にお触りになった。それで、担いでいた者たちは立ち止まった。それからイエスは言われた、『若者よ、あなたに言います、起き上がりなさい!』すると、死人は起き直り、ものを言い始めたのである。次いでイエスは彼をその母にお渡しになった」。(ルカ 7:14、15)この奇跡を目撃した人たちは神の栄光をたたえた。この復活に関するたよりは、南方のユダヤに、また周囲一帯に広まった。興味深いことに、バプテスマを施す人ヨハネの弟子たちもそのたよりを耳にし、起きた奇跡についてヨハネに報告した。するとヨハネは弟子たちを遣わしてイエスを探させ、待望のメシアかどうかを尋ねさせる。イエスはその人たちにこう言った。『行って、あなた方が見聞きしたことをヨハネに報告しなさい。盲人は見えるようになり、足なえの人は歩き、らい病の人は清められ、耳の聞こえなかった人は聞き、死人はよみがえらされ、貧しい人々には良いたよりが告げられています」。― ルカ 7:22. イエスによる復活の奇跡の中で最も有名なのは、親友ラザロの復活である。この事例では、ラザロが死んでから、その家族の家にイエスが到着するまでに、かなりの時間が経過していた。イエスがようやくベタニヤに到着した時には、ラザロが死んでから四日たっていた。墓の入り口を覆う石を取りのけるようイエスが指示すると、マルタはそれを止めようとして、「主よ、もう臭くなっているに違いありません。四日になりますから」と言った。(ヨハネ 11:39)しかし、ラザロの体がどれほど腐敗していようとも、復活の妨げにはならなかった。イエスがお命じになると、「死んでいた人が、両足と両手に巻き布を巻かれたまま出てきた」のである。「その顔も布でぐるっと巻かれて」いた。イエスの敵たちが取った行動から分かるとおり、生き返ったのは確かにラザロ本人だった。― ヨハネ 11:43、44;12:1、9-11. 復活に関するこれら四つの記述から何が分かるだろうか。復活した人はみな、以前と同じ人として生き返った。どの人も、最も身近な家族から見てもまさにその人だった。復活してから、死んでいた短い期間に起きた事柄を語る人はいなかった。あの世に行ったことを話す人もいなかった。生き返った時にはみな健康な状態だったようである。その人たちは、イエスが暗に示されたとおり、しばらく眠った後に目を覚ましたかのように感じたことだろう。(ヨハネ 11:11)とはいえ、どの人もやがて再び死んだ。
2005年05月03日
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使徒パウロは、クリスチャンになったユダヤ人にあてた手紙の中で、信仰心の厚い女性たちが『その死者を復活によって再び受けた』と述べている。(ヘブライ 11:35)そのうちの一人はザレパテに住んでいた。地中海沿岸のシドンに近い、フェニキアの町である。その女性はやもめだったが、神の預言者エリヤを温かくもてなし、ひどい飢きんの間も食べ物を提供していた。悲しいことに、この女性の息子が病気で死んでしまう。エリヤは直ちに、滞在していた屋上の間に少年を抱えて上り、その命を回復させてくださるようJehovahに請願する。奇跡が起き、少年は『生き返』る。エリヤはその子を連れて母親の所に戻り、「ご覧なさい、あなたの息子は生きています」と言う。母親はどう反応しただろうか。喜びにあふれて、「今こそ、私はあなたが神の人で、あなたの口にあるJehovahの言葉は真実であることが本当に分かりました」と語った。― 列王第一 17:22-24. ザレパテの100キロほど南に住む寛大な夫婦は、エリヤの後継者である預言者エリシャの世話をしていた。妻は地元シュネムで著名な女性であった。この夫婦は、自宅の屋上の間でエリシャが寝泊りできるようにした。子どもがいなくて寂しかったこの夫婦は、息子が生まれて喜びにあふれていた。やがてその子は成長し、刈り入れ人たちと共に畑にいる父親のところに出て行くようになった。ある日、突然の悲劇が生じる。その子が頭痛を訴えたので、従者が急いで家に連れ帰った。男の子は母親のひざの上で抱かれていたが、とうとう死んでしまった。打ちひしがれた母親は、助けを求めてエリシャのもとに行くことにした。従者を連れて旅立ち、エリシャのいる北西のカルメル山に向かった。 事情を聞いた預言者エリシャは従者ゲハジを先に遣わす。到着したゲハジが見ると、少年は確かに死んでいた。エリシャと母親が後からやって来る。二人がシュネムに着いた後、どんなことが起きただろうか。列王第二 4章32-37節にはこう記されている。「ついにエリシャがその家に入ると、見よ、その少年は死んでおり、彼の寝いすの上に横たわっていた。そこで彼は中に入り、自分たち二人の後ろの扉を閉じて、Jehovahに祈りはじめた。ついに彼は上って行って、その子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分のたなごころをその子のたなごころの上に当てて、その子の上に身をかがめていると、その子どもの肉体はしだいに暖かくなった。それから彼は再び家の中で、一度はこちらの方へ、また一度はそちらの方へ歩きはじめ、その後、上って行き、その子の上に身をかがめた。すると、少年は七回もくしゃみをして、その後、少年は目を開いた。そこで彼はゲハジを呼んで、『ここのシュネム人の女を呼びなさい』と言う。それで彼女を呼ぶと、彼女はエリシャのところに来た。そこで彼は、『あなたの子を抱き上げなさい』と言った。そこで彼女は入って来て、彼のあしもとにひれ伏し、地に伏して身をかがめ、その後、その子を抱き上げて、出て行った」。 ザレパテのやもめと同じく、このシュネムの女性も起きた事柄が神の力によるものであることを知っていた。二人とも、愛する我が子の命を神が回復させてくださったので、大いに喜んだ。
2005年05月03日
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キリスト教世界で執り行なわれる葬式の話にはしばしば、死後にも生き続ける魂と復活の両方が登場する。例えば、聖公会の牧師はたいてい次の文言を唱える。「憐れみ大いなる全能の神が、世を去ったこの愛する兄弟の魂を召すことを喜びとされたので、わたしたちは兄弟の体を大地にゆだねます。土は土に、灰は灰に、塵は塵に。主イエス・キリストによる永遠の命への復活という確かな希望のもとに」。― 「聖公会祈祷書」。 この言葉を読むと、聖書が復活を教えているのか、それとも不滅の魂を教えているのか分かりにくく思える。この点で、フランスのプロテスタントの教授オスカー・クルマンが自著「魂の不滅か死者の復活か」で述べている事柄に注目できる。「クリスチャンが死者の復活に対して抱いている期待と、魂の不滅というギリシャ人の信条との間には、大きな相違がある。……キリスト教は後代にこれら二つの信条の結びつきを確固たるものとし、今日でも普通のクリスチャンはこの二つを全く混同してしまっているが、私と大半の学者が真理と考えている事柄を隠すべき理由は何もないと思う。……新約聖書の精髄と思想は、完全に復活への信仰によって支配されている。……実際に死んでいる人全体が、神の新たな創造的活動によって生き返らされるのである」。 死と復活に関する一般の人々の理解が混乱しているのも不思議ではない。この混乱を解決するには、聖書に目を向ける必要がある。聖書には、人間の創造者が啓示された真理が収められているからである。人間から出た哲学など真理からは大きくかけ離れている事実を知り、人間を創造された人格神であるJehovahのみ言葉聖書に記されていることが(唯一まことの)真理であることを認識しなければならない。聖書には、幾つもの復活の事例が記録されているが、そのうちの四つから明らかになる点について確かめてみたい。
2005年05月02日
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復活に対する信仰は世界のいたるところに見られる。イスラム教のコーランは一つの章全体を用い復活について論じている。その第75章にはこうある。「わたしは、復活の日において誓う。……人間はわれがかれの骨を集められないと考えるのか。……かれは、『復活の日はいつか。』と問う。……かれには、死者を甦らせる御力がないとするのか」。― 75:1-6、40.聖クルアーンより 「新ブリタニカ百科事典」にはこうある。ゾロアスター教では、悪が最終的に除かれ、人類一般が復活し、最後の審判があり、清められた世界が回復されてそこに義人が住むようになると信じられている」。 「ユダヤ大百科事典」は復活を、「究極において死者は自分の体を着けて生き返り、再び地上で生きる、という信仰」と定義している。そして、人間に不滅の魂があるという信条がユダヤ教に取り入れられて矛盾が生じたと述べ、「基本的に言って、復活と霊魂不滅という二つの信条は相容れない」ことを認めている。 ヒンズー教には輪廻の教えがあり、人は生まれ変わりを繰り返してゆくとされている。そのように生まれ変わるには、死後にも生き続ける魂を持っていなければならない。ヒンズー教の聖典「バガバッド・ギーター」にはこうある。「体全体に行き渡っているのは、破壊できないものである.不滅の魂を滅ぼすことはだれにもできない」。 仏教は、ヒンズー教徒は異なり、不滅の魂の存在を否定する。とはいえ今日、極東の仏教徒の多くは不滅の魂を信じている。
2005年05月02日
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家の洗面所で遊んでいた2歳半の息子は、薬が保管されている戸棚によじ登った。両親は、息子がそこまで登るとは思ってもいなかった。戸棚にはいろいろなものが入っていたが、息子は1本の瓶に興味を持ち、ふたを開けて中の液体を飲んだ。突然の悲劇が家族を襲う。 中身は強力な酸で、何とも悲痛なことに幼いこの息子は死んでしまったのである。両親は打ちのめされた。父親は所属していた教会に慰めを求め、「どうしてこんなことが起きたのでしょうか」と尋ねた。すると僧職者は、「小さな天使として神様に召されたのですよ」と答えた。我が子を亡くした父親はショックを受け、そんなひどい話しがあるか、と思った。こんなに痛ましい出来事が本当に神様のおぼしめしなのだろうか。 父親は、起きた事柄を思い返しては、『あの子は今も苦しんでいるのだろうか。またいつか会えるだろうか』と考えていた。 皆さんも、人は死ぬとどうなるのか、亡くなった愛する家族といつか再開できるだろうか、とお考えになったことがあるかもしれない。神の言葉 聖書は、こうした点に光を投じている。同様の悲痛な経験をした人すべてにとって慰めとなる、明快な答えを提示している。それだけではない。神が約束しておられる復活という輝かしい見込みも明らかにしている。
2005年05月02日
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ほんとんどの人は、神が設立された天の政府について知らない。諸国家は、自分こそ主権を握るべきだと考え、それを手放そうとしない。しかし神は、ご自分の主権とご自分が設立した政府とを認めようとしない者たちを容認されない。この政府を受け入れない者たちに関して、詩編 2編9節はこう述べている。「あなた[み子であるイエス・キリスト]は鉄の笏もって彼らを砕き、彼らを陶器師の器であるかのように粉々にする」。自覚しているかいないかにかかわらず、諸国家は現在、神との衝突に至る道を行進している。聖書の巻末の書は、「人の住む全地の王たち」が「全能なる神の大いなる日の戦争に」集められる様子を述べている。(啓示 16:14)諸国家と、分裂を引き起こすその歩みは終わりを迎える。その結果、神の政府は妨げられることなく使命を遂行する。 宇宙主権者であるJehovah GODはみ子を通して力を賢明に行使し、一致した世界の実現に必要な改革を実施される。神の政府は真の一致をもたらし、義を愛する人すべてに恩恵を与える。聖書の詩編72編というところをどうかご覧になっていただきたい。そこには神のみ子による支配が人類のために何を行なうかが予言的な言葉で描かれている。人々は真に一致した世界で暮らし、抑圧、暴力、貧困など、あらゆる問題が解消される。 今日の分裂した世界にあって、そのような希望は現実離れしていると思う人は少なくない。しかし、そう考えるのは見当違いと言える。神の約束が果たされなかったことは今まで一度もない。これからも果たされないことは決してない。(イザヤ 55:10、11)
2005年05月01日
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世界を一致させる唯一の方法は、すべての人の益を図る一つの世界的権威を設けることである。多くの思慮深い人がこの必要を認めている。とはいえ、そのような人でも、間違ったところにそれを期待することが少なくない。例えば、宗教指導者など多くの識者も、国際連合に世界一致の希望を託すよう勧めている。しかし、人間の組織は、どれほど崇高な理想を掲げたとしても、人類の抱える国際問題を解決できたことが一度もない。むしろそのような組織の大半が、諸国家の間に見られる不一致を反映している。 聖書は、解決を求めて人間の機関に頼ってはならないと警告し、こう述べている。「高貴な者にも、地の人の子にも信頼を置いてはならない。彼らに救いはない」。(詩編 146:3)では、世界の一致に関する限り人間に未来はないということなのだろうか。決してそうではない。別の解決策がある。 多くの人は気づいていないが、神は、世界を一致させる力を持つ政府をすでに設立しておられるのである。
2005年05月01日
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神の言葉聖書は、人間の支配がもたらす結果について的確にも次のように述べている。「人が人を支配してこれに害を及ぼした」。(伝道の書 8:9)人間は、世界を領土として分割することにより、集団また個人として聖書の次の言葉どおりのことを行なってきた。「自分を孤立させる者は利己的な願望を追い求める。その者はあらゆる実際的な知恵に逆らって突き進む」。― 箴言 18:1. 人間にとって何が最善かをご存じの創造者は、人間に自らの政府を樹立させ、自らを治めさせようとは考えておられなかった。しかし、人間は自らを治めることによって、神のお考えを、またすべてのものが神に属するという事実を無視してきた。詩編 95編3-5節はこう述べている。「Jehovahは大いなる神、他のすべての神に勝る大いなる王……である。そのみ手の中に地の最も内なる深みがあり、神に山々の峰は属する。神にご自身の造られた海は属し、そのみ手は乾いた地をも形造った」。神は、すべての人が支配者として仰ぐべき正当な主権者である。諸国家は自らの主権を追い求めることにより、神のご意志に逆らっている。― 詩編 2:2.
2005年05月01日
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