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世界の一致について何度も協議が行なわれてきたが、具体的な成果はほとんど上がっていない。多くの人の誠実な努力にもかかわらず、21世紀になっても世界の一致を達成できないのはなぜだろうか。 その答えの一面を示しているのは、APEC に出席した首相が述べた、「国家の威信と呼ばれるものがある」という言葉である。確かに、人間社会には国家主義が染み込んでいる。それぞれの国家や民族は、自己決定に基づいて行動したいという願望に突き動かされている。国家主権が競争心や貪欲と結び付貴、一触即発の状態を作り出している。国家の利益と世界全体の利益が対立する場合には、たいてい国家の利益が優先される。 聖書の詩編という書には適切にも国家主義を、「逆境を生じさせる疫病」になぞらえている。(詩編 91:3)国家主義は人類を襲う伝染病のように、計り知れない苦痛をもたらしてきた。国家主義およびその結果として生じる他の民族への憎悪は、ずっと昔から存在している。国家主義は今日でも不和の炎をあおっており、支配者たちはそれを抑えることができない。 世界の諸問題の根底には国家主義と利己主義がある、と見ている権威者は少なくない。ウ・タント元国連事務総長はこう述べている。「われわれが今日直面する問題の非常に多くは、間違った態度に起因するもの、あるいは間違った態度を取った結果である。……そのうちの一つは、『間違っていようがいまいが、自分の国は自分の国』という偏狭な国家主義の概念である」。それでも、今日の諸国家は自国の利益追求に夢中で、自国の主権をますます強硬に主張している。優位に立っている国は、わずかな利益を失うことも望まない。例えば、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙は欧州連合について次のように述べた。「相変わらず、競争意識と不信感がヨーロッパの政治の基本的な型となっている。EU加盟国の大半は、他の加盟国が影響力を増したり主導権を握ったりするのをいまだに承服できない」。
2005年04月30日
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わたしたちは、自分自身や愛する人たちのために、より良いものを夢見ることがあるかもしれない。しかし、わたしたちが不完全で、不完全な世に生活し、寿命も限られているという事実があるため、得られると現実的に期待できるものはどうしても限られてしまう。何千年も前に、ある聖書筆者はこう語った。「わたしは日の下で引き返して見たのであるが、速い者が競走を、あるいは力のある者が戦いを自分のものにするわけではない。また賢い者が食物を得るのでも、理解のある者が富を得るのでもなく、知識のある者たちが恵みを得るのでもない。なぜなら、時と予見しえない出来事とは彼らすべてに臨むからである」。―伝道の書 9:11. わたしたちは時々、毎日の日課に忙殺され、自分自身の存在や真の安らぎを得るために本当に必要な事柄について、もっと広い視野で見るのを忘れてしまう場合がある。次の古くからある知恵の言葉を考えてみていただきたい。「お金を愛する者は、それで決して満足しない。富を愛しても、富を得たところで、それで満足することができない。これもまた無意味なことである。それほどお金を持たず、毎日働いている人たちは、おいしい物を食べるかどうかにかかわらず、安眠できるが、金持は、いくらごちそうをたらふく食べることができても、不安を抱いて、安眠できない」。(伝道の書 5:10、12)では、どこに安らぎを見いだせるのだろうか。 自分の状況が、非現実的な夢を見ていた先述の若者の状況と幾分似ているなら、計画を変えられるだろうか。あなたを本当に愛している人たちは、彼の家族やクリスチャン仲間の友人たちのように、あなたを支えてくれるだろう。あなたを食い物にしようとする人たちのいる都会より、愛してくれる人たちに囲まれたつつましい環境のほうが、大きな安らぎを見いだせるかもしれない。 また先の夫婦がそうだったように、すでにたくさんのものを持っているなら、生活様式を調整し、真の安らぎをもたらす手だてである王国について知るよう、人々を貧富の別なく助けることに、より多くの時間や労力を振り向けられるだろうか。 出世や昇進を追い求めてきたなら、自分の動機を正直に吟味してみるのはよいことかもしれない。確かに、自分の自由になる便利なものは、生活に楽しみを加える場合もあるだろう。だが、恒久的な安らぎをもたらす真の手だてである王国に焦点を合わせていられるだろうか。「受けるより与えるほうが幸福である」というイエスの言葉を考えてみてはどうだろうか。(使徒 20:35) Jehovahとその王国に全幅の信頼を置く人々は、現在心温まる安らかさのうちに栄え、将来完全な安らぎを得ることを心待ちにしている。詩編作者はこう述べた。「わたしは自分の前に絶えずJehovahを置きました。神がわたしの右にいてくださるので、わたしはよろめかされることがありません。それゆえ、わたしの心は歓び、わたしの栄光は喜びに傾くのです。また、わたしの肉体も安らかに住むことでしょう」。―詩編 16:8、9.
2005年04月30日
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希望的観測はさておき、あなたは自分の現状をどう評価し、正直なところ将来に何を期待できるだろうか。何もかも持っている人などいない。ある賢明なクリスチャンは、「人生とは決してこれとあれではなく,これかあれかである、ということを学ばなければなりませんでした」と述べている。 イエスは、霊的な事柄の価値と比べれば物質的な事柄の価値は相対的なものであるという諭しを与えた後、目を「純一」に、つまり『焦点が合った状態』に保つようにと述べた。(マタイ 6:22)人生における主要な事柄は、神のみ名と王国を中心とする霊的な価値観や目標であることを明示したのである。(マタイ 6:9、10)他の事柄はそれほど重要ではなく、いわば焦点から外れている。 今のカメラの多くは、遠いものにも近いものにも自動的にピントを合わせる。あなたもそのような傾向があるだろうか。目にするほとんどのものに『焦点が合っている』、つまり、それらを重要で、望ましく、多少の希望的観測も相まって手が届くものとみなしているだろうか。そういう傾向が少しでもあれば、クリスチャンが焦点を合わせるべき重要な対象である王国は、目に入って注意をそらす他の様々なものの中で容易に見失われてしまう。イエスは、「ですから、王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば、これらほかのものはみなあなた方に加えられるのです」という強い訓戒を与えた。―マタイ 6:33.
2005年04月30日
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この話は、さまざまなバリエーションで幾度となく語られてきたものである。ベニンに住む年配の村人が若者たちに話したのは、次の内容のものである。 丸木舟に乗って家に帰った漁師が、この発展途上国で働く、外国から来た専門家に会います。専門家は漁師に、なぜこんなに早く帰って来たのかと尋ねます。漁師は、もっと長く漁をしていてもよかったが、家族を養うのに十分な魚を捕った、と答えます。 「では、空いている時間は何をするのですか」と専門家は尋ねます。 漁師はこう答えます。「そうだな。少し釣りをしたり、子どもたちと遊んだり、暑い時はみんなで昼寝をしたりする。晩には一緒に夕食を取って、その後、仲間と集まって音楽を楽しむ。そんな感じかな」。 専門家は、こう口をはさみます。「わたしは大学の学位を持っていて、こうした事柄を研究してきました。あなたを助けたいのです。もっと長く漁に出たほうがいいですよ。そうすれば収入が増えて、そのうちこの丸木舟より大きなボートを買えます。大きなボートがあれば、さらに収入が増え、やがてトロール船の船団を持てるようになります」。 「それから?」と漁師は尋ねます。 「そうなれば、仲買人を通して魚を売る代わりに工場と直接交渉できますし、自分で魚の加工場を始めることさえできます。村を離れて、コトヌーやパリやニューヨークに行き、そこから事業を経営できます。株式市場に上場することも考慮できます。お金持ちになれますよ」。 「それにはどれくらい時間がかかるんだい」と漁師は尋ねます。 「おそらく、15年から20年でしょう」と専門家は答えます。 「それから?」と漁師は質問を続けます。 「人生が面白くなるのはそれからです」と専門家は説明します。「退職して、都会の喧騒から離れ、田舎の村に落ち着けます」。 「そしてどうなる?」と漁師は尋ねます。 「そうなれば時間のゆとりができて、少し釣りをしたり、子どもたちと遊んだりできますし、暑い時には昼寝をし、家族と一緒に夕食を取り、仲間と集まって音楽も楽しめます」。 では、次の質問に答えてみてほしい。自分の人生の重要な目的地、または目標は何だろうか。そこへ達する最短の道はどれだろうか。長く不安定な回り道をしていないだろうか。それほど複雑な道を取らなくても、本当に望んでいるものや現実的に達成可能な事柄に、到達できないだろうかと…。
2005年04月29日
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出世することが安らぎにつながると考えたくなるなら、こう自問してみてほしい。『どの地位にいる人が実際に真の安らぎを得ているだろうか。それを得るために、あとどれくらい出世しなければならないのだろうか』。仕事上の成功は偽りの安心感をもたらす場合があり、そのような安心感は失望や、悪くすると悲惨な失脚にさえつながりかねない。 神のみ前で良い名を得るなら、人々の間で名声を得るよりもずっと大きな安らぎがもたらされることを、実際の経験は示している。Jehovahだけが人間にとこしえの命という賜物をお与えになれる。それには、この世の紳士録ではなく、神の命の書に名前を書かれることが関係している。―出エジプト記 32:32.啓示 3:5.
2005年04月29日
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お金は安心感をもたらすだろうか。ある女性は、「若いころは、お金があれば心配はいらないと思っていました」と述べている。彼女は経済的に安定した男性と恋に落ち、やがて結婚した。彼女は安らぎを感じただろうか。こう続けている。「結婚した当時、私たちには立派な家と2台の車があり、自分たちの財政状態からすれば、物質上の物、旅行、レクリエーションなど、ほとんど何でも楽しむ自由がありました。でも不思議なことに、私はやはりお金のことで心配していました」。彼女はその理由をこう説明している。「失うものがとても沢山あったのです。多く持てば持つほど、安心できなくなるように思えます。お金はあっても心配や不安から自由にはなれませんでした」。 安心できるほど十分のお金がないと感じるのであれば、こう自問してみてはいかがだろうか。『本当の問題は何だろうか。本当にお金が足りないのだろうか、それともお金を賢明に管理できていないのだろうか』。彼女は過去を振り返り、こう述べている。「今になって分かるのですが、私が子どものころに家族がいろいろな問題を抱えていたのは、ずさんな家計管理が原因でした。付けで物を購入しましたから、支払えないほどの負債をいつも抱えていました。それがもとで心配が絶えなかったのです」。 しかし今、彼女とその夫は、以前ほどお金を持っていないものの、ずっと安らぎを感じている。二人は神の言葉の真理を知った時、お金に関する魅惑的な話に耳を貸すのをやめ、神の知恵に聴き従うようになったのである。例えば次のような言葉がある。「わたしに聴き従う者は安らかに住み、災いの怖れによってかき乱されることはない」。(箴言 1:33)二人は、多額の銀行預金より、もっと意味のある人生を望んでいたのである。 次の基本的な真理を思いに留めておきたいものである。神に対して富むことは、物質の富を持つことよりはるかに価値があるということである。聖書の中で一貫して強調されているのは、物質の富を所有することではなく、神のみ前で良い立場を得ることである。その立場は、信仰のうちに神のご意志を行ない続けることによって保てる。キリスト・イエスは、『神に対して富み、宝を天に』蓄えるようにと勧めた。―ルカ 12:21、33.
2005年04月29日
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発展途上国では、強いあこがれをかきたてるような宣伝により、人々は大都市に引き寄せられている。そうした宣伝の背後にある組織は、あなたが安らぎを見いだすことには必ずしも興味がなく、むしろ自分たちの売り上げのほうに関心がある。現実の世界の諸問題を覆い隠し、安らぎに満ちた成功の様子を描いてみせるのである。こうして、安らぎは、宣伝されている製品や大都市と結びつけられることになる。 次の例を考えてみていただきたい。ある西アフリカの都市の当局者たちが、喫煙は苦労して稼いだお金を燃やしてしまうのと変わらないということを生々しく示す広告板を掲げた。それは、市民に喫煙の危険性を警告するキャンペーンの一環だった。たばこの製造業者と販売業者は、それに対抗して巧妙なデザインの広告板を掲示し、幸福と成功に彩られた魅力的な場面に喫煙者を置いて見せた。さらに、あるたばこ会社は,凝った制服に派手な野球帽という格好の従業員を街頭に立たせ,若者たちにたばこを配って、“試してみる”よう勧めた。それらの若者の多くは村の出身で、巧みな宣伝作戦に慣れていなかったため、その誘いに引っかかってしまった。そして、たばこ中毒になった。若い村人たちは、家族を支えることや経済的な成功を目指し、安定を求めて大都市にやって来た。ところが、よい目的のために使えたはずのかなりのお金を、いわば燃やしてしまうことになったのである。 大都市での成功した人生を描く宣伝の出どころは、商業関係者だけとは限らない。大都市に移り住み、故郷の村に帰るのを気まずく感じている人たちも、宣伝めいたことを語る場合がある。失敗した人のように見られたくないため、都会で手に入れた富や成功についてうそぶくのである。しかし、そうした主張とは裏腹に、現状をよく調べてみると、その人たちの暮らしぶりは以前の村での生活と比べて良くなってはいないことが明らかになる。都市に住む大半の人々と同様、経済的に苦しんでいるのである。 大きな都市では特に、安らぎを求めて到着したばかりの人たちが、悪らつな人々のえじきになる。なぜか。都会に来て間もない人は大抵、まだ親しい交友関係を築くほど時間がたっておらず、家族からも遠く離れている。そのため、物質主義的な都市生活の落とし穴を避けるよう助けてくれる相談相手がいないのである。
2005年04月28日
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安らぎを見いだすのは難しく、仮に見いだしたとしても一時的であることが多いのはなぜだろう。わたしたちの感じる安らぎは、想像上のもの、つまり、実際に得られるというよりは得たいと願うものに基づいているのではないだろうか。そうした錯覚を抱くなら、夢の世界にいるようなものかもしれない。 想像力を働かせれば、不安の多い人生の現実を離れ、夢を壊しかねないものはすべて無視して、すばらしく安らかな状態に浸ることができる。が、現実の世界の諸問題によって夢の世界に突然邪魔が入り、幸福感が容赦なく奪われ、夢を見ていた人がありのままの現実に引き戻されることは少なくない。 人々が安らぎを求める一つの分野、地理的な場所について考えてみる。例えば大都市は、明るい将来を約束しているように見えるかもしれない。楽しいひととき、高収入、しゃれた住まいといった見通しを思い描かせるからである。確かにそういうものは、待望の安らぎを与えてくれるように思える。しかし、そうした見方は現実的だといえるだろうか。
2005年04月28日
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西アフリカの小さな村で、一人の若者が、家族や友人たちに別れを告げ、経済的な安定を求めて大都市へと旅立った。 しかし、到着して間もなく、都会の道にお金が転がっているわけではないことが分かり、希望が薄らいでゆく。 都会の生活に慣れようと苦闘する彼は、かなり幻滅した。大都市は、想像していた所とは全く違うのである。後にしてきたあのつつましい村の家族や友人たちのもとへ帰りたい、そんな強い思いが心の奥でずっとくすぶっている。しかし、一部の村人にばかにされないかと心配している。『都会でうまくやれなかった落ちこぼれだと言われるだろう』と、不安が胸をよぎる。 彼にさらに重くのしかかっているのは、両親がどれほどがっかりするかということである。両親は彼の仕送りを当てにしているのである。彼は、この精神的な重荷に対処しようと努めながら、立場の低い仕事に就き、長時間働く。しかし、思い描いていた額のほんの一部しか稼げない。働き過ぎて、疲れ果てている。とても大切にしているクリスチャンの活動のために残された時間は、週を追うごとに減ってゆく。温かい家族や旧友から遠く離れ、ひとりぼっちで寂しさを感じる。彼は、都会に来ても、あれほど切望していた安らぎが得られないことに気づく。 名前や場所の違いはあるものの、この若者のような悲しい経験は繰り返し生じている。彼は、利己的な願望を抱いて移動したわけではない。安らぎを求めていただけである。故郷の小さな村にいるより、都会に出たほうがチャンスがあると誠実に考えたのである。もちろん、人によっては物質的な境遇が改善される場合もあるが、それで真の安らぎがもたらされるわけではない。事実、この若者は安らぎを得ることはできなかったし、同じように試みる人の大半もおそらくそうだろう。であるから、『安らぎとは何だろうか』という疑問が生じる。 安らぎのとらえ方は人によってさまざまであることはいうまでもない。ある辞書は安らぎについて、「危険のない状態」または「恐れや不安のない状態」と述べている。ほとんどの人は、今日、全く「危険のない状態」など存在しないことを理解している。周囲に不穏な状況が見られるとしても、安らぎを感じることさえできれば、それで満足するのである。 あなたはいかがだろうか。どこに安らぎを求めておられるだろうか。先の若者が考えたように、それは村ではなく都会に見いだせるのだろうか。それとも、どこでどのように稼ぐかに関係なく、お金があれば得られるのだろうか。あるいは、出世すれば見いだせるのだろうか。どこに見いだせると考えるにせよ、その安らぎはあなたとご家族にとってどれほど長く続くだろうか。 多くの人が安らぎを求める三つの分野―地理的な場所、お金、立場や地位―について考えてみたい。その後、恒久的な真の安らぎをどこに見いだせるかを調べてみたい。
2005年04月28日
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英国の通商産業省が公表した1999年の病院統計によると、「家庭での事故のために毎週76人が死亡した。交通事故による死者よりも多い」とロンドンのガーディアン紙は伝えている。「日曜大工の道具、階段、カーペット、熱湯のやかん」などが死亡事故のおもな原因とされている。年間で見ると、洗濯物のかごにつまずいて転んだために救急処置室に行く人は3000人、ソックスやタイツを引っ張り上げようとしたときの事故で入院する人は1万人、野菜を切っていてけがをする人は1万3000人を超える。アルコールが関係している事故は10万件ほどあった。王立事故防止協会の女性スポークスマンは、「仕事中や路上では用心していても、家庭では気が緩む。ティーポットのカバーを外そうとして、熱湯でいっぱいのティーポットを足の上に落とすなら、たいへんなことになる」と述べている。 事実、高齢者のほとんども家庭内での事故やそれが本で亡くなっている。思ったより、家の中は危険な箇所が多くあることに驚かされる。
2005年04月27日
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事故現場での救急処置として、体の傷に注意を向けるほかに必要なことがある。負傷者には感情面での援助も必要であると、南ドイツ新聞は過去に伝えている。それはどんな種類の援助なのだろうか。ドイツ心理学者協会は、「感情面での救急処置」を施すための簡単な4段階を提案している。この提案は、事故に遭った人や専門家へのインタビューで作成された。以下の点が勧められている。「自分がそばにいることを負傷した人に告げる。負傷者が気を散らさないように守る。負傷者の体に触れるようにする。話しかけたり、耳を傾けたりする」。この手順を医師たちと自動車教習所を通して普及させる働きかけ、また救急処置の課程に組み込むための働きかけが進行中である。 すでにこの課程が組み込まれているのか知らないのですが、いつどこで事故に遭遇するかはだれにも分かりませんし、まただれでも遭遇する可能性があることも事実です。そのような時、感情面への救急処置の知識・技術を習得しているならば大いに役立つことでしょう。もちろん表面的なものではなく内奥から出てくる動機が他の人に対する思い遣り、『愛』から生じるものであるならそれはよりいっそうの効果を生むでしょう。
2005年04月27日
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道理にかなった範囲で健康の維持を意識しているなら、病気の危険を減らすことができる。この点で、知識はある種の保障となる。健康に害となるものについて知っておき、何か健康上の問題が生じた時には、すぐに対応していただきたい。より重要なこととして、自分と自分の家族の健康を守る方法を学んでいただきたい。昔から言われているとおり、「予防は治療に勝る」ことを忘れないでほしい。重要な保障 この不完全な世界で保険は実際面で大いに役立つものではあるが、どんな保険証券も、わたしたちを完全に保護し、損失を余すところなく補償できるわけではない。しかし、保険があるかないかにかかわりなく、ある人たちは、決して無力なままにされてしまうことはないという確信を持っている。なぜか。なぜなら、何か不慮の事態が生じるとき、イエス・キリストの真の追随者―イエスの父Jehovah Godに仕える人たち―は、互いの重荷を軽くするため、できる限り助け合うからである。―Psalms 83:18.James 2:15‐17.1 John 3:16‐18. さらに、Jehovahご自身も、ご自分の忠実な僕たちを決して見捨てないと約束しておられる。聖書の詩編作者はこう書いた。「わたしの父とわたしの母がわたしを捨て去ったとしても、Jehovahご自身がわたしを取り上げてくださることでしょう」。(Psalms 27:10)命の源であるJehovahは死んだ人たちを復活させることができ、聖書によると、神は死者をよみがえらせる権能をみ子イエス・キリストに与えた。(Psalms 36:9.John 6:40、44)とはいえ、だれもが復活するわけではないことを神の言葉は示している。(John 17:12)では、どうしたら復活の際に必ず神に思い出していただけるのだろうか。 イエスは有名な山上の垂訓の中で、事実上最も信頼できる保障について述べた。そこにはこうある。「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは蛾やさびが食い尽くし、また盗人が押し入って盗みます。むしろ、自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは蛾もさびも食わず、盗人が押し入って盗むこともありません。あなたの宝のある所、そこにあなたの心もあるのです」。―Matthew 6:19‐21. 多くの人は、老後に安楽な生活ができるようにと貯蓄を考える。しかしイエスは、より安全な形の保障を示した。その価値は計り知れず大きく、決して無駄に終わることはない。イエスはこう説明した。「彼らが、唯一まことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること、これが永遠の命を意味しています」。―John 17:3. 神とみ子に関する正確な知識を取り入れ、学んだ事柄を生活に当てはめるなら、神との間に良い信用関係を築くことができる。(Hebrews 6:10)使徒のペテロとヨハネは共に、主人イエス・キリストの教えに基づく信条として、人間の支配する現在の体制が終わりに至ることを強調した。そしてヨハネは、「神のご意志を行なう者は永久にとどまります」と述べている。―1 John 2:17.Matthew 24:3、14.2 Peter 3:7、13. 神に仕える人は、たとえ死んだとしても神が復活させてくださることを、またこの事物の体制が終わる時に生きていれば義の宿る新しい世へと導き入れてくださることを、確信できる。実際に神は、『[わたしたちの]目からすべての涙をぬぐい去り』、「すべてのものを新しくする」と約束しておられる。(Revelation 21:4、5)神に仕え、その約束に信頼を置くことは、確かに最良の保障である。しかもそれは、すべての人に差し伸べられているのである。
2005年04月27日
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安全を意識するだけで、生活の中の危険を大いに減らすことができる。だれもが注意深く、安全なスピードで運転するなら、悲惨な交通事故の多くを防げるのではないだろうか。また、疲れ切っているときに運転したり、お酒を飲んで運転したりする人がいなければ、どれだけの人命が救われることだろう。わたしたちの努力で減らせる運転時の危険はほかにもある。 一例として、幾つかの国では、運転中に携帯電話を使用することが法律で禁じられている。ある研究によると、電話の使用によって事故の危険は4倍に増えるという。これは、多くの土地で法律上飲酒運転とみなされている血中アルコール濃度0.1%で運転するのに相当するそうだ。 いつもシートベルトを着用することも、運転者および同乗者が死亡する危険を減らす。しかし、シートベルトやエアバッグなどの安全装置が付いていて、保険も掛けているから、少しぐらいの危険を冒してもよい、などと考えてはならない。そのような考え方が事故につながることは、調査からも明らかである。このような分別に欠ける考え方をなさる方はまずいないと思うが… 自宅でも職場でも、安全を意識していることはよい保障となる。あなたの住まいや仕事場は、きちんと片づいていて、危険な物が除かれているだろうか。周りを見渡していただきい。つまずくような物が廊下に置いてないだろうか。鋭利な物、また熱い物、例えばストーブ、ヒーター、アイロンなどが、無造作に置かれていて、けがややけどのもとにならないだろうか。紙その他の可燃物がたまっていないだろうか。子どもたちにとって危険なものにはとりわけ注意してほしい。例えば、アルコール飲料や有毒な洗剤類はみな、幼い子どもの手の届かないところに保管されているだろうか。
2005年04月26日
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実際的な知恵を働かせることは保護となる。経済的なゆとりのある時期に、まさかの事態に備えて取り分けておくことができるかもしれない。古代において、神を恐れる人ヨセフは、豊作の時期にエジプト全土のために食糧を蓄え、それによって「思慮深くて知恵のある人」であることを示した。後にエジプトで飢きんが生じたとき、ヨセフの行動は、エジプト人だけでなく、ヨセフ自身の身内にも必要物を供給する結果となった。―Genesis 41:33‐36. 何を買うかに関して節度を保つことも保護となる。最新の製品、ファッション、娯楽を常に追い求めるようなことをしないなら、節約になり、ストレスの軽減にもつながる。そのようなものを追い求めても真の安全はほとんど、もしくは全く得られない。実際、所有物が多いほど、盗難や損失の可能性も大きくなる。―Luke 12:15.
2005年04月26日
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保険の普及した所に住んでいても、そのようなもののない所にいても、すべての人が持てる、いや、持つべきある種の“保険”がある。「保険」(insurance)には、「保護や安全のための保障」という意味もある。どうすればそのような保障を得ることができるだろうか。 実際的な措置を講じることによって、直面しうる危険を減らすことができる。聖書は、すべての人に『時と予見しえない出来事とが臨む』と述べている。(Ecclesiastes 9:11)それでも、不必要な危険を冒さないようにするなら、けがや損失の可能性は小さくなる。
2005年04月26日
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交通事故によって死亡したり体に障害を抱えたりするのは現代の災厄であると言っても過言ではない。交通事故による死を予防するワクチンはない。交通事故は一瞬にして起こり得るが、その影響は一生のあいだ残り、大勢の人の生活に影響を及ぼす。 幼い子供と十代の若者はどちらも自動車事故に遭いやすいが、その理由はかなり異なっている。十代および20代前半の若者は大抵の場合に自分の愚かさが原因で事故に遭う。ごく幼い子供の場合は、ほとんど例外なく、ほかの人の不注意が原因である。例えば米国では、「0歳児から4歳児の間では、自動車事故で死亡したり負傷したりする子のほうが、小児麻痺の流行した最もひどい年にその犠牲になった子供よりも多い」と、「ヒューマン・ファクターズ協会安全専門分科会回報」は伝えている。 交通事故の特効薬で、ごく簡単でありながら、しばしば、ないがしろにされるのは、シートベルトの常時着装である。ロンドンの交通局の調べでは、シートベルトの着装を義務づける法律が発効してから6か月後に、病院に担ぎ込まれる死傷者の数が5分の1に減ったというデータがある。4歳未満の子供たちにとって、自動車用拘束座席の正しい使用は文字通り命を救うものになる。「アメリカ医師会ジャーナル」誌に載せられた研究によると、幼児用の自動車座席は命を救う最も効果的な措置の一つである。 身も凍るような次の事実に注目していただきたい。時速50キロほどで走っている車が衝突すると、車の中にいる体重4.5kgの乳児がダッシュボードにぶつかるときの衝撃は、乳児が3階建ての建物から落ちて地面に当たる際に感じる衝撃に匹敵する。シートベルトを着装することがどれほど意味のあることかお分かりになるはずである。自分も、家族もそれを習慣にするように心掛けたい。 無知、不注意、利己心、それにイライラなどが大抵の交通事故の根本原因になっている。運転中に、自分がこうした傾向を示すのに気づいたことがおありだろうか。ほかの人が見てそうした傾向にお気づきになられるだろうか。例えば、ほかのドライバーが割り込んできたらどんな反応を示されるだろうか。憤りや欲求不満や怒りなどとは無縁の、ふさわしい態度を培うことにより、危険な感情が頭をもたげるのを未然に防ぐようにしたいものである。端的に言えば、感情を制御するのである。次の賢明な助言に従うようにしたい。「分別があれば、あなたは腹立ちを抑える。悪いことをされたとき、それを無視するのは大きな美徳である」―箴言 19:11。 路上での安全をさらに図るための別の方法は、交通や天候、それに自分の車についてもっと学ぶことである。さらに重要なこととして、自分の能力だけでなく限界をもわきまえなければならない。その結果、正しい態度と、正確な知識の所産である的確な判断力が身に着く。 優れたドライバーとなるにはほかに何が必要とされるだろうか。研究者たちは、安全なドライバーには次のような共通点が見られることを明らかにしている。「彼らは専ら注意を集中して運転し、車を完全に流れに乗せる力と、これから先に起きるかもしれない事柄を常に予想する力を備えているようだった」。それに加えて、「彼らは歩行者と他のドライバーに対して礼儀正しい」とされている。特に真のクリスチャンの場合には、そうした特質が当然見られるはずだと思われないだろうか。真のクリスチャンは、『人にして欲しいと思うようにほかの人にもする』という黄金律を信じているからである。―マタイ 7:12。 であるから、良いマナーを示し、身を守るような運転をするよう心掛ける。あたかも、自分と他の人々の命がそうした運転にかかっているかのように運転するのである。 公共の交通機関を使って出かけるということもある。バスや市電を使って出かける場合の幾つかの安全心得をここに挙げてみる。○ 乗り降りの際には、滑りやすい昇降段や舗道に注意し、行きかう車にも気を付ける。○ 運賃を用意しておく。乗り物に乗ってから小銭を探すと、バランスを崩しやすくなることがある。○ 手すりをつかむために一方の手には何も持たないようにする。乗り物がスピードを落としたり曲がったりするときには、足を踏ん張る。○ 乗り物の直前直後から通りに飛び出してはならない。○ 夜間には、明るい色の服を着るか、歩く際に懐中電灯を携帯するようにする。 家庭にいても、職場にいても、休暇を取っていても、わたしたちの命は毎日危険にさらされている。危険な要素を完全に取り除くことはできないが、安全を心掛ける意識があれば、その原因の大半を取り除くことができる。過去に米国の公衆衛生局局長は、「米国の死亡者の半数は……不健全な行動や生活様式によって死を迎えたと言えるかもしれない」と述べている。言い換えれば、安全に生活するには単に情報を得るだけでは十分ではないのである。責任のある、注意を怠らない、気遣いを示す生活の型を培い、それを保つ必要があるのである。安全を心掛けることがあなた(わたし)の生き方になっているだろうか。
2005年04月25日
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問: 大きな苦しみを引き起こし、無数の人々を身体障害者にさせ、あらゆる年齢層で死因の上位を占め、費用の面で社会に重い負担をかけ、どの国にもあり、それでいて医学校の履修課程や研究課題にはめったに加えられない流行病は何か。 答: 事故 上に挙げた質問は、現代の悩みの種とも言うべき事故にスポットライトを当てている。
2005年04月25日
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無理な仕事の予定を守ろうとすることには、危険が伴う。オーストラリアにあるカーティン大学のローソン・セイベリー教授は、360万人の労働者と3万7200か所の職場を対象とした調査の結果を分析し、別の研究者と共に研究報告を発表している。その題は、「長時間労働: それは危険か、人々はそれを承諾しているか」というものである。この二つの問いかけに対する答えは事実上、「はい」だった。 実際、疲れた労働者は能率が低下し、間違いも多くなる。オーストラリアのサン‐ヘラルド紙は、セイベリー教授のコメントをこう伝えている。「多くの企業は仕事中毒を奨励し、仕事中毒の人を積極的に見いだしては報奨した」。こうしたことは悲惨な結果につながりかねない。とりわけ運送業界において、この問題は顕著に現われている。運転手は、休憩を取らずに長時間運転するよう勧められ、場合によってはそれを強制されることもある。これは、国によっては違法な労働である。 危険をもたらす別の要因は、よくない仕事の習慣で、整理整頓や清潔さをないがしろにすることなどが含まれるかもしれない。床に道具が散らかっていたり、電流の流れている電線がむき出しになっていたりするなら、事故が起きやすく、死につながりかねない。同じことは、安全注意事項を無視して電動工具や機械類を使用することについても言える。また、こぼれた液体をそのままにしておくことも、けがや死の原因となる。有毒な液体は特にそうである。作業者が油や水のこぼれた床ですべってけがをした例は少なくない。であるから、清潔で整然とした状態を保つことは、良い仕事をするうえで第一の原則と言える。 ところが、多くの人は安全手順を無視するという誘惑にかられる。マンスリー・レイバー・レビュー誌は、「仕事上の圧力から、種々の要求を満たすには何かを省略しなければならないという考えに陥ることがある」と述べている。ある人は安全規定について、『それを無視しても問題が生じたことはない』と言い訳するかもしれない。ある経験豊富な工場長は、この点に注意を向けてこう述べている。「仕事における極めて大きな問題の一つは、安全手順を無視してうまくやりおおせてしまうことです」。なぜだろうか。それは自信過剰や不注意を助長し、さまざまな事故につながるからである。 1986年に起きた、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所の爆発は、しばしば「世界最悪の原発事故」と言われる。何がいけなかったのか。その惨事に関する報告は、「ずさんな作業工程表」や「度重なる安全注意事項の無視」などを挙げている。 雇い主と従業員は互いに協力し、安全上の問題となり得る事柄を予見できる。聖書の賢明な格言は、「災いを見て身を隠す者は明敏である」と述べている。(箴言 22:3)そう、賢い人は、危険が生じそうな状況に気づいて、自分や他の人を守る方法を探すのである。 雇い主がこのことを行なうなら、自分たちだけでなく従業員にも益となる。例えば、ある企業は“シックビル症候群”を避けるためにオフィスを改装したところ、程なくして生産性が向上し、社員の満足度が著しく高まったことに気づいた。病欠する人が減ったことも分かった。他の人の健康に対するこうした配慮は、雇い主と従業員にとって好ましい雰囲気を作り出すだけでなく、この場合のように経済的にも大きなメリットをもたらし得る。
2005年04月25日
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労働衛生や安全に関する法律があるにもかかわらず、職場でのけがや死は依然として大きな問題となっている。であるから、法律を設けるだけで職場が安全な場所にならないのは明らかである。雇い主と従業員は、自分や他の人の安全について、ある程度の責任を負わなければならない。 したがって、すべての従業員が職場環境や仕事の習慣を注意深く吟味するのは賢明である。例えば、あなたは職場が本当に安全かどうか確かめたことがあるだろうか。有毒物質を扱っているだろうか。もしそうなら、適切な保護が与えられているか。常にストレスを感じていないだろうか。労働時間を定める法律に抵触する仕事の予定を引き受けているだろうか。 こうした質問に答えるなら、職場の安全性に関して、多くのことが明らかになるかもしれない。
2005年04月24日
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仕事をしている人であれば、生産的であるよう相当のプレッシャーがかけられることは珍しくない。日本で「過労死」という言葉が使われ始めたのは、被害者の遺族が補償を求めて訴えた時のことである。何年も前の調査によると、日本のサラリーマンの40%が、自分は過労死するかもしれないとの懸念を抱いていた。この種の訴訟を専門に扱っている一弁護士は、「日本では毎年少なくとも3万人が過労死している」と推定した。 日本の警察庁は、50歳から59歳の年齢層で自殺が増えている主な要因として仕事上の問題があると指摘していた。「暴力の起きやすい職場」という本によると、ある法廷は、仕事からくる心労に悩まされていた従業員の自殺について、雇い主に責任があると裁定した。 オーストラリアのキャンベラ・タイムズ紙は、『アメリカ人は日本人を追い越し、世界で最も多くの時間を仕事に費やしている』と述べた。それで多くのニュース記事は、「長時間労働が人々を死に追いやる」といった見出しを掲げて、救急車の運転手、パイロット、建設や運送関係の作業員、夜勤者など、疲れきった労働者が仕事中に死亡していることを取り上げている。 企業が利益を保つためにリストラやダウンサイジングなどの措置を講じるとき、従業員には生産性を高めるようますますプレッシャーがかかる。ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル誌は、ダウンサイジングが従業員の健康に有害な影響を及ぼすと報告している。
2005年04月24日
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「交通事故で死ぬ人よりも、職場で死ぬ人のほうが多い」。このような太字の見出しを掲げたポスターが、オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州にあるワークカバーという労働安全機関によって配布された。 死に至るような労働事故は、問題の一部にすぎないと言える。毎年大勢の人が勤務先で、人生を一変させかねない深刻なけがを負う。また、仕事中に危険物質にさらされたり、職場でストレスを抱え込んだりして、早死にする人も少なくない。 死や重傷といった労働災害は、産業界や商業界のほとんどすべての分野で生じているため、次のような質問は適切と言えるだろう。あなたの勤務先はどれほど安全だろうか。あなたの健康や命を脅かしかねない、どんな状況が見られるだろうか。
2005年04月24日
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サンパウロのにぎやかなノーベデジューリョ通りを横切ろうとしていた若くて魅力的なファッションモデルの目には、近づいてきたバスが見えなかった。バスの運転手は必死にブレーキをかけたが、間に合わない。彼女はバスにひかれて死んだ。 この悲惨な事故は、ブラジルの新聞「オー・エスタド・デ・サンパウロ」(1990年7月29日付)の第一面に掲載された。しかし、彼女はブラジルで毎年5万人を数える交通事故死者の一人にすぎない。また、交通事故によって障害者になる人がさらに幾万人もいる反面、事故に遭っても無傷の人もいる。では、なぜこの若い女性は助からなかったのだろうか。その日に死ぬ運命にあったとでもいうのか。 その通りだと言う人は数えきれないほど大勢いることだろう。そういう人たちは運命を信じている。つまり人の誕生の時刻をはじめ、大きな出来事は前もって定められているというわけである。このような信条から、「運命には勝てない」とか、、「お迎えが来た」とか、「なるようにしかならない」などという表現が生まれた。よく耳にするそうした言葉は真実なのだろうか。わたしたちは運命にもてあそばれるしかないのか。 運命論、つまり出来事はすべて前もって定められているとする概念は、古代ギリシャ人やローマ人の間に浸透していた。今日でさえ、この考えは多くの宗教に根強く残っている。例えば、イスラム教は「アラーの許しなしに、また定められた時以外に死ねる者は一人もいない」というコーランの教えを保持している。運命を信じることはキリスト教世界にも普通に見られ、ジャン・カルバンが教えた予定説によって育まれてきた。そのため僧職者たちは普通、悲しむ親族に向かって、事故は“神のみ心”だったと語る。 しかし、事故は運命の所産であるというこの見方は、常識や経験や論理に反する。一つには、自動車事故の場合、徹底的に調べると至極もっともな原因が明らかになるのが普通で、神が介入された結果とはとうてい言えないからである。さらに統計を見れば明らかに分かるとおり、シートベルトを着用するなど、適切な予防措置を取れば、死亡事故の起こる確率は大幅に低下する。何らかの安全のための予防措置によって、前もって定められている神のご意志を本当に妨げることができるだろうか。 また、運命を信じる人はその信仰から不利な影響を受ける。運命論は、速度制限や交通標識を無視するとか、飲酒運転や麻薬の影響を受けて運転するなど、無鉄砲な行為を助長するのではないだろうか。もっとひどい場合、運命論を信じる人は、事故が自分に降りかかると神を責めるようになることがある。そのような人たちは怒りを感じ、当惑して、神は無関心であると信じ込み、信仰を失うことすらあるかもしれない。「人生における最も苦い悲劇的な要素は、盲目的な運命や宿命を信じることである」という、詩人エマソンの言葉はまさに至言である。 では、聖書は災難や事故についてどんなことを述べているか。そうした出来事を運命の仕業であると本当に教えているのか。さらに、わたしたちが救われる見通しについては何と述べているのか。このことに関してわたしたちに選択の余地はあるのだろうか。
2005年04月23日
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運命論に反対する別の説得力のある論拠は、運命論を信じる人が受けるかもしれない影響である。イエス・キリストは「良い木はみなりっぱな実を生み出し、腐った木はみな無価値な実を生み出すのです」と言われた。(マタイ 7:17)運命論の「実」の一つ、つまりそれが人々の責任感にどのような影響を与えているかについて考えてみる。 個人として健全な責任感を持つのは大切なことである。それを一つの動機として、親は家族に必要なものを備え、労働者は良心的に仕事をし、製造業者は質の良い製品を供給する。運命論はその責任感を麻痺させるかもしれない。例えば、ある人の車のハンドルに欠陥があるとする。強い責任感があれば、その人は自分と同乗者の命に関心を払い、修理してもらう。一方、運命論を信じていれば、“神のみ心”でなければ故障は起きないと考えて、危険を無視するかもしれない。 そう、運命論は、不注意や怠惰、自分の行動に対する責任を受け入れない態度、その他多くの良くない傾向を助長するかもしれないのである。
2005年04月23日
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聖書は、個々の人の将来が何らかの方法で神により前もって定められている、あるいは予定されているというふうには啓示してはいない。むしろ聖書は、人間には二通りの運命しかないことが神によって予告されたという事実を明らかにしている。神は一人一人の人間に、どちらかの運命を選択する自由意志を与えておられる。遠い昔に預言者モーセはイスラエル人にこう宣言した。「わたしは……あなたの前に命と死……を置いた。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も共に生きつづけるようにしなければならない。すなわち、あなたの神Jehovahを愛し、その声に聴き従い、これに堅く付くのである。神はあなたの命、あなたの長い日々なのであ(る)」。(申命記 30:19、20)神の預言者イエスは前もって次のような警告をお与えになった。「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく、それを通って入って行く人は多いからです。一方、命に至る門は狭く、その道は狭められており、それを見いだす人は少ないのです」。(マタイ 7:13、14)二つの道、二つの運命である。わたしたちの将来はわたしたち自身の行動にかかっている。神に従うことは命を意味し、神にさからうことは死を意味するのである。―ローマ 6:23。 神は「どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。なぜなら……人の住む地を義をもって裁くために日を定め(られ)たからです」。(使徒 17:30、31)ノアの日の人類の大部分が神にさからうことを選んで滅ぼし尽くされたように、今日も大多数の人は神のおきてに従わない。それでも神は、だれが滅び、だれが救いを得るかをまだ決定しておられない。その証拠に神の言葉は、「ひとりも滅ぼされることなく、すべての者が悔い改めに至ることを望(む)」と述べている。(ペテロ第二 3:9)甚だしく邪悪な人々でさえ悔い改め、従順になり、必要な変化を遂げて、神の恵みを得ることができる。―イザヤ 1:18‐20; 55:6、7。エゼキエル 33:14‐16。ローマ 2:4‐8。 神は従順な人たちに、あらゆる邪悪と暴力と戦争が一掃された平和な楽園の地での、もはや飢えも苦しみも病気も死もない世界での、永遠の命を約束しておられる。(詩編 37:9‐11; 46:9。イザヤ 2:4; 11:6‐9; 25:6‐8; 35:5、6。啓示 21:4)死者でさえ復活し、神に仕える機会が与えられる。―ダニエル 12:2。ヨハネ 5:28、29。 「とがめのない者に注目し、廉直な者を見つめよ。その人の将来は平安だからである。しかし、違犯をおかす者たちは必ず共に滅ぼし尽くされ、邪悪な者たちの将来はまさしく断ち滅ぼされるであろう」と、詩編作者は述べている。(詩編 37:37、38)あなたの将来はどうなるだろうか。それはすべてあなた(わたし)次第なのである。
2005年04月23日
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ブラジルでは毎年、少なくとも2万2000人の子どもないし若者が事故で死んでいる。最も多くの命を奪っているのは交通事故である。しかし、ブラジル小児学会会長リンコーン・フレイリは、「事故は回避でき、もはやそれを運命とみなすことはできない」と述べた。さらに、同国の事故防止キャンペーンの座長、テレザ・コスタは、『過去15年間の政府の活動により、下痢、呼吸器系感染症、その他の伝染性疾患による死亡者数は減少した』から、事故防止の運動も人の命を救うことになるだろう、としている。
2005年04月22日
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説明のつかない死や病気についてはどうか。聖書は人間の状態を「アダムにあってすべての人が死んでゆく」と率直に描写している。(コリント第一 15:22)死は、わたしたちの先祖アダムが不従順の道を歩みはじめて以来、人間を苦しめてきた。神が警告しておられたとおり、アダムは死という遺産を子孫に残した。(創世記 2:17。ローマ 5:12)であるからすべての病気の原因は結局のところ、わたしたちの共通の先祖アダムにまでさかのぼることになる。わたしたちが受け継いでいる弱さも、わたしたちが人生で経験する失望や失敗と大いに関係がある。―詩編 51:5。 貧困の問題を取り上げてみる。運命論を信じていると、苦しんでいる人々は困難な生活を甘受してしまう場合が少なくない。『これはわたしたちの宿命だ』と信じてしまうのである。しかし聖書は、運命ではなく人間の不完全さを責めるべきであることを示している。怠惰や資産運用のまずさによって『まいたものを刈り取り』、貧しくなる人もいる。(ガラテア 6:7。箴言 6:10、11)貪欲な権力者の犠牲になって貧しい生活をしている人は数えきれない。(ヤコブ 2:6)聖書は「人が人を支配してこれに害を及ぼした」と述べている。(伝道の書 8:9)貧困をすべて神あるいは運命のせいにする根拠は全くない。
2005年04月22日
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予定説を支持する議論はみな次のような仮説を土台としている。それは、将来の出来事を予知し、決定する力が神にあることは否定できない事実なので、神はあらゆる人の将来の行動を含め、すべてのことを予知しているはずだ、という仮説である。しかし、この仮説は正しいのだろうか。神が聖書の中で啓示しておられる事柄は、そうではないことを示している。 例えば聖書には、「神はアブラハムを試み」、息子イサクを焼燔の捧げ物として犠牲にするようアブラハムにお命じになったと記されている。アブラハムがまさにイサクを犠牲にしようとした時、神はアブラハムをとどめてこう言われた。「わたしは今、あなたが自分の子、あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので、あなたが神を恐れる者であることをよく知った」。(創世記 22:1‐12)もし神が、アブラハムはこの命令に従うということを事前に知っておられたなら、そのように言われるだろうか。それは本当の試みとなったといえるだろうか。 さらに、古代の預言者たちの伝えるところによれば、神はご自分が行なったこと、また行なおうと考えたことを『悔やむ』と繰り返し述べておられる。例えば神は、「サウルをイスラエルの王としたことを悔や(んだ)[ヘブライ語ナーハムから]」と言われた。(サムエル第一 15:11、35。エレミヤ 18:7‐10; ヨナ 3:10)神は完全であられるので、これらの節は、サウルをイスラエルの最初の王に選んだ神は間違いを犯したという意味であるはずがない。むしろ、サウルが信仰のない不従順な者となったことを神は残念に思われた、という意味であるに違いない。もし神がサウルの行動を予知しておられたとしたら、神がご自分のことを言うのにそうした表現をお用いになるのは無意味なことになっただろう。 同じ語は聖書の最も古い部分にも使われており、そこにはノアの日のことについて、こう述べられている。「Jehovahは、地に人を造ったことで悔やみ、その心に痛みを覚えられた。それで、Jehovahはこう言われた。『わたしは、自分が創造した人を地の表からぬぐい去ろう。……わたしはこれらを造ったことでまさに悔やむからである』」。(創世記 6:6、7)ここでもやはり、人間の行動は神によって予定されていないということが示されている。神が悔やんだり悲しんだり、時には痛みさえ覚えたのは、ご自分の行動が間違っていたからではなく、人の悪がはびこったからである。創造者はノアとその家族以外の人間をすべて滅ぼすことが必要になったことを悔やまれたのである。神はわたしたちにはっきりと、『わたしは邪悪な者の死を喜ばない』と述べておられる。―エゼキエル 33:11。申命記 32:4、5。 では、神は、アダムが罪に陥ることや、それが人間家族にもたらす悲惨な結果を予知しておられ、しかもそうなるよう定めることまでされたのだろうか。これまで考慮したことからすれば、そのようなはずはない。さらに言えば、もし神がそうしたことをすべて予知しておられたのであれば、神は人間を造った時に罪の創始者となったことにもなり、人間のすべての悪と苦しみを故意に引き起こしたことになる。これは明らかに、神が聖書の中でご自分について啓示しておられる事柄と相いれない。神は邪悪を憎む愛と公正の神である。―詩編 33:5。箴言 15:9。ヨハネ第一 4:8。
2005年04月22日
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確かに、原因のはっきりしない悲しい出来事も数多くある。それでも、聖書が伝道の書 9章11節で述べていることに注目していただきたい。「わたしは日の下で引き返して見たのであるが、速い者が競走を、あるいは力のある者が戦いを自分のものにするわけではない。また賢い者が食物を得るのでも、理解のある者が富を得るのでもなく、知識のある者たちが恵みを得るのでもない。なぜなら、時と予見しえない出来事とは彼らすべてに臨むからである」。であるから、事故の背後には創造者がおられるとか、事故の犠牲者は罰を受けているなどと信じる根拠はない。 イエス・キリストご自身、運命論に反論された。聴衆がよく知っていた悲劇に言及しながら、イエスはこうお尋ねになった。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人のことですが、これは彼らがエルサレムに住むほかのすべての人より負い目のある者だったしるしだとでも思いますか。あなた方に言いますが、決してそうではありません」。(ルカ 13:4、5)イエスはその災害の原因を、神の介入ではなく、「時と予見しえない出来事」としておられたようだ。
2005年04月21日
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神の言葉を読んだ人なら、そこに文字通り幾百もの預言が収められていることを知っている。古代バビロンの倒壊、エルサレムの再建(西暦前6、5世紀)、メディア‐ペルシャおよびギリシャの古代の王たちの興亡といった歴史的な出来事は、すべて詳細に予告されていた。(イザヤ 13:17‐19; 44:24‐45:1。ダニエル 8:1‐7、20‐22)そうした預言の成就は、聖書が確かに神の言葉であることの最も強力な証拠の一つである。というのは、将来に起こる事柄を予見し、なおかつ決定する力を持っているのは神だけだからである。その意味で、確かに聖書には、前もって書き記された将来が記録されている。 神ご自身、こう宣言しておられる。「わたしは神たる者であり、ほかに神もわたしのような者もいない。……終わりのことを初めから、また、まだ行なわれていなかったことを昔から告げる者。『わたしの計り事は立ち、わたしは自分の喜びとすることをみな行なう』と言う者。……わたしはそれを話したのである。わたしはまた、それをもたらすであろう。わたしはそれを形造ったのであり、また、それを行なうであろう」。(イザヤ 46:9‐11; 55:10、11)神がご自身を古代の預言者たちに明らかにするのにお用いになった名前はJehovahであり、字義的には「彼はならせる」という意味がある。 (創世記 12:7、8。出エジプト記 3:13‐15。詩編 83:18)神はご自身を約束の履行者となる方、また常にご自分の目的を実現させる方として啓示しておられる。 であるから神は、ご自分の予知力をご自身の目的を遂行するためにお用いになる。邪悪な者たちには来たるべき裁きについて警告するため、ご自分の僕たちには救いの希望を与えるために、しばしばその力を用いてこられた。しかし神はこの力を制御せずに用いるのだろうか。神の言葉の中には、神が予知しないことになさったという事例が何かあるだろうか。
2005年04月21日
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世界の一致。なんと魅力的な言葉だろう。だれもがそれを望んでいるのではないだろうか。確かに、一致をめぐって数多くの協議が行なわれてきた。世界の指導者の会合で、このテーマが繰り返し取り上げられている。2000年8月、1000人余りの宗教指導者がニューヨークの国連に集まり、「ミレニアム世界平和サミット」で世界各地の紛争の解決について話し合った。しかしこの会議自体が、世界でくすぶり続けている数々の論争を反映していた。エルサレムのイスラム法学者は、ユダヤ教のあるラビが出席するので参加を拒否した。中国の反感を買うことへの恐れから最初の二日間にダライ・ラマが招かれなかったため、憤慨する参加者もいた。 2003年10月、タイで開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会談では、環太平洋諸国が世界の安全保障問題を話し合った。参加21か国はテロ組織の撲滅を誓い、地球規模の安全強化方針で合意した。しかし会議の席では一部の代表者から、ある首相が行なったとされるユダヤ人への憎悪に満ちた発言に対して非難の声が上がった。
2005年04月21日
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洪水や嵐、地震などの大災害はよく天災と呼ばれる。しかし聖書は、神がそうした災害を引き起こしているとは示していない。幾世紀も前に中東で起きた悲劇について考えてみる。聖書によるとその大災害のただ一人の生存者は「神の火[稲妻を意味することの多い、ヘブライ語の表現]が天から下り、羊と従者たちの中で燃え盛り、これを食らい尽くしました」と報告した。―ヨブ 1:16。 恐れを抱いたこの人は、この火に対する責任は神にあると考えたのかもしれないが、聖書は神を責めるべきではなかったことを示している。ご自分でヨブ 1章7節から12節を読んでみていただければ幸いである。稲妻が、神ではなく、神の敵対者である悪魔サタンによって引き起こされたことがお分かりになるだろう。サタンがすべての災難を直接引き起こしているわけではない。しかし明らかに、神を責めるべき根拠はないのである。 実際、物事が悪い方向に進むとき、責められるべきなのは多くの場合人間である。落第、仕事上の失敗、人間関係のトラブルは、努力や十分な訓練、あるいは他の人に対する思いやりなどの不足の結果かもしれない。同じように、病気、事故、死などが怠慢に起因することもあるだろう。運転中にただシートベルトを締めるだけで、自動車事故で死ぬ確率はかなり低くなる。もし変えることのできない“運命”が働いているのならば、シートベルトを締めても同じことである。また、ふさわしい医療上の世話と衛生により、未熟児の死亡数は劇的に減る。“天災”というレッテルを一般に貼られる災害でさえ、実際は人災である、つまり人間が地球を正しく管理してこなかった悲しい結果である場合もある。―啓示 11:18
2005年04月20日
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もし全能の神が、過去、現在、未来のことをすべてご存じの全知の方であれば、何事も神が予見したとおりに起こるよう運命づけられているのではないだろうか。もし神が一人一人の人間の歩みと最終的な運命を予見し、定めておられるとすれば、人間には自分の生き方や将来を選択する自由があると本当に言えるだろうか。 これらの問題は幾世紀にもわたって議論されてきた。この論争によって主要な宗教は今も分かたれている。将来を予知する神の能力は人間の自由意志と調和するのだろうか。その答えをどこに求めるべきなのか。 世界中の非常に多くの人は、神の代弁者である預言者たちを通して伝達された、書き記された神の言葉により、神が人間と交信してきたことを認めるだろう。例えばコーランは、様々な啓示は神から与えられたとしている。タウラート(トーラー、律法、あるいはモーセ五書)、ザブール(詩編)、インジール(福音書、クリスチャン・ギリシャ語聖書、すなわち「新約聖書」)、それにイスラエルの預言者たちに啓示されたものがそうである。 クリスチャン・ギリシャ語聖書にはこう記されている。「聖書全体は神の霊感を受けたもので、教え、戒め、物事を正(す)のに有益です」。(テモテ第二 3:16)人間が受けるどんな導きや啓発も、明らかに、結局は神ご自身から来るはずである。であるなら、神の初期の預言者たちが書いたものを調べるのは賢明なことではないだろうか。彼らは人間の将来について何を啓示しているのか。
2005年04月20日
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国際連合の設立時に掲げられた目的の一つは、「人民の同権および自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」だった。以来ほぼ60年が経過したが、この崇高な目標は達成されただろうか。いいや、達成には程遠い状態である。諸国家は、ここで述べられている「友好関係」よりも「自決」のほうに関心があるようだ。人々は自分の国や民族のアイデンティティーと主権を確立することに懸命で、世界をますます分裂させている。国際連合の発足当時の加盟国は51か国だったが、今日では191か国に上る。 このように、20世紀の終わりごろ、世界の一致への期待が広まった。しかしその後、人類は国際社会の分裂が進むのを目の当たりにし、期待は失望に変わった。暴力によるユーゴスラビアの分割、チェチェンとロシアの紛争、イラク戦争、中東で相次ぐ大量殺傷事件―このすべては、不一致がますます深刻化していることの証拠である。 平和を求める努力の多くが善意に基づく誠実なものであることは確かである。にもかかわらず、世界の一致は実現不可能に思える。そのため、『いつまでたっても世界の一致が実現しないのはなぜか。世界はどこへ向かっているのか』と考える人は少なくないだろう。
2005年04月20日
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「名誉毀損だ! 中傷だ!」 社会で尊敬されている人は、自分の名前や評判が偽りの報道によって傷つけられたと思うと、事態を正さずにはいられない気持ちになることだろう。名誉を毀損した人に対して訴訟を起こすことさえするかもしれない。 運命論は全能の神に対する中傷にほかならない。その論理からすると、人間を苦しめる悲劇と災難すべては神ご自身に責任があるということになる。運命論を信じておられるなら、『今日、ジョンは自動車事故でけがをする、ファトゥはマラリアの発作に見舞われる、ママドゥの家は嵐で壊れる』といった予定表を宇宙の主権者が作っておられるところを想像してみていただきたい。そのような神に仕えたいと本当に思われるだろうか。 『しかし、人間の不幸に対する責任が神にないとすれば、だれに責任があるのですか』と、運命論を信じる人は尋ねる。このことについて疑問に感じる人は多いだろう。しかし、真理に到達するために憶測したり考えこんだりする必要はないかもしれない。なぜなら神ご自身が、霊感によるみ言葉聖書の教えによってこの中傷を取り除いておられることを知ることができるからである。(テモテ第二 3:16)では、聖書がこのことについて何と述べているか調べてみる。
2005年04月19日
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キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教など、どんな宗教の信者も悲惨な事柄を経験し、そのために嘆き悲しむ。 例えば、1997年12月6日、シベリアの都市イルクーツクで恐ろしい悲劇が起こった。大型輸送機AN124の二つのエンジンが離陸直後に作動しなくなったのである。燃料をたっぷり積み込んでいた同機は住宅街に墜落し、幾つかのアパートが炎に包まれ、無邪気な子供たちを含む何十人もの無力な住民が死傷した。 事故が起きたシベリアのこの地域には、宗教上の見解が互いに異なる人々が住んでいたことだろう。キリスト教を信じていると言いながらも、依然として、悲劇は運命のなせる業だと考える人たちがいるかもしれない。その人たちも他の人たちも、『それは神のご意志だったのだ。命を奪われた人たちはそのような死に方をしなかったとしても、別のことで死んだだろう。それはその人の運命なのだ』と思うかもしれない。 そのような考え方は、口に出して言われても言われなくても、世界の多くの宗教に共通する概念、つまり運命の概念を反映している。誕生した日から死ぬ日まで、人間の将来はともかく前もって定められている、と多くの人は信じている。 運命を信じる信仰には様々な形があり、包括的な定義を下すのは困難である。基本的には運命とは、良いことであれ悪いことであれ、生じるすべてのこと、すべての行動、すべての出来事は必然のものであって、人間には制御不可能な、より高次の力により前もって定められているゆえに、起こることが予定されている、という考えを伝える。そうした概念は、占星術、ヒンズー教や仏教のカルマ、キリスト教世界の予定説の中に見られる。さかのぼって古代バビロニアでは、運命と将来は神々が文書によって支配すると信じられていた。これら“運命の書き板”を支配した神は、人間や諸王国、さらには神々自身の運命をさえ決定できた、と一般に信じられている。 多くの信者は、神が人間の誕生に先立ち、人の寿命、性別、貧富の別、不幸になるか幸福になるかなど、人々に生じる事柄すべてを神聖な命令により定めると信じている。そのすべては、事が起こる前に神の頭の中に存在する、あるいは書物に書き記されている、と言われる。であるから、災いに見舞われた時、信者が「メクトゥーブ」―そう書かれている―と言うのは珍しいことではない。神はすべてのことをあらかじめご存じなので、ご自分に従うのがだれで、逆らうのはだれであるかもお決めになるはずだ、とも言われている。それで多くの追随者は、神はすでに人が生まれる前から、その人が楽園での永遠の祝福に定められているか、永遠の滅びを被るかを決めておられる、と信じている。 キリスト教世界の一部の教会で教えられている予定説の教理にそっくりだと感じる人もいることだろう。予定説を先頭に立って擁護したプロテスタントは、16世紀のフランスの宗教改革者、ジャン・カルバンだった。彼は予定説について次のように説明した。「これは、とこしえの神意であり、これにより神は各人に対して行ないたいことを決定する。すべてのものが同じ状態に創造されたのではなく、とこしえの命を得るよう運命づけられている者たちもいれば、とこしえに断罪されるよう運命づけられている者たちもいる」。カルバンはこうも主張した。「神は最初の人間の堕落と、その者のうちにその子孫の破滅を予見しただけではない。ご自身が随意にそのように定めたのである」。 しかし、予定説や運命論を教える宗教団体の成員がすべて、個人的にそうした説を信じているわけではない。宗教書が人間の自由意志に言及している事実を指摘する人々もいる。実際、人間の行動に関しては、人間の自由な選択の結果なのか、それとも神によって予定されているのかをめぐって大論争が行なわれてきた。例えば、公正な神が人間に自分の行動の責任を問い、釈明の義務を負わせている以上、人間は自由に選択して行動することができるはずだ、と論じてきた人たちがいる。他方、神は人間の行動を作り出すが、人間はともかくその行動を“習得し”、その行動に対する責任を負うようになる、と述べてきた人たちもいる。しかし一般に、日常生活の出来事は大小の別を問わず、神により定められたものだと多くの人は考えている。 あなたはどんなことを信じているだろうか。すでに神は、あなたの将来がどうなるかを決定されたのだろうか。人間は本当に自由意志を持ち、自分の将来に関する現実的な選択を行なう能力を備えているのだろうか。わたしたちの運命は、どの程度わたしたち自身の行動に依存しているのか。
2005年04月19日
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『第二次世界大戦以降初めて、国際的な共同体は一つに結び合わされた。……したがって、世界はこの機会をとらえ、待望久しい新世界秩序に関する約束を果たすことができる』。 これは1990年代に米国の大統領が述べた言葉である。そのころ、国際情勢の進展から、世界の一致が程なく実現するかに見えた。全体主義政府は次々に崩壊し、ベルリンの壁も崩れヨーロッパに新時代の到来を告げた。西側諸国から世界各地の紛争の扇動者とみなされていたソビエト連邦も消滅し、世界を驚かせた。冷戦は終わり、核廃絶を含む軍備縮小に関して楽観的なムードが漂っていた。ペルシャ湾で戦争が起きたとはいえ、それは一時的な問題にすぎず、かえって世界の大半の国は平和な秩序を追求する決意をいよいよ固めるであろうと思われた。 政治だけでなく、他の分野でも明るい兆しがあった。世界の多くの地域で生活水準が向上し、また医学の進歩は、医師たちにほんの数十年前には奇跡と呼ばれたようなことも行なえるまでにさせた。多くの国で経済成長が見られ、世界の繁栄につながりそうな勢いだった。事態は望ましい方向に進んでいるように見えた。 しかし、それからまだ何年もたたない今日、『一体どうしたのか。期待された世界の一致はどうなったのか』と言わざるを得ない状況に世界はある。期待外れどころか、世界は一致とは正反対の方向に進んでいるようである。自爆攻撃、テロ事件、大量破壊兵器の拡散といった不穏なニュースが連日のように新聞紙面を騒がせている。そうした事件が起きるたびに世界はますます一致から遠ざかっているようである。ある著名な投資家は最近、「人類はエスカレートする暴力の悪循環に陥りつつある」と語った。
2005年04月19日
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登山中に死亡する人の数は、毎年何百人にもなる落石の犠牲になる人もいれば、心臓発作などの思わぬ健康問題に見舞われる人もいる。とはいえ、ドイツのライプツィガー・フォルクスツァイトゥング紙によれば、山で命を落とす主な原因の一つは、無謀な行動である。これは、若くて経験の浅い人だけの問題ではない。スイスのツェルマット山岳ガイド教会の会長ミギー・ビナーによれば、「経験の有無にかかわらず、自分の能力を過信したり天候や周りの状況に十分の注意を払わなかったりした結果である場合が多い」。携帯電話を持って行けば、どんな緊急事態に陥ってもヘリコプターにいつでも救出に来てもらえる、と思い込んでいる人もいる。
2005年04月18日
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聖書によると、ごう慢な野心は人間の不完全さと結びついている。(Jas 4:5、6)使徒ヨハネも、ひところは野心的だった。地位を熱望するあまり厚かましくも、自分の兄弟と共に王国においてひときわ目立つ立場に就けてほしいと、イエスに願い求めたのである。(Mr 10:37)後にヨハネはその態度を改めた。実際ヨハネは、第三の手紙の中でデオトレフェスを強く非難し、「第一の地位を占めたがって」いると述べている。(3Jo 9、10)今日のクリスチャンも、イエスの言葉を心に銘記して謙遜であるようにする。そして、野心的な傾向を退けることを学んだ、老齢の使徒ヨハネの手本に倣う。 とはいえ現実には、才能を発揮し、良い行ないをし、骨惜しみせずに働いても、その人が認められるとは限らない。他の人が気づいて報われることもあれば、そうでないこともある。(Pr 22:29. Ec 10:7)時には、あまり適任でない人が権威ある立場に就けられ、有能な人が見過ごされることもある。欠陥の多い今の世界では、地位や権力を得る人が必ずしも最適任者であるとは限らない。 真のクリスチャンにとって、野心という問題は倫理上のジレンマとはならない。聖書によって訓練された良心にしたがって、野心を抱かないようにするからである。どんな状況においても、神の栄光となるようにひたすら最善を尽くし、結果を神のみ手にゆだねる。(1Co 10:31)クリスチャンは、神を恐れ、神のおきてを守ることにより、潜在能力を発揮するように努めるのである。
2005年04月18日
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もちろん、自分自身を適度に愛するのは何も間違ったことではない。聖書は、自分を愛するように隣人を愛することを命じている。(Mt 22:39)自分の慰安や幸福を願うのは自然なこと。しかし、聖書は、骨折って働くことや、謙遜さや、慎みをも奨励している。(Pr 15:33. Ec 3:13. Mic 6:8)正直で信頼でき、骨惜しみせずに働く人は、注目されて良い職に就き、敬意を受ける場合が多いものである。こうするほうが、自分の利益のために他の人を巧みに操ろうとしたり、立場をめぐって張り合ったりすることより、確かに勝っている。 イエスは、話を聴く人たちに、婚宴で目立つ場所を選ばないようにという忠告を与えた。最も低い場所に行くように、そして良い席へ移るかどうかは招いた人の判断にゆだねるように、と勧めたのである。たしかに、僭越にも分相応の席に着いていないなら下座に移されることになるかもしれず当人にとっては恥辱である。逆の場合は上座へと招かれ高められるかもしれない。これは原則なのである。イエスは関係するこの原則を明示し、「だれでも自分を高める者は低くされ、自分を低くする者は高められる」と言われた。― Luke 14:7-11.
2005年04月18日
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野心とは、地位、名誉、権力などを熱望することである。古代において、ソロモン王は地位、名誉、権力と共に巨万の富を有していた。(Ec 2:3-9)しかし興味深いのは、ソロモンがそれらのものを初めから熱望していたわけではないという点である。ソロモンは王権を受け継いだ時、何でも望むものを求めるよう神から勧められた。その際、謙遜にも、従順な心と、神のお選びになった民を支配するのに必要な識別力を願い求めたのである。(1Ki 3:5-9)後にソロモンは、自分が得た富や権力について余すところなく描写したうえで、『すべてはむなしく、風を追うようなものであった』と言明した。― Ecclesiastes 2:11. ソロモンは、人間が潜在能力を発揮することについても何か述べているだろうか。ある意味で、述べている。自分の生涯中のさまざまな体験を振り返り、結論としてこう語っている。「まことの神を恐れ、そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである」。(Ec 12:13)人間は、地位、富、名声、権力を得ることではなく、神の意志を果たすことによって潜在能力を発揮できるのである。
2005年04月17日
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「そもそも名声、富、権力を得ることのどこが悪いというのか」。この問いは、ある宗教団体が提示した資料の、「倫理上のジレンマ」という見出しのもとに載せられている。そこには、神がアブラハムに語った、「わたしは、あなたから大いなる国民を作り、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものにする」という言葉が引き合いに出されている。― Genesis 12:2. このレポートは、「野心を燃やすことで他の人が迷惑を被るようであってはならない」としながらも、「自分が自分の味方をしなければ、だれが味方になってくれるだろう」という1世紀の著名なユダヤ教指導者の言葉を引用している。そして結びに、「自分の潜在能力は自分で発揮しなければ、他のだれも引き出してくれない」と述べている。神に仕えようとする人にとって、野心を抱くべきかどうかはジレンマとなるだろうか。自分の潜在能力を発揮するにはどうすればよいのだろうか。野心的になることは間違いなのか。聖書はどんな見方をしているのだろう。
2005年04月17日
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神に確信を置く妨げとなるのは何だろうか。悪いことが起きる理由について困惑する人は少なくない。多くの人は、苦しみの責任は神にあると教えられている。悲惨な事が生じると、僧職者から、亡くなった人は神によって天に“召された”と聞かされることがある。さらに、悲惨な事や邪悪な行為すべてを含め、この世の出来事は皆ずっと昔に神によって運命づけられている、と教える宗教指導者も大勢いる。そのような冷酷無情な神に確信を置くのは難しい。不信者の思いをくらましているサタンは、何であれそうした「悪霊の教え」を広めようと腐心している。(1Ti 4:1)サタンは、人々の唯一まことの神Jehovahへの確信を失わせようとしている。神の敵であるその者は、わたしたちが人間の苦しみの真の原因を知ることを望まない。であるから、世の中の苦しみがある基本的な理由を知ることは重要である。 『この事物の体制の神が不信者の思いをくらましているのです』。― 2Co 4:4.
2005年04月17日
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配偶者の話に耳を傾ける。― 箴言 10:19 相手の見方に敬意を払う。― フィリピ 2:4 愛のある仕方で対応する。― コリント第一 13:4-7 夫婦同士で以下のような質問に互いに尋ね、答えることができる。その際、相手が答えている時、途中で遮らずに耳を傾けることが必要である。 ● わたしはけんか腰になりやすいですか。 ● あなたが意見を言うとき、わたしは本当に耳を傾けていますか。それとも、最後まで聞かずに衝動的に反応しますか。 ● わたしの言葉は無神経に、あるいは怒っているように聞こえますか。 ● コミュニケーションの方法を改善するために二人とも何ができると思いますか。特に、意見が合わない場合はどうですか。 すぐにこれらのことを行なってみてはいかがだろうか。
2005年04月16日
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イエスが裏切られて捕縛された夜に、弟子の一人がイエスを守ろうとして剣を抜いた。イエスはその弟子にこう命じた。「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです」。(Mt 26:52)翌朝、イエスはポンテオ・ピラトにこう語った。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら、わたしに付き添う者たちは、わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ、わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。(Joh 18:36)この教えは実際的ではないと思われるだろうか。 初期クリスチャンは、暴力に訴えないようにというイエスの教えに対して、どのような態度を示しただろうか。「戦争に対する初期クリスチャンの態度」という本はこう述べている。「[イエスの教え]がいかなる暴力をも不義のものとして禁じていたことから、戦争への参加が容認されないことは明らかだった。……初期クリスチャンはイエスの言葉をそのとおりに受け止め、穏やかさや無抵抗に関する教えを文字どおりに理解した。自分たちの宗教を平和と密接に結びつけ、戦争をそれに伴う流血のゆえに強く非難した」。クリスチャンと唱える人すべてが実際にこの教えに従っていたなら、歴史はどんなにか違っていたことだろう。 イエスの教えは、簡明で強力なすばらしいものである。イエスの教えに精通し、それを実践するなら、人類は益を得られる。
2005年04月16日
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これは、科学に興味を抱くべきでないということではない。そもそも聖書自体が、神のみ手の業から学ぶことや、目にするものから神の驚くべき特質について考えることを勧めている。(Isa 40:26.Ro 1:20)もちろん、聖書は科学の教科書ではない。神の規準や、創造物からだけでは学べない神の性格の様々な面、人間に関する目的などを明らかにしている本である。(Ps 19:7-11. 2Ti 3:16)とはいえ、聖書は自然界の現象にも言及しており、その情報は常に正確である。ガリレオもこう述べている。「聖書も自然も、神の発した言葉によって生じる。……二つの真理が互いに矛盾することは断じてあり得ない」。では、いくつかの例を考えてみる。 恒星や惑星の運行の基盤となっているのは、宇宙のすべてのものが重力の法則などの様々な法則によって制御されているという事実である。物理法則に言及した聖書以外の最古の資料はピタゴラスの著作である。ピタゴラスは、宇宙は数字によって説明できると考えていた。それから2000年ほどたってようやく、ガリレオ、ケプラー、ニュートンが、物体は論理的な法則に制御されていることを証明した。 自然法則に関する聖書の最古の言葉は、ヨブ記に収められている。西暦前1600年ごろ、神はヨブに、「あなたは天の法令[あるいは、法則]を知っているのか」と尋ねなれた。(Job 38:33)西暦前7世紀に記されたエレミヤ書はJehovahのことを、「月と星の法令」や「天と地の法令」を創造した方と呼んでいる。(Jer 31:35;33:25)こうした記述に基づいて、聖書注解者のG・ローリンソンは、「物質界全般に法則が行き渡っていることを、聖書筆者たちは近代科学と同じほど強力に断言している」と述べている。 ピタゴラスに比べると、ヨブ記の言葉はおよそ1000年も古いことになる。覚えておくべき点として、聖書が記されたのは、単に物理的事実を明らかにするためではなく、主に、Jehovahが万物の創造者であり、物理法則を創造する能力もお持ちであることを人間に銘記させるためである。― Job 38:4、12;42:1、2. 別の例として、地球上の水が、水の循環もしくは水文循環と呼ばれる過程を繰り返していることを考えてみる。この循環に言及した聖書以外の現存する最古の資料は、西暦前4世紀のものである。しかし、聖書の記述はそれよりも何百年も昔にさかのぼる。例えば、西暦前11世紀にイスラエルのソロモン王は、「川はみな、海に流れ入る、しかし、海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く」と書いた。― Ec 1:7. 同様に、西暦前800年ごろ、身分の低い羊飼いで農園労働者でもあった預言者アモスは、Jehovahが「海の水を呼び寄せてそれを地の表に注ぎ出す」と書いた。(Am 5:8)ソロモンもアモスも、難しい専門用語を使わずに、それぞれわずかに異なった観点から正確に水の循環について記述したのである。 聖書はさらに神について、「地を無の上に掛けておられる」あるいは、「新共同訳」によれば「大地を空虚の上につるされた」と述べている。(Job 26:7)この言葉が語られた西暦前1600年ごろの知識レベルを考えると、物理的な支えなしに固体が空間に浮かんでいられると断言したこの人物は、ただ者ではないはずである。すでに述べたように、アリストテレスでさえ、何もない空間という概念を退けていたのである。そして、それはヨブよりも1200年以上もあとのことだった。 聖書の記述がこのように正確であることに、あなたは驚かれるのではないだろうか。しかもその記述は、間違った理解がまかり通っていた時代に記されたのである。考え深い人にとってこれは、聖書が神の霊感によるものであることのいっそうの証拠となる。であるから、神の言葉と相いれない教えや仮説に惑わされないようにすべきではないだろうか。歴史が繰り返し示してきたとおり、人間の哲学は、優れた知性の持ち主によるものでも現れては消えてゆく。 しかし、「Jehovahのことばは永久に存続」するのである。― 1 Peter 1:25.
2005年04月16日
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意見の相違に対処するうえで目標となるのは、相手に勝つことではなく解決することにあることを忘れないようにしたい。どうすれば解決できるだろうか。最も確実な方法は聖書の助言を調べ当てはめることであり、とりわけ夫はそうする点で率先する必要がある。当面の問題についてすぐに強い意見を述べるのではなく、その問題を神の観点から見るのはどうだろうか。唯一まことの神「Jehovah」に祈り、わたしたちの心と知力を守る神の平和を求める。(エフェソス 6:18. フィリピ 4:6、7)自分の益だけでなく配偶者の益を図るため、真剣に努力できる。― フィリピ 2:4. 苦々しい気持や制御されない感情によって考えや行動が支配されていると、状況を悪化させてしまうことになりかねない。他方、神の言葉の助言を当てはめて調整を加えられるように努力すれば、意見の一致に達し、平和とJehovahからの祝福がもたらされる。(コリント第二 13:11)であるから、「上からの知恵」に導かれ、敬虔な特質を表わすことで、「平和を作り出している人」として良い結果を得ることができる。― ヤコブ 3:17、18. 実のところ、すべての人は、たとえ自分の好みを犠牲にしてでも意見の相違を平和裏に解決する方法を学ぶ必要がある。(コリント第一 6:7)「憤り、怒り、悪、ののしりのことば、またあなたの口から出る卑わいなことば」を捨て去り、「古い人格をその習わしと共に脱ぎ捨て、新しい人格を身に着けなさい」というパウロの訓戒をぜひ当てはめてみてはいかがだろうか。― コロサイ 3:8-10. もちろん、時にはあとで後悔するようなことを言ってしまうこともあるかもしれない。(ヤコブ 3:8)そのような時は、配偶者に謝る。努力を続けてゆくならば、やがて、夫婦として以前よりもうまく意見の相違に対処できるようになったと感じられるだろう。
2005年04月15日
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人間の性質を理解することにかけて、イエスは達人だった。問題の解決に関するイエスの助言は、問題を根本から正すものである。二つの例を考えてみる。 イエスはこう述べた。「古代の人々に対して、『あなたは殺人をしてはならない。しかし、だれでも殺人を犯す者は法廷で言い開きをすることになるであろう』と言われたことをあなた方は聞きました。しかし、わたしはあなた方に言います。自分の兄弟に対して憤りを抱き続ける者はみな法廷で言い開きをすることになり(ます)」。(マタイ 5:21、22)ここでイエスは、殺人という問題の根本原因が、その暴力的な行為そのものよりも深いところにあることを示した。殺人者の心の中に育つ態度が根底にあるのである。人々が敵意や怒りをつのらせるままにしなければ、計画的な暴力行為はなくなるだろう。この教えを当てはめるなら、どれほど多くの流血が回避されることだろう。 多大の心痛をもたらす別の問題の根底にあるものを、イエスがどのように指摘されたかに注目していただきたい。群衆にこう述べている。「『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなた方は聞きました。しかし、わたしはあなた方に言いますが、女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです。そこで、もしあなたの右目があなたをつまずかせているなら、それをえぐり出して捨て去りなさい」。(マタイ 5:27-29)問題は不道徳な行為そのものよりも深いところにある、とイエスは教えた。そうした行為に先立つ不道徳な欲望が原因なのである。ふさわしくない願望について考え続けることを避け、それを思いの中から『えぐり出す』なら、不道徳行為という問題に陥らずに済む。
2005年04月15日
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宗教改革を指導した人たちも、太陽中心説を激しくこき下ろした。例えば、マルティン・ルター(1483-1546年)、フィリップ・メランヒトン(1497-1560年)、ジャン・カルバン(1509-1564年)がそうである。ルターはコペルニクスについて、「この愚か者は天文科学全体を覆そうと考えている」と言った。 宗教改革者たちの主張は、太陽と月が静止したと述べるヨシュア 10章などの聖句の文字通りの解釈に基づいていた。科学の観点から言えば、「日の出」や「日の入り」と言った表現を用いるのは正しくない。しかし、日常会話においては、地球上の視点からの表現として問題はなく、不正解でもない。同様に、ヨシュアも天文学について論じていたわけではなく、単に自分が見た事柄をそのまま伝えていたにすぎない。なぜそのような立場を取ったのだろうか。「ガリレオの過ち」という本によれば、宗教改革は教皇によるくびきを打ち砕いたものの、アリストテレスとトマス・アクィナスの「根本的権威を揺るがす」には至らなかったため、両人の考えが「カトリックにもプロテスタントにも受け入れられた」のである。
2005年04月15日
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聖書の箴言は、「人の洞察力は確かにその怒りを遅くする」と述べている。(箴言 19:11)口論の最中は、相手の辛らつな言葉ひとつひとつにすぐ反応しがちだが、それは大抵、口論をエスカレートさせるだけである。であるから、配偶者の話に耳を傾けるときは、話される言葉だけでなく、言葉の背後にある気持を聞き取るよう心がけたい。そのような洞察力があれば、不快に思える事柄の向こうにあるものを見、問題の根底にあるものを知ることができる。 例えば、夫が妻から、「わたしとの時間を全然とってくれないのね!」と言われたとする。夫は気分を害し、妻の言い分が事実と違うことを示そうとして、「先月、君と一日じゅう過ごした日があったじゃないか」と答えるかもしれない。しかし、夫が妻の話に注意深く耳を傾けているなら、実際には、もっと多くの時間を取ってほしいと言っているのではないことに気づくだろう。むしろ妻は、安心感を得たい、自分は忘れられている、愛されていないと感じていることを伝えたいのかもしれない。 あるいは、夫が妻の最近買った物について、とても信じられないという様子で、「よくもこんなにたくさんお金を使えたものだね」と言うとする。妻は家計の状態を説明したり、自分の買った物と夫の買った物とを比べたりして、自己弁護したくなるかもしれない。しかし、洞察力を働かせるなら、夫が必ずしも出費を問題にしているわけではないことに気づくだろう。むしろ夫は、妻が大きな買い物について決める前に自分に相談してくれなかったことで気を悪くしているのかもしれない。 もちろん、二人が一緒にどれほどの時間を過ごすか、また買い物についてどのように決めるかは、夫婦によってそれぞれ異なる。しかし、要点は、口論になってしまったとき、洞察力があればすぐに怒らずに、当面の真の問題点を見極めることができるということである。衝動的に反応するのではなく、「聞くことに速く、語ることに遅く、憤ることに遅くある」ようにという聖書筆者ヤコブの訓戒に従うことは賢明と言える。― ヤコブ 1:19. 話す際には、配偶者にどう話すかが大切であることを忘れないようにしたい。聖書は、「賢い者たちの舌は人をいやす」と述べている。(箴言 12:18)夫婦の意見がぶつかったとき、言葉によって相手を傷つけてしまうだろうか。それとも、いやすだろうか。障害物を置いて道を閉ざしてしまうだろうか。それとも、和解の道を開くだろうか。すでに考えたように、怒りや衝動的な反応は口論をかき立てるだけである。― 箴言 29:22. 意見の相違から激しい言い争いになってしまった場合は、問題点からそれないようにいっそう努力する必要がある。人にではなく、原因に注意を向けることが必要である。だれが正しいかということよりも、何が正しいかということに関心を向ける。口論をあおり立てるようなことを言わないように注意を払う。聖書は、「痛みを生じさせる言葉は怒りを引き起こす」と述べている。(箴言 15:1)確かに、何をどのように言うかは配偶者の協力を引き出せるかどうかを左右する。
2005年04月14日
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イエスは、人間関係に関する貴重な教訓を与えるために、次のような短い話を語った。 一人の王が、僕たちと勘定を清算しようとした。しかし、ある僕は莫大な負債を抱え、返済する資力がなかった。主人はその男と妻および子どもたちを売って支払いがなされるようにと命じた。負債を抱えた僕はひれ伏して、「わたしのことをご辛抱ください。すべてをお返ししますから」と懇願した。主人は哀れに思い、負債を取り消してやった。ところがその奴隷は出かけてゆき、自分からわずかな額のお金を借りている仲間の奴隷を見つけ、払い戻しを要求した。その仲間の奴隷は憐れみを懇願したが、最初の奴隷は仲間が借りているものをすべて返すまで獄に入らせてしまう。このことを聞いた王は怒り、強い口調でこう言う。「わたしがあなたに憐れみをかけたように、今度はあなたが仲間の奴隷に憐れみをかけるべきではなかったのか」。それから王は、仲間を許さなかった奴隷が借りているものをすべて返すまで獄に入れた。イエスはこの話しから教訓を引き出し、こう述べた。「もしあなた方各自が、自分の兄弟を心から許さないなら、わたしの天の父もあなた方をこれと同じように扱われるでしょう」。― マタイ 18:23-35. わたしたちは不完全な人間で、多くの過ちを犯す。神に対して違反をおかしてきたゆえに積もり積もった莫大な負債を返済することは、決してできない。神はわたしたちの失敗すべてを進んで許してくれる。ただし、自分に対して罪を犯した兄弟をわたしたちが許すならばである。イエスは、こう祈るように追随者たちに教えた。「わたしたちに負い目のある人々をわたしたちが許しましたように、わたしたちの負い目をもお許しください」。― マタイ 6:12.
2005年04月14日
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